January 2015

January 30, 2015

2013年9月上旬に、ヤンキース監督ジョー・ジラルディの不合理きわまりないイチローの起用ぶりについて記事を書いたが、その「2014年版」を書いてみた。
赤色部分:イチローがマルチヒットを記録したゲーム
青色部分:ジラルディがイチローを先発からはずしたゲーム

ジョー・ジラルディのイチロー起用の比較(2013年と2014年)2013年版のデータは以下のページにある。
2013年9月9日、イチローのバッティングを常に「冷やし」続けてきたジョー・ジラルディの不合理な起用ぶりを、この際だから図に起こしてみた。 | Damejima's HARDBALL

2014年版の元資料:
2014 New York Yankees Schedule and Results | Baseball-Reference.com

Ichiro Suzuki 2014 Batting Gamelogs | Baseball-Reference.com

上の縦長の左右2本のバーは、のバーが2013年2014年を示している。2013年のバーがやや短いが、これは2013年版の図が、当時まだシーズンが終わらない9月初旬に制作されているため、2013年の全試合が図に網羅されていないことによる。他意はない。


右の2014年版のバーが、左の2013年版と比べ、青い部分がやたらと多いことは、小学生でもわかるだろう。

クリックすれば細かい数字は見られるが、そんなものをチマチマ確認しなくとも、全体の色の印象で言いたいことは伝わるはずだ。2014年のイチローの詳細な打撃スタッツとあわせてみてもらえば、ヤンキース時代のイチローが「ふがいないチームメイトよりも打てて、守備も走塁も問題ない、なのに、安定した起用をされず、ゲームに使われなかったために、打撃スタッツを下げさせられていた」ことがわかると思う。

加えていえば、左打者イチローが左投手を問題なく打てて、チームの他の誰より「対左投手打率」が優れているにもかかわらず、左投手先発だと決まってベンチスタートだったことは、とりわけ腹立たしい。イチローが長年得意にしてきたヴェテラン左投手マーク・バーリーの先発ゲームですら、ベンチスタートだったのだ。これには当時多くのヤンキースファンからも疑問の声がツイートされ続けた。
左投手のゲームに先発できないことで、イチローのヒット数がどれほど「減らされた」ことか。まったくもって、腹立たしい限りだ。
#Fire Girardi


記事の下部に、2014年版の詳しいリストを示しておいた。

左は「2014年のヤンキースのゲームスケジュール
右は「2014年のイチローの出場ゲーム

赤色部分は「イチローがマルチヒットを記録したゲーム」
青色部分は「無能なジラルディがイチローを先発からはずしたゲーム」を示している。

図の意味は、クドクド説明しなくても、「色の印象と配列」で言いたいことはわかるとは思うが、ひとこといわせてもらうなら、青い面積の広さでわかるとおり、2014年のイチローの起用ぶりは、酷かった2013年よりも、さらに最悪なものだった。
2013年9月のあるゲームで、イチローをどうしても2番にしたくないジラルディは、なんとAロッドに2番を打たせた。その2013シーズンよりさらに酷いのだから、どのくらい酷い起用だったか、わかるだろう。


開幕からオールスターまで(4月〜7月)
まず、下図の「4月」「5月」の部分をみてもらいたい。「広大な青色エリア」が広がっている中に、「赤い部分」がポツン、ポツンと「挟みこまれて」いる。

このことで次のことがわかる。

2014シーズン開幕以降、4月5月のジラルディは、イチローを「スターター」と認めてはおらず、実際、ほとんど先発起用しなかった。

だが、それでもイチローは4月の不当に少なすぎる先発出場機会を得るたびにマルチヒットを記録し、明らかに絶好調な状態で2014年シーズンをスタートした。
ぜひ「2014年に初めてゲームに出た4月3日から、5月3日までの1ヶ月」のイチローの打撃成績をみてもらいたい。
打率 .375
出塁率.400
OPS .858

四球の大好きなビリー・ビーンがみても、長打と四球を過大評価するデタラメ指標OPSの好きな馬鹿がみても、素晴らしい数字が並んでいる。数字が苦手なくせにデタラメ指標だけは好きなヘボ監督でも、これには文句のつけようがないはずだ。
2014年スタート時のイチローの打撃は、けして悪くないどころか、むしろスロースターターの彼にしてみれば、2014シーズン開幕前に田口壮氏が「今年のイチローは間違いなくやりますよ」と太鼓判を押していたとおり、絶好調といえる万全の状態だったはずだ。

だが、それをみて6月のジラルディは、イチロー起用法を非常に細かいサイクルで「先発出場」と「途中出場」を交互に繰り返すという「最悪な起用法」にきりかえた。
うっかりすると「1日おきに先発と途中出場が交互にくりかえされる」のだ。こんな起用をされて選手が好調をキープできるわけがない
6月8日から7月11日にかけての1ヶ月、8試合でマルチヒットを記録するなどして抵抗し、7月中旬に「打率3割をキープ」していたイチローではあったが、さすがに4月の好調ぶりをずっとキープし続けたままでいることはできず、ジラルディは7月後半にようやくイチローのバッティングを「冷やす」ことに成功した。

