August 23, 2010

イチローがメジャーに移籍して圧倒的な勝率をあげて地区優勝した2001年に、マリナーズ監督としてア・リーグ最優秀監督賞を受賞しているスウィート・ルー、こと、ルー・ピネラがカブスの監督を退任した。
【2月24日】1999年(平11) イチロー「1日で帰りたくなくなった」(野球) ― スポニチ Sponichi Annex 野球 日めくりプロ野球09年2月

彼の監督としての手腕の評価や、マリナーズ時代の華々しい実績などは、どうせたくさんの人が論じるだろうし、いまセンチメンタルになっても何も始まらないので、このブログでは、彼がヤンキース在籍時代にレフトとして全ゲームにスタメン出場し、ドジャースを相手に見事にワールドシリーズチャンピオンになった1977年のワールドシリーズの第6戦でもリプレイしてみることにする。
第6戦が行われたのは1977年10月18日で、ここまでヤンキースの3勝2敗。1986年以前の奇数年のワールドシリーズだから、DH制がなく、ヤンキースの投手たちはすべて打席に立った。
October 18, 1977 World Series Game 6, Dodgers at Yankees - Baseball-Reference.com


1977年のピネラは、カンザスシティ・ロイヤルズからヤンキースに移籍して4年目のシーズンで、103ゲームに出場して、339打数、47得点、45打点、12ホームラン。ヒットは112安打で、打率.330、OPS.876と、堂々たる成績のレギュラーシーズンだった。この1977年の打率.330は、結局ピネラのキャリアハイになり、ホームラン12本もキャリアハイ。
ポジション別の出場試合数は、DH43、ライト27、レフト24、ファースト1で、73年にア・リーグで始まったばかりのDHを最も頻繁につとめた。
当時のヤンキースでの彼のポジションはいちおう「ユーティリティ」という位置づけだが、ワールドシリーズも6試合すべてに出場しているように、単なる「守備要員の控え選手」あるいは「守備に全くつかないDH専門打者」という意味のプレーヤーではなく、守備も打撃も信頼された堂々たるレギュラーだったといっていい。
翌年1978年にピネラはレギュラーシーズンに130ゲーム出場、ワールドシリーズも全て出場して2年連続優勝。1979年もレギュラーシーズン130ゲームに出場している。
Lou Piniella Statistics and History - Baseball-Reference.com


さて、
この試合のプロセスをたどる前に、このゲームと大いにかかわりのあるワールドシリーズにおけるDH制の変遷の歴史をちょっと確かめておこう。

MLBのレギュラーシーズンで最初にDH制が認められたのは、1973年ア・リーグが最初だが、当初ワールドシリーズに関してだけは1973年以降もDH制は採用されていなかった。
初めてワールドシリーズでのDH制が認められたのはア・リーグでのDH制採用から3年たった1976年。だからワールドシリーズでのDH制は35年程度の歴史しかない。
しかもワールドシリーズでのDH制の採用当初は「偶数年でのみ、DH制採用」という「隔年DH制」であり、現在のようにホームチームにあわせてDHがあったりなかったりする制度になったのは、1986年以降。ワールドシリーズにおけるDH制度が現在の形になってから、実はまだ約25年ほどしかたっていないのである。
World Series - Wikipedia, the free encyclopedia

だから、「奇数年」のワールドシリーズである1977年のワールドシリーズには、そもそも「DH制がない」つまり、当時は既にDH制度があったア・リーグチャンピオンである77年のヤンキースは、レギュラーシーズンは「DHあり」で戦ったが、「ワールドシリーズだけは全ゲームをDH無しで戦った」。
77年のレギュラーシーズンではDHとしての出場ゲーム数が最も多かったルー・ピネラが、ワールドシリーズでは、DHではなくレフトとして全ゲームにスタメン出場しているのは、そのためだ。
ちなみにピネラのワールドシリーズでの打順は、ヤンキースタジアムでのゲームはすべて「7番レフト」だが、ドジャースタジアムで行われた第3戦、第4戦では「5番レフト」と、4番レジー・ジャクソン(彼の44番は永久欠番)の後ろのクリーンアップまで任されている。いかに、監督ビリー・マーチン(現役時代の彼の1番は永久欠番)のピネラに対する信頼が厚かったかわかる。


