May 2017

May 31, 2017

タイガー・ウッズがフロリダのパームビーチで逮捕されたときの「人相の酷さ」が話題になっている。


たしかに自分も逮捕時の彼の顔を「見るに耐えない」とは思うし、それをツイートもした。

だが、彼の痛々しい人生そのものを 「論ずるに値しない」 とは、まったく思わない。

例えば、タイガー・ウッズについての本を何冊も書いているような自称スポーツライターが「裏切り」だのなんだのと、まるで「ケバいホステスさんが連れ歩く醜いチワワのようにキャンキャン吠えて」いるが、何の意味もない。馬鹿馬鹿しいにも程がある。
【速報】タイガー・ウッズ逮捕!:もはや許されない「2度目の裏切り」--舩越園子 | 新潮社フォーサイト
こんなレベルの脳で、よくアスリートのことを書けるものだ。他人様の業績と人生を利用して儲けてきたにすぎない三流ライターが、言うべきこと、言うべきでないことの区別すらつかないのか。


心が乾いた子供のまま、オトナになった彼」がやるべきだったことの最初のひとつは、簡単なことだったはずだ。

自分を幸せにしてやること、だ。

それは同時に彼が、人生の出発において必ずしも「幸せではなかった」ことも意味する。


すべてを手に入れたはずの彼は、突然つまづいた。

「え? あれだけ有名になってカネも稼いだんだし、こんどは自分を幸せにするんじゃなく、家族や両親を幸せにするべきだし、社会貢献だって大いにすべきだろ。」

などと、思うかもしれない。


いやいや。それは、まったく間違ってる。
人生ってものが、まるでわかっちゃいない


まとまるには時間がかかるが、今の時点で思うことだけ書けば、今のタイガー・ウッズは、「自分を幸せにする方法や方向性」を模索しながら「さまよい歩き続けて」きて、その長い過程において失敗する中で、今の彼は「いったいどういう状態が自分にとっての幸せか」すら見失っていると思う。
そして、彼が道に迷った「起点」はおそらく、彼の中にもともとあった「亀裂」だろう。ここでいう「亀裂」とは、精神分裂病の意味ではない。むしろ「両親との関係性」を中心にした、文化的あるいは人種的な意味だ。


彼にこうアドバイスする人がたくさんいたことだろう。

家庭を持て、タイガー」と。


でも、そうだろうか?

家庭をもつことは実は「誰にでも」できる。
しかし、本当に人は「家庭のもつ、はかりしれない価値」に気づいて家庭をもっているだろうか。なんとなく「成り行き」で「家庭と称する集合体を築いただけ」の人があまりに多くはないだろうか。そんな未熟な行為で、その人は本当に「幸せな家庭」を実感できるだろうか。

ブログ主は、そうは思わない。

「多くの人がそうするから」という単純な理由だけで家庭をもち、「家庭のもつ、はかりしれない価値」に気づかないまま、「自分Aと自分Bの間に生じる摩擦」によって、自分自身と家庭の両方を傷つけている、そういう人が大勢いるとブログ主は考える。


たとえば、彼タイガー・ウッズは「アスリート」である。
そして、「アスリートにとっての幸せ」というものは、「もともと家庭と別のところ」にある

このことをしっかり「認め、共有すること」がアスリートにとって「重要な出発点」だし、認めないことには出発できない。それは理屈ではない。家族のありがたみを本当に実感するのは、もっとずっと先の「終点」であり、「出発点」でなくていい。


たしかに、「家族を幸せにしたい」と思うこと、それ自体は誰もが考えるべき、とても重要な人生のキーポイントだ。
だが、もしその行為が表面的な道徳感だけであり、家庭をもったことが「自分に足かせをはめただけ」の意味にすぎず、心の奥底では逆に「家庭というモラルが自分を縛りつけている」などと感じて生活しているなら、その人は少なからず「仮面をかぶっている」にすぎない。
そういう人は「家族という素晴らしいユニット、家族という素晴らしいチームを、心の底から楽しんではいない」。


本来、「家族であるということ」は、他人から強制されるモラルでもなければ、目的でもないのに、である。


おそらく、タイガー・ウッズが家庭をもった最初の理由は、彼にとってどうしても必要だったから、ではない。彼の最初の家庭は、彼の中のアスリートとしての乾きを潤してはくれなかったし、彼自身も家庭を潤してはいなかった。


