訃報・お悔やみ

2021年7月6日、大島康徳さんの「スタンス」。
2020年6月10日、アメリカで麻薬として蔓延する「オピオイド」からみた「ジョージ・フロイド事件」
2017年11月7日、大投手 ロイ・ハラデイ。
2017年6月22日、「2人の海老蔵」を育んだひと。小林麻央さん逝去に寄す。
2017年6月7日、80年代前期文化にとっての「6月4日」。激しさと静寂のルーツ。
2013年6月25日、もし2001年新人王の2人が同時に殿堂入りを果たすと、「1977年のエディ・マレー、アンドレ・ドーソン以来」という話から、「新人王の才能が、殿堂入り選手クラスに育つほどの開花をみせるために必要な何か」を考える。
2011年11月25日、「名山」、西本幸雄。指導者を育てた指導者。
RIP Greg Halman - 44 games he played.
2011年10月5日、アップル元CEOスティーブ・ジョブズ、死去。56歳。
2011年4月25日、「2月のサウスカロライナ、父と息子のキャッチボール」。February in South Carolina, a father and his son played catch.
2011年4月19日、ジャスティン・スモーク選手のご尊父のご逝去を悼み心からお悔やみ申しあげます。My Thoughts and prayers are with Justin and his family.
2011年4月8日、シアトル開幕戦。デイブ・ニーハウス トリビュート、「ホワイトシューズ」の日。
2011年3月1日、偉大なる先人、与那嶺要さんの逝去を悼みつつ、タイ・カッブとヨナミネさん、2人の不世出のホームスチール名人の記録を味わう。
2010年11月15日、デイブ・ニーハウスにとっての「ラスト・マリナーズ」。
2010年11月4日、プロ・サーファー、アンディ・アイアンズの死。Wear Blue For Andy Irons On Friday.
2010年4月6日、僕は今年も野球を見ている。
2009年7月14日、オールスターが思い出させてくれる「過去への敬意」。
2009年4月10日、エンゼルスのトリー・ハンターは試合開始前、フェンスに走り寄り、ニック・エイデンハートの遺影に触れた。
2009年4月9日、エンゼルス、ニック・エイデンハート投手のご逝去を悼み、黙祷を捧げます。

July 07, 2021

MLB解説でもおなじみだった大島康徳さんが亡くなられた。
文句なく、MLBを文化として日本に馴染ませた「功労者」のひとりである。

ガンでお亡くなりになったわけだが、亡くなる、その月までMLB中継でゲーム解説をなさっていたと聞く。いったい、どこの誰が「自分が亡くなる、まさにその月にまで仕事できる」だろう。自分にはとても無理だ。

大島さんが「日本ハム時代につけていた背番号11」は、下柳ダルビッシュを経て、大谷翔平に受け継がれたのだが、大島さんの最後の仕事は、その大谷のゲームの解説だった。
「自分の背番号を受け継いだ後輩のゲームの解説を、人生最後の仕事にする」などという幕の下ろし方は、なんとも遠慮がちだが、かえって深い意味が感じられる。

こういう、「いい意味での間をおいた、無理のないスタンス」こそ、まさに大島さんのスタンスだったと思う。

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人が「人生というバッターボックスにおいて立つ『スタンス』」には、いろいろある。最前列に必死になって立とうとする人がいる一方で、むしろ最前列になることを意図的に避ける人もいる。

大島さんご自身は自分の野球キャリアについて、輝きに欠けるという印象を持ってらっしゃったようだが、「大島さんのスタンス」は間違いなく後世になって効いてくる。

理由はハッキリしている。

「大島さんのスタンス」は短くいえば、「『野球を愛しているとは、どういうことか』を、できるだけ飾らない、ごくごくシンプルな姿で、ファンに残す」というものだったからだ。

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「残した記録で記憶に残る」選手も、たしかに必要だ。だが、記録を残す残さないだけが、「野球を愛するという姿」ではない。

ぼくらが「大島さんのスタンス」を通じて学んだのは、「なにかを愛するという、最も大事だが、言葉にはなかなかしづらいことをしようと思うとき、打席のどこに立てば相手に最も伝わるか」という、とても大事なことだった。

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大島さんの「人生での打席位置」は必ずしも、ラインぎりぎり立って、ホームランばかり狙うきような、ギラついたものではなかったかもしれない。だが、打席の最前列にギリギリに立って、声高に怒鳴れば怒鳴るほど、その人が言わんとするところが相手に伝わるとは限らないのである。

ぼくらは、「熱意を内に秘めながらも、あたたかいまなざしで一歩引いて見守る『大島さんのスタンス』によって、野球を愛すること、何かを愛することに必要な「距離」を学ばせてもらった気がしてならない。

damejima at 20:43

June 11, 2020

滞在先のホテルで亡くなったエンゼルスのタイラー・スカッグスの「死因」について、日本版Wikiには「とアルコールを併用していて、嘔吐物が喉に詰まって窒息した」と書かれている。

風邪薬でも飲んで寝ていたとでも、言いたいのか。
バカバカしい。

それは真実ではない


事実は、こうだ。

タイラー・スカッグスは、「オキシコドンフェンタニルという代表的なオピオイド」を2種類同時に「麻薬として乱用」していて、窒息して死んだ
のである。

オピオイド乱用には呼吸に不具合を起こす副作用がある。だから、スカッグスの死が、果たして本当に嘔吐物が詰まったことだけが死因か、それとも、2種類の薬物そのものも直接の死因になったのかは、Wikiを読むだけではわからない。

いずれにせよ、彼の死の原因は「風邪気味だったため、市販の風邪薬と酒を飲み、ホテルで寝ている間に嘔吐で死んだ」などというような、牧歌的な話ではない。

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オピオイドは、本来なら末期癌患者の疼痛緩和にも使われるような「強い鎮痛剤」だ。「健康な人が風邪をひいたとき使う錠剤」というような軽い意味の「市販薬」では、まったくない。そもそも、健康な一般人が医師からオピオイドを処方されることなど、まったくありえない。

ところが、近年アメリカではオピオイドの「乱用」で万単位の人が亡くなり、社会問題化している。アメリカ疾病管理予防センター(CDC)によれば、オピオイド過剰摂取による死者は2015年には33,091人にのぼっている。

本来なら特殊な医療目的にしか使われない強い鎮痛剤を不道徳な目的に乱用した人間たちが「オピオイドをドラッグの一種にしてしまった」のである。

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オピオイドには、天然成分由来のものから化学合成のものまで、たくさんの種類がある。

オキシコドンは、乱用目的のオピオイドの代表格のひとつで、アヘン成分からつくられる。トヨタの現役の常務取締役だったアメリカ人女性、ジュリー・ハンプが、アクセサリーと称して偽装輸入しようとして逮捕された薬物も、これである。

オピオイド乱用が社会問題になったアメリカではメーカーへの訴訟が多数起こされ、オキシコドン製造元だったパーデュー・ファーマ社は倒産している。そのため、オピオイド乱用の需要は、オキシコドンから、ヘロインの50倍もの強さがあるといわれている「フェンタニル」などに流れた。

フェンタニルで死亡した有名人には、プリンス(2016年)、トム・ペティ(2017年)など、ミュージシャンが多い。彼らはタイラー・スカッグス同様、複数の薬物とアルコールを同時に服用していて亡くなっている。

