June 25, 2013
なんとなくツイートを眺めていたら、こんな記述に出会った。少し調べてみたら、1977年新人王について、ちょっと面白いことがわかった。
1977年新人王は、ア・リーグが、後にミッキー・マントルをしのぐ史上最高のスイッチヒッターともいわれ、史上3人目となる3000本安打・500本塁打を達成しているボルチモアの永久欠番Eddie Murray。ナ・リーグ新人王には、MLB史上4人しか達成していない400本塁打・300盗塁を達成したモントリオールのAndre Dawsonが栄冠に輝いた。
だが、1946年に創設されたSporting News Rookie of the Year awardでみると、ナ・リーグ新人王は同じアンドレ・ドーソンだが、ア・リーグはエディ・マレーではなく、Mitchell Pageが選ばれている。
(資料:Sporting News Rookie of the Year Award - Wikipedia, the free encyclopedia)
1977年新人王投票の中身をみてみる。
via 1977 Awards Voting - Baseball-Reference.com
ア・リーグだが、1位投票が割れているのがわかる。
27票のうち、エディ・マレーは過半数に届かない12票しか獲得しておらず、新人王投票2位のMitchell Pageに9票が投じられている。
この「1位12票、2位9票」という投票結果は、奇しくも1942年のア・リーグMVPにおけるジョー・ゴードンと、この年の三冠王テッド・ウィリアムズの得票数差と一致している。
ちなみに2001年プーホールズは満票、イチローもCCサバシアに投じられた1票を除けば満票だから、2人とも圧倒的な支持を受けての新人王だった。
1977年のア・リーグ新人王投票で票が割れた理由は、
数字を見るとわかる。
WARという指標を別にそれほど信用できる指標だと思っているわけではないが、目安として言うと、マレーとペイジの数値は2倍近い差がある。
Baseball Reference:マレー3.22、ペイジ6.03
Fangraph:マレー3.1、ペイジ6.2
参考記事:Damejima's HARDBALL:2012年11月17日、ア・リーグMVP論争から垣間見えてきたセイバーメトリクスの「未完成なままの老化」。
1977年のMLBは、現在のようにセイバーのような便利な選手評価ツールがない時代だ。だから、ホームランと打点しか見ないような表層的なモノの見方が主流だったはずで、だからこそ、1977年新人王に僅差でエディ・マレーが選ばれるのもしかたないと思う人がかもしれない。
しかし、当時ですらスポーティング・ニューズは、1977年新人王にエディ・マレーを選ばなかった。
つまり、「ホームランを27本打ってはいるものの、総合的な打撃成績で明らかにミッチェル・ペイジに劣っていて、そもそも守備をしてないDH専業のエディ・マレー」より、「走れて打てる外野手として、3割を打ち、21本のホームラン、8本の三塁打を打ち、78個の四球と出塁率.405、42個の盗塁を決めてみせたミッチェル・ペイジ」のほうが、はるかに新人王にふさわしいと考えた人は、セイバーメトリクスがあろうが、なかろうが、WARが正しかろうが、そうでなかろうが、そんなことと関係なく、1977年当時からいたということだ。
人間、きちんと目を開いて見ていれば、なにも「数字」なんていう「色つきメガネ」を通さなくても、モノを見ることができる、というわけだ。
ただ、エディ・マレーの名誉のために、以下の後日談をつけ加えたい。
まず、盗塁だが、1977年当時のボルチモアの監督は、監督として殿堂入りしているアール・ウィーバーだ。野球の戦術について独特のポリシーをもつ彼の方針と選手育成の手腕からして、たとえエディ・マレーの足が速かったとしても、マレーを盗塁を頻繁に試みるような選手には育てなかっただろう。
そして守備をしないDHのエディ・マレーが1977年新人王をかろうじて獲ったにしても、その後のマレーは、80年代前半以降に大きく成長を遂げている、ということがある。エラーが多かったとはいえ、まがりなりに82年から3年間続けてゴールドグラブを獲って、守備をこなし、またMLB歴代記録となる128本の犠牲フライを打っているように、荒っぽいだけのバッティングからも脱皮。何度も3割を打ち、WARも大きく改善した。
つまり、エディ・マレーがホール・オブ・フェイマーにふさわしいキャリアを送ったことに異議は全くない。
だが、しかし。
こと1977年の新人王、これに関してだけは、ふさわしいのはエディ・マレーではなくて、ミッチェル・ペイジだった。ミッチェル・ペイジが選ばれるべきだったと、ブログ主も思う。
