March 21, 2017
王貞治のバッティングは、バットがミートポイントに向かって「ものすごく直線的に向かうダウンスイング」だ、だから凄いんだと、思い込んでいる人が数多くいる。「一本足打法」というネーミングの直線的なイメージから、バットも「スイングの開始時点では、直立したまま」でスイングしていると思われているわけだ。
だが、いちど動画で確認してもらうとわかるが、この人のバットは「いちど大きく寝て」、それからカラダの後ろを回りこむような軌道でスイングが始まっている。「ドアスイング系のスイングをする落合や張本は、バットを一度寝かせてから振っているけれど、王のバットは一度も寝ないダウンスイングだ」と思い込んでいる人は非常に多いわけだが、もう一度、自分の目で確かめるといい。
2016年11月17日、「回転」に特徴をもつ人間の身体と、「直進するボールのスピードや制御」を要求するベースボールというスポーツの関係を明確化する | Damejima's HARDBALL
右翼席方向からの動画で確認すれば、王貞治のバットがいかに「寝て」いるかは一目瞭然だ。以下の画像でいえば、2番目から3番目のプロセスに至る過程でバットは一度大きく寝かされており、それから「すくい上げるような動き」で、ボールをたたいている。
かつては、こういうスイングをなんの検証もせず「ダウンスイング」と断定した人が数多くいて、そればかりか近所の子供に「自分の考える理想のダウンスイング」とやらを指導したりしていたのだろうから、人間の眼力や判断力なんてものは案外いい加減なものなのだ。
バットヘッドの動きからみると、王のスイングは以下のような「いくつかのプロセス」に「分割」できる。以下の画像に色わけして示す。
1)上の画像の赤色部分(以下同じ)
片足を上げながら、バットヘッドが投手に向かって前傾する。「重心」はいちど投手側に片寄る。
2)水色
投手側に動かした重心を、こんどはバックネット側に戻す。同時にバット全体を後ろに引く。グリップは腰元まで下げられる。
3)黄色
バット全体を一度寝かす
4)白色
体全体を水平に時計回りの回転をさせつつ、バットヘッドを水平に回転させ、バットをボールにぶつける感じでミート。
5)ピンク
スイングの最終部分。バットから左手を離し、右手1本だけでハイフィニッシュしてボールにバックスピンをかける
プロセス1)赤色の部分
1本足で立った王貞治のバットヘッドは、最初「投手側に倒れる」。これは「わざと重心を、一度投手側に傾けておく」ことを意味する。目的は、2番目以降のプロセスで重心をバックネット側に戻すことによって、「重心移動の反動」を生じさせ、その「反動」をスイングパワーに利用するためだ。つまりこれは、いわば「体全体を使ったヒッチ」なのだ。
上の画像は、若い頃の王貞治の「グリップ位置」だ。1本足打法でのグリップ位置とは、高さも位置も違う。
彼は若い頃から「大きくヒッチするクセ」があった。そのためグリップは、ともするとヒッチするには早すぎる段階で、腰のあたりにまで下がった。
ヒッチそのものは悪いことばかりではないが、若い時代の王貞治の場合、ヒッチするタイミングが早すぎる上に、ヒッチしたときのバットが立ったままなので次の動作に移りにくく、バットヘッドがスムーズに出てこない。
そういえば、師匠の故・荒川博氏と王の練習中の写真には、うっかりすると「グリップを顔より投手寄りに置いて」に構えている風景があったりする。この「グリップ位置の変更」は明らかに「指導と練習の成果」だ。
王貞治のバッティングというと、「1本足」の代名詞のとおり、足を上げることに主眼があると思われがちだが、故・荒川博氏自身は、たしかどこかの記事で「グリップ位置を直すことに主眼があった」という意味のことを言っておられたように記憶する。
(写真キャプション)
王のグリップを抱え持って固定している故・荒川博氏。おそらく王は荒川氏が制約を与えないとグリップを体の後ろ側に引きたがる。そのため、こうしてしっかりグリップが移動しないように固定しているのだろう、と思われる。いわば「1本足打法養成ギプス」だ(笑)
では、若い頃からあった王貞治の「グリップが下がるクセ」は、打者として大成する過程で直ったのか、というと、以下にあげる写真群からわかるとおり、けして直ったわけではない。
例えば、上にあげた「色分け画像」で、「水色で示したバットヘッドの移動」は「右にいくほど垂れさがって」いる。これは「打とうとすると、どうしてもグリップ位置が下がる」のが原因だ。
だから、むしろ故・荒川博氏が王貞治の欠点を矯正するためにやったことは「スイングのどこかでグリップが下がるのは防げないにしても、むしろ、それをバットヘッドのスピードやパワーに変換することができないか」という「実験」だったように思える。(具体的には「体全体を使ったヒッチ」で生まれるパワーを、バットを寝かすことで、その後の水平な回転運動のエネルギーに変換しやすくしている)
プロセス2)黄色からプロセス3)水色にかけての動き
フラミンゴのような華麗なイメージのある王貞治の打撃フォームだが、上の画像の真ん中などはむしろ、かなりの「へっぴり腰」で、華麗なイメージとはかけ離れている。
かつてダウンスイングの代名詞みたいに、つまり、立たせたバットをその状態から動かさずにダウンスイングしていると思われがちだった王貞治だが、実際には上に挙げた画像のとおり、バットを一度かなり寝かしておいて、それから「体全体を水平に回転させるのにあわせてスイング」しているのである。(もちろん水平に回転するわけだから右肩はかなり開くし、右足のつま先は投手方向をまっすぐ向く)
最初と2番目のプロセスで行う「体全体を使ったヒッチ」で得られた体重移動の反動エネルギーがスイングのパワーとして使われるわけだが、もしここでバットを寝かさないと、その後の水平な回転運動にスムーズに移れない。
ただ、バットを単純にパタンと寝かして打っているわけでもない。黄色で示した軌道の「複雑さ」を見てもらうとわかるが、「スイングを開始する時間帯」にバットヘッドは「S字の軌道」を描きながら、ムチをふるうように抜け出ていく。ここに「体全体を使ったヒッチで得たエネルギーを、無駄なく水平な回転に変換する動作」の要点というかコツがある。
ルアーフィッシングをやったことがある方ならわかると思うが、カーボンロッドをムチのようにしならせてルアーを遠くへ飛ばすときに使う「ロッドをくねらせる動作」と同じで、王貞治のバットヘッドは単純に寝かされているのではなく、「S字の軌道」を描かせることで「反動をつけながら」振り出されている。
プロセス4)白色 〜 プロセス5)ピンク色
寝かしたバットを水平に(実際にはややアッパー気味に)回転させて打って、それからハイフィニッシュ。右肩はかなり開く。そのため、当然ながら右足のつま先は投手方向を向く。
もしスイングを高い位置で終わらせるのではなく水平回転のみで終わるとしたら、(日本のボールでは)ライナーは打てるが、ホームランは打てない。
だから回転の向きこそ違うものの、テニスプレーヤー、ビヨン・ボルグがトップスピンを打つために用いたハイフィニッシュと同じやり方で、王貞治はスイングの最後を「ハイフィニッシュ」し、ボールを長い時間かけてバットで逆向きにこすりあげることで、打球に「バックスピン」を与えてている。王のホームラン特有の「高い軌道」は、この「バックスピン」から生まれるのである。(ただし、MLBではこの打ち方ではホームランは打てない)
バットを寝かした瞬間、バットのエネルギーと重力はおそらく左手首に集中してかかる。だがハイフィニッシュでは左手は離している。これはいわば、「バットを左手から右手に渡して、持ち替えている」わけだ。
問題は、「体全体を使ったヒッチ」、「バットをいちど寝かすこと」、「S字軌道」、「ハイフィニッシュによるバックスピン」、「バットの持ちかえ」など、これらすべてを王貞治自身が考えついたのか、それとも、故・荒川博氏が考案したのか、だ。
ブログ主は、とくに理由もないが(笑)、「故・荒川博氏による考案」とみる。
グリップを下げたがる癖のある打者が、バットを立たせたままスイングに入ろうとしたら、バットヘッドが抜けず、ただただタイミングが遅れがちなスイングにしかならなかっただろう。そのバットを立たせたままヒッチして振りはじめる癖の「改善」を、頑固で一徹な性格の王貞治が自分自身で達成できたとはとても思えないのである。
February 12, 2017
そこでいう「帝国主義」とは、実は端的にいえば、統一国家になるドイツがこの1000年以上抱えてきた「ローマ帝国への憧れ」と、「他者の所有」である。神聖ローマ帝国の歴史を見ればわかる。ナチズムにしても、何度もへし折られてきた帝国主義の野望の「何度目かの復活」と考えると、それを全体主義と呼ぶよりも、ドイツ帝国主義の何度目かの復活と、スターウォーズ風にレッテルづけしたほうが、はるかに理解しやすいことがわかる。
アメリカはその意味で「帝国主義」ではない。
経済的な支配はともかく、アメリカは「所有」ということに重きを置いていない。「めんどうになればさっさと撤退して、あとは現地にまかせる」というのが、アメリカという国のやり方であり、それはドイツが長年帝国主義とはまったく異質なものなのだ。
第二次大戦後の日本にしても、しかり、である。アメリカの影響力が強いのは確かであるにしても、それは「所有」ではない。まったく違う。
このことをまったく理解しないまま、なんでもかんでも「帝国主義」よばわりしたりしてきた日本の市民運動や新聞社は、結局のところ、歴史というものを全く理解せず、エキセントリックにモノを言って他人を批判したいだけだった、といえるだろう。
February 05, 2017
以下のグラフは、X軸に選手のシーズン三振数(10三振ごとに区切り)、Y軸に年代別パーセンテージをとり、「1999年まで」、「2000年代」、「2010年代」という3つの年代が、三振数の多い打者に占める割合を調べた。
例えば、X軸の「180」という項目は「シーズン三振数180以上の選手数」を意味しており、そこを縦にみることで「3つの年代」それぞれが占めるパーセンテージ」がわかる。
三振数が多ければ多いほど、2000年代、2010年代の打者の割合が増加していることを、あらためて説明するまでもないだろう。2010年代はまだ終わってもいないにもかかわらず、この有様なのだ。2010年代がまさに「三振の時代」であることがわかると思う。
個人についてはわかったが、では、
「チーム三振数」はどうか。
結論から先にいうと、
チーム三振数も、個人の三振数とまったく同じ現象のもとにある。
例えば、「シーズン総三振数1400を越えたチームは、MLB史上、2010年代にしか存在しない」。この事実からもわかるように、個人のみならず、「2010年代は、チームという視点でみても、三振全盛時代」なのである。
シーズン1500三振以上のチーム(計5チーム)
2016年 MIL 1543(地区順位:4位) SDP 1500(同:最下位)
2015年 CHC 1518(3位)
2013年 HOU 1535(最下位)
2010年 ARI 1529(最下位)
シーズン1400三振以上のチーム(計13チーム)
2016年 MIL(4位) SDP(最下位) TBR(最下位) HOU(3位) ARI(4位) MIN(最下位)
2015年 CHC(3位)
2014年 CHC(最下位) HOU(4位) MIA(4位)
2013年 HOU(最下位) MIN(4位)
2010年 ARI(最下位)
シーズン1300三振以上のチーム(計56チーム)
注:以下の太字は地区優勝チーム
2016年 MIL SDP TBR HOU ARI MIN PHI COL BAL LAD ATL
2015年 CHC HOU WSN SEA BAL SDP PIT ARI TBR
2014年 CHC HOU MIA ATL CHW BOS MIN PHI WSH
2013年 HOU MIN ATL NYM SEA PIT SDP BOS
2012年 OAK HOU PIT WSH TBR BAL
2011年 WSN SDP PIT
2010年 ARI FLA
2008年 FLA
2007年 FLA TBR
2005年 CIN
2004年 CIN MIL
2003年 CIN
2001年 MIL
シーズン1200三振以上のチーム(計163チーム)
2010年〜2016年 119チーム(約73.0%)
2000年代 39チーム
〜1999年まで 5チーム
MLBにおいて、「シーズン1200三振以上したチーム」の96%以上、「シーズン1300三振したチーム」のすべては、「2000年代以降」だ。
「シーズン1300三振以上したチーム」は、「2000年より前」にはひとつも存在しないのだが、「2010年代」ともなると、1300三振したチームが年に8チームも登場し、けして珍しいものではなくなってしまっている。
また過去にシーズン1400三振以上のチームで、地区2位以上になったチームは、ひとつもない。その一方で、なんとも奇妙なことに、2010年代にはシーズン1300三振以上していながら地区優勝したチームが、6つもある。
こうした奇妙な事実から、まだ何の根拠もないが、以下の仮説を立ててみた。
チーム三振数1300という数字は、過去においては、そういうチームがまったく存在しないほど「多すぎる三振数」であり、地区優勝などありえない数字だった。
だが、2010年代になると「三振数の基本水準」が上がり過ぎて、誰も彼もが三振ばかりする時代になってしまい、その結果、たとえ「チーム三振数が1300を越えて」も、戦力次第では地区優勝を狙うことができるようになった。
ただし、三振の世紀である可能性がある2010年代以降でも、チーム三振数が1400を越えると、さすがに地区優勝の可能性は一気に低下する。
2010年代以降、チーム三振数の「分水嶺」は、1300後半である。
総三振数が1400を越えるチームが6つも出現した2016年というシーズンは、はたしてMLBにとって「いいシーズン」であったのか。2016年という「奇妙なシーズン」の後、MLBがいったいどんな「転機」を迎えたのか。
そうした問いへの「答え」は2017年以降のMLBをみてみるしかないことだが、少なくともブログ主には「2016年がいいシーズンだった」という気は、まったくしないのである。
February 02, 2017
また、こういうデタラメな計算方式の指標の恩恵を最も受けてきたのが、アダム・ダンやマーク・レイノルズのような「低打率のホームランバッター」であるという指摘もずっと続けてきた。
カテゴリー:指標のデタラメさ(OPS、SLG、パークファクターなど) 1/17ページ目 │ Damejima's HARDBALL
さらには、「四球や長打の過大評価」が、かえって近年のMLBの得点力低下をもたらしたことについても指摘してきた。
1990年代中期以降ずっと続いてきた「ホームラン偏重によって得点を得るという手法」が衰退しはじめていることの意味や、得点とホームランの相関関係における最大の問題が「ホームランの量的減少」ではなく「ホームランの著しい質的低下」であることを、人は忘れすぎている。(中略)
「ホームランバッターに高いカネさえ払っておけば、多くの得点が得られることが約束された時代」は、10数年前に終わっているわけだが、どういうわけか知らないが、「量的にも質的にも価値が低下している長打能力を過大評価し、それに高いカネを払う、わけのわからない時代」は、今なお続いている。
出典:2014年12月21日、「MLBの得点力低下をもたらした四球・長打の過大評価」原論に向けて (1)MLB25年史からわかる「2000年代以降、特に2010年代のホームランの得点効率の質的劣化」 | Damejima's HARDBALL