タイラー・スカッグスは、ミュージシャンたちと同じく、オキシコドンとフェンタニルと酒を「同時に」やっていて死んだのである。

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先日、ミネソタ州で偽札を使おうとして警官に拘束され、亡くなったジョージ・フロイド氏(以下、敬称略)の剖検(=遺体を解剖して検査すること)からも、このフェンタニルが検出されている。

また、フェンタニルだけでなく、メタンフェタミンや(=いわゆる覚醒剤。日本では昔の俗称でいうシャブ、アメリカの俗語ではMeth)、11-Hydroxy Delta-9(=脱炭酸したマリファナの代謝物)、モルヒネなど、他の麻薬や薬物が「同時に」検出されている。

彼にはこの20年間に5回のコカイン使用での逮捕歴があり、端的にいえば、逮捕時の彼は明らかにオピオイド中毒であり、「かなりラリった状態」にあったといえる。
資料:https://www.hennepin.us/-/media/hennepinus/residents/public-safety/documents/Autopsy_2020-3700_Floyd.pdf
資料:https://thecourierdaily.com/george-floyd-criminal-past-record-arrest/20177/

彼のヘモグロビンS数値は約38パーセントだったが、これはアフリカ、地中海、中近東、インドなどにみられる黒人特有の遺伝性貧血「鎌状赤血球症」が彼の持病であり、日常生活で発症するレベルではないものの、例えば酸素分圧低下のような偶発的な状況変化に遭遇することによって発症する可能性があったと考えられる数値である。

なお剖検には、彼が「重度の動脈硬化性心疾患」はじめ「心臓に重い持病をかかえていたこと」が明記されている。(この事実を根拠に、ジョージ・フロイドの死が逮捕時の窒息ではなく、もともと持病を抱えていた心臓の発作による死であると指摘する人も多数いる)

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アメリカ各州で大麻解禁が進んだ背景には、こうしたオピオイド中毒の蔓延がある。

オピオイド対策に手を焼いた州当局は、「オピオイド依存がこれ以上増えるくらいなら、比較的安全な麻薬である大麻を解禁することで、ジャンキーたちをソフトドラッグに誘導したほうがマシだ」という「屁理屈」に飛びついて、事実上、「社会を管理する責任」を放棄したのである。

そうした州の知事の多くは民主党である。ジョージ・フロイドが住んでいたミネソタ州知事 Tim Walz も民主党であり、ミネソタは大麻解禁州のひとつだ。

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では、大麻解禁という屁理屈で「ハードドラッグ蔓延」は防げたのか。

ジョージ・フロイドもその典型例だが、オピオイドと大麻を同時にやる人が増えている。大麻解禁は、「ハードドラッグにジャンプアップする『助走路』を作っただけにすぎない」可能性が指摘されている。

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フェンタニル生産地は中国といわれ、アメリカでは何トンものフェンタニルが水揚げ寸前に摘発されたこともある。トランプ政権はフェンタニル輸入防止のため、中国に対処を要求したが、実質なにも実施されていないらしい。

フェンタニル。武漢肺炎。偽ドル紙幣。すべて中国由来ともいわれる「輸入品」だが、それらすべてに侵されていたジョージ・フロイドは、本当に「ロールモデル」、模範的といえる人物なのだろうか。

damejima at 15:54

November 08, 2017

何を表現すべきか、それすら、よくわからない。まさかチェイス・アトリーについて書いた数日後にこんなことが起きるとは思ってもみなかった。
大投手ロイ・ハラデイ、飛行機事故で逝去。享年40歳。



2010年に以下の記事を書いた。
2010年10月21日、ちょっと心配になるロイ・ハラデイの「ひじ」と、「アンパイアのコール」。今日の球審は、今年8月、これまで一度も退場になったことのないニック・マーケイキスと、監督バック・ショーウォルターを退場にしたJeff Nelson。 | Damejima's HARDBALL

ハラデイのフォームに違和感を感じて書いた記事ではあるが、正直いって、当時ハラデイの身体が「壊れている」とまで感じたわけではなくて、ちょっとヒジの調子がよくないのかな、と思った程度だった。
実際、この年ハラデイは、21勝して最多勝を手にし、完全試合と、ポストシーズン初戦のノーヒット・ノーランまで達成して、2度目のサイ・ヤング賞投手にもなったのだから、大投手ハラデイの「全盛期」はまだまだ「長い」、と思えた。
2010年10月6日、長年の念願をかなえポスト・シーズン初登板のロイ・ハラデイが、いきなりノーヒット・ノーラン達成! | Damejima's HARDBALL



彼の真骨頂は、短く言えば
球数の少なさ」にある。


球数が少ない中でバッターをうちとれれば、「長いイニング」を投げられる。当然だ。だが、球数を減らすには、「ストライクを投げ続ける勇気」のほかに「バッターに振らせる才能」がなければならない。
ただ、振らせて、マトモにバットの芯で打たれるのでは、困る。芯を食わないためには、「いかにも打てそうな、だが、実際には打ちにくい球」を投げ続けなければならない。当然ながら、「コントロール」がよく、「変化球がキレて」いなくては、話にならない。

ノーヒットノーランを達成した2010NLDSのシンシナティ戦も、わずか104球での達成だ。ひとりあたり3.85球と、ひとりあたり4球以下でバッター27人を仕留めたことになる。まさにハラデイの面目躍如となった歴史的なゲームだった。


このブログに1000以上書いてきた記事の中で、自分が常に「これを読んでもらいたいと思っている記事」のひとつが、これだ。フィラデルフィアに移籍する直前、トロント時代のデイヴィッド・オルティーズに対する投球について書いたものだが、本当に効果的に考えぬかれた配球だと今でも思う。
メジャーと日本の配球論の差異から考える「城島問題」 『damejimaノート』 序論:2009年9月30日、大投手ハラデイの「配球芸術」を鑑賞しながら考える日米の配球の違い | Damejima's HARDBALL


分析が大流行の時代ではある。
では、その「分析」とやらがあらゆるバッターに通用するか、というと、アーロン・ジャッジ程度のバッターにホームランを50本も打たれるのだから、そうでもない。なぜって、いくら打者の攻略方法が分析でわかったとしても、「思ったとおりに投げられる能力」がない投手ばかりなら、分析結果が役に立たないからだ。
誓ってもいいが、もしハラデイと対戦していたら、アーロン・ジャッジ程度の弱点のわかりきっているバッターは三振を繰り返して手も足も出ない。


あれほど輝かしい2010年を経験したハラデイだったが、その後数年で引退した。思えば2010年はキャリアのハイライトだったわけだ。引退直前のハラデイについて、マイケル・ヤングがこんなことを弔意とともに語ってくれている。


「あれは忘れもしない(2013年の)8月13日。ドクと僕は引退を2ヶ月後に控えてた。彼は明らかに怪我してたが、まだ投げていた。ある日、彼はリグレイ・フィールドで83球投げ、自分をコントロールする力を失ってた。マウンドに行ったら、彼は「どこもかしこも痛む」とだけ言った。でもマウンドは降りなかった。彼はいつもそうやって戦ってたんだ。」


痛々しすぎる。
読むのが辛かった。


親友の突然の死にあたって、普通なら、その人の生前の「最盛期」のことを「英雄的に」語ったりするものだ、と、われわれは思いがちだ。
だが、よく考えれば、最盛期だけ語って悲しむような「うわべの行為」は、実は、その人のことをメディアを通してしか知らない、「疎遠な人」のやることだ。マイケル・ヤングはそうはしなかった。

