March 22, 2012

ロサンゼルス・メモリアル・コロシアムの一時使用
Los Angeles Memorial Coliseum
1923年5月1日〜
ボールパークだった時代のLos Angeles Memorial Coliseum

1958年、ブルックリン・ドジャースが西海岸に移転するにあたって、新球場ドジャー・スタジアムが1962年に完成するまでの4シーズン一時使用したロサンゼルス・メモリアル・コロシアムは、もともとは陸上競技場で、1923年5月の開場。1932年と1984年の2度、夏のオリンピックで開会式・閉会式会場および陸上競技のメイン会場となり、現在はカレッジフットボール、USC(南カリフォルニア大学)トロージャンズの本拠地となっている。
なんとも情けないことに日本のWikiにすら書き漏らされているが、1932年夏の五輪で、日本の西竹一中尉が金メダルを獲得したのが、まさにこのコロシアムで行われた馬術競技であり、特徴あるコロシアム入り口には「JAPAN TAKEICHI NISHI」と刻まれた銅製プレートが残されている。
Equestrian at the 1932 Summer Olympics - Wikipedia, the free encyclopedia
(当時の馬術競技の記録映像は横浜・根岸にある馬の博物館に、西中尉の金メダルは東京・国立競技場内の秩父宮記念スポーツ博物館に、それぞれ残されているらしい)

1932年ロサンゼルス五輪で競技中の西中尉


もともと陸上競技場として作られたロサンゼルス・メモリアル・コロシアムの形状は楕円形だから、長方形のフィールドでゲームを行うフットボールならともかく、野球には向いてなかった。いわば、陸上競技場である東京・霞ヶ丘の国立競技場を本拠地に、野球をやるようなものだ。

ボールパーク時代のLos Angeles Memorial ColiseumClem's Baseball ~ Memorial Coliseum
だが当時の熱狂的なドジャース人気にとっては、たとえボールパークが楕円形だろうと、四角形だろうと、そんなことはまったく些細なことに過ぎなかった。
1959年のワールドシリーズ(ドジャース対ホワイトソックス)のうち、ロサンゼルスで行われた第3戦〜第5戦では、それぞれ92,000人以上を動員。また近年でも2008年3月29日に行われたドジャースのロサンゼルス移転50周年記念ゲーム(オープン戦 対レッドソックス)では、アメリカのスポーツ史上最多、そして世界の野球史上最多となる、115,300人もの大観客がコロシアムを一分の隙間もなく埋め尽くした。ドジャースの人気は本物だった。






シールズ・スタジアムの一時使用
Seals Stadium
1931年4月7日〜1959年9月20日
Seals Stadium



1958年のニューヨーク・ジャイアンツの西海岸移転にあたり、サンフランシスコ市側は、リーグやコミッショナーに熱心に働きかけを行ったが、それだけでなく、新球場建設のための敷地も提供した。
ただ新球場建設に時間が必要だったため、ジャイアンツはPCLのマイナーチーム「サンフランシスコ・シールズ」を傘下におさめ、1958年、59年の2シーズンは、シールズが1931年以来本拠地にしていた「シールズ・スタジアム(Seals Stadium)」を一時使用することになった。(写真をよく見て、シールズ・スタジアムの「照明灯の形」をよく覚えておいてもらいたい)

サンフランシスコ・シールズは、1949年に戦後初の日米野球が行われた際に来日したチームで、そのためマイナーとはいえ、日本のオールドファンには非常に有名で、1951年には川上哲治、藤村富美男、小鶴誠、杉下茂をキャンプに招待するなど、日本のプロ野球との間に深い交流があった。
シールズの49年来日当時の監督は、現役時代にイチロー、ジョージ・シスラーに次ぐシーズン254安打のMLB歴代第3位のヒット数記録をもつレフティ・オドゥール(Lefty O'Doul)。(1934年の日米野球では選手としても来日している。2002年「新世紀特別表彰者」として日本の野球殿堂入り)
与那嶺要は、手首の怪我から1947年に所属していたSan Francisco 49ersを離れ、フットボールから野球に転向したが、そのとき所属していたのが、このサンフランシスコ・シールズ傘下のSalt Lake Bees(ソルトレイク・ビーズ)で、与那嶺に日本への移籍を勧めたのが、他でもない、当時読売ジャイアンツのアドバイザーだったレフティ・オドゥールである。
Wally Yonamine, 85, Dies - Changed Japanese Baseball - NYTimes.com

Wally Yonamine Minor League Statistics & History - Baseball-Reference.com

ジャイアンツがシールズ・スタジアムを一時使用している間、サンフランシスコ・シールズは一時的にアリゾナ州フェニックスに移転し、名称も「フェニックス・ジャイアンツ(Phoenix Giants)」を名乗った。
1958年当時のサンフランシスコ・ジャイアンツは7つのファームを持っていたが、うち6つがそれぞれのリーグで優勝しており、西海岸移転当時のジャイアンツの人材育成システムには定評があった。

1958年4月15日シールズ・スタジアムにおけるサンフランシスコ・ジャイアンツ開幕戦の相手は、当然のことながら、ともに西海岸に移転してきたドジャース。
23,448人の大観客を集めたこのゲームは、ジャイアンツ3番ウィリー・メイズが4回裏の満塁のチャンスで打った内野安打による2打点などで、ジャイアンツが8-0と圧勝した。
April 15, 1958 Los Angeles Dodgers at San Francisco Giants Play by Play and Box Score - Baseball-Reference.com



