April 2016

April 30, 2016

2015年10月に「燃費を誤魔化したフォルクスワーゲンの大失態は、この300年ほどの間ヨーロッパ中心に維持されてきた、コンセプチュアルなハーメルンの笛である『近代ドイツの神話主義』そのものの終焉を意味する」、てなことを大上段に書いた。
2015年10月26日、コンセプチュアルなハーメルンの笛 「近代ドイツ神話主義」の終焉。 | Damejima's HARDBALL

そしてその後、しばらくブログを書く手が止まってしまう事態になった。
というのは、あの記事を書いたことを後悔したからではない。むしろ逆で、あまりにも正しい何かを書いてしまった気がして、もうこれ以上なにか書く必要があるのかという気さえしたのである。

もちろんあの記事にも書きもらしている点は多い。そのひとつは、「あの記事で近代のもつ価値を全否定しようなどとはまったく思わない」ということだが、そういう書きもらしをなんとか処理したいとか思って考えあぐねているうち、半年もの時間が経ってしまった。

月日の流れるのは本当に早い。自分の考えを正確にまとめようとしすぎると、かえって手が止まってしまい、思考自体も停止してしまうことがよくわかった。
考えてみればこのブログはあらゆることに対して、多少記述が不正確であろうと、書くことで脳を働かせ、書くことで滞りがちな自分を前に進めてきたのではなかったか。初心を忘れていた。正しさなど気にせず、思いついたままを書きつらねるべきだった。

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あるネット記事に(非常に残念だがURLは失念)「クリーンディーゼルという標語」を信じてフォルクスワーゲンのクルマを買ったというアメリカの自動車ユーザーのコメントが載っていた。たしか女性だったと思う。
彼女がいうには、
正しいことをしていると思ってフォルクスワーゲンのクルマに乗ってきた。なので今回の事件はたいへん残念だ
というのだ。

このコメントを読んだ瞬間、どういうわけか「長年なんとなく感じていた『エコロジー』というものについてのモヤモヤ」が一気に晴れ、言葉に具体化できそうな気がした。


エコロジー」なるコンセプトを「誰が」「いつ」思いついたのかは知らない。結論を先に書くと、ロジックの仕組みからみると、「エコロジー」というコンセプトは、そして、その延長戦上にあるフォルクスワーゲンの提唱したクリーンディーゼルは、
まさに中世ヨーロッパにあった「免罪符システム」の現代版
なのだ。

いうなれば、「美しい地球」が「エデン」であり、「エコロジー」は「十字軍」、「クリーンディーゼル」が「免罪符」、というわけだ。

(注:最初に断っておきたいが、ブログ主はただのスポーツ馬鹿でしかないのであってキリスト教史研究者でもなんでもない。ゆえに以下の個人的感想には誤りや事実誤認が含まれている可能性は大いにあるものとみなしてもらって結構だ。また以下の文章は特定の人々や集団、企業等に対する悪意を意図するものではもちろんなく、あくまでひとつの脳内トレーニング、暇つぶしに過ぎない。あらかじめご了承いただきたい)

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では「免罪符」って、何だ。

「学校の授業で聞いたことがある」程度では、このシステムの正確な位置づけは理解できないだろう。なぜなら、たいていの場合、学校では歴史というものをきちんと教えないからだ。このシステムが生まれた経緯を正確に知るには、中世キリスト教におけるIndulgence、日本ではあまり知られていない「贖宥(しょくゆう)」なる制度を知ることが重要だと思う。


人間には非常に大きな原罪があると考えるキリスト教においては、「人間は原罪の償いをすべきだ」という考え方がある。
この「原罪の償い」の段取りは宗派ごとに違い、反省から告白、償いに至るまで「宗派それぞれの決まった段取り」というものがあるらしいが、最終段階における「償い」は共通して「非常に重い」ものとなるのが通例だったようだ。(宗派ごとの細かい相違点については専門サイトを各自あたられたい)
要約すると、「人間の原罪というものはとても重いものであり、また、その償いは重いものとなるのが当然」と規定されていたのが、もともとのキリスト教世界ということらしい。


