November 26, 2011

海を見て育った自分には経験がないのだが、山を見上げて毎日をおくる、という行為には、何か特別な感覚があるようだ。岩手に住んでいる人は岩手山を見上げ、鹿児島の人は桜島を見て育つように、地元に力強い名山のある人は、その山の存在を、心の支え、支柱として、自分の背骨か何かのように感じつつ育ち、終生忘れない。
それぞれの地方にそれぞれ名山がある。なんとなく「自分の山」を持てた人を、うらやましく感じることがある。



阪急ブレーブス・近鉄バファローズを率いてそれぞれ初優勝に導いた西本幸雄さんがお亡くなりになられた。91歳。リーグ優勝8回。1988年野球殿堂入り。

西本さんは優勝経験が一度もない球団(阪急、近鉄)を、2つも初優勝に導いた。偉業というほかない。この事実だけで、西本さんはプロ野球ファンの記憶に永遠に残る資格があると思うし、また、野球殿堂入りに十分すぎる価値がある。優勝したことの無いチームを優勝させることが、野球の繁栄にとって、どれほど高い価値がある貢献であることか。
なにせ、野球は9人もの多人数でプレーするチームスポーツなのだから、そう簡単には強豪チームと弱小チームの戦力差を埋められない。
西本さんの選手育成やチームづくりの優れた手腕からは、数々の名選手と指導者が巣育ち、数々の名勝負が生まれた。

ちなみに、日本シリーズで勝てなかった西本さんを悲運の名将などと呼ぶ人がいるが、優勝の常連チームでないチームを日本シリーズに連れていくまでに育てるのだから、大舞台での経験不足が露呈するのは、やむをえない。そこは多少補正して手腕を評価しないとダメだと思う。



西本さんが現役時代に所属していたのは、1949年のエクスパンジョンで発足した毎日オリオンズである。西本さんは、このできたばかりの毎日オリオンズの選手として、翌50年にリーグ優勝と日本一を経験した。
よく知られているように、日本に2リーグ制がもたらされるきっかけになったのは、1949年の毎日オリオンズなどの新規球団加盟を巡る騒動であり、2リーグ制移行を推奨したコミッショナー正力松太郎氏の発言もあって、結局、電鉄系の賛成派がパ・リーグ、既存球団の反対派がセ・リーグを結成する形で収束した。
プロ野球は、この2リーグ制発足にともなうチーム数増加によって選手が大量に不足したことから、球団間の激しい選手争奪戦が起こり、当時プロにも遜色のない人気と実力があった社会人野球から、多くの実力ある選手がプロ野球に移った。

西本さんは、プロになる直前の1949年当時、九州の別府星野組という社会人野球の強豪チームで監督・一塁手・3番打者として都市対抗野球に出場し、日本一に輝いた。この別府星野組自身も1949年の2リーグ制移行の際にプロ野球新規加盟を申請したチームのひとつだったが、審査により加盟を却下されたため、西本さん自身含め、多くの主力選手がこのエクスパンジョンをきっかけにプロになったのである。(西本さんが別府星野組や毎日オリオンズ加入に至るまでの紆余曲折をめぐる資料は少ないが、たいへんな苦労があったようだ。 資料例:ya1goの部屋 : 野球の神様

西本さんのライバル三原脩氏(1983年殿堂入り)が後に監督に就任することになる西鉄ライオンズの前身、西鉄クリッパーズも、1949年の2リーグ制発足時に創設された新興チームのひとつだが、間髪置かずパ・リーグの中心チームになることに成功している。これは西鉄が、あわてて球団を持った近鉄などと違い、もともと戦前から社会人野球チームを保有していたことに加え、当時非常に盛んだった九州の社会人野球(八幡製鉄、別府星野組など)から有力選手を大量にかき集め、さらには他のプロ野球球団からも九州出身の有力選手を引き抜いたことで、すぐ優勝争いできるほどの戦力が整った、という当時の時代背景による。
三原監督時代の1950年代後半に西鉄は3連覇しているが、当時、2番に強打者を置く「流線型打線」で有名になった。好打者が揃わないと実現できない「流線型打線」は、当時の西鉄がいかに有力選手の集結した恵まれたチームだったか、という証明でもある。

西本さんがプロになったのは30歳になってからのことだが、これにはもちろん第二次大戦の影響がある。
去年2010年暮れに92歳で亡くなられた元クリーブランド・インディアンズの名投手ボブ・フェラーが、第二次大戦の従軍で4シーズンを棒にふったことについて、「もし大戦がなければ、350勝、3,000奪三振を達成していた」と言われているように、西本さんも、もし平和な時代にプレーしていたら、さぞかしもっと長く素晴らしい数字を現役生活で残していただろう。
だが、大戦前後のドタバタした難儀な時代に、西本さんは立教大学と社会人で監督兼選手としてキャリアを積んでいる。野球をやるのにけして適した時代ではなかったことがかえって、親分肌の強い西本さんに若いうちに監督経験を積ませることになったのだから、人生はわからない。



