July 2012

July 29, 2012

ツイートもしておいたが、New York Timesを中心に、イチローの名を最初にMLB中に轟かせた、あの2001年の「レーザービーム」に触れる記事の数が増えている。(まぁ背景には、外野守備がけしてほめられたレベルのものじゃないという、ヤンキース独特のディフェンス面の課題があるわけだが)
2001年4月11日オークランド戦で、ライト前ヒットでサードまで進もうとした一塁ランナー、テレンス・ロング(1994年メッツ ドラフト1位。2006年メッツで引退)を、イチローが信じられない送球でサード手前で刺し、MLBにおけるキャリア初の補殺を記録した、例のアレだ。




ちなみに、以下の記事では、イチローの3回のFielding Bible award受賞回数が、ヤディア・モリーナアルバート・プーホールズに次いで多いことを挙げながら、Fielding Award投票者でもあるJohn Dewanのイチローに関するコメントを引き出すことに成功している。
賞を選ぶ投票者が、投票結果が出る前のシーズン中に投票対象プレーヤーについてコメントするのは、ちょっと珍しい。まぁ、それほど、誰が見ても今年のイチローの守備指標は素晴らしい、というわけだ。
“Most people think his biggest asset is his throwing arm, but it’s not,” Dewan said. “It’s just simply the amount of ground that he covers out in the field, being alert and making plays that other right fielders don’t make.”(中略)
「多くの人が、イチローの最大の資産は、その強肩にあると思っているが、それは間違いだ。
イチローの強肩というのは、単に、彼がフィールドでカバーしている守備範囲が広大に広いことから導かれる結果に過ぎない。彼が 「ランナーの進塁抑止力」 を発揮し、他の右翼手にはできないプレーを成功させているのは、その守備範囲の広さのゆえだ。」
“He’s having a great defensive year,” Dewan said. “Think of it like a hitter having a good year when he’s older. You don’t expect it, but it’s happening.”
「イチローは今シーズン素晴らしい守備をみせている。打撃で考えてもらうとわかることだが、年齢のいったプレーヤーが好調なシーズンを迎えるなんてことが考えられるだろうか。普通なら期待できない。だが実際に起こっている」
Suzuki’s 2001 Throw Made Baseball Take Notice - NYTimes.com
ブログ注:John Dewanは、スポーツデータ分析会社スタッツ社の元・社長で、守備系セイバーメトリクスの代表的人物。野球における守備力を測るための指標のひとつであるプラス・マイナス・システムの考案者でもあり、Fielding Bibleの発行や、MLBの守備をゴールドグラブとはまた違った視点から評価するFielding Bible賞も主催する。
資料:Damejima's HARDBALL:dewan を含む記事


さすが、John Dewan。
よくわかってらっしゃる。


The Cutoff Manは、ブロンクスとロングアイランドで育ったニューヨーカーで、野球記者として30年を越えるキャリアをもつベテランであり、BBWAA、全米野球記者協会メンバーでもあるJack O’Connellが書いているブログだ。
About Jack O’Connell « The Cutoff Man

そのO’Connelが、ヤンキースで現役を終え(1984年)、ヤンキースで初めて監督を経験し(1986年-1988年)、後にマリナーズの監督にもなった(1992年-2002年)、ルー・ピネラに「イチローに関する10の質問」という形式で数年前に行ったというインタビューを、イチローのヤンキース移籍にあわせて掘り起こす形で掲載している。
イチローがヤンキースに移籍した今見ると、この記事、2001年からのシアトルでのいろいろな出来事が思い出されて、なかなか感慨深い。

ただ、この記事のピネラの解答、どれもこれも、どこかで一度見たような気がするのはブログ主だけだろうか?
ただ、それを、いつ、どこで見たのかが、どうしても思い出せない。単なるデジャブかもしれない(笑) それとも、もしかすると、昔から読んでいる「ピネラのイチローに関するコメント」のほとんどすべてが、実は、このインタビューが元ネタだというオチかもしれないが、ちょっと明言はしかねる(笑)
Piniella talks about Ichiro « The Cutoff Man


断わっておくと、この記事、ちょっと困った点がある。
いつインタビューが行われたのかが、実はハッキリしていない」のである。こういうのは、メディア記事として信頼性に欠けるといわざるをえない。



Jack O’Connellがこの記事をブログにアップした日時は、記事に、Posted on July 28, 2012 at 10:53 AMと明記されていることから、投稿タイミングが「イチローのヤンキース移籍以降」なのは間違いないわけだが、肝心の元ネタのインタビューが実施された時期が正確にわからない。

記事の冒頭で、A couple of years ago, I did a lengthy question-and-answer session with longtime Yankees favorite Lou Piniella about Ichiro Suzuki.と書かれていることから、インタビューが行われたのは数年前、つまり、「イチローのシアトル在籍時代」、ということになっている。
また、質問項目4に「イチローのシーズン200安打達成が10年続いた」という記述がある以上、インタビュー実施時期は、「2010年の秋以降」ということになる。
この2つの条件からすると、2010年の冬くらい、つまりルー・ピネラがシカゴ・カブスの監督を辞めて引退したあたりということにはなる。
イチローのヤンキース移籍をきっかけに、2010年に収録しておいたが、お倉入りになってホコリをかぶっていたインタビューを再掲載しただけかもしれないが、どうも、もうひとつ、しっくりこない。


ひとつ、問題がある。

本文中、7番目の質問項目「3000本安打について」のピネラの解答部分に、こんな記述がある。"When you get to his age [38], you start to deal with some injuries." 「もし彼の年齢(38歳)になったら、いろいろと怪我に直面し始めるものだ」。
もしピネラにインタビューしたのが、本当に「2年前の冬」なのなら、イチローの年齢を「38歳」と補足するのは、絶対におかしい


当然のことだが、38という数字に「他の箇所には存在しないsquare brackets(=角括弧、[ ] )」がついていることからわかるように、この[38]という部分は、ピネラの発言ではなく、インタビュアーであるブログ主、Jack O’Connellのつけくわえた補足部分だ。

Jack O’Connellが昔のインタビューに手を加えて記事にするときに、単純にタイプミスしただけかもしれないが、性格が悪いせいか(笑)、どうもひっかかる。
なぜまた、Jack O’Connellほどの記者歴30年を越えるヴェテラン記者が、この「間違えそうもない単純ミスを犯している」のか。なぜまた、この古い記事を再掲載するとき気をつけるべき「イチローのシアトル時代とヤンキース時代の混同」という単純ミスを犯したのか。それがわからない。どうしてもひっかかる。

わざと極端に詮索するなら、この記事の出処(でどころ)、実は、シアトルの関係者の誰かではないか、という気さえしないではないのである。
なんせ、Jack O’Connellはニューヨーク地区専門のビートライターだ。、そのニューヨーク専門のライターさんが、いくらアクの強いヤンキース動物園(Bronx Zoo)の名物選手のひとりだったピネラが引退したからとはいえ、シカゴ・カブス監督から身を引いたばかりのピネラに、シアトルの選手であるイチローのことを聞くという、ニューヨークとあまり関係のないシチュエーションが、どうも腑に落ちないのである。

(ついでにいうと、この10個の質問と回答集の、特に後半の部分の読後感は、質問項目10で、当時たぶん90本くらいだったはずのイチローの通算ホームラン数を「約100本」と表現していることなど、なんつうか、こう、シアトル時代のイチローについてではなくて、ヤンキース移籍という事件が発生して以降に語っている空気の匂いが微かにするのである。まぁ、いくら鼻には自信があるとはいえ(笑)、これについては、さすがに気のせいかもしれないとは思う。性格の悪さがこういうところに出る 笑)



加えて、もうひとつ指摘しておきたいのは、
以下の考えは、あくまでルー・ピネラの考えだ、ということ。いつも言うことだが、鵜呑みにしてしまわないことだ。

ピネラのマリナーズ時代のチーム運営については、当時のチーム成績の良さを理由にした多くの賛辞もあれば、当時の選手獲得、特に投手の弱体化批判など、批判も多数ある。
ブログ主にしても、このルー・ピネラの発言を紹介したからといって、では、このピネラ発言が自分の考えを100%パーフェクトに代表してくれている、などと思って書いてはいない。
発言の中には、「なるほど」と思うこともあれば、「やっぱりアンタ、本当はイチローの価値をそれほど信用してなかったんだな」と、あきれる部分もある。それが人間と人間の付き合い方というものだ。

リスペクトはもちろんするが、ブログ主は別にピネラの発言だからといって、盲従するつもりはまったく無い。



(以下、質問者はJack O’Connell。回答者はルー・ピネラ。以下でパーレン(丸括弧)内におさめられた部分は、すべてdamejimaによる補足

Q1. Can you remember your first impression of Ichiro?
イチローの第一印象を覚えていますか?
A: Ichiro first came to the Mariners as an exchange player in the spring of 2000. He was with us during the pre-exhibition period because he was not allowed to play in games. Watching him work out, I could tell that he could run, he could throw and he had good bat control. But we didn’t see him under game conditions.
イチローが最初に(提携球団のオリックスから)マリナーズに来たのは2000年のスプリングトレーニングだ。彼は(レギュラーシーズンの)ゲームには出られないから、オープン戦期間に帯同した。彼が練習するのを見て、走れるし、肩もいいし、バットコントロールもいいとわかった。でもメジャーのゲームに出られるコンディションだとまでは思わなかったね。


Q2. Before the 2001 season began, did you expect Ichiro to have as much success in the majors as he has had? Why?
イチローはこれまで(=2001年イチローのメジャーデビューから、Jack O’Connellによるピネラへのインタビュー時点までの、約10年間)数々の成功を達成してきましたが、あなたは2001年のシーズンが始まる前、それを期待していましたか? (もしそうなら)理由は?

A: I could not predict all that would happen, but no, it does not surprise me. He was a disciplined hitter with great physical tools. That spring with us in 2001, he put the ball in play, utilized his speed and didn’t strike out much. We got the feeling we had something special here. He was already a star player in Japan, so really the only question was how he would do in the 162-game schedule.
I remember our general manager, Pat Gillick, worked very hard to sign Ichiro. We thought it we got lucky that we might have a really good player for six or seven or maybe eight years. And look, he’s still playing at a high level in his 10th year in the big leagues.
そうなるのが予測できてたらいいんだけど、答えは「ノー」だな。(その後の成功を見て)驚きはしなかったけどね。彼は偉大な身体能力を備えていて、よく訓練されたバッターだった。2001年のスプリングトレーニングで、繋ぎのバッティングができてたし、スピードを生かしたプレーができ、あまり三振しない。チームに特別な選手が来た、そんな感覚があったね。彼は日本では既にスターだったし、ほんとに唯一といえる課題といえば、162ゲームというハードスケジュールの中で、彼がどうすればうまくやっていけるかという点、それだけだったんだ。
GMのパット・ギリックがイチローと契約するためにとてもハードに仕事してたのを覚えてるよ。我々は6,7年働いてくれる好素材が得られればラッキーだと思ってた。でも、見てのとおり、彼はメジャー10年目でもいまだにハイレベルのプレーをしてる。


Q3. I heard you were so worried about Ichiro’s power part because he hit only to the opposite field during preseason games in 2001 until you asked him to pull the ball. Is that a true story?
2001年のプレシーズンマッチで、あなたが引っ張って打ってみてくれと彼に要請するまで、イチローが流し打ちのヒットしか打たなかったために、彼のパワーについて、たいへん心配なさったと聞いたのですが、本当ですか?

A: Yes. The first few games for us that spring Ichiro hit the ball to left field exclusively. I remember talking to his translator and asking him if Ichiro could try to pull the ball so we could get a better idea of what he could do. The next day, Ichiro led off and pulled the first pitch over the right field wall for a home run. I saw what I needed to see and left him alone after that.
本当さ。あの春の最初の何ゲームか、イチローはレフト方向にしかヒットを打ってなかった。通訳を通じてイチローに頼んだのを覚えてるよ。「できたら引っ張ってみてくれないか。そしたら我々も、君に何ができるのかについて、もっとよく理解できると思うから」ってね。
翌日、イチローは先頭打者として最初の球を引っ張って、ライトスタンドにホームランをかっとばした。僕は何を理解しておく必要があるかわかったんで、それ以降、彼を好きなようにさせておくことにしたんだ。


Q4. Can you analyze the reasons why Ichiro was able to have 200 hits for 10 consecutive seasons? Which part of Ichiro’s hitting is impressive to you?
イチローが10シーズン連続で200本ヒットを打てた理由を分析していただけますか? イチローのバッティングのどの部分が印象的ですか?

A: He has great hand-eye coordination, which is important for a hitter, and he keeps himself in great physical shape. He can expand the zone a bit by chasing the ball up, but he puts the fat part of the bat on the ball so consistently and gets out of the batter’s box so quickly that infielders have to cheat on him. He actually is moving to first base often when he hits the ball, but he keeps his upper body straight and follows through on his swing. You don’t see anyone else do that.
彼は素晴らしい反射神経の持ち主なんだ。それは打者にとても重要なことだ。体調の自己管理も素晴らしい。ボールを最後まで見極めて打つから、ゾーンは広めだけど、彼は非常にコンスタントにボールをバットの芯でとらえてる。打席をとても素早く飛び出せるから、内野手はどうしても(打球より)彼の動きのほうに気をとられて(焦ってミスをして)しまう。彼は実際、ボールを打つのと同時にファーストに動き出してるくらいなんだが、にもかかわらず、上半身をまっすぐにキープして、きちんとフォロースルーの効いたスイングもしてる。
あんなことができる選手は、他にいない。


Q5. From the manager’s point of view, Ichiro should have selected more pitches to hit? Or he should have taken more walks?
監督という視点から、イチローはもっと選球すべきだと思いますか? また、彼はもっと四球を選ぶべきだと思いますか?

