October 12, 2010
ケン・バーンズの"The Tenth Inning"が2010年9月28日・29日にPBSで放映された(Baseball The Tenth Inning: Home | PBS)が、イチローが登場する29日放映の後編のコンセプトは
「2001年という年と、それからの10年が
アメリカと、メジャーリーグベースボールにとって、
どれほど大きな意味があったか、を描く」
という点にある。
もう少し詳しく説明しておかないとわかりにくいだろう。
"The Tenth Inning"後編は、イチローを 「バリー・ボンズの対極に位置する究極的プレーヤー」としてとらえている。
つまり、ボンズを、90年代末までのステロイドによるホームラン量産時代の象徴、イチローを、ボンズ時代とは対極にある2001年以降の「ポスト・ステロイド時代」のベースボールの象徴としてとらえ、「イチロー」の代表する「クリーンなベースボール」に対してアメリカ野球史における非常に重い位置付けを与えている。(ただしボンズを完全否定して番組構成しているわけではない)そのため、29日の後編では、"Ichiro"という独立したチャプターがイチローに与えられている。
また"The Tenth Inning"後編は、2001年の同時多発テロで大きなダメージを受けた「アメリカの傷」にとってベースボールが果たした「癒し」の意味を、バリー・ボンズとイチローを対極的な存在として象徴的に扱う構図の中で描きだしている点にも、大きな特徴がある。
バリー・ボンズがアメリカにもたらしたものが「劇薬の痛み止めによる熱狂」だとすれば、イチローがもたらしたのは「ベースボールの歴史の本流への回帰による癒し」ということになる。
まぁ、劇薬による痛み止めと、自然やスローライフによる癒しとの違いとでも思っておけばいいと思う。
(ちなみに日本には、第二次大戦で荒廃していた人と人との繋がりを復活させたキャッチボールの素晴らしさについて故・寺山修司氏が書かれた名文がある。野球とボクシングの好きだった寺山氏は1983年没で、イチローは1973年生まれ。)
2001年9月11日の同時多発テロで、MLBのゲームは1週間中止されたが、再開された直後、テロで傷ついた心を抱えたアメリカは、バリー・ボンズによるマーク・マグワイアのホームラン記録70本の更新に熱狂した。
("The Tenth Inning"にはもちろんジョー・トーリがニューヨークの消防のキャップをかぶっているシーンも収録されている)
だがその後、90年代末以降の「ベースボール」が、ボンズやマグワイアのホームラン量産を含めてステロイドまみれであることがわかり、2007年のミッチェル・レポートは多数のプレーヤーの不正を告発した。
1998年にはナ・リーグでマクガイヤとサミー・ソーサがホームラン王争いを演じ、ア・リーグでは1998年から2000年までの3年間、後にステロイド問題を起こすロジャー・クレメンス、アンディ・ペティットのいたヤンキースが3年連続ワールドチャンピオンを独占したが、2001年以降はワールドシリーズの優勝チームは毎年入れ替わるようになり、ホームラン王の打つホームラン数は一気に下がった。(こうした現象の背景には、球団間の戦力格差是正や収益再分配のためにMLBコミッショナーのセリグ氏がとった改善策の効果もある)
"The Tenth Inning"が主張するのは、
テロで傷を負ったアメリカが、心を癒すために帰るべきホーム・スイート・ホーム、幸福な家族の時間は、実は、ボンズ、マグワイア、サミー・ソーサなどがホームランを争った90年代末のアメリカ野球ではなかったはずだ、ということだと思う。
アメリカを本当の意味で癒すのは、そういう「ステロイドまみれの劇場」に熱狂することではなく、アラスカのキングサーモンがやがては故郷に帰るように、ベースボールという大きな歴史を創造してきた本流に帰ることだ、というのが、"The Tenth Inning"が主張する「9・11同時多発テロ以降のアメリカ野球」だろう。
