August 07, 2015
二段モーションのピッチャーが、地方大会では見過ごしてもらえたのに、全国大会では何度も注意を受けた、というニュースを見たが、当然のことだ。なんでこんな当たり前のことがニュースになるのか、さっぱりわからない。
二段モーション禁止が「ルール」なのだから、注意されるのが当たり前というものだろうに。ルールの統一も、へったくれもない。
2020東京オリンピックのエンブレム問題もそうなのだが、こういう「ローカルで許されていた行為が、パブリックな場所に出てみたら、それが「許されないこと」なのがわかること」は、数多くある。
例えばエンブレム問題でいうと、「日本国内向けの仕事における、海外広告作品からのパクリ行為」は日本のデザイン業界内ではきわめて公然と、やって当たり前の行為のように行われているわけだが、それが世界向けの仕事となると、初めて、それが「許されない行為」であることに気づき、日本人デザイナーのオリジナリティの無さがバレたりする。
「田舎の交通ルールの酷さ」も同じだ。
田舎の世界観は、なんでもかんでも「クルマ中心」だ。
だから田舎のドライバーの頭の中は「勘違いだらけ」であり、一時停止なんてしなくていい、停止線なんか関係ない、右折だろうと左折だろうと好きなタイミングで曲がっても許される、必要なら歩道に駐車してもいい、などと、自分勝手に思いこんでいて、実際そういう危険な行為をところ構わずやっている。
(田舎では税収を増やしたいがための目的で、子供を増やそうだの、子供の笑顔があふれる町づくりだのとタテマエを言うわけだが、その割に、子供が重大な交通事故に巻き込まれる原因のひとつである「田舎の交通マナーの酷さ」はいつも放置されている)
だが「大都市」で(東京でもニューヨークでも、どこでもいいが)そういうマナーに欠けた運転をしていたら、どうだろう。あっという間に違反が積み重なって、免許などすぐ無くなってしまう。
なぜなら、都市の交通ルールは、田舎のルールとは違うからだ。
例えば、都市で横断歩道を渡ろうとしている人がいたら、クルマは右折だろうが左折だろうが関係なく100パーセント待たなくてはならない。田舎のように「人の通行をさえぎってでもスキをみて強引に曲がる」などという馬鹿な行為は許されない。
他にも、電車の切符を買うとき、エスカレーターに乗るとき、「都市には田舎にはない都市特有のルール」がある。
つまり、「人の移動に関するルール」は、都市に非常に多いのである。
理由? 簡単だ。
都市は「人が密集している場所」だからだ。
かつて5000人ものランナーが主催者の不手際でスタートできなかった富士山マラソンのずさんさについての記事でも書いたことだが、都市では「人のスムーズな移動が常に確保されていること」が、他のなによりも大事な優先事項なのであり、都市では「人の移動を妨げる行為」を「社会的に迷惑な行為」であるとみなす「都市特有のルール」が成立している。
したがって、クルマは「人の移動を妨げること」は許されない。
参考記事:2013年1月27日、マラソンブームに便乗した、あまりにもずさんな「富士山マラソン」から、「日本の新しい景観美」に至る、長い道のり。 | Damejima's HARDBALL
それは道徳によって決まるルールではない。
多くの人が集まって生きている都市特有の掟(おきて)なのだ。
「人の移動に関する都市特有の掟」は、他にもある。
例えば、切符の買い方がわからないクセに行列の先頭で係員に質問もせずオロオロしている田舎の人は、後ろから「何してんだバカヤロー」と怒鳴られてもしかたがない。それがお年寄りだろうと、子供だろうと、そんなこと関係ない。たとえカラダが不自由であっても、だからといってレストランに無理な注文をつけて「俺を抱きかかえて店内に入れろ」などとゴネたりする馬鹿げた迷惑行為は許されない。慣れない人が地下鉄に乗って出入り口付近に突っ立って、他人がドアから降りるのを邪魔するのも、ご法度だし、人が移動するためにある地下街の通路でベビーカー並べた主婦が立ち話、なんてのも許されない。
簡単にいうなら都市では、立ち止ってもらっては困る場所で、ヒトは勝手に立ち止まってはいけないのだ。それは急かしているのでもなければ、世知辛いのでもない。
考えてみると、田舎の人はやたらと「公共のルール」を決めたがるが、不思議なことに、その一方で、同時に「公共的な場所の決め事なんてものは、自分の好き勝手なタイミングや、自分の都合で破ってもかまわないものだ」と、勝手に決めつけてもいる。
ルールを守るかどうかは、要するに「自分の気分次第」なのだ。
話が飛びすぎたが(笑)、二段モーションのルールをもっと厳密にしろ、なんて話をするがいるかもしれないが、ルールさえ決めれば二段モーションがなくなるとでも思っているのだろうか。
ルールをたくさん作っては、それと並行してルールをなし崩しに破るのが得意なのが、田舎の人特有のメンタリティというものなのであって、いくら二段モーションのルールを全国的にとり決めたところで、地方大会の人の目を盗んで行われる狡賢い(ずるがしこい)二段モーションという行為は、なくなったりしないだろう。
よく「都市は非人間的だ」なんていう間違ったことを、よく考えもせずに言い切って、それがヒューマニズムだなどと勘違いして鼻高々になっている人がいるわけだが、その考えは根本からして間違っている。
人が密集している都市だからこそ、「ヒトに沿ったルール」が成立しているのである。
勘違いしている人が多いが、「街の掟(おきて)において、人間くさい」のは、田畑とクルマとご都合主義が中心で、ルールがルールとして自立しておらず、ヒトへの配慮がまるで足りない田舎ではなく、「人が密集し、ヒトのマナーの集積によってヒトのためのルールができていて、ルールがルールとして自立していて、なおかつ、ルールがヒトをきちんと拘束できてもいる「都市」のほうなのだ。
