January 28, 2013

週末ともなると日本のどこかで必ずマラソン大会が開催され、テレビ中継も毎週のようにあるほど、日本のマラソンブームは勢いが衰えないらしい。同じ日に複数のマラソンが開催されることも、けして珍しくない。

マラソンブームは、同時に「マラソン大会開催ブーム」という意味でもあるわけだが、これだけ大会が乱造され続けると質が落ちて、運営の最悪な大会というが続出してくる。
たとえば「第1回京都マラソン」は、2億3100万円もの赤字を出して、しかたなく公費(つまり税金)で穴埋めしたらしいが、カネの問題ならまだいい。第二東名が完成する前に行われた「ふじのくに新東名マラソン」などは、主催者側の給水の不手際によってランナー多数が脱水症状になり、リタイアが続出したという。水の用意が無いマラソン大会なんてものは、不手際というより傷害事件に近い。
さらに最悪だったといえるのは、「第1回富士山マラソン」(旧名『河口湖日刊スポーツマラソン』)。身の丈に合わない計画性皆無な大会を主催したのが原因で、1万数千人の大会参加者のうち、なんと5000人もの大量のランナーが「スタートそのものに間に合わないどころか、現地に到着することすらできない」という大失態を演じた。
大会レポ − レポート&評価・第1回富士山マラソン(旧河口湖日刊スポーツマラソン)(2012年)


富士山マラソンの運営の「あり得ないレベルのずさんさ」を人から聞かされて、日本の誇る霊峰富士がなぜ世界遺産に登録できないかがちょっとわかった気がする。
そして、「野球」という万単位の客を毎日のように集め続けてきたスポーツが、いかに合理的かつ安全に運営されてきたかが、あたらめてわかった。(これには、ブログ主が地方分権主義なんてものをまるで信用してないせいもあるかもしれない)



ボストン、シカゴ、ロンドン、東京。2万人を超えるランナーを集めるような大規模なマラソン大会は、すべて「大都市」で行われている。
大都市でこそ、大規模マラソンイベントが成り立つ理由」は、「都会には人がたくさんいるから、カネがたくさん集められる」などという、せせこましい商業上の理由ではない。「インフラのしっかりしている大都市だからこそ、大規模なヒトの移動に、ビクともせず、問題が起きにくい」からだ。

大都市というものは、毎日、何百万人もの人間を輸送し続けていて、盤石な公共交通機関や道路網と、それを運営管理するソフト面のノウハウが十分に整備されている。都市は「大量の人間が一時的に集まること」に慣れているのだ。だから、たとえ3万人や4万人程度の数のマラソンランナーが一ヶ所に集中したからといって、交通機関がマヒするような事態は起きない。


日頃忘れてていることだが、野球というスポーツもシーズン中、毎週のように、それも連日、万単位の観客を集めている。そういう意味では、「野球とは、年間の半分もの長期にわたって、毎週3日間ずつ大規模マラソンを連続開催し続けているような、超がつくほどの大規模スポーツ」なわけだ。

その大規模スポーツの野球だが、日本の野球においては「富士山マラソンで5000人ものランナーが味わわされた悲惨で不快な体験」は起きたためしがない。
というのは、ボールパークのある大都市には盤石の公共交通機関が存在すること、そして日本の野球主催者に、これまで何十年にも渡って培ってきた豊かな経験があるからだ。球場は、果てしない数の野球ファンを、安全に収容しては、安全に帰宅していただく、そういうルーティーンを果てしなく繰り返してきた。そこには積してきた知恵やノウハウがぎっしり詰まっている。



富士山マラソンの運営のずさんさをネット上の資料やブログでの悪口雑言などからいろいろ集約してみると、5000人ものランナーが置き去りになった原因の根本は、どうやら、「大規模マラソンを、公共交通機関の脆弱な田舎の山間部で開催したこと、さらに気温零度以下の午前8時という早朝スタートに設定していたこと」に、すべての騒動の根源があると思われる。
(ちなみに、この事件は、スポーツメディアである日刊スポーツ主催のイベントなせいで、メディア同士の自主規制が働くのか、報道量が十分ではない。詳しくは当事者であるランナーたちの書き込みの怒りから推測するしかない。最も信頼できるのは、せせこましく自主規制するメディアではなく、当事者の「自発性」だ)


マラソン大会というと、当然ながら、道路は交通規制の影響を大きく受ける。田舎での移動はクルマに頼ることが多いものだが、ことマラソン大会では、クルマに頼ることができない。当たり前のようだが、これは重要な点だ。
それでも「都市で開催される大規模マラソン」なら、地下鉄や鉄道など、「道路の交通規制の影響を受けない公共交通機関」が大量にある。また宿泊施設も有り余るほどある。
地方からやってくる都市の地理に不案内な参加者でも、都心のホテルを余裕をもって予約できるし、都市の住人にしても、最初から公共交通利用による移動を前提にスタート地点に集合してくる。だから結局、誰も慌てる必要がない。

