September 2017

September 16, 2017

代打で打率.292打てるバッターがいたとして、もしあなたなら、この選手がスタメンでずっと出場していたら、どれだけの打率残せたと思うだろうか。
あるいは、ちょっと言いかえるなら、「もしあなたが代打という、気まぐれなシチュエーションでワンシーズン出場したとして、3割打てるか」という質問でもいい。


イチロー2017年

月間(打率、出塁率) 
7月 .321 .472
8月 .346 .370
9月 .375 .500

2017年通算(打率、出塁率、wOBA)
走者なし  .240 .303 .280
走者あり  .296 .367 .326
得点圏   .341 .426 .381

ソース:Baseball Reference, Fangraph


自分は、今シーズンイチローがスタメン起用されていたら確実に3割打てただろうと思っている。だから、来シーズンのイチローの契約について、自分は心配したことなど、一度もない。


そんなことよりも、だ。

むしろ、今シーズンのイチローについて、「なぜ?」とクビを傾げていることがある。

盗塁がゼロであることだ。


イチローを見る、という「行為」は、バッティングだけでなく、走塁を見て、守備を見て、あらゆる「野球のあらゆる時間を楽しむ総合的な行為」であるべきであって、代打でバッティングだけ見るというのは、苦痛以外のなにものでもない

盗塁死が1度だけあるところをみると、イチローの側に走る気持ちがまったくなかったわけでもなさそうだが、とはいえ、ゲーム終盤にイチローが代打として起用されるシチュエーションの大半が、盗塁を期待しない、リスクをかけられないシチュエーションばかりだったのかもしれない。よくわからない。

なぜだ。
足のどこかを痛めているのか。

誰か、マッティングリーにイチローの盗塁を禁止してないかどうか、聞いてきてくれ(笑)


冗談はさておき、ついでだからいうと、マイアミのオーナーが来シーズンからデレク・ジーターのグループに変わったら、監督ドン・マッティングリーか、GMマイケル・ヒルのどちらか、特にマッティングリーはクビになるんじゃないかと、ちょっと思ってる。なぜって、やりようによっては今シーズンのマイアミはポストシーズン進出の可能性が十分あったと、誰しも思っているはずだからだ。

September 02, 2017

「場所」には、気候風土の違いも含めて「歴史」がある。

例えば、東京でない場所が東京を真似て東京になれるか。なれない。日本でない誰かが日本を真似ても、日本そのものにはなれない。




国立霞ヶ丘陸上競技場、いわゆる国立競技場の建て替え問題で廃案になったザハ案は、「場所の歴史をまったく考慮しない机上の空論」だった。ザハ案は結局実現せずに終わり、ザハ自身もこの世を去った。他人の真似しかできない無能なデザイナーがデザインしたエンブレムも葬られた。

日本のマスメディアは、膨大な建設費の問題こそ、さかんに報道したものの、「なぜあの場所に陸上競技場があったのか」という根本的な部分をまるで理解しようともしていなかったし、「明治神宮外苑の意義ある歴史」という原点にきちんとたちかえって、新・国立競技場のあるべき姿を論じたメディアなど、まるで皆無だった。



かつての国立霞ヶ丘陸上競技場は「理由」があって、あの場所にあった。それには大きくわけて遠いもの、近いもの、2つの歴史の流れがあり、2つの歴史はか細い接点によってひとつの場所に結ばれている。

なにはともあれ、まず年表で確認してもらいたい。
遠い歴史とは、江戸時代に大名屋敷だったあの場所は、明治時代に練兵場になったことだ。近い歴史とは、大正・昭和時代にはずっと陸上競技場だったことだ。
あの場所は、この100年以上にわたって個人所有だったことは一度もない。ずっと「公(おおやけ)の場所」という立ち位置にあった場所であり、そういう意味で「特別な場所」だった。

年表1 練兵場時代

1871年(明治4年)日比谷・霞が関の武家屋敷跡に陸軍操練所設置
1885年 (明治18年)陸軍操練所が「日比谷練兵場」と改称
1888年 (明治21年)日比谷練兵場が青山に移転。「青山練兵場」と改称
1894年(明治27年)青山練兵場内に青山軍用停車場が開業
1909年(明治42年)青山練兵場が代々木に移転。「代々木練兵場」と改称(=後の代々木公園)

