March 22, 2012

1950年にブルックリン・ドジャースのオーナーになったウォルター・オマリーが、後に「20世紀の三大悪人は、ヒトラー、スターリン、そしてウォルター・オマリー」などと酷く罵倒されることになった理由は、もちろんブルックリンの超人気球団だったドジャース(なんでも1946年からの10年間に、当時東西制導入前の8球団制ナ・リーグの全収入の44パーセントを稼ぎだしていたらしい)の西海岸移転を決めたからだが、1958年のドジャースとジャイアンツの西海岸移転が、それまで東に著しく偏っていたMLBを全米へ拡張させ、さらには、この2球団を中心にMLBが積極的な日本遠征を繰り返したことで、MLBの全米への影響力拡大や、また日本における野球人気向上にも大きく貢献したことを考えると、ウォルター・オマリーが当時のジャイアンツのオーナー、Horace Stonehamを説得して、1958年のドジャースとジャイアンツ同時の西海岸移転を決断させたことは、怒るのも無理はないブルックリン地元民のやるせない憤懣はともかくとして、野球界全体の発展からみるかぎり、大英断だったといえる。


ボールパーク・ドミノ

プロスポーツにおける球団移転は、本拠地とするスタジアムの変更を意味しており、移転先では新スタジアムが建設されることが多い。
1958年に起きたニューヨークの2大球団、ドジャースとジャイアンツの西海岸への移転は、MLB史にとって、ボールパークの流れを大きく変える転換点となった
この1958年の西海岸移転によって、アメリカ東部にあった由緒ある(だが老朽化した)MLB草創期のボールパークのいくつかが閉鎖され、その一方で、西海岸での新しいボールパークの建設(そしてニューヨークでの新しい球団とボールパークの創設)をもたらし、いわば「ボールパークのドミノ倒し現象」とでもいうような連鎖現象を生んだ。
そして、この連鎖的なスタジアム建設の流れの中で、ボールパークの建築方法は、古典的な木製の時代から、鉄骨とコンクリートでできた左右対称のコンクリートドーナツの時代に向かっていくことになる。
このボールパークの取り壊しと建設の連鎖的な流れを「ボールパーク・ドミノ」と呼ぶことにすれば、この「1958年のボールパーク・ドミノ」の影響は、アメリカ国内はもちろん、当時まだ整備が進められている最中で基盤の弱かった日本のプロ野球にも影響を与えた。

(ちなみに、ボールパークを扱ったサイトというのは、アルファベット順に羅列しているサイトが多い。それはそれでデータとしての使いやすさがあるのだけれど、その一方で、羅列は歴史ではない。
歴史というのは大河のようなもので、流れ、つまり、一定のストーリーがある。ボールパークについてのサイトの多くは、ボールパーク同士のつながりがストーリーとして、きちんと流れにまとめられていないことが多い)


エベッツ・フィールドの閉場
Ebbets Field
1913年4月5日〜1957年9月24日


Ebbets Field

ブルックリン・ドジャースで球団創設以来42年もの長きにわたって運営にたずさわったオーナー、チャーリー・エベッツは、建築デザイナーでもあり、本拠地エベッツ・フィールドはオーナーであるエベッツ自身の構想による由緒あるボールパークで、9回ものワールドシリーズが行われたが、1958年のドジャース西海岸移転により、歴史の舞台から姿を消すことになった。
ドジャースがブルックリンからロサンゼルスに移転したときのGMは、Buzzie Bavasi(1951〜1968)。かつてシアトル・マリナーズのGMをつとめたビル・バベジの父親である。
エベッツでの最後のゲームは、1957年9月24日火曜日のドジャース対パイレーツ戦で、観客はわずか6,702人。これは当時の人気球団ドジャースのゲームとしては少ない。また、最終戦の前にエベッツで行われたフィリーズ3連戦(1957年9月20日〜22日)でも、観客動員数は6,749、5,118、6,662と冴えなかった。地元ブルックリンの野球ファンは閉鎖するエベッツに来場しないことで、オマリーのドジャース西海岸移転に強い抗議の感情を表した。
September 24, 1957 Pittsburgh Pirates at Brooklyn Dodgers Box Score and Play by Play - Baseball-Reference.com
MLB草創期のボールパークは木製だったため、常に火災の危険がつきまとい、実際、火災で多くのボールパークが焼失している。(後述のポロ・グラウンズも1911年4月の火災によって一度焼失し、後に再建された)
しかし、エベッツ・フィールドは鉄筋とコンクリートでできたボールパークで、当時としては画期的な構造であり、収容人員も23000人と当初は十分だった。
だが、熱狂的なドジャース人気の高まりとともに多数の観客がエベッツ・フィールドに押しかけるようになると、球場はすぐに手狭になってしまい、外野席の度重なる拡張などで収容人員をなんとか32000人くらいまで拡張できたものの、それでもオーナーのウォルター・オマリーにしてみれば、エベッツの手狭さは大いに不満で、ニューヨーク市にもちかけた移転交渉が頓挫したこともあり、彼に西海岸移転を決断させる原因になった。1960年2月23日にエベッツ・フィールドは取り壊され、いったんは歴史を閉じた。

オリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズオリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズ

