April 29, 2013

写真家ロバート・フランクが1955年から56年にかけてアメリカを旅して撮影した作品集 『アメリカ人』 がアメリカ国内で出たのは、初版が58年にパリで出版された翌年の1959年だが、それを見た当時の若者がインスパイアされ、「自分もあんな風に自由にアメリカを旅してみたい」という思いを抱いたとき、実は、「アメリカにおける放浪」は既に消滅していた、という話を以下に書く。(Copyright © 2013 damejima. All Rights Reserved.)

だから、例えば1968年にサイモン&ガーファンクルが出したアルバム "Bookend" に収められた "America" という曲の "Looking for America" という歌詞について、「アメリカと自分を探す」だのなんだのと、センチメンタルにばかり解釈するのは根本的に間違いなのだ。


アメリカにおける「放浪」は、いつ、どんな形で消滅したのか。
その「放浪の消滅」にとって「1958年」という年は、
なにか意味のある特別な年なのか。


まず比較のために
「3つの異なる時代のアメリカの旅」を挙げる。

以下で3つの旅を比較する目的は、「1958年」という年が、アメリカ社会の質にとって、いかに大きなターニングポイントだったかということを、野球以外の角度から示すことにある。それによって、ドジャースジャイアンツが西海岸に移転した「1958年」という年の「特別さ」を、さらに鮮明に証明できるはずだ。
具体的な作業としては、サイモン&ガーファンクルの "America" という曲に関する従来の弛緩しきった解釈を訂正し、新しく解読しなおす作業が中心になる。

1)1940年代末
ジャック・ケルアックの小説『路上』における旅。主としてアメリカを東から西へと横断する旅が描かれた。
この旅が北米を「東から西へ」という方角で行われたことには、少なからぬ意味がある。日本の江戸時代に、大都市江戸に住む松尾芭蕉が旅したのが「江戸から東北へ」、つまり「都市から田舎へ」という方向であって、その逆ではなかったことにみられるように、放浪生活の奔放さに心奪われるのは、やはり「都市の住人が持ちたがる憧憬」の典型的パターンなのだ。

『路上』の出版自体は1957年だが、作品の元ネタになった放浪そのものは、出版より10年も前、「1940年代末」に行われたもので、1950年代ではない。この「行為の行われた年代と作品発表年代との間の大きなズレ」は非常に重要な意味をもつ。
この「ズレ」はこれまで、その意味をほとんど理解されないまま、「ケルアックが旅をしたのは『路上』が出版された50年代だ」と勝手に思い込んでいる人が少なくない。(ケルアックファンを自称する人ですら、知らない人がいる)

ケルアックは、40年代に行った旅から10年もたってようやく『路上』を世に作品として送り出すことができたのだが、50年代末には、実は「アメリカの荒野を放浪する行為そのものが、不可能になっていた」
ケルアックは1960年に出版された『路上の旅人』という本の中で、「1956年以降、ホーボーをやめざるをえなかった」、「もはや荒野で一人でいることさえ不可能」、「アメリカの森は監視員でいっぱいだ」と、1950年代のアメリカの変質を指摘している。
ケルアックは、『路上』の出版にようやくこぎつけた時には既に、「放浪」という「彼のクリエイティビティの源泉」を失っていたのである。『路上』出版以降のケルアックはほとんどロクに書けない状態だったのは、彼のネタ元である「放浪」がアメリカにおいては不可能になっていたためであり、1960年代はケルアックにとっては余生に過ぎない。

2)1950年代中期
ロバート・フランクが1955年から56年にかけて行ったアメリカ横断撮影旅行は、『路上』と同じく、北米を東から西へ向かって行われた。撮影された写真は、1958年にパリで『アメリカ人』初版として出版され、さらに翌58年、写真集としての体裁でアメリカ版が出版されている。
参考記事:Damejima's HARDBALL:2013年4月18日、「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。『ロバート・フランク眼鏡』をかけず、裸眼で見る「モンタナ」。スポーツと家族とクルマのあるアメリカ。
ロバート・フランクがアメリカを旅して自動車に乗る人々を熱心に撮影した1950年代は、「アメリカにおける放浪」が文化として消滅しつつある時代であり、アメリカの交通機関の主力としてかつて隆盛を誇った「鉄道」や「長距離バス」が衰退し始めた時代であり、その一方では「旅客機」と「自動車」の発達が始まっており、アメリカの旅をめぐる環境は大きく変貌しつつあった時代である。