「明治神宮外苑」という地域は、もともと日比谷にあった陸軍の練兵場が移転して1888年にできた「青山練兵場」が前身である。
この練兵場には、(当時は甲武鉄道という私鉄だったが)現在の中央線の千駄ヶ谷あたりから分岐した鉄道がひかれていた時代があり、練兵場内には青山軍用停車場という駅も設置されていた。この駅から日清・日露戦争時に日本の若き精鋭たちが出陣していった。

余談ではあるが、青山練兵場と青山軍用停車場の存在がわかれば、第二次大戦時に明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会、いわゆる「学徒出陣」が行われる伏線になっていることがわかる。
学徒出陣について、すぐに「第二次大戦特有の悲劇」だ、などと勝手に思い込んでいる「戦後のオジサンたち」が数多くいるわけだが、それは間違いだ。「東京・青山を起点に、年端も行かない若者たちが戦争にかりだされていった」のは、なにも「第二次大戦時だけだった」わけではないのである。日清・日露戦争時以来ずっとこの場所は「若者を鍛え、そして、送り出す場所」だった。

戦争を賛美しよう、というのではない。

勝った戦争のお祭り騒ぎは看過し、負けた戦争の若者の犠牲は徹底して批判するというのでは、まるで「スジが通らない」と言いたいのである。

日本が戦勝国となった日清・日露戦争時には、出征はまるでお祝い事ででもあるかのように扱われ、戦争が終わってからは戦勝を祝う数々の石碑が日本中で建てられ、その多くはいまも現存している。
かたや、敗戦に終わった第二次大戦の若者たちの出征については、戦後になって悲劇の主人公のように扱われてきた。第二次大戦の若者たちの出征を批判的に扱う人は数多くいるが、日清・日露戦争時の戦勝記念行為を批判したなんて話は、ほとんど聞いたことがない。

勝った戦争においても、負けた戦争においても、犠牲は、後世の人間にとって常に厳粛に受け止めてなくてはならないものなのだ。

戦争をなくす、ということは、負けた戦争についてだけ批判を繰り返す、というようなハンパな行為によって成就するものではないはずだ。



年表2 陸上競技場時代

1924年 青山練兵場跡に明治神宮外苑競技場 開場
1924年 第一回 明治神宮競技大会 開催(〜1943年)
1926年(大正15年/昭和元年) 青山練兵場跡地に神宮外苑完成
1930年 第九回極東選手権大会 開催
1957年 明治神宮外苑競技場 取り壊し
1958年 国立霞ヶ丘陸上競技場 完成
1964年 東京オリンピック開催
2015年 国立霞ヶ丘陸上競技場 取り壊し
2020年 東京オリンピック開催予定


青山練兵場が明治神宮外苑に改組された契機は、1912年の明治天皇崩御であり、第二次大戦とはまったく何の関係もない。
明治神宮には「内苑」と「外苑」があり、「内苑」である明治神宮本殿が国費で造営されたのに対し、「外苑」は民間有志により結成された明治神宮奉賛会が、国民の寄付や献木、全国青年団の勤労奉仕によって造営され、その後「明治神宮に奉献」されたという違いがある。(日本青年館というホールがこの地にあるが、この施設は「外苑の造営に大きな貢献をした青年団へのご褒美」であり、偶然できたわけではない)

明治神宮外苑の中心は当然絵画館だが、他にたくさんのスポーツ施設があり、施設全体は政治的でも宗教的でもなく、文化的なものとしてできている。
明治神宮外苑競技場は、日本初の、そして当時東洋一の本格的陸上競技場として建設され、明治神宮競技大会のメイン会場だった。
明治神宮競技大会は、現在でいえば「国民体育大会」にあたる総合スポーツイベントであり、時代とともに主催者、名称、競技種目を変えながら、1924年(大正13年)から1943年(昭和18年)まで計14回開催された。陸上・水泳など夏季五輪の競技だけではなく、スキー、スケートなどの冬季競技も含まれていて、当時の日本にとっては「国内版総合オリンピック」だった
明治神宮競技大会 - Wikipedia


