September 2018
September 27, 2018
落合博満については、何度か記事にしている。
2011年10月18日、落合・中日優勝に見る、「野球ファンが視線を共有する時代」と、マス・メディアの「時代の読めなさぶり」や「限界」。 | Damejima's HARDBALL
2011年11月14日、落合博満の居合。 | Damejima's HARDBALL
当時こんなことを書いた。長い引用をする。
今読んでも、自画自賛になるが、まったく間違いがない。
だが、就任当初から落合は、理解力のない地元ファンや、プロスポーツをわかっていない親会社の中日新聞のホワイトカラーのアホウによって、やれ生え抜き選手をコーチに使わないだの、なんだのかんだのと、いわれのない批判を受け続けた。
今シーズンかぎりの引退を前にした中日・荒木雅博が、2003年秋季キャンプで落合に受けた「ノック」の苛烈さについて、こんなことを語っている。
(引用元:「僕は野球を二度なめたことがある」中日・荒木雅博、41歳の告白(文春オンライン) - Yahoo!ニュース)
たしかに、いい記事ではある。
だが、1点だけ、この記事は「大事なこと」を書きもらしている。
忘れてもらっては困る、非常に大事な点である。
それは、このノックが、「落合が中日の新監督に就任した直後」の2003年10月に行われたという点である。この記事には、落合が「新監督就任直後」に荒木にこういう苛烈な特守を課したことの「意味」が書かれていない。
落合が監督に就任した2003年オフ、中日はロクに補強をしなかった。その理由は荒木のインタビューで明らかだ。落合が「外部からの補強」ではなく、「既存の選手のレベルアップに主眼を置いたから」である。
そして落合は、就任1年目の2004年、チームをいきなりのリーグ優勝に導く。それが偶然ではないことは、荒木のインタビューで明らかだ。さらに2006年優勝、2007年日本一、2010年優勝、2011年球団初のリーグ連覇と、落合中日の黄金時代は続く。
荒木の言葉と、2004年にいきなりリーグ優勝した事実から、落合が中日において成し遂げた「これまで目にみえにくかった巨大な業績」がハッキリする。
素質こそあったが、とかく甘えの多かった二流の野球チーム、中日の「贅肉」をとことん削り、毎年のように優勝にからむ一流チームに仕上げたのは、ほかならぬ落合の豪腕である。
浅尾についてだが、「落合中日の黄金期における浅尾の位置」について勘違いしている人が実に多い。
勘違いの例を挙げると、浅尾は最初から落合中日の黄金期の中心にいたわけではない。
例えば、落合中日が初のリーグ優勝を果たして黄金期を歩み始めるのは「2004年」だが、そのとき浅尾はまだ「大学生」で、プロの投手ですらない。浅尾がドラフトで中日に入団したのは「2006年」なのである。
また浅尾はデビュー当時からセットアッパーとして酷使され続けてきたわけではない。浅尾のプロデビューは、落合中日が晴れて日本一になる「2007年」だが、このシーズンの後半に浅尾は肩を痛めており、2007年の優勝に不可欠といえる貢献を果たしたわけではない。
浅尾が「年間通じて活躍できるリーグトップのセットアッパー」という他に類をみない独自の地位を築きはじめたのは、落合中日が3度目のリーグ優勝を果たす2010年以降だが、チーム全体として見ると、2010年には既に中日にはリーグ優勝を毎年争えるだけの投打の戦力は整っていた。
にもかかわらず、浅尾拓也の引退について、「落合が浅尾を潰した」などと、根本的に間違った意見をいまだにネットで公言しているアホウが多数いる。そういう了見の狭い地元ファンと、2004年当時から落合を批判し続けてきた中日新聞のアホウは、いまこそ真剣に落合博満に謝罪すべきだ。
確かに、浅尾は2011年シーズンに79登板して、「セットアッパーにして、最優秀選手」という「野球史に残る偉業」を達成し、ピークを迎えた。そして、それは同時に、落合中日の黄金期のピークでもあった。
だが、「2011年のピーク」に至るまでの間、落合が「選手が潰れるほどの練習」、「選手が潰れるほどのゲーム出場」を課した選手は、なにも荒木や浅尾だけではない。
そうしたハードな経験なくして、やがて引退していくことになる中日の選手たちが得た「日本一経験者」あるいは「日本シリーズ経験者」という「永久に消えない栄光ある業績」、そして、彼らがこれから経験する第二のステージにおける「指導者としての権威」が存在しえたと、ブログ主はまったく思わない。
ファンはチームに日本一になることを期待して、夢を見る。
