December 20, 2012

ルーニー・マーラ

ドラゴンタトゥーの女で使われたモーターサイクル

このバイクは、映画『ドラゴンタトゥーの女』でリスベット・サランデルが乗り回している美しいカフェレーサーだ。フロントもさることながら、「ケツ」からの眺めがなんともセクシーでたまらない。
デザインは、ロサンゼルスのファクトリー、Glory Motor WorksのJustin Kellの手によるもの。ベースはホンダのスクランブラー、CL350らしい。
She wouldn’t have an expensive modern bike– she would have an inexpensive, older bike that would be customized to fit her personality.
「(監督デビッド・フィンチャーから話をもらって、原作も読み、いったいリスベット・サランデルなら、どんなバイクに乗るだろう?と考えた結果)彼女なら、けして高価なバイクなどには乗らず、むしろ、手頃だけど自分のパーソナリティにぴったりフィットするようにカスタマイズしたオールドバイクに乗るだろう。そう思ったんだよね。」
THE EPIC BIKE BUILD GOES TO GLORY | THE GIRL WITH THE DRAGON TATTOO « The Selvedge Yard


"Matrix" に並ぶブログ主の超お気に入り映画のひとつ、『ファイトクラブ』の監督でもあるデビッド・フィンチャーの『ドラゴンタトゥーの女』で、パンクっぽい、壊れた女性ハッカーを演じたルーニー・マーラは、実は、NFLニューヨーク・ジャイアンツの創始者ティム・マーラの曾孫(ひまご)にあたっている。映画での役柄とはかけ離れた、いわゆる「お嬢様」であり、また、何代にもわたる生粋のニューヨーカーでもある。


Tim MaraNFL ニューヨーク・ジャイアンツの創始者ティム・マーラは、1887年にマンハッタン東南部、ロウワー・イーストサイドの貧しい家庭に生まれ、13歳のとき母の家計を助けるために早くも仕事についた。最初の仕事は奇しくも映画館の案内係だったという。
やがてティムは通りで新聞を売る仕事を経てブックメーカーの使い走りになり、さらに18歳のとき彼自身がブックメーカーになった。

ロウワー・イーストサイドの路上の子供たち(1906)
1906年当時のロウワー・イーストサイド。
資料:Old New York - missfolly: Children on Street, Lower East Side,...

ブログ注:『ユダヤ人のアメリカ移住史』より
「1880年代初頭、アメリカ・ユダヤ人社会史上に、決定的な転換期が訪れた。当時、ロシア国内で始まった「ポグロム」(ユダヤ人迫害)の嵐で、大量の東欧ユダヤ人がアメリカに流入することになったのである。ユダヤ移民の第3波である。まさに、どっと押し寄せてくるという感じでやって来た。ニューヨーク市の中心部に近い移民集住地区「ロワー・イーストサイド地区」は、おびただしい数の移民集団が住み始めて超過密状態になった。1910年時の同地区には54万2000人が居住し、当時そこは、インドのボンベイを除けば地球上で最も人口密度の高い都市空間であったといわれている。


1925年にティム・マーラは縁あって、草創期にあったNFLのニューヨークにおけるフランチャイズ権を、わずか500ドルで手にしてフットボール興行に乗り出した。
だが、当時のフットボールファンはカレッジフットボールに熱狂していたために、草創期のプロ・フットボールは観客動員に苦しみ、当初4万ドルもの損失を出している。
だがティム・マーラは挫けず、カレッジフットボール出身のスター選手Red Grangeが所属するシカゴ・ベアーズとの対戦を主催することで、翌年には14万ドル以上もの利益を出すことに成功した。

このときティム・マーラがニューヨーク・ジャイアンツとシカゴ・ベアーズのゲームを行ったのは、草創期のMLBチームも数々の試合を行った、かの「ポロ・グラウンズ」だ。アッパー・マンハッタンにあるポロ・グラウンズで行われたジャイアンツ対ベアーズ戦には、Red Grange見たさに6万5,000人から7万3,000人もの観客が集まったという。