第二次大戦時に、明治神宮外苑競技場が出陣学徒壮行会に使用された。が、それは偶然ではなく、むしろこの地では古くから壮行会が開催された歴史がある。

出征兵士を送り出す臨時線・駅が特設された
1894年 青山(明治27年)▷日清戦争時の青山練兵場の特設駅
https://jaa2100.org/entry/detail/052541.html


September 01, 2017



日本の国土の上空をミサイルが通過するこの異常な時代にあって、官房長官に「ある程度、金委員長側の要求に応えるような働きかけはしないのか?」などと質問する度を越したアホがジャーナリストを気取るような、キチガイじみた時代である。

ブログ主は、もし近い将来に、東京新聞記者・望月が、中国や北朝鮮などから資金提供を受けた宣伝協力者、あるいは工作員、あるいは内通者とわかったとしても、特に驚かない。
なぜそんな三流スパイ小説まがいのことを懸念するのかといえば、第二次大戦後の暗号解読や情報公開によって明らかになったさまざまな「事実」によって、英国やアメリカの、それも戦時の政権や情報機関の内部においてすら、「欧米向けの宣伝活動の従事者」、「内通者」、「スパイ」が、少なからず実在していた実例があるからだ。以下のエピソードはそのほんの一部にすぎないが、これらは作り物の小説でも、映画でもない。


第二次大戦前後の英米におけるスパイ事件で、まずアタマに入れるべきは、Venona projectだろう。(ベノナ・プロジェクトは単に「ベノナ」と表記される場合も多い。また「ヴェノナ」という表記も多数あり、検索に工夫が必要)
Venona project - Wikipedia
アメリカで1943年から30年以上にわたって続けられたベノナ・プロジェクトの目的は、当時の米国内にいたソ連スパイと、ソ連との間で交わされる暗号電文に使われていた "one-time pad" (ワンタイム・パッド)と呼ばれる「使い捨ての暗号化方式」の解読によって、「スパイの実在を確定すること」にあった。
one-time pad は現代のネット取引で使われている「ワンタイム・パスワード」の前身にあたり、ベノナ・プロジェクトで解読に成功した文書の多くは、いまもウェブ上で公開されている。

ベノナ・プロジェクトの最も大きな成果は、「疑惑」を「事実」に変えたことだ。
原爆製造情報の流出を筆頭に、アメリカから外部への情報漏洩については、アメリカ国内にいる多数のソ連スパイの関与が指摘され続けていたが、その実在の証明はいまひとつ不確かなものであり、また、当時のマスメディアはスパイ疑惑の追及に対して「冤罪」を主張して抵抗していた。
だが、ベノナ・プロジェクトによってアメリカ国内はもとより、当時の政権の中枢にすらソ連のスパイが実在していたことが証明され、また、スパイ疑惑に抵抗する当時のマスメディアの冤罪キャンペーンにも、コミンテルンやソ連の誘導や資金提供があったことが後年の検証で判明した。
(また、この記事では触れきれないが、第二次大戦前のアメリカ国内には「見た目に中国支援者にみえる有力者」が多数いて、中国支援のロビー活動や反日世論の喚起を熱心に行っていたが、ベノナ・プロジェクトによって、そうした当時のアメリカ国内の中国支援団体の主要人物の多くがソ連のスパイだったことがわかっている)


具体的事例に移ろう。
ベノナ・プロジェクトの暴いた代表事例といえば、
ローゼンバーグ事件だろう。

これは、アメリカのユダヤ人夫妻ジュリアス・ローゼンバーグJulius Rosenberg)とエセル・グリーングラス・ローゼンバーグ(Ethel Greenglass Rosenberg)が原爆製造情報をソ連に売りわたしていたスパイ事件だ。
夫妻の情報源は、アメリカの原爆開発地であるロスアラモス国立研究所で働いていた妻エセルの実弟デイヴィッド・グリーングラス(David Greenglass)であり、この男も夫妻同様にソ連のスパイだった。

