November 09, 2013

白人移民とアフリカ系アメリカ人」が都市内部に集積していくことによって支えられた20世紀初頭のアメリカ北部の大都市の膨張は、やがてマスメディアの発達に平行して、「プロスポーツ」、「映画」など、それまでなかった新しいアメリカ的娯楽を「大衆化」させていくことになる。

マスメディアが、「大衆製造マシン」のひとつであると同時に、メディア自体がひとつの「大衆文化」でもあるという「二重構造」をもつように、「大衆に浸透することに成功したスポーツ」は、それ自体が「大衆文化」であると同時に、違う地域から移住してきた見ず知らずの白人移民同士でも、白人移民とアフリカ系アメリカ人でも、古参と新参のアフリカ系アメリカ人同士の間でもコミュニケーションを成立させることのできる「共通言語」でもあり、スポーツはやがて「アメリカに住んでいる人間であることを示す『アイデンティティ』そのもの」になっていく
ことに「プロスポーツ」は、「移民」として、あるいは、「奴隷」として、それぞれに違う理由で移民の国アメリカに住むようになった、主義も主張も違う住人同士をかろうじてつなぐ、いわば「人種や世代の相違を越えた数少ない『共通の話題』のひとつ」となり、プロスポーツが「接点を持たない人同士をも接着する接着剤」のような存在となったことで、歴史的文化的共通感覚を持たない数多くの人種を抱えこんだニューヨークのような大都市にとっては、「その街に住む住人が共通してもっている「地域アイデンティティ」を表示してくれるラベル』」としての役割を背負うことになった。(例:ニューヨーカー=ヤンキースファン)


ただ、ひとつ気をつけておかなければいけないのは、ここでいう「20世紀初頭にベースボールが経験した最初の大衆化のステップ」とは、「全米のあらゆる層とあらゆる地域への拡大」という意味ではない、ということだ。
「20世紀初頭にMLBが経験した最初の大衆化」はあくまで、「移民してきてからまだ歴史の浅い白人移民層への拡大」という限定された意味であり、アフリカ系アメリカ人をまだ含まないし、地域的にいっても、西海岸をまだ含むものではない

野球という娯楽がナショナル・パスタイム(=国民的娯楽)と言われるまでの存在に成長するには、MLBがあらゆる人種に開放されること、そして、1958年のドジャースとジャイアンツの西海岸移転に象徴されるように、MLBがアメリカ西海岸へ拡張されること、この2つが必要不可欠だ。
(白人移民が大衆文化を育てる一方で、アフリカ系アメリカ人が南部から北部都市に大量流入し続けるGreat Migrationという現象も起こり、二グロリーグも結成されているわけだが、その動態については、このシリーズのもっと前の記事を参照してもらいたい。資料記事:Damejima's HARDBALL:「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。
Damejima's HARDBALL:「父親とベースボール」 MLBの人種構成の変化

ジャッキー・ロビンソンのMLBデビューは、ブルックリン・ドジャースが西海岸に移転する10年ほど前の1947年4月15日、ニューヨークのエベッツ・フィールドだが、この試合の観客の半分以上はアフリカ系アメリカ人で占められていた。そんな現象は「1920年代のベースボール」ではありえない。
「ボールパークの観客席」はアメリカ社会の変化を映す鏡なわけだが、「20世紀初頭のボールパークにみるアメリカ」は、まだ人種差別が色濃く残る世界で、当時のボールパークを写した写真には、観客席であれ、チケット売り場であれ、アフリカ系アメリカ人の姿を垣間見ることはできない。

20世紀初頭にMLBが経験した(限定的な意味ではあるが)「最初の大衆化」という現象に関してだけいうなら、「観客」、「プレーヤー」、「オーナー」、どの層をとっても、ベースボールの最初の大衆化を主導したのは「白人移民」、それも、「移民としては新参の貧しい移民層」であり、変な道徳観にとらわれずに歴史の事実だけを冷静にみるなら、こうした「新参の移民である貧しい白人移民」がアメリカにベースボールという娯楽を定着させ、大衆文化としての地位を作っていく最初のステップとなったといってさしつかえない。

Shibe Parkで1914年ワールドシリーズのチケットを買うMLBファン
フィラデルフィアにあったShibe Park(1908年開場)で1914年ワールドシリーズのチケットを買い求めるMLBファン