マイケル・ヤングは、よくあるRIPというような省略語ではなく、彼自身の言葉と経験で、「ロイ・ハラデイが、引退するシーズンの最後の最後まで、自分が『ロイ・ハラデイであり続けよう』と必死に頑張っていたこと」を静かに語ってくれた。



今はもう、ロイ・ハラデイはこの世にいない。
ロイ・ハラデイは、「大投手ロイ・ハラデイ」として、その野球キャリアとともに名誉ある短い人生を終えたからだ。

大投手、ロイ・ハラデイ。
野球とともに生きた40年間だった。


Roy Halladay




damejima at 16:54

June 23, 2017

小林麻央さんが乳ガンで旅立たれた。


麻央さんはお子さんを2人も残された。
おひとりは男の子であり、「次の海老蔵」「次の団十郎」を後世に残されたことになる。

もちろん、子供を産んだことだけがこの立派な女性の仕事だ、などと、馬鹿げたことを言いたいわけではない。そのことひとつだけをとっても、日本史に残る、正確にいえば、日本の歴史を後世に残していく、とても大事な仕事であった、と言いたいだけである。
伝統はやはり重い。先代の団十郎勘三郎など、歌舞伎を背負っていた大看板が次々に病に倒れ、人材が細っていく中で、歌舞伎の大看板を残す作業を終えて旅立った小林麻央さんの貢献度はけして小さくない。


そして麻央さんが残した「海老蔵」は、「もうひとり」いる。
34歳の夫、海老蔵」である。

かつて遊び人だった海老蔵が、この気丈な女性と出会ったことで心が入れ替わり、芸道に精進するべき自分の運命を自覚していなければ、単なる遊び人の半端モノにしかなれなかったかもしれない。
歌舞伎の重鎮のひとりとして、オトナとして、海老蔵が、いまある、いまいられるのは、まさにこの、気丈に短い人生を生きぬいてくれた女性との出会いのおかげなのだ。


哀しみを心に湛えて微笑むからこそ輝きが増す。それが人という生き物の奥行きだ。
ことに「役者」という特殊な仕事は、光を表現するだけではつとまらない。映画『風立ちぬ』で、妻を失ったあと零戦を世に送り出した堀越二郎のごとく、今の海老蔵が、団十郎を襲名する前に経験した、この「大切すぎる人の死」「深い悲しみ」が、彼の芸に真の意味の「陰影」をつけてくれることだろう。


合掌。

damejima at 14:43

June 08, 2017




1976年6月4日マンチェスターで行われたセックス・ピストルズの世界で初めてのギグに居合わせた観客が、「たった40人ほど」だったことは有名なエピソードだ。



その「世界で最初にセックス・ピストルズをライブで見た、ほんのわずかな無名の観衆」はその後、多くが有名ミュージシャンやレコード会社経営者になった。シンプリー・レッドのミック・ハックネル。ザ・スミスのモリッシー。ジョイ・ディヴィジョンニュー・オーダーのバーナード・サムナー、ピーター・フック。バズコックスのハワード・ディヴォート、ピート・シェリー、などのミュージシャン。ジョイ・ディヴィジョン、ニュー・オーダー、ザ・ドゥルッティ・コラムなどを世に送り出したファクトリー・レコードの社長の故トニー・ウィルソン、ファクトリー・レコードのプロデューサーでジョイ・ディヴィジョンを手がけた故マーティン・ハネット。

注:
この伝説のライブの「観客数」は詳細に判明しているわけでもない。いずれにしても「40人程度だった」ことは間違いないが、「伝説」に正直に従って「42人」とするサイトがある一方、その日その場所に間違いなくいたと「自称」する著作 "I Swear I Was There" で儲けたDavid Nolanなどは「35人から40人」と書いている。
ただ、日本のサイトで「イアン・カーティスが6月4日のピストルズのギグ会場にいた」とされていることについては事実誤認の可能性がある。ジョイ・ディヴィジョンは、「6月4日」のライブで衝撃を受けたバーナード・サムナー、ピーター・フックがバンド結成を呼びかけてできたバンドで、7月20日にライブを見て衝撃を受けた故イアン・カーティスはこのバンドに「後から」参加している。「後から参加した」カーティスがピストルズを最初に見たのが6月4日ではなく7月20日とするほうが、事実として整合性がある。


「6月4日以降の出来事」について面白いのは、この伝説のライブに居合わせてミュージシャンを志した人間たちがその後に到達した音楽スタイルが、教祖であるピストルズと同質の「激しさを売りにした音楽」でなく、むしろ全く異なるニュー・ウェーヴや和製英語でいうネオアコなど、「静寂化と洗練をめざした音楽」のルーツになったことだ。

例えば、ピストルズのライブに影響されて作られたファクトリー・レコードが手がけたジョイ・ディヴィジョン、ニュー・オーダー、ザ・ドゥルッティ・コラムなどのバンドは、そのどれもがピストルズと同じ「激しさを売り物」にしたオリジナルパンクではなく、むしろ、「静寂化と洗練に向かう流れ」を作りだしたポスト・パンクやニュー・ウェーヴのルーツになっている。ファクトリー・レコードが後年、ミカド、イザベル・アンテナ、ソフト・ヴァーディクト、タキシードムーンなど「洗練を主張する音楽」を世界に送り出したベルギーのクレプスキュールと提携したのも頷ける。
シンプリー・レッドのミック・ハックネルも、ピストルズに影響されて始めたパンクバンドでは成功せず、成功したのはソウル色の強いシンプリー・レッドだし、ザ・スミスにしてもネオアコ代表バンドのひとつであり、どちらもピストルズ流の「激しさ」とは程遠い。


つまり、「激しさ」を売り物にしたピストルズの演奏ぶりを最初に見てインスパイアされた「40数人の反応」とは、必ずしも「セックス・ピストルズを真似た激しさ」を希求したわけではなかったということだ。
むしろ、「激しさ」が売り物のピストルズのデビュー時の衝撃が、パンクそのものの流行を生んだだけでなく、結果的に「パンク以降にやってくる静寂化と洗練への流れ」をも生んだ。そこが面白い。

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さて、「激しさが静けさのルーツになる」という事例を見たわけだが、蛇足として1976年6月4日という「日付のもつ意味」について触れてみる。


1976年の少人数のライブで世界に衝撃を与えたセックス・ピストルズが「終わる」のは、ジョニー・ロットンがツアー中に脱退した1978年、あるいはシド・ヴィシャスがオーバー・ドーズで死亡した1979年だが、このことでわかる大事なことは、ピストルズというバントが「1970年代後期のバンド」だということだ。
ピストルズと並んで成功したパンクバンドザ・クラッシュにしても、ピストルズを見て衝撃を受けたミック・ジョーンズがジョー・ストラマーなどとバンドを始めたのが同じ「1976年」であるように、「パンクは1970年代後期にできた音楽」であって、その発祥は80年代ではない。(とはいえ、パンク文化の「質」は明らかに70年代的ではない)


ところが、日本では多くの人が「パンクは80年代文化の象徴のひとつ」とか思いこんでいる。それはどうしてか。

80年代前半、欧米では「70年代中頃に誕生したセックス・ピストルズ」はとっくに消滅し、「ピストルズなどパンクロックの衝撃から生まれてきた、硬軟とりまぜた文化」が繁茂しはじめるわけだが、日本では遅れて1980年前後にようやくパンクが一気に輸入され、その影響を受けた日本のバンド(あるいは「パクった」バンド)が「限られた厚みの特定ファン層」を形成した。