こうしたブログ主の立場からすれば、去年41本打ったクリス・カーターが所属球団から再契約のオファーがなかったことなど、別に不思議でもなんでもないが、こんな簡単なことすら理解できない(理解したがらない)人も、きっといまだにいるに違いない(笑)
そういう頑固で時代遅れな人のために、
ちょっとだけ資料を作っておく(笑)
クリス・カーターの2016年の成績は、160試合に出場(うち1塁手として155試合)、ホームラン41本、94打点。長期休養もないし、数字だけ見るとあたかも堂々たるスラッガーのようにみえる。
ところが、だ。
クリス・カーターは他の数字が実に酷い。原因は、三振数206とか、打率.222といった、基本的な打席パフォーマンス全体の「質の悪さ」だ。そのためFangraphではwOBA.346、WAR0.9、しかなく、Baseball ReferenceでもWAR0.9しかない。
Chris Carter » Statistics » Batting | FanGraphs Baseball
Chris Carter Stats | Baseball-Reference.com
とはいえ、WAR0.9とか数字だけいわれても実感がわかない人もいるだろう。もっと具体的で、わかりやすい話をしてみる。
例えばBaseball Referenceで、ホームラン40本、OPS.850以下という検索条件で調べてみると、以下の「13人の選手」が出てくる。
(この「13人」に近年の選手がやたらと多いことを覚えておいてもらいたい。また、あえてここで「OPSというデタラメ指標」を検索条件として使用したのは、「四球と長打を過大評価するデタラメ指標で測定してさえも、救いようがないほど低い評価数値しか出ない」のが「低打率のホームランバッター」だという「事実」を理解してもらうためだ)
マーク・トランボ(2016年 47本 .850 SS)
ホセ・カンセコ(1998年 46本 .836 SS)
トニー・アーマス・シニア(1984年 43本 .831 SS)
フアン・ゴンザレス(1992年 43本 .833 SS)
カーティス・グランダーソン(2012年 43本 .811)
ロッキー・コラビート(1959年 42本 .849)
ディック・スチュアート(1963年 42本 .833)
クリス・デイビス(2016年 42本 .831)
アダム・ダン(2012年 41本 .800)
トニー・バティスタ(2000年 41本 .827)
クリス・カーター(2016年 41本 .821)
アルバート・プーホールズ(2015年 40本 .787)
トッド・フレイザー(2016年 40本 .767)
(注:SS=シルバースラッガー賞)
この「MLBはじまって以来の中身のないシーズンを記録したことのあるホームランバッター13人」に、さらに「打率.250以下」というフィルターをかけてみる。すると、以下の近年の選手ばかり、7人に絞られる。
ホセ・カンセコ(1998年 打率.237)
カーティス・グランダーソン(2012年 打率.232)
クリス・デイビス(2016年 打率.247)
アダム・ダン(2012年 打率.204)
クリス・カーター(2016年 打率.222)
アルバート・プーホールズ(2015年 .244)
トッド・フレイザー(2016年 .225)
2016年の選手が3人もいる。どう表現すると、この「2016年のホームランバッターたちの酷さ」が表現できるだろう。
100年をこえるMLB史で、「シーズン40本以上のホームランを打ったバッター」なんてものは、「のべ300人」ほどしかいない。
その、100年間に出現した「たった300人」のうちの、「ワースト10」のほとんど全員(もちろんマーク・トランボも例外ではない)が、「2012年以降の数シーズン」、「特に2016年に集中」して出現しているわけである。
2016年に40本以上打ったバッターで、「中身がともなったスラッガー」なんてものは、守備もうまく、ルーキー三塁手としてゴールドグラブを受賞し、今年はフィールディング・バイブルまで受賞したコロラドのノーラン・アレナドしかいないのである。これは、いったいどうしたことか。
そもそも「ホームラン40本以上、シーズン200三振」なんておかしな記録は、100年以上のMLB史において、クリス・カーター以外に、クリス・デービス、マーク・レイノルズ、アダム・ダンと、「たったの4人」しかやっていない。どいつもこいつも近年の選手ばかりだ。
例えば、馬鹿ばかりがマネージメントしていた2000年代後期のシアトル・マリナーズが4番をまかせた、あの三振王リッチー・セクソン、毎日毎日三振ばかりしてファンを激怒させ続けた、あの「リッチー・セクソン」ですら、シーズン最多三振は「167」なのだ。
クリス・カーターの200を越える三振数が、いかに天井を突き抜けた数字か、わかりそうなものだ。
いわば2016年クリス・カーターは、「MLB史に残るほど酷い内容のホームランバッター」だったのであって、こんなのに再契約の高額オファーを出す球団があるとしたら、出すほうがどうかしてる。
ちなみに、こういう話をすると必ず「ホームランをたくさん打つバッターは三振が多いのなんて当たり前だ」などと、知ったかぶりにお説教したがるアホな年寄りが出現するものだ。
昔の野球マンガか、スポーツ新聞の記事か、どこでそういう間違った思い込みを吹き込まれるのか知らないが、それはハッキリいって、他人に野球についてしゃべるのを止めたほうがいいレベルの「低俗で子供じみた間違い」だ。
いい機会だから、きちんと認識をあらためたらどうか。
「ホームランバッターがやたらと三振ばかりする」のは、
昔からあったことではない。
むしろ、「つい最近に限った傾向」だ。
例えば、「シーズン200三振」という恥ずべきシーズン記録だが、過去に記録したのは、わずか「延べ9人」で、2000年代のマーク・レイノルズの2回を除き、200三振のすべては「2010年以降」に記録されているのである。(以下、「9例」とは「延べ9人」を意味する)
これを「シーズン180三振以上」とすると、どうか。過去51例が記録されているが、「2000年代以前の100年間」には、わずか6例しか記録がない一方で、残り45例すべてが「2000年代以降」であり、ことに「2010年代」が29例(約56.9%)と、半数以上が2010年代の記録で占められている。
「シーズン160三振以上」と範囲を広げても事態はさほど変わらない。過去157例のうち、「2000年代以前の100年間」はわずか35例にとどまる一方、「2000年代以降」が48例、「2010年代」にいたっては74例(約47.1%)と、またもや2010年代が約半数を占めるのである。
さらに捜索の範囲を広げ、「ホームラン数30本以上で、三振180以上」としてみると、100年以上のMLB史で該当記録はたった「33例」しかいない。
そして、その「ホームラン数30本以上で、三振180以上を喫した33例」は、そのほとんどが「2000年代以降の選手」によるものだ。ジム・トーミ、ライアン・ハワード、ジャック・カスト、マーク・レイノルズ、アダム・ダン、ペドロ・アルバレス、マーク・トランボ、マイク・ナポリ、マイク・トラウト、クリス・カーター、クリス・デービス。これは、どうかしてる。
逆に、「ホームランを30本以上うちながら、三振数を150以下に抑えた」という記録は、過去に「300例」ほどある。これは、たった30例ほどしかない「30本、180三振以上」の約10倍にあたる。「ホームランバッターが三振ばかりすることが、けして当たり前だったわけではないこと」は、ほぼ動かしようのない事実だ。
最後にしつこく、もう一度まとめる
●「ホームランバッターが三振が多いのは当たり前」というのは、真っ赤な嘘である。
●MLBで「三振ばかりするホームランバッター」が大量生産されだしたのは、「2000年代以降」のことであって、とりわけ「2010年代」に大量に生産されだした。彼らは、本物のスラッガーではなく、いわゆる「大型扇風機」にすぎない。
ちなみに大型扇風機が三振しやすい理由は、とっくの昔に書いた。
かつてカーティス・グランダーソンはヤンキース所属時代の終盤に「インコースのストレートを強振してホームランを打つこと」ばかり狙って打席に入っていた。
そんな「ホームランだけを狙って、特定のコースだけ、特定の球種だけを狙う、単調なバッティング」なんてものが、このスカウティング全盛の時代、長く通用するわけはない。
2012年11月2日、2012オクトーバー・ブック 「スカウティング格差」が決め手だった2012ポストシーズン。グランダーソンをホームランバッターに押し上げた「極端なストレート狙い」が通用しなくなった理由。 | Damejima's HARDBALL
January 23, 2017
ちなみにDaren Willmanはもともとbaseballsavant.comの創始者だが、今はサイトごとMLBに引き抜かれた形になっている。気鋭の「元・民間人」というわけだ。
以下の図から、いかにリベラが「ハーフハイトの使い手」で、また、コントロールのいい投手だったかがわかる。
Always fun to go back and revisit Mariano Rivera's control... He could absolutely paint the corners with his cutter & 4 seamer pic.twitter.com/bRQkPXUy8v
— Daren Willman (@darenw) 2016年11月29日
ストライクゾーンの中間の高さ、ハーフハイト(half hight)の球を、MLBの投手がいかに上手に使っているかを、ロイ・ハラデイを例にして2009年の以下の記事にも書いた。
メジャーと日本の配球論の差異から考える「城島問題」 『damejimaノート』 序論:2009年9月30日、大投手ハラデイの「配球芸術」を鑑賞しながら考える日米の配球の違い | Damejima's HARDBALL
上の記事は、「キャッチャーがピッチャーに対して、コーナーを突くきわどいボールを要求し続けることの、MLBにおける無意味さ」を理解させるために書いた。
過去のアンパイアの判定結果を集積したデータでみると、MLBアンパイアのストライクゾーンは「ルールブックどおりの四角形」ではなく、むしろ「円形」に近いことがわかっている。(下図)
それは、言い換えるなら、「MLBアンパイアは概してストライクゾーンのコーナーぎりぎりの球をそれほどストライク判定しない」という意味であり、また別の意味では「ハーフハイトの球については、左右を広くストライク判定する傾向」にあるという意味だ。
参考記事:2011年7月11日、MLBのストライクゾーンの揺らぎ (5)カウント3-0ではゾーンを広げて四球を避け、カウント0-2ではゾーンを狭めて三振を避ける。あらためて明らかになったアンパイアの「故意にゲームをつくる行為」。 | Damejima's HARDBALL
以上のような事実をアタマに入れておけば、「ストライクゾーンを横に広く使って、ハーフハイトのカットボールと4シームを投げわける」という「マリアーノ・リベラ特有の配球」は、「ストライクゾーンのコーナーぎりぎりを無理に突いて、アンパイアにボール判定されてイライラする」ことより、「MLBのアンパイアの判定の習性に沿っている」という意味で、はるかに理にかなっている。
左バッターに対して「カットボールと4シームを巧妙に混ぜつつ、インコースのハーフハイトを突くこと」が、マリアーノ・リベラ特有の投球術だったことは、2011年の以下の記事にも書いた。
参考記事:2011年5月28日、アダム・ケネディのサヨナラタイムリーを生んだマリアーノ・リベラ特有の「リベラ・左打者パターン」配球を読み解きつつ、イチローが初球サヨナラホームランできた理由に至る。 | Damejima's HARDBALL
2009年9月18日、1点ビハインドの9回裏にイチローがリベラの初球のカットボールを逆転サヨナラ2ランしたときの球は、もちろんリベラが最も得意としていた「ハーフハイトのカットボール」だ。
ここまで挙げたデータのすべては、この「初球」が「マリアーノ・リベラの失投などではなく、むしろリベラが最も得意とする配球を、予定通りに投げた球」であることを示している。
ブログ主にとっては、そのこと自体は昔からわかっていたことのひとつにすぎないが、最初に挙げたDaren Willmanのデータであらためてその正しさが明らかになった。
ちなみに、イチローがホームランしたリベラのカットボールは「ボール球」だ。
右投手リベラは、キャリア通算の被打率では左打者.209、右打者.214と、打者の左右などほとんど苦にしないピッチャーだった。キャリア通算で71本打たれているホームラン(クローザーになって以降は59本)のうち、左打者には27本しか打たれていない。
左バッターのインコースのハーフハイトを突くことに絶対の自信を持っていたリベラが、1点差の9回2死2塁で、おそらく「様子見のため」に投げた初球のボール球を、イチローにいきなり逆転サヨナラ2ランされたのだ。
リベラが唖然としながらマウンドで、何度も何度も "No! No!" とわめいていたのを、いまでもよく覚えている。それほど、リベラにとってあれは「想定外の出来事」だった。
たぶんリベラは2球目に、同じインコースのハーフハイトに、こんどは「ストライクになる4シーム」を投げてカウントを稼ぐつもりだったはずだ。そして3球目にはインコースぎりぎりのストライクになるカットボールで、バットをへし折るセカンド方向の内野ゴロか、ファウルを打たせるという寸法だ。
初球、2球目、3球目と続く「ストーリー」に絶対の自信があるからこそ、初球に「わざとボールを投げる余裕」が生まれる。リベラはイチローは初球を振ってこないと踏んで、ボールになるカットボールで「2球目への布石」を打ったのである。
以下の図は、最初にあげたMLBアドバンスメディアのディレクターDaren Willmanがイチローについてツイートした別のデータだ。
彼が2008年から2011年の間にウラジミール・ゲレーロがボール球をヒットにした数が「279本」であり、そのヒット数は当時のMLBで「2番目」に多いことをツイートしたとき、あるファンが「じゃ、1位は誰? イチローかな?」と質問したのだが、Daren Willman自身が以下のように答えた。
@gosutherl Correct. Ichiro, 322 pic.twitter.com/WJfe6kHTyG
— Daren Willman (@darenw) 2016年11月27日
All of Vladimir Guerrero's base hits from 2008 to 2011... 279 base hits on pitches out of the zone. 2nd most in that timeframe @MarchiMax pic.twitter.com/OPOFpnuwsl
— Daren Willman (@darenw) 2016年11月27日
上のデータから、ゲレーロとイチローが「インコースのボール球」を何回かホームランしていることがわかる。
ゲレーロも、ボール球でもヒットにしてしまうことでよく知られた「悪球打ち」だったわけだが、ゲレーロさえ上回る「2000年代最強のMLBナンバーワン悪球打ち打者」、それが2000年代のイチローだ。
こういう天才肌のバッターに「よく球を見ていけ」なんて愚劣な指示を出すのは、明らかに間違いだ。他人よりもよく球が見え、なおかつ苦手コースが存在しない天才バッターだからこそ「悪球打ち」が可能になるのであって、平凡なプレーヤーでしかなかった自分の狭い常識を天才に押し付けるような無能な打撃コーチは、イチローやゲレーロにはまったく必要ない。
December 08, 2016