誰にとっても人生はある部分において、とても痛々しいものだ。

今のタイガー・ウッズは、自分のことすら愛してはいない。自分のことを愛していない人間のやることは、眼をそむけたくなるほど、限りなく無様(ぶざま)だ。


だが、それを嘲笑う(あざわらう)ことは、自分にはできない。
自分も少なからず痛々しい人生を生きてきたからである。

タイガー・ウッズが人生を心から楽しむことの意味や方法を知るには、まだまだかなり時間がかかると思うが、しかしだからといって、それを知るのに、人生において遅いということはない。

たとえ彼がプレーヤーとして昔の姿で復帰できなくても、それはそれでいい。ブログ主は彼に「ひとりの人間として」、本当の意味での「頼れる父ちゃん」になれるよう頑張ってもらいたいと思うのである。




May 22, 2017

田中将大がタンパベイ戦でこっぴどく打たれたために、膨大な記事が書かれている。見たくなくても関連記事を見かけるので、ほんとウンザリだが、主旨のハッキリしない、薄味のくだらない記事ばかりで、「面白い記事」など、どこにも落ちてない。
これだから日本のメディア記事だの他人のブログだのをマトモに読む気になどならない。


例えば、「2017年の田中がスプリットを投げてないこと」くらい、タンパベイのコーリー・ディッカーソンなどにホームラン3本を打たれた打席の投球球種をみるだけで、誰にでもわかる。

にもかかわらず、例えば豊浦某(https://news.yahoo.co.jp/byline/toyorashotaro/20170522-00071202/)などは、たった1行、「スプリットを封印した田中には、決め球がない。」とでも書けば済む中身のない内容を、Fangraphのデータをわざわざ引用して、ダラダラ、ダラダラひきのばして書いている。くだらない。中身なんてまるでない。Fangraphを引用するとセイバーメトリクスっぽくなるとでも思っているのか。アホか。と、いいたい。

日本のスポーツ紙メディアにしても、「好調ならベタ褒め、不調ならクソミソ」程度の低レベルな文章技術しかない三流タブロイドメディアのニューヨーク・ポストが書いたこきおろし記事を受け売りして、翻訳掲載し、無駄に三流タブロイド紙を儲けさせている。くだらないにも程がある。


田中が春先にホームランを打たれまくったのは、
なにも「今年が初めて」ではない。
参考記事:2014年7月10日、田中将投手の使う球種の大きな変化。「ストレートとスプリッター中心だった4月・5月」と、「変化球中心に変わった7月」で、実際のデータを検証してみる。 | Damejima's HARDBALL
参考記事:2015年4月6日、2013年日本シリーズ第6戦で巨人に「パターンを読まれた」時点からすでに始まっていた田中将大の「試練」。 | Damejima's HARDBALL

むしろ、渡米後すぐ、2014年に右肘靭帯部分断裂して、翌2015年春にはすでにホームランをボコボコ打たれだしている
だから2015年春の野球記事を検索すれば、さまざまな角度から書かれた「なぜ田中はホームランを打たれるのかというテーマの記事」がいくらでも見つかるし、中には中身のある記事もある。

例えば「対戦相手に球種が読まれているのではないか」という、よくある疑念については、例えば2015年4月にカート・シリングが「ストレート系と変化球で、腕の角度が違う」と言っている。(このコメントは「怪我から復帰した後」の話なので現在でも読む意味はある)
Harper: Tanaka takes small step, but not yet up to speed - NY Daily News
またフォームの変化については、2015年に筑波大学硬式野球部監督でもある川村卓准教授が、怪我のあとのフォームの変化と課題を指摘していて、「上半身、たとえばトップの位置は変わったが、下半身の動きは変わってない」という主旨のことを言っている。
田中将大の投球フォーム ヒジの故障によって変わった「トップの位置」 | ベースボールチャンネル(BaseBall Channel)


田中の不調の原因を記事として明確に指摘できる「材料」は他にもある。


例えば、タンパベイ戦で田中は、誰からの指示かは知らないが(たぶん無能な投手コーチのロスチャイルドだろうし、監督ジラルディも同意見だと思われる)、わざわざ「プレートの三塁側」を踏んで投げるように指示されている。

「右投手」が、「三塁側」を踏んで、「右バッターのインコース」に、「シンカー」を投げこんで、それが「ホームランという結果」しか生まなかったというのだから、そのことの「意味」は、「シンカー」という球種の性格をちょっと考えれば、その「意味」が誰しもわかりそうなものだ。
なのに、誰も指摘してないのだから呆れかえるしかない。おまえ、ボール握ったことがないのか?と、言いたくなる。