1914年ワールドシリーズにおけるボストン・ブレーブスのファン席
1914年ワールドシリーズにおけるボストン・ブレーブス側の応援席



アメリカで、ラジオ放送が正式認可されるのは1922年、白黒テレビの放送開始が1941年だから、20世紀初頭のMLBファンは、ゲームを楽しみたければ、基本的に(新聞で試合結果を読む以外には)ボールパークに足を運ぶしか手段がなかった。
だから「20世紀初頭に、どのクラスター、どの人種が、MLBの大衆化に貢献したのか」を知るには、当時の新聞記事を読むより、当時の写真で「ボールパークにどんな観客がいるのか」を眺めたほうが、はるかに手っ取り早いし、間違いがない。


ちょっと横道にそれるが、1920年代初頭に始まった「アメリカのラジオ放送の普及」とMLBの大衆化の関係ついて記しておこう。
アメリカのラジオ放送は、1920年11月ペンシルバニア州ピッツバーグでウエスチング・ハウス社のラジオ局KDKAによる実験放送が始まり、2年後の1922年11月に商務省の正式免許が下りた。
商務省が発行したKDKAへのライセンス(原本)
商務省が発行したKDKAへのライセンス(原本)



1921年8月5日にはKDKAによるMLB初のラジオ中継として、ピッツバーグ対フィリーズ戦の中継が行われたが、当時のラジオはまだ実験放送段階にあった。MLB初放送にドジャースやヤンキースのゲームでなく、この対戦カードが選ばれたのは、たぶんKDKAの地元チームだったからという単純な理由だろう。ワールドシリーズのラジオ初放送も、同じ1921年10月にKDKAとWJZによって実現している。
ラジオは、音楽以外の分野では、「スポーツ」がやがて人気コンテンツとなる可能性に早い段階から気づいていた。
Major League Baseball on the radio - Wikipedia, the free encyclopedia

スポーツキャスターのパイオニア Graham McNameeGraham McNamee

実験放送期のラジオの野球中継では、新聞記者が本業のついでに交代でキャスターをつとめた。そのため初期のMLB中継は、本職ではない新聞記者が事実をかいつまんで伝えるだけの、かなり退屈なものだったようだ。
しかしラジオ放送が正式認可された翌年、1923年のワールドシリーズの中継で、後にスポーツキャスターのパイオニアとなるGraham McNamee(1888-1942)が登場する。彼は後に、ただプレーを伝達するだけでなく、プレーのディテールや熱狂をリスナーに上手に伝える、それまでにないスポーツキャスターとしてのトークを定着させ、ラジオのスポーツ中継が普及する基礎を築いた。
彼は後に、ボクシング史に残る「ロング・カウント事件」で知られる1927年9月22日ジャック・デンプシー対ジーン・タニーのリターンマッチの実況も行っており、また、CBSのオーソン・ウェルズのラジオ番組に1940年に出演した記録も残っている。(http://en.wikipedia.org/wiki/Orson_Welles_radiography)



本題に戻ろう。
ラジオのような「紙でない媒体」の普及とMLBの大衆化が平行して進んでいく以前の、20世紀初頭前後のボールパークには、いったいどんな「人種」の野球ファンが来ていたのだろう。
ある資料に、こんな記述がある。
Some derided the influx of new fans to urban ballparks, in part because of the growing visibility in the bleachers of the sons and daughters of working-class Italian, Polish, and Jewish immigrants.
都会の野球場における新参ファンの流入を嘲笑うものもいた。外野席にイタリア系、ポーランド系、ユダヤ系移民のワーキング・クラスの子女が目に見えて増加しつつあったことが、その理由のひとつだ。
The National Pastime in the 1920s: The Rise of the Baseball Fan

この資料は、20世紀初頭のMLBの大衆化を支えたのが「どの人種、どの層だったのか」を具体的に書いてくれていてわかりやすい。当時のアメリカの大都市で「外野席を埋めることで、ベースボールの最初の大衆化に貢献した」のは、「移民としては新参の、貧しい白人移民だった」というわけだ。
(なぜアメリカの移民史の中で、イタリア系、ポーランド系、ユダヤ系などの「新参の移民」たちが、イギリス系、スコットランド系、アイルランド系など「古参の入植者」から「新参モノ扱い」され、蔑んだ目で見られたのかなど、「移民と移民の間の力学」は、アメリカ史を知る上で重要な部分のひとつだから、アフリカ系アメリカ人がMLBで退潮しつつある理由を探る上でも、複雑な白人移民同士の関係も少しはかじっておく必要があるだろうとは思う。だが話が長くなり過ぎるため、ここでは割愛したい。白人移民とアフリカ系アメリカ人との関係については、別記事で書く)


