December 31, 2017
最初に結論を書いておこう。
こうハッキリ書くと必ず、「何を言うか。自由は誰にでも与えられているべき無料の権利だ。」などと、教科書みたいなことを言いたがる人間がいることだろう(笑)どこで誰に教えこまれたのか知らないが、自分のアタマで考えない人間に限って、そういう安易なヒューマニズムで描いた絵空事を主張したがる。
近代という時代は、「中世の価値観を払拭して、新たな価値を築くことに必死になった時代」であり、新たな価値感の創設こそ、他のなににもかえがたい、偉業の中の偉業ともてはやされた時代だった。
「自由」も、実は、「近代に創設された価値のひとつ」であり、音楽や絵画、小説などの芸術作品から、精神分析、経済理論、社会学、共産主義にいたるまで、「価格や価値による支配から、人間を解放すると息巻く主張」は、近代に掃いて捨てるほど数多く現れた。また、この耳ざわりのいい「自由」という言葉を、多くの人から共感をかちとる、ただそれだけの目的で利用する人間も多数登場した。
「自由ついての議論」は、近代に最も熱心に議論され、最も重要な問題のひとつだが、では、その議論が明晰で正しいものだったか、というと、実は、まったくそうではない。
むしろ、「自由についての議論」の大半は、実は、そのほとんどが「ぼやけた、緩慢な議論」ばかりであり、そもそも議論の中心が最初からズレてもいる。
例えば多くの人は、自由という問題の核心が、「いかにすれば全員に無料で自由を保障できるか」などという、「無料の自由の実現」にあるのではないというような、議論のポイントをきちんと教えられてはこなかった。
そのため多くの人はいまだに、「自由という言葉はとても耳ざわりがいい。自由というからには、『無料』に違いない。自由はタダであり、タダであるべきものだ」などと、自分勝手に思い込んでいる。
だが、そうした「自由に価格があるべきではない」などという話は、論理的なものではない。むしろ、単なるエスカレートした思い込み、夢物語、生半可な正義感にすぎない。
そして、そうした「生半可な正義感」こそが近代の歴史において非常に多くの間違いを引き起こしてきたにもかかわらず、その一方で「自由は無料であるべき」という主張こそが真にラディカルな態度だ、などと、間違った評価が非常に数多くなされてきた。
例をあげて考えてみる。
たしかに世界には教育や医療が無料の国がある。
では、それらは「個人が価格から自由になれた例」のひとつだろうか。
まったく違う。
教育や医療といったサービスの無料化は、サービスのコストを「個人が負担する」かわりに、「国家の負担」、あるいは、国債という形で「将来の国民の負担」にきり変えた、ただそれだけのことにすぎない。
そうした手法が可能なのは、例えば国家に石油のような「特別に利潤の大きい収入源」が確保されている場合や、赤字国債発行によって税収不足を長期的にまかなっても破綻しないでいられる財政状態の国のみに限られる。
(発展途上国で、急激すぎる自由へのチャレンジが、むしろ長期独裁へのトリガーを引いてしまう例は多々ある。それは、なんの財政的支柱もなく、収入源が確保されてもいないのに、民衆へのサービスの急激な拡大に一気に踏み出してしまうことによって、国家財政の破綻と経済の大混乱をまねき、その混乱鎮圧を名目に独裁が開始されることに、原因のひとつがある。つまり「安易なヒューマニズムが独裁を手招きする」のである)
さらに言えば、教育費や医療費が「国家の負担」にきりかわった社会システムにおいては、個人はもはや何も負担しないで済むのか。
これも違う。
たとえ教育費や医療費が「見た目だけ無料」になっても、その維持には「財源」が必要であり、石油産出国ででもない限り、財源は「個人や企業が負担する税」だ。
言い換えれば、教育や医療の無料化は、正確にいえば、サービス維持コストの徴収方法が、直接徴収から間接徴収に変わるだけにすぎないのである。たとえ教育や医療を直接負担しなくなったとしても、個人は間接的に「税という形のコスト」を支払わなければならない。
そして、悪いことに、教育や医療が無料になれば、決まって経営の効率やスキルの低下、社会のモラルの低下が起こり、社会における「コネの影響力」は著しく強いものになり、汚職や賄賂といった犯罪が蔓延することが避けられない。こうした効率悪化やコネの悪影響が蔓延した社会においては、当然ながら税率は本来の負担割合より「ムダに高く」設定しなければ社会のサービスシステムが維持できない。