ちなみに、シーズン20億円以上もらっている先発投手が「プレートのどこを踏むか、他人から指示される」なんてことは、「ブログ主の常識」には、まったくない。
そういうたぐいの「調整」は「誰よりも自分をわかっている自分自身が試すべきこと」であって、それができる投手だけが20億もらうべきだ。
そういう基本が自分でできないのなら、20億もらう価値のない選手であることを自分で証明していることになる。それがブログ主の考える「プロ」だ。いったい何年かかったら「田中の調整」は終わるんだ?と言いたい。


まぁ、興味がある人はPitch F/Xとかで、田中投手の「変化球、速球それぞれのリリースポイント」とか、「変化球の変化の大きさ」など調べてみると面白いことがわかると思うし、登板日の写真の「下半身の踏み出し幅の、異様なほどの大きさ」についても、ちょっと考えてみるとなかなか奥が深いとも思う。

でも自分ではやらない。

なぜなら、自分にとって田中将大は、そういう「めんどくさいこと」を時間をかけてわざわざしたいと思うほどの選手ではないからだ。
彼はクリフ・リーでも、ロイ・ハラデイでもない。時間をかけて田中について書くくらいなら、むしろ、大学時代の怪我で速球派から技巧派に転じたジェイソン・バルガスの「遠い過去から現在にいたる、紆余曲折の長い道のり」について時間をかけて書いてみたい。


いずれにしても「面白いMLB記事」なんてものに本当に出会わなくなった。
根本原因はたぶん、本当の意味で「面白いと思える選手」がいなくなってしまったことにあるのだろう。
飛びすぎるボール。ストライクゾーンの変更。ホームラン激増。突然ホームランを量産しだす若い選手の登場。ドーピングの蔓延などなど。どれもこれも、別に面白くも、なんともない。細かく分析しようとも思わない。わかりきったことばかりで、考えて長い記事を書いても時間の無駄だし、MLBへの興味が薄れる原因にすらなっている。

May 16, 2017

下の写真は1929年に「レッドソックスのホームゲーム」に向かう大勢のファンの姿だが、彼らが向かっているのは「フェンウェイ」ではない。「ブレーブス・フィールド」だ。
1932年までレッドソックスは「日曜に限って、フェンウェイで試合を開催することができなかった」。そのため「日曜のゲームだけ」は、西に1.4マイル離れたブレーブス・フィールドで行われていたのである。(ブレーブス・フィールドは、現在のアトランタ・ブレーブスがボストンにあった時代の本拠地で、現在の名称はニッカーソン・フィールドで、ボストン大学の所有)


いままで一度も真剣に考えたことがなかったが、どうも「人が休息する曜日には、2つの種類がある」ようだ。

1)宗教的なさまざまな「制約」が定められた安息日
2)疲労回復やリクリエーションなどをして過ごす、「自由」時間としての休日


上に書いた2種類の休日のうち、後者のルーツは、どうも「古代ローマ帝国」にあるのではないか、という主旨で以下を書く。(なお、余談としてオードリー・ヘップバーンが主演した『ローマの休日』という名作映画のタイトルの解釈の誤りにも触れる)


特定の曜日」の人々の行動について、「宗教的な視点から、制約を設けている国」は、案外多い。例えば、ユダヤ教なら土曜、キリスト教なら日曜、イスラム教なら金曜が、「安息のための日」とされ、歴史上さまざまな制約が設けられてきた。それぞれの宗教の信者の多さを考えると、かなりの数の人々がこれまで「特定の曜日の行動にさまざまな制約が設けられた文化のもとで暮らしてきた」ことになる。

例えばキリスト教国だと、古くから日曜日の人々の活動のいくつか(例えば飲酒)を法的に制限した例がある。
アメリカは、そうした国々の中で最も歴史の新しい国のひとつだが、それでも、かつてアメリカがヨーロッパの植民地だった時代に、厳格なモラルのある暮らしを求めるピューリタン系移民の意向でBlue Lawという法律が定められた。
Blue Lawによる制約は州によって中身が異なるのだが、いずれにしても自由の国アメリカにも「日曜日の行動」にさまざまな制約を設けていた時代があったのである。