この、80年代前期の日本に「輸入パンク文化経験をきっかけに形成されたマイナー文化群にどっぷりつかった、限られたファン層」が、80年代前期限定の「インディーズ」と呼ばれる文化層だ。

例えば、バンド名自体がピストルズ由来のアナーキーのデビューも、シーナ&ロケッツの東京上京も、同じ「1978年」の出来事だが、インディーズの情報網に彼らが本格的に登場するのは80年代に入ってからなのだ。
アナーキーの曲にパンクの大御所クラッシュの曲を日本語でもじっただけの曲があるように、当時のインディーズの有名楽曲には日本でまだ知られていない英語オリジナル曲に、ただ日本語歌詞をのせただけの安易な曲も散見され、必ずしも当時の日本の輸入パンクはオリジナルな存在ではなかった。逆にいえば、「その独特の激しさを真似せずにいられない」くらい、「パンクに最初に触れたときのインパクト」は、「6月4日のライブを見た42人」と同様に破壊的な衝撃だったわけだ。


この「80年代前期限定の文化クラスター」は、音楽ではパンクだけではなく、グラムもポスト・パンクもネオアコもニュー・ウェーヴも、音楽以外では、ヴィヴィアン・ウエストウッドもポスト・モダニズム哲学も、フィリップ・K・ディックもバロウズも、なにもかもを、非常に短期に、しかも「一緒くたに」吸収した。
つまり、輸入元の欧米では順序をもって発展してきた文化群を、80年代前期の日本では、一気に、それも腹いっぱいになるまで「詰め込んだ」のであり、アニメ文化やオタク文化にしても、ルーツはこの「ガツガツと貪欲に文化を吸収した、大食いの時代」にある。


「80年代前期限定インディーズ」が貪欲に吸収した輸入文化から築いた80年代前期文化の質は、「70年代までのアングラ」と質的に異なる。
ここまで書いてきたことでわかるように、「70年代アングラ」と「80年代前期のインディーズ」を瞬時に区別する方法があるとするなら、おそらく80年代前半文化の牽引役である「パンクを通過したかどうか」にかかっていると思われる。簡単にいえば、つげ義春は前者で、大友克洋松本大洋は後者だ、というような意味だ。

ただ、80年代前期育ちの人だからといって、その人が当時のインディーズ文化を経験しているとは限らない。
岩村暢子という方が『日本人には二種類いる』というなかなか興味深い本を書いておられるわけだが、どんな時代でもそうだが、「インディーズ文化にどっぷりつかる経験をしなかった人たち」はどんな時代にも存在する。そういう人たちはおそらく「同世代にインディーズ文化が存在していることにまったく気づかないまま、同じ時代を過ごした」のである。
また、「80年代前期限定文化クラスター」の存在によって、日本における「80年代前期」と「80年代後期」はまったく異質なものになっていることも覚えておくべきだろう。80年代後期文化には「パンクの影」はまったくない。


「80年代前期の文化アイテム」には、エリック・サティ趣味のように、静寂と洗練を追及し、パンクの激情とはなんの関係もないように見えるものも少なからずある。
だが、その底流に「パンク的な、なにか」が流れていることはけして少なくない。なかなか説明が難しいが、わかる人にはわかると思う。

damejima at 09:10

June 25, 2013

なんとなくツイートを眺めていたら、こんな記述に出会った。少し調べてみたら、1977年新人王について、ちょっと面白いことがわかった。
2001年の両リーグの新人王であるプーホールズとイチローが殿堂入りを果たすと、1977年のEddie Murray、Andre Dawson以来となる。

1977年新人王は、ア・リーグが、後にミッキー・マントルをしのぐ史上最高のスイッチヒッターともいわれ、史上3人目となる3000本安打・500本塁打を達成しているボルチモアの永久欠番Eddie Murray。ナ・リーグ新人王には、MLB史上4人しか達成していない400本塁打・300盗塁を達成したモントリオールのAndre Dawsonが栄冠に輝いた。

だが、1946年に創設されたSporting News Rookie of the Year awardでみると、ナ・リーグ新人王は同じアンドレ・ドーソンだが、ア・リーグはエディ・マレーではなく、Mitchell Pageが選ばれている。
(資料:Sporting News Rookie of the Year Award - Wikipedia, the free encyclopedia


1977年新人王投票の中身をみてみる。

1977年新人王投票結果
via 1977 Awards Voting - Baseball-Reference.com

ア・リーグだが、1位投票が割れているのがわかる。
27票のうち、エディ・マレーは過半数に届かない12票しか獲得しておらず、新人王投票2位のMitchell Pageに9票が投じられている。
この「1位12票、2位9票」という投票結果は、奇しくも1942年のア・リーグMVPにおけるジョー・ゴードンと、この年の三冠王テッド・ウィリアムズの得票数差と一致している。

ちなみに2001年プーホールズは満票、イチローもCCサバシアに投じられた1票を除けば満票だから、2人とも圧倒的な支持を受けての新人王だった。

2001年新人王投票結果


1977年のア・リーグ新人王投票で票が割れた理由は、
数字を見るとわかる。

1977年新人王 レギュラーシーズン打撃記録
Eddie Murray 21歳
出場160試合(DH111試合 一塁手42試合)
打率.283 27HR 48四球 88打点 併殺打22
出塁率.333 wOBA.350 RE24 20.01
Eddie Murray » Statistics » Batting | FanGraphs Baseball

Mitchell Page 25歳
出場133試合(外野手131試合)
打率.307 21HR 78四球 75打点 42盗塁
出塁率.405 wOBA.404 RE24 38.89
Mitchell Page » Statistics » Batting | FanGraphs Baseball

参考:Andre Dawson
打率.282 19HR 65打点 21盗塁

WARという指標を別にそれほど信用できる指標だと思っているわけではないが、目安として言うと、マレーとペイジの数値は2倍近い差がある。
Baseball Reference:マレー3.22、ペイジ6.03
Fangraph:マレー3.1、ペイジ6.2
参考記事:Damejima's HARDBALL:2012年11月17日、ア・リーグMVP論争から垣間見えてきたセイバーメトリクスの「未完成なままの老化」。

1977年のMLBは、現在のようにセイバーのような便利な選手評価ツールがない時代だ。だから、ホームランと打点しか見ないような表層的なモノの見方が主流だったはずで、だからこそ、1977年新人王に僅差でエディ・マレーが選ばれるのもしかたないと思う人がかもしれない。
しかし、当時ですらスポーティング・ニューズは、1977年新人王にエディ・マレーを選ばなかった

つまり、「ホームランを27本打ってはいるものの、総合的な打撃成績で明らかにミッチェル・ペイジに劣っていて、そもそも守備をしてないDH専業のエディ・マレー」より、「走れて打てる外野手として、3割を打ち、21本のホームラン、8本の三塁打を打ち、78個の四球と出塁率.405、42個の盗塁を決めてみせたミッチェル・ペイジ」のほうが、はるかに新人王にふさわしいと考えた人は、セイバーメトリクスがあろうが、なかろうが、WARが正しかろうが、そうでなかろうが、そんなことと関係なく、1977年当時からいたということだ。