だが、夢を見るだけで、「方法論」がない。方法論として、どこをどうすると、日本一になれる「本物のチーム」「一流のチーム」ができるのか、それを考え、実行するのは、ファンではない。指導者だ。
ツイッターでも書いたが、「頂点に立つ」ということは、「一度きりしかない人生を、自分の信じた道に賭し、その課程に必ず立ちはだかる激烈な痛みに耐えぬく」ということだ。
「日本一になれ、だが、そっと丁寧に選手を扱え」などという矛盾した戯言(たわごと)は、あらゆるプロスポーツ、ことに中日という甘えたチームにおいては、単なる「おとぎ話」に過ぎない。そのことを忘れてもらっては困る。
落合は、「勝てる選手、勝てるチームになることと引き換え」に、限界を超えて選手を鍛えた。「限界を超えた経験」のない人間は成長しないことがわかっていたからだ。
浅尾についても同じように、落合はゲームにおいて、2011年に79試合も登板させた。もし浅尾がいなかったらあの年の日本シリーズには出られなかっただろう。それは、言い換えるなら浅尾を酷使してでも日本一に出てやる、日本一になるという強い意思がなかったら、チームを日本シリーズに出してやれなかったのである。
落合なくして、日本一なし。そして
浅尾なくして、落合中日のピークなし、である。
誤解されても困るので公言しておけば、ブログ主は死ぬほど浅尾の大ファンだ。落合の監督時代が、日本シリーズどころか、優勝にもまったく縁がない、浅尾の肩も壊れました、というブザマな結果なら、誰よりも先に落合をクソミソに言ったことだろう。
だが、落合は責任を果たした。
浅尾は2011年に、チームとして、そして選手として、「リーグの頂点」にたどり着いている。このことで、このことだけでも、浅尾には十分な報いがあった、そう思いたいのである。
2011年10月18日、落合・中日優勝に見る、「野球ファンが視線を共有する時代」と、マス・メディアの「時代の読めなさぶり」や「限界」。 | Damejima's HARDBALL
2011年11月14日、落合博満の居合。 | Damejima's HARDBALL
当時こんなことを書いた。長い引用をする。
勝ちを求める人は多い。
それはそうだ。
勝てば、褒美がついてくる。
だが、「勝ち方」を愚直に求める人はどうだ。多いか。
いや。多くない。
スティーブ・ジョブズを見てもわかる。自分にしかない道を歩く定めを自分に課して生きる人は、ほんの一握りしかいない。
自分なりの勝ち方を、時間をかけ、手間をかけ、追求し続けることに、どれほどの価値があるのか、誰も確信が持てない。もしかすると無駄に終わるかもしれないことを、誰もがやりたがらない。
勝ち方より、勝ちそのもののほうが価値が高い、高く売れると思い、誰もが日々を暮らしている。
(中略)
「勝ちと勝ち方は似ているが、まったく違う。勝ちを追い求めるより先に、勝ち方を身につけろ」
今読んでも、自画自賛になるが、まったく間違いがない。
だが、就任当初から落合は、理解力のない地元ファンや、プロスポーツをわかっていない親会社の中日新聞のホワイトカラーのアホウによって、やれ生え抜き選手をコーチに使わないだの、なんだのかんだのと、いわれのない批判を受け続けた。
今シーズンかぎりの引退を前にした中日・荒木雅博が、2003年秋季キャンプで落合に受けた「ノック」の苛烈さについて、こんなことを語っている。
(引用元:「僕は野球を二度なめたことがある」中日・荒木雅博、41歳の告白(文春オンライン) - Yahoo!ニュース)
それまで中日の特守は約30分。ノック中、時計を見るんですが、30分経っても終わらない。1時間を過ぎても。この辺りから時計を見る余裕がなくなる。汗が出なくなる。思考も停止する。すると、不思議な現象が起きるんです。グラブの音がパンと高くなる。これは無駄のない動きで打球に入って、芯で捕っている証拠。もう動物の本能です。
技術も体力も向上しましたが、一番大きかったのは甘えを削ぎ落としたこと。
いい記事。二度は書くチャンスはない話、それを「打てた」ら、「ヒット」という。ほとんどの打席がアウトなのが人生だ。https://t.co/kscq6ES0eN
— damejima (@damejima) 2018年9月24日
たしかに、いい記事ではある。
だが、1点だけ、この記事は「大事なこと」を書きもらしている。
忘れてもらっては困る、非常に大事な点である。
それは、このノックが、「落合が中日の新監督に就任した直後」の2003年10月に行われたという点である。この記事には、落合が「新監督就任直後」に荒木にこういう苛烈な特守を課したことの「意味」が書かれていない。
