January 28, 2011

以下、説明したいのは、今年のHutch Award受賞者アトランタ・ブレーブスのティム・ハドソンが、なんでまた、わざわざシアトルの子供たちのもとを訪れたのか、その理由や歴史をきちんと知っておいてほしい、と思ったからだ。

話が異様に長い。このブログはいつも長いが(笑)
申し訳ない。

Mariners | Atlanta pitcher Tim Hudson accepts Hutch Award | Seattle Times Newspaper
The Hot Stone League | Hutch Award winner Tim Hudson remembers Mariner glory days | Seattle Times Newspaper


それと、ブログ主からHutch Schoolの子供たちにひとつ、説明しておきたいと思うことがある。
フレッド・ハッチンソン・ガン研究センター内にあるHutch Schoolの子供たちの何人かは、地元の野球チームであるマリナーズの選手の活躍を心の糧に日々の過ごしているかもしれない。
そんな彼らの日常を支えているベースボールについて、先日このブログをやっているいい年のオトナは、ちょっと暗めの気分で記事を書いた。そういうオトナから、子供たちに説明をしておきたいと思うのである。
君たちの大事なものをけなすつもりで書いたのではない。大事なものであっても、キツいことを言わなければならないときもある。わかってほしい。

結局、勇気を与えてくれるのは、いつも偉そうにしているクセに、人に暴力をふるったり、自転車で家に逃げ帰ったりする心の弱い野球選手や、つまらない文章をブログに書いた挙句に自分で落ちたりして、右往左往してばかりいるオトナの僕らではなくて、野球に目を輝かせる子供たちのほうだ、と思う。きっと。
頑張らなくちゃ、申し訳ない。


Sicks' Stadiumシックズ・スタジアム

シアトルを代表する地ビールのひとつ、レイニア・ビールのオーナー、エミル・シック(Emil Sick)は、20世紀初めにマイナーのパシフィック・コースト・リーグに所属するシアトル・インディアンスを買収して、球団名を「シアトル・レイニアーズ」(Seattle Rainiers)に変更した。シックは1938年には新球場を開場し、シックズ・スタジアム(Sick's Stadium)と名づけた。「シアトル・レイニアーズ」は消滅する68年まで、そのシックズ・スタジアムを本拠地として使い続けた。「レイニアーズ」という名称は、いまの3Aタコマ・レイニアーズに受け継がれた。

Sick、という英単語にはもちろん、「病気」という意味もあるわけだが、このことは後世、不思議なドラマを生むことになる。
Seattle Rainiers - Wikipedia, the free encyclopedia
SICKS
Mount RainierMount Rainier
シアトルの南東54マイル(87キロ)にあり、標高4,392m。富士山より500m高い。
Mount Rainier - Wikipedia, the free encyclopedia



フレッド・ハッチンソンは、1919年にシアトルで生まれた右腕投手である。彼は地元のワシントン大学を経て、当時シアトルにシックズ・スタジアムが新設されたばかりの1938年に、シアトル・レイニアーズに入団した。彼は地元のレイニアーズでいきなり25勝を挙げ、スポーティング・ニューズの選ぶマイナー最優秀選手に選ばれた。

フレッド・ハッチンソン

フレッドは翌1939年に、故郷のシアトルではなく、デトロイトのタイガースでメジャーデビューする。まるでシアトル生まれのティム・リンスカムのように、地元シアトルで活躍するために生まれてきたような生い立ちの男だが、当時シアトルにはメジャーの球団が無かったのだ。こればかりはしかたがない。
彼はデトロイトでの在籍11シーズンで引退して、通算防御率3.73、95勝71敗と、かなりの好成績を挙げたが、途中21歳から25歳までの若い時期に、5年間のキャリアが存在していない。これはもちろん、第二次大戦による中断という不運があったからだ。もし不幸な戦争がなければ、フレッドはどんな成績を残しただろう。
Fred Hutchinson Statistics and History - Baseball-Reference.com
Fred Hutchinson - Wikipedia, the free encyclopedia

フレッド・ハッチンソンは、53年にデトロイトで現役引退したが、引退前年の52年には既にプレーイング・マネージャーとして監督を兼任しており、引退後はそのままデトロイトの監督になった。その後、セントルイス、シンシナティの監督を歴任し、セントルイスで監督をしていた57年に最優秀監督賞を受賞、61年にはシンシナティでワールドシリーズ出場も果たした。(例のピート・ローズがデビューしたのは、このハッチンソン監督時代のシンシナティである。ローズは第4回のハッチ賞受賞者でもあるが、この際ハッキリ言っておく。野球賭博に関係したピート・ローズはハッチ賞の名誉にふさわしくない
監督としても順風のキャリアを積んだフレッドだが、不幸なことに、彼は肺ガンから1964年に45歳の若さで急逝した。
翌1965年メジャーリーグは、フレッドの早すぎる死を悼んで、ファイティング・スピリッツ旺盛な選手に与えられるハッチ賞(Hutch Award)を創設した。第1回の受賞者は、61年のワールドシリーズでフレッドのシンシナティを破ったヤンキースの主砲、ミッキー・マントルだった。
Hutch Award - Wikipedia, the free encyclopedia



