November 2013

November 29, 2013

まず前記事を要約する。

20世紀初頭のMLBのスタジアムで「イタリア系、ポーランド系、ユダヤ系など、『新参の白人移民』が外野席を占める」という現象がみられるようになった。その背景には、ヨーロッパ、特に東欧やドイツからアメリカに移住してきた「新参の白人移民」の急激な増加があった。
やがてこうした新参の白人移民の社会進出が進み、一方でマス・メディアの発達が始まると、アメリカ社会に「大衆化」現象がはっきり表れた。
MLBにおいても、チームオーナー、プレーヤー、ファン、すべての領域において、「新参の白人移民の参入」が急速に進行した結果、ベースボールは最初の「大衆化」のステップを経験することになった。(ここでいう「大衆化」とは、いうまでもなく白人限定の意味での大衆化)
前記事:Damejima's HARDBALL:2013年11月8日、父親とベースボール (8)20世紀初頭にアメリカ社会とMLBが経験した「最初の大衆化」を主導した「外野席の白人移民」の影響力

自分で書いておいて言うのもなんだが(笑)
「アメリカ社会の変貌を効率よく把握する上で、1920年代の『新参の白人移民の社会進出』を分岐点のひとつととらえて、前後で切り分けて考える」という視点は、アメリカ史を考える上で、あるいは、「20世紀特有の大衆化社会」というものを正確に把握する上で、とても役に立つ整理方法、だと思う。


さて、この「新参の白人移民の急速な社会進出」をきっかけにアメリカ社会に起きた「大衆化」現象を、独立戦争より前からアメリカに住み、長くアメリカの土台を築き上げてきた「古参の白人移民」は、どう感じていたのだろうか

古参の白人移民の感じた「不快感」を示す、こんなエピソードがある。

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1920年1月、MLBに大事件が起きた。
ボストン・レッドソックスに在籍していたベーブ・ルースがヤンキースにトレードされたのである。

この劇的なトレードはMLBファンなら誰でも知っているわけだが、当時のレッドソックスのオーナーが、Harry Frazee(ハリー・フレイジー)という名の男であることは知らない人が多い。
彼の本業はブロードウェイの劇場関係の仕事だが、当時の彼は球団購入のための借りた借金と本業の経営難から、とても金に困っていて、それがベーブ・ルースをトレードする原因になったといわれている。

Harry FrazeeHarry Frazee
(1898-1929)

最初に誤解が生じないようにことわっておくと、このHarry Frazeeなる人物は、「ユダヤ系移民」ではなく、スコットランド移民だ。
資料例:For Harry Frazee III, 'The Curse' has different meaning - seattlepi.com

だが、この「ユダヤ系移民ではない」Harry Frazeeを、「ユダヤ人」と決めつけた上で、 "How Jews Degraded Baseball" (『いかにユダヤ人が野球を貶めているか』)と題する1921年9月10日付の攻撃的な記事など、非常に強い論調で批判し続けたミシガン州の新聞がある。
反セミティズム主義(=ある種の『反ユダヤ主義』)でも有名な、あの自動車王、ヘンリー・フォードが1927年まで所有したThe Dearborn Independent紙だ。(ちなみにDearbornとは、ミシガン州にある地名で、ヘンリー・フォードの出身地)
The Dearborn Independent紙は、筆禍から1927年に廃刊されるまで、たとえ根拠があろうがなかろうが、おかまいなしに、ありとあらゆる「気にいらないもの」を「ユダヤ」と決めつけ、世間にユダヤ移民の影響の排除を促す攻撃的な記事を数多く掲載する反ユダヤキャンペーンを続けた。
同紙の攻撃ターゲットは、ベースボールだけでなく、ジャズから金融ビジネス、果ては飲酒習慣にまで及び、やがてThe Dearborn Independent紙の主張した「ユダヤ脅威論」は、"The International Jew" のような典型的な反ユダヤ主義のテキストとしてまとめられたことで、遠くナチズムにまで影響したといわれている。
資料:Harry Frazee and the Red Sox | SABR

The International Jew - Wikipedia, the free encyclopedia

The Dearborn Independent, Sept. 3, 1921The Dearborn Independent - Wikipedia, the free encyclopedia


と、このエピソードだけを読むと、ヘンリー・フォードだけがあまりにも歪んだ差別主義者で、故郷の新聞社を買収してまでして、自分の歪んだ主義主張を世間に広めようと、身銭を切って印刷した新聞を無料で配布しまくった「えげつない世論操作」とでも思われそうだが、実際には、あながちそれが全てともいえない部分がある。
というのは、このThe Dearborn Independent紙が1925年当時のミシガン州で、実に「90万部」もの発行部数を維持していたからだ。マスメディアが未発達だった時代のことだから、この「90万部」という発行部数はけして少なくない。当時それを越える部数を発行できていた地域紙といえば、他にはニューヨーク・デイリーニューズくらいしかない。
発行部数データの出典:The Dearborn Independent - Wikipedia, the free encyclopedia


この耳ざわりのけしてよくないエピソードを紹介した理由は、「アメリカの古参の白人移民にとっては、新参の白人移民の急速な社会進出が、我慢できないほど不愉快なものでもあった」というニュアンスを肌感覚としてわかってもらうためだ。
ヘンリー・フォードのThe Deaborn Independent紙を通じた常軌を逸した人種的偏見キャンペーンは糾弾されてもいたしかたない事実ではあるが、その一方で、ドイツや東欧出身の新参の白人移民の流入によって濁流のようなパワーとスピードで起こった「大衆化」現象が、けして在来のアメリカ人のすべてに快く受け入れられていたわけではなかったことも、また事実なのである。


1920年代以降、「大衆化」が急激に進むアメリカ社会に渦巻いていた「強烈なモチベーション」は、ブログ主の考えでは、2つある。
ひとつは、新参の白人移民の「社会進出や自己実現に対する強烈な欲望」であり、もうひとつが、「そうした新参の移民の急速な社会進出を、冷ややかに眺める古参の白人移民の感じていた不快感」だ。
なかでも、古参の白人移民に積み重なったのは、鬱積したネガティブなモチベーションであり、これはやがて「なにがなんでも『他者』という目障りな存在を排除したい」という「差別欲求」をも産み出し、アメリカ社会のさまざまなネガティブな要素を強める元凶になったのではないかと、アメリカ史を読んでいていつも思う。

(もちろん、本来なら、この2つの「白人のモチベーション」以外にも、この時代にアメリカ南部から北部の大都市に移住を開始しはじめた奴隷出身のアフリカ系アメリカ人たちの「自由を求める強いモチベーション」も語られなければおかしい。
だが、いかんせん、まだ公民権運動すらなく、ジム・クロウがまだ幅をきかせていた1920時代という時代は、アフリカ系アメリカ人の自由への欲求や自己実現欲求は、まだ実現の糸口すら見えない暗い時代なのであって、当然ながら1920年代のMLBにアフリカ系アメリカ人の存在は、まったく影も形もない。19世紀末のUnderground Railwayを支えたハリエット・タブマンも1913年に亡くなってしまっている。
「新参の白人移民による大衆化」時代である1920年代においては、「北部に移住したアフリカ系アメリカ人」の存在感は、残念ながら、まだ「ひとりのアメリカ人として認知される」というレベルにはなく、いわば「プランテーションの奴隷に毛が生えた程度の使用人」という非人間的な扱いしか受けていない。ニューヨークのハーレムなどで肩を寄せ合って暮らした北部移住後のアフリカ系アメリカ人がアメリカ史の表舞台に登場するのは、もっとずっと後のことだ)
関連記事:Damejima's HARDBALL:2012年8月5日、父親とベースボール (6)アフリカ系アメリカ人史にみる「都市と田舎の分離」。南北戦争前のUnderground Railroadによる北部都市への脱出。南北戦争後のReconstructionの挫折による「ジム・クロウ」の誕生とGreat Migration。

1920年代のニュージャージーの工場労働者
1920年代のニュージャージーの工場労働者たち via:Maas & Waldstein Company Newark, New Jersey


人間のモチベーションの「」は、とかく複雑で、つかまえにくい。それでも「解読」を試みようと思うなら、道徳感にとらわれたままモノを考えるのは、けしてプラスにはならない。

ブログ主は、ヘンリー・フォードのユダヤ移民に対する偏見の「根」は、必ずしも人種にまつわる差別感情がすべてではなく、そのさらに奥を掘っていくと、「新参の白人移民たちが急速に社会進出してくる当時の社会において、古参の白人移民たちが感じていた『縄張り意識』からくる強い不快感」に突き当たるのではないかと考えた。
(本当は「縄張り意識が化学変化し、やがて『エリート意識』に変質していくこと」を詳しく論じるべきところだが、ここではまだ論じない。いずれにしても、表面的に「エリート意識」と見える心理の根底にあるのが、実は『強い縄張り意識』であることに気づくことができたことは、このシリーズ記事を書いてきた重要な成果のひとつだと思っている。これまで書かれた歴史書、社会史の多くが、近代特有のエリートや大衆、ナショナリズムなどの発生の源流を見誤ってきたという気すらしている)