A: He is not going to walk much, that’s true, but he won’t strike out that much, either. His on-base percentage is not as high as maybe it should be for someone with a high batting average, but look, he gets on base with hits, so why worry about walks? His eyesight is superb, so it is not a matter of pitch recognition. He is just so adept at putting the ball in play. He’ll foul off a lot of pitches, but he does not swing and miss very much. Pitchers don’t want to walk him because of his speed on the bases. So if they get behind in the count, he still may get something to hit.
彼は四球をそんなに選ぶほうじゃない。それは確かだ。でも、彼は同時に、あまり三振しないバッターでもある。彼の出塁率はハイアベレージヒッターによくみられるほど、高くはない。
でも見てごらん。彼はヒットで出塁するんだから、なぜ四球について心配する必要がある? 彼の視力は素晴らしいから、選球眼そのものに問題があるわけじゃない。彼はたくさんの球をファウルにしようとするけど、空振りや打ち損じは少ない。ピッチャーは、彼が出塁したときの足の速さをよく知ってるから、彼を歩かせてもいいとは考えない。だからこそ、もしピッチャー不利なカウントでも、彼にはまだヒットを打つチャンスが残されてるんだ。


Q6. Do you have any specific memory of Ichiro during your managing career with the Mariners?
マリナーズ監督時代に、イチローに関して何か特別印象に残ったことはありますか?

A: It was during his first season, a game in Oakland. I don’t remember the hitter or runner, but I do know that the runner was very fast. He was on first base when the hitter drove the ball into the gap in right-center. Ichiro chased down the ball, and I was thinking I hope he throws the ball to second base to keep the hitter from advancing because I didn’t think he had a prayer of getting the other runner going from first to third. He made a perfect throw to third and got the guy. It surprised the runner, my third baseman, the coaches, me and even the umpire. It’s still one of the greatest fielding plays I have ever seen.
あれはメジャー最初のシーズンのオークランド戦だったかな。バッターとランナーが誰だったか、覚えてないけど、私はランナーがとても足が速いってことを知らなくてね。ランナー1塁で、バッターが右中間に打って、イチローがボールを追いかけた。
僕は、バッターランナーが(セカンドに)進むのを防ぐために、イチローがボールをセカンドに返球してくれるといいなと思ったんだ。まさかイチローが、三塁に進もうとしてる一塁ランナーをアウトにできるチャンスがあると考えるなんて、思いもしなかった。
ところがイチローは完璧な送球で、サードでランナーをアウトにしてみせたんだ。あれは、ランナーも、三塁手も、コーチも、僕も、そしてアンパイアでさえも、腰を抜かしたね。あれはいまだに、これまで見た中で最高の守備のひとつだよ。(=いわゆる2001年4月11日の「レーザービーム」のこと)


Q7. Do you think he can reach 3,000 hits in the majors?
あなたは彼がメジャーで3000本安打を達成できると思いますか?

A: The key is for him to stay healthy. He stays in great shape physically, which he will have to continue to do to get to 3,000 hits. I think it’s possible, but it won’t be easy. I figure it would take him at least four more years. When you get to his age [38], you start to deal with some injuries. If he can avoid that, he has a good shot at it.
鍵となるのは、彼が健康でいられるかどうか、だね。彼の体調は申し分ない状態にあるけど、彼は3000本安打に達するまで維持し続けなきゃならないだろうね。僕は可能だと思ってるけど、かといって、簡単なことでもない。僕の判断では、あと最低でも4年かかるだろう。彼の年齢 [38歳=ライターJack O’Connellによる補足。この補足自体は間違いである可能性が高い] くらいになれば、いろいろと怪我に遭遇するもんさ。もし彼がそれを回避することができたなら、3000本安打達成の見込みは大きいね。


Q8. Did you see any differences on Ichiro between now and the time when you were the manager?
あなたが監督だった頃と、今とで、イチローは何か違いますか?

A: The only thing I see is that he doesn’t score as many runs, but the Mariners are a much different team from the one I had when we had a strong offensive club. Put some good hitters around him, and he’ll score 100 runs again on a regular basis. He still runs very well, has great instincts in the outfield and plays with so much pride.
唯一違うと思うことは、彼があまり得点してないという点だな。でも、今のマリナーズは、非常に攻撃力があった私の時代のマリナーズとは全く違うチームだからね。彼の前後に良いバッターを置けば、彼は再びレギュラーシーズン100得点できるようになるはずだよ。彼にはまだ得点力も、外野手としての偉大な才能もあるし、他人に誇れるプレーができる選手だよ。


Q9. What do you think about how Ichiro’s speed helps his hit record?
イチローのスピードが、彼の安打記録にとってどう役立っているかについて、お考えを聞かせてください。

A: It’s a great asset. As I said before, infielders have to be on their toes with him. You see them often hurrying their throws on what are otherwise routine ground balls for any other hitter.
そりゃ大きな利点さ。以前も言ったように、内野手はいつでも動けるように構えてなきゃならない。誰かほかのバッターなら、ありふれたゴロだとしても、(バッターがイチローなら)内野手がスローイングするのにあわてるのを、よく見るだろ?


Q10. Should Ichiro make it to Hall of Fame? Why?
イチローは殿堂入りすべきでしょうか? その理由は?

A: Absolutely. He is one of the greatest leadoff hitters in the history of the major leagues. He has excelled at nearly every aspect of the game. Ichiro is not a power hitter, but he has still hit his share of home runs, almost 100, I think. He’s a great hitter, a great base runner, a great fielder with a great arm, a game breaker. All of those qualities add up to me as a Hall of Fame player.
当然イエスさ。彼はMLB史上、最も偉大な先頭打者のひとりだ。彼はゲームのあらゆる場面で卓越したプレーをしてきた。イチローはパワーヒッターじゃないが、僕は約100本というホームラン数は彼相応の十分な数字だと思う。彼は偉大なバッターであり、偉大なランナーであり、偉大な肩を持った偉大な野手であり、偉大な成功者だ。それらすべてのクオリティを積み重ねて考えて、私は彼を殿堂入りプレーヤーにふさわしいと思うよ。

July 28, 2012

49.571人。2時間41分のショーが終わった。

イチローのニューヨークデビュー、ボストン戦は、10-3でヤンキース圧勝。
Boston Red Sox at New York Yankees - July 27, 2012 | MLB.com Box

Catch newly acquired Yankees outfielder Ichiro Suzuki while you can before he hits Cooperstown - NY Daily News

以下はイチローファンにとって常識のような光景ではあるが、こうしてきちんと、それも流麗に書奇残しておいてくれるニューヨークのメディアには感謝せざるをえない。
Ichiro Suzuki is in constant motion in the outfield. Even between pitches, he can been seen stretching his legs and making phantom throws as he seemingly loosens every joint in his body in preparation for the next play.
イチロー・スズキは外野で常に動いている。ピッチャーの投球の間ですら、彼はずっと足のストレッチや、Phantom throwをして(ブログ注:「シャドー・スローイングをしている」とか訳してもいいのだが、和製英語を増やしたくないので、あえて原文のままにする)、次のプレーに備えて身体のあらゆる関節をリラックスさせている。
by David Waldstein , New York Times電子版
Yankees Hammer Red Sox in Suzuki’s Home Debut - NYTimes.com


2012年7月27日NY Times電子版 Baseballページ トップ画面
 2012年7月27日New York Times電子版
 Baseballページ トップ

ツイートしておいたように、49.571人って観客数は、2012年4月13日のLAA戦の49,386人、2012年6月10日のNYM戦49,010人を抜いて、今シーズン最高の観客動員数
2012 New York Yankees Schedule, Box Scores and Splits - Baseball-Reference.com
ちなみに、2012年のヤンキースの観客動員数は、前日の時点で2,007,752人、1試合あたり42,718人。これは去年の同じゲーム数時点(2,078,166人、1試合あたり44,216人)と比較すると、約7万人の減少となっている。
Change in Baseball Attendance 2011 to 2012 - Baseball-Reference.com

2011年のレギュラーシーズンの観客数を見ると、9月24日のボストン戦が49,556人で、これが2011年の最高のようだから、今日の49.571人は、去年の最高観客数をわずかながら上回ったことになる。
2011 New York Yankees Schedule, Box Scores and Splits - Baseball-Reference.com
2010年は、8月7日の49,716人が最高のようで、今日の観客数はそれにはほんのちょっとだけ足りないが、ほぼ肩を並べている数字で、今日のゲームの集客数は、レギュラーシーズンとしては最高レベルだ。(ポストシーズンになれば5万人を超える)
2010 New York Yankees Schedule, Box Scores and Splits - Baseball-Reference.com
まぁ、いずれにしても、イチローのニューヨークデビューとしては、最高の数のお客さんがスタジアムに集まった「ホームのボストン戦初戦」だったわけだ。


いわゆる "roll call" をする外野席のヤンキースファン

イチローのニューヨークデビューを歓迎するヤンキースファン

動画(公式サイト):Baseball Video Highlights & Clips | BOS@NYY: Ichiro receives ovation from fans in Bronx - Video | MLB.com: Multimedia


それにしてもこの試合がユニークだったのは、試合時間の短さ

MLB公式サイトによれば、ヤンキースとボストンのゲームで、3時間を切る2時間41分というゲーム時間は、2005年9月11日にランディ・ジョンソンウェイクフィールドが先発したゲームの「2時間29分」以来、最短の試合時間だったらしい。
2005年9月11日の試合は、1-0でヤンキースが勝った投手戦だから、試合時間が短いのも頷けるが、今日のゲームは、乱打戦とまでいえないにしても、ホームランの飛び交う打撃戦で、投手戦ではないだけに、今日の試合が異例のスピーディーさで進行したゲームだったのは間違いない。
September 11, 2005 Boston Red Sox at New York Yankees Box Score and Play by Play - Baseball-Reference.com

また、このカードが3時間以内で終わったのは、2009年以来行われた61ゲームのうち、わずか5ゲームしかないらしい。





以前、アンパイアのJoe West(ジョー・ウエスト)が、ヤンキースとレッドソックスのゲーム進行の遅さについて、They take too long to play. (「やつらプレーが遅すぎる」)とクレームをつける発言をしたことがあったことは、一度このブログで記事にした。
元記事:Damejima's HARDBALL:2011年7月5日、ゲームの進行が遅いとクレームをつけた最年長ベテランアンパイアに、ジョナサン・パペルボンが放った"Go Home"の一言。

資料:Umpire Joe West blasts Boston Red Sox, New York Yankees for slow play - ESPN

ジョー・ウエストのこの発言に対して、当時ボストンのクローザーだったジョナサン・パペルボン(今はフィラデルフィアのクローザー)は、こんな風にやりかえした。
Have you ever gone to watch a movie and thought, 'Man, this movie is so good I wish it would have never ended.' That's like a Red Sox-Yankees game. Why would you want it to end?"
If you don't want to be there, don't be there. Go home.
「映画に行って『いい映画だから、終わってほしくない』って思ったことがあるだろ? レッドソックスとヤンキースのゲームも、まさにそれ。なんで終わらせたいって思うのさ? 嫌なら、スタジアムにいることない。とっとと家に帰りな!」
Umpire Joe West blasts Boston Red Sox, New York Yankees for slow play - ESPN


ヤンキースに移籍したイチローをファンがスタンドから撮った動画がいろいろとYoutubeに上がってきているので、テキトーにまとめてみた。(漏れがあるとは思う)

ヤンキース移籍発表直後のセーフコ
試合前のウオームアップ






セーフコでヤンキースのユニフォームを着て登場した初打席で
スタンディング・オベーションする観客。


一塁側 スタンド上



一塁側 外野寄りの内野




三塁側 内野







http://youtu.be/QJPlj3uQxLk


バックネット裏からの角度






テレビ観戦していた人たち





おまけ
ESPNの特集をテレビで見ていた人




July 26, 2012

セーフコでのシアトル対ヤンキース観客動員数推移(2012年7月まで)

イチローのヤンキース電撃移籍が発表になった直後のセーフコ・フィールドでのシアトル3連戦が終わった。観客動員数は、以下の通り。

23日(月曜日) 29,911
24日(火曜日) 31,908 ヘルナンデス登板
25日(水曜日) 36,071
----------------------------
3ゲーム平均  32,630
2012 Seattle Mariners Schedule, Box Scores and Splits - Baseball-Reference.com

これらの数字を、かつてこのブログで作った1999年から2011年までのヤンキース戦限定の曜日別観客動員数グラフ(=セーフコフィールドにおけるシアトルの対ヤンキース戦、つまりホームでのヤンキース戦)に組み込んでみた。それが、上の図だ。
元記事:Damejima's HARDBALL:2011年9月16日、球団のドル箱であるヤンキース戦ですら1試合あたり観客2万人を切る事態を招いた無能GMズレンシック。もはや「内側に向かって収縮する白色矮星」のシアトル・マリナーズ。


