March 2012

March 31, 2012

東京スタジアムを本拠地にした大毎オリオンズの元祖「安打製造機」、榎本喜八翁(以下敬称略)が亡くなられた。東京中野区生まれ、75歳。一塁手で、背番号は3。通算安打数2314、通算打率.298。

榎本喜八のバッティングフォーム



榎本喜八は早稲田実業出身で、同じ早実出身の王貞治の4つ先輩にあたる。また2人共通のバッティングの師匠が、やはり早実出身、1953年オリオンズ入団の荒川博だ。だから榎本にとっての荒川は、高校とプロの両方の指導者、ということになる。
また西本幸雄が監督としてリーグ優勝に導いた1958年のオリオンズで、「大毎版ミサイル打線」の控え捕手だった醍醐猛夫も、やはり早実出身。(ちなみに選手として、毎日・大毎・東京・ロッテ、「4つのオリオンズ」全てに在籍したのは、榎本と醍醐の2名のみらしい。ちなみに、荒川博(台東区)、榎本喜八(中野区)、醍醐猛夫(北区)、王貞治(墨田区)と、4人とも東京生まれ。大毎ミサイル打線の柳田利夫、田宮謙次郎、山内和弘、葛城隆雄など他の野手は東京出身者ではない)
入団して数年間のオリオンズは、榎本にとって、さぞかし居心地のいい空気があったに違いない。


榎本喜八が1955年に高卒でオリオンズに入団しプロになれたのは、高校とオリオンズの2年先輩である荒川が、プロ入りを熱望して直訴してくる後輩・榎本の入団テストを行うよう取りはからってくれたから、らしい。(日本のプロ野球でドラフト制度ができるのは、榎本のオリオンズ入団から10年後の1965年)
荒川の追悼コメントによれば、現役時代の榎本喜八は「王の10倍、馬鹿真面目だった」という。荒川氏は過去に「(努力家で知られる)王の倍は(バットを)振ったね。」と榎本の熱心な練習ぶりを述懐している。
ちなみに、榎本の打撃理論についての禅問答的コメントはよく語られるところだが、その常人には到達できそうもない難解さのある部分は、榎本自身のせいだけではなく、むしろ師匠・荒川博が弟子を教える言葉のなんともいえない哲学的難解さに負う部分が少なからずあると思う。
資料:『プロ野球「無頼派」選手読本』松井浩)
資料:榎本喜八さん死去:31歳で2000安打達成 「ミサイル打線」一世風靡 - 毎日jp(毎日新聞)


プロになった榎本喜八は3番、あるいは1番バッターとして活躍を続け、1968年には31歳7カ月(正確には31歳229日)の若さで2000本安打を達成し、元祖『安打製造機』を襲名することになった。
これは、1956年川上哲治、1967年山内和弘(山内氏の『和弘』は旧名)に次ぐ日本プロ野球史上3人目の2000本達成で、2004年5月21日に(日米通算ではあるが)30歳7か月で達成しているイチローを除くと、日本国内だけなら最速記録。
Game Wrapup | MLB.com: News
活躍年度の離れた選手同士を比べることにはたいして意味はないだろうが、日米野球でのスタッツを比較するかぎり、イチローが日本にいる当時から既にアメリカのピッチャーを打ちこなしていたのは事実だと思う。
日米野球通算成績
(ソース:某巨大掲示板)
榎本喜八 59試合 114打数 20安打 2本塁打 8打点 15三振 21四死球 打率.175
イチロー  11試合 37打数 16安打 0本塁打 8打点 6三振 5四死球 8盗塁 打率.432


榎本喜八というと、どうしてもその奇行ぶりが書かれることになる。
だが、監督として大毎オリオンズを優勝に導き、優勝経験の無い阪急・近鉄を優勝させた、あまりにも輝かしい西本幸雄の監督歴を「悲劇の闘将」などと呼んで卑下する必要など全くない、と以前書いたのと同じように、榎本喜八の奇行ぶりをあえてまた晒す必要などない。そういうのはどこかで別の人がやるだろう。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年11月25日、「名山」、西本幸雄。指導者を育てた指導者。

1960年に大毎オリオンズ監督・西本幸雄がオーナー永田雅一と衝突して退団した翌年、荒川博が放出される形で退団、そのまま引退している。(荒川はその後巨人に拾われ、大打者・王貞治を育て上げることになる)
だから、この2人が、サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地キャンドルスティック・パークをモデルに1962年に開場した東京スタジアムで、オリオンズの一員としてプレーすることはなかった。
その後、1963年限りで田宮が引退。そのオフには主砲・山内が阪神のエース小山正明と大型トレード、葛城も中日ドラゴンズに移籍し、オリオンズはチームカラーを変え、守備重視に傾いた
あくまで想像でしかないが、いくらメジャーのスタジアムをモデルにして最新鋭の設備を揃えたとはいえ、非常に狭かった東京スタジアムは、ホームランの出やすいヒッターズパークだったため、オリオンズは対策として、強力打線を維持して得点力で相手を圧倒するそれまでの野球を継続するか、それとも、主力打者を放出してでも投手力を整備し守備的チームに衣替えするか、方針の選択に迷った、という裏事情があったのかもしれない。

結局、大毎オリオンズはどうしたかというと、1963年オフに主砲・山内和弘と引き換えに、阪神のエース小山正明を獲得していることからわかるように(小山はパームボールを駆使することで球場の狭さに対応した)、「チームを守備的に作り変える」という決断を下すことになるわけだが、東京スタジアム開場以降のチーム順位を見るかぎり、このチームカラー変更が結果としてうまくいったとは思えない。

東京スタジアムのゴンドラシート
東京スタジアムのゴンドラシート 資料:『あの頃こんな球場があった』 佐野正幸著 草思社 2006年)

1962年(昭和37年)、東京の下町に忽然と開場した東京スタジアムが、1977年(昭和52年)に取り壊された時、榎本喜八は解体作業の一部始終を眺めるため、スタジアムから約20キロ離れた中野区の自宅から、スタジアムのある南千住まで、1日おきに走って来ていたらしい。また、東京スタジアムが荒川区のスポーツ施設に完全に生まれ変わってしまった後も、周囲をランニングしに来ていたという。
【5月16日】1977年(昭52) 解体工事中の東京スタジアムへ 榎本喜八、深夜の42キロ走(野球) ― スポニチ Sponichi Annex 野球 日めくりプロ野球10年5月

東京球場(東京スタジアム)フォーエバー1962〜1977 名誉な孤独死


榎本喜八はなぜ、東京スタジアムに郷愁を覚えたのだろう。
彼にとって、「東京スタジアム」は何だったのか。

故郷を持たず、上野に故郷の訛りを聞きに行くわけにもいかない東京生まれで、ちょっと神経の細いところがあった榎本にとって、プロになった直後に、同じ東京生まれで早稲田実業出身の先輩後輩たちに囲まれて野球ができたオリオンズの環境こそが、彼の心の支えになったはずだ。
だが、1962年の東京スタジアム開場をきっかけに前後してチームカラーの大幅な変更が行われたことで、人見知りの激しい東京人である榎本喜八と親しい人々がオリオンズから去っていく中で、やがて下町の東京スタジアムだけが、榎本喜八の心の寂しさを紛らす唯一の『バーチャルな故郷』になったのではないか。

オリオンズ入団年度
1953年 荒川博  早稲田実業
1955年 榎本喜八 早稲田実業
1957年 醍醐猛夫 早稲田実業

オリオンズ退団年度
(1959年 王貞治 巨人入団)
1960年 西本幸雄  解任
1961年 荒川博   放出→引退→巨人コーチ(1962)
1962年 東京スタジアム開場
1963年 田宮謙次郎 引退
1963年 山内和弘  トレード
1963年 葛城隆雄  移籍
(1964年 東京オリンピック開催)

東京出身者にしてみると、高度経済成長を迎えた1960年代中期前後の東京の風景の劇的な変化については、地方出身者にはわかりにくい特別な感覚がある。
たとえば、1964年の東京オリンピックに対応するために、首都高速ができるわけだが、両国の9代続いた和菓子屋の長男として生まれた東京出身作家の小林信彦氏などは、高度経済成長以降の東京の変化について「関東大震災、東京大空襲に続く『町殺し』」と嫌悪し、また、浅草や柴又を「下町」と呼んでありがたがる「下町ブーム」の安易さにも嫌悪感を表した。東京人の人見知り感覚からくる独特の内向きのメンタリティは、どこかミュージシャン高橋幸宏氏にも通ずるものがある。
(ちなみに、小林信彦が宝石社に入社し社会人になるのは、ドジャースとジャイアンツが西海岸に移転したのと同じ『1958年』)


彼と同じく寂しがりで人見知りな性格の人間として、
変わりゆく東京の街の中で埋もれて過ごした彼の晩年の失われた暮らしに手を合わせ、激しすぎる一生を終えた先人に、安らかにお眠りくださいと申し上げたいと思う。

有力スポーツメディアとして君臨してきたスポーツ・イラストレイテッドから、去年CBSに移籍したJon Heymanに続いて、またひとり、有力ライターが去ることになったようだ。
セイバーメトリクス系ライターのJoe Posnanskiが、USA TODAYとMLBが新たに作るスポーツメディアに移籍するらしい。

I've written this before -- my dream, from the time I was just starting out in this business, was to write for Sports Illustrated.
以前書いたこともあるが、僕の夢、この仕事を始めたときからの僕の夢はね、スポーツ・イラストレイテッドに記事を書くこと、だったんだ。

Joe Posnanski is Leaving Sports Illustrated | The Big Lead

移籍に関するPosnanski自身のブログ記事
Joe Blogs: Old News

USA TODAYの新スポーツメディア: PR Newswire: USA TODAY Sports Media Group, MLB Advanced Media to Partner on Product Development Venture


1961年生まれのJon Heymanは、ニューヨークのNewsday紙でヤンキースのビートライターとして出発し、2006年の7月から2011年12月までSports Illustratedのライターを務め、その後CBSに移籍して現在に至っている。
1967年生まれのJoe Posnanskiは、1996年10月から2009年8月までKansas City Starで働き、2007にCASEY Awardを受賞。その後Sports Illustratedのライターになった。
Heymanが、Inside Baseball、FoxのKen Rosenthalのような、いわゆる野球の内幕に通じた「情報通タイプ」であるのに対して、Posnanskiは、セイバーメトリクス系のライターで数字に強く、Fielding Bible Awardsの選考委員もやっているし、また、長編の読み物も書くジャーナリスティックな能力もある「作家タイプ」だ。

Posnanskiは、「彼のようなプレーヤーを、他に見たことがない」と高く評価する記事を書いたことがあるイチロー・ファン。
Seattle Mariners' Ichiro Suzuki is one-of-a-kind player - Joe Posnanski - SI.com
セイバーメトリクス関係者でも、イチローに対する評価は人それぞれに違うが、Posnanskiは良き理解者のひとりといっていい。フランクリン・グティエレスがライトのポジションでFielding Bible賞を初受賞した2008年でも、Posnanskiの評価はイチロー2位、グティエレス3位と、イチローをグティエレスより高く評価している。

Fielding Bible Awards投票における
Joe Posnanskiのイチローの守備評価と受賞結果

2006年 1位(ライト) Fielding Bible受賞
2007年 7位(センター)
2008年 2位(ライト)
2009年 1位(ライト) Fielding Bible受賞
2010年 1位(ライト) Fielding Bible受賞
2011年 圏外(ライト)

スポーツ・イラストレイテッドは、スポーツ記事を書く者にとって、夢の「メジャーリーグ」であり、また、スポーツ選手にとっても、自分の写真がスポーツ・イラストレイテッドの表紙を飾ることは、夢であり、成功の証だ。ライターとしてのメジャーリーグを卒業できる位置にまで上り詰めたJoe Posnanskiの今後の活躍に期待したい。
Joe Posnanskiがスポーツ・イラストレイテッドのライターになれた理由は、彼のライターとしての能力以外に、Rob Neyerもそうだが、近年セイバーメトリクスという分析手法が野球の世界でポピュラーになるとともに、セイバー手法をもとに書けるライターが、モノ書きの世界で占める地位が大きく向上した、という背景がある。


OPS批判シリーズ記事で書いたことだが、例えば、OPSなどという指標は、それが開発された当時は斬新で、信奉者が急増したかもしれないが、今となって良く点検してみれば、長打信仰から生まれた単なる「デタラメ」でしかなく、野球という現実にまるでフィットしていない。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:指標のデタラメさ(OPS、SLG、パークファクターなど)
映画『マネーボール』が扱った世界というのは、現実の野球においてはとっくに賞味期限の切れた、カビくさいネタであり、この映画がまったくアカデミー賞で相手にされず、おそらく日本でも興行として「大コケ」しただろうと推測されることは、ブログ主に言わせれば当然の話だ。

かつて野球で、誰もが数字に弱く、勘や感性が重視されていた時代に、たとえ雑な数字であっても、大威張りに野球を語れて、それが元で出世できた時代など、もうとっくの昔に終わっている。 
今は誰でも数字くらい扱える。数字のウソも見抜ける。
もともとジャーナリスティックな能力に恵まれているPosnanskiは別として、セイバーメトリクスがらみで記事を書けるからといって、これからの時代も、その書き手がより良いポジションに行けるとか、他人から一目置いてもらえるとか、ブログ主はまったく思わない



このブログでのJoe Posnanski関連記事

2009
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2009年3月30日、スポーツ・イラストレイテッドのJoe Posnanskiが、「非自責点」について語ったのを読んで、「日米の自責点の考え方の差異」についても勉強してみる。

2010
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年3月26日、The Fielding Bible Awards選考委員で、2007年CASEY Awardを受賞しているスポーツ・イラストレイテッドのJoe Posnanskiがイチローを絶賛した記事の翻訳を読んでみる。

ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年3月26日、スポーツ・イラストレイテッドの表紙を4度飾ったイチローの扱いの変遷から、「イチローがにもたらしたMLB新世紀」を読む。

ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年9月16日、ちょっと忘れっぽくなっているらしいピート・ローズ氏が、かつてスポーツ・イラストレイテッドの Joe Posnanskiに語ったことの覚え書き。

2011
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年2月18日、「目」をダメにする「数字というメガネ」。


イチローが表紙に登場する
スポーツ・イラストレイテッド(4回)


スポーツ・イラストレイテッド2001年5月28日号表紙
スポーツ・イラストレイテッド2002年7月8日号表紙
スポーツ・イラストレイテッド2003年5月5日号表紙
スポーツ・イラストレイテッド2004年10月4日号表紙

March 29, 2012

言いたいこと、書きとめておきたいことがたくさんあって、どこをどう書いたものか、まとめられないが(笑)、これだけは確実に言える。

素晴らしい開幕戦だった。

マスメディアに大量に情報が流されると思うので、このブログではそこには触れない。しっかり検索して関係する動画やコメントを探しだして、たっぷり楽しむといいと思う。イチローの素晴らしい4安打、特にセンター前タイムリーについては、項を改めて書きたい。
Seattle Mariners at Oakland Athletics - March 28, 2012 | MLB.com SEA Recap

Seattle Mariners at Oakland Athletics - March 28, 2012 | MLB.com Classic


Gameday背景画像 東京ドーム特別バージョン
おそらく東京ドーム特別バージョンと思われる
Gameday背景画像。

Gameday背景画像セーフコバージョン
こちらは通常のセーフコバージョン。


ゲーム直前ツイートしたように、オークランド先発のブランドン・マッカーシーは、いいカットボールを投げてくるグラウンドボール・ピッチャーだから、「ゴロを転がさせられたら終わり」と思っていたら、まさにその通りだった。狭いドーム球場では、こういうゴロを打たせることのできるピッチャーこそ適任。




