March 07, 2012

リチャード・ブローティガン(Richard Brautigan 1935〜1984)は、シアトル・マリナーズのマイナーが置かれているワシントン州タコマ生まれの作家、詩人だ。


彼の名は、文学ファンには、村上春樹氏などに影響を与えたことなどでよく知られているわけだが、野球ファン、野球メディアにはどうだろう。ほとんど知られていないと思う。(ちなみに、春樹氏はかつて神宮球場近くでジャズ喫茶を経営していて、野球観戦中に作家になることを決めたらしい)
地元の文学者とはいえ、シアトルローカルの野球ライターたちの書くものにブローティガンの名前が出ることは、おそらくないだろう。かつてスポーツ評論にも類稀な才能をみせた寺山修司三島由紀夫が、スポーツライターには到底書けない独特の筆致で、ボクシングなど様々なスポーツの興奮やドラマを描き出してみせたような才覚が、シアトルのビートライターたちにあるとは到底思えない。(例えば三島氏はかつて、ある褐色の肌のボクサーのことを、『ひたひたと押し寄せる琥珀色の波だ』と描写してみせた)


さて、ブローティガン作品に、彼が1958年にサンフランシスコでプラプラしているとき書かれた、9つのパートからなる『The Galilee Hitch-Hiker(ガリラヤのヒッチハイカー)』(1958年5月初版)という詩がある。
この作品の7番目のパートは『A Baseball Game』というタイトルで、フランスの詩人ボードレールが観戦したニューヨーク・ヤンキースとデトロイト・タイガースの試合で起こった架空のハプニングが描かれている。(日本語訳は、『チャイナタウンからの葉書』池澤夏樹訳、あるいは個人ブログ等を参照)

Baudelaire went
to a baseball game
and bought a hot dog
and lit up a pipe
of opium.
The New York Yankees
were playing
the Detroit Tigers.
In the fourth inning
an angel committed
suicide by jumping
off a low cloud.
The angel landed
on second base,
causing the
whole infield
to crack like
a huge mirror.
The game was
called on
account of
fear.

この野球について書かれている(ように見える)詩の複雑な文学的解釈はそれ専門の人に任せておきたいが、「野球ファンとしての目線」から言うと、どうしても注釈をつけて、この詩を読む人にあらかじめ頭に入れておいてもらいたい点が、いくつかある。
大江健三郎氏に『万延元年のフットボール』というタイトルの作品(1967年)があり、村上春樹氏に『1973年のピンボール』という作品(1980年)があるが、『1958年の西海岸野球』には、他の年、他の場所には存在しない「特別な意味」がある。
だから、この詩を読むにあたっては、野球史的な意味も考慮に入れてもらわないと、この詩が、文学方面だけは詳しいが、野球についてはまるで詳しくない頭デッカチな人たちの手によって、あらぬ方向に解釈されてしまう気がしてしょうがない。(また、この作品自体の重さ自体がもともと、良くも悪くも「軽い」ということを忘れてはいけないと思う)



「1958年」の「サンフランシスコ」は
野球にとって、どういう時代と場所か?


この詩が書かれたのが、いつ、どこで、なのかはハッキリしている。9つのパートからなるこの詩の最後に、ブローティガン自身が、San Francisco / February 1958と明記しているからだ。
この「1958年のアメリカ西海岸において、野球について書くこと」の意味は、文学解釈の恍惚感からだけ、この詩を味わいたい人にとってはどうでもいいことだろうし、たぶん理解できないだろうとも思うが、20世紀のMLBの発展史にとっては、とても重要な「時代」と「場所」だ。

というのも、
MLB草創期からずっとニューヨークのブルックリンにあったドジャースが西海岸のロサンゼルスに、そして、同じくニューヨークのアッパー・マンハッタンにあったジャイアンツが西海岸のサンフランシスコに移転したのが、この「1958年」だからだ。(MLBの西海岸進出が現実化できた背景には、「広大すぎるアメリカ大陸を東西に短時間で横切ることを可能にしたジェット旅客機という移動手段の発明」もあるわけだが、それはまた別の機会にくわしく書く)

アメリカ東海岸を中心に始まったMLBが西海岸に進出しはじめた最初の年、そして簡単には行き来できなかった世界がジェット旅客機で結ばれ始めた年が、この「1958年」だ。