こうした「駅前商店街の衰退」が、無謀運転をする高齢ドライバーの出現や日本の高齢者の「質的変化」と、どう関係するか。日本中の駅前商店街の全てを調べて歩くわけにもいかないので、ロジックのみで推察してみた。
「シャッター商店街」というのは、なかなかに不思議な現象だ。なぜなら、「衰退」というからには、「駅前商店街が繁栄できた時代があった」という意味だからだ。
これは今の広大な駐車場をもつ郊外型ショッピングモール全盛時代からみると、なんとも理解しにくい。「商店街」とは「商店と商店が隙間なく軒を並べている場所」なのだから、ほとんどの場合、「広い駐車場」など存在しないからだ。
東京のような過密都市なら、駅前商店街の繁栄が今でも成り立つケースがあることは理解できる。なぜなら駅の近隣に「徒歩や自転車で買い物に来る客」や「駅の日常的な利用者」が「大量にいる」からだ。
わからないのは、地方都市の駅前商店街だ。
なぜ、かつて「広い駐車場を持たないにもかかわらず、繁栄できた時代があった」のか。
単純に考えれば、それはやはり「かつては駅近くに十分な数の客がいたから」だ。
もう少し詳しく書けば、「その地域の最も主要な駅の駅前商店街に、徒歩や自転車で来れる距離」、あるいは、「その駅に、バスや電車などの公共交通機関を使って短時間に通ってこれる、近接した市町村」に、「それなりの数の住民」がいて、主要駅の駅前商店街は近くに住んでいる人々を相手にしているだけで、「たとえ駐車場がなくても商売できた時代」が、たぶんあったのだ。
では、なぜ地方都市の駅前で
「駐車場がなくても商売できた時代」は終わったのか。
モータリゼーション、クルマの低価格化、郊外農地の宅地転用、広大な駐車場をもつ郊外型ショッピングモールやロードサイド店の進出など、さまざまスプロール化の理由が考えられる。だが、駐車場がなくても商売できた時代が終わった理由を追求することはこの記事の主題ではないし、そんな記事はどこにでも転がっているので、そこの分析は省略させてもらうことにする。
理由はともかく、「公共交通機関が集約された駅前に立地し、駐車場をもたない商店街でも繁栄できた時代」は終わり、「郊外に立地し、広大な駐車場をもつモールの時代」になった。そのことで、どんな影響が人々の暮らしにあったのか。
ひとつには、地方住民は、若者だろうと高齢者だろうと、買い物客は全員がいやおうなくクルマに乗らなくてはならなくなったということがある。ここに、高齢ドライバーがあらゆる場所に出現しだした理由のひとつがある。
遠まわしな話になったが、結局何が言いたいかというと、
高齢者が昔からクルマをひとりで運転して出かけていたわけではなく、むしろ、後期高齢者ですら、誰も彼も毎日運転する「クルマ依存生活」が普通になったのは、実は、「ごく最近のこと」なのではないかということだ。
いうまでもなく、高齢化社会が到来する前から高齢者はいた。
だが当時、彼らが必要な買い物は、駅前商店街のような「家の近くの商店」で済ませることができたり、家族や親戚や友人の誰かがかわりに買ってきてくれたり、家の近くの畑で作ったりできたため、高齢者自身が、毎日、それも単独でハンドルを握って買出しに行くようなことをせずに済んでいたのではないか。
だが、前の記事でも書いたように、地方の家族制度は西日本を起点に崩壊が始まり、息子・娘は都市に出たまま故郷に戻らなくなる。高齢の両親は田舎のムダに広い家(あるいは都市の、息子・娘と離れた場所)に住んだまま、単身高齢者、あるいは、高齢夫婦という形で「ポツンと」暮らすようになる。(だからといって、高齢世帯全体が経済的に困窮しているという意味ではない。むしろ、事実は「まったく逆」だろう)
前の記事:2016年12月6日、高齢者の無謀運転が毎日のようにニュースになる理由。〜身にしみて理解されていない日本の高齢者の「質的変化」 | Damejima's HARDBALL
そうこうするうちに、駅前商店街が衰退して郊外型ショッピングモールの時代になると、自宅と「目的の場所」(例えばショッピングモール、病院など)の間をつないでいる交通機関が、クルマ以外存在しない地方都市住民が、急激かつ大量に生み出される。
そして、やがてその「クルマだけが頼りという地方住民」の中に、大量の「後期高齢者ドライバー」が出現する。すると、ブレーキとアクセルを踏み間違えた高齢ドライバーによる死亡事故の多発が、当たり前のように社会問題化しはじめるわけだ。
もっと言えば、高齢者のみならず地方都市の住民全員が「クルマ依存」になったのであり、それはある意味で、遅れてやってきた「周回遅れのモータリゼーション」(© damejima)といえる。
だが、地方都市は、自分の町がこの「周回遅れのモータリゼーション」の渦中にあることに気づいていない。
都市の道路というものは、直線になるように整備され、住宅の隅切りなども徹底され、見通しがよく、また、運転者のモラルも高い。
だが、田舎道は直線にできていないし、隅切りもされない。見通しが悪く、ドライバーのモラルも低い。
道路構造の近代化と交通モラルの近代化が「放置」され、渋滞や飛び出しへの対処、歩行者や自転車との共存、交差点に面した住宅の隅切り、狭い駐車場での駐車テクニックなどといった、「都市の道路やドライバーなら、当たり前の話として、とっくの昔に対処し終わっている事態」について、地方都市はロクな準備をしていない。
そんな田舎の整備されていない道路に過度なスピードで突っ込めばすぐに事故につながるわけだが、そんなことおかまいなしに、曲がりくねった道を、運転のおぼつかないドライバーが運転するスピードオーバーの軽自動車が行き交い、渋滞、違反、事故を繰り返して、空気を排気ガスまみれにしている。それが、今の田舎の現実だ。
健康面でも、地方の人間ほど「クルマ依存によって、足腰が弱っている」可能性もある。もしかすると地方都市の「歩かない」高齢者はいまや、都会の「歩くのが当たり前」の高齢者より、足腰が弱いかもしれない。そして、人の足腰の弱さは、その「街の弱さ」そのものだ。
こうした事態はまぎれもなく、日本の高齢者の「質的変化」のひとつである。
さて、以下は蛇足で、「バス路線の駅前中心主義の馬鹿馬鹿しさ」について書く。
(キャプション)1958年封切の映画『駅前旅館』。原作は井伏鱒二の小説「駅前旅館」。「駅前」という単語に意味があった昭和の遺物。
本来なら、シャッター商店街をかかえる地方都市が時代の変化に応えてやるべきことといえば、「古い駅前中心主義」を一度完全に捨てることだったはずだ。
具体例を挙げれば、ショッピングモールの真横にその地方都市最大の総合病院を作り、役所もバス会社もモールの真横に移転し、モールを起点・終点とする小型循環バスを数多く配備して、都市内を可能な限り網羅するように走らせるのが、合理的発想というものだ。「後期高齢者にできるだけ運転させない街づくり」のためには、それくらいやってしかるべきだ。
だが、現実の地方都市でそうしたシンプルな合理性が実現しているとは、到底思えない。青森駅前の再開発ビル「アウガ」の失敗でわかるように、実際に地方都市がやっているのは、あいもかわらずの陳腐な駅前再開発にすぎない。
だが、ここまで書いたことからわかる通り、駅前再開発なんてものを劇的に成功させる可能性があるのは、いまや「鉄道駅それぞれに、駅の周囲にに密集した住民を維持できている東京だけ」なのであって、数十年遅れのクルマの時代に突入した地方都市で、駅前再開発が成功することなど、そもそもありえない。
にもかかわらず、おそらく融通のきかない地方のバスはいまだに「駅前を起点にした、それも大型バスを使った非効率な路線」を数多く組んだまま、赤字と排気ガスを垂れ流し続けているに違いない。地方バス会社のそうした「怠慢さ」は、危険な高齢ドライバーの氾濫を許す遠因になっている。
もし「駅前」という場所がそんなに大事ならば、駅前復権のために必要なのは、駅前ロータリーでも、無駄な植栽でも、コーヒーの不味い喫茶店でも、暇つぶしばかりしている駅前タクシーでもなく、「広大な駅前駐車場」だ。実際、駅前に駐車場が広がっている駅は大都市郊外にはよくある。
だが、地方ではそういう思い切った駅前改善策も実現しない。かといって、寂れた駅前に集約した無駄なバス路線も減らさない。それが、身動きのとれない地方都市の「挙動の遅さ」「勘違い」というものだ。
いいかえると、「あらゆる挙動が遅く、かつ、核心を突かない」のが、地方都市という場所の欠陥なのだ。そういう無駄だらけで、やるべきことをやらない「地方」という場所に、国が補助金を注ぎ込むのは本当に馬鹿げている。
November 26, 2016
上のグラフは「65歳〜74歳人口」と「75歳以上人口」を比較したものだ。この2つの数字はたいていの場合、積み上げグラフとして「上下に並べて」表示されているために、関係がもうひとつよくわからないので、作り直してみたのである。
(元資料:2050年には1億人割れ…日本の人口推移をグラフ化してみる(高齢社会白書:2016年 - ガベージニュース)
こうしてデータを作り直してみて初めてわかることは、
来年以降、2017年から2025年頃にかけて、ということだ。
日本の高齢者の中身は 「質的」 に大きく変わる
もう少し具体的に書くと、こうなる。
2017年から2018年頃にかけてということだ。
「75歳以上人口」が初めて「65歳〜74歳人口」を追い越す。
2025年以降になると、高齢者のコアは、減少傾向に転じる「65歳〜74歳人口」ではなく、なおも横ばい状態が続く「75歳以上人口」に移る。
「なんだ、そんなことか。後期高齢者って言葉、知らないの? わかってるよ、それくらい。」と、思うかもしれない。
(ちなみに、「後期高齢者」という単語に、「この言葉は礼儀を欠いている」と怒ってる人がいるようだが、この単語はもともと人口学や老年学の学術用語らしい。お間違えなきよう)
だが、ブログ主は
「いやアンタ、わかってるつもりになってるだけで、事態の深刻さが全然身にしみてわかってない」と、言わせてもらう。
簡単にいえば、
社会の高齢化自体にも、ヒトと同じように、「前期」と「後期」があるのだ。
いつのまにか「高齢ドライバーがブレーキとアクセルを踏み間違えて、人を轢き殺した」だの、「高齢ドライバーが高速道路を10数キロも逆走した」だのというニュースが毎日のように流れるようになったことは、けして偶然などではないのである。
言いかえると、いまや日本は「想定外の行動をする人間に出くわす危険性を、常に予想していなければならなくなった時代」であり、「ブレーキとアクセルを踏み間違えて、他人を轢いてしまう高齢者が、毎日どこにでも出現する時代」こそ、本当の意味での「衰え」が社会問題となる「後期の高齢化社会」なのだ。
このやっかいな「後期の高齢化社会」に比べれば、「日本が1980年代から2000年代までに経験した高齢化社会」、つまり、「65歳から74歳の人が多かった、前期の高齢化社会」など、まだまだ牧歌的だっただろうと思う。
「本当の意味での『肉体的精神的な衰え』が、社会のあらゆる面に問題として突出する時代」が、この「75歳以上だらけになっていく、後期の高齢化社会」の「意味」なのだ。
この「意味」を、ほとんどの人が甘くみていた。
さて、以降は「おまけ」だ。
高齢化社会の「内部」で起きてきた「質的変化」について、他にもいくつか例を挙げてみる。我々は高齢化社会の「内部」で起きていることについては案外知らないのだ。
以下の図で、赤い点は「高齢単身世帯」と「高齢者夫婦のみで暮らす世帯」を表わす。左が1995年(平成7年)、右が2005年(平成17年)だ。最初に挙げたグラフでいうと、「1995年から2005年までの10年間」は「まだ65歳から74歳までの人口が、75歳以上人口より多かった、『前期の高齢化社会』」にあたる。
図から、高齢世帯の「中身」は、西日本と東日本とで、まったく違うことがわかる。正直、「10年で西日本だけが真っ赤に染まった理由」は、まるで見当がつかないが、すくなくとも「西日本では、東日本、特に関東でまったく想像のつかない『別種の高齢化』が進行した」ことは明らかだ。
続いて、以下は「持ち家をもっている世帯における、世帯形態と住宅の延べ床面積の関係」をグラフにしたものだ。
この図によれば、「持ち家を所有する65歳以上の高齢単身および高齢夫婦世帯」の「半数以上」が100平方メートル以上の広さの家に住んでいる一方で、「持ち家に4人以上で住んでいる家族」の「約3分の1」が100平方メートル未満の家に住んでいることになる。
このグラフだけを根拠に「高齢者ほど、広い家に住んでいる」と断言することなどもちろんできないが、高齢者と若者で資産格差があることは歴然としていることや、日本の「住環境」と「世帯の平均年齢」がミスマッチを起こしていることは、まぎれもない事実だ。
また2つの図から「子供が家を出て都会に住み着いた結果、両親だけが田舎に残っている」「その傾向は西日本ほど強い」などと想像することくらいはできなくもない。
高齢者の中身の「質的変化」は、いやおうなく社会に変化を要求する。
では、その「変化を起こすべき、担当者」は誰か。どうみても高齢者自身ではない。思いやりはもちろん永遠に必要だ。だが、だからといって、安易なヒューマニズムに流されていいわけではない。
ここに挙げた程度の頼りない大雑把なデータからでさえ、例えば「日本で『空き家』が、従来の数をはるかに越えた、空前絶後の数で出現しはじめるかもしれない」というようなことは、誰でも想像できる。
以前も書いたことだが、たとえ空き家が増えても、そのうちアパートに建てかわって、地方の税収も増えるから万々歳、なんて夢物語は絵に描いた餅に過ぎない。
参考記事:2014年8月4日、誰もが読めていない「空き家の増加」というニュースの本質〜日本における「文字読み文化」の衰退 | Damejima's HARDBALL
何を想定し、何を暮らしやビジネスに役立てるかは、それぞれの人の自由だが、少なくとも、「高齢化社会」なんていう雑な考えと安易なヒューマニズムでモノを言っていられる、のんびりした時代は終わるということは、われわれ全員がアタマに入れなければならない。
November 24, 2016
州別選挙人数(2016大統領選挙)
最初に結論というかポイントを指摘しておくと、こういうことだ。
かつて「新参の移民」だったアメリカのユダヤ系移民が20世紀以降に起業したビジネスは、例えばマス・メディア、プロスポーツ、映画、金融などで、それらは現代でこそ影響力が強くなったが、できたばかりの時代には「産業界における傍流ビジネス」にすぎなかった。
ひるがえってドナルド・トランプはどうかというと、彼は実は「古参の移民」が作り上げてきた「アメリカ産業界の本流の流れ」をくむ人物だ。
彼は資産家であるがゆえに、「東部のマスメディアの支持も、ウォール街からの献金もアテにしない選挙を戦いぬくこと」が可能だった。
トランプ氏の出身母体でもあるドイツ系アメリカ人は、アメリカの北半分の地域において常に「最大の人種派閥」である。だが、その「数の優位性」はこれまでアメリカ政治にそれほど強く反映されてはこなかった。
参考記事:2012年7月16日、『父親とベースボール』 (4)アメリカにおけるドイツ系移民の増大。18世紀ドイツの美術史家ヨハン・ヴィンケルマンが欧米文化のルーツとして捏造した「白いギリシア」。 | Damejima's HARDBALL
トランプ氏が「アピールしようとした相手」は、「世論操作ばかりしたがる東海岸のマスメディア」でも、「献金で政治を動かすウォール街」でも、「選挙権のない西海岸のヒスパニックの不法移民」でもなく、アメリカ中部の中産階級、ドイツ系住民を代表例に、アメリカ産業界の本流ビジネスの流れにある「ごく普通のアメリカ人」であったとすれば、少なくとも「大統領選挙において数的優位を作ること」は、アイデアとしては最初から可能だった。