個々のプレーヤーそれぞれについても、色々言いたいことはあるが、どうせ書ききれないので、箇条書きにしてみる。成長の感じられるプレーヤーは両軍それなりにいる。
イチローとアックリーしかいないシアトルに引き換え、よその芝生がやけに綺麗に見える。アスレチックスで、今年活躍しそうな何人かが、うらやましく思えてならない(笑)


トム・ウィルヘルムセン まるで期待してなかったブルペン投手だが、球の伸びがいい。デトロイトに放出してしまったデビッド・ポーリーの後継者としてロングリリーフに使える。いずれはヘクター・ノエシを追い越しそうな面白い存在。

ブランドン・マッカーシー スピードが十分すぎるくらいあるが、それだけならけして怖くない、そういう投手だった。だが、去年オークランドでカットボールを覚えて、グラウンドボール・ピッチャーに変身できたことが、なによりポイントが高い。セットポジションが下手なのだけは残念だが、なにもかもできる選手など、どこにもいない。活躍が期待できそう。

ボブ・メルビン
マイク・ソーシアばりに1番から3番まで、盗塁のできるスイッチヒッターを並べて、チームのと盗塁を評価しない自チームのGMビリー・ビーンに「もっと盗塁させてくれ」と直談判して許可をとりつけてくるあたり、明らかにチームを「ビリー・ビーンのつまらない数学チーム」から、「ボブ・メルビンの機動力野球チーム」に衣替えさせるための手を着々と打ちつつある。
オークランドが、ビリー・ビーンの役に立たずでつまらないセイバーメトリクスでつくった数字のチームではなくなっていくかもしれない。そういう意味で、今シーズンのオークランドには、かつてない面白味がある。

クリフ・ペニントン ショートの守備に定評があるわけだが、打撃も安定してる。いい選手だ。オークランドにはもったいないので、ブレンダン・ライアンと交換してもらいたい(笑)

ジェマイル・ウィークス
正直、兄のリッキー・ウィークス(MIL)に比べてかなり小粒で、ホセ・レイエスのそっくりさん、くらいにしか思ってなかった。ウィークス兄弟が、アップトン兄弟に肩を並べる日が来るのかどうか、まだわからないが、いつのまにか、走攻守、あらゆるプレーに対する自信が、プレー結果に目に見える形で表れるようになってきてる。身体能力の高さは折り紙つき。



フェリックス・ヘルナンデス 4シームのスピードが乗らない。スロースターターだけに、初夏の季節にならないと今年の調子は見えないプレーヤーだが、まだギアをトップに入れる時期でもない。判断は先のばし。
スモーク&モンテーロの「扇風機コンビ」
あの実戦での自信の無さは、どうしたものか。ゲージで見せる打球の伸びが、まったくといっていいほど実戦につながらない。野球はテレビゲームではない。生きた球で結果を出すのをみせつけてもらわない限りは、永遠に評価を上げようがない。
マイク・カープ 得意コース、得意球種をさばくのは、本当にうまい。だが、それはゲージの中だけの話で、他チームからのスカウティングを受け始める今年は、実戦で投手が自分の得意コースに不用意に投げてくれてヒットを稼げる時代は、もう終わる。それがメジャーというものだ。だから、彼の打撃に何の期待もしてない。ただ、いつもけなしまくる守備は、ポカもあいかわらずあるもの、良化のきざしがある。
マイケル・ソーンダース メジャー生き残りのために必死にならざるをえない立場だが、グティエレスの怪我もあって、開幕スタメン。今後も競争は続くが、頑張って自分に向いたプレースタイルをみつけて、才能を開花させてもらいたい。
ブレンダン・ライアン 小柄な選手なのにランナー二塁のチャンスで頭を使わないバッティング(ショートゴロ)を平気でするようなプレーセンスの無さには、本当にガッカリさせられる。よくこんな野球脳の低いバッターを2番に置いていたものだ。日本人贔屓の意味でなく、現状のメンバーでなら、川崎は2番を狙える。1番イチロー、2番川崎、3番アックリーでいい。

March 28, 2012

Seattle Mariners日本開幕ロゴ

今夜、東京ドームにいる人で、Take Me Out to the Ball Gameの歌詞を覚えてない人のために、あらかじめ歌詞をアップしてみた(笑)
seventh inning stretchに、携帯でこのサイトを表示して、見ながら歌うといいと思う。

Take me out
To the ball game
Take me out
With the crowd
Buy me some peanuts
And Crackerjack
I don't care if
I never never get back

Let me root, root root
For the home team
If they don't win
It's a shame
For it's one, two,
Three strikes you're out
At the old ball game!


Take Me Out to the Ballgame
Written By: Jack Norworth & Albert Von Tilzer



root for:熱狂的に応援する
Crackerjack
Sailor Jackと愛犬のBingoをマスコットにしたアメリカのお菓子

Cracker Jack

Cracker Jack

Cracker Jack




March 27, 2012

Mariner Moose


日本で地震のあった2011年の翌月の4月、アメリカで竜巻の酷い被害が出て、MLBも支援を行った。
April 25–28, 2011 tornado outbreak - Wikipedia, the free encyclopedia

MLB, MLBPA team up for $200,000 in tornado relief | MLB.com: News

このブログでも、以下のリンクつきバナーを制作して、しばらくブログのトップに貼っておいた。
Tornado Relief

あのとき、日本のスポーツ新聞の記者さんたちが被害の現場まで行って取材して記事を書いた、という話は、残念ながら、ついぞ聞かなかった。あの竜巻の起こったのは、2011年3月11日の日本の津波被害による原発事故のほんのすぐ後のことで、この竜巻によって、アラバマにあるブラウンズフェリー原子力発電所外部電源を喪失し、ディーゼル発電機により冷温停止した、というのに、だ。
この事故のことは、日本ではほとんど記憶されていない。

ついでの取材なのかもしれない。だが、たとえそうであってとしても、シアトルのビートライターたちが、東北の津波被害の現地にわざわざ出向いて取材してくれていることについて、日頃いくら彼らのことを時にきつい表現で非難することがないではないブログ主とはいえ、心からの感謝を述べないわけにはいかない気持ちにさせられる。野球の上での批評や非難というものは、単に野球の上だけでの意見の相違の意味しかない。

2011年アメリカの竜巻被害
2011年アメリカの竜巻被害


ありがとう。ビートライターたち。
ありがとう。シアトル。
オークランドの選手たちも、ありがとう。


マリナー・ムース!




右はアレックス・リディ


March 24, 2012

1960年、サンフランシスコ・ジャイアンツ来日と
西本幸雄率いる大毎オリオンズ優勝


1958年(昭和33年)に東のニューヨークからアメリカ西海岸に移転したサンフランシスコ・ジャイアンツは、1960年に新しい本拠地キャンドルスティック・パークを華々しく開場させ、観客動員を激増させることに成功した。
同じ60年の10月、ジャイアンツは日米野球に、ウィリー・メイズウィリー・マッコビーオーランド・セペダなど、後のホール・オブ・フェイマーだらけのベストメンバーで三度目の来日を果たしている。このときジャイアンツの西海岸招致に力を尽くしたサンフランシスコ市も、市長みずからが200名もの応援団を率いて日本にやってきた。
ジャイアンツは初戦の巨人戦と第2戦の全日本選抜戦(いずれも後楽園)を落としたものの、その後、北は札幌から、南は下関、平和台まで足を延ばし、11勝4敗1分という結果を残して遠征を終えた。


現役時代の西本幸雄が、紆余曲折の末に1950年に毎日オリオンズに入団し、プロになった複雑な経緯を記した資料の数々に目を通すと、MLBがアメリカ東海岸から西に拡大しつつあった当時、いくら日本のプロ野球がMLBの後を追うように球団数を増やし、2リーグ制も始まって急速な拡大をみせつつあったとはいえ、まだまだ不安定だったことがよくわかる。
戦後すぐの時代、日本のプロ野球はまだ経営基盤が弱く、プロ野球選手の身分も実力も安定したものとは言い難かった。例えば1949年に来日したサンフランシスコ・シールズと対戦した日本側投手のひとりは、前年の都市対抗の優勝チーム西日本鉄道からプロの南海に入団したばかりの武末悉昌投手であったように、まだノンプロとプロ野球の選手たちの実力は玉石混合で、プロがアマチュアに決定的な実力差をみせつけられるほど、プロ野球そのものが育っていなかった。
それだけに1950年代の日本の野球は、あくまで西本幸雄や永田雅一などのような「野球に夢をはせた個人の、見果てぬ夢」に支えられて成り立っていた。(だから後世の人が、この時代の野球関係者のある種の我儘さ、アクの強さを時代背景を無視して批判するのはお門違いだと、ブログ主は考える。戦後すぐの不安定な時代に「野球だけで生き抜いていく」なんてことは、個人の強烈な自己主張に頼らなければできなかった、そういう時代だったのである)

また、プロ野球がまだまだ未成熟な時代だったからこそ、「日米野球」の存在はさまざまな意味で役立った。日米野球は、日本国内の野球ファンに「MLBの高い天井」をみせつけ、野球という未知数なスポーツが「将来は、こうなるんだぞ」と将来像をファンの脳裏に強烈に焼き付け、日本野球を安定させるための第一歩となったのである。


サンフランシスコ・ジャイアンツ来日の1960年に、日本のプロ野球で2度目のリーグ優勝を果たしたのが、この年に監督就任したばかりの西本幸雄率いる大毎オリオンズだ。
大毎オリオンズは、ドジャースとジャイアンツがアメリカ西海岸に移転した、ちょうど同じ1958年(昭和33年)に、大映ユニオンズと毎日オリオンズが合併して出来たばかりの球団で、西本監督のもと、榎本喜八、山内和弘、田宮謙次郎などの強打者をズラリ並べた「ミサイル打線」でリーグ制覇を飾った。
だが、日本シリーズは宿敵三原脩の大洋ホエールズに4連敗。リーグ優勝したにもかかわらず、オーナー永田雅一との衝突によって西本幸雄監督がわずか1年で解任された事件は、日本野球史に残る有名な出来事のひとつになった。(そんなわけで、58年のみ指揮してクビになってしまった西本幸雄は、62年にできた東京スタジアムに大毎オリオンズ監督として登場することはなかった)
後に西本幸雄は、阪急、さらに近鉄と、「優勝経験の無いチーム」を2つも優勝させて日本の野球史を大きく塗り替え、野茂イチローダルビッシュを生んだパ・リーグを育てて、鮭が故郷の川に帰るように、日本野球が野球の故郷であるアメリカMLBへ遡上していく土壌をつくることになる。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年11月25日、「名山」、西本幸雄。指導者を育てた指導者。


キャンドルスティック・パークを模範にした
東京スタジアムの開場

Tokyo Stadium
1962年(昭和37年)5月31日開場〜1972年(昭和47年)
1977年(昭和52年)取り壊し
東京スタジアム(外観)

東京スタジアム

ニューヨーク時代のジャイアンツの本拠地ポロ・グラウンズが、ヤンキースなどとの共用球場だったように、かつて日本のプロ野球も本拠地を共用しあっていた時代がある。
例えば後楽園球場は、読売ジャイアンツ、国鉄スワローズ、毎日大映オリオンズ(=後の大毎オリオンズ)の3球団が本拠地としていたため、試合日程の過密さが問題になっていた。(ちなみに後述の東京スタジアムも、大毎がスワローズに貸し出していた)

そのため、1958年に西本監督を解任した大毎オーナー、大映社長永田雅一は、自前の本拠地の建設を決意し、サンフランシスコのキャンドルスティック・パークをモデルに多額の私財を投じて、新球場を作った。

それが、かつて東京の荒川区南千住にあった、日本の幻の名ボールパーク、東京スタジアムだ。

「光の球場」東京スタジアムの照明

東京スタジアムのゴンドラシート
東京スタジアムのゴンドラシート
資料:『あの頃こんな球場があった』28p 佐野正幸著 草思社 2006年)


総工費30億円をかけ1960年に開場した、東京スタジアムは35,000人収容で、立ち見を入れると42,000人収容できたらしい。別名「光の球場」と呼ばれ、当時としては画期的すぎるほどの先進設備を誇っていた。
天然芝の内外野。プラスチック製の独立シート、電光掲示、ゴンドラ席、内野席下のブルペン、バリアフリー。ボーリング場、スケートリンクの併設。東京スタジアムの設備の先進性をほめたたえるウェブサイトは非常に多いが、大袈裟でなく、東京スタジアムは球場設備の話題だけでブログがひとつできてしまう。

1962年5月31日の東京スタジアムの開場セレモニーで行われた始球式Ceremonial first pitch)は、マウンドから投げる日本式ではなく、一塁側ダッグアウトからのアメリカ式だったらしく、キャンドルスティック・パークをモデルにこの球場を作ったオーナー永田雅一のMLBに対する強い憧れがよくわかる。
(MLBで始球式といえば、かつては有名人が客席最前列からボールをグラウンドにいるピッチャーまたはキャッチャーにトスするのが通例だった。だが、いつのころからかアメリカでも、日本のようにマウンドからキャッチャーに向かって投げるスタイルに変わってきている。ただしMLBでは、日本のようにバッターが打席に立ったりはしない)

アメリカ式の始球式
MLB方式の「始球式」


東京スタジアムの開場セレモニーで永田オーナーが観客に「皆さん、パ・リーグを愛してください!」と絶叫したことは非常に有名。西本幸雄と袂を分かった永田も、時をおいて眺めれば、結局は西本幸雄と全く同じ「野球を愛し、パ・リーグを盛り上げた功労者」のひとりなのだ。
セレモニー後、午後7時から東京スタジアムのこけら落とし「大毎オリオンズ対南海ホークス」7回戦が行われ、南海野村克也が東京スタジアム第1号ホームランをスタンドに放りこんだ。東京スタジアムは、全体的に狭く、なおかつ左中間・右中間の膨らみがほとんどないヤンキー・スタジアムに似た形状のヒッターズ・パークだったため、ホームランが非常に出やすく、そのため小山正明魔球パームボールを駆使することで1964年30勝を挙げた。
ちなみに、現在でこそ『東京音頭』は、神宮球場を本拠地にしている東京ヤクルト・スワローズの応援歌だと思われているが、1960年代(昭和40年代)には、東京スタジアムで歌われる大毎オリオンズ応援歌だった。


県営宮城球場の一時使用と
東京スタジアムの閉場・取り壊し

Tokyo Stadium
〜1977年(昭和52年)
1960年代半ば、日本映画は急激な不振に見舞われ、大毎オリオンズの親会社、大映は、お抱えの大スターの急逝や新人スター不在などから窮地に追い込まれ、1971年12月に破産。
オリオンズの球団所有権と、東京スタジアムの球場経営権は、それぞれ別々の所有者の手から手へ移り変わっていき、やがてオリオンズは本拠地球場を持たないジプシー球団として各地を転々することになる。
オリオンズはその後1973年から宮城県を準フランチャイズとして割り当てられ、県営宮城球場をとりあえずの本拠地として延命したが、一方の東京スタジアムは赤字が続き、1973年6月1日に解散することになった。オリオンズの東京スタジアム復帰もささやかれたが、結局実現せず、東京スタジアムは1977年3月に東京都に売り渡され、同年解体。かつてシールズ・スタジアムの跡地がショッピングセンターになったように、東京スタジアムの跡地は荒川区の区民施設になった。
(ジプシー球団オリオンズはその後、1978年に川崎球場を本拠地にしていた大洋ホエールズが新球場・横浜スタジアムに移転した際、川崎球場に本拠地を見出して移転した)