こうして無能なジョー・ジラルディは前年に続き、2014年も「イチローのバッティングを冷やし続けること」に専念したのだから、本当に呆れてモノが言えない。まさか、チームの勝率アップや地区優勝より、自分好みでないプレーヤーの「冷却」やら記録阻止が生きがいとでも考えている監督、チームが存在するとは、夢にも思わなかった。


2014年開幕時にジラルディがイチローより優先して使った外野手は、例えば、2014年のヤンキースが1800万ドル(=約21億円)もの大金を払ったにもかかわらず、結局シーズン終了後に引退に追い込まれたアルフォンソ・ソリアーノだが、2013年7月のフラッグシップ・ディールでヤンキースに復帰する直前はナ・リーグにいたにもかかわらず、弱点のハッキリしているソリアーノのバッティングの攻略法は、それこそあっという間にア・リーグ全体で分析されきって、対策が終わっていたことは、2013年シーズン終盤9月の打撃の内容、特に移籍後60を越えていた三振の中身を分析すれば、十分明らかだった。
データ:Alfonso Soriano 2014 Batting Gamelogs | Baseball-Reference.com
にもかかわらずジラルディは、「攻略の終わっているソリアーノ」を開幕時に第4の外野手として位置づけて起用し、案の定2014年4月・5月に52もの三振をして、あっという間にイチローに追い抜かれた。
だが、ジラルディは、データ分析不足と、判断の遅れという2つの決定的なミスを、けして認めようとしなかった

また、2014年に15Mの大金を払った外野手カルロス・ベルトランはどうだろう。
これだけの大金をもらいながら、出場はたったの109試合。しかも、その109試合のうち、76試合がDHだ。シーズンの半分をDHで出ただけで15MもらったDH専業選手が、打率.233、出塁率.301、ホームランたった15本では、間違いなく給料泥棒だ。
守備はどうか。ベルトランは32試合でライトを守ったが、そのたった32試合で、dWAR、Rdrsなど、守備指標で考えられないほどのマイナスを記録している。到底ライトを任せられる守備レベルの選手ではない。(詳しい数値は各自調べてもらいたい)

こうした指揮官の愚劣な行いの結果、5月から6月にかけてのヤンキースは、5月14勝14敗、6月12勝15敗と、2014年のポストシーズン進出を逃す決定的な「不振期間」を作ることになった。

オールスター以降(7月〜)
7月25日イチローに待望のシーズン初ホームランが飛び出す。すると、さっそくジラルディはイチローを先発から遠ざけるのだから、このオッサンのやることだけは理解不能だ。
長打を打ったら休ませる、などという例は他にも数多くある。8月10日に二塁打を打つと、さっそく翌日は休み。9月10日・11日に2日続けて二塁打を打つと、ベンチ。9月23日二塁打、翌日ベンチ。ほんと、ジラルディはマトモじゃない。

8月のイチローの月間打率は.352と、7月後半の一時的な停滞から既にリカバリーしていた。

だが、図をみてもらうとわかるが、7月中旬から8月中旬にかけての図が、どっぷり青色に染まっている8月のジラルディは、月間.352打ったイチローを積極的に先発起用しようともせず、むしろ、6月にとった卑劣な手法同様に、先発出場と途中出場を細かいサイクルで交互に繰り返させたのである。

結果的に、2014シーズンのイチローがヤンキースで「チーム最高打率の打者であるにもかかわらず、控え選手扱い」などという、「合理性にまったく欠けた酷い扱いを受けた」のは、ひとえに、外野手獲得をみやみに乱発し続けて無駄に選手を抱え込んだブライアン・キャッシュマンの無能さと、どんなに好調でもイチローを使わない、左投手が打てるデータがあるにもかかわらず左投手先発ゲームでイチローを使わない、チーム打率が悲惨なことになっていてもチーム最高打率のイチローを使わないという、数々の無能さを披露し続けたジョー・ジラルディに、責任がある。

もし2014年のイチローの起用が実力通りのものだったなら、彼の2014シーズンの打撃成績はもっとはるかにマシなものだったことは間違いなく、また、達成間近だった多くの記録も、もっと肉迫できていただろう。さらには、シーズン終了後にFAとなってからのチーム選択においても、無用な苦労を強いられることなく、はるかに広い、容易な選択が可能だったことも間違いない。



2014ジョー・ジラルディによるイチロー起用ゲームリスト


January 28, 2015

近代の人間にはやっかいなことに、「自我」というものがある。(もっと正確にいえば、ある人にはあるし、ない人には、あいかわらず、ない)

近代における自我の定義はけして簡単ではないが、ブログ主にいわせるなら、ひとつには「自分がいて、他人がいて、両者は違っているのが当たり前なのだ、ということが理解できる能力」のことだ。

