March 24, 2012

1960年、サンフランシスコ・ジャイアンツ来日と
西本幸雄率いる大毎オリオンズ優勝


1958年(昭和33年)に東のニューヨークからアメリカ西海岸に移転したサンフランシスコ・ジャイアンツは、1960年に新しい本拠地キャンドルスティック・パークを華々しく開場させ、観客動員を激増させることに成功した。
同じ60年の10月、ジャイアンツは日米野球に、ウィリー・メイズウィリー・マッコビーオーランド・セペダなど、後のホール・オブ・フェイマーだらけのベストメンバーで三度目の来日を果たしている。このときジャイアンツの西海岸招致に力を尽くしたサンフランシスコ市も、市長みずからが200名もの応援団を率いて日本にやってきた。
ジャイアンツは初戦の巨人戦と第2戦の全日本選抜戦(いずれも後楽園)を落としたものの、その後、北は札幌から、南は下関、平和台まで足を延ばし、11勝4敗1分という結果を残して遠征を終えた。


現役時代の西本幸雄が、紆余曲折の末に1950年に毎日オリオンズに入団し、プロになった複雑な経緯を記した資料の数々に目を通すと、MLBがアメリカ東海岸から西に拡大しつつあった当時、いくら日本のプロ野球がMLBの後を追うように球団数を増やし、2リーグ制も始まって急速な拡大をみせつつあったとはいえ、まだまだ不安定だったことがよくわかる。
戦後すぐの時代、日本のプロ野球はまだ経営基盤が弱く、プロ野球選手の身分も実力も安定したものとは言い難かった。例えば1949年に来日したサンフランシスコ・シールズと対戦した日本側投手のひとりは、前年の都市対抗の優勝チーム西日本鉄道からプロの南海に入団したばかりの武末悉昌投手であったように、まだノンプロとプロ野球の選手たちの実力は玉石混合で、プロがアマチュアに決定的な実力差をみせつけられるほど、プロ野球そのものが育っていなかった。
それだけに1950年代の日本の野球は、あくまで西本幸雄や永田雅一などのような「野球に夢をはせた個人の、見果てぬ夢」に支えられて成り立っていた。(だから後世の人が、この時代の野球関係者のある種の我儘さ、アクの強さを時代背景を無視して批判するのはお門違いだと、ブログ主は考える。戦後すぐの不安定な時代に「野球だけで生き抜いていく」なんてことは、個人の強烈な自己主張に頼らなければできなかった、そういう時代だったのである)

また、プロ野球がまだまだ未成熟な時代だったからこそ、「日米野球」の存在はさまざまな意味で役立った。日米野球は、日本国内の野球ファンに「MLBの高い天井」をみせつけ、野球という未知数なスポーツが「将来は、こうなるんだぞ」と将来像をファンの脳裏に強烈に焼き付け、日本野球を安定させるための第一歩となったのである。


サンフランシスコ・ジャイアンツ来日の1960年に、日本のプロ野球で2度目のリーグ優勝を果たしたのが、この年に監督就任したばかりの西本幸雄率いる大毎オリオンズだ。
大毎オリオンズは、ドジャースとジャイアンツがアメリカ西海岸に移転した、ちょうど同じ1958年(昭和33年)に、大映ユニオンズと毎日オリオンズが合併して出来たばかりの球団で、西本監督のもと、榎本喜八、山内和弘、田宮謙次郎などの強打者をズラリ並べた「ミサイル打線」でリーグ制覇を飾った。
だが、日本シリーズは宿敵三原脩の大洋ホエールズに4連敗。リーグ優勝したにもかかわらず、オーナー永田雅一との衝突によって西本幸雄監督がわずか1年で解任された事件は、日本野球史に残る有名な出来事のひとつになった。(そんなわけで、58年のみ指揮してクビになってしまった西本幸雄は、62年にできた東京スタジアムに大毎オリオンズ監督として登場することはなかった)
後に西本幸雄は、阪急、さらに近鉄と、「優勝経験の無いチーム」を2つも優勝させて日本の野球史を大きく塗り替え、野茂イチローダルビッシュを生んだパ・リーグを育てて、鮭が故郷の川に帰るように、日本野球が野球の故郷であるアメリカMLBへ遡上していく土壌をつくることになる。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年11月25日、「名山」、西本幸雄。指導者を育てた指導者。


キャンドルスティック・パークを模範にした
東京スタジアムの開場

Tokyo Stadium
1962年(昭和37年)5月31日開場〜1972年(昭和47年)
1977年(昭和52年)取り壊し
東京スタジアム(外観)