結論から先にいえば、20世紀初頭のMLBの大衆化を語るには、「観客」、「プレーヤー」、「チームオーナー」のすべてにおいて、「新参の白人移民」の存在を抜きには語れない。
「20世紀初期のMLBで、新参の白人移民たちが外野席を占めはじめた」というエピソードは、「観客層の拡大」の話なわけだが、以下でみるように、「プレーヤー」、「オーナー」についても、まったく同じことがいえる。

例えば「プレーヤー」について少し触れると、20世紀初頭の殿堂入り選手のうち、かなりの数が「貧しい白人移民の子供」だ。
ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、チャーリー・ゲーリンジャーはドイツからきた移民の息子であり、同じように、スタン・ミュージアル、アル・シモンズはポーランド移民の子、ハンク・グリーンバーグはユダヤ移民の子、ウィリー・キーラーはアイルランド移民の子、そしてジョー・ディマジオ、ヨギ・ベラはイタリア移民の子だ。(メリーランド州出身者が多いのは、おそらく当時メリーランドが宗教の自由を認めて、さまざまな移民を受け入れていたという歴史的背景によるだろう)
彼らの「家庭」「父親」はおしなべて貧しく、仕事も、職人ならまだいいほうで、港湾の沖仲仕(stevedore)のような、熟練を必要とされない不安定で低賃金な仕事にしかありつけないプア・ホワイトの移民が多かった。(例:ボストン、ニューヨークなど、東海岸の港での荷役は、仕事そのものは古参の移民であるドイツ系移民とアイルランド系移民が独占していたが、1930年代ボルチモア港の沖仲仕の80%はポーランド移民だったように、沖仲仕として雇われるのは新参の移民だった)

まさに「父親とベースボール」なのである。


「観客」、「プレーヤー」に続いて、「オーナー」についても書きたいが、その前に、他サイトからの聞きかじり、受け売りで申し訳ないが、「ユダヤ系移民の歴史」に触れておきたい。(本当ならあらゆる人種の移民史に触れるといいのかもしれないが、不勉強なブログ主には、とてもじゃないが手に余る)

下記資料によれば、ユダヤ系移民には「5つの波」があるという。
第1波:スファラディムのアメリカ移住
第2波:ドイツ系ユダヤ人
第3波:東欧系ユダヤ人
第4波:ドイツ系知識人
第5波:ロシア系ユダヤ人の移住
資料:ユダヤ人のアメリカ移住史


第1波:スファラディムの南米経由のアメリカ移住
(17世紀以降 数千人規模)
オリジナルのユダヤ人がローマ帝国に対して起こした独立戦争に敗北して追放され、ユダヤ人は世界中に離散したが、これを「ディアスポラ」という。
ディアスポラ以降後のユダヤ人は、大きく分けて「スファラディム」と「アシュケナージ」という2つの流れをもち、オリエンタルなスファラディム(セファルディムとも表記される)はスペインなどの南欧に移住し、東欧の黒海沿岸で栄えた遊牧民族国家ハザール帝国に起源をもつといわれるアシュケナージはロシアや東欧に定住した。
スファラディムは、イスラム統治時代のイベリア半島に数多くいたが、当時のユダヤ人は現代のようにイスラム教国との間で紛争を繰り返していたわけではなく、むしろ、イスラム教国から自治権や特権を与えられ、繁栄していたというから驚く。

しかし、レコンキスタ(=キリスト教国によるイベリア半島の再征服活動。15世紀末に完結した)が完成すると、イスラム教国のもとで繁栄したスファラディムはカトリック教国となったイベリア半島から追放されることになった。
追放後の彼らは南米のブラジルなどに移住し鉱山事業などを成功させるが、やがてその富はスペインやポルトガルに奪われ、さらにアメリカに移住して17世紀末にはマンハッタンにたどり着き、ニューヨークにおける古参の移民層のひとつとなった。
かつて、別の記事で(=Damejima's HARDBALL:2012年12月21日、ニューヨークまみれのクリスマス・キャロル(1) ワシントン・アーヴィングとクリスマスとバットマン)、古い時代のニューヨークがオランダ系移民の多い入植地だったことを書いたが、マンハッタンを買い取って「ニューアムステルダム」と名付けたのが「オランダ系のスファラディム」だったと資料にある。
ニューアムステルダムは後に「ニューヨーク」と名を変え、やがて世界中から移民が集まり、同時に、アメリカ南部から北部に脱出してくるアフリカ系アメリカ人も集まる、いわゆる「人種のるつぼ」になっていく。