このことは、以下のHardball TimesのBruce Markusenの記事はじめ、他のさまざまな人が明言している。(例:Mitchell Page Baseball Stats by Baseball Almanac)
下のリンク記事は悲運に終わった運にミッチェル・ペイジのどこか痛々しいキャリアに触れた味のある文章だ。一読を勧めたい。
三塁打数の歴代ランキング261位に名前を連ねているイチローのシーズン平均三塁打数は7本であることでわかるように、1977年ミッチェル・ペイジの三塁打数、8本というのは、かなりいい数字だ。ちょっとやそっとの才能で実現できる数字でもない。
この三塁打の数字でもわかるように、この選手が、もし怪我やメンタル面のトラブルなどで調子を崩さず、長く健康なキャリアをまっとうできていたら、どれほど素晴らしいキャリアを送っていたのだろう。きっとMLB史に残る活躍をみせてくれたに違いない。
そう真剣に思わせるほどの素晴らしい数字が、1977年のミッチェル・ペイジのスタッツには並んでいる。
ミッチェル・ペイジは2011年に59歳で早世している。死因は明らかになっていない。野球というスポーツのフィールドには、熱狂と興奮ばかりがころがっているわけではなく、こういう、ちょっともの悲しい、書いていてちょっとつらくなるストーリーも少なからず眠っている。ミッチェル・ペイジほどの才能ですら、長く輝くことができず終わってしまうこともあるのが、ベースボール、そして、人生というものだ。
いま、去年の新人王のブライス・ハーパーが怪我でDL入りしている。またドジャースのヤシエル・プイグのような、いい意味で常識外れのプレーのできる驚異的な新人も現れた。確かに新人王をとるような選手の大胆なプレーは、野球ファンの醍醐味のひとつなのは確かだ。
だが、ミッチェル・ペイジのエピソードなどをみると、つい、重大な怪我で才能ある選手のキャリアそのものが終わってしまうような無理なプレー、無理な選手の使い方だけは避けてもらいたい、などとも思ってしまう。
確かに、怪我に気をつけていてはスケールの小さいプレーになってしまうというのも、一面の真実でもあるし、なかなか簡単には判断できない。
だが、まだ粗さばかりが目立つ21歳の若いエディ・マレーが「デビューしていきなりDH」だったのは、もしかすると、彼に無理に守備をさせず、DHとして試合経験を積ませ、まずバッティング面を開花させようという、当時のボルチモア監督アール・ウィーバーの思慮深い配慮だったのではないか、と思うのだ。
エディ・マレーは「シーズン40本以上のホームランを一度も打っていないにもかかわらず、通算500本塁打を達成できた」という類まれなキャリアをもつ選手として知られているわけだが、彼がそういう長く安定したキャリアを実現できたについては、アール・ウィーバーのような名伯楽の下でキャリアをスタートできたからこそだ、という面もあったに違いないと思うのだ。
いまアール・ウィーバーの写真を眺めていても、「こういうひとが自分のそばにいて見守っていてくれたらな」と思わずにいられない、そういうオーラが、彼のまなざしには溢れている。
選手と一緒にビールを飲み、
煙草をふかしたアール・ウィーバー。
こういう親父さんが、野球には必要なんだ。
こういう親父さんがいないと。
本当にそう思う。
"The Earl of Baltimore" Earl Weaver
1996年殿堂入り。2013年1月19日、82歳で亡くなった。奇しくも球聖スタン・ミュージアルが亡くなったのと同じ日だった。
2001年の両リーグの新人王であるプーホールズとイチローが殿堂入りを果たすと、1977年のEddie Murray、Andre Dawson以来となる。
1977年新人王は、ア・リーグが、後にミッキー・マントルをしのぐ史上最高のスイッチヒッターともいわれ、史上3人目となる3000本安打・500本塁打を達成しているボルチモアの永久欠番Eddie Murray。ナ・リーグ新人王には、MLB史上4人しか達成していない400本塁打・300盗塁を達成したモントリオールのAndre Dawsonが栄冠に輝いた。
だが、1946年に創設されたSporting News Rookie of the Year awardでみると、ナ・リーグ新人王は同じアンドレ・ドーソンだが、ア・リーグはエディ・マレーではなく、Mitchell Pageが選ばれている。
(資料:Sporting News Rookie of the Year Award - Wikipedia, the free encyclopedia)
1977年新人王投票の中身をみてみる。
via 1977 Awards Voting - Baseball-Reference.com
ア・リーグだが、1位投票が割れているのがわかる。
27票のうち、エディ・マレーは過半数に届かない12票しか獲得しておらず、新人王投票2位のMitchell Pageに9票が投じられている。