3)1960年代前半
サイモン&ガーファンクルの1968年リリースのアルバム "Bookend" に収録された "America" という曲において、ポール・サイモンが描いた旅は、上の2つのサンプルとは旅の方角が180度違い、ミシガンの田舎から大都市ニューヨークへ、「西から東」という方向で行われた。この「西から東」という方角に、深い意味がある。
『路上』にみられた「ズレ」は、この曲にも存在する。アルバム "Bookend" のリリースが1968年であることで、この"America" という曲を「60年代後半のアメリカの若者の旅を描写した曲」だと思っている人が多い。
だが、実際にはこの曲は、1965年にデモテープ化されていたことがわかっていて、さらに曲中に出てくる "Mrs. Wagner pie" という固有名詞が実在の会社で、その会社が1966年に倒産していることから、"America" に描かきこまれた旅のカップルは、60年代末の若者ではなく、60年代前期の若者の姿だ。


1968年にリリースされたサイモン&ガーファンクルの "America" を聞いて、「自分もこんなアンニュイな映画みたいな旅をして、自分というものを心ゆくまで探してみたい」と思った人は、60年代末から70年代にかけて数多くいたかもしれない。さらにもっと後の時代にも、60年代文化への憧れから、カメラ片手にアメリカに旅立った人がいたかもしれない。


だが、次の記事で詳しく書くが、サイモン&ガーファンクルの "Americaはこれまで、まるできちんと解釈されてはこなかった

いいかえると、日米問わず70年代の若者の多くが「アメリカ」を勘違いしたまま成長した
例えばケルアックがやった「40年代のアメリカの放浪」やロバート・フランクの写真集のような「古いアメリカのオリジナリティ」は、「1950年代に発表された作品に収集されていた過去の記録」のであって、50年代には既にアメリカから姿を消しつつあった文化だ。
もちろん60年代末から70年代にかけて育った若者は、それらを直接自分で体験することなどできず、書籍やレコードなどを通じてしか知らなかったが、にもかかわらず、彼らは50年代の作品を通じて知識として知ったに過ぎない「古い時代のアメリカ」を「追体験」しようと必死に試み続けた
いうまでもなく、当時の日本はアメリカ文化が輸入されるのにかなり時間がかかっていたために、日本の若者は、アメリカ国内の若者より、さらに「もうひと時代遅れて」追体験に向かった。


60年代70年代の若者たちは、憧れの映画で見た出来事や、憧れの書籍の中でしか知らないことを、リアルライフで再現してみせようとするかのように、「追体験」に熱心に取り組み続けた。そしてそれが、「オリジナルなアメリカ、ホンモノのアメリカに、少しでも接近し、自らをアメリカそのものにしていくためにどうしても必要不可欠な試みだ」と、思い込もうとした。

しかし、彼らの試みのほとんどは、サイモン&ガーファンクルの "America" の歌詞に出てくるカップルがそうであるように、「放浪の旅を気取って、あてどない自分探しの旅に出るが、苦労の多いヒッチハイクに疲れたら、金にモノをいわせてグレイハウンド(=長距離バス)に乗って、楽をして移動して都会に行く」というような、「夢見がちな若者の、弱腰な試み」に過ぎなかった。彼らの試みの大半は失敗に終わり、多くの人は失望を味わった。
しかし、彼らの多くは、そうしたケルアックの放浪の追体験の挫折について、「出発点からして間違っていた」と気づくことよりも、むしろ、「失敗することそのものが、若さを実感できる素晴らしい体験だと思い込むこと」のほうを選んだし、「オリジナリティ溢れたアメリカ探しとは、むしろ、失敗することそのものを指すのではないか」、「失敗した自分の若さこそ、むしろカッコいい」と自分を慰めることのほうを選んだ。


だが、若者がどう誤解しようと、実際には、ケルアックが1940年代に体験した「放浪」という名の文化は、「1950年代中頃には消滅しつつあった」と、ケルアック自身が証言している。
50年代文化にとって、「放浪」とは「クリエイティビティの源」のひとつだったわけだが、『路上』が大流行して、世間に放浪旅の流行すら引き起こした50年代末には、既に「水源は枯渇していた」。

1960年に出ている『孤独な旅人』という書籍で、ケルアックは「ジェット機時代はホーボーを十字架にかけつつある」と言っている。(ホーボー=放浪者。いわゆる浮浪者ではない)
これは、以前「ニューヨークにあった2球団、ドジャースとジャイアンツの西海岸移転を可能にした社会背景に「旅客機の発達」があった、と書いたことにピタリと一致する。
Damejima's HARDBALL:2012年3月6日、「1958年の西海岸」という特別な年、特別な場所。リチャード・ブローティガン 『A Baseball Game』の野球史的解釈。
1000キロ単位離れた西海岸での試合に東海岸の野球チームが疲労困憊せずに移動して試合をするには、北米大陸を短い時間で横断できる旅客機の発達が必要不可欠だったが、その一方で、1950年代に始まったボーイング707やDC-8の開発に始まる旅客機の発達は、まさに「放浪」を消滅させた。