1920年代当時のアメリカでは、映画、プロスポーツなどの娯楽産業やマスメディアは「まだ海のものとも山のものともわからないヴェンチャービジネス」というポジショニングでしかなく、だからこそ、これらの新しい産業でならばこそ、「新参の白人移民」であってもオーナーや経営者になれた。
たとえニューヨークの貧民街から成り上がったような移民でも、頑張ればMLBやNFLのオーナーになれた1920年代は、ある意味、牧歌的な時代でもあった。
対して、古参の白人移民がかねてから牛耳ってきたのは、銀行、重化学工業、自動車、石油、鉱業、運送業、保険など、いわゆる経済のメインストリームを担うビッグビジネスばかりであって、新参の白人移民がそうしたメインストリームのビジネスに簡単に参入することなど、できるわけもない。
だからこそ、新参の白人移民は、プロスポーツ、エンターテイメント、マスメディアなどの新しい産業で自分たちの生きる道を開拓し、発達させていこうとしていたわけだが、古参の移民の視点からみれば、たとえそれが自分たちの専門外の分野であっても、スタジアムの外野席でベーブ・ルースのホームランに浮かれ騒ぐ彼らの自由なふるまいが横行する事態は、次第次第に「目ざわりきわまりないもの」と映るようになっていったに違いない。

サーフィンのポイントにはよく「ローカル」と通称される地元サーファーが陣取っていて、ローカルルールを外部から来た通りすがりのサーファーに押し付けたがるものだが、それと同じように、古くからその場所にいて既得権を守りたい人間が「新参モノの登場」を喜ばないのは、どんな時代にもあることだ。
「新参モノの参入に対する反発」は、多民族国家のみならず、どこのどんな国でも、けして特殊なものではないし、それどころか「普通の人たちが、ごく普通に持っているベーシックな感情のひとつ」ですらある。

1920年代のアメリカの古参移民たちの間にもそれと同じ「縄張り意識」が非常に強くあったはずで、なんでもかんでも「ユダヤよばわり」して攻撃を加えたヘンリー・フォードの行動が常軌を逸していたのは確かだが、彼の極端な主張の根底にあるモチベーションを、人種的な偏見だけから考えるより、もっと子供っぽい感情が根底にあると考えたほうが、当時The Deaborn Independent紙がミシガン州で「90万部もの支持」を獲得できていたことに説明をつけやすいと思う。

つまり、1920年代のヘンリー・フォードは、手当たり次第になんでもかんでも「ユダヤよばわり」し、新聞記事を通じて攻撃を加えたわけだが、その理由は、「子供っぽい性格のまま大人になった『わがままなオトナ・コドモ』のヘンリーが、「自分の嫌いなもの」のすべてに対して『ユダヤ』というレッテルを貼ってまわって、蹴飛ばしまくることにした、ただそれだけのことだ」という風に見切って考えたほうが、彼の行動の執拗さの根源がかえって理解しやすくなると思うのだ。

彼のエリート意識の根源は、「ユダヤ移民に対する人種差別」というよりは、むしろ、「アメリカはオレたちが育てた畑だ。新参モノは、おとなしくしてやがれ」という、子供じみたシンプルな「縄張り意識」だ。
この「縄張り意識から派生したエリート意識」を、もう少し難しい言葉で言い直すと、「古参の移民たちが独立戦争前から大事に育て上げてきた『古き良きアメリカ』が、新参の白人移民の登場によって急速に『大衆化』し、変質していくことを、古参の白人移民たちはたまらなく不快に感じていたのではないか」という説明になるわけだが、いずれにしても言っていることの本質はまるで変わらない。


この「縄張り意識が根源にあるエリート意識説」が正しければ、ヘンリー・フォードが表現した「ユダヤへの嫌悪感」の「正体」は、「急速に大衆化社会が広がっていくことに対する嫌悪」であることになる。
だが、その「大衆化」を心底毛嫌いしたはずのヘンリー・フォードが、彼の事業を通じて後世に残した偉大な作品といえば、アメリカの「大衆化」のシンボルそのものである「大衆のための自動車」だったりするわけだから、歴史とはやはり皮肉なものだ。

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こうした「表面的には人種差別という形をとるが、その奥底に、他者を縄張りの外に排除しようとする意図が隠されている行動」は、それが表向きか本質かは別にして、アメリカという国の内側には常に渦巻いている。

例えば、Helen Thomasは、かつてUPIの大統領番記者として、ジョン・F・ケネディ以降の歴代アメリカ大統領を取材した輝かしいキャリアを持ち、2013年7月に92歳で天寿を全うしたアメリカの有名ジャーナリストだが、経験豊富な彼女にしてからが、記者キャリアの最後は反ユダヤ主義的発言の責任をとる形で引退している。

ちなみに、Helen Thomasは、ヘンリー・フォードと同じミシガン州育ちだが、ヘンリー・フォードのお膝元のデトロイトと、ニューヨークやボストンのような移民が非常に多い東海岸の諸都市との間には、街の歴史に非常に大きな相違点があって、それがMLBでいえばデトロイト・タイガースと、ヤンキースやレッドソックスとの「チームカラーの違い」にすら反映しているように思えることが多々あるのは、たぶん気のせいではないだろう。
注:
かつて、ワシントン州タコマ出身のリチャード・ブローティガンが書いた " A Baseball Game " という野球のゲームにまつわる詩についての解釈を試みたことがあったが、あの詩が「ヤンキース対タイガース戦」を題材にしていることについては、やはり、何かしらのアメリカ文化的バックグラウンドからくる「この対戦カードについて書くのでなければならない必然性」があるに違いないと、あらためて思う。
記事:Damejima's HARDBALL:2012年3月6日、「1958年の西海岸」という特別な年、特別な場所。リチャード・ブローティガン 『A Baseball Game』の野球史的解釈。


JFKを取材するHelen ThomasJFKを取材するHelen Thomas

このHelen Thomasにしても、彼女がもし単に「人種的な偏見に凝り固まっていて、ジャーナリストとしての素養のかけらすらない、評価に値しない人物」だったとしたら、大統領に直接取材する責任ある仕事を長年継続することはできなかったはずだ。

ユダヤ主義を徹底的に毛嫌いしたといわれるヘンリー・フォードだが、「経営者としての彼」はアフリカ系アメリカ人の雇用については積極的だったのであって、歴史に名を残した彼の才能のすべてを「ユダヤ移民に差別と憎悪を向け続けるのを生き甲斐にした極悪人」としてのみ説明しておしまいにするのは、ちょっと無理がありすぎる。

(南部のプランテーションが害虫ワタミハナゾウムシの大発生や市況の悪化などから急速に没落して、多くのアフリカ系アメリカ人が職を失う一方で、北部の工業都市は産業革命の進展から人手が足りずに困っていたため、デトロイトやシカゴなどのアメリカ中部の大都市では、手に技術を持つための教育を受けていない南部のアフリカ系アメリカ人でも、工場労働者として数多く受け入れられた。このことは、これ以降の記事であらためて触れる)

ブログ注:
これらのエピソードはユダヤ移民に対する人種差別事例のひとつではあるが、記述の目的は人種差別の是非を問うことそのものではない。またユダヤ主義、反ユダヤ主義の、どちらも目的としていないし、また偏見を助長したいわけではないし、また、人種についての偏った考え方を正す道徳的意図から書くわけでもない。
考えたいのは、「たくさんの人種から構成される文化」をもつ移民の国に特有の文化の特性や歴史を、わからないながらも、まずは「ありのまま」学んでみる機会を持つことだ。そうした機会を何ももたないまま、移民の国で生まれた文化である「ベースボール」、あるいは、その影響を受けた「日本」を語り続けてもしょうがない。

アメリカに限らないが、世界中からありとあらゆる人種が集まって成り立ってきた多くの国では、「人種にまつわる偏見」という、やっかいなシロモノが歴史の背骨にまで埋め込まれてしまっているのが、むしろ「普通」ではあって、さらに日常の習俗の中に抜きがたい生活要素として組み込まれてしまっていることも、けして珍しくない。(勘違いしないでもらいたいが、だからといって「多民族国家では人種差別をなくす努力なんてしなくていい」と言っているわけではない)

多くの人種が関わるスポーツであるベースボールにしても、けして綺麗ごとだけで出来てきたわけではなく、数々の偏見や失敗、あまたの紆余曲折を繰り返して現在の繁栄に至っている。
だが、幸いにもベースボールは、ジャッキー・ロビンソンのMLB加入をはじめ、困難な壁を何度も乗り越えることによって、結果的に事業としての拡張を継続できてきた。
MLBの事業拡大は、けして人種に対する偏見をなくすこと自体が目的ではないが、さまざまな壁を無くしていくMLBのたゆまぬ努力が、結果的に大きなマーケティング的成功に繋がってきたことは、ゆるがぬ事実だ。