Polo Grounds, Eighth Avenue at 159th Street, 1940
1940年頃のポロ・グラウンズ
資料:A Little More New York in Black and White (photos and commentary)
資料:Damejima's HARDBALL:2012年4月27日、一球一音、野球小僧と音楽小僧 (3)野球とティン・パン・アレー。1908年のポロ・グラウンズのゲームからインスピレーションを得た"Take Me Out To The Ball Game"
資料:Damejima's HARDBALL:2010年8月21日、ボルチモアのカムデンヤーズは、セーフコのお手本になった「新古典主義建築のボールパーク」。80年代のクッキーカッター・スタジアムさながらの問題を抱える「日本のスタジアム」。


「1925年のポロ・グラウンズ」といえば、MLBニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)からポロ・グラウンズを間借りしていた時代のMLBニューヨーク・ヤンキースが、ベーブ・ルース加入による人気沸騰を契機にハドソン川対岸のブロンクスに旧ヤンキースタジアム(1923年開場)を建設して移転し、ポロ・グラウンズを使わなくなってから「3年後」にあたっている。
つまり、1925年からポロ・グラウンズを本拠地にし始めたティム・マーラ所有のNFLニューヨーク・ジャイアンツは、MLBヤンキースと入れ替わりにポロ・グラウンズを使い出した、というわけだ。
NFLニューヨーク・ジャイアンツの創設はおそらく、「MLBヤンキースの抜けたポロ・グラウンズのスケジュール的な穴を、ちょうど埋める格好になった」ので、ポロ・グラウンズ側としてもタイミングが良かったのだろう。
資料:Damejima's HARDBALL:「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。


NFLニューヨーク・ジャイアンツは、MLBニューヨーク・ジャイアンツがブルックリン・ドジャースとともにニューヨークを去っていく最後のシーズンとなった1957年の2年前にあたる1955年まで、ポロ・グラウンズを本拠地にしていたが、1956年以降はポロ・グラウンズからも撤退して、ブロンクスの旧ヤンキースタジアムに身を寄せることになった。
50年代末、伝統のポロ・グラウンズは「空き家」になりかけたわけだが、1960年からAFLニューヨーク・タイタンズ(現在のジェッツ)が本拠地にし、さらに1962年にはMLBニューヨーク・メッツがシェイ・スタジアムが完成するまでの仮の本拠地にして、ほんの一時期息を吹き返した。
だが、64年にシェイ・スタジアムが完成すると、メッツだけでなくタイタンズもシェイスタジアムに移転したため、ポロ・グラウンズの借り手がいなくなってしまい、ついにポロ・グラウンズは1964年に取り壊され、その長い長い歴史を閉じた。
Damejima's HARDBALL:2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (1)エベッツ・フィールド、ポロ・グラウンズの閉場
ちなみに、ベアーズのRed Grangeは1926年にフットボールリーグそのものの運営に乗り出し、NFLに対抗するAFLを創設、「ニューヨーク・ヤンキース」という名前のプロフットボールチームも作ったが、膝に大怪我を負ってしまい、フットボールのほうの「ニューヨーク・ヤンキース」は1年しか持たなかった。後にRed Grangeは古巣シカゴ・ベアーズに戻って現役を終えている。


ティム・マーラは1959年に71歳で亡くなったが、NFLへの貢献を認められ1963年殿堂入りしている。
また息子ウェリントン・マーラも、ジャイアンツの共同オーナーのひとりだったが、父親ティム同様にNFLへの貢献によって殿堂入りを果たした。ウェリントンは2005年10月に亡くなっているが、葬儀は11人の子供と42人の孫が参列した盛大なもので、葬儀後に行われたライバル、ワシントン・レッドスキンズとのゲームでは、ニューヨーク・ジャイアンツが36対0という劇的な勝利を収め、後世に語り継がれるゲームになった。
現在のニューヨーク・ジャイアンツ社長は、ウェリントンの息子で、創始者ティムの孫にあたるジョン・マーラで、そのジョンの弟ティモシー・クリストファー・マーラこそ、現ニューヨーク・ジャイアンツ副社長であり、『ドラゴンタトゥーの女』のルーニー・マーラの父親である。

ティム----ウェリントン----ジョン
             ----ティモシー----ルーニー・マーラ


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