August 2016

August 11, 2016

英語で会話する能力という話題において、ひとつ、とても不思議なことがある。

それは、「英語を話す」という表現をしたとき、多くの人が「英語を聞き取ること」と「英語を話すこと」、2つの「まったく異なる能力」を、「両方が両立すべきものと即断してしまう」ことだ。
「英語的な硬質のロジックを使って話す、発信すること」は、世界のどこにでもある普遍的な方法論ではない。にもかかわらず、英語でしゃべる、つまり「英語的発想で発信する」のが当然で、英語的な論理でしゃべれないのは、その個人の能力の無さが原因などと、すぐに思いこんでしまうのである。


そんなわけはない。


たしかに「日本人にとって、英語を聞き取ることは、英語を話すことより簡単」だと思うが、それにはもちろん「理由」がある。

英語の「硬質で構築的なロジック」は、話す側の人の「意図が見える」ようにできている。だからこそ、英語を話す人が自分に話しかけてきたとき、相手の意図を受け止めること自体は(修練はもちろん必要だが)それほど難しくない。

だが、「英語を話すこと」は、こと日本人にとって「聞き取ること」に比べて容易ではない。その理由は、従来、英語経験の少なさとか、習得した単語やイディオムの少なさ、トレーニングの未熟さなどに原因があるとされてきたわけだが、そうではないと思う。


ブログ主が言いたいのは、「聞く」より「話す」ほうが技術的に難しいとか、英語を毎日話すことのできる環境を身近に整えるのが簡単でないとか。そういうたぐいの話ではない。

もし英語という言語の持つ「ロジックの構造」が、「英語とかなり異なるロジックの仕組みをもつ日本人」にとって、「受信するのはたやすいが、発信するのは容易ではないシステム」だとしたら、どうか、
ということだ。



説明のための「たとえ話」として、「建築物における骨組み」と「折り紙の折り鶴」を比較してみる。


建築物の「骨組み」

英語におけるロジックの「見え方」は、建築物でいう「骨組み」に似ている

建築の「骨組み」はたいていの場合、その建築物の「完成時の外観」をなぞったカタチをしている。別の言い方をすると、「骨組みさえ見れば、完成形がどういう建物になるか、だいたい予測できてしまう」わけである。「四角い」骨組みからは「四角い」建物ができ、「丸い」骨組みからは「丸い」建物ができる。

この「相似性」は、「生物の骨格というものが、だいたいその生物のカタチをしている」のと、まったく同じ現象だ。魚の骨格は「魚のようなカタチ」をしており、キリンの骨格は「キリンのようなカタチ」をしている。建築物と骨組みの関係は、「生命体と骨格の関係」のアナロジーにほかならない。

この「建築と骨組みの相似性」は、英語におけるロジックの見え方を示している。つまり、英語の文章においては、話者の言いたいことは「ロジックという硬質な骨組み」によって「目に見えるカタチ」で示され、ロジックを把握することで話者の言いたいことがおおまかにわかるようになっている、ということだ。



では、「折り鶴」はどうか。
日本語の骨格」は、どこにあるか。

折り鶴のプロセス

「折り鶴」では、最初に「斜め二つ折」にして、次も同じように「斜め、二つ折」して、徐々に最終形に向かっていく。

では、最初の「斜め二つ折り」と、最終形である「折り鶴のカタチ」には、「建築と骨組みの相似」や「生物と骨格の相似」にみられる「直接的なカタチの相似性」はみられるだろうか。

みられない

最初の「斜め二つ折」という行為だけからは、「最終形の折り鶴のカタチ」はまったく想像できない。


では、折り鶴の完成形と、最初の斜め二つ折という手順の間には、まったくなんの関連も存在しないのか。

そうではない

たしかに、建築と骨組みの関係における「目に見える相似性」と違って、「折り鶴」の最初の段階における「斜め二つ折」という行為からは、「最終的にそれがどんな形になるのか」が見えてこない
だが、「三角形を基本モチーフとして制作する」という意味では、「折り鶴」において、最初の「斜め二つ折」の「抽象性」と、最終形の折り鶴の「具象性」との間には、「単なる見た目からはわからない、つながり」が連綿と存在している。
つまり、折り鶴を折るという行為は、「三角形を作っては、開く」という「抽象的」なプロセスを反復しながら、それがいつしか「折り鶴」という「具象的な自然模写」に至って完成するという、複雑なプロセスなのだ。


