July 17, 2012

キングス・コートは、ベネズエラ人投手フェリックス・ヘルナンデスの登板日にだけセーフコフィールド外野席の端に特設される「ヘルナンデス応援専用席」のことで、バッターを2ストライクと追い込むと、三振を期待するキングスコートに集結した白人観客は、「 K! K! K! 」と、MLBで「三振」を意味する「 K 」と、ヘルナンデスのニックネームであるKingにひっかけた「 K 」というアルファベットを、まるで「カルトの集会」でもやっているかのように、熱狂的に連呼しはじめる。

この、Kというアルファベットを連呼するのがお約束の場所であるキングスコートに、アフリカ系アメリカ人の姿を見たことがある人は、ほとんどいないはずだ


まぁ、シアトルのゲームを毎シーズン100試合とか観ない人には、「キングスコートにはアフリカ系アメリカ人はいない」という指摘を信じない人もいるだろう。
ならば、ネットを探せばキングスコートについての写真や動画がそこらじゅうに落ちていると思うから、自分でとことん確かめてみるといい。もしアフリカ系アメリカ人で、あの黄色いTシャツを着て、K!K!K!と連呼している集団の写真か動画を見つけることができたなら、ぜひ教えてもらいたいものだ。

July 3: King's Court Fourth of July | Mariners.com: Photos

In King’s Court, anything goes ― and that’s a very good thing | Seattle Mariners blog - seattlepi.com

このKという単語の連呼が、どのくらい今のアフリカ系アメリカ人にとって、あの忌まわしいKKK (=Ku Klux Klan、クー・クラックス・クラン)を連想させるかについては、ハッキリと断言することまではできないにしても、もしブログ主がアフリカ系アメリカ人だったら、いくら野球という娯楽の上での話とはいえ、ヘルナンデス登板日にセーフコに行くのはプライドが許さないし、ヘルナンデス登板日には絶対にセーフコに行かなくなるだろう。


KKKのパロディ
資料によれば、KKKはかつて南北戦争終結後の1865年に作られ、一時は衰えたものの、第一次大戦後に中西部のオクラホマ、テネシー、オレゴン、インディアナ、ディープサウスのアラバマなどで勢いを取り戻し、1924年には会員数500万人を数えたという。(これらの地域は、後で述べるように、ユダヤ系でないドイツ系移民の多い地域でもある。ちなみにユダヤ系ドイツ移民が多いのは、ニューヨークなど東部の都市)

かつてのKKKによる暴力(アメリカのWiki)Ku Klux Klan - Wikipedia, the free encyclopedia



なにを大袈裟なことを、と思う人がいるかもしれない。

King Kongは、もともと1930年代初期に作られた映画がはじまりだが、これがまた忌まわしい K にまつわる話で、しかも、「King Kong =キングコング」というネーミングは、2つの「K」がつながった、「K.K」というイニシャルなのである。
(ちなみに、キングコングのプロデューサー、Merian C. Cooperは、元は第一次大戦の空軍パイロット)

King Kong(1933版)King Kong - Wikipedia, the free encyclopedia
南洋の島から見世物にされるためにニューヨークへ連れて来られ、逃げ出して街で大暴れしたキングコングは、巨大なサル、つまりApeである。
Apeという表現は、「デカくてのろまな人」を馬鹿にする用途にも使われる。もちろん、アフリカ系アメリカ人を馬鹿にするのにも使われるし、そういう言葉の中で最も怒りを買う言葉のひとつでもある。
(かつて日本の化粧品会社のCMで、チンパンジーがアフリカ系アメリカ人の真似をしているのがあったらしいが、もしそんなとんでもない映像がアメリカのテレビで流されたとしたら、社会問題になるだけでは済まない)