第2波:48ersに含まれたドイツ系ユダヤ人
(19世紀末 20数万人規模)
19世紀初頭までヨーロッパ全体を支配していたウィーン体制は、1848年革命によって崩壊に向かうが、ドイツでは1848年革命が鎮圧され、行き場を失った自由主義的な人たちの一部がアメリカに移住した。
この19世紀中期(=1820年から1870年頃まで)にアメリカに移住したドイツ系移民を1848年革命にひっかけて「48ers」(フォーティ・エイターズ)と呼ぶ。「48ers」は、移民の街ニューヨークはもとより、セントルイス、インディアナポリス、ウィスコンシン、テキサス、シンシナティなど、もともとドイツ人入植者の多かった地域に多くが移住し、やがてそれぞれの都市の中流住民になった。

この「48ers」には多数の「ユダヤ系移民」が含まれていて、彼らは街頭の物売りなどから身を起こし、さらに綿花、鉱山、鉄道、土地投機などの分野で成功する者、あるいは、創生期のウォール街で成功をおさめる者も現れた。
とりわけドイツ系ユダヤ移民の金融業における成功は、投資銀行の成功などめざましいものがあり、彼らは当時のアメリカ国内の成長産業だった鉄道などの成長に必要な資金を、母国ドイツやヨーロッパ各地にいるユダヤ系資本とのコネクションから調達し、新興国アメリカの爆発的成長を支え続けた。
移民の街ニューヨークでは、こうした成功したドイツ系ユダヤ移民がアッパーイーストサイドやアッパーウェストサイドといった「アップタウン」で暮らす富裕層になっていったが、彼らは宗教に関して同化主義的でユダヤ教色が希薄だったことから、やがてアメリカ国内で準WASP的扱いを受けることに成功したと資料にある。


第3波:ボグロムを逃れた東欧系ユダヤ人
(19世紀末 100万人規模)
1880年代初頭に帝政ロシアで始まった「ボグロム」と呼ばれるユダヤ人迫害で、ロシアから東欧にかけての広い地域で大量のユダヤ人虐殺が起こり、それらのエリアで最下層に属していたユダヤ人(この場合はアシュケナージ)が大量にアメリカに逃れたため、アメリカのユダヤ系移民の人口は一気に拡大した。

Jacob Henry SchiffJacob Henry Schiff

ちなみに日露戦争はこの時代の話だが、当時アメリカのユダヤ系移民の中心的存在だった金融業者Jacob Henry Schiffヤコブ・シフ)が、日本が日露戦争に必要な戦費を賄うための公債を高橋是清から購入した背景には、ユダヤ人虐殺を強行した当時の帝政ロシアへの激しい反発があったと説明されている。

移民第3波の「東欧系ユダヤ移民」の大量流入により、アメリカにおけるユダヤ系移民の85%が東欧系になる。ニューヨークでは、第2波移民のドイツ系ユダヤ人がアップタウンに住んだのに対し、第3波の東欧系はダウンタウンに住み、例えばロウワー・イーストサイドにはおびただしい数の東欧系が移住した。
有名人で例を挙げると、ロバート・レッドフォード主演の野球映画『ナチュラル』の原作者バーナード・マラマッドは、父親がロシア系ユダヤ移民で、ニューヨークのブルックリンで1914年に生まれている。また、名曲 " America " で、All gone to look for Americaと歌っているポール・サイモンは、祖父が東欧ルーマニアからアメリカに移住してきたユダヤ系アメリカ人で、生まれはニュージャージーだが、育ったのはニューヨークのクイーンズ地区だ。
参考記事:Damejima's HARDBALL:2013年5月4日、「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。アメリカにおける「放浪」の消滅(3) サイモン&ガーファンクルの "America"の解読〜ニュージャージー・ターンパイクの渋滞の中で気づく「若者を必要としないアメリカ」

東欧系ユダヤ移民は、アメリカでも母国と同様の貧しい暮らしを送ったようだが、手に技術のある者も多く、手に職のないアフリカ系アメリカ人の北部移住と違って、職人として生計を立てていくことが可能だった。(ティム・マーラやレオナ・ヘルムズリーの親が職人であるのには、こうした背景がある)
ユダヤ系移民の「第2波」である「ドイツ系」がアメリカへの同化を希望してユダヤ教色が希薄であるのと違って、ユダヤ系移民「第3波」の「東欧系」は、アシュケナージの特徴のひとつであるイディッシュ語を話す正統派のユダヤ教徒であり、ユダヤ教色が強いと資料にある。
東欧系移民の大量流入は、1924年移民法(Immigration Act of 1924)の制定による移民制限で終わる。


