June 2016

June 28, 2016

「ネット検索して出てくる情報」が正しいとは、限らない。たとえそれがもっともらしく「Q&A形式」になっているとしても、だ。

そういう例のひとつとして、ボールパーク名物のひとつ、「ホットドッグのネーミングの起源に関する話を出発点に、いろいろと書いてみる。

「1908年ポロ・グラウンズで行われる野球の試合の告知ポスターが、"Take Me Out to the Ball Game"の作詞をてがけたJack Norworth (1879-1959)のインスピレーションの源だった」ことを2012年に記事に書いた。
2012年4月27日、1908年の試合告知ポスターにインスピレーションを得て作られたといわれる "Take Me Out To The Ball Game" の「元になったゲーム」を探り当てる。 | Damejima's HARDBALL

1908年にできた"Take Me Out to the Ball Game"の歌詞に、"Buy me some peanuts and Cracker Jack" とあることからして、20世紀初頭のMLBのでは既に「観戦中に観客が楽しむ食べ物」がボールパーク内で販売されていたことがわかる。もちろん「ホットドッグ」もそのひとつで、1900年代初頭には既に販売されていた。


STEP 1) 初歩的間違い

「ホットドッグ」というネーミングの起源に関して、よくある「間違った説明」は例えば以下のようなものだ。
1901年4月ニューヨークのポロ競技場にて。  
熱々のソーセージをパンに挟んだ「ダックスフント・ソーセージ」が売れに売れており、それを見たニューヨークジャーナル誌のスポーツ漫画家が,「Hot dachshund!」と声高に売られていた「パンに挟まれて湯気を立てているソーセージ」の漫画を描いて紹介した。だが、その漫画家は「dachshund」の綴りがわからず、その漫画の中で「Hot dog」としてこれを紹介した

もっともらしく書かれているが、「ポロ競技場」などという書き方で、そのいい加減さがわかる。「ポロ・グラウンズ」という言葉の意味もわからない人間がアメリカのスポーツ文化についてマトモな話ができるわけもない。おそらく「自分で何が書いてあるのかわからないまま、どこかのサイトから引用」して、下手するとそれを「機械翻訳した」だけだろう。

この説明文のいう「漫画家」とは、1900年代にニューヨーク・ジャーナル紙の漫画家だったTad Dorgan (Thomas Aloysius Dorgan 1877-1929)のことで、実在の人物ではある。

だが、Tad Dorganの経歴からわかることだが、「Tad Dorganが1901年にニューヨーク・ジャーナル紙にホットドッグの漫画を描く」ことなど、ありえない。
Dorganは1902年まで西海岸のサンフランシスコ・クロニクル所属であり、彼がニューヨークに転居するのが1903年(資料: "Word Myths: Debunking Linguistic Urban Legends" by David Wilton, 2008)、New York Journalで働きだすのはもっと遅れて1905年だ。

ハッキリした経歴との矛盾から「Tad Dorganがホットドックの命名者ではない」ことは、かなり前からアメリカの数多くのサイトと書籍に明記され、否定されてきた。加えて、現在にいたるまで「Tad Dorganが野球場のホットドッグを題材に書いた1901年の漫画」そのものがこれまでまったく発見されていない。
No one has found a copy of the cartoon said to have given the hot dog its name. Maybe the cartoon never existed.
Hot Dog History | NHDSC

ちなみに、日本のウェブ上には、この誤った「Tad Dorgan1901年命名説」をいまだに記載しているサイトが多数あるわけだが、その「元ネタ」をきちんと明示しているサイトはほとんど存在しない。ということは、そうしたサイトのほとんど全部が「Tad Dorgan1901年命名説」をまったく検証もせず載せているということだ。


書籍 "The Cooperstown Symposium on Baseball and American Culture, 2013-2014" (William M. Simons, 2015)によれば、「Tad Dorgan1901年命名説」のオリジナルは、1935年にCollier's誌に掲載されたジャーナリストQuenthin Reynoldsの記事だそうだ。

Collier'sはアイリッシュ移民だったPeter F. Collierが1888年に創刊した雑誌で、1892年には25万部を売り、当時アメリカで最も売れている雑誌のひとつだった。
Collier'sの売りは、記者が「埋もれている事実」を発掘してきて記事にするという独特の執筆スタイルにあった。Collier'sや、1893年創刊のMcClure'sなど、20世紀初頭の「追及型の記事スタイルの雑誌」を、アメリカのジャーナリズム史においてMuckraker(マックレイカー)と呼ぶ。
Collier'sやMcClure'sの一時的な成功は、1906年の演説で大統領セオドア・ルーズベルトが "muckraking journalism" と苦々しく呼んだように、第一次大戦前までのアメリカで多くの追従雑誌を生んだ。(Muckrakerは後年名称が変わり、Investigative journalism(=調査報道)などと呼ばれるようになった)

だが、Collier'sの創刊初期の宣伝文句は "fiction, fact, sensation, wit, humor, news" というものであり、Collier's自身が必ずしも「事実のみを報道する」とは言っていないのである。日本のジャーナリズムにありがちなことだが、Muckrakerが事実のみを追求した純粋な報道だったというのは、単なる思い込みに過ぎない。この点を忘れずに、ここから先を読み進めてもらいたい。

The Baseball Player by Norman Rockwell, Collier's June 28, 1919.Collier's 1919年6月号
イラストはノーマン・ロックウェル


STEP 2) 少しこみいった話

Madison Square Garden (1890)二代目Madison Square Garden
今では否定されている「Tad Dorgan1901年ポロ・グラウンズ説」にかわる説として、「Tad Dorgan1906年マジソン・スクエア・ガーデン説」というのもある。
これはTad Dorganが1906年にマジソン・スクエア・ガーデン(=1889年移設された二代目MSG)で開催されたいわゆる「6日間レース」でホットドッグに出会い、それをネタに漫画を描いたという説で、こちらのほうは書いた漫画も実在しているらしい。

だが、この説も残念ながら間違いだ。
イェール大学の学生の出版物などの資料によって、Hot Dogという表記が1900年より前からあったことがわかっている。たとえTad Dorganが1906年にホットドッグの漫画を描いたのが事実であっても、その時点では「ホットドッグ」という名称は「既にあった」わけだから、Tad Dorganの命名ではない。


ただ、1906年MSG説がちょっと面白いのは、なぜ話が「ポロ・グラウンズの野球」から突然「MSGの自転車レース」にすりかわったのか、という点だ。

ブログ主が思うには、 Tad Dorgan の2歳年下の弟、John L. DorganがMSGのPR責任者だったからではないかと思う。

Six-day racingというのは、1878年ロンドン北部イズリントンという町で開催された「2人組で6日間走りぬく耐久的な自転車レース」のことで、1891年にニューヨークのMSGで開催されるようになった。2人組の自転車レースに今でも「マディソン (Madison)」というレース方式があるが、そのネーミングは、100年ほど前に「Six-day racing」がMSGで開催されはじめたことに由来している。

