February 2014
February 27, 2014
(写真)第二次大戦における名誉あるアフリカ系アメリカ人パイロット、Tuskegee Airmenのひとり、Wendell Oliver Pruitt(ウェンデル・プリューイット)大尉 (1920-1945)
第二次大戦前後になってさえも残っていたアフリカ系アメリカ人に対する人種差別から、当時のアメリカ軍では、アフリカ系アメリカ人と白人との混成をできるだけ避けており、パイロットに関してもアフリカ系アメリカ人専用の育成機関と、そこを元にアフリカ系アメリカ人だけで編成された部隊を作って対応していた。
これが後に、Tuskegee Airmen(タスキーギ・エアメン)と呼ばれることになる名誉あるパイロットたちである。
彼らはアラバマ州のタスキーギ基地で訓練され、332d Expeditionary Operations Group(=第332戦闘航空群 機首と尾翼を赤く塗っていることからRed Tailsなどと呼ばれた)など、いくつかの「アフリカ系アメリカ人だけの部隊」に配属された。
Wendell PruittはRed Tailsのヨーロッパ戦線におけるエース・パイロットのひとりとして北イタリアなどで活躍し、Distinguished Flying Cross(殊勲飛行十字章)受賞。1945年にタスキーギ基地における訓練飛行中の事故で、25年の短く熱い生涯を終えている。
(ブログ注)
「タスキーギ・エアメン」について、2本の映像作品が製作されている。
"The Tuskegee Airmen" (邦題「ブラインド・ヒル」)
1995年テレビ映画。主演は、Matrix3部作や「CSI:科学捜査班」に出ていたローレンス・フィッシュバーン。
"Red Tails" (日本未公開)
2012年劇場用映画。ジョージ・ルーカス製作。1995年の "The Tuskegee Airmen" に出ていたキューバ・グッディング・ジュニア、テレンス・ハワードなどが再び出演した。
Wendell PruittがJoe "Lightning" Littleというキャラクターとして描かれていることなどでわかるように、この映画自体はフィクションの部分が多く、必ずしも史実を完全に踏襲したノンフィクションではないことに注意すべきだ。例えば「Tuskegee Airmenがエスコートした爆撃機は1機たりとも撃墜されなかった」という伝説が語られることがあるが、資料では25機が撃墜されているとされており、また、Tuskegee Airmenは戦闘機パイロットを輩出してはいない。
なお、ルーカスは製作費5800万ドル全額と配給費用3500万ドルをすべて自腹負担したが、興行収入は約5000万ドルに終わったらしい。
資料:Red Tails - Historical accuracy
と、まぁ、ここまでは書いているウェブサイトなどが探せばある。
だが、10人兄弟の末っ子としてセントルイスで生まれた彼が、なぜ狭き門を突破して「パイロットになれた」のか。その理由が、彼が卒業したミズーリ州のLincoln Universityの歴史が深く関係していることは、ほとんどどこにも書かれていない。
第二次大戦直前のイタリアやナチス・ドイツでは、国が民間の学校を利用して若いパイロットを大量養成する独特の教育システムを持っていたため、数多くの若いパイロットの養成に成功しつつあったが、それに危機感を持ったアメリカでも、それらの国のシステムに習い、民間の大学などの協力を得て、Civilian Pilot Training Program(CPTP)と呼ばれる民間パイロット訓練プログラムを実施することになり(1938-1944年)、アメリカ国内の多くの大学や専門学校が協力を申し出た。
当時のアフリカ系アメリカ人はまだ公然たる人種差別の下にあり、高度な教育も、主に「アフリカ系アメリカ人だけが通う、人種隔離された大学」でのみ行われる有様だったが、そのうちほんの少数でではあったが、CPTPのプログラムを受講して飛行ライセンスを取得することのできる大学が存在した。
Wendell Pruittが在学したLincoln University of Missouriは、まさにそうした「パイロット志望のアフリカ系アメリカ人に門戸を開いている、ほんのわずかな大学」のひとつだった。
Pruittの経歴を詳しくみると、彼は、他のタスキーギ・エアメンのようにタスキーギにおける訓練によってライセンスを取得したのではなく、既にライセンスを取得した後でタスキーギにやってきたことがわかる。
彼にそうしたキャリアが可能だった理由を知るには、CPTPの存在とその社会的な意味を知っていなければならない。タスキーギ・エアメンの華々しさだけにスポットを当てた記述や映画だけ知っているだけでは十分ではない。
アフリカ系アメリカ人の大学で、
CPTPに協力していた教育機関の例
West Virginia State College
Delaware State College
Hampton Institute
Howard University
=Toni Morrisonの出身校(1993年アフリカ系アメリカ人作家として初のノーベル文学賞受賞)
North Carolina Agricultural and Technical State College
Lincoln University(Missouri)
Lincoln University (Pennsylvania)
Tuskegee Institute
資料:Notable Black American Women, Book II
by Jessie C. Smith (1996) Publisher:Thomson Gale
整然としたTuskegee Instituteの図書館
Tuskegee Institute (1902)
さらに歴史の源流を遡ろう。
Lincoln University of Missouriは、なぜ「早い時代からアフリカ系アメリカ人を受け入れる大学」になったのか。話は南北戦争まで遡る。
イギリスから独立する前のアメリカにおいて、アフリカ系アメリカ人の反逆を恐れた白人は、彼らを軍から遠ざけ、武器を持たせなかった。たとえ戦時に臨時徴用した場合でも、非戦闘部隊に配属した。
奴隷解放を叫んだ19世紀末の南北戦争(American Civil War 1861-1865)の北軍ですら、当初はアフリカ系アメリカ人を軍から排除していた。
しかし、こうした事情は、独立戦争(1775-1783年)以降あたりから少しずつ変化してくる。「戦時のみに入隊を許す臨時の兵士」としてアフリカ系アメリカ人を軍に入隊させる例が増え、南北戦争の北軍でも1862年に方針が変わり、「アフリカ系アメリカ人を臨時の兵士として使う」というやり方が盛んに行われるようになった。
南北戦争では、アフリカ系アメリカ人だけを集めたUnited States Colored Troops(USCT, 合衆国有色人種部隊)という特殊な連隊が組織され、アメリカ史に燦然と名を残す勇猛果敢な兵士群Buffalo Soldiers(バッファロー・ソルジャーズ)も、このUSCTから生まれた。
USCT at Fort Lincoln, November 17th, 1865
南北戦争終結後になると、「平時でもアフリカ系アメリカ人を正規軍として雇用し続ける」という新しい政策が決定されたため、USCTを退役したアフリカ系アメリカ人たちの中に、アフリカ系アメリカ人を教練するための「専門学校」を作る者たちが現れた。当然ながら、これらの学校の多くは兵役につくことを前提にした専門教育を行ったため、結果的にアメリカ陸軍に多くのアフリカ系アメリカ人の人材が提供されることになった。
結果、第一次大戦期には、アメリカ陸軍に40万人ものアフリカ系アメリカ人が在籍したといわれ、戦闘部隊への参加も許されていった。
こうした南北戦争後に誕生した「USCTにルーツを持つ、アフリカ系アメリカ人のための専門学校」は、やがて「アフリカ系アメリカ人のための大学」へと成長していく。
このような「USCTにルーツを持つ、アフリカ系アメリカ人学生の多い大学」を、Historically Black Colleges and Universities(HBCUs) と呼ぶ。
名誉あるTaskegee Airmenのひとり、Wendell Pruittが在籍したLincoln University of Missouriは、まさにそうしたUSCTにルーツを持つ大学=HBCUsのひとつなのだ。
List of historically black colleges and universities - Wikipedia, the free encyclopedia
アフリカ系アメリカ人初のメジャーリーガー、ジャッキー・ロビンソンがデビューするのは、第二次大戦直後の1947年だが、彼は第二次世界大戦中に何をしていたかというと、スポーツ指導者の職を失った後で徴兵され、1942年5月にカンザス州フォートライリーで訓練を受けて陸軍少尉になっている。
ここまで書いてきたことでわかる通り、ジャッキー・ロビンソンがまがりなりに「士官になるための試験を受けることができ」、そして実際に「将校になれた」ことは、単に彼の才気や周囲の人の支えもさることながら、独立戦争以来アフリカ系アメリカ人たちが不利な条件のもとで従軍してきた歴史の積み重ねがあったからこそ達成できることだ。
なお、その後のジャッキー・ロビンソンは1944年に人種隔離の厳しいテキサス州フォートフッドへ配置転換させられている。彼はバス内で白人運転手に黒人用の座席へ移動を命じられ、移動を拒否した。結果的に無罪にはなったが、軍法会議にかけられ、ロビンソンは自ら希望して除隊。やむなくスポーツに活路を求めた。(もちろん歴史にタラレバはないが、もし彼が軍で受けた人種差別に嫌気がさして軍を飛び出し、スポーツに活路を求めるのではなく、ひとりの兵士としてそのまま生涯を終えていたら、MLB史は大きく変わっていたかもしれない。人間の人生とはわからないものだ)
独立戦争から第一次大戦にかけて「アフリカ系アメリカ人にとっての兵役」は、彼らが社会参加への最初の一歩を踏み出すためのきっかけのひとつだった。
第二次大戦における戦没で多くの男性労働力が失われたこともあって、第二次大戦後、多くのアフリカ系アメリカ人は南部から北部に移住し、工場で白人男性の代替労働者として働く機会を得た。