だが、後にクッキーカッター・スタジアムからの脱却をめざして建設されだした『新古典主義』といわれる新しいボールパークの建築様式のさきがけとなったボルチモアの『オリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズ』(1992年)が、チャーリー・エベッツの傑作エベッツ・フィールドをお手本にして作られたことから、エベッツ・フィールド風のボールパークのスタイルは、数十年の時を隔てた90年代以降にアメリカ各地で次々と復活を遂げることになる。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年8月21日、ボルチモアのカムデンヤーズは、セーフコのお手本になった「新古典主義建築のボールパーク」。80年代のクッキーカッター・スタジアムさながらの問題を抱える「日本のスタジアム」。



ポロ・グラウンズの閉場
Polo Grounds
1890年4月19日〜1963年12月



Polo Grounds
ニューヨークのアッパー・マンハッタンにあったポロ・グラウンズは、MLBニューヨーク・ジャイアンツが1883年から1957年までの長きにわたって使用していたボールパーク。1919年にジャイアンツを買い取ったオーナー、Charles Stonehamは、後にジャイアンツのオーナー職を受け継ぐことになる、息子のHorace Stonehamに、ボロ・グラウンズで切符のモギリから、あらゆる仕事を体験させ、野球にかかわる仕事の全てを教え込んだ。
ヤンキースの台頭による観客動員低迷に泣いたジャイアンツは、かつてボストンにあったブレーブスがセントルイスに移転して大成功を収めたのをみて、ドジャースのオーナー、ウォルター・オマリーの説得に応じ、サンフランシスコ移転を決意した。ジャイアンツは1957年秋を最後に、伝統あるポロ・グラウンズを去った。
ジャイアンツのポロ・グラウンズにおける最終ゲームは1957年9月29日のパイレーツ戦。奇しくも5日前、1957年9月24日には、同じくニューヨークを去って西海岸に移転するブルックリン・ドジャースがエベッツ・フィールドでの最後となるゲームで、やはりパイレーツと対戦していた。ニューヨークを去る2チームのホームパーク最終戦が、奇しくも2つともパイレーツとのゲームになったわけだ。
September 29, 1957 Pittsburgh Pirates at New York Giants Box Score and Play by Play - Baseball-Reference.com

ポロ・グラウンズからジャイアンツが去って以降は、いくつかのプロスポーツチーム(例えば1962年創設の新球団ニューヨーク・メッツなど)がこのスタジアムをを使い続けたが、結局長続きせず、1963年12月にはポロ・グラウンズは閉場。1964年4月には取り壊され、ポロ・グラウンズの長い長い歴史は終わった。

ブログ注:火災による消失や増改築を繰り返したポロ・グラウンズの歴史は、いくつかの期間に区分されるのが普通なのだが、区分を、「機銑犬泙任裡幹」とするか、「機銑垢泙任裡鬼」とするか?については、英語サイトでも意見が2つに割れてしまっている。
そのため、ジャイアンツがニューヨークのチームとしての最後のゲームである1957年9月29日パイレーツ戦のスタジアムは、「Polo Grounds 検廚班週するサイトと、「Polo Grounds 后廚班週するサイト、2種類が存在する。
例えば超有名野球データサイトBaseball Referenceでは、ジャイアンツが最終戦を行ったポロ・グラウンズをPolo Grounds と表記している。だが、アメリカ版Wikiや、Baseball Almanacのように、Polo Grounds と表記するサイトも多く存在する。また、ジャイアンツ公式サイトでは、「1911年から1957年にかけてのポロ・グラウンズ」を、Polo Grounds と表記しており、有力サイトBaseball Referenceと公式サイトが表記を異にしているのだから、ちょっと困る。
「区分が2種類に分かれる原因」は、どうも「1889年から90年にかけての資料の乏しい時代のポロ・グラウンズを、兇肇ウントするか、靴箸垢襪」という微妙な点に原因があるようだが、詳しいことはわからない。
Giants Ballparks | SFGiants.com: History
だが、そういう細部にこだわらずにおくなら、「ジャイアンツの西海岸移転直前のポロ・グラウンズ」については、あらゆるサイトの意見が一致している。それを犬班週するか、垢班週するかという「数え方の問題」はあることを別にすれば、「ジャイアンツが西海岸に移転する直前まで使用していたスタジアム」は、「1911年から1957年までのポロ・グラウンズ」である。
San Francisco Giants - Home Stadiums | Heritage Uniforms and Jerseys

さて、よく知られているように、ポロ・グラウンズは当初ジャイアンツがヤンキースに「貸して」いた。しかし1920年にヤンキースがボストンからベーブ・ルースを獲得すると、ニューヨーカーの野球人気は飛ぶボール、ホームランの出やすい球場の派手なヤンキースに大きくシフトしてしまい、ジャイアンツはいわば「軒を貸して母屋をとられる形」になった。
怒り心頭のジャイアンツはヤンキースに対し「1921年以降のポロ・グラウンズ使用を禁じる」と通告したが、ヤンキースはポロ・グラウンズのハーレム・リバーを挟んでちょうど反対側にあるブロンクスに旧・ヤンキースタジアム(1923〜2008)を建設して本拠地を移したため、ヤンキース人気に歯止めをかけることはできなかった。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年8月25日、セーフコ、カムデンヤーズと、ヤンキースタジアムを比較して、1920年代のポロ・グラウンズとベーブ・ルースに始まり、新旧2つのヤンキースタジアムにも継承された「ポール際のホームランの伝統」を考える。

(2)へつづく
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (2)ロサンゼルス・メモリアル・コロシアム、シールズ・スタジアムの一時使用と、チェニー・スタジアムの建設

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