November 16, 2010

このところ、これまでのシアトル・マリナーズの球団としてのハイライトをベスト10として動画にまとめたものを何度となく見た。この10個のシーンを自分の「野球の宝物」として挙げた人が、いったい何を感じながら選びだしたのか、感じとってみたいと思った。

かなりの回数見た。
だが正直、わからない。
だから何も書けない。なにか書くのはやめにしておこうと思った。

ただ、動画を見ながら、心の中に一箇所、そこだけいつも避けて通る場所のような感じがあるのは感じていた。そのネガティブな印象に触れることに、なんとなくためらいがあった。


それはこういうことだ。

言いづらいことだが、その動画は何度見ても、そこにある10個のシーンの連続に、どう言えばいいか、「今につながるもの」という感覚が湧いてこない。

ひとつひとつのシーンが劇的でない、というのではない。個々のシーンは計り知れないほど素晴らしい。
だが強く伝わってくるのは、それぞれのシーンの感動ではけしてなく、むしろ「何か大事なものが終わりを告げた後で、もう帰れない場所を見て感じるような、「モノ悲しさ」。祭りの後の感覚、とでもいえばいいか。
たとえ10個の場面が素晴らしいものであっても、こういう風に繋げてしまうと、そこには、そこはかとなく「死に絶えた動物の骸(むくろ)のようなイメージ」が生まれてきてしまう。その冷えたイメージがぬぐいされない。ハイライトであり、ベスト10なのだから、本来そこには海面がきらめくような「生のエネルギー」が感じられていいはずだが、遠くで鳴る汽笛を聞くような遠さがある。
繰り返し痛感させられるのは、「現在のシアトルマリナーズがいかに、さまざまな繋がりを喪失した、死んだ場所なのか」ということだ。
この動画から感じられる感覚にはどこか、帰ることのない過去を懐かしむ「老い」の感覚がある。この動画の底に感じる「遥か彼方を想いやる、やるせない心象」は痛々しい。だから、何度見ても、見ている自分からエネルギーが吸い取られていくばかりで、エネルギーをもらえる感じにはならない。


だいぶ時間がたって、ようやく
書くのがためらわれた理由がなんとなくわかってきた。

もしかすると、このベスト10をチョイスしたデイブ・ニーハウスが、シアトル・マリナーズに深い思い入れを持てた時代は、もしかすると、もうずいぶん前に終わっていたのではないか。もしかすると、シアトルの古き良き時代を知る彼が、近年も変わらず熱心に仕事をこなしていながら、実は「古き良きマリナーズの匂い」を嗅ぎ取って癒されたのは、「イチローだけ」だったのではないか、そんな気がしてきた。
ある時期以降のデイブは「イチロー」だけが、彼と「彼のマリナーズ」を繋ぐ唯一の「橋」であり、唯一の「未来への希望」だったのではないか。

なぜって、イチローには、エドガー・マルチネスの匂いがある。マイク・キャメロンの匂い、ブレット・ブーン、オルルッド、ダン・ウィルソン、さまざまな匂いがする。そしてイチローを含めた2001年あたりのマリナーズの選手には、エドガー、ケン・グリフィー・ジュニア、ジェイ・ビューナー、マイク・ブラワーズ、ルイス・ソホ、90年代のマリナーズの「残り香」がする。ジョージ・シスラーの記録を破ったイチローをおずおずと取り囲んだ人の輪にも、そこはかとない残り香はあった。


この「匂い」、どういえばいいか。
内側に独特の熱感をはらんでいて、芯は非常に強いが、表面はしなやかで、ベタつきのない、独特の「匂い」。

誰かひとりだけ、この「匂い」に最もあてはまるプレーヤーを挙げろ、といわれたら、迷わず、「エドガー・マルチネス」と答える。
デイブ・ニーハウスの死について、ジェイ・ビューナーはIt is like I am losing a Dad.「父親を失ったようなもの」と述べているが、選手で言えば、まさにエドガー・マルチネスにはそういう「父親的な匂い」がある。ヤンキースの、あのイタリア系の「兄ちゃん」イメージとも、エンゼルスの多国籍なイメージとも違う、独特のシアトルの風土のような「匂い」。