それまで西海岸には、エンゼルス(1961年創設)もなければ、ワシントン・セネタース(現テキサス・レンジャース 1961年創設)も、パドレス(1969年創設)も、ドジャースすらなかった。
それどころか、セントルイス・カージナルスの人気に圧倒されていた同じセントルイスのブラウンズが、活路を求めてボルチモアに移転し、ボルチモア・オリオールズとして生まれかわる1954年まで、アメリカのほぼ中央にある都市セントルイスよりも西、つまり、アメリカ合衆国の西半分に、MLBの球団は全く存在していなかった

中西部のセントルイスの位置


地形からみたアメリカ合衆国
地形からみたアメリカ


現在のMLB球団所在地の州別のバラつき
山地の多く都市が海岸にある西部では、球団は海岸部にある
MLBの球団所在地の州別のバラつき


Pan American World AirwaysMLBができて半世紀以上たっているにもかかわらず、1958年までアメリカ西海岸にMLBのチームがなかった理由のひとつは、「移動手段」だ。
ボーイング社のボーイング707やダグラス・エアクラフト社のDC-8といったジェット旅客機の名機が誕生するのは、1950年代後半になってからのことで、さらにジェット旅客機が大衆化するのはさらに下った1960年代なのだから、1950年代までは、いくら先進国アメリカといえど、野球チームが広大な北米大陸を東西に高速で自由に行き来できる移動手段そのものが存在していなかった。(例えば今はなきPan Amボーイング707がヨーロッパに初就航したのも、この1958年である(1958年10月26日ニューヨーク-パリ)。
もしジェット旅客機が発明されなかったらアメリカ最西部のシアトルにMLBのチームなどできることはなかったことを考えると、ボーイング社がシアトルにあることの意味は非常に面白い。(後にダグラス・エアクラフト社は、1967年にセントルイスのマクドネル・エアクラフト社と合併してマクドネル・ダグラス社となり、さらに1996年にはボーイング社に吸収されることになる)

Boeing 707Boeing 707
(Pan Am)

Douglas DC-8Douglas DC-8
(Trans Canada)


かつてニューヨークにあったジャイアンツの本拠地ポロ・グラウンズをめぐるジャイアンツとヤンキースとの間のトラブルと、軒を貸して母屋を取られたジャイアンツが活路を求めて西海岸へ移転する経緯については、下記の記事参照。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年8月25日、セーフコ、カムデンヤーズと、ヤンキースタジアムを比較して、1920年代のポロ・グラウンズとベーブ・ルースに始まり、新旧2つのヤンキースタジアムにも継承された「ポール際のホームランの伝統」を考える。


「1958年」の「ヤンキース」と「タイガース」は
どんな位置づけにあるか


MLBの歴史を眺めればすぐにわかることだが、
ア・リーグとナ・リーグは、発足当初、それぞれに8チームずつが属していたが、エクスパンジョンによる球団増加によって1969年に「東西2地区制」に、さらに1994年に現在の「3地区制」になった。
だから、ブローティガンがこの詩を書いた1958年2月早春の時点のヤンキースとタイガースは、現在のように、東地区のヤンキース、中地区のタイガースという別の地区の球団ではなく、「8球団が属するア・リーグの2チーム」なのだ。
1958 American League Season Summary - Baseball-Reference.com

1958年のMLBとア・リーグはどういう状況だったか。

ひとことでいうなら、いくつかあるヤンキース黄金時代のひとつだ。監督はケーシー・ステンゲル。選手にヨギ・ベラミッキー・マントル、サイ・ヤング賞投手ボブ・ターリー
1949年から1953年にかけてワールドシリーズ5連覇を達成したが、さらに50年代後半には1955年から1958年にかけてア・リーグ4連覇、ワールドシリーズも2度優勝しており、ドジャースとジャイアンツが西海岸に移転した1958年のワールドシリーズも、ヤンキースがハンク・アーロンのいたミルウォーキー・ブレーブスを4勝3敗で破って優勝している。
(1953年から1965年まで、ミルウォーキーには、現在のアトランタ・ブレーブスが本拠地を置いていた。ブレーブスが1953年に本拠地をボストンからミルウォーキーに移し、観客動員を28万人から182万人に激増させることに成功したことは、ニューヨーク・ジャイアンツのオーナー、Horace Stonehamが球団の西海岸移転を決めるきっかけになった。その後ブレーブスはミルウォーキーからアトランタに再移転。その後1970年にバド・セリグがブリュワーズを買収してミルウォーキーに移転させ、今日に至る)
New York Yankees Team History & Encyclopedia - Baseball-Reference.com