Six-day racingはしばらくしてからアメリカで人気となって、逆輸出もされてヨーロッパ各地でも開催されたが、当初はあまり人気がなかったらしい。

と、なると、当時MSGのPR担当者だったTad Dorgan の弟、John L. Dorganが、ニューヨークメディアの漫画家である自分の兄に「なぁ、兄ちゃんよぉ、ちょっと人気がイマイチで困ってるんや。MSGの自転車レースをネタに、漫画をひとつ書いてもらえへんか?」と「頼んだ」のではないかと、ブログ主は考えた。

これが事実かどうかについては、これまで誰も追及していない。
ホットドッグのネーミングの起源をいい加減に書きつらねてきた人々は、Tad Dorganの弟がMSG関係者だったことにも、「1906年の自転車レース」というのが、ただの普通名詞ではなくて、「スポーツの殿堂でもあるMSG発祥の、歴史的なイベントのひとつだった」ことにも、まるで気づかないまま書いているのだから、当然だ。


STEP 3) 少しこみいった蛇足

1906年マジソン・スクエア・ガーデン」という話でどうしても書きくわえておきたいのは、同じ年、同じ場所で起きた実在の大スキャンダル、スタンフォード・ホワイト事件だ。

二代目MSGは、20世紀初頭のアメリカを代表するボザール出身の3人の建築家の設計事務所、McKim, Mead & Whiteの、スタンフォード・ホワイト(Stanford White, 1853-1906)が設計したものだ。

100年ほど経った今も数多く現存している彼らの作品群は、彼らがアメリカ建築史に永遠に名前を刻まれたレジェンド、いわば殿堂入り選手であることを物語っている。
1993年シカゴ万博の有名な白い建築群。イタリア産大理石に包まれたBoston Public Library(旧館)。荘厳なコロンビア大学のLow Memorial Library。Washington Square Arch。とても書ききれない。壮麗なアーチの美しさに時を忘れてみとれてしまう作品が多数ある。

Agriculture Building, Columbian Exposition, Chicago, 1893
Boston Public Library(旧館)
Low Memorial Library, Columbia University


その有名人が、自分が設計したMSGでミュージカルを観劇していて、不倫相手イヴリン・ネズビット(Evelyn Nesbit, 1884-1967)の夫、富豪ハリー・ソーに射殺されるという悲惨な事件が、スタンフォード・ホワイト事件だ。
1906年6月25日、色男でオンナ遊びに忙しいスタンフォード・ホワイトと、ハリー・ソー夫妻は、昼間レストランで、そして夜遅くにMSGのミュージカルで、二度顔を合わせた。曲が演奏される中、いきなり立ちあがったハリー・ソーはホワイトの顔面に鉛の弾を3発も撃ち込んだ。おそらく二度も顔を合わせたことでブチ切れたのだろう、

Evelyn NesbitEvelyn Nesbit

この事件の裁判では、ネズビットがハリー・ソーの母親にカネをちらつかされ、夫ハリー・ソーに有利な証言をしたこともあり、なんとハリー・ソーは「一時的な狂気」として罪を逃れた。ちなみに、ハリー・ソーの母親は結局ネズビットにカネを払わなかったというから、したたかすぎる。

この事件は何度も映画化されていているが、リチャード・フライシャー監督『夢去りぬ』(The Girl in the Red Velvet Swing)では、イヴリン・ネズビット本人が監修しているため史実に近いらしい。
なお、原題のRed Velvet Swing(赤いベルベットのブランコ)とは、スタンフォード・ホワイトが24丁目に持っていたアパートの「隠し部屋」の天井からぶら下がっていたブランコのことで、ネズビットが裸に近い恰好でブランコをブラブラさせて遊んだという実話が由来になっている。

こうした突拍子もない事件に「1900年代のスキャンダルが死ぬほど好きなメディア」が飛びつかないわけはない。ウィリアム・ランドルフ・ハースト系列の新聞メディアなどは、この裁判を「世紀の裁判」(Trial of the century)などと謳って、連日記事にして儲けたらしい。


STEP 4) 単純で、あまり面白くもない「真実」

さて、話をhot dogに戻して英語辞書をウェブ上でひくと、こんな結果が出てくる。
hot dog (n.)
also hotdog, "sausage on a split roll," c. 1890, American English, from hot (adj.) + dog (n.). Many early references are in college student publications; later popularized, but probably not coined, by cartoonist T.A. "Tad" Dorgan (1877-1929).

Meaning "someone particularly skilled or excellent" (with overtones of showing off) is from 1896. Connection between the two senses, if any, is unclear. Hot dog! as an exclamation of approval was in use by 1906.

hot-dog, n.
1. One very proficient in certain things. 2. A hot sausage. 3. A hard student. 4. A conceited person. ["College Words and Phrases," in "Dialect Notes," 1900]
The Online Etymology Dictionary

どうやらアメリカの19世紀末の英語では「ソーセージ」のことを dog と表記する表現があったり、あるいは、傑出した人物、勤勉な学生のことを hot dog などと呼ぶ表現もあったらしい。

実際、前述のWord Myths: Debunking Linguistic Urban Legendsによれば、1884年のイェール大学の学内新聞Yale Recordに、 "dog" という単語を「ソーセージ」という意味で使っていたという記述例らしきものが複数みつかっているらしい。このことから、同書は「ホットドッグのネーミングの起源」として、「19世紀末の大学では、dogはソーセージと同義語として使われていた」という、味もそっけもない拍子抜けな結論(笑)を導きだした。(なお「大学内のスラングがなぜ世間に広まったか」は説明されていない)
Yale Recordにおける1985年の使用例
But I delight to bite the dog
When placed inside the bun
Word Myths: Debunking Linguistic Urban Legends - David Wilton - Google Books


STEP 5) Tad Dorganのための、蛇足の蛇足

これはジャズ・スタンダードのひとつ、But Not for Meという曲の歌詞だ。(曲はジョージ・ガーシュイン、作詞はその弟で作詞家のアイラ・ガーシュイン)
Old man sunshine listen you
Don't tell me dreams come true
Just try it and I'll start a riot
Beatrice Fairfax don't you dare
Ever tell me he will care
I'm certain it's the final curtain
I never want to hear from any cheerful Polly-Anna's
Who tell you fate supplies a mate - it's all bananas



この歌詞に it's all bananasという不思議な表現がある。これはTad Dorganが作った「気が変になる」という意味の造語 go bananas からきているらしい。
他にも、"cheaters"、"drugstore cowboy"、"hard-boiled" などがスラングづくりの天才といわれたDorganの作といわれていて、たとえHot DogがDorganの創作でないとしても、Dorganが多彩な才人だったことには疑いない。(ただ「ハードボイルド」に関して「ブロードウェイでビリヤードの教習所を開いていたJack Doyleという人物が発明者だ」なんて説もあるくらいで、Dorganのオリジナリティは常に霧の中に包まれている)



ここまで長々と書いたが、以上の事象のすべてに共通していることは、Tad Dorganの活躍した19世紀末から20世紀初頭にかけてのアメリカが、新しい言葉、新しいメディア、新しいビジネスが次から次へと生まれた「若さあふれる時代」、「アメリカが本当に若かった時代」だったということだ。