そうした先人の Long And Winding Road を理解するためには、たくさんの人種が集まったとき、はからずも生じやすい歪んだ感情表現や根拠なき偏見を、まず可能な範囲でありのまま観察することが求められることも多い。この記事は、最初から中途半端な道徳観、倫理感に縛られて、価値観を固定されることを避け、まず事実を知ることから始めたいと望む人たちのための資料を残したいと思って書いた。
MLBとアメリカ史を、善悪の分類を目的にではなく、地に足のついたリアルな視点からきちんと接続した資料は、残念ながら、思ったほど多くないものだ。事実は事実として知ってもらいたいし、事実から何を思うか、それは個人個人の自由だと思う。

宮崎駿の『風立ちぬ』のような天真爛漫な映画作品ですら、批判することが自分たちの特権だと勘違いしている、どこぞの新聞屋から受け売りしてきた安っぽい道徳やヒューマニズムから批判したがる人たちがいるが、彼らがこれまで主張してきたような「狭苦しいモノの見方」から、もう我々日本人は脱却して自由な観点からモノを見れるようになってほしい、という願いも、もちろんある。いうまでもなく「新聞」というメディアが偏見をもたないとか、ジャーナリスト出身の東京都知事は裏金などとらないなどというのは、単なる「幻想」に過ぎない。

困り果てた顔の猪瀬直樹


November 09, 2013

白人移民とアフリカ系アメリカ人」が都市内部に集積していくことによって支えられた20世紀初頭のアメリカ北部の大都市の膨張は、やがてマスメディアの発達に平行して、「プロスポーツ」、「映画」など、それまでなかった新しいアメリカ的娯楽を「大衆化」させていくことになる。

マスメディアが、「大衆製造マシン」のひとつであると同時に、メディア自体がひとつの「大衆文化」でもあるという「二重構造」をもつように、「大衆に浸透することに成功したスポーツ」は、それ自体が「大衆文化」であると同時に、違う地域から移住してきた見ず知らずの白人移民同士でも、白人移民とアフリカ系アメリカ人でも、古参と新参のアフリカ系アメリカ人同士の間でもコミュニケーションを成立させることのできる「共通言語」でもあり、スポーツはやがて「アメリカに住んでいる人間であることを示す『アイデンティティ』そのもの」になっていく
ことに「プロスポーツ」は、「移民」として、あるいは、「奴隷」として、それぞれに違う理由で移民の国アメリカに住むようになった、主義も主張も違う住人同士をかろうじてつなぐ、いわば「人種や世代の相違を越えた数少ない『共通の話題』のひとつ」となり、プロスポーツが「接点を持たない人同士をも接着する接着剤」のような存在となったことで、歴史的文化的共通感覚を持たない数多くの人種を抱えこんだニューヨークのような大都市にとっては、「その街に住む住人が共通してもっている「地域アイデンティティ」を表示してくれるラベル』」としての役割を背負うことになった。(例:ニューヨーカー=ヤンキースファン)


ただ、ひとつ気をつけておかなければいけないのは、ここでいう「20世紀初頭にベースボールが経験した最初の大衆化のステップ」とは、「全米のあらゆる層とあらゆる地域への拡大」という意味ではない、ということだ。
「20世紀初頭にMLBが経験した最初の大衆化」はあくまで、「移民してきてからまだ歴史の浅い白人移民層への拡大」という限定された意味であり、アフリカ系アメリカ人をまだ含まないし、地域的にいっても、西海岸をまだ含むものではない

野球という娯楽がナショナル・パスタイム(=国民的娯楽)と言われるまでの存在に成長するには、MLBがあらゆる人種に開放されること、そして、1958年のドジャースとジャイアンツの西海岸移転に象徴されるように、MLBがアメリカ西海岸へ拡張されること、この2つが必要不可欠だ。
(白人移民が大衆文化を育てる一方で、アフリカ系アメリカ人が南部から北部都市に大量流入し続けるGreat Migrationという現象も起こり、二グロリーグも結成されているわけだが、その動態については、このシリーズのもっと前の記事を参照してもらいたい。資料記事:Damejima's HARDBALL:「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。
Damejima's HARDBALL:「父親とベースボール」 MLBの人種構成の変化

ジャッキー・ロビンソンのMLBデビューは、ブルックリン・ドジャースが西海岸に移転する10年ほど前の1947年4月15日、ニューヨークのエベッツ・フィールドだが、この試合の観客の半分以上はアフリカ系アメリカ人で占められていた。そんな現象は「1920年代のベースボール」ではありえない。
「ボールパークの観客席」はアメリカ社会の変化を映す鏡なわけだが、「20世紀初頭のボールパークにみるアメリカ」は、まだ人種差別が色濃く残る世界で、当時のボールパークを写した写真には、観客席であれ、チケット売り場であれ、アフリカ系アメリカ人の姿を垣間見ることはできない。

20世紀初頭にMLBが経験した(限定的な意味ではあるが)「最初の大衆化」という現象に関してだけいうなら、「観客」、「プレーヤー」、「オーナー」、どの層をとっても、ベースボールの最初の大衆化を主導したのは「白人移民」、それも、「移民としては新参の貧しい移民層」であり、変な道徳観にとらわれずに歴史の事実だけを冷静にみるなら、こうした「新参の移民である貧しい白人移民」がアメリカにベースボールという娯楽を定着させ、大衆文化としての地位を作っていく最初のステップとなったといってさしつかえない。

Shibe Parkで1914年ワールドシリーズのチケットを買うMLBファン
フィラデルフィアにあったShibe Park(1908年開場)で1914年ワールドシリーズのチケットを買い求めるMLBファン

1914年ワールドシリーズにおけるボストン・ブレーブスのファン席
1914年ワールドシリーズにおけるボストン・ブレーブス側の応援席



アメリカで、ラジオ放送が正式認可されるのは1922年、白黒テレビの放送開始が1941年だから、20世紀初頭のMLBファンは、ゲームを楽しみたければ、基本的に(新聞で試合結果を読む以外には)ボールパークに足を運ぶしか手段がなかった。
だから「20世紀初頭に、どのクラスター、どの人種が、MLBの大衆化に貢献したのか」を知るには、当時の新聞記事を読むより、当時の写真で「ボールパークにどんな観客がいるのか」を眺めたほうが、はるかに手っ取り早いし、間違いがない。


ちょっと横道にそれるが、1920年代初頭に始まった「アメリカのラジオ放送の普及」とMLBの大衆化の関係ついて記しておこう。
アメリカのラジオ放送は、1920年11月ペンシルバニア州ピッツバーグでウエスチング・ハウス社のラジオ局KDKAによる実験放送が始まり、2年後の1922年11月に商務省の正式免許が下りた。
商務省が発行したKDKAへのライセンス(原本)
商務省が発行したKDKAへのライセンス(原本)



1921年8月5日にはKDKAによるMLB初のラジオ中継として、ピッツバーグ対フィリーズ戦の中継が行われたが、当時のラジオはまだ実験放送段階にあった。MLB初放送にドジャースやヤンキースのゲームでなく、この対戦カードが選ばれたのは、たぶんKDKAの地元チームだったからという単純な理由だろう。ワールドシリーズのラジオ初放送も、同じ1921年10月にKDKAとWJZによって実現している。
ラジオは、音楽以外の分野では、「スポーツ」がやがて人気コンテンツとなる可能性に早い段階から気づいていた。
Major League Baseball on the radio - Wikipedia, the free encyclopedia

スポーツキャスターのパイオニア Graham McNameeGraham McNamee

実験放送期のラジオの野球中継では、新聞記者が本業のついでに交代でキャスターをつとめた。そのため初期のMLB中継は、本職ではない新聞記者が事実をかいつまんで伝えるだけの、かなり退屈なものだったようだ。
しかしラジオ放送が正式認可された翌年、1923年のワールドシリーズの中継で、後にスポーツキャスターのパイオニアとなるGraham McNamee(1888-1942)が登場する。彼は後に、ただプレーを伝達するだけでなく、プレーのディテールや熱狂をリスナーに上手に伝える、それまでにないスポーツキャスターとしてのトークを定着させ、ラジオのスポーツ中継が普及する基礎を築いた。
彼は後に、ボクシング史に残る「ロング・カウント事件」で知られる1927年9月22日ジャック・デンプシー対ジーン・タニーのリターンマッチの実況も行っており、また、CBSのオーソン・ウェルズのラジオ番組に1940年に出演した記録も残っている。(http://en.wikipedia.org/wiki/Orson_Welles_radiography)



本題に戻ろう。
ラジオのような「紙でない媒体」の普及とMLBの大衆化が平行して進んでいく以前の、20世紀初頭前後のボールパークには、いったいどんな「人種」の野球ファンが来ていたのだろう。
ある資料に、こんな記述がある。
Some derided the influx of new fans to urban ballparks, in part because of the growing visibility in the bleachers of the sons and daughters of working-class Italian, Polish, and Jewish immigrants.
都会の野球場における新参ファンの流入を嘲笑うものもいた。外野席にイタリア系、ポーランド系、ユダヤ系移民のワーキング・クラスの子女が目に見えて増加しつつあったことが、その理由のひとつだ。
The National Pastime in the 1920s: The Rise of the Baseball Fan

