January 24, 2015

トマ・ピケティというフランスの経済学者の『21世紀の資本』という著作が話題だそうだ。まったく読んでもない。だが、短気な猟犬と同じで、あやしい匂いを嗅ぎつけると、どうしてもアドレナリンが出て、ケチをつけたくなる。困ったものだ(笑)


どうもよくわからないことがある。

Wikiなどによると、ピケティが使ったロジックは、「率A(資本収益率)と率B(経済成長率)との間に常に『差』があることが原動力となって、資産や富に『特定方向への移動』が生じる、その結果生まれる資産集中は実にけしからん。世界規模での富裕税が必要だ」という感じの話らしい。
(以下簡略にするため、「率の差が原動力となって資産移動が生じる」という論理」を『資産移動論理』と呼ぶことにする。

もし、Wikiや書評に書かれているこうした「要旨」が本当なのだとしたら、『21世紀の資本』という本を読む必要は「ない」、と考えられる。

というのも、さきほど定義したばかりの「資産移動論理」は、よくある普通のロジックのひとつに過ぎないからだ。ピケティ独自のものでも、特別すぐれた論理でも、なんでもない。
もし、「ピケティのあやつる資産移動の論理」を実際に読んで、「こりゃあ新鮮だ。思いついたやつは天才だな・・」、などと思う人がたくさんいるのだとしたら、その人たちはよほど金融や経済に関心を持ってこなかった人だとしか思えない。


説明がめんどくさいので簡単な例を挙げてみる。

日米の金利差と為替レートの関係via 私の相場観 : 金利上昇と景気・株価の関係

2つの国、A国、B国で、「長期金利に大きな差がある」とする。
この「金利の差」は、「A国とB国の間の為替レートに一定の変動傾向を生むファクターのひとつ」になる。(金利と為替が完全連動する、という意味ではない。両者は緩やかに連動するにしても、常に、かつ、完全に連動するわけではない)
例えば「円とUSドル」なら、「日本の金利がアメリカの金利より低い」場合、それが原動力となって両国の為替の長期ベースは「円安傾向」になるため、一時的にせよ「円からドルへの資産移動」が起こる。(実際、多くの日本の個人投資家が円高終了とともに自分の資産を米ドル方面に転換した。いまだに転換してない人は、単に世の中の変化に反応が遅いだけの話)
また、金利差は国債価格にも影響するから、アメリカ国債に向けての資産移動も起こりやすくなる、なんてことも起こる。

つまり「金利差」は、広範な資産移動の原動力になるわけだ。


こういうことは、金融に関わる人なら誰でも知っている。また、マクロ経済をちょっとでもかじっていれば誰でもわかる。(わからない人は、詳しい説明をどこか別のサイトで読んでみてもらいたい)
だから、なぜ、こういう「誰もが知っている論理」で書かれた著作が、ノーベル賞級だのなんだのと評価される必要があるのかが、まったくわからない。


さて、ピケティがいわんとする(らしい)ところを、Wikiを参考に、もうちょっと詳しく書きだしてみる。
「歴史的にみると、資本収益率(r)は経済成長率(g)を常に上回る傾向にあり、富の不均衡を生む。とりわけ低成長が長く継続する時代(=「常にr>gとなる時代」)には、富の集中が生じやすくなる。その是正にむけた新たな富裕税を検討すべきだ」というようなことらしい。

いいかえると、ピケティは上で書いた「資産移動論理」を、「『国という経済単位内のクラスター間に富の不均衡がなぜ発生するのかを説明するのに使っている」わけだ。
この「資産移動の結果を、不均衡あるいは不平等ととらえて説明した上で、その是正を求めることは正しいとする判断」を、簡略化のため「ピケティ道徳」と呼ぶことにする。
「ピケティ道徳」は簡単にいえば、「資本収益を新たな課税の創設によってさらに多く国庫に回収し、社会をもっと均一にならせ」と言っているわけだ。

この「ピケティ道徳」が「これまでにない斬新な発想だ」といえる根拠がわからない。なぜなら、「収益を国庫に回収し、社会に再配分する手法」そのものは、既に「納税」「雇用」「福祉」など、さまざまな形でどの国にも既に存在しているからだ。


非常にわかりにくい言い方だとは思うが、
以下の説明でぜひ次のことを確認してもらいたい。
「資産移動論理」と「ピケティ道徳」は、イコールではない。


2つの「論理」の違いを知ってもらうための、もっとうまい「たとえ」が思いつかないので困るが、まぁ「マイケル・サンデルのハーバード白熱教室の生徒」にでもなったつもりで(笑)、こんな例でも考えてみてもらいたい。

地域差をからめた例文
日本の2つの都道府県、隣接するA県とB県で、生産性に差があるとする。「生産性A>Bなら、A県にばかりお金が集まるようになる。これは非常にけしからん。
では、A県はB県に富裕税を払うべき」だろうか?

人種問題をからめた例文
ある多様な人種で構成される国で、人種Aと人種Bとで生産性に差があるとする。「生産性A>Bだと、常に人種Aにばかりお金が集まるようになる。これはけしからん。
では、「人種Aに富裕税を新設して、人種Bだけに還元すべき」だろうか?