この時期に生まれた初期のマス・メディアを「アメリカでジャーナリズムがまだ飼いならされていない、アメリカが正義感に溢れた時代」と、やたらと称揚したがる人が多い。

だが、Collier'sに掲載された「hot dogのネーミングの語源に関する記事」が実は根拠のない間違ったものだったにもかかわらず、Tad Dorgan起源説が長く信じられてきた。
記事が間違いであることは当時のTad Dorganの経歴を調べれば誰でも簡単に指摘することができるわけだが、それが長年行われてこなかったのは、「Collier'sのジャーナリズムは高級だから、間違ったりはしないだろう」という先入観によるものだったのではないだろうか。


ブログ主にいわせれば、19世紀末から20世紀初頭の非常に若さに溢れていた時代のアメリカの人々が、日々起こるニュース、新製品、新しいスポーツ、新しい言葉、新しい食べ物、企業や有名人のスキャンダルなど、さまざまな「新しさ」に飛びつくことが、3度のメシより好きだった理由は、けして「真実を貴ぶ気持ちから」ではなく、むしろ単純に、それらが情報として強い刺激に満ち満ちた「スキャンダラスなまでの赤裸々さ、なまなましさ」に溢れていたことが理由だろうと考える。

つまり、当時の彼らにとっては、Tad Dorganが作ったスラングも、スタンフォード・ホワイト事件も、ウィリアム・ランドルフ・ハーストのイエロー・ジャーナリズムも、Collier'sのInvestigative journalismも、「赤裸々さ」、「リアルタイムさ」、「なまなましさ」という点で、たいした差はないのである。


いいかえるなら、「情報」という「強い酒」に酔うことを初めて覚えた、それが、「20世紀初頭の若きアメリカ」だったのだろうと思うのだ。

June 26, 2016

高齢化社会という出来損ないのスローガンと、老人を最優先すべきとかいう間違ったモラル、この「セットメニュー」を誰が、いつ広めたのか知らないが、いまの時代に最も必要なモラルはむしろ、「若者は安易に老人に道をゆずるな」、「足の遅い老人は脇にどいて道をゆずれ」というものだろうと、ずっと真面目に思ってきたが、人前でそれを言うと誰もが眉をしかめるのはなぜだ(笑)
日本国籍の無い外国人に税金で生活保護費を払ってやるような根本的に間違ったことがいまだに現実にまかり通っているおかしな国では、こういう話はマトモには取り扱ってもらえない(笑) ガイジンに払う生活保護費こそ、他の用途、例えば介護する人の給料にでも回すべきだなんてことも誰も発言しない(笑)
 

2013年にこんなことを書いた。(太字は今回の記事で新たに添付)

「若者」という存在は、古代から現代にいたるまで、いついかなる時代においても「主役」であると思いこまれがち(そして、そう教えこまれがち)だが、実は、「若者をそれほど必要としない時代」もある

2013年5月4日、「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。アメリカにおける「放浪」の消滅(3) サイモン&ガーファンクルの "America"の解読〜ニュージャージー・ターンパイクの渋滞の中で気づく「若者を必要としないアメリカ」 | Damejima's HARDBALL

昔のMLBについて調べているうち、移民の国アメリカが「本当の意味で若かった」、「チャンスにあふれていた」のは、よくいわれる50年代とか60年代とかではなく、むしろ「1900年前後」だという確信が湧いてきた。
40年代に「放浪」が法的に禁止されたことでもわかるように、アメリカは50年代には既に成熟期だったのであり、実は「若さに対する需要」なんてものはそれほど大きなものではない。もっと後のアメリカン・グラフィティ世代、フラワーチルドレン世代に至っては、いわずもがなだ。それらは見た目に派手だが、アメリカの若さの「本質部分」ではない。

上の記事でも書いたが、ブログ主の中では常に「今の時代に若者がマイノリティなのは当然」という意識がある。
ただ、意味を間違ってもらいたくない。「若者はもともと無力だから、黙って耐えていろ」という意味ではない。
「若いという立場に安住していてはダメで、自分たちがただでさえ数が少なく、常に押され気味だという意識をもて。アタマを使え。安易なヒューマニズムに、けして流されるな」とでもいう意味だ。


国民投票でEU離脱を選んだイギリスの「投票結果」について、メディアはしきりに「失業に苦しむ若者はEU残留を望んだのだが、EU離脱を望む老人のわがままに押し切られた」という図式を連呼して世論誘導をはかろうとしている。また、徒党を組んで署名を集め、国民投票のルール自体を変えて、国民投票までやってようやく決まった結論を覆そうとする人たちもいる。

だが、そうしたムービング・ゴールポスト的な行為こそ、恥ずべき「衆愚」というものだ。

考えれば誰でもわかることだが、少数者が「多数決」なんてものに頼ったら負けるに決まっているし、負けたら結論に従うべきだ。当たり前だ。
選択を間違えた勝負に出て、負けてしまい、後から「ルールそのものがおかしい。変えるべきだ」とか愚痴をたれることこそ、愚劣な衆愚そのものだ。


そんなころ日本のメディアでも離脱派の勝利をよく思わない慶応大学の教授だかが「ポピュリズムの蔓延」という言い方でEU離脱を批判していた。

ほんと馬鹿馬鹿しい。「ポピュリズムとレッテルづけすれば批判できたことになる」、「グローバリズムという言葉を使えば正当性を説明できたことになる」なら、誰でも学者になれる。批判したいターゲットを決めて、なりふりかまわず「相手をヒトラー呼ばわり」する幼稚で馬鹿げた手法を使う馬鹿と、どこも、なにも変わらない。

こういうタイプの人間はたぶん「グローバリズム」という言葉を、他人を批判するときに使うだけでなく、理想を語るときにも使う。例えば、世界企業がケイマン島で税金を逃れる的な意味でのグローバリズムは罵倒するくせに、ヨーロッパをひとつにまとめる的な意味のグローバリズムは歓迎したりする。

そういうご都合主義で他人を批判できるようにはならない。


そもそもグローバリズム「信仰者」がなんとも不思議にみえる理由のひとつは、彼らが「グローバリズムと国内雇用が正比例でもする」と思っているらしいことだ。
彼らはEUのような「アメリカとはまた違う、変種のグローバリズム」が「新たな不平等」を生んでない、とでもいいたいのだろうか。


考えてみてもらいたい。
「国家という集団」にとって「自国内の国民」がそうであるように、「企業という集団」にとっては、「正社員」とそのスキルが持つ「ローカリズム」は、いわば国内文化、自国文化のようなものだ。
ならば、いまグローバル化を最大限に進めようとしている企業があったとして、その企業は「雇用」について、「正社員数を最大化して、企業内部のローカリズムをより深化させていく方向」をとるだろうか。

ありえない

むしろ、グローバル企業というものは「雇用を外部化」する傾向にあるのが普通なのであって、彼らは世間の批判をかわすために正社員を増やす例外的なとき以外には常に「正社員という、ある種のローカリズムにできるだけ依存しないですむ内部構造をとろう」とする。当たり前の話だ。
いいかえると、グローバリズムにとりつかれた企業が「地域性」や「ローカリズム」に重きを置く理由など、どこにもないのである。


イギリスのEU残留を支持したのが、当地の若者だとしたら、いい機会だから「EUという名の、ある種のグローバリズムが、イギリスの国内雇用をも増大させてくれる」という発想がどれだけ安易だったか考えるべきだ。