このカードでセーフコに集まった多くの観客の大半は、いうまでもなく、去っていくイチローを観ようというシアトルファン、あるいは、全米に存在しているヤンキースファンで、イチローのヤンキース加入に強い興味をひかれセーフコに来たヤンキースファン、つまり、観客の大半が「イチローを観に来た観客」で占められている。
そして、この「イチローを観るためにセーフコに来る」というモチベーションこそが、「セーフコフィールドに野球観戦に来る理由そのものだった」のだ、という話を以下に書きとめる。







ちなみに、月曜日以降、徐々に観客数が増えていっているのは当然で、イチローのヤンキース移籍があまりにも突然発表されただけに、ファンの側がすぐに自分の都合を繰り合わせてスタジアムにかけつけるのは難しかったという理由からだろう。
もしイチローの移籍があらかじめわかっていれば、3日間の平均観客数は3万5000どころか、おそらくイチローがシアトルに加入した2000年代初頭のように、4万人に迫る数字になったに違いない

以前から何度も記事に書いてきたように、セーフコの観客はヘルナンデスを観に来るのではない。
そのうち、スタンドがガラガラなのに、キングスコートだけ満員という、異常な状態がセーフコに実現することになる。それを見れば、セーフコの観客がこれまで何を観に来ていたのか、いくら馬鹿でもわかるだろう。そういう日は遠からず確実にやって来る。
Damejima's HARDBALL:2009年9月14日、平日月曜から木曜のスタジアムに陣取るコアな観客層が落胆し、拒絶した「2009年8月のシアトル野球」。(2)


他のどの球場のヤンキース戦も同じだが、セーフコ・フィールドにおけるヤンキース対シアトル戦も、シアトル・マリナーズにとって、ボストン戦と並ぶ、いわゆる「ドル箱カード」だった。

2001年にイチローが加入したことでシアトル・マリナーズの年間観客動員数は350万人を越え、「全米で最も観客数の多い球団」になった。(この事実をいまだに知らない人もいるかもしれないが、2012年の日本開幕戦にもみられるように、イチローの観客動員力はハンパなものではない)当時のヤンキース戦は、常に4万数千人の大観客でセーフコフィールドは隙間もないほど埋め尽くされていた。
チーム強化の成功から大観衆を集め続けてきたテキサスでさえ、2011年の年間観客動員数は294万人で、300万人すら超えてないのである。イチローというスーパースターを迎えた2001年のシアトルがどんな沸騰状態だったか、わからない人にはわからないだろう。

また、たとえシアトルの順位が最下位ばかりになって観客数が減り続けた時代になって以降も、ことヤンキース戦に限っては、平均3万5000人以上の観客でスタジアムが満たされるのが普通だった。


こうした状況に大きな異変が起きたのは、イチローが成績を落とした昨年2011年だ。
マリナーズの年間観客動員数が、189万6000人と、イチローがシアトルに来て以来、初めて200万人を割り込んだこの年、「ドル箱カード」のはずのヤンキース戦ですら、2万人程度しか観客が集らない異常事態になった。
2011年9月(61勝85敗)
9月12日月曜日 22,029 ヘルナンデス登板
9月13日火曜日 18,306
9月14日水曜日 20,327
----------------------------
3ゲーム平均  20,221
2011 Seattle Mariners Schedule, Box Scores and Splits - Baseball-Reference.com



その2011年に比べて、2012年7月のヤンキース対シアトル戦の観客動員数の大幅な増加をみせたことから、
イチロー加入以降のセーフコ・フィールドの観客は単に、
イチローを観に来ていたのだ

というシンプルな事実が確定できた。

とっくにわかりきっていたことではあるが、こうして数字になったことで、事実を事実として認めたがらないアホなファンや馬鹿なメディアと無駄に論争せずに済むのは、ありがたい。人と議論などしている暇があったら、書きたいことをもっと書いて、自分をもっと先に進めたい。


以下の記事に挙げた20歳前後と思われる若いセーフコのシアトルファンは、イチローのヤンキース移籍に際して、こんなせつないストーリーをブログに書いている。

I remember staying up late to watch him break the single-season hits record, how gracious he was to the crowd―a crowd that had lacked anything to root for during a progression of 90- and 100-loss seasons. He was the only reminder of our glory days.
観客は、90敗とか100敗とか大敗シーズンが続く中で、何に対して熱くなればいいかわからなくなっていた。彼、イチローだけが、栄光の日々を思い起こさせるものだったんだ。彼は、たとえ衰えを感じさせはじめたときですら、僕の目には前向きの希望と興奮を感じさせる、唯一のプレーヤーだった。

Damejima's HARDBALL:2012年7月23日、イチローのヤンキース移籍でわかる、「感情を表現する場所の変化」。子供時代にイチローを知った世代にとっての「イチローの特別さ」


この文章からわかることは、若い世代のシアトルのファンは、実に冷静にチーム状況の推移を見守ってきた、ということだ。
彼らは馬鹿ではない。モノを見る目もある。
そして、近未来の球団の支えとなるはずだった(過去形)こうした地元の若い野球ファンにとって、唯一の希望だったのは、「イチロー」だったのである。



自分の手でチームを破壊しておきながら、チームのレジェンドに移籍圧力をかけるような矛盾まみれで、馬鹿げた自己保身しかできないシアトルのオトナぶった無能な人々、たとえば馬鹿げたチーム運営コンセプトを乱発し、トレードでもドラフトでも致命的な大失敗ばかり犯して、チーム自体を破壊し続けた張本人のGMズレンシック、そして、そんな誰の目にも明らかな事実関係すら理解できず、指摘もしない無能なシアトル・タイムズに代表される地元メディアの偏向したライター。
彼らがファンに押し付けようとしてきた自分たちの失敗を覆い隠す言い訳、そして彼らの「オトナの都合」など、イチローのクレバーさを見習って育ってきた、頭がよくて礼儀もわきまえているクレバーな子供たちの耳にはまったく届かない。届くわけがない。

「常識が無いクセに、常識人ぶろうとするオトナ」、「メンツを守りたがるクセに、まともなロジックのカケラすらないオトナ」が、いったい「何を壊したのか」、骨身に沁みて思い知ることになるのは、まだまだこれからだ



もういちど、骨に刻むように書いておこう。

セーフコ・フィールドのごく普通のファンは、この10数年、
イチローを観るためにスタジアムに通い続けていた
のである。


(追記)
この記事を書き、イチローが去ったシアトルで2012年7月26日にカンザスシティ戦が行われた。ブログ主のお気に入りのジェイソン・バルガスの素晴らしいピッチングがあったが、それでも観客数は、15,014人。イチロー移籍の余韻のある時点でこれだ。これからの下り坂に何が待っているのか、シアトルのチーム関係者は思い知るといい。

July 24, 2012

a lot better than you think,”
「(イチローは)君らが考えてるより、ずっと優れた選手だよ」
(FOXのシニア・ライター、ケン・ローゼンタールに、ある球団のエグゼクティブが語った言葉。Miami Marlins concede no World Series in 2012, trade players but not typical fire sale - MLB News | FOX Sports on MSN

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イチローのヤンキース移籍を知った日本人が、次にやることは、「他人がこの件をどう感じているかを知ること」だろう。

これがアメリカ人なら、なによりもまず「自分がこの件をどう感じたかを表現すること」を優先するかもしれない。国民性の違いというやつだ。


他人がどう感じているか、やたらと知りたがることの是非はともかくとして、いまの時代、スポーツ新聞の記事やテレビのコメントで垂れ流される他人の意見を鵜呑みにして、それをあたかの自分の意見みたいに吹聴してまわるような馬鹿馬鹿しいことをせずに、他人が感じているディープな感情を垣間見ようと思えば、ブログや短いツイートに表現されたものを読むだけでこと足りるものでもないことは知っておくべきだろう。

以下に例として挙げたのは、Tamblr(タンブラー)という、ちょっとアーティスティックなつくりのブログの多いSNSのツールだが、別に、このツールを宣伝するつもりで挙げるわけではない。

以下の引用例を見てもらって理解してもらいたいと思うのは、アメリカでのリアルな声だ。
彼らがTamblrならTamblrで表わす感情表現のリアルさは、必ずしもあなた方が見ているスポーツ新聞の日本人記者の書きたがる主観だらけの偏向記事と内容が違っているのはもちろんだし、MLB公式サイトのファンのマニアックで作為的なコメントとも、雰囲気がまるで違うことがわかるはずだ。
そういう偏向した人たちは、スタジアムに普通にいるファンではないし、そういう普通のファンの声を代表してもいない。

今回の移籍を他人がどう思ったか、気になるのはしかたがないとして、yahooのトップ記事や、テレビキャスターのコメントに耳を傾けるくらいなら、これを機会に、なんでもいいのだが、いままで経験ことのないコミュニケーションツールにトライして、自分で手間をかけて、リアルな「普通の人の声」を覗いてみてはどうかと思う。


きっと、さまざまな「普通の人」、特に、子供時代にイチローを知ったアメリカの若い世代の野球ファンが、どれほど今回のイチロー移籍を、哀しみ、残念がり、そして嬉しがっているかを知って、驚くことだろう。
こうした若いファン層こそ、次世代の野球を担ってくれる人たちなわけだが、そうした若い層でのイチロー支持率は高い。なぜなら、イチローは「クリーン」だからだ。

10歳に満たない子供の頃にイチローを知ったアメリカ人にとって、イチローがどれほど「特別な存在」なのかを知ってもらいたい。


Tumblrにおけるイチローに関するコメント
(以下の引用は、そのなかから抜粋したもの。ところどころにある太字は、ブログ側で添付したもの)
ichiro | Tumblr

I’ve never understood anything so emotional in a sport before… but the trade off of Ichiro Suzuki from my all time favorite team to my all time least favorite is something like the official resignation of the longest reigning idol in my life. I would be lying if I said I wasn’t chopped full of tears when I first saw him in a Yankees jersey. 11 and a half years doesn’t seem to be enough for what I believe to be the Mariner’s defining player of the 2000’s. I was only 7 years old when Ichiro joined our Emerald City team from across the sea, and as far back as my memories of the game go, they are accompanied with him. I remember my first M’s game, when I walked through the tunnel that opened to the great green field at Safeco Park and I saw Ichiro for the first time. It was a defining moment in my life. To know that I will never again step into that stadium and see him representing my city is a game changer for me. I will never look at my team, or the sport the same again.
私は今までスポーツを感情によって理解することはしてこなかった。いままでは。
でも、イチロー・スズキが私の一番お気に入りのチームから一番好きじゃないチームへトレードされたことは、人生で最も長い間、心を奪われ続けたアイドルと、正式に決別する、みたいな話だった。私はヤンキースのジャージーを着ている彼を最初に見たとき、たとえタマネギを刻んでたと、よくある言い訳をしたとしても、即座に嘘だとバレてしまうくらい、涙でいっぱいになった。11年半の歳月があったとはいえ、私にしてみれば、自分が2000年代マリナーズの絶対的存在と信じているプレーヤーと過ごす時間としては、けして十分だとは言えなかったようだ。イチローが海を渡ってこのエメラルドシティ(=シアトルのニックネーム)に来たとき、私はまだたったの7歳だった。だから、どんなに古いゲームの記憶にさかのぼったとしても、私の野球の記憶には必ずイチローの姿がある。マリナーズの試合を最初に見たときのことを覚えてる。私はセーフコの素晴らしいフィールドに続くトンネルを抜けて、初めてイチローに出会った。私の人生の絶対的な瞬間だった。私は、自分がスタジアムに足を踏み入れ、そこで彼が私の街を代表してプレーするのを見ることはもう無いのだとわかって、天地がひっくりかえる思いがした。私が自分の街のチームを見ることも、また、今までと同じ目線でスポーツを見ることも、もうないだろう。
http://cam-asher.tumblr.com/post/27899295968/ive-never-understood-anything-so-emotional-in-a


I've firmly shut the door to my room so my parents can’t see the tears rolling down my cheeks. This is the end of an era. Ichiro was the first Mariner I actively followed from his arrival here in Seattle. I was but eight years old when he burst onto the scene during the team’s magical 116-win season in 2001. I adored him. Not just for his athletic exploits, but for his character. He was above all, a humble man. He used his earnings not on flashy limos or callgirls as so many superstars now do, but on building a nice home for his parents in Japan.
頬をつたう涙を両親に見られないように、僕はドアを固く閉じた。これはひとつの時代の終わりなんだ。イチローがここシアトルに来て以来、彼は僕が積極的にフォローするようになった最初のマリナーだった。2001年にチームがマジカルな116勝を挙げたシーズンに彼が突然表舞台に踊り出たとき、僕はまだ、たったの8歳だった。僕は彼に憧れの念を抱いた。彼のアスリートとしての業績に対してだけではなく、彼のキャラクターに。特筆しておきたいのは、彼が謙虚な人間であることだ。イチローは、今のスーパースターの大半がそうしているように、けばけばしいリムジンや娼婦に稼いだ金を使うんじゃなくて、日本の両親のために素敵な家を建てることにお金を使ったんだ。

Even after the Mariners got rid of Lou Pinella and began their current tailspin, Ichiro stayed. I remember staying up late to watch him break the single-season hits record, how gracious he was to the crowd―a crowd that had lacked anything to root for during a progression of 90- and 100-loss seasons. He was the only reminder of our glory days. He was the only player who, even as he began to decline, inspired hope and excitement in my eyes. That’s why it hurts so much to see him leave. My hope for the direction that the team’s owners will follow has gone with him.
マリナーズがルー・ピネラを解任して、チームの急降下が始まっても、イチローは留まってくれた。彼がシーズン最多安打のMLB記録を破るのを見るために、夜遅くまで起きていたのを、よく覚えてる。彼が観客に対して、どれだけ礼儀正しかったことか。観客は、90敗とか100敗とか大敗シーズンが続く中で、何に対して熱くなればいいかわからなくなっていた。彼、イチローだけが、栄光の日々を思い起こさせるものだったんだ。彼は、たとえ衰えを感じさせはじめたときですら、僕の目には前向きの希望と興奮を感じさせる、唯一のプレーヤーだった。彼が去っていくのを見て僕が酷く傷ついたのは、そういう理由からだ。チームのオーナーがイチローをサポートしていくという僕のチーム運営に対する希望は、チームを去る彼とともに終わりを迎えてしまった。

Domoarigato, Ichiro-san. Wherever you go, you will always be a Seattle Mariner to me.
「ドウモ、アリガトウ、イチローサン」。あなたがどこに行こうと、常にあなたこそが、「僕にとってのシアトル・マリナーズ」だよ。
College Student Craving Travel • Devastated.