落合が監督に就任した2003年オフ、中日はロクに補強をしなかった。その理由は荒木のインタビューで明らかだ。落合が「外部からの補強」ではなく、「既存の選手のレベルアップに主眼を置いたから」である。
そして落合は、就任1年目の2004年、チームをいきなりのリーグ優勝に導く。それが偶然ではないことは、荒木のインタビューで明らかだ。さらに2006年優勝、2007年日本一、2010年優勝、2011年球団初のリーグ連覇と、落合中日の黄金時代は続く。
荒木の言葉と、2004年にいきなりリーグ優勝した事実から、落合が中日において成し遂げた「これまで目にみえにくかった巨大な業績」がハッキリする。
2003年以降、落合が中日の監督として成し遂げた業績とは、当時の地元ファンや中日新聞などが期待し、公言もしていた「既に引退している生え抜きのOB選手を、指導能力とは無関係にコーチとして採用する」というような、生ぬるい、将来性の無いことではない。
中日というチームの将来を担う中心選手を、あえて選手に容赦しない外部の人材を使って「内部の選手を鍛えぬくこと」にこだわり、未来に使えるホンモノの人材を量産すること」だったのである。
素質こそあったが、とかく甘えの多かった二流の野球チーム、中日の「贅肉」をとことん削り、毎年のように優勝にからむ一流チームに仕上げたのは、ほかならぬ落合の豪腕である。
浅尾についてだが、「落合中日の黄金期における浅尾の位置」について勘違いしている人が実に多い。
勘違いの例を挙げると、浅尾は最初から落合中日の黄金期の中心にいたわけではない。
例えば、落合中日が初のリーグ優勝を果たして黄金期を歩み始めるのは「2004年」だが、そのとき浅尾はまだ「大学生」で、プロの投手ですらない。浅尾がドラフトで中日に入団したのは「2006年」なのである。
また浅尾はデビュー当時からセットアッパーとして酷使され続けてきたわけではない。浅尾のプロデビューは、落合中日が晴れて日本一になる「2007年」だが、このシーズンの後半に浅尾は肩を痛めており、2007年の優勝に不可欠といえる貢献を果たしたわけではない。
浅尾が「年間通じて活躍できるリーグトップのセットアッパー」という他に類をみない独自の地位を築きはじめたのは、落合中日が3度目のリーグ優勝を果たす2010年以降だが、チーム全体として見ると、2010年には既に中日にはリーグ優勝を毎年争えるだけの投打の戦力は整っていた。
にもかかわらず、浅尾拓也の引退について、「落合が浅尾を潰した」などと、根本的に間違った意見をいまだにネットで公言しているアホウが多数いる。そういう了見の狭い地元ファンと、2004年当時から落合を批判し続けてきた中日新聞のアホウは、いまこそ真剣に落合博満に謝罪すべきだ。
浅尾の引退について、「落合が潰した」っていう意見をよく見かける。自分はまったくそう思わない。「日本一になること」と引き換えに、落合は浅尾を酷使し、荒木をノックした。潰されるほどの練習、試合で潰れること、その間に本質的な差なんてない。それが落合であり、日本一であることの意味だ。
— damejima (@damejima) 2018年9月26日
確かに、浅尾は2011年シーズンに79登板して、「セットアッパーにして、最優秀選手」という「野球史に残る偉業」を達成し、ピークを迎えた。そして、それは同時に、落合中日の黄金期のピークでもあった。
だが、「2011年のピーク」に至るまでの間、落合が「選手が潰れるほどの練習」、「選手が潰れるほどのゲーム出場」を課した選手は、なにも荒木や浅尾だけではない。
そうしたハードな経験なくして、やがて引退していくことになる中日の選手たちが得た「日本一経験者」あるいは「日本シリーズ経験者」という「永久に消えない栄光ある業績」、そして、彼らがこれから経験する第二のステージにおける「指導者としての権威」が存在しえたと、ブログ主はまったく思わない。
ファンはチームに日本一になることを期待して、夢を見る。
だが、夢を見るだけで、「方法論」がない。方法論として、どこをどうすると、日本一になれる「本物のチーム」「一流のチーム」ができるのか、それを考え、実行するのは、ファンではない。指導者だ。
ツイッターでも書いたが、「頂点に立つ」ということは、「一度きりしかない人生を、自分の信じた道に賭し、その課程に必ず立ちはだかる激烈な痛みに耐えぬく」ということだ。
「日本一になれ、だが、そっと丁寧に選手を扱え」などという矛盾した戯言(たわごと)は、あらゆるプロスポーツ、ことに中日という甘えたチームにおいては、単なる「おとぎ話」に過ぎない。そのことを忘れてもらっては困る。
落合は、「勝てる選手、勝てるチームになることと引き換え」に、限界を超えて選手を鍛えた。「限界を超えた経験」のない人間は成長しないことがわかっていたからだ。