ここでちょっと角度を変えてみる。

「老人対若者」という対立図式は、いわば世の中の構造における「上下」の方向の問題で、昔からあった「左右方向の問題」、つまり、イデオロギーの違いとか、政治信条の違いとかの問題ではない。

この「上下の問題」をきちんと扱えた党派やメディアなんてものは、いまのところ存在しない。(メディアは左右方向でしかモノを考えられない人間だけが集まった硬直した場所だから、当然といえば当然だが)
それが証拠に、今の時代、「政策課題」なんてものは(他国の便宜をはかろうという異常な目的ででもなければ)どんな国、どんな党派、どんなイデオロギーだろうと、それほど違わない。
例えば、どんなイデオロギーの国だろうと、与党だろうと、野党だろうと、財政は健全化しなくてはならないように、「やるべきこと」や「目標」は実はたいして変わらないのであり、手法や期待値もそれほど大きくは違わない。
つまり、もはや「左右という価値観」には価値などほとんどないということだ。


かつて日本で、「非正規」といわれる人たちが、特に若い世代で急速に増加し、「新しいクラスター化」しつつあった時代があった。その同時期、老人に対する年金支払いなどの「手厚すぎる庇護」はかつてないほど肥大していった。
これはある意味、「上下」方向、つまり世代間の利害は、不一致どころではなく、むしろ「完全に衝突している」ことが判明した時代でもあった。


だがこのとき、その「新たに出現したクラスター」と、その層の人たちに向けて何を発信すべきかを明確にとらえていた既存組織があったか、というと、少なくとも日本にはなく、鋭敏に反応したのは違法な人材派遣業だけという悲惨な有り様だったため、働き方の自由などという甘い言葉につられて、多くの若者がフリーターに転落していった。

労働組合があるじゃないかと思う人がいるだろうが、第二次大戦後ずっと労働者がどうのこうのと連呼し続けてきたこの既存団体は、新しいクラスターの発生にも、世代間の利害の衝突にも、当初からまるで無頓着で、そういう既存組織の「反応の遅さ、世間の変化を見る目の無さ」は違法な人材派遣業が跋扈する原因を作った。
それは、それらの既存団体が実は「公務員」や「特定の業界」、「正社員」といった「限定された特定のクラスだけを庇護するだけの団体」で、社会の流動性を確保していくチカラなど全く無いどころか、むしろ社会の「固定化」に資する団体でしかないことがバレた瞬間でもあった。


こうした「既存団体に庇護された特定のクラス」は、公務員に代表されるように、社会のグローバル化に左右されない、いわば「無風地帯」であり、グローバル化によって雇用(あるいは違法な生活保護)が脅かされる心配がない。「無風地帯」に長らく生存している人たちと、「無風地帯」の庇護が目的の団体にとって、社会のグローバル化で起きる事象の大半はしょせん「他人事」でしかない。

そのクセ、イギリスでトニー・ブレアの労働党もそうだったように、グローバリゼーションを肯定した人々は、その一方で厳格な負担を個人に求めた。日本でも社会保険庁のルーズさが厳しく摘発された一方で、同じ時代にその裏では公的機関による個人からの「取り立て」が厳格化されていった。「無風地帯の人々」が「風当りの強い場所」から「年貢」を取り立てるのだから、無風地帯への支持など広がるはずもない。


こうした「グローバル化と雇用が反比例していく流れ」は、ルーズすぎた諸制度の立て直し、あるいは、財政健全化というタテマエがあったにせよ、実質的に「個人生活を国家の財政再建へ隷属させる」ことにつながった。非・無風地帯の個人消費は文字どおり「死んだ」のである。にもかかわらず、「100円のハンバーガーを食うことはデフレだ」などという狂った考え方を、モノを考えるチカラのまったく無い既存のマスメディアが広めたのも、この頃だ。

もしこの「流れ」が、日本の高度経済成長期のような「正社員がたくさんいるローカリズム重視の時代」に起きたなら、直接税の増収などで国家財政は多少健全化した程度の効果はあったかもしれない。
だが、実際には「非正規」が大量生産されだすグローバリズム加速時代に行われたわけだから、「過度の福祉負担」なんてものが「若年層の貧困を加速させる直接の原因」のひとつにしかならないのは当然であり、「遊休資産を持たない貧困世代に対して、とりわけ重い負担を強いる一方で、遊休資産を持った世代を厚く処遇する」という、まったく本末転倒な時代の幕開けにしかならない。


ローカリズム全盛時代に長い正社員生活を経験し、いまや年金負担もとっくに終えた老人が「多数」いて、「無風地帯に住む特定のクラス」だけを庇護する、やたらと横につながりたがる既存の団体がある一方で、グローバリズム全盛時代に育ってほとんど正社員雇用を経験せず、重い福祉負担を義務化された若い世代が「横のつながりをほとんど持たないマイノリティ」として存在している、としたら、どうだろう。

「若い世代が安易にグローバリズムを支持すること」は、かえって自分の立場を苦しいものにしかねない。よく考えもせずグローバリズムを安易に支持したりする前に、「グローバリズムと国内雇用が果たして両立するものなのかどうか」、じっくり考えておくべきだ。


なお蛇足でひとことつけ加えると、「多数決」などという古臭い方法論が理想的に機能する、つまり、結論が出た後では対立が収まって全てが丸く収まる、なんていう、絵に描いた餅みたいなことが起きうるのは、多数決の参加者の大半が「ローカリズムの内部に共存できている場合」だけだ。
散逸的なグローバリズムが蔓延した今の世界においては、「ひとつの結論は、次の新たな対立を呼ぶ」ただそれだけのことであり、共同体内部の対立の解消につながったりはしない。

June 17, 2016

ジョー・ポズナンスキーがこんなコラムを書いてるんだけどさ。
ダメだね。ダメ。計算がまるでなっちゃいない。




ポズナンスキーは、「ピート・ローズとイチローの27歳から42歳までの打撃数値(具体的には打率やヒット数)が似てることを挙げた上で、「仮にイチローがMLBでデビューしていて、なおかつ27歳になるまでの間に899本のヒットを打てるかどうか」について書いてる。

彼は「なんの疑いもない。イチローは899本打てただろう」といちおう書いた上で、こうも書いてる。
If you got to the Major Leagues at age 20 and got 200 hits a year for 21 consecutive years ― every year until you were 41 ― you STILL would not get to Pete Rose’s hit total.
もし20歳でMLBデビューして、41歳になるまで21年連続200安打打ったとしても、ピート・ローズの安打記録には届かない。

つまり、彼が「暗に」いわんとするところは、
もしイチローが「20歳」でMLBでデビューしていたとしても、「41歳まで21年連続200安打」なんてできてたかどうかわからないし、もし仮にできてたとしても、ピート・ローズには届いてない可能性だってある。それくらい、やっぱりピート・ローズの記録は凄い。
ってことでもあるわけだ。いやらしい書き方するもんだ。


おいおいおいおい。
ちょっと待てよ、ポズナンスキー。
と、ブログ主は即座に思った。


「21年連続200安打できるかどうか」なんて、
単なるレトリックに過ぎない。

なぜって、ポズナンスキーだけでなく「もしイチローがMLBでデビューしてたら」という議論のほとんどが、「日本での打数の少なさを、MLBでの打数の多さにアジャストするとどうなるか」って視点が完全に抜け落ちているからだ。ポズナンスキーも例外じゃない。