こうして兵役、そして工場労働へと、数少ない機会を最大限利用してアフリカ系アメリカ人が社会参加の幅を拡大する努力を積み重ねたことは、1950年代以降の公民権運動を可能にする要因のひとつになった。
言うまでもなく、「初めての社会参加」が「戦争」であったり、「兵役」であったりすることは、喜ばしいこととはいえない。それは確かだ。
だが、当時の彼らには、「数の限られた社会参加の道」しか用意されていなかった。
少なくとも、アメリカ軍におけるアフリカ系アメリカ人の歩いた道と、彼らの社会参加の発展を対比して見るかぎり、奴隷の立場から出発した彼らの歴史にとって、「軍役につくこと」、あるいは、「兵役のための教育を受けること」が、彼らと彼らの子孫にとって、社会参加への道を開き、アメリカ社会に一定の位置を占めるための「突破口」になったことは、まぎれもない事実だろうと思う。
繰り返しになるが、人と人の争いを賛美したいわけではない。
そんなこと、いうまでもない。
アフリカ系アメリカ人たちの独立戦争以来の兵役参加の歴史は、20世紀後半になってようやく人並みの自由の一部を得る前の彼らにとって、「社会参加への道が、かつてどのくらい固く閉ざされていたか」を知る手がかりのひとつであり、歴史の記念碑なのだ。
それを、半端なヒューマニズムから眺めたいとは思わない。
February 21, 2014
2020年に東京で夏季オリンピックが開催されることになったが、これは東京で何回目のオリンピックか、おわかりだろうか。
正解は「3回目」だ。
というのも、
1964年の第18回夏季オリンピックと、2020年に行われる予定の第32回夏季オリンピック以外に、第二次大戦を前に中止された1940年の第12回東京オリンピックが「みなし開催」としてカウントされるからだ。(つまり、オリンピックの開催回数は、開催自体が決定していれば、たとえ中止されても開催回数としてカウントされ、リセットされない)
開催が予定されてた東京オリンピックの返上決定を各国宛に打電した至急電の現物(1938年公文書) via 大会返上 - 歴史公文書探究サイト『ぶん蔵』 BUNZO
(左の画像)
1940年の幻の東京オリンピックで予定されていたマークのデザイン案
1940年の東京オリンピック開催がなぜ中止に至ったのか。その詳しい経緯は他サイトでも見て、自分なりに検証してみてもらいたい。(中止に至った原因は戦争のためとかいう単純な説明だけで終わる話でもない。なぜなら中止すべきという意見は外国だけでなく、日本国内にもあったからだ)
少なくとも、1940年のオリンピック招致の成功に尽力された人物が、日本人初のIOC委員(1909年就任)だった嘉納治五郎翁であったことは、ぜひ知っておいてもらいたいと思う。
日本人の歴代IOC委員:国際オリンピック委員会 - Wikipedia
「1940年の幻の東京オリンピック」がどういう開催を目指していたかについての詳細な資料は、例えば英語版Wikiに掲載されているリンクが詳しい。当該Wikiのページ下段にある "References" という項目にリンクがあるが、リンク先のpdf(英語)がなかなかいいのである。(http://library.la84.org/6oic/OfficialReports/1940/OR1940.pdf ブログ注:リンク先がpdfであるため、直リンを避けておいた)
1940 Summer Olympics - Wikipedia, the free encyclopedia
このpdfには、開催にこぎつけるまでの詳しい経緯、招致する日本側の主要メンバーの氏名や写真、さらには、予定されていた競技スケジュールの全てまでもが、資料としてきちんとまとめられている。さらに、エジプトのカイロで開かれた1938年のIOC総会の帰路、シアトルで乗船した氷川丸の船上で客死された嘉納治五郎翁のご遺体がオリンピック旗に包まれて横浜に戻ってこられたときの写真まで掲載されている。よくぞこれだけ集めたものだ。
嘉納治五郎翁を、「昔の柔道家のひとり」くらいに思ってる人が多いかもしれない。
だが、翁は日本人初のIOC委員で、「日本のスポーツの父」というべき存在であり、1940年のオリンピック招致成功も氏の功績なのである。シアトルから横浜に向かう船上で亡くなり、無言の帰国となって故国に戻ってきたご遺体が五輪旗に包まれているのは、翁の悲願であった東京での夏季五輪の招致成功に対するリスペクトを示している。
日本でもこの1940年のオリンピック招致成功が日本における初めてのオリンピック招致成功だったことを知っている人自体が減ってしまっているわけだが、1940年の五輪招致成功は、日本初どころか、「アジアで初」、そして「有色人種の国として初」という、とてつもない偉業だったのであり、このことはもっと多くの人に認識され、記憶されていい事実だと思う。
考えてみてほしい。
嘉納治五郎翁がオリンピック招致を成功させた「1930年代」という時代は、欧米以外の「独立国」自体が今よりはるかに少ない時代なのである。
欧米以外の「独立国」がそもそも少ないこの時代に、さらにIOCの国内委員会(=今の日本でいうところのJOC)をもつ独立国は、日本、中華民国(台湾)、アフガニスタン程度しかなかった。
これらの国以外にも、英領インド、米領フィリピンなど、欧米以外でIOCの国内委員会をもつ「地域」はほんのわずかにあったが、それらはいずれも1930年代当時はまだ「独立国」ではなかった。(インド独立は1947年。フィリピン独立は1946年)
つまり、当時は、欧米以外の世界の大半、とりわけアフリカとアジアは、「独立国」ではなく、「植民地」だったのである。
そんな「世界がまだ自由になれなかった時代」にあって、欧米以外の、それも、「アジア」の、「有色人種」の、しかも「独立国」が、「IOCの国内委員会」を持ち、IOCに委員を送り出していること、それ自体がいかに凄いことだったか。
そうした日本のスポーツがまだまだ困難だった時代に、嘉納翁は夏季オリンピック招致に成功しているのである。
翁の考えるスポーツの未来がどのようなものだったか、翁がオリンピック開催を通じてどんなことを目指しておられたのか、きちんと知りたくなってくる。
少なくとも世界中のスポーツ関係者に記憶し続けてもらいたいと思うことは、「オリンピックにおける有力アスリートの大半が欧米各国で占められてきた冬季オリンピックでの各種競技(フィギュア、スノーボード、カーリングなど)、あるいは、夏季競技のフェンシング(太田雄貴 注:フェンシングは夏季五輪の競技種目から一度も外れたことのない伝統ある種目のひとつ)や、馬術(西竹一)、ソフトボールなど、「欧米各国が長らくメダルを独占・寡占してきた競技」において、どれほど多くの日本人アスリートが壁に立ち向かい、風穴を開けてきたことか、ということだ。
つまり、日本のアスリートがオリンピックで残してきた足跡のある部分は、まさにオリンピックというスポーツイベントが、単に欧米だけの専有物ではなく、真の国際イベントとして近代化するための重要なステップだったのである。
だからこそ、嘉納翁が1940年のオリンピック招致の成功で達成していた「西洋の壁を破る努力」は、幻のオリンピックとして忘却されるべきではないし、いまも昔と変わらず、ほかならぬ東洋の日本において継承され続けていると、自負と自信をもっていえる。
いうまでもないことだが、
かつて1940年のオリンピックを招致するスピーチで、「日本が遠いと言う理由で五輪が来なければ、日本が欧州の五輪に出る必要はない」とまで妥協なしに言い切ったという嘉納治五郎翁は、押しも押されぬJapanese Legendなのである。
(写真)第3代IOC会長アンリ・ド・バイエ=ラトゥール氏と会談して説得にあたる日本のIOC委員・副島道正氏(副島氏は日本で4人目にあたるIOC委員。会談会場となったHotel Aldonは、ベルリンの高級ホテル。日本側が五輪招致に費やした費用は当時の円で90万円以上といわれている)
ベルギー出身のバイエ=ラトゥールは、当時ヨーロッパを覆いつつあったファシズムの圧力にも屈せずIOCの運営にあたった人物だが、当時の日本のスポーツ関係者はラトゥール氏を1936年に日本に招くなどして、正面から説得を試み、正々堂々と開催への同意をとりつけている。事態を打開し、不可能とも思える偉業を達成できたのは、現代のようにIOC委員に対する接待などではなく、粘り強い交渉によるものだ。
正解は「3回目」だ。
というのも、
1964年の第18回夏季オリンピックと、2020年に行われる予定の第32回夏季オリンピック以外に、第二次大戦を前に中止された1940年の第12回東京オリンピックが「みなし開催」としてカウントされるからだ。(つまり、オリンピックの開催回数は、開催自体が決定していれば、たとえ中止されても開催回数としてカウントされ、リセットされない)
開催が予定されてた東京オリンピックの返上決定を各国宛に打電した至急電の現物(1938年公文書) via 大会返上 - 歴史公文書探究サイト『ぶん蔵』 BUNZO
(左の画像)
1940年の幻の東京オリンピックで予定されていたマークのデザイン案
1940年の東京オリンピック開催がなぜ中止に至ったのか。その詳しい経緯は他サイトでも見て、自分なりに検証してみてもらいたい。(中止に至った原因は戦争のためとかいう単純な説明だけで終わる話でもない。なぜなら中止すべきという意見は外国だけでなく、日本国内にもあったからだ)
少なくとも、1940年のオリンピック招致の成功に尽力された人物が、日本人初のIOC委員(1909年就任)だった嘉納治五郎翁であったことは、ぜひ知っておいてもらいたいと思う。
日本人の歴代IOC委員:国際オリンピック委員会 - Wikipedia
「1940年の幻の東京オリンピック」がどういう開催を目指していたかについての詳細な資料は、例えば英語版Wikiに掲載されているリンクが詳しい。当該Wikiのページ下段にある "References" という項目にリンクがあるが、リンク先のpdf(英語)がなかなかいいのである。(http://library.la84.org/6oic/OfficialReports/1940/OR1940.pdf ブログ注:リンク先がpdfであるため、直リンを避けておいた)
1940 Summer Olympics - Wikipedia, the free encyclopedia