東京スタジアム

ニューヨーク時代のジャイアンツの本拠地ポロ・グラウンズが、ヤンキースなどとの共用球場だったように、かつて日本のプロ野球も本拠地を共用しあっていた時代がある。
例えば後楽園球場は、読売ジャイアンツ、国鉄スワローズ、毎日大映オリオンズ(=後の大毎オリオンズ)の3球団が本拠地としていたため、試合日程の過密さが問題になっていた。(ちなみに後述の東京スタジアムも、大毎がスワローズに貸し出していた)

そのため、1958年に西本監督を解任した大毎オーナー、大映社長永田雅一は、自前の本拠地の建設を決意し、サンフランシスコのキャンドルスティック・パークをモデルに多額の私財を投じて、新球場を作った。

それが、かつて東京の荒川区南千住にあった、日本の幻の名ボールパーク、東京スタジアムだ。

「光の球場」東京スタジアムの照明

東京スタジアムのゴンドラシート
東京スタジアムのゴンドラシート
資料:『あの頃こんな球場があった』28p 佐野正幸著 草思社 2006年)


総工費30億円をかけ1960年に開場した、東京スタジアムは35,000人収容で、立ち見を入れると42,000人収容できたらしい。別名「光の球場」と呼ばれ、当時としては画期的すぎるほどの先進設備を誇っていた。
天然芝の内外野。プラスチック製の独立シート、電光掲示、ゴンドラ席、内野席下のブルペン、バリアフリー。ボーリング場、スケートリンクの併設。東京スタジアムの設備の先進性をほめたたえるウェブサイトは非常に多いが、大袈裟でなく、東京スタジアムは球場設備の話題だけでブログがひとつできてしまう。

1962年5月31日の東京スタジアムの開場セレモニーで行われた始球式Ceremonial first pitch)は、マウンドから投げる日本式ではなく、一塁側ダッグアウトからのアメリカ式だったらしく、キャンドルスティック・パークをモデルにこの球場を作ったオーナー永田雅一のMLBに対する強い憧れがよくわかる。
(MLBで始球式といえば、かつては有名人が客席最前列からボールをグラウンドにいるピッチャーまたはキャッチャーにトスするのが通例だった。だが、いつのころからかアメリカでも、日本のようにマウンドからキャッチャーに向かって投げるスタイルに変わってきている。ただしMLBでは、日本のようにバッターが打席に立ったりはしない)

アメリカ式の始球式
MLB方式の「始球式」


東京スタジアムの開場セレモニーで永田オーナーが観客に「皆さん、パ・リーグを愛してください!」と絶叫したことは非常に有名。西本幸雄と袂を分かった永田も、時をおいて眺めれば、結局は西本幸雄と全く同じ「野球を愛し、パ・リーグを盛り上げた功労者」のひとりなのだ。
セレモニー後、午後7時から東京スタジアムのこけら落とし「大毎オリオンズ対南海ホークス」7回戦が行われ、南海野村克也が東京スタジアム第1号ホームランをスタンドに放りこんだ。東京スタジアムは、全体的に狭く、なおかつ左中間・右中間の膨らみがほとんどないヤンキー・スタジアムに似た形状のヒッターズ・パークだったため、ホームランが非常に出やすく、そのため小山正明魔球パームボールを駆使することで1964年30勝を挙げた。
ちなみに、現在でこそ『東京音頭』は、神宮球場を本拠地にしている東京ヤクルト・スワローズの応援歌だと思われているが、1960年代(昭和40年代)には、東京スタジアムで歌われる大毎オリオンズ応援歌だった。


県営宮城球場の一時使用と
東京スタジアムの閉場・取り壊し

Tokyo Stadium
〜1977年(昭和52年)
1960年代半ば、日本映画は急激な不振に見舞われ、大毎オリオンズの親会社、大映は、お抱えの大スターの急逝や新人スター不在などから窮地に追い込まれ、1971年12月に破産。
オリオンズの球団所有権と、東京スタジアムの球場経営権は、それぞれ別々の所有者の手から手へ移り変わっていき、やがてオリオンズは本拠地球場を持たないジプシー球団として各地を転々することになる。
オリオンズはその後1973年から宮城県を準フランチャイズとして割り当てられ、県営宮城球場をとりあえずの本拠地として延命したが、一方の東京スタジアムは赤字が続き、1973年6月1日に解散することになった。オリオンズの東京スタジアム復帰もささやかれたが、結局実現せず、東京スタジアムは1977年3月に東京都に売り渡され、同年解体。かつてシールズ・スタジアムの跡地がショッピングセンターになったように、東京スタジアムの跡地は荒川区の区民施設になった。
(ジプシー球団オリオンズはその後、1978年に川崎球場を本拠地にしていた大洋ホエールズが新球場・横浜スタジアムに移転した際、川崎球場に本拠地を見出して移転した)