県営宮城球場の改修による
クリネックススタジアム宮城に至る道のり

Kleenex Stadium Miyagi
1950年(昭和25年)5月5日〜

県営宮城球場は、1950年5月27日竣工だが、それを前に、こけら落としとして同年5月5日、パ・リーグ公式戦、毎日オリオンズ対南海ホークス、毎日オリオンズ対大映スターズの変則ダブルヘッダーが組まれた。
その後、関係者の努力により改修に対する長年の要望がかない、現在の「クリネックススタジアム宮城」(2008年2月〜)に至っている。
ちなみクリネックススタジアム宮城のデザインは、左右対称、扇型の外野フェンス、人工芝、ファウルグラウンドの作り、いろいろな点で、1960年代中盤から80年代にかけて作られたクッキー・カッター・スタジアムっぽさが残った昔のMLBスタイルだ。かつて評判の悪かったフィラデルフィアのヴェテランズ・スタジアムや、ピッツバーグのスリー・リバース・スタジアムのレイアウトに似ている気がする。
人工芝であるという点で、このボールパークが、天然芝だった東京スタジアムの伝統を引き継いでいないのは、正直、残念な限り。日本の球場での人工芝の時代は、いったいいつまで続くのだろうか。収容能力や耐震性能の問題からも、遠からず新球場が必要になるだろう。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年8月21日、ボルチモアのカムデンヤーズは、セーフコのお手本になった「新古典主義建築のボールパーク」。80年代のクッキーカッター・スタジアムさながらの問題を抱える「日本のスタジアム」。

日本製紙クリネックススタジアム宮城



こうして長々と野球史をふりかえってみると、現代の日本の東北に宮城球場というプロ用ボールパークがあることは、突然歴史が始まったわけではなくて、日本野球の長い歴史がバックグラウンドにあってこその話であることがわかる。
わからないものだ。もし、あの「光る球場」と賞賛された東京スタジアムの消滅に前後してオリオンズが路頭に迷い、紆余曲折をへて東北に一時的に身を寄せていなければ、もしかすると東北でのプロ野球の歴史は生まれていなかったかもしれないのだ。


1958年に、ブルックリン・ドジャースとニューヨーク・ジャイアンツが東のニューヨークから西海岸に移転して起こった「ボールパーク・ドミノ」は、MLBの古典である古き良き木製ボールパークの時代に終止符を打ち、鉄骨とコンクリートでできたコンクリート・ドーナツ時代に道を開くわけだが、その影響はアメリカ国内だけに留まらず、日米野球でのMLB球団来日や、日本のプレーヤーのキャンプへの招待などの交流によって、日本に「アメリカ野球に対する強い憧れ」を生みだした。
その「憧れ」は、めぐりめぐって永田雅一の東京スタジアムを生み、さらに、その精神の一部は現在の東北・宮城にも受け継がれている。


野球の「つながり」を辿っていく作業は、本当に面白くて、やみつきになる。(このシリーズをまとめるための一ヶ月にわたる長い作業も、無駄な部分を切り落とすのが大変だった。話が複雑化するのを防ぐために、たくさんのプロ野球選手を生んだハワイ朝日軍にも、日米の野球の橋渡しをしたキャピー原田にも触れず、ヒット・エンド・ランを発明したかつてのジャイアンツの名監督ジョン・マグローにすら触れていない)

ベーブ・ルースもプレーしたニューヨークの今は無きエベッツ・フィールドポロ・グラウンズに始まり、大陸を横断した西海岸のロサンゼルス・メモリアル・コロシアム、シールズ・スタジアム、チェニー・スタジアム。キャンドルスティック・パーク、ドジャー・スタジアム。シェイ・スタジアム。そして海の向こうの東京スタジアム、クリネックススタジアム宮城まで。


時間と大陸と海を越え、脈々と伝え続けられてきたものは、いったい何だったのだろう。


それは野球に対する、やみくもな熱だ。(忌野清志郎のいう『デイ・ドリーム・ビリーバー』というやつだ)
あまりに月並みで恐縮だが、他に言葉がみつからない。
2012年シーズン開幕を前に、野球の世界を築いてきた先人たちの努力の歴史に、あらためて心からの敬意を表したい。
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ずっと夢を見て
今も見てる。僕は
デイ・ドリーム・ビリーバー。そんで
彼女はクイーン

ずっと夢見させて
くれて有難う。僕は
デイ・ドリーム・ビリーバー。そんで
彼女はクイーン

 『デイ・ドリーム・ビリーバー』
 オリジナル詞・曲 Jhon Stewart(モンキーズ)
 cover by THE TIMERS
 Japanese lyric by 忌野清志郎

March 22, 2012

キャンドルスティック・パークの開場
Candlestick Park
1960年4月12日〜
Candlestick Park

ビートルズが1966年に最後の公式コンサートを行った場所としても知られ、1971年〜現在はSan Francisco 49ersの本拠地になっているキャンドルスティック・パークは、1960年4月12日に当時副大統領だったカリフォルニア生まれのリチャード・ニクソン(大統領はアイゼンハワー)の始球式で、サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地として開場した。こけら落しのセントルイス戦は、前年1959年に21勝しているジャイアンツ先発サム・ジョーンズが、セントルイスのスタン・ミュージアルをノーヒットに抑えるほどの好投で9回を投げ抜き、ジャイアンツが3-1と勝利。
April 12, 1960 St. Louis Cardinals at San Francisco Giants Play by Play and Box Score - Baseball-Reference.com
ちなみに、この印象的な球場名は、1959年3月3日に行われたネーミング・コンテストの応募作から選ばれた。また、San Francisco 49ersは、サンフランシスコ・シールズ傘下のチームでのプレー経験のある与那嶺要さんが、プロ・フットボーラーだった1947年にランニングバックとしてプレーしたチーム。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年3月1日、偉大なる先人、与那嶺要さんの逝去を悼みつつ、タイ・カッブとヨナミネさん、2人の不世出のホームスチール名人の記録を味わう。

キャンドルスティック・パークは海沿いに作られたため、風が非常に強く、サム・ジョーンズに言わせると「ホームラン、とくに右打者のホームランはほとんど出ない」というほどのピッチャーズ・パークだったらしい。
そのため、当時のサンフランシスコの地元メディアには、「キャンドルスティック移転後のジャイアンツの低迷は、打線が売り物のはずのチームがピッチャーズ・パークに移転したりしたからだ」という説もあった。


その後、村上雅則がサンフランシスコ・ジャイアンツのセットアッパーとして1964年9月1日(ビジター メッツ戦)に日本人初のメジャーリーガーしてデビューするが、村上がジャイアンツのホーム、キャンドルスティック・パークで初登板を果たすのは、同じ年の9月9日。これまたドジャース戦(笑)
このゲームは、ホール・オブ・フェイマーで、この年に最多奪三振を記録したドジャースの200勝投手ドン・ドライスデールが完投で勝っている。
September 9, 1964 Los Angeles Dodgers at San Francisco Giants Play by Play and Box Score - Baseball-Reference.com
村上雅則氏のベースボールカード



ちなみに、日本の戦後のプロ野球の草創期にあたる1956年から1966年までの約10年間に、日米野球で来日したMLBの球団は、ブルックリン・ドジャース(56年)、セントルイス・カージナルス(58年)、サンフランシスコ・ジャイアンツ(60年)、デトロイト・タイガース(62年)、ロサンゼルス・ドジャース(66年)。
1958年に、ニューヨークにあったドジャースとジャイアンツが西海岸に移転してきたことで、それまで東海岸中心だったMLBのロケーションがアメリカ全域に拡大していくわけだが、この「西部劇を生んだ19世紀末の西部開拓時代に続く、アメリカにおける二度目のGo West」ともいえる「MLBの西海岸への拡大」に前後して、ドジャースとジャイアンツが3度も来日していることになる。
この「1958年前後のドジャースとジャイアンツの来日の頻度の多さ」は、明らかに、「MLBの1958年以降の西部開拓戦略」が、アメリカ国内だけで満足するものではなく、太平洋を挟んだ日本にもMLBのプロモーションが十分に及ぶよう意図されていた、と見るのが自然だろう。
その意味でいうと、村上雅則が、当時の彼の実力はともかく(いくらセプテンバー・コールアップとはいえ、1Aからいきなりのメジャー昇格は常識的にちょっとありえない)、日本人初のメジャーリーガーしてデビューさせて「もらえた」のが、何度も来日を果たして日本に馴染みの深いサンフランシスコのチームだったというのは、けして偶然ではなく、日本向けのマーケティング的な意味があったとブログ主は考える。


さらに下って、1995年5月2日、野茂英雄がドジャースの一員として日本人2人目の大リーグデビューを果たしたデビュー戦も、このキャンドルスティック・パークで、またしてもドジャース対ジャイアンツ戦(笑)
とにかく、こう、なんというか、一緒に西海岸に移転してきたドジャースとジャイアンツのゲームは、どこをどう切り取ってきても、因縁めいている(笑)
こちらのゲームは、野茂が5回を1安打無失点に好投して降板するものの、両軍得点のないまま延長15回までいってしまい、15回表にドジャースが3点入れ、これで終わりかと思われたその裏、ジャイアンツがマット・ウィリアムスのサヨナラ2ベースなどで4点入れてサヨナラ勝ちするという、とんでもない幕切れになった。
May 2, 1995 Los Angeles Dodgers at San Francisco Giants Box Score and Play by Play - Baseball-Reference.com
1999年を最後にジャイアンツはキャンドルスティック・パークから、パシフィックベル・パークに本拠地を移した。(球場名は2000年の開場以来、2度変わり、パシフィック・ベル・パーク(2000-2003)、SBCパーク(2004-2006)、そして2007年からAT&Tパーク
もちろんAT&Tパークは、2007年7月11日のオールスターで、イチローがMLBオールスター史上初のランニングホームランを打ったスタジアム。
かつてキャンドルスティック・パークは投手有利な球場だったわけだが、AT&Tパークもパーク・ファクターから見る限り、ホームランはでにくい球場のひとつ(30球団中24位)。
2007 MLB Park Factors - Home Runs - Major League Baseball - ESPN


ドジャー・スタジアムの開場
Dodger Stadium
1962年4月10日〜
Shea Stadium

カムデンヤーズに端を発する左右非対称のボールパーク建設ラッシュによって、近年のMLBには左右対称のボールパークが無くなっていきつつあるが、ドジャー・スタジアムは2012年現在ナ・リーグ唯一の左右対象スタジアム。開場は1962年4月10日のレッズ戦で(6-3でレッズ勝利)、既に8回ものワールドシリーズが行われている。
April 10, 1962 Cincinnati Reds at Los Angeles Dodgers Play by Play and Box Score - Baseball-Reference.com
また第2回WBCでは、2009年3月21日〜23日に準決勝及び決勝が開催され、日本が韓国を5-3で下して連覇を達成した思い出深いボールパークだ。


第2回WBC決勝
イチローの決勝2点タイムリー



シェイ・スタジアムの開場
Shea Stadium
1964年4月17日〜2009年2月18日
Shea Stadium

ドジャースとジャイアンツが去り、エベッツとポロ・グラウンズが取り壊されたニューヨークでは、新球団設立と新球場建設の機運が高まり、弁護士ウィリアム・A・シェイの尽力によって、ニューヨークの新球団メッツができ、1964年にはその本拠地シェイ・スタジアムが開場した。(4月17日ピッツバーグ戦)
April 17, 1964 Pittsburgh Pirates at New York Mets Play by Play and Box Score - Baseball-Reference.com
この「1958年のボールパーク・ドミノ」でつくられた球場は、キャンドルスティック・パークといい、ドジャー・スタジアム、シェイ・スタジアムといい、「左右対称」なボールパークばかりで、左右非対称な球場が大半を占める現在とは大きく傾向が違うことは、写真を見れば一目瞭然。
シェイ・スタジアムは2009年2月18日に閉場されて駐車場になり、メッツの本拠地は2009年以降シティ・フィールドに移ったが、シティ・フィールドは、クッキー・カッター・スタジアムっぽい左右対称デザインのシェイ・スタジアムと違い、かつてブルックリンにあった左右非対称のエベッツ・フィールドを模して作られたボールパークであるため、ニューヨークにかつてのブルックリン・ドジャースの本拠地エベッツの匂いがようやくよみがえることとなった。
Citi FieldClem's Baseball ~ Citi Field



扇型の左右対称のフィールド、広いファウルグラウンド、そして、フィールドを取り囲むように建てられた積層式の高いスタンド。
写真でみれば明らかなように、キャンドルスティック・パーク(1960年)、ドジャー・スタジアム(1962年)、シェイ・スタジアム(1964年)、60年代の3つのボールパークには、どこかしら、60年代後半以降に建設ラッシュが続いたクッキー・カッター・スタジアムにつながる匂いがある。(特にシェイ・スタジアム)
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年8月21日、ボルチモアのカムデンヤーズは、セーフコのお手本になった「新古典主義建築のボールパーク」。80年代のクッキーカッター・スタジアムさながらの問題を抱える「日本のスタジアム」。

Candlestick Parkキャンドルスティック・パーク
1960年開場
Clem's Baseball ~ Candlestick Park

Dodger Stadiumドジャー・スタジアム
1962年開場
Clem's Baseball ~ Dodger Stadium

Shea Stadiumシェイ・スタジアム
1964年開場
Clem's Baseball ~ Shea Stadium


アストロドームアストロドーム
1965年開場。かつてのヒューストン・アストロズのホーム(現在はミニッツメイド・パークに移転)フットボール兼用で、典型的なクッキーカッター。Clem's Baseball ~ Astrodome

リバーフロント・スタジアムリバーフロント・スタジアム
1970年開場。かつてのシンシナティ・レッズのホーム(現在はグレート・アメリカン・ボールパークに移転)やはりフットボール兼用で、レイアウトがアストロドームとまったく見分けがつかない。Clem's Baseball ~ Riverfront Stadium


(4)につづく
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年3月23日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (4)夢の東京スタジアムの誕生

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ロサンゼルス・メモリアル・コロシアムの一時使用
Los Angeles Memorial Coliseum
1923年5月1日〜
ボールパークだった時代のLos Angeles Memorial Coliseum

1958年、ブルックリン・ドジャースが西海岸に移転するにあたって、新球場ドジャー・スタジアムが1962年に完成するまでの4シーズン一時使用したロサンゼルス・メモリアル・コロシアムは、もともとは陸上競技場で、1923年5月の開場。1932年と1984年の2度、夏のオリンピックで開会式・閉会式会場および陸上競技のメイン会場となり、現在はカレッジフットボール、USC(南カリフォルニア大学)トロージャンズの本拠地となっている。
なんとも情けないことに日本のWikiにすら書き漏らされているが、1932年夏の五輪で、日本の西竹一中尉が金メダルを獲得したのが、まさにこのコロシアムで行われた馬術競技であり、特徴あるコロシアム入り口には「JAPAN TAKEICHI NISHI」と刻まれた銅製プレートが残されている。
Equestrian at the 1932 Summer Olympics - Wikipedia, the free encyclopedia
(当時の馬術競技の記録映像は横浜・根岸にある馬の博物館に、西中尉の金メダルは東京・国立競技場内の秩父宮記念スポーツ博物館に、それぞれ残されているらしい)

1932年ロサンゼルス五輪で競技中の西中尉


もともと陸上競技場として作られたロサンゼルス・メモリアル・コロシアムの形状は楕円形だから、長方形のフィールドでゲームを行うフットボールならともかく、野球には向いてなかった。いわば、陸上競技場である東京・霞ヶ丘の国立競技場を本拠地に、野球をやるようなものだ。

ボールパーク時代のLos Angeles Memorial ColiseumClem's Baseball ~ Memorial Coliseum
だが当時の熱狂的なドジャース人気にとっては、たとえボールパークが楕円形だろうと、四角形だろうと、そんなことはまったく些細なことに過ぎなかった。
1959年のワールドシリーズ(ドジャース対ホワイトソックス)のうち、ロサンゼルスで行われた第3戦〜第5戦では、それぞれ92,000人以上を動員。また近年でも2008年3月29日に行われたドジャースのロサンゼルス移転50周年記念ゲーム(オープン戦 対レッドソックス)では、アメリカのスポーツ史上最多、そして世界の野球史上最多となる、115,300人もの大観客がコロシアムを一分の隙間もなく埋め尽くした。ドジャースの人気は本物だった。