このpdfには、開催にこぎつけるまでの詳しい経緯、招致する日本側の主要メンバーの氏名や写真、さらには、予定されていた競技スケジュールの全てまでもが、資料としてきちんとまとめられている。さらに、エジプトのカイロで開かれた1938年のIOC総会の帰路、シアトルで乗船した氷川丸の船上で客死された嘉納治五郎翁のご遺体がオリンピック旗に包まれて横浜に戻ってこられたときの写真まで掲載されている。よくぞこれだけ集めたものだ。
嘉納治五郎翁を、「昔の柔道家のひとり」くらいに思ってる人が多いかもしれない。
だが、翁は日本人初のIOC委員で、「日本のスポーツの父」というべき存在であり、1940年のオリンピック招致成功も氏の功績なのである。シアトルから横浜に向かう船上で亡くなり、無言の帰国となって故国に戻ってきたご遺体が五輪旗に包まれているのは、翁の悲願であった東京での夏季五輪の招致成功に対するリスペクトを示している。
注:1940年の夏季五輪招致の成功においては、実は札幌での冬季五輪招致にも成功していて、もし実現していれば夏・冬の五輪同時開催だったのである。(画像は、1940年幻の札幌冬季五輪で予定されていたメダルデザイン。札幌市公文書館所蔵)
夏季同様、冬季五輪も中止され、幻の開催となったが、第二次大戦後の1972年に再度招致に成功し開催された。1964年東京五輪で使われた駒沢陸上競技場も、戸田漕艇場も、元をただせば、実は「幻の1940年東京五輪」で予定されていた競技会場であるように、日本で開催に至った1964年と1972年の2つのオリンピックには、かつて幻に終わった「1940年の2つのオリンピック」の「遺伝子」が受け継がれているのである。
オリンピックを「五輪」とする略語も、1940年の開催を前にした1936年に、読売新聞の川本信正記者によって発明された言葉。
— damejima (@damejima) 2014, 2月 20
日本でもこの1940年のオリンピック招致成功が日本における初めてのオリンピック招致成功だったことを知っている人自体が減ってしまっているわけだが、1940年の五輪招致成功は、日本初どころか、「アジアで初」、そして「有色人種の国として初」という、とてつもない偉業だったのであり、このことはもっと多くの人に認識され、記憶されていい事実だと思う。
考えてみてほしい。
嘉納治五郎翁がオリンピック招致を成功させた「1930年代」という時代は、欧米以外の「独立国」自体が今よりはるかに少ない時代なのである。
欧米以外の「独立国」がそもそも少ないこの時代に、さらにIOCの国内委員会(=今の日本でいうところのJOC)をもつ独立国は、日本、中華民国(台湾)、アフガニスタン程度しかなかった。
これらの国以外にも、英領インド、米領フィリピンなど、欧米以外でIOCの国内委員会をもつ「地域」はほんのわずかにあったが、それらはいずれも1930年代当時はまだ「独立国」ではなかった。(インド独立は1947年。フィリピン独立は1946年)
つまり、当時は、欧米以外の世界の大半、とりわけアフリカとアジアは、「独立国」ではなく、「植民地」だったのである。
(ブログ注)そしてもちろん、1940年の東京オリンピック開催が決定した1930年代末、アメリカ国内にはまだアフリカ系アメリカ人の公民権運動などまったく存在していない。1940年代の第二次大戦時どころか、1950年の朝鮮戦争時のアメリカ軍においてすら、従軍するアフリカ系アメリカ人に対する人種差別は存在した。(参照例:Tuskegee Airmen)
そんな「世界がまだ自由になれなかった時代」にあって、欧米以外の、それも、「アジア」の、「有色人種」の、しかも「独立国」が、「IOCの国内委員会」を持ち、IOCに委員を送り出していること、それ自体がいかに凄いことだったか。
そうした日本のスポーツがまだまだ困難だった時代に、嘉納翁は夏季オリンピック招致に成功しているのである。
翁の考えるスポーツの未来がどのようなものだったか、翁がオリンピック開催を通じてどんなことを目指しておられたのか、きちんと知りたくなってくる。
少なくとも世界中のスポーツ関係者に記憶し続けてもらいたいと思うことは、「オリンピックにおける有力アスリートの大半が欧米各国で占められてきた冬季オリンピックでの各種競技(フィギュア、スノーボード、カーリングなど)、あるいは、夏季競技のフェンシング(太田雄貴 注:フェンシングは夏季五輪の競技種目から一度も外れたことのない伝統ある種目のひとつ)や、馬術(西竹一)、ソフトボールなど、「欧米各国が長らくメダルを独占・寡占してきた競技」において、どれほど多くの日本人アスリートが壁に立ち向かい、風穴を開けてきたことか、ということだ。
つまり、日本のアスリートがオリンピックで残してきた足跡のある部分は、まさにオリンピックというスポーツイベントが、単に欧米だけの専有物ではなく、真の国際イベントとして近代化するための重要なステップだったのである。
だからこそ、嘉納翁が1940年のオリンピック招致の成功で達成していた「西洋の壁を破る努力」は、幻のオリンピックとして忘却されるべきではないし、いまも昔と変わらず、ほかならぬ東洋の日本において継承され続けていると、自負と自信をもっていえる。
いうまでもないことだが、
かつて1940年のオリンピックを招致するスピーチで、「日本が遠いと言う理由で五輪が来なければ、日本が欧州の五輪に出る必要はない」とまで妥協なしに言い切ったという嘉納治五郎翁は、押しも押されぬJapanese Legendなのである。
(写真)第3代IOC会長アンリ・ド・バイエ=ラトゥール氏と会談して説得にあたる日本のIOC委員・副島道正氏(副島氏は日本で4人目にあたるIOC委員。会談会場となったHotel Aldonは、ベルリンの高級ホテル。日本側が五輪招致に費やした費用は当時の円で90万円以上といわれている)
ベルギー出身のバイエ=ラトゥールは、当時ヨーロッパを覆いつつあったファシズムの圧力にも屈せずIOCの運営にあたった人物だが、当時の日本のスポーツ関係者はラトゥール氏を1936年に日本に招くなどして、正面から説得を試み、正々堂々と開催への同意をとりつけている。事態を打開し、不可能とも思える偉業を達成できたのは、現代のようにIOC委員に対する接待などではなく、粘り強い交渉によるものだ。
February 13, 2014
ソチ五輪で素晴らしいメダリストが何人も誕生しているが、月並みな賛辞を言ってもしょうがない。記念に記事でも書いて贈っておこう。
英国のダーウィニストが「世代間の文化伝達」を以下の「3パターン」に分類している。
『父親とベースボール』というシリーズ記事の根底にあった意識のひとつは、「野球」という文化が人から人へ伝達されるにおいて、『親から子へ』 という特徴的な伝達パターンがみられる、ということだった。
とりわけ20世紀初期における『野球』という文化は、日米問わず「親から子へ垂直に継承され続けてきた」という面があり、そうした「バーティカルな世代間の文化伝達」は、この100年ほどの間、野球文化の発展の基礎になってきた。
上で紹介した3つの分類に沿っていうなら、マンガ『巨人の星』で星一徹が星飛雄馬に行った文化伝達は、パターン1の「バーティカルな文化伝達」、つまり、「親子間の垂直的な文化伝達」ということになる。
日本の阪神ファンなどもまさに典型だが、「親が熱心な野球ファン」だと、その「子供」はかなりの確率で「熱心な野球ファン」になって、野球という文化が継承・伝達されてきたのである。
だからドキュメント作家ケン・バーンズが、彼の有名なドキュメンタリー作品 "BASEBALL" の制作にあたって、ベースボール史を「家族の文化」として描く視点を持ったことは非常に的確な判断だったといえる。
Damejima's HARDBALL | 2012年6月29日、『父親とベースボール』 (1)星一徹とケン・バーンズに学ぶ 『ベースボールにおける父親の重み』。
星一徹の息子に対する文化伝達手法は、あまりにも強引すぎて、伝達というより「強制」ではある(笑)
だが、ちょっと考えてみると、職人仕事であれ、古典芸能であれ、伝統の継承において「親が子に、親方が弟子に、技能習得を頭ごなしに強いることがある」のはむしろごく普通にある話であって、それはなにも、日本だけに限ったことではないし、野球だけどころか、あらゆるスポーツにみられる。
例えば、ソチ五輪でハーフパイプで銀メダリストになった平野歩夢君にしても、父親はスケートボードパークを経営するほどスポーツ熱心な方で、そういう家庭に生まれ育ち、父親の影響を強く受けて始まっている彼の人生は、文化伝達のパターンだけから見るなら、「典型的な星飛雄馬型」なのである。
たとえホリゾンタルな同世代意識が強い「横乗りスポーツ」だからといっても、本当のエキスパートは、「ホリゾンタルな同世代間の文化伝達」、平たくいえば、「仲間うちの遊び」から、自然発生的に生まれてくるわけではないのだ。
「バーティカルな文化の強制は、非民主的で保守的だからよくない。ホリゾンタルな文化伝達こそ、民主的で自由で素晴らしい」などと、硬直したことを言いたがる人がよくいる。
しかし、もともとなんの色ももたない場所に、何の根拠もなくヒューマニズムだのイデオロギーだのをもちこんで、これは善、これは悪と、むりやり善悪で色を塗り分けて「マップ化」しようとする行為は、文化を自分の考えを正しく見せかけるために利用しているだけに過ぎない。
さて、『父親とベースボール』を書いていて気がついたことのひとつは、『家族』という「システム」がいつの時代でも同じではなかったこと、「近代の家族システム」は「近代以降にできた、過去に例を見ない特殊な制度」であり、そして、『家族』という制度は近代の成立と発展において、ある種の『文化伝達装置』として重要な役割を果たしてきたということだ。
ところが近年、この近代を支えてきた家族システムに「ほころび」が生じてきている。「近代における家族」というシステムが十分な機能を果たさなくなってきているのである。
例えば、かつて『父親とベースボール』で書いたように、データでみる「アフリカ系アメリカ人におけるシングルマザー率」は非常に高い。
資料:2012年7月3日、『父親とベースボール』 (2)南北戦争100年後のアフリカ系アメリカ人の「南部回帰」と「父親不在」、そしてベースボールとの距離感。 | Damejima's HARDBALL
こうしたアフリカ系アメリカ人家庭における「父親不在」は、おそらくアフリカ系アメリカ人コミュニティが瓦解に向かう要因のひとつであり、また、ベースボールという文化が親から子へバーティカルに伝達されるのを阻害する要因にもなっていると、ブログ主はますます思うようになってきている。