イチローは、「デイブ・ニーハウスの愛したマリナーズ」という家族の「最後の子供」、「末っ子」なのではないか。


バベジがいじくり倒し、ズレンシックがいじくり倒した今のマリナーズには、あの「独特の匂い」は、もうどこにもない。選手も残っていない。そこにあるのは、ただの「残骸」だ。もう家族でもなんでもない残骸を、彼らはいじくって遊んでいる。今のシアトル・マリナーズには「生きものだけが持つ、独特の熱感」がない。
そこにあるのは「温度のない無機物」である。



かのデイブ・ニーハウスの死に際して、こういう話を書くべきではないし、書く人などいないのではないか。心の底でそう感じながら動画を見るものだから、どうも筆が進まない。このことに気づくのに時間がかかった。

普通、追悼なら、彼の有名なフレーズでもいくつか挙げ、彼の有名なナレーションの動画か肉声のリンクでも挙げておけば、無難に話を済ませられる。それはわかっていたが、そんな誰でもやりそうなことをやって、何になるというのだろう。


どう書けば真意を上手く表現できるか、よくはわからない。

もし、あなたがミュージシャンか作家だとする。あなたがベスト盤や全集を出す、ということは、どういう意味になるか。
ベスト盤を出す、ということは、そのミュージシャンが音楽史に残る素晴らしい仕事をしたという評価が定着した、という意味でもある一方で、別の言い方をすれば、「その人の時代は終わった」とみなす、という寂しい意味でもある。

デイブ・ニーハウスが、球団ハイライトのベスト10上位とみなした出来事は、ほとんどがチームの出来事、つまり、レギュラーシーズンの優勝やディヴィジョン・シリーズの勝利だ。(2位に選ばれたギーエンのバントも、あくまでチームのワイルドカード決定の一貫としてとらえるべきプレー。バントそのものが凄いわけではない)
個人プレーヤーの出来事で上位に来るのは、5位に挙げられたイチローのシーズン安打記録で、これが個人記録としてはランキングの最高位に挙げられている。



そう。
デイブ・ニーハウスの愛したマリナーズは、イチローを終幕として、消滅しつつあったのだと思う。デイブ・ニーハウスが愛した1995年のシアトルを、かいつまんで書いてみる。



ランディ・ジョンソンが3対2のトレードでモントリオールからシアトルに来たのは1989年だ。シアトルはランディを獲得するかわり、左腕マーク・ラングストンをモントリオールに放出した。
ランディは最初から大投手だったわけではなく、しばらくは奪三振も多い一方で、酷いノーコン投手でもあったことは一度書いた。彼の才能を真に開花させたのは、いまはテキサス・レンジャーズの社長になった大投手ノーラン・ライアンやトム・ハウスとのシーズンオフにおける交流と指導の賜物でもある、という主旨の話だ。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年1月6日、豪球ノーコン列伝 ランディ・ジョンソンのノーコンを矯正したノーラン・ライアン。 ノーラン・ライアンのノーコンを矯正した捕手ジェフ・トーボーグ。 捕手トーボーグが投球術を学んだサンディ・コーファクス。

1995年のレギュラーシーズンは、シアトルと、カリフォルニア・エンゼルス(アナハイムに移転する前のエンゼルス)が、ともに78勝66敗でシーズンを終え、キングドームでワンゲームプレーオフが行われることになった。
このワンゲームプレーオフ、先発が因縁めいていた。シアトルがランディ・ジョンソン、エンゼルスはランディの交換相手になった元シアトルのマーク・ラングストン
このときラングストンは、移籍先のモントリオールからさらにエンゼルスに移っていて、奇しくもシアトル初の地区優勝がかかったこの重いゲームで、エンゼルス側の先発となったのである。

Vince Coleman LF
Luis Sojo SS
Ken Griffey CF
Edgar Martinez DH
Jay Buhner RF
Mike Blowers 3B
Tino Martinez 1B
Dan Wilson C
Joey Cora 2B

October 2, 1995 California Angels at Seattle Mariners Box Score and Play by Play - Baseball-Reference.com