この「自己と他者を区別できるレベルにまで成長すること」は、実は、その国が「欧米的な意味での近代化を達成した」とされる条件のひとつでもある。

ただ、この「自我というシステム」は有用な反面で、問題点もある。
いくつか挙げてみる。

「近代的な自我」という「欧米的なOS(「オペレーティング・システム」)」は非常に有用なシステムだが、このシステムにはもともと「バグ」や「設計ミス」が存在することも確かであり、そのため、自我というシステムが、ときに暴走したり、フリーズしたり、勝手に再起動したりすることがあり、レールをはずれたときの操縦はなかなかに難しい。
また、自我というシステムの理解に特有の「誤解」もある。そのためもあって、「自我の確立」という作業(オペレーション)は古来からとても失敗しやすいものとなっている。

多くのケースでは、自我の確立の失敗は問題ない。むしろ、自我の確立に失敗し続けている間にいつのまにか自我が形成されていくことになる。また、たとえ「自我というものをまるで所有しないオトナ」になったとしても、日常生活そのものにはなんの支障もない。
だが困ったことに、「自我の形成がうまくいかず、壊れたままの自我を再起動せずに抱えこんだまま稼働し続けてしているオトナ」が迷惑行為や犯罪に対して非常に無自覚になるケースは少なからずある。

「自我の確立を通じた近代化」に失敗することは、個人にのみ起きるのではなく、国家にも起きる。その結果、「自己と他者の区別がつけられない国家」、「他者を認知しようとしない国家」は、世界にそれなりの数が存在する。

残念ながら、近代的な自我そのものがもつ欠陥を修正した「次期OS」や、近代的な自我の確立に失敗したときのリカバリーのための「パッチ」は、まだ十分確立しているとはいえない。

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さて、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』や、有島武雄の『生れ出づる悩み』などの著作の表題が、共通して「悩み」という単語をもつことからもわかるように、「自我を確立することは、なまやさしいことではない」と、よく思われている。
というのは、「自我=自分だけがもつ、固有かつ唯一無二のスタイル」であり、「若い=独自のスタイルを徹底的に模索する時期である」と思いこんでいる人が多数いるためだ。(だが、実際には、自我は唯一無二のオリジナリティなど意味してはいない)
こうした「誤解」によって、「独自のスタイルは誰にとっても絶対に必要だ。だが、だからといって、簡単に見つかるわけではない。だから若さ=悩んで当たり前の年齢なのだ」などと、都合のいいように若さを解釈してきたのが、かつて近代化を迎えた若い国家に共通の特徴だった。

ゲーテが『ウェルテルの悩み』を書いたのが1774年で、有島武雄の『生れ出づる悩み』が1918年。両者の著作の間に「約140年の歳月の開き」があるわけだが、この「140年の差」は、そのまま、日本の近代化の黎明がヨーロッパから100数十年遅れてやってきたことを意味している。
ヨーロッパと日本に、アメリカも含め、近代化が社会に浸透して軌道にのり、時代が「若さを必要としなくなった」とき、若さを標榜し、徹底して悩み抜くことに意味があり、若さゆえの悩みにある種のカッコよさやオリジナリティがあると社会から思われる時代は終焉を迎えることになる。(もちろん「文学」が近代国家においてもっている意義もそこで終了する)
関連記事:2013年5月11日、「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。アメリカにおける「放浪」の消滅(4) 「若さを必要としない時代」 | Damejima's HARDBALL

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ここで、質問。
自我って、どんな形?

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ブログ主の答え。
ちくわ」みたいな形。

ちくわ

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ここで、ブログ主からふたたび質問。
ちくわの穴」って、内部? それとも外部? 必要?

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ブログ主の答え。
「内部」でもあり、「外部」でもある。
ドーナツの穴と似たようなもの。必要。

つまり、
人間の自我の構造は、いわば「ちくわ」である。

ちくわの穴のような自我の内部空間は、「内部」でもあると同時に「外部」でもあり、「外部」との連続性を有していて、「外部」とつながっている。
こうした「ちくわ」的な「柔軟だが自己を守るに十分な外壁と、外部に開放された内部」が確立されることで初めて、人というものははじめて安定し、この「安定」によって「自分の視点の位置」が定まり、「定点」からの安定した「観察」が開始されることによって、自己と他者の区別が容易につけられるようになり、他者とのつながりも常に認識できるようにもなる。

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だが実際には、実に多くの人が自我の構造を「缶詰」のようなものだと思い込んでしまっている。

缶


つまり、自我とは「フタによって完全に密封され、外部と内部の間になんの流通もありえないような遮断された密閉空間」であり、そうした「内部と外部を厳密に区別できる密閉空間」を確立してはじめて、自己というものは「統一感」や「外部からの隔絶」を達成でき、自己と他者との区別も、オリジナリティも、萌芽することができる、などと、自分勝手に思いこんでしまう。

繰り返しになるが、
密閉空間を内部に抱え込むことこそ自我だ、という考え、
それは、単なる思い込みに過ぎない。

「外に出ていく場所のない、封鎖された空間」は、
むやみに膨らみ続けていく風船」と同じだ。
ときとして「爆発」や「暴発」を生む。
そして、自己と他者の区別はなおざりになる。