わからない人のために説明しようか。

イチローが日本でプレーしてた時代、「1シーズンの打数」は540をようやく越えたのが2度あるだけで、600越えたことなど、一度もない。

だけど、MLBでは余裕で690前後ある。

日米で打数が大きく異なるのはいうまでもなく「1シーズンの試合数の違い」が原因だ。日本とアメリカでは、1シーズンで最低でも「150打数」程度、うっかりすると「200打数」近いくらい違うこともある。


ここで、「もしイチローがメジャーでデビューしてて、1994年から2000年までの7シーズン、毎年690打数だった」と仮定してみる。
すると、7シーズンの打数は4830で、「1994年〜2000年の仮想ヒット数」は、「打率」によって以下のように変化することになる。

仮想打率 仮想ヒット数(小数点以下切り捨て)
.330   1593本
.320   1545本
.310   1497本
.300   1449本
.290   1409本
.280   1352本


上の表で、「.330」という打率を最初に挙げたのは、実際のイチローの2010年頃までのMLB通算打率がそのくらいだったからだ。だから、非現実的な数字ではないどころか、非常に現実的な数字であり、若い体力みなぎるイチローがむしろ.330より高い平均打率を残した可能性だって十分ある。
だが、ここではいちおう控えめに「.330」としたまでだ。

打率.270以下は計算しても意味がないので計算しない。
なぜなら、打率がたった.270しかない若い1番打者が、7シーズンもの間、年間690打数も与えられるわけがないからだ。

この計算から
27歳になるまでに、たった899本しかヒットを打てなかった若い凡才ピート・ローズ」と、「27歳までに7年連続首位打者になった20代の天才イチロー」が、同等に比べられなきゃならない理由なんて、どこにもない
ことがわからない人間は馬鹿だと思う。


だがまぁ、まだわからない人もいるだろう。
あえてもうひとつ計算して、わかりやすくしておこう。


もし仮に「イチローがMLBでデビューしてて、仮に1994年から2000年までの間に4830打数あったとして、ヒットを899本しか打たなかった」としたら、打率はどうなるか。

.186だ。

「イチローが最初からMLBでデビューして、27歳になるまでにヒットを899本打てたかどうか」なんてことを真面目ぶって議論に組み込んだようにみせかけてるようなヤツが、その実、いかに慇懃無礼な人間か、これでおわかりだろう。
こういう「非現実的な話」を自分の文章に散りばめる人間が、リアルな議論をしているなどと、ブログ主はまったく思わない。たとえそれがジョー・ポズナンスキーであろうと、Cut4であろうと、だ。


もっと厳しくいわせてもらうと、ヒットを大量生産すべき貴重な若い時期にやっとこさ「899本」しか打てなかったような、そんなヘボい打者が、「若い時期のピート・ローズ」だ、ということだが、ピート・ローズの「最晩年」についても、その間の「ヒット数」と「打率」をひきくらべてみるといい。
晩年、ローズはプレーイング・マネージャー(選手兼監督)という立場を利用し、400打席以上を自分自身に与えながら、100本程度しかヒットを打っていない。そういう「ひどい低打率」だったにもかかわらず、彼は自分をスタメン出場させ続けた。それが最晩年の彼の通算安打記録の実態だ。(そしてその最晩年にローズは現役選手であるとともに現役監督でありながら、野球と自分のチームをギャンブルの対象にしていた)
参考記事:
2015年8月24日、「ヒット1本あたりの打席数」ランキングでみれば、イチローの通算ヒット数の多さは「打順が1番だから」ではなく、むしろピート・ローズの安打数こそ単なる「打数の多さによるもの」に過ぎない。 | Damejima's HARDBALL


ロジックというものはきちんと点検しないと騙される。

ちょっと聞きかじって、「ああ、たしかに、いくらイチローでも21年連続200安打はちょっと無理だろうな」などと思ってはいけないのだ。

「21年間シーズン200安打を続けられるかどうか」などという仮定を設けること自体が、単なる「上から目線からの恫喝」に過ぎない。そんな仮説は単なる机上の空論に過ぎないのである。

話はむしろ逆だ。

もし
日本の野球がもっと試合数が多くて、「日本でのイチローの打数」が「MLB並みの多さ」だったなら、当然「27歳になるまでのイチロー」がもっと多くのヒットを打っていたはずであることは、疑いようがない。
したがって、それが日本であろうと、アメリカであろうと、「27歳になるまでのイチロー」が「MLB並みの打数」を与えられていたなら、とっくの昔にピート・ローズの記録など追い抜いて、42歳時点では既に日米通算5000本に接近していた、と考えるのが、「マトモな議論」というもの
だ。

いいかえれば、
「イチローは打数の限られた日本で何年も過ごしたが、21年連続200安打なんかしなくても、イチローはピート・ローズに届いた。つまり、そのくらいイチローはMLBで、誰よりも早い、ものすごいスピードでヒットを量産し続けてきた」というのが、正しい表現だ。


加えて、ポズナンスキーはじめ「もしもイチローがMLBでデビューしていたら議論」なんてものに手を染めたがる人間はたいてい、ピート・ローズがさまざまな手を使って4256本のヒットを達成したのが「ようやく45歳で達成して、引退」であり、イチローは「まだ42歳で、なおかつ現役で、これからもヒット数は増える」ことも忘れている。
「42歳までのピート・ローズのMLBヒット数」は、「42歳のイチローの日米通算」より260本以上も少ない
のである。
日米通算というアスタリスクはともかく、同じ数字を3年も早く達成できた人間と、3年余計にかかった人間を同等に扱いたがる人は、もっと礼儀というものをわきまえつつ現実を直視したらいいと思うが、どうだろう。

3000安打達成者の1安打あたりの打席数

タイ・カッブ 3.123
(ジョージ・シスラー 3.205 3000安打未達成)
ナップ・ラジョイ 3.226
トニー・グウィン 3.256
キャップ・アンソン 3.298
トリス・スピーカー 3.413
ポール・ワナー 3.416
ホーナス・ワグナー 3.435
イチロー 3.437
(2016年6月19日現在)
ロッド・カルー 3.456
スタン・ミュージアル 3.503
デレク・ジーター 3.637
ポール・モリター 3.666
ジョージ・ブレット 3.686
ハンク・アーロン 3.697
ピート・ローズ 3.727
ウィリー・メイズ 3.806
ロビン・ヨーント 3.848
エディー・マレー 3.936
デイブ・ウィンフィールド 3.974
カル・リプケン 4.046
クレイグ・ビジオ 4.086
カール・ヤストレムスキー 4.092
リッキー・ヘンダーソン 4.369


June 16, 2016

日米通算4257安打を献上してくれたのは、サンディエゴのクローザーフェルナン・ロドニーだった。そういえば、振り返ってみるとイチローのマイルストーンはけっこうクローザーで彩られている。