人間、きちんと目を開いて見ていれば、なにも「数字」なんていう「色つきメガネ」を通さなくても、モノを見ることができる、というわけだ。


ただ、エディ・マレーの名誉のために、以下の後日談をつけ加えたい。
まず、盗塁だが、1977年当時のボルチモアの監督は、監督として殿堂入りしているアール・ウィーバーだ。野球の戦術について独特のポリシーをもつ彼の方針と選手育成の手腕からして、たとえエディ・マレーの足が速かったとしても、マレーを盗塁を頻繁に試みるような選手には育てなかっただろう。
そして守備をしないDHのエディ・マレーが1977年新人王をかろうじて獲ったにしても、その後のマレーは、80年代前半以降に大きく成長を遂げている、ということがある。エラーが多かったとはいえ、まがりなりに82年から3年間続けてゴールドグラブを獲って、守備をこなし、またMLB歴代記録となる128本の犠牲フライを打っているように、荒っぽいだけのバッティングからも脱皮。何度も3割を打ち、WARも大きく改善した。
つまり、エディ・マレーがホール・オブ・フェイマーにふさわしいキャリアを送ったことに異議は全くない。


だが、しかし。

こと1977年の新人王、これに関してだけは、ふさわしいのはエディ・マレーではなくて、ミッチェル・ペイジだった。ミッチェル・ペイジが選ばれるべきだったと、ブログ主も思う。
このことは、以下のHardball TimesのBruce Markusenの記事はじめ、他のさまざまな人が明言している。(例:Mitchell Page Baseball Stats by Baseball Almanac
下のリンク記事は悲運に終わった運にミッチェル・ペイジのどこか痛々しいキャリアに触れた味のある文章だ。一読を勧めたい。
Murray would have the far better career―a Hall of Fame ledger at that―but Page was the better player in 1977.
Murray would have the far better career―a Hall of Fame ledger at that―but Page was the better player in 1977.

三塁打数の歴代ランキング261位に名前を連ねているイチローのシーズン平均三塁打数は7本であることでわかるように、1977年ミッチェル・ペイジの三塁打数、8本というのは、かなりいい数字だ。ちょっとやそっとの才能で実現できる数字でもない。
この三塁打の数字でもわかるように、この選手が、もし怪我やメンタル面のトラブルなどで調子を崩さず、長く健康なキャリアをまっとうできていたら、どれほど素晴らしいキャリアを送っていたのだろう。きっとMLB史に残る活躍をみせてくれたに違いない。
そう真剣に思わせるほどの素晴らしい数字が、1977年のミッチェル・ペイジのスタッツには並んでいる。

Mitchell Page

Mitchell Page

ミッチェル・ペイジは2011年に59歳で早世している。死因は明らかになっていない。野球というスポーツのフィールドには、熱狂と興奮ばかりがころがっているわけではなく、こういう、ちょっともの悲しい、書いていてちょっとつらくなるストーリーも少なからず眠っている。ミッチェル・ペイジほどの才能ですら、長く輝くことができず終わってしまうこともあるのが、ベースボール、そして、人生というものだ。

いま、去年の新人王のブライス・ハーパーが怪我でDL入りしている。またドジャースのヤシエル・プイグのような、いい意味で常識外れのプレーのできる驚異的な新人も現れた。確かに新人王をとるような選手の大胆なプレーは、野球ファンの醍醐味のひとつなのは確かだ。
だが、ミッチェル・ペイジのエピソードなどをみると、つい、重大な怪我で才能ある選手のキャリアそのものが終わってしまうような無理なプレー、無理な選手の使い方だけは避けてもらいたい、などとも思ってしまう。

確かに、怪我に気をつけていてはスケールの小さいプレーになってしまうというのも、一面の真実でもあるし、なかなか簡単には判断できない。
だが、まだ粗さばかりが目立つ21歳の若いエディ・マレーが「デビューしていきなりDH」だったのは、もしかすると、彼に無理に守備をさせず、DHとして試合経験を積ませ、まずバッティング面を開花させようという、当時のボルチモア監督アール・ウィーバーの思慮深い配慮だったのではないか、と思うのだ。
エディ・マレーは「シーズン40本以上のホームランを一度も打っていないにもかかわらず、通算500本塁打を達成できた」という類まれなキャリアをもつ選手として知られているわけだが、彼がそういう長く安定したキャリアを実現できたについては、アール・ウィーバーのような名伯楽の下でキャリアをスタートできたからこそだ、という面もあったに違いないと思うのだ。


いまアール・ウィーバーの写真を眺めていても、「こういうひとが自分のそばにいて見守っていてくれたらな」と思わずにいられない、そういうオーラが、彼のまなざしには溢れている。

選手と一緒にビールを飲み、
煙草をふかしたアール・ウィーバー。

こういう親父さんが、野球には必要なんだ。
こういう親父さんがいないと。
本当にそう思う。

Earl Weaver

Earl Weaver
"The Earl of Baltimore" Earl Weaver
1996年殿堂入り。2013年1月19日、82歳で亡くなった。奇しくも球聖スタン・ミュージアルが亡くなったのと同じ日だった。

damejima at 16:15

November 26, 2011

海を見て育った自分には経験がないのだが、山を見上げて毎日をおくる、という行為には、何か特別な感覚があるようだ。岩手に住んでいる人は岩手山を見上げ、鹿児島の人は桜島を見て育つように、地元に力強い名山のある人は、その山の存在を、心の支え、支柱として、自分の背骨か何かのように感じつつ育ち、終生忘れない。
それぞれの地方にそれぞれ名山がある。なんとなく「自分の山」を持てた人を、うらやましく感じることがある。



阪急ブレーブス・近鉄バファローズを率いてそれぞれ初優勝に導いた西本幸雄さんがお亡くなりになられた。91歳。リーグ優勝8回。1988年野球殿堂入り。

西本さんは優勝経験が一度もない球団(阪急、近鉄)を、2つも初優勝に導いた。偉業というほかない。この事実だけで、西本さんはプロ野球ファンの記憶に永遠に残る資格があると思うし、また、野球殿堂入りに十分すぎる価値がある。優勝したことの無いチームを優勝させることが、野球の繁栄にとって、どれほど高い価値がある貢献であることか。
なにせ、野球は9人もの多人数でプレーするチームスポーツなのだから、そう簡単には強豪チームと弱小チームの戦力差を埋められない。
西本さんの選手育成やチームづくりの優れた手腕からは、数々の名選手と指導者が巣育ち、数々の名勝負が生まれた。

ちなみに、日本シリーズで勝てなかった西本さんを悲運の名将などと呼ぶ人がいるが、優勝の常連チームでないチームを日本シリーズに連れていくまでに育てるのだから、大舞台での経験不足が露呈するのは、やむをえない。そこは多少補正して手腕を評価しないとダメだと思う。



西本さんが現役時代に所属していたのは、1949年のエクスパンジョンで発足した毎日オリオンズである。西本さんは、このできたばかりの毎日オリオンズの選手として、翌50年にリーグ優勝と日本一を経験した。
よく知られているように、日本に2リーグ制がもたらされるきっかけになったのは、1949年の毎日オリオンズなどの新規球団加盟を巡る騒動であり、2リーグ制移行を推奨したコミッショナー正力松太郎氏の発言もあって、結局、電鉄系の賛成派がパ・リーグ、既存球団の反対派がセ・リーグを結成する形で収束した。
プロ野球は、この2リーグ制発足にともなうチーム数増加によって選手が大量に不足したことから、球団間の激しい選手争奪戦が起こり、当時プロにも遜色のない人気と実力があった社会人野球から、多くの実力ある選手がプロ野球に移った。