二段モーション禁止が「ルール」なのだから、注意されるのが当たり前というものだろうに。ルールの統一も、へったくれもない。
2020東京オリンピックのエンブレム問題もそうなのだが、こういう「ローカルで許されていた行為が、パブリックな場所に出てみたら、それが「許されないこと」なのがわかること」は、数多くある。
例えばエンブレム問題でいうと、「日本国内向けの仕事における、海外広告作品からのパクリ行為」は日本のデザイン業界内ではきわめて公然と、やって当たり前の行為のように行われているわけだが、それが世界向けの仕事となると、初めて、それが「許されない行為」であることに気づき、日本人デザイナーのオリジナリティの無さがバレたりする。
「田舎の交通ルールの酷さ」も同じだ。
田舎の世界観は、なんでもかんでも「クルマ中心」だ。
だから田舎のドライバーの頭の中は「勘違いだらけ」であり、一時停止なんてしなくていい、停止線なんか関係ない、右折だろうと左折だろうと好きなタイミングで曲がっても許される、必要なら歩道に駐車してもいい、などと、自分勝手に思いこんでいて、実際そういう危険な行為をところ構わずやっている。
(田舎では税収を増やしたいがための目的で、子供を増やそうだの、子供の笑顔があふれる町づくりだのとタテマエを言うわけだが、その割に、子供が重大な交通事故に巻き込まれる原因のひとつである「田舎の交通マナーの酷さ」はいつも放置されている)
だが「大都市」で(東京でもニューヨークでも、どこでもいいが)そういうマナーに欠けた運転をしていたら、どうだろう。あっという間に違反が積み重なって、免許などすぐ無くなってしまう。
なぜなら、都市の交通ルールは、田舎のルールとは違うからだ。
例えば、都市で横断歩道を渡ろうとしている人がいたら、クルマは右折だろうが左折だろうが関係なく100パーセント待たなくてはならない。田舎のように「人の通行をさえぎってでもスキをみて強引に曲がる」などという馬鹿な行為は許されない。
他にも、電車の切符を買うとき、エスカレーターに乗るとき、「都市には田舎にはない都市特有のルール」がある。
つまり、「人の移動に関するルール」は、都市に非常に多いのである。
理由? 簡単だ。
都市は「人が密集している場所」だからだ。
かつて5000人ものランナーが主催者の不手際でスタートできなかった富士山マラソンのずさんさについての記事でも書いたことだが、都市では「人のスムーズな移動が常に確保されていること」が、他のなによりも大事な優先事項なのであり、都市では「人の移動を妨げる行為」を「社会的に迷惑な行為」であるとみなす「都市特有のルール」が成立している。
したがって、クルマは「人の移動を妨げること」は許されない。
参考記事:2013年1月27日、マラソンブームに便乗した、あまりにもずさんな「富士山マラソン」から、「日本の新しい景観美」に至る、長い道のり。 | Damejima's HARDBALL
それは道徳によって決まるルールではない。
多くの人が集まって生きている都市特有の掟(おきて)なのだ。
「人の移動に関する都市特有の掟」は、他にもある。
例えば、切符の買い方がわからないクセに行列の先頭で係員に質問もせずオロオロしている田舎の人は、後ろから「何してんだバカヤロー」と怒鳴られてもしかたがない。それがお年寄りだろうと、子供だろうと、そんなこと関係ない。たとえカラダが不自由であっても、だからといってレストランに無理な注文をつけて「俺を抱きかかえて店内に入れろ」などとゴネたりする馬鹿げた迷惑行為は許されない。慣れない人が地下鉄に乗って出入り口付近に突っ立って、他人がドアから降りるのを邪魔するのも、ご法度だし、人が移動するためにある地下街の通路でベビーカー並べた主婦が立ち話、なんてのも許されない。
簡単にいうなら都市では、立ち止ってもらっては困る場所で、ヒトは勝手に立ち止まってはいけないのだ。それは急かしているのでもなければ、世知辛いのでもない。
考えてみると、田舎の人はやたらと「公共のルール」を決めたがるが、不思議なことに、その一方で、同時に「公共的な場所の決め事なんてものは、自分の好き勝手なタイミングや、自分の都合で破ってもかまわないものだ」と、勝手に決めつけてもいる。
ルールを守るかどうかは、要するに「自分の気分次第」なのだ。
話が飛びすぎたが(笑)、二段モーションのルールをもっと厳密にしろ、なんて話をするがいるかもしれないが、ルールさえ決めれば二段モーションがなくなるとでも思っているのだろうか。
ルールをたくさん作っては、それと並行してルールをなし崩しに破るのが得意なのが、田舎の人特有のメンタリティというものなのであって、いくら二段モーションのルールを全国的にとり決めたところで、地方大会の人の目を盗んで行われる狡賢い(ずるがしこい)二段モーションという行為は、なくなったりしないだろう。
よく「都市は非人間的だ」なんていう間違ったことを、よく考えもせずに言い切って、それがヒューマニズムだなどと勘違いして鼻高々になっている人がいるわけだが、その考えは根本からして間違っている。
人が密集している都市だからこそ、「ヒトに沿ったルール」が成立しているのである。
勘違いしている人が多いが、「街の掟(おきて)において、人間くさい」のは、田畑とクルマとご都合主義が中心で、ルールがルールとして自立しておらず、ヒトへの配慮がまるで足りない田舎ではなく、「人が密集し、ヒトのマナーの集積によってヒトのためのルールができていて、ルールがルールとして自立していて、なおかつ、ルールがヒトをきちんと拘束できてもいる「都市」のほうなのだ。