アフリカ系アメリカ人とMLBのつながりが希薄になりつつあることについて、シングルマザー家庭の経済力の弱さや野球用具の価格の高さといった経済的な理由から説明を試みる人たちもいる。
記事:2012年6月11日、MLBにおけるアフリカ系アメリカ人プレーヤーの減少について書かれたテキサス大学ロースクールの記事を訳出してみた | Damejima's HARDBALL
だが、かつて寺山修司が、日本が貧しかった時代にキャッチボールが人と人の心を結びつける接着剤になった、という意味のことを言ったように、「生活の困窮」だけでは必ずしも「野球をやらない理由」や「野球を遠ざける理由」を説明できない。
ブログ主としては今のところ、「文化伝達装置としての家族が機能不全を起こしていること」が、アフリカ系アメリカ人におけるベースボール文化の継承を最も妨げている要因であるように思えてならないのである。
例えば、「テレビ」や「視聴率」にしても、それは「家庭という単位にそれぞれテレビがあること」、「テレビから家庭に向けて情報が発信されること」、「家族がテレビを見ながらメシを食うとかして、共通の話題をもち、親子が文化を共有し、文化を相互伝達しあうこと」などを前提に成立してきた。
つまり、根本をただせば「マスメディア、マスプロダクトを含む20世紀初頭に成立したマス社会そのものが、『家族という生活単位』が社会全体にまんべんなく分布・成立していて、なおかつ、家庭が安定的に機能し続けていることを前提にしていた」のである。
だから、家族という固まりが個人に細分化されていくこの時代にあって、「テレビ」だの「視聴率」だのという制度が昔のような機能を果たせなくなっているのは当然の話であり、いまさら巨人戦の視聴率を議論する時代でないのは、野球ファンの立場からいっても、当然なのだ。
そこに歴史的な必然性があるにせよ、ないにせよ、近代社会の構成単位として機能してきた「家族という構成単位」が、まるで手紙や書類をシュレッダーにかけるかのように、「個人という単位」というものに細分化されていくと、当然ながら、文化伝達のスタイルに非常に大きな影響が出る。
例えば、近代を特徴づけていた「バーティカルな親子間の文化伝達」がやや廃れていき、同時に「ホリゾンタルな同世代間の文化伝達」がよりパワーをもつようになっていく可能性は、たぶん高い。(ホリゾンタルな繋がりから成り立っているTwitterやFacebookなどのコミュニケーションツールは、まさにホリゾンタルな文化伝達の典型だ)
だが、そうだとしても、
文化というものは、世代間伝達される手法が、タテだろうと、ナナメだろうと、ヨコだろうと、そんなことよりも「伝承され続けること」そのものによって、より強くなるという面が確実にある。これを忘れてほしくない。(気を付けてほしい。伝達ではない。「伝承」だ)
1970年代のスケートボード・レジェンドのひとりShogo Kuboと平野歩夢について書いたばかりだが、両者の間に40年の歳月と世代の隔たりはあるにしても、トリックの底に流れるモチベーションにまったく差はない。
Damejima's HARDBALL | 2014年2月8日、Z-BoysのShogo Kuboからハーフパイプの平野歩夢まで、日本人横乗りライダーの40年。「写真」が追いつけないほどの平野君の「ビジョン」。
日本のノルディック複合にしても、20年前も前に悔しさを味わった荻原兄弟のような人たちが、発展を諦めることなく、Oblique(斜め)の文化伝達、つまり「親子ではない異世代間の文化伝達」に献身し続けてきてくれたことによって、日本のノルディック複合の「強い遺伝子」が途切れることなく「継承」された。
だから結局のところ、
文化を強める決め手とは、タテ・ヨコ・ナナメとかという「伝達方向」ではなくて、「積み重ねられた伝承回数」なのではないか、などと思うのである。
蛇足として、野球における文化伝達に影響を与えているアメリカの地域社会の変質について、もう少し注釈を加えておきたい。
ベースボールはアメリカ東海岸で生まれ、スケートボードのような横乗りスポーツは西海岸で発展した。確かに2つのスポーツの印象は違う。
それは「文化伝達のスタイルが、バーティカル(親子間)か、ホリゾンタル(同世代間)か」という違いからくるのではなく、むしろ、「アメリカのどこで生まれたか?」という「地域差」のほうがはるかに大きいはずだ。
例えば、ドジャースには、かつてニューヨークにあった時代にジャッキー・ロビンソンをMLBに受け入れ、そして、1958年に西海岸に移転してからも、徒手空拳でMLBにトライした野茂英雄を快く受け入れてくれた「おおらかさ」があった。そのドジャースの鷹揚な文化と、イチローを自分たちの成金文化にあくまで従わせようと必死になるヤンキースを比べれば、両者の「文化の差」は歴然としている。
こうしたヤンキースの文化的な狭量さは、ベースボール全体が抱える問題ではなく、単にヤンキース独自の問題にすぎない。ベースボールのすべてが「バーティカル」で「成金」なわけではないのである。
かつてアメリカ東海岸は、大量の移民を受け入れながら、おおらかでエネルギッシュだった時代を過ごしてきた。移民たちの膨大なエネルギーは20世紀初頭のアメリカの産業発展の基礎を担って、アメリカを大国に押し上げると同時に、MLBの発展についても多大な貢献を果たした。
ブルックリン・ドジャースやニューヨーク・ジャイアンツは、そういう時代のニューヨークで生まれ育ったチームだ。
記事:2013年11月8日、『父親とベースボール』 (8)20世紀初頭にアメリカ社会とMLBが経験した「最初の大衆化」を主導した「外野席の白人移民」の影響力 (付録:ユダヤ系移民史) | Damejima's HARDBALL
だが、サイモン&ガーファンクルが "America" という曲の歌詞で "All gone to look for America" と歌ったように、東海岸に暮らす大量の移民層は、当初こそ移民ばかりが暮らす都心のゲットー(=注:ナチスドイツ占領下のヨーロッパの「ユダヤ人ゲットー」のことではないので注意)やダウンタウンで不安定な生活に耐えつつ、近所にある「地元のボールパーク」での野球観戦などを楽しみにして暮らしていた人も多かった。
だが、やがて収入が安定し、徐々に離陸を果たして中流層になっていくと、数十万人という規模で「都心を去って郊外に移り住む人」が激増し、野球の聖地ブルックリンでさえエベッツ・フィールドに空席が目立つようになる。(ニュージャージー・ターンパイクなど、ニューヨーク周辺のフリーウェイの渋滞激化も、そうした「都心の白人たちの郊外移住と、郊外から都心に通う人々の増加」を示している)
2013年5月4日、「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。アメリカにおける「放浪」の消滅(3) サイモン&ガーファンクルの "America"の解読〜ニュージャージー・ターンパイクの渋滞の中で気づく「若者を必要としないアメリカ」 | Damejima's HARDBALL
こうした移民の質的変貌とニューヨークの変質ぶりは、例えばニューヨーク市立大学シティカレッジの輩出する人材の変化にもよく表れている。
20世紀初期、この大学は授業料が無料だったために、ヨーロッパでの迫害を命からがら逃れて来た貧しいユダヤ系移民(=下記の記事で指摘しておいた「第4波のユダヤ系移民」)が大挙して集まった。
資料:ユダヤ系移民史/2013年11月8日、『父親とベースボール』 (8)20世紀初頭にアメリカ社会とMLBが経験した「最初の大衆化」を主導した「外野席の白人移民」の影響力 (付録:ユダヤ系移民史) | Damejima's HARDBALL
ニューヨーク市立大学シティカレッジが送り出す人材の届け先は、当初はThe New York Intellectuals(=「ニューヨーク知識人」)と呼ばれるリベラルなグループだったが、やがて新・保守主義(=ネオ・コンサーバティズム、いわゆる「ネオコン」)に変わり、その翼は大きく旋回した。
彼らの指向の変化を、知的彷徨だのなんだのと褒めちぎりつつイデオロギーの上から追いかけまわすと、わけがわからなくなって道に迷うだけだが、旋回の根底にあるエネルギー源が「移民層の社会的地位の向上」であることに気付くと、話は一挙にわかりやすくなる。
簡単にいえば、「経済的離陸を果たした移民層が、社会的な地位の向上によって、考え方を大きく変えた」のである。
(残念なことに、人は社会の底辺にいれば「社会を壊せ」などといい、浮上すればこんどは「社会を守れ」などといいだす。まことにやっかいな生き物なのだ。猪瀬直樹なども、ジャーナリストだった時期と、東京都知事である時期とで、別人のようなふるまいをしていたに違いない)
こうしてアメリカ東海岸が、移民時代に培った「おおらかさ」を失い、よくある保守的な土地のひとつとしての性格を帯びていくと、東海岸の住民であるジャック・ケルアックが1940年代に古きよきアメリカを探して東海岸を抜け出し、西海岸に向かって北米横断の放浪をしたように、移民時代以前にあった昔のアメリカのおおらかな空気は、こと東海岸では、図書館の書物の中にしか存在しなくなっていく。(実は、ケルアックが放浪旅を決行したときには、アメリカ国内における「放浪という文化」はほとんど根絶やしにされつつあった)
Damejima's HARDBALL | カテゴリー : 『1958年の西海岸』 アメリカにおける放浪の消滅
Damejima's HARDBALL | 2013年5月4日、「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。アメリカにおける「放浪」の消滅(3) サイモン&ガーファンクルの "America"の解読〜ニュージャージー・ターンパイクの渋滞の中で気づく「若者を必要としないアメリカ」
ブルックリン・ドジャースとニューヨーク・ジャイアンツが新興チームであるヤンキースに押し出されるように西海岸に転出することになった背景には、こうした「20世紀以降のアメリカ社会の質的変化」が隠れているのである。
自由の女神は今もたしかにニューヨークにあり、そしてヤンキースはあいかわらずあたかも自分こそがニューヨークとMLBの盟主であるかのようにふるまいたがっている。
だが、だからといってニューヨークという街が、いつまでも永遠に本来の意味のアメリカらしさを失わず「アメリカらしい自由の象徴」であり続けているわけではない。
英国のダーウィニストが「世代間の文化伝達」を以下の「3パターン」に分類している。