浅尾についても同じように、落合はゲームにおいて、2011年に79試合も登板させた。もし浅尾がいなかったらあの年の日本シリーズには出られなかっただろう。それは、言い換えるなら浅尾を酷使してでも日本一に出てやる、日本一になるという強い意思がなかったら、チームを日本シリーズに出してやれなかったのである。
落合なくして、日本一なし。そして
浅尾なくして、落合中日のピークなし、である。
誤解されても困るので公言しておけば、ブログ主は死ぬほど浅尾の大ファンだ。落合の監督時代が、日本シリーズどころか、優勝にもまったく縁がない、浅尾の肩も壊れました、というブザマな結果なら、誰よりも先に落合をクソミソに言ったことだろう。
だが、落合は責任を果たした。
浅尾は2011年に、チームとして、そして選手として、「リーグの頂点」にたどり着いている。このことで、このことだけでも、浅尾には十分な報いがあった、そう思いたいのである。
September 10, 2018
年をとると、怒りっぽくなる人がいる。
想像だが、自分の体が若いときのように言うことをきいてくれなくなったり、周囲が自分のことを年寄り扱いすることで、周囲の自分への評価の低さと、まだまだ若いつもりでいる自分のセルフイメージが、実はまったく一致していないことに気づかされて、それが気にいらないのかもしれない。
とはいえ、自分の責任を認めたがらない人間、自分の衰えを認めようとしない人間には、厳しい言葉をちゃんと発しておかないと、モノゴトは真っ直ぐにならない。でないと、モノゴトは間違ったまま、曖昧なまま、固定され、歴史になってしまうのである。それは間違っている。
だから自分は、モノゴトをきちんとしておきたいから、あえて以下のような「四角い、尖った言葉」を書くことを自分に課してきた。
テニスの2018全米オープン女子決勝におけるセリーナ・ウィリアムズの行動は見苦しいものだった。
たとえ彼女が試合後の表彰式で、あまりにも礼儀をわきまえない、無礼な観客に勝者を讃えるよう訴えたとしても、だからといって、セリーナ自身の試合中の見苦しい態度を「帳消し」にできると、自分はまったく思わない。
この試合中にセリーナに行われた「3度の警告」は、
それぞれ以下の理由による。
警告それぞれに、合理的かつ明確な理由があったことは、明らかなのである。
アメリカの大手スポーツメディアのMLB担当記者たちなどは、「審判があまりにもクソ野郎だったから、自分たちのスターであるセリーナが負けた」という趣旨のツイートを試合直後からしていたが、それは根本的に間違った認識であり、審判にも、大坂なおみにも、謝罪が必要な無礼さである。
大坂なおみが全米オープンに勝った理由は単純だ。大坂なおみが、かつて女王だったセリーナを上回る、正確で、ゆるぎないプレーをしたからだ。言葉をかえれば、若い選手の理知的でクールなプレーが、ヴェテランの「慢心」に打ち勝ったといってもいい。
以下のゲームスタッツにみられるように、彼女の勝利には1点の曇りもない。大坂なおみは「勝つべくして勝った」のであり、「セリーナが審判に不利な判定を受けたから、勝つはずのない大坂なおみに勝利がころがりこんだ」のでは、まったくない。ありえない。
相手のチカラを凌駕することで合理的に得られた大坂なおみの順当な勝利のあと、不合理で不条理な罵声を浴びせる形となった会場の恥知らずな観客のブーイングには、なんの合理性もない。それどころか、それはある種のレイシズムですらある。
また、試合後のプレス・カンファレンスにおいても、数多くのハラスメントがあったことも忘れてはならない。
栄光ある勝者である大坂なおみに、自滅したセリーナ・ウィリアムズの乱れたふるまいについてコメントするよう、記者たちは執拗に求め、大坂なおみが答えに窮し涙まで流す事態となったことは、言うまでもなく「釣り竿の先にエサを垂らし、大坂なおみがうっかりセリーナに対して批判や暴言をするのを待っているような、悪質な行為」はスポーツマンシップとは完全に無縁のものだ。
また、大坂なおみの「名前」について故意に間違え、何度もゲームの内容と無縁な、愚鈍な質問を繰り返した「最前列の男性記者」などは、新たに誕生した若き女王を見下す尊大な態度、記者としてアスリートに対するリスペクトに欠けた無礼きわまりない態度を、謝罪すべきだ。
なお、今回の大坂なおみが発した sorry という単語について、sorry という単語には「残念です」という軽い意味の場合がある、などと、したり顔で解説しているハワイ大学教授(たぶん日本人)のコメントを見たが、まったく現場の空気をわかってないとしか言いようがない。