県営宮城球場の改修による
クリネックススタジアム宮城に至る道のり

Kleenex Stadium Miyagi
1950年(昭和25年)5月5日〜

県営宮城球場は、1950年5月27日竣工だが、それを前に、こけら落としとして同年5月5日、パ・リーグ公式戦、毎日オリオンズ対南海ホークス、毎日オリオンズ対大映スターズの変則ダブルヘッダーが組まれた。
その後、関係者の努力により改修に対する長年の要望がかない、現在の「クリネックススタジアム宮城」(2008年2月〜)に至っている。
ちなみクリネックススタジアム宮城のデザインは、左右対称、扇型の外野フェンス、人工芝、ファウルグラウンドの作り、いろいろな点で、1960年代中盤から80年代にかけて作られたクッキー・カッター・スタジアムっぽさが残った昔のMLBスタイルだ。かつて評判の悪かったフィラデルフィアのヴェテランズ・スタジアムや、ピッツバーグのスリー・リバース・スタジアムのレイアウトに似ている気がする。
人工芝であるという点で、このボールパークが、天然芝だった東京スタジアムの伝統を引き継いでいないのは、正直、残念な限り。日本の球場での人工芝の時代は、いったいいつまで続くのだろうか。収容能力や耐震性能の問題からも、遠からず新球場が必要になるだろう。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年8月21日、ボルチモアのカムデンヤーズは、セーフコのお手本になった「新古典主義建築のボールパーク」。80年代のクッキーカッター・スタジアムさながらの問題を抱える「日本のスタジアム」。

日本製紙クリネックススタジアム宮城



こうして長々と野球史をふりかえってみると、現代の日本の東北に宮城球場というプロ用ボールパークがあることは、突然歴史が始まったわけではなくて、日本野球の長い歴史がバックグラウンドにあってこその話であることがわかる。
わからないものだ。もし、あの「光る球場」と賞賛された東京スタジアムの消滅に前後してオリオンズが路頭に迷い、紆余曲折をへて東北に一時的に身を寄せていなければ、もしかすると東北でのプロ野球の歴史は生まれていなかったかもしれないのだ。


1958年に、ブルックリン・ドジャースとニューヨーク・ジャイアンツが東のニューヨークから西海岸に移転して起こった「ボールパーク・ドミノ」は、MLBの古典である古き良き木製ボールパークの時代に終止符を打ち、鉄骨とコンクリートでできたコンクリート・ドーナツ時代に道を開くわけだが、その影響はアメリカ国内だけに留まらず、日米野球でのMLB球団来日や、日本のプレーヤーのキャンプへの招待などの交流によって、日本に「アメリカ野球に対する強い憧れ」を生みだした。
その「憧れ」は、めぐりめぐって永田雅一の東京スタジアムを生み、さらに、その精神の一部は現在の東北・宮城にも受け継がれている。


野球の「つながり」を辿っていく作業は、本当に面白くて、やみつきになる。(このシリーズをまとめるための一ヶ月にわたる長い作業も、無駄な部分を切り落とすのが大変だった。話が複雑化するのを防ぐために、たくさんのプロ野球選手を生んだハワイ朝日軍にも、日米の野球の橋渡しをしたキャピー原田にも触れず、ヒット・エンド・ランを発明したかつてのジャイアンツの名監督ジョン・マグローにすら触れていない)

ベーブ・ルースもプレーしたニューヨークの今は無きエベッツ・フィールドポロ・グラウンズに始まり、大陸を横断した西海岸のロサンゼルス・メモリアル・コロシアム、シールズ・スタジアム、チェニー・スタジアム。キャンドルスティック・パーク、ドジャー・スタジアム。シェイ・スタジアム。そして海の向こうの東京スタジアム、クリネックススタジアム宮城まで。


時間と大陸と海を越え、脈々と伝え続けられてきたものは、いったい何だったのだろう。


それは野球に対する、やみくもな熱だ。(忌野清志郎のいう『デイ・ドリーム・ビリーバー』というやつだ)
あまりに月並みで恐縮だが、他に言葉がみつからない。
2012年シーズン開幕を前に、野球の世界を築いてきた先人たちの努力の歴史に、あらためて心からの敬意を表したい。
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ずっと夢を見て
今も見てる。僕は
デイ・ドリーム・ビリーバー。そんで
彼女はクイーン

ずっと夢見させて
くれて有難う。僕は
デイ・ドリーム・ビリーバー。そんで
彼女はクイーン

 『デイ・ドリーム・ビリーバー』
 オリジナル詞・曲 Jhon Stewart(モンキーズ)
 cover by THE TIMERS
 Japanese lyric by 忌野清志郎


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