November 20, 2016

ニューヨーク(もちろん民主党の地盤のひとつ)のブロードウェイで人気ミュージカルを観るためにとある劇場を訪れていた共和党次期副大統領マイク・ペンス氏に、出演者がカーテンコールでペンス氏を名指しして政治的メッセージを読み上げるという「事件」が起きた。

次期大統領ドナルド・トランプ氏がスピーディーに「謝罪せよ」と非難したが、自分とトランプ氏の「謝罪を求める理由」が同じであるかどうかは別にして、ブログ主もそのミュージカル出演者は謝罪すべきだと考える。また、もしその人物が謝罪しなければ、劇場側が舞台から降ろすことも考慮すべきだとも考える。
かつてリンカーンは劇場で観劇中に射殺されたわけだが、たとえそれが「言葉という銃弾」であったとしても、「不意打ち」を食らわせるような行為が許されるとは、自分は思わない。


理由は2つある。

ひとつは、オリンピックにおいて、「五輪を政治主張に利用してはならない」と五輪憲章に定められているのと、まったく同じ理由だ。

2つ目は、「オフで劇場に来ている人に対して、無礼きわまりない行為」だからだ。


2012年ロンドン五輪の男子サッカーで、韓国の選手が竹島の領有権に関するプラカードを掲げた五輪憲章違反プラカード事件があった。
五輪憲章は明確にオリンピックの政治利用を禁止している。この事件は、五輪憲章違反そのものであり、また、スポーツの政治利用でもあった。

2012年ロンドン五輪における韓国の五輪憲章違反

中国は、この韓国の五輪憲章違反プラカード事件と同時に、日本の領土である尖閣諸島に不法上陸を強行する事件を起こし、これら2国はその後も「連携」して意図的に日本を挑発し続けた。
韓国と中国がこうした無礼な態度をあらわにした後、これらの国に対する日本人における好感度はゼロになり、外交関係が冷え切ることになったわけだが、それは連携して無礼な行為を強行し続けているこれら2国の責任にほかならない。


第二次大戦後、長年にわたって日本固有の領土である竹島を不法に占拠している韓国の人間が、あえて竹島の領有権を主張したいならば、それはそれで、さまざまな手段がある。
韓国政府が国際機関での領土調停を行うよう求める運動を始めようが、韓国国内でチラシをまこうが、自国の新聞に意見広告を出そうが、ブログを書いて国内の民意に同調を求めようが、サッカー選手から政治家に転身しようが、大統領選挙に立候補しようが、好きにすればいい。それは「自由」だ。
そして、他の人間には、そういう行為を無視する権利や、批判する権利が確保される。(ただし、「第三国での世論操作」、例えばアメリカ国内での新聞広告や銅像の建立などは、モラルの欠片もない無礼きわまりない行為だ)

だが、オリンピックを政治的に利用する「自由」は、地球上の誰にもない。オリンピックのスポーツを見ようと思っているだけの人に、自分の政治主張を無理矢理押し付ける権利は、誰にもない。


それと同じことで、ペンス氏のオフタイムを台無しにしたミュージカル出演者がもし政治的な主張をしたいのならば、アメリカの街頭でチラシまこうが、ニューヨークタイムズに意見広告を出そうが、ブログ書こうが、政治家に転身しようが、アメリカ大統領に立候補しようが、どれもこれも可能だから、好きなようにすればいい。

だが、劇場という場所は、違う。
そういうことをするための場所ではない。

もしミュージカル出演者が、政治的な主張をアーティストとして作品を通じて行いたいというのなら、他に方法はいくらでもある。
演出家にでもなるか、自分で脚本でも書いて、売り込んで、スポンサーを説得して、そういう主張をするミュージカルでも、芝居でも、映画でも、好きなようにやればいいのである。
他の人間には、そういう作品を酷評する自由と権利、そういう作品を見ないで無視する自由と権利が確保される。
だから作る側、見る側、お互いが自由でいられる。


だが、劇場は違う
そういうことをするための場所ではない。

劇場は「密閉された空間」なのであり、演目は「特定の目的」を持っている。そして劇場に来る観客は、カネを払って「特定の目的のために」来場している。

観客には、演目を楽しむ権利、そして、その余韻にひたりながら気分よく帰る権利がある。また一方で、演目にまったく関係のない余計な宣伝行為を耳にして不愉快な気分にさせられるのを拒絶する自由も権利もある。
逆にいえば、演目にまったく関係のない宣伝行為によって観客を不快にさせる自由も権利も、劇場側にはないし、まして出演者にそういう権利が存在するわけがない。