さて、トランプ氏の出身校、Wharton School だが、これは1881年にフィラデルフィアのQuaker (「クエーカー」=17世紀イギリスで発生したキリスト教の宗派のひとつ)の実業家Joseph Wharton(ジョセフ・ウォートン)の寄付によって設立された全米最初のビジネススクールだ。
Joseph Wharton
(1826-1909)
「クエーカー」といえば、フィラデルフィア・フィリーズが1883年に球団発足した当時の名称が Philadelphia Quakers (フィラデルフィア・クエーカーズ)だった。
この例からもわかるように、ペンシルヴェニア州にはもともとドイツ系移民やクエーカーが多い。これには次のような歴史的背景がある。
ペンシルヴェニアは、1681年にイギリス人ウィリアム・ペンが、ペンの父親に多額の借金をしていたイギリス国王チャールズ2世から「借金のカタ」として拝領した土地だ。
このウィリアム・ペンはクエーカーで、ヨーロッパで宗教的迫害を受けた経験があったため、自分の領地ペンシルヴェニアでは「信教の自由」を認めた。また、そのことを宣伝材料にヨーロッパからの移民をペンシルヴェニアに集めた。その結果、ヨーロッパのクエーカー(あるいはドイツのプロテスタントのルター派)がペンシルヴェニアに押し寄せる結果となった。
Wharton Schoolの卒業生リストはとにかく圧倒的だ。この100年のアメリカ経済の流れを作った企業、例えば20世紀初頭の製鉄業から、近年のコンピューター産業やIT産業に至るまで、まさにありとあらゆる業種のCEOが勢ぞろいしている。
ウォートン校出身の経営者は、業界それぞれの黎明期にフロンティアを開拓した「創業社長」が多いことも特徴のひとつだ。
List of Wharton School alumni - Wikipedia
Wharton Schoolを創立したJoseph Whartonも、20世紀アメリカの発展を根底から支えたアメリカ製鉄業のパイオニアのひとりで、彼は20世紀初頭にCharles M. SchwabとともにBethlehem Steelを創立し、カーネギーのUSスチールにつぐ全米第二位の製鉄会社に押し上げた。
このBethlehem Steelの前身は、やはり「ペンシルヴェニアのクエーカー」だったAlfred Huntという人物が19世紀中盤に創業した製鉄会社だったが、このことからもわかる通り、19世紀から20世紀初頭にかけてのアメリカの製鉄業には「ペンシルヴェニアのクエーカーが創業した会社」がとても多い。
クエーカーの実業家の間には「独特の横のつながり」があるといわれ、ペンシルヴェニアの製鉄業には「クエーカーの横の連携」から生まれた部分が少なくないらしい。(資料:最新日本政財界地図(14)クエーカーと資本主義)
ちょっと話が脱線する。
産業革命の原動力を、蒸気機関車の発明や、その燃料として石炭が大量使用されるようになったことだと「勘違い」している人が多い。それは原因と結果、目的と方法をとりちがえている。
そもそも蒸気機関そのものは、ジェームズ・ワット以前に既にあった。ワットの業績はその「改良」であって、発明ではない。
また、蒸気機関改良の「目的」にしても、最初から蒸気機関車や蒸気船などの「交通機関への応用」が目的だったわけではなくて、当初の目的は「石炭鉱山での大量採掘の実現を長年阻んできた『湧き水』を排水するための動力を得ること」だった。
そもそも人類にとって「製鉄」という行為そのものは、なにも産業革命で初めて得た技術ではない。例えば、アフリカには製鉄を行った形跡のある古代遺跡が多数あって、製鉄技術のアフリカ起源説もあるくらいで、表土に露出している鉄や隕石などを原料にした製鉄技法は古代からあった。
それでも長い間、鉄が貴重品とみなされた理由は、鉄がまったく作れなかったからではなく、「鉄を、高品質かつ大量に生産する手法」がなかなか確立できなかったからだ。それは「鉄の効率的な精錬技術」の発明に時間がかかったことや、大量の鉄鉱石を高温で熱し続けるための「エネルギー源」の確保ができなかったことなどによる。
それが蒸気機関の「改良」で、「石炭鉱山での大規模排水」が実現できるようになった。その結果、湧き水がたまりやすい地中の深い場所での石炭の大量採掘が可能になり、その結果、石炭やコークスが大量かつ安価に手に入れられるようになったことで、ついに製鉄業が大規模化される時代が訪れたのである。(その結果、世界中の鉄鉱石と石炭の争奪戦が始まった)
鉄の品質が上がり、価格が下落したことで、20世紀初頭の製鉄業者は、「大量生産で価格が下がった鉄の利用方法」を、顧客の事業拡大にまかせるばかりでなく、みずからも模索する必要が生じた。
その結果、製鉄業者自身が、鉱山、製鉄、造船、鉄道などの「多角経営」に乗り出して、「鉄を、掘りだし、精錬し、利用する」までの一連の流れにある事業をトータル経営するようになった。(古い時代のアメリカの「財閥」が生みだされた理由は、この「価格の下がった鉄の利用方法の模索」だった。この例のように、財閥というシステムはもともと「必要に迫られて」形成されるのであり、企業規模拡大にともなって理由もなく勝手にできあがるわけではない)
例えば、第二次大戦時、Bethlehem Steelの造船部門は4000隻を越える膨大な数の輸送用船舶liberty ship(リバティ船)を製造したが、それが可能になったのは背後に「ペンシルヴェニアの製鉄業」があったからだ。
(第二次大戦後、不要になったリバティ船はギリシアなど特定の国に大量に売却され、海運王オナシスに代表されるギリシア海運業の母体となった)
「安価な鉄の登場」はこうして、造船、鉄道、さらには自動車産業などを生み出していき、他方では、鉄を大量に使った高層建築も可能にした。それまで木材やレンガが主流だった都市建築は一変し、都市に高層ビル群が出現することになった。
MLBのボールパークも、19世紀末の創成期にはまだ「木造」ばかりで、たびたび火災で焼失していたが、20世紀以降は「鉄骨」を使った堅牢な建築になった。その背景にはアメリカ製鉄業の発展がある。
話を元に戻そう。
19世紀から20世紀初頭にかけての時代は、アメリカに新しい産業が次々と生まれていった「アメリカが本当の意味で若かった時代」だった。
「ペンシルヴェニアのクエーカー」たちが製鉄業の経営に挑んだのは19世紀中ごろ以降であり、一方、MLBのようなプロスポーツ、映画、マスメディアなどが少しずつカタチになりはじめるのが19世紀末から20世紀初頭にかけてで、両者の間に半世紀ほどのタイムラグがある。
例えば、20世紀初頭、1887年生まれのNFLニューヨーク・ジャイアンツの創始者ティム・マーラはまだ貧民街から成り上がろうともがいているところだったが、ペンシルヴェニアでは既に有力な製鉄会社が産声をあげ、鉄の大量生産時代に入ろうとしていた。
参考記事:2012年12月21日、ニューヨークまみれのクリスマス・キャロル(2) NFLニューヨーク・ジャイアンツとティム・マーラとポロ・グラウンズ | Damejima's HARDBALL
かつて書いたように、たとえ同じ白人移民であっても、「古参の移民」と「新参の移民」とでは、「参入する業種」がまったく異なる。
1920年代当時のアメリカでは、映画、プロスポーツなどの娯楽産業やマスメディアは「まだ海のものとも山のものともわからないヴェンチャービジネス」というポジショニングでしかなく、だからこそ、これらの新しい産業でならばこそ、「新参の白人移民」であってもオーナーや経営者になれた。
たとえニューヨークの貧民街から成り上がったような移民でも、頑張ればMLBやNFLのオーナーになれた1920年代は、ある意味、牧歌的な時代でもあった。
対して、古参の白人移民がかねてから牛耳ってきたのは、銀行、重化学工業、自動車、石油、鉱業、運送業、保険など、いわゆる経済のメインストリームを担うビッグビジネスばかりであって、新参の白人移民がそうしたメインストリームのビジネスに簡単に参入することなど、できるわけもない。
だからこそ、新参の白人移民は、プロスポーツ、エンターテイメント、マスメディアなどの新しい産業で自分たちの生きる道を開拓し、発達させていこうとしていたわけだが、古参の移民の視点からみれば、たとえそれが自分たちの専門外の分野であっても、スタジアムの外野席でベーブ・ルースのホームランに浮かれ騒ぐ彼らの自由なふるまいが横行する事態は、次第次第に「目ざわりきわまりないもの」と映るようになっていったに違いない。
2013年11月28日、『父親とベースボール』 (9)1920年代における古参の白人移民と新参の白人移民との間の軋轢 ヘンリー・フォード所有のThe Dearborn Independent紙によるレッドソックスオーナーHarry Frazeeへの攻撃の新解釈 | Damejima's HARDBALL
例えばニューヨーク港の港湾労働は、19世紀末にはアイルランド系移民が独占していた。20世紀以降にイタリア系が入って新たな棲み分けが行われると、ブルックリンだけはイタリア系になったが、特定の人種が独占(あるいは寡占)する状況には変わりがなかった。
この例が示すように、アメリカの産業、特に創成期の産業では、「人種による棲み分け」が行われることがある。つまり、特定の産業全体、あるいは特定地域の特定の産業が、特定の人種集団と不可分に結合して、その人種特有の「既得権」となることが少なからずあったわけだ。
沖仲仕として働きながら思索に没頭した独学の哲学者Eric Hoffer。ブロンクス生まれ。
ドイツ系の彼が沖仲仕になったのはサンフランシスコだが、もしアイリッシュやイタリア系がハバをきかすニューヨーク港だったら、もしかすると沖仲仕になれなかったのかもしれない。
かつて隆盛を誇ったペンシルヴェニアの製鉄業の創業者に「クエーカーのドイツ系移民」が多かったことも、そうした「特定業種と特定人種の結びつき」の例のひとつだ。
かつてアメリカ経済のメインストリームだった重厚長大産業では、概して「古参の移民」が多い傾向にある。
一方で、マス・メディア、スポーツ、映画といった「歴史が浅い産業」の創成期には、創業者、選手、制作者、観客にユダヤ系移民が多かったことに代表されるように、歴史の浅い産業においては、「新参の移民」が多い傾向が強い。
例えばMLBの「観客」も、かつて書いたように(参考記事:2014年3月29日、『父親とベースボール』 (11)「外野席の発明」 〜20世紀初頭の「新参の白人移民の急増」と「ホームラン賞賛時代」の始まり。 | Damejima's HARDBALL)、当初は「古参の移民」が多かったが、やがてユダヤ系など「新参の移民」がボールパークにやって来るようになったために、そうした新参の観客たちのための「隔離された席」として、『外野席』が作られた。ヤンキースタジアムの外野席に陣取るBleacher Creaturesはそうした時代の「名残り」である。(同じヤンキースファンでありながら外野席の客が内野席の客にヤジを飛ばす習慣が残っているのは、かつて内野席と外野席の「観客の人種」がまったく異なっていたからだ)
時代が下っていくと、内陸部の製鉄業のような「かつて経済の本流」であった重厚長大産業が衰退しはじめる一方で、スポーツやメディア、IT、コンピューターといった「傍流とみなされていた業種」が沿岸部で繁栄するようになってくる。
こうした「産業のいれかわり」は、「産業と人種が密接に結びつく」ことも少なくなかった移民の国アメリカにおいては、「それぞれの産業に強く結びついた人種ごとの浮沈」を意味する場合も多い。(もちろん実際には、それぞれの業界に多種多様な人種が存在しているわけだから、必ずしもこういう紋切り型な観点で全てを分析できるわけではない)
今となって想像すると、トラッシュトークを繰り返したトランプ氏の選挙で「最も重要だったこと」は、おそらく「主張が正しいかどうか」ではなかったはずだ。(理解しようとしない人がいるかもしれないが、それはけして「間違ったことをあえて主張する」とか「なんでもかんでも言って、迎合する」とかいう意味ではない)
なぜなら、こと「アメリカ大統領選」において大事なことは、「『どのくらいの数』の人間に向かってアピールできたか」だからだ。
アメリカは非常に広い。しかも多様な国だ。自分の狭い信念を細々と語り続けたくらいでは、とても最大の支持など集めきれない。最初から「十分に人数の多い層」を狙い撃ちしていかないかぎり、勝てない。
「最多の票を集めるのが、勝利」だ。
であるなら、「最も厚い層」にアピールすべきだ。
別の言い方をすれば、「アピール対象が『想定どおりの数、実在した』なら当選するし、『想定に反して、それほど多くなかった』なら落選する」という言い方もできる。
では、その「最も厚い層」は、「どこ」に眠っていたのか。
もしトランプ氏がアピールしようと決めた「対象」が、「古き良き時代のアメリカにおいて、メインストリームの産業を担っていた中産階級」、あるいは「アメリカ最大の人種派閥であるドイツ系」、あるいは「内陸部の住民」だったとすると、そうした「ターゲット」はもともと「アメリカを構成するさまざまな集団のうちの、最大の集団」だったはずであり、その「最大の集団」に対して、「あなたの利益は本当に守られていますか?」と問いかけたのが、今回の選挙手法の「骨子」だ。
(2016年ワールドシリーズが奇しくも「東でも西でもなく、内陸部のチーム同士の対戦」になったことも、出来すぎなくらいの偶然ではある)
言いかえると、今回の大統領選は、ヒラリー・クリントンやバラク・オバマ、ニューヨーク・タイムズが「顔を向けていた層」は、本当に「『大多数を占める、ごく普通のアメリカ人』だったのか」が問われた選挙、という意味もある。
そしてヒラリー・クリントンが敗れたという事実は、彼らが顔を向けていた層が実は「アメリカの大多数ではなかった」ことを意味する。
参考記事:2015年2月7日、「陰謀論愛好家」を公言してしまい、ちょっと火傷してしまったチッパー・ジョーンズ。 | Damejima's HARDBALL
これはオバマさんがウォルマート出身者を閣僚候補に指名したって記事。http://t.co/5ByWdCm2OX 文中にこうある「『(ウォルマート財団のチャリティ活動は)多くがウォルマートの新店舗開拓地域に集中しており、同社のロビー活動の一環にすぎない』との批判もある」
— damejima (@damejima) 2015年2月7日
トランプという人の「選挙マーケティング」は、実業家出身なだけに予想屋ネイト・シルバーより正確で、なおかつ、キンシャサでロープを背にサンドバックのように打たれ続けながらジョージ・フォアマンをKOで葬った1974年のモハメド・アリのトラッシュトークのように、したたか、なのだ。
エリック・ホッファーは「知識や情報を持った個人が社会の中で行き場を失ったり、挫折したりすると、そこに芸術・思想・哲学などの重要な成果が生まれる」と言っているらしいが、過去の繁栄の彼方に置き去りになっていた中産階級の場合は、長い間行き場を失ったまま「言葉」を求め焦がれていたのである。
November 20, 2016
次期大統領ドナルド・トランプ氏がスピーディーに「謝罪せよ」と非難したが、自分とトランプ氏の「謝罪を求める理由」が同じであるかどうかは別にして、ブログ主もそのミュージカル出演者は謝罪すべきだと考える。また、もしその人物が謝罪しなければ、劇場側が舞台から降ろすことも考慮すべきだとも考える。
かつてリンカーンは劇場で観劇中に射殺されたわけだが、たとえそれが「言葉という銃弾」であったとしても、「不意打ち」を食らわせるような行為が許されるとは、自分は思わない。
理由は2つある。
ひとつは、オリンピックにおいて、「五輪を政治主張に利用してはならない」と五輪憲章に定められているのと、まったく同じ理由だ。
2つ目は、「オフで劇場に来ている人に対して、無礼きわまりない行為」だからだ。
2012年ロンドン五輪の男子サッカーで、韓国の選手が竹島の領有権に関するプラカードを掲げた五輪憲章違反プラカード事件があった。