(だからこそケン・バーンズはイチローの特徴を「クリーンさ」だと言っている。ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年9月20日、シアトル・タイムズのスティーブ・ケリーが、"The Tenth Innning"のケン・バーンズと共同監督のリン・ノビックが行った「イチローインタビュー」について当人に取材して書いた記事の、なんとも哀れすぎる中身とタイトル。)
イチローのチャプターでは、ウィリー・キーラー、ジョージ・シスラー、タイ・カッブなど、ベースボール創世期の名プレーヤーの名前が出されて、イチローの業績の意味が説明されている。
"The Tenth Inning"によるイチローの評価は、ボンズがマグワイアの記録を破ったような「他のプレーヤーの記録の更新」にあるのではない。
そうではなくて、大事なのは、
この10年イチローが持続し続けてきたプレースタイルによって
「ファンの誰もが忘れていた、100年前のアメリカでベースボールが出来た頃のフィーリングやスピード感」を、まるで何かの魔法のように現代アメリカの地表に掘り起こして、「ほら、これが90年代末に皆さんが忘れていたベースボールの原型であり、ここが皆さんの還る源流なんですよ」と示してみせたこと
にある。
ベースボールという大河の源流はどこだろう。
それはケン・バーンズの前作"Baseball"を見れば、
よくわかる。
"Baseball"という作品はただの歴史年表とは違う。
この作品が教えてくれるのは、アメリカとアメリカの歴史にとって「ベースボール」は、まるで「自分と自分の大切な家族とのかかわりを語る長い長い物語」のような、ノスタルジックでベーシックな関係だということだ。
ケン・バーンズの長い物語では、タイ・カッブやベーブ・ルースをはじめ、たくさんの名プレーヤーが登場するが、彼らのプレーや記録はベースボールとアメリカの歴史の背骨であるにしても、名プレーヤーもファンも、歴史という大きな存在の一部にすぎないことには変わりがない、という立場が貫かれている。
だから、両親と子供の野球観戦の場面ひとつとっても、普通の家庭で、まるで遺伝子が親から子に伝わるように、ベースボールの楽しみが両親から子供に大切に伝えられてきた「家族の文化」であることが描かれる一方で、MLB関係者たちや過去の名プレーヤーも、普通の親子とまったく同じように、「子供の頃、両親にボールパークに連れていってもらったり、一緒に野球をやった思い出の素晴らしさ」を目を輝かせて語るのである。
プレーヤーも、彼らのプレーを楽しみつつ大人になり、さまざまな形でアメリカの歴史を支えた人々も、全くかわりなく、同じアメリカの一部であって、両者の間になんの優劣も本来存在していないことを、ケン・バーンズはそれぞれの時代の音楽と映像の積み重ねで描いている。
だから、うまく言えないが、"Baseball"が語る「アメリカとベースボールの100年」は、野球という競技の100年の歴史的概説などというつまらないものではなくて、"Baseball"の国に生まれ、育ち、家族をもうけて、やがて死んでいった人たちが、平凡に、しかし素晴らしく積み重ねた歳月の考古学なのだと思う。
"Baseball"の国には、他のどの国とも変わらない一時的な熱狂があり、戦争、事故、自然災害、さまざまな不幸もある。ここには他のどの国とも変わらない多くの間違いもあるが、他のどの国にも負けないほど多くの正しさもある。
けれど、結局はいつの時代も、どの国でも、生まれ、育ち、家族をもうけて、死んでいく人間の営みの幸せは変わらない。
川で生まれて大洋に出ていき、やがては生まれた川に帰るサーモンの一生と、われわれ人間の一生、どこが違うのか?
