November 08, 2017
何を表現すべきか、それすら、よくわからない。まさかチェイス・アトリーについて書いた数日後にこんなことが起きるとは思ってもみなかった。
大投手ロイ・ハラデイ、飛行機事故で逝去。享年40歳。
2010年に以下の記事を書いた。
2010年10月21日、ちょっと心配になるロイ・ハラデイの「ひじ」と、「アンパイアのコール」。今日の球審は、今年8月、これまで一度も退場になったことのないニック・マーケイキスと、監督バック・ショーウォルターを退場にしたJeff Nelson。 | Damejima's HARDBALL
ハラデイのフォームに違和感を感じて書いた記事ではあるが、正直いって、当時ハラデイの身体が「壊れている」とまで感じたわけではなくて、ちょっとヒジの調子がよくないのかな、と思った程度だった。
実際、この年ハラデイは、21勝して最多勝を手にし、完全試合と、ポストシーズン初戦のノーヒット・ノーランまで達成して、2度目のサイ・ヤング賞投手にもなったのだから、大投手ハラデイの「全盛期」はまだまだ「長い」、と思えた。
2010年10月6日、長年の念願をかなえポスト・シーズン初登板のロイ・ハラデイが、いきなりノーヒット・ノーラン達成! | Damejima's HARDBALL
彼の真骨頂は、短く言えば
「球数の少なさ」にある。
球数が少ない中でバッターをうちとれれば、「長いイニング」を投げられる。当然だ。だが、球数を減らすには、「ストライクを投げ続ける勇気」のほかに「バッターに振らせる才能」がなければならない。
ただ、振らせて、マトモにバットの芯で打たれるのでは、困る。芯を食わないためには、「いかにも打てそうな、だが、実際には打ちにくい球」を投げ続けなければならない。当然ながら、「コントロール」がよく、「変化球がキレて」いなくては、話にならない。
ノーヒットノーランを達成した2010NLDSのシンシナティ戦も、わずか104球での達成だ。ひとりあたり3.85球と、ひとりあたり4球以下でバッター27人を仕留めたことになる。まさにハラデイの面目躍如となった歴史的なゲームだった。
このブログに1000以上書いてきた記事の中で、自分が常に「これを読んでもらいたいと思っている記事」のひとつが、これだ。フィラデルフィアに移籍する直前、トロント時代のデイヴィッド・オルティーズに対する投球について書いたものだが、本当に効果的に考えぬかれた配球だと今でも思う。
メジャーと日本の配球論の差異から考える「城島問題」 『damejimaノート』 序論:2009年9月30日、大投手ハラデイの「配球芸術」を鑑賞しながら考える日米の配球の違い | Damejima's HARDBALL
分析が大流行の時代ではある。
では、その「分析」とやらがあらゆるバッターに通用するか、というと、アーロン・ジャッジ程度のバッターにホームランを50本も打たれるのだから、そうでもない。なぜって、いくら打者の攻略方法が分析でわかったとしても、「思ったとおりに投げられる能力」がない投手ばかりなら、分析結果が役に立たないからだ。
誓ってもいいが、もしハラデイと対戦していたら、アーロン・ジャッジ程度の弱点のわかりきっているバッターは三振を繰り返して手も足も出ない。
あれほど輝かしい2010年を経験したハラデイだったが、その後数年で引退した。思えば2010年はキャリアのハイライトだったわけだ。引退直前のハラデイについて、マイケル・ヤングがこんなことを弔意とともに語ってくれている。
痛々しすぎる。
読むのが辛かった。
親友の突然の死にあたって、普通なら、その人の生前の「最盛期」のことを「英雄的に」語ったりするものだ、と、われわれは思いがちだ。
だが、よく考えれば、最盛期だけ語って悲しむような「うわべの行為」は、実は、その人のことをメディアを通してしか知らない、「疎遠な人」のやることだ。マイケル・ヤングはそうはしなかった。
マイケル・ヤングは、よくあるRIPというような省略語ではなく、彼自身の言葉と経験で、「ロイ・ハラデイが、引退するシーズンの最後の最後まで、自分が『ロイ・ハラデイであり続けよう』と必死に頑張っていたこと」を静かに語ってくれた。
今はもう、ロイ・ハラデイはこの世にいない。
ロイ・ハラデイは、「大投手ロイ・ハラデイ」として、その野球キャリアとともに名誉ある短い人生を終えたからだ。
大投手、ロイ・ハラデイ。
野球とともに生きた40年間だった。
大投手ロイ・ハラデイ、飛行機事故で逝去。享年40歳。
2010年に以下の記事を書いた。
2010年10月21日、ちょっと心配になるロイ・ハラデイの「ひじ」と、「アンパイアのコール」。今日の球審は、今年8月、これまで一度も退場になったことのないニック・マーケイキスと、監督バック・ショーウォルターを退場にしたJeff Nelson。 | Damejima's HARDBALL
ハラデイのフォームに違和感を感じて書いた記事ではあるが、正直いって、当時ハラデイの身体が「壊れている」とまで感じたわけではなくて、ちょっとヒジの調子がよくないのかな、と思った程度だった。
実際、この年ハラデイは、21勝して最多勝を手にし、完全試合と、ポストシーズン初戦のノーヒット・ノーランまで達成して、2度目のサイ・ヤング賞投手にもなったのだから、大投手ハラデイの「全盛期」はまだまだ「長い」、と思えた。
2010年10月6日、長年の念願をかなえポスト・シーズン初登板のロイ・ハラデイが、いきなりノーヒット・ノーラン達成! | Damejima's HARDBALL