グレイハウンドが並ぶ1940年代のミシガン州のバスターミナル
グレイハウンドが並ぶ1940年代ミシガン州のバスターミナル


ジェット機は、ホーボーを十字架にかけたが、そのかわり、ドジャースを西海岸に運んできた」というわけだが、さらに重要なこととして、この「旅客機の発達」は、「40年代文化である『放浪』を消滅させ」「東海岸の文化だったMLBを、西海岸に拡張させた」だけでなく、それまで繁栄していた「長距離鉄道」や「グレイハウンドのような長距離バス」を衰退させ、さらに、それらの交通手段に代わる新しいモビリティとして、「自動車」を急激に発達させる契機を作った

1950年代のグレイハウンド
1950年代のグレイハウンド



ロバート・フランクがアメリカを横断した1950年代中期は、「放浪」が消滅し、「鉄道やグレイハウンド」が衰退し、「旅客機」と「自動車」が発達しつつあった時代なのだ。
だからこそ、グッゲンハイム財団から資金援助を受けてロバート・フランクが1955年から56年にかけて行ったアメリカ旅行では、「多くの人々が『とても自慢げな表情で』クルマに乗って」いるのである。


ロバート・フランクが、写真家として「50年代のクルマに乗った人ばかり熱心に撮っていること」の意味は、けして小さくない。

もしロバート・フランクが、ケルアックのように「放浪者たちの間に混じって旅をした」なら、たとえ彼が旅した時代が「アメリカから放浪が消滅し、鉄道とグレイハウンドが衰退し、旅客機と自動車が発達していく1950年代中期」だったとしても、「自動車に乗った人々にばかり熱心にレンズを向けてシャッターを切った」とは思えない。
ロバート・フランクの作品には、ヒッチハイカーという単語を含んだタイトルの作品もあるにはあるのだが、ロバート・フランクは「車に乗った人々」を「観察する者」としてフィルムに記録しだだけだ。撮影者ロバート・フランクの位置は、ケルアックとは違って、あくまで「観察者」「傍観者」にすぎないのであり、「自らの意思で放浪を日々の暮らしとする者」の視線ではない。
ロバート・フランクがやったことは、放浪でも、鉄道でもグレイハウンドでもない、アメリカの新しい移動手段である『自動車』に乗った人々を「観察」することであって、「ロバート・フランク自身がヒッチハイク旅をしながら撮影した」わけではない。

もしロバート・フランクのような「観察者としての写真家」が、「『放浪』がまだ文化として生存していた1940年代のアメリカ」を旅していたとしても、彼が選びそうな撮影ターゲットと撮影スタイルは、自分自身も一緒に放浪しながら放浪者たちを撮る、というスタイルではなく、むしろライカ片手に、当時のメインの交通手段である鉄道の駅やグレイハウンドのバス停で待ち構えて、「鉄道やグレイハウンドに乗りこむアメリカ人」を撮るという「観察者として」の撮影スタイルを選んだだろう、と思う。

ちなみに、1940年代にグレイハウンド・ステーションやグレイハウンドを待つ人々を数多く撮影した写真家に、Esther Bubley(1921-1998)という素晴らしい写真家がいる。彼女の作品が持つ「やわらかな日常の目線」を、単なる「観察」だとは全く思わない。個人的に、ロバート・フランクの「ゲージュツ家が他人から金をもらって旅して行った、遠回しなモノ言いのような距離を置いた観察」より、ずっと作品レベルは高いと思う。なぜまた日本でこれまで、いまの時代に見てもけして古さを感じないEsther Bubleyの柔軟さより、古式蒼然としたロバート・フランクの硬さばかりが持ち上げられてきたのか、それがわからない。
Esther Bubleyの描く「アメリカ」は、ロバート・フランクの「アメリカ」より「はるかにアメリカくさい」し、なにより、アメリカのさりげない日常性を撮影するというコンセプトでEsther Bubleyが優れた作品をカメラに収め続けた「時期」は、ロバート・フランクの『アメリカ人』よりも10年以上も早いのである。 Esther Bubley - Wikipedia, the free encyclopedia

Greyhound Bus Station, 1943. Photograph by Esther BubleyGreyhound Bus Station, 1943.
Photograph by Esther Bubley



以上に書いてきた意味から、ロバート・フランクの『アメリカ人』と、ケルアックの『路上』が、同じ1950年代後期に出版されているからといって、ロバート・フランクの写真を、40年代の放浪文化やビートジェネレーションに連なるものとみなすのは、間違っているし、馬鹿げている。ロバート・フランクの『アメリカ人』は、60年代以降の旅客機・自動車時代の幕開けに連なるものだ。


