August 06, 2012

都市にはプロのベースボールがあり、そして田舎にはない。
このことを念頭に置きながら、以下の記事で、19世紀以降に起きたアフリカ系アメリカ人の南部からの脱出によって生じる「都市と田舎の二極分化」についてまとめてみる。


いまなぜアフリカ系アメリカ人は「都市」を去ろうとしているのか。

もし野球好きのアフリカ系アメリカ人が、昔と変わらずベースボールを楽しみ続けようと思うなら、南部に帰ってしまうよりは、北部や西海岸の都市部に住み続けるほうが、ファンも球団も都合がいいに決まっている。
だが、以下に見るように、彼らがかつて田舎(南部)を逃れて都市(北部)に脱出してくるのに払った犠牲と、せっかく出てきた都市で味わわされた疲労感や失意を頭に入れてモノを言わないかぎり、彼らに対してうかつに「都会にいてくれ」「田舎に帰るな」「MLBをよろしく」などと、軽々しいことは言えないのである。


アフリカ系アメリカ人にとっての「都市と田舎の二極化」が生まれる上で考慮しておかなければならないポイントは、3つほどあると考えた。

Underground Railroad(地下鉄道)
1810年から1850年の間に、3万人から10万人程度を助けたといわれる奴隷逃亡を助けるための秘密組織

1830年代に誕生した田舎者の象徴としての「ジム・クロウ」
都会の軽い見世物として生まれた「ミンストレル・ショー」におけるステレオタイプの田舎者キャラクターである「ジム・クロウ」が、1950年代にミンストレル・ショー自体が人種差別色を強める中で、アフリカ系アメリカ人全体を意味する差別的キャラクターに変質していき、さらには、1876年から1964年と、約90年間にもわたって存在した南部における人種差別的な法律の総称「ジム・クロウ法」に、その悪名が受け継がれていく流れ

Great Migration
1910年代から1970年代にかけ、南部のアフリカ系アメリカ人累積約600万人が、アメリカ北部や中西部、さらに西部へ移住したといわれているGreat Migrationの流れ

(ブログ注:19世紀の初頭、南北戦争前のアメリカがまだ奴隷制を維持し、Underground Railroadが機能している同じ時代に、ヨーロッパではギリシア独立戦争(1821-1829)があった。
18世紀末にヨハン・ヴィンケルマンの「白いギリシア」の流行によってギリシアをヨーロッパのルーツとほめそやす流行があったヨーロッパでは、当然ながら「自分たちの文化的ルーツであるギリシア独立を助けよう」という支援の声が上がった。
ヨーロッパにおける「白いギリシア」という価値観の流行とギリシア独立戦争、アメリカの変質、それぞれの関連性を詳しく調べてみたくなるところだが、いまは話が複雑になるだけなので置いておく。
ギリシアを西ヨーロッパ文明のルーツと考えるフィルヘレニズム(=親ギリシア主義、ギリシア愛護主義など、さまざまな訳語がある)、あるいはロマン主義によって、詩人バイロンをはじめ、たくさんのヨーロッパ人が義勇兵として参加したが、それらの人々の中には、現実に訪れたギリシアが、フィルヘレニズムによって描かれた想像上のイメージと大きくかけ離れていることに気づいて、落胆した者もいた。
それはユーロ圏の愛すべき駄々っ子のような存在となりつつある現在のギリシアと非常にダブるところが多い。また、現在のEUにおいて、その駄々っ子を助けようと先導しているのが、かつてヴィンケルマンが『白いギリシア』を流行らせたドイツである点は、非常に興味深い)


さて、アフリカ系アメリカ人の北部への移動の様子は、南北戦争の前と後とで、どう変わったのだろう。


南北戦争前
Underground Railroad(地下鉄道)

Underground Railroadを利用した北部脱出ルート北部への脱出ルート
I’ll Fly Away, O Glory! ― Outlaws of the Underground Railroad « Kasama

Underground Railroadを利用した北部脱出ルート北部への脱出ルート(別資料)
Underground Railroad Webquest

南北戦争前の、あらゆる自由のないアフリカ系アメリカ人奴隷には、奴隷制のない北部(あるいはカナダ)への秘密の脱出手段があった。それがUnderground Railroad(地下鉄道)である。