第4波:ナチス迫害を逃れるドイツ系移民
(数十万人規模)
第4波のユダヤ系移民は、1933年のナチス・ドイツ成立とともに、ドイツやオーストリアからアメリカに逃れた25万ものユダヤ人で、その中にはかなりの数の知識人・文化人が含まれた。また、ユダヤ人でない知識人の中にも、ユダヤ人の同僚や教師の移住をきっかけにアメリカ移住を決断する者が続出したため、当時のドイツはかなりの量の知識と文化を失った。(「原爆」の開発場所が、結果としてドイツでなくアメリカになったのも、この時代の「ドイツからアメリカへの知識流出」が背景にある)
アメリカのユダヤ系人口は、1924年移民法で東欧からのユダヤ移民が制限された1925年には「380万人」だったが、第二次世界大戦中の1940年時点には100万人も増えて「480万人」に到達している。居住地は、100数十万人ものユダヤ系住民が暮らすニューヨークを筆頭に、ロサンゼルス、フィラデルフィア、マイアミ、ボストン、ワシントンなどとなっている。

Chiune Sugihara
ちなみに、第二次大戦中、東欧リトアニアの日本領事・杉原千畝は、ポーランドからアメリカなどに逃れようとするユダヤ人にビザを発給し、6000余名もの人命を救った。1985年、日本人で初、そして唯一の「諸国民の中の正義の人」に選ばれている。


George Sorosジョージ・ソロスは、ナチス・ドイツの侵攻を受けたハンガリーのブダペスト出身のユダヤ系移民で、アメリカに渡ってウォール街で投資ファンドを起こして成功を収めた。彼は第4波ユダヤ移民の一部であると同時に、アメリカに渡って金融業で成功を収めた第2波ユダヤ移民「48ers」と同じ成功パターンをたどった人物ともいえる。彼はこれまで、ドラスティックな投資家としてグローバル経済の恩恵を享受しつつ、同時に、学者・慈善家としてグローバル経済の欠陥を執拗に批判し続けてきた。彼の矛盾した姿勢に対する批判もけして少なくないが、彼の業績をどう判断するはともかくとして、彼の「自分の気にいらないもの(例えばジョージ・ブッシュ)対する批判の執拗さ」だけをとりあげるなら、かつてユダヤ嫌いで有名だったヘンリー・フォードにどこか似ていなくもないのが、なんとも不可思議ではある。つまり、ユダヤ系であるはずのソロスのモチベーションには、少なくともマックス・ウェーバーが1904年に「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で指摘したような「儲けることと、社会貢献を徹底した形で両立させることへの義務感」のようなものが強く根底に流れている、ということだ。ソロスのこうした複雑なメンタリティの解読は、現代アメリカのビヘビアのこれからを読み解く大きな鍵でもある。


第5波:ロシア系ユダヤ人の国外移住
(20世紀末 数万人規模)
1989年1月のソ連の国勢調査によれば、当時のソ連国内のユダヤ人口は145万人で、うち6万人がアメリカへ移住。また、1990年〜1993年にソ連を去った58万人のユダヤ人のうち、80%はイスラエルへ移住したらしい。
こうした現象の背景にあるのが、1981年にイスラエルとソ連の間で行われた会議と、1989年12月に当時のゴルバチョフ元大統領とブッシュ大統領の間で行われたマルタ会談の、2つの会談。これらの会談によって、ソ連側はロシア系ユダヤ人をイスラエル西岸地区へ移民させることに同意し、また東欧民主化を保証したと資料にある。ブッシュ大統領はソ連のユダヤ人の国外移住を制限しないという条件で、ソ連に「最恵国待遇」を与え、経済協力を約束した。
これらの経緯がきっかけで結果的に米ソ冷戦は終結したものの、かわりに世界は中東紛争という新たな火種を抱えることになったわけだ。中東紛争にユダヤ人入植者の問題が絡んでいることはテレビのニュースで知っていても、その出自がアメリカではなくロシアにルーツがあることには非常に驚かされる。


上のユダヤ移民の歴史をふまえた上で、改めて、このブログで、20世紀初頭にアメリカのプロスポーツで「オーナー」になった人々に触れたいくつかの記事を振り返ると、それらが実にピタリと移民の歴史に沿っていることがわかる。