五輪憲章は明確にオリンピックの政治利用を禁止している。この事件は、五輪憲章違反そのものであり、また、スポーツの政治利用でもあった。
中国は、この韓国の五輪憲章違反プラカード事件と同時に、日本の領土である尖閣諸島に不法上陸を強行する事件を起こし、これら2国はその後も「連携」して意図的に日本を挑発し続けた。
韓国と中国がこうした無礼な態度をあらわにした後、これらの国に対する日本人における好感度はゼロになり、外交関係が冷え切ることになったわけだが、それは連携して無礼な行為を強行し続けているこれら2国の責任にほかならない。
第二次大戦後、長年にわたって日本固有の領土である竹島を不法に占拠している韓国の人間が、あえて竹島の領有権を主張したいならば、それはそれで、さまざまな手段がある。
韓国政府が国際機関での領土調停を行うよう求める運動を始めようが、韓国国内でチラシをまこうが、自国の新聞に意見広告を出そうが、ブログを書いて国内の民意に同調を求めようが、サッカー選手から政治家に転身しようが、大統領選挙に立候補しようが、好きにすればいい。それは「自由」だ。
そして、他の人間には、そういう行為を無視する権利や、批判する権利が確保される。(ただし、「第三国での世論操作」、例えばアメリカ国内での新聞広告や銅像の建立などは、モラルの欠片もない無礼きわまりない行為だ)
だが、オリンピックを政治的に利用する「自由」は、地球上の誰にもない。オリンピックのスポーツを見ようと思っているだけの人に、自分の政治主張を無理矢理押し付ける権利は、誰にもない。
それと同じことで、ペンス氏のオフタイムを台無しにしたミュージカル出演者がもし政治的な主張をしたいのならば、アメリカの街頭でチラシまこうが、ニューヨークタイムズに意見広告を出そうが、ブログ書こうが、政治家に転身しようが、アメリカ大統領に立候補しようが、どれもこれも可能だから、好きなようにすればいい。
だが、劇場という場所は、違う。
そういうことをするための場所ではない。
もしミュージカル出演者が、政治的な主張をアーティストとして作品を通じて行いたいというのなら、他に方法はいくらでもある。
演出家にでもなるか、自分で脚本でも書いて、売り込んで、スポンサーを説得して、そういう主張をするミュージカルでも、芝居でも、映画でも、好きなようにやればいいのである。
他の人間には、そういう作品を酷評する自由と権利、そういう作品を見ないで無視する自由と権利が確保される。
だから作る側、見る側、お互いが自由でいられる。
だが、劇場は違う。
そういうことをするための場所ではない。
劇場は「密閉された空間」なのであり、演目は「特定の目的」を持っている。そして劇場に来る観客は、カネを払って「特定の目的のために」来場している。
観客には、演目を楽しむ権利、そして、その余韻にひたりながら気分よく帰る権利がある。また一方で、演目にまったく関係のない余計な宣伝行為を耳にして不愉快な気分にさせられるのを拒絶する自由も権利もある。
逆にいえば、演目にまったく関係のない宣伝行為によって観客を不快にさせる自由も権利も、劇場側にはないし、まして出演者にそういう権利が存在するわけがない。
劇場、あるいはスポーツスタジアムに座っていても、いつ「言葉という銃弾」が飛んでくるのかわからない不穏な状態では、マトモな劇場、マトモな娯楽とはいえない。
これまでも何度となくブログにも、ツイッターにも書いてきたことだが、何度でも書こう。
目的は手段を正当化しないのである。
「目的が正しければ、手段の是非は問われない」という発想こそは、テロという階段の第一歩だ。
「テロ」という言葉の定義は、なかなか難しいところだが、ブログ主に言わせればそれは、「行動の一撃のみによって、自分の存在を世間に示そうとする強引きわまりない示威行動」が「テロ」であって、必ずしも銃や爆弾といった「武器を用いた暴力」とは限らない。
行動の一撃に依存する者たちは、自説の理解者を時間をかけて増やす努力を重ねることもせず、ただただ「行動という一撃」によって、世の中やその時代の多数者に「論理的な一撃」を加え、そのことによって、自己の主張や存在感を誇示しようとする。
これが「武器による暴力」と「言葉という銃弾」に共通の、「行動の一撃主義」の発想であり、近代の暴力に普遍的にみられる論理構造そのものだ。
だから、もし「行動による一撃」が「物理的な危害をまったくともなわない、言葉という銃弾」だとしても、その「行動による一撃」をよしとする論理そのものが「ある種の論理的テロリズム」なのである。
近代社会において「自分の意見と、多数者の意見とを、一致させる」ためにできることは、主に「2つ」しかない。
ひとつは、「自分の立場や考え方を、時間をかけて懇切丁寧に説明し、理解者、同調者を少しずつ増やし、自分の側の意見がむしろ多数者となるよう、努力を重ねること」。もうひとつは、「自分の論理の誤りや未熟さを認め、多数者に従うこと」だ。
だが、人が「行動による一撃」にいたる場合、例えば以下のような変遷を経て、「自分は被害者だ」というわけのわからない発想に至ることがある。こうした人間は「地道に理解者を増やす」という基本的な努力をしないくせに、正義の味方ぶりたがる。
1)多数者に対する不満がある
2)自分が少数者であり、「被害者」でもあるという「自覚」がある
3)被害者が救済されることが、社会正義だと「確信」している
3)自分の「主張」が絶対的に正しいという「自負」がある
4)自分が「劣勢」に立っているという「苛立ち」がある
5)正しいはずの自分の主張が認められず、ますます肩身が狭くなっているのは、世の中のほうがおかしいからだ、という「怒り」がある
6)大多数の人が間違った方向に進んでいていることで、世の中が非常に危険な状態になってきていると「警告」を発したい気持ちが昂る
7)警告のためにも、せめて行動によって「一撃」を加える必要があると感じはじめる
8)実際に「行動」して、世間に自分の存在を「行動の一撃」という形で示す
9)その「行動」が「加害者」として扱われたら、自分は「むしろ被害者だ」と、逆ギレした説明をして、被害者ぶる
ひどく乱暴で自己中心的なヒロイズムにすぎないこうした論理展開には、自分を正当化するヘリクツが散りばめられている。
「近代国家において多数者になるための方法」は、こういうヒロイズムに浸りながら「行動の一撃」を実行することではなく、自分の主張を他人に説明し、広く理解を得て、理解者を増やしていくこと以外にない。
「多数者が間違っていて、自分が正しい」、「世の中を正しい方向に引き戻したい」、ゆえに、「行動によって一撃を加える」、「目的が正しいのだから、手段は何であろうと、結果は正当化される」などと、自分の内部だけで妄念を次々と飛躍させていく行為は、まったくもって間違っている。
政治的な主張をしたければ、今の時代、いくらでも方法がある。スポーツスタジアムや劇場を政治利用すべきではない。劇場を利用した俳優は、自分の身勝手な行為が「劇場という場所が長年努力して築きあげてきた自由」をむしろ損なった、と考えるべきだ。
ブログ主は、もし仮にMLBのゲームで、投手がマウンドで自分の政治的主張を主張するプラカードとかを広げた、なんて事件が起きたら、その選手を出場停止処分にすべき、と考える。観客が同様の行為をテレビカメラに向かってやった場合も同じだ。スタジアム出入り禁止にすべきである。
娯楽の場所は、討論のための場所ではない。政治は別の場所でやればいい。
スタジアムであれ劇場であれ、場所には場所のモラルやポリシーがある。その程度の簡単なルールすら守ろうとしない無礼さは、場所の威厳や統一性を著しく壊し、無意味な賛否の議論こそが人を分断に導く。
無頓着に「場所のモラル」の破壊を行う人間に「分断」を語る資格などない。分断を招くのは、たいていの場合、意見の相違ではない。意見の相違なんてものは、いつの時代にもある。
むしろ分断の責任は、ロンドン五輪の男子サッカーがそうであったように、あえて挑発に出て「行動の一撃」を強行する側にある。ひとつの国の内部に無法状態や冷えきった対立をまねきいれる行為に重い責任が問われるのは当然のことだ。
November 17, 2016
腕が太くなると加速させるのに不利だから速い球が投げられなくなる、と言う人はA.Chapmanの腕の太さと体幹の太さを比べてみたことはあるのかね。腕は振られる物だから細い方が速く振れるっているのは、ちと安易すぎやしないだろうか。 pic.twitter.com/DNNnln0VuH
— Koyamada Takumu (@3em27) 2016年11月15日
>RT この件については既に考えたことがある。
— damejima (@damejima) 2016年11月17日
人間のカラダは「回転する」ようにできてる。例えば走るという動作は一見すると直線的に見えるけど、実際の足の動きは回転している。これはクルマでも自転車でもまったく同じなのだ。エンジン自体も回転をピストン運動に変えているだけだ。
上のツイートから続く一連のツイート群は、自分にとっては野球(というか、ベースボール)を見る上でけっこう重要な視点なので、改めてブログに記事としてまとめておくことにした。もちろんツイート時とは表現が変わったり、表記の誤りを正したりしている。
日本的なフォームで投げる投手にとって必要なのは「しなる腕」だが、MLB的なフォームの投手にとって「太い腕」は大事だ。その背景には野球文化の違いがある。
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人間のカラダの動作は基本的に「回転」でできている。
「自転」にrotation、「公転」にrevolutionという単語を使う慣習からすると、例えば肩関節の回転は、軸が「自分側」にあるから、rotation だろう。
手足の根元には、肩とか股関節といった、「回転するようにできたジョイント」があって、そこに「長い棒」、つまり、「足」や「手」がついて、大きくグルグル、グルグル回せるようにできている。
背骨を含む体幹は手足ほどダイナミックに動けない。だが、そのかわり手足よりも複雑な制御ができる。だから複雑な動作の精密な統御は、手足だけに依存するのではなく、「体幹メインで操作」したほうが、「より正確」になる。
例えば内野手がゴロ捕球を「小手先」でやろうとするとハンブルの原因になりやすい。これは、「腕というパーツの構造」が「人が思っているより不自由にできていて、細かい制御に実は向いてない」ことを意味している。
人はよく、「日本人の指先の器用さ」と「腕全体の動きの制御」が「まったく別次元の話であること」を忘れてモノを考えてしまうのだが、「腕も、指先と同じレベルの精密さで動かせる」などと勘違いしてはいけないのである。
手の指先が精密に動かせるのは、「関節と関節の距離が非常に短い」からだ。もちろん視点を変えればそれは、関節が密集しているという言い方もできるわけだが、指の旋回が容易になるのに最も本質的な要因は、「ジョイントの多さ」ではなくて、「ブラケットが短い」ことだ。
ただ、「回転」とはいうものの、人間の手足は、自動車のタイヤのように、「軸を中心に、ただひたすらグルグル回転する」わけではない。
例えば、人間の「走る」という動作では、関節と足は「弧を描いて、動いては、元に戻る」を「繰り返し」ている。「円の一部を反復トレースしている」といってもいい。
この反復によって、人間は「回転という動作」を「身体全体を直線的に移動させる」という動作に「変換」しているわけだ。描く弧の大きさによって、その人のストライドが決まる。
この、「関節を中心にした回転運動を、直線的なパワーに変換する動作システム」は、スポーツにおいて非常に多く使われている。
(蛇足だが、こうした「回転運動を直線的な動きに変える仕組み」は、自転車や自動車、電車など、人間がこれまで作り出してきた「人体を遠くに移動させる装置」においても、非常に多く用いられてきた)
例えば、野球の投手は腕を回してボールを投げるが、この動作の「目的」は、ボールを「狙い通りの方向に」「まっすぐ」「高速に」移動させることにある。
他にも野球のバット、卓球やバドミントンのラケット、ゴルフのクラブなど、どれも回転させて振りまわす動作をともなうわけだが、大事なのは、その動作の「目的」が、ボールやシャトルに「直線的なスピード」「飛距離」「方向のコントロール」などを与えることであって、身体の回転動作そのものが目的ではない。
いいかえれば、「スポーツにおける人体の手足の回転動作」それ自体は、「人体の有限な動作から直進モーメントを取り出すための方法論のひとつにすぎない」のであり、「目的」ではない。野球は、身体の柔軟性それ自体の維持・向上を目的とするラジオ体操とは、目的が違う。
また、スポーツにおける「ミス」は、かなりの数が、この「回転運動を直線運動に変えるときの誤動作」に起因している。
投手が肘や肩に故障を抱えやすい原因も、この「回転」という話をもとに考えると、なにも「酷使」だけが原因ではなく、「回転運動を直線運動に変換するメカニズム自体のパワーを、過度に上げようとしたときに起こる、靭帯や間接の破損」だと思えばいい、という部分がある。
話をもう少し絞る。
投げて打って走る野球というスポーツでの「回転動作」で代表的なのは、投手なら腕の振り、野手でいえばバットスイングだろう。
まず投手の腕の回転運動について。
投手の腕の動きについて、日本には「できるだけ高速で腕を回転させてこそ、ボールに加速がつく」という考えがある。だからこそ、「腕の振り」という言葉が重くみられることになる。
例えば、かつて松阪大輔の昔のフォームについて書いたことだが、彼はサード側に足を蹴り出しながら、ボールを持った手をいちど「右腰の下まで降ろして」それから投げていた。
参考記事:2011年3月24日、「やじろべえ」の面白さにハマる。 | Damejima's HARDBALL
参考記事:2010年10月26日、クリフ・リーの投球フォームが打ちづらい理由。「構えてから投げるまでが早くできている」メジャーの投球フォーム。メジャー移籍後のイチローが日本とはバッティングフォームを変えた理由。 | Damejima's HARDBALL
これは、球威を「腕を振る」ことに大きく依存しようとする、つまり、腕をできるだけ高速に、しかも長時間回転させ続けることで生じる『はず』の加速度を最大限に利用しようとする」ことからきている。だから、「ボールは、非常に長い距離を、円を描くように移動して、それからリリースされる」ことになる。
こういうフォームの意味は、アメリカのアーム式の投手と比べてみると、発想の根本的な違いがわかる。
例えばデレク・ホランドのようなアーム式フォームでは、腕は、松坂大輔のように「腕を、肩関節を中心に1周させる」のではなく、「手を腰の下に下げる時間帯を持たず、腕を高くキープしたまま後ろに引いて、そこから直線的に投げだす」。ボールは「より短い距離を直線的に移動してリリースされる」ことになる。
ゆえに、当然ながら両者の「投球リズム」も大きく異なる。松阪のように「肩を中心に腕が一周する」場合は、「1、2、の、3」というリズムになり、アーム式では「もっと早いリズム」になる。
バッターにとってタイミングを合わせやすいのがどちらのタイプかは、バッターごとのタイプにもよるから一概に言えないだろうが、少なくとも、大半の投手が短いタイミングで投げてくるMLBでは、小笠原道大のように悠長にバットをこねくりまわすフォームで打つのは難しい。
もし、投手が球威の大半を「腕の回転による加速」に依存するなら、「腕の回転スピード」、つまり「腕の振り」が重要だろう。
だが、腕の回転にあまり依存しないなら、腕という「半回転アーム」の「強度を上げる」こと自体にも重要な意味がでてくる。「MLBのピッチャーの腕が太い」のには意味がある。
バットの回転運動