建築物の骨格と折り鶴の比較によって言いたいのは
こういうことだ。

「日本語における論理の構造」は、いわば「平らな折り紙をおりたたんで、立体的な鶴にしていくようにできている」のであり、英語とは大きく異なる
ということだ。


いつものように長い話になったが(笑)、ここでようやくイチローが通訳を使う意味がみえてくる。





いちいち例を挙げるのが馬鹿馬鹿しいので止めておくが、イチローが英語を聞きとり、日常的に話せること、またそれどころか、スペイン語についてもトラッシュトークできるほどのレベルにあることは、既にラウル・イバニェス、デビッド・オルティーズはじめ、多くの選手・監督の証言があり、またイチローに好意的なアメリカ記者のメディア記事など、たくさんの証拠が既に出されている。あらためて議論する必要などない。
スポーツセンターのアンカー、ESPNの Todd Grisham が、「イチローの3000安打について印象的だったのは、彼が15年もたって、いまだに進んで英語を習得しようとしてないことだ」などとタワゴトを言っているのは、単なる勉強不足とライトな人種差別に過ぎない。無視していい。


3000安打の会見においても、アメリカ人記者の質問にイチローは通訳を介すことなく、直接答えている。ヒアリングには何も問題はない。
論議になるのは、回答についてであり、英語で返答する能力があるはずなのに、なぜ「日本語で」返し、通訳に英語に訳させているのか、という点だ。


以下に自分なりの解釈を記す。

外国人通訳と仕事したことがある人はわかると思うわけだが、彼らは、日本語話者の意図に「自分なりの解釈」を加えて話したがる。あるいは、話者の表現が英語的表現でない場合、英語的表現に変えて話したがるし、自分が回りくどいと感じた部分は省略してしまう。
また、英語の話者は往々にして「ロジックが同じなら、言い方は変わってもいい」と考えたがる。

だが、彼らは、広い世界には「折り鶴的な言語」、つまり、「ニュアンスの中に意図を織り込みながら、ロジック全体を完成させていく」という、英語と違う論理体系をもつ言語が存在することに気づこうとしない。


ことイチローの場合でいうと、彼の日本語には、彼特有の「迂回したロジック」、「言い回し」、「省略」、「皮肉」、「ユーモア」、「過剰すぎるほどの礼儀」、「オブラート」、「内面と外見の温度差」がある。
これらの特徴をブログ主個人の意見として簡単にまとめるなら、彼の日本語は、ある意味とても「日本語っぽい」が、よく聞いていると、ときとして
笑顔を浮かべず冗談を言うイギリス人のような話し方をすることがけして少なくない
のである。(だからこそ、イチローの言葉をアメリカ人記者に伝達する場合、イギリス人とアメリカ人の意思疎通におけるギャップのようなものが発生することがある。イギリス人とアメリカ人は両者とも英語ネイティブだからといっても思考スタイルは同じではない)

加えて、「これまでのイチロー」は「ストレートなモノ言い」をあまりしてこなかったということもいえる。氷山の一角という表現があるように、外部にあらわれた言葉は、彼の内部の大量の思考や感情の断片でしかない。その断片どうしは彼の内部ではつながりをもって動いているわけだが、たまに言葉として発せられる氷山だけで見ると、氷山と氷山が内部でどうつながっているかは、外部からは見えにくい。


そういう、「ちょっと複雑な人間」であるイチローの「通訳」に課せられる「仕事」とは、けして「ロジックさえ同じなら、あとは自分の英語的表現に好きなように変えてもいい」というような意味での、「ギャラの安い通訳がやるような安易な仕事」であるはずはない。

むしろ期待されているのは、「イチロー的な温度」「イチロー的なニュアンス」を、「そっくりそのまま温存したまま、なんとか英語にもっていく」のが、「イチローの通訳の仕事」だ。