Harriet TubmanHarriet Tubman
(ハリエット・タブマン)
奴隷の両親の下に生まれ、ペンシルベニアに逃亡。自由になった後は、Underground Railwayの「conductor」(車掌=案内役)として逃亡を手伝う。1850〜1860年には約19回南北を往復、約300人の逃亡を助けた。4万ドルを超える賞金がかけられたが、結局一度も捕まらず、その功績により「女モーセ」「黒人のモーセ」(Black Moses) とも呼ばれた。

これは、1810年頃から1850年までの約40年間にさかんだった秘密組織で、奴隷制廃止論者や北部諸州の市民たち、あるいは先に逃亡して自由を得た奴隷たちが運営に関わって、数多くの奴隷が北に逃げるのを手助けした。うまく逃れることができたアフリカ系アメリカ人奴隷は、アメリカ北部の都市、あるいはカナダで自由になることができた。
(ちなみに、残念ながら1850年に逃亡奴隷の返還を規定する「逃亡奴隷法」が制定され、せっかく逃亡に成功しても元の場所に連れ戻されるようになったため、Underground Railroadは下火になっていった)
Underground Railroad - Wikipedia, the free encyclopedia
ちなみに、「鉄道」というネーミングはあくまで「逃亡ルート」という意味の比喩であり、鉄道を利用して逃亡するという意味ではない。またハリエット・タブマンの果たした「車掌」という役割も、あくまで「案内役」という意味の比喩。Underground Railroadについてはこのブログで一度書いたことがある。詳しくはWiki等を参照。
Damejima's HARDBALL:2011年6月6日、2011ドラフトでシアトルがヴァージニア大学の投手Danny Hultzenを指名したので、昔のAtlantic Coast Conferenceでの「Frank McGuireの苦い話題」について書いてみた。



南北戦争後
Reconstructionの挫折から、Great Migrationまで

南北戦争が北軍の勝利に終わって、公式に移動の自由を得たはずのアフリカ系アメリカ人だが、彼らは、1910年代以降になって、ようやく北部や他の地域への大量移住を開始しはじめた。既に紹介したGreat Migrationである。
Damejima's HARDBALL:2012年7月3日、「父親」とベースボール (2)南北戦争100年後のアフリカ系アメリカ人の「南部回帰」と「父親不在」、そしてベースボールとの距離感。

南北戦争が「1865年」に終わっているのに、北部への移住Great Migrationがさかんになりはじめたのが、南北戦争終結から40数年もたった「1910年代」というのは、なにか変だと気がついた人は、歴史のセンスがある。これら2つの出来事の間に、あまりにも長く不可解なズレがあるのはどうしてか。

この「40数年間の長いギャップ」には、
もちろんちゃんとした理由がある。

南北戦争が終わる頃から合衆国連邦政府は、奴隷制廃止についての修正第13条、市民権を定めた修正第14条、元奴隷にも参政権を与える修正第15条と、次々に合衆国憲法を改正する一方、南部の奴隷州を北部の流儀に基づくこうした新しいアメリカの自由なシステムになじませようと、かなり積極的に努力を重ねた。
これがアメリカ史でいうところの、 "Reconstruction" レコンストラクションである。(詳しくはWiki等を参照 レコンストラクション - Wikipedia)。

だが、レコンストラクションは、南部の強い抵抗にあう。
最後には連邦政府内部の強硬派が南部を軍事的占領までして、なんとか手なづけようと試みたのだが、たいした効果を上げることができないまま、やがて連邦政府は南部のふるまいを監視する作業を諦めてしまうことになった。

