May 01, 2012

MLBファンにとって「大魔神」といえば、もちろん、2000年ア・リーグ新人王を獲得したシアトルのクローザー佐々木主浩さんだが、彼のニックネームの元になった1966年の大映映画『大魔神』シリーズで、大魔神の着ぐるみを着て演じたスーツアクター(この言葉は和製英語で、ハリウッドにおいてはスタントマンの仕事の一部)が、実は、1953年に毎日オリオンズに入団し外野手として活躍した橋本力(はしもと ちから)さんであることは、有名な話。


橋本力さんの映画界入りは、1959年に怪我で二軍落ちしていた際に、大毎オリオンズの親会社、大映が製作した野球映画 『一刀斎は背番号6』に誘われて、アドバイザー兼選手役で出演したのがきっかけ。
撮影中、橋本さんは外野でのダイビングキャッチを演じた際、鎖骨を骨折してしまい、その怪我がもとで同年オフに引退した。
だが、大映関係者が映画撮影中の事故がもと野球引退に追い込まれた橋本さんを不憫に思って俳優の道に誘い、それが後に1966年の大ヒット作『大魔神』シリーズのスーツアクターへの抜擢につながった。

ちなみに、『一刀斎は背番号6』には、稲尾和久中西太豊田泰光といった当時の西鉄の中心プレーヤーや、別府星野組・オリオンズで西本幸雄さんとともにプレーし、1953年日米野球で完投勝利も収めている「和製火の玉投手」荒巻淳に並んで、あの榎本喜八が出演して台詞をしゃべっているというのだから、この映画は野球史的希少価値がある。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年3月30日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」 (5)番外編 元祖「安打製造機」 榎本喜八にとっての『故郷』、東京スタジアム。

大映映画のクレジット

大魔神ポスター芋の粉やコルク屑、炭粉を使った粉塵が飛び交う撮影中、橋本力さんの大魔神起用を発案した特撮監督黒田義之氏から「目をカッと見開いているように」言われた橋本さんは、必死に目を開け続けたために目が充血してしまい、それがかえって非常に大魔神のリアリティある演技につながったらしい。
この大魔神における黒田義之氏独特の演出を見た円谷プロ社長円谷一は、黒田氏を円谷プロ作品に起用、『ミラーマン』などの作品が生み出された。


Youtubeにアップされていた『DAIMAJIN』。1時間24分あるところをみると、フルバージョンではないかと思われる。


その後橋本力さんは、1971年に大映が倒産すると、大映で座頭市シリーズをヒットさせていた勝新太郎の「勝プロダクション」に移籍するのだが、なんと、翌1972年に香港映画『ドラゴン怒りの鉄拳』(原題 "Fist of Fury" )で、あのブルース・リーとの共演を果たすことになる。

ブルース・リーに蹴り出されるスタントマン時代のジャッキー・チェン
ちなみに、この映画のラストシーンで橋本力さん演じる日本人が、ブルース・リーの飛び蹴りを受けて障子を突き破って庭までぶっ飛ばされるシーンを演じたのは、スタントマン時代のジャッキー・チェン

ドラゴン怒りの鉄拳に出演した橋本力さん



『ドラゴン怒りの鉄拳』ラストシーン。11分過ぎに、ジャッキー・チェンがブルース・リーの飛び蹴りを受けて庭に吹っ飛ばされるスタントシーンがある。



ブルース・リー、というと、香港のカンフー映画のイメージが強すぎるため、どうしても生粋の香港人と思われがち*1(そしてブルース・リーに関する数多くの議論が、彼の『出演映画における役どころ』と『ブルース・リー自身』を混同してもいる)だが、実際には、彼は1940年サンフランシスコ生まれで、アメリカで出生しているためにアメリカの永住権も持ち、シアトルのワシントン大学卒業生でもある。(妻リンダ・エメリーもワシントン大学医学部の学生)
彼はたしかに18歳まで香港に住んではいたが、1959年サンフランシスコに戻って数ヶ月暮らした後、シアトルに移り住んだ。(当時はシアトルにMLBの球団はない)後に1973年に亡くなったときも、葬儀こそ、香港とシアトルの両方で行われたが、彼の遺体が埋葬されたのはシアトル郊外の墓地 Lake View Cemeteryである。
*1 関係ないといえばないが、『スター・トレック』シリーズに出演していたHikaru Sulu(=日本語吹き替え版でいう『カトー』。これは日本の制作会社がつけた名前なので、アメリカでこの名前を出しても話は通じない)を演じた俳優は、中国人であると、勘違いしている人が、特に一定の年齢層の人に多い。
たしかに、かつてのアメリカ映画で、日本人役を実際には中国人などが演じるパターンは多数見られたわけだが、スター・トレックの『カトー』を演じたのは、広島県生まれの祖父母と山梨県生まれの父親をもつ、れっきとした日系二世のジョージ・タケイ氏。同じような例として、1964年の『007ゴールドフィンガー』で帽子を投げる悪役を演じたホノルル生まれの日系二世ハロルド・サカタ氏も、中国系と勘違いされやすい