さて、その「重い償い」について、かつて教会側が「代替措置」を認める独特のシステムがあった。それが「贖宥しょくゆう」だ。

A Roman Catholic indulgence, dated Dec. 19, 1521.
(上)1521年発行の贖宥状


この「贖宥」というシステム、困ったことに、よく「贖宥状と免罪符とは同じ意味のもの」などと説明をされている。
いろいろな意見があるのかもしれないが、ブログ主は賛成しない。賛成しないどころか、そういう間違った説明には真っ向から反対しておかなければならないと考える。
こういう間違った説明が流布されると、誰もが「罪そのものを帳消しにしてもらえる超便利な制度が昔からあった」などと都合よく思い込んでしまい、歴史とか人生とかいうものについて間違った、生ぬるい捉え方をするようになってしまう。

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ここが肝心な点なので繰り返すが、ブログ主の観点では、そして歴史的にみても、贖宥と免罪とは「同じもの」ではない

たとえ話でいうと(これが適切な例かどうかはわからないが)、例えば殺人を犯した人間が殺人罪そのものを許されることなど永遠にないのだが、罪の「償い」について、投獄期間を短縮するとか、禁固刑を労役で代替するとかは制度上にありうる、というのが、「贖宥」というシステムの主旨だ。カネさえ払えば殺人という事実そのものを「なかったこと」にして、白紙に戻してもらえる、などという話ではない。

例えば中世の十字軍遠征では、「十字軍遠征に従軍するという苦役を行うことは、贖宥である」とみなされていた。
つまり、本来なら人間は教会の定める厳格な段取りのもとで厳しい償いを遂行する必要があるのだが、十字軍遠征に参加するなら、それを「償いの代替行為」として認定しますよ、ということだ。

もちろんいうまでもなく、十字軍に従軍したとしても原罪そのものが許されるという意味ではない。

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だが残念ながら、
人間の作るシステムは、常に脆い。

当初は英雄的行為であったはずの「贖宥システム」は、時代を経ると変質していき、「償いの代替や軽減」に過ぎなかったはずの「贖宥」は、やがて「罪そのものの許し」、免罪へと堕していった。
(ブログ注:だからといって、中世における欧米やキリスト教世界のモラルの全てが堕落していたなどと、間違ったとらえかたをしてはいけない。歴史というものは白か黒か、善か悪かという単純な二分法で判断しようとしてはいけないのだ。そういう紋切型の思考手法は、近年の欧米の都市部での卑劣なテロ行為に賛同してしまう欧米人たちの思考の底流にもあるようだが、そういう考え方は手法そのものが間違っている)

十字軍の例でいうと、元来「贖宥」であったはずの「十字軍への従軍」は、十字軍そのものの変質にともなって「カネで十字軍従軍それ自体を免除してもらえる」ようになり、それがさらに「カネとひきかえに、罪そのものが許される」という、いわゆる「免罪」というシステムを生みだした。さらには教会が積極的に免罪符を売り歩くという事態にまで至って、「免罪符という名の、教会の集金システム」が出来上がった。(この「教会の集金システム」は、現代私企業のもっとも初期の形態なのかもしれないし、ある意味の資本の萌芽と考えることもできるはずだが、それを明確にした書物を読んだことがないので、正確にはわからない)

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これはあくまでブログ主の想像でしかないが、おそらく初期の十字軍従軍者には、ある種の壮絶な正義感や使命感、命がけの献身の覚悟があったに違いない。(ただし十字軍は遠征先で虐殺や略奪なども行っており、そうした行為の是非は論議されるべきだろう。ただ、それをモラルや安易なヒューマニズムから議論したのでは何の意味もない。歴史は「モラルが全て」ではないのであり、安易なヒューマニズムで判断してはいけない)
そうした初期の従軍者の悲壮なまでの「正義感」や「決意」と、後世にカネで従軍や原罪を都合よくまぬがれようとした人間たちの「ズルさ」を、「贖宥」というひとつの単語でくくる、つまり、「贖宥と免罪を同一視する」のは、どうみても正しくない。