シールズ・スタジアムの一時使用
Seals Stadium
1931年4月7日〜1959年9月20日
Seals Stadium



1958年のニューヨーク・ジャイアンツの西海岸移転にあたり、サンフランシスコ市側は、リーグやコミッショナーに熱心に働きかけを行ったが、それだけでなく、新球場建設のための敷地も提供した。
ただ新球場建設に時間が必要だったため、ジャイアンツはPCLのマイナーチーム「サンフランシスコ・シールズ」を傘下におさめ、1958年、59年の2シーズンは、シールズが1931年以来本拠地にしていた「シールズ・スタジアム(Seals Stadium)」を一時使用することになった。(写真をよく見て、シールズ・スタジアムの「照明灯の形」をよく覚えておいてもらいたい)

サンフランシスコ・シールズは、1949年に戦後初の日米野球が行われた際に来日したチームで、そのためマイナーとはいえ、日本のオールドファンには非常に有名で、1951年には川上哲治、藤村富美男、小鶴誠、杉下茂をキャンプに招待するなど、日本のプロ野球との間に深い交流があった。
シールズの49年来日当時の監督は、現役時代にイチロー、ジョージ・シスラーに次ぐシーズン254安打のMLB歴代第3位のヒット数記録をもつレフティ・オドゥール(Lefty O'Doul)。(1934年の日米野球では選手としても来日している。2002年「新世紀特別表彰者」として日本の野球殿堂入り)
与那嶺要は、手首の怪我から1947年に所属していたSan Francisco 49ersを離れ、フットボールから野球に転向したが、そのとき所属していたのが、このサンフランシスコ・シールズ傘下のSalt Lake Bees(ソルトレイク・ビーズ)で、与那嶺に日本への移籍を勧めたのが、他でもない、当時読売ジャイアンツのアドバイザーだったレフティ・オドゥールである。
Wally Yonamine, 85, Dies - Changed Japanese Baseball - NYTimes.com

Wally Yonamine Minor League Statistics & History - Baseball-Reference.com

ジャイアンツがシールズ・スタジアムを一時使用している間、サンフランシスコ・シールズは一時的にアリゾナ州フェニックスに移転し、名称も「フェニックス・ジャイアンツ(Phoenix Giants)」を名乗った。
1958年当時のサンフランシスコ・ジャイアンツは7つのファームを持っていたが、うち6つがそれぞれのリーグで優勝しており、西海岸移転当時のジャイアンツの人材育成システムには定評があった。

1958年4月15日シールズ・スタジアムにおけるサンフランシスコ・ジャイアンツ開幕戦の相手は、当然のことながら、ともに西海岸に移転してきたドジャース。
23,448人の大観客を集めたこのゲームは、ジャイアンツ3番ウィリー・メイズが4回裏の満塁のチャンスで打った内野安打による2打点などで、ジャイアンツが8-0と圧勝した。
April 15, 1958 Los Angeles Dodgers at San Francisco Giants Play by Play and Box Score - Baseball-Reference.com



観客数23,448人という数字は、少ないように感じるかもしれないが、もともと外野席が無いシールズ・スタジアムのキャパシティは、西海岸に移転してくるジャイアンツのための外野席増設を行っても22,900人しかなく、これでも超満員状態が続いたことになる。
実際、前年1957年ニューヨークでの観客動員数は、653,923人でリーグ最下位(8チーム中8位)だったジャイアンツが、サンフランシスコ移転以降は、1958年1,272,625人、1959年1,422,130人と、観客数は爆発的に増加し、ジャイアンツのサンフランシスコ移転は大成功だった。

真上からみたシールズ・スタジアム(外野席増設前)
出典:Fly with me over San Francisco in 1938 « Burrito Justice(外野席増設前)
上からみたシールズ・スタジアム(外野席増設後)
出典:The Search for Home Plate at Seals Stadium(外野席増設後)

やがて新球場が完成して、ジャイアンツがシールズ・スタジアムを去ることになり、1959年9月20日、シールズ・スタジアムでの最後のゲームが行われた。相手はシールズスタジアムのオープニングゲームと同じ、またしてもドジャース対ジャイアンツ。
このゲームは、この年21勝を挙げ、オールスターに初選出されたジャイアンツ先発サム・ジョーンズをドジャース打線が早めに打ち込んでマウンドから引きずり下ろし、8-2とドジャースがシールズ・スタジアム開場ゲームでの負けを雪辱した。観客は22,923人で、この狭い球場としてはもちろん満員御礼。
September 20, 1959 Los Angeles Dodgers at San Francisco Giants Box Score and Play by Play - Baseball-Reference.com


シールズ・スタジアムの取り壊し
Seals Stadium
〜1959年11月
とりはずされるシールズ・スタジアムのホーム・プレートとりはずされるシールズ・スタジアムのホーム・プレート

ジャイアンツが新球場キャンドルスティック・パークの完成を待つ2シーズンの間、本拠地を失ったサンフランシスコ・シールズは、アリゾナ州フェニックスに一時移転し、「フェニックス・ジャイアンツ(Phoenix Giants)」を名乗っていたが、アリゾナの酷暑に悩まされ、十分な集客ができなかった。
ジャイアンツが完成したキャンドルスティック・パークに移転した後のシールズ・スタジアムは、取り壊されて跡地はショッピングセンターにされることになったため、シールズはアリゾナからサンフランシスコに戻ることなくワシントン州タコマに移転することになり、戦後日本人にとても馴染み深かった「サンフランシスコ・シールズ」の名称は消滅することになった。シールズ・スタジアムは1959年シーズン終了後の11月に取り壊された。


タコマのチェニー・スタジアム開場と
シールズ・スタジアムの椅子と照明灯の継承

Cheney Stadium
1960年4月16日〜
Seals Stadiumから移設されてきたCheney Stadiumの照明灯

フェニックス・ジャイアンツは、アリゾナ州フェニックスからワシントン州タコマに移転して、新球場をつくり、「タコマ・ジャイアンツ(Tacoma Giants)」と名称が変わった。
その「タコマ・ジャイアンツの新球場」というのが、今まさにマリナーズのマイナー、レイニアーズが本拠地にしているワシントン州タコマのチェニー・スタジアム(Cheney Stadium)
タコマにマイナーの本拠地を置いたのは、この「タコマ・ジャイアンツ」が最初で、マリナーズのマイナーであるレイニアーズは、タコマにマイナーを置いた7番目のチームなのだ。

チェニー・スタジアム建設にあたっては、サンフランシスコのシールズ・スタジアムを取り壊したときに出た椅子や照明灯が移設されたのは有名な話で、それらの設備は今も使われている。
ドジャースとジャイアンツが西海岸に移転し、MLBが全米に拡張された1950年代末のさまざまな紆余曲折を経て、日本にも馴染みの深いシールズ・スタジアムの椅子は、巡り巡ってチェニー・スタジアムとマリナーズに引き継がれることになった。
Seals Stadiumから移設されてきたCheney Stadiumの木製椅子シールズ・スタジアムからチェニー・スタジアムに移設された木製椅子


ボールパーク・ドミノ」が起きた1958年にちょうどサンフランシスコに住んでいたワシントン州タコマ出身の作家・詩人リチャード・ブローティガンが、『A Baseball Game』という詩を書いたのは1958年2月だが、当時の彼が、サンフランシスコ・シールズが移転して彼の故郷タコマで「タコマ・ジャイアンツ」になることや、シールズ・スタジアムの椅子がタコマのチェニー・スタジアムに移設されることなどを知っていたのかどうかは、野球史としても文学史としても非常に興味深い話だが、残念ながら、その点についての資料が見つからず、いまのところ何もわからない。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年3月6日、リチャード・ブローティガン 『A Baseball Game』の野球史的解釈。 「1958年の西海岸」という特別な年、特別な場所。

(3)につづく
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (3)キャンドルスティック・パーク、ドジャー・スタジアム、シェイ・スタジアムの開場

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1950年にブルックリン・ドジャースのオーナーになったウォルター・オマリーが、後に「20世紀の三大悪人は、ヒトラー、スターリン、そしてウォルター・オマリー」などと酷く罵倒されることになった理由は、もちろんブルックリンの超人気球団だったドジャース(なんでも1946年からの10年間に、当時東西制導入前の8球団制ナ・リーグの全収入の44パーセントを稼ぎだしていたらしい)の西海岸移転を決めたからだが、1958年のドジャースとジャイアンツの西海岸移転が、それまで東に著しく偏っていたMLBを全米へ拡張させ、さらには、この2球団を中心にMLBが積極的な日本遠征を繰り返したことで、MLBの全米への影響力拡大や、また日本における野球人気向上にも大きく貢献したことを考えると、ウォルター・オマリーが当時のジャイアンツのオーナー、Horace Stonehamを説得して、1958年のドジャースとジャイアンツ同時の西海岸移転を決断させたことは、怒るのも無理はないブルックリン地元民のやるせない憤懣はともかくとして、野球界全体の発展からみるかぎり、大英断だったといえる。


ボールパーク・ドミノ

プロスポーツにおける球団移転は、本拠地とするスタジアムの変更を意味しており、移転先では新スタジアムが建設されることが多い。
1958年に起きたニューヨークの2大球団、ドジャースとジャイアンツの西海岸への移転は、MLB史にとって、ボールパークの流れを大きく変える転換点となった
この1958年の西海岸移転によって、アメリカ東部にあった由緒ある(だが老朽化した)MLB草創期のボールパークのいくつかが閉鎖され、その一方で、西海岸での新しいボールパークの建設(そしてニューヨークでの新しい球団とボールパークの創設)をもたらし、いわば「ボールパークのドミノ倒し現象」とでもいうような連鎖現象を生んだ。
そして、この連鎖的なスタジアム建設の流れの中で、ボールパークの建築方法は、古典的な木製の時代から、鉄骨とコンクリートでできた左右対称のコンクリートドーナツの時代に向かっていくことになる。
このボールパークの取り壊しと建設の連鎖的な流れを「ボールパーク・ドミノ」と呼ぶことにすれば、この「1958年のボールパーク・ドミノ」の影響は、アメリカ国内はもちろん、当時まだ整備が進められている最中で基盤の弱かった日本のプロ野球にも影響を与えた。

(ちなみに、ボールパークを扱ったサイトというのは、アルファベット順に羅列しているサイトが多い。それはそれでデータとしての使いやすさがあるのだけれど、その一方で、羅列は歴史ではない。
歴史というのは大河のようなもので、流れ、つまり、一定のストーリーがある。ボールパークについてのサイトの多くは、ボールパーク同士のつながりがストーリーとして、きちんと流れにまとめられていないことが多い)


エベッツ・フィールドの閉場
Ebbets Field
1913年4月5日〜1957年9月24日


Ebbets Field

ブルックリン・ドジャースで球団創設以来42年もの長きにわたって運営にたずさわったオーナー、チャーリー・エベッツは、建築デザイナーでもあり、本拠地エベッツ・フィールドはオーナーであるエベッツ自身の構想による由緒あるボールパークで、9回ものワールドシリーズが行われたが、1958年のドジャース西海岸移転により、歴史の舞台から姿を消すことになった。
ドジャースがブルックリンからロサンゼルスに移転したときのGMは、Buzzie Bavasi(1951〜1968)。かつてシアトル・マリナーズのGMをつとめたビル・バベジの父親である。
エベッツでの最後のゲームは、1957年9月24日火曜日のドジャース対パイレーツ戦で、観客はわずか6,702人。これは当時の人気球団ドジャースのゲームとしては少ない。また、最終戦の前にエベッツで行われたフィリーズ3連戦(1957年9月20日〜22日)でも、観客動員数は6,749、5,118、6,662と冴えなかった。地元ブルックリンの野球ファンは閉鎖するエベッツに来場しないことで、オマリーのドジャース西海岸移転に強い抗議の感情を表した。
September 24, 1957 Pittsburgh Pirates at Brooklyn Dodgers Box Score and Play by Play - Baseball-Reference.com
MLB草創期のボールパークは木製だったため、常に火災の危険がつきまとい、実際、火災で多くのボールパークが焼失している。(後述のポロ・グラウンズも1911年4月の火災によって一度焼失し、後に再建された)
しかし、エベッツ・フィールドは鉄筋とコンクリートでできたボールパークで、当時としては画期的な構造であり、収容人員も23000人と当初は十分だった。
だが、熱狂的なドジャース人気の高まりとともに多数の観客がエベッツ・フィールドに押しかけるようになると、球場はすぐに手狭になってしまい、外野席の度重なる拡張などで収容人員をなんとか32000人くらいまで拡張できたものの、それでもオーナーのウォルター・オマリーにしてみれば、エベッツの手狭さは大いに不満で、ニューヨーク市にもちかけた移転交渉が頓挫したこともあり、彼に西海岸移転を決断させる原因になった。1960年2月23日にエベッツ・フィールドは取り壊され、いったんは歴史を閉じた。

オリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズオリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズ

だが、後にクッキーカッター・スタジアムからの脱却をめざして建設されだした『新古典主義』といわれる新しいボールパークの建築様式のさきがけとなったボルチモアの『オリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズ』(1992年)が、チャーリー・エベッツの傑作エベッツ・フィールドをお手本にして作られたことから、エベッツ・フィールド風のボールパークのスタイルは、数十年の時を隔てた90年代以降にアメリカ各地で次々と復活を遂げることになる。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年8月21日、ボルチモアのカムデンヤーズは、セーフコのお手本になった「新古典主義建築のボールパーク」。80年代のクッキーカッター・スタジアムさながらの問題を抱える「日本のスタジアム」。



ポロ・グラウンズの閉場
Polo Grounds
1890年4月19日〜1963年12月



Polo Grounds
ニューヨークのアッパー・マンハッタンにあったポロ・グラウンズは、MLBニューヨーク・ジャイアンツが1883年から1957年までの長きにわたって使用していたボールパーク。1919年にジャイアンツを買い取ったオーナー、Charles Stonehamは、後にジャイアンツのオーナー職を受け継ぐことになる、息子のHorace Stonehamに、ボロ・グラウンズで切符のモギリから、あらゆる仕事を体験させ、野球にかかわる仕事の全てを教え込んだ。
ヤンキースの台頭による観客動員低迷に泣いたジャイアンツは、かつてボストンにあったブレーブスがセントルイスに移転して大成功を収めたのをみて、ドジャースのオーナー、ウォルター・オマリーの説得に応じ、サンフランシスコ移転を決意した。ジャイアンツは1957年秋を最後に、伝統あるポロ・グラウンズを去った。
ジャイアンツのポロ・グラウンズにおける最終ゲームは1957年9月29日のパイレーツ戦。奇しくも5日前、1957年9月24日には、同じくニューヨークを去って西海岸に移転するブルックリン・ドジャースがエベッツ・フィールドでの最後となるゲームで、やはりパイレーツと対戦していた。ニューヨークを去る2チームのホームパーク最終戦が、奇しくも2つともパイレーツとのゲームになったわけだ。
September 29, 1957 Pittsburgh Pirates at New York Giants Box Score and Play by Play - Baseball-Reference.com

ポロ・グラウンズからジャイアンツが去って以降は、いくつかのプロスポーツチーム(例えば1962年創設の新球団ニューヨーク・メッツなど)がこのスタジアムをを使い続けたが、結局長続きせず、1963年12月にはポロ・グラウンズは閉場。1964年4月には取り壊され、ポロ・グラウンズの長い長い歴史は終わった。

