March 31, 2012

東京スタジアムを本拠地にした大毎オリオンズの元祖「安打製造機」、榎本喜八翁(以下敬称略)が亡くなられた。東京中野区生まれ、75歳。一塁手で、背番号は3。通算安打数2314、通算打率.298。

榎本喜八のバッティングフォーム



榎本喜八は早稲田実業出身で、同じ早実出身の王貞治の4つ先輩にあたる。また2人共通のバッティングの師匠が、やはり早実出身、1953年オリオンズ入団の荒川博だ。だから榎本にとっての荒川は、高校とプロの両方の指導者、ということになる。
また西本幸雄が監督としてリーグ優勝に導いた1958年のオリオンズで、「大毎版ミサイル打線」の控え捕手だった醍醐猛夫も、やはり早実出身。(ちなみに選手として、毎日・大毎・東京・ロッテ、「4つのオリオンズ」全てに在籍したのは、榎本と醍醐の2名のみらしい。ちなみに、荒川博(台東区)、榎本喜八(中野区)、醍醐猛夫(北区)、王貞治(墨田区)と、4人とも東京生まれ。大毎ミサイル打線の柳田利夫、田宮謙次郎、山内和弘、葛城隆雄など他の野手は東京出身者ではない)
入団して数年間のオリオンズは、榎本にとって、さぞかし居心地のいい空気があったに違いない。


榎本喜八が1955年に高卒でオリオンズに入団しプロになれたのは、高校とオリオンズの2年先輩である荒川が、プロ入りを熱望して直訴してくる後輩・榎本の入団テストを行うよう取りはからってくれたから、らしい。(日本のプロ野球でドラフト制度ができるのは、榎本のオリオンズ入団から10年後の1965年)
荒川の追悼コメントによれば、現役時代の榎本喜八は「王の10倍、馬鹿真面目だった」という。荒川氏は過去に「(努力家で知られる)王の倍は(バットを)振ったね。」と榎本の熱心な練習ぶりを述懐している。
ちなみに、榎本の打撃理論についての禅問答的コメントはよく語られるところだが、その常人には到達できそうもない難解さのある部分は、榎本自身のせいだけではなく、むしろ師匠・荒川博が弟子を教える言葉のなんともいえない哲学的難解さに負う部分が少なからずあると思う。
資料:『プロ野球「無頼派」選手読本』松井浩)
資料:榎本喜八さん死去:31歳で2000安打達成 「ミサイル打線」一世風靡 - 毎日jp(毎日新聞)


プロになった榎本喜八は3番、あるいは1番バッターとして活躍を続け、1968年には31歳7カ月(正確には31歳229日)の若さで2000本安打を達成し、元祖『安打製造機』を襲名することになった。
これは、1956年川上哲治、1967年山内和弘(山内氏の『和弘』は旧名)に次ぐ日本プロ野球史上3人目の2000本達成で、2004年5月21日に(日米通算ではあるが)30歳7か月で達成しているイチローを除くと、日本国内だけなら最速記録。
Game Wrapup | MLB.com: News
活躍年度の離れた選手同士を比べることにはたいして意味はないだろうが、日米野球でのスタッツを比較するかぎり、イチローが日本にいる当時から既にアメリカのピッチャーを打ちこなしていたのは事実だと思う。
日米野球通算成績
(ソース:某巨大掲示板)
榎本喜八 59試合 114打数 20安打 2本塁打 8打点 15三振 21四死球 打率.175
イチロー  11試合 37打数 16安打 0本塁打 8打点 6三振 5四死球 8盗塁 打率.432


榎本喜八というと、どうしてもその奇行ぶりが書かれることになる。
だが、監督として大毎オリオンズを優勝に導き、優勝経験の無い阪急・近鉄を優勝させた、あまりにも輝かしい西本幸雄の監督歴を「悲劇の闘将」などと呼んで卑下する必要など全くない、と以前書いたのと同じように、榎本喜八の奇行ぶりをあえてまた晒す必要などない。そういうのはどこかで別の人がやるだろう。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年11月25日、「名山」、西本幸雄。指導者を育てた指導者。