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いずれにしても中世ヨーロッパのキリスト教世界で「人間の罪は、存命中の善行(もっとハッキリいえば、カネの寄進)によって帳消しにできる」というような、「原罪と、存命中の善行とを直接に関連づける発想」が蔓延することになったのは事実だ。

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そこに、こうした「罪をカネで許す」流れに真っ向から反対する人々が、ヨーロッパのドイツ系の人たちを中心に現れた。それが宗教改革だ。
例えばマルティン・ルターが「予定説」をとなえたのは、「罪と現世の善行の切り離し」をはかるのが目的だった。

さらに視野を大きくとると、
カソリック中心だった中世ヨーロッパに、プロテスタントが生まれ、さらにイギリス、さらにはイギリスから独立したアメリカの歴史が胎動していく「エネルギー源」のひとつになったのが、この
罪とカネの関連付けに対する嫌悪感
なのだ。

だからアメリカ史、ひいてはMLB史を眺める上でも、この記事で扱う話題は避けて通れないし、それどころか、現代史を語る上でも必須だ。
例えば、近年のギリシアの財政危機において、EU内部で「ギリシア人の放漫な体質」と、「ドイツの生真面目で倹約好きな体質」の落差が鮮明になった。
こうした例にみられるように、EUの大部分がキリスト教世界であるとはいえ、カソリック系諸国のゆるい体質と、プロテスタント的な厳格さを装いたがるドイツとの落差は21世紀の今も埋まってはいない。

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だが、かつて宗教改革を主導し、改革と勤勉の旗手、プロテスタントの代表選手を自認しているはずのドイツが、実は「クリーンディーゼルという旗印のもとで、エコロジーという名目の罪悪感を煽りつつ、免罪符を売り歩いていた」、としたら、どうだろう。

話はまったく違ってくる。

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20世紀初頭に書かれたマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』はまぎれもない名著だ。

というのは、かつて宗教改革のモチベーションにもなった「カネに対する嫌悪感」が、その一方では、「イノシシのごとくにカネ儲けに向かって猪突猛進する猛烈なエネルギー」に変わるという、「あまりにもややこしすぎる、理解しづらいプロセス」を、この書物が非常に明快に説明してみせたからだ。

この「ややこしい話」を理解することは現代史を語る上で必須の話だ。例えばジョージ・ソロスなどもそうだが、「カネ儲けを嫌悪しているクセに、カネ儲けが大好きな人たち」は大勢いる。他にも、近代以降のユダヤ人史を見るときにも、こうしたカネに対する嫌悪と執着が混在した奇妙な感覚がわからないと理解できない部分は多々ある。(ちなみに、未完に終わったが晩年のウェーバーは世界中の宗教と経済の関係について研究していて、ユダヤ教についての著作もある)


だが、残念ながら、この「ややこしい話」は日本人には非常に理解しづらい。加えて、日本人に理解できにくい原因についても、これまで明確にされることがなかった。
なぜ、「カネ儲けが大嫌いなクセに、カネ儲けマニアになる人間」がいて、彼らが世界を動かしたりするのか。そんなことを歴史の「流れ」を理解しないまま理屈だけ悩みだすと、わけがわからなくなり、現代というものが把握できないまま堂々巡りに陥る。


一連の記事を書いたことでひとつわかったことだが、日本人が「マックス・ウェーバーのややこしい話」の真髄をなかなか理解できない原因は、日本がもともとキリスト教世界ではないことに尽きる。つまり
かつてマックス・ウェーバーの描きだした「カネに対する嫌悪感」のルーツが、ここまで書いてきたようなキリスト教圏における「罪とカネの関連付けに対する嫌悪感」にあるという「欧米史の基本」をきちんと把握できていない
ということだ。