日本のWikiなどは、キングコングは、白人側から見た、アフリカ系アメリカ人に対する恐怖感や差別意識のメタファー(隠喩)として扱われることもある、などと、生ぬるい表現で説明しているが、アメリカではとっくの昔に、「隠喩どころか、キングコングって、明らかにアフリカ系アメリカ人そのものを指してるじゃねぇか。バカヤロ」と指摘されている。

キングコングにアフリカ系アメリカ人の比喩を指摘する資料 1
During the war period the movement of blacks from rural to urban areas intensified, and migration continued through the l920s, resulting in increased racial friction in the cities.
King Kong by David N. Rosen

注:文中の "migration" は、もちろんいわゆるGreat Migrationをさす
キングコングにアフリカ系アメリカ人の比喩を指摘する資料 2
...fucking GIANT and BLAAAAAACK hand reaching out towards said blond symbol of white pure beauty.
AngryBlackBitch: King Kong...

美女と野獣という設定は、そのまま「白人」と「アフリカ系アメリカ人」という関係のシンボリックな比喩になっている、という指摘


既に書いたように、南北戦争が終わると、奴隷として南部に強制的に閉じ込められていたアフリカ系アメリカ人は、一斉にニューヨーク、シカゴ、デトロイト、ピッツバーグといった北部の大都市へ移住しはじめた。いわゆるGreat Migrationである。
キングコング映画が最初に製作された1930年代初期は、このGreat Migrationが盛んだった1920年代の直後の時代にあたる。(1930年代に入ると大不況のあおりでGreat Migrationは一時的に停滞した)
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年7月3日、「父親」とベースボール (2)南北戦争100年後のアフリカ系アメリカ人の「南部回帰」と「父親不在」、そしてベースボールとの距離感。

キングコングとアフリカ系アメリカ人の不快な類似性を指摘する人は、単に、キングコングがデカくて黒いからアフリカ系アメリカ人のメタファーになっているなどと根拠の薄い議論をしているのではなくて、「黒くてデカいApeが、未開の地から北部の都市へやって来て、街を破壊する」というキングコング映画の設定そのものが、どうみても南北戦争後に南部のアフリカ系アメリカ人が北部の都市に流入したGreat Migrationを揶揄しているとして、アメリカ史をふまえた議論をしているのである。



カイゼル髭のオモチャをつけたキングスコートの白人の子供(写真注)アメリカが独立戦争において、ドイツ系のイギリス王ジョージ3世、およびジョージ3世がアメリカに連れてきた残虐なドイツ人傭兵集団と戦った過去の歴史を踏まえない、無神経な「カイゼル髭」

おそらくはシアトル地元のアフリカ系アメリカ人の総スカンを食らっているであろう、このキングスコートとかいう無神経なプロモーション手法は、最近では、さらにドイツ系イギリス王のトレードマークだったカイゼル髭になぞらえたプロモーションまでやりだしだ。
これがまた、どこか、ドイツの美術史家ヨハン・ヴィンケルマンが、「白いギリシア」という屁理屈でヨーロッパ文化のルーツを捏造して以降のドイツ系人種の増長ぶりを思わせて、最悪である。


「キングつながり」という駄洒落のつもりかもしれないが、
ちょっと歴史を踏まえなさすぎるにも程がある。


植民地時代のアメリカ(13植民地)(左図)植民地時代のアメリカ(赤色部分がいわゆる「13植民地」)
植民地アメリカが、イギリス、もっと正確にいうなら、ドイツ系のイギリス王朝との間で独立戦争を戦ったのは、18世紀末の1775年から1783年だが、当時のイギリス王ジョージ3世は、この戦争を戦う兵士として、ドイツにたくさんいたジョージ3世の親戚筋から多くのドイツ人を「カネで買って」投入した。

1755年に刊行されたヨハン・ヴィンケルマンの『ギリシア芸術模倣論』によって、ヨーロッパで熱烈な「白いギリシア」ブームがまきおこったのも、ちょうどアメリカ独立戦争のあった18世紀だ。