この資料は、20世紀初頭のMLBの大衆化を支えたのが「どの人種、どの層だったのか」を具体的に書いてくれていてわかりやすい。当時のアメリカの大都市で「外野席を埋めることで、ベースボールの最初の大衆化に貢献した」のは、「移民としては新参の、貧しい白人移民だった」というわけだ。
(なぜアメリカの移民史の中で、イタリア系、ポーランド系、ユダヤ系などの「新参の移民」たちが、イギリス系、スコットランド系、アイルランド系など「古参の入植者」から「新参モノ扱い」され、蔑んだ目で見られたのかなど、「移民と移民の間の力学」は、アメリカ史を知る上で重要な部分のひとつだから、アフリカ系アメリカ人がMLBで退潮しつつある理由を探る上でも、複雑な白人移民同士の関係も少しはかじっておく必要があるだろうとは思う。だが話が長くなり過ぎるため、ここでは割愛したい。白人移民とアフリカ系アメリカ人との関係については、別記事で書く)


結論から先にいえば、20世紀初頭のMLBの大衆化を語るには、「観客」、「プレーヤー」、「チームオーナー」のすべてにおいて、「新参の白人移民」の存在を抜きには語れない。
「20世紀初期のMLBで、新参の白人移民たちが外野席を占めはじめた」というエピソードは、「観客層の拡大」の話なわけだが、以下でみるように、「プレーヤー」、「オーナー」についても、まったく同じことがいえる。

例えば「プレーヤー」について少し触れると、20世紀初頭の殿堂入り選手のうち、かなりの数が「貧しい白人移民の子供」だ。
ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、チャーリー・ゲーリンジャーはドイツからきた移民の息子であり、同じように、スタン・ミュージアル、アル・シモンズはポーランド移民の子、ハンク・グリーンバーグはユダヤ移民の子、ウィリー・キーラーはアイルランド移民の子、そしてジョー・ディマジオ、ヨギ・ベラはイタリア移民の子だ。(メリーランド州出身者が多いのは、おそらく当時メリーランドが宗教の自由を認めて、さまざまな移民を受け入れていたという歴史的背景によるだろう)
彼らの「家庭」「父親」はおしなべて貧しく、仕事も、職人ならまだいいほうで、港湾の沖仲仕(stevedore)のような、熟練を必要とされない不安定で低賃金な仕事にしかありつけないプア・ホワイトの移民が多かった。(例:ボストン、ニューヨークなど、東海岸の港での荷役は、仕事そのものは古参の移民であるドイツ系移民とアイルランド系移民が独占していたが、1930年代ボルチモア港の沖仲仕の80%はポーランド移民だったように、沖仲仕として雇われるのは新参の移民だった)

まさに「父親とベースボール」なのである。


「観客」、「プレーヤー」に続いて、「オーナー」についても書きたいが、その前に、他サイトからの聞きかじり、受け売りで申し訳ないが、「ユダヤ系移民の歴史」に触れておきたい。(本当ならあらゆる人種の移民史に触れるといいのかもしれないが、不勉強なブログ主には、とてもじゃないが手に余る)

下記資料によれば、ユダヤ系移民には「5つの波」があるという。
第1波:スファラディムのアメリカ移住
第2波:ドイツ系ユダヤ人
第3波:東欧系ユダヤ人
第4波:ドイツ系知識人
第5波:ロシア系ユダヤ人の移住
資料:ユダヤ人のアメリカ移住史


第1波:スファラディムの南米経由のアメリカ移住
(17世紀以降 数千人規模)
オリジナルのユダヤ人がローマ帝国に対して起こした独立戦争に敗北して追放され、ユダヤ人は世界中に離散したが、これを「ディアスポラ」という。
ディアスポラ以降後のユダヤ人は、大きく分けて「スファラディム」と「アシュケナージ」という2つの流れをもち、オリエンタルなスファラディム(セファルディムとも表記される)はスペインなどの南欧に移住し、東欧の黒海沿岸で栄えた遊牧民族国家ハザール帝国に起源をもつといわれるアシュケナージはロシアや東欧に定住した。
スファラディムは、イスラム統治時代のイベリア半島に数多くいたが、当時のユダヤ人は現代のようにイスラム教国との間で紛争を繰り返していたわけではなく、むしろ、イスラム教国から自治権や特権を与えられ、繁栄していたというから驚く。

しかし、レコンキスタ(=キリスト教国によるイベリア半島の再征服活動。15世紀末に完結した)が完成すると、イスラム教国のもとで繁栄したスファラディムはカトリック教国となったイベリア半島から追放されることになった。
追放後の彼らは南米のブラジルなどに移住し鉱山事業などを成功させるが、やがてその富はスペインやポルトガルに奪われ、さらにアメリカに移住して17世紀末にはマンハッタンにたどり着き、ニューヨークにおける古参の移民層のひとつとなった。
かつて、別の記事で(=Damejima's HARDBALL:2012年12月21日、ニューヨークまみれのクリスマス・キャロル(1) ワシントン・アーヴィングとクリスマスとバットマン)、古い時代のニューヨークがオランダ系移民の多い入植地だったことを書いたが、マンハッタンを買い取って「ニューアムステルダム」と名付けたのが「オランダ系のスファラディム」だったと資料にある。
ニューアムステルダムは後に「ニューヨーク」と名を変え、やがて世界中から移民が集まり、同時に、アメリカ南部から北部に脱出してくるアフリカ系アメリカ人も集まる、いわゆる「人種のるつぼ」になっていく。


第2波:48ersに含まれたドイツ系ユダヤ人
(19世紀末 20数万人規模)
19世紀初頭までヨーロッパ全体を支配していたウィーン体制は、1848年革命によって崩壊に向かうが、ドイツでは1848年革命が鎮圧され、行き場を失った自由主義的な人たちの一部がアメリカに移住した。
この19世紀中期(=1820年から1870年頃まで)にアメリカに移住したドイツ系移民を1848年革命にひっかけて「48ers」(フォーティ・エイターズ)と呼ぶ。「48ers」は、移民の街ニューヨークはもとより、セントルイス、インディアナポリス、ウィスコンシン、テキサス、シンシナティなど、もともとドイツ人入植者の多かった地域に多くが移住し、やがてそれぞれの都市の中流住民になった。

この「48ers」には多数の「ユダヤ系移民」が含まれていて、彼らは街頭の物売りなどから身を起こし、さらに綿花、鉱山、鉄道、土地投機などの分野で成功する者、あるいは、創生期のウォール街で成功をおさめる者も現れた。
とりわけドイツ系ユダヤ移民の金融業における成功は、投資銀行の成功などめざましいものがあり、彼らは当時のアメリカ国内の成長産業だった鉄道などの成長に必要な資金を、母国ドイツやヨーロッパ各地にいるユダヤ系資本とのコネクションから調達し、新興国アメリカの爆発的成長を支え続けた。
移民の街ニューヨークでは、こうした成功したドイツ系ユダヤ移民がアッパーイーストサイドやアッパーウェストサイドといった「アップタウン」で暮らす富裕層になっていったが、彼らは宗教に関して同化主義的でユダヤ教色が希薄だったことから、やがてアメリカ国内で準WASP的扱いを受けることに成功したと資料にある。


第3波:ボグロムを逃れた東欧系ユダヤ人
(19世紀末 100万人規模)
1880年代初頭に帝政ロシアで始まった「ボグロム」と呼ばれるユダヤ人迫害で、ロシアから東欧にかけての広い地域で大量のユダヤ人虐殺が起こり、それらのエリアで最下層に属していたユダヤ人(この場合はアシュケナージ)が大量にアメリカに逃れたため、アメリカのユダヤ系移民の人口は一気に拡大した。

Jacob Henry SchiffJacob Henry Schiff

ちなみに日露戦争はこの時代の話だが、当時アメリカのユダヤ系移民の中心的存在だった金融業者Jacob Henry Schiffヤコブ・シフ)が、日本が日露戦争に必要な戦費を賄うための公債を高橋是清から購入した背景には、ユダヤ人虐殺を強行した当時の帝政ロシアへの激しい反発があったと説明されている。

移民第3波の「東欧系ユダヤ移民」の大量流入により、アメリカにおけるユダヤ系移民の85%が東欧系になる。ニューヨークでは、第2波移民のドイツ系ユダヤ人がアップタウンに住んだのに対し、第3波の東欧系はダウンタウンに住み、例えばロウワー・イーストサイドにはおびただしい数の東欧系が移住した。
有名人で例を挙げると、ロバート・レッドフォード主演の野球映画『ナチュラル』の原作者バーナード・マラマッドは、父親がロシア系ユダヤ移民で、ニューヨークのブルックリンで1914年に生まれている。また、名曲 " America " で、All gone to look for Americaと歌っているポール・サイモンは、祖父が東欧ルーマニアからアメリカに移住してきたユダヤ系アメリカ人で、生まれはニュージャージーだが、育ったのはニューヨークのクイーンズ地区だ。
参考記事:Damejima's HARDBALL:2013年5月4日、「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。アメリカにおける「放浪」の消滅(3) サイモン&ガーファンクルの "America"の解読〜ニュージャージー・ターンパイクの渋滞の中で気づく「若者を必要としないアメリカ」