同時期のデトロイト・タイガースはどうだったかというと、長い低迷期が続いていた。当時はまだ現在のコメリカパークができる前で、Tiger Stadium(Briggs Stadium)が本拠地だったが、監督はコロコロ変わり、1950年代に優勝にからんだのは1950年の2位のみ。

Tiger Stadium
ブローティガンがこの詩を書いた1958年、デトロイト・タイガースは77勝77敗で、ア・リーグ5位。
ゴールドグラブ賞をイチローと同じライトのポジションで10回獲得して野球殿堂入りしているAl Kaline(アル・ケーライン)(彼の背番号6は、タイガースの永久欠番)が在籍していたとはいえ、チームに優勝の気配はまるで無かった。(この詩で描かれたゲームが、どちらのチームのフランチャイズで行われたと想定されているかについては、当時の両チームの力関係を考慮して考える必要があるだろう。また、実際のヤンキース対タイガース戦を前提にしてないとも限らない)

この時期のデトロイトが低迷し続けた理由として、長きにわたってアフリカ系アメリカ人選手の入団を拒み続けたことが指摘されている。
1947年にあのジャッキー・ロビンソンをメジャーデビューさせたのは、西海岸移転前のブルックリン・ドジャースだが(いわゆる『カラーバリヤー』の打破。このときジャッキー・ロビンソンを発掘したのが、当時現役を引退してブルックリン・ドジャースのスカウトになっていたジョージ・シスラー)、これをきっかけに多くのアフリカ系アメリカ人選手がMLBで活躍しはじめ、MLBのレベルが格段に向上していく時代になっても、門戸を閉ざしていたデトロイト・タイガースはその流れに取り残されることとなった、といわれている。

しかしながら、固く殻を閉ざしていたデトロイトに初のアフリカ系アメリカ人選手ウィリー・ホートンが初めて入団したのが、リチャード・ブローティガンがこのA Baseball Gameという詩を書いた1958年のことだったりするのだから面白い。
小学生のときから熱烈な野球ファンだった寺山修司などは、子供のとき感じた北の故郷と都会のプロ野球との「距離感」について、「北国の小さな農村の、小学生だった私にとって、プロ野球の存在というのは、蜃気楼のようなものにすぎなかった。」(『誰か故郷を想はざる』)と書いているわけだが、この「ジェット旅客機と黒人メジャーリーガーで飛躍的に変わりつつある時代」の空気は、西海岸に住んでいたブローティガンの目にどう映ったのだろう。
Detroit Tigers Team History & Encyclopedia - Baseball-Reference.com


西海岸に住むブローティガンが
東海岸で行われている「ヤンキース対タイガース戦」に
どんな情報と印象を持っていたか


A Baseball Gameという作品が書かれたのは、1958年2月。そして西海岸に移転したばかりのドジャースとウィリー・メイズのジャイアンツの初対戦が行われるのは、同じ1958年の4月だ。
1958年早春のサンフランシスコで、「今年からMLBのチームがサンフランシスコにやってきて、試合をする」という記念すべきシーズンを前にして、この街に住んでいる20代前半の若者が(ブローティガンは1935年1月30日生まれなので、1958年2月時点では23歳)「1958年の新しいホームチームの登場」にワクワクして、ちょっとした興奮状態にあったと考えても、全くおかしくない。

ブローティガンがヤンキースとタイガースについて持っている情報や印象はもちろん、「1957年までの、球団ロケーションが著しくアメリカ東部に偏っていたMLB」のイメージがベースになる。
かつて東中心だったアメリカ野球が、西のワシントン州タコマという田舎町に生まれ、新しい文化に飢えた若いブローティガンにどう見えていたのか。
もし野球が、当時のブローティガンにとって「都市文化への憧れ」だったとすれば、それは、いくつかの詩の中で、はるか遠くにあるフランスの文化への憧れを「ボードレール」という単語に置き換えてしまえるブローティガン特有の単純さにも通じる。(これは、かつて寺山修司が第二次大戦後のアメリカ野球の印象について書くとき、アルチュール・ランボーの詩を引用してみせたりする手法にも似ている。寺山の引用対象のランボーが、ブローティガンの憧れのボードレールと「関係のあった」人物だけに、この類似はなかなか面白い)