そんな辞書的な、進学塾とか高校の教員が中学生相手に受験英語を指導するような紋切り型の解説では、輝かしい勝利者であるはずの大坂なおみが「試合後に何度となく流した涙の説明がつかない」し、また、彼女が「セリーナがグランドスラムを24回勝つことをみんなが期待していたことは、わかってました」と発言したことの「辻褄」がまるであわない。
大事なのは彼女の発言が「どんな感情から発せられたか」、であって、辞書上の解釈など、どうでもいい。今回の勝利が自分の描いていた夢にはほど遠い「後味の悪い決着」をしたことで、心に傷を負った大坂なおみが、事態に一定の距離をおいて、「いやー、残念ですなぁ」などと、ババくさいコメントなど、するわけがない。
大坂なおみは「20歳」で、「当事者」なのである。
文脈と、事態の流れから判断して、sorry という単語の背景に流れている「感情」とは、「残念でした」などという大人びた態度ではなく、なんにでもすぐ謝ってしまう、なんとも「日本人的」な「ごめんなさい」の感情である。
この試合の後味の悪さをつくった原因は、セリーナ・ウィリアムズの間違ったふるまいと、ふるまいの間違いと自分自身が原因である敗北を素直に認めない態度であり、ブーイングした観客の無礼なふるまいであり、一部のメディアの尊大なふるまいだ。
実力はあるが、20歳の、まだナイーブな勝者にネガティブな感情を抱かせたことについて、衰えつつあるオバサンのセリーナ・ウィリアムズ、礼儀と程遠い行動をしておいて無反省な現場の観客、事態の全体像をまったく把握してないクセにセリーナを持ち上げてきたメディアの古い価値観にとらわれて審判批判をしたニューヨークあたりの頭の固いスポーツライターは、大坂なおみに謝罪すべきである。
米ボストン・グローブ
Rules are rules, and Serena Williams went too far this time - The Boston Globe
英タイムズ
Serena has joined the MeToo victims’ cult | Comment | The Times
ニュージーランド・ヘラルド
Peter Williams: Serena Williams' tantrum after Naomi Osaka loss was calculated, cynical and selfish - NZ Herald
英テレグラフ
Serena Williams is not just a bad loser – her dominance of tennis is over
英スカイ・スポーツ
Serena Williams' sexism claims in US Open final are 'unjustified', says Greg Rusedski | Tennis News | Sky Sports
米フェデラリスト
Why Serena Williams Would Probably Have Lost The U.S. Open Anyway
想像だが、自分の体が若いときのように言うことをきいてくれなくなったり、周囲が自分のことを年寄り扱いすることで、周囲の自分への評価の低さと、まだまだ若いつもりでいる自分のセルフイメージが、実はまったく一致していないことに気づかされて、それが気にいらないのかもしれない。
とはいえ、自分の責任を認めたがらない人間、自分の衰えを認めようとしない人間には、厳しい言葉をちゃんと発しておかないと、モノゴトは真っ直ぐにならない。でないと、モノゴトは間違ったまま、曖昧なまま、固定され、歴史になってしまうのである。それは間違っている。
だから自分は、モノゴトをきちんとしておきたいから、あえて以下のような「四角い、尖った言葉」を書くことを自分に課してきた。
テニスの2018全米オープン女子決勝におけるセリーナ・ウィリアムズの行動は見苦しいものだった。
たとえ彼女が試合後の表彰式で、あまりにも礼儀をわきまえない、無礼な観客に勝者を讃えるよう訴えたとしても、だからといって、セリーナ自身の試合中の見苦しい態度を「帳消し」にできると、自分はまったく思わない。
この試合中にセリーナに行われた「3度の警告」は、
それぞれ以下の理由による。
禁止されているコーチによる試合中の選手への助言
ラケットの破壊
レフェリーへの暴言
警告それぞれに、合理的かつ明確な理由があったことは、明らかなのである。
参考
かつてテニス界のスターだったマルチナ・ナブラチロワの意見
Opinion | Martina Navratilova: What Serena Got Wrong - The New York Times