南部の奴隷州は、南北戦争敗北で奴隷制は放棄させられたが、レコンストラクションの拒否には成功したのに気を良くして、やがて、奴隷制に代わる新たな人種差別な州法を相次いで制定して、有色人種に対する「隔離政策」を開始した。
つまり「奴隷制」による人種差別が、南北戦争には「隔離政策」という新たな手法による人種差別に変更に変わって、アフリカ系アメリカ人の束縛が継続されたのである。
このレコンストラクション挫折以降に、南部で次々に生まれていった有色人種隔離政策に基づく人種差別的な州法の総称を、「ジム・クロウ法」という。ネーミングの元になったのは、ミンストレル・ショーの田舎者キャラクター、「ジム・クロウ」である。
ジム・クロウ時代の看板
「ジム・クロウ法」時代の白人(white)有色人種(colored)の使うトイレを分けていることを示す看板(写真)アラバマ、ミシシッピ、ジョージア、ルイジアナ、ノースカロライナ、ワイオミングなどでは、州法によって、病院、バス、電車、レストラン、結婚、交際、学校などについて、アフリカ系アメリカ人を中心とした有色人種が白人と同じ一般公共施設を利用することを禁止・制限した。
また、投票権(franchise)についても、アフリカ系アメリカ人の投票を阻止する数々の制約が設けられていた。非常に重い「投票税(Poll Tax)」、読み書きの試験、grandfather clause (=祖父条項。南北戦争が終結する1865年の2年後、1867年よりも前に祖父または父親が投票権を持っていた人にのみ投票権を与えるという南部の州憲法条項で、1890年頃から1915年まで存在した。当然ながら、アフリカ系アメリカ人の祖父や父親は奴隷だったのだから投票権は持っていない。最初からそのことがわかっていて、アフリカ系アメリカ人の投票阻止のために制定された悪法)などによって、アフリカ系アメリカ人の投票は阻止された。
北部の州でも投票税(Poll Tax)は存在したが、ニューヨーク州では先頭を切る形で1901年には廃止された。逆に、テキサス、アラバマ、ヴァージニア、ミシシッピの各州では、1960年代の選挙法改正まで投票税は存在していた。

南北戦争の南軍敗北で解放された「はず」のアフリカ系アメリカ人だったが、彼らの法的、政治的、経済的、社会的な平等を、恒久的に実現するはずだった連邦政府の理想は、19世紀末のレコンストラクションの失敗で一度挫折を味わわされていたのである。


都市と田舎

18世紀初頭のUnderground Railroadによる亡命にしても、20世紀初頭以降のGreat Migrationによる移住にしても、当然のことながら、すべてのアフリカ系アメリカ人が一斉に北や西に移住したわけではなく、南部にそのままとどまり続けた人々も大勢いる。
このことは、「都市のアフリカ系アメリカ人と、田舎のアフリカ系アメリカ人への、二極化」につながった。(もっと詳しくいうなら、都市、都市に遅れてやってきた人、田舎の3種類)
この「都市と田舎の二極化」は、同じアフリカ系アメリカ人同士の間に、収入や洗練の度合、意識の差、さまざまな「すれ違い」を発生させた。

「すれ違い」は、例えば「北部への移住を決断した人と、南部に残ることを選択した人」との間にあったのはもちろんだし、また「先に北部に亡命や移住を果たした人と、後から遅れてやってきた人」との間にも存在した。
早くから北部に脱出して、苦労を重ねて都市に定着し、それなりの洗練に達していた人たちにしてみれば、遅れて都会に流入したばかりのアフリカ系アメリカ人は、(言葉は悪いが、あえて使うと)野暮ったい田舎者に見えた部分があったようだし、また逆に、後発の人々から見た都会のアフリカ系アメリカ人は、気取って見えてしかたがない部分が少なからずあったらしい。

この「都市と田舎」2つのタイプのアフリカ系アメリカ人の見た目の違い、意識の差は、後で書くミンストレル・ショーの2つのキャラクター、「ジム・クロウ」と「ジップ・クーン」に少なからず反映されていたと言わざるを得ない。
(同じような「すれ違い」は、アフリカ系アメリカ人同士の間だけでなく、白人同士、たとえば、植民地アメリカ時代から先住していた白人と、アメリカ独立後に遅れてやってきた後発の白人移民の間にも強く存在していたようだが、ここでは話が複雑になりすぎるのを避けるために触れないことにする)



こうした「アフリカ系アメリカ人における、都市と田舎という二極化」は、例えば、1950年代から1960年代のアメリカを席捲した「公民権運動」にも反映している。

マルコムXが、都市を基盤にして、妥協の少ない過激な主張を繰り返したといわれるのに対し、マーティン・ルーサー・キング牧師は、田舎を基盤に、比較的な穏健なトーンで権利を主張した、といわれている。

Malcolm XマルコムX
Malcolm X
Martin Luther King, Jr.キング牧師
Martin Luther King, Jr.