西本さんは、プロになる直前の1949年当時、九州の別府星野組という社会人野球の強豪チームで監督・一塁手・3番打者として都市対抗野球に出場し、日本一に輝いた。この別府星野組自身も1949年の2リーグ制移行の際にプロ野球新規加盟を申請したチームのひとつだったが、審査により加盟を却下されたため、西本さん自身含め、多くの主力選手がこのエクスパンジョンをきっかけにプロになったのである。(西本さんが別府星野組や毎日オリオンズ加入に至るまでの紆余曲折をめぐる資料は少ないが、たいへんな苦労があったようだ。 資料例:ya1goの部屋 : 野球の神様

西本さんのライバル三原脩氏(1983年殿堂入り)が後に監督に就任することになる西鉄ライオンズの前身、西鉄クリッパーズも、1949年の2リーグ制発足時に創設された新興チームのひとつだが、間髪置かずパ・リーグの中心チームになることに成功している。これは西鉄が、あわてて球団を持った近鉄などと違い、もともと戦前から社会人野球チームを保有していたことに加え、当時非常に盛んだった九州の社会人野球(八幡製鉄、別府星野組など)から有力選手を大量にかき集め、さらには他のプロ野球球団からも九州出身の有力選手を引き抜いたことで、すぐ優勝争いできるほどの戦力が整った、という当時の時代背景による。
三原監督時代の1950年代後半に西鉄は3連覇しているが、当時、2番に強打者を置く「流線型打線」で有名になった。好打者が揃わないと実現できない「流線型打線」は、当時の西鉄がいかに有力選手の集結した恵まれたチームだったか、という証明でもある。

西本さんがプロになったのは30歳になってからのことだが、これにはもちろん第二次大戦の影響がある。
去年2010年暮れに92歳で亡くなられた元クリーブランド・インディアンズの名投手ボブ・フェラーが、第二次大戦の従軍で4シーズンを棒にふったことについて、「もし大戦がなければ、350勝、3,000奪三振を達成していた」と言われているように、西本さんも、もし平和な時代にプレーしていたら、さぞかしもっと長く素晴らしい数字を現役生活で残していただろう。
だが、大戦前後のドタバタした難儀な時代に、西本さんは立教大学と社会人で監督兼選手としてキャリアを積んでいる。野球をやるのにけして適した時代ではなかったことがかえって、親分肌の強い西本さんに若いうちに監督経験を積ませることになったのだから、人生はわからない。



阪急ブレーブスは、2リーグ制発足以前からあった伝統あるプロ球団だったが、1950年代は低迷が続き、なにかにつけて「灰色」と揶揄されて呼ばれた。というのも、上で書いた1949年の2リーグ制発足による選手不足から引き起こされた球団間の選手引き抜き合戦により、阪急は、エース、主軸打者2人、キャッチャーと、多くの主力選手を失ったためだ。

西本さんが監督になってからの阪急ブレーブスは、1960年代のドラフトで、山田久志(2006年殿堂入り)、加藤秀司福本豊(2002年殿堂入り)、3人の名球会入りプレーヤーを指名して育て上げることでチームを立て直し、ついに67年に悲願のリーグ初優勝を遂げた。
阪急監督時代晩年のヘッドコーチは、逸材が育って油の乗ったチームを西本さんから引き継ぎ、後任監督として阪急を日本シリーズ3連覇などの黄金時代に導いた上田利治(2003年殿堂入り)。また山田久志は後に中日ドラゴンズのコーチ・監督として、岩瀬仁紀福留孝介荒木雅博井端弘和などを育てて、後の落合中日躍進の基礎を築いた。
ちなみに腰痛や肝炎に苦しみつつ1986年に読売を自由契約になった加藤秀司は、翌1987年に南海でかつての同僚山田久志からホームランを打ち、念願の2000本安打を達成しつつ同年限りで引退しているが、これは加藤の恩師西本さんが立教大学の後輩杉浦忠(1995年殿堂入り)に頼んで、苦境にあった加藤の南海移籍を実現し、花道をこしらえたらしい。

史上最高のサブマリン山田久志史上最高のサブマリン
山田久志


近鉄バファローズは、1949年の2リーグ制発足時にできた新興球団のひとつで、発足当時は近鉄パールスといった。だから、長い伝統のあった阪急ブレーブスとは球団の成り立ちそのものが違う。阪急がエクスパンジョンによる選手争奪戦に巻き込まれて他球団に主力選手を引き抜かれたことで低迷したのと違って、近鉄は球団発足当初から選手層が薄く、そのことが1970年代にまでわたる数十年間もの長期低迷の足かせになった。
(例えば、1950年入団で近鉄パールス設立以来の生え抜きである関根潤三氏(2003年殿堂入り)が1964年に愛する近鉄を退団せざるをえなかった件も、外から補強した選手ばかり厚遇し、生え抜きを大事にしない当時の球団の姿勢に腹を立てたためといわれており、これもある意味、球団創設時の選手層の薄さに端を発した弊害といえる)

西本さんは、このもともと選手層の薄い近鉄に、阪急をやめた1974年にやってきて、1979年から連覇を果たした。(当時の近鉄の編成部長は、西本さんの立教大学時代のチーフマネージャーだった中島正明氏)
なお、ごく稀に、この西本近鉄の初優勝に関して、三原監督時代の遺産などと誤った記述をしたがる人を見るが、優勝時の主力は、1972年入団の平野、羽田、梨田、佐々木恭介、73年入団有田、井本、74年栗橋、75年村田、79年マニエルと、いずれも70年の三原脩氏の近鉄退団以降に入団した選手たちの成長と活躍によるもの。西本近鉄はむしろ、74年土井正博、75年佐々木宏一郎、76年永淵洋三、77年伊勢孝夫と、前の時代の選手を放出し、新しい選手と入れ替えることで成立した。
西本さんの近鉄監督時代には、後に近鉄最後の監督になる梨田昌孝や、現フィラデルフィア・フィリーズ監督のチャーリー・マニエルがいる。西本さんの監督としての手腕は、海を渡り、フィリーズにも受け継がれることになった。
イチローを発掘した仰木彬(2004年殿堂入り)さんは、70年代の近鉄の上昇期にコーチをつとめて指導者経験を積んだが、このとき最も長く仕えた監督が、西本幸雄さんである。(仰木さんは後に、1994年に阪急ブレーブスから球団譲渡され後継球団となったオリックスの監督に就任するわけだが、オリックスの球団名は、ブレーブス(1988年11月)、ブルーウェーブ(1990年11月)、バファローズ(2004年12月)と変遷しており、仰木さん就任時は「オリックス・ブルーウェーブ」だった。いうなれば、仰木さんは、西本さんの育てた「阪急」を引き継いだのである)