答えは簡単だ。
人間には「ベースボール」があり、サーモンにはない。
それ以外は、何も変わりない。
(こんなことを言うとジェラルド・アーリーならたぶん、「サーモンには、ベースボールもないが、ジャズもないだろ!」とか不満を言うだろう(笑)ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年9月20日、ケン・バーンズの"The Theth Inning"の放映を来週に控えて、ちょっと彼の作品”Basebali"第1回冒頭のジェラルド・アーリーの有名な言葉を見直してみる。)
サーモンは帰る川をわかっているが、人間は、もしどこに帰ればいいかわからなくて困ったら、どうすればいいか。
「ベースボール」という大河の源流に帰れればいい。
簡単にいえば、そういうことを、イチローの2001年以降の10年という歳月とプレーが教えてくれた、と、今回の"The Tenth Inning"は語っているのである。
「2001年という年と、それからの10年が
アメリカと、メジャーリーグベースボールにとって、
どれほど大きな意味があったか、を描く」
という点にある。
もう少し詳しく説明しておかないとわかりにくいだろう。
"The Tenth Inning"後編は、イチローを 「バリー・ボンズの対極に位置する究極的プレーヤー」としてとらえている。
つまり、ボンズを、90年代末までのステロイドによるホームラン量産時代の象徴、イチローを、ボンズ時代とは対極にある2001年以降の「ポスト・ステロイド時代」のベースボールの象徴としてとらえ、「イチロー」の代表する「クリーンなベースボール」に対してアメリカ野球史における非常に重い位置付けを与えている。(ただしボンズを完全否定して番組構成しているわけではない)そのため、29日の後編では、"Ichiro"という独立したチャプターがイチローに与えられている。
また"The Tenth Inning"後編は、2001年の同時多発テロで大きなダメージを受けた「アメリカの傷」にとってベースボールが果たした「癒し」の意味を、バリー・ボンズとイチローを対極的な存在として象徴的に扱う構図の中で描きだしている点にも、大きな特徴がある。
バリー・ボンズがアメリカにもたらしたものが「劇薬の痛み止めによる熱狂」だとすれば、イチローがもたらしたのは「ベースボールの歴史の本流への回帰による癒し」ということになる。
まぁ、劇薬による痛み止めと、自然やスローライフによる癒しとの違いとでも思っておけばいいと思う。
(ちなみに日本には、第二次大戦で荒廃していた人と人との繋がりを復活させたキャッチボールの素晴らしさについて故・寺山修司氏が書かれた名文がある。野球とボクシングの好きだった寺山氏は1983年没で、イチローは1973年生まれ。)
2001年9月11日の同時多発テロで、MLBのゲームは1週間中止されたが、再開された直後、テロで傷ついた心を抱えたアメリカは、バリー・ボンズによるマーク・マグワイアのホームラン記録70本の更新に熱狂した。
("The Tenth Inning"にはもちろんジョー・トーリがニューヨークの消防のキャップをかぶっているシーンも収録されている)
だがその後、90年代末以降の「ベースボール」が、ボンズやマグワイアのホームラン量産を含めてステロイドまみれであることがわかり、2007年のミッチェル・レポートは多数のプレーヤーの不正を告発した。
1998年にはナ・リーグでマクガイヤとサミー・ソーサがホームラン王争いを演じ、ア・リーグでは1998年から2000年までの3年間、後にステロイド問題を起こすロジャー・クレメンス、アンディ・ペティットのいたヤンキースが3年連続ワールドチャンピオンを独占したが、2001年以降はワールドシリーズの優勝チームは毎年入れ替わるようになり、ホームラン王の打つホームラン数は一気に下がった。(こうした現象の背景には、球団間の戦力格差是正や収益再分配のためにMLBコミッショナーのセリグ氏がとった改善策の効果もある)
"The Tenth Inning"が主張するのは、
テロで傷を負ったアメリカが、心を癒すために帰るべきホーム・スイート・ホーム、幸福な家族の時間は、実は、ボンズ、マグワイア、サミー・ソーサなどがホームランを争った90年代末のアメリカ野球ではなかったはずだ、ということだと思う。
アメリカを本当の意味で癒すのは、そういう「ステロイドまみれの劇場」に熱狂することではなく、アラスカのキングサーモンがやがては故郷に帰るように、ベースボールという大きな歴史を創造してきた本流に帰ることだ、というのが、"The Tenth Inning"が主張する「9・11同時多発テロ以降のアメリカ野球」だろう。