7回表まで1-0、シアトルが1点リードするクロスゲーム。7回裏に、シアトルが満塁のチャンスをつくり、2番ショートのLuis Sojoルイス・ソホ、後にWBCベネズエラ代表監督を2度つとめることになる)が、ここで走者一掃のツーベース。守備がもたつく間にソホ自身も生還し、一挙に4点をたたき出して、シアトルは試合の大勢を決めた。シアトルは初の地区優勝に輝いた。

1995年レギュラーシーズンは、エドガー・マルティネスが2度目のア・リーグ首位打者、2度目のシルバースラッガー賞と、球団史上初となる最優秀指名打者賞。ランディ・ジョンソンが4年連続4度目となる最多奪三振のタイトルと、球団史上初となる最優秀防御率。ルー・ピネラが球団史上初となる最優秀監督賞。
ここまで一度も地区優勝したことがなかったシアトルだが、明らかにいつ優勝してもおかしくない才能が集まっていて、ポテンシャルが一気に開花したシーズンだった。


1995年の熱はまだ終わらない。

初の地区優勝を達成したシアトルが、ディヴィジョンシリーズで対戦したのはヤンキース。ヤンキースタジアムでの連敗の後、地元キングドームで連勝し、勝負は10月8日キングドームでのGame 5にもつれこんだ。このゲームに勝ったほうがディヴィジョン・シリーズに勝利する。
ワンゲームプレーオフではルイス・ソホが2番だったが、ポストシーズン打撃好調なスイッチヒッター、ジョーイ・コーラが2番に戻り、ソホは7番に下がった。また併殺が多く、ポストシーズン打撃不調のマイク・ブラワーズを9番に下げている。

1995 ALDS Game 5
Vince Coleman LF
Joey Cora 2B
Ken Griffey CF
Edgar Martinez DH
Tino Martinez 1B
Jay Buhner RF
Luis Sojo SS
Dan Wilson C
Mike Blowers 3B

試合はシアトルが8回まで4-2で負けていた。だが、8回裏にケン・グリフィー・ジュニアのソロホームランなどで同点に追いつく。ここでシアトルは、Game 3で先発して勝利し、連敗を止めたランディ・ジョンソンを9回表からロングリリーフに注ぎ込んだ。
ランディ・ジョンソンが9回表を無失点に抑えると、その裏シアトルがマリアーノ・リベラから1死2塁のチャンスを作った。だが、ヤンキースはマリアーノ・リベラにケン・グリフィー・ジュニアを敬遠させて塁を埋めておいてジャック・マクドーウェルに継投、後続を抑え込んだ。
そして延長11回表、シアトル頼みの綱のランディが3イニング目に1点を奪われてしまう。絶体絶命だ。だがその裏の攻撃で、ジョーイ・コーラ、グリフィー・ジュニアの連打でノーアウト1塁2塁のチャンスをつくり、DHエドガー・マルチネスに打席が回ってきた。
この大事な場面で、エドガーはレフト線を破る。2点タイムリー・ツーベースだ。シアトル、劇的な逆転サヨナラ勝ち。2連敗の後、ヤンキースを3タテして、シアトルはALCSに進出した。
このエドガー・マルチネスの逆転サヨナラ2点タイムリー・ツーベースは、後にThe Doubleと呼ばれることになった。ポストシーズンのエドガーのバッティングは、チームトップの10打点、打率.571、OBP.667、SLG 1.000 OPS 1.667と、驚異的なものだった。

The Double (Seattle Mariners) - Wikipedia, the free encyclopedia

1995 League Division Series - Seattle Mariners over New York Yankees (3-2) - Baseball-Reference.com


どうだろう。
感情を交えず、事実をかいつまんで書いただけだが、当時のプレー、応援するファンの姿に、なにか「熱」「匂い」「繋がり」を感じないだろうか。

「デイブ・ニーハウスが愛したマリナーズ」は、
こういうマリナーズなのだ、と思うのだ。

ドラマティックな展開で勝ち進んだのだから、そりゃ熱気があって当たり前だとか、言われてしまえばそれまでだが、そういうことを言いたいわけではない。
どう言えば言いたいことが伝わるのかよくわからないが、エドガー・マルチネスやダン・ウィルソンが、2001年にイチローが入団するまで大切に守って運んできてくれたのは、こういう「90年代の家族っぽい熱気」だったのだと、今にして思う。