Sad to see you go, Ichiro. Forever my favorite. Thank you for the memories and good luck in NY!
イチロー、あなたが去っていくのを見るのは、悲しい。永遠に私のお気に入りです。思い出をありがとう。ニューヨークでの幸運を祈ります!


You will forever be my childhood idol, even if you play for my home team or not. I wish you well.
たとえあなたが私のホームタウンのチームでプレーしようと、そうでなかろうと、あなたは永遠に私の子供時代のアイドルであり続けるのです。あなたの無事を心から祈っています。
✞ I WAS MADE JUST LIKE THIS ✞ | Ichiro





イチローヤンキース移籍!
言いたいことはありすぎる。
とにかく、めでたい。
Ichiro Suzuki Acquired by Yankees From Mariners - NYTimes.com

Yankees acquire 10-time All-Star Ichiro Suzuki from Seattle, outfielder goes 1-for-4 in Bombers' 4-1 win over Mariners  - NY Daily News


そう。
椎名林檎も歌っているように、
時代なんて自分で造っていけばいいんだ。

イチローの記念すべきヤンキースで最初のメンバー表
記念すべきヤンキースでの最初のメンバー表。
「8番ライト イチロー」。

Ichiro's Yankees debut(MLB公式サイト動画)
http://mlb.mlb.com/video/play.jsp?content_id=23295039&topic_id=&c_id=mlb&tcid=vpp_copy_23295039&v=3







「未来は不知顔さ、自分で造っていく。」
 多分あなたはそう云うと判っているのに
 ほんのちょっとざわめいた朝に声を無くすの

 私はあなたの強く光る眼思い出すけれど
 もしも逢えたとして喜べないよ
 か弱い今日の私では
 これでは未だ厭だ


「答えは無限大さ、自分で造っていく。」
 枯れ行く葉が相変わらず地面を護っている
 そんな大地蹴って歩いては声を探すの

 私はあなたの孤独に立つ意志を思い出す度に
 泪を湛えて震えているよ
 拙い今日の私でも

 明日はあなたを燃やす炎に向き合うこゝろが欲しいよ
 もしも逢えたときは誇れる様に
 テレビのなかのあなた
 私のスーパースター

word by Ringo Shiina(東京事変)



いわゆる「イチメーターの人」として、日本のMLBファン、特にイチローファンで知らない人はいないのが、セーフコのライトスタンド最前列でいつも観戦して応援してくれたエイミー・フランジさんだが、彼女は今日はじめてイチローにサインをもらった
しかも、「イチメーター」のボードに。
イチローがエイミーさんに初めてサインしたという「イチメーター」

イチメーターにサインするイチロー

イチローからサイン入りのイチメーターを受け取るエイミーさん

サインされた「イチメーター」を受け取って涙ぐむエイミーさんサインされた「イチメーター」を受け取って涙ぐむエイミーさん

サインされた「イチメーター」を受け取って涙ぐむエイミーさん 2





イチローはその後、ボールもスタンドにいるエイミーさんに投げ、グラブを持ってスタジアムに来ているエイミーさんが見事にキャッチ。スタジアムに集まったヤンキースのファンからも、マリナーズのファンからも、やんやの喝采を受けた。

これが、そのボール。

イチローがエイミーさんに投げ、グラブにおさまったボール


http://mlb.mlb.com/video/play.jsp?content_id=23294615&topic_id=&c_id=mlb&tcid=vpp_copy_23294615&v=3

スタンドにいるエイミーさんにボールを投げるイチロー

イチローの投げたボールをグラブでキャッチしたエイミーさん






エイミーさんの応援がどれほど、日本のイチローファンを励まし、力づけたことだろう。

この日のイチローの「もてなし」を受ける権利が、
彼女にはある。

ありがとう、エイミーさん。
ヤンキースのイチローもよろしく。


試合後のインタビュー。
Ichiro on playing for Yankees(MLB公式サイト動画)
http://mlb.mlb.com/video/play.jsp?content_id=23294935&c_id=mlb


試合前にヤンキースの選手として初めてケージに入るイチロー
試合前のバッティング練習で、
ヤンキースの選手として初めてケージに入るイチロー。

礼に始まり礼に終わる日本人、イチロー
礼に始まり礼に終わる日本人。
それがイチロー。

July 17, 2012

MLBとアフリカ系アメリカ人の関わりを書いていて、誤解されたくないと思うことのひとつは、アフリカ系アメリカ人の受けてきた仕打ちがあまりにも可哀想だ、などという道徳的な理由から記事を書いているのではない、ということだ。

人の時間は有限であり、無限ではない。そんなヤワなヒューマニズムに貴重な時間を無駄に使うわけにはいかない。
もし、日本人であることの歴史的価値の高さや誇りについて、歴史の流れの中で位置をきちんと見定め、ブレないモノの見方を維持しながら毎日を送りたいと願うならば、「苛められている人たちが可哀想」などというグダグダな教科書的価値観で過去を振り返るなどという無意味な行為に、時間を割けるわけがない。


例えば、奴隷制がいいことなのか悪いことなのか、なんていう、論じるまでもない当たり前の道徳を抜きに、できるだけ「冷ややかな視点」から、アフリカ系アメリカ人と南部アメリカという「アメリカ史」を眺めると、初めて、当時のヨーロッパの強大さ、そして、当時のアメリカの意外なほどの「地位の低さ」がわかってくる。


簡単な言い方をさせてもらうなら、
アフリカ人奴隷を使って綿花などのプランテーションを営んでいた時代の南部アメリカは、当時のヨーロッパ(というかイギリス)にとっては、数あるサブシステムのひとつに過ぎない
ということだ。

これは「差別はよくない」だの「アフリカ系アメリカ人を救え」だのという道徳的な話ではなく、また、「古き良きアメリカ」だのなんだのという懐古趣味でもない。
当時のアジア、アフリカ、アメリカ、南米の全てが見えているヨーロッパの位置から見れば、奴隷制下の南部アメリカも、大西洋の三角貿易も、もっといえば南北戦争ですら、アメリカ人が考えるほど重くはない。


よく、アフリカ系アメリカ人の通史的な教科書、つまり、アメリカに奴隷が持ち込まれた時代から現代に至る長い経緯について書かれた教科書をみると、必ずと言っていいほど、最初の数章は、ヨーロッパ、北アメリカ、西アフリカの「大西洋の三角貿易」についての説明に充てられている。
たいていの場合その中身は「どこにでもある、ダラダラとしたお決まりの記述」を並べているだけであり、さらに、その先の話も、これまたお決まりの「アメリカの抱える貧困、暴力、差別、都市問題」と、お決まりの暗い記述で埋め尽くされる。

こういう「教科書」が行き着くのは、結局のところ、せいぜい「加害者と被害者」という教科書的モラルでしかない。
それはそうだ。欧州系白人とアフリカ系アメリカ人の、2種類の登場人物しかいない作文なのだから、「加害者と被害者」という教科書的モラルにしか行き着きようがない。

こうした「視野狭窄」が起きるのは、ひとつには、ヨーロッパとアジアの関わりにをきちんと視野に入れてしゃべっていないからだ。それは一種のアジア軽視といってもいい。

アメリカの奴隷制を描きだすにあたって、「ヨーロッパとの間を関連づけておけば、もうそれは世界史として成り立った証拠だ」とでも思っているのかもしれないが、勘違いもはなはだしい。そんなのはヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンの捏造したヨーロッパ中心主義ですらない。


繰り返して言わせてもらうが、
「対価を払ってモノを買うのが、経済というものであり、本来のビジネス」で、「対価を払うための資本を貯め続けるシステムを持っていることが、世界の中心であることの証」である。(それは実は現在でも変わっていない)

奴隷制下の南部アメリカは、たとえとしていうと、奴隷という「ガソリンのいらないトラクター」で土地を耕し、できた綿花をヨーロッパに買われていっているだけの「特殊なビニールハウス」に過ぎない。
中世から既に「対価を払ってモノを買う、本来の意味の貨幣経済」が発達していたヨーロッパからみたら、給料という対価を払わずにすむアフリカ人奴隷を使って綿花やタバコを栽培していた南部アメリカの「経済」は、正確にいえば「ビジネス」でも、「貨幣経済」でもない。
また、繰り返しになるが、ヨーロッパにとっての南部アメリカは、「数あるサブシステムのうちのひとつ」に過ぎないし、手厳しく言えば「買い付けをするために出かけていく「田舎」のひとつ」に過ぎない。


もう少し詳しく書けば、大西洋の三角貿易で、綿花や奴隷の買い取りを可能にしてくれる原資は、金や銀だが、ヨーロッパの金や銀での支払いを可能にしているのは、アジアとの交易だ。大西洋の狭い三角交易などではない。
大西洋の三角交易を可能にしている原資のひとつが、アジアとの交易にあるのに、その「外部の世界」を無視して、南部アメリカの奴隷制について書かれる教科書が中途半端なのは当然だ。

教科書で描かれる登場人物は基本的に、白人とアフリカ系アメリカ人だけであり、その2者の関係の歴史的経緯だけがザッと描かれるだけで、「アメリカに移民してきた貧困なヨーロッパ系白人」という「第三の立場」から見た奴隷制という視点ですら欠けている。
だから、よけいに「加害者と被害者」という単純なモラルばかりが強調されることになりがちになるのは当たり前なのだ。


これなど、まさに松岡正剛氏の指摘する「トンネル内でモノを見るような狭いモノの見方」だ。

ヨーロッパ、アメリカ、アフリカ、三者の関係をいくら説明し、さらにアフリカ系アメリカ人(住人)とアメリカ(国家)との関係をいくら語ったとしても、「大西洋の三角貿易の外部」について、まったく説明しないのでは、狭くなって当然だ。


外部」とは何か。

例えば、奴隷制当時の南部アメリカの主要農産物のひとつである綿花をヨーロッパが買いつけるときに支払う「代金の出処」を考えれば、すぐにわかる。

奴隷制下の南部アメリカから綿花という「継続的な買い物」をして、その代金を払い続けることのできる「特別な財布」を持っているのは、ヨーロッパの側であり、その財布にコインを流し込んでいるのは、アジアとの交易だ。
繰り返しになるが、ヨーロッパにとって、奴隷制下の南部アメリカは、単に「たくさんある仕入先のひとつ」でしかない。たとえ奴隷時代のアメリカが、「古き良きアメリカ」であろうと、「誇り高き時代のアメリカ」であろうと、そんなことはまったく関係ない。


ヨーロッパ視点で、あらためて大西洋の三角貿易を振り返ると、南部アメリカの奴隷制プランテーションが、いかにアフリカ人奴隷という「特殊な人材雇用システム」を利用することで潤っていたかのように見えようと、本当の意味で商品が集まり、本当の意味でキャピタルゲインの多い場所は、当然ヨーロッパであって、南部アメリカではない。だからこそ、ヨーロッパに綿花の代金を払うことのできる「特別な財布」がある。
そして、ヨーロッパの「特別な財布」を膨らませるコインは、例えばアジアからもたらされる。

だから、ヨーロッパ視点から見た南部アメリカは、単に「農場」「田舎の商店」にすぎないというのだ。

ヨーロッパ側視点から見れば、南部アメリカは、「奴隷という、給料を払わなくてすむワーカー」を導入させ、「ヨーロッパのための綿花」を生産するプランテーションを運営させ、収穫を安く買い取る、「ヨーロッパのための奴隷農場」だ。ならば、奴隷農場の主人、つまり「奴隷の主人だった南部のアメリカ白人」の評価にしても、「奴隷という安価すぎる働き手を与えて、ヨーロッパのために綿花を栽培させている、ヨーロッパのための畑の『管理人』」に過ぎない。

人間(奴隷)から貴金属、農産物まで、ありとあらゆるモノを仕入れて店頭に並べ、商売をし、稼いでいる「市場」(=ヨーロッパ)にとって、綿花やタバコを仕入れる産地のひとつ(=南部アメリカ)が、あくまで仕入先のひとつに過ぎないのは当たり前だ。市場が南部アメリカから綿花を買うのは、「奴隷という給料を払わなくていいワーカー」を使って経営している南部アメリカの綿花価格水準が相対的に安いからに過ぎない。