フェルナン・ロドニー
2016年6月15日 日米通算4257安打



マリアーノ・リベラ
2009年9月18日 サヨナラ2ランホームラン

記事)2011年10月22日、野球ファンの「視線共有」の楽しみ 例:2009年9月18日のイチローのサヨナラ・2ランホームランを、スタジアムの角度別に楽しむ。 | Damejima's HARDBALL
記事)2011年5月28日、アダム・ケネディのサヨナラタイムリーを生んだマリアーノ・リベラ特有の「リベラ・左打者パターン」配球を読み解きつつ、イチローが初球サヨナラホームランできた理由に至る。 | Damejima's HARDBALL

イム・チャンヨン
2009年3月24日 第2回WBC決勝 2点タイムリー



ホセ・バルベルデ
2012年10月13日 2012ALCS Game 1 9回裏2ランホームラン


記事)2012年11月9日、2012オクトーバー・ブック WS Game 4でフィル・コークが打たれた決勝タイムリーを準備した、イチローの『球速測定後ホームラン』 による『バルベルデ潰し』。 | Damejima's HARDBALL


ここまで挙げた場面ほど華々しくはないが、フェルナン・ロドニーから打ったこんなタイムリーもある。

フェルナン・ロドニー
2013年4月23日 NYY vs TB 満塁で2点タイムリー


2013年4月23日、9回表2死満塁から、イチロー得意の「クローザーの初球打ち」。フェルナンド・ロドニーから決勝2点タイムリーで、ヤンキース連敗ストップ。 | Damejima's HARDBALL


クローザーの「持ち球」は、ラファエル・ソリアーノのような軟投タイプとか、ジョン・フランコのように多彩な変化球を投げる投手は少なくて、たいていの場合は「速球+その投手に特徴的な変化球が1種類」という感じでシンプルな組み立てをする "Two-pitch Closer" が多い。

そのクローザーに特徴的な変化球」、というと、ビリー・ワグナーや若い頃のフランシスコ・ロドリゲスならスライダー。トレバー・ホフマンはチェンジアップ。マリアーノ・リベラは、当然カットボール。ジェイソン・イズリングハウゼンクレイグ・キンブレルは、カーブ。

こうやって並べてみると、特徴的で絶対的な変化球をひとつもったタイプのほうがクローザーとして大成している。


とはいえ、たいていのクローザーの持ち球は、昔のジョナサン・パペルボン、上原や藤川、かつてのデイヴィッド・アーズマなどのように、「速球とスプリット」という組み合わせが多い。
ホセ・バルベルデも速球とスプリットを組み合わせるTwo-pitch Closerだったが、いかんせん、スプリットにそれほど威力がないタイプなので、速球だのみになりがちだった。

「クローザーの初球とか2球目のインコースのストレートをフルスイングする」というイチローの戦略のドツボにはまってくれるクローザーは少なくない。この場合、球速が159マイルあろうと関係ないことは、2012年にホセ・バルベルデが証明してくれたのだった。

June 15, 2016

ニューヨーク・ポスト紙のジョエル・シャーマンピート・ローズをたしなめた記事は、かのケン・ローゼンタールもほめちぎっている。
Don’t let Pete Rose’s hater dig ruin Ichiro’s milestone moment | New York Post


もちろんこの記事は速攻で日本語記事にもなっているのだが、細かい点で気にいらない。しょうがないから自分で訳した。


ジョエル・シャーマンはテレビ、映画、音楽、バレエなど、アートっぽいことが大好きとみえて、文章のあちらこちらに作品やアーティストに関連した言葉が散りばめられている。

例えば、日本語記事には訳出されていないのだが、文中に "I Dream of Jeanie" という言葉がある。これは1965年〜1970年に放送された古いコメディのタイトルで(邦題:『かわいい魔女ジニー』)、イチローのニックネームがWizard(=魔法使い)であることにちなんで筆者ジョエル・シャーマンはわざと使っている。
I Dream of Jeanie


2つ目は、これはあくまでブログ主の想像でしかないのだが、a native sonという表現はたぶん、アフリカ系アメリカ人作家リチャード・ライト(Richard Wright, 1908-1960)の1940年作品 "Native Son" を連想させるようにわざと書いているではないかと思う。
この作品はアフリカ系アメリカ人がこうむった不幸を題材にしているのだが、ジョエル・シャーマンは遠まわしにピート・ローズの発言の根底に流れる「無用な優越感と日本野球への差別意識」があからさまになることをたしなめたのではないか。(この話を理解するには、ジェームズ・ボールドウィンとか、そういうたぐいの本を読む必要があるかもしれない)



シャーマンはイチローを、ニューヨーク・シティ・バレエ団に所属したこともあるロシア出身のバレエダンサー、ミハイル・バリシニコフにたとえている。
これはもちろん、イチローの動作の「優雅さ」をバリシニコフにたとえて表現しているわけだが、それだけでなく、おそらくロシア出身のバリシニコフが1974年に亡命し、さらに1986年にはアメリカに帰化していることをふまえていて、アメリカのネイティブではないイチローが、アメリカの地元ファンの喝采を浴びてプレーし、今では将来の殿堂入りを約束されるほどアメリカに馴染んでいることを、バリシニコフと重ねあわせた表現だろうと思う。

Mikhail Baryshnikovミハイル・バリシニコフ

バリシニコフ風イチローのカーテンコールバリシニコフ風イチローの
カーテンコール

4257安打を祝福するペトコ・パークの観客にヘルメットを脱いで礼をするイチロー。立ち方がバレエダンサー風に見えるのは、「姿勢の良さ」のためだ。「姿勢」はアスリートの選手生命を左右する。


他に、モーツァルトをひきあいに出した箇所がある。これはシャーマンに限らず、アメリカのメディアでは最上級の褒め言葉のひとつといえるだろう。
というのは、その昔シリコンバレーのIT関係者の間でモーツァルトを聴くことが大ブームだった時代があったように(その後、モーツァルトを聞き飽きてしまい、ブームはベートーベンに移ったらしい)、モーツァルトはアメリカのインテリ層にとても人気が高く、モーツァルトにたとえられるということ自体が「褒め言葉」を意味するという側面が彼らにはあると思うからだ。まぁ、そのへんは日本の小林秀雄と、たいした差はない(笑)


また文末あたりで、ピート・ローズに関して "Frenzy" という単語が使われているわけだが、これはもしかするとロンドンのシリアル・キラーを扱った1972年のアルフレッド・ヒッチコック映画 "Frenzy" からのもじりで、ピート・ローズの下品さを皮肉った表現かとも思ったが、さすがにそこはハッキリしない(笑)




When a spring training game is played on the road, those who stay behind - mainly veterans - go through a workout. But there is a substitute teacher feel to it.
スプリング・トレーニングで、ロードゲームが行われる場合、遠征先に帯同しない選手(主にヴェテラン選手)はトレーニングにいそしむ。だが、それは臨時教員のような、腰の座らない感覚のものだ。

The manager and the main coaches are usually on the trip. The stands are empty. Reporters generally follow the team. The on-field work, therefore, is completed in quicker fashion with one eye on the first tee or jumping into the pool with the kids or some other free-time activity. It is a perk of being a veteran.
監督と主要なコーチは普通ロードに帯同し、スタンドは空っぽ。記者たちもたいていはチームに帯同する。フィールドワーク組は(=遠征に帯同しなかったヴェテラン選手たち)ゴルフの1番ティーとか、子供たちと飛び込むプールとか、自由に過ごせるオフシーズンならではのアクティビティに気をとられながら、グラウンドでの練習をそそくさと切り上げる。これはヴェテランならではの特権だ。