東欧系ユダヤ移民は、アメリカでも母国と同様の貧しい暮らしを送ったようだが、手に技術のある者も多く、手に職のないアフリカ系アメリカ人の北部移住と違って、職人として生計を立てていくことが可能だった。(ティム・マーラやレオナ・ヘルムズリーの親が職人であるのには、こうした背景がある)
ユダヤ系移民の「第2波」である「ドイツ系」がアメリカへの同化を希望してユダヤ教色が希薄であるのと違って、ユダヤ系移民「第3波」の「東欧系」は、アシュケナージの特徴のひとつであるイディッシュ語を話す正統派のユダヤ教徒であり、ユダヤ教色が強いと資料にある。
東欧系移民の大量流入は、1924年移民法(Immigration Act of 1924)の制定による移民制限で終わる。


第4波:ナチス迫害を逃れるドイツ系移民
(数十万人規模)
第4波のユダヤ系移民は、1933年のナチス・ドイツ成立とともに、ドイツやオーストリアからアメリカに逃れた25万ものユダヤ人で、その中にはかなりの数の知識人・文化人が含まれた。また、ユダヤ人でない知識人の中にも、ユダヤ人の同僚や教師の移住をきっかけにアメリカ移住を決断する者が続出したため、当時のドイツはかなりの量の知識と文化を失った。(「原爆」の開発場所が、結果としてドイツでなくアメリカになったのも、この時代の「ドイツからアメリカへの知識流出」が背景にある)
アメリカのユダヤ系人口は、1924年移民法で東欧からのユダヤ移民が制限された1925年には「380万人」だったが、第二次世界大戦中の1940年時点には100万人も増えて「480万人」に到達している。居住地は、100数十万人ものユダヤ系住民が暮らすニューヨークを筆頭に、ロサンゼルス、フィラデルフィア、マイアミ、ボストン、ワシントンなどとなっている。

Chiune Sugihara
ちなみに、第二次大戦中、東欧リトアニアの日本領事・杉原千畝は、ポーランドからアメリカなどに逃れようとするユダヤ人にビザを発給し、6000余名もの人命を救った。1985年、日本人で初、そして唯一の「諸国民の中の正義の人」に選ばれている。


George Sorosジョージ・ソロスは、ナチス・ドイツの侵攻を受けたハンガリーのブダペスト出身のユダヤ系移民で、アメリカに渡ってウォール街で投資ファンドを起こして成功を収めた。彼は第4波ユダヤ移民の一部であると同時に、アメリカに渡って金融業で成功を収めた第2波ユダヤ移民「48ers」と同じ成功パターンをたどった人物ともいえる。彼はこれまで、ドラスティックな投資家としてグローバル経済の恩恵を享受しつつ、同時に、学者・慈善家としてグローバル経済の欠陥を執拗に批判し続けてきた。彼の矛盾した姿勢に対する批判もけして少なくないが、彼の業績をどう判断するはともかくとして、彼の「自分の気にいらないもの(例えばジョージ・ブッシュ)対する批判の執拗さ」だけをとりあげるなら、かつてユダヤ嫌いで有名だったヘンリー・フォードにどこか似ていなくもないのが、なんとも不可思議ではある。つまり、ユダヤ系であるはずのソロスのモチベーションには、少なくともマックス・ウェーバーが1904年に「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で指摘したような「儲けることと、社会貢献を徹底した形で両立させることへの義務感」のようなものが強く根底に流れている、ということだ。ソロスのこうした複雑なメンタリティの解読は、現代アメリカのビヘビアのこれからを読み解く大きな鍵でもある。


第5波:ロシア系ユダヤ人の国外移住
(20世紀末 数万人規模)
1989年1月のソ連の国勢調査によれば、当時のソ連国内のユダヤ人口は145万人で、うち6万人がアメリカへ移住。また、1990年〜1993年にソ連を去った58万人のユダヤ人のうち、80%はイスラエルへ移住したらしい。
こうした現象の背景にあるのが、1981年にイスラエルとソ連の間で行われた会議と、1989年12月に当時のゴルバチョフ元大統領とブッシュ大統領の間で行われたマルタ会談の、2つの会談。これらの会談によって、ソ連側はロシア系ユダヤ人をイスラエル西岸地区へ移民させることに同意し、また東欧民主化を保証したと資料にある。ブッシュ大統領はソ連のユダヤ人の国外移住を制限しないという条件で、ソ連に「最恵国待遇」を与え、経済協力を約束した。
これらの経緯がきっかけで結果的に米ソ冷戦は終結したものの、かわりに世界は中東紛争という新たな火種を抱えることになったわけだ。中東紛争にユダヤ人入植者の問題が絡んでいることはテレビのニュースで知っていても、その出自がアメリカではなくロシアにルーツがあることには非常に驚かされる。


上のユダヤ移民の歴史をふまえた上で、改めて、このブログで、20世紀初頭にアメリカのプロスポーツで「オーナー」になった人々に触れたいくつかの記事を振り返ると、それらが実にピタリと移民の歴史に沿っていることがわかる。

一例をあげると、例えば映画『ドラゴンタトゥーの女』でリサベット・サランデルを演じたルーニー・マーラの曽祖父にあたるNFL ニューヨーク・ジャイアンツの創始者ティム・マーラについて書いた記事で、彼の経歴を「ロウワー・イーストサイドの貧しい家庭に生まれ、13歳で映画館の案内係になり、通りで新聞を売る仕事を経てブックメーカーの使い走りになり、さらに18歳のとき彼自身がブックメーカーになった」と書いたわけだが、東欧系のユダヤ系移民が「ニューヨークのロウワー・イーストサイド」に多数住んでいた歴史を考慮すると、ティム・マーラのキャリアは東欧系ユダヤ移民の典型的すぎるくらい典型的なサクセスストーリーなのだろうと気づかされる。
Damejima's HARDBALL:2012年12月21日、ニューヨークまみれのクリスマス・キャロル(2) NFLニューヨーク・ジャイアンツとティム・マーラとポロ・グラウンズ

また、MLB サンフランシスコ・ジャイアンツの元オーナー、ピーター・マゴワンについて「かつてアメリカの三大投資銀行のひとつとして名を馳せた、かのメリル・リンチの創業者、そして全米屈指のスーパーマーケットSafewayの創業者でもあるチャールズ・メリル (1885-1956)の孫である」と書いたが、チャールズ・メリルの「投資銀行で成功するというサクセスストーリー」もまた、ユダヤ系移民における典型的なサクセスストーリーだろう。
Damejima's HARDBALL:2013年2月11日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」 (8)番外編 三代たてば、なんとやら。「ステロイド・イネーブラ」と呼ばれたピーター・マゴワン。


上記のユダヤ系移民の歴史資料に、「アメリカの映画は、最初の頃から東欧ユダヤ人の参画によってスタートした」という記述がある。もう少し記述を引用してみる。
(アメリカの)初期の映画産業は、貧しく、無学な労働者層を観客とするもので、一般には「低級な娯楽」とみなされていた。そのため、当時、この未成熟産業が大方の予想を裏切って主要産業へと急成長することを予測しえた者は極めて少なかった。

この文章の、「映画産業」という部分は、それを「アメリカの娯楽」、「アメリカのスポーツ」、「アメリカのメディア産業」、「アメリカのエンターテイメント」などに置き換えたとしても、それぞれ、そっくりそのまま成り立ってしまう。
このことからも、20世紀初頭のアメリカ文化の形成における白人移民の影響力の大きさがわかるというものだ。
(イギリスからの移民で、20世紀初頭にたくさんの無声映画に出演したチャールズ・チャップリンは、1920年前後には、ポール・サイモンが幼少期に住んでいたのと同じニューヨーク州クイーンズのキュー・ガーデン地区に住んでいた。またジョージ・ガーシュウィンも同じキュー・ガーデンに住んでいたことがある)

NFLニューヨーク・ジャイアンツのかつてのオーナー、ティム・マーラが若い貧しい時代に新聞売りから身を起こして、ジャイアンツのオーナーになったとき、今から思えば彼がオーナーシップを買うために支払った金額はほんのわずかなものであったように、20世紀初頭のアメリカにおいて、将来のプロスポーツが現在のような巨大マーケットに成長するとは、先見の明のあった移民の一部の人々以外、誰も予想していなかった。


あまりに端折った話に終始してしまったが、ベースボールの「最初の大衆化」が「白人移民の拡大」と深いつながりがあること、つまり、草創期のMLBで「観客」を形成した層、「プレーヤー」を形成した層、「オーナー」を形成した層(そしてもちろん「二グロ・リーグ」を形成した層も)は、それぞれが「特定の人種やクラスター」にルーツをもっていることがわかってもらえただろうと思う。