赤いマーカー:Lake View Cemetery
青いマーカー:Seattle Central Community College
緑のマーカー:Safeco Field



シアトルに移り住んだブルース・リーは、まずキャピトル・ヒルにあるEdison Technical School(=現在のSeattle Central Community College*2)で学んだ後、ワシントン大学(The University of Washington, UW)に進学して演劇を専攻している。
*2 日本のWikiでは、シアトルでブルース・リーが最初に入学した学校の名称を、Seattle Central Community Collegeとしているが、それはこの学校が1966年に改組されて以降の名称であり、ブルース・リー入学当時の学校名は、Edison Technical School とするのが正しい

ワシントン大学のエンブレムワシントン大学の
エンブレム

ワシントン大学におけるブルース・リーの専攻科目はどういうわけか、日本のWikiをはじめとする多数のサイトに、「哲学科」とする誤った記述がみられるが、これは間違いだ。(原因はたぶん生前のブルース・リー自身の発言等だろう)

ワシントン大学卒業生の動向をまとめているThe University of Washington Alumni Magazine (Alumniは「卒業生」という意味)が、ブルース・リーを"100 Alumni of the Century"(=20世紀の卒業生100人)に選定したときのコメントに、ハッキリ「drama major、演劇専攻」と明記されている。
また、アメリカの他の大半のソースでも「ブルース・リーは演劇専攻で、哲学あるいは心理学のクラスも受けていた」というような表記をされているし、また、「ブルース・リーは哲学専攻」という古くからある間違った主張を否定するソースも簡単に見つけることができる。
Attended the UW from 1961 to 1964 as a drama major

出典:100 Alumni of the Century, J-O



非常に興味深いのは、このブログで何度も書いてきた1958年にブルックリン・ドジャースとニューヨーク・ジャイアンツが西海岸に移転してきた直後のサンフランシスコに、ほんの数ヶ月の期間とはいえ、若き日のブルース・リーと、まだ世間に知られる前のリチャード・ブローティガンが、まったく同時期に住んでいたことだ。

この偶然はちょっと凄い。

1959年のブローティガンといえば、サンフランシスコに出てきて、以前とりあげた "A Baseball Game" を含む "The Galilee Hitch-Hiker" という作品を出した1958年の翌年であり、新たに "Lay the Marble Tea" という作品をリリースしている。

ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年3月6日、リチャード・ブローティガン 『A Baseball Game』の野球史的解釈。 「1958年の西海岸」という特別な年、特別な場所。

ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:「1958年の西海岸」 特別な年、特罰な場所。


A.J.バーネットはどうやら熱心なブルース・リーファンらしいが(笑)、こうなってくると、どうしても気になるのは、ブルース・リーが、サンフランシスコ在住時代、あるいは、ワシントン大学在学時代に、野球に興味があったかどうか、または、ボールパークに足を運んだことがあったかどうか、あるいは、ブルース・リーが当時のサンフランシスコのビート文化を知っていたかどうかだが、それはまた、おいおい調べてみることにする。

西海岸に拡大したMLB、あるいはサンフランシスコのビート文化(またはもっと後のヒッピー文化)と、ブルース・リーの間に、どういう繋がりがみつかるか、これからのお楽しみだ。


だが、まぁ、そんな小難しい話より、単純に興奮するのは、
ニューヨークから西海岸にドジャースとジャイアンツがやってきた1958年の翌年、1959年のサンフランシスコのとある街角で、ワシントン州タコマから都会のサンフランシスコに出てきたばかりの若き日のリチャード・ブローティガンと、一時住んでいた香港から帰国したばかりで、やがてシアトルに引っ越すことになる10代のブルース・リーが、サンフランシスコのどこかですれ違っていたかもしれないということである。
少なくとも、そう夢想してみるだけでも、なにかこう、意味もなくワクワクしてくる(笑)


サンフランシスコにニューヨークからジャイアンツが移転してきて作ったボールパーク、キャンドルスティック・パークに憧れて、自分の夢のスタジアムを作ってしまった映画会社社長がオーナーをつとめるプロの野球チームに所属する選手が、映画出演の怪我がもとで野球を引退し、やがてサンフランシスコ生まれのカンフースターの主演映画に出演したこと。
サンフランシスコ生まれでシアトルに埋葬されたカンフースターと、シアトル郊外に生まれ、サンフランシスコのビート文化と関わりのあった詩人が、同じ年に同じサンフランシスコに暮らしていたこと。

こんな映画を越える予想外の展開は
「運命の糸に引き寄せられたドラマ」と言うほかない。

ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (3)キャンドルスティック・パーク、ドジャー・スタジアム、シェイ・スタジアムの開場

ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年3月23日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (4)夢の東京スタジアムの誕生

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