1960年に大毎オリオンズ監督・西本幸雄がオーナー永田雅一と衝突して退団した翌年、荒川博が放出される形で退団、そのまま引退している。(荒川はその後巨人に拾われ、大打者・王貞治を育て上げることになる)
だから、この2人が、サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地キャンドルスティック・パークをモデルに1962年に開場した東京スタジアムで、オリオンズの一員としてプレーすることはなかった。
その後、1963年限りで田宮が引退。そのオフには主砲・山内が阪神のエース小山正明と大型トレード、葛城も中日ドラゴンズに移籍し、オリオンズはチームカラーを変え、守備重視に傾いた
あくまで想像でしかないが、いくらメジャーのスタジアムをモデルにして最新鋭の設備を揃えたとはいえ、非常に狭かった東京スタジアムは、ホームランの出やすいヒッターズパークだったため、オリオンズは対策として、強力打線を維持して得点力で相手を圧倒するそれまでの野球を継続するか、それとも、主力打者を放出してでも投手力を整備し守備的チームに衣替えするか、方針の選択に迷った、という裏事情があったのかもしれない。

結局、大毎オリオンズはどうしたかというと、1963年オフに主砲・山内和弘と引き換えに、阪神のエース小山正明を獲得していることからわかるように(小山はパームボールを駆使することで球場の狭さに対応した)、「チームを守備的に作り変える」という決断を下すことになるわけだが、東京スタジアム開場以降のチーム順位を見るかぎり、このチームカラー変更が結果としてうまくいったとは思えない。

東京スタジアムのゴンドラシート
東京スタジアムのゴンドラシート 資料:『あの頃こんな球場があった』 佐野正幸著 草思社 2006年)

1962年(昭和37年)、東京の下町に忽然と開場した東京スタジアムが、1977年(昭和52年)に取り壊された時、榎本喜八は解体作業の一部始終を眺めるため、スタジアムから約20キロ離れた中野区の自宅から、スタジアムのある南千住まで、1日おきに走って来ていたらしい。また、東京スタジアムが荒川区のスポーツ施設に完全に生まれ変わってしまった後も、周囲をランニングしに来ていたという。
【5月16日】1977年(昭52) 解体工事中の東京スタジアムへ 榎本喜八、深夜の42キロ走(野球) ― スポニチ Sponichi Annex 野球 日めくりプロ野球10年5月

東京球場(東京スタジアム)フォーエバー1962〜1977 名誉な孤独死


榎本喜八はなぜ、東京スタジアムに郷愁を覚えたのだろう。
彼にとって、「東京スタジアム」は何だったのか。

故郷を持たず、上野に故郷の訛りを聞きに行くわけにもいかない東京生まれで、ちょっと神経の細いところがあった榎本にとって、プロになった直後に、同じ東京生まれで早稲田実業出身の先輩後輩たちに囲まれて野球ができたオリオンズの環境こそが、彼の心の支えになったはずだ。
だが、1962年の東京スタジアム開場をきっかけに前後してチームカラーの大幅な変更が行われたことで、人見知りの激しい東京人である榎本喜八と親しい人々がオリオンズから去っていく中で、やがて下町の東京スタジアムだけが、榎本喜八の心の寂しさを紛らす唯一の『バーチャルな故郷』になったのではないか。

オリオンズ入団年度
1953年 荒川博  早稲田実業
1955年 榎本喜八 早稲田実業
1957年 醍醐猛夫 早稲田実業

オリオンズ退団年度
(1959年 王貞治 巨人入団)
1960年 西本幸雄  解任
1961年 荒川博   放出→引退→巨人コーチ(1962)
1962年 東京スタジアム開場
1963年 田宮謙次郎 引退
1963年 山内和弘  トレード
1963年 葛城隆雄  移籍
(1964年 東京オリンピック開催)

東京出身者にしてみると、高度経済成長を迎えた1960年代中期前後の東京の風景の劇的な変化については、地方出身者にはわかりにくい特別な感覚がある。
たとえば、1964年の東京オリンピックに対応するために、首都高速ができるわけだが、両国の9代続いた和菓子屋の長男として生まれた東京出身作家の小林信彦氏などは、高度経済成長以降の東京の変化について「関東大震災、東京大空襲に続く『町殺し』」と嫌悪し、また、浅草や柴又を「下町」と呼んでありがたがる「下町ブーム」の安易さにも嫌悪感を表した。東京人の人見知り感覚からくる独特の内向きのメンタリティは、どこかミュージシャン高橋幸宏氏にも通ずるものがある。
(ちなみに、小林信彦が宝石社に入社し社会人になるのは、ドジャースとジャイアンツが西海岸に移転したのと同じ『1958年』)


彼と同じく寂しがりで人見知りな性格の人間として、
変わりゆく東京の街の中で埋もれて過ごした彼の晩年の失われた暮らしに手を合わせ、激しすぎる一生を終えた先人に、安らかにお眠りくださいと申し上げたいと思う。


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