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物事には因果がある。

ブログ主が贖宥と免罪を分けるべきだ、などとめんどくさいことを言うのは、かつてキリスト教世界を動かした宗教改革の「モチベーション」が、崇高な教義解釈の違いによる内部分裂ではなく(もちろんそれも多少はあるのだろうが)、根底に『カネの問題』があったという欧米史の基本とそのルーツをこの際ハッキリ認識しておくべきだと思うからだ。贖宥と免罪が同じものだなどという間違った説明は理解の妨げにしかならない。


ヨーロッパ中世の「罪とカネの関連づけ」に対する嫌悪は、後の欧米社会と資本主義、そしてそれらがかかわる地球上のあらゆる国家の進む方向にとてつもなく大きな影響を与えることになった。
中世以降、現代にいたるまで、世界を動かしてきたエネルギー源のひとつは、この
免罪符に象徴されるような「罪とカネの関連づけに対する嫌悪感」、そこから生まれた「カネもうけに対する嫌悪感」、そして、その嫌悪感が化学変化して生まれた「熱烈な金儲けの情熱
だったりするのである。

それを理解する上で大事なのは、「なぜヨーロッパで、罪とカネの関係が問題になったか」という根本の原因を把握しておくことだ。
宗教改革のリーダーだったルターやツウィングリが、何の動機も理由もないまま、いきなりキリスト教を改革しようとか言い出したわけではなく、また、何の前提もないまま、いきなり「『カネへの嫌悪感』と『猛烈なカネ儲けの情熱』の理解しがたいセット」が生まれたわけでもない。

人間は、嫌いなものには情熱を傾けないか、というと、そうではなかったりする。まったくもって人間という生き物は、不思議な、そしてかなり奇怪な生物だ。

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話はようやくここで、
フォルクスワーゲン不正事件に戻る。


これまで「エコロジー」という概念のもとでは、非常に多くの「標語」が発明されてきた。地球温暖化、二酸化炭素排出権、捕鯨禁止、クリーンディーゼル、シーシェパードなどなど。エコロジー団体の掲げる目標や標語は、ダイエットの手法と同じで(笑)、果てしない。
これらの数限りない「お題目」と「団体」は、毎日世界のどこかで新たに開発され、数限りないキャンペーンがはられ、その達成のためと称して補助金だの支援だのという名目の「カネ」が動いている。


最初に書いたブログ主の「エコロジーに関するモヤモヤが晴れた感じ」とは、エコロジーという場合についていいかえると
エコロジー発想と、それに沿って「カネが動くシステム」は、明らかに古くからある「免罪符システム」をなぞっている
という意味だ。それはフォルクスワーゲンだけに限らない。


エコロジストは「本来は限りなく美しく、均整がとれているはずの地球」という「現代のエデンの実現」が人類共通の「強い義務」だと主張してきた。他方、人間は、技術的・資源的な制約とモラル上の未熟さなどから、
「今のところ地球を汚さないと生きていけない」という「エコロジー上の原罪」を背負って生きている
ことになっている。
こうしたエコロジーの完全達成を「猶予」「免除」する行為は、常に「カネ」に換算され、エコロジー活動に「寄進」することで罪悪感や義務感、罰則が軽減されている。
これこそが
「エコロジー上の贖宥」「エコロジー免罪符の発行」の仕組み
である。

例えば「二酸化炭素排出権」においては、美しい「はず」、自然のシステムが作動している「はず」の地球が、「汚染され」「機能不全に陥りかけていること」が、「国家単位での、まぬがれられない原罪」などと規定され、その「地球という美しい聖地」を奪還するために「エコロジーという名の十字軍」が規定され、「エコロジー十字軍への従軍」がそれぞれの国に課せられている、というロジックになっているわけだ。

だが実際にはどうかといえば、その不完全な達成を「猶予」したり「免責」したりするために、「カネ」で二酸化炭素排出権が売買されている。
こうした「二酸化炭素排出権の売買システム」は、明らかに「中世ヨーロッパの免罪符売買システム」そのものだ。