「ジョージ3世がアメリカに連れてきたドイツ人」を、文脈の便宜上「傭兵」などと表現している資料は多い。だが実際の彼らは、「戦闘用に訓練された職業兵士」という意味の「ホンモノの傭兵」ではない。また、屈強さで歴史的に有名な中世のドイツ系傭兵集団ランツクネヒト(Landsknecht)でもない。

彼らは、単にドイツ諸侯の領地に住んでいた、「ごく普通の領民」であり、イギリス王ジョージ3世とつながりのあるドイツ諸侯が、単に金欲しさのために自国の領民をイギリスに売り飛ばしただけの話で、要するに、「人身売買」なのだ。売買価格は、1人あたり7ポンドちょっとだったと資料にある。(【スリーピー・ホロウ】アメリカ都市伝説を生んだヘッセンカッセルなど)

こうしたイギリスとドイツの深い関係は、さかのぼる1714年に、今のドイツの一部であるハノーファーの領主だったゲオルク1世が、ジョージ1世としてイギリス王に即位し、イギリスにドイツ系王朝であるハノーヴァー朝が開始されたという経緯からきている。ハノーヴァー朝におけるイギリス国王は、イギリスの王であると同時に、今のドイツの一部であるハノーファーの領主も兼ねていた。(英語の「ジョージ」はドイツ語では「ゲオルク」あるいは「ゲオルグ」。英語の「ハノーヴァー」はドイツ語では「ハノーファー」)
イギリスがアメリカ独立戦争のためにドイツ諸侯から調達したドイツ人は3万人弱ともいわれるが、そのうち1万8千人程度、つまり半数以上は、イギリスとの間で傭兵提供条約を結んでいたヘッセン・カッセル伯フリードリヒ2世が「金で売り払った領民」であるといわれる。このフリードリヒ2世(注:プロイセン国王フリードリヒ2世とは別人)は、ドイツ出身のイギリス国王ジョージ3世の義理の叔父にあたる。


アメリカ独立戦争においてイギリス軍の雇った外国人のふるまいの残虐さや、イギリス王が独立戦争に外国人を投入したことを背信行為とするアメリカ側の怒りは、1776年に出されたアメリカ独立宣言にハッキリと記されている。
HE is, at this Time, transporting large Armies of foreign Mercenaries to complete the Works of Death, Desolation, and Tyranny, already begun with Circumstances of Cruelty and Perfidy, scarcely paralleled in the most barbarous Ages, and totally unworthy the Head of a civilized Nation.
彼(HE=ジョージ3世)は現在、殺戮と荒廃、専制という事業を完成させるため、外国人傭兵の大軍を送り込んできており、最も野蛮な時代ですら比肩できないような、残虐と背信に満ちた状況が作り出されているのであり、彼はおよそ文明国家の長たるに値しない。
In Congress, July 4, 1776. The unanimous declaration of the thirteen United States of America.

アメリカがイギリスの植民地だった18世紀までの時代に、アメリカの人口の10%はドイツ語を話していたといわれ、植民地アメリカにはもともとドイツからの移民が数多く存在していた。1775年にアメリカ独立戦争が始まると、ドイツ移民は、イギリス国王側につくロイヤリストと、アメリカ独立側につくパトリオットに分かれた。
こうした植民地時代からもともとアメリカに住んでいたドイツ移民に加え、アメリカ独立戦争においてイギリス軍がアメリカの独立を阻止するためドイツから金で買ってきたドイツ人の中に、独立戦争が終わった後もドイツへは帰国せず、アメリカ残留を選択して移民になる人々が出現した。
(ここでは書かないが、これらの「アメリカとイギリスとの戦争のためにアメリカに連れてこられ、結果的にアメリカに住みついた、矛盾を抱えたままのドイツ人」が、アメリカ建国当時の理想、つまり、南北戦争で北軍が樹立しようとした「本来のアメリカの理想」に必ずしも従わなかったと仮定してアメリカ史を見直してみるのは、アメリカ史に対する興味として非常に面白い)