第6戦の先発は、ヤンキースがレギュラーシーズン17勝13敗、防御率3.88で77年シーズン途中にオークランドから移籍してきたばかりのMike Torrez(キャリア通算185勝160敗)。ドジャースがレギュラーシーズン12勝7敗、防御率2.62のBurt Hooton(キャリア通算151勝134敗)。


第1打席 ライトフライ
ルー・ピネラの第1打席は、2回裏。初回にドジャースのタイムリー三塁打で2点をリードされたヤンキースは、この回の先頭4番レジー・ジャクソンが四球で歩くと、5番のクリス・チェンブリスに2ランが出て、同点。その後、1死ランナー無しでルー・ピネラに打席が回ったが、浅い右中間のライトフライ。

第2打席 犠牲フライ(打点1)
4回裏。3回裏にドジャースの4番レジー・スミスにソロ・ホームランを打たれてまたも1点リードされていたヤンキースの4回は、ランナーを1塁において、4番レジー・ジャクソンが初球を逆転2ラン。4-3と、この試合はじめてヤンキースがリードした。
さらに2回裏にホームランを打っている5番チェンブリスに二塁打が出て、サードに進塁した1死3塁で、ルー・ピネラに打席が回った。ピネラはレフトに犠牲フライを打ち、ランナーが帰ってきた。スコアは5-3。ピネラの堅実な打撃で点差は2点に広がった。

第3打席 センターフライ
第3打席は6回裏。
5回裏にはランナーを1人おいて、またもレジー・ジャクソンが初球を2打席連続の2ランホームラン! ヤンキースが7-3と、点差を4点に広げていた。6回裏、ピネラは2人目の打者として登場したが、センターフライに終わり、その後三者凡退。

第4打席 ファウルフライ
ピネラの第4打席は8回裏。このイニングの先頭打者4番レジー・ジャクソンが、なんと「3打席連続初球ホームラン」! 点差は5点に広がり、スコアは8-3に。この日のレジー・ジャクソンは4回打席に立って、四球、3ホームラン、5打点。7番ピネラは2死ランナー無しから打席に立って、1塁側のファウルフライに倒れた。


結局このワールドシリーズのMVPはいうまでもなく「ミスター・オクトーバー」 レジー・ジャクソンだったわけだが、ルー・ピネラも有能なバイ・プレーヤーとして十分な貢献をした。(22打数6安打3打点)
ちなみにレジージャクソンは「3打席連続初球ホームラン」という離れ業をやってのけたのだが、実はこの前の第5戦の最終打席がホームランだったので、あわせて「ワールドシリーズ 4打席連続ホームラン」という偉業を達成している。


このワールドシリーズに出場したのは、「ミスター・オクトーバー」レジー・ジャクソン、後に日本のプロ野球巨人でプレーしたレジー・スミスだけでなく、多数の才能ある選手が出場した。
投手では、ヤンキースの永久欠番(49番)投手で、翌年78年にサイ・ヤング賞投手になる「ルイジアナ・ライトニング」ロン・ギドリー、74年サイ・ヤング賞投手で、5年連続20勝、完全試合を達成し殿堂入りしているキャットフィッシュ・ハンター、この77年のサイ・ヤング賞投手で70年代を代表するクローザーのひとりスパーキー・ライル
野手では、70年ア・リーグ新人王で、この77年のア・リーグMVPも獲得し、生きていれば殿堂入り確実といわれながら飛行機事故で若くして亡くなったが、ジョニー・ベンチと並ぶ名キャッチャーといわれ、キャプテンで永久欠番選手(15番)のサーマン・マンソン(ルー・ピネラはサーマン・マンソンの葬儀で弔辞も読んだ)、ゴールドグラブ三塁手のグレイグ・ネトルズ(シアトルにいたマイク・スウィニーの奥さんは、ネイルズの弟の娘)はじめ、数々の名手たち。

こうした才気あふれるプレーヤーの中で1977年のワールドシリーズの全ゲームにスタメンとして出場したルー・ピネラが、いかに選手として素晴らしい選手だったかは、いうまでもない。


通算打率 .291
ア・リーグ新人王(1969年)
ゲームあたりレンジファクター1位(レフト 1969年)
オールスター出場(1972年)
最多二塁打(1972年 ア・リーグ)
最多アシスト1位(13 レフト 1974年)
守備率1位(レフト 1974年)
最優秀監督賞3回(1995年、2001年、2008年)







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