「自我という内部空間は、封鎖された密閉空間として存在する、という誤解」は、多くの頑迷な思い込みを生じさせやすくする。
例えば、オリジナリティをもつことに対する異常なこだわりにしても、多くの場合は、むしろオリジナリティを築けなかった人(あるいは国家)や、他者のオリジナリティを存在として認める能力が皆無な人にこそ多い。
また、「自分の思い込みが、単なる思い込みであることに自分自身が気づくことへの恐怖」は、他者の失笑や嘲笑に対するアトピー的過敏さをひきおこしやすくする。

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クチをあけると、クチの中という「内部」は「外部」とつながる。クチは「外部を受け入れることができる場所」であり、そこから食物は、食道から胃、腸、といった「ちくわ」のような構造の「チューブ」(=消化器官)を経て消化され、最終物は膀胱や肛門や汗をかく器官からふたたび外部へと出ていく。

つまり、物理的な人体にも、自我の構造と同じように、「ちくわの穴」のような「内部ではあるけれど、同時に、外部でもあるような、チューブ状の内部空間」が存在している。物理的な人体も、自我の構造も、まったく似た形状として形成されているのである。


缶の中にいることが自我のあり方であり、缶の中に居続けなければならないという自己暗示のもとに、自己の絶対性を確定させるための追求を過剰に行い続けても、それは、自己を安定させるどころか、よりどころのない不安定さだけを生じさせることになる。
自我には、外部とつながった開放部があっていいこと、そして、外部とのリンクを無理に拒絶し、自分だけの閉鎖された密閉領域を確保することが自我の形成ではないこと、間違った自我イメージのために無理な努力をしなくてもいいのだ、ということを、もっとしっかり理解してもらいたいと切実に思う。

というのは、このことは、「他者と自分との区別のつかない人たち」がやたら登場してニュースになる壊れた世の中へむけての最も重要なメッセージのひとつだ、と思うからだ。

January 24, 2015

トマ・ピケティというフランスの経済学者の『21世紀の資本』という著作が話題だそうだ。まったく読んでもない。だが、短気な猟犬と同じで、あやしい匂いを嗅ぎつけると、どうしてもアドレナリンが出て、ケチをつけたくなる。困ったものだ(笑)


どうもよくわからないことがある。

Wikiなどによると、ピケティが使ったロジックは、「率A(資本収益率)と率B(経済成長率)との間に常に『差』があることが原動力となって、資産や富に『特定方向への移動』が生じる、その結果生まれる資産集中は実にけしからん。世界規模での富裕税が必要だ」という感じの話らしい。
(以下簡略にするため、「率の差が原動力となって資産移動が生じる」という論理」を『資産移動論理』と呼ぶことにする。

もし、Wikiや書評に書かれているこうした「要旨」が本当なのだとしたら、『21世紀の資本』という本を読む必要は「ない」、と考えられる。

というのも、さきほど定義したばかりの「資産移動論理」は、よくある普通のロジックのひとつに過ぎないからだ。ピケティ独自のものでも、特別すぐれた論理でも、なんでもない。
もし、「ピケティのあやつる資産移動の論理」を実際に読んで、「こりゃあ新鮮だ。思いついたやつは天才だな・・」、などと思う人がたくさんいるのだとしたら、その人たちはよほど金融や経済に関心を持ってこなかった人だとしか思えない。


説明がめんどくさいので簡単な例を挙げてみる。

日米の金利差と為替レートの関係via 私の相場観 : 金利上昇と景気・株価の関係

2つの国、A国、B国で、「長期金利に大きな差がある」とする。
この「金利の差」は、「A国とB国の間の為替レートに一定の変動傾向を生むファクターのひとつ」になる。(金利と為替が完全連動する、という意味ではない。両者は緩やかに連動するにしても、常に、かつ、完全に連動するわけではない)
例えば「円とUSドル」なら、「日本の金利がアメリカの金利より低い」場合、それが原動力となって両国の為替の長期ベースは「円安傾向」になるため、一時的にせよ「円からドルへの資産移動」が起こる。(実際、多くの日本の個人投資家が円高終了とともに自分の資産を米ドル方面に転換した。いまだに転換してない人は、単に世の中の変化に反応が遅いだけの話)
また、金利差は国債価格にも影響するから、アメリカ国債に向けての資産移動も起こりやすくなる、なんてことも起こる。

つまり「金利差」は、広範な資産移動の原動力になるわけだ。


こういうことは、金融に関わる人なら誰でも知っている。また、マクロ経済をちょっとでもかじっていれば誰でもわかる。(わからない人は、詳しい説明をどこか別のサイトで読んでみてもらいたい)
だから、なぜ、こういう「誰もが知っている論理」で書かれた著作が、ノーベル賞級だのなんだのと評価される必要があるのかが、まったくわからない。