「ベースボールの経験した最初の大衆化」では、明らかにアメリカ東岸や五大湖エリアの大都市のダウンタウンに住む白人移民労働者の人口増大や所得増加が関係している。(もっと後の「ベースボールのナショナル・パスタイム化」でいえば、西海岸へのMLB拡張やアフリカ系アメリカ人のインテグレーションが影響している)


誰が先にアメリカに来たか、誰が後からやってきたか、誰が誰の場所を奪って自分のものにするか、そうした「人種間の、あるいは、人種内部の摩擦の問題」が相互に、かつ、複雑にからみあうのが、アメリカという国の難しさ、わかりにくさだが、MLBの成り立ちや課題についても、やはりこうした「誰が、いつ、来たのか」という「ややこしい順番の問題」を無視しては語れないのだ。

November 05, 2013

先日、国立霞ヶ丘陸上競技場(通称:国立競技場)の建て替えについての記事を書いたわけだが、ちょっと気になることがあって、追加でこの記事を書くことにした。

というのは、あの記事をさらっと読まれてしまうと、まるで「建て替え費用は、東京都が想定しているような『8万人規模で1500億円』なんて予算規模では、いいスタジアムなんてできない。世界に誇れる8万人規模のスタジアムを作るべきだから、文部省がとりあえず試算した『3000億円』かかるかどうかはともかく、1500億円以上は絶対にかけて事業を進めるべきだ」、などと読まれかねないと思ったからだ。
Damejima's HARDBALL:2013年10月29日、国立霞ヶ丘陸上競技場は、「同じ場所で建て替える」などという二番煎じのお茶をさらに温め直すような発想を止め、違う場所に新設すべき。


そもそも、東京都のいう「8万人収容、1500億円」という数字がどこから湧いて出てきたのか、推定してみると、たぶん以下のようなデータがあることからして、「世界一カネがかかったMetLife Stadiumが費用1600億円・8万人収容だから、東京でもそれくらいの費用でできるだろう」程度の大雑把な推論が話の出発点に違いない。

まずは、今の時点で、「世界で最もカネのかかったスタジアム」のベスト5を見てもらいたい。(以下「B=billion=10億」。例:US$1.6B=16億ドル≒約1600億円)

1位 MetLife Stadium
   US$1.6 B (ニュージャージー・NFL)
2位 新ヤンキースタジアム
   US$1.5 B (ニューヨーク・野球)
--------------------------------------------
   Olympic Stadium(モントリオール・多目的)
   AT&T Stadium(テキサス・NFL)
   Wembley Stadium(ロンドン・サッカー場)
3位〜5位のスタジアムの建設費は、1.25〜1.4 billion


上位2つのスタジアムの順位は、どの資料をみても変わらない。だが、3位以下のスタジアムの順位は資料によって変動する。カナダ、アメリカ、イギリスと、それぞれが異なる国のスタジアムで、差が小さく、為替レートによっても順位が変動するレベルだから、ここは細かいことなど気にせず、「3位タイが3つあって、ドングリの背比べだ」とでも思っておけばいいだろう。
「建設費」だが、これは、初期費用は変わらないにしても、Olympic Stadiumがそうであるように、追加改修が必要になると完成後にも膨れ上がっていったりする。また「収容人員」については、どんなスポーツを開催するかによって大きく異なる。野球と比べ、サッカーやアメリカン・フットボールの開催は、フィールドに臨時のシートを増設することもできるため、より多くの観客をスタジアムに収容できる。
上記5つのスタジアムは、それぞれの主な使用目的が違う(NFL、野球、サッカー)。そのため収容能力を横一列で単純比較することは難しい。
AT&Tというと、MLBファンはどうしてもサンフランシスコのAT&T Parkを思い浮かべてしまうわけだが、ここではかつてCowboys Stadiumと呼ばれていたテキサスのNFLのスタジアムをさす。

収容人員数
1位 MetLife Stadium 82,566人(NFL)
2位 新ヤンキースタジアム 約5万人(MLB)
   Olympic Stadium 66,308人(NFL)
   AT&T Stadium 10万5千人(NFL)
   Wembley Stadium 86,000人(サッカー)


USドルでの比較(2011年12月付):The 5 Most Expensive Stadiums In The World

USドルでの比較(2011年10月付)11 Most Expensive Stadiums In The World

ユーロでの比較:世界のスタジアム建設費TOP10 |FootballGEIST


「8万人収容・1500億円」の意味

論点1)競技によって大きく異なる
    「8万人収容スタジアム」の「規模」


日本の新聞メディアは国立霞ヶ丘陸上競技場の建て替えについて、「どういう意味の『8万人』なのか?」を全く定義することなく、ダラダラ、ダラダラ報道を垂れ流しているから、まるで議論にならない。
上でも書いたことだが、ひとくちに「8万人収容」といっても、「陸上競技の観客8万人」、「野球の8万人」、「サッカーの8万人」、「アメリカン・フットボールの8万人」では、それぞれに必要な土地面積、スタジアムの規模、かかる維持費の全てが、まるっきり違ってくる。

「陸上競技の8万人規模のスタジアム」というと、野球以上に広大な「敷地」が必要になる。だが、年間通しての集客など期待できるはずがない陸上競技では、8万人なんていうモンスター・スタジアムを作るなんてことは、まさに自殺行為でしかない。
サッカーというスポーツについては、テレビ中継画面の広角なアングルの「イメージ」のせいで、「広大なグラウンドを走り回ってプレーするスポーツである」だのと思いこんでいる人はやたら多いことだろうが、実際には、サッカー場の面積なんてものは、たとえピッチ外のスペースを含めたとしても、野球のフィールド面積のせいぜい半分程度にしかならない。アメリカン・フットボールはさらに狭い。
だから例えば、野球場のインフィールドに臨時の席を設営することを想定する場合、野球の開催で「6万人」くらいの収容規模のスタジアムは、アメリカン・フットボールでなら「8万人収容」くらいの規模のスタジアムであることを意味する。


もし東京都が、国立霞ヶ丘陸上競技場の建て替えで想定している「規模」が、「8万人の観客を、それも『常設席』に収容できる、陸上競技場」なんてものだとしたら、そんなスタジアムは「とてつもなくデカいモンスターになる」に決まっているし、そして当然ながら、「モンスターの建設には、とてつもない費用がかかる」。(というか、たぶんあのデザインを設計した人間は、「そもそもスポーツ観戦とか、スタジアムというものを理解してない人間」だ)

だが、上のスタジアム・ランキングでわかる通り、そんな「とてつもなく馬鹿デカいスタジアム」など、世界の(というか、アメリカの)どんな採算のとれているプロスポーツで探しても、どんなスポーツ先進国で探しても、「ない」し、「ありえない」
そして、そういう「ありえないもの」を現実に作ろうとすれば、間違いなく「世界で最も建設費のかかったスタジアム」になり、さらに同時に、「世界で最も維持していけない陸上競技場」になるだろう。

イメージしておかなくてはならないのは、「野球よりはるかに狭いフィールドでプレーしているスポーツ」であるサッカーやアメリカン・フットボールを前提に考える「8万人収容のスタジアム」のイメージというのは、「野球でいうなら、6万人収容程度の大きさ」だ、ということだ。
例えば、8万人以上収容できるMetLife Stadiumは、世界で最もカネのかかったスタジアムで、建設費はおよそ「1600億円」もかかっっているわけだが、このスタジアムはそもそも「アメリカン・フットボール用」なのだから、野球場に換算するなら、「6万人収容の野球場」程度の大きさという意味でしかない。
「6万人収容の野球場」というと、野球場として大きいのは確かだが、想像を絶するほど大きさではないし、モンスターでもない。そして、そんな程度の大きさでも、建設には1600億円もかかったのだ。

もしこれが、「8万人を常設の席に収容できる陸上競技場」なんてものになったらどうなるか、想像できるはずだ。巨大なモンスター級スタジアムの建設の費用は、1500億とか1600億とかで収まるわけがない。そんなものを、1年にたった数週間しか使わないマイナーなプロスポーツだの、アマチュア競技のための常設施設だのとして作れば、どうなるか、わかりそうなものだ。
既に何度も書いていることだが、日本では「野球以外の競技」で、「6万人を超える規模のスタジアム」を作れば、間違いなく採算のとれない無用の長物になる。いうまでもない。

ここらへんの「スケール感」をきちんとアタマに入れた話をしていかないと、ウワモノの建設費が巨大になるくらいでは済まない。取得すべき土地の面積も、更地にする費用も、ランニングの経費も、人件費も、ありとあらゆる費用が膨大なものになることは、ここまでの話でおわかりいただけただろう。
東京都は既に国立霞ヶ丘陸上競技場周辺の立ち退きが予想される住民にある程度の説明を行ないつつあるようだが、そもそも彼らの想定する建て替えに必要な土地面積のイメージは、ぶっちゃけ「とんでもなくデカすぎる」ものだ。