そして重要な点は、ヨーロッパが、例えば南部アメリカから綿花を買う「代金」は、アメリカ、アフリカとの三角貿易そのものから生じるわけではなく、三角貿易の「外部」からもたらされることだ。これは日本人視点から見たアメリカの歴史を、ものおじせず、きちんと掴むという意味でとても大事な視点だ。

市場であるヨーロッパが、ヨーロッパのための農場である南部アメリカ、農場のための人材確保場所であるアフリカとの三角関係にあたって支払う代金の、「もともとの出どころ」には、「ヨーロッパと、銀を生産し銀で決済するアジアとの間の交易」が深く関係している。
言い方を変えると、「ヨーロッパ・アジア間の交易」にまったく触れないまま、ヨーロッパ、アメリカ、アフリカ、三者の貿易の説明でとっかかりの話題が終わってしまうようなアフリカ系アメリカ人の「ありがちな通史」は、「都会の人間が、南部アメリカという田舎の商店でやっている買い物を、まるで世界のすべてでもあるかのように語っている」のと変わりない面がある。
そんな狭い観点で語っていれば、話題は最後には「加害者と被害者」という通俗的な道徳話に行き着かない。


当時、既にアジアは、けして綿花とタバコだけを輸出していた奴隷農場のような貧困なビジネスをしていたわけではなく、また、人身売買の悲惨な舞台だけ提供する奴隷市場でもなくて、きちんと交易のバックボーンとなる貴金属類を生産しつつ、自分のところの産品を売り、なおかつ、相手の産品も買うという、売りと買い、両方のできる場所、つまり、きちんと自立した市場参加者だったのであって、けして隷属などしていなかった。
後になってアメリカが自動車産業の勃興などによって徐々にヨーロッパのヘゲモニーから脱していった後も、綿製品、自動車、通信、コンピューター、それぞれの時代のメイン商品について、アジアがそれなりのオリジナリティを全て失ったことは、ほとんどない。

ヨーロッパに旅行したアメリカ人が蔑まれることがあるのは、ヨーロッパのための奴隷農場の雇われ管理人として「三角貿易を通じてしか世界を知らないアメリカ人」の側は全く意識しないとしても、アメリカの主人として綿花を買い取るだけでなく、「全世界からあらゆるモノを買いつけることで、世界を知っていたヨーロッパ」の側では、「全世界を相手にしてきたヨーロッパ視点から見た『アメリカの小ささ』を、ヨーロッパ側で、けして忘れることがない」からだ。
それは、花の都パリで、わかりもしないオペラを見て、休憩時間になっても席を立とうともしないペアルックのアメリカ人が、砂糖とコーンスターチの食べ過ぎで太っている、その太った外見が原因ではない。


アフリカ系アメリカ人に対して強権をふるうアメリカが、アメリカの全てではないが、三角貿易がまるで当時の歴史のメインストリームででもあったかのようにふるまってみたところで、実際には、どうみても「当時の南部アメリカは、単にヨーロッパ経済のサブシステムのひとつに過ぎなかった」としか言いようがないことを消せるわけではない。

キングス・コートは、ベネズエラ人投手フェリックス・ヘルナンデスの登板日にだけセーフコフィールド外野席の端に特設される「ヘルナンデス応援専用席」のことで、バッターを2ストライクと追い込むと、三振を期待するキングスコートに集結した白人観客は、「 K! K! K! 」と、MLBで「三振」を意味する「 K 」と、ヘルナンデスのニックネームであるKingにひっかけた「 K 」というアルファベットを、まるで「カルトの集会」でもやっているかのように、熱狂的に連呼しはじめる。

この、Kというアルファベットを連呼するのがお約束の場所であるキングスコートに、アフリカ系アメリカ人の姿を見たことがある人は、ほとんどいないはずだ


まぁ、シアトルのゲームを毎シーズン100試合とか観ない人には、「キングスコートにはアフリカ系アメリカ人はいない」という指摘を信じない人もいるだろう。
ならば、ネットを探せばキングスコートについての写真や動画がそこらじゅうに落ちていると思うから、自分でとことん確かめてみるといい。もしアフリカ系アメリカ人で、あの黄色いTシャツを着て、K!K!K!と連呼している集団の写真か動画を見つけることができたなら、ぜひ教えてもらいたいものだ。

July 3: King's Court Fourth of July | Mariners.com: Photos

In King’s Court, anything goes ― and that’s a very good thing | Seattle Mariners blog - seattlepi.com

このKという単語の連呼が、どのくらい今のアフリカ系アメリカ人にとって、あの忌まわしいKKK (=Ku Klux Klan、クー・クラックス・クラン)を連想させるかについては、ハッキリと断言することまではできないにしても、もしブログ主がアフリカ系アメリカ人だったら、いくら野球という娯楽の上での話とはいえ、ヘルナンデス登板日にセーフコに行くのはプライドが許さないし、ヘルナンデス登板日には絶対にセーフコに行かなくなるだろう。


KKKのパロディ
資料によれば、KKKはかつて南北戦争終結後の1865年に作られ、一時は衰えたものの、第一次大戦後に中西部のオクラホマ、テネシー、オレゴン、インディアナ、ディープサウスのアラバマなどで勢いを取り戻し、1924年には会員数500万人を数えたという。(これらの地域は、後で述べるように、ユダヤ系でないドイツ系移民の多い地域でもある。ちなみにユダヤ系ドイツ移民が多いのは、ニューヨークなど東部の都市)

かつてのKKKによる暴力(アメリカのWiki)Ku Klux Klan - Wikipedia, the free encyclopedia



なにを大袈裟なことを、と思う人がいるかもしれない。

King Kongは、もともと1930年代初期に作られた映画がはじまりだが、これがまた忌まわしい K にまつわる話で、しかも、「King Kong =キングコング」というネーミングは、2つの「K」がつながった、「K.K」というイニシャルなのである。
(ちなみに、キングコングのプロデューサー、Merian C. Cooperは、元は第一次大戦の空軍パイロット)

King Kong(1933版)King Kong - Wikipedia, the free encyclopedia
南洋の島から見世物にされるためにニューヨークへ連れて来られ、逃げ出して街で大暴れしたキングコングは、巨大なサル、つまりApeである。
Apeという表現は、「デカくてのろまな人」を馬鹿にする用途にも使われる。もちろん、アフリカ系アメリカ人を馬鹿にするのにも使われるし、そういう言葉の中で最も怒りを買う言葉のひとつでもある。
(かつて日本の化粧品会社のCMで、チンパンジーがアフリカ系アメリカ人の真似をしているのがあったらしいが、もしそんなとんでもない映像がアメリカのテレビで流されたとしたら、社会問題になるだけでは済まない)

日本のWikiなどは、キングコングは、白人側から見た、アフリカ系アメリカ人に対する恐怖感や差別意識のメタファー(隠喩)として扱われることもある、などと、生ぬるい表現で説明しているが、アメリカではとっくの昔に、「隠喩どころか、キングコングって、明らかにアフリカ系アメリカ人そのものを指してるじゃねぇか。バカヤロ」と指摘されている。

キングコングにアフリカ系アメリカ人の比喩を指摘する資料 1
During the war period the movement of blacks from rural to urban areas intensified, and migration continued through the l920s, resulting in increased racial friction in the cities.
King Kong by David N. Rosen

注:文中の "migration" は、もちろんいわゆるGreat Migrationをさす
キングコングにアフリカ系アメリカ人の比喩を指摘する資料 2
...fucking GIANT and BLAAAAAACK hand reaching out towards said blond symbol of white pure beauty.
AngryBlackBitch: King Kong...

美女と野獣という設定は、そのまま「白人」と「アフリカ系アメリカ人」という関係のシンボリックな比喩になっている、という指摘


既に書いたように、南北戦争が終わると、奴隷として南部に強制的に閉じ込められていたアフリカ系アメリカ人は、一斉にニューヨーク、シカゴ、デトロイト、ピッツバーグといった北部の大都市へ移住しはじめた。いわゆるGreat Migrationである。
キングコング映画が最初に製作された1930年代初期は、このGreat Migrationが盛んだった1920年代の直後の時代にあたる。(1930年代に入ると大不況のあおりでGreat Migrationは一時的に停滞した)
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年7月3日、「父親」とベースボール (2)南北戦争100年後のアフリカ系アメリカ人の「南部回帰」と「父親不在」、そしてベースボールとの距離感。

キングコングとアフリカ系アメリカ人の不快な類似性を指摘する人は、単に、キングコングがデカくて黒いからアフリカ系アメリカ人のメタファーになっているなどと根拠の薄い議論をしているのではなくて、「黒くてデカいApeが、未開の地から北部の都市へやって来て、街を破壊する」というキングコング映画の設定そのものが、どうみても南北戦争後に南部のアフリカ系アメリカ人が北部の都市に流入したGreat Migrationを揶揄しているとして、アメリカ史をふまえた議論をしているのである。



カイゼル髭のオモチャをつけたキングスコートの白人の子供(写真注)アメリカが独立戦争において、ドイツ系のイギリス王ジョージ3世、およびジョージ3世がアメリカに連れてきた残虐なドイツ人傭兵集団と戦った過去の歴史を踏まえない、無神経な「カイゼル髭」

おそらくはシアトル地元のアフリカ系アメリカ人の総スカンを食らっているであろう、このキングスコートとかいう無神経なプロモーション手法は、最近では、さらにドイツ系イギリス王のトレードマークだったカイゼル髭になぞらえたプロモーションまでやりだしだ。
これがまた、どこか、ドイツの美術史家ヨハン・ヴィンケルマンが、「白いギリシア」という屁理屈でヨーロッパ文化のルーツを捏造して以降のドイツ系人種の増長ぶりを思わせて、最悪である。


「キングつながり」という駄洒落のつもりかもしれないが、
ちょっと歴史を踏まえなさすぎるにも程がある。


植民地時代のアメリカ(13植民地)(左図)植民地時代のアメリカ(赤色部分がいわゆる「13植民地」)
植民地アメリカが、イギリス、もっと正確にいうなら、ドイツ系のイギリス王朝との間で独立戦争を戦ったのは、18世紀末の1775年から1783年だが、当時のイギリス王ジョージ3世は、この戦争を戦う兵士として、ドイツにたくさんいたジョージ3世の親戚筋から多くのドイツ人を「カネで買って」投入した。

1755年に刊行されたヨハン・ヴィンケルマンの『ギリシア芸術模倣論』によって、ヨーロッパで熱烈な「白いギリシア」ブームがまきおこったのも、ちょうどアメリカ独立戦争のあった18世紀だ。

「ジョージ3世がアメリカに連れてきたドイツ人」を、文脈の便宜上「傭兵」などと表現している資料は多い。だが実際の彼らは、「戦闘用に訓練された職業兵士」という意味の「ホンモノの傭兵」ではない。また、屈強さで歴史的に有名な中世のドイツ系傭兵集団ランツクネヒト(Landsknecht)でもない。

彼らは、単にドイツ諸侯の領地に住んでいた、「ごく普通の領民」であり、イギリス王ジョージ3世とつながりのあるドイツ諸侯が、単に金欲しさのために自国の領民をイギリスに売り飛ばしただけの話で、要するに、「人身売買」なのだ。売買価格は、1人あたり7ポンドちょっとだったと資料にある。(【スリーピー・ホロウ】アメリカ都市伝説を生んだヘッセンカッセルなど)

こうしたイギリスとドイツの深い関係は、さかのぼる1714年に、今のドイツの一部であるハノーファーの領主だったゲオルク1世が、ジョージ1世としてイギリス王に即位し、イギリスにドイツ系王朝であるハノーヴァー朝が開始されたという経緯からきている。ハノーヴァー朝におけるイギリス国王は、イギリスの王であると同時に、今のドイツの一部であるハノーファーの領主も兼ねていた。(英語の「ジョージ」はドイツ語では「ゲオルク」あるいは「ゲオルグ」。英語の「ハノーヴァー」はドイツ語では「ハノーファー」)
イギリスがアメリカ独立戦争のためにドイツ諸侯から調達したドイツ人は3万人弱ともいわれるが、そのうち1万8千人程度、つまり半数以上は、イギリスとの間で傭兵提供条約を結んでいたヘッセン・カッセル伯フリードリヒ2世が「金で売り払った領民」であるといわれる。このフリードリヒ2世(注:プロイセン国王フリードリヒ2世とは別人)は、ドイツ出身のイギリス国王ジョージ3世の義理の叔父にあたる。


アメリカ独立戦争においてイギリス軍の雇った外国人のふるまいの残虐さや、イギリス王が独立戦争に外国人を投入したことを背信行為とするアメリカ側の怒りは、1776年に出されたアメリカ独立宣言にハッキリと記されている。
HE is, at this Time, transporting large Armies of foreign Mercenaries to complete the Works of Death, Desolation, and Tyranny, already begun with Circumstances of Cruelty and Perfidy, scarcely paralleled in the most barbarous Ages, and totally unworthy the Head of a civilized Nation.
彼(HE=ジョージ3世)は現在、殺戮と荒廃、専制という事業を完成させるため、外国人傭兵の大軍を送り込んできており、最も野蛮な時代ですら比肩できないような、残虐と背信に満ちた状況が作り出されているのであり、彼はおよそ文明国家の長たるに値しない。
In Congress, July 4, 1776. The unanimous declaration of the thirteen United States of America.