ブログ注:火災による消失や増改築を繰り返したポロ・グラウンズの歴史は、いくつかの期間に区分されるのが普通なのだが、区分を、「機銑犬泙任裡幹」とするか、「機銑垢泙任裡鬼」とするか?については、英語サイトでも意見が2つに割れてしまっている。
そのため、ジャイアンツがニューヨークのチームとしての最後のゲームである1957年9月29日パイレーツ戦のスタジアムは、「Polo Grounds 検廚班週するサイトと、「Polo Grounds 后廚班週するサイト、2種類が存在する。
例えば超有名野球データサイトBaseball Referenceでは、ジャイアンツが最終戦を行ったポロ・グラウンズをPolo Grounds と表記している。だが、アメリカ版Wikiや、Baseball Almanacのように、Polo Grounds と表記するサイトも多く存在する。また、ジャイアンツ公式サイトでは、「1911年から1957年にかけてのポロ・グラウンズ」を、Polo Grounds と表記しており、有力サイトBaseball Referenceと公式サイトが表記を異にしているのだから、ちょっと困る。
「区分が2種類に分かれる原因」は、どうも「1889年から90年にかけての資料の乏しい時代のポロ・グラウンズを、兇肇ウントするか、靴箸垢襪」という微妙な点に原因があるようだが、詳しいことはわからない。
Giants Ballparks | SFGiants.com: History
だが、そういう細部にこだわらずにおくなら、「ジャイアンツの西海岸移転直前のポロ・グラウンズ」については、あらゆるサイトの意見が一致している。それを犬班週するか、垢班週するかという「数え方の問題」はあることを別にすれば、「ジャイアンツが西海岸に移転する直前まで使用していたスタジアム」は、「1911年から1957年までのポロ・グラウンズ」である。
San Francisco Giants - Home Stadiums | Heritage Uniforms and Jerseys

さて、よく知られているように、ポロ・グラウンズは当初ジャイアンツがヤンキースに「貸して」いた。しかし1920年にヤンキースがボストンからベーブ・ルースを獲得すると、ニューヨーカーの野球人気は飛ぶボール、ホームランの出やすい球場の派手なヤンキースに大きくシフトしてしまい、ジャイアンツはいわば「軒を貸して母屋をとられる形」になった。
怒り心頭のジャイアンツはヤンキースに対し「1921年以降のポロ・グラウンズ使用を禁じる」と通告したが、ヤンキースはポロ・グラウンズのハーレム・リバーを挟んでちょうど反対側にあるブロンクスに旧・ヤンキースタジアム(1923〜2008)を建設して本拠地を移したため、ヤンキース人気に歯止めをかけることはできなかった。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年8月25日、セーフコ、カムデンヤーズと、ヤンキースタジアムを比較して、1920年代のポロ・グラウンズとベーブ・ルースに始まり、新旧2つのヤンキースタジアムにも継承された「ポール際のホームランの伝統」を考える。

(2)へつづく
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (2)ロサンゼルス・メモリアル・コロシアム、シールズ・スタジアムの一時使用と、チェニー・スタジアムの建設

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サンフランシスコの名コラムニスト、ハーブ・ケインハーブ・ケイン

ワシントン州タコマ生まれの作家リチャード・ブローティガンの詩 『A Baseball Game』は、ドジャースとジャイアンツがニューヨークから西海岸に移転してMLB史の流れを大きく書き換えた「1958年」の2月に、当時彼が住んでいたサンフランシスコで書かれた。
2012年3月6日、「1958年の西海岸」という特別な年、特別な場所。リチャード・ブローティガン 『A Baseball Game』の野球史的解釈。 | Damejima's HARDBALL

ブローティガンは、ジャック・ケルアック(Jack Kerouac 1922-1969)などの「ビート・ジェネレーション」と60年代ヒッピーの中間に位置するなどと、よく位置づけられているわけだが、マス・メディアによって、ビート・ジェネレーションを指す「beatniks(ビートニクス)」という言葉が新たに作られたのも、ブローティガンが『A Baseball Game』を書いた1958年のサンフランシスコなのだから、やはりこの「1958年の西海岸」は、特別な年、特別な場所なのだ。


ちなみに、今日書きとめておきたいのは、beatniksという言葉が根本的に誤解されているという話だ。

簡単にいえば、ケルアックが作ったといわれる「ビート」と、メディアが作った「ビートニクス(あるいはビートニク)」という単語は、言葉がつくられた経緯も意味も、まるで180度違う言葉なのだ。このことをまるで理解しないまま「ビートニク」という単語を安易に使っている人があまりにも多過ぎる。


ビートニク」という造語をcoin(=硬貨を鋳造する、新しい言葉をつくる)したのは、サンフランシスコ・クロニクル(San Francisco Chronicle)で長年活躍し、ピューリッツァー賞(1996年Special Citation=特別表彰)も受賞している名コラムニスト、ハーブ・ケイン(Herb Caen 1916-1997)だ。
(ついでに言っておくと、「ビート」を揶揄する記事を書いたからといってハーブ・ケインの名誉や業績に傷はつかない。なぜなら、彼が記事で書いた「ビート族の粗野なふるまい」は、アメリカでもきちんと触れているひとは触れている「事実」だからだ。知らない人が無知なだけだ)

ハーブ・ケイン愛用のロイヤル社のタイプライター
ハーブ・ケイン愛用のタイプライター。ブログ主もひとつ所有している「ロイヤル社」製。サンフランシスコ・クロニクルに展示されている。


「ビートニク」という造語について知っておくべき最も重要なことは、それを発明したハーブ・ケインが、このbeatnikという単語を「見下した侮蔑的な意味」で使っているということだ。

「ビートニクという言葉はビートに対する侮蔑を意味する言葉として発明された」ことをまるで知らないまま、「ビート」と「ビートニク」を同じ意味の言葉と勘違いして、混同している人があまりにも多い。
困ったことに、ビート・ジェネレーション作家の作品のファンにすら、そういう人が掃いて捨てるほどいるし、また、ビートを見下す言葉として発明された「ビートニク」という単語を、ビート・ジェネレーションへのオマージュを表す言葉と勘違いしてバンド名やアルバムタイトルにつけて喜んでいる「アホなミュージシャン」すら日本には存在する。
(ハーブ・ケインは、この言葉を1950年代のソ連の人工衛星スプートニクから発想を得たといわれているが、なぜまたスプートニクになぞらえたかについては、もちろん理由がある。ちょっと時代背景を考えればわかるが、めんどくさいので書かない)


ケインがこの言葉を使った1958年4月2日の彼のコラムを見てみる。
彼は、当時のアメリカの有名雑誌、Look (1937年創刊、1971年廃刊)がサンフランシスコのノースビーチにビートを集めて開催したパーティの参加者を、まるで「エサに群がる野良猫」扱いして、冷やかにこう書いている。
"Look magazine, preparing a picture spread on S.F.'s Beat Generation (oh, no, not AGAIN!), hosted a party in a No. Beach house for 50 Beatniks, and by the time word got around the sour grapevine, over 250 bearded cats and kits were on hand, "

出典:Pocketful of Notes(=1958年当時のコラムを1997年にサンフランシスコ・クロニクルが再掲したもの。太字はブログ側で添付)
注:No. Beachとあるのは、サンフランシスコの北東部にある街、North Beach。ビート文学の中心地とみなされ、ケルアック、ギンズバーグの作品を出版したLawrence Ferlinghetti (ローレンス・ファリンゲティ 1919-)のシティ・ライツ書店(City Lights Booksellers & Publishers) もNorth Beachにある。




日本のサイトではいまだに、「ビートニクスは、ビート・ジェネレーションの別名」などと、ある意味間違った記述が平気でまかり通っている。あたかも「ビートニクス」という言葉それ自体が、ビート・ジェネレーションの作家の発明品かなにかででもあるかのように、「ビート」と「ビートニクス」は混同して扱われてきた。

この「ビートとビートニクス、意味の違う2つの言葉の混同」は、残念なことに、日本だけのでなくアメリカでも常態化しており、例えば「ジャック・ケルアックはビートニクスだ」などと、間違った用法をしていても、間違いに誰も気づかなくなってしまっている。
(なお、ジャック・ケルアック自身はこの「ビートニク」という言葉を自分でも使っていた時代があった。他方アレン・ギンズバーグは、この言葉をひどく毛嫌いしていた)


だが、「ビート」と「ビートニクス」を同じものとして扱うのは間違いだ。根本的なところが間違っている。


英語表記では、Beatは固有名詞として「大文字」からはじまり、beatniksは「小文字」ではじまる。2つの言葉の扱いが違うのには、意味がある。

誤解の起こる原因の大半は2つある。
ひとつには、beatniksという言葉を発明したのが、Beatという固有名詞やBeatのライフスタイルを生んだジャック・ケルアックでも、他のビート・ジェネレーションの作家や詩人でもなく、作ったのは、ビートのステレオタイプを離れた位置から冷やかに眺めていたマス・メディアのコラムニストであるハーブ・ケインであるのに、そのことを大多数の人が全く頭に入れないまま、この言葉を流通させてきたこと
2つ目に、ビート・ジェネレーションの作家・詩人たち自身が、この「ビートニクス」という単語にどんな違和感を感じ、どう異議を唱えてきたかという点が、この言葉が生まれて半世紀も経つ2012年の現在に至るまで追求されずにきたことだ。


ビートとビートニクという2つの意味の異なる言葉が長年にわたって混同されてきた結果、1950年代後半のファッション化した「ビート」、つまり、「ビートっぽい身なりとビートっぽい発言をして、やたらとビートっぽくふるまいたがる、ちょっとイカれた人たち」を指して「ビートニクス」と呼ぶようになってしまい、ますますビートとビートニクスの区別がつかない人が大量生産されていった

それが、リチャード・ブローティガンが『A Baseball Game』を書き、ハーブ・ケインがbeatnikという単語を発明した、「1958年のサンフランシスコ」という場所と時代の、ひとつの側面でもある。
つまり、「1958年当時すでにビートはステレオタイプ化しつつあった」のであり、若いリチャード・ブローティガンがその影響を受けなかったとは、とても思えない。


詩人アレン・ギンズバーグは、この「ビートニクス」という言葉についてニューヨーク・タイムズにthe foul word beatnik(『ビートニクとかいう不愉快な言葉』)というタイトルの文章を寄稿し、不快感を露わにしている。
ルーズさが持ち味のケルアックは「ビート」と「ビートニクス」という言葉を混同することがよくあったが、潔癖な性格のギンズバーグは、オリジナルな意味の異なるこれらの言葉を明確に区別して使っているのである。
"If beatniks and not illuminated Beat poets overrun this country, they will have been created not by Kerouac but by industries of mass communication which continue to brainwash man."
「もし、いわゆる『ビートニクス』や脚光を浴びたことのないビートの詩人たちがこの国を荒らした、とするなら、彼らの存在は、(ビートの生みの親である)ジャック・ケルアックが創造したのではなくて、人々を洗脳し続けているマスメディアの産物である。」
Beatnik - Wikipedia, the free encyclopedia


Beatの生みの親と言われているジャック・ケルアックの場合、「俺はビートニクスなんかじゃない。カソリックだ」という彼特有の言い回しによる有名なフレーズを残しているように、ビートニクスという言葉に対する違和感を主張したこともあるくせに、彼自身が「ビート」と「ビートニクス」という単語を頻繁に混同して使っている。(もっとも、彼に統一的な用語法や一貫性を求めるような律儀さ自体が無意味なわけだが)
"I'm not a beatnik, I'm a Catholic", showing the reporter a painting of Pope Paul VI and saying, "You know who painted that? Me."
Beatnik - Wikipedia, the free encyclopedia

"I watch television," he said, leading the way up the front step. "San Francisco Beat--- you know that television show with the two big cops. Two big plainclothes cops running around grabbing these bearded beatniks. On television, yeah. And the bearded beatniks always have guns and they're beatin' the cops." He chuckled and, still chuckling, added: "I never knew beatniks had guns.
「テレビ番組だとなぁ、ヒゲはやしたサンフランシスコの『ビート』とやらが、いつも拳銃を持ってんだよな。でも俺にいわせりゃ、拳銃持ってる『ビートニクス』なんて、ひとりも知らねぇ」
F:\column22.html



ちなみに「ビートとビートニクス、2つの言葉の根本的な差異」をきちんと指摘しているアメリカのサイトも、もちろんある。
The term Beatnik was coined by Herb Caen of the San Francisco Chronicle on April 2, 1958 as a derogatory term
「『ビートニク』という単語は、サンフランシスコ・クロニクルのハーブ・ケインによって、1958年4月2日に、見下した意味の用語として新たに作られた。」
Beatniks - The Beat Generation - Hippie


Ginsberg wrote of "the foul word beatnik" and claimed (probably rightly) that it was a media creation and not something he or the other beat writers were happy to be associated with.
「ギンズバーグは、『ビートニクとかいう不愉快な言葉』を書き、この言葉と関わりになることで、ギンズバーグ自身や、他のビートの文学者たちがハッピーだと思えるようなシロモノではないことを主張した。」
Kerouac and other beat writers tried to turn the term around and use it in a more positive manner
「ケルアックと他のビートの作家たちは、この用語の意味を転換させ、もっとポジティブな形に使われるようにしようと尽力した」
Voices Of East Anglia: Beatnik Generation


トルーマン・カポーティは、「テレビで、拳銃を持ったステレオタイプのビートが登場する」のを見て呆れたと話すジャック・ケルアックに、こう言ったそうだ。雑誌ニューヨーカーで働いた経験のあるカポーティらしい、短いがシャープな発言だ。
they don't write, they typewrite.
「やつらは、手で書いたりしない。
 ただタイプライターを打つだけなんだ。」

F:\column22.html


「ビートとビートニクスの差」は本来は、トルーマン・カポーティが言うように、新しいムーブメントを生み出す創造行為と、人のやることを見てタイプライターを打って記事を書くだけのメディアとの差」なのだ。
ビートとして創造的なリアルライフをおくることと、ビートについてメディアで遠回しに批評することには大きな差があるし、自分の頭と経験によって新しい文学を創造することと、世の中で起きることを眺めてタイプライターを打つことには大きな隔たりがある。


サンフランシスコで長く愛されたハーブ・ケインをけなしたくて、この文章を書くわけではない。
イチローがフィールド上でバットを振る仕事と、それを見てキーボードを叩くだけの仕事の間には、果てしれぬほど大きな差があるように、「ビートとビートニクスの差」くらい、わきまえて書き、「書くことそのものの労苦と、タイプライターを打って記事にすることの差」くらい、わきまえて語ってもらいたい。それだけの話だ。(といって、簡単にできることでもないが)

もっとシンプルに言うなら、ビートを気取りたいなら、せめてビートニクスとは名乗るな、ということだ。
(作家自身が「ビートニクス」という言葉を自称するようになったら終わり、というような意味のことを、たしかギンズバーグも言っていた)
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ボブ・ディランとアレン・ギンズバーグ
ボブ・ディランと何事か語るアレン・ギンズバーグ

March 19, 2012

2イニング、3イニングと徐々に登板イニング数を増やしてきたダグ・フィスターが、フロリダのグレープ・フルーツ・リーグ(Grapefruit League)ワシントン戦で3度目の登板。今シーズンのスプリング・トレーニングで最長となる4イニングを投げ、圧巻の7奪三振で順調さを見せつけた。
Detroit Tigers at Washington Nationals - March 18, 2012 | MLB.com Classic

実戦ではないスプリングトレーニングで打者から逃げ回って四球連発しているようなことでは心もとない。今日のフィスターは37ピッチで32ストライク。1回などは味方内野手のエラーを挟んで、3者三振。いつものようにランナーは出すものの、アグレッシブにナッツのバッターを攻め続けて、また一段とMLBのピッチャーらしい風格が出てきた。
Doug Fister Stats, Video Highlights, Photos, Bio | tigers.com: Team


