September 20, 2010

"It's the first time I've gotten to play against a team I've played for previously,'' Lee said.
Mariners Blog | Cliff Lee had "a little extra incentive" in facing former Mariners team | Seattle Times Newspaper

クリフ・リーが言うには、「前に所属してたチーム相手に投げるのは、これが初めてなんだ。」ということらしい。
と、いうことは、クリフ・リーから最初の打席でヒットを打ったイチローは「クリフ・リーが以前に所属していたチーム相手に投げるゲームで、一番最初にヒットを打ったバッター」ということになる。
Texas Rangers at Seattle Mariners - September 18, 2010 | MLB.com Gameday


クリフ・リーはイチローのバッティングについて、こんな風に言っている。
"Obviously, Ichiro is pretty unbelievable,'' Lee said. "He's got a knack for getting hits no matter what's going on. He got a few, huh? I don't know how many he got. Two or three at least, right? And that's his game. He knows how to do that. He's got unbelievable hand-eye coordination.


hand-eye coordinationという言葉(eye-hand coodinationとも書く)は、昔からイチローの賛辞に使われる言葉のひとつとして何度も聞いてきた単語だ。

野球でこの言葉が使われる場合、ほとんどの場合「バット・コントロール」と訳されてしまうが、どうも気にいらない。それだと、hand-eye coordinationという言葉のニュアンスの一番重要な部分がスポイルされているような気がする。

hand-eye coordinationという言葉は、場合によっては「反射神経」という意味に近いニュアンスで使われることがある。
クリフ・リーが「イチローは信じがたいhand-eye coordination能力をもっている」というとき、それが「あらゆる球種にうまくバットをあわせてくる。つまり、バットコントロールが上手い」と言っているのか、「投手が投げた瞬間に、球種やコースを見極めて対応してくる、という反射神経の速さ」を言っているのかは、本当は、クリフ・リー本人にもっと突っ込んた話を聞いてみないとわからない。
インタビュアーはどうしてそういう突っ込んだ「いい話」を聞いてこないのか、と、いつも思う。
Eye–hand coordination - Wikipedia, the free encyclopedia


hand-eye coordinationという言葉を「バットコントロール」と訳すだけで終わらせるのが気にいらない理由を説明するために、ちょっと例を挙げてみよう。


hand-eye coordinationという言葉がよく使われるのは主に、スポーツ、外科手術、コンピューター、音楽といったプロの分野だ。これらの世界には「道具を使って、微細でテクニカルな操作を行う」という共通点がある。

例えば、バイオリニストが楽譜をまったく見ないで非常に上手くボウ(バイオリンを演奏する弓)を操って演奏したとしたら、それ自体はたしかに「ボウ使い(野球でいうバット・コントロール)が上手い」とはいえる。
だが、それではhand-eye coordinationの能力が高いとはいえない。なぜなら、それは「手の動きが上手い」だけで、「視覚との連動性の問題」が含まれていないからだ。
それに対して、初見(しょけん)の楽譜(=はじめて見る曲の楽譜)を見ながら、いきなりスラスラとその曲を弾きこなした、という場合には、初めて楽譜を見て理解するという「視覚の問題」と、それを即座に弾きこなすという「手の運動性」が連動して関係してくる。

ただ「道具をうまく使う」という意味を言いたいだけなら、別にhand-eye coordinationという言葉を使って説明する必要はない。
hand-eye coordinationという言葉を使うのにふさわしいのは、「視覚と手の中間になんらかの道具(デバイス)の仲介があり、目で見えるモノと、手の連動性が、あらかじめズレてしまう問題があるケース」だという気がする。


他にも、例えば、モニターを見ながら内視鏡手術をする外科医、モニターを見ながらテレビゲームを超高速でプレイするゲーマー、モニターを見ながらピクセル単位で的確にカーソルを移動できるデザイナーなど、「目でモニターの動きを追いかけながら、手で道具を動かす仕事」にも、「視覚と手の動きの連動性の問題」が存在する。
これらの仕事には、「視覚と、道具を扱う手の運動との間に、あらかじめズレがあり、そのズレを的確に埋める能力の高さで、処理スピードや処理の的確さが決まってくる」という共通点がある。

例えば内視鏡手術では、患部は非常に拡大されてモニターに映し出される。だが、実際に手を動かす必要があるのは1ミリ以下の場合もあるほどの小さな動きであり、視覚の「大きさ」と、手の動きの「微細さ」の間に「大きなズレ」が存在する。
「視覚で得られた情報(例えば、外科手術の拡大されたモニター、テレビゲームの画面、パソコンの画面、初めて見る楽譜)」と、指の微細な動き(1ミリ以下の操作の必要な内視鏡手術、高速でのコントローラー操作、ピクセル単位のマウス操作、テクニカルな楽器演奏の指の動き)」には、もともと「ズレ」があるのである。
もっと細かく言えば、縮尺のズレ(視覚的なスケールと運動のスケールのズレ)、視覚と手で行う道具の操作の方向性のズレ、奥行きの無いモニターでの視覚と凹凸を感じる手の感覚的ズレ、上下左右という方向性をボタン操作やマウス操作に変換する際の意識のズレ、楽譜という記述体系を楽器演奏という運動に変換する際のズレ、などである。