通訳の考える「英語的表現」というやつは、往々にして「発言者自身の意図」を逸脱して、発言者の意図にない外部領域が含まれてしまうことも多い。ならば、日本語発言者の意図の英語置き換え作業の「正確さ」にとっては、英語っぽい表現を多用することには実はあまり意味がない。
むしろ、「あえて通訳の存在感をまったく消して、そっくりそのまま通訳してくれる人」のほうが適しているわけだが、我の強い欧米人(笑)にはそういう謙虚な人はけして多くない。


では、「イチローに好都合な通訳」とは結局「直訳すること」なのか、というと、そうでもない。
なぜなら、「イチローにとっての通訳の位置」っていうのは、「ロジックの伝達」というより、むしろ「プレス」として仕事してくれる人のことだからだ。プレスリリースにとって不自然な抑揚など必要ない。


少し「建築の骨組みと折り鶴の比較」に戻ると、「話者のロジックの骨組みさえ見えれば建物全体のカタチは想像できるのだから、ロジックさえ明確に相手に伝われば、細部のニュアンスなんてどうだっていい」という雑な意見の持ち主では、「折り鶴的な構造の言語のもつ微細なニュアンス」など理解できないし、まして、「折り鶴的なロジックを、英語の硬質な構造に変換すること」などできはしない。

「折り鶴的なロジック」において大事なことは、「角と角をあわせて、しっかり折りたたんでいくこと」なのだ。ひとつひとつしっかりきちんと折っていくからこそ、最終的にできた鶴が「美しく仕上がる」わけであり、最初から最後まできっちり折らないとダメなのだ。だからといって、直訳であっていいわけでもない。
最初は英語ネイティブにとってわけがわからない発言であっても、ひとつひとつを丁寧に英語に折りたたんで変換していくことで、やがて「折り鶴の全体像」ともいうべき「イチローらしさ」がたちあがってくるのが見える、そういうのが、「理想的なイチローの通訳の仕事」というものだろう。

英語で聞き、日本語で答える
このことは、これら2つの言語の論理構造の違いを考慮すれば、けして不自然なことではない。


ここまで書きながらいつも頭に浮かんできたことは、かつてハワイでフラが禁止になった時代があったことだ。
(その歴史の意味については一度ちょっとだけ書いたことがある 2012年8月13日、『父親とベースボール』 (番外編-1) 歌にこめられたダブル・ミーミングの世界。フラ、スピリチュアル、ランディ・ニューマン。 | Damejima's HARDBALL

日本人にとって、日本人っぽいしゃべり方というものは、ハワイでいうフラに近いんじゃないか。だからこそ、自分ぽくしゃべること、それ自体は、なにも間違ってはいない。それは和製英語は現地ではまったく通じないからやめるべきだというのとは、意味がまったく違う。
(むしろ、自分らしくしゃべれること、それこそが、本当は英語上達の早道ですらあると思う。自分の意見の無い人が英会話だけ上達しようと思うこと自体が間違ってる)

今回書いたようなことを「論理」として提示するのはなかなか簡単ではない。
なぜなら、日本人としての「折り鶴的な論理のやわらかさ」を守りながら、「英語的な、つまり構築的な論理しか理解できない、固い頭脳の持ち主たち」に「わかるように説明」しようとすることは簡単ではないからだ。
だが、なんとか「折り鶴のたとえ」の発見で、カタがついた、と考える。


なにも「聞き取れるからといって、それを英語で話せなければ会話したことにならない」ということはないのだ。むしろ、相手の聞きたいことをきちんと聞いて、自分固有の言いまわしで答えたければ、それが何語だったとしても、何の問題もない。それくらいのブレない気持ちで臨まなければ気持ちの上で負けてしまうのが、国際的な舞台におけるコミュニケーションというものだろう。

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マーク・テシェイラプリンス・フィルダーという2人の一塁手が引退することになった。彼らが「高額サラリーの不良債権一塁手」であることは偶然ではない