劇場、あるいはスポーツスタジアムに座っていても、いつ「言葉という銃弾」が飛んでくるのかわからない不穏な状態では、マトモな劇場、マトモな娯楽とはいえない。


これまでも何度となくブログにも、ツイッターにも書いてきたことだが、何度でも書こう。
目的は手段を正当化しない
のである。


「目的が正しければ、手段の是非は問われない」という発想こそは、テロという階段の第一歩だ。

「テロ」という言葉の定義は、なかなか難しいところだが、ブログ主に言わせればそれは、「行動の一撃のみによって、自分の存在を世間に示そうとする強引きわまりない示威行動」が「テロ」であって、必ずしも銃や爆弾といった「武器を用いた暴力」とは限らない。


行動の一撃に依存する者たちは、自説の理解者を時間をかけて増やす努力を重ねることもせず、ただただ「行動という一撃」によって、世の中やその時代の多数者に「論理的な一撃」を加え、そのことによって、自己の主張や存在感を誇示しようとする
これが「武器による暴力」と「言葉という銃弾」に共通の、「行動の一撃主義」の発想であり、近代の暴力に普遍的にみられる論理構造そのものだ。

だから、もし「行動による一撃」が「物理的な危害をまったくともなわない、言葉という銃弾」だとしても、その「行動による一撃」をよしとする論理そのものが「ある種の論理的テロリズム」なのである。


近代社会において「自分の意見と、多数者の意見とを、一致させる」ためにできることは、主に「2つ」しかない。

ひとつは、「自分の立場や考え方を、時間をかけて懇切丁寧に説明し、理解者、同調者を少しずつ増やし、自分の側の意見がむしろ多数者となるよう、努力を重ねること」。もうひとつは、「自分の論理の誤りや未熟さを認め、多数者に従うこと」だ。

だが、人が「行動による一撃」にいたる場合、例えば以下のような変遷を経て、「自分は被害者だ」というわけのわからない発想に至ることがある。こうした人間は「地道に理解者を増やす」という基本的な努力をしないくせに、正義の味方ぶりたがる

1)多数者に対する不満がある
2)自分が少数者であり、「被害者」でもあるという「自覚」がある
3)被害者が救済されることが、社会正義だと「確信」している
3)自分の「主張」が絶対的に正しいという「自負」がある
4)自分が「劣勢」に立っているという「苛立ち」がある
5)正しいはずの自分の主張が認められず、ますます肩身が狭くなっているのは、世の中のほうがおかしいからだ、という「怒り」がある
6)大多数の人が間違った方向に進んでいていることで、世の中が非常に危険な状態になってきていると「警告」を発したい気持ちが昂る
7)警告のためにも、せめて行動によって「一撃」を加える必要があると感じはじめる
8)実際に「行動」して、世間に自分の存在を「行動の一撃」という形で示す
9)その「行動」が「加害者」として扱われたら、自分は「むしろ被害者だ」と、逆ギレした説明をして、被害者ぶる


ひどく乱暴で自己中心的なヒロイズムにすぎないこうした論理展開には、自分を正当化するヘリクツが散りばめられている。

「近代国家において多数者になるための方法」は、こういうヒロイズムに浸りながら「行動の一撃」を実行することではなく、自分の主張を他人に説明し、広く理解を得て、理解者を増やしていくこと以外にない。
「多数者が間違っていて、自分が正しい」、「世の中を正しい方向に引き戻したい」、ゆえに、「行動によって一撃を加える」、「目的が正しいのだから、手段は何であろうと、結果は正当化される」などと、自分の内部だけで妄念を次々と飛躍させていく行為は、まったくもって間違っている。


政治的な主張をしたければ、今の時代、いくらでも方法がある。スポーツスタジアムや劇場を政治利用すべきではない。劇場を利用した俳優は、自分の身勝手な行為が「劇場という場所が長年努力して築きあげてきた自由」をむしろ損なった、と考えるべきだ。

ブログ主は、もし仮にMLBのゲームで、投手がマウンドで自分の政治的主張を主張するプラカードとかを広げた、なんて事件が起きたら、その選手を出場停止処分にすべき、と考える。観客が同様の行為をテレビカメラに向かってやった場合も同じだ。スタジアム出入り禁止にすべきである。

娯楽の場所は、討論のための場所ではない。政治は別の場所でやればいい。

スタジアムであれ劇場であれ、場所には場所のモラルやポリシーがある。その程度の簡単なルールすら守ろうとしない無礼さは、場所の威厳や統一性を著しく壊し、無意味な賛否の議論こそが人を分断に導く。

無頓着に「場所のモラル」の破壊を行う人間に「分断」を語る資格などない。分断を招くのは、たいていの場合、意見の相違ではない。意見の相違なんてものは、いつの時代にもある。
むしろ分断の責任は、ロンドン五輪の男子サッカーがそうであったように、あえて挑発に出て「行動の一撃」を強行する側にある。ひとつの国の内部に無法状態や冷えきった対立をまねきいれる行為に重い責任が問われるのは当然のことだ。


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