ただ、1958年まで西海岸にMLBの球団がなかった以上、ブローティガンが野球をどの程度のレベルで理解していたか、あるいはMLBの試合の観戦経験があったのかどうか、そしてそもそも、果たして野球自体が好きだったかどうかなどについては、きちんと検証しないかぎり、何も確かなことは言えない。



ブローティガンの「野球の理解度」について

日本人だって、相撲や野球が大嫌いな人もいるように、アメリカ人だからといって、野球やフットボールが大好きとは限らない。
だが、A Baseball Gameにおいて、天使が空から降ってきたのが「4回」というイニングだったと具体的に特定して書いていることからして、ブローティガンが野球のことをかなり理解していたことは確実だろうと思う。

この詩の翻訳を手がけた池澤夏樹氏は、1987年度下半期の芥川賞受賞作 『スティル・ライフ』 での雪やプラネタリウムに関する鮮やかすぎる筆致でもわかるとおり、大変に魅力的な文章を書く方だと思う。
だが、原文に In the fourth inning としか書かれていないものを、翻訳する立場の池澤氏が「四回表」と、勝手にイニングの裏表を特定する牽強付会な翻訳ぶりには、まったく賛成できない。
これは例えば下記のブログの方も指摘していることで、実はブログ主も最初にこの池澤訳を読んだとき、まったく同じことを思った。
/未来応答〜詩論/:リチャード・ブローティガン「チャイナタウンからの葉書」1968 82 - livedoor Blog(ブログ)

野球に少し詳しい人なら、(日本よりMLBのほうが、たとえ深夜になろうと、可能性がある限りゲームを中止しない傾向が強いにしても) 日米ともに「野球というゲームは、5回まで終わっていれば、試合として成立する」というルールがあることを知っている。

この「5回が終わっていれば試合成立」というルールが野球に存在する以上、
リチャード・ブローティガンが、「空から天使が降ってくる」という奇想天外なハプニングが起きるイニングを「4回」に設定して作品を書いたことは、偶然とは考えられない。
なぜなら、もし「天使が降ってきたハプニングが、5回以降だった」なら、「天使が降ってきて、みんなが驚いたのに、試合自体は成立してしまいました。チャンチャン」という、なんとも締まりのないストーリーになってしまう(笑)
どうみても、「4回」に奇想天外なハプニングが起きて、試合がうやむやになってノーゲームになってしまう、その「なんともいえない、うやむや感」をブローティガンが楽しんで書いたと考えるのでなければ、文学的にも野球的にも解釈が成り立たない。

以上の理由から、ハプニング発生を「4回」にわざわざ設定するブローティガンが、「野球のルールについて、ひととおりの知識を持っていたこと」について、ほぼ間違いないと考える。



あと、細かい指摘をひとつだけ。

天使はなぜ「二塁ベース」に落ちてきたのか。
なぜファーストでなく、サードでもないのか。

これについては、ともかく生死だからといって深刻な訳にせず、もっと「ゆるんゆるん」に、かつ野球のシーンに即して考えるのがベストと考える。
補殺とか、盗塁死、牽制死。とかく野球には、「死ぬ」だの、「殺す」だの、生死を示す言葉が非常によく出てくる。アウトカウントも「1死」「2死」とカウントするくらいのスポーツだ。
これはもちろん、実際の人命の生死を意味するのではなく、「野球というスポーツが、バッターやランナー、攻撃側選手が、プレー上の生死を味わうゲームである」であることからきている。(これはこれで意味深な話でもあるが)

だとしたら、
an angel committed suicide by jumping off a low cloud.(ひとりの天使が低くたれこめた雲から飛び降りて自殺した)というくだりを、「天使の自殺」と、重い意味で考える必要があるとは思えない。

どうだろう。
「野球好きの天使が、人間に隠れて、雲の上から下界の人気スポーツを見物」していて、「自分でも参加してみようとして、思わずやみくもに盗塁を試み、失敗してアウトになった」とか、あるいは、「雲から身を乗り出して野球観戦していて、ずり落ちて下界に落ち、死んでしまった」くらいの軽いユーモアととらえて、全然構わないのではないか。