フレッド・ハッチンソンの兄ウィリアム・ハッチンソンは、1909年生まれの医師だ。どことなくロバート・デ・ニーロに似た渋い風貌である。
日本ではあまり知られていないが、ウィリアムは優れた医師であるとともに、ベースボールプレーヤーでもあった。その素質はプロとしてもやっていけないことはないレベルで、医師になるか野球選手になるか迷うほどだったらしい。
ウィリアムは、1950年代後半に、かつて弟フレッドが所属していたシアトル・レイニアーズのチームドクターをつとめており、野球と医学を横断する非常に個性的な人生を送った。

ウィリアム・ハッチンソン

ウィリアムは、弟フレッドの死の10年前の1956年に、連邦政府の援助をとりつけて、ガンや心臓手術の医療研究財団the Pacific Northwest Research Foundationを設立していたが、65年にMLBが弟フレッドの早すぎる45歳の逝去を悼んでHutch Awardを創設したのに呼応するように、75年に連邦の援助や民間の寄付、ヤンキースの人気スター選手ジョー・ディマジオなどの協力を得て「フレッド・ハッチンソンガン研究センター Fred Hutchinson Cancer Research Center」を創立した。開所式にはセンター創設に尽力した功労者ジョー・ディマジオも出席した。
ウィリアムは1997年10月26日に亡くなったが、この日はなんと97年のワールドシリーズ(クリーブランド・インディアンズ対フロリダ・マーリンズ)の最終ゲームが行われ、マーリンズが優勝を決めた日で、医学者ウィリアム・ハッチンソンと野球との不思議な深い縁を、当時の地元シアトル・タイムズが記事にしている。
HistoryLink.org- the Free Online Encyclopedia of Washington State History


ウィリアム・ハッチンソンが弟フレッドにちなんで設立したフレッド・ハッチンソン・ガン研究センターFred Hutchinson Cancer Research Center)は、シアトルにあって、白血病治療の骨髄移植(bone marrow transplantation)などで世界的に有名な医学研究所のひとつに発展し、ノーベル賞科学者を含め数多くの才能がシアトルに集まることになった。
元ビートルズのドラマー、リンゴ・スターの最初の妻で、離婚後にハードロックカフェのオーナーと再婚したモーリン・コックスが94年に白血病治療の最中に亡くなったのも、このセンターである。モーリンがこのセンターに来たのも、息子のザックからこのセンターの得意とする骨髄の移植手術を受けるためだった。
現在のフレッド・ハッチンソン・ガン研究センターでは、2000数百名のスタッフが稼動しているという。1997年に創設者ウィリアム・ハッチンソンが高いしてからは、2001年に出芽酵母を用いた細胞周期の遺伝学的解析でノーベル医学・生理学賞を受賞したリーランド・ハートウェル博士がこのセンターの所長をつとめている。
Fred Hutchinson Cancer Research Center - Wikipedia, the free encyclopedia
リーランド・ハートウェル - Wikipedia


2004年にノーベル医学・生理学賞を受賞したリンダ・バック博士は、第二次大戦が終わってMLBが再開された46年の翌年、1947年にシアトルで生まれた。

リンダ・バック

博士がワシントン大学で心理学と微生物学の理学士号を取得したのは、フレッド・ハッチンソン・ガン研究センターが創設された、ちょうどその1975年である。
才能に溢れた彼女は、その後の素晴らしい業績によってハーバード大学終身教授にまでなったが、2002年に故郷シアトルのフレッド・ハッチンソン・ガン研究センターに籍を移して、2004年のノーベル賞を、シアトルの学者として受賞した。リンダ・バックは、センターで基礎医学を研究するとともに、母校ワシントン大学の生理学、生物物理学教授もつとめている。故郷とはいえ、ハーバードのノーベル賞学者がわざわざリターンしてくるのだから、いかにこの研究所の権威が高いかがわかる。
リンダの専門分野は、嗅覚や味覚といった感覚の研究だが、嗅覚細胞の受容体を説明するのに、彼女は「キャッチャーミット」と、野球的な表現をすることがあるらしい。また彼女は、味覚を5種類に分類するが、その5つは、辛い(bitter)、甘い(sweet)、塩辛い(salty)、すっぱい(sour)、うまみ(Umami)で、日本語の「うまみ(Umami)」を日本語の発音のまま、固有名詞として使用しているようだ。
Linda B. Buck - Wikipedia, the free encyclopedia
リンダ・バック博士にノーベル賞-フェロモンと寿命の関わりを描く--健康情報



