April 28, 2012

灰田勝彦さん(以下 敬称略)が「日本版Take Me To The Ball Game」ともいうべき「野球小僧」を歌ったのは、別当薫はじめ当時の毎日オリオンズの選手が大挙出演したという1951年大映のミュージカル映画 『歌う野球小僧』だ。

当時の大映社長といえば、もちろんサンフランシスコに移転したジャイアンツの新しい本拠地キャンドルスティック・パークを模して東京スタジアム(1962-1977)を作った永田雅一だが、『歌う野球小僧』が出来た1951年の時点では、まだ大映スターズと毎日オリオンズは合併していない。(大毎オリオンズが出来るのは、1951年の『歌う野球小僧』から7年後、ブルックリン・ドジャースとニューヨーク・ジャイアンツが西海岸に移転する1958年)
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年11月25日、「名山」、西本幸雄。指導者を育てた指導者。

ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年3月23日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (4)夢の東京スタジアムの誕生


ちなみに、この映画に関して、ウェブ上の資料だけでは、どうもよくわからない点がある。

それは、灰田勝彦(1911年生まれ)と、同じ立教出身で、毎日オリオンズ主将、大毎オリオンズ監督を務めた西本幸雄さん(1920年生まれ 以下敬称略)とのかかわりだ。
ネット上に、この2人の立教出身者のかかわりを示す資料が皆無といっていいほど存在しない理由が、どうもよくわからない。


1951年の「歌う野球小僧」というミュージカル映画は、立教在学時代から野球好きで知られ、新東宝の社会人野球に所属していた記録さえ残されている(資料:2010年10月 : 野球史探求)灰田勝彦が、「この映画は立教出身者で固めよう」と最初から意図して自らプロデュースしたと、Wikiにある。
現に、この映画に珍しく悪役として出演している上原謙も、立教出身者だ。

(上原謙は、大映のライバル会社のひとつ、松竹の看板俳優。大映が1951年に『歌う野球小僧』を製作した当時は、大映スターズという野球チームを持っていたのに対して、松竹も松竹ロビンスという野球チームを抱えていただけに、どうして上原謙が「映画と野球、2つの垣根」を越えて、大映の、それも野球映画に出演できたのかはよくわからない。
想像だが、『歌う野球小僧』は、1953年に、日活の引き抜きを阻止すべく大映社長永田雅一の主導で、いわゆる「五社協定」が結ばれ、各映画会社専属の監督や俳優の引き抜きや貸し出しが禁止され、映画会社と映画会社の間に「垣根」ができる前にできた映画だから、こういう他社の俳優が出演するようなことがギリギリ可能だったのだろう。
ちなみに灰田勝彦は、「五社協定」成立後の「何事にも垣根のできた時代」においても、南海ホークスの歌を歌い、別所毅彦など巨人のプレーヤーとの親交、広島東洋カープを優勝させる会結成など、ある意味「球団の垣根の無い」稀有な人物だった。野球映画への出演についても、1951年の大映『歌う野球小僧』出演に前後して、『ホームラン狂時代』(1949年東横映画=東映の前身のひとつ)、『栄冠涙あり』 (1952年東映=1951年設立)と、大映以外の映画にも出演している)

灰田勝彦が立教大学予科に進学したのが1930年、西本幸雄が旧制立教大学に進学したのが1938年。
西本幸雄は、当時監督のいなかった立教野球部で監督役を務めた後、第二次大戦を挟み、1950年に毎日オリオンズに入団し、ここでも1952年に主将を務めている。
当然ながら、動乱の時代とはいえ、それになりに近い世界に住んでいた2人が、互いの存在を知らないはずはない。

もちろん、オリオンズ入団時の西本幸雄は既に30歳という年齢で、また、その性格からしても、もし仮に先輩・灰田勝彦から後輩・西本幸雄に映画『歌う野球小僧』への出演依頼があったとしても、とてもとても西本が快諾するとは思えない。(とはいえ気難しそうな榎本喜八だって映画に複数回出演しているのだから、西本幸雄が映画に出ていても、おかしくはない)
だが、それにしたって、西本幸雄は灰田勝彦と同じ立教出身であり、立教でもオリオンズでもキャプテンに選ばれるような中心選手のひとりで、毎日オリオンズでは選手としてパ・リーグ優勝、日本一に貢献しているのだから、立教出身者と毎日オリオンズの選手で固めた灰田勝彦の野球映画への関わりが少しくらいあってもおかしくないように思える。

だが現実には、ネット上の資料には、西本幸雄と『歌う野球小僧』、あるいは、西本幸雄と灰田勝彦とのかかわりを書いた資料は、なぜかほとんど皆無に等しいのだ。


もちろん、こうした摩訶不思議なことが起きる遠因のひとつには、1958年の大毎オリオンズの日本シリーズ敗退の一件で西本幸雄さんが大毎オリオンズ監督を辞任させられたことが原因で、阪急ブレーブスや近鉄バッファローズの歴史には西本さんの名前が華々しく刻まれているのに比べると、オリオンズの歴史からはむしろ西本さんの足跡が、削除というか、遠ざけられている感すらある歴史的経緯が影響しているのかもしれない。
(現代のWikiの「オリオンズ」の項目ですら、西本さんに関する記述が不足しているようにしか見えないのだから、たとえ灰田勝彦と西本幸雄の間になんらかの関わりがあったとしても、野球メディア、映画メディアによって記録に残されてこなかったとしても不思議ではない、という意味)


だが、もう半世紀が過ぎたのだ。
そろそろオリオンズの歴史における西本幸雄さんの位置を、本来あってしかるべき位置に戻すべきだろうと思う。


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