夫妻は1951年に死刑判決を受けたが、判決を不当と主張する左翼系マスコミなどによってアメリカ政府を非難するプロパガンダが行われた結果、「プロパガンダに乗った多くの著名人」が冤罪を訴えたことでも有名になった。(サルトル、コクトー、アインシュタイン、ロバート・オッペンハイマー、ハロルド・ユーリー、ネルソン・オルグレン、ブレヒト、ダシール・ハメット、フリーダ・カーロ、ディエゴ・リベラ、ピカソ、フリッツ・ラング、教皇ピウス12世などなど)
だが結果的には、ベノナ・プロジェクトによる暗号解読によって「ローゼンバーグ事件が事実だった」ことが判明。また、冷戦終結後に公表されたソ連の内部文書や証言によって、ローゼンバーグ事件における左翼系マスメディアのプロパガンダそのものが、ソ連が関与した「ステマ」だったことすら明らかになったらしい。


さらにもうひとり、ベノナ・プロジェクトで判明したソ連のスパイに、元・財務次官補ハリー・ホワイトHarry Dexter White)を挙げないわけにはいかない。

ローゼンバーグ夫妻と同じユダヤ系アメリカ人で、ボストン生まれのハリー・ホワイトは、ハーバード大学の大学院を経てフランクリン・ルーズヴェルト政権の財務次官補の要職についた。
彼は、在米日本資産の凍結を支持した人物であり、また、第二次大戦直前の1941年、米国から日本への最後通牒となった、いわゆる "Hull note" (ハル・ノート)の原案となったモーゲンソー私案を作成した、まさにその人物である。
ハリー・ホワイトは1943年から始まったベノナ・プロジェクトによってスパイ疑惑を指摘され、1948年に米下院非米活動委員会に召喚されたが、疑惑を否定。そのわずか3日後、毒性のある植物であるジギタリスの大量服用による心臓麻痺で急死している。


ソ連のスパイだったハリー・ホワイトが「ハーバード卒」だったことは、わざと明記しておいた。それには以下のような理由がある。

第二次大戦当時、中華民国総統だった時代の蒋介石の周辺にたくさんのハーバード卒業生がいたといわれるように、第一次と第二次の大戦間には、英国ケンブリッジ大学、米国ハーバード大学など、英米の有名大学卒業生に非常に多くの「共産主義信奉者」「左翼思想にかぶれた若者たち」がいたことがわかっているからである。

以下を読んでもらえばその責任の一端がわかると思うが、第二次大戦後の「核兵器の時代」、つまり「相互の核武装を前提にした東西均衡」の発端は、大戦前後の混乱期に多発した「共産主義を信んじこんだ無謀で無責任な各国の若者たちによる、原爆などの国家機密の漏洩」に原因のひとつがある。


例えばケンブリッジ・ファイブCambridge Five)と呼ばれたイギリスの集団は、1930年代にケンブリッジ大学で共産主義を信奉するようになったグループで、主犯格キム・フィルビーKim Philby)は、ソ連のスパイでありながら、同時になんとイギリスの諜報機関の次期長官候補ですらあった。
同じように、ケンブリッジ・ファイブのメンバーはその一流大学卒の経歴を生かし、イギリス外務省、情報機関MI6やSIS、国営放送BBCなど、国家機密や情報に直接関わりをもつ要職につき、ソ連のスパイとして、イギリスとその同盟国の情報を大量にソ連に手渡したとされている。

広島と長崎に投下された原爆を製造したアメリカのマンハッタン計画で、原水爆製造に深く関与した元ドイツ人クラウス・フックスKlaus Fuchs)も、ソ連のスパイだった西側欧米人のひとりだが、このクラウス・フックスがアメリカからイギリスに移って以降にもたらした原爆製造情報をソ連に流していたのは、ケンブリッジ・ファイブのひとり、ドナルド・マクリーンDonald Maclean)だった。
ケンブリッジ・ファイブの容疑は1950年代に露見しかかったが、主犯格キム・フィルビーがメンバーに通報したために、メンバーの大半がソ連に亡命し、処罰をまぬがれた。マクリーンも1951年に亡命、ソ連共産党に入党して財産を与えられ、モスクワで死去している。



次に、赤いジャーナリスト、エドガー・スノーEdgar Snow)を挙げておこう。

エドガー・スノーはミズーリ大学とコロンビア大学の出身で、気まぐれに出かけた世界旅行のついでに中華民国に長期滞在したのをきっかけに中国専門ジャーナリストになった。1937年になると、毛沢東を神格化し、毛沢東による中国革命を賛美する中国宣伝本 "Red Star Over China" 『中国の赤い星』を出版。当時の欧米や日本の「知識人気取り」の間で「必読本」として扱われ、一世を風靡したようだ。いいかえると、この書籍を読んだ若い知識人気取りが共産主義にかぶれる原因のひとつをつくった。