(だからこそケン・バーンズはイチローの特徴を「クリーンさ」だと言っている。ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年9月20日、シアトル・タイムズのスティーブ・ケリーが、"The Tenth Innning"のケン・バーンズと共同監督のリン・ノビックが行った「イチローインタビュー」について当人に取材して書いた記事の、なんとも哀れすぎる中身とタイトル。)
イチローのチャプターでは、ウィリー・キーラー、ジョージ・シスラー、タイ・カッブなど、ベースボール創世期の名プレーヤーの名前が出されて、イチローの業績の意味が説明されている。
"The Tenth Inning"によるイチローの評価は、ボンズがマグワイアの記録を破ったような「他のプレーヤーの記録の更新」にあるのではない。
そうではなくて、大事なのは、
この10年イチローが持続し続けてきたプレースタイルによって
「ファンの誰もが忘れていた、100年前のアメリカでベースボールが出来た頃のフィーリングやスピード感」を、まるで何かの魔法のように現代アメリカの地表に掘り起こして、「ほら、これが90年代末に皆さんが忘れていたベースボールの原型であり、ここが皆さんの還る源流なんですよ」と示してみせたこと
にある。
ベースボールという大河の源流はどこだろう。
それはケン・バーンズの前作"Baseball"を見れば、
よくわかる。
"Baseball"という作品はただの歴史年表とは違う。
この作品が教えてくれるのは、アメリカとアメリカの歴史にとって「ベースボール」は、まるで「自分と自分の大切な家族とのかかわりを語る長い長い物語」のような、ノスタルジックでベーシックな関係だということだ。
ケン・バーンズの長い物語では、タイ・カッブやベーブ・ルースをはじめ、たくさんの名プレーヤーが登場するが、彼らのプレーや記録はベースボールとアメリカの歴史の背骨であるにしても、名プレーヤーもファンも、歴史という大きな存在の一部にすぎないことには変わりがない、という立場が貫かれている。
だから、両親と子供の野球観戦の場面ひとつとっても、普通の家庭で、まるで遺伝子が親から子に伝わるように、ベースボールの楽しみが両親から子供に大切に伝えられてきた「家族の文化」であることが描かれる一方で、MLB関係者たちや過去の名プレーヤーも、普通の親子とまったく同じように、「子供の頃、両親にボールパークに連れていってもらったり、一緒に野球をやった思い出の素晴らしさ」を目を輝かせて語るのである。
プレーヤーも、彼らのプレーを楽しみつつ大人になり、さまざまな形でアメリカの歴史を支えた人々も、全くかわりなく、同じアメリカの一部であって、両者の間になんの優劣も本来存在していないことを、ケン・バーンズはそれぞれの時代の音楽と映像の積み重ねで描いている。
だから、うまく言えないが、"Baseball"が語る「アメリカとベースボールの100年」は、野球という競技の100年の歴史的概説などというつまらないものではなくて、"Baseball"の国に生まれ、育ち、家族をもうけて、やがて死んでいった人たちが、平凡に、しかし素晴らしく積み重ねた歳月の考古学なのだと思う。
"Baseball"の国には、他のどの国とも変わらない一時的な熱狂があり、戦争、事故、自然災害、さまざまな不幸もある。ここには他のどの国とも変わらない多くの間違いもあるが、他のどの国にも負けないほど多くの正しさもある。
けれど、結局はいつの時代も、どの国でも、生まれ、育ち、家族をもうけて、死んでいく人間の営みの幸せは変わらない。
川で生まれて大洋に出ていき、やがては生まれた川に帰るサーモンの一生と、われわれ人間の一生、どこが違うのか?
答えは簡単だ。
人間には「ベースボール」があり、サーモンにはない。
それ以外は、何も変わりない。
(こんなことを言うとジェラルド・アーリーならたぶん、「サーモンには、ベースボールもないが、ジャズもないだろ!」とか不満を言うだろう(笑)ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年9月20日、ケン・バーンズの"The Theth Inning"の放映を来週に控えて、ちょっと彼の作品”Basebali"第1回冒頭のジェラルド・アーリーの有名な言葉を見直してみる。)
サーモンは帰る川をわかっているが、人間は、もしどこに帰ればいいかわからなくて困ったら、どうすればいいか。
「ベースボール」という大河の源流に帰れればいい。
簡単にいえば、そういうことを、イチローの2001年以降の10年という歳月とプレーが教えてくれた、と、今回の"The Tenth Inning"は語っているのである。