そして、サービス無料化の実現は、国家機関に権力を集約させることも意味する。
日本も含め民主的なシステムのトレーニングを長年受けてきた国ならともかく、例えば中国のインターネット統制や南北朝鮮の無責任さを見ればわかることだが、民主的なシステムが未発達な国では、往々にして権力の集中を維持するために個人の自由が犠牲になる。
つまり、強い国家集権的システムのもとでは、個人は、単に高額な税を負担させられるだけではなくて、「ある意味のシステム維持コストとして、『あたかも税金を徴収するように、個人の自由を国家に徴収されてしまう』」ことになる。
趣味。健康。財産。移動。主張。レジャー。恋愛。「自由」といわれても、何を思い浮かべるかは、ひとりひとり、かなり違うはずだ。だが、気をつけてもらいたい。そのうち、どのひとつをとってみても、「無料なもの」、「タダで維持できそうなもの」など、無いのだ。
そう言い切る根拠は簡単だ。むつかしくない。
「時間」という無形の存在が「宇宙の発生」以来ずっと特別な存在であり、あらゆるモノが時間と切り離して思考することができないのと同じように、「近代の発生」とともに生産され続けてきた「価値意識」である「自由」には、「もともと近代という時代の最大の特徴のひとつである『価格』が、不可分の存在として付随している」のである。
(ちなみにそれは、カネさえあれば人は自由だ、とか、カネがあってもヒトは自由にはなれない、とか、そういうアホなヘリクツとは無関係であり、また、自由さえ得れば近代という時代から自分だけ抜け出せるわけでもない)
なぜ近代の人間が「安易なヒューマニズム」を振り回すに至ったか。
それは「自由と価格の不可分な関係」を、あえて無視しようとする、あるいは、知らないために起こる。
安易なヒューマニズム、無意味なくせに耳ざわりだけがいい軽い主張に耳を貸すべきではない。そういう雲をつかむような主張をして、それだけで生きているようにみせかけている人間にはたいてい隠しておきたい収入源があるものだ。
自由がタダで手に入る社会を夢みる、なんてことを出発点にした議論などに、もはや何の意味もない。
自由にはもともと「価格」がある。
このことを出発点にすべきだ。
こうハッキリ書くと必ず、「何を言うか。自由は誰にでも与えられているべき無料の権利だ。」などと、教科書みたいなことを言いたがる人間がいることだろう(笑)どこで誰に教えこまれたのか知らないが、自分のアタマで考えない人間に限って、そういう安易なヒューマニズムで描いた絵空事を主張したがる。
近代という時代は、「中世の価値観を払拭して、新たな価値を築くことに必死になった時代」であり、新たな価値感の創設こそ、他のなににもかえがたい、偉業の中の偉業ともてはやされた時代だった。
「自由」も、実は、「近代に創設された価値のひとつ」であり、音楽や絵画、小説などの芸術作品から、精神分析、経済理論、社会学、共産主義にいたるまで、「価格や価値による支配から、人間を解放すると息巻く主張」は、近代に掃いて捨てるほど数多く現れた。また、この耳ざわりのいい「自由」という言葉を、多くの人から共感をかちとる、ただそれだけの目的で利用する人間も多数登場した。
「自由ついての議論」は、近代に最も熱心に議論され、最も重要な問題のひとつだが、では、その議論が明晰で正しいものだったか、というと、実は、まったくそうではない。
むしろ、「自由についての議論」の大半は、実は、そのほとんどが「ぼやけた、緩慢な議論」ばかりであり、そもそも議論の中心が最初からズレてもいる。
例えば多くの人は、自由という問題の核心が、「いかにすれば全員に無料で自由を保障できるか」などという、「無料の自由の実現」にあるのではないというような、議論のポイントをきちんと教えられてはこなかった。
そのため多くの人はいまだに、「自由という言葉はとても耳ざわりがいい。自由というからには、『無料』に違いない。自由はタダであり、タダであるべきものだ」などと、自分勝手に思い込んでいる。
だが、そうした「自由に価格があるべきではない」などという話は、論理的なものではない。むしろ、単なるエスカレートした思い込み、夢物語、生半可な正義感にすぎない。
そして、そうした「生半可な正義感」こそが近代の歴史において非常に多くの間違いを引き起こしてきたにもかかわらず、その一方で「自由は無料であるべき」という主張こそが真にラディカルな態度だ、などと、間違った評価が非常に数多くなされてきた。