On one of these days I was the lone reporter who stayed behind at Steinbrenner Field. I was writing about a player who did not go on the trek, but up in the press box after the workout, I was not writing. I was entranced watching the lone figure who did not rush out to one of those free-time activities.
その日、記者では私だけが遠征に帯同せず、スタインブレナー・フィールド(=タンパベイにあるヤンキースの春キャンプ地。ニューヨークではない) にいた。遠征に行かなかったあるプレーヤーについて記事を書いていたのだが、練習後に(フィールドを眺めわたせる高い場所にある)記者席に上がっていったときには、記事を書いていなかった。オフシーズンの自由な娯楽に飛びつかなかった唯一の人物を眺めることに夢中だったからだ。

For 45 minutes, Ichiro Suzuki stood at home plate, pantomimed his swing and then raced at pretty much full clip to each base. A single, back to home. A double, back to home. He finished the whole tour, and then did it again. And again.
45分間、イチローはホームプレートのところに立ち、スイングの真似をして、それからフルスピードでそれぞれの塁打を想定した走塁を練習していた。シングルヒット。ホームプレートに戻る。こんどは二塁打。ホームに戻る。というように。全パターンを練習し終えると、すべてをもう一度やる。それが終わると、また繰り返す。

This was 2014. Suzuki was 40, already a legend in Japan, already accomplished enough to be a Hall of Famer here. And he was sweating alone inside a rather empty stadium practicing, well, practicing what exactly? Hitting an inside-the-park homer?
これは2014年の出来事で、イチロー40歳。既に日本のレジェンドであり、MLBでも既に野球殿堂入りに十分な実績をうちたてている。それでも彼は、すっからかんのスタジアムで練習に汗を流していた。練習であるにしても、それは何のための練習? ランニングホームランを打つためか。

When I asked the next day, Suzuki mentioned the need to stay vigilant to game possibilities. He had quick-twitch athleticism and hand-eye coordination at the peak of humankind. But to those blessings he added precision and economy of movement through hundreds and thousands of hours of what I viewed that day from the Steinbrenner Field press box. He was a genius not squandering his skills - Mozart playing his piano alone.
翌日イチローに尋ねてみたら、「ゲームで起きるあらゆる可能性に備えておくため」だという。人類最高レベルの鋭敏な運動神経とハンド・アイ・コーディネーションを持つ彼だが、それでもなお、私がスタインブレナー・フィールドの記者席から見たように、何百、何千もの時間を費やして、天性の才能にさらに「正確な動作」や「無駄のない動作」を付け加えていくのである。彼は、技能を無駄に浪費しないという面においても、たぐいまれな才能を持っている。それは、モーツァルトがひとりでピアノ練習をするようなものだ。

Suzuki running the bases in his prime was breathtaking, more of an “I Dream of Jeanie” stunt - a magical blink transporting him from one base to wherever he would stop next - rather than something an actual person could do.
全盛期のイチローの走塁といえば、それはもう、驚異的なものだった。まるで、魔法使いが登場するテレビ番組『かわいい魔女ジニー』でも見ているかのように、まるで何か瞬時の魔法みたいなものが彼を次に止まりたいと思うベースまで運んでるんじゃないか、などと思わせるようなレベルで、現実の人間にできるレベルをはるかに凌駕していた。

Seeing him still honing finer points when he could have rested on greatness just elevated my appreciation for him. It was such an obvious love letter to the game and why I feel good for him now as he approaches milestones not as just as accumulator, but somehow as a top-flight hitter again.
既に偉大な足跡に安住することが可能な地位にある彼が、なおもプレーの細部に磨きをかけ続けているのを見ると、私のリスペクトはより高まる。それは彼の野球に対する変わらぬ愛情であり、また、私が彼の野球に好感をもつ理由でもある。彼は、単にエスタブリッシュメントとしてではなく、最高の打者たらんとする努力を続けながら、マイルストーン到達に向かって歩み続けているのである。

(2ブロック省略)

Which led Rose to tell USA Today Sports: “It sounds like in Japan, they’re trying to make me the Hit Queen. I’m not trying to take anything away from Ichiro, he’s had a Hall of Fame career, but the next thing you know, they’ll be counting his high-school hits.”
ピート・ローズがUSA Todayにこんなふうに語った。「日本では私を『ヒットの女王』(=2番手)にしようとしているらしいな。僕はなにもイチローの価値をおとしめようなんて思ってない。彼は殿堂入りするに足るキャリアの持ち主さ。でも、気づいたら彼らは、イチローの高校時代のヒットまで数えだす始末になりそうじゃないか。」

So, I want to state this: Rose was my favorite player growing up, making me the rare Reds fan in Brooklyn. Pretty much everything since has offered disappointment, including these words. Serious baseball people recognize the inferiority of the Japanese league, Rose didn’t need to put words to it. No one equates Suzuki’s hit totals with those of Rose, though as an aside I believe if Suzuki began his career here, he would have been a 4,000-hit man - the evidence being he hit as well in the US as in Japan, despite the rise of talent around him.
私はこのことを言っておきたいと思う。
ローズは、子供時代に私がブルックリンで数少ないレッズファンになったくらい、大好きな選手だった。だが、この発言も含め、とてもガッカリさせられてばかりだ。シリアスな野球関係者が日本のリーグが(MLBに比べて)劣っていることを認識しているにしても、ローズがそのことについて言及する必要などない。誰もイチローの日米通算ヒット数がローズと同等とまで考えないが、その一方で、もしイチローがアメリカでキャリアを始めていたなら、おそらくヒットを4000本以上打っただろうと確信してもいる。それが証拠に、イチローは(MLBに来て)彼をとりまく選手のレベルが上がったにもかかわらず、アメリカで日本と同じようにたくさんのヒットを打ったではないか。

Is Rose really upset that Japan is celebrating a native son? Through his suspension, Rose has cloaked himself in love of the game as a defense mechanism. So why soil a moment when a baseball-loving nation is fascinated by our national pastime?
ローズは本当に日本が日本出身の選手を祝福しようとしているのを、かき乱してやろうとしているのだろうか。永久追放になっている間、彼は保身のために野球を愛してやまない人間を装ってきたわけだが、ならばなぜ、野球を愛する国のひとつが我々の国民的娯楽に魅了されている瞬間にケチをつけようとするのだ。

Suzuki’s achievements do not diminish Rose; they remind us how great he was. I mean, 4,256 hits, freaking wow. They played the game differently - Rose with lunch-pail frenzy, Suzuki with Baryshnikov grace. But at their core their souls were filled with the game, with the willingness to invest thousands of lonely hours to seek perfection.
イチローの偉業でローズが矮小化されるようなことはなどない。むしろ、それはいかにローズが偉大だったのかを思い起こさせるものだろうに。4265本のヒット、「すげぇ」としか言いようがない。2人はプレースタイルが異なる。ローズを「熱血な肉体労働者」とするなら、イチローは「優雅なバリシニコフ」だ。だが両者の魂のコアは野球でいっぱいであり、完璧な自分を追い求める孤独な時間をすすんで積み重ねる情熱で満たされている。