南北問題をからめた例文
先進国A国と、発展途上国B国の生産性に差があるとする。「生産性A>Bならば、A国にばかり富が集まる。これは不均衡だ。
では、「A国はB国に対し、富裕税を払うべき」だろうか?


以上の稚拙な「例」でひとまず理解してもらいたいことは
「資産移動論理」はどこにでもよくある分析手法だ。
だが「ピケティ道徳」は、どのカテゴリーに、どういう立場から適用するかによって、「受け取る印象」がまったく違ってきてしまう、「善悪の観念」を含んでいる
ということだ。


もしブログ主が、「東京都の生産性は埼玉県より高いから、東京都には富や資産があまりにも集結しすぎる。この不平等はけしからん。格差是正のために、東京都民は埼玉県に対して税金を払うべきだ」などと真顔で発言したら、どう思われるだろう?

「馬鹿なことをいうな」と、笑いモノになる。

都道府県同士、国同士、人種間、で考えれば、ある都道府県(あるいは国や人種)に税金をかけて、そのカネを別の都道府県(あるいは国や人種)に納める、なんて話は「なんとなくおかしい」わけだし、そのことが理屈抜きに誰にもピンとくる。

なのに、ピケティは、同じロジックを「国内のクラスター間の格差」に適用してモノを言い、それを読んだ人は、それが「あたかも道徳的な提案をしている」かのように「みえる」らしい。

それはなぜなのか。


誰もが気づかないようだが、ピケティの「レトリック」をよく考えてみるべきだ。
ピケティの著作では、「資産移動論理」という近代経済学や金融論によくみられる分析手法と、感傷的で18世紀的な国民経済学の限界を越えない「ピケティ道徳」とが、安易に結び付けられて書かれている。そして、その2つは必ずしも連続的に融合してはいない。だから施策の提案になると行き詰まって空想的になる。
だから、『21世紀の資本』という著作を読む人には、分析手法と、そこから導かれる結論が平凡きわまりないにもかかわらず、印象として道徳観念(=ピケティ道徳)だけが脳裏に残る。
それは、この著作がそもそもそういう仕組みで書かれているからである。


以上、簡単な「ロジックを分解する作業」をやってみた。
言いたいことはわかってもらえると思う。

調味料は料理ではない。
どんな料理にでも大量のマヨネーズをかける人がいるが、マヨネーズのチューブそのものをくわえて吸う、それだけの行為を「サラダ」と呼ぶことはできない。また「昔からあった料理」に大量のマヨネーズをかけたら、それが「革新的な料理」になった、とはいえない。

『21世紀の資本』が提出したロジックを、「なるほど」などと感心する人がいるのは、料理そのものの味を吟味しているのではなく、単に「不平等を指摘する」とか、「社会正義」とか、そういう「マヨネーズの味」に酔っているだけだ、という言い方ができる。


グーグルやアップルのような現代的な企業がたくさん儲けているにしても、その儲けそのものには、ちゃんとした「発明(イノベーション)」や「マーケティング的な成功」といった、「正当性」がある。
そして、企業収益を社会に還元する仕組みも、社会には既に「税制」とか「雇用」などいう形で既に備わっている。

もしどこかの国で、多額の企業収益がタックスヘイブンに流れてばかりいて、社会にほとんど還元されていないというような事実があるとしたら、それを改めていくことはその国の税制上の課題のひとつであるのはたしかだ。
だが、だからといって、資産移動、つまり、「富や資産がなんらかのファクターに呼応して移動していくこと」そのものが、「その社会の根本的な欠陥だ」とはいえない。そうした「資産の流動性そのもの」までも社会悪だと指摘しかねない不合理な経済道徳には、賛成できない。


「現行税制の不備を議論して、改善したり、修正したりしていくこと」と、「儲けることそのものについての是非を大上段に問うこと」は、まったく別問題なのだ。そのことを、あたらめて指摘しておきたい。

たとえ「資本収益率が経済成長率より大きいことが多い」といっても、その「収益」を、「税」や「雇用」などという形で、社会の秩序維持や経済発展に還流させていく「仕組み」は、どんな国でも長い歴史的の中でつちかってきている。
「社会が、資本収益のうち、どの程度のパーセンテージを回収するか」は、各国それぞれが、それぞれの時代の課題に応じて決めてきた政策的な選択であり、必ずしも「道徳」が決定してきたのではない。また、たとえ「高いパーセンテージでの回収を実施できる社会の仕組み」を新たに作ってみたからといって、それが経済発展につながるわけでも、また、財政破綻を避ける特効薬になるわけでもないことは、近代の歴史がとっくに証明したことでもある。


Adam SmithMax Weberアダム・スミスが1759年に『道徳感情論』を出版していたり、20世紀初頭にマックス・ウェーバーが書いた名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』からもわかるように、近世の経済の礎が道徳や倫理の問題を避けて通ることなく、むしろそれらについての議論を基礎に築かれてきたのは、まぎれもない事実だ。
だが、ピケティが著作にこっそりしのびこませようとした道徳はあくまで個人的な感傷レベルのものでしかない。後に『国富論』で近代経済学の父となったアダム・スミスや、倫理と経済行為との間の独特の繋がりを明快に著述してみせたウェーバーの偉大な足跡を継ぐものとは、まったく思えない。


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