世界各国に「二酸化炭素排出権というエコロジー免罪符」を発行しているのは、元をただせば「エコロジーという宗教」なのである。


では「クリーン・ディーゼル」というお題目の「集金システム」はどうだっただろう。
美しい地球の奪還というお題目を掲げる「エコロジーという名の宗教」においては、「きたない排ガスを出す自動車という乗り物」は「人間のかかえる原罪」と規定されるだろう。なぜなら、エコロジーの立場からいえば、いまのところ人間は、社会の維持や生活のために環境に害を撒き散らす自動車という便利な道具に頼ること、つまり「自動車という原罪」から逃れられる状況にはまだ至っていないからだ。

ここで、本来なら人類全体が達成すべき「償い」とは、国家レベルでいえば「エコロジーという十字軍」による「異教徒(=排ガス)」の完全討伐による「美しい地球という聖地の奪還」だろうし、また個人レベルでは「自動車にまったく乗らないという選択(=十字軍従軍)」という選択も可能だろう。
だが、いまのところ社会全体での自動車の完全な無公害化は達成されていないし、またクリーンな自動車は非常に高価だったりもする。

そこで登場したのが
比較的低公害な自動車の購入という『免罪符』の発行
だ。
「クリーン・ディーゼルという免罪符システム」は数ある「自動車免罪符」のひとつだったのであり、EUはそれを認め、それに「カネ」をからませた
つまり、クリーンディーゼル車を買うという「寄進」は、それを行う人にとって、クリーンディーゼル車を購入することがひとつの「環境破壊を完全にはやめられないことに対する倫理的償いになる」という巧妙なロジックなわけなのだ。


さて、この「フォルクスワーゲンのクリーン・ディーゼル車を、それがたとえ高価なものだろうと、自分の身銭を切って購入するという寄進行為」は、最初に区別しておいた、「贖宥」なのだろうか、それとも「カネで免罪符を買う行為」なのか。

ブログ主は明らかに
後者だと考える。

「クリーンディーゼル車を買う」という「寄進」行為には、明らかにかつての「カネを払うことで、罪悪感を軽減しようとする」というニュアンスが含まれている。
ヒトは、「エコロジーという宗教」で生産され続けている数多くの「十字軍行為」(それは、2015年10月26日、コンセプチュアルなハーメルンの笛 「近代ドイツ神話主義」の終焉。 | Damejima's HARDBALL でいうところの「ドイツ製の神話」でもある)のひとつである「クリーン・ディーゼル十字軍」に、エコカー購入という寄進行為によって遠まわしに参加して、「環境破壊についての罪悪感の軽減を実感」していた、というわけだ。

あさはかなものだ。

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長々と書いてきたが、この記事を再圧縮してみる。

欧州中世の贖宥という制度にもみられた「原罪の償いの代替」の問題は、中世において免罪という「罪とカネの関係」に変質し、それはやがて宗教改革の原動力となった「カネに対する嫌悪感」を生んだ。

ところが奇怪なことに、この「カネに対する嫌悪感」は近代において「カネ儲けの情熱」に化学変化を起こした。

こうした「カネに対する嫌悪感から生じた、カネ儲けの情熱」は現代社会に蔓延する「罪悪感と寄進の集金システム」として、人々の罪悪感やうしろめたさを煽ってカネに変える集金システムとして機能している。


この「罪とカネの世界史」において、「ドイツ人の登場割合」は非常に多い。
例えば、贖宥状を販売して回っていたヨハン・テッツェル、宗教改革をはじめたマルティン・ルター、そしてスイスの宗教改革者フルドリッヒ・ツヴィングリもドイツ系だ。さらにいえば、カネへの嫌悪感が金儲けの情熱に変質する過程を分析してみせたマックス・ウェーバーもプロイセン生まれのドイツ系だ。
つまり、ドイツ人はかつて免罪符を売りまくる一方で、同時に、免罪符を徹底して糾弾したという、奇妙な歴史をもつということだ。
フォルクスワーゲン不正事件にしても、ドイツ人がこんどは「クリーンディーゼルという名の免罪符」を販売する側にまわっていたという意味でとらえるなら、まぎれもなくこの「罪とカネの世界史」の流れの真っただ中にある。
(ちなみに、今後の記事で書く予定でいるのだが、歴史的にドイツという不思議な国はかつて「古代ローマ帝国のストーカーともいえるほどの模倣者」でもあった。この国のもつ「過剰すぎる情熱と奇妙な矛盾」は世界史のあちこちに種がまかれ、発芽している)


