September 27, 2018

落合博満については、何度か記事にしている。

2011年10月18日、落合・中日優勝に見る、「野球ファンが視線を共有する時代」と、マス・メディアの「時代の読めなさぶり」や「限界」。 | Damejima's HARDBALL

2011年11月14日、落合博満の居合。 | Damejima's HARDBALL

当時こんなことを書いた。長い引用をする。

勝ちを求める人は多い。
それはそうだ。
勝てば、褒美がついてくる。

だが、「勝ち方」を愚直に求める人はどうだ。多いか。
いや。多くない。
スティーブ・ジョブズを見てもわかる。自分にしかない道を歩く定めを自分に課して生きる人は、ほんの一握りしかいない。

自分なりの勝ち方を、時間をかけ、手間をかけ、追求し続けることに、どれほどの価値があるのか、誰も確信が持てない。もしかすると無駄に終わるかもしれないことを、誰もがやりたがらない。
勝ち方より、勝ちそのもののほうが価値が高い、高く売れると思い、誰もが日々を暮らしている。

(中略)

「勝ちと勝ち方は似ているが、まったく違う。勝ちを追い求めるより先に、勝ち方を身につけろ」


今読んでも、自画自賛になるが、まったく間違いがない。

だが、就任当初から落合は、理解力のない地元ファンや、プロスポーツをわかっていない親会社の中日新聞のホワイトカラーのアホウによって、やれ生え抜き選手をコーチに使わないだの、なんだのかんだのと、いわれのない批判を受け続けた。


今シーズンかぎりの引退を前にした中日・荒木雅博が、2003年秋季キャンプで落合に受けた「ノック」の苛烈さについて、こんなことを語っている。
(引用元:「僕は野球を二度なめたことがある」中日・荒木雅博、41歳の告白(文春オンライン) - Yahoo!ニュース
それまで中日の特守は約30分。ノック中、時計を見るんですが、30分経っても終わらない。1時間を過ぎても。この辺りから時計を見る余裕がなくなる。汗が出なくなる。思考も停止する。すると、不思議な現象が起きるんです。グラブの音がパンと高くなる。これは無駄のない動きで打球に入って、芯で捕っている証拠。もう動物の本能です。

技術も体力も向上しましたが、一番大きかったのは甘えを削ぎ落としたこと。



たしかに、いい記事ではある。

だが、1点だけ、この記事は「大事なこと」を書きもらしている。
忘れてもらっては困る、非常に大事な点である。

それは、このノックが、「落合が中日の新監督に就任した直後」の2003年10月に行われたという点である。この記事には、落合が「新監督就任直後」に荒木にこういう苛烈な特守を課したことの「意味」が書かれていない。

落合が監督に就任した2003年オフ、中日はロクに補強をしなかった。その理由は荒木のインタビューで明らかだ。落合が「外部からの補強」ではなく、「既存の選手のレベルアップに主眼を置いたから」である。

そして落合は、就任1年目の2004年、チームをいきなりのリーグ優勝に導く。それが偶然ではないことは、荒木のインタビューで明らかだ。さらに2006年優勝、2007年日本一、2010年優勝、2011年球団初のリーグ連覇と、落合中日の黄金時代は続く。


荒木の言葉と、2004年にいきなりリーグ優勝した事実から、落合が中日において成し遂げた「これまで目にみえにくかった巨大な業績」がハッキリする。

2003年以降、落合が中日の監督として成し遂げた業績とは、当時の地元ファンや中日新聞などが期待し、公言もしていた「既に引退している生え抜きのOB選手を、指導能力とは無関係にコーチとして採用する」というような、生ぬるい、将来性の無いことではない。

中日というチームの将来を担う中心選手を、あえて選手に容赦しない外部の人材を使って「内部の選手を鍛えぬくこと」にこだわり、未来に使えるホンモノの人材を量産すること」だったのである。

素質こそあったが、とかく甘えの多かった二流の野球チーム、中日の「贅肉」をとことん削り、毎年のように優勝にからむ一流チームに仕上げたのは、ほかならぬ落合の豪腕である。