さて、ピケティがいわんとする(らしい)ところを、Wikiを参考に、もうちょっと詳しく書きだしてみる。
「歴史的にみると、資本収益率(r)は経済成長率(g)を常に上回る傾向にあり、富の不均衡を生む。とりわけ低成長が長く継続する時代(=「常にr>gとなる時代」)には、富の集中が生じやすくなる。その是正にむけた新たな富裕税を検討すべきだ」というようなことらしい。

いいかえると、ピケティは上で書いた「資産移動論理」を、「『国という経済単位内のクラスター間に富の不均衡がなぜ発生するのかを説明するのに使っている」わけだ。
この「資産移動の結果を、不均衡あるいは不平等ととらえて説明した上で、その是正を求めることは正しいとする判断」を、簡略化のため「ピケティ道徳」と呼ぶことにする。
「ピケティ道徳」は簡単にいえば、「資本収益を新たな課税の創設によってさらに多く国庫に回収し、社会をもっと均一にならせ」と言っているわけだ。

この「ピケティ道徳」が「これまでにない斬新な発想だ」といえる根拠がわからない。なぜなら、「収益を国庫に回収し、社会に再配分する手法」そのものは、既に「納税」「雇用」「福祉」など、さまざまな形でどの国にも既に存在しているからだ。


非常にわかりにくい言い方だとは思うが、
以下の説明でぜひ次のことを確認してもらいたい。
「資産移動論理」と「ピケティ道徳」は、イコールではない。


2つの「論理」の違いを知ってもらうための、もっとうまい「たとえ」が思いつかないので困るが、まぁ「マイケル・サンデルのハーバード白熱教室の生徒」にでもなったつもりで(笑)、こんな例でも考えてみてもらいたい。

地域差をからめた例文
日本の2つの都道府県、隣接するA県とB県で、生産性に差があるとする。「生産性A>Bなら、A県にばかりお金が集まるようになる。これは非常にけしからん。
では、A県はB県に富裕税を払うべき」だろうか?

人種問題をからめた例文
ある多様な人種で構成される国で、人種Aと人種Bとで生産性に差があるとする。「生産性A>Bだと、常に人種Aにばかりお金が集まるようになる。これはけしからん。
では、「人種Aに富裕税を新設して、人種Bだけに還元すべき」だろうか?

南北問題をからめた例文
先進国A国と、発展途上国B国の生産性に差があるとする。「生産性A>Bならば、A国にばかり富が集まる。これは不均衡だ。
では、「A国はB国に対し、富裕税を払うべき」だろうか?


以上の稚拙な「例」でひとまず理解してもらいたいことは
「資産移動論理」はどこにでもよくある分析手法だ。
だが「ピケティ道徳」は、どのカテゴリーに、どういう立場から適用するかによって、「受け取る印象」がまったく違ってきてしまう、「善悪の観念」を含んでいる
ということだ。


もしブログ主が、「東京都の生産性は埼玉県より高いから、東京都には富や資産があまりにも集結しすぎる。この不平等はけしからん。格差是正のために、東京都民は埼玉県に対して税金を払うべきだ」などと真顔で発言したら、どう思われるだろう?

「馬鹿なことをいうな」と、笑いモノになる。

都道府県同士、国同士、人種間、で考えれば、ある都道府県(あるいは国や人種)に税金をかけて、そのカネを別の都道府県(あるいは国や人種)に納める、なんて話は「なんとなくおかしい」わけだし、そのことが理屈抜きに誰にもピンとくる。

なのに、ピケティは、同じロジックを「国内のクラスター間の格差」に適用してモノを言い、それを読んだ人は、それが「あたかも道徳的な提案をしている」かのように「みえる」らしい。

それはなぜなのか。


誰もが気づかないようだが、ピケティの「レトリック」をよく考えてみるべきだ。
ピケティの著作では、「資産移動論理」という近代経済学や金融論によくみられる分析手法と、感傷的で18世紀的な国民経済学の限界を越えない「ピケティ道徳」とが、安易に結び付けられて書かれている。そして、その2つは必ずしも連続的に融合してはいない。だから施策の提案になると行き詰まって空想的になる。
だから、『21世紀の資本』という著作を読む人には、分析手法と、そこから導かれる結論が平凡きわまりないにもかかわらず、印象として道徳観念(=ピケティ道徳)だけが脳裏に残る。
それは、この著作がそもそもそういう仕組みで書かれているからである。


以上、簡単な「ロジックを分解する作業」をやってみた。
言いたいことはわかってもらえると思う。

調味料は料理ではない。
どんな料理にでも大量のマヨネーズをかける人がいるが、マヨネーズのチューブそのものをくわえて吸う、それだけの行為を「サラダ」と呼ぶことはできない。また「昔からあった料理」に大量のマヨネーズをかけたら、それが「革新的な料理」になった、とはいえない。

『21世紀の資本』が提出したロジックを、「なるほど」などと感心する人がいるのは、料理そのものの味を吟味しているのではなく、単に「不平等を指摘する」とか、「社会正義」とか、そういう「マヨネーズの味」に酔っているだけだ、という言い方ができる。