人の無意識な罪悪感や良心の呵責を煽りたてることで、寄進をつのったり、補助金を得たり、売上を稼いだりという「罪悪感ビジネス」は、今の時代、びっくりするほど数多くある。(環境ビジネスの他にも、被害者ビジネスなどでもロジックは似ている)

エコロジーというコンセプトは世間の人が思っているほどクリーンなものではないこと。そして、他人のモラルをやけに突っつきたがる人間や、金儲けを批判したがる人間が、カネ儲けに情熱を傾けていないわけではなく、また、カネ儲けが大嫌いなわけでもないということを、この際ハッキリ言っておきたいと思う。

April 28, 2016

ひさしぶりに野球の記事を書く。
こんなに肩がこる作業だとは思わなかった(笑)
よくこんなめんどくさいこと、1000本以上やったものだ(笑)

イチロー MLB通算2943安打

2016年4月26日 at Dodger Stadium


最初の写真はドジャー・スタジアムでフランク・ロビンソンに並ぶMLB2943安打を打ったときのイチローだ。この写真の「意味」というか「凄さ」は、わかる人には誰もがわかっていることなのだが、中にはわからない頭の悪い人もいる。今回はそういう、わけがわからない人のために書く(笑)


まず、先日マーリンズ・パークで8号ホームランを打ったときのブライス・ハーパーの写真とイチローを並べてみる。下半身のカタチに注目してもらいたい。

イチローとブライス・ハーパー フォーム比較

2016年4月21日 Marlins Park


まだ意味がわからない?
そういう人のためだけに、もう少しだけ書く(笑) ほんと、めんどくさいな(笑)


上のイチローとハーパーの比較写真は、「下半身のカタチがまったく同じ」だ。これは誰にでもわかる。

だがひとつ、「決定的な違い」がある。
なぜなら、ハーパーの画像が「スイング前」であるのに対して、イチローのほうは「スイング後」だからだ。

そう。2943安打のイチローは、
「スイング後」のはずなのに、
下半身は「スイング前の基本位置のまま」

なのだ。


さて、その意味を知るために同じ打席のブライス・ハーパーで、通常パターンのバッティング・フォームの推移を見てみる。

ブライス・ハーパーのバッティング・フォーム

この連続写真で、最も重要な、野球好きなら誰もが気づかなくてはいけないと思う点のひとつは、踏み出した「右足のピント」がブレていない、という点だ。

逆にいえば、右足以外、つまり「上半身」と「左足」のピントは常に「ブレて」いる。つまり、それらは「高速移動している」状態にある。
にもかかわらず、「右足」、特に「右膝から下のピントだけ」が、常にあっている。つまり「動いていない」。

これはもちろん、熱心な野球ファンなら誰でもわかっていることだが、左打者の場合、「踏み出した右足」をできるだけ開かないようにしながら「左足と上半身だけを旋回」してバットをスイングしているからだ。(ただし右打者の場合は、左足と右足の股関節の可動域の違いから、必ずしも左打者と同じ動作になるとはいえない)

文字で読むと簡単にできそうに思うかもしれないが、実際にはそうではない。「身体の右半分は回さず、左半分だけ回す」というような、不自然な、無理のある動作は簡単に実現できるものではない。


次にブライス・ハーパーの3枚の写真の「ベルトの位置」(というか臍の位置)を見てもらいたい。

野球における臍下丹田の重要性を熱心に語ったのは、2012年に亡くなった、かの榎本喜八翁なわけだが、スラッガー系の打者はよく「伸び上がるチカラ」とか「スウェイするチカラ」をバットパワーに利用している。
ハーパーの「ベルト位置」を3枚続けて見ると、彼が「少し伸び上がってスイングしている」ことがわかる(他に彼はファースト方向に下がりつつ長打を打つことも多々ある)。
面白いことに、定規をあててハーパーの「眼の高さ」を調べてみると、彼の「眼の高さ」はほとんど変わっていないことがわかる。