Rose should be at the front of the line celebrating a kindred spirit who would practice hitting inside-the-park homers alone after a spring training workout.
ローズは、スプリングトレーニングの練習の後で、たったひとりランニング・ホームランを打つ練習をするような、自分と同じ場所に属す人物を祝う列の「先頭」にいるべきだ。


June 14, 2016









参考までに、上の最後のツイートでいう「落合が1999年に喝破」というのをご存じない人のために、Youtubeのリンクを挙げておこう。




落合博満は、「渡米前の」イチローとの対談において、「イチローに匹敵するような打者は、今のアメリカにはいない」という意味の断言をしている。

この「落合の断言」は後日、「渡米直後の」イチローが、MLBで通用するとか、しないどころの騒ぎではなく、渡米1年目にして新人王、首位打者、盗塁王、シルバースラッガー賞、ゴールドグラブ賞、リーグMVPに輝いた事実によって、文字通り「証明」されることになった。
イチローはさらにその後、10年連続して200安打、ゴールドグラブ、オールスター出場などを継続したわけだが、その「継続」は2001年の成績が「フロック」ではないどころか、むしろ「実力どおりの結果」だったことを証明した。


つまり、ブログ主が言いたいのは、
イチローの「野球の実力」が、「渡米前」の時点で既に、MLBの平均レベルをはるかに凌駕した高いレベルにあったことは、火をみるより明らかだ
ということであり、なおかつ、
このことは当時、わかる人にはとっくにわかっていた
ということだ。


賭博で永久追放になった元・選手が、「日本の野球なんて、しょせんメジャーのマイナー程度のレベルじゃん」と自分勝手に思うのは、個人の自由で、別にそれを止めさせようとはまったく思わない。

だが、もしピート・ローズと、その同調者が、「渡米前のイチローの実力は、しょせんMLBのマイナーレベルだったから、カウントに値しない」などと事実に反する発言をする、これからもしたい、のだとしたら、その議論は根本的に間違いであり、今後ともそうした暴論を許すわけにはいかない。


「渡米前のイチローがどういうレベルにあったかという議論」と、「日本の野球がMLBと比較してどのくらいのレベルにあるかという議論」は、まったく次元の違う議論なのだ。

にもかかわらず、これら2つの、次元の異なる議論を故意に混ぜて議論することによって、イチローの記録の意味や重さをこきおろすツールにするような行為は、アンフェアであり、また、スポーツマンシップに反する。


ちなみに、かつてCut4が「イチローがもし最初からMLBでデビューしていたら何本ヒットを打てるか」を試算して、「2014年終了時点で3504本」だのなんだのと予想したわけだが、ブログ主は「まるで予測になってない。馬鹿なこと、言うな。」としか思わない。

日本で1200本もヒットを打った人間が、MLBデビューで数百本のヒットで終わているはずもない。


計算を間違える原因は簡単だ。
Cut4の計算した「3504本」などという数字が「まったく科学的に根拠のない設定で計算した、なんの根拠もないデタラメ」からだ。

Cut4がやった「計算」というのは、シアトルマリナーズの1995年ドラフト1位指名選手だったプエルト・リコ出身の外野手ホセ・クルーズ・ジュニア(Jose Cruz)を「仮想イチロー」に見立てて「1990年代にMLBデビューしたイチローの、2000年までのヒット本数を計算する」という、まるで根拠のない手法だ。

よくこんな無礼な試みをするものだ。

なぜなら、以下のデータで明らかなように、ホセ・クルーズとイチローは、タイプがまったく違う選手だからだ。そして、選手としての「格」も「レベル」もまったく違うし、活躍の長さもまったく違う。
どこをどうすると、低打率のフリースインガーを、レジェンドクラスのコンタクトヒッターになぞらえられるというのだ。馬鹿げている。
Jose Cruz Statistics and History | Baseball-Reference.com

ホセ・クルーズ・ジュニアとイチローの違い

●ホセ・クルーズは大卒。イチローは高卒。
●ホセ・クルーズは1997年にようやくメジャーデビュー。イチローは1992年NPBデビューで、高卒3年後の「1994年」には既に打率.385を記録して首位打者
●ホセ・クルーズはメジャーデビュー後、数年の打撃成績だけがよかっただけのジャーニーマンで一発屋。イチローは将来の殿堂入りが約束されたレジェンドで打てて、守れて、走れる万能選手
●ホセ・クルーズは、シーズン100三振を5年連続で記録しているフリースインガーで、ホームラン20本前後(好調時)の中距離ヒッター。イチローは、1番打者で典型的なコンタクトヒッター


イチローは、なんと高卒3年後の「1994年」に打率.385を記録して首位打者になっている大打者だ。
にもかかわらずCut4は、仮想イチローのMLBデビュー年について、「もしイチローが最初からMLBデビューしていたら、ホセ・クルーズがデビューした1997年にメジャーデビューし、2000年まで、3シーズンちょっとのメジャーキャリアを積んでいたはず」だのとくだらない予測をしているのだから、笑ってしまう。

こんなの、何の根拠もない。

実際、仮想ではない現実の野球では、大卒ジャーニーマン、ホセ・クルーズのMLBデビューが1997年であるのに対して、高卒レジェンドのイチローの1軍デビューは1992年であり、イチローのほうが「5年も」デビューが早く、活躍の開始年齢もイチローのほうがずっと早い
こうした「大差」をまったく考慮せずに、Cut4は、1994年には打率.385を打っている実力の持ち主が、「1997年までマイナーでくすぶって、メジャーデビューを待つ」だのと間違った設定をして、2000年までのヒットの本数を予測した「つもり」になっているのだ。

そんな「馬鹿な予測」に
信憑性など、あるわけがない。


過去に3000安打関連記事でも書いたことだが、タイ・カッブが18歳デビューであるように、3000安打達成者の多くは、20代前半どころか、18とか19、20歳あたりでメジャーデビューしているのである。それくらい、3000安打とは、「デビュー当初から選ばれた選手のみがトライできる、偉大な記録」であり、言いかえれば、「若い頃から数字を積み上げ始めなければ、間に合わない」、「途方もなく達成に時間のかかる記録」なのだ。
2011年9月26日、3000本安打を達成する方法(1) 4打数1安打ではなぜ達成不可能なのか。達成可能な選手は、実はキャリア序盤に既に振り分けが終わってしまうのが、3000本安打という偉業。 | Damejima's HARDBALL
MLB歴代ヒット数ランキング上位打者のMLBデビュー年齢
ピート・ローズ 22歳
タイ・カッブ 18歳
ハンク・アーロン 20歳
スタン・ミュージアル 20歳
トリス・スピーカー 19歳
キャップ・アンソン 19歳
ホーナス・ワグナー 23歳
カール・ヤストレムスキー 21歳
ポール・モリター 21歳
エディ・コリンズ 19歳


Cut4が、イチローだけを「高卒以降、5年間マイナーでくすぶって、23歳MLBデビュー」などと、わけのわからない「設定」を押し付けて、それが正しい、などといえる根拠など、どこにもないのである。

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