論点2)MLBのスタジアムで、建設費が10億USドルを越えているのは、実は「新ヤンキースタジアムだけ」

MLBスタジアムの建設費ランキング

上で「収容人数」について書いたことでわかるのは、国立霞ヶ丘陸上競技場の建て替えが、もし「8万人を常設席に収容できるモンスター級の陸上競技場をつくる」という意味であるなら、「1500億でできるわけがない」ということ、さらにそういう「モンスター級の陸上競技場など、日本には必要ないし、仮に作ったとしても、到底維持できない」というようなことだ。

さらに、MLBのボールパークの建設費ランキングを見てもらえばわかると思うが、「5万人収容くらいで、屋根が開閉式のドーム球場を作る費用は、少なくとも近年のアメリカでは、1000億以上かかることは、滅多にない」。そして、「場所にもよるが、500億円ちょっとでも十分作れる」。(資料:MLB Ballparks - Construction Cost Rankings
新ヤンキースタジアムは世界第2位の約1500億円もかかった金満スタジアムだが、これはカネがかかりすぎというものであって、MLBで2番目にカネのかかった、同じニューヨークのシティ・フィールドは、前身のシェイ・スタジアムの駐車場に作ったせいか、わずか900億円しかかかっていない。(もちろん、900億でも、MLBのボールパークの建設費としては超高額だが)
そして、他の球場は、開閉式ドームのセーフコ・フィールドなども含めて、ほとんど全てのボールパークが、わずか「600億円以下」で建設されているのである。


上で書いたように、「6万人を収容できる巨大野球場」は、サッカーやアメリカン・フットボールでいえば、「8万人を収容できる巨大スタジアム」を意味する。
もし日本に「8万人収容で、屋根が開閉式のスタジアム」を新たに作るとしても、それが「8万人を、しかも常設席で収容できる、世界に前例のないモンスター級の陸上競技場」などという、わけのわからない無謀な話ではなくて、「6万人収容できるかなり大きな野球場、とでもいうような規模イメージのスタジアム」である限りは、「3000億円」どころか、「1500億円」もかけずに建設可能なはずだ。(もちろん、前に書いたように、同じ場所で建て替えようとするから、余計に費用がかさむということはある。だからこそ、同じ場所でなく、場所を変えるべきだ、というのである)


話が長くなった。
東京都が「8万人収容で、1500億円」と言っている「スタジアムの想定」が、結局のところ、いったい、どこの、何を、「模範」としてイメージされたかといえば、いうまでもなく、「1600億円という世界一のコストをかけて建設され、8万人以上を収容できるアメリカのMetLife Stadiumのレベル、つまり、世界トップレベルのスタジアムを、わが東京にも作るんだべ」程度のアバウトさ、ないしは、「世界一のMetLife Stadiumが1600億でできたんだから、オラも1500億くらいかけりゃ、東京にも、つくれるだろ」程度のアバウトさから発言されているに過ぎないであろうことは、ここまで長々と書いてきたことでわかってもらえると思う。

だが、彼らは、自分たちが企画書で目にして飛びついた「1600億かけて建設された、8万人収容の、世界でいちばんカネのかかったスタジアム」というのが、そもそも競技スペースが狭くて済む「アメリカン・フットボール場」であって、「陸上競技場ではない」ということを、たぶんわかってない。
もし、わけのわからない人間たちが、わけもわからず「8万人を、常設席で収容可能な、モンスタークラスの陸上競技場」なんてものを想定しているのだとしたら、国立霞ヶ丘陸上競技場は、ただでさえサブトラックの再整備が必要で、さらに、現にある陸上競技場を更地に戻す費用もかかり、既存の周辺住民を立ち退かせる費用など、さまざまな経費もかかった上に、さらに本題の広大な面積の土地を収用し、地上70メートルにも達する巨大なウワモノを、しかも「風致地区」に建設して、さらに膨大なレベルの維持費と人件費が何十年もかかり続けるのだから、「1500億円程度の費用」で建てられるわけがない。


「1500億でできますよ」だのというが
ほんと、「できもしないことを言うな」と、
猪瀬氏に言いたくなる。

November 04, 2013

素晴らしいゲームばかりだった2013日本シリーズについては、たくさんのプロ野球ファンが書くだろうし、門外漢があれこれいう必要もないとは思うが、「配球」を考えながら野球を観るのが好きな人が時間が過ぎた後で、このシリーズをあらためて考察するときに必要な記録を残しておきたいと思うし、MLB移籍後に予見される「田中将投手の課題」という問題にも関係するので、メモを残すことにした。わかりきった内容が多いことについてはご容赦願いたい。

第5戦までの嶋捕手の「インコース突き配球」
第5戦までに2013日本シリーズにおける楽天優勢が明らかになった理由は、楽天・捕手のインコースを突きまくる配球と、それを可能にする楽天先発投手陣の力のある速球、コントロールの良さにある。
インコース主体のスピードとパワーのある速球をヒットにするだけのスイングスピードをもたない打者(例・松本)ばかり並べた巨人打線では、大半の打者が打率2割以下に抑えこまれた。
特に、このインコースを突きまくる配球の成果は、本来ならインコースに強いはずの巨人・阿部捕手の打撃不振を決定づけたことにある。阿部はインコースの速い球に対応しようとする意識が強くなりすぎた結果、右腰の開きが早すぎるカラダの初動の悪さを、自力では制御も修正もできなくなり、そのまま凡退し続ける結果になった。

第6戦、第7戦の巨人の「ストレート狙い」
大雑把にいえば、戦力の均衡したシリーズの行方を決めた第6戦・第7戦で、レギュラーシーズン無敗だった田中投手が負けた理由も、美馬投手以下の楽天の投手が打たれずに済んだ理由も、まったく「同じ理由」だ。
それは「巨人打線が、この大事な2試合でずっと「チーム方針として、ストレートばかり狙い続けた」からだ。

第6戦では、田中・嶋バッテリーは、巨人打線に狙い球を絞り込まれたことで、無敗のエースがピンチを招き続けるという「予想外の事態が起きたこと」にすっかり我を忘れてしまい、使う球種が「ストレート」と「スプリット」の2つに完全に偏ってしまい、バッターにことごとく球種を読まれた。
特に、インコースのストレート待ちで二塁打を打つのが特徴の高橋由に、嶋捕手が「第5戦までに多用していたインコースを突く配球を続けたこと」は、明らかにキャッチャーが配球を主導する日本野球のキャッチャーとしては大失敗であり、高橋由に投げミスしたインコースのストレートを打たれ、さらに投げる球が無くなって変化球を置きにいっては打たれて、楽天バッテリーに逃げ場はなかった。スプリットの投げ過ぎの結果、スプリットが抜けるようになったゲーム中盤には、スプリットが抜けた高めの棒球を、好調時の田中なら打てるわけのないホセ・ロペスにさえホームランを許した。

その一方で、カーブやスライダーを主体に投げられる美馬は第7戦で、主にスライダーを多投することで打者をかわし続けた。巨人打線がストレート狙いなのだから、美馬がMVPに選ばれるのも、楽天の日本一も、当然の結果だ。

第6戦、巨人の打線組み替えの成功
第6戦だけみれば、巨人・原監督の「打線組み換え」という戦術は非常によく機能し、無敗のエース・田中将大を打ち崩すことに成功した。特に、インコースのストレートに異常に強い高橋由を3番起用したことに意味がある。
他方、楽天・嶋捕手は、巨人打線の組み替えの意図を理解せず、インコースをストレート系で突き続ける第5戦までの配球を修正しないままゲームに臨んで巨人打線の痛打の連続にあい、優勝を決めるべく田中先発で臨んだ第6戦を落とす原因を作った

ただ、原監督の打順変更が「遅きに失した」ことは、残念ながら後世の人に特筆して書き残しておくべき点であり、もし原監督が、楽天バッテリーにおける嶋捕手の配球傾向、巨人打線が抑え込まれている理由について、もっと早く把握し、なおかつ、もっと柔軟かつ俊敏に対応策を講じていたら、シリーズの結果は違うものになっていた可能性がある。(ちなみに、負けた巨人の戦略コーチは、敗退した第3回WBCでデータ分析を担当し、ヤディア・モリーナ相手に行った無謀なダブルスチールについて「絶対にできた」と負けた後でタラレバ発言した橋上秀樹)


第7戦、「変化球多用」による楽天の逆襲
田中先発で必勝を期した第6戦を失った後、第7戦を戦うにあたって楽天・嶋捕手は、「なぜ第6戦で楽天は負けたのか」について的確な判断を下して、第7戦では「徹底して変化球を増やす」という対策を立ててゲームに臨んだために、勝利した第6戦に続く第7戦でも同じオーダー、同じ戦術をとった巨人側の「意図」は完全に「裏目」に出た。
第7戦での試合結果について、楽天の先発投手が「カーブやスライダーを多用する美馬投手」だったことで、「偶然に、美馬投手と、ストレート狙いに徹する巨人打線とのミスマッチが起きた」ように思う人がいるかもしれないが、それは違う。