グーグルやアップルのような現代的な企業がたくさん儲けているにしても、その儲けそのものには、ちゃんとした「発明(イノベーション)」や「マーケティング的な成功」といった、「正当性」がある。
そして、企業収益を社会に還元する仕組みも、社会には既に「税制」とか「雇用」などいう形で既に備わっている。

もしどこかの国で、多額の企業収益がタックスヘイブンに流れてばかりいて、社会にほとんど還元されていないというような事実があるとしたら、それを改めていくことはその国の税制上の課題のひとつであるのはたしかだ。
だが、だからといって、資産移動、つまり、「富や資産がなんらかのファクターに呼応して移動していくこと」そのものが、「その社会の根本的な欠陥だ」とはいえない。そうした「資産の流動性そのもの」までも社会悪だと指摘しかねない不合理な経済道徳には、賛成できない。


「現行税制の不備を議論して、改善したり、修正したりしていくこと」と、「儲けることそのものについての是非を大上段に問うこと」は、まったく別問題なのだ。そのことを、あたらめて指摘しておきたい。

たとえ「資本収益率が経済成長率より大きいことが多い」といっても、その「収益」を、「税」や「雇用」などという形で、社会の秩序維持や経済発展に還流させていく「仕組み」は、どんな国でも長い歴史的の中でつちかってきている。
「社会が、資本収益のうち、どの程度のパーセンテージを回収するか」は、各国それぞれが、それぞれの時代の課題に応じて決めてきた政策的な選択であり、必ずしも「道徳」が決定してきたのではない。また、たとえ「高いパーセンテージでの回収を実施できる社会の仕組み」を新たに作ってみたからといって、それが経済発展につながるわけでも、また、財政破綻を避ける特効薬になるわけでもないことは、近代の歴史がとっくに証明したことでもある。


Adam SmithMax Weberアダム・スミスが1759年に『道徳感情論』を出版していたり、20世紀初頭にマックス・ウェーバーが書いた名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』からもわかるように、近世の経済の礎が道徳や倫理の問題を避けて通ることなく、むしろそれらについての議論を基礎に築かれてきたのは、まぎれもない事実だ。
だが、ピケティが著作にこっそりしのびこませようとした道徳はあくまで個人的な感傷レベルのものでしかない。後に『国富論』で近代経済学の父となったアダム・スミスや、倫理と経済行為との間の独特の繋がりを明快に著述してみせたウェーバーの偉大な足跡を継ぐものとは、まったく思えない。

January 23, 2015

この記事グループ、「MLBの得点力低下をもたらした四球・長打の過大評価」原論の今後のターゲットは、「MLB全体での四球・長打の過大評価や、出塁率の過大評価による打者の過度の拘束が、かえってMLB全体での継続的な得点生産力低下をまねいた」ことを、データであれ、例証であれ、法則性であれ、なんらかの形で把握することにある。
それが、けして簡単な作業でなく、また、立証に至るかどうかもわからない作業であることは、百も承知だ。


まず考えてみたいのは、もし例えばOPS(OPSを改造したバリエーションを含む)のような「打者のバッティング評価の基準」が、かつて、ずっといわれていたように「得点に最も直結する」というのが本当ならば、「OPSで高く評価されるタイプのバッター」が増えれば増えるほど、そして、「OPSを獲得する選手の評価基準にして編成したチーム」や、「OPSを重視したゲーム戦術を採用するチーム」が増えれば増えるほど、「MLB全体の得点力は上昇を続けきていなければおかしい」だろう、ということだ。

実際、そうなったか。
事実は、まったく逆だ。

前記事でも掲出した以下のグラフでもわかるように、2000年代以降(特に2010年代)MLBの得点生産性は減退を続けてきている。
「得点との直結」をやたらと主張したがるデータ分析手法が導入され、普及したからといって、そのことによってMLBの得点生産能力が飛躍的に増進したという事実は、どこにもない
のである。

この25年間のホームラン数と得点総数の関係(1990-2014)


したがってブログ主が近年の「得点力デフレ」を説明していくための「出発点」は、まったく逆の立場からのものだ。
1)制度上の変更による得点力減退
MLB全体における「得点生産能力の低下」は、たくさんの要因からなる非常に複雑な現象なのは間違いなく、たったひとつの要因だけをとりだして、それを単独の原因として指摘することはできないし、明らかに間違ってもいる。
今のところある程度わかっている得点力低下の要因の多くは「MLBの制度上の変更」によるものだ。
ステロイド規制強化による長打の減少、ストライクゾーンの拡大、アンパイアの判定精度の急速な向上やアンパイアの世代交代、守備シフト、インスタントリプレイ導入など、さまざまな立場の人によって、さまざまな指摘が行われつつある。
参考記事:
2014年10月31日、「MLBアンパイアの若返り傾向」と、「得点減少傾向」の関係をさぐる。 | Damejima's HARDBALL