(実は、この記事、2016年6月に書き始めていたものだ。だから、この2人の引退を前提に書いたわけではない。なんとも象徴的な8月だ。
また最初にことわっておきたいが、以下の文章は「マーク・テシェイラが一塁手として二流の役立たずだった」と言っているのでは、まったくない。むしろ彼は、怪我に悩まされなければ、2000年代以降で最も優秀な一塁手だったと思うし、ブログ主は今でも彼のファンだ)

一塁手とかDHに得点力を依存する時代は終わっていることに気づきもせず、常識にとらわれたままチーム編成をしているような馬鹿なチームは終わっていくのだ。

2016ナ・リーグのポジション別WAA
2016ナ・リーグ ポジション別WAA
2016 National League Season Summary | Baseball-Reference.com

2016ア・リーグのポジション別WAA
2016ア・リーグ ポジション別WAA
2016 American League Season Summary | Baseball-Reference.com

2つのグラフは2016年6月時点でのポジション別WAA(=勝利貢献度を表わすWARの算出のための数値)を表している。データが少し古いのはとりもなおさずこの記事を2016年6月に書き始めたなによりの証拠だ(笑)

青色の円は「プラス」赤色の円は「マイナス」を示し、また、円の「大きさ」が平均をどれだけ上回っているかという値を示している。
注:評価は打撃だけでなく「守備」も含めたものになっている。だから、例えばDH制のないナ・リーグでは投手の評価に「打撃を含む」し、一方、DH制のア・リーグでのDHの評価は「打撃のみ」で決まってくる。


見た目から、まず以下のようなことがわかる。

●両リーグ共通の「貢献度の高いポジション」は
 先発ピッチャーセンターサードセカンドなど

●逆に、両リーグ共通の「貢献度の低いポジション」は
 キャッチャーファーストレフト

●ナ・リーグのゲームはほとんどが先発投手の出来に左右される

「頼れるDH」なんてものはいまや、ほんのわずかしかいない

一塁手は、もはや「スラッガーの定番ポジション」とはいえない


項目の中で、ブログ主が最も印象深いと思うのが
一塁手とDHの「地位の低下」だ。


今のMLBは、センター中心に外野手の活躍が目立つ。

ブライス・ハーパーマイク・トラウトジャンカルロ・スタントンだけでなく、売り出し中のデクスター・ファウラージョージ・スプリンガーマーセル・オズーナムーキー・ベッツジェイソン・ヘイワードも外野手だし、既存のヴェテランにも、ホセ・バティースタアダム・ジョーンズユニエス・セスペデスアンドリュー・マッカチェン、そしてもちろんいうまでもない天才イチローと、沢山の人材がいる。


他方、ファースト、サードなど、「従来スラッガーの定番と考えられてきたポジション」の選手層はもはやペラペラに薄くなっている

例えば一塁手だが、ポール・ゴールドシュミットジョーイ・ヴォットーとか、中身の濃いスターが全くいないわけではないにしても、外野手と比べると層の薄さは歴然としている。(サードが本職と思われがちなミゲル・カブレラはメジャーデビューは外野手で、もともとショート出身。サードやファーストが本職ではない)
今の時代の一塁手は、例えば打線の強力なトロントでは1軍半クラスのハンパ選手でしかないジャスティン・スモークがファーストを守らせてもらえるように、「他に与えるポジションがないからファースト」とか、「多少打てるが、守備が下手だから、しょうがなく一塁手」とかいう「とりあえず一塁手」が増えている。

三塁手の選手層にしても、エイドリアン・ベルトレ、ジョシュ・ドナルドソン、マニー・マチャド、カイル・シーガーなどがいるとはいえ、選手層はもはやイメージほど厚くはない。(そういえば、引退するアレックス・ロドリゲスなんていう名前のクズ野郎もサードだった)


では、もともと守備意識の強いポジションである「セカンド、ショート、キャッチャー」はどうだろう。「攻守に秀でた選手」はどのくらいいるか。

セカンド、というと、ロビンソン・カノーやベン・ゾブリスト、チェイス・アトリーなどが思い浮かぶ人がいまだに多いわけだが、いまの時代のMLBで「二塁手のWAA」を引き上げているのは、ジェイソン・キップニスディー・ゴードンホセ・アルトゥーベなど、20代の若手二塁手であって、けしてロビンソン・カノーが彼の巨額サラリーに見合った貢献をしているわけではない。

