October 2016
October 30, 2016
日本シリーズに敗れた広島の監督で、緒方という人が、試合後にこんな意味のことを言ったらしい。
酷いものだ。
本人、自分の吐いた言葉の「酷さ」に気づかないまま、クチを開いているのである。自分はこのチームのファンでもなんでもないが、もし自分がこのチームのファンだったら罵倒する程度では済まさない。
形を変えて考えてみればわかる。
例えば、この「戦い」が戦争だったとする。
もし、負けた側の代表者が、敗北の直後に「いろんなことを学ばせてもらった」などと軽率に語ったら、どう感じるか。
『敗者は、勝者と同じ言葉、同じ土俵で語ってはならない』のである。それが敗れるということの「重さ」だ。
敗北の重さにまみれること、それは敗者に求められる「矜持」とか「モラル」であり、また同時に、「勝つためのオリジナリティ」に深くかかわる。
近年ワールドシリーズに勝ったカンザスシティ・ロイヤルズの独特の戦い方(参照:2015年4月14日、昨年のワールドシリーズ進出がフロックでなかったことを証明し、ア・リーグ中地区首位を快走するカンザスシティ・ロイヤルズの「ヒット中心主義」。 | Damejima's HARDBALL)を見てもわかることだが、いまや勝利のために必要なものは、おざなりな戦力補強や月並みなデータ分析ではなく、『オリジナリティ 』だ。
(間違ってもらっては困るが、「オリジナリティ」という言葉にビリー・ビーンは含まれない。あれは単に「もともとチームスポーツの才能のまったくない数字オタク」にすぎない)
考えてみてもらいたい。
勝者が 「相手から学ばせてもらった」 と語るのは、「余裕」のあらわれであり、「謙虚さ」でもある。
だが、それは「敗者に用意されたポジション」ではない。ありえない。
本来、敗者は、土砂降りの雨で消えた焚き火から泥まみれの炭を指で拾い上げるように、自分の敗北そのものの中から言葉を見つけるべきだ。
「敗北を喫した立場であるにもかかわらず、勝者の弁を二番煎じする」ような安直な人物に、矜持も、モラルも、戦略も、プライドもない。プライドの欠片すらないから、そういう安直な言葉を吐けるのである。そういう人間は「自分が負けた理由」が骨身にしみてわかっていない。だから勝者の弁を二番煎じするような、馬鹿げたことができる。
立派に敗者たる、ということは、自分独自の言葉を持たない、プライドを持たない、ということではない。
むしろ、自分の言葉を持たず、持とうと常に努力することの意味を知ろうともしない、だから『敗者』なのである。
ゲーム後の勝利監督インタビューで日本ハムの監督である栗山氏が言ったように、自分もこのシリーズでは「いろいろなことを学ばせて」もらった。
酷いものだ。
本人、自分の吐いた言葉の「酷さ」に気づかないまま、クチを開いているのである。自分はこのチームのファンでもなんでもないが、もし自分がこのチームのファンだったら罵倒する程度では済まさない。
形を変えて考えてみればわかる。
例えば、この「戦い」が戦争だったとする。
もし、負けた側の代表者が、敗北の直後に「いろんなことを学ばせてもらった」などと軽率に語ったら、どう感じるか。
『敗者は、勝者と同じ言葉、同じ土俵で語ってはならない』のである。それが敗れるということの「重さ」だ。
敗北の重さにまみれること、それは敗者に求められる「矜持」とか「モラル」であり、また同時に、「勝つためのオリジナリティ」に深くかかわる。
近年ワールドシリーズに勝ったカンザスシティ・ロイヤルズの独特の戦い方(参照:2015年4月14日、昨年のワールドシリーズ進出がフロックでなかったことを証明し、ア・リーグ中地区首位を快走するカンザスシティ・ロイヤルズの「ヒット中心主義」。 | Damejima's HARDBALL)を見てもわかることだが、いまや勝利のために必要なものは、おざなりな戦力補強や月並みなデータ分析ではなく、『オリジナリティ 』だ。
(間違ってもらっては困るが、「オリジナリティ」という言葉にビリー・ビーンは含まれない。あれは単に「もともとチームスポーツの才能のまったくない数字オタク」にすぎない)
考えてみてもらいたい。
勝者が 「相手から学ばせてもらった」 と語るのは、「余裕」のあらわれであり、「謙虚さ」でもある。
だが、それは「敗者に用意されたポジション」ではない。ありえない。
本来、敗者は、土砂降りの雨で消えた焚き火から泥まみれの炭を指で拾い上げるように、自分の敗北そのものの中から言葉を見つけるべきだ。
「敗北を喫した立場であるにもかかわらず、勝者の弁を二番煎じする」ような安直な人物に、矜持も、モラルも、戦略も、プライドもない。プライドの欠片すらないから、そういう安直な言葉を吐けるのである。そういう人間は「自分が負けた理由」が骨身にしみてわかっていない。だから勝者の弁を二番煎じするような、馬鹿げたことができる。
立派に敗者たる、ということは、自分独自の言葉を持たない、プライドを持たない、ということではない。
むしろ、自分の言葉を持たず、持とうと常に努力することの意味を知ろうともしない、だから『敗者』なのである。