Vertical (垂直:親子間の伝達)
Oblique (斜め:親子ではない異なる世代間の伝達)
Horizontal (水平:同世代間の伝達)
『父親とベースボール』というシリーズ記事の根底にあった意識のひとつは、「野球」という文化が人から人へ伝達されるにおいて、『親から子へ』 という特徴的な伝達パターンがみられる、ということだった。
とりわけ20世紀初期における『野球』という文化は、日米問わず「親から子へ垂直に継承され続けてきた」という面があり、そうした「バーティカルな世代間の文化伝達」は、この100年ほどの間、野球文化の発展の基礎になってきた。
上で紹介した3つの分類に沿っていうなら、マンガ『巨人の星』で星一徹が星飛雄馬に行った文化伝達は、パターン1の「バーティカルな文化伝達」、つまり、「親子間の垂直的な文化伝達」ということになる。
日本の阪神ファンなどもまさに典型だが、「親が熱心な野球ファン」だと、その「子供」はかなりの確率で「熱心な野球ファン」になって、野球という文化が継承・伝達されてきたのである。
だからドキュメント作家ケン・バーンズが、彼の有名なドキュメンタリー作品 "BASEBALL" の制作にあたって、ベースボール史を「家族の文化」として描く視点を持ったことは非常に的確な判断だったといえる。
Damejima's HARDBALL | 2012年6月29日、『父親とベースボール』 (1)星一徹とケン・バーンズに学ぶ 『ベースボールにおける父親の重み』。
星一徹の息子に対する文化伝達手法は、あまりにも強引すぎて、伝達というより「強制」ではある(笑)
だが、ちょっと考えてみると、職人仕事であれ、古典芸能であれ、伝統の継承において「親が子に、親方が弟子に、技能習得を頭ごなしに強いることがある」のはむしろごく普通にある話であって、それはなにも、日本だけに限ったことではないし、野球だけどころか、あらゆるスポーツにみられる。
例えば、ソチ五輪でハーフパイプで銀メダリストになった平野歩夢君にしても、父親はスケートボードパークを経営するほどスポーツ熱心な方で、そういう家庭に生まれ育ち、父親の影響を強く受けて始まっている彼の人生は、文化伝達のパターンだけから見るなら、「典型的な星飛雄馬型」なのである。
たとえホリゾンタルな同世代意識が強い「横乗りスポーツ」だからといっても、本当のエキスパートは、「ホリゾンタルな同世代間の文化伝達」、平たくいえば、「仲間うちの遊び」から、自然発生的に生まれてくるわけではないのだ。
「バーティカルな文化の強制は、非民主的で保守的だからよくない。ホリゾンタルな文化伝達こそ、民主的で自由で素晴らしい」などと、硬直したことを言いたがる人がよくいる。
しかし、もともとなんの色ももたない場所に、何の根拠もなくヒューマニズムだのイデオロギーだのをもちこんで、これは善、これは悪と、むりやり善悪で色を塗り分けて「マップ化」しようとする行為は、文化を自分の考えを正しく見せかけるために利用しているだけに過ぎない。
さて、『父親とベースボール』を書いていて気がついたことのひとつは、『家族』という「システム」がいつの時代でも同じではなかったこと、「近代の家族システム」は「近代以降にできた、過去に例を見ない特殊な制度」であり、そして、『家族』という制度は近代の成立と発展において、ある種の『文化伝達装置』として重要な役割を果たしてきたということだ。
ブログ注:
「古代ギリシアにだって、アリストテレスのいう「オイコス」のような「家庭」があったように、『家庭』なんてどんな時代にもあっただろ」と、議論を吹っ掛けたくなる人もいるだろう。
だが、ここではまだ詳しく書かないが、その議論はまるで的外れだ。
なぜなら、古代ギリシアに限らず、近代以外における「家族」というものは「共同性の維持」を前提にして成立している。他方、「近代における家庭」は、内部に風呂から台所まで、あらゆる「装備」が内蔵され、共同体から独立して存在する特殊な閉鎖空間、いわば「家族だけのシェルター」なのであって、コミュニティーの共同性維持を、実はまったく前提にしていない。この点において、「近代における家庭」は、それまでの時代のものとは全く違う、特別な存在なのだ。
ところが近年、この近代を支えてきた家族システムに「ほころび」が生じてきている。「近代における家族」というシステムが十分な機能を果たさなくなってきているのである。
例えば、かつて『父親とベースボール』で書いたように、データでみる「アフリカ系アメリカ人におけるシングルマザー率」は非常に高い。
資料:2012年7月3日、『父親とベースボール』 (2)南北戦争100年後のアフリカ系アメリカ人の「南部回帰」と「父親不在」、そしてベースボールとの距離感。 | Damejima's HARDBALL
こうしたアフリカ系アメリカ人家庭における「父親不在」は、おそらくアフリカ系アメリカ人コミュニティが瓦解に向かう要因のひとつであり、また、ベースボールという文化が親から子へバーティカルに伝達されるのを阻害する要因にもなっていると、ブログ主はますます思うようになってきている。
アフリカ系アメリカ人とMLBのつながりが希薄になりつつあることについて、シングルマザー家庭の経済力の弱さや野球用具の価格の高さといった経済的な理由から説明を試みる人たちもいる。
記事:2012年6月11日、MLBにおけるアフリカ系アメリカ人プレーヤーの減少について書かれたテキサス大学ロースクールの記事を訳出してみた | Damejima's HARDBALL
だが、かつて寺山修司が、日本が貧しかった時代にキャッチボールが人と人の心を結びつける接着剤になった、という意味のことを言ったように、「生活の困窮」だけでは必ずしも「野球をやらない理由」や「野球を遠ざける理由」を説明できない。
ブログ主としては今のところ、「文化伝達装置としての家族が機能不全を起こしていること」が、アフリカ系アメリカ人におけるベースボール文化の継承を最も妨げている要因であるように思えてならないのである。
例えば、「テレビ」や「視聴率」にしても、それは「家庭という単位にそれぞれテレビがあること」、「テレビから家庭に向けて情報が発信されること」、「家族がテレビを見ながらメシを食うとかして、共通の話題をもち、親子が文化を共有し、文化を相互伝達しあうこと」などを前提に成立してきた。
つまり、根本をただせば「マスメディア、マスプロダクトを含む20世紀初頭に成立したマス社会そのものが、『家族という生活単位』が社会全体にまんべんなく分布・成立していて、なおかつ、家庭が安定的に機能し続けていることを前提にしていた」のである。
だから、家族という固まりが個人に細分化されていくこの時代にあって、「テレビ」だの「視聴率」だのという制度が昔のような機能を果たせなくなっているのは当然の話であり、いまさら巨人戦の視聴率を議論する時代でないのは、野球ファンの立場からいっても、当然なのだ。
そこに歴史的な必然性があるにせよ、ないにせよ、近代社会の構成単位として機能してきた「家族という構成単位」が、まるで手紙や書類をシュレッダーにかけるかのように、「個人という単位」というものに細分化されていくと、当然ながら、文化伝達のスタイルに非常に大きな影響が出る。
例えば、近代を特徴づけていた「バーティカルな親子間の文化伝達」がやや廃れていき、同時に「ホリゾンタルな同世代間の文化伝達」がよりパワーをもつようになっていく可能性は、たぶん高い。(ホリゾンタルな繋がりから成り立っているTwitterやFacebookなどのコミュニケーションツールは、まさにホリゾンタルな文化伝達の典型だ)
だが、そうだとしても、
文化というものは、世代間伝達される手法が、タテだろうと、ナナメだろうと、ヨコだろうと、そんなことよりも「伝承され続けること」そのものによって、より強くなるという面が確実にある。これを忘れてほしくない。(気を付けてほしい。伝達ではない。「伝承」だ)
1970年代のスケートボード・レジェンドのひとりShogo Kuboと平野歩夢について書いたばかりだが、両者の間に40年の歳月と世代の隔たりはあるにしても、トリックの底に流れるモチベーションにまったく差はない。
Damejima's HARDBALL | 2014年2月8日、Z-BoysのShogo Kuboからハーフパイプの平野歩夢まで、日本人横乗りライダーの40年。「写真」が追いつけないほどの平野君の「ビジョン」。
日本のノルディック複合にしても、20年前も前に悔しさを味わった荻原兄弟のような人たちが、発展を諦めることなく、Oblique(斜め)の文化伝達、つまり「親子ではない異世代間の文化伝達」に献身し続けてきてくれたことによって、日本のノルディック複合の「強い遺伝子」が途切れることなく「継承」された。
だから結局のところ、
文化を強める決め手とは、タテ・ヨコ・ナナメとかという「伝達方向」ではなくて、「積み重ねられた伝承回数」なのではないか、などと思うのである。
蛇足として、野球における文化伝達に影響を与えているアメリカの地域社会の変質について、もう少し注釈を加えておきたい。
ベースボールはアメリカ東海岸で生まれ、スケートボードのような横乗りスポーツは西海岸で発展した。確かに2つのスポーツの印象は違う。
それは「文化伝達のスタイルが、バーティカル(親子間)か、ホリゾンタル(同世代間)か」という違いからくるのではなく、むしろ、「アメリカのどこで生まれたか?」という「地域差」のほうがはるかに大きいはずだ。
例えば、ドジャースには、かつてニューヨークにあった時代にジャッキー・ロビンソンをMLBに受け入れ、そして、1958年に西海岸に移転してからも、徒手空拳でMLBにトライした野茂英雄を快く受け入れてくれた「おおらかさ」があった。そのドジャースの鷹揚な文化と、イチローを自分たちの成金文化にあくまで従わせようと必死になるヤンキースを比べれば、両者の「文化の差」は歴然としている。
こうしたヤンキースの文化的な狭量さは、ベースボール全体が抱える問題ではなく、単にヤンキース独自の問題にすぎない。ベースボールのすべてが「バーティカル」で「成金」なわけではないのである。
かつてアメリカ東海岸は、大量の移民を受け入れながら、おおらかでエネルギッシュだった時代を過ごしてきた。移民たちの膨大なエネルギーは20世紀初頭のアメリカの産業発展の基礎を担って、アメリカを大国に押し上げると同時に、MLBの発展についても多大な貢献を果たした。
ブルックリン・ドジャースやニューヨーク・ジャイアンツは、そういう時代のニューヨークで生まれ育ったチームだ。