ボストンは、トリニティ教会のような尖塔をもったヨーロッパ風の教会が点在するヨーロッパ文化の影響の濃い街だが、フェンウェイパークは球場の1000フィート内に教会があった。そのため、法的な規定によりかつては「日曜日に試合を開催すること」ができなかった。
例えば、「1929年」でいうと5月23日〜26日にレッドソックス対ヤンキース戦が5試合組まれているが、水曜から土曜までの4試合はフェンウェイだが、「日曜日の試合だけ」はフェンウェイではなく、「ブレーブス・フィールド」で行われている。(資料:http://www.baseball-reference.com/boxes/BOS/BOS192905260.shtml

なおブレーブスがレッドソックスに日曜限定で球場使用を認めた経緯については、以下の記事が詳しい。Red Sox to use Braves Field on Sundays - The Boston Globe
ブレーブス・フィールドとフェンウェイパークの距離


さて、野球の日曜開催を阻んでいたBlue Lawの存在がわかったら、話は終わりかというと、そうではない。まだ長い続きがある(笑)


英語で「日曜日」を意味する言葉が sunday、サンデイ であることは、英語の苦手な日本人でも知っている。
だが、こういう『太陽を意味する言葉』が「日曜日」を示すようになったことには、なかなか深い歴史的な意味がある。


長い話を書く前に
まず誤解を正しておかなくてはならない。

欧米のキリスト教国に、日曜日の人々のふるまいに制約を設ける法律があることについて、日本人はその理由を「キリスト教の安息日が日曜日だからだ」と思いがちだし、日本の多くのサイトも堂々とそういう「間違い」を書いている。

だが、それは以下に示すが、二重三重の意味で正しくない
 
そもそも「安息日」という言葉が指す曜日は、ユダヤ教、キリスト教、いずれの場合も、「土曜日」であって、日曜日ではない。
旧約聖書のもとにおける安息日(Sabbath)とは、天地創造7日目に神が休息をとった曜日である「土曜日」である。ユダヤ教、そしてキリスト教宗派の一部の厳格さを重んじる宗派において、安息日とは現在でも「土曜日」を指している。
さらに詳しく言えば、「安息日という意味の土曜日」は、厳密には「金曜の日没から、土曜の日没まで」を意味しているのであり、例えばユダヤ教では、「既に安息日に入っている金曜の日没後の夜」に、「安息日の禁止事項のひとつ」である「火を使って料理する行為」は許されない。
金曜を安息日とするイスラム教においてもまた、「安息日の金曜」が意味するのはあくまで「木曜の日没から、金曜の日没まで」であり、各種の禁忌は、金曜の深夜12時から始まるのではなく、「木曜の日没」から始まる。

新約聖書のもとでは、「日曜日」が特別視され、礼拝も行われるが、これも「日曜日が安息日だから」ではない。これは「日曜日」が「主キリストの復活した曜日」にあたる「主日」(しゅじつ、=Lord's day)だからである。
例えば、東方正教やカソリック系諸国の言語、ギリシャ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、ベトナム語などにおいては、「日曜日」を示す単語として、英語におけるsundayのような「太陽を意味する言葉」ではなく、「主日」に由来する言葉を用いる。

歴史家的視点からいうと、キリスト教における礼拝日は古代ローマ時代に「土曜日から、日曜日に変更になっている」と考えられており、その直接の転機は皇帝コンスタンティヌスがAD321年に発布した日曜休業令にある。
考察例:David Laband "Blue Laws: The History, Economics, and Politics of Sunday Closing Laws"



さて、19世紀アメリカの「日曜日の行動を規制する法律」、 Blue law のルーツに話を戻す。

この法律のルーツは、1617年にイギリスのステュアート朝初代国王ジェームズ1世が定めたDeclaration of Sportsといわれている。
ジェームズ1世のステュアート朝の前の、テューダー朝をひらいたヘンリー7世の息子ヘンリー8世が離婚のために英国国教会までつくったあたりのことは、既に記事に書いた。2014年12月5日、シェークスピアも予期できなかった、527年後の復讐劇。21世紀版 『リチャード3世』。 | Damejima's HARDBALL

英国国教会成立後のイギリスでは、国教会派と、それ以外のキリスト教宗派、特に清教徒(ピューリタン)との対立が激しくなり、ピルグリム・ファーザーズのような清教徒の一部は新天地を求めて、ボストンをはじめとするアメリカ東部に渡った。
こうしたピューリタンの影響のひとつがBlue Lawだ。清教徒はご都合主義を嫌ってアメリカに渡ったわけだから、アメリカ東部の都市の一部が「キリスト教的な厳格さを要求する保守社会」になったのは当然の成り行きでもあった。
だから「Blue law が人々に求める休日」とは、最初に書いた「休日のあり方に関する2つのパターン」のうちの前者、つまり「宗教的にさまざまな制約のある安息日にふさわしい過ごし方」であり、けして現在のような「休養やリクリエーションをして過ごす、自由な休日」ではない。