理由は2つある。

ひとつは、嶋捕手が、田中以上にストレートを多投したがる則本に対しても、「変化球、特に『打者の初球にスライダーを投げ、しかも、ストライクをとっておくこと』を徹底させ、巨人打線にいやおうなく変化球を意識させた」こと。
則本という投手は、いい投手ではあるが、ストレートを多投すると、10球に1球くらいの高確率で、高めに甘い球がいってしまう悪癖がある。第1戦8回表に村田にホームランを浴びたのも、ストレートの失投だ。(初球・アウトコース高め)
この「失投確率のかなり高い投手」を、わざわざ負けられない第7戦で、「ストレート狙いの巨人打線」相手にリリーフ登板させた楽天・星野監督の投手起用は、そもそも人選とタイミングを両方とも間違えている
たとえ信頼できるブルペン投手がいなくて則本をリリーフ起用せざるえないような状態だとしても、変化球にキレがあって巨人打線のストレート狙いをかわすことができる美馬をもう1イニング引っ張るほうが、よほど理にかなった戦術だったはずであり、巨人側も変化球のいい美馬が降板してくれて正直ホッとしたはずだ。

ふたつめに、嶋捕手が、則本と同じくストレートを投げたがる緩急のない田中投手にも、「スプリット連投を指示し、ほとんどストレートを投げさせなかった」ことだ。

こうして嶋捕手が、第7戦では「ストレートをむやみに多投しない」、「無理にインコースばかり突こうとしない」という風に、それまでの配球傾向を一新したことで、楽天は、「巨人打線のストレート狙い」と、そのキーパーソンである高橋由の3番起用をはじめとする「打線変更の効果」を、2つとも打ち消すことに成功した。
この「第7戦における配球傾向の一新」を主導したのは、明らかに監督の星野仙一ではない。なぜなら星野は、第7戦で楽天が巨人打線を抑えることに成功していたキーポイントが美馬の投げる「変化球」にあり、しかもまだ美馬が投げられるにもかかわらず、「ストレートを投げたがる則本」に、それも1イニング早くスイッチしている「わけのわかってない指導者」だからだ。


最後に、MLB移籍後の田中将大について、ちょっとしたメモを残そう。

かつて、2011年にフェリックス・ヘルナンデスについて書いたことがあるし、たしかダルビッシュについてもツイートしたことがある気がするが、MLBでは「4シーム(日本でいうストレート)がいいと言われる投手に対する、典型的な攻略パターン」がある。
それはとても単純な方法論で、「その投手の最もいい球種である4シームを、打線全体で徹底的に狙い打って投げられなくさせ、配球の構造そのものを壊す」というものだ。

「4シームだけを狙い打つ」なんていう単細胞な(笑)投手攻略戦術が、MLBで可能なのにはもちろん理由があって、MLBには「たとえ他の球種は不得意でも、こと速球だけなら確実に打てる」というハンパな打者が死ぬほどたくさんいるからだ。(特にアメリカ国内の大学出身者)
ただ、この「4シーム狙い打ち戦術」、もし日本でやったとしても、思ったほど効果はないと思う。なぜなら、例えば日本シリーズの巨人・松本のように、パワーのあるインコースの速球をヒットにできない打者がたくさんいる世界だからだ。(比較でいうなら、イチローはホセ・バルベルデのようなMLB有数の速球派投手のインコースの4シームを狙い打ちしてホームランにできるレベルのバッターであり、速球だけしか打てない二流打者とはまったく違う)
MLBなら、たとえ変化球はまるで打てない下位打線のバッターであっても、こと「速球」に関してだけは、いつでもホームランできる可能性がある。

Damejima's HARDBALL:2011年5月13日、「打者を追い込むところまで」で終わりの投球術と、「打者を最終的にうちとる」投球術の落差 (2)「ストレートを投げる恐怖」と「外の変化球への逃げ」が修正できないヘルナンデスの弱さ。

Damejima's HARDBALL:2011年7月31日、もはやストレートで押せるピッチャーでも、グラウンドボール・ピッチャーでもない、フェリックス・ヘルナンデス。ちなみに、ダグ・フィスターのストレートは、MLB全体11位の価値。


MLBでは「速球だけは打てる打者」「速球だけ速いピッチャー」なんてものは、腐るほどいる。たとえバーランダーやチャップマンのように、4シームの球速が160キロ出ようと、「甘い4シームを打てるだけのバッター」でいいなら、それこそ、どこにでもころがっているし、「4シームの速いピッチャー」というだけでいいなら、どこのマイナーにもいる。

むしろ、バッターが一流になれるかどうかは、カーブ、チェンジアップ、シンカー、ナックルカーブなどの「ブレーキのある変化球」、スライダーや高速シンカーなどの「スピードも兼ね備えた変化球」や、2シームやカットボールのような球速のある「動くスピードボール」を加えた、「ストレート以外の球」がどれだけ打てるかにかかってくる。
それはピッチャーでも同じで、一流になるには、4シームのキレだけでは不足で、最低でも「もうひとつ何か別の得意球種」を持つ必要がある。
(チェンジアップが武器のジェイソン・バルガスのように、コントロールが並み外れてよければローテーション投手にもなれるが、球速そのものが衰えたヤンキースのサバシアがもはやどうにもならない地点にさしかかっているように、球速の無い投手がエースの座を維持できるわけではない。たったひとつの球種では、世界から才能が集まるMLBで成功することは絶対にできない。だから、かつてイチロー在籍時代のシアトルのマイナーが、4シームしか持ち球のないワンパターンな速球派の若手投手ばかり生産し続けたことは、本当に無意味な行為だった)


田中将大投手が「いざとなると頼る球種」が、「4シーム」と「スプリット」なのは、この日本シリーズでよくわかったわけだが、では、その「2つの球種だけ」でMLBでやっていけるものかどうかは、よく考えないといけない。
MLBの場合、「4シームとスプリットだけでやっていく投手」というのは、ジョナサン・パペルボンのような「クローザー」だけであり、田中投手がローテーション投手として長く活躍したければ、球種を増やす必要がでてくるのは間違いないし、その球種は「空振りをとれるような、レベルの高い球」である必要もある。

現状の田中投手の配球上の特徴は、いい意味でも悪い意味でも、「緩急をあえてつけないこと」にあると思う。

彼のスプリットには「かなりの球速」があるため、彼の「ストレート」と「スプリット」は簡単には見分けづらい。だから、日本のプロ野球の打者は、田中投手のスプリットをストレート系のタイミングで振りにいく打者が非常に多い。
そして、ランナーを出した後でもストレートに準じた球速で落ちるボールを投げられるからこそ、スプリットで簡単に空振りがとれ、簡単に三振がとれて、ピンチでも動じないでいられる。(逆にいうと、第6戦で寺内に打たれたヒットのように、ピンチの場面でスプリットを狙い打ちされると、途端に苦しくなる)

だが、中には、日本シリーズのロペスの2ランホームランのように、スプリットをストレートのタイミングで振りにいったが、スプリットがほとんど落ちなかったのがかえって幸いし、長打することに成功する打者も、少なからずいる。
田中投手のピッチングスタイルにとって、「スプリットの球速が、ストレートに比べて遅すぎないために、ストレートとスプリットを見分けづらいことに意味があり、無理に緩急をつける必要はない」のは確かであるにしても、この「緩急なし戦略」は「両刃(もろは)の剣」でもある。

ブログ主は、昔からクリフ・リーやダグ・フィスターのような「カーブを投げる投手」が大好きだが、では、緩急をつけすぎないことを逆利用してきた田中投手が今後、緩急もつけられるピッチャーに変身できるのか、カーブを有効活用するために必要な投球術を自分のものにできるか、というと、彼の「腕の振りのワンパターンさ」を見るかぎり、カーブを投げようとしたときのフォームの変化があまりにも大きくなりすぎてしまって、打者に球種を見切られそうな感じがする。それに、ある年齢に達した人間というものは、そうそう簡単に「新しい自分」に変われないものだ。

むしろ、田中投手には、今までと同じように腕を振る速度を変えないまま、違う球種を投げわけるピッチングスタイルを今後も続けられる、という意味で、2シーム、カットボール、チェンジアップなどを増やすことのほうが向いている気がする。
ただ、どうしても元アトランタのカットボール投手・川上憲伸の例を思い出してしまう。緩急の少ないタイプのアジアの投手のカットボールは、MLBで思ったほど成功を収めていないことが、どうしても気になる。また、2シームと4シームを使い分ける芸当は、どうも日本人投手に向いてない気がするし、そもそも田中投手がいま投げている2シームは、「変化の大きさ」、「キレ」、どちらをとっても「MLBでいう2シーム」ではない。
だから、彼がこれからモノにするなら「チェンジアップ」がいいような気がする。


まぁ、何にしても、田中投手が今後どういう球種を自分の持ち球に加えるかが、彼のMLBでの成功のカギを握っていると思う。


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