August 19, 2011

前の記事を書いているときに気づいたのだが、投手の被BABIPとDERの関係が非常に強い相関関係にある、てなことを、さもひとつの大発見のように書いたり、BABIPという指標がどのくらい「運」を示すか、なんて無意味な議論に随分と執着している人がいる。
ブログ主は、よくまぁそこまで中身のない議論に時間を浪費できるものだと、ある意味、感心した(笑)


XとYという2つの要素の関係がグラフ上で「完璧に右下がりの直線として表現される」場合、普通はこの2つの要素の間に「なにか世界がひっくり返ったと感じるような神秘的な関係」など存在しないし、ありえない。

こういう場合に考えられるのは、単に「元々ひとつである全体現象を、代表的な2つのカテゴリーに分類した上で話を進めている」とか、「全体総量が決まっている現象において発生している2種類の結果が、相互に極端なパレート最適状態になっている」とか、「Xを算出するのに使ったのと全く同じ基礎データを、Yの算出時にも同時に使ってしまっているため、XとY、2つの数値同士にはもともと非常に強い相関が不可避的に存在している」とか、何かそういうハッキリした原因があって起きているだけのことだ。

被BABIPとDERの関係は、明らかに3番目のケース。
つまり、「2つの指標は、同じデータ群から出発して計算されているため、もともと非常に強い相関関係があるわけだが、それに気がつかない人がこれら2つの指標を比べてみたときには、2つの指標の間に『なにか偶然とはとても思えない、奇跡とでもいいたくなるほど強固な相関関係を発見できたように感じてしまう』という、ほぼ『錯覚』に近い現象」だと思う。

わかりづらいと思うので、たとえ話をしよう。

たとえば、人類全体に占める「女性の割合をX」、「男性の割合をY」、どちらにも属さないひとを定数Rとする。この場合、(男性の割合X+女性の割合Y)は、0.998とか、常に一定の数値になることは、誰にでもわかるはず。こういうXとYの関係をグラフで表現すると「右下がりの直線」にしかならない。
この場合、XとYが意味するのは、「人間」というもともとひとつだった全体現象を、「性別という視点」で2つのカテゴリーに分類してみただけの「分類ラベル」であって、(X+Y)は常に一定数値になるのが当たり前なのだ。これは神秘でもなんでもない。
そんな「いじりようがないデータ」を出発点にして、突然思考の落とし穴にはまって、いったい自分が男として(あるいは女として)生まれたことが「偶然」なのか、「必然」なのかを考え出したとしても、いくら必死に考えたところで結論など出るわけがない(笑)


もう少し別の角度から考えてみる。
いまたとえば、投手が打者に投げたボールをバッターが打ち、ボールがフィールドに飛んだとする。(つまり、四球でも、三振でもなく、またエラーは全体からみれば無視できるほど小さいとする)
変数X=野手が守備によって打球をアウトにした割合
変数Y=打球がヒットになった割合 (ホームラン除く)
定数R=ホームラン

注:変数XをDER、変数Yを被BABIPと、頭の中で置き換えてみてもらってもかまわない。

ホームランが出る確率をほぼ2%くらいの定数とみると、「ヒットになる確率Y」は、係数aを使って Y=1−(aX+0.02)みたいな単純な式として簡単に表現され、XとYの関係は「右下がりの直線」として非常に単純にグラフ化される。もしアウトになる割合が30%くらいの数値になるなら、ヒットになる割合は自然と70%くらいの数値に落ち着くことになるのは当然の話だ。

この場合、ヒットになる確率Yに、どのくらい偶然性が含まれるかを考える議論は、単に人類を男と女に分類していたときに、ふと自分はなぜ男に生まれてきたのか?と考え出して思考停止してしまう落とし穴現象と同じで、数式自体の意味とはまったく別の場所に存在している。
この数式自体が示しているのは、単に、「フィールドに飛んだ打球」というひとつの現象を、「現象X=守備によるアウト」と「現象Y=ヒットの発生」、2つのラベルに分類してみました、というシンプルな意味でしかない。

ただ、そのシンプルさは、野球というゲームのレベルの低さを意味するのではなくて、こういう単純さ、シンプルさこそ、野球というゲームの本質であり、野球のタクティクスの面白さのルーツになっていることを教えてくれる。
「バッテリーが、野手が守っていないところに打球がいかないように配球する」、「野手が、打球がいきそうな場所で守る」、「打者が、その場面で野手がいない場所に打球を打とうとする」、「野手が、誰も守っていない場所に飛んだ打球に、できる限り早く追いつこうとする」などなど。どれもこれも数字マニアが新たな指標を作る動機になりうる基本タクティクスだ。
こうした基本戦略は、複雑に表現しようと思えばいくらでも細分化できるし、細分化の過程で「指標とやら」をいくらでも発明できる(笑)たいていは、いつのまにか指標同士こんがらがって、出発点がどこだったかを忘れてしまい、ひょんなことから同じデータから計算した別の指標同士を比べて、同じデータから計算した双子の指標なのだから似ていて当たり前なのに、それを忘れて、世界の神秘を発見したような錯覚をおぼえたりする(笑)
だが、元を正せば、出発点は常に単純明快で、野球が「守備するプレーヤーがいるところに飛んだ打球はアウトであり、そうでないのがヒット」というシンプルな原則から出発している。