阪急ブレーブスは、2リーグ制発足以前からあった伝統あるプロ球団だったが、1950年代は低迷が続き、なにかにつけて「灰色」と揶揄されて呼ばれた。というのも、上で書いた1949年の2リーグ制発足による選手不足から引き起こされた球団間の選手引き抜き合戦により、阪急は、エース、主軸打者2人、キャッチャーと、多くの主力選手を失ったためだ。

西本さんが監督になってからの阪急ブレーブスは、1960年代のドラフトで、山田久志(2006年殿堂入り)、加藤秀司福本豊(2002年殿堂入り)、3人の名球会入りプレーヤーを指名して育て上げることでチームを立て直し、ついに67年に悲願のリーグ初優勝を遂げた。
阪急監督時代晩年のヘッドコーチは、逸材が育って油の乗ったチームを西本さんから引き継ぎ、後任監督として阪急を日本シリーズ3連覇などの黄金時代に導いた上田利治(2003年殿堂入り)。また山田久志は後に中日ドラゴンズのコーチ・監督として、岩瀬仁紀福留孝介荒木雅博井端弘和などを育てて、後の落合中日躍進の基礎を築いた。
ちなみに腰痛や肝炎に苦しみつつ1986年に読売を自由契約になった加藤秀司は、翌1987年に南海でかつての同僚山田久志からホームランを打ち、念願の2000本安打を達成しつつ同年限りで引退しているが、これは加藤の恩師西本さんが立教大学の後輩杉浦忠(1995年殿堂入り)に頼んで、苦境にあった加藤の南海移籍を実現し、花道をこしらえたらしい。

史上最高のサブマリン山田久志史上最高のサブマリン
山田久志


近鉄バファローズは、1949年の2リーグ制発足時にできた新興球団のひとつで、発足当時は近鉄パールスといった。だから、長い伝統のあった阪急ブレーブスとは球団の成り立ちそのものが違う。阪急がエクスパンジョンによる選手争奪戦に巻き込まれて他球団に主力選手を引き抜かれたことで低迷したのと違って、近鉄は球団発足当初から選手層が薄く、そのことが1970年代にまでわたる数十年間もの長期低迷の足かせになった。
(例えば、1950年入団で近鉄パールス設立以来の生え抜きである関根潤三氏(2003年殿堂入り)が1964年に愛する近鉄を退団せざるをえなかった件も、外から補強した選手ばかり厚遇し、生え抜きを大事にしない当時の球団の姿勢に腹を立てたためといわれており、これもある意味、球団創設時の選手層の薄さに端を発した弊害といえる)

西本さんは、このもともと選手層の薄い近鉄に、阪急をやめた1974年にやってきて、1979年から連覇を果たした。(当時の近鉄の編成部長は、西本さんの立教大学時代のチーフマネージャーだった中島正明氏)
なお、ごく稀に、この西本近鉄の初優勝に関して、三原監督時代の遺産などと誤った記述をしたがる人を見るが、優勝時の主力は、1972年入団の平野、羽田、梨田、佐々木恭介、73年入団有田、井本、74年栗橋、75年村田、79年マニエルと、いずれも70年の三原脩氏の近鉄退団以降に入団した選手たちの成長と活躍によるもの。西本近鉄はむしろ、74年土井正博、75年佐々木宏一郎、76年永淵洋三、77年伊勢孝夫と、前の時代の選手を放出し、新しい選手と入れ替えることで成立した。
西本さんの近鉄監督時代には、後に近鉄最後の監督になる梨田昌孝や、現フィラデルフィア・フィリーズ監督のチャーリー・マニエルがいる。西本さんの監督としての手腕は、海を渡り、フィリーズにも受け継がれることになった。
イチローを発掘した仰木彬(2004年殿堂入り)さんは、70年代の近鉄の上昇期にコーチをつとめて指導者経験を積んだが、このとき最も長く仕えた監督が、西本幸雄さんである。(仰木さんは後に、1994年に阪急ブレーブスから球団譲渡され後継球団となったオリックスの監督に就任するわけだが、オリックスの球団名は、ブレーブス(1988年11月)、ブルーウェーブ(1990年11月)、バファローズ(2004年12月)と変遷しており、仰木さん就任時は「オリックス・ブルーウェーブ」だった。いうなれば、仰木さんは、西本さんの育てた「阪急」を引き継いだのである)

顎を骨折した後も試合に出続けたチャーリー・マニエル顎を骨折した後のヘルメット
チャーリー・マニエル


「私もいろんな指導者に仕え、また見てきましたが、西本さんがNo1の指導者です。選手は育つと信じ切って戦い続けた方で、今の指導者が見習わなければならない姿勢です。」訃報を受けて、広岡達朗氏(1992年殿堂入り)。
広岡達朗氏「“次の近鉄の監督はおまえだ”と誘われたことを思い出す」 ― スポニチ Sponichi Annex 野球
「私の監督生活は、西本さんの阪急にいかに勝つか、から始まりました」野村克也氏(1989年殿堂入り)
西本幸雄氏逝去 ノムさん「日本一が見たかった」 ― スポニチ Sponichi Annex 野球
「落合博満を世に出してくれた大恩人」落合博満氏(2011年殿堂入り)
落合前監督「落合博満を世に出してくれた大恩人が西本さん」 ― スポニチ Sponichi Annex 野球