何度も書いてきたように、フィスターはシアトル時代からもともと「ランナーを出しはするが、失点はほとんどしないタイプ」だから、このピッチャーの良さは「一夜漬けの数字野球にハマったまま抜け出せなくなっている無能なGM」や、「試合を見ず、FIPやWHIPのような指標だけで選手のことを何もかもわかっていると勘違いしている馬鹿な数字オタク」にはわかりっこない。(後になって、後付けで彼がシアトル時代も良かったとか称する数字をほじくり返してくるくらいが関の山だ)

ピッチャーの中にはいろんなタイプがいる。
指標ばかりありがたがる人間が多くなっているわけだが、彼のように、いつもWHIPはダメだが、ピッチャーとしては十分実力のある投手もいる。フィスターは、ランナーは出すものの、だからといって四球連発はしないし、ホームランも打たれない。けしてコントロールが悪いわけでもなく、また、度胸がないわけでも、ランナーが出た後の慎重さがないわけでもない。グラウンドボール・ピッチャーだから、いざとなったらダブルプレーをとる投球術も心得ている。

もしフィスターが、きわどくコーナーを突くピッチングをすることばかりに必死になって、四球を連発した挙句にホームランを浴び、大量失点するような悪いときのデイビッド・アーズマ松坂のようなピッチャーだったら、彼はいま、昨年のメジャーの地区優勝チームの先発マウンドには立ってない。


数字なんか見ていても、ダメなヤツはダメなままだ。
今日のようなゲームで、無能な人間が「シアトル時代に何を見てこの投手を酷評していたのか」がわかる気がする。

March 17, 2012

先日ツイッターで、「ダルビッシュのフォームが崩れている」という主旨のことを書いたが、そのことをちょっと詳しく書いて、後々のためのメモを残しておきたい。


ちょうど去年の今頃、MLBに移籍する前のダルビッシュのフォームについて、こんなことを書いた。
特徴的なのは、「左足」をホームプレート方向に踏み出しているのにもかかわらず、「上半身」が、「左足の向きとはまさに正反対」なこと。つまり、ダルビッシュは「プレートに背中を向けた状態を保ったまま、左足をホームプレート方向に踏み出せる」のである。
おそらく体を「故意に、強烈に、よじっている」のだ。

ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年3月23日、昔のダルビッシュと、今のダルビッシュ、どこが、どういう意味で違うのか。ノーラン・ライアン、松坂と比べながら、考える。

指摘したかったメジャー移籍前のダルビッシュのフォームの特徴のひとつは、「上半身を強くよじったままの状態」を保って投球するフォーム、別の言い方をすれば、「上半身を、下半身より常に遅らせて動作するフォーム」だという点だ。

たとえていうなら、ねじったドーナツである「ツイスト」だ。

Twist Donut



ついでだから、このブログでは、便宜的にメジャー移籍前のダルビッシュのフォームを、誰もが「ダル」と呼ぶダルビッシュのことをWBCで冗談まじりに「ビッシュ」と呼んだイチローにならって、「ビッシュ・ツイスト」と呼ぶことにする(笑)

ビッシュ・ツイスト」では、「カラダに強いひねりを加える」目的で、「上半身を、下半身よりわざと遅らせて動作する」のがポイントのひとつだ。
バッター側から見ると、ダルビッシュの下半身がホームプレートをまっすぐ向くのが見えるにもかかわらず、背番号がまだ見えているような、「カラダのねじれ」、つまりこのブログのいう「ビッシュ・ツイスト」状態が作り出される。
この「ねじれ」たカラダを瞬時に反対向きにひねることで、ひねりから発生するチカラでボールに威力が加わるだけでなく、フォーム全体を「速く、しかも安定した状態で終了する」ことができる。
そして、この一連の動作のためには、松阪投手や岩隈投手がやっているような、このブログでいうところの「蹴り出し動作」は必要ないし、無いほうがいい。(そもそも「蹴り出し動作」のある投球フォームと、蹴り出しの無い「ビッシュ・ツイスト」はメカニズムと体のバランスが根本的に違う。ダルビッシュも昔はこの「蹴り出し動作」をやっていた。 ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年3月23日、昔のダルビッシュと、今のダルビッシュ、どこが、どういう意味で違うのか。ノーラン・ライアン、松坂と比べながら、考える。


「ピッチャーが投球動作全体を早く動作することのメリット」については一度書いた。以下の記事で引用した、Eduardo PerezがBaseball Tonightで行ったクリフ・リーのフォームについての指摘を参照してもらいたい。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年10月26日、クリフ・リーの投球フォームが打ちづらい理由。「構えてから投げるまでが早くできている」メジャーの投球フォーム。メジャー移籍後のイチローが日本とはバッティングフォームを変えた理由。

また、松坂投手、岩隈投手の「蹴り出し動作」、プレートに対して横向きに踏み出す動作、ノーラン・ライアンとの比較などについては、下記の記事を参照してもらいたい。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年3月23日、昔のダルビッシュと、今のダルビッシュ、どこが、どういう意味で違うのか。ノーラン・ライアン、松坂と比べながら、考える。

ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年3月25日、ノーラン・ライアンを思わせる「前ステップ」をみせる大阪ガスの松永昂大投手。高校からプロになった投手と、大学を経由した投手とのフォームの違い。



さて、テキサスに移籍して以降のダルビッシュだが、どんどん「ビッシュ・ツイスト」から離れて行っている印象があった。渡米直後の初ブルペンからこの傾向があって、3月13日のインディアンス戦でますます酷くなった感がある。

わかりやすい話として、「踏み出された左足の、つま先の向き」(あるいは膝の向き)に注目して下記の写真を見てみてもらいたい。



MLB移籍前

投球動作のかなり速い段階で、「左足つま先」がホームプレート方向を向いているのがわかる。
つま先がプレート方向をまっすぐ向くくらいだから、当然のことながら、「左足の膝」もしっかりホームプレート方向を向いている。つまり、左足のつま先と膝の向きから明らかなことは、下半身全体が、投球動作のかなり早い段階でしっかりプレート方向に向いていること、である。(だからリリース時にも左足位置は全くズレない)

だが、上半身は、というと、バッターにダルビッシュの背番号が見えるほど、ひねった状態をキープしている。これがまさに「ビッシュ・ツイスト」だ。

WBCにおける「ビッシュ・ツイスト」

日本ハム時代の「ビッシュ・ツイスト」



MLB移籍後

しかし、テキサスに移籍してからのダルビッシュの「左足のつま先」は、明らかにプレート方向を向くのが日本にいるときよりも遅い(下記の写真の赤い線で四角く囲った「左足のつま先」部分)。
左足の膝もサード側を向いたままだ。
つま先も、膝も、日本時代よりサード側を向いて投げているということは、「左足をまっすぐ、大きくプレート方向に踏み出していない」こと、「下半身をプレート方向にまっすぐ向けて投げていない」こと、を意味する。
また、細かく言えば、松阪投手風の「蹴り出し」動作も多少復活してしまっているために投球動作全体がやや遅くなり、バッターがタイミングを合わせやすくなってしまっている。

「ビッシュ・ツイスト」してないダルビッシュ(ブルペン)渡米直後の
ブルペン

「ビッシュ・ツイスト」してないダルビッシュ(インディアンス戦)3月13日
スプリング・トレーニング インディアンス戦


「下半身全体がプレート方向をまっすぐ向かないまま」踏み出しすと、投球動作は一瞬の出来事なのだから、上半身の動作はすぐに下半身に追いついてしまい、上半身と下半身は同時にボールのリリース動作に入っていってしまう。そして腕の振りは速度が速いため、すぐに下半身の時系列的変化を追い越してしまう。

このことで起こるのは
上半身と下半身の動作が揃ってしまう」ことだ。


これはマズい。
というのは、上半身と下半身が同じタイミングで動いたのでは、「カラダ全体に独特のヒネリが加わわらない」、つまり、ビッシュ・ツイスト」が起らないないまま投げることになってしまう、からだ。


本来の「ビッシュ・ツイスト」では、プレート方向に大きく、しかも「まっすぐ」踏み出した左足でまず地面をしっかりと踏みしめる。(ここで、あらかじめまっすぐ踏み出しておくからこそ、ボールをリリースする瞬間に、左足の位置、特に踵の位置を直す必要がなくなり、コントロールが安定する)
それから、かなり遅れて上半身がかぶさってきて、ボールを強くリリースする仕組みのはずだ。
だが、「上半身と下半身の動作が揃ってしまう」と、こうした「上半身と下半身の動作を故意にずらして、カラダにヒネリを生みだし、ヒネリからパワーを発生させるメカニズム」そのものが消えて無くなってしまう。

まぁ、そんなむつかしいことを言うよりなにより、下半身と上半身が同時にプレート方向を向くと、なんともいえず力感の無いというか、ぶっちゃけ「ブサイクな投球フォーム」になってしまう。(下記の写真の状態。明らかに下半身の動きを上半身が追い越してしまっている)
見た目に「ブサイク」なフォームというのは、たいていどこかに欠陥があるものだ。

3月13日インディアンス戦 手投げのダルビッシュ



どうして「ビッシュ・ツイスト」の本来の形が崩れたのだろう。

ひとつ考えられるのは、左足の「ふみ出し幅」を、MLBのマウンドに合わせて「故意に小さくしよう」としたことではないか、と推測する。

もともと「ビッシュ・ツイスト」では、まっすぐ、しかも、大きく、プレート方向に踏み出していたわけだが、もし、左足の踏み出しを小さくすると、下半身の動作が中途半端なタイミングで、しかも予定しているタイミングより早く終わってしまい、遅らせて動作するはずの上半身が、プレート方向に前のめりに突っ込んでいくような感覚とタイミングでリリースに進んでいくために、上半身と下半身の動作のズレが発生しなくなり、結果的に下半身と上半身の動きが揃ってしまって、カラダのヒネリの効果が失われてしまう。

あと、細かい点でいうと、(「蹴り出し動作」の復活もあって)最初からプレート方向にまっすぐ踏み出さないせいで、ボールのリリース時に、カラダを支えている左足の踵(かかと)が横に「ズリッ」と横ズレする現象まで起きはじめてしまう。(MLB移籍後の動画で、ダルビッシュの投球動作を後ろから見ると、この「左足スベリ現象」がわかると思う)
参考:MLB公式サイトのビデオ(以下の動画で、15秒目、23秒目、30秒目あたり。ボールリリース時に左足が「ズリッ」っと横にズレるのがよくわかる。また、46秒目などは左足のカカト側に体重があるためズレないが、ズレるときと、ズレないときがバラバラあるのも良くはない)
Baseball Video Highlights & Clips | TEX@CLE: Darvish yields two runs in three innings - Video | MLB.com: Multimedia
この状態だと左足がかなり「つま先立ちの状態」になっていて、しかも投げる瞬間に横にズレて投げていると思われるわけで、これではコントロールは安定しないのも当然だろう。


だが、まぁ、なんやかんやいっても、頭がよく柔軟性のある彼のことだから、すぐに修正してくると思う。心配いらないだろう。早く万全な状態での登板が見たいものだし、開幕以降の彼のピッチングが楽しみでならない。
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March 07, 2012

リチャード・ブローティガン(Richard Brautigan 1935〜1984)は、シアトル・マリナーズのマイナーが置かれているワシントン州タコマ生まれの作家、詩人だ。


彼の名は、文学ファンには、村上春樹氏などに影響を与えたことなどでよく知られているわけだが、野球ファン、野球メディアにはどうだろう。ほとんど知られていないと思う。(ちなみに、春樹氏はかつて神宮球場近くでジャズ喫茶を経営していて、野球観戦中に作家になることを決めたらしい)
地元の文学者とはいえ、シアトルローカルの野球ライターたちの書くものにブローティガンの名前が出ることは、おそらくないだろう。かつてスポーツ評論にも類稀な才能をみせた寺山修司三島由紀夫が、スポーツライターには到底書けない独特の筆致で、ボクシングなど様々なスポーツの興奮やドラマを描き出してみせたような才覚が、シアトルのビートライターたちにあるとは到底思えない。(例えば三島氏はかつて、ある褐色の肌のボクサーのことを、『ひたひたと押し寄せる琥珀色の波だ』と描写してみせた)


さて、ブローティガン作品に、彼が1958年にサンフランシスコでプラプラしているとき書かれた、9つのパートからなる『The Galilee Hitch-Hiker(ガリラヤのヒッチハイカー)』(1958年5月初版)という詩がある。
この作品の7番目のパートは『A Baseball Game』というタイトルで、フランスの詩人ボードレールが観戦したニューヨーク・ヤンキースとデトロイト・タイガースの試合で起こった架空のハプニングが描かれている。(日本語訳は、『チャイナタウンからの葉書』池澤夏樹訳、あるいは個人ブログ等を参照)

Baudelaire went
to a baseball game
and bought a hot dog
and lit up a pipe
of opium.
The New York Yankees
were playing
the Detroit Tigers.
In the fourth inning
an angel committed
suicide by jumping
off a low cloud.
The angel landed
on second base,
causing the
whole infield
to crack like
a huge mirror.
The game was
called on
account of
fear.

この野球について書かれている(ように見える)詩の複雑な文学的解釈はそれ専門の人に任せておきたいが、「野球ファンとしての目線」から言うと、どうしても注釈をつけて、この詩を読む人にあらかじめ頭に入れておいてもらいたい点が、いくつかある。
大江健三郎氏に『万延元年のフットボール』というタイトルの作品(1967年)があり、村上春樹氏に『1973年のピンボール』という作品(1980年)があるが、『1958年の西海岸野球』には、他の年、他の場所には存在しない「特別な意味」がある。
だから、この詩を読むにあたっては、野球史的な意味も考慮に入れてもらわないと、この詩が、文学方面だけは詳しいが、野球についてはまるで詳しくない頭デッカチな人たちの手によって、あらぬ方向に解釈されてしまう気がしてしょうがない。(また、この作品自体の重さ自体がもともと、良くも悪くも「軽い」ということを忘れてはいけないと思う)



「1958年」の「サンフランシスコ」は
野球にとって、どういう時代と場所か?