とかく詩というと、深刻な内容だったり、過度にセンチメンタルだったり、また、ヘビーな内容ほど凄いとか思われがちなものだが、リチャード・ブローティガンに限っては、そんなモノサシは要らない。
他の作品も手にとってみた人はわかると思うが、いい意味で、すっとぼけたユーモア、いい意味で、軽くイっちゃってる飄々とした無頼さが、他の誰に書けないリチャード・ブローティガン特有のスタイルだからである。


付記:
The Galilee Hitch-Hiker(ガリラヤのヒッチハイカー)』は、上に挙げたブログの方も指摘しておられるが(/未来応答〜詩論/:リチャード・ブローティガン「チャイナタウンからの葉書」1968 67 - livedoor Blog(ブログ))、本来9つのパートからなる詩の「はず」だが、どういう理由でそういうことをするのかわからないが、2番目のパートにあたる『The American Hotel』という部分が、池澤夏樹訳『チャイナタウンからの葉書』に収録されていない。
このパート2は、アメリカのパブリックなサイトに公開されているので、いちおう転載させていただくことにする。


The American Hotel

Baudelaire was sitting
in a doorway with a wino
on San Francisco's skidrow.
The wino was a million
years old and could remember
dinosaurs.
Baudelaire and the wino
were drinking Petri Muscatel.
"One must always be drunk,"
said Baudelaire.
"I live in the American Hotel,"
said the wino. "And I can
remember dinosaurs."
"Be you drunken ceaselessly,"
said Baudelaire.

引用元:The Poetry of Richard Brautigan | Literary Kicks


そういえばサリンジャーに、『ナイン・ストーリーズ』(Nine Stories, 1953)という短編集があるが、ブローティガンのA Baseball Gameも、同じく9つのパートからなる。
サリンジャーの大傑作 『A Perfect Day for Bananafish』 (この作品タイトルに『バナナフィッシュにうってつけの日』と絶妙の日本語訳をつけたのが、野崎孝氏)で、主人公シーモアは最後に拳銃自殺してしまうのだが、実はブローティガンはリアルライフで同じ結末をたどった。作中のシーモアの性格と作家ブローティガンの文体は、非常に奇妙なシンクロが感じられて、ブログ主にはブローティガンは実はこの小説の登場人物なのではないかとすら思えたものだ。
(ちなみに、もしサリンジャーを知らない人でも、映画『フィールド・オブ・ドリームス』は知っているんじゃないだろうか。あの映画に登場するテレンス・マンという作家のモデルになったのが、サリンジャー。原作はW・P・キンセラの小説『シューレス・ジョー』だが、原作ではサリンジャーは実名で登場する)


それにしても、村上春樹氏訳のサリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(この作品のタイトルを『ライ麦畑でつかまえて』と絶妙な日本語訳にしたのは、村上春樹ではなく、これも野崎孝氏)といい、この池澤夏樹氏といい、翻訳となると、どうしてああも、「悪い意味の、ゆるんゆるん感」というか、「プラスチック粒が大量に混じったチャーハンを食べているかのような夾雑感」が出てきてしまうのだろう。
一度買ってみたことがあるのだが、村上版『ライ麦畑』は、独特の翻訳の調子がどうにもこうにも性に合わず、15ページも耐えられずに捨ててしまった(苦笑)
池澤氏のこの訳にしても、たとえばA Baseball Gameというタイトルを、『野球試合』、つまり「やきゅうじあい」とか訳してしまうのが、どうにも、いただけない(笑) 「」という濁音の部分が、鍋ものを食べたあとの「おじや」みたいで、音感の悪さがどうにもこうにも耐え難い(笑)
「野球試合」という言葉は、そもそも普通に使われる日本語にはない言葉で、ある種の造語と考慮するにしても、ここでそれが成功しているとは言い難い。

日本には野球文化がある国なのだから、ここは無理に明治時代を匂わせるような漢字に変換しなくても、「ベースボールゲーム」と、カタカナで訳しておけばそれで十分だ。翻訳者のプラスチック製ノイズの介在は、野球史から、そして文字を味わう味覚や音感からも、ここでは必要ない。

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