盗塁を狙う福本豊
(写真キャプション)やはりいい選手は、立ち姿自体が美しい。写真なのに、ふくもっさん、今にもセカンド方向に弾丸のように走り出しそうに見える。写真なのに(笑)
イチローは、ブルーウェーブ在籍時の恩師でもある福本さんのもつ先頭打者ホームラン記録43本に日米通算で並んだとき、「福本さん気にしないでください」と言い、福本さんは「気にしたことがない」と答えた。国民栄誉賞を、「そんなんもろたら立ちションもでけへんようになる」と固辞した人と、「まだ現役なんで」と2度も断った人同士は、やはり阿吽の呼吸なのである(笑)(1989年に現役引退した福本さんが打撃コーチに就任した時点のオリックスは、阪急から球団を譲り受けた直後なので「ブレーブス」。イチローが入団した1991年時点のオリックスは「ブルーウェーブ」で、福本さんが二軍監督をしていた)



監督としての西本さんの終生のライバルといえば、もちろん三原脩さんだが、イチローを世の中に送り出した仰木彬さんは、コーチとして、その西本さん、三原さん、2人の名監督の薫陶を受けている。言うなれば、仰木さんには、2人分の名将の血が流れていることになるわけだ。仰木さん自身も監督就任時のコメントで「三原脩と西本幸雄を足して2で割った監督になりたい」と語っている。



仰木さんは近鉄・オリックスを率いて、それぞれの球団から野茂英雄イチローを輩出した。
野茂さんがNOMOベースボールクラブをつくって選手育成に熱心なのも、なんとなくそういう西本・仰木両監督から受け継いだ選手育成の血のなせるわざかもしれない。
また西本幸雄さんとイチローは、ここまでの記述でわかるとおり、福本豊さん、仰木彬さんといった「西本幸雄人脈」を介して関係がきちんとつながっており、ブルーウェーブ時代のイチローは、いわば西本さんの阪急での流れを汲む「孫弟子」にあたる。(それになぞらえていえば、野茂英雄は、西本さんの近鉄における流れに沿った「孫弟子」)

西本さんは、「昭和の名野球人」であると同時に、指導者を育てる指導者」として、日本の野球にとっての「昭和の次の時代」を準備してくれた人でもある。



昭和の時代のプロ野球史に残る名場面、名勝負には、西本さんと西本さんの育てた選手たちの名前がそこらじゅうに登場する。
毎日オリオンズ監督時代の1960年、ライバル三原脩監督率いる大洋ホエールズとの日本シリーズ第2戦、1死満塁でスクイズにトライして失敗し、そのことをオーナーが批判したことが原因で監督を自ら辞めていることに始まり、1967年10月1日の西京極球場で阪急を球団創設初優勝に導いたときにネットの網ごしに無理矢理右手指2本をねじこんでスタンドにいたオーナーと交わした握手、近鉄監督時代の1974年に、初のリーグ優勝を賭けた試合で、阪急監督時代に育てた山田久志に敗れ去ったゲーム、近鉄監督時代の教え子梨田捕手と阪急時代の教え子福本豊との盗塁阻止を巡る逸話、1979年近鉄のリーグ初優勝後、広島カープとの日本シリーズ最終戦で、9回裏、1点ビハインドで迎えた1死満塁の逆転サヨナラ勝ちの好機を、名投手江夏豊に阻まれて3勝4敗で敗退、いわゆる「江夏の21球」を生んだことなど、エピソードが多すぎて、とても書ききれない。(ちなみに「江夏の21球」のあの場面、代走でセカンド走者にいたのが、女優吹石一恵さんの父上である吹石徳一)


名将、名勝負とともにあり。
西本幸雄さんは、日本野球史に残る「名山」である。
合掌し、謹んでご冥福を祈りたい。どうぞ、これからも日本の野球と野球選手を遠くから見守ってください。




この記事に登場した野球人 出身県一覧
西本幸雄  和歌山県 1988年野球殿堂入り
上田利治  徳島県  2003年野球殿堂入り
山田久志  秋田県  2006年野球殿堂入り
加藤秀司  静岡県
福本豊   大阪府  2002年野球殿堂入り
梨田昌孝  島根県
仰木彬   福岡県  2004年野球殿堂入り
イチロー   愛知県  現役
野茂英雄  大阪府
関根潤三  東京府  2003年野球殿堂入り
広岡達朗  広島県  1992年野球殿堂入り
杉浦忠   愛知県  1995年野球殿堂入り
野村克也  京都府  1989年野球殿堂入り
落合博満  秋田県  2011年野球殿堂入り
正力松太郎 富山県
三原脩   香川県  1983年野球殿堂入り
江夏豊   奈良県




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