観客数23,448人という数字は、少ないように感じるかもしれないが、もともと外野席が無いシールズ・スタジアムのキャパシティは、西海岸に移転してくるジャイアンツのための外野席増設を行っても22,900人しかなく、これでも超満員状態が続いたことになる。
実際、前年1957年ニューヨークでの観客動員数は、653,923人でリーグ最下位(8チーム中8位)だったジャイアンツが、サンフランシスコ移転以降は、1958年1,272,625人、1959年1,422,130人と、観客数は爆発的に増加し、ジャイアンツのサンフランシスコ移転は大成功だった。

真上からみたシールズ・スタジアム(外野席増設前)
出典:Fly with me over San Francisco in 1938 « Burrito Justice(外野席増設前)
上からみたシールズ・スタジアム(外野席増設後)
出典:The Search for Home Plate at Seals Stadium(外野席増設後)

やがて新球場が完成して、ジャイアンツがシールズ・スタジアムを去ることになり、1959年9月20日、シールズ・スタジアムでの最後のゲームが行われた。相手はシールズスタジアムのオープニングゲームと同じ、またしてもドジャース対ジャイアンツ。
このゲームは、この年21勝を挙げ、オールスターに初選出されたジャイアンツ先発サム・ジョーンズをドジャース打線が早めに打ち込んでマウンドから引きずり下ろし、8-2とドジャースがシールズ・スタジアム開場ゲームでの負けを雪辱した。観客は22,923人で、この狭い球場としてはもちろん満員御礼。
September 20, 1959 Los Angeles Dodgers at San Francisco Giants Box Score and Play by Play - Baseball-Reference.com


シールズ・スタジアムの取り壊し
Seals Stadium
〜1959年11月
とりはずされるシールズ・スタジアムのホーム・プレートとりはずされるシールズ・スタジアムのホーム・プレート

ジャイアンツが新球場キャンドルスティック・パークの完成を待つ2シーズンの間、本拠地を失ったサンフランシスコ・シールズは、アリゾナ州フェニックスに一時移転し、「フェニックス・ジャイアンツ(Phoenix Giants)」を名乗っていたが、アリゾナの酷暑に悩まされ、十分な集客ができなかった。
ジャイアンツが完成したキャンドルスティック・パークに移転した後のシールズ・スタジアムは、取り壊されて跡地はショッピングセンターにされることになったため、シールズはアリゾナからサンフランシスコに戻ることなくワシントン州タコマに移転することになり、戦後日本人にとても馴染み深かった「サンフランシスコ・シールズ」の名称は消滅することになった。シールズ・スタジアムは1959年シーズン終了後の11月に取り壊された。


タコマのチェニー・スタジアム開場と
シールズ・スタジアムの椅子と照明灯の継承

Cheney Stadium
1960年4月16日〜
Seals Stadiumから移設されてきたCheney Stadiumの照明灯

フェニックス・ジャイアンツは、アリゾナ州フェニックスからワシントン州タコマに移転して、新球場をつくり、「タコマ・ジャイアンツ(Tacoma Giants)」と名称が変わった。
その「タコマ・ジャイアンツの新球場」というのが、今まさにマリナーズのマイナー、レイニアーズが本拠地にしているワシントン州タコマのチェニー・スタジアム(Cheney Stadium)
タコマにマイナーの本拠地を置いたのは、この「タコマ・ジャイアンツ」が最初で、マリナーズのマイナーであるレイニアーズは、タコマにマイナーを置いた7番目のチームなのだ。

チェニー・スタジアム建設にあたっては、サンフランシスコのシールズ・スタジアムを取り壊したときに出た椅子や照明灯が移設されたのは有名な話で、それらの設備は今も使われている。
ドジャースとジャイアンツが西海岸に移転し、MLBが全米に拡張された1950年代末のさまざまな紆余曲折を経て、日本にも馴染みの深いシールズ・スタジアムの椅子は、巡り巡ってチェニー・スタジアムとマリナーズに引き継がれることになった。
Seals Stadiumから移設されてきたCheney Stadiumの木製椅子シールズ・スタジアムからチェニー・スタジアムに移設された木製椅子


ボールパーク・ドミノ」が起きた1958年にちょうどサンフランシスコに住んでいたワシントン州タコマ出身の作家・詩人リチャード・ブローティガンが、『A Baseball Game』という詩を書いたのは1958年2月だが、当時の彼が、サンフランシスコ・シールズが移転して彼の故郷タコマで「タコマ・ジャイアンツ」になることや、シールズ・スタジアムの椅子がタコマのチェニー・スタジアムに移設されることなどを知っていたのかどうかは、野球史としても文学史としても非常に興味深い話だが、残念ながら、その点についての資料が見つからず、いまのところ何もわからない。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年3月6日、リチャード・ブローティガン 『A Baseball Game』の野球史的解釈。 「1958年の西海岸」という特別な年、特別な場所。

(3)につづく
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (3)キャンドルスティック・パーク、ドジャー・スタジアム、シェイ・スタジアムの開場

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