ケルアックが40年代に体験した放浪を、ごく普通の人々までもが書籍を通じて文化として知ったのは、旅からすでに10年近くが経過した1950年代末のことで、作品『路上』は彼をベストセラー作家に押し上げただけではなく、普通の人々に「アメリカを旅する自由さ」や「旅を通したアメリカらしさの発見」に熱狂的ともいえる憧れを抱かせ、アメリカの交通機関の発達もあって、人々をアメリカ捜しの旅に駆り立てた。
だが、何度も言うように、実際にはそのとき既に「40年代の放浪という文化は、すでに死に絶えていた」。

ましてポール・サイモンが "America" という曲を書いたときには、『路上』の出版から10年、ケルアックの40年代の旅からは20年が過ぎていた。"America" に描かれたカップルの旅は、「かっこよさげな、自分探し」でもなんでもない。
そこに描かれて詳しい情景は、次の記事で詳しく示すことにしたいが、「40年代にあったと聞く放浪というものを、50年代に出された書籍を通じて知っている」ような60年代の田舎に住む若者が、「田舎から都会に向かおうとして、本で読んだことのあるヒッチハイクってやつを試みてみたものの、あえなく失敗して、しかたなく財布の金を使って乗りこんだ値段の安い長距離バスの中で、関係が冷えていくカップルの内輪もめ話」である。

「60年代カップルの知識」の根底にある「50年代に出版された書籍に書かれていた放浪」とは、もちろん実際には「40年代の放浪」で、とっくにアメリカから消滅しているのだ。
ケルアック自身すら50年代に「自分自身は純粋なホーボーとはいえない」と謙遜しているというのに、この「ちょっとつらいことがあると、バスに乗ってしまうような軟弱な60年代の田舎のカップル」が、都会を捨てて田舎に向かう放浪者になれるわけもない。(ここが「東から西への旅」と、「西から東への旅」の違いだ)


ただし、ことわっておきたいと思うのは、「放浪者の精神」がアメリカのあらゆる場所から消滅したわけではない、ということだ。
たしかに、「荒野を放浪という形式で旅する」という意味の「放浪」はアメリカの表面から消滅している。だが「精神」としては、例えばスティーブ・ジョブズのような特別な人の心の中に受け継がれ、現代に伝わっている。例えばiPodやiPhoneが、ただの電化製品ではなくて、「放浪者」としてのスティーブ・ジョブズがさまざまな「心の放浪」の果てに、「自分の場所といえる場所にようやく辿り着き、そこで実らせた果実」であることは、言葉にしなくても、わかる人にはわかると思う。


さて、長い前置きだったが、サイモン&ガーファンクルの "America" という曲の歌詞の解読にとりかかろう。

この歌詞の解釈はこれまで、例えば「グレイハウンドの衰退と旅客機の発達の関係」のような、アメリカ社会のインフラの変貌と文化の関係をきちんと考慮して解読されないまま、表面的なセンチメンタルな解釈しかされずに現在に至っている、と思う。
ポール・サイモンは歌詞に、このカップルを取り巻く社会をちゃんと描きこんいる。だが、たいていの文学作品が読む者の解読を要求するように、 "America" の歌詞も、読む側に読み込みを要求する形で書かれており、さらっと読んだだけでは意味が伝わらないようにできている。

これから試みる解読の結果、これまでやたらと「ケルアックのような50年代のワイルドな文化の正当な継承者を、やけに自称したがってきた」1960年代とか70年代を経験した人たちが自画自賛したがってきた「60年代以降のアメリカの旅」、あるいはそういう旅への憧憬が、実は「ビート・ジェネレーションの放浪」とまるで無縁なものに過ぎない面がある、ということを明らかにできたら幸いだ。


以下、サイモン&ガーファンクルの1968年のアルバム "Bookends" に収められた "America" という曲の歌詞だ。このブログの独自解読を目にする前に、まず自分自身の目で読んでみることを、是非おすすめしたい。
フォントサイズがあまりにも小さいのが恐縮だが、改行箇所をできるだけ減らすために止むをなかった。ご容赦願いたい。

"Let us be lovers we'll marry our fortunes together"
"I've got some real estate here in my bag"
So we bought a pack of cigarettes and cs
And we walked off to look for America

"Kathy," I said as we boarded a Greyhound in Pittsburgh
"Michigan seems like a dream to me now"
It took me four days to hitchhike from Saginaw
I've gone to look for America

Laughing on the bus
Playing games with the faces
She said the man in the gabardine suit was a spy
I said "Be careful his bowtie is really a camera"

"Toss me a cigarette, I think there's one in my raincoat"
"We smoked the last one an hour ago"
So I looked at the scenery, she read her magazine
And the moon rose over an open field

"Kathy, I'm lost," I said, though I knew she was sleeping
I'm empty and aching and I don't know why
Counting the cars on the New Jersey Turnpike
They've all gone to look for America
All gone to look for America
All gone to look for America





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