一例をあげると、例えば映画『ドラゴンタトゥーの女』でリサベット・サランデルを演じたルーニー・マーラの曽祖父にあたるNFL ニューヨーク・ジャイアンツの創始者ティム・マーラについて書いた記事で、彼の経歴を「ロウワー・イーストサイドの貧しい家庭に生まれ、13歳で映画館の案内係になり、通りで新聞を売る仕事を経てブックメーカーの使い走りになり、さらに18歳のとき彼自身がブックメーカーになった」と書いたわけだが、東欧系のユダヤ系移民が「ニューヨークのロウワー・イーストサイド」に多数住んでいた歴史を考慮すると、ティム・マーラのキャリアは東欧系ユダヤ移民の典型的すぎるくらい典型的なサクセスストーリーなのだろうと気づかされる。
Damejima's HARDBALL:2012年12月21日、ニューヨークまみれのクリスマス・キャロル(2) NFLニューヨーク・ジャイアンツとティム・マーラとポロ・グラウンズ

また、MLB サンフランシスコ・ジャイアンツの元オーナー、ピーター・マゴワンについて「かつてアメリカの三大投資銀行のひとつとして名を馳せた、かのメリル・リンチの創業者、そして全米屈指のスーパーマーケットSafewayの創業者でもあるチャールズ・メリル (1885-1956)の孫である」と書いたが、チャールズ・メリルの「投資銀行で成功するというサクセスストーリー」もまた、ユダヤ系移民における典型的なサクセスストーリーだろう。
Damejima's HARDBALL:2013年2月11日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」 (8)番外編 三代たてば、なんとやら。「ステロイド・イネーブラ」と呼ばれたピーター・マゴワン。


上記のユダヤ系移民の歴史資料に、「アメリカの映画は、最初の頃から東欧ユダヤ人の参画によってスタートした」という記述がある。もう少し記述を引用してみる。
(アメリカの)初期の映画産業は、貧しく、無学な労働者層を観客とするもので、一般には「低級な娯楽」とみなされていた。そのため、当時、この未成熟産業が大方の予想を裏切って主要産業へと急成長することを予測しえた者は極めて少なかった。

この文章の、「映画産業」という部分は、それを「アメリカの娯楽」、「アメリカのスポーツ」、「アメリカのメディア産業」、「アメリカのエンターテイメント」などに置き換えたとしても、それぞれ、そっくりそのまま成り立ってしまう。
このことからも、20世紀初頭のアメリカ文化の形成における白人移民の影響力の大きさがわかるというものだ。
(イギリスからの移民で、20世紀初頭にたくさんの無声映画に出演したチャールズ・チャップリンは、1920年前後には、ポール・サイモンが幼少期に住んでいたのと同じニューヨーク州クイーンズのキュー・ガーデン地区に住んでいた。またジョージ・ガーシュウィンも同じキュー・ガーデンに住んでいたことがある)

NFLニューヨーク・ジャイアンツのかつてのオーナー、ティム・マーラが若い貧しい時代に新聞売りから身を起こして、ジャイアンツのオーナーになったとき、今から思えば彼がオーナーシップを買うために支払った金額はほんのわずかなものであったように、20世紀初頭のアメリカにおいて、将来のプロスポーツが現在のような巨大マーケットに成長するとは、先見の明のあった移民の一部の人々以外、誰も予想していなかった。


あまりに端折った話に終始してしまったが、ベースボールの「最初の大衆化」が「白人移民の拡大」と深いつながりがあること、つまり、草創期のMLBで「観客」を形成した層、「プレーヤー」を形成した層、「オーナー」を形成した層(そしてもちろん「二グロ・リーグ」を形成した層も)は、それぞれが「特定の人種やクラスター」にルーツをもっていることがわかってもらえただろうと思う。

「ベースボールの経験した最初の大衆化」では、明らかにアメリカ東岸や五大湖エリアの大都市のダウンタウンに住む白人移民労働者の人口増大や所得増加が関係している。(もっと後の「ベースボールのナショナル・パスタイム化」でいえば、西海岸へのMLB拡張やアフリカ系アメリカ人のインテグレーションが影響している)


誰が先にアメリカに来たか、誰が後からやってきたか、誰が誰の場所を奪って自分のものにするか、そうした「人種間の、あるいは、人種内部の摩擦の問題」が相互に、かつ、複雑にからみあうのが、アメリカという国の難しさ、わかりにくさだが、MLBの成り立ちや課題についても、やはりこうした「誰が、いつ、来たのか」という「ややこしい順番の問題」を無視しては語れないのだ。

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