だが、日本人として忘れてはならない彼の著作は、なんといっても1941年出版の "The Battle for Asia" 『アジアの戦争』だろう。
南京事件を報道した "The Battle for Asia" は、後に「南京で日本軍が30万人を虐殺した」という歪曲情報を固定する「宣伝戦略」の中心材料となった。

スノーが著作を書くにあたっては、接触がJDサリンジャー並みに難しかった毛沢東がインタビューを許すかわりに、「果てしない数の原稿の書き直し」をさせられていたことがわかっている。同様の「書き直し作業」は、 "Red Star Over China" のみならず、エドガー・スノーの第二次大戦時の著作の大半にみられるようだ。
つまり、スノーは言われるがまま、「宣伝文」を書かされていた、ということだ。後年の検証で、エドガー・スノーが南京大虐殺に関する一次情報を扱う立場になかったことなど、彼の著作の信憑性には多数の疑問がつきつけられている。
またスノーの著作によって神格化していた毛沢東の実像についても、例えばユン・チアンとジョン・ハリデイによる『マオ 誰も知らなかった毛沢東』など、近年の検証によって当時の実態が明らかにされつつある。
「 『マオ』が伝える中国の巨悪 」 | 櫻井よしこ オフィシャルサイト



また、エドガー・スノーに似た、アメリカの中国共産党専門のジャーナリストに、アグネス・スメドレーAgnes Smedley)がいる。

スメドレーは、毛沢東に会うチャンスを与えてもらうかわりに「宣伝のための作文」を書かされていたエドガー・スノーに似て、1940年前後に、当時内戦状態にあった国民党と共産党の双方から取材して記事を書かせてもらえるチャンスに恵まれたことで一躍有名になった。
だが、1950年に下院非米活動委員会から召喚状が発せられたスメドレーは、その日にロンドンに飛んで、召喚に応じることなくその夜に急死した。これは非米活動委員会から召喚され3日後に突然死亡したハリー・ホワイトとまったく同じ展開であり、スメドレーも、ハリー・ホワイト同様に、冷戦終結後の情報公開によって「コミンテルンから資金援助を受けて欧米向けの宣伝活動に従事していた」ことが判明した。

なお、南京事件自体を初めて世界に発信したのは、エドガー・スノーではなく、イギリスのマンチェスター・ガーディアン特派員、ハロルド・J・ティンパーリHarold John Timperley)だが、このティンパーリにしても、スメドレーと同様、国民党中央宣伝部顧問の肩書きがあり、その著作群が中国国民党中央宣伝部の意をうけて発行されたものである疑いをもたれている。



もちろん、ここに書いた数々の話題の真偽を、どう確かめ、どう判定するかは、読む人の自由であり、ブログ主の関わるところではない。
少なくとも言いたいことは、「情報」というものが「意図的に作られ」、世論というものが「意図的に操作される」ことなど、かつても、今も、けして珍しくない、ということ、そして、そういうスパイ小説まがいの行為について「それは陰謀論ってやつですね(笑)」と笑い飛ばして無視できる時代は、残念ながらとっくの昔に終わった、ということだ。

官房長官への記者会見という公式の場所で、堂々と異常な質問を繰り返す東京新聞記者の異常さは、まさに「言葉でできたミサイルを日本に向けて飛ばす行為」としか、言いようがない。



また蛇足だが、日本の戦後史の評価についても、いい機会だから自分で調べてみることをお勧めしたい。
ハル・ノートを起草して日本を戦争に追い込んだハリー・ホワイトや、南京事件の歪曲報道に関わったエドガー・スノーやハロルド・ティンパーリの足跡から、「第二次大戦前後の国際世論がどれほど、中国やソ連、コミンテルンなどによって誘導されていたか、そして、その情報の歪曲が、これまで日本の国益をどれほど損なってきたか」考えるべきだ。


共産主義かぶれの人間は、とかく核の時代を批判したがる。だが、むしろ聞きたいのは、核による危険な均衡の時代の『開幕』に、あなたがたは関与してこなかったと本当にいえるのか、ということである。


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