この「1位12票、2位9票」という投票結果は、奇しくも1942年のア・リーグMVPにおけるジョー・ゴードンと、この年の三冠王テッド・ウィリアムズの得票数差と一致している。
ちなみに2001年プーホールズは満票、イチローもCCサバシアに投じられた1票を除けば満票だから、2人とも圧倒的な支持を受けての新人王だった。
1977年のア・リーグ新人王投票で票が割れた理由は、
数字を見るとわかる。
1977年新人王 レギュラーシーズン打撃記録
Eddie Murray 21歳
出場160試合(DH111試合 一塁手42試合)
打率.283 27HR 48四球 88打点 併殺打22
出塁率.333 wOBA.350 RE24 20.01
Eddie Murray » Statistics » Batting | FanGraphs Baseball
Mitchell Page 25歳
出場133試合(外野手131試合)
打率.307 21HR 78四球 75打点 42盗塁
出塁率.405 wOBA.404 RE24 38.89
Mitchell Page » Statistics » Batting | FanGraphs Baseball
参考:Andre Dawson
打率.282 19HR 65打点 21盗塁
WARという指標を別にそれほど信用できる指標だと思っているわけではないが、目安として言うと、マレーとペイジの数値は2倍近い差がある。
Baseball Reference:マレー3.22、ペイジ6.03
Fangraph:マレー3.1、ペイジ6.2
参考記事:Damejima's HARDBALL:2012年11月17日、ア・リーグMVP論争から垣間見えてきたセイバーメトリクスの「未完成なままの老化」。
1977年のMLBは、現在のようにセイバーのような便利な選手評価ツールがない時代だ。だから、ホームランと打点しか見ないような表層的なモノの見方が主流だったはずで、だからこそ、1977年新人王に僅差でエディ・マレーが選ばれるのもしかたないと思う人がかもしれない。
しかし、当時ですらスポーティング・ニューズは、1977年新人王にエディ・マレーを選ばなかった。
つまり、「ホームランを27本打ってはいるものの、総合的な打撃成績で明らかにミッチェル・ペイジに劣っていて、そもそも守備をしてないDH専業のエディ・マレー」より、「走れて打てる外野手として、3割を打ち、21本のホームラン、8本の三塁打を打ち、78個の四球と出塁率.405、42個の盗塁を決めてみせたミッチェル・ペイジ」のほうが、はるかに新人王にふさわしいと考えた人は、セイバーメトリクスがあろうが、なかろうが、WARが正しかろうが、そうでなかろうが、そんなことと関係なく、1977年当時からいたということだ。
人間、きちんと目を開いて見ていれば、なにも「数字」なんていう「色つきメガネ」を通さなくても、モノを見ることができる、というわけだ。
ただ、エディ・マレーの名誉のために、以下の後日談をつけ加えたい。
まず、盗塁だが、1977年当時のボルチモアの監督は、監督として殿堂入りしているアール・ウィーバーだ。野球の戦術について独特のポリシーをもつ彼の方針と選手育成の手腕からして、たとえエディ・マレーの足が速かったとしても、マレーを盗塁を頻繁に試みるような選手には育てなかっただろう。
そして守備をしないDHのエディ・マレーが1977年新人王をかろうじて獲ったにしても、その後のマレーは、80年代前半以降に大きく成長を遂げている、ということがある。エラーが多かったとはいえ、まがりなりに82年から3年間続けてゴールドグラブを獲って、守備をこなし、またMLB歴代記録となる128本の犠牲フライを打っているように、荒っぽいだけのバッティングからも脱皮。何度も3割を打ち、WARも大きく改善した。
つまり、エディ・マレーがホール・オブ・フェイマーにふさわしいキャリアを送ったことに異議は全くない。
だが、しかし。
こと1977年の新人王、これに関してだけは、ふさわしいのはエディ・マレーではなくて、ミッチェル・ペイジだった。ミッチェル・ペイジが選ばれるべきだったと、ブログ主も思う。
このことは、以下のHardball TimesのBruce Markusenの記事はじめ、他のさまざまな人が明言している。(例:Mitchell Page Baseball Stats by Baseball Almanac)
下のリンク記事は悲運に終わった運にミッチェル・ペイジのどこか痛々しいキャリアに触れた味のある文章だ。一読を勧めたい。
Murray would have the far better career―a Hall of Fame ledger at that―but Page was the better player in 1977.