伸び上がっている、なのに、眼の高さは変わっていない、のだ。

もちろん、ボールを最後までしっかり見るために視線はあまりブレないほうがいいに決まっているから、スラッガーとしては「伸び上がりながらも、同時に、眼の高さは変えないようにしたい」わけだ。

だがこれも、実際やってみると簡単ではない。人間、伸び上がって動作すれば、眼の高さも当然変わるものだ。

それを防ぐというか、矛盾を解消するには、例えば次のような2つの動作を同時にこなすような「工夫」が必要になってくる。
1)体幹を急激に伸ばして、伸び上がりながらも
2)身体を弓なりに曲げて傾け、目線は上がらないようキープ
加えて、左打者なら
3)右足はミートまで固定しながらも
4)左足と上半身は激しく回転
させなければならない。


ややこしいこと、このうえない。

だが、こんなことはあくまで野球のイロハであり、打者はこうした複雑な動作を若い頃から練習で身につけている。
複雑な動作というのをもう少し詳しく書くなら、打者は「無理な姿勢と無理な動作をわざと身体に強いる」ことで、カラダ全体、特にが一時的に蓄える「窮屈なチカラ」を、スイング、特にバットヘッドの回転に向けて急激に開放することでボールを弾き飛ばそうとする。

だが、この「窮屈なチカラの開放」というやつは、概して「途中で止めることが難しく、途中で止めると溜めたチカラが発散して消え、無力化してしまう」という難点がある。

だからこそ、投手にとって打者とのかけひきで重要なのは、打者が長年の習慣として身にしみつかせた「連続的なチカラの開放動作」を、途中で止めさせたり、変更させたりすることで、チカラを分散・発散させ、バットヘッドに集中させないという点に真髄があるわけだ。


ここまでくれば最初に挙げたイチローの写真の「意味」は、もう説明しなくてもいいはずだ。彼は
1)「スイング初期の下半身」を基本に忠実な位置のまま中断して、スイング終了後にまでキープし続けたまま
2)上半身だけを鋭く回転させて、まるで「鎌で稲穂を刈り取るように」バットを振り切ってライナー性のヒットを打ち
3)そのくせ、顔(目線)だけは、スイングが終わりかけてもずっとミートポイントを見続ける位置に残っている
のである。
こんなこと、腰痛持ちの老人にはとても無理だ(笑)


投手の投球術によって打者がバランスやタイミングをズラされて「下半身のカタチを崩されて」しまい、やむなく「手だけ」でバット操作してボールを無理矢理当てにいくのが、「手打ち」だ。

だが2943安打のイチローは、見てのとおり下半身はまったく崩されていない。これは手打ちではない。まったく違う。

普通ならば、バットを止めるか、通常のヒッティング状態に移行していきそうなものだが、イチローは「顔」と「下半身」を「バットを振り始める前の位置」に止めたまま、上半身の回転だけでバットを振り切ってしまうという独特の荒業(笑)を行っている。
身体とバットのすべてを止めるというのならともかく、下半身に加えて顔まで残したままバットだけ振り切る、なんてことは、普通なら筋肉も関節も脳もついていけない。
自分はやれると思う人は、どうぞバッティングセンターででも試すといい。

こういうのを見れば、今シーズンのイチローがコンタクト率が異常に高いのも当然の話で、説明するまでもない。イチローだからこそ、あんなボール球をレフトにライナー性の打球が打てるし、ボールもストライクも関係ない。


いつぞや2012年にヤンキースで地区優勝した年にマット・ウィータースのタッチをかいくぐってホームインした「マトリクス・スライド」もそうだったが、自分の身体を自分の思ったように動作させる能力と、それを支えてきた技術と身体能力とトレーニング、これこそが「イチロー」だ。
2012年10月9日、2012オクトーバー・ブック 『マトリクス・スライド』。ついに揃った 『イチロー 三種の神器』。 | Damejima's HARDBALL


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