記事:2013年11月8日、『父親とベースボール』 (8)20世紀初頭にアメリカ社会とMLBが経験した「最初の大衆化」を主導した「外野席の白人移民」の影響力 (付録:ユダヤ系移民史) | Damejima's HARDBALL
だが、サイモン&ガーファンクルが "America" という曲の歌詞で "All gone to look for America" と歌ったように、東海岸に暮らす大量の移民層は、当初こそ移民ばかりが暮らす都心のゲットー(=注:ナチスドイツ占領下のヨーロッパの「ユダヤ人ゲットー」のことではないので注意)やダウンタウンで不安定な生活に耐えつつ、近所にある「地元のボールパーク」での野球観戦などを楽しみにして暮らしていた人も多かった。
だが、やがて収入が安定し、徐々に離陸を果たして中流層になっていくと、数十万人という規模で「都心を去って郊外に移り住む人」が激増し、野球の聖地ブルックリンでさえエベッツ・フィールドに空席が目立つようになる。(ニュージャージー・ターンパイクなど、ニューヨーク周辺のフリーウェイの渋滞激化も、そうした「都心の白人たちの郊外移住と、郊外から都心に通う人々の増加」を示している)
2013年5月4日、「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。アメリカにおける「放浪」の消滅(3) サイモン&ガーファンクルの "America"の解読〜ニュージャージー・ターンパイクの渋滞の中で気づく「若者を必要としないアメリカ」 | Damejima's HARDBALL
こうした移民の質的変貌とニューヨークの変質ぶりは、例えばニューヨーク市立大学シティカレッジの輩出する人材の変化にもよく表れている。
20世紀初期、この大学は授業料が無料だったために、ヨーロッパでの迫害を命からがら逃れて来た貧しいユダヤ系移民(=下記の記事で指摘しておいた「第4波のユダヤ系移民」)が大挙して集まった。
資料:ユダヤ系移民史/2013年11月8日、『父親とベースボール』 (8)20世紀初頭にアメリカ社会とMLBが経験した「最初の大衆化」を主導した「外野席の白人移民」の影響力 (付録:ユダヤ系移民史) | Damejima's HARDBALL
ニューヨーク市立大学シティカレッジが送り出す人材の届け先は、当初はThe New York Intellectuals(=「ニューヨーク知識人」)と呼ばれるリベラルなグループだったが、やがて新・保守主義(=ネオ・コンサーバティズム、いわゆる「ネオコン」)に変わり、その翼は大きく旋回した。
彼らの指向の変化を、知的彷徨だのなんだのと褒めちぎりつつイデオロギーの上から追いかけまわすと、わけがわからなくなって道に迷うだけだが、旋回の根底にあるエネルギー源が「移民層の社会的地位の向上」であることに気付くと、話は一挙にわかりやすくなる。
簡単にいえば、「経済的離陸を果たした移民層が、社会的な地位の向上によって、考え方を大きく変えた」のである。
(残念なことに、人は社会の底辺にいれば「社会を壊せ」などといい、浮上すればこんどは「社会を守れ」などといいだす。まことにやっかいな生き物なのだ。猪瀬直樹なども、ジャーナリストだった時期と、東京都知事である時期とで、別人のようなふるまいをしていたに違いない)
こうしてアメリカ東海岸が、移民時代に培った「おおらかさ」を失い、よくある保守的な土地のひとつとしての性格を帯びていくと、東海岸の住民であるジャック・ケルアックが1940年代に古きよきアメリカを探して東海岸を抜け出し、西海岸に向かって北米横断の放浪をしたように、移民時代以前にあった昔のアメリカのおおらかな空気は、こと東海岸では、図書館の書物の中にしか存在しなくなっていく。(実は、ケルアックが放浪旅を決行したときには、アメリカ国内における「放浪という文化」はほとんど根絶やしにされつつあった)
Damejima's HARDBALL | カテゴリー : 『1958年の西海岸』 アメリカにおける放浪の消滅
Damejima's HARDBALL | 2013年5月4日、「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。アメリカにおける「放浪」の消滅(3) サイモン&ガーファンクルの "America"の解読〜ニュージャージー・ターンパイクの渋滞の中で気づく「若者を必要としないアメリカ」
ブルックリン・ドジャースとニューヨーク・ジャイアンツが新興チームであるヤンキースに押し出されるように西海岸に転出することになった背景には、こうした「20世紀以降のアメリカ社会の質的変化」が隠れているのである。
自由の女神は今もたしかにニューヨークにあり、そしてヤンキースはあいかわらずあたかも自分こそがニューヨークとMLBの盟主であるかのようにふるまいたがっている。
だが、だからといってニューヨークという街が、いつまでも永遠に本来の意味のアメリカらしさを失わず「アメリカらしい自由の象徴」であり続けているわけではない。
「90年代からすでに(ニューヨークの)保守化は進んでいるよ。ジュリアーニが市長になってからはずっとそう。今のNYは昔よりもずっと安全なぶん、ずっと退屈。ただの金持ちのための街になってしまった。」
----ジェームズ・チャンス(ミュージシャン)
February 09, 2014
(キャプション)ボードの裏側にクロスする形で書かれた "Dog Town" という文字が見える。1967年に閉園したサンタモニカのPacific Ocean Parkを、ローカルの人たちは "Dog Town" と呼び、Z-Boysのメンバーたちの遊び場のひとつだった。
-------------------------------------------
実をいうと、この写真、いつも見ているのである(笑)
たぶん見ない週はないと思う。
そして、見るたびに毎回毎回
「カッコいい・・・・!!」と、
脳がため息をつく。何度見ても、色褪せたことがない。
しかも何度見ても、見るたびに、スケートボードのタイヤがプールの壁を駆け上がっていくときのベアリングの軋む音すら「聞こえる」のである。
写真を見ることは、趣味のひとつといっていいくらい好きだ。だが、見るたびに毎回カッコいいと思える写真なんて、多くない。古いボールパークの写真もよく見ているが、だからといって、カッコいいという感情だけで見ているわけではない。資料として見ている部分もある。
ところがこの写真は、見るたびに、ただひたすらカッコいいとしか思えないで眺めているのである。
-------------------------------------------
被写体は、Shogo Kubo(=久保祥吾さん)という方だ。
1975年にカリフォルニアでできた伝説のスケートボードチーム、Z-Boysのオリジナルメンバーで、スケートボード・レジェンドのひとりだ。
Z-Boys - Wikipedia, the free encyclopedia
Z-Boysのメンバーには「それぞれのロゴマーク」があり、これはShogo Kuboさんを表すロゴ
Z-Boysがどういう存在だったかについては、門外漢が言うウロ覚えの間違った話を聞くより、ネットでカッコいい写真を漁ってもらうなり、Z-BoysのメンバーStacy Peraltaが作った映画 "Lords of Dogtown" でも見てもらうなりして調べてもらったほうがいい。
ひとつだけ言えることは、スケートボーダーやサーファー、スノーボーダーをはじめとする「横乗り系スポーツのライダー」に、「翼」を与え、空中を飛べるきっかけのひとつを作ったのが、Z-Boysだということだ。
(もっと具体的にいうなら、彼らが空いている家庭用のプールの滑らかなフェイスを利用してスケーティングするテクニックを開拓したことで、横乗りスポーツのスピード感やトリックの可能性が急激に拡大された。それまでのスケートボーディングはスローに行うフィギュアスケートのようなものだった)
-------------------------------------------
ただ、あらかじめ断っておきたい。
Z-Boysのスケーティングのスピード感は、「写真」から想像するのと、「動画」で見るのとで、まったく違う。というのは、当時のスケートボーダーの実際の速度は、「写真から想像するイメージ」よりも、「ずっと遅い」からだ。
しかし、写真で切り取ったスピードが動画よりはるかにスピーディーに見えるという事実こそが、むしろZ-Boysのスケーティングの「クリエイティビティ」を如実に表現してくれているといえる。
なぜなら、Z-Boysが表現したのは可能性という意味の「刹那」だからだ。
-------------------------------------------
仮に速度というものに、「静止画的スピード」と「動画的スピード」があるとする。
「動画的スピード」というものは、テクノロジーの発達によって、ほかっておいてもどんどん「速く」なっていく。例えば、自動車の最高速度というものは、テクノロジーの発達によって年々早くなっていく。
では、速度の向上によって、よりクルマが静止画で見ても速く見えるようにはなっていくかというと、そうはならない。
むしろ、今のクルマは、昔のクルマより物理的な速度では速く走れるが、それと静止画で見ると、速くなったように見えないどころか、まるで止まっているかのように見えることすらある。
瞬間瞬間でみると、かえって最高速度が今よりずっと遅かった時代の流線型のクルマが全力疾走する姿のほうが、速く見える。
「静止画的スピード」が、「動画的スピード」(別の言い方をするなら「物理的な速度」)を凌駕し、はるかに「速く見える」ことは、人間の歴史において往々にしてあるのである。
-------------------------------------------
なぜ、「静止画的スピード」が、「動画的スピード」を凌駕することがあるのか。Z-Boysの例でちょっと考えてみた。
Z-Boysを撮った写真に写っているのは、「スピード」だけでない。
単なるスポーツ写真を越えた、「彼らの日常のライフスタイルの『自由さ』」、「彼らに聞こえているはずの『音』」、「彼らが仲間に向ける『スマイル』」がそこにはあって、静止画だというのに見る者の文字通り五感にありありと訴えてくる。(例えば以下に挙げたリンク先の写真。どれもこれも素晴らしい)