顎を骨折した後も試合に出続けたチャーリー・マニエル顎を骨折した後のヘルメット
チャーリー・マニエル


「私もいろんな指導者に仕え、また見てきましたが、西本さんがNo1の指導者です。選手は育つと信じ切って戦い続けた方で、今の指導者が見習わなければならない姿勢です。」訃報を受けて、広岡達朗氏(1992年殿堂入り)。
広岡達朗氏「“次の近鉄の監督はおまえだ”と誘われたことを思い出す」 ― スポニチ Sponichi Annex 野球
「私の監督生活は、西本さんの阪急にいかに勝つか、から始まりました」野村克也氏(1989年殿堂入り)
西本幸雄氏逝去 ノムさん「日本一が見たかった」 ― スポニチ Sponichi Annex 野球
「落合博満を世に出してくれた大恩人」落合博満氏(2011年殿堂入り)
落合前監督「落合博満を世に出してくれた大恩人が西本さん」 ― スポニチ Sponichi Annex 野球

盗塁を狙う福本豊
(写真キャプション)やはりいい選手は、立ち姿自体が美しい。写真なのに、ふくもっさん、今にもセカンド方向に弾丸のように走り出しそうに見える。写真なのに(笑)
イチローは、ブルーウェーブ在籍時の恩師でもある福本さんのもつ先頭打者ホームラン記録43本に日米通算で並んだとき、「福本さん気にしないでください」と言い、福本さんは「気にしたことがない」と答えた。国民栄誉賞を、「そんなんもろたら立ちションもでけへんようになる」と固辞した人と、「まだ現役なんで」と2度も断った人同士は、やはり阿吽の呼吸なのである(笑)(1989年に現役引退した福本さんが打撃コーチに就任した時点のオリックスは、阪急から球団を譲り受けた直後なので「ブレーブス」。イチローが入団した1991年時点のオリックスは「ブルーウェーブ」で、福本さんが二軍監督をしていた)(写真キャプションおわり)



監督としての西本さんの終生のライバルといえば、もちろん三原脩さんだが、イチローを世の中に送り出した仰木彬さんは、コーチとして、その西本さん、三原さん、2人の名監督の薫陶を受けている。言うなれば、仰木さんには、2人分の名将の血が流れていることになるわけだ。仰木さん自身も監督就任時のコメントで「三原脩と西本幸雄を足して2で割った監督になりたい」と語っている。



仰木さんは近鉄・オリックスを率いて、それぞれの球団から野茂英雄イチローを輩出した。
野茂さんがNOMOベースボールクラブをつくって選手育成に熱心なのも、なんとなくそういう西本・仰木両監督から受け継いだ選手育成の血のなせるわざかもしれない。
また西本幸雄さんとイチローは、ここまでの記述でわかるとおり、福本豊さん、仰木彬さんといった「西本幸雄人脈」を介して関係がきちんとつながっており、ブルーウェーブ時代のイチローは、いわば西本さんの阪急での流れを汲む「孫弟子」にあたる。(それになぞらえていえば、野茂英雄は、西本さんの近鉄における流れに沿った「孫弟子」)

西本さんは、「昭和の名野球人」であると同時に、指導者を育てる指導者」として、日本の野球にとっての「昭和の次の時代」を準備してくれた人でもある。



昭和の時代のプロ野球史に残る名場面、名勝負には、西本さんと西本さんの育てた選手たちの名前がそこらじゅうに登場する。
毎日オリオンズ監督時代の1960年、ライバル三原脩監督率いる大洋ホエールズとの日本シリーズ第2戦、1死満塁でスクイズにトライして失敗し、そのことをオーナーが批判したことが原因で監督を自ら辞めていることに始まり、1967年10月1日の西京極球場で阪急を球団創設初優勝に導いたときにネットの網ごしに無理矢理右手指2本をねじこんでスタンドにいたオーナーと交わした握手、近鉄監督時代の1974年に、初のリーグ優勝を賭けた試合で、阪急監督時代に育てた山田久志に敗れ去ったゲーム、近鉄監督時代の教え子梨田捕手と阪急時代の教え子福本豊との盗塁阻止を巡る逸話、1979年近鉄のリーグ初優勝後、広島カープとの日本シリーズ最終戦で、9回裏、1点ビハインドで迎えた1死満塁の逆転サヨナラ勝ちの好機を、名投手江夏豊に阻まれて3勝4敗で敗退、いわゆる「江夏の21球」を生んだことなど、エピソードが多すぎて、とても書ききれない。(ちなみに「江夏の21球」のあの場面、代走でセカンド走者にいたのが、女優吹石一恵さんの父上である吹石徳一)


名将、名勝負とともにあり。
西本幸雄さんは、日本野球史に残る「名山」である。
合掌し、謹んでご冥福を祈りたい。どうぞ、これからも日本の野球と野球選手を遠くから見守ってください。



この記事に登場した野球人 出身県一覧

西本幸雄  和歌山県 1988年野球殿堂入り
上田利治  徳島県  2003年野球殿堂入り
山田久志  秋田県  2006年野球殿堂入り
加藤秀司  静岡県
福本豊   大阪府  2002年野球殿堂入り
梨田昌孝  島根県
仰木彬   福岡県  2004年野球殿堂入り
イチロー  愛知県  現役
野茂英雄  大阪府
関根潤三  東京府  2003年野球殿堂入り
広岡達朗  広島県  1992年野球殿堂入り
杉浦忠   愛知県  1995年野球殿堂入り
野村克也  京都府  1989年野球殿堂入り
落合博満  秋田県  2011年野球殿堂入り
正力松太郎 富山県
三原脩   香川県  1983年野球殿堂入り
江夏豊   奈良県

damejima at 11:56

November 22, 2011

RIP Greg HalmanGreg Halman

Gregory Anthony Halman
Born: August 26, 1987 in Haarlem, Netherlands
Position: Leftfielder
Uniform Numbers: 56

Greg Halman Statistics and History - Baseball-Reference.com

His smile.
So young.
Thoughts and Prayers from Japanese MLB fans go out to his family.



damejima at 09:29

October 06, 2011

この人から何かを学んだ、と、
ハッキリ断言できる人を持てたことに感謝したいと、
最近強く思うようになった。


そのひとり、スティーブ・ジョブズが56歳の若さで亡くなった。

今シーズンもさまざまな「ノイズ」に悩まされたイチローに、2005年6月12日 スタンフォード大学卒業式でのスティーブ・ジョブスのスピーチの一節を贈ったばかり。
ジョブスの生命の灯がもう長くないことを予感してはいた。ちょうど、アップルに関する独立した記事を用意して書き直しているところだった。
わずかに間に合わなかった。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年8月24日、スティーブ・ジョブズ、アップルのCEOを辞任。彼の2005年の言葉を、イチローに贈る。

アップル ロゴ




英語原文
Text of Steve Jobs' Commencement address (2005)
日本語訳(例)
バックナンバー
日本語字幕付き(他にもいくつもの字幕付き動画がある)
http://youtu.be/DE8HrWmnLwA

http://youtu.be/54pPcsDEc6M



Stay Hungry. Stay Foolish. と、
ジョブズはくりかえし言った。

心のハングリーさに自信を失ったことは一度もないが、Stay Foolish、これがなかなか難しい。実行できもしないことを思い悩んでもしょうがないので、実行などしない。