アメリカがイギリスの植民地だった18世紀までの時代に、アメリカの人口の10%はドイツ語を話していたといわれ、植民地アメリカにはもともとドイツからの移民が数多く存在していた。1775年にアメリカ独立戦争が始まると、ドイツ移民は、イギリス国王側につくロイヤリストと、アメリカ独立側につくパトリオットに分かれた。
こうした植民地時代からもともとアメリカに住んでいたドイツ移民に加え、アメリカ独立戦争においてイギリス軍がアメリカの独立を阻止するためドイツから金で買ってきたドイツ人の中に、独立戦争が終わった後もドイツへは帰国せず、アメリカ残留を選択して移民になる人々が出現した。
(ここでは書かないが、これらの「アメリカとイギリスとの戦争のためにアメリカに連れてこられ、結果的にアメリカに住みついた、矛盾を抱えたままのドイツ人」が、アメリカ建国当時の理想、つまり、南北戦争で北軍が樹立しようとした「本来のアメリカの理想」に必ずしも従わなかったと仮定してアメリカ史を見直してみるのは、アメリカ史に対する興味として非常に面白い)


ドイツ系移民の人口密度(1872年)アメリカ北部におけるドイツ系移民の人口密度(1872年)を示した図

ゲルマン系のドイツ移民はペンシルベニアなどに落ち着き、さらに19世紀後半から20世紀前半にかけてはウィスコンシンなどの中西部、さらには西岸のシアトルやアナハイムに移るグループもいた。
ペンシルベニアおよび中西部に、Pennsylvania-German、ペンシルベニアドイツ語と言われる特殊な言葉を話す人がいまだに存在していることも、これらの地域におけるドイツ移民の影響の強さを物語っている。かつてミシガン州にはBerlin(ベルリン)という名前の街すらあった。(現在ではMarneと名前を変えている)

第二次大戦においてアメリカは、独立戦争、第一次大戦に続いて、ある意味3度目となるドイツとの戦争に臨んだわけだが、あまりにもドイツ系移民の人口が多くなり過ぎていたからか、ドイツ系アメリカ人は、日系人のように、強制収容所送りにはならなかった。(もちろんこれは日系人に対する人種差別だ)

ドイツ移民数の年代別推移ドイツ移民数の
年代別推移


The German-Americans-Chapter Two


様々な経緯からアメリカで多数のドイツ系移民が増え続けていった結果、ドイツ系住民はアメリカ人の最大派閥となっていった
その数は、中西部を中心に約5000万人。例えばウィスコンシン州のミルウォーキーがビールの街になったのは、ドイツ系移民の多さからきている。
州別にみた最も多い人種の内訳
元資料:2000年USセンサス

州で最も多い人種
この図の濃い青色で示した部分が、人種別に見てドイツ系人種の子孫が多い州である。
北東部を除くアメリカの北半分がドイツ系移民の子孫の多い州、そして南部がアフリカ系とヒスパニック系と、アメリカの南北で棲み分けが進んだことがハッキリわかる。
アフリカ系アメリカ人が南北戦争後に南部から北部に移住し、また南部に回帰するという移住の歴史を考える上で、移民の中の最大派閥であり、中西部の工業都市にも多数住んでいるドイツ系移民とのかかわりを多少なりとも頭に入れなければならないことは、これでわかってもらえると思う。



セーフコ・フィールドでのカイゼル髭が、プロイセン皇帝ヴィルヘルム2世のパクリなのか、それとももっと後世のジョージ5世か、どのドイツ系国王にあやかったプロモーションなのかは知らない。

だが、アメリカ独立戦争で、カネで買ってきたドイツ人傭兵を使った残虐行為で顰蹙を買ったイギリス国王ジョージ3世由来のカイゼル髭を生やしたと思わせるオモチャをつけ、大声で、「 K!K!K! 」と、アフリカ系アメリカ人の神経を逆撫でする金切声を挙げて叫ぶ白人集団などというものは、あまりにも無神経といわざるをえない。
それはある意味、数が増えすぎたドイツ系アメリカ人の「増長」と「思い上がり」の象徴であり、アメリカという多民族国家が歩んできた歴史に対して無神経すぎるふるまいだ

(もちろん、ドイツ系移民の増殖地のひとつである中西部インディアナ出身で、しかも「エリック」というドイツ系の名前を持ち、カイゼル髭を生やしていたどこかの野球監督さんも、たぶんドイツ系だ。レジェンドに対する礼儀をわきまえた発言のしかたすら知らない元3流プレーヤーのジェイ・ビューナーも、もちろんドイツ系)


そのうち詳しく書こうと思うが、ドイツ系のこうした無神経さは、どこかで、かつて18世紀ドイツの美術史家ヨハン・ヴィンケルマンが欧米文化のルーツとして捏造した「白いギリシア」に通底しているのは、ほぼ間違いないだろう。

Johann Joachim WinckelmannJohann Joachim Winckelmann

秀麗な大理石彫刻など、ギリシア文化に魅せられたヴィンケルマンは、「ヨーロッパの理想は『白いギリシア』にある」と、ヨーロッパ文化のルーツがいかにも「真っ白い、理想化されたギリシア文化」にあるかのように主張し、この発想は18世紀以降ヨーロッパで大流行した。(『ギリシア芸術模倣論』1755年、『古代美術史』1764年)



ヨーロッパのルーツとしての「白いギリシア」を捏造するにあたって、大英博物館で100数十年間にわたって行われていたギリシア彫刻の彩色剥ぎ取り事件は大英博物館自身が認めている有名な歴史の捏造にかかわる事件だ。

大英博物館には、「エルギン・マーブル(Elgin Marbles)」といわれるギリシア彫刻コレクションがある。イギリス大使としてオスマントルコに赴任した第7代エルギン伯爵トマス・ブルース(Thomas Bruce, 7th Earl of Elgin)が、当時オスマントルコの支配下にあったギリシアのパルテノン宮殿から勝手に剥がしてきて、後に大英博物館に寄贈したギリシア彫刻群である。

エルギン・マーブルには、実はもともとオリジナルな彩色が施されていた

だが、エルギン卿本人の指示により、秘密裡に彫刻作品の表面を特殊な工具を使って彩色を削り取り、「見た目を白く変える」という卑劣きわまりない作業が、なんと1811年から1936年まで、100数十年にわたって大英博物館の一室で延々と行われていたのである。
「歴史の捏造」と呼んでいい大事件だが、それほど、ヴィンケルマンの「白いギリシア」という捏造された「White is beautiful理論」はヨーロッパ社会に深く広く影響していた。

ちなみに、大英博物館はいまだにそのトマス・ブルースの恥知らずな作業を、「クリーニング」という当たりさわりのない表現で呼んでいる。
資料:British Museum - Cleaning the Sculptures 1811-1936

BBC News | UK | Museum admits 'scandal' of Elgin Marbles

エルギン・マーブル(Elgin Marbles)を「白くする」のに使われた卑劣な道具群エルギン・マーブルと呼ばれるギリシア彫刻コレクションを「白くする」のに使われた卑劣な道具群。

Elgin Marbles - Wikipedia, the free encyclopedia

白色だとばかり思われ続けてきた古代ギリシアの彫刻や、パルテノンなどの神殿建築に、実は 「極彩色のアジア的彩色が施されていた」 ことを明らかにしたのは、近年の科学の発達による紫外線による解析手法だ。科学が、ヴィンケルマン以降捏造され続けてきた「白いギリシア」という欧米文化のルーツの理論的捏造を暴いたのである。
おまけにヴィンケルマンが褒めちぎった古代ギリシア彫刻は、実際には、多くが「ローマ時代に作られた単なる模造品」であるという。



古代ギリシア文化は、貧しいギリシアから傭兵としてエジプトに派遣されていた人々が、やがてギリシアに帰還したとき、エジプトからさまざまな文化を持ち帰ったことで出来上がっていった、という説が有力になりつつあるようだ。
おそらくは、18世紀のアメリカ独立戦争においても、イギリスに雇われてアメリカに来て、そのまま住み着いたドイツ傭兵移民たちがアメリカに持ち込んだドイツ系文化がいろいろとあったに違いなく、その持ち込まれたドイツ系文化の中には、「ヴィンケルマン由来の白人(この場合はアーリア人)中心主義」のような精神的な文化もあったに違いないとみている。
(資料:コーネル大学名誉教授マーティン・バナール(Martin Bernal)『ブラック・アテナ』1987年など)

実は色つきだったギリシア彫刻
右はデータから再現された当時の彩色

Ultraviolet light reveals how ancient Greek statues really looked

Top 10 Color Classical Reproductions

July 07, 2012

資料によれば南北戦争までアフリカ系アメリカ人の約90%は南部に住んでいたが、北軍の勝利によって移動の自由を得た彼らの一部は、北東部を皮切りに、中西部、西部へ移住を開始。このGreat Migrationと呼ばれた移住現象は、その後1970年代まで続いた。(もちろん南部のアフリカ系アメリカ人全員が移住できたわけではない。1910年以降の15年間で北部移住を果たしたのは全体の1割程度という資料もある。だが、たとえ1割でも自分の意思で移住できるようになったことは、獲得した最初の自由の最初の使い道としては十分な成果だった)

その結果、アメリカ北部の大都市、たとえばシガゴ、セントルイス、ボルチモア、フィラデルフィア、ピッツバーグ、オマハ、ニューヨーク、といった街で、後にはロサンゼルス、シアトル、ポートランドで、アフリカ系アメリカ人の人口は爆発的な増加をみせた。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年7月3日、「父親」とベースボール (2)南北戦争100年後のアフリカ系アメリカ人の「南部回帰」と「父親不在」、そしてベースボールとの距離感。

一方で、時期を同じくしてSuburbanization(サバーバナイゼーション、郊外化)、つまり、大都市の都心に住んでいた人々の郊外流出が起こった。(ここでいう郊外とは、アメリカ英語でいうsuburb。ちなみにイギリス英語のsuburbには、北米的な意味は無い)
主に欧州系白人の郊外移転によって郊外開発が進んでいき、郊外から都市中心部へ自動車や鉄道で通勤するライフスタイルが定着する一方で、都市にはアフリカ系アメリカ人などの低所得世帯が密集し、周囲との交流が隔絶された住宅地である「インナーシティ」が形成されるなど都市問題は複雑化していき、都心部の荒廃は進んでいったが、高収入層の減少した都市では税収不足が深刻化して対策は常に立ち遅れた。

Levittown,NewYork
Levittown
William Levitt(ウィリアム・レヴィット 1907-1994)の設計によって建設されていった郊外型の住宅地、レヴィット・タウン。第2次大戦後、1950年代に退役軍人や労働者向けの住宅として、ニューヨークやフィラデルフィアなどで大量生産された。『パパは何でも知っている』『名犬ラッシー』『アイ・ラブ・ルーシー』など、1950〜60年代の有名なシチュエーション・コメディは、サバーバナイゼーション以降のレヴィット・タウンに代表される「郊外での欧州系白人の暮らし」を前提にして描かれていることが多い。

Pruitt-Igoe
Pruitt-Igoe (プルーイット・アイゴー)
シアトル出身の日系アメリカ人建築家ミノル・ヤマサキによって、ミズーリ州セントルイスに建設された、都心のスラム再開発のための集合住宅。都心再開発の典型的失敗例といわれている。ちなみに、ヤマサキ氏は、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の舞台となったワールドトレードセンタービルの設計者でもある。


レヴィット・タウンのような新興住宅街の開発によって、郊外ばかりが発展していく流れの中、南部から北部に移住してきたアフリカ系アメリカ人は都市内部の片隅に追いやられていく。彼らは、ヨーロッパからの移民のように、技術を要求される給料のいい職に就くことはなかなかできず、例えばニグロ・リーグの伝説的投手サチェル・ペイジがアラバマの少年時代に鉄道の駅で客の荷物を運ぶポーターをやっていたように、もっぱら低賃金の単純な仕事にしか就けなかった。
彼らは、アジア系、アイルランド系、イタリア系、ユダヤ系などが持っているような、同じ民族同士の横のつながりによって雇用を保持していくような互助会的組織が存在しなかったため、やがてコミュニティ崩壊をきたしてしまい、その結果、ますます低所得階層として都市の低家賃地域に固定化されて居住せざるをえなくなっていった。

リロイ・サチェル・ペイジ

日本のWikiに、クリーブランドの殿堂入り速球投手ボブ・フェラーが「サチェルの球がファストボールだとしたら、俺のなんてチェンジ・アップだ」と発言したと記述されているが、これは間違い
正しくは、セントルイスの永久欠番投手 Dizzy Deanの "Paige's fastball made his own look like a changeup" という発言がオリジナル、それをスポーツ・イラストレイテッド誌のJoe Posnanskiが2010年のコラムで引用した。