THE UNLOCKING OF AMERICA’S CEMENT PLAYGROUND | DOGTOWN & Z-BOYS | Bar Hopper Challenge.com
つまり、Z-Boysのスケーターたちを撮った静止画には、彼らが表現しようとしている「刹那」が写っているのだ。そして、その「刹那」には、ものすごく多彩な「未来で花開く可能性」が詰め込まれている。それが見る人にハッキリ伝わってくる。(実際、当時の彼らがプールでのスケーティングで産みだした技術のほとんどは、現在のスケートボード、サーフィン、スノーボードをはじめとする「横乗り系スポーツ」に継承されて、さらなる発展が続けられている)
つまり、手作りコンピューターをガレージで発売した若き時代のスティーブ・ジョブズに見えていた「ビジョン」が未来の可能性に溢れていたのと同じように、当時のZ-Boysに見えていた「ビジョン」には「未来で花開く多彩な可能性」がひそんでいた、ということだ。
そうした「ビジョン」が、人間の目に「静止画のスピード感」として映るのではないか。
(こうした「ビジョン」は、必ずしも「動画的スピード」では判別できない。例えば、ジョブズの発売した初期のパソコンは「経済性という視点だけからしかみない人」には、幼稚すぎるガラクタにしかみえなかった)
Z-Boysのみせてくれた「新しいビジョン」は、「人間に翼を与える行為」だったといっていいと思う。
-------------------------------------------
これらは、ソチ五輪でスノーボード・ハーフパイプに出場し、有力なメダル候補になっている若き天才平野歩夢君の写真だ。
引用しておいて言うのもなんだが、残念なことに、ここに挙げた2枚の写真も含めて、ネットに流通している写真のほとんど全部が、彼の「スケール感」、彼の「スピード感」をまるで表現しきれていない。平野君のプレーを一度でも見たことがある人は理解できると思うが、彼の「キレ」はこんなもんじゃない。
最初に引用したShogo Kuboの写真と見比べてみてもらいたい。明らかに40年前のShogo Kuboの写真のほうが、はるかに「スピード感」に溢れている。
なぜこんなことが起きるのだろう。
可能性はいくつかある。
1)平野君の「現在」にはまだ、この記事で説明してきた「静止画的スピードによってしか表現できない、未来ビジョン」が欠けている。
2)フォトグラファー側に、平野君の凄さを静止画で表現しきるために必要な、新しい技術、新しいテクノロジーがまったく備わっていない。
3)スノーボードがうまくないフォトグラファーが撮っている
4)平野君は、とうとう出現した「動画的スピード感でしか表現できないアスリート」である。
選択肢の1番が「わざと挙げたもの」であることは、もうおわかりだろう。ブログ主としては、2番から4番を、「平野君を撮った写真にロクなのがない理由」として挙げておきたい。
ならば、かつてZ-Boysを撮った人が、なぜあんな素晴らしい写真を撮れたのか。それについては自分なりに把握している。
それは、撮影者が、普段からZ-BoysでShogo Kuboと一緒に遊んでいる誰かであり、一緒に遊び、同じ時代を生きていた仲間が撮ったから撮れたのだと思う。
仲間は、例えばShogoがプールのどこで、どういうトリックを見せ、どこで最もカッコいいと感じるかを、同時に感じとることができる。そうした「ビジョンの共有」が存在しなければ、「決定的な刹那」にシャッターを切ることなんてできない。
少なくとも、今まで平野君を撮ってきた人たちはまだ、「平野君が感じているビジョン」をきちんと共有できていないと思う。
それにしても、ハーフパイプの中継は、ディレクターもダメなら、カメラマンもダメときてる。選手がトリックを決めた瞬間が撮れないのは日常茶飯事、フレームアウトするのもザラ。馬鹿かといいたい。Xゲームのスタッフを連れてこいっつうの。
— damejima (@damejima) 2014, 2月 11
February 03, 2014
引退したマイケル・ヤングについて、FoxNews.comのライターが "Michael Young: A poor man's Derek Jeter " と題する記事を書いている。日本語に訳せば、「劣化版デレク・ジーターのマイケル・ヤング」という意味だ。
Rounding Third: Michael Young: A poor man's Derek Jeter | Fox News
書いたやつは出てこい。と、言いたい。馬鹿野郎。
どこを見てモノを言ってるんだ。わかってないにも程がある。
ヒットの本数や打率などを比べる程度の議論で、何がわかる。こういうくだらない記事を書くときに限って無記名記事にしやがる。引退する名プレーヤーの業績を矮小化する記事を書くときくらい、記名記事にしやがれ。
---------------------------------------------
マイケル・ヤングはデビュー当時、二塁手だった。
彼が1997年ドラフトでMLBに入ったのは、テキサスではなくトロントだ。トロントのマイナーでセカンドを守り、その後トレード移籍したテキサスで二塁手としてメジャーデビューを果たした。
ヤングのMLBデビュー時、テキサスのショートには守備でも名手と評価されていたアレックス・ロドリゲスがおり、ヤングはAロッドとの二遊間守備から多くを吸収した。
2004年、マイケル・ヤングは志願して遊撃手になった。
彼は2008年まで腐ることなくショートを守り、2008年についに遊撃手としてゴールドグラブを手にした。また彼は、遊撃手だった2004年から2007年までの間、4シーズン連続でシーズン200安打を達成して気を吐いた。
彼が遊撃手に志願したのは、ヤンキースとのトレードでショートを守るAロッドが去り、かわりにヤンキースの二塁手だったアルフォンソ・ソリアーノがテキサスにやってきたからだ。
マイケル・ヤングはチームのためを思い、二塁手から遊撃手へのコンバートを志願した。テキサス在籍中のソリアーノは2004年〜2005年にセカンドを守り、その間、何の問題も起こさなかった。
その後ソリアーノは2006年、トレードでナショナルズに移籍するが、そこで大きなトラブルを起こしている。外野手へのコンバートというチーム方針を嫌がって出場拒否したのだ。ソリアーノは結果的にコンバートを受け入れたが、この2006年のトラブル以降、緊急措置で守備する場合を除いて、ソリアーノがMLBで内野守備につく機会そのものが消滅した。
2006年、二塁手ソリアーノがトレードでいなくなったが、マイケル・ヤングは二塁手に戻れなかった。
というのも、テキサスがセカンドをまかせたのは、もともと二塁手だったマイケル・ヤングではなく、新人イアン・キンズラーだったからだ。
だが、マイケル・ヤングは腐ることなく、二塁手の先輩として、打力は十分だが守備に不安のあるキンズラーに、さまざまな守備面のアドバイスを惜しまなかった。(ブログ主に言わせれば、「劣化版デレク・ジーター」といえるのは、マイケル・ヤングではなく、守備に不安のあるイアン・キンズラーだ)
2009年、マイケル・ヤングは三塁手になった。新人エルビス・アンドラスに遊撃手を譲ったのだ。
度重なるコンバートに、さすがのマイケル・ヤングもブチ切れて、チームにトレードを志願した。だが、最終的にはヤング側が折れた。
それでも彼は、ストレスのたまる2009シーズンに打率.322を打ち、6年連続オールスターに出場を果たしている。さすがというほかない。
2011年、マイケル・ヤングはDHになった。チームが名三塁手と名高いエイドリアン・ベルトレを獲得してきたからだ。
当然のことだが、忍耐強いマイケル・ヤングの堪忍袋はもはや完全にブチ切れてしまい、チームにトレードを強く志願した。だが、またしてもヤング側が折れることで事態は決着した。それでも彼は、2011シーズンに自己最高打率.338、キャリア6度目のシーズン200安打となる213安打をマークしている。
その後、マイケル・ヤングは2011年2012年と、40試合前後で一塁手としてスターターをつとめるなど、DH兼内野のユーティリティという立場に甘んじることになった。
Fangraphなどでみると彼の守備評価点はマイナス79.4と、MLB最低クラスになっているが、これは主にDH兼ユーティリティに回された2011年以降の数字があまりにも悪いためであって、彼の守備が最悪なわけではない。
(ちなみに、同じ2000年から2013年でライトの守備をみると、グティエレス68.3に続いてイチローが67.0で第2位。グティエレスの数字はほとんどがセンターとしての評価だから、ライトではイチローが1位。少なくともイチローが引退したとき、守備でデレク・ジーターと比較されることは全くありえない)
2012年、マイケル・ヤングは、ついにテキサスを去った。
マイケル・ヤングが去る直前、テキサスの内野陣は、キンズラー、アンドラス、ベルトレと、まさにヤングの長年の忍耐が育んだラインアップとなり、チームは2010年2011年と、2度のワールドシリーズ進出に成功した。
だが、マイケル・ヤングのいなくなった2012年のテキサスは、シーズン終了直前、予算の少ないオークランドに地区優勝をさらわれることになった。そしてテキサスは結局二塁手イアン・キンズラーをデトロイトに手放した。
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テキサス・レンジャーズというチームは近年、2010年・2011年と、2シーズン続けてワールドシリーズに進出し、ア・リーグ屈指の有力チーム、ポストシーズン常連チームのひとつとみなされるようになってきたわけだが、こうしてあらためて振り返ってみれば、テキサスの攻守の戦力の基礎となる内野の不動のレギュラーたちが、ひとつにはマイケル・ヤングの度重なる妥協のおかげで整備できたことは、火を見るより明らかだ。
例えば、これと同じ意味の検証を、ヤンキースの内野陣の崩壊とデレク・ジーターについて見てみてもらいたい。そうすればマイケル・ヤングが「劣化版デレク・ジーター」などではないことなど、簡単にハッキリする。
参考記事:
Damejima's HARDBALL:2013年8月5日、「生え抜きの成長、黄金期、ステロイド、そして衰退」 正しいヤンキース30年史。
Damejima's HARDBALL:2013年9月19日、「2000年代中期までのドラフト上位指名の成果」と、「2010年代の選手層の厚み」との関係。「もともと育ちの悪かった植物」に、突然、大量の肥料を与えだしたヤンキース。