元女子プロテニス選手で現在はNBCリポーターのメアリー・カリロの意見
NBC Sports' Mary Carillo: Serena Williams Acts Like a Bully
アメリカの大手スポーツメディアのMLB担当記者たちなどは、「審判があまりにもクソ野郎だったから、自分たちのスターであるセリーナが負けた」という趣旨のツイートを試合直後からしていたが、それは根本的に間違った認識であり、審判にも、大坂なおみにも、謝罪が必要な無礼さである。
大坂なおみが全米オープンに勝った理由は単純だ。大坂なおみが、かつて女王だったセリーナを上回る、正確で、ゆるぎないプレーをしたからだ。言葉をかえれば、若い選手の理知的でクールなプレーが、ヴェテランの「慢心」に打ち勝ったといってもいい。
以下のゲームスタッツにみられるように、彼女の勝利には1点の曇りもない。大坂なおみは「勝つべくして勝った」のであり、「セリーナが審判に不利な判定を受けたから、勝つはずのない大坂なおみに勝利がころがりこんだ」のでは、まったくない。ありえない。
@Naomi_Osaka_ the stats don't lie you came to win pic.twitter.com/IuYxLPv0XB
— BigTiger (@its_bigtiger) 2018年9月8日
相手のチカラを凌駕することで合理的に得られた大坂なおみの順当な勝利のあと、不合理で不条理な罵声を浴びせる形となった会場の恥知らずな観客のブーイングには、なんの合理性もない。それどころか、それはある種のレイシズムですらある。
また、試合後のプレス・カンファレンスにおいても、数多くのハラスメントがあったことも忘れてはならない。
栄光ある勝者である大坂なおみに、自滅したセリーナ・ウィリアムズの乱れたふるまいについてコメントするよう、記者たちは執拗に求め、大坂なおみが答えに窮し涙まで流す事態となったことは、言うまでもなく「釣り竿の先にエサを垂らし、大坂なおみがうっかりセリーナに対して批判や暴言をするのを待っているような、悪質な行為」はスポーツマンシップとは完全に無縁のものだ。
また、大坂なおみの「名前」について故意に間違え、何度もゲームの内容と無縁な、愚鈍な質問を繰り返した「最前列の男性記者」などは、新たに誕生した若き女王を見下す尊大な態度、記者としてアスリートに対するリスペクトに欠けた無礼きわまりない態度を、謝罪すべきだ。
なお、今回の大坂なおみが発した sorry という単語について、sorry という単語には「残念です」という軽い意味の場合がある、などと、したり顔で解説しているハワイ大学教授(たぶん日本人)のコメントを見たが、まったく現場の空気をわかってないとしか言いようがない。
そんな辞書的な、進学塾とか高校の教員が中学生相手に受験英語を指導するような紋切り型の解説では、輝かしい勝利者であるはずの大坂なおみが「試合後に何度となく流した涙の説明がつかない」し、また、彼女が「セリーナがグランドスラムを24回勝つことをみんなが期待していたことは、わかってました」と発言したことの「辻褄」がまるであわない。
大事なのは彼女の発言が「どんな感情から発せられたか」、であって、辞書上の解釈など、どうでもいい。今回の勝利が自分の描いていた夢にはほど遠い「後味の悪い決着」をしたことで、心に傷を負った大坂なおみが、事態に一定の距離をおいて、「いやー、残念ですなぁ」などと、ババくさいコメントなど、するわけがない。
大坂なおみは「20歳」で、「当事者」なのである。
文脈と、事態の流れから判断して、sorry という単語の背景に流れている「感情」とは、「残念でした」などという大人びた態度ではなく、なんにでもすぐ謝ってしまう、なんとも「日本人的」な「ごめんなさい」の感情である。
この試合の後味の悪さをつくった原因は、セリーナ・ウィリアムズの間違ったふるまいと、ふるまいの間違いと自分自身が原因である敗北を素直に認めない態度であり、ブーイングした観客の無礼なふるまいであり、一部のメディアの尊大なふるまいだ。
実力はあるが、20歳の、まだナイーブな勝者にネガティブな感情を抱かせたことについて、衰えつつあるオバサンのセリーナ・ウィリアムズ、礼儀と程遠い行動をしておいて無反省な現場の観客、事態の全体像をまったく把握してないクセにセリーナを持ち上げてきたメディアの古い価値観にとらわれて審判批判をしたニューヨークあたりの頭の固いスポーツライターは、大坂なおみに謝罪すべきである。
こんな簡単な例でわかるように「性差別」というセリーナの反論は、まったく事の本質ではない。単に「二次的な問題を突いた、言い訳」に過ぎない。