では、「宗教的な義務としての安息の日」ではない、「疲労回復やリクリエーションなどのための、単なる休憩時間としての休日」は、いつごろ人類史に現れたのか。


現在我々が経験している「日曜日に、野球でも見て、ビールでも飲んで、のんびり過ごす」というような意味での「自由な休日」のルーツは、どうやら古代ローマ帝国にある。

古代ローマには「ヌンディナエ」という「8日目の休日の習慣」が、キリスト教が古代ローマ帝国に浸透する前からあった。
古代ローマ帝国は当初、「ヌンディヌム(nundinum)」と呼ばれる「八曜制」を採用していたために、「古代ローマ初期の1週間のサイクル」は「8日間」でできていたが、ヌンディヌムの「8日目」が、ヌンディナエ(nundinae)であり、仕事も学校も休みで、たとえ下層階級である農民であっても、7日間の労働のあとのヌンディナエでは友人との時間を楽しむ時間的なゆとりを持てたらしい。

皇帝アウグスティヌの時代になると、「8日間サイクル」でできていた1週間は「7日間」に短縮され、その7日目には「太陽の日」を意味する Diēs Sōlis という呼称が与えられ、皇帝コンスタンティヌスは「日曜休業令」を発布し、「週の7日目に仕事や学校を休む」よう定めた。

古代ローマで「休養日」が「太陽を意味する言葉」で呼ばれていたこと自体には、古代ローマ特有の宗教上の理由がある。古代ローマ人は、キリスト教が伝来する前から多神教的な「太陽崇拝の土着宗教」を持っていたからだ。

だが、古代ローマの「日曜休業令」は太陽崇拝を強制するために作られたわけではない。
もし皇帝コンスタンティヌスが領土全体にローマ帝国の伝統宗教を強制しようとしたのであれば、領民全員に「太陽崇拝」と「日曜の太陽礼拝」を強制したはずだが、彼はむしろミラノ勅令ですべての宗教の自由を認めたことで有名な自由を重んじる皇帝であり、太陽崇拝の強制のために日曜日を休ませたわけではないし、また、彼自身たしかにキリスト教擁護者でもあったが、反面でローマ伝統の太陽崇拝を捨てていたわけでもないから、キリスト教の礼拝を強制するために日曜休業を言い出したわけでもない。

古代ローマでは、キリスト教が帝国全土に浸透する前の1週間がまだ8日間だった時代から既に、「1週間のうち、1日を、学校や仕事を休んで休養にあてる習慣が存在した」のであり、コンスタンティヌス帝は「日曜休業令」で「古代ローマの伝統的な習慣」を「制度化した」のに過ぎない。



「日曜日」の呼び名である "sunday" は「太陽」に関係した言葉であり、その原点は、キリスト教の登場より古く、古代ローマにある。
この言葉が規定した「日曜日」とは、もともと「宗教的な制約に従って静かに過ごす日曜日」ではなく、むしろ「自由に過ごしても許される、休養やリクリエーションの日としての日曜日」が、むしろ「オリジナルの日曜日」なのだ。
ヨーロッパを脱出してアメリカにやってきた清教徒たちのナーバスな要求で作られた Blue Law がボストンでの日曜の野球開催を禁じたわけだが、日曜日に娯楽に興じることはキリスト教よりも古いルーツにのっとった行為であり、やがてアメリカにおける Blue Law による生活のさまざまな制約は20世紀に撤廃されていくことになった。
(この例からも、アメリカと英語の文化が、けしてキリスト教文化のみでできているわけではないことが、そのこともなかなか興味深い)


ゆえに。

映画『ローマの休日』の原題 Roman Holiday は、厳密に直訳するなら、『ローマ式の休日』と訳すのが正しい
さまざまな制約に縛られてばかりいる王女が、イタリアのローマで、ヨーロッパ歴訪の過密スケジュールと王室の制約に縛られることなく、自由きままに休日を過ごした、そのリラックスした過ごし方こそ、「古代ローマ的な休日」にほかならない。

Audrey Hepburn in


ハワイ移民150周年
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