July 15, 2014

食材の鮮度さえよければ、あとは何もしなくても、旨いよ。
てなことを言う人が、たまにいる。

エコロジー話題満載の前向きすぎるブログを全くつまらないと感じるのと同じくらい、どうもああいう言葉が好きになれない。なぜなんだろう。



鮮度が重要に思える寿司(鮨あるいは鮓)の場合でも、「鮮度が命」という法則はけしてあてはまらない。もしそれが本当なら、「漁港で食う寿司」はもっと旨くなければおかしいし、いつまでたっても「銀座が日本一」なんて時代が続くわけはない。

スティーブ・ジョブズが東京・銀座の超有名店、すきやばし次郎を贔屓にしていたことは彼の有名なエピソードのひとつだが、銀座にヒラメやアナゴが泳いでいるわけではない。なのに、銀座では「うまい鮨」が食える。「魚がとれる場所に近ければ近いほど、うまい寿司屋がある」わけではないのだ。

歴史的な視点だけでいえば、「寿司という食い物はもともと『都市文化』であり、海から遠くて新鮮な魚が手に入りにくい江戸時代の都市で生まれたから」などと説明すれば、話のほとんどは済んでしまう。鮮度保持の技術がなかった時代に魚介類をおいしく食べようと思ったことから、酢や昆布で締めるとか、醤油に漬けたり、煮たりする各種の調理技術が開発されたわけだ。

もっと短く言えば、
寿司を食うという行為は、主に
技術を味わっている」のだ。


しかし、いまでは冷凍・冷蔵技術が発達している。ならば、いつでもどこでも新鮮な魚が手に入るようになったはずだから、日本中どこでも「職人の技術すら凌駕する、鮮度の高さで勝負できる旨い寿司」が食えるようになったはずだ。
だが、江戸文化に端を発した寿司の銀座中心主義がおちぶれて、より海に近い場所でこそ、旨い寿司が食えるような時代が来たかというと、そんなことはない。
かえって鮮度抜群の魚が手に入るはずの海岸地方や漁港の寿司がダメな場合が(自分の経験では)あいかわらず多い。(ただし全ての漁港を回ったわけではないので(笑)、正確にはわからない)


この「漁港の寿司が案外ダメなことが多い理由」は、なんだろう。

ひとつには、「漁港の寿司のちょっとした不味さが、鮮度とは無関係」だからだ、という気がする。
たとえば、酢を合わせてもいない「ゴハンのままのゴハン」を大量に手にとって、ぎゅうううううっとチカラいっぱい、それこそ握り締めるように握って、その上に鮮度抜群の魚の切り身をのっけると、それは「旨い寿司」になるか。もちろん、ならない。
また、海岸で釣りをして、その魚をその場で捌いて食うような食べ方をすれば、それが一番うまい魚の食い方か、というと、そうでもない。肉でも魚でもタンパク質が適度に分解された「食べごろ」というやつがあるから、生簀(いけす)のある店で板前さんが目の前で捌いたばかりの魚の切り身で作った寿司が、世の中で一番うまい寿司になるわけではない。


同じように「地産地消」なんていう言葉もあるけれど、これも昔はもっともな言葉だと思っていたが、今は信用していない。

なぜって、よく地産地消をウリにした地方のレストラン、なんてものもあるわけだが、それはたいていの場合「東京などの有名店で修業した人が、わざわざ田舎に作った店」であることがほとんどだからだ。つまり、詳しく表記するなら、「地方の鮮度のいい魚や野菜を出す、地方発の店」があるわけではなくて、「産地の鮮度のいい食材を調理する腕を持った『都会帰りの調理人』が、たまたま田舎で出している店」なのだ。


これは自分勝手な言い分ではあるが、もし「漁港の寿司屋に足りないもの」が、『鮮度以外の何か』とか、『技術』なのだとしたら、それがハッキリ自覚できないと『地方の、それも、鮮度とイキのいい若い人が都会に出ていくのを止められるわけはない』などと思ったりする。

『鮮度』というやつは、ほおっておくと価値が落ちるばかりだ。だから、てっとりばやくカネに変えるには、そっくりそのまま都会に出荷するしかない。しかし、鮮度のいい魚を安い価格で都会に発送し続けているような昔の漁協的発想だけでは、地方の寿司屋は旨くはならない気がする。また、旨くもない漁港の寿司にリピーターはつかない。

鮮度のいい農産物や魚介類を『魅力ある商品』に変えてくれる魔法みたいな意味の「技術」が「多くの場合、都会だけにある」ものだとしたら、そりゃ、そういうものを学ぼうとする若い情熱の流出を止められるわけはない。
都会で寿司屋になった地方の若者だって、聞いてみたら「できたら生まれ育った場所で腕のいい寿司屋になりたかった」と思っているかもしれない。だが残念なことに、漁港には鮮度のいい魚はあっても、それを素晴らしい商品にかえる『技術』がないことが多い。材木は何をしなくても、いつのまにか素晴らしい家具になっているわけではないのだ。


どういうわけか知らないが都会の寿司屋というやつは、多少味がまずくてもなかなか潰れなかったりするわけだが、他方、これもどうしたものかわからないが、もっと旨くなる余地があるはずの地方の漁港の寿司屋も、なかなか旨くはならない。なぜなんだろう。

にもかかわらず、自分のこれまでの発想を捨てることもせず、これまで築いてきたポジションや利権を捨てることも、他人に分け与えることもせず、ただただ「地方の若い人が都会に出ていくのを止めなければ」なんてことばかり考えている地方のオトナは、あいかわらず減ることがない。
地方のオトナたちは「地方にだって、いくらでも旨いものや楽しみがあるっていうのに、なぜここらへんの若い人たちは都会にばかり出て行きたがるのだろう?」なんて的外れなことを、毎日考えていたりする。


そうそう。

優秀なプレーヤーほどMLBに行くのをああだこうだ言う人がいなくならないのにも、似たところがある。そういう発想の人に限って、「日本野球に、本当は何が足りていないのか」を、あまり真剣に考えようとしてない。


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