サチェル・ペイジ(左)と、ジャッキー・ロビンソン
サチェル・ペイジ(左)と、ジャッキー・ロビンソン



欧州系白人の郊外流出という現象について、多くのサイトでは、いまだに「南部から北部に大量に移住してきたのアフリカ系アメリカ人との混住を嫌った都市部の欧州系白人が郊外に逃げ出す「white flight(ホワイト・フライト)」が起きたことで、大都市の都心部が荒廃した」と、欧州系白人の郊外流出と大都市の都心部の荒廃をアフリカ系アメリカ人のGreat Migrationのみに直結させて、都市のスラム化の責任をアフリカ系アメリカ人に押し付ける記述が少なくない。

だが、そうした断定は、まったくもって正しくない

アメリカの大都市都心の荒廃に対する移民の影響は、たとえGreat Migrationの影響も少なからずあるにしても、南欧や東欧などヨーロッパから来た白人系移民の影響などもあって、複合的な原因がある。
また、そもそも人口の郊外流出そのものが、本質的には、単に都市の自然な成長サイクルのひとつであるSuburbanizationであり、それを人種問題のせいにするだけで説明できるものではない。そして、white flightの古くからある定義からも間違っている。


詳しく言えば、まず第一に、
都市からの脱出(urban exodus)、つまり、都市中心部から郊外への人口移転が起きるのは、都市の自然な成長サイクルや、政策的な郊外開発によるものであって、人種問題だけを原因として説明する手法は間違っている。
アメリカでは、土地を細かい区域に分け、それぞれの利用目的を厳しく規制するゾーニングという手法などによって、意図的、政策的に郊外開発が促進される一方、1956年の「高速道路法」などによって郊外から都心への道路整備も促進された。
だから、仮に人種問題が全くなかったと仮定したとしても、欧州系白人の郊外流出は進んだとみるのが自然な流れだ。いくらアメリカにはアメリカの特殊事情があるといっても、20世紀の都市の自然な成長プロセスにおいては、人口の郊外流出を、人種問題だけのせいにすることはできない。

例えば、「モータリゼーション」という現象は、植物が成長して自然と花が咲くように、GDP(国民総生産)が一定レベルの数値に達すると、どんな国でも起きる現象で、経済発展を経験すればいやおうなく経験する自然なサイクルのひとつに過ぎない。「モータリゼーション」は道路の発達バランスと無関係に起きるため、渋滞や排気ガスなど社会問題を招きやすいが、だからといって、自動車そのもの罪ではない。
同じように、都市の成長過程における「サバーバナイゼーション」(日本風にいえばドーナツ化現象)は、その国の経済発展と都市の成長サイクルから必然的に起きる現象のひとつに過ぎない。
19世紀までのギルド的都市では、都心部に手工業者の住宅が集中するが、20世紀になると、郊外から都心のオフィスにクルマや鉄道で通勤するようになる。これは産業革命後の経済発展によって都市への人口集中がより強化され、さらに収入の安定から中流家庭が大量に形成され、彼らが郊外に資産を購入すると、都心部の土地の社会的役割が「住宅地」から「オフィス街」へと変貌するからだ。
例えば、江戸時代の東京の中心部は住宅密集地だったが、高度経済成長とともに地価が上昇し、都心住民と店舗は郊外移転を余儀なくされ、千代田区、中央区など都心部の夜間人口は激減した。


第二に、
white flightのもともとの定義からして、「アメリカ北部大都市における欧州系白人の郊外流出」という現象だけを指してwhite flightと呼ぶのは、間違いだ。
white flightと名付けられた現象のもともとの定義は、気候が厳しいアメリカ北西部や中西部から、気候の温暖なカリフォルニアや、フロリダなどに移り住む現象を指していただけであって、古い定義のwhite flightは、アフリカ系アメリカ人の移住や人種問題とは無関係だ。
また、white flightと呼ばれる広義の白人移住現象にしても、アメリカだけで起きた現象ではなく、東ヨーロッパから南アフリカまで、さまざまな国でもみられる。
White flight - Wikipedia, the free encyclopedia
アメリカの大都市で、地元の白人系住民が郊外に流出していく原因のひとつが、移民との摩擦であるにしても、なにも南部出身のアフリカ系だけが原因とは限らない。他にも、ヒスパニック系白人の移民、アイルランド、南欧、東欧からの欧州系移民、人種差別政策の終焉による南アフリカからの白人系移民など、白人系もさまざまな理由でアメリカに移住して雇用を奪いあっており、それぞれが多かれ少なかれ移民問題を生じさせている。(例:古くは19世紀末に文盲率が高かったイタリア系などカソリック系移民との対立、近年ではアリゾナにおけるメキシコなどヒスパニック系移民と白人保守層との対立)


第三に、
たとえアメリカ北部大都市における欧州系白人の郊外流出が、Great Migrationの影響によって助長された面があったにしても、人種問題を悪用して、郊外の住宅地の発展で儲けようとしたデベロッパーの悪質な商法の存在は無視できない。
例えば、イリノイ州シカゴで始まったといわれ、1970年あたりまで全米各地で横行したといわれるBlockbusting(ブロックバスティング)という強引な不動産販売手法は、まずデベロッパーがアフリカ系アメリカ人に金を渡して白人系住民が大多数を占めるエリアをわざとウロつかせ、白人が嫌気がさして郊外移転を決断するのを待って、その家や土地を買い取り、その不動産を、あろうことかアフリカ系アメリカ人に売りつけるという、なんともあくどい商法だった。また、アフリカ系住民をわざと白人地区に住まわせ、周囲の土地を売らせるという悪どい不動産商法も存在していたらしい。

Robert Mosesサバーバナイゼーションの例:
ニューヨークの都市計画を担当したRobert Mosesは、移民の多いクイーンズ地区に、シェイ・スタジアムリンカーン・センターなどの「ハコモノ」、ブルックリン・ブリッジのような橋、数々のトンネル、スラム街を潰して作った高速道路などの計画と設計を指揮。ニューヨークに、「郊外から通勤する時代」をもたらした。
資料:ご案内:NYを彫刻した男−「ロバート・モーゼズ」


最近ではすっかり名前を聞かなくなったジム・ジャームッシュの1984年作品に、ニューヨークに住むハンガリー移民2世の若者がフロリダを目指す『ストレンジャー・ザン・パラダイス』という映画がある。
主人公の両親はクリーブランドに住むハンガリー移民で、その息子は寒いニューヨークから暖かいフロリダへの移住を夢見ている。この親子2種類の「移住」こそ、まさに元来の意味のwhite flightであり、両親は「貧しい東欧から豊かなアメリカへの逃避」というwhite flight、息子は「寒い土地から暖かい土地への逃避」というwhite flightだ。
東欧系移民の多いことで知られるクリーブランドやピッツバーグのような北東部の工業都市には、第一次世界大戦や、南部のアフリカ系アメリカ人のMigrationよりも前の時代から、ヨーロッパ系白人が数多く移民してきた歴史がある。(例えば、ピッツバーグ生まれのアンディ・ウォーホルの両親も旧チェコスロバキアからの移民)
この親子2つの移住、どちらも、まったく古めかしい「サバーバナイゼーション完了以前の昔のアメリカ」であり、アフリカ系アメリカ人のシリアスな人種問題とも、サバーバナイゼーション以降の欧州系白人の郊外生活における家庭崩壊とも、まったく関係がない。

この映画の公開当時のジム・ジャームッシュの評価は、その後長続きしなかった。たしかに今見ても、あの映画は映像と音楽の綺麗な「ゲージュツ」ではあるが、テーマのエグさ、現代性は、まるでモノ足りない。
かつてジャームッシュが描いた「昔ながらの牧歌的なwhite flight」には、例えば『アメリカン・ビューティー』、『ヴァージン・スーサイズ』、『ファイト・クラブ』のような作品群(3作品とも1999年公開)が描き出したような「現代アメリカの郊外生活のエグさに、ズブっと突き刺さるシャープさ」は、全く見あたらないのである。
そういう意味では、『ファイト・クラブ』に登場する荒廃した家、『パニック・ルーム』(2002年)に登場する隠れ部屋と、「家というものが持つ、独特の神経症的な不気味さ」を撮り続けてきたコロラド州デンバー生まれのアメリカ人デヴィッド・フィンチャーのリアルさと社会性のほうが、ヨーロッパ移民の子孫であるジャームッシュの個人的な芸術への憧れよりも、よほど「サバーバナイゼーション経験後のアメリカ」を描写することに成功していて、今に至るまで賞味期限を継続できている。

『ファイトクラブ』に登場した家
『ファイトクラブ』に登場した、といわれる家。オレゴン州ポートランドにあるらしい。詳細はよくわからない。

July 04, 2012

「なぜ近年のMLBで、アフリカ系アメリカ人が減少しているのか」、という話について書いてきている。
その答えのひとつは、アフリカ系アメリカ人における「シングルマザーの多さ」にもあると、考える。アメリカにおける人種別のシングルマザー率は、アフリカ系が最も高く、なんと70%を越えるというデータがある。

Nationally, in the late 1800s, percentages of two-parent families were 75.2 percent for blacks, 82.2 percent for Irish-Americans, 84.5 percent for German-Americans and 73.1 percent for native whites. Today just over 30 percent of black children enjoy two-parent families. Both during slavery and as late as 1920, a black teenage girl's raising a child without a man present was rare.
Welfare state fosters a race to the bottom | The Columbia Daily Tribune - Columbia, Missouri

資料:アメリカのいわゆる「未婚の母」による出生率をグラフ化してみる:Garbagenews.com

70%超というシングルマザーの率は、日本人的な感覚からすれば途方もない高い率だ。だが、ここでアメリカの出生率データをいくら書きつらねても、MLBでアフリカ系アメリカ人が減っていることの社会背景を探る上では、まったく意味がない。

むしろ大事なのは、アフリカ系アメリカ人の置かれた現状は、日本人が学校の教科書に書かれた記述から脳裏に植え付けらてしまう「ステレオタイプの黒人イメージ」とは違うのだということから始めないといけないということだ。
特に、2000年以降の10年間におけるアフリカ系アメリカ人の人口動態は、南北戦争以降、2000年までのアメリカの歴史の流れとは、まるで違う流れであること。この点に、十分意識をおいて考えていく必要がある。

もし、アフリカ系アメリカ人の置かれた現状に、理解やシンパシーを持たないままだと、単純に、「シングルマザーがあまりにも増えたために、アフリカ系アメリカ人家庭は、どこも生活資金にゆとりがない。そのため、ただでさえ金のかかる野球では、奨学金がフットボールやバスケットと比べて少ないせいもあって、野球選手になりたがるアスリートが著しく減ってしまった」などと、短絡してしまう恐れがある。
参考資料:ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年6月11日、MLBにおけるアフリカ系アメリカ人プレーヤーの減少について書かれたテキサス大学ロースクールの記事を訳出してみた

そもそも、中流家庭においてだけ見れば、アフリカ系と欧米系白人の年収差は、2000年以降かなり縮小傾向にあったし、またアフリカ系アメリカ人でシングルマザー率が高いのは、なにもこの10年に急に始まったことではない。もちろんアフリカ系アメリカ人の問題点は、中流家庭への離陸を果たした層ではなく低収入層にあるわけだが、だからといってシングルマザー家庭の家計のアラ探しをしても、本質は何も見えてこない。
アフリカ系と欧米系白人の年収比較(中流家庭)
What Caused the Decline of African-Americans in Baseball?
アフリカ系と欧米系白人の中流家庭の年収比較



2000年以降のアメリカの人種別の人口動態については、「数」という面から、以下のいくつかのポイントがある。
総じていえるのは、アフリカ系アメリカ人は人口として安定期を迎えている、ということだ。 (アフリカ系アメリカ人は子沢山」とか、そういうカビのはえた古い偏見を持つ人は、もうとっくに絶滅しているとは思いたいが、どうだろう)
・アメリカの1歳以下の乳児全体において、「マイノリティ」のパーセンテージが、初めて白人を上回ったように、マイノリティの人口増加は、欧米系白人の人口増加を越えはじめた
資料記事:ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年5月18日、「アメリカでの非白人比率の増大傾向」と、「MLBプレーヤー、ファン両面の人種構成の変化」との複雑な関係。

現在のマイノリティ人口増加をもたらしている原動力は、ヒスパニック系の人口増であって、アフリカ系ではない

アフリカ系の出生率は、昔と違って、現在は欧米系白人並みに低い
資料:図録▽米国の人種・民族別合計特殊出生率


次に、アフリカ系アメリカ人が集中する「居住エリア」については、以下のような特徴がある。
南北戦争後に始まった北部や西部への移住、Great Migrationはたくさんのサイトで紹介されているが、近年の特徴はむしろGreat Migrationと逆方向の「南部回帰」であり、この点の指摘は日本ではまだ十分ではない。
・南北戦争後、北へ(後には西へ)移住するアフリカ系アメリカ人が多数みられ、Great Migrationと呼ばれた
Great Migration (African American) - Wikipedia, the free encyclopedia

・だが、近年はむしろ逆に「南部回帰」がハッキリしてきている(資料はUSセンサスなど Allcountries.org Country information - Table of Contents

・その結果、アフリカ系アメリカ人の居住エリアは、アメリカ南東部の大西洋岸に非常に集中し、Black Beltなどと呼ばれている

Black Belt
=アフリカ系アメリカ人が集中するアメリカ南東部をさす
(色の濃い部分が居住率の高いエリア)

アフリカ系アメリカ人の集中するBlack Belt
DMVFollowers
Black Belt (U.S. region) - Wikipedia, the free encyclopedia