ボストン・レッドソックスの左腕ジョン・レスターは、1984年にシアトル・マリナーズのマイナー、タコマ・レイニアーズのあるシアトル近郊のワシントン州タコマで生まれた。
レスターはメジャーデビューした2006年に、血液のガンである「悪性リンパ腫」の一種を患ったことは日本のMLBファンの間でも知らない人はいない話だが、彼のガンが判明したのは、2006年6月下旬に故郷シアトルに遠征している最中のことだったらしい。
彼は2006年冬までに化学療法を受けて病気に打ち勝つのだが、その化学療法を受けた場所というのが、彼の故郷シアトルのフレッド・ハッチンソン・ガン研究センターなのである。
彼は2007年のシーズン途中、7月に復帰を果たす。このシーズンこそ4勝に終わったが、翌2008シーズンに16勝6敗を挙げ、ノーヒット・ノーランも達成した。
この2008年のハッチ賞受賞者となったのが、フレッド・ハッチンソン・ガン研究センターでの治療で復活を遂げたジョン・レスターであり、彼は受賞にあたって、センター付属のHutch Schoolを訪問している。ちなみに彼をエスコートしてスピーチを行ったのは、ホール・オブ・フェイマー、トム・シーバーである。大病を体験した後だけに、受賞のときのレスターのコメントは何度も読める感慨深いものになっている。
Larry Stone | Jon Lester wins Hutch Award | Seattle Times Newspaper
Jon Lester wins 2008 Hutch Award - USATODAY.com
Lester will visit children at the Hutchinson Center's Hutch School and receive his award at the annual Hutch Award Luncheon on Jan. 21 at Safeco Field in Seattle. Hall of Fame pitcher Tom Seaver will be the keynote speaker.(中略)
He's received chemotherapy treatments at the Fred Hutchinson Center during the winter for the rare form of the disease, and doctors there declared him cancer free before the 2007 season.


そう。
Hutch賞を受賞したプレーヤーが、殿堂入り選手にエスコートされる形でフレッド・ハッチンソン・ガン研究センターにあるHutch Schoolを訪問することは、MLBとシアトルの、そして野球と医学の、長い歴史の上に成り立ったイベントなのである。

2010年のHutch賞を受賞したのは、アトランタの右腕ティム・ハドソン。彼をシアトルでエスコートした殿堂入り選手は、ジョー・モーガンであった。ティムはこの受賞によるシアトル訪問で、彼がオークランドに在籍していた時代に対戦したシアトルにまつわる思い出話をしているのだが、これがなかなか面白い。
彼は、いままでシアトルで経験した中で最も印象に残るゲームとして2000年、2001年のシアトルを挙げ、当時のシアトルのファンがいかに盛り上がっていたかを楽しげに語っている。

なんせ、2001年4月2日イチローの記念すべきメジャーデビューのゲームで、イチローが最初の最初に対戦したピッチャーというのが、このティム・ハドソンなのである(結果はセカンドゴロ)。そして、ティム・ハドソンはメジャーで10年を過ごしたイチローがメジャーで最も打てていない、打率の低い投手でもある。(だいたい2割1分台の打率のはず)
The Hot Stone League | Hutch Award winner Tim Hudson remembers Mariner glory days | Seattle Times Newspaper
Hudson said he's proud of the fact that he was the first pitcher to face Ichiro in the major leagues, on Opening Day of the 2001 season at Safeco Field. In his major-league debut, Ichiro grounded out to second base against Hudson.


たしかに長すぎる話だ。
だが、話が長いのには理由があることがわかってもらえただろうか。書いていて、Hutch賞にまつわる人々の「縁(えにし)」というものは、尋常じゃないものがあるとしか思えない。


この長い長い時間の流れをどう感じるかは読む人の勝手だが、間違ってほしくないことが、ひとつだけある。

Hutch賞を受賞した選手がHutch Schoolを訪問するのは、それが受賞の「おまけ」だから、ではない、ということ。まして、有名人だからかわいそうな人を慰問するとか、そういうたぐいのものでは、絶対にない。

そうじゃない。
Hutch賞はそもそも、その成り立ちからして、単なる野球の賞ではない。
フレッドとウィリアム、野球好きのハッチンソン兄弟の物語に始まって、ガンと闘うフレッド・ハッチンソン・ガン研究センターでの現代医学の発展と常に深い関係にあり、病気という人生の上で乗り越えなければならないハードルに立ち向かう患者と医師、そして野球というスポーツ、シアトルという場所、ぞれぞれのアクロバティックとさえ言える不可思議な結びつきとともに、この賞は創設され、発展を続けてきた。

シアトル生まれのフレッド・ハッチンソンは地元シアトルでメジャーデビューすることはなかった。60年代末になるまでシアトルにメジャー球団がなかったからだ。
シアトルにメジャー球団を持つことは悲願と言われ続けていたが、長年にわたって実現しなかった理由は、シックズ・スタジアムの設備の脆弱さのせいだといわれている。
だが、そのシックズ・スタジアムが世に送り出した選手のおかげで、シアトルには医学界の超メジャー施設といえるフレッド・ハッチンソン・ガン研究センターができ、そういう有力な研究所がシアトルにあるおかげで、シアトル生まれのノーベル賞学者リンダ・バック博士は医学者として故郷に戻ってくることができた。

本当に、人生に何が起きるかなんて、わからない。
人生に偶然なんてない、と、よく言うが、たしかにそれは本当かもしれないと思わせてくれるのが、Hutch賞の長い長い物語である。







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