Murray would have the far better career―a Hall of Fame ledger at that―but Page was the better player in 1977.
三塁打数の歴代ランキング261位に名前を連ねているイチローのシーズン平均三塁打数は7本であることでわかるように、1977年ミッチェル・ペイジの三塁打数、8本というのは、かなりいい数字だ。ちょっとやそっとの才能で実現できる数字でもない。
この三塁打の数字でもわかるように、この選手が、もし怪我やメンタル面のトラブルなどで調子を崩さず、長く健康なキャリアをまっとうできていたら、どれほど素晴らしいキャリアを送っていたのだろう。きっとMLB史に残る活躍をみせてくれたに違いない。
そう真剣に思わせるほどの素晴らしい数字が、1977年のミッチェル・ペイジのスタッツには並んでいる。
ミッチェル・ペイジは2011年に59歳で早世している。死因は明らかになっていない。野球というスポーツのフィールドには、熱狂と興奮ばかりがころがっているわけではなく、こういう、ちょっともの悲しい、書いていてちょっとつらくなるストーリーも少なからず眠っている。ミッチェル・ペイジほどの才能ですら、長く輝くことができず終わってしまうこともあるのが、ベースボール、そして、人生というものだ。
いま、去年の新人王のブライス・ハーパーが怪我でDL入りしている。またドジャースのヤシエル・プイグのような、いい意味で常識外れのプレーのできる驚異的な新人も現れた。確かに新人王をとるような選手の大胆なプレーは、野球ファンの醍醐味のひとつなのは確かだ。
だが、ミッチェル・ペイジのエピソードなどをみると、つい、重大な怪我で才能ある選手のキャリアそのものが終わってしまうような無理なプレー、無理な選手の使い方だけは避けてもらいたい、などとも思ってしまう。
確かに、怪我に気をつけていてはスケールの小さいプレーになってしまうというのも、一面の真実でもあるし、なかなか簡単には判断できない。
だが、まだ粗さばかりが目立つ21歳の若いエディ・マレーが「デビューしていきなりDH」だったのは、もしかすると、彼に無理に守備をさせず、DHとして試合経験を積ませ、まずバッティング面を開花させようという、当時のボルチモア監督アール・ウィーバーの思慮深い配慮だったのではないか、と思うのだ。
エディ・マレーは「シーズン40本以上のホームランを一度も打っていないにもかかわらず、通算500本塁打を達成できた」という類まれなキャリアをもつ選手として知られているわけだが、彼がそういう長く安定したキャリアを実現できたについては、アール・ウィーバーのような名伯楽の下でキャリアをスタートできたからこそだ、という面もあったに違いないと思うのだ。
いまアール・ウィーバーの写真を眺めていても、「こういうひとが自分のそばにいて見守っていてくれたらな」と思わずにいられない、そういうオーラが、彼のまなざしには溢れている。
選手と一緒にビールを飲み、
煙草をふかしたアール・ウィーバー。
こういう親父さんが、野球には必要なんだ。
こういう親父さんがいないと。
本当にそう思う。
"The Earl of Baltimore" Earl Weaver
1996年殿堂入り。2013年1月19日、82歳で亡くなった。奇しくも球聖スタン・ミュージアルが亡くなったのと同じ日だった。