— damejima (@damejima) 2018年9月10日
コート外からの助言、ラケットの破壊、審判への暴言は、もともと禁止されていることを、それも連続して犯した事実に、まったく変わりはない。
「差別」という観点を、「自分の旗色が悪いとき」に「都合よく」持ち出すようなやり方は、まったくもってフェアじゃない。
— damejima (@damejima) 2018年9月10日
そういうテクニカルな議論のやり方は、弁護士がやればいいことであって、アスリートにはまったく必要ない。
米ボストン・グローブ
Rules are rules, and Serena Williams went too far this time - The Boston Globe
英タイムズ
Serena has joined the MeToo victims’ cult | Comment | The Times
ニュージーランド・ヘラルド
Peter Williams: Serena Williams' tantrum after Naomi Osaka loss was calculated, cynical and selfish - NZ Herald
英テレグラフ
Serena Williams is not just a bad loser – her dominance of tennis is over
英スカイ・スポーツ
Serena Williams' sexism claims in US Open final are 'unjustified', says Greg Rusedski | Tennis News | Sky Sports
米フェデラリスト
Why Serena Williams Would Probably Have Lost The U.S. Open Anyway
September 05, 2018
世界初の本格的な海上埋め立て空港である関空が水没した。
「海上空港」だからこそ、アクセスに「橋」が必要であり、その橋が壊れたことは、「空港へのアクセス方法そのものが喪失した」ことを意味している。それは当然ながら、空港にたくさんの人が「取り残される」こと、そして同時に、救助も「遅れる」ことを意味する。
これは、福島の原発事故において、電源が喪失し、原子炉を冷却する方法が喪失したことでメルトダウンが引き起こされたのと、意味はまったく同じだ。
水没の理由は、以下のブログが非常に明快に指摘してくれている。
関西空港の水没は起こるべくして起きた。〜地盤沈下が招いた標高1.4mの滑走路〜 - イケてる航空総合研究所
とある別サイトでは、関空の工法について、「海底の軟弱地盤を強化して護岸工事を行い、土砂で埋め立てるといった順で進められました。現在でも地盤沈下は止まってはいませんが、一部だけでなく均一に沈下するよう設計されているため、トラブルとは無縁です」とあるが、先のブログによれば、今回の滑走路水没の理由は「地盤沈下」にある。こういう「ちゃんと数字を示した上で、はっきりモノを言う態度」は非常にいい。
1994年開港以来、2018年までの平均沈下量は「3.43m」だという。ならば関空のA滑走路は「これまでもずっと年平均14センチ程度、沈下し続けてきた」ことになる。
なので、最も低い位置の標高が「たった1.4m」しかないA滑走路は、理屈の上では、あと10年で「海面下」になる計算になる。そうなると、関西国際空港のA滑走路は、海面より低い、いわゆる「ゼロメートル地帯」ならぬ「ゼロメートル滑走路」になることになる。
もちろん、こうした事態が管理会社によって今後も放置されるわけではない。なんらかの対策が講じられることだろう。
だが、問題なのは、「5年くらいのサイクルで護岸を高くし続ける、とか、地盤を上げ続けるといった地盤沈下対策が、それも定期的に、必要になる」ということだ。
そのコストはたぶん、けして少なくない金額になる。
ちなみに、関空の管理会社は「関西エアポート株式会社」という企業であり、筆頭株主は、オリックス株式会社が40%、フランスの空港運営会社であるヴァンシ・エアポート40%である。(なぜまたフランスの会社が日本の空港の、と、当然思うわけだが、航空業界に詳しくないのでよくわからない)
それにしても、これまで地盤沈下がわかっていなかった、2017年に一気に3メートル地盤沈下してしまいました、というのならともかく、関空が年々地盤沈下していることに多くの関係者は気づいていたはずだ。(ちなみに、ブログ主はこの事件が起きるまで知らなかった)