ショートにしても、デレク・ジーターが引退し、トロイ・トゥロウィツキーなどにも精彩がなくなったことで、打てるのはクロフォードとかボガーツくらいだし、「攻守に秀でたショート」なんてものをだんだんみかけなくなってきた。

キャッチャーにしても、ジョニー・ベンチマイク・ピアッツァイヴァン・ロドリゲスジョー・マウアーとか、「打撃にも守備にも秀でた名キャッチャー時代」がかつては存在した。
だが今となっては、マウアーの後継者ともいうべき存在だったバスター・ポージーが一塁手に転向してしまって、すっかりキャッチャーは「守備専用ポジション」として定着してしまった感のほうが強い。
今キャッチャーはどこのチームでも「別に打てなくていいから、とりあえず球をしっかり受けといてくれ」という「とりあえずキャッチャー」が当たり前になった感じがある。


こうして眺めてみると、ブライアン・マッキャンとかマーク・テシェイラ、アレックス・ロドリゲスなど「中古のヴェテラン」に大金を注ぎ込んでチーム編成をしてきたヤンキースの選手編成コンセプトが、どれだけ「時代遅れで、馬鹿げたものか」が、よくわかる。
たとえで言うなら、「本人は最先端ファッションを大金出して買い集めたつもり」だが、実際にやっていることといえば、「他人が着たおしてヨレヨレになった古着を買い集めて、おまけに、それを滅茶苦茶なコーディネートで着てみせて、毎日街を鼻高々に歩きまわっている、壊滅的に時代感覚が衰えた、センス皆無な老人」そのものだ。ダサいこと、このうえない(笑)

ヤンキースにおけるマーク・テシェイラの劣化は何年も前からわかっていたことだが、プリンス・フィルダーにしても、今のテキサスにフィルダーとチュ・シンスとハミルトンがいなければもっと早く首位奪還できていたはずであって、ノーラン・ライアンなきあとのジョン・ダニエルズの大型補強はことごとく失敗だ。


「成長の止まった分野」に資源を集中していたら、企業は消滅してしまう。当たり前の話だ。
投資の最適化のルールというものは、「限りある投資を、事業を構成する分野それぞれにおいて見込まれる収益やサービスに見合った割合において実行すること」だ。もちろん、将来の収益確保のために、まだ利益を生み出してはいない新分野に投資することがあるにしても、それは先行投資という意味なだけであり、長期的な収支は「最適化ルール」から外れない。
例えばIT企業が、卓球台を購入したり、オフィスでペットを飼ったりすることにしても、それが許されているのは「社員のリフレッシュのアイデアとして一定の意味はあるから」であり、なにも2017年シーズンにアレックス・ロドリゲスが野球をまるでやらなくても20Mもらえるのと同じように、「毎日卓球だけやって帰宅するアホ社員でも、高額なサラリーがもらえる」という意味ではない。
同じように、新聞のような印刷メディアを買わなくなってきた、そんな時代に、新聞広告に大量の広告費を投資するようなことをしても、なんの意味もない。人の目に触れない広告にカネを払う価値など無いからだ。

こんなこと子供でもわかる。わかるはずだが、そういうことをいまだにやっているマネジメントは確実存在する。
野球という「世界で最も巨大かつ数値化によるデータ管理が進みつつあるスポーツビジネス」においても、あいかわらず「ミスとしかいいようがない投資」「凡庸なマネジメントによるミス」が横行している。


確かに、プレーひとつひとつの「価値」が数値化・可視化され、細かく評価されだしている、それは事実だ。
だが、OPSのようなデタラメな指標、パークファクター、守備補正の根本にある「いい加減さ」でもわかるように、その「価値判断をする人間の判断力そのもの」は実はいまだに正確になど、なっていない。