19世紀初頭から20世紀初頭、100年という長い歳月をかけて進行していったように見えるアフリカ系アメリカ人の「都市と田舎の二極化」は、歴史という大きな潮流の上でみれば、それ自体はどんな国でも起こりうることであって、止むを得ない性格のものだ。
だが、アフリカ系アメリカ人社会のこうした二極化を、人種差別の助長に利用しようとする人々に「つけいる隙」を与えることにもなった部分もあることは否めない。


minstrel show(ミンストレル・ショー)と呼ばれる、顔を黒く塗った白人が演じる見世物において多用され、流行した、「都会人」を表わす「ジップ・クーン」と、「田舎者」を表わす「ジム・クロウ」という、2人のキャラクターも、その例のひとつだ。

Jim Crow田舎者
ジム・クロウ
Jim Crow

Zip Coon都会者
ジップ・クーン
Zip Coon


これらの登場人物は、誇張され、型にはまったstock character(ストックキャラクター)、ステレオタイプであることに最大の特徴がある。
ミンストレル・ショー自体は、後に衰退することになったが、ミンストレル・ショーが生み出した「ステレオタイプなアフリカ系アメリカ人のイメージ」は、1950年代になってもブラックフェイス・パフォーマーによってヴォードヴィルやドラマで普通に演じられ続けた。

映画、演劇、ショー、文学において、アフリカ系アメリカ人をステレオタイプでしか表現しないという習慣に対する気分の悪さは、かつて日本人が大昔のアメリカ映画やコミックでは、常に「眼鏡をかけ、前歯が出ていている」「クビからカメラをぶら下げている」「忍者の格好をしている」などという、東洋のイメージがごちゃまぜになったような、わけのわからないステレオタイプでしか表現されていなかったことを思い出すと理解できる。

Denzel Washingtonちなみに、ニューヨーク州生まれで、熱心なヤンキースファンでもあるデンゼル・ワシントンは、かつて1970年代後半に、まだ駆け出しの新人俳優だった頃、同じアフリカ系アメリカ人の名優シドニー・ポワチエから、『君のキャリアは最初の3〜4本の出演作で決まる。自分がいいと信じる役が来るまで待つべきだ』とアドバイスされ、いくつかの『黒人らしい』役を断った」(出典:Wiki)という。
演技論はこのブログの専門外だが、アメリカのショービジネスで、アフリカ系アメリカ人俳優に、彼らの才能の有無に関係なく「ステレオタイプなアフリカ系アメリカ人的な、つまらない、誰でもできる演技しか求めない」という悪い習慣のルーツは、このミンストレル・ショーではないかという気がしてならない。
(逆の意味でいえば、アフリカ系アメリカ人の視点で作られているといわれるスパイク・リー映画に登場するアフリカ系アメリカ人の演出や設定にも、ステレオタイプ感がないでもないが、とりあえず置いておこう)


ミンストレル・ショーの変遷を理解するには、たいへんに長ったらしくて複雑な歴史をひもとく必要があるので書ききれない。詳しくはWikiでも読んでもらいたい。
かいつまんで特徴だけ挙げてみる。

ミンストレル・ショーは、顔を黒く塗ってステレオタイプのアフリカ系アメリカ人を演じてみせるブラックフェイス・パフォーマーにルーツをもつ。顔を黒く塗った白人が、踊り、音楽、寸劇を交えたショーを演じたほかに、時代によってはアフリカ系アメリカ人自身が演じることもあった。
以下のリンク先のなかほどの部分に、1929年のミンストレル・ショーにおける録音とされる音源へのリンクがあるので、当時の気分を多少味わえる。この音源が本当に1929年のものかどうかまでは確かめようもないが、できた当初のミンストレル・ショーが、人種差別とはそれほど関係のない、悪気のない、たわいないミュージカルというか、コミックショーみたいなものであったことがわかるのは貴重だ。
こういう明るい雰囲気のショーが、いつのまにやら人種差別の道具になってしまうのだから、人間というものはある意味、怖い。
Blackface! - A History of Minstrel Shows
ミンストレル・ショーにおけるブラックフェイス・パフォーマーは、当初こそメインの出し物だったが、後にだんだんと舞台の片隅に追いやられていくことになったが、やがてミンストレル・ショーは1850年代には人種差別的な見世物という色彩を強めていった。