ドイツ系移民の人口密度(1872年)アメリカ北部におけるドイツ系移民の人口密度(1872年)を示した図

ゲルマン系のドイツ移民はペンシルベニアなどに落ち着き、さらに19世紀後半から20世紀前半にかけてはウィスコンシンなどの中西部、さらには西岸のシアトルやアナハイムに移るグループもいた。
ペンシルベニアおよび中西部に、Pennsylvania-German、ペンシルベニアドイツ語と言われる特殊な言葉を話す人がいまだに存在していることも、これらの地域におけるドイツ移民の影響の強さを物語っている。かつてミシガン州にはBerlin(ベルリン)という名前の街すらあった。(現在ではMarneと名前を変えている)

第二次大戦においてアメリカは、独立戦争、第一次大戦に続いて、ある意味3度目となるドイツとの戦争に臨んだわけだが、あまりにもドイツ系移民の人口が多くなり過ぎていたからか、ドイツ系アメリカ人は、日系人のように、強制収容所送りにはならなかった。(もちろんこれは日系人に対する人種差別だ)

ドイツ移民数の年代別推移ドイツ移民数の
年代別推移


The German-Americans-Chapter Two


様々な経緯からアメリカで多数のドイツ系移民が増え続けていった結果、ドイツ系住民はアメリカ人の最大派閥となっていった
その数は、中西部を中心に約5000万人。例えばウィスコンシン州のミルウォーキーがビールの街になったのは、ドイツ系移民の多さからきている。
州別にみた最も多い人種の内訳
元資料:2000年USセンサス

州で最も多い人種
この図の濃い青色で示した部分が、人種別に見てドイツ系人種の子孫が多い州である。
北東部を除くアメリカの北半分がドイツ系移民の子孫の多い州、そして南部がアフリカ系とヒスパニック系と、アメリカの南北で棲み分けが進んだことがハッキリわかる。
アフリカ系アメリカ人が南北戦争後に南部から北部に移住し、また南部に回帰するという移住の歴史を考える上で、移民の中の最大派閥であり、中西部の工業都市にも多数住んでいるドイツ系移民とのかかわりを多少なりとも頭に入れなければならないことは、これでわかってもらえると思う。



セーフコ・フィールドでのカイゼル髭が、プロイセン皇帝ヴィルヘルム2世のパクリなのか、それとももっと後世のジョージ5世か、どのドイツ系国王にあやかったプロモーションなのかは知らない。

だが、アメリカ独立戦争で、カネで買ってきたドイツ人傭兵を使った残虐行為で顰蹙を買ったイギリス国王ジョージ3世由来のカイゼル髭を生やしたと思わせるオモチャをつけ、大声で、「 K!K!K! 」と、アフリカ系アメリカ人の神経を逆撫でする金切声を挙げて叫ぶ白人集団などというものは、あまりにも無神経といわざるをえない。
それはある意味、数が増えすぎたドイツ系アメリカ人の「増長」と「思い上がり」の象徴であり、アメリカという多民族国家が歩んできた歴史に対して無神経すぎるふるまいだ

(もちろん、ドイツ系移民の増殖地のひとつである中西部インディアナ出身で、しかも「エリック」というドイツ系の名前を持ち、カイゼル髭を生やしていたどこかの野球監督さんも、たぶんドイツ系だ。レジェンドに対する礼儀をわきまえた発言のしかたすら知らない元3流プレーヤーのジェイ・ビューナーも、もちろんドイツ系)


そのうち詳しく書こうと思うが、ドイツ系のこうした無神経さは、どこかで、かつて18世紀ドイツの美術史家ヨハン・ヴィンケルマンが欧米文化のルーツとして捏造した「白いギリシア」に通底しているのは、ほぼ間違いないだろう。