ブログ主はむしろ「野球におけるスポーツ数値化の流れは、いまや停滞し、それどころか頭打ちになっている」と考える。

プレーを数字で分析する行為が流行したせいで、今の野球ではあらゆる点がきちんと合理的に価値判断されている、などと思っている人がいるかもしれないが、ブログ主に言わせれば、そんなものは「真っ赤な嘘」だ。
実際にやっていることといえば、「ニセモノで、出来損ないの数字」を使い、ひとつひとつのプレーに「間違った価値判断」を下し、ビリー・ビーンがそうであるように「プレーヤーの評価を大きく間違え」、ジョシュ・ハミルトンやプリンス・フィルダーのような「ウィークポイントがすでに全球団に知れ渡っている有名選手」に大金を投資するようなミスを犯して、チームを弱体化するような間違った行為が日常的に行われている。


他方、これは困ったことなのだが、「商品の質と価格が必ずしも比例せず、質の悪いものの価格がむしろ高騰する」というような事態は、たしかにある。

例えばだが、アイク・デービスがそうであるように、「ロクな一塁手がいなくなってきたことによって、かえって、平凡な一塁手にすら希少価値が出てきてしまい、二流のプレーしかできない平凡な一塁手やDHの価格までもが高騰する」というような悪例が少なからず見受けられるのだ。
MLBのようなスポーツマーケットでは「限られた人材を多数のチームが取り合う売り手市場」なので、質がまるで見合わないのに、希少価値のみが理由で質の悪い選手の価格が高騰する例は少なくない。


だが例えば、突然の地震でびっくりした人がミネラルウォーターやガソリンを買い占めることで一時的にそれらの小売価格が暴騰したとしても、やがて事態が落ち着けば、高値で買い占めた人間は損をこうむることになる。
つまり、希少価値のせいで二流の一塁手が大金を稼ぐなんて事態は、長続きしない、ということだ。


それでも、近い将来ヤンキースはどこかの一塁手とか三塁手に大金を払うことだろう(笑)そうなったとき、彼らにはどこかのブログ主が冷笑しながら眺めていることを必ず思い出してもらいたいものだ(笑)

August 09, 2016



3000安打を目前にしていたイチローが、2016年7月末に、抜けていればおそらく三塁打だっただろうという「2本の長打」を、フィラデルフィアのライト、ピーター・ボージャスの好プレーと守備シフトに阻まれたことは、以下の記事に書いた。
2016年7月26日、イチロー vs フィリー 「3000安打 全力阻止シフト」。3000安打目前のイチローから長打2本を奪い去ったピーター・ボージャスへの拍手。「他チームのセンターには手を出すな」という負の法則。 | Damejima's HARDBALL


イチローのMLB3000安打達成が、野茂さんがかつてノーヒット・ノーランを達成したクアーズで、それも、ホームランではなく、三塁打だったことは、昔から「三塁打こそ野球の華」と思ってきた自分にとって非常に嬉しいことだったのはもちろん、信貴山縁起ではないが、野球というスポーツにはやはり何か「縁のつながり」のようなものがあることを感じたのだ。


イチローと縁のあるHOFポール・モリターの3000安打達成が「三塁打」だったことは日米のメディアがさんざん伝えたわけだが、同じく忘れてもらっては困るのは、日本の「三塁打王」福本豊さん(イチローの116本は日米通算だから、記録上は今も福本さんが日本の三塁打王)は「通算2543安打」で引退なさっているわけだが、その福本さんの節目となった2500安打も、イチローの3000安打達成と同じ、「三塁打」だったことだ。


他にもある。

福本豊さんが「最後の三塁打」を打ったのは「1988年4月8日」の近鉄バファローズ戦5回裏(投手:阿波野秀幸 場所:阪急西宮球場)だが、この1988年というのは、いうまでもなく阪急ブレーブスという球団の最終年でもあった。
この球団の衣鉢を受け継いだのはいうまでもなく今のオリックスであり、そのオリックスの黄金期を作った仰木彬さんが育てたのがイチローなのだから、簡単にいえば福本さんとイチローという2人の「三塁打王」は、球団史的にも「先輩後輩の間柄」にあるわけだ。