ブラックフェイス・パフォーマーのひとりで、1930年代に "Jump Jim Crow" という曲を大流行させたのが、Thomas Dartmouth Rice (トーマス・ダートマス・ライス 1808-60)だ。
ニューヨーク生まれの白人の彼が、顔を黒く塗って演じたアフリカ系アメリカ人の田舎者Jim Crow(ジム・クロウ)が歌う、"Jump Jim Crow" というナンバーの大ヒットによって、トーマス・ライスはミンストレル・ショーにひっぱりだこになり、"Jim Crow Rice" とも呼ばれるようになった。

ちなみに、実は「ジム・クロウ」というキャラクターがいつ発明されたか、という点そのものは、アメリカでも諸説あってハッキリしていない。
日本のWikiには「ジム・クロウという名はJump Jim Crowに由来する」と明記されていて、あたかもトーマス・ライスがこのキャラクターを発明したかの印象を与える記述がされているが、それは正確ではなく、「ジム・クロウ法という南部の人種差別的な州法の総称が、トーマス・ライスの "Jump Jim Crow" という曲に由来する」と断定する資料は、アメリカにはない。
確かなのは、「ジム・クロウ法という南部の人種差別的な州法の総称が、ジム・クロウというキャラクターに由来する」ということと、「ジム・クロウが、ミンストレル・ショーのベーシックな田舎者キャラクターだった」こと、この2点だ。
資料:The Strange Career of Jim Crow - The late C. Vann Woodward - Google ブックス



「ジム・クロウ」は当初、単なる「田舎のみすぼらしい黒人」を戯画化したキャラクターにすぎず、軽いコミカルな見世物のキャラクターのひとつに過ぎなかった。

だが、ミンストレル・ショーが興行的な成功と、 "Jump Jim Crow" という曲の大ヒットに、南部戦争前のアメリカ社会の「差別的な気分」との融合が起きたことで、やがてこの "Jim Crow(ジム・クロウ)" という言葉は、ミンストレル・ショーの狭い枠を飛び超えて、アメリカ社会全体に拡散していくことになる。
「ジム・クロウ」は、1930年代に「アフリカ系アメリカ人全体を指す代名詞」になり、さらに1870年代以降には、かつての南部の奴隷州で行われていた有色人種隔離政策のための州法の総称、Jim Crow law(ジム・クロウ法)」として定着した。
As a result of Rice's fame, Jim Crow had become a pejorative meaning African American by 1838 and from this the laws of racial segregation became known as Jim Crow laws.
「(ジム・クロウを演じた)ライスが名声を博した結果、『ジム・クロウ』は1838年までにアフリカ系アメリカ人を軽蔑する意味をもち、さらには、この言葉によって人種差別法が『ジム・クロウ法』という名前で知られることにもなった」
Jump Jim Crow - Wikipedia, the free encyclopedia





ちなみに、日本でフォークダンスの曲として知られている「オクラホマ・ミキサー」(Oklahoma mixer)には、実は、歌詞の違うバリエーションが数多くある。

その中のひとつに、"Natchez Under the Hill(丘の下のナチェス族)や、"Do Your Ears Hang Low?"(君の耳は長く垂れてるかい?)に並んで有名な、"Turkey in the Straw"(藁の中の七面鳥) がある。
"Turkey in the Straw"(藁の中の七面鳥)は、実は、ジム・クロウ法の語源になった "Jump Jim Crow" をヒットさせたトーマス・ライスと同じ、顔を黒く塗って歌い踊るブラックフェイス・パフォーマーのひとり、George Washington Dixonなどが歌ってヒットさせた曲。

またこのメロディは、さらに辿っていくと、かつてミンストレル・ショーでしばしば演奏されていたという、ある人気の曲に行き着く。
それが、ほかならぬ、ミンストレル・ショーにおける都市のアフリカ系アメリカ人キャラクターのテーマソング、 "Zip Coon" である。("Old Zip Coon" とも呼ばれる)

つまり、日本人はミンストレル・ショーの人気曲 "Zip Coon" にあわせてダンスを踊っていた、というわけだ。やれやれ。


人が普段、意識しない隙間にも、文化というやつは染み込んできているのである。






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