September 03, 2013

宮崎駿(Hayao Miyazaki)


天の光はすべて星』 (The Lights in the Sky Are Stars, 1952) というフレデリック・ブラウンの作品がある。「なぜ人は空を飛びたいと熱望するのか」について、全てが語り尽くされていると思えるほどの作品だ。
ならば、『天空の城ラピュタ』から『風立ちぬ』に至るまでの宮崎駿による「空を飛ぶ作品群」を見る必要はないのか。

The Lights in the Sky are Stars


飛ぶ教室』(Das fliegende Klassenzimmer, 1933)という1933年発表の児童文学作家エーリヒ・ケストナーの作品がある。劇中劇として、教師と生徒たちが飛行機に乗り、ヴェスビアス火山、ギゼーのピラミッド、北極などを巡る夢の旅が描かれている。
これまた、空を飛ぶことについて描いた名著だが、ならば、『飛ぶ教室』から20年ほどして書かれた1952年のフレデリック・ブラウンの『天の光はすべて星』は読む必要がなく、さらに時代が下った『天空の城ラピュタ』から『風立ちぬ』に至るまでの宮崎駿による「空を飛ぶ作品群」を見る必要もないのか。

飛ぶ教室(エーリヒ・ケストナー, 1933)

たとえ古今集に恋の歌があるからといって、1000年たとうが、何年たとうが、人が恋の病を語りたがる気持ちが失せるわけはない。

わざと極論を言ってしまえば、とは永遠に「恋の歌」のことを指すのであり、そして物語とは永遠に「空を飛びたいという願い」のことを意味する、と思うのである。(児童文学翻訳の大家、神宮輝夫氏のいう「物語」と「ものがたり」の違い等については、ここで書き切ることはできない。諸資料によって各自研究されたい)



ここから先の部分を加えて終わるかどうか、非常に迷ったが、こんな時代だ、やむをえない。つまらない蛇足をつけ加えておくことにした。読みたくない人は読む必要はない。自分でも、こんな話は読みたくもないが、しかたがない。


ケストナーの『飛ぶ教室』、フレデリック・ブラウンの『天の光はすべて星』、宮崎駿の『風立ちぬ』と、3つの作品を並べてみると、そこに、「3つの作品に共通してあるもの」がある反面、「それぞれが少しずつ異なっている部分」があることに気づく。

違っているのは、
その時代その時代の「テクノロジー」である。


「空を飛ぶためのテクノロジーがまだあまりハッキリしていない時代」に空を飛ぶ夢を描く行為と、今の時代に空を飛ぶ夢を描くのでは、背景にあるテクノロジーは全く違う。たとえ話でいうと、ケストナーにはリニアモーターカーやコンピューターの匂いがまるでしないが、宮崎駿には、ほんの微かにだが、香っている。

それでも宮崎駿にとって、映画は、空を飛ぶためのテクノロジーを描くことではない。彼は「空を飛びたい」という素朴な願いを描くことを諦めない。
彼は常に、どうやったら今のこの「空を飛ぶためのテクノロジーがハッキリわかってしまっている時代」に生きる我々の心に、「空を飛ぶ夢」を呼び覚ますことができるか、という、なかなか困難な問題に挑戦し続けてきた。

だが、テクノロジーというのはひとつのイデオロギーであって、常にファンタジーに罵声を浴びせかける。『風立ちぬ』についても、技術史や戦争史からみた視点で批判したい人は、それこそ掃いて捨てるほどいるわけだが、その人たちが語っているのはイデオロギーであって、ファンタジーではない。


物語とは、「空を飛ぶ夢」なのである。
宮崎が『風立ちぬ』で描いた堀越二郎は、実際の堀越二郎ではない。宮崎が描こうとしたのは、イデオロギーが大勢を占め、常に世界を左右する時代の渦中にあって、それでも「ファンタジーを守り抜こうとする行為」の「はかなさ」、そして「強さ」だと思う。


以下、文字で言われないとわからない人たちのために書いておこう。

ファンタジーとは何だ。

恋すること。そして
空を飛ぶこと。だ。

これらがファンタジーでないなら、
いったい何がファンタジーだというのか。


愛するものを守り抜こうとする素朴なファンタジーそれ自体を、それこそ根っ子から否定し尽くそうとしてきたイデオロギーの存在に、我々はもう気づいている。それなのに、それを言葉で説明しないとわからない人が増えすぎたのは、本当に不幸なことだ。なぜこんな当たり前のことを説明しておかなければならないようになったのか。不幸な時代に生きているもんだ、と、自分でもよく思うことがある。

damejima at 01:49
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