そもそも野球というゲームにおける「ヒット」について、「偶然性を100%排除して、完全に意図されたヒットだけを抽出し、それだけをヒットと呼びたい」と自分勝手に望むことは、なにかと押し付けがましいデータマニアがたいていたどり着く、単なる「個人的願望」でしかない。
個人レベルで何を考え、何を望もうとそれは自由だが、そういう「個人的願望」が、野球という歴史的ゲームの本質をまったく何も左右しないし、左右できもしないことや、野球の本質とは何の繋がりも持たないことくらい、いい加減にわかってもらわないと困る。
なのに、どうも最近、日米問わずだが、自分の「個人的願望」を、野球というゲームの本質と勝手に取り違えて発言している人が、あまりにも多い。日本人もアメリカ人も含め、いい加減、自分の考えを他人に押し付ける「計算ごっこ」が無価値なことくらい、わかってもよさそうなものだ。


これは卑下でもなんでもなくて言うのだが、野球におけるヒットの定義とは、もともと本質的には「フィールド上で、守備プレーヤーのいない場所に飛んだ打球」というくらいの意味しかもたされていない。つまり、「守備によってアウトにできないものを、ヒットといってみただけ」なのだ。「Xでない」と相対的に定義されたものに対して、いくら絶対的定義を求めようとしても、その作業は最初から無意味だ。

言い方を変えてみる。
ひとつのイニングに打っていいヒットの数には、上限はない。何十本ヒットを打とうが、かまわない。なぜなら、「イニングとは3つのアウトになるまでのプレーとして定義されている」のであって、「ヒットの数で定義されているわけではない」からだ。単純な話だ。
ここで頭に入れておかなければいけないのは、「アウトという存在が、いかに絶対的であるか」ということだ。
アウトになる行為は3つまでしか許されない。だが、ヒットはいくらでも、好きなだけオーケーで、「アウトでないもの」はいくら数多く存在していても大丈夫なのだ。そして、守備プレーヤーがアウトに「できる」確率から相対的に、守備プレーヤーがアウトに「できない」確率が計算でき、その大半がヒットと呼ばれる現象になる。
だからこそ、ヒットがどのくらい偶然に生まれるかが気になってしかたがない神経質すぎる人間が、いくらヒットの偶然性をゼロにできる数式をあみだそうと必死になっても、光の速度を誰も越えられないことをアインシュタインが相対性原理で証明してみせたように、そんな数式はもともとこの世のどこにも存在しないのだ。

アウトの絶対性から副次的に定義されるヒットは、アウトの絶対性を越えることは絶対にない」。野球においてこれまで誰も証明しなかったことだが、この記事でここまで書いてきた内容でほぼ証明が終わったように思う。


こんな単純な話がわからない人は
「野球盤」を思い出してみればいい。

フィールドに守備の選手が一定間隔を置いて並んでいる。守備の選手がいるところに打球が飛べば、その打球が、どんなに遠くに飛ぼうが、どんなにきわどいライン際に飛ぼうが、どんなに強烈なライナーが飛ぼうが、そこに守備の選手がいさえすれば、エラーでもしないかぎり、それは単純に「アウト」なのだ
つまり守備するプレーヤーがいるところに飛んだ打球がアウトであり、ヒットの本質とは、アウトにできない打球を放つこと、つまり、「守備でアウトにできない場所に打球が飛ぶこと」なのだ。
例えば、左打者と対戦しているピッチャーにインコースいっぱいだけを
投げさせ、同時に、ライトを守っているプレーヤーをライン上に立たせるとする。バッターがいくらライン際に強烈なライナーを打ったとしても、その打球は、普通ならツーベースヒットかスリーベースヒットだが、実際には「よくあるアウトのひとつ」になるだけのことだ。これは偶然でもなんでもない。
これはイチロー封じを目的に、かつてエンゼルスのマイク・ソーシア監督が実際のゲームでとった守備戦略だ。「守備している場所に打球を打たせる」戦略は、「アウトとは、守備プレーヤーがいるところに打球が飛ぶことだ」という「野球の本質」にダイレクトに根付いている。さすがソーシア。素晴らしい。


そして、「アウトでないもの」の成分は必ずしも偶然性100%ではない。なぜなら、「アウト」がかなりの部分で絶対的な成分でできている以上、「アウトでないもの」にも、かなりの絶対性がつきまとうはずだからだ。打球の質に絶対性が存在しないのは、例えば守備するプレーヤーがアウトにできる確率の問題があるからであって、運とは関係ない。
物事すべて単純化してからでしか思考を始められないような人が、アウト=必然だからといって、ヒット=偶然、そして(アウト+ヒット+ホームラン)=野球、とか、遠くに飛んだ打球だけが本物のヒットだとか、ミトコンドリア並みに単細胞なオツムで単純化しないとモノを考えられないのは勝手だが、その恥ずかしい子供じみた、間違った考えを、他人に押し付けるだけでなく、他人も自分と同じように考えるべきだ、自分だけは正しいと勝手に決め付けるのは、単なる馬鹿だ。

実際に野球の現場で起こっているのは
守備するプレーヤーのいる場所に飛んだ打球+守備のいない場所に飛んだ打球=野球
というシンプルな図式のゲームで、この図式は野球ができたときから変わってない。
「バッターがアウトになるのは、偶然か、必然か」など、考えたければ勝手にどうぞ(笑)いくら統計のチカラで歴史から逸脱できたつもりの計算馬鹿が、数字に溺れて死にかけたとしても、野球がもともと持っているシンプルなルールは何も変わらない。こんなシンプルなルールすら織り込めない計算などに、たいした意味などない。







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