たとえ「大都市のマラソン」が早朝スタートであったとしても、地下鉄や鉄道は、「短時間」かつ「大量」に、スタート地点や沿道に、万単位の数のアスリートたち、その友人や家族といった応援者、さらに主催者やボランティア、見物客をスムーズに移動させることができる。都市はクルマ移動を必ずしも前提としないから、参加者のための大規模な駐車スペースなど、そもそも必要ない。(もし必要になっても、駐車スペースはそれなりにある)

つまり、総じていえば、「都市機能」というものは「数万人単位のスポーツイベント」程度ではビクともしない。


田舎はどうだろう。

たとえ田舎のマラソンであっても、規模さえ「適性」なら、問題は起きない。駐車スペースの必要性も、それほど発生しない。

だが、「富士山マラソン」のような無計画なイベントは、クルマにしか頼りようがない田舎の街に、2万人規模もの「クルマで移動するしかないランナー」をかき集める、という無謀なアイデアなわけであって、「机上で考えたことが、開催地のキャパシティを越え過ぎていること」を、まるで理解できてない。



公共交通機関が無いのと同じ山間部で、しかも、2万人もの人間が早朝8スタートする前提のマラソン大会などというものが、どれだけ「田舎のキャパシティ」を越えているか。これがわからなかった主催者は、スタートさえ切れなかった5000人のランナーはじめ、多くの「被害者」に謝罪すべきなのはもちろんだし、大会規模を身の丈にあった規模に変更すべきだ。


なぜ「早朝スタート」でなければならなかったのだろう。

当日早朝の気温はどうやら0度以下だったらしい。当然スタートを待つ間にランナーたちは寒さに凍え、「ウオームアップ不足」のままスタートを切ることになったはずだ。

主催者がランナーの健康をかえりみない「ドアホなスタート時間」に設定した理由は、想像だが、「『前日に現地入りして宿泊してないと、スタート時間に間に合わないマラソン』に設定しておけば、自然と都会から来るランナーたちは前日から宿泊してスタートに備える。そうなれば、河口湖周辺のホテル・旅館が経済的に潤う」という「商売上の計算」があった、だろう。
また、どうしても当日にしか現地に来れない都会のランナーも多数いるわけだが、そうした参加者の集客については、「当日早朝入りするランナーについては、ホテル旅館と同じように地元河口湖の利害関係者である、富士急行など、交通事業者の観光バスをフルに利用した『弾丸ツアー』を用意すれば一石二鳥で、地元を潤わせることができる」とでも考えたに違いない。


「田舎の、それも早朝に、大量の都会の客を集中させるマラソン」なんてものが、どの程度「地域活性化、万歳!」などというこざかしい計算に基づいていたか知らないが、いかに無謀な皮算用か、よくわかる。
実際に起きたことは、参加者の数10パーセントにもあたる5000人ものランナーが、スタート時間に遅れるどころか、会場に近寄ることすらできなかったという、最悪の事態である。


駐車スペースを考えても、計画のずさんさがわかる。

地下鉄のない土地で行われる2万人規模の「ありえない規模のマラソン」なのだから、前日から宿泊している数千人から1万人前後のランナーと同行者のために、数千台分の「臨時駐車場」が必要になる。もちろん主催者、ボランティア、ゲスト、メディアのためにも駐車スペースが確保されなければならない。
河口湖周辺にどのくらいの数の駐車スペースが存在するのか知らないが、1000台やそこらの駐車スペースでは、これらの「一時的なパーキング需要」をまかなえるはずがない。

たぶんマラソン前日には、主催者があらかじめ用意した臨時パーキングや、ホテル・旅館周囲に細々と点在するパーキングは、前日から宿泊しているランナーたちのクルマで埋め尽くされていたに違いない。
また、前日から現地入りして宿泊し、早朝スタートに準備周到に備えたランナーですら、駐車場のあるホテル周辺からスタート地点まで、早朝の凍えるような寒さの中、延々と歩かされるハメになったのは間違いない。


一方、当日やってくるランナーたちは、どうだったか。

彼らの移動手段には、主に観光バスを利用したパッケージツアーが組まれており、数千人の規模のランナーが観光バスで当日現地に到着する予定だったらしい。
となると、観光バスの数は、バスの定員からして合計100台に及んだはずだが、いったい100台もの数の大型バスを、どこに停車、駐車させておくつもりだったのか。
100台もの数のバスを同時に駐車させるスペース、というと、もし日本の高速道路のサービスエリアに100台のバスを並べた姿を想像するだけで容易にわかることだが、バスだけでサービスエリアの大半が満杯になるほど、とてつもなく広大な面積の駐車スペースを用意する必要だ。