2014年11月28日、「低めのゾーン拡張」を明確に示すHardball Timesのデータによって、より補強された「ルールブックどおりのストライクゾーン化、アンパイアの判定精度向上」説。 | Damejima's HARDBALL

2)しかし、「MLB全体の得点能力の低下」の要因には、上記以外に、まだ指摘されていないものがあるだろう、とブログ主は考える。

3)打撃分析手法の誤りと束縛
近年、OPSとそのバリエーションに代表される打者のデータ的な評価手法や、出塁率重視のチーム戦略の普及など、新しい選手評価手法が普及したが、これらの普及が進んだ理由のひとつは「チームの得点力向上に直結する」と、「思われた」からだ。
もちろんデータ分析そのものの有効性は疑いのないところだが、しかしながら、OPSという指標が「算出手法自体に長打や四球の価値を過大に評価する根本的欠陥を持っている」という事実からもわかるように、データ分析による選手評価手法には今も「一定の構造的な誤り」が含まれており、その「誤り」はいまだ十分修正されていない。
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だが、こうした「誤り」は実際のチーム編成や実際のゲーム運営に「誤ったまま」適用されており、長打や四球、あるいは出塁率を過度に重視して選手をリクルートし、チームを構成する事例は増加し続けている。選手側でも、そうした「チーム側の好み」に合わせて自分のバッティングスタイルを作り上げる傾向にあり、メディアもそうした選手をほめちぎる。
だが、こうした傾向のもとにあるMLB全体で実際に起きている「事実」は、といえば、「得点力の向上」ではなく、まったく逆の「得点力の減退」でしかない。


たしかに、この「原論」の根拠を固めていく作業自体が、どこをどう調べるべきかもまだハッキリしないし、気長にやっていくしかない作業なのだが、今は例として「均質化」という現象を取り上げ、その説明を通して目指す場所をもう少し明らかにしておきたい。


打者の均質化


「得点に直結する」と強弁し続けてきたOPSなどの指標群にみられるように、MLBに浸透した「数字とデータに基づく野球」は、打者の「バッティングにおける行動パターン」を「著しい均質化」に向かわせてきた可能性があると、ゲームを見ながらいつも思ってきた。

いい例が、ビリー・ビーンのチームのバッターたちだ。彼らは「気味が悪いほど、相互にあまりにも似すぎている」
彼らが「お互いにソックリ」なのは、ひとつには、ビリー・ビーンが「似たタイプのバッター」ばかり獲得したがることに原因があるが、もうひとつ、「ビリー・ビーンが、どのバッターにも「同じ目的」しか与えないこと」にも原因がある。(そして、その目的は「その打者の能力をフルに発揮させることをあえて求めない目的」でもある)
関連記事:2014年12月4日、オークランドGMビリー・ビーンが重視する「野手の打撃能力の具体的な種類とレンジ」。打撃能力と「プラトーンシステム」との深い因果関係。 | Damejima's HARDBALL

簡単にいえば、
同じ目的をもたされた人間は、
「似たような行動をとりがち」になる。
ということだ。

人間という生き物は「個ではなく『群れ』として行動すべし、という原則」が本能というOS(=Operating System)に書き込まれたまま進化してきたために、本人の意思とは無関係に、とかく「群れが向かう方向にならって、群れと同じ行動をとりたがる」ようにできてしまっている。
なんとも哀しい生き物である。

こうした「バッティングにおける行動パターンの均質化」が過度に進めば、MLBにおける打者の質的低下を招くだけでなく、「他チームに簡単に分析されるバッターの急激な増加」をもたらす、と、ブログ主は考える。

何度か記事に書いたようにヤンキース時代のカーティス・グランダーソンや、テキサス時代のジョシュ・ハミルトンがインコースだけしか狙ってないことくらい、すぐに他チームにスカウティングされたように、投手側からみれば、「やることなすこと、すべてが大雑把なバッター」や「狙いがあまりにわかりやすいバッター」が、「対処しやすく、うちとりやすいバッター」なのは当然だ。
そうしたバッターが増えすぎたことは、リーグ全体の「投高打低」を助長し、「MLB全体のホームラン数の減少や、得点減少に導いた」のではないのか。

つまり、「四球による出塁と長打の組み合わせばかりを重視する傾向」が強くなりすぎることによって、「四球か、長打か、三振か」というような「ワンパターンなバッティング」ばかりするアダム・ダン的なバッターが増えすぎたことで、むしろ「MLB全体が得点デフレとでもいうような、長期的な得点減少傾向に陥って、抜け出せなっていった」のではないかと思うのである。
関連記事:
2014年10月20日、やがて悲しきアダム・ダン。ポスト・ステロイド時代のホームランバッター評価の鍵は、やはり「打率」。 | Damejima's HARDBALL


「原論」のターゲットのうち、「OPSとそのバリエーションの指標群のデタラメさ」については、それらが「得点に直結する数字で野球を分析すると称しながら、その実、四球や長打を過大に評価する構造的誤りをもつデータ分析手法」であり、野球というスポーツの選手評価において大量の「判断ミス」が生産され続ける原因にもなっていることは、これまで何度となく記事にしてきた。