Johann Joachim WinckelmannJohann Joachim Winckelmann

秀麗な大理石彫刻など、ギリシア文化に魅せられたヴィンケルマンは、「ヨーロッパの理想は『白いギリシア』にある」と、ヨーロッパ文化のルーツがいかにも「真っ白い、理想化されたギリシア文化」にあるかのように主張し、この発想は18世紀以降ヨーロッパで大流行した。(『ギリシア芸術模倣論』1755年、『古代美術史』1764年)



ヨーロッパのルーツとしての「白いギリシア」を捏造するにあたって、大英博物館で100数十年間にわたって行われていたギリシア彫刻の彩色剥ぎ取り事件は大英博物館自身が認めている有名な歴史の捏造にかかわる事件だ。

大英博物館には、「エルギン・マーブル(Elgin Marbles)」といわれるギリシア彫刻コレクションがある。イギリス大使としてオスマントルコに赴任した第7代エルギン伯爵トマス・ブルース(Thomas Bruce, 7th Earl of Elgin)が、当時オスマントルコの支配下にあったギリシアのパルテノン宮殿から勝手に剥がしてきて、後に大英博物館に寄贈したギリシア彫刻群である。

エルギン・マーブルには、実はもともとオリジナルな彩色が施されていた

だが、エルギン卿本人の指示により、秘密裡に彫刻作品の表面を特殊な工具を使って彩色を削り取り、「見た目を白く変える」という卑劣きわまりない作業が、なんと1811年から1936年まで、100数十年にわたって大英博物館の一室で延々と行われていたのである。
「歴史の捏造」と呼んでいい大事件だが、それほど、ヴィンケルマンの「白いギリシア」という捏造された「White is beautiful理論」はヨーロッパ社会に深く広く影響していた。

ちなみに、大英博物館はいまだにそのトマス・ブルースの恥知らずな作業を、「クリーニング」という当たりさわりのない表現で呼んでいる。
資料:British Museum - Cleaning the Sculptures 1811-1936

BBC News | UK | Museum admits 'scandal' of Elgin Marbles

エルギン・マーブル(Elgin Marbles)を「白くする」のに使われた卑劣な道具群エルギン・マーブルと呼ばれるギリシア彫刻コレクションを「白くする」のに使われた卑劣な道具群。

Elgin Marbles - Wikipedia, the free encyclopedia

白色だとばかり思われ続けてきた古代ギリシアの彫刻や、パルテノンなどの神殿建築に、実は 「極彩色のアジア的彩色が施されていた」 ことを明らかにしたのは、近年の科学の発達による紫外線による解析手法だ。科学が、ヴィンケルマン以降捏造され続けてきた「白いギリシア」という欧米文化のルーツの理論的捏造を暴いたのである。
おまけにヴィンケルマンが褒めちぎった古代ギリシア彫刻は、実際には、多くが「ローマ時代に作られた単なる模造品」であるという。



古代ギリシア文化は、貧しいギリシアから傭兵としてエジプトに派遣されていた人々が、やがてギリシアに帰還したとき、エジプトからさまざまな文化を持ち帰ったことで出来上がっていった、という説が有力になりつつあるようだ。
おそらくは、18世紀のアメリカ独立戦争においても、イギリスに雇われてアメリカに来て、そのまま住み着いたドイツ傭兵移民たちがアメリカに持ち込んだドイツ系文化がいろいろとあったに違いなく、その持ち込まれたドイツ系文化の中には、「ヴィンケルマン由来の白人(この場合はアーリア人)中心主義」のような精神的な文化もあったに違いないとみている。
(資料:コーネル大学名誉教授マーティン・バナール(Martin Bernal)『ブラック・アテナ』1987年など)

実は色つきだったギリシア彫刻
右はデータから再現された当時の彩色

Ultraviolet light reveals how ancient Greek statues really looked

Top 10 Color Classical Reproductions


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