July 2018

July 10, 2018

以下の記事によると、アリゾナで自分の進むべき道に迷った中後悠平に「マイナーの指導者」が贈ったアドバイスが、彼の人生観を変えるきっかけになったらしいが、もったいないことに、「アドバイスした人物の名前」が明かされていない。
中後悠平、DeNAは日本復帰にベスト。米国で変化した野球観、“プライド捨てた”左腕と球団繋ぐキーワード(ベースボールチャンネル) - Yahoo!ニュース

もし「中後にアドバイスしたマイナー指導者」が、アリゾナの3A、Reno Acesの監督という意味なら、今はヤンキースのサードベースコーチになっているPhil Nevinということになる。

そう。1992年ドラフトで、ヒューストンが1位指名して問題になった、あのフィル・ネビンだ。
2016 Arizona Diamondbacks Minor League Affiliates | Baseball-Reference.com


1992ドラフトでネビンが全米1位指名を受けたことで、当時スカウトだった殿堂入り投手ハル・ニューハウザーとヒューストンとの間に生じた「確執」は、多くのブログで触れられているMLBファンに馴染みのエピソードのひとつだが、この件、触れられてないことも多々ある。

Hal Newhouser左:コメリカパークの銅像
右:実際のニューハウザーの奇想天外な投球フォーム
Hal Newhouser Stats | Baseball-Reference.com


コトの顛末自体はだいたいこんな話だ。

1991シーズンにナ・リーグ中地区最下位だったヒューストンは、1992年ドラフトで全米1位指名権を持っていたが、スカウトのニューハウザーは「デレク・ジーターの1位指名」を非常に強く進言していた。

ところが、チーム側は契約金が高額になるのを嫌がって、ニューハウザーのアドバイスをあえて無視して、カレッジのスターだったフィル・ネビン指名に走ったのである。ひどく落胆したニューハウザーは野球界から去り、故郷ミシガンに引きこもってしまった。
ハル・ニューハウザーは、同じ1992年にヴェテランズ・コミッティ選出で殿堂入りしたため、彼は「殿堂入りの栄光」と「スカウトとしての巨大な失意」の両方を、1992年に同時に経験することになった。


この件を取り上げている日本のサイトは、多くが妄信的ヤンキースファンのブログとかだから、ヒューストンが一方的に悪者扱いというか、「マヌケ」扱いになっている印象が強いが、それは短絡的な見解というものだ。

単純に言っても、そもそもジーターの全米指名順位は「6位」なのであって、「ジーターを指名しようと思えばできたのに、実行しなかったチーム」は、ヒューストン以外にも他に「4つ」もある。だから、なにもヒューストンだけマヌケ扱いされる理由はどこにもない。


Phil Nevin若い頃のPhil Nevin
あまりにも「お坊ちゃん顔」すぎて、それが原因でヤジられたのかもしれないネビン(笑)

ああいう見当違いの記事ばかりがまかり通る原因は、「大学時代のフィル・ネビンの華々しい実績」に触れないまま記事を書いていることにある。

ネビンは、カリフォルニア大学フラートン校時代、野球とフットボールの両方に優れた成績を残した、典型的なアメリカのスポーツスターだった。フットボールのプレースキッカーとして驚異的な成績を残す一方、野球でも3年間に打率.364、ホームラン39本、184打点と高い数字を残し、特に「チャンスに強いバッティング」で知られていた。
1992年にはカレッジワールドシリーズ決勝までチームを押し上げ、決勝で敗れたにもかかわらず、Most Outstanding Player(=いわゆる日本でいうMVP)にも選出、ゴールデンスパイク賞も受賞している。
Golden Spikes Award - Wikipedia

つまり、「MLBに入るまでのフィル・ネビン」は「押しも押されぬスター」であり、アメリカのアマチュアプレーヤーの頂点に立っていたのである。

だから「1992年ドラフトにおけるフィル・ネビン」は、いってみれば、「1980年代のロビン・ベンチュラ」、「1990年代のチッパー・ジョーンズ」、「2010年代のクリス・ブライアント」ともいうべき、「超有望な三塁手」だったわけで、前年に地区最下位で、チーム改造を急ぎたいヒューストンが全米1位に指名したとしても、無理はない。
(ただ、思いおこせば、誰もがクリス・ブライアントを1位指名するだろうと思っていた2013年ドラフトで、その年のカレッジワールドシリーズで活躍したマーク・アペルを、635万ドルも払って指名して大失敗(その後鳴かず飛ばずで引退)したのも、同じヒューストンだ。「カレッジ・ワールドシリーズを過大評価するヒューストンの悪癖」がまた出て、同じ轍を踏んだといえなくもない)