この詩が書かれたのが、いつ、どこで、なのかはハッキリしている。9つのパートからなるこの詩の最後に、ブローティガン自身が、San Francisco / February 1958と明記しているからだ。
この「1958年のアメリカ西海岸において、野球について書くこと」の意味は、文学解釈の恍惚感からだけ、この詩を味わいたい人にとってはどうでもいいことだろうし、たぶん理解できないだろうとも思うが、20世紀のMLBの発展史にとっては、とても重要な「時代」と「場所」だ。

というのも、
MLB草創期からずっとニューヨークのブルックリンにあったドジャースが西海岸のロサンゼルスに、そして、同じくニューヨークのアッパー・マンハッタンにあったジャイアンツが西海岸のサンフランシスコに移転したのが、この「1958年」だからだ。(MLBの西海岸進出が現実化できた背景には、「広大すぎるアメリカ大陸を東西に短時間で横切ることを可能にしたジェット旅客機という移動手段の発明」もあるわけだが、それはまた別の機会にくわしく書く)

アメリカ東海岸を中心に始まったMLBが西海岸に進出しはじめた最初の年、そして簡単には行き来できなかった世界がジェット旅客機で結ばれ始めた年が、この「1958年」だ。

それまで西海岸には、エンゼルス(1961年創設)もなければ、ワシントン・セネタース(現テキサス・レンジャース 1961年創設)も、パドレス(1969年創設)も、ドジャースすらなかった。
それどころか、セントルイス・カージナルスの人気に圧倒されていた同じセントルイスのブラウンズが、活路を求めてボルチモアに移転し、ボルチモア・オリオールズとして生まれかわる1954年まで、アメリカのほぼ中央にある都市セントルイスよりも西、つまり、アメリカ合衆国の西半分に、MLBの球団は全く存在していなかった

中西部のセントルイスの位置


地形からみたアメリカ合衆国
地形からみたアメリカ


現在のMLB球団所在地の州別のバラつき
山地の多く都市が海岸にある西部では、球団は海岸部にある
MLBの球団所在地の州別のバラつき


Pan American World AirwaysMLBができて半世紀以上たっているにもかかわらず、1958年までアメリカ西海岸にMLBのチームがなかった理由のひとつは、「移動手段」だ。
ボーイング社のボーイング707やダグラス・エアクラフト社のDC-8といったジェット旅客機の名機が誕生するのは、1950年代後半になってからのことで、さらにジェット旅客機が大衆化するのはさらに下った1960年代なのだから、1950年代までは、いくら先進国アメリカといえど、野球チームが広大な北米大陸を東西に高速で自由に行き来できる移動手段そのものが存在していなかった。(例えば今はなきPan Amボーイング707がヨーロッパに初就航したのも、この1958年である(1958年10月26日ニューヨーク-パリ)。
もしジェット旅客機が発明されなかったらアメリカ最西部のシアトルにMLBのチームなどできることはなかったことを考えると、ボーイング社がシアトルにあることの意味は非常に面白い。(後にダグラス・エアクラフト社は、1967年にセントルイスのマクドネル・エアクラフト社と合併してマクドネル・ダグラス社となり、さらに1996年にはボーイング社に吸収されることになる)

Boeing 707Boeing 707
(Pan Am)

Douglas DC-8Douglas DC-8
(Trans Canada)


かつてニューヨークにあったジャイアンツの本拠地ポロ・グラウンズをめぐるジャイアンツとヤンキースとの間のトラブルと、軒を貸して母屋を取られたジャイアンツが活路を求めて西海岸へ移転する経緯については、下記の記事参照。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年8月25日、セーフコ、カムデンヤーズと、ヤンキースタジアムを比較して、1920年代のポロ・グラウンズとベーブ・ルースに始まり、新旧2つのヤンキースタジアムにも継承された「ポール際のホームランの伝統」を考える。


「1958年」の「ヤンキース」と「タイガース」は
どんな位置づけにあるか


MLBの歴史を眺めればすぐにわかることだが、
ア・リーグとナ・リーグは、発足当初、それぞれに8チームずつが属していたが、エクスパンジョンによる球団増加によって1969年に「東西2地区制」に、さらに1994年に現在の「3地区制」になった。
だから、ブローティガンがこの詩を書いた1958年2月早春の時点のヤンキースとタイガースは、現在のように、東地区のヤンキース、中地区のタイガースという別の地区の球団ではなく、「8球団が属するア・リーグの2チーム」なのだ。
1958 American League Season Summary - Baseball-Reference.com

1958年のMLBとア・リーグはどういう状況だったか。

ひとことでいうなら、いくつかあるヤンキース黄金時代のひとつだ。監督はケーシー・ステンゲル。選手にヨギ・ベラミッキー・マントル、サイ・ヤング賞投手ボブ・ターリー
1949年から1953年にかけてワールドシリーズ5連覇を達成したが、さらに50年代後半には1955年から1958年にかけてア・リーグ4連覇、ワールドシリーズも2度優勝しており、ドジャースとジャイアンツが西海岸に移転した1958年のワールドシリーズも、ヤンキースがハンク・アーロンのいたミルウォーキー・ブレーブスを4勝3敗で破って優勝している。
(1953年から1965年まで、ミルウォーキーには、現在のアトランタ・ブレーブスが本拠地を置いていた。ブレーブスが1953年に本拠地をボストンからミルウォーキーに移し、観客動員を28万人から182万人に激増させることに成功したことは、ニューヨーク・ジャイアンツのオーナー、Horace Stonehamが球団の西海岸移転を決めるきっかけになった。その後ブレーブスはミルウォーキーからアトランタに再移転。その後1970年にバド・セリグがブリュワーズを買収してミルウォーキーに移転させ、今日に至る)
New York Yankees Team History & Encyclopedia - Baseball-Reference.com


同時期のデトロイト・タイガースはどうだったかというと、長い低迷期が続いていた。当時はまだ現在のコメリカパークができる前で、Tiger Stadium(Briggs Stadium)が本拠地だったが、監督はコロコロ変わり、1950年代に優勝にからんだのは1950年の2位のみ。

Tiger Stadium
ブローティガンがこの詩を書いた1958年、デトロイト・タイガースは77勝77敗で、ア・リーグ5位。
ゴールドグラブ賞をイチローと同じライトのポジションで10回獲得して野球殿堂入りしているAl Kaline(アル・ケーライン)(彼の背番号6は、タイガースの永久欠番)が在籍していたとはいえ、チームに優勝の気配はまるで無かった。(この詩で描かれたゲームが、どちらのチームのフランチャイズで行われたと想定されているかについては、当時の両チームの力関係を考慮して考える必要があるだろう。また、実際のヤンキース対タイガース戦を前提にしてないとも限らない)

この時期のデトロイトが低迷し続けた理由として、長きにわたってアフリカ系アメリカ人選手の入団を拒み続けたことが指摘されている。
1947年にあのジャッキー・ロビンソンをメジャーデビューさせたのは、西海岸移転前のブルックリン・ドジャースだが(いわゆる『カラーバリヤー』の打破。このときジャッキー・ロビンソンを発掘したのが、当時現役を引退してブルックリン・ドジャースのスカウトになっていたジョージ・シスラー)、これをきっかけに多くのアフリカ系アメリカ人選手がMLBで活躍しはじめ、MLBのレベルが格段に向上していく時代になっても、門戸を閉ざしていたデトロイト・タイガースはその流れに取り残されることとなった、といわれている。

しかしながら、固く殻を閉ざしていたデトロイトに初のアフリカ系アメリカ人選手ウィリー・ホートンが初めて入団したのが、リチャード・ブローティガンがこのA Baseball Gameという詩を書いた1958年のことだったりするのだから面白い。
小学生のときから熱烈な野球ファンだった寺山修司などは、子供のとき感じた北の故郷と都会のプロ野球との「距離感」について、「北国の小さな農村の、小学生だった私にとって、プロ野球の存在というのは、蜃気楼のようなものにすぎなかった。」(『誰か故郷を想はざる』)と書いているわけだが、この「ジェット旅客機と黒人メジャーリーガーで飛躍的に変わりつつある時代」の空気は、西海岸に住んでいたブローティガンの目にどう映ったのだろう。
Detroit Tigers Team History & Encyclopedia - Baseball-Reference.com


西海岸に住むブローティガンが
東海岸で行われている「ヤンキース対タイガース戦」に
どんな情報と印象を持っていたか


A Baseball Gameという作品が書かれたのは、1958年2月。そして西海岸に移転したばかりのドジャースとウィリー・メイズのジャイアンツの初対戦が行われるのは、同じ1958年の4月だ。
1958年早春のサンフランシスコで、「今年からMLBのチームがサンフランシスコにやってきて、試合をする」という記念すべきシーズンを前にして、この街に住んでいる20代前半の若者が(ブローティガンは1935年1月30日生まれなので、1958年2月時点では23歳)「1958年の新しいホームチームの登場」にワクワクして、ちょっとした興奮状態にあったと考えても、全くおかしくない。

ブローティガンがヤンキースとタイガースについて持っている情報や印象はもちろん、「1957年までの、球団ロケーションが著しくアメリカ東部に偏っていたMLB」のイメージがベースになる。
かつて東中心だったアメリカ野球が、西のワシントン州タコマという田舎町に生まれ、新しい文化に飢えた若いブローティガンにどう見えていたのか。
もし野球が、当時のブローティガンにとって「都市文化への憧れ」だったとすれば、それは、いくつかの詩の中で、はるか遠くにあるフランスの文化への憧れを「ボードレール」という単語に置き換えてしまえるブローティガン特有の単純さにも通じる。(これは、かつて寺山修司が第二次大戦後のアメリカ野球の印象について書くとき、アルチュール・ランボーの詩を引用してみせたりする手法にも似ている。寺山の引用対象のランボーが、ブローティガンの憧れのボードレールと「関係のあった」人物だけに、この類似はなかなか面白い)

ただ、1958年まで西海岸にMLBの球団がなかった以上、ブローティガンが野球をどの程度のレベルで理解していたか、あるいはMLBの試合の観戦経験があったのかどうか、そしてそもそも、果たして野球自体が好きだったかどうかなどについては、きちんと検証しないかぎり、何も確かなことは言えない。



ブローティガンの「野球の理解度」について

日本人だって、相撲や野球が大嫌いな人もいるように、アメリカ人だからといって、野球やフットボールが大好きとは限らない。
だが、A Baseball Gameにおいて、天使が空から降ってきたのが「4回」というイニングだったと具体的に特定して書いていることからして、ブローティガンが野球のことをかなり理解していたことは確実だろうと思う。

この詩の翻訳を手がけた池澤夏樹氏は、1987年度下半期の芥川賞受賞作 『スティル・ライフ』 での雪やプラネタリウムに関する鮮やかすぎる筆致でもわかるとおり、大変に魅力的な文章を書く方だと思う。
だが、原文に In the fourth inning としか書かれていないものを、翻訳する立場の池澤氏が「四回表」と、勝手にイニングの裏表を特定する牽強付会な翻訳ぶりには、まったく賛成できない。
これは例えば下記のブログの方も指摘していることで、実はブログ主も最初にこの池澤訳を読んだとき、まったく同じことを思った。
/未来応答〜詩論/:リチャード・ブローティガン「チャイナタウンからの葉書」1968 82 - livedoor Blog(ブログ)

野球に少し詳しい人なら、(日本よりMLBのほうが、たとえ深夜になろうと、可能性がある限りゲームを中止しない傾向が強いにしても) 日米ともに「野球というゲームは、5回まで終わっていれば、試合として成立する」というルールがあることを知っている。

この「5回が終わっていれば試合成立」というルールが野球に存在する以上、
リチャード・ブローティガンが、「空から天使が降ってくる」という奇想天外なハプニングが起きるイニングを「4回」に設定して作品を書いたことは、偶然とは考えられない。
なぜなら、もし「天使が降ってきたハプニングが、5回以降だった」なら、「天使が降ってきて、みんなが驚いたのに、試合自体は成立してしまいました。チャンチャン」という、なんとも締まりのないストーリーになってしまう(笑)
どうみても、「4回」に奇想天外なハプニングが起きて、試合がうやむやになってノーゲームになってしまう、その「なんともいえない、うやむや感」をブローティガンが楽しんで書いたと考えるのでなければ、文学的にも野球的にも解釈が成り立たない。

以上の理由から、ハプニング発生を「4回」にわざわざ設定するブローティガンが、「野球のルールについて、ひととおりの知識を持っていたこと」について、ほぼ間違いないと考える。



あと、細かい指摘をひとつだけ。

天使はなぜ「二塁ベース」に落ちてきたのか。
なぜファーストでなく、サードでもないのか。

これについては、ともかく生死だからといって深刻な訳にせず、もっと「ゆるんゆるん」に、かつ野球のシーンに即して考えるのがベストと考える。
補殺とか、盗塁死、牽制死。とかく野球には、「死ぬ」だの、「殺す」だの、生死を示す言葉が非常によく出てくる。アウトカウントも「1死」「2死」とカウントするくらいのスポーツだ。
これはもちろん、実際の人命の生死を意味するのではなく、「野球というスポーツが、バッターやランナー、攻撃側選手が、プレー上の生死を味わうゲームである」であることからきている。(これはこれで意味深な話でもあるが)

だとしたら、
an angel committed suicide by jumping off a low cloud.(ひとりの天使が低くたれこめた雲から飛び降りて自殺した)というくだりを、「天使の自殺」と、重い意味で考える必要があるとは思えない。

どうだろう。
「野球好きの天使が、人間に隠れて、雲の上から下界の人気スポーツを見物」していて、「自分でも参加してみようとして、思わずやみくもに盗塁を試み、失敗してアウトになった」とか、あるいは、「雲から身を乗り出して野球観戦していて、ずり落ちて下界に落ち、死んでしまった」くらいの軽いユーモアととらえて、全然構わないのではないか。


とかく詩というと、深刻な内容だったり、過度にセンチメンタルだったり、また、ヘビーな内容ほど凄いとか思われがちなものだが、リチャード・ブローティガンに限っては、そんなモノサシは要らない。
他の作品も手にとってみた人はわかると思うが、いい意味で、すっとぼけたユーモア、いい意味で、軽くイっちゃってる飄々とした無頼さが、他の誰に書けないリチャード・ブローティガン特有のスタイルだからである。


付記:
The Galilee Hitch-Hiker(ガリラヤのヒッチハイカー)』は、上に挙げたブログの方も指摘しておられるが(/未来応答〜詩論/:リチャード・ブローティガン「チャイナタウンからの葉書」1968 67 - livedoor Blog(ブログ))、本来9つのパートからなる詩の「はず」だが、どういう理由でそういうことをするのかわからないが、2番目のパートにあたる『The American Hotel』という部分が、池澤夏樹訳『チャイナタウンからの葉書』に収録されていない。
このパート2は、アメリカのパブリックなサイトに公開されているので、いちおう転載させていただくことにする。


The American Hotel

Baudelaire was sitting
in a doorway with a wino
on San Francisco's skidrow.
The wino was a million
years old and could remember
dinosaurs.
Baudelaire and the wino
were drinking Petri Muscatel.
"One must always be drunk,"
said Baudelaire.
"I live in the American Hotel,"
said the wino. "And I can
remember dinosaurs."
"Be you drunken ceaselessly,"
said Baudelaire.

引用元:The Poetry of Richard Brautigan | Literary Kicks


そういえばサリンジャーに、『ナイン・ストーリーズ』(Nine Stories, 1953)という短編集があるが、ブローティガンのA Baseball Gameも、同じく9つのパートからなる。
サリンジャーの大傑作 『A Perfect Day for Bananafish』 (この作品タイトルに『バナナフィッシュにうってつけの日』と絶妙の日本語訳をつけたのが、野崎孝氏)で、主人公シーモアは最後に拳銃自殺してしまうのだが、実はブローティガンはリアルライフで同じ結末をたどった。作中のシーモアの性格と作家ブローティガンの文体は、非常に奇妙なシンクロが感じられて、ブログ主にはブローティガンは実はこの小説の登場人物なのではないかとすら思えたものだ。
(ちなみに、もしサリンジャーを知らない人でも、映画『フィールド・オブ・ドリームス』は知っているんじゃないだろうか。あの映画に登場するテレンス・マンという作家のモデルになったのが、サリンジャー。原作はW・P・キンセラの小説『シューレス・ジョー』だが、原作ではサリンジャーは実名で登場する)


それにしても、村上春樹氏訳のサリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(この作品のタイトルを『ライ麦畑でつかまえて』と絶妙な日本語訳にしたのは、村上春樹ではなく、これも野崎孝氏)といい、この池澤夏樹氏といい、翻訳となると、どうしてああも、「悪い意味の、ゆるんゆるん感」というか、「プラスチック粒が大量に混じったチャーハンを食べているかのような夾雑感」が出てきてしまうのだろう。
一度買ってみたことがあるのだが、村上版『ライ麦畑』は、独特の翻訳の調子がどうにもこうにも性に合わず、15ページも耐えられずに捨ててしまった(苦笑)
池澤氏のこの訳にしても、たとえばA Baseball Gameというタイトルを、『野球試合』、つまり「やきゅうじあい」とか訳してしまうのが、どうにも、いただけない(笑) 「」という濁音の部分が、鍋ものを食べたあとの「おじや」みたいで、音感の悪さがどうにもこうにも耐え難い(笑)
「野球試合」という言葉は、そもそも普通に使われる日本語にはない言葉で、ある種の造語と考慮するにしても、ここでそれが成功しているとは言い難い。

日本には野球文化がある国なのだから、ここは無理に明治時代を匂わせるような漢字に変換しなくても、「ベースボールゲーム」と、カタカナで訳しておけばそれで十分だ。翻訳者のプラスチック製ノイズの介在は、野球史から、そして文字を味わう味覚や音感からも、ここでは必要ない。

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March 06, 2012

まぁ、この記事を読む前に、ブライス・ハーパーの体格について、念を押しておこう。6フィート3インチ(約190.5cm)、225ポンド(約102.1kg)。
Nationals Buzz: Bryce Harper channels ... Ichiro?