さらにいえば、日本プロ野球の「三塁打史」には福本豊さんだけでなく、他にも何人かの阪急ブレーブスの選手が登場する。

例えば、1936年に阪急で「3イニング連続 かつ 3打席連続 三塁打」という、日本プロ野球における唯一無二の三塁打記録を樹立したのは、ハワイ出身で、日本プロ野球「最初の外国人選手」にして、柴田勲に先立つ「スイッチヒッター第1号」でもあった堀尾文人(ジミー堀尾)だ。
堀尾は、プロデビューとなった大日本東京野球倶楽部(=後の巨人)の一員として、沢村栄治スタルヒンなどとともに1935年の第一回アメリカ遠征に参加していることからもわかるように、草創期の日本野球の第一人者のひとりで、かのBaseball Referenceにも経歴紹介ページがあるほどの選手だ。
ちなみに、当時メジャーデビューの夢を持っていた堀尾は、1936年にパシフィックコースト・リーグのシアトル・インディアンスの入団テストを受けるなどしたが、メジャーデビューの夢はかなわなかった。(1949年に42歳で病没)
Jimmy Horio - BR Bullpen
The Dai Nippon Baseball Club in 1935, photographer Stuart Thomas
後列右端が堀尾文人。後列左端から2人目が沢村栄治。前列左端がスタルヒン。Photo courtesy of the City of Vancouver Archives, photographer Stuart Thomas

また、1948年11月1日に「1試合3本の三塁打」という珍しい記録を持っていた川合幸三も、阪急ブレーブスの選手だ。(おまけに川合幸三はイチローと同じ愛知県出身の選手)


こうした「阪急ブレーブスと三塁打」の関係はけして偶然ではない。
プロ野球で1シーズンのチーム最多三塁打の日本記録を持っているのが、ほかならぬ、阪急ブレーブス(66本 1955年)であり、「3者連続三塁打」などという珍しい記録が生まれたのも、同じ「1955年の阪急」(河野旭輝、原田孝一、バルボンで記録。他に1987年ヤクルト、1990年阪神)であり、とにかく「福本豊さんが入団するはるか前から、阪急というチームは、1955年はじめ、神がかったかのごとく三塁打を打ちまくってきた『三塁打の王国』だった」のである。


こうして「三塁打王国の歴史」を追ってみると、むしろピーター・ボージャスがイチローの長打性のライナー2つを捕ってくれていなければ、「ちょうど3000安打で三塁打を打ったイチローが、ちょうど2500安打で三塁打を打った福本豊さんの三塁打記録を抜く」なんていう「劇的展開」にはならなかった気もしてくるわけで(笑)、ボージャスにはむしろ感謝しなくてはならない(笑)ありがとう、ピーター。


いうまでもなくイチローの3000安打という記録は「MLBデビュー後の記録」であり、たったの16シーズンでその大記録を達成できてしまったイチローは「天才」以外の何物でもない。
以前書いたように、イチローがこれほど短い間に3000安打を達成できたのは、「1番打者だったために打席数が多かった」のが理由ではない。それはただの「いいがかり」にすぎない。
2015年8月24日、「ヒット1本あたりの打席数」ランキングでみれば、イチローの通算ヒット数の多さは「打順が1番だから」ではなく、むしろピート・ローズの安打数こそ単なる「打数の多さによるもの」に過ぎない。 | Damejima's HARDBALL


だが一方でイチローの「通算三塁打116本」という記録は、3000安打と違って「イチローが日本でプロデビューして以来の、すべての三塁打の数」なわけだから、「試合数がMLBよりはるかに少ない日本の野球環境の中で、通算115本もの三塁打を打った福本豊さんの「三塁打王としての能力」がいかに凄いか、あらためて驚かされる。
通算打席数/通算三塁打数

イチロー 約122打席(NPB+MLBの打席数で計算)
福本豊  約88打席


いずれにしても、三塁打王国・阪急ブレーブスから、福本豊さん、オリックス、そしていまイチローへと、「三塁打王」の「王冠」が無事受け継がれたことを喜びたい。








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