さて、
このネビンのヒューストン入団にまつわるドラマには、まだ「続き」がある。そして、ネビンがプロの野球選手になって以降に起こした騒動、経験した紆余曲折の数々については、日本にはほとんど記事がない。

オマハでカレッジワールドシリーズを戦っていたフィル・ネビンに、ドラフト1位指名の印象についてインタビューした当時の新聞記事がある。
The Victoria Advocate 1992年6月2日記事 - Google News Archive Search

ネビンはこの記事で、「ヒューストンは、オークランド・アスレティックスでも、ニューヨーク・ヤンキースでも、トロント・ブルージェイズでもない」などと、「もってまわった、ルーキーらしからぬ、エラそうな受け答え」をしている。
というのは、前年1991年のドラフトで、ヤンキースの1位指名選手が100万ドルを超える「高額ボーナス」をもらって入団しているからで、ネビンに言わせれば「自分が全米1位指名されたヒューストンはカネがない。だから、自分が受け取れるボーナスが少ないのはしかたない」という意味で「上から目線の受け答え」をしたのである。

実際、彼の受託ボーナスは「70万ドル」で、100万ドルに遠く届かなかったわけだが、こういう発言ぶりでは、嫌われるのもしかたない。実際、この「上から目線コメント」にもみられた「ネビンのルーキーらしからぬ態度」は、その後次第にMLBファンの「怒り」を買うことになった。


その後ネビンが経験する「MLBでの扱い」は、いくつかのエピソードの断片から推し量るかぎり、「かなり大変なもの」だったようだ。

1992年ドラフトでヒューストンがネビンを1位指名したとき、指名当事者であるヒューストンGMビル・ウッドは、「ネビンは限りなくメジャーレベルの選手だから、育成期間はきっと極端に短い」などと、全力でネビンを持ち上げた。

だが、実際には、「全米で最も有名な、若手三塁手のスター」を全米1位指名しておきながら、ヒューストンは「ネビンをどう育成するか」で迷走することになった
というのも、1992年当時ヒューストンには、「生え抜き三塁手」のケン・カミニティがいて、おまけに彼は「新たに契約した3年契約の1年目」だったから、メジャーのスタメンで使わざるを得ない状況だったのである。(ちなみに、ステロイダーで、ドラッグ中毒患者でもあったケン・カミニティは、2004年にニューヨークでドラッグのやりすぎによる心臓麻痺で死亡している)

チーム内部、特にマイナー指導者は、「あれだけ打撃のいい選手だから、シーズン最初からメジャーでプレーさせるべきだ」と考えていたようだが、ヒューストンは結局ネビンを「マイナーで」スタートを切らせた。


マイナーでMLBデビューしたネビンだが、その後の「苦境」を物語る記事がいくつかある。

マイナー初年度の彼の打撃成績は、打率.247という数字からもわかるように、大学時代の素晴らしい活躍を知っているファンの期待に沿うものではけしてなかった。責任感の強いネビン自身も、自分の成績について「物足りない」と考えていた。

だが、打撃の中身は、3割を越えていた得点圏打率でわかるとおり、「チャンスに強い」、「RISPに強い」という大学時代の彼の特徴を発揮したものではあり、マイナーの指導者はそのことをきちんと認識していて、メジャーに送り出す日をひたすら待っていた。


しかしながら、メジャーに正三塁手がいて、天井がつかえているヒューストンは、この「スター選手の処遇」に困り、本来ならメジャー三塁手になっている可能性があった若者を、「外野手」にコンバートしてしまう。

だが、外野手ネビンは外野手でデビューゲームからエラーを犯してしまい、その後も問題になる「守備の下手さ」を露呈してしまうことになった。

そうした中、あるマイナーのゲームで心無いファンが、この「エリート出身のマイナー選手」をターゲットに限りなく酷いヤジ、親とか兄弟をネタにしたヤジを浴びせ続けたため、怒ったネビンは、フェンスを乗り越え、ファンに詰め寄ろうとした。
幸い同僚選手がネビンを引き止めたために、暴力沙汰にこそならなかったものの、この騒動は新聞記事になって広く世間の知るところとなった。(ちなみに、ヤジったファンは逮捕された)