ならば、今回の高潮のような被害が発生する可能性はあらかじめ予測されていなければならないし、対策もとられていなければならない。
自分は関西国際空港になんの利害もない第三者であり、今回の高潮被害についてもなんの利害もない第三者だが、もし自分が今回の高潮でなんらか大きな被害を受けた立場だったなら、迷うことなく空港の管理のずさんさを批判し、必要なら損害賠償を求めて訴える。
いずれにせよ、地盤沈下が止まらないというのは、「その場所の地盤そのものが定常的に流出するか、沈下する状態にある」という意味だ。
もちろん、地震による液状化が起きれば沈下スピードはさらに上がる。近畿圏では近年いくつかの大地震が起きているのだから、関空でも液状化が起きていた可能性がないとはいえない。
関空はおそらくは今後とも地盤沈下から逃れることはできない空港だ。本来なら、空港の再開を安易に急ぐより、根本的なところでA滑走路の地盤そのものを改修すべきだろうが、関係者がどういう判断を下すのか、ちょっと見ものである。
「海上空港」だからこそ、アクセスに「橋」が必要であり、その橋が壊れたことは、「空港へのアクセス方法そのものが喪失した」ことを意味している。それは当然ながら、空港にたくさんの人が「取り残される」こと、そして同時に、救助も「遅れる」ことを意味する。
これは、福島の原発事故において、電源が喪失し、原子炉を冷却する方法が喪失したことでメルトダウンが引き起こされたのと、意味はまったく同じだ。
水没の理由は、以下のブログが非常に明快に指摘してくれている。
関西空港の水没は起こるべくして起きた。〜地盤沈下が招いた標高1.4mの滑走路〜 - イケてる航空総合研究所
とある別サイトでは、関空の工法について、「海底の軟弱地盤を強化して護岸工事を行い、土砂で埋め立てるといった順で進められました。現在でも地盤沈下は止まってはいませんが、一部だけでなく均一に沈下するよう設計されているため、トラブルとは無縁です」とあるが、先のブログによれば、今回の滑走路水没の理由は「地盤沈下」にある。こういう「ちゃんと数字を示した上で、はっきりモノを言う態度」は非常にいい。
1994年開港以来、2018年までの平均沈下量は「3.43m」だという。ならば関空のA滑走路は「これまでもずっと年平均14センチ程度、沈下し続けてきた」ことになる。
なので、最も低い位置の標高が「たった1.4m」しかないA滑走路は、理屈の上では、あと10年で「海面下」になる計算になる。そうなると、関西国際空港のA滑走路は、海面より低い、いわゆる「ゼロメートル地帯」ならぬ「ゼロメートル滑走路」になることになる。
もちろん、こうした事態が管理会社によって今後も放置されるわけではない。なんらかの対策が講じられることだろう。
だが、問題なのは、「5年くらいのサイクルで護岸を高くし続ける、とか、地盤を上げ続けるといった地盤沈下対策が、それも定期的に、必要になる」ということだ。
そのコストはたぶん、けして少なくない金額になる。
ちなみに、関空の管理会社は「関西エアポート株式会社」という企業であり、筆頭株主は、オリックス株式会社が40%、フランスの空港運営会社であるヴァンシ・エアポート40%である。(なぜまたフランスの会社が日本の空港の、と、当然思うわけだが、航空業界に詳しくないのでよくわからない)
それにしても、これまで地盤沈下がわかっていなかった、2017年に一気に3メートル地盤沈下してしまいました、というのならともかく、関空が年々地盤沈下していることに多くの関係者は気づいていたはずだ。(ちなみに、ブログ主はこの事件が起きるまで知らなかった)
ならば、今回の高潮のような被害が発生する可能性はあらかじめ予測されていなければならないし、対策もとられていなければならない。
自分は関西国際空港になんの利害もない第三者であり、今回の高潮被害についてもなんの利害もない第三者だが、もし自分が今回の高潮でなんらか大きな被害を受けた立場だったなら、迷うことなく空港の管理のずさんさを批判し、必要なら損害賠償を求めて訴える。
いずれにせよ、地盤沈下が止まらないというのは、「その場所の地盤そのものが定常的に流出するか、沈下する状態にある」という意味だ。
もちろん、地震による液状化が起きれば沈下スピードはさらに上がる。近畿圏では近年いくつかの大地震が起きているのだから、関空でも液状化が起きていた可能性がないとはいえない。
関空はおそらくは今後とも地盤沈下から逃れることはできない空港だ。本来なら、空港の再開を安易に急ぐより、根本的なところでA滑走路の地盤そのものを改修すべきだろうが、関係者がどういう判断を下すのか、ちょっと見ものである。