王貞治のバッティングは、バットがミートポイントに向かって「ものすごく直線的に向かうダウンスイング」だ、だから凄いんだと、思い込んでいる人が数多くいる。「一本足打法」というネーミングの直線的なイメージから、バットも「スイングの開始時点では、直立したまま」でスイングしていると思われているわけだ。
だが、いちど動画で確認してもらうとわかるが、この人のバットは「いちど大きく寝て」、それからカラダの後ろを回りこむような軌道でスイングが始まっている。「ドアスイング系のスイングをする落合や張本は、バットを一度寝かせてから振っているけれど、王のバットは一度も寝ないダウンスイングだ」と思い込んでいる人は非常に多いわけだが、もう一度、自分の目で確かめるといい。
日本の投手が「腕の回転による加速」に依存して投げるのと同じで、日本の打者はおしなべて「バットの回転速度」で遠くに打とうとする。そのためか、投手の能力を「腕の振りだけ」で語ろうとする人が多いのと同じで、バッティングを「スイングスピードのみ」で語ろうとする人が、はなはだ多い(笑)
だが、バリー・ボンズとかハンク・アーロンの分解写真でも見てもらうとわかるが、彼らのスイングは「バットを円を描いて振りまわす」イメージではなく、「ボールがバットに当たってから直線的にグイっと絞り込むような強さ」に特徴がある。だから打球にも、よく日本でホームランバッターを表現するときに使う「弧を描く」という表現が、彼らにはあてはまらない。
例えばもしバットが「中まで詰まった鋼鉄の棒」だとしたら、なにも必死にスイングスピードなんか上げなくても、きちんと当たりさえすれば、ボールはスタンドどころか場外に消えていく。だがそんな重いもの、自由には振れない。
では、木製バットに「中まで詰まった鋼鉄の棒」と同じような効果を与えるにはどうしたらいいか。(「腕力でチカラいっぱい支える」というのは、この場合に限って正解ではない。MLBの投手の球は重いのだ)
例えば、バットに当たった瞬間からバットからボールが離れる、ほんの短い時間帯に「バットがまるで中まで詰まった鋼鉄のように強靭」であるなら、なにも必死にスイングスピードを上げる必要はない。腕力に頼るだけのバッターより、スイングそのものはゆったりなのに打球が遠くへ飛ぶバッターのほうが、楽に長打を打てる。
(ことハンク・アーロンの場合は、ウラジミール・ゲレーロにも感じたことでもあるが、バットにボールが当たった「後」の強さ、特にグリップを絞りこむ手首の強さに秘訣があるように思える)
まとめると、投手、打者、いずれにしても、肩や股関節のような関節を軸に、円を描いて行なわれる「手足の回転を、直線上の加速に変換する」過程の巧拙に野球思想の違いや技術の差が出るし、怪我やミスが出現する。なにもバットスイングや腕の振りといった「回転運動のスピード」だけが野球ではないのである。
最初に内野手のゴロ処理のミスについて書いたように、「関節」と「棒」を交互につないだ形状でできた人間の手足は「思ったほど精密に動きをコントロールすることができない身体パーツ」だ。
ならば、スイングスピードや腕の振りといった「回転運動のスピード」だけに依存するフォームは、思ったほど自由に動かせない手足への深すぎる依存を意味する。
日本人野手の打撃成績低迷やミスの多発、日本人投手の怪我の多さをみると、日本野球における「動作に関する思想」は、もうそろそろ発想を変えないと、どうしようもない時期にきている。
November 12, 2016
まず最初に、たくさんの紋切り型の断定を含んだ一般常識的な前置きとして、「安い商品の追求と、雇用や国際競争力の関係」について書こう。
この話を「グローバリズム」という単語だけを使って説明したがる人が数多くいるが、「安い商品の追求」という視点を入れないとメカニズムがハッキリせず、話がわかりにくい。(ゆえに、以下の話は単なる反グローバリズムではない)
ちなみに、2016年6月に書いた以下の参考記事を読んでもらえばわかることだが、以下の話はなにもトランプが大統領になったから思いついたわけでは、まったくない。世界の動きはイギリスがEU離脱を決定するだいぶ前から既に「それまでとは大きく違っていた」のだ。
「グローバル企業というものは『雇用を外部化』する傾向にあるのが普通なのであって、彼らは世間の批判をかわすために正社員を増やす例外的なとき以外には、常に『正社員という、ある種のローカリズムにできるだけ依存しないですむ内部構造をとろう』とする。」
(イギリスの若者は)「よく考えもせずグローバリズムを安易に支持したりする前に、『グローバリズムと国内雇用が果たして両立するものなのかどうか』、じっくり考えておくべきだ。」
2016年6月25日、EU離脱を後から愚痴るイギリスの若者を見て世界中の若者が思い知っておくべき、グローバリズムと雇用の関係。 | Damejima's HARDBALL
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安い商品とは何か。
原価の安い商品だ。
原価を下げる最大の原動力は何か。
安い労働力だ。
(「安価な原材料」という答えもある、と思う人が数多くいるだろうが、原料の安さというのは元をただせば安い労働力が源泉だ。また、労働力の安さには、外食産業でみられる異様なほど長時間のサービス残業なども、もちろん含まれる)
では、安い労働力はどこにあるか。
先進国以外の国にある。
安い商品の調達のために海外生産率と輸入依存を高めることは、安い労働力の調達のために生産拠点を海外に移すということだから、結果的に先進国の雇用を発展途上国に移転することを意味している。
(これが一種の「国際的なワークシェアリング」であるのは確かだが、実際には、雇用だけでなく、生産技術や設備投資も先進国から発展途上国に移転されるのであって、そんな悠長な話をしている場合ではない)
「安い商品」の追求は、
国内経済に2つの結果をもたらす。
国内雇用の減少と国内生産商品の国際競争力低下だ。
雇用不安に常に怯える低所得層(あるいは若年層)は生活防衛のために「安い商品」を追い求めることがよくあるわけだが、その安さ追求の姿勢が結果的に国内生産と国内雇用の海外流出をまねき、国内の低所得層の雇用を減少させ、不安定化させるわけだが、そのことはなかなか低所得層自身に理解されない。(ただし、よく誤解している人がいるが、この話とデフレの善悪とは、基本的に関係ない)
また、低価格競争を強いられ続けている企業が、安い商品の調達を海外生産や輸入に依存するようになること、さらには自社技術の海外流出を放置することは、結果的にその企業の国際競争力の大幅な低下をまねくことになるが、シャープがそうであったように、そのことはなかなか企業自身に理解されない。
つまり、自分の身に起きていることの原因が、「自分自身のパフォーマンス」である場合、それはなかなか理解されない、ということだ。
そうした事態をみて政府は、得票維持のために、低所得層の保護とか競争力の低下した産業の保護とかと称して、一時金や補助金の支給、一時的な減税などを行う。いわゆる「再分配」というやつだ。
当然ながらこうした政府の臨時支出は本質的な解決にはならない。
政府収支は悪化するし、国内雇用の質や量、企業の国際競争力がこうした再分配によって向上することは、ほとんどない。
そうこうするうち、やがて、先進国の雇用移転先である海外の発展途上国自身は、先進国の製品と生産手法を「コピー」して自国製品を製造・輸出するようになり、海外に生産拠点を移した先進国企業の国際競争力は完全に失われる。
また、海外の途上国から先進国にたくさんの出稼ぎと観光客と犯罪者が来るようになる。雇用は海外に移転できても、モラルは簡単には移転されないのである。
(出稼ぎ者と観光客では国内経済にとっての意味は異なるが、ここではふれない。もちろん出稼ぎ者は「代替品」として国内の雇用をさらに奪うことになるし、また、社会保険料や税金をマトモに納めることもないから、自治体や国の財政悪化の原因にもなる)
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ここまで書いたことは、「本来なら」あくまで概論にすぎない。「本来なら」世界のすべてがこれで説明できてしまうわけではない。というのは、上に書いた論理には、さまざまな論理の破綻や弱さ、強引な決めつけ、誤り、数多くの例外があるからだ。
ところが、たいへん問題なことに、こんな「風ふけば桶屋が儲かる式の、シンプルなだけの出来のよくないロジック」によって「この20年ほどの間に世界経済で起きていたことの、かなりの部分」が説明できてしまう。「間違いだらけで単細胞な時代」が、この10年から20年もの間、続いてきたからだ。
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ここまで説明しても、まだ理解できない人がいるかもしれない。さらにわかりやすくするために、「上に書いた論理にそわない例」でも挙げてみる。
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上に書いた国際的な雇用移転サイクルは、必ずしもすべての産業分野、商品分野で起こるわけではない。
例えば、食肉の生産においては、アメリカやオーストラリア、カナダといった先進国で国内生産の優位性が保たれ続けている。
海外の安い労働力に依存する労働集約的生産を行うことによって低価格を実現するのではなく、大規模化や機械化で「ヒトへの依存度を減らす」ことによって国内生産の優位性を維持しているからだ。
(欧米の大規模農業はエコでないと批判する人がよくいるわけだが、では、コメをはじめとして農薬をまきまくって連作しまくっている日本の零細な農業がどれだけエコロジー的かと問いたい。もちろん「エコロジー」という思想自体が胡散臭いことは、いうまでもない)
また、日本においても、裾野が非常に広い産業分野である自動車は、歴史的に非常に多くの国内雇用を維持してきた。
これは、日本の自動車産業において、コスト監視やムダの排除が非常に強い企業文化の伝統になっているためだ。日本の自動車産業では、被雇用者自身が生産現場で行う非常にきめ細かい自助努力によって、作業のムダが徹底的に省かれ、ヒトに依存した低品質の生産ではなく、ヒトにしかできない高品質な生産が実現され続けている。いわば日本の自動車産業における国内雇用は、働く人たち自身の自助努力によって守られてきたのである。(もちろん企業側の管理能力も高い)
こうした事例がある一方、近年倒産を連発してきたアメリカの小売チェーンはどうか。
家電、スポーツ、衣料、書籍など、アメリカの一般庶民の身近にあった専門小売チェーン店が近年バタバタ倒産している。シアーズ、ペニー、タワー・レコード、サーキット・シティ、ボーダーズ、ゴルフスミス、スポーツオーソリティ、レディオシャック、アメリカンアパレル、ダフィーズ。
こうしたチェーンは製品の多くを中国の安い労働力に依存することで、アメリカの国内雇用を中国に「輸出」してきた。反面、こうしたチェーン店の多くは、欧米の食肉生産や日本の自動車にみられるような「安い労働力のみに依存しない強い経営体質」を実現することはなかった。
また、よくアメリカの小売チェーン店の不調ぶりはアマゾンやウォルマートに売り上げを食われたのが原因などと書く人がいるわけだが、では、アマゾンやウォルマートが好調なのか。
そうでもない。
実情は、お互いのパイを奪いあった結果、寡占化が進行しただけの話なのであり、規模拡大競争に勝ちつつあるアマゾンやウォルマートすら、いまだに低価格競争から逃れられてはいない。
視点をちょっと変えてみる。
「海外への雇用移転」「国内競争力の低下」をまねく「安い商品」は、同時に、「遠くの国から先進国に輸送が必要な商品」でもある。
いいかえると、いくら人件費の安い国で生産したからといっても、先進国への輸送コストはゼロにはできない、海外生産商品を国内に輸送するコストは商品代金に上乗せされる、ということだ。
そこに目をつけたのが、先日破綻した韓進海運のような中国韓国の新興の海運業者だ。韓進海運が破綻してコンテナが港で立ち往生したとき、コンテナの荷主がアマゾンやウォルマートであることがわかったのは、当然の成り行きだ。
また、ウォルマートとの蜜月を続けてきたオバマ政権が中国を甘やかし続けてきたのも当然の成り行きだ。
参考記事:2015年2月7日、「陰謀論愛好家」を公言してしまい、ちょっと火傷してしまったチッパー・ジョーンズ。 | Damejima's HARDBALL
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ここに書いたことは、ニュースを読んでいれば誰でも頭に入る、そして頭に入っているべき、初歩的なことばかりのはずだ。
だが上でも書いたように、「自分が日常やってきたことと、自分の身にふりかかっている事態との間に、少なからぬ因果関係が存在すること」が、働く人であれ、企業であれ、当事者たちに「あなたがた自分自身が当事者である」と把握され、意識されだすのに、10数年から20年もかかっているのが実情なのである。
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今回の大統領選は、この数十年に醸成され続けてきた、さまざまな「既得権」の問題を世間にさらすことになる。
国内雇用の減少は主に「若年層」にふりかかる。一方で、雇用が海外に移転されるグローバリズム時代が来る前に、キャリアを終身雇用のもとで終えた老人たちが国内にわんさかいる。老人たちは分不相応な額の年金をもらいながら、あいかわらず自動車で若者を轢き続けているわけだが、その「老人に轢かれる側の若者」が「福祉国家」などというコンセプトにいつまでも期待してくれる、などという発想は、それ自体が、メディアの世論誘導や、既存政治家の幻想にすぎない。
予想屋ネイト・シルバーやニューヨーク・タイムズはじめ、既存メディアがトランプ勝利を予測できない原因のひとつは、出口調査自体の信頼性が失われていることよりも、むしろ、「彼らの分析や記事が、データや取材より記者個人、あるいは、メディア側の期待値が大きく反映したものになっていた」ことにある。これは今に始まったことではない。
彼らが「自分の期待値を、そのまま記事にしてしまう」原因は、彼ら自身がトランプ勝利を期待しないクラスターや人種層出身であるケースや、アメリカの既存メディアにおける中国資本支配が進んだこともあるし、また、慰安婦問題において無根拠なデマ記事で長年日本の世論を誤誘導して国益を損なってきた朝日新聞、東京都知事当選後に汚職に手を染めた猪瀬直樹がそうだったように、ジャーナリズムなんてものはとっくに死んでいるということもある。
逆にいえば、ジャーナリズムの死を「読者に気づかせない」ほど、マスメディアは既得権として非常に長い間維持されてきたし、彼らの能力は過大評価されてきたのである。
いずれにしても、「人がうすうす感じてきたこと」は今後、トランプ登場を契機により鮮明なカタチをとって表現されることになる。今後が楽しみだ。
October 30, 2016
ゲーム後の勝利監督インタビューで日本ハムの監督である栗山氏が言ったように、自分もこのシリーズでは「いろいろなことを学ばせて」もらった。
酷いものだ。
本人、自分の吐いた言葉の「酷さ」に気づかないまま、クチを開いているのである。自分はこのチームのファンでもなんでもないが、もし自分がこのチームのファンだったら罵倒する程度では済まさない。
形を変えて考えてみればわかる。
例えば、この「戦い」が戦争だったとする。
もし、負けた側の代表者が、敗北の直後に「いろんなことを学ばせてもらった」などと軽率に語ったら、どう感じるか。
『敗者は、勝者と同じ言葉、同じ土俵で語ってはならない』のである。それが敗れるということの「重さ」だ。
敗北の重さにまみれること、それは敗者に求められる「矜持」とか「モラル」であり、また同時に、「勝つためのオリジナリティ」に深くかかわる。