Damejima's HARDBALL:2013年9月25日、ポジション別wOBAからみた平均的なチーム編成と、かつてのヤンキースの特殊構造との比較。その「アドヴァンテージ」を実はまるで理解していなかった2013ヤンキースの編成の崩壊。
Damejima's HARDBALL:2013年10月5日、「2012年9月」に表面化していた長期的問題に対する対応を完全に間違えたヤンキース。
よくデレク・ジーターをほめちぎりたがるヤンキースファンやメディアのライターがいるわけだが、マイケル・ヤングの引退までのチームへの献身ぶりやチーム成績の向上ぶりと比較するなら、近年のデレク・ジーターの「キャプテンシー」なるものが、近年のヤンキースの内野の崩壊ぶりでわかるように「実は、チームの結束にとって、それほど効果はなかった」ことが明確にわかるはずだ。
もう一度、ハッキリ書いておく。
マイケル・ヤングがチームに「残した」功績は、無記名記事を書くライター風情に劣化版デレク・ジーターなどと公然と呼ばれるような、スケールの小さいものではない。
「マイケル・ヤングがテキサスに残していったもの」は、在籍時の守備貢献だけでも、在籍時のバッティングの数字だけでもない。移籍選手がチームに残してくれたものだってあるのだ。
そんなことさえわからずに、「マイケル・ヤングがデレク・ジーターに勝っていたのは、アヴェレージ・ヒッターとしてヒットを打つ能力だけ」なとと、軽はずみな文章を書くライターに、敬意など必要ない。
Rounding Third: Michael Young: A poor man's Derek Jeter | Fox News
書いたやつは出てこい。と、言いたい。馬鹿野郎。
どこを見てモノを言ってるんだ。わかってないにも程がある。
ヒットの本数や打率などを比べる程度の議論で、何がわかる。こういうくだらない記事を書くときに限って無記名記事にしやがる。引退する名プレーヤーの業績を矮小化する記事を書くときくらい、記名記事にしやがれ。
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マイケル・ヤングはデビュー当時、二塁手だった。
彼が1997年ドラフトでMLBに入ったのは、テキサスではなくトロントだ。トロントのマイナーでセカンドを守り、その後トレード移籍したテキサスで二塁手としてメジャーデビューを果たした。
ヤングのMLBデビュー時、テキサスのショートには守備でも名手と評価されていたアレックス・ロドリゲスがおり、ヤングはAロッドとの二遊間守備から多くを吸収した。
2004年、マイケル・ヤングは志願して遊撃手になった。
彼は2008年まで腐ることなくショートを守り、2008年についに遊撃手としてゴールドグラブを手にした。また彼は、遊撃手だった2004年から2007年までの間、4シーズン連続でシーズン200安打を達成して気を吐いた。
彼が遊撃手に志願したのは、ヤンキースとのトレードでショートを守るAロッドが去り、かわりにヤンキースの二塁手だったアルフォンソ・ソリアーノがテキサスにやってきたからだ。
マイケル・ヤングはチームのためを思い、二塁手から遊撃手へのコンバートを志願した。テキサス在籍中のソリアーノは2004年〜2005年にセカンドを守り、その間、何の問題も起こさなかった。
その後ソリアーノは2006年、トレードでナショナルズに移籍するが、そこで大きなトラブルを起こしている。外野手へのコンバートというチーム方針を嫌がって出場拒否したのだ。ソリアーノは結果的にコンバートを受け入れたが、この2006年のトラブル以降、緊急措置で守備する場合を除いて、ソリアーノがMLBで内野守備につく機会そのものが消滅した。
2006年、二塁手ソリアーノがトレードでいなくなったが、マイケル・ヤングは二塁手に戻れなかった。
というのも、テキサスがセカンドをまかせたのは、もともと二塁手だったマイケル・ヤングではなく、新人イアン・キンズラーだったからだ。
だが、マイケル・ヤングは腐ることなく、二塁手の先輩として、打力は十分だが守備に不安のあるキンズラーに、さまざまな守備面のアドバイスを惜しまなかった。(ブログ主に言わせれば、「劣化版デレク・ジーター」といえるのは、マイケル・ヤングではなく、守備に不安のあるイアン・キンズラーだ)
2009年、マイケル・ヤングは三塁手になった。新人エルビス・アンドラスに遊撃手を譲ったのだ。
度重なるコンバートに、さすがのマイケル・ヤングもブチ切れて、チームにトレードを志願した。だが、最終的にはヤング側が折れた。
それでも彼は、ストレスのたまる2009シーズンに打率.322を打ち、6年連続オールスターに出場を果たしている。さすがというほかない。
2011年、マイケル・ヤングはDHになった。チームが名三塁手と名高いエイドリアン・ベルトレを獲得してきたからだ。
当然のことだが、忍耐強いマイケル・ヤングの堪忍袋はもはや完全にブチ切れてしまい、チームにトレードを強く志願した。だが、またしてもヤング側が折れることで事態は決着した。それでも彼は、2011シーズンに自己最高打率.338、キャリア6度目のシーズン200安打となる213安打をマークしている。
その後、マイケル・ヤングは2011年2012年と、40試合前後で一塁手としてスターターをつとめるなど、DH兼内野のユーティリティという立場に甘んじることになった。
Fangraphなどでみると彼の守備評価点はマイナス79.4と、MLB最低クラスになっているが、これは主にDH兼ユーティリティに回された2011年以降の数字があまりにも悪いためであって、彼の守備が最悪なわけではない。
(ちなみに、同じ2000年から2013年でライトの守備をみると、グティエレス68.3に続いてイチローが67.0で第2位。グティエレスの数字はほとんどがセンターとしての評価だから、ライトではイチローが1位。少なくともイチローが引退したとき、守備でデレク・ジーターと比較されることは全くありえない)
2012年、マイケル・ヤングは、ついにテキサスを去った。
マイケル・ヤングが去る直前、テキサスの内野陣は、キンズラー、アンドラス、ベルトレと、まさにヤングの長年の忍耐が育んだラインアップとなり、チームは2010年2011年と、2度のワールドシリーズ進出に成功した。
だが、マイケル・ヤングのいなくなった2012年のテキサスは、シーズン終了直前、予算の少ないオークランドに地区優勝をさらわれることになった。そしてテキサスは結局二塁手イアン・キンズラーをデトロイトに手放した。
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テキサス・レンジャーズというチームは近年、2010年・2011年と、2シーズン続けてワールドシリーズに進出し、ア・リーグ屈指の有力チーム、ポストシーズン常連チームのひとつとみなされるようになってきたわけだが、こうしてあらためて振り返ってみれば、テキサスの攻守の戦力の基礎となる内野の不動のレギュラーたちが、ひとつにはマイケル・ヤングの度重なる妥協のおかげで整備できたことは、火を見るより明らかだ。
例えば、これと同じ意味の検証を、ヤンキースの内野陣の崩壊とデレク・ジーターについて見てみてもらいたい。そうすればマイケル・ヤングが「劣化版デレク・ジーター」などではないことなど、簡単にハッキリする。
参考記事:
Damejima's HARDBALL:2013年8月5日、「生え抜きの成長、黄金期、ステロイド、そして衰退」 正しいヤンキース30年史。
Damejima's HARDBALL:2013年9月19日、「2000年代中期までのドラフト上位指名の成果」と、「2010年代の選手層の厚み」との関係。「もともと育ちの悪かった植物」に、突然、大量の肥料を与えだしたヤンキース。
Damejima's HARDBALL:2013年9月25日、ポジション別wOBAからみた平均的なチーム編成と、かつてのヤンキースの特殊構造との比較。その「アドヴァンテージ」を実はまるで理解していなかった2013ヤンキースの編成の崩壊。
Damejima's HARDBALL:2013年10月5日、「2012年9月」に表面化していた長期的問題に対する対応を完全に間違えたヤンキース。
よくデレク・ジーターをほめちぎりたがるヤンキースファンやメディアのライターがいるわけだが、マイケル・ヤングの引退までのチームへの献身ぶりやチーム成績の向上ぶりと比較するなら、近年のデレク・ジーターの「キャプテンシー」なるものが、近年のヤンキースの内野の崩壊ぶりでわかるように「実は、チームの結束にとって、それほど効果はなかった」ことが明確にわかるはずだ。
そもそもジーターのショート守備の評価は低い。それは足の怪我が原因で衰えたのではなく、怪我をする前からそうだ。ゴールドグラブ受賞歴にしても、疑問を呈する専門家は多かった。だが、それでもジーターはショートに居座り続けてきた。
ヤンキースでは、チームが長年に渡って活躍を続けるための骨格として、特に守備面で重要な役割を果たすはずの内野手に、「レギュラークラスの実力を持った生え抜き内野手」が、(カノーを除いて)結局ほとんど育っていない。さらに言えば、「若手の育成システム」そのものがほとんど崩壊している。そのため、今後チーム内で内野手を育て上げることはほとんど不可能な状態にある。
2013シーズン中に、ジーターの足の故障が完全に癒えきっていないのは明らかであったにもかかわらず、度重なる無理な復帰と休養の繰り返しによって、チーム低迷に拍車をかけた
ポストシーズンを逃した2013シーズン後、「レギュラークラスの生え抜き内野手」としてヤンキースの唯一の貴重品だったはずのレギュラー内野手ロビンソン・カノーの流出阻止において、キャプテンであるジーターの存在はほとんど役に立たなかった。コア・フォーというお題目も、カノーにとっては結局のところ「オマージュ」であり、「追憶」でしかなかった。
もう一度、ハッキリ書いておく。
マイケル・ヤングがチームに「残した」功績は、無記名記事を書くライター風情に劣化版デレク・ジーターなどと公然と呼ばれるような、スケールの小さいものではない。
「マイケル・ヤングがテキサスに残していったもの」は、在籍時の守備貢献だけでも、在籍時のバッティングの数字だけでもない。移籍選手がチームに残してくれたものだってあるのだ。
そんなことさえわからずに、「マイケル・ヤングがデレク・ジーターに勝っていたのは、アヴェレージ・ヒッターとしてヒットを打つ能力だけ」なとと、軽はずみな文章を書くライターに、敬意など必要ない。