一方、マラソン当日の河口湖畔の駐車スペースは、前泊して現地入りすることを選んだ(というか「選ばされた」)多数のランナーたち、そして関係者とボランティアのクルマによって、とっくに駐車スペースはなかったはずだ。

ならば、当然のことながら、当日入りする100台もの大型バスは、スタート地点からはるか遠くに離れた場所に駐車するしかない。と、なると、当日観光バスで現地入りするランナーは、0度近い気温の中、観光バスの駐車場からスタート地点まで、歩いていくしかない。よほど早く出発しないとスタートに間に合わないし、ウォームアップどころの騒ぎではない。
もし当日の高速道路に多少の渋滞があろうとなかろうと、5000人のランナーは、そもそも「はるか遠く離れた駐車場から、マラソンスタート地点まで歩くしかない」という設定になっていたわけだ。

当日入り組のランナーたちは、早朝、まだ真っ暗な3時だの4時だのという、まだ公共交通機関も動いていない時間に、タクシーかなにかで都心のバス乗り場までなんとかたどり着いてバスに乗せられ、何時間もバスに揺られて現地に着き、気温零度以下の駐車場から、ウオームアップもなしにいきなり歩かされてスタート地点に向かい、高原の朝の零度を越えた程度の寒風の中、午前8時にフルマラソンをスタートする、そういうわけのわからないスケジュールを押し付けられていたはずだ。

無知な主催者はいったいどこでランナーをウオームアップさせるつもりだったのか知らないが、身体を動かすってことは、そんな簡単なものじゃない。


大規模マラソン大会というものは、参加経験のある人ならわかることだが、ほとんどの場合、スタート時点のランナーのカラダは冷えている。(これはマラソン大会すべてが持っている共通の解決すべき課題でもある)
ランナーはスタート前に何十分も、それも立ったまま待たされる。さらに、スタートのピストルが鳴った後も、参加者があまりにも多すぎるために、なかなか走りだせない。マトモに走れるようになるのが、スタートしてから数分〜10数分もかかることも、よくある。(こうした遅延現象は、たとえ規模の小さい大会でも多かれ少なかれ起きる)
まして都市より気温の低い山間部の湖畔の「零度以下の気温」の中で、何十分も待たされて、カラダが冷え切らないわけがない。
前日から宿泊していてマトモにスタートできた幸運な人たちにしても、気温零度、午前8時の冷え切ったままのスタートなんてものが、身体にプラスに働くわけがない。


現実の話は、もっと酷い。
5,000もの人たちは、なんと結局観光バスの中に閉じ込められたまま、スタート場所にすら時間内にたどりつけなかったという。アタマにこないほうがどうかしている。
そもそも、このマラソンの主催者は、日頃スポーツをほめたりけなしたりするのを生業(なりわい)にしている日刊スポーツなのだ。スポーツを誰よりもわかっていてもよさそうな主催者にこういう事件を起こされて、ランナーたちは余計に腹も立ったことだろう。



とかく「地元の人」、というと、「その場所を最も大事にしている人たち」と決めつけてしまうことが多い。

だが、ブログ主は、性格が悪いためかなにか知らないが(笑)、そんな風に思ったことがない。
例えば、富士山周辺に住んでいる人たちが、イコール、「最も富士山を大事にしている人」だなんて思わない。むしろ、(場所にもよるだろうが)「場所をメシの種にしているだけの人」たちが地元民というものだ、というドライな見方は、あながちハズれてないと思っている。

たとえば「海の家」。
ビーチで遊ぶには「海の家」が絶対必要だと考える人たちには、たいへん申し訳ないのだが、あんなもの必要ない。「景観」として、必要ない。
もし冷たい飲み物が必要なら、ビーチ近くの道路沿いにコンビニでも作っておけば十分だ。シャワーを浴びたければ、それこそ地元自治体負担で無料シャワーでも設置しておくほうが、よほど気がきいているし、景観として綺麗におさまる。日よけがほしければ、地元のホームセンターで安くシェードを売っているから、買ってからビーチに来ればいい。海の家などなくても、地元にはカネが落ちる。なんの問題もない。


見苦しい歩道
「景観」という話のついでに言うと、道路沿いやマンションのエントランス周辺の植え込みによく植えられている植物、例えば「ツツジ」も必要ない。
あんな見栄えの悪いものを、よくあれだけの数、植えるものだ。咲いた花がまた、なんとも貧乏くさい。
ああいう粗悪なものを人目につきやすい場所にやたら植えまくった結果できたのが、今の日本の「景観」だ。あんなものを、税金を使って刈り込んでメンテナンスまでしている。そんなことして、何になるというのだ。あんなもの、無いほうがよほど景観がスッキリ見える。
むつかしいことはよくわからないが、道路特定財源から「ツツジのメンテナンス支出」なんてものが出ているのかもしれないが、「道路のツツジ」を消滅されば、ひょっとすると日本のクルマに関して多すぎる税金をカットできるかもしれないではないか。もし「ツツジの消滅」で自動車ユーザーの負担が少し軽くできるなら、それこそ日本を支えるクルマの売り上げの向上につながったりするかもしれない。