近年ワールドシリーズに勝ったカンザスシティ・ロイヤルズの独特の戦い方(参照:2015年4月14日、昨年のワールドシリーズ進出がフロックでなかったことを証明し、ア・リーグ中地区首位を快走するカンザスシティ・ロイヤルズの「ヒット中心主義」。 | Damejima's HARDBALL)を見てもわかることだが、いまや勝利のために必要なものは、おざなりな戦力補強や月並みなデータ分析ではなく、『オリジナリティ 』だ。
(間違ってもらっては困るが、「オリジナリティ」という言葉にビリー・ビーンは含まれない。あれは単に「もともとチームスポーツの才能のまったくない数字オタク」にすぎない)
考えてみてもらいたい。
勝者が 「相手から学ばせてもらった」 と語るのは、「余裕」のあらわれであり、「謙虚さ」でもある。
だが、それは「敗者に用意されたポジション」ではない。ありえない。
本来、敗者は、土砂降りの雨で消えた焚き火から泥まみれの炭を指で拾い上げるように、自分の敗北そのものの中から言葉を見つけるべきだ。
「敗北を喫した立場であるにもかかわらず、勝者の弁を二番煎じする」ような安直な人物に、矜持も、モラルも、戦略も、プライドもない。プライドの欠片すらないから、そういう安直な言葉を吐けるのである。そういう人間は「自分が負けた理由」が骨身にしみてわかっていない。だから勝者の弁を二番煎じするような、馬鹿げたことができる。
立派に敗者たる、ということは、自分独自の言葉を持たない、プライドを持たない、ということではない。
むしろ、自分の言葉を持たず、持とうと常に努力することの意味を知ろうともしない、だから『敗者』なのである。
August 11, 2016
それは、「英語を話す」という表現をしたとき、多くの人が「英語を聞き取ること」と「英語を話すこと」、2つの「まったく異なる能力」を、「両方が両立すべきものと即断してしまう」ことだ。
「英語的な硬質のロジックを使って話す、発信すること」は、世界のどこにでもある普遍的な方法論ではない。にもかかわらず、英語でしゃべる、つまり「英語的発想で発信する」のが当然で、英語的な論理でしゃべれないのは、その個人の能力の無さが原因などと、すぐに思いこんでしまうのである。
そんなわけはない。
たしかに「日本人にとって、英語を聞き取ることは、英語を話すことより簡単」だと思うが、それにはもちろん「理由」がある。
英語の「硬質で構築的なロジック」は、話す側の人の「意図が見える」ようにできている。だからこそ、英語を話す人が自分に話しかけてきたとき、相手の意図を受け止めること自体は(修練はもちろん必要だが)それほど難しくない。
だが、「英語を話すこと」は、こと日本人にとって「聞き取ること」に比べて容易ではない。その理由は、従来、英語経験の少なさとか、習得した単語やイディオムの少なさ、トレーニングの未熟さなどに原因があるとされてきたわけだが、そうではないと思う。
ブログ主が言いたいのは、「聞く」より「話す」ほうが技術的に難しいとか、英語を毎日話すことのできる環境を身近に整えるのが簡単でないとか。そういうたぐいの話ではない。
もし英語という言語の持つ「ロジックの構造」が、「英語とかなり異なるロジックの仕組みをもつ日本人」にとって、「受信するのはたやすいが、発信するのは容易ではないシステム」だとしたら、どうか、ということだ。
説明のための「たとえ話」として、「建築物における骨組み」と「折り紙の折り鶴」を比較してみる。
英語におけるロジックの「見え方」は、建築物でいう「骨組み」に似ている。
建築の「骨組み」はたいていの場合、その建築物の「完成時の外観」をなぞったカタチをしている。別の言い方をすると、「骨組みさえ見れば、完成形がどういう建物になるか、だいたい予測できてしまう」わけである。「四角い」骨組みからは「四角い」建物ができ、「丸い」骨組みからは「丸い」建物ができる。
この「相似性」は、「生物の骨格というものが、だいたいその生物のカタチをしている」のと、まったく同じ現象だ。魚の骨格は「魚のようなカタチ」をしており、キリンの骨格は「キリンのようなカタチ」をしている。建築物と骨組みの関係は、「生命体と骨格の関係」のアナロジーにほかならない。
この「建築と骨組みの相似性」は、英語におけるロジックの見え方を示している。つまり、英語の文章においては、話者の言いたいことは「ロジックという硬質な骨組み」によって「目に見えるカタチ」で示され、ロジックを把握することで話者の言いたいことがおおまかにわかるようになっている、ということだ。
では、「折り鶴」はどうか。
「日本語の骨格」は、どこにあるか。
「折り鶴」では、最初に「斜め二つ折」にして、次も同じように「斜め、二つ折」して、徐々に最終形に向かっていく。
では、最初の「斜め二つ折り」と、最終形である「折り鶴のカタチ」には、「建築と骨組みの相似」や「生物と骨格の相似」にみられる「直接的なカタチの相似性」はみられるだろうか。
みられない。
最初の「斜め二つ折」という行為だけからは、「最終形の折り鶴のカタチ」はまったく想像できない。
では、折り鶴の完成形と、最初の斜め二つ折という手順の間には、まったくなんの関連も存在しないのか。
そうではない。
たしかに、建築と骨組みの関係における「目に見える相似性」と違って、「折り鶴」の最初の段階における「斜め二つ折」という行為からは、「最終的にそれがどんな形になるのか」が見えてこない。
だが、「三角形を基本モチーフとして制作する」という意味では、「折り鶴」において、最初の「斜め二つ折」の「抽象性」と、最終形の折り鶴の「具象性」との間には、「単なる見た目からはわからない、つながり」が連綿と存在している。
つまり、折り鶴を折るという行為は、「三角形を作っては、開く」という「抽象的」なプロセスを反復しながら、それがいつしか「折り鶴」という「具象的な自然模写」に至って完成するという、複雑なプロセスなのだ。
建築物の骨格と折り鶴の比較によって言いたいのは
こういうことだ。
「日本語における論理の構造」は、いわば「平らな折り紙をおりたたんで、立体的な鶴にしていくようにできている」のであり、英語とは大きく異なるということだ。
いつものように長い話になったが(笑)、ここでようやくイチローが通訳を使う意味がみえてくる。
ロジックが正確に通訳されていれば、ニュアンスは違ってもいいじゃないか、と思う人がいるかもしれないけど、それは違う。なぜなら、日本語っていうのは「ニュアンスの中にロジックを折りたたんで、しまっておくものだから」だ。折り紙が日本で発達してるのは、そういう意味だ。
— damejima (@damejima) 2016年8月8日
建築にとって鉄骨がロジックだから、ロジックがしっかり伝われば細かいことはいいじゃないか、っていう意見の持ち主では、日本語は理解できないと思う。折り紙で、しっかり折りたたんでいくからこそ、最終的にできた鶴が「美しい」わけで、しっかり折らないとダメなのさ。プロセスに美があるわけ。
— damejima (@damejima) 2016年8月8日
いちいち例を挙げるのが馬鹿馬鹿しいので止めておくが、イチローが英語を聞きとり、日常的に話せること、またそれどころか、スペイン語についてもトラッシュトークできるほどのレベルにあることは、既にラウル・イバニェス、デビッド・オルティーズはじめ、多くの選手・監督の証言があり、またイチローに好意的なアメリカ記者のメディア記事など、たくさんの証拠が既に出されている。あらためて議論する必要などない。
スポーツセンターのアンカー、ESPNの Todd Grisham が、「イチローの3000安打について印象的だったのは、彼が15年もたって、いまだに進んで英語を習得しようとしてないことだ」などとタワゴトを言っているのは、単なる勉強不足とライトな人種差別に過ぎない。無視していい。
3000安打の会見においても、アメリカ人記者の質問にイチローは通訳を介すことなく、直接答えている。ヒアリングには何も問題はない。
論議になるのは、回答についてであり、英語で返答する能力があるはずなのに、なぜ「日本語で」返し、通訳に英語に訳させているのか、という点だ。
以下に自分なりの解釈を記す。
外国人通訳と仕事したことがある人はわかると思うわけだが、彼らは、日本語話者の意図に「自分なりの解釈」を加えて話したがる。あるいは、話者の表現が英語的表現でない場合、英語的表現に変えて話したがるし、自分が回りくどいと感じた部分は省略してしまう。
また、英語の話者は往々にして「ロジックが同じなら、言い方は変わってもいい」と考えたがる。
だが、彼らは、広い世界には「折り鶴的な言語」、つまり、「ニュアンスの中に意図を織り込みながら、ロジック全体を完成させていく」という、英語と違う論理体系をもつ言語が存在することに気づこうとしない。
ことイチローの場合でいうと、彼の日本語には、彼特有の「迂回したロジック」、「言い回し」、「省略」、「皮肉」、「ユーモア」、「過剰すぎるほどの礼儀」、「オブラート」、「内面と外見の温度差」がある。
これらの特徴をブログ主個人の意見として簡単にまとめるなら、彼の日本語は、ある意味とても「日本語っぽい」が、よく聞いていると、ときとして
笑顔を浮かべず冗談を言うイギリス人のような話し方をすることがけして少なくないのである。(だからこそ、イチローの言葉をアメリカ人記者に伝達する場合、イギリス人とアメリカ人の意思疎通におけるギャップのようなものが発生することがある。イギリス人とアメリカ人は両者とも英語ネイティブだからといっても思考スタイルは同じではない)
加えて、「これまでのイチロー」は「ストレートなモノ言い」をあまりしてこなかったということもいえる。氷山の一角という表現があるように、外部にあらわれた言葉は、彼の内部の大量の思考や感情の断片でしかない。その断片どうしは彼の内部ではつながりをもって動いているわけだが、たまに言葉として発せられる氷山だけで見ると、氷山と氷山が内部でどうつながっているかは、外部からは見えにくい。
そういう、「ちょっと複雑な人間」であるイチローの「通訳」に課せられる「仕事」とは、けして「ロジックさえ同じなら、あとは自分の英語的表現に好きなように変えてもいい」というような意味での、「ギャラの安い通訳がやるような安易な仕事」であるはずはない。
むしろ期待されているのは、「イチロー的な温度」「イチロー的なニュアンス」を、「そっくりそのまま温存したまま、なんとか英語にもっていく」のが、「イチローの通訳の仕事」だ。
通訳の考える「英語的表現」というやつは、往々にして「発言者自身の意図」を逸脱して、発言者の意図にない外部領域が含まれてしまうことも多い。ならば、日本語発言者の意図の英語置き換え作業の「正確さ」にとっては、英語っぽい表現を多用することには実はあまり意味がない。
むしろ、「あえて通訳の存在感をまったく消して、そっくりそのまま通訳してくれる人」のほうが適しているわけだが、我の強い欧米人(笑)にはそういう謙虚な人はけして多くない。
では、「イチローに好都合な通訳」とは結局「直訳すること」なのか、というと、そうでもない。
なぜなら、「イチローにとっての通訳の位置」っていうのは、「ロジックの伝達」というより、むしろ「プレス」として仕事してくれる人のことだからだ。プレスリリースにとって不自然な抑揚など必要ない。
少し「建築の骨組みと折り鶴の比較」に戻ると、「話者のロジックの骨組みさえ見えれば建物全体のカタチは想像できるのだから、ロジックさえ明確に相手に伝われば、細部のニュアンスなんてどうだっていい」という雑な意見の持ち主では、「折り鶴的な構造の言語のもつ微細なニュアンス」など理解できないし、まして、「折り鶴的なロジックを、英語の硬質な構造に変換すること」などできはしない。
「折り鶴的なロジック」において大事なことは、「角と角をあわせて、しっかり折りたたんでいくこと」なのだ。ひとつひとつしっかりきちんと折っていくからこそ、最終的にできた鶴が「美しく仕上がる」わけであり、最初から最後まできっちり折らないとダメなのだ。だからといって、直訳であっていいわけでもない。
最初は英語ネイティブにとってわけがわからない発言であっても、ひとつひとつを丁寧に英語に折りたたんで変換していくことで、やがて「折り鶴の全体像」ともいうべき「イチローらしさ」がたちあがってくるのが見える、そういうのが、「理想的なイチローの通訳の仕事」というものだろう。
英語で聞き、日本語で答える。
このことは、これら2つの言語の論理構造の違いを考慮すれば、けして不自然なことではない。
ここまで書きながらいつも頭に浮かんできたことは、かつてハワイでフラが禁止になった時代があったことだ。
(その歴史の意味については一度ちょっとだけ書いたことがある 2012年8月13日、『父親とベースボール』 (番外編-1) 歌にこめられたダブル・ミーミングの世界。フラ、スピリチュアル、ランディ・ニューマン。 | Damejima's HARDBALL)
日本人にとって、日本人っぽいしゃべり方というものは、ハワイでいうフラに近いんじゃないか。だからこそ、自分ぽくしゃべること、それ自体は、なにも間違ってはいない。それは和製英語は現地ではまったく通じないからやめるべきだというのとは、意味がまったく違う。
(むしろ、自分らしくしゃべれること、それこそが、本当は英語上達の早道ですらあると思う。自分の意見の無い人が英会話だけ上達しようと思うこと自体が間違ってる)
今回書いたようなことを「論理」として提示するのはなかなか簡単ではない。
なぜなら、日本人としての「折り鶴的な論理のやわらかさ」を守りながら、「英語的な、つまり構築的な論理しか理解できない、固い頭脳の持ち主たち」に「わかるように説明」しようとすることは簡単ではないからだ。
だが、なんとか「折り鶴のたとえ」の発見で、カタがついた、と考える。
なにも「聞き取れるからといって、それを英語で話せなければ会話したことにならない」ということはないのだ。むしろ、相手の聞きたいことをきちんと聞いて、自分固有の言いまわしで答えたければ、それが何語だったとしても、何の問題もない。それくらいのブレない気持ちで臨まなければ気持ちの上で負けてしまうのが、国際的な舞台におけるコミュニケーションというものだろう。
Copyright © damejima
(実は、この記事、2016年6月に書き始めていたものだ。だから、この2人の引退を前提に書いたわけではない。なんとも象徴的な8月だ。
また最初にことわっておきたいが、以下の文章は「マーク・テシェイラが一塁手として二流の役立たずだった」と言っているのでは、まったくない。むしろ彼は、怪我に悩まされなければ、2000年代以降で最も優秀な一塁手だったと思うし、ブログ主は今でも彼のファンだ)
一塁手とかDHに得点力を依存する時代は終わっていることに気づきもせず、常識にとらわれたままチーム編成をしているような馬鹿なチームは終わっていくのだ。
2016ナ・リーグ ポジション別WAA
2016 National League Season Summary | Baseball-Reference.com
2016ア・リーグ ポジション別WAA
2016 American League Season Summary | Baseball-Reference.com
2つのグラフは2016年6月時点でのポジション別WAA(=勝利貢献度を表わすWARの算出のための数値)を表している。データが少し古いのはとりもなおさずこの記事を2016年6月に書き始めたなによりの証拠だ(笑)
青色の円は「プラス」、赤色の円は「マイナス」を示し、また、円の「大きさ」が平均をどれだけ上回っているかという値を示している。
注:評価は打撃だけでなく「守備」も含めたものになっている。だから、例えばDH制のないナ・リーグでは投手の評価に「打撃を含む」し、一方、DH制のア・リーグでのDHの評価は「打撃のみ」で決まってくる。