ドラマチックな好プレーを集めた動画なら、どこにでもある。
だが、「家族の写真集」のような懐かしみを覚えるハイライト集は、なかなか無い。
「昔の家族の写真集」を見て思うのは、その家族だけが懐かしむことのできる華やかな追憶であり、また、その仲のよすぎる家族が、やがて老い、すこしずつバラバラになり、やがて時が止まっていく、センチメンタルな感情である。


動画は、YoutubeのDave Niehaus Top 10 Mariners Momentsというタイトルの動画で、オリジナルタイトルは"30 Years of Memories"となっている。デイブ・ニーハウスのチョイスによるシアトル・マリナーズの10のハイライト集である。
ハイライトだから、という先入観を抜きに虚心に見てもらうと、どこかに、カーペンターズの音楽の奥底に秘められた悲しみにも似たようななにかが、見えない部分にずっしりと横たわって身動きがとれない感じが、わかってもらえるのではないかと期待している。
YouTube - Dave Niehaus Top 10 Mariners Moments


10位
ケン・グリフィー・ジュニア
8試合連続ホームラン(1993年7月28日)

9位
ゲイロード・ペリー
通算300勝(1982年5月6日)
「通算300勝を達成した時にはボールに歯磨き粉をつけて投げていた」と告白した有名なスピットボーラー。

8位 
2人のノーヒッター
ランディ・ジョンソン(1990年6月2日)
クリス・ボジオ(1993年4月22日)

7位
3人のサイクルヒット
ジェイ・ビューナー(1993年6月23日 延長14回)
アレックス・ロドリゲス(1997年6月5日)
ジョン・オルルッド(メッツ時代1997年9月11日、シアトル時代2001年6月16日)
A・ロッドのサイクルヒット達成は、21歳10ヶ月で、MLB史上5番目の若さ。オルルッドはMLB史上26人しかいない複数回のサイクルヒット達成者。
Hitting for the cycle - Wikipedia, the free encyclopedia

6位
ケン・グリフィー・ジュニア、シニア
親子アベックホームラン(1990年9月14日)

5位
イチロー
ジョージ・シスラーのシーズン最多安打記録を更新(2004年10月1日)個人記録としては、これがこのランキングの最高位。

4位
球団史上初の地区優勝(1995年)

3位
シーズン116勝
イチローの入団した2001年シーズン116勝はMLBタイ記録。球団史上初となるコミッショナー特別表彰。

2位
カルロス・ギーエン
サヨナラセーフティバント(2000年10月8日)
これによりワイルドカードが決定。進出したALDSではシカゴ・ホワイトソックスをスイープした。

1位
The Double by エドガー・マルチネス
(1995年10月8日)



よくイチローのことを孤高だという人がいる。
だが、イチローを孤高に「させてきた」のは、イチローではない。
むしろイチローほど、自分の所属する場所が熱気に包まれ、繋がりと匂いをとり戻す瞬間に焦がれ、飢えを感じてきたプレーヤーはいないはずだ。
かつてこのチームにあった熱。一体感。匂い。いいかえれば「エドガー・マルチネスに象徴される何か」は、選手と関係のないところで年月とともに剥ぎ取られ、解体され、失われていったが、その中で、むしろイチローだけがプレーヤーとして、その「匂い」を必死に守り抜いてきたことは、この動画から明らかに感じとることができる。

トム・クルーズが主演した2003年の映画「ラスト・サムライ」では、滅び行く武士道の最後の残滓は、日本人ではなく外国人ネイサン・オールグレン(トム・クルーズ)に受け継がれた。
日本からMLBにやってきたイチローの成功は、まさに「ラスト・サムライ」の全く裏返しを行くストーリーであり、デイブ・ニーハウスにとってイチローは、いわば「ラスト・マリナーズ」だったのではないか。そう思うのである。

デイブ・ニーハウス







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