このヤジの件以外にも、当時のスポーツ・イラストレイテッドが「ネビンと周囲との軋轢」を記事にしていて、「マイナー選手のクセに、メジャーリーガーぶって、オークリーのサングラスをかけている」などと批判記事を載せている。
Diamond Daddy Phil Nevin`s Biggest Hit Didn`t Even Come At The Ballpark. It Was The Birth Of His Daughter. - tribunedigital-sunsentinel

Phil Nevinの似合ってないサングラスPhil Nevinの似合ってないサングラス(これはメジャー昇格後の写真)。たしかに、こんな似合わないサングラスをかけた選手がマイナーにいて、しかも成績が悪かったら、自分もヤジりたくなるかもしれない(苦笑)


こうしてネビンは、「ファンやメディアから非常に嫌われている野球選手のひとり」になってしまい、後年ネビン自身マイナー時代を振り返って、「どこにいっても酷いヤジに悩まされた」と述懐する酷い状況になった。
Just One Step Away : Phil Nevin Is Doing Well at Triple-A Tucson; His Move Up to Houston Seems Right on Schedule - latimes


その後、1995年シーズン前になってヒューストンは(後にステロイダーであることがわかる)三塁手ケン・カミニティをトレードした。

ところが、である。

チームは三塁手復帰を熱望していたネビンをメジャーに上げなかったのである。怒ったネビンは、マイナー選手であるにもかかわらずメジャーのクアーズ・フィールドにやってきて、当時のヒューストン監督テリー・コリンズ(後に日本でオリックス、MLBメッツの監督などを歴任)の部屋で、監督を罵倒し、さらにそこらにあったものを蹴り倒すという「蛮行」を働いた。
Record-Journal - Google News Archive Search

当然ながら、ネビンはヒューストンで居場所がなくなってしまい、同年ヒューストンでメジャー昇格を果たしたものの、8月にはトレードに出されてしまい、デトロイトで外野手、アナハイムでキャッチャーになり、1999年にはサンディエゴに流れ着いた。

彼の人生の流れが大きく変わったのは、サンディエゴで、当時の監督ブルース・ボウチーがネビンを三塁手に抜擢したことがきっかけだった。
2000年は開幕から「正三塁手」として出場し、なんと、打率.303、31HR、107RBIと、「3割・30本塁打・100打点」を達成。翌2001年も、打率.306、41HR、126RBIで、2年連続で3割・30本塁打・100打点を達成し、オールスターにも初出場した。


とはいえ、ネビンの現役時代の通算成績が「全米1位指名選手への期待」に沿うほどのものだったかというと、残念ながら、そうではない。「元エリート」フィル・ネビンは、今はアリゾナの3Aの監督から、ヤンキースのサードベースコーチになっている。
Phil Nevin Stats | Baseball-Reference.com


ネビンの波乱の人生を振り返ってみると、たくさんの「if」がある。

もし、三塁手に困っていなかったヒューストンが、ニューハウザーの進言に従ってデレク・ジーターを1位指名していたら、どうなっていたか。もし、プライドが高すぎて扱いづらいネビンを、若手育成に長けた、三塁手のいない他チームが指名していれば、どうなっていたか。
ハル・ニューハウザーがヒューストンを去る必要はなく、もっと長く野球界で活躍できたかもしれない。他方で、ヒューストンのマイナーがジーターを潰したかもしれない。ネビンが本物のスターに育っていたかもしれない。

人生、先のことは、わからない。

それを地でいくフィル・ネビンならば、道に迷った若い選手からアドバイスを求められたとき、「おまえな、野球ってものはだな、自分が楽しめなくなったら終わりなんだ」などと、ちょっと暗い笑顔でニヤリと言ってくれそうなのである。
(以下に、3A監督としての苦労についてフィル・ネビンに聞いたインタビューがある。上に書いた彼の経歴を知ってから読むと、なかなか面白い。 Phil Nevin | Jeff Pearlman
ちなみに、2018年ヤンキースには3人の「カリフォルニア大学フラートン出身のコーチ」がいる。ブルペン・ピッチングコーチ Mike Harkey、アシスタント・ヒッティングコーチ P.J. Pilittere、そしてサードコーチ Phil Nevinである)


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