見た目から、まず以下のようなことがわかる。
●両リーグ共通の「貢献度の高いポジション」は
先発ピッチャー、センター、サード、セカンドなど
●逆に、両リーグ共通の「貢献度の低いポジション」は
キャッチャー、ファースト、レフト
●ナ・リーグのゲームはほとんどが先発投手の出来に左右される
●「頼れるDH」なんてものはいまや、ほんのわずかしかいない
●一塁手は、もはや「スラッガーの定番ポジション」とはいえない
項目の中で、ブログ主が最も印象深いと思うのが
一塁手とDHの「地位の低下」だ。
今のMLBは、センター中心に外野手の活躍が目立つ。
ブライス・ハーパー、マイク・トラウト、ジャンカルロ・スタントンだけでなく、売り出し中のデクスター・ファウラー、ジョージ・スプリンガー、マーセル・オズーナ、ムーキー・ベッツ、ジェイソン・ヘイワードも外野手だし、既存のヴェテランにも、ホセ・バティースタ、アダム・ジョーンズ、ユニエス・セスペデス、アンドリュー・マッカチェン、そしてもちろんいうまでもない天才イチローと、沢山の人材がいる。
他方、ファースト、サードなど、「従来スラッガーの定番と考えられてきたポジション」の選手層はもはやペラペラに薄くなっている。
例えば一塁手だが、ポール・ゴールドシュミット、ジョーイ・ヴォットーとか、中身の濃いスターが全くいないわけではないにしても、外野手と比べると層の薄さは歴然としている。(サードが本職と思われがちなミゲル・カブレラはメジャーデビューは外野手で、もともとショート出身。サードやファーストが本職ではない)
今の時代の一塁手は、例えば打線の強力なトロントでは1軍半クラスのハンパ選手でしかないジャスティン・スモークがファーストを守らせてもらえるように、「他に与えるポジションがないからファースト」とか、「多少打てるが、守備が下手だから、しょうがなく一塁手」とかいう「とりあえず一塁手」が増えている。
三塁手の選手層にしても、エイドリアン・ベルトレ、ジョシュ・ドナルドソン、マニー・マチャド、カイル・シーガーなどがいるとはいえ、選手層はもはやイメージほど厚くはない。(そういえば、引退するアレックス・ロドリゲスなんていう名前のクズ野郎もサードだった)
では、もともと守備意識の強いポジションである「セカンド、ショート、キャッチャー」はどうだろう。「攻守に秀でた選手」はどのくらいいるか。
セカンド、というと、ロビンソン・カノーやベン・ゾブリスト、チェイス・アトリーなどが思い浮かぶ人がいまだに多いわけだが、いまの時代のMLBで「二塁手のWAA」を引き上げているのは、ジェイソン・キップニス、ディー・ゴードン、ホセ・アルトゥーベなど、20代の若手二塁手であって、けしてロビンソン・カノーが彼の巨額サラリーに見合った貢献をしているわけではない。
ショートにしても、デレク・ジーターが引退し、トロイ・トゥロウィツキーなどにも精彩がなくなったことで、打てるのはクロフォードとかボガーツくらいだし、「攻守に秀でたショート」なんてものをだんだんみかけなくなってきた。
キャッチャーにしても、ジョニー・ベンチ、マイク・ピアッツァ、イヴァン・ロドリゲス、ジョー・マウアーとか、「打撃にも守備にも秀でた名キャッチャー時代」がかつては存在した。
だが今となっては、マウアーの後継者ともいうべき存在だったバスター・ポージーが一塁手に転向してしまって、すっかりキャッチャーは「守備専用ポジション」として定着してしまった感のほうが強い。
今キャッチャーはどこのチームでも「別に打てなくていいから、とりあえず球をしっかり受けといてくれ」という「とりあえずキャッチャー」が当たり前になった感じがある。
こうして眺めてみると、ブライアン・マッキャンとかマーク・テシェイラ、アレックス・ロドリゲスなど「中古のヴェテラン」に大金を注ぎ込んでチーム編成をしてきたヤンキースの選手編成コンセプトが、どれだけ「時代遅れで、馬鹿げたものか」が、よくわかる。
たとえで言うなら、「本人は最先端ファッションを大金出して買い集めたつもり」だが、実際にやっていることといえば、「他人が着たおしてヨレヨレになった古着を買い集めて、おまけに、それを滅茶苦茶なコーディネートで着てみせて、毎日街を鼻高々に歩きまわっている、壊滅的に時代感覚が衰えた、センス皆無な老人」そのものだ。ダサいこと、このうえない(笑)
ヤンキースにおけるマーク・テシェイラの劣化は何年も前からわかっていたことだが、プリンス・フィルダーにしても、今のテキサスにフィルダーとチュ・シンスとハミルトンがいなければもっと早く首位奪還できていたはずであって、ノーラン・ライアンなきあとのジョン・ダニエルズの大型補強はことごとく失敗だ。
「成長の止まった分野」に資源を集中していたら、企業は消滅してしまう。当たり前の話だ。
投資の最適化のルールというものは、「限りある投資を、事業を構成する分野それぞれにおいて見込まれる収益やサービスに見合った割合において実行すること」だ。もちろん、将来の収益確保のために、まだ利益を生み出してはいない新分野に投資することがあるにしても、それは先行投資という意味なだけであり、長期的な収支は「最適化ルール」から外れない。
例えばIT企業が、卓球台を購入したり、オフィスでペットを飼ったりすることにしても、それが許されているのは「社員のリフレッシュのアイデアとして一定の意味はあるから」であり、なにも2017年シーズンにアレックス・ロドリゲスが野球をまるでやらなくても20Mもらえるのと同じように、「毎日卓球だけやって帰宅するアホ社員でも、高額なサラリーがもらえる」という意味ではない。
同じように、新聞のような印刷メディアを買わなくなってきた、そんな時代に、新聞広告に大量の広告費を投資するようなことをしても、なんの意味もない。人の目に触れない広告にカネを払う価値など無いからだ。
こんなこと子供でもわかる。わかるはずだが、そういうことをいまだにやっているマネジメントは確実存在する。
野球という「世界で最も巨大かつ数値化によるデータ管理が進みつつあるスポーツビジネス」においても、あいかわらず「ミスとしかいいようがない投資」「凡庸なマネジメントによるミス」が横行している。
確かに、プレーひとつひとつの「価値」が数値化・可視化され、細かく評価されだしている、それは事実だ。
だが、OPSのようなデタラメな指標、パークファクター、守備補正の根本にある「いい加減さ」でもわかるように、その「価値判断をする人間の判断力そのもの」は実はいまだに正確になど、なっていない。
ブログ主はむしろ「野球におけるスポーツ数値化の流れは、いまや停滞し、それどころか頭打ちになっている」と考える。
プレーを数字で分析する行為が流行したせいで、今の野球ではあらゆる点がきちんと合理的に価値判断されている、などと思っている人がいるかもしれないが、ブログ主に言わせれば、そんなものは「真っ赤な嘘」だ。
実際にやっていることといえば、「ニセモノで、出来損ないの数字」を使い、ひとつひとつのプレーに「間違った価値判断」を下し、ビリー・ビーンがそうであるように「プレーヤーの評価を大きく間違え」、ジョシュ・ハミルトンやプリンス・フィルダーのような「ウィークポイントがすでに全球団に知れ渡っている有名選手」に大金を投資するようなミスを犯して、チームを弱体化するような間違った行為が日常的に行われている。
他方、これは困ったことなのだが、「商品の質と価格が必ずしも比例せず、質の悪いものの価格がむしろ高騰する」というような事態は、たしかにある。
例えばだが、アイク・デービスがそうであるように、「ロクな一塁手がいなくなってきたことによって、かえって、平凡な一塁手にすら希少価値が出てきてしまい、二流のプレーしかできない平凡な一塁手やDHの価格までもが高騰する」というような悪例が少なからず見受けられるのだ。
MLBのようなスポーツマーケットでは「限られた人材を多数のチームが取り合う売り手市場」なので、質がまるで見合わないのに、希少価値のみが理由で質の悪い選手の価格が高騰する例は少なくない。
そのヤンキース、アイク・デービスを放流したらしいけど、この選手、ジョシュ・ドナルドソンを放出しちまうような馬鹿GMビリー・ビーンが3.8Mも払った揚句、何の役にも立たないで失敗した選手なのね。そんなダメ一塁手にすら手を出して、すぐにDFAすんのがブライアン・キャッシュマンてわけ。
— damejima (@damejima) 2016年8月11日
だが例えば、突然の地震でびっくりした人がミネラルウォーターやガソリンを買い占めることで一時的にそれらの小売価格が暴騰したとしても、やがて事態が落ち着けば、高値で買い占めた人間は損をこうむることになる。
つまり、希少価値のせいで二流の一塁手が大金を稼ぐなんて事態は、長続きしない、ということだ。
それでも、近い将来ヤンキースはどこかの一塁手とか三塁手に大金を払うことだろう(笑)そうなったとき、彼らにはどこかのブログ主が冷笑しながら眺めていることを必ず思い出してもらいたいものだ(笑)
August 09, 2016
3000安打を目前にしていたイチローが、2016年7月末に、抜けていればおそらく三塁打だっただろうという「2本の長打」を、フィラデルフィアのライト、ピーター・ボージャスの好プレーと守備シフトに阻まれたことは、以下の記事に書いた。
2016年7月26日、イチロー vs フィリー 「3000安打 全力阻止シフト」。3000安打目前のイチローから長打2本を奪い去ったピーター・ボージャスへの拍手。「他チームのセンターには手を出すな」という負の法則。 | Damejima's HARDBALL
イチローのMLB3000安打達成が、野茂さんがかつてノーヒット・ノーランを達成したクアーズで、それも、ホームランではなく、三塁打だったことは、昔から「三塁打こそ野球の華」と思ってきた自分にとって非常に嬉しいことだったのはもちろん、信貴山縁起ではないが、野球というスポーツにはやはり何か「縁のつながり」のようなものがあることを感じたのだ。
3000本が三塁打ってとこに因縁を感じる。2本阻止されてた三塁打がやっと出た。福本さん抜いて、イチローが日本イチの116三塁打。おめでとう #Ichiro3000 #Ichiro116
— damejima (@damejima) 2016年8月7日
イチローと縁のあるHOFポール・モリターの3000安打達成が「三塁打」だったことは日米のメディアがさんざん伝えたわけだが、同じく忘れてもらっては困るのは、日本の「三塁打王」福本豊さん(イチローの116本は日米通算だから、記録上は今も福本さんが日本の三塁打王)は「通算2543安打」で引退なさっているわけだが、その福本さんの節目となった2500安打も、イチローの3000安打達成と同じ、「三塁打」だったことだ。
他にもある。
福本豊さんが「最後の三塁打」を打ったのは「1988年4月8日」の近鉄バファローズ戦5回裏(投手:阿波野秀幸 場所:阪急西宮球場)だが、この1988年というのは、いうまでもなく阪急ブレーブスという球団の最終年でもあった。
この球団の衣鉢を受け継いだのはいうまでもなく今のオリックスであり、そのオリックスの黄金期を作った仰木彬さんが育てたのがイチローなのだから、簡単にいえば福本さんとイチローという2人の「三塁打王」は、球団史的にも「先輩後輩の間柄」にあるわけだ。
さらにいえば、日本プロ野球の「三塁打史」には福本豊さんだけでなく、他にも何人かの阪急ブレーブスの選手が登場する。
例えば、1936年に阪急で「3イニング連続 かつ 3打席連続 三塁打」という、日本プロ野球における唯一無二の三塁打記録を樹立したのは、ハワイ出身で、日本プロ野球「最初の外国人選手」にして、柴田勲に先立つ「スイッチヒッター第1号」でもあった堀尾文人(ジミー堀尾)だ。
堀尾は、プロデビューとなった大日本東京野球倶楽部(=後の巨人)の一員として、沢村栄治やスタルヒンなどとともに1935年の第一回アメリカ遠征に参加していることからもわかるように、草創期の日本野球の第一人者のひとりで、かのBaseball Referenceにも経歴紹介ページがあるほどの選手だ。
ちなみに、当時メジャーデビューの夢を持っていた堀尾は、1936年にパシフィックコースト・リーグのシアトル・インディアンスの入団テストを受けるなどしたが、メジャーデビューの夢はかなわなかった。(1949年に42歳で病没)
Jimmy Horio - BR Bullpen
後列右端が堀尾文人。後列左端から2人目が沢村栄治。前列左端がスタルヒン。Photo courtesy of the City of Vancouver Archives, photographer Stuart Thomas
また、1948年11月1日に「1試合3本の三塁打」という珍しい記録を持っていた川合幸三も、阪急ブレーブスの選手だ。(おまけに川合幸三はイチローと同じ愛知県出身の選手)
こうした「阪急ブレーブスと三塁打」の関係はけして偶然ではない。
プロ野球で1シーズンのチーム最多三塁打の日本記録を持っているのが、ほかならぬ、阪急ブレーブス(66本 1955年)であり、「3者連続三塁打」などという珍しい記録が生まれたのも、同じ「1955年の阪急」(河野旭輝、原田孝一、バルボンで記録。他に1987年ヤクルト、1990年阪神)であり、とにかく「福本豊さんが入団するはるか前から、阪急というチームは、1955年はじめ、神がかったかのごとく三塁打を打ちまくってきた『三塁打の王国』だった」のである。
こうして「三塁打王国の歴史」を追ってみると、むしろピーター・ボージャスがイチローの長打性のライナー2つを捕ってくれていなければ、「ちょうど3000安打で三塁打を打ったイチローが、ちょうど2500安打で三塁打を打った福本豊さんの三塁打記録を抜く」なんていう「劇的展開」にはならなかった気もしてくるわけで(笑)、ボージャスにはむしろ感謝しなくてはならない(笑)ありがとう、ピーター。
いうまでもなくイチローの3000安打という記録は「MLBデビュー後の記録」であり、たったの16シーズンでその大記録を達成できてしまったイチローは「天才」以外の何物でもない。
以前書いたように、イチローがこれほど短い間に3000安打を達成できたのは、「1番打者だったために打席数が多かった」のが理由ではない。それはただの「いいがかり」にすぎない。
2015年8月24日、「ヒット1本あたりの打席数」ランキングでみれば、イチローの通算ヒット数の多さは「打順が1番だから」ではなく、むしろピート・ローズの安打数こそ単なる「打数の多さによるもの」に過ぎない。 | Damejima's HARDBALL
だが一方でイチローの「通算三塁打116本」という記録は、3000安打と違って「イチローが日本でプロデビューして以来の、すべての三塁打の数」なわけだから、「試合数がMLBよりはるかに少ない日本の野球環境の中で、通算115本もの三塁打を打った福本豊さんの「三塁打王としての能力」がいかに凄いか、あらためて驚かされる。
通算打席数/通算三塁打数
イチロー 約122打席(NPB+MLBの打席数で計算)
福本豊 約88打席
いずれにしても、三塁打王国・阪急ブレーブスから、福本豊さん、オリックス、そしていまイチローへと、「三塁打王」の「王冠」が無事受け継がれたことを喜びたい。
Ichiro 's 3000th
— Daren Willman (@darenw) 2016年8月7日
92.6 MPH
Home to 3rd: 12.6 seconds pic.twitter.com/EJNqwNLzup
Congratulations to Ichiro on being named NL Co-Player of the Week! #Ichiro3000 pic.twitter.com/TnzrgDZJpP
— Miami Marlins (@Marlins) 2016年8月8日