July 20, 2013

アメリカのサイトの記録によると、1934年11月20日、アメリカチームは早朝に東京日比谷の帝国ホテルを出て静岡に向かった。当時、日本にはまだ東名もなければ、新幹線もない。この日のプレーボールは午後1時だ。東京駅駅舎をバックにしたベーブ・ルースの白黒写真が残されているが、もしかすると鉄道で静岡に向かったのかもしれない。
ハワイを経由して日本にやってきた彼らは、神宮球場での2試合を皮切りに、函館、仙台、富山、横浜を回り、静岡の後は、名古屋、大阪、小倉、京都、大宮、宇都宮で試合が予定され、上海とマニラでもゲームがあった。
1934 Tour of Japan Schedule and results


イチローのキャリア通算2722本目のヒットは、日本の野球にとっての「記念碑」だ。たとえ話でいうのではなく、その日は本当に赤飯を食おうと思っている。めでたい日には赤飯を食う。これが日本の決まりごとだ。だから、それでいいのだ。
日米通算4000安打という偉業。それは同時に「ルー・ゲーリッグという選手のもつ記録のひとつを、日本人選手が超える日が来た」という事実でもあり、野球のなかった国で野球という新たな文化を根付かせ、育ててきた日本野球にとって、1934年草薙球場の、あの惜敗から数えて79年、日本野球発展のひとつの「記念碑」なのだ。

MLBキャリア通算ヒット数ランキング(2013/07/17)


かつて日本では1908年以来「日米野球」が行われていた。ベーブ・ルースをはじめ多くの殿堂入り選手が含まれたオールアメリカン、あるいはサンフランシスコ・シールズのようなマイナーのチームまで、さまざまなパターンで構成されたチームが来日したが、黎明期の日米野球では、日本にまだプロがなかったために実力差が激しく、アマチュアで構成された日本側が常に完膚無きまでに叩きのめされ続けた。
参考記事:Damejima's HARDBALL:2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (2)ロサンゼルス・メモリアル・コロシアム、シールズ・スタジアムの一時使用と、チェニー・スタジアムの建設

1934年日米野球は、当時のMLBオールスター級ともいえる豪華さで、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、チャーリー・ゲーリンジャー、ジミー・フォックスなど後に殿堂入りする有名選手がズラリと顔を揃えていた。
かたや迎え撃つ日本側は、プロができる直前の時代であり、沢村栄治(旧字体:澤村 榮治 背番号8)にしても、ヴィクトル・スタルヒン(背番号31)にしても、当時はまだ高校中退したばかりの10代のアマチュアだった。
17歳の沢村は日米野球の最初の登板で11本のヒット、3本のホームランを浴びた。1934年日米野球での沢村の通算スタッツは、28回2/3を投げ、自責点25、ERA7.85。被安打33、被ホームラン8、25三振、25四球。全体としていえば、まだまだメジャーに通用する成績ではなかった。

沢村栄治(澤村 榮治)

だが、79年前のあの日、昭和9年(1934年)晩秋11月20日の草薙球場では全てが違った。沢村栄治はゲーリンジャー、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、ジミー・フォックス、MLB史に残る名選手たちを撫で斬りに4連続三振に仕留め、8回1失点の快投をみせた。

▼昭和9年11月20日 日米野球(静岡・草薙球場)
全日本 000 000 000=0
全  米 000 000 10X=1

この日の沢村栄治の快投は、日本中の人々に、もしかすると日本人も野球で強くなれるのかもしれないとの期待を抱かせ、日本プロ野球設立への大きなきっかけを作った。
黎明期の日本野球の最高峰は大学野球だったが、プロとしての日本野球の歴史の第一歩は、あの晩秋の草薙球場でのデーゲーム、沢村栄治の力投から始まっている。

あわや勝利投手かという快投をみせた17歳の日本のエース、沢村栄治から、容赦なく決勝ホームランを放ってみせたのは、当時31歳の4番打者ルー・ゲーリッグだ。ゲーリッグの存在は、いってみれば、当時まだプロの存在しない日本野球のレベルでは、沢村栄治の伝説の快投をもってしても越えられない「メジャーの高い壁」だった。

沢村が打たれたのは、カーブを投げる際、唇が「への字」に曲がる癖を見抜かれたためといわれている。「ドロップ」と呼ばれた伝説のカーブを真芯にとらえたゲーリッグの打球は、ライナーとなって草薙球場のスタンドに消えていった。



1934年の伝説の沢村栄治の快投、ルー・ゲーリッグのソロ・ホームランから、79年。野球には両者を記念した沢村賞、ルー・ゲーリッグ賞ができ、そして数えきれないほどの野球選手が登場しては消えていった。
長い長い歳月を経て、17歳の沢村栄治が越えられなかったルー・ゲーリッグの記録のひとつを、21世紀にMLBのグラウンドに現れた日本人イチローが越えていこうとしている。

思えば、イチローはさまざまな経緯と試練を経て、いつのまにかルース、ゲーリッグと同じヤンキースのピンストライプを着て野球をやっている。ファンと、そして当のイチロー本人がどう考えようと、イチローにはいやおうなくピンストライプを着る運命が待ち構えていたのかもしれない。そんなふうに思えてくる。これが日本野球の記念碑でなくて、他の何が記念碑だ、と思う。


アメリカ遠征を経て日本でプロになった沢村栄治は、19歳になった1936年秋に甲子園で日本野球史上初のノーヒットノーランを達成。3度のノーヒットノーランを含む輝かしい栄光の日々を経験したが、兵役でキャリア中断を余儀なくされ、さらに手榴弾投げで肩を壊して、最後はオーバースローで投げることですらままならない悲惨な状態になり、1944年シーズン前に解雇され、引退した。同じ1944年の暮れ、12月2日に屋久島沖で戦死。27歳。

アメリカ遠征中の沢村栄治
アメリカ遠征中の沢村栄治(後列左から2人目。前列最も左側がスタルヒン)


こころざし。

沢村栄治のみならず、野球をこころざし、野球で生きることを仕事として選んで燃焼しようとした果てしない数の人々が越えようとしてきた壁が、ついにひとつ、乗り越えられようとしている。そうした、数えきれないこころざしに対し、このヒットが生まれたら報告しておきたい。

草薙球場から79年。
日本野球はとうとうここまで来ましたよ、と。

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