何十トンものゴミを不法投棄し続けてきた尾瀬だかの山小屋が、罰金と執行猶予つきの懲役刑を言い渡されたなんて事件もあったらしいが、観光地の関係者にかぎって 「ゴミが増えるのは、ゴミを持ちかえらない観光客のマナーが悪いせいだ」などと、わけのわからないヘリクツを言いたがる。そしてゴミ箱を無くしてしまい、景観劣化の責任を観光客に押しつけたがる。
そういう輩に限って、小汚い看板を街中にならべて、本来美しいはずの日本の山や海の景観を、「どこにでもありがちな観光地」に変えて、自分勝手な商売のタネにしている。
そして、挙句の果てには、富士山周辺の景観の美しさが楽しめるマラソンというキャッチフレーズにひかれて集っただけのランナーに向かって、もてなす側の責任を棚に上げ、「マラソンにクルマで集まってくるマラソン参加者が悪い。バスや電車を使えば、こんなことは起きなかった」などと、わけのわからないことを言った人々のように、自分たちの見通しの甘さを棚に上げて、すべて客とクルマと渋滞のせいにする。

なんでもかんでもクルマのせいにしておけば、ラクができるとでも思っている。日本の自動車関連の税金の異常な高さと同じリクツだ。


田舎に住む人というのは、たいていの場合、「クルマは、ここで生きていく上で不可欠だ」というリクツにのっかって生きているわけだが、いざ無謀なマラソン大会の開催に失敗したら、やれクルマは使うな、電車とバスを使え、前日に現地に来て宿泊しろ、では、話にならない。
そんな都合のいいヘリクツは、田舎民が、日頃はクルマばかり使って便利に暮らすようになったクセに、いざ赤字の電車やバス路線が廃止されるとなると、廃線反対だのなんだの突然拳を振り上げたりする愚かな行為と、なにも変わらない。


どうも言葉でうまく説明できないのが困るが、総じて言うと、近代の「日本の景観」には「独特の無責任さ」があった、と思うわけだ。この「近代独特の無責任さ」は、せっかくの美しい日本の景観を、常に「こぎたない」ものにしてきた。富士山も例外ではない。

例えば「無責任な観光地」では、観光地として景色のいい一等地に立つレストランほど、クソまずい食事を平気で出し、観光地価格の高いカネをとるものだ。
こういうわけのわからないマラソン大会を無謀に強行した河口湖でも、湖畔やマラソンスタート地点近くの「商売上、有利な場所」には、きっと「無責任な店」ばかりがズラリとたち並び、マラソンランナーに、くそマズい料理と観光地価格を押し付けたに違いない。


霊峰富士に限らず、日本の山や海は、「こぎたなく」などない。むしろ日本の山海はもともと、心洗われる美しさであり、世界に胸を張って誇ることができる。だから「地元だから景観を自由にして許される」なんてことはありえない。山もビーチも、地元民だけの所有物ではない。
電気製品の設計ではないが、「こぎたなさ」を途中でやめるのは、簡単ではない。こぎたないものをつくるのは、たやすいが、綺麗にしていくには、手間も時間もかかる。
だが、「近代独特のこぎたなさ」をやめてみると、ブームにつられて粗製乱造されまくっている雑なつくりのマラソン大会が、もっとマトモで身の丈にあったものになり、ビーチは自然な美しさにもどり、道路沿いの「無責任なツツジ」が消えてなくなって、せいせいできたりする。
そうなれば霊峰富士も自然に綺麗になるかもしれない。なんといっても、景観にはヒトの内面が反映するものだ。
富士山を綺麗にするには、登山客の数を適度に制限するのもひとつの方法なのだが、富士山登山のための山小屋では、かつて「ありえないほどの狭さ」で多くの登山客をすし詰めにして寝泊まりさせた時代があったらしいが、最近その「富士山の山小屋のありえないほどの狭さ」は、ようやく多少は改善されたらしい。

客が多ければ多いほど儲かるからオッケー、なんて程度にしかスポーツを考えていない「無責任な地元民」やら、マラソン大会のイロハもわからないスポーツ新聞に、「観光客はゴミを持ち帰れ」「クルマを使うな」とか、わけのわからない「観光地にありがちな無責任なヘリクツ」を言われたくない。



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