例をあげて考えてみる。
たしかに世界には教育や医療が無料の国がある。
では、それらは「個人が価格から自由になれた例」のひとつだろうか。
まったく違う。
教育や医療といったサービスの無料化は、サービスのコストを「個人が負担する」かわりに、「国家の負担」、あるいは、国債という形で「将来の国民の負担」にきり変えた、ただそれだけのことにすぎない。
そうした手法が可能なのは、例えば国家に石油のような「特別に利潤の大きい収入源」が確保されている場合や、赤字国債発行によって税収不足を長期的にまかなっても破綻しないでいられる財政状態の国のみに限られる。
(発展途上国で、急激すぎる自由へのチャレンジが、むしろ長期独裁へのトリガーを引いてしまう例は多々ある。それは、なんの財政的支柱もなく、収入源が確保されてもいないのに、民衆へのサービスの急激な拡大に一気に踏み出してしまうことによって、国家財政の破綻と経済の大混乱をまねき、その混乱鎮圧を名目に独裁が開始されることに、原因のひとつがある。つまり「安易なヒューマニズムが独裁を手招きする」のである)
さらに言えば、教育費や医療費が「国家の負担」にきりかわった社会システムにおいては、個人はもはや何も負担しないで済むのか。
これも違う。
たとえ教育費や医療費が「見た目だけ無料」になっても、その維持には「財源」が必要であり、石油産出国ででもない限り、財源は「個人や企業が負担する税」だ。
言い換えれば、教育や医療の無料化は、正確にいえば、サービス維持コストの徴収方法が、直接徴収から間接徴収に変わるだけにすぎないのである。たとえ教育や医療を直接負担しなくなったとしても、個人は間接的に「税という形のコスト」を支払わなければならない。
そして、悪いことに、教育や医療が無料になれば、決まって経営の効率やスキルの低下、社会のモラルの低下が起こり、社会における「コネの影響力」は著しく強いものになり、汚職や賄賂といった犯罪が蔓延することが避けられない。こうした効率悪化やコネの悪影響が蔓延した社会においては、当然ながら税率は本来の負担割合より「ムダに高く」設定しなければ社会のサービスシステムが維持できない。
そして、サービス無料化の実現は、国家機関に権力を集約させることも意味する。
日本も含め民主的なシステムのトレーニングを長年受けてきた国ならともかく、例えば中国のインターネット統制や南北朝鮮の無責任さを見ればわかることだが、民主的なシステムが未発達な国では、往々にして権力の集中を維持するために個人の自由が犠牲になる。
つまり、強い国家集権的システムのもとでは、個人は、単に高額な税を負担させられるだけではなくて、「ある意味のシステム維持コストとして、『あたかも税金を徴収するように、個人の自由を国家に徴収されてしまう』」ことになる。
趣味。健康。財産。移動。主張。レジャー。恋愛。「自由」といわれても、何を思い浮かべるかは、ひとりひとり、かなり違うはずだ。だが、気をつけてもらいたい。そのうち、どのひとつをとってみても、「無料なもの」、「タダで維持できそうなもの」など、無いのだ。
そう言い切る根拠は簡単だ。むつかしくない。
自由というものは、もともと無料化することができないからだ。
「時間」という無形の存在が「宇宙の発生」以来ずっと特別な存在であり、あらゆるモノが時間と切り離して思考することができないのと同じように、「近代の発生」とともに生産され続けてきた「価値意識」である「自由」には、「もともと近代という時代の最大の特徴のひとつである『価格』が、不可分の存在として付随している」のである。
(ちなみにそれは、カネさえあれば人は自由だ、とか、カネがあってもヒトは自由にはなれない、とか、そういうアホなヘリクツとは無関係であり、また、自由さえ得れば近代という時代から自分だけ抜け出せるわけでもない)
なぜ近代の人間が「安易なヒューマニズム」を振り回すに至ったか。
それは「自由と価格の不可分な関係」を、あえて無視しようとする、あるいは、知らないために起こる。
安易なヒューマニズム、無意味なくせに耳ざわりだけがいい軽い主張に耳を貸すべきではない。そういう雲をつかむような主張をして、それだけで生きているようにみせかけている人間にはたいてい隠しておきたい収入源があるものだ。
自由がタダで手に入る社会を夢みる、なんてことを出発点にした議論などに、もはや何の意味もない。