浅尾についてだが、「落合中日の黄金期における浅尾の位置」について勘違いしている人が実に多い。

勘違いの例を挙げると、浅尾は最初から落合中日の黄金期の中心にいたわけではない。
例えば、落合中日が初のリーグ優勝を果たして黄金期を歩み始めるのは「2004年」だが、そのとき浅尾はまだ「大学生」で、プロの投手ですらない。浅尾がドラフトで中日に入団したのは「2006年」なのである。
また浅尾はデビュー当時からセットアッパーとして酷使され続けてきたわけではない。浅尾のプロデビューは、落合中日が晴れて日本一になる「2007年」だが、このシーズンの後半に浅尾は肩を痛めており、2007年の優勝に不可欠といえる貢献を果たしたわけではない。
浅尾が「年間通じて活躍できるリーグトップのセットアッパー」という他に類をみない独自の地位を築きはじめたのは、落合中日が3度目のリーグ優勝を果たす2010年以降だが、チーム全体として見ると、2010年には既に中日にはリーグ優勝を毎年争えるだけの投打の戦力は整っていた。


にもかかわらず、浅尾拓也の引退について、「落合が浅尾を潰した」などと、根本的に間違った意見をいまだにネットで公言しているアホウが多数いる。そういう了見の狭い地元ファンと、2004年当時から落合を批判し続けてきた中日新聞のアホウは、いまこそ真剣に落合博満に謝罪すべきだ。


確かに、浅尾は2011年シーズンに79登板して、「セットアッパーにして、最優秀選手」という「野球史に残る偉業」を達成し、ピークを迎えた。そして、それは同時に、落合中日の黄金期のピークでもあった。

だが、「2011年のピーク」に至るまでの間、落合が「選手が潰れるほどの練習」、「選手が潰れるほどのゲーム出場」を課した選手は、なにも荒木や浅尾だけではない。

そうしたハードな経験なくして、やがて引退していくことになる中日の選手たちが得た「日本一経験者」あるいは「日本シリーズ経験者」という「永久に消えない栄光ある業績」、そして、彼らがこれから経験する第二のステージにおける「指導者としての権威」が存在しえたと、ブログ主はまったく思わない。


ファンはチームに日本一になることを期待して、夢を見る。

だが、夢を見るだけで、「方法論」がない。方法論として、どこをどうすると、日本一になれる「本物のチーム」「一流のチーム」ができるのか、それを考え、実行するのは、ファンではない。指導者だ。


ツイッターでも書いたが、「頂点に立つ」ということは、「一度きりしかない人生を、自分の信じた道に賭し、その課程に必ず立ちはだかる激烈な痛みに耐えぬく」ということだ。

「日本一になれ、だが、そっと丁寧に選手を扱え」などという矛盾した戯言(たわごと)は、あらゆるプロスポーツ、ことに中日という甘えたチームにおいては、単なる「おとぎ話」に過ぎない。そのことを忘れてもらっては困る。

落合は、「勝てる選手、勝てるチームになることと引き換え」に、限界を超えて選手を鍛えた。「限界を超えた経験」のない人間は成長しないことがわかっていたからだ。
浅尾についても同じように、落合はゲームにおいて、2011年に79試合も登板させた。もし浅尾がいなかったらあの年の日本シリーズには出られなかっただろう。それは、言い換えるなら浅尾を酷使してでも日本一に出てやる、日本一になるという強い意思がなかったら、チームを日本シリーズに出してやれなかったのである。

落合なくして、日本一なし。そして
浅尾なくして、落合中日のピークなし、である。



誤解されても困るので公言しておけば、ブログ主は死ぬほど浅尾の大ファンだ。落合の監督時代が、日本シリーズどころか、優勝にもまったく縁がない、浅尾の肩も壊れました、というブザマな結果なら、誰よりも先に落合をクソミソに言ったことだろう。

だが、落合は責任を果たした。
浅尾は2011年に、チームとして、そして選手として、「リーグの頂点」にたどり着いている。このことで、このことだけでも、浅尾には十分な報いがあった、そう思いたいのである。


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