ここでまず、南北戦争についてのよくある誤解について、いくつか確認しておかなければならない。

南北戦争」というと、どうしても教科書的イメージから抜け出せず、「自由をスローガンに掲げる正義の味方である北軍が、奴隷制に固執する悪の巣窟である南軍を、華々しく打ち破った」などというステレオタイプなイメージを抱く人が少なくないわけだが、アメリカ史に詳しい人ならわかっている通り、実際には、そんな単純な話ではない。

南北戦争時の州別の奴隷制状況
濃い青=北軍
うすい青=北軍だが、奴隷制を容認していた州
赤=南軍

例えば、北軍にも奴隷制を支持していた州がある
上の図の薄い青色で示したデラウェア、ケンタッキー、メリーランド、ミズーリ、それにバージニア州西部(のちのウェストバージニア州)の各州がそれにあたり、これらの州はborder states(境界州)と呼ばれた。

また、外国貿易において自由貿易を目指していたのは、ヨーロッパとの自由交易を目指していた南軍のほうであり、北軍はむしろ保護貿易主義だった。
「北軍=自由」という図式は、単なるステレオタイプのイメージに過ぎない。


1863年に奴隷解放宣言が成立したとき、アフリカ系アメリカ人のおよそ90パーセントは奴隷制をキープする南部に住んでいたが、南北戦争が終結して以降は、1910年代から1970年代にかけ累積で約600万人がアメリカ北部や中西部、さらに西部へ移住したといわれている。(この600万という数は、700万人といわれる大量のアイルランド移民総数に匹敵する数字)
これが、いわゆる「Great Migration」だ。
Great Migration (African American) - Wikipedia, the free encyclopedia


と、まぁ、ここまでは、
どこでもよく聞くアメリカ史の説明だが、ここからが違う。


1920年代という時代は、MLBが、というか、野球というスポーツが、ニューヨークからアメリカ東部一円に拡大していった時代だ。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (1)エベッツ・フィールド、ポロ・グラウンズの閉場
その1920年代は同時に、アフリカ系アメリカ人のGreat Migrationによって、シガゴ、セントルイス、ボルチモア、フィラデルフィア、ピッツバーグ、オマハ、ニューヨークなどの大都市で、アフリカ系アメリカ人の人口が爆発的に増加した時代でもある。
都市に移住したアフリカ系アメリカ人は、後に複雑な経緯を経て、都市内部に「ゲットー」あるいは「ハーレム」と呼ばれるアフリカ系アメリカ人居住エリアを形成し、新たな辛酸を味わいつつも、ジャズなど、都市のアフリカ系住民独自の文化を熟成していった。

アフリカ系アメリカ人の南部脱出は当初、南のミシシッピから北のシカゴへ、南のアラバマから北のクリーブランドやデトロイトへという移住パターンに代表されるように、北部移住がメインだったが、もっと後の時代になると、ミシシッピ、ルイジアナ、テキサスから、カリフォルニアへというように、西への移住も進んだ。
1940年代から1960年代にかけて、ロサンゼルス、シアトル、ポートランドといった西の太平洋岸の都市では、アフリカ系アメリカ人コミュニティの人口が数倍にも膨れ上がった。(資料:The Black Migration - The Road to Civil Rights - Highway History - FHWA
1958年のドジャースとジャイアンツのニューヨークから西海岸への移転が行われたのは、こうしたアフリカ系アメリカ人の西海岸移住が進む時代の真っ最中だった。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。

シガゴ、セントルイス、ボルチモア、フィラデルフィア、ピッツバーグ、ニューヨーク、クリーブランド、デトロイト、ロサンゼルス、シアトル。こうしてGreat Migrationを受け入れた大都市を列挙していくと、すぐにわかることだが、Great Migrationによって南部のアフリカ系アメリカ人が大量に移住した先の大都市の大半に、現在MLB球団が存在する
さらに言うと、メジャーリーガーを数多く輩出した州の歴代ランキングでは、かつて南北戦争で北軍側に属していた州が多い
つまり、詳しい理由はわからないが結果的に、MLB球団が存在し、同時に、過去にアメリカ人MLBプレーヤーをたくさん輩出してきた出身州は、そのかなりの数が、南北戦争当時に北軍、それも、奴隷制を容認していなかった北軍側だった州が多いのである。(そして不思議なことに、奴隷制を容認していた北軍の州からは、それほど多くのMLBプレーヤーが誕生しておらず、MLB球団も少ない)

MLBプレーヤーの出身州(歴代)
色の濃い州ほど、たくさんのMLBプレーヤーが出ている
MLBプレーヤーの出身州(歴代)



ここまでの大雑把すぎる資料のみを根拠に、完全に断定するわけにもいかないのだが、それでも、以下のような推論は成り立つと思う。

中世ドイツの都市法には「都市の空気は(人を)自由にする」という有名な言葉があったわけだが、南北戦争前にはその大半が南部に住んでいたアフリカ系アメリカ人は、南北戦争後のGreat Migrationによって、北部(あるいは西部)に移住することで、「ベースボール」という「アフリカ系アメリカ人にとっての新しい文化」に親しむための、自由と機会と収入を得た。

南北戦争当時に南軍に属していた州には、今もMLB球団の存在しない州が多い。また逆に、Great Migrationによって移住した先の北部の大都市の大半にMLB球団がある。
このことからして、
南部から、北部や中西部、さらには西部への移住であるGreat Migrationが、アフリカ系アメリカ人と、ベースボールとの最初の出会いを生み、その経験がやがて成長し、多数のアフリカ系アメリカ人がMLBの観客になり、さらにアフリカ系プレーヤーの大量出現にもつながった
のは、ほぼ間違いないと考える。

イースト・ハーレムの空き地で野球をする子供たちPlaying ball in a vacant lot in East Harlem, 1954.
by Ihsan Taylor, Published: December 3, 2009

Holiday Books - 'Baseball Americana - Treasures From the Library of Congress' - Review - NYTimes.com


もちろん、アフリカ系アメリカ人とベースボールの接点を語るにあたっては、1920年に創設された「ニグロ・リーグ」の存在を抜きに語るわけにはいかないわけだが、1947年にジャッキー・ロビンソンがメジャーリーガーとなった一方で、1948年にニグロ・ナショナル・リーグが解散していることから推し量ると
20世紀中期以降のアメリカで「ベースボールの観客とプレーヤー、両面における人種混合」を実現させる起点になったのは、MLBでの人種混合に否定的だった初代コミッショナーのイリノイ州判事 Kenesaw "Mountain" Landisが1944年に執務中に急死したなどという表面的なことではなくて、ここまで説明してきたように、1920年代以降のGreat Migrationによって、アメリカ北部の大都市に南部からアフリカ系が大量に移住したことにあり、さらに1940年代末のジャッキー・ロビンソンのドジャース入団を経て以降は、人種混合がさらに急速に進んだ
のは、たぶん間違いない。(だからこそ、逆に言えば1940年代末にアフリカ系アメリカ人専用リーグが存在する意味と経営基盤がなくなることによって、ニグロ・リーグがその歴史的役割を終えたといえる)
ニグロ・リーグの球団のひとつ、Pittsburgh CrawfordsPittsburgh Crawfords(1935)



では、もし「南北戦争後のアフリカ系アメリカ人の大規模移住、Great Migrationが、人種混合ベースボールの強固な基盤を生んだ」という仮定が正しいとすると、2000年以降顕著になってきている「アフリカ系アメリカ人の南部回帰」は、(どういう理由で回帰が進んでいるのかはわからないが)、ある種の「ベースボール離れ」を意味しているのだろうか?

自由や収入アップを目指し、北へ、西へと移住したアフリカ系アメリカ人だが、南北戦争当時、北軍側の州にも奴隷制度を容認していたエリアがあった事実からもわかるとおり、おそらく彼らは、たとえ北部に移住したからといって、人種差別を経験せずに済んだわけではなかった
つまり、いくら「都市の空気は人を自由にする」とはいっても、「都市の空気だけで必ずしも、アフリカ系アメリカ人のすべてが自由になれたわけではなかった」わけだ。
New York Timesによれば、2009年にニューヨークを出たアフリカ系住民44,474人のうち、半数以上の22,508人は南部への移住だったといい、アフリカ系アメリカ人が南部回帰が始まっている。これはいわば南北戦争後のGreat Migrationをなぞって言えば、逆向きのReverse Migrationと言える。
Census estimates show more U.S. blacks moving South - USATODAY.com

ニューヨークを出たアフリカ系アメリカ人の移住先Many Black New Yorkers Are Moving to the South - NYTimes.com
移民の多いクイーンズを出たアフリカ系住民のかなりの数が、南部への移住を選択している(左図)



野球好きの父親は、日本でもアメリカでも、子供を連れてボールパークに野球観戦に行き、子どもとキャッチボールをしようとする。
これは、星一徹星飛雄馬の親子がそうであるように、
父親という存在には、「ベースボールという文化を、親から子に伝える文化伝達者としての役割」があり、だからこそ、ケン・バーンズのドキュメンタリー "Baseball" でもわかるとおり、「ベースボールは、家族で共有する文化」である
と言えるのだと思う。

この「ベースボールという文化の伝達の一端を、家庭の父親が担ってきた」という観点から、「いま南部回帰現象に直面するアフリカ系アメリカ人家庭は、なぜベースボールという文化を移住前の街に置いてきてしまうのか?」という疑問に、多少の説明がつく。
つまり
家庭における父親不在」という現象と、「南北戦争以来の南部回帰」という2つの現象が重なることによって、ベースボールという文化が、家庭内で継承されにくくなる、という現象が発生している
という仮説だ。
日米の家族文化の違いを多少考慮しなくてはならないにしても、この仮説は十二分に成り立つと思う。

南部を脱出してみたものの、移住後のアフリカ系アメリカ人家庭では、どういう理由かまではわからないが、「家族という制度」が揺らでいき、その一方で、アスリートに対する奨学金制度において、野球がフットボールやバスケットボールに比べて相対的に冷遇されているという問題も重なってくれば、必然的に、「父から子へ、ベースボールを受け継いでいく」という「ベースボールの遺伝システム」が多少なりとも壊れてくるのは当然の帰結だろう。
もちろん、長引くアメリカの不景気によって、雇用がアフリカ系アメリカ人より給料の安いヒスパニック系にシフトしていることも、間違いなく影響しているだろう。この点については、テキサス大学の論文のとおり、メジャーリーガーが契約金の安いヒスパニック系だらけになるのと、意味は変わりない。


ここまで語ってきて、ようやく、アフリカ系アメリカ人家庭の置かれている現状と野球の関係が、多少はまともにイメージできてくる。
「MLBにおけるアフリカ系アメリカ人プレーヤーの減少」は、「野球は金がかかるから、やらない」とか、「シングルマザー家庭は、生活費が足りない」とか、テキサス大学のロースクールの論文が強く指摘していたごとくの、家計の問題だけで語りきれる小さな問題ではない。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年6月11日、MLBにおけるアフリカ系アメリカ人プレーヤーの減少について書かれたテキサス大学ロースクールの記事を訳出してみた


それはむしろ、
約100年前、奴隷から抜け出し、夢を描きつつ南部を出て、北へ、西へ、右往左往し続けてきたアフリカ系アメリカ人の100年もの間の長い道のりの中で、彼らが、住む場所を選び、学んで、職業を選択し、家族をつくり、家族を守りながらも、最後には、家族という大切な枠組みを失いかけているこの時代の趨勢の中で、どういう理由から「南部回帰」を決めたのかという、果てない問いだ。
少なくとも、この問いに少しくらい答えようとする姿勢がなければ、アフリカ系アメリカ人が南部回帰を始める中で、「なぜ彼らは野球から少し距離を置きつつあるのか?」という疑問に解答を得られそうにない。

もちろんそれは、こんな文字数程度で説明しきれる問いではない。アフリカ系アメリカ人が、なぜまた南北戦争以降暮らしてきた北や西の街を離れて南部に回帰したがるのか。
その理由は日本人には理解しがたい百人百様の理由があるのかもしれないが、少なくとも
「この100年間にアフリカ系アメリカ人家庭それぞれに起きた大小の出来事、その全てが、この10年で『南北戦争以来続いてきたアフリカ系アメリカ人と都市、アフリカ系アメリカ人とベースボールの関係』を変容させてしまいつつあるのが、今のアメリカだ」くらいのことは、見識として持っていていいのではないかと思う。


以降は、余談として、Suburbanization(サバーバナイゼーション)あるいはWhite Flightと、都市中心部の衰退、カンザスシティでビリー・バトラーマイク・スウィニーが取り組んできた都市中心部再生のための野球場づくりが「野球と都市市民とのつながりの再構築」にどういう重要性があるのか、とか、MLBが独自に行っている野球奨学金制度など、野球と人のつながりの再生に向けたさまざまな取り組みについて、ちょっとだけ書いてみる。
参考資料:ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年2月2日、Hutch賞を受賞したビリー・バトラーが「お手本にした」と語るマイク・スウィニーの素晴らしい足跡。スウィニーの苦境を救った「タンデムの自転車」。


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  • 2012年7月3日、『父親とベースボール』 (2)南北戦争100年後のアフリカ系アメリカ人の「南部回帰」と「父親不在」、そしてベースボールとの距離感。
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