この「ズレの克服」こそが問題だ。

「視覚と手の運動のズレ」の克服は、例えば練習の積み重ねで楽譜を見なくても演奏できるようになるように、「道具が上手くコントロールできるように練習すること」だけで達成できるとは、到底思えない。

むしろ初めて見る楽譜を見て即座に演奏するバイオリニストの能力や、触覚と著しくズレている映像を見ながら微細な手術をする外科医の能力のように、
「視覚情報に、瞬時に反応できるスピード」
「視覚情報を、運動性に変換するときの的確さ」
「ズレを変換する際に強いられる精神的緊張の克服」
「連続的にズレていく視覚情報に、
 手の運動が連続的に追従していける動的能力」
などが要求され、単に「練習によって肉体的に慣れる」とか、「慣れによって視覚と運動の連動性を高める」とか、そういう程度の鍛錬では追いつかないような気がする。

内視鏡手術をする外科医には、見た目では数センチに見えるモニターの動きに「惑わされずに」、視覚から得た情報を1ミリ以下の指の微細な動きに変換するための独特の手術テクニックがあり、また、その特殊技術習得のための訓練にも、独特のトレーニング・スキルがあるらしい。
ゲーマーやデザイナー、音楽家も、モニターや楽譜を見ながら道具を操作する技術を、練習で自分のカラダにたたきこんで「正確な」指の動きをマスターしなければ仕事にならないだろうが、ただただ練習を繰り返せば一流になれるかというと、単なる肉体的な練習や慣れだけでは限界があると思う。


「道具をどう肉体がコントロールするか」だけが問題なのではなく、どうも「脳内の変換能力の向上」とでもいうものが必要な気がするのである。


うまくいえないが、イチローのhand-eye coordination能力は、単に「アナログ的な道具扱いの上手さ」だけを意味するのではなくて、なにかもっと別の、ずっと現代的でデジタルで脳内的な問題を含んでいるように思えるのである。

最近のカメラは、デジタル化によって、ようやく人間の目がもつさまざまな能力に少しずつ追いつきつつあるわけだが、それでも人間が目から得ている視覚情報は本来膨大なものである。また、脳内での情報処理も非常に高度な処理が行われていて、例えば人の顔の判別だけとっても、機械にはなかなかできなかったわけだが、人間の脳内では「顔の情報」について非常に高度な情報処理が行われていて、「それが誰であるか、即座に総合的な判別ができる」ようになっている。
しかし、一方で、人間の筋肉や骨を動かす能力のほうは、視覚から入った大量の情報に高速かつ的確に追従できるほど、高度にできていない。

だからこそ、テレビゲームをやっていて、モニターで「あ、いまコマンドを入れないと、やられてしまう」と、いくら頭でわかっていても、指はまったく動かなかったりする。
もちろん、鍛錬によって肉体の反応力はある程度までは上がっていくが、「肉体的な練習による、単なる慣れ」だけでは、身体のコントロール能力は、速度、正確さに限界があると思う。
たとえでいうと、「バットを振りつづける」「ゲームをやり続ける」「外科手術をむやみとたくさんやる」「やたらと楽器を演奏しまくる」ことだけでは、そのプレーヤーが到達できる高さには限界があるのではないか、ということだ。

RICKSON GRACIE瞑想するヒクソン・グレーシー

アスリートが「その先」を目指すためには、本当は「脳を鍛える」ようなこともしなくてはいけないのかもしれないのではないか、と思う。ヒクソン・グレーシーはヨガの達人でもあると聞く。それは「肉体的練習がもともともっている到達限界を超えて肉体をコントロールするためにトレーニングしている」のだと思う。
なにも、筋トレして筋肉を増やすことだけがトレーニングなわけではない。


本来、運動能力の正確さは年齢とともに急速に衰えいく。だから、肉体を鍛えているだけでは、加齢とともに「できたはずのこと」が「できないこと」に急速に変わっていくだけになる。

だが、イチローの場合は「肉体的な衰え」が、
「ほかの何か」でカバーされている。

その何かとは、「脳の変換力の若さ、正確さ、スピード」であり、その「若さ」がhand-eye coordinationを支えているとしたら、イチローのhand-eye coordinationとは、非常にデジタルで現代的な能力だと思う。






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