グレープフルーツリーグで既に7打数4安打と好調のハーパーだが、打ったヒットが、ホームランでも目の覚めるようなライナーでもなかったことから、ナッツのビート・ライターにいちいちインタビューされた。スター候補もいろいろと大変なのだ(笑)
(Natsはナショナルズの略。球団名を短縮するタイプのニックネームには他に、Cards、Yanks、Pads、BoSox、ChiSox、Tiggs、Rocks、Philsなどがある)
List of baseball team nicknames - Wikipedia, the free encyclopedia
History of baseball team nicknames - Wikipedia, the free encyclopedia


まぁ低迷を続けてきたチームが今後浮上するかどうか、ストラスバーグやジマーマンと並んで、命運のかかった選手のひとりだけに、ナッツのビート・ライターが長打を期待したくなる気持ちもわからないでもない。
だが、当の19歳ブライス・ハーパーは、というと、「500フィート(=約152.4メートル)飛ぼうが、20フィートだろうが、ヒットはヒットさ。」と、どこ吹く風で笑い飛ばした(笑)

"They're hits. That's all that matters," Harper said following tonight's game. "If they're on the ground, through the hole, up the middle or anything like that, they're hits. That's all that matters to me. It doesn't really matter if it goes 500 feet or if it goes 20 feet. If it's a hit, it's a hit."

The 6-foot-3, 225-lb. Harper channeled Mariners outfielder Ichiro Suzuki (who checks in at 5-foot-11, 170 lbs.) by getting somewhat of a running start in the box(一部略)

"I tried to Ichiro it," a smiling Harper said. "I just tried to put the bat on the ball, and it happened and I just started running."


ここでいうIchiroという単語は、人の名前、つまり名詞として使われているのではなくて、「イチローのようにヒットを打つ」という意味の動詞として使われている。

では、「イチローのようにヒットを打つ」とは、この場合どういう意味か。

この記事を書いたライター自身も running start in the box 「ボックスの中で走りながら」と書いているが、なによりブライス・ハーパー自身が解説してくれている。

it happened and I just started running. 
「バットにボールが当たった瞬間に走り出すのさ」



上の記事を書いたナッツのビート・ライターは、ハーパーなりのユーモアがわからなかったらしく、記事に Bryce Harper channels ... Ichiro? なんてわけのわからないタイトルをつけてしまっているわけだが、もちろん、ハーパーのコメントを、彼が将来イチロー風のプレースタイルを目指しているとか、そういう意味でとる必要はない。
ハーパーは、スプリングトレーニングでちょっとホームランやライナーが出ないだけで、いちいちやきもきする地元メディアの「せっかちさ」を軽くおちょくってみせているだけのこと。

だが、まぁ、その一方では、「僕にはどんなプレースタイルだってできる。例えばタイプが違うと思われているイチローのようなプレースタイルだって、できるんだ。だから記者さん、細かいことを気にしなさんな」という、自負の現れとでもいう面も見え隠れしているし、また、イチローのようなスピード溢れるプレースタイルについて、彼が一定の敬意も持ち合わせていることもわかる。


何がブライス・ハーパーらしいヒットか、とか、体格のいい選手は全員ホームランを狙えとか、そういうわけのわからない決め事を増やして、いちいち選手を自分の価値観で縛りたがるのは、メディアのライターや重箱の隅をつつきたいファンの側であって、実際にグラウンドでプレーして、常に結果を求められているプレーヤー当人にはまるで関係ない。雑音でしかない。
そのことに、いい加減、日本のメディアやファンも気づいてもいい頃だ。

March 04, 2012

もうすぐ「3月11日」がやってくる。
あの震災から、もう1年が経とうとしている。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:東日本大震災および「やじろべえ、ニッポン」

本当は、こういうことは、もっと考えがまとまってから書きたいとは思うのだ。

だが、時間というものは待ってくれない。歴史も同じだ。時間は、ジッと佇んだまま、人が動きだすのを待っていてなどくれない。
だからどんどん書いて、書きなぐって、時間を追い越していかなければ、やがては自分自身の内側にだけ存在する「スピンする何か」に対して遅れが出てきてしまう。そして、やがては、その「内側でスピンする何か」は、みずからスピンを止めてしまう。だから、まとまりがなくとも書くしかないときがある。


去年の10月に、アップルのスティーブ・ジョブズが他界したときに追悼文みたいなものを書いた。(この話の続きも、とっくに出来あがっているのだが、ブログにはまだアップしてない)
やれアップル製品は本当はオリジナリティが無いだのなんだの、ずっとケチばかりつけ続けてきたクセに、その一方では、アップルのパクリ製品ばかり作り続けてきた日本の電気屋さんには、もういちど自分たち本来の良さ、世界最高峰の技術力を思い起こして、本気で「オリジナリティ」を追求する姿勢を取り戻してほしい。アップルのやることなすことを、声すら直接届かないほど遠くから小馬鹿にする、まさにイヌの遠吠えでケチくさい満足感を得るような、そんな下卑た考えは捨ててもらいたいのである。
そしてジョブズは結局のところ、亡くなるまでずっと、2位を大きく引き離した先頭ランナーであり続けたとブログ主は考える。彼の突拍子の無いアイデアに追いつけた人など、世界のどこにもいなかった。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年10月9日、「iPodの原型は『パソコン』であって、ウォークマンではない」ことが瞬時にわかるのが、「パソコン以降の文化的視点」。


かたや日本で半導体を作っていたエルピーダメモリーが破綻した。
エルピーダは、半導体で遅れをとった日本の電機メーカーが、起死回生のために共同で設立した半導体メーカーだった。かつて半導体は日本のお家芸のひとつだったわけだが、いつしかアジアのライバルに追い抜かれ、追撃のためにこさえた組織すら落日の時を迎えてしまったわけだ。


ついさきほど、ロンドンオリンピックのマラソン日本代表選考レースのひとつ、「びわ湖毎日マラソン」が終わったのだが、ゴールまで2キロという地点まで日本人トップを走っていた実業団の招待選手が、ゴール直前のトラックで一般参加のランナーに追い抜かれてしまった。
日本人2位に終わってしまった彼が言うには、「後ろから(別の選手が自分に迫って)来ているのに気がつかなかった」らしい。
これで、代表選考レースで日本人トップになったのは、「公務員、無職、一般人」。実業団の招待選手は結局、(世界陸上を除いて)国内の選考レースをひとつも日本人トップで通過できなかった。

いまや、素人ランナーですら、「駅伝」と「マラソン」が、トレーニング手法から走るプロセス、ドリンクの中身に至るまで、あらゆる点で異なるスポーツであることを知っている。
というのも、イチローのコマーシャルしているCW-Xの大ヒットでもわかるように、盛り上がりまくっている日本のマラソンブームは、いつのまにかアマチュアのレベルを何段階も押し上げてしまい、いまや素人でもマラソンを3時間台でを走り切ってしまう選手は珍しくなく、うっかりすると2時間台(いわゆるサブ3)のタイムを持ったランナーが素人にもゾロゾロいる、そういう時代だからだ。

昔は、テレビで見ている人は、マラソンを走ることの本当の過酷さを「カラダ」ではわかってなかった。
だが、今は違う。多くの人が、42キロもの長距離を自転車並みのスピードで生身の人間が走り切ることの異常さ、特に、決着がつく35キロ以降の激しい消耗の意味を、「カラダ」でわかった上でテレビを見ている。
20キロ走の消耗と、体の中のエネルギーが一度すべて消耗して以降に勝負が始まるマラソンの違いを「カラダ」で知っている人たちには、「マラソンも、駅伝も、同じトレーニングで勝てる」なんていうゴマカシなど通用しない。

なのに、どういうものか、走ることのプロであるはずの実業団チームは「日頃は実業団駅伝への参加を目的にトレーニングしていても、我々は優れた選手ばかりを集めた専門家集団なのだから、いざとなったらマラソンでオリンピック選手を輩出することができる」とか、タカをくくっているように見える。
「先頭ランナーのつもりでいる実業団ランナーたちの意識や実力」、そして「実業団チームの指導者たちのコーチング能力やトレーニング理論」は、彼らが後ろからびっくりするほど多数の素人たちが激しく追い上げてきていたのをロクに確かめもせず、チンタラ、チンタラ練習している間に、素人の「意識」に追いつかれてしまったのである。



なぜ、われわれは
自分だけは抜かれない」と、
タカをくくるようになったのだろう。

なぜ、「誰かが追い付いてきているかもしれない」と、
後ろを振り向いて確かめようとしなくなったのか。



ブログ主は、知っての通り、性格がけして良くはない(笑)
たとえ街でプラプラ歩いているときも、性別も年齢も関係なく、高齢者、被災者、誰であろうと、容赦なく追い抜く、それを信条にしている。
歩いていて誰かを追い抜くと面白いのは、中に決まって、「あれ?」と、意外そうな反応を示す人が少なからずいることだ(笑)ブログ主は、そういうタイプの人が、追い抜かれた瞬間、わずかにうろたえて、慌てて足を速めだす姿を眺めるのが、なんともいえず好きだ。こたえられない(笑)
たとえば、自転車でメッセンジャーを追い越すときも、そうだ。決まって「あれ?」という反応をみせる(笑)なぜなら、彼らには「自分は追い越されない」という思い込みがあるからだ。

今年、日本ハムにソフトボール出身の大島匠君が入団したが、彼などもおそらく、周囲からたくさんの「あれ?」という反応を受けたはずだ。なぜって、周囲の野球出身の選手たちは、誰も彼もが「自転車で追い越されたメッセンジャー」なのだから。(彼は2軍スタートになったとのことだが、絶対に諦めずに1軍に昇格して、野球人としてのキャリアにアグラをかいている選手たちを片っ端からゴボウ抜きにして、競争というものの本当の意味をイヤというほどわからせてやってもらいたい)


また、ブログ主は「高齢化社会」という言葉が、死ぬほど嫌いだ。
「高齢化社会」という言葉をやたら使いたがる人が脳裏に描いている社会のイメージが、「年をとって、足の弱った人を、優先し、先に行かせてもやり、誰も追い抜かない優しい社会」なんてヤワなイメージのような気がしてならない。そんなことをしていては社会全体の速度が遅くなって衰退していくのが、わかりきっている。(「速度を維持する」というのは、なにも全てを経済優先にしろ、という意味ではない。また、道を譲る価値のない相手にまで道を譲る必要はない)
むしろ、いま必要なことは、「先に道を進んでいく能力があり、これからの社会を牽引してもらわなければならない、足の速い人、若い人に、むしろ年老いた人の側が道を譲ってあげること」だと思わない日は、一日たりともない。


油断している人は、追い抜いていいし、追い抜くべきだ。
ノロノロ歩いている人は、道を譲るべき。
追い抜かれたくない人は、油断せず、常に早く歩くべし。
そしてなにより、
先頭を走っている自覚がある人こそ、常に後ろを確かめること。



こういうことを言うと、すぐに「それは乱暴だ」とか、「優しくない」とか、決めつけたがる人がいるものだが、ここでいう「追い抜く」とは、植物でいうなら、「芽吹き」だ。悪いことなんかではない。(別に追い抜くためなら突き飛ばしていいとは言っていない)

ひとつの街がまるごと更地になるほどの大災害の跡には、やがては芽が出て、家が建ち、新しい子供が生まれいく。平らな場所に出現する凹凸、陰影、それこそが生まれてくる暮らしの新芽であり、何も無い平原に立ちのぼる炊事の煙こそ、人の暮らしの証である。


(誰もが歓迎する子供の誕生や家の新築はともかくとして)自分が追い抜かれていくのを感じさせられる新芽の存在を認めることは、最初はなかなか難しい。
だが、新芽の存在に気づかない人、新芽の存在を認めようとしない人は、どんどん追い抜いていい。待っていては、街も人も蘇らない。自分がランナーだと自覚する人なら、なおさらだ。どんどん追い抜いていくべきだ。


古代ギリシャ時代のマラソンの起源を考えれば、マラソンという競技の意味は「死ぬ気で走る」という意味だが、死ぬ気で走ってみることの意味を、もう長いこと我々は忘れている。
だが、2時間10分が切れない、なんて思われていた日本人マラソンランナーも、ラビットを入れ、レースのペースを上げてやることで、ジャカスカ10分を切れるランナーが現れた。


やれば、できる。
できるから、
遠慮なんかせず、敬意をもって追い抜け。

これがブログ主から
新しいエネルギッシュな「3月11日」に向けてのメッセージだ。













March 03, 2012

ピネダ、こんな選手と交換したんだな。
もったいね。


日本でいうオープン戦にあたるカクタスリーグ(cactus league)の初戦で、いきなりパスボールのヘスス・モンテーロ。やっぱり守備は言われている通りの選手だった。ヤンキースが手放すだけのことはある。

その後、ファウルチップがマスクごしに顔に(正確には左顎のようだが)当たって、カメみたいにひっくり返ってしまい、どうやら今シーズン序盤のポジションは控えキャッチャーらしいジョン・ジェイソと交代した。
どうせ時間がたてば、モンテーロはDH専用になって、ジェイソがマスクかぶってる、なんてことに、いつのまにかなってるだろうけどな(笑)

カクタスリーグ初戦からパスボールのヘスス・モンテーロ

ファウルチップがマスクに当たった程度のことでいちいち交代しているようでは、プロの、それもスイングスピードの速いMLBで、キャッチャーなんてつとまらない。過保護もいい加減にな、ウェッジ。


バッティング?
相手チームにスカウティングされるまでの命でしょ。
それがMLBというもの。

OPSを批判したシリーズ記事で書いたことじゃないけど、今シーズンのストーブリーグのFA選手たちの惨状を見てもわかるように、もうこれからは守備のできない選手がのさばる時代じゃない。打てるだけ程度の選手は、もうメジャークラスとは呼べない。

ハワイ移民150周年
No Ichiro, No watch.

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  • 2014年10月31日、PARADE !
  • 2013年11月28日、『父親とベースボール』 (9)1920年代における古参の白人移民と新参の白人移民との間の軋轢 ヘンリー・フォード所有のThe Dearborn Independent紙によるレッドソックスオーナーHarry Frazeeへの攻撃の新解釈
  • 2013年11月8日、『父親とベースボール』 (8)20世紀初頭にアメリカ社会とMLBが経験した「最初の大衆化」を主導した「外野席の白人移民」の影響力 (付録:ユダヤ系移民史)
  • 2013年11月8日、『父親とベースボール』 (8)20世紀初頭にアメリカ社会とMLBが経験した「最初の大衆化」を主導した「外野席の白人移民」の影響力 (付録:ユダヤ系移民史)
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  • 2013年6月1日、あまりにも不活性で地味な旧ヤンキースタジアム跡地利用。「スタジアム周辺の駐車場の採算悪化」は、駐車場の供給過剰と料金の高さの問題であり、観客動員の問題ではない。
  • 2012年7月3日、『父親とベースボール』 (2)南北戦争100年後のアフリカ系アメリカ人の「南部回帰」と「父親不在」、そしてベースボールとの距離感。
  • 2012年7月3日、『父親とベースボール』 (2)南北戦争100年後のアフリカ系アメリカ人の「南部回帰」と「父親不在」、そしてベースボールとの距離感。
  • 2012年6月29日、『父親とベースボール』 (1)星一徹とケン・バーンズに学ぶ 『ベースボールにおける父親の重み』。



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