彼の真骨頂は、短く言えば
「球数の少なさ」にある。
「1球はずしておいて、勝負」などというのは、「たとえ」として言えば、手数の多すぎる寿司職人と同じだ。7手で握れるのと、9手では、熟練の度合いがまるで違う。「1球はずして」なんていう発想があるうちは、超一流なんて言えないことを教えてくれたのが、ロイ・ハラデイだった。
— damejima (@damejima) 2017年11月8日
球数が少ない中でバッターをうちとれれば、「長いイニング」を投げられる。当然だ。だが、球数を減らすには、「ストライクを投げ続ける勇気」のほかに「バッターに振らせる才能」がなければならない。
ただ、振らせて、マトモにバットの芯で打たれるのでは、困る。芯を食わないためには、「いかにも打てそうな、だが、実際には打ちにくい球」を投げ続けなければならない。当然ながら、「コントロール」がよく、「変化球がキレて」いなくては、話にならない。
ノーヒットノーランを達成した2010NLDSのシンシナティ戦も、わずか104球での達成だ。ひとりあたり3.85球と、ひとりあたり4球以下でバッター27人を仕留めたことになる。まさにハラデイの面目躍如となった歴史的なゲームだった。
このブログに1000以上書いてきた記事の中で、自分が常に「これを読んでもらいたいと思っている記事」のひとつが、これだ。フィラデルフィアに移籍する直前、トロント時代のデイヴィッド・オルティーズに対する投球について書いたものだが、本当に効果的に考えぬかれた配球だと今でも思う。
メジャーと日本の配球論の差異から考える「城島問題」 『damejimaノート』 序論:2009年9月30日、大投手ハラデイの「配球芸術」を鑑賞しながら考える日米の配球の違い | Damejima's HARDBALL
自分が思う、これこそが「ロイ・ハラデイ」と思った投球。対戦相手はオルティーズ。(https://t.co/ZfQzzdlF51 より)外のチェンジアップ、内のカットボール、そして、インローにカーブ。「芸術」としか、言いようがない。形容する言葉がない。 pic.twitter.com/Ba9lKyxKtD
— damejima (@damejima) 2017年11月8日
分析が大流行の時代ではある。
では、その「分析」とやらがあらゆるバッターに通用するか、というと、アーロン・ジャッジ程度のバッターにホームランを50本も打たれるのだから、そうでもない。なぜって、いくら打者の攻略方法が分析でわかったとしても、「思ったとおりに投げられる能力」がない投手ばかりなら、分析結果が役に立たないからだ。
誓ってもいいが、もしハラデイと対戦していたら、アーロン・ジャッジ程度の弱点のわかりきっているバッターは三振を繰り返して手も足も出ない。
あれほど輝かしい2010年を経験したハラデイだったが、その後数年で引退した。思えば2010年はキャリアのハイライトだったわけだ。引退直前のハラデイについて、マイケル・ヤングがこんなことを弔意とともに語ってくれている。
I’ll never forget Aug ‘13. Doc and I were two months away from retirement. He was hurt, clearly. He was still pitching tho. One day in Wrigley he was throwing 83, and all over the place. I go to the mound and he just said “everything hurts.”
— Michael Young (@MikeyY626) 2017年11月7日
He wouldnt come out. Always fighting.
「あれは忘れもしない(2013年の)8月13日。ドクと僕は引退を2ヶ月後に控えてた。彼は明らかに怪我してたが、まだ投げていた。ある日、彼はリグレイ・フィールドで83球投げ、自分をコントロールする力を失ってた。マウンドに行ったら、彼は「どこもかしこも痛む」とだけ言った。でもマウンドは降りなかった。彼はいつもそうやって戦ってたんだ。」
痛々しすぎる。
読むのが辛かった。
親友の突然の死にあたって、普通なら、その人の生前の「最盛期」のことを「英雄的に」語ったりするものだ、と、われわれは思いがちだ。
だが、よく考えれば、最盛期だけ語って悲しむような「うわべの行為」は、実は、その人のことをメディアを通してしか知らない、「疎遠な人」のやることだ。マイケル・ヤングはそうはしなかった。
マイケル・ヤングは、よくあるRIPというような省略語ではなく、彼自身の言葉と経験で、「ロイ・ハラデイが、引退するシーズンの最後の最後まで、自分が『ロイ・ハラデイであり続けよう』と必死に頑張っていたこと」を静かに語ってくれた。
今はもう、ロイ・ハラデイはこの世にいない。
ロイ・ハラデイは、「大投手ロイ・ハラデイ」として、その野球キャリアとともに名誉ある短い人生を終えたからだ。
大投手、ロイ・ハラデイ。
野球とともに生きた40年間だった。
「彼は『すべてのチカラが尽きるまで投げた』んだよ」と、マイケル・ヤングはいうわけ。「すべて」だよ、すべて。すべてをメジャーのマウンドで投げつくして、もうダメだってとこまで投げて、引退した。
— damejima (@damejima) 2017年11月8日
野球とともにあった人生。ロイ・ハラデイ。