こうした誤った評価手法は、例えば二流・三流のホームランバッターのサラリー高騰、GM・監督などのチーム運営責任者とマスメディアがそういうバッターを過大評価する傾向の拡大、打者自身がそういうバッターを目指したがる安易な傾向、プチ・ステロイド時代ともいえる「ステロイド回帰」、ホームランや出塁率に過度に依存する非効率的な得点戦術への傾倒、そして失敗、失敗を犯し続けるGMや監督の責任追及の甘さなど、数え切れないほど多くの悪弊を生んでいる。
得点力不足に悩み、得点が欲しくてたまらないチームに限って、間違ったゲーム戦術や間違った人材の起用等によって、かえって、さらなる得点力不足に悩むようになるのは、近年のシアトルやヤンキースを見ていれば(笑)誰でもわかることだ。


以上が「原論」のだいたいの見取り図で、あとは蛇足である(笑)「原論」としたことでおわかりのように、この論はまだまだ模索の域を出ない。これからも地味に資料収集して、少しずつ固めていくしかない。ただ、今までこのブログに書いてきた記事の中に、既に数多くの証拠やデータ、論理を提出してきたことも確かだ。


資料収集はまだどこで何を探したものかもわからないが、必要な情報は、例えば四球重視という風潮に打者がやたら束縛される時代になったことで、「打者の行動パターン」になにか変化があったのか、なかったのか、というようなことだ。
例えばだが、これまで「打者有利」とか「投手有利」とかいわれてきたカウントの「意味」は、15年前のホームラン狂騒時代と今とで、変化した可能性が、あるのか、ないのか。同じことを投手側からみれば、投手と打者の「かけひきのパターン」はこの15年で変化したのか、しないのか。(例えば、あるチームの投手陣は近年「打者と高めで勝負する」という戦術をとっている。これはもちろんローボールヒッター対策だ)


例:
以下の図は「カウント別ホームラン発生率」を、ステロイド・ホームラン時代の1999年と、そこからホームランが1400本も減った投高打低の2014年とを比べてみたグラフだ。
大きく変化しているものと期待して調べてはみたが、実際には、思ったほどは変化していなかった(笑)
ホームランが多く発生するカウント」は、今も昔も「17%前後を占める初球」が代表的であり、次に11%前後の「2球目」、そして「平行カウント」、あと、あえて付け加えれば「フルカウント」だ。

カウント別のホームラン% 1999年vs2014年

1999年のデータの出典:Major League 1999 Batting Splits | Baseball-Reference.com

2014年のデータの出典:Major League 2014 Batting Splits | Baseball-Reference.com


ただ、まぁ、細かい違いならある。

打者不利(投手有利)と思われがちな「ストライク先行カウント」、特に「2ストライクカウント」でのホームラン発生率が、むしろ上昇している。

その一方で、打者有利(投手不利)と思われがちな「ボール先行カウント」でのホームラン発生率は減少している

こうした変化が統計的にどのくらい有意なのかは調べてないが、たしかに細かい(笑)おまけに、なぜこうした現象が起きたのかは、まだ想像もつかない。

投手側の立場からすると、「2ストライクをとった後で、ホームランを打たれやすくなる」ということは、「追い込んだ打者をうちとるためのストライクを投げて、かえって長打を浴びた」とでもいうような意味になるかもしれない。
一方、「バッターが、ボール先行カウントなのに強振してこない率」は、どうやら15年前よりほんの少し高くなっているように見える。


ならば、とりあえずこういう仮説を立ててみる。

<打者のビヘイビア(behavior=行動パターン)の変化仮説>

ボール先行カウントでは
近年の打者は、無理なフルスイングを避け、四球を選んで出塁する方向への行動選択をしたがる。これは「フルカウント」においても、同じことがいえる。
つまり「ボール先行カウント」は今の打者にとって「かつてほど強振するカウントではない」傾向にある。

ストライク先行カウントでは
近年の打者は、投手が打者をうちとるために投げてくる「ストライク」をむしろ待ち受けて、長打狙いで強振してくる、ともいえる。
つまり「ストライク先行カウント」は、「投手が確実にストライクゾーンに投げこんで、打者を打ち取りにくるカウント」であるという意味において、近年では「打者にとっての重要なバッティングカウント」になりつつある。


こうした「ごくわずかな変化」を例として挙げたのは、数字そのものに大きな意味があると強弁したいからではなく、こういう地道な作業の積み重ねからそのうち意味が出てくるから待っててくれ、という意味だ(笑)ほんと、気長にやっていくしかない。
ただ少なくとも、景気刺激策のつもりでやった財政政策や金融政策がかえって景気後退を招いたり、家庭菜園をやっている人が作物のためと称して化学肥料をやりすぎて、かえって作物を枯らせてしまうことが多いように、「施策が、意図とは真逆の結果を生む」ことがけして少なくないのが、人間という生き物の困った点であることは、よく知っている(笑)それなりの結果につなげていく自信はある。

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