「どうにも馬鹿になりきれないタチなんで、Think Diffrent.くらいは、とか思ってアタマのすみに置いて、暮らしてきたんですよ。あはははは。」

と、
そんな無理におどけた言い方で彼に直接話しかけて、
これまでなんとか角ばった生き方でやってこれたことへの感謝の気持ちを、こっそり表現してみたかった。

合掌。




米アップル、豪での特許訴訟でサムスン電子の和解提案退ける | Reuters
パクっておいて、妥協を図ろうとする厚顔無恥なサムスンをはねつけたアップルの矜持に、拍手。



damejima at 18:54

April 26, 2011

カレッジ・ベースボールでUSCといえば、1970年代までなら、かつての名門で、カレッジ・ワールドシリーズ最多の通算12回優勝を誇るUniversity of Southern California、南カリフォルニア大学を指しただろう。だが、近年ではサウスカロライナ大学、University of South Carolinaを指す。
現在もコーチを務めるRay Tannerが1997年に就任してからというもの、サウスカロライナ大学野球部 South Carolina Gamecocksは、所属するSEC(Southeastern Conference)のチャンピオンシップの常連となり、2010年にはついにカレッジ・ワールドシリーズを制覇して全米No.1に輝いた。Ray Tannerはいま、カレッジの勝率レコード(634勝282敗)を持っている。

South Carolina Gamecocksのロゴマーク South Carolina Gamecocksの
 ロゴマーク

ボルチモア・オリオールズの名選手ブライアン・ロバーツは、このサウスカロライナ大学Gamecocksの出身で、1999年にボルチモアから1位指名されて入団した。
ノースカロライナ州出身のロバーツは、父マイクがノースカロライナ大学のコーチをしていた縁で、最初はノースカロライナ大学のプレーヤーだったのだが、父親が大学野球部のコーチ職を解かれてしまったことからサウスカロライナ大学に移り、そこで名プレーヤーに育った。ベースボールアメリカの選定するベスト・ディフェンス・プレーヤーに選ばれ、通算打率.353。またSECの盗塁カンファレンス記録を作っている。

サウスカロライナ州サウスカロライナ州はイギリスから最初に独立した13州の一つ。ニックネームはThe Palmetto State(パルメット椰子の州)


下に訳出したのは、ブライアン・ロバーツと同じように、父親から野球の楽しさを教えてもらったジャスティン・スモークのストーリーだ。

以前、素晴らしいドキュメンタリーを制作し続けている映像作家ケン・バーンズの野球ドキュメント作品"Baseball" "The Tenth Inning"を紹介したときに、
「ベースボールの楽しみは、まるで遺伝子が親から子に伝わるように、両親から子供に大切に伝えられてきた『家族の文化』である」と書いたが、ブライアン・ロバーツと父マイクにしても、下で描かれているジャスティン・スモークと父キースにしても、ベースボールを親子の絆にした典型的なアメリカの親子であることに注意して読んでもらえると非常にうれしい。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年10月10日、"The Tenth Inning"後編の語る「イチロー」。あるいは「アラスカのキング・サーモンはなぜ野球中継を見ないのか?」という考察。


Former Gamecock star Smoak
coping with loss of father

By Philip M. Bowman
Former Gamecock star Smoak coping with loss of father | The Herald - Rock Hill, SC
(訳)
まるで映画「フィールド・オブ・ドリームス」のような話だ。だが映画より素晴らしいといえるのは、これが実際にあった話だからだ。

コロンビア市(=サウスカロライナの州都)、2月なかばの日曜日に、父と息子はそれが最後となるキャッチボールと、ひととおりのバッティング練習をした。野球はジャスティンと父の絆である。癌という病がその絆を断ち切ることはない。

24歳のスモークはかつて、ストラットフォード高校とサウスカロライナ大学で野球のスタープレーヤーだった。現在はシアトル・マリナーズの1塁手で、アリゾナで行われるスプリング・トレーニングに向かう準備をしていたのだが、いまは、彼に野球を教えてくれた人とキャッチボールをして、自分のスイングについて意見をもらうのが優先だった。

昨年5月に肺がんと診断されたキース・スモークは、2月なかばのその日、カロライナ・スタジアムで車椅子に座り、微笑みを浮かべながら、自分の息子にボールを投げた。
家族に付き添われたキースは、サウスカロライナ大学の野球部コーチであるレイ・タナーから、背中にK. Smoakとネームが入り、息子スモークがつけていた背番号12番が入ったジャージーをプレゼントされていた。(ブログ注:スモークの背番号はテキサス時代は大学時代と同じ12。シアトル移籍後は17)
「たぶん僕の人生最良の日だったね。家族と一緒にいられたんだから」と、キースは記者に語った。


キース・スモークは、息子とキャッチボールをして2ヶ月と少し経った火曜に、57歳で亡くなった。(ブログ注:MLB公式では54歳となっている)タナーはいち早くジャスティンに連絡した人のひとりだった。マリナーズは彼を忌引リストにいれた。

タナーは言う。
「僕はジャスティンに、キースを悼む気持ちを伝えると同時に、こう言ったんだ。あのカロライナ・スタジアムで過ごした特別な午後は、息子である君と、君の家族、そしてUSCの野球関係者にとって大切な人の人生への祝福の時だったに違いないってね。家族を慈しむ特別な時間さ。彼の父は、スモークの人生にとって欠かすことのできない存在だった。
彼の両親は、試合だけでなく、練習にも来てくれた。キースは彼の息子とチームをとても大切に考えてくれていたんだ。ジャスティンがドラフトされて遠くに旅立つときも、われわれは、ジャスティンがいなくなるのを寂しく思うのと同じくらい、彼の両親との別れを惜しんだものさ。」

ジョン・ローズはジャスティンがダイアモンド・デビルスでプレーしたときのコーチだ。10代の時期というと、父と息子は、とかく荒れた関係になったりするものだが、ローズがいうには、スモーク家の場合にはそれはなかった。
「彼らの関係はそりゃ親密なものだったよ。10代というと、両親、とくに父親のことを疎ましく思いがちなものだ。だけどジャスティンと彼の父の場合はまったくそんなことはなかった。ジャスティンは厳しくしつけられていたと思う。しょっちゅう言葉をかわしていたしね」

ストラットフォード高校での若いスモークは、1年生のときからそこらじゅうのスカウトマンから注目の的になっていた。ストラットフォードのコーチ、ジョン・シャリューはこの若いプレーヤーがとても分別があり、しかも礼儀正しかったと言っている。
「彼の父が、彼に礼儀正しさを教えたといっていいだろうね。キースはジャスティンに、一緒にプレーするプレーヤーへの敬意を教えつつ、コーチした。それは今のような時代には大切なことだ。」

マリナーズの監督エリック・ウェッジは、チームはスモークがチームに復帰する前に、彼が必要とするだけの時間を十分与えると言っている。葬儀は土曜の11時にAldersgate United Methodist Churchで行われ、Carolina Memorial Parkに埋葬される予定だ。

ブログ注:
下記のリンク記事によれば、ブライアン・ロバーツの父マイクは、スモークがマット・ウィータースなども所属していたダイアモンド・デビルスという野球チームに所属していた当時に、スモークをコーチしたことがあるらしい。
For Smoak, the final step | GoGamecocks



サウスカロライナ大学時代のジャスティン・スモークサウスカロライナ大学時代のジャスティン・スモーク






damejima at 09:31

April 20, 2011

今日のデトロイトとのゲームに、シアトルの若い才能ある一塁手ジャスティン・スモークの姿がないのは、彼のご尊父Keith Smoak氏の容態が悪くなり、病床の父のもとに帰ったからだ。さきほど、ご尊父が逝去なさったことを、ツイッターで知った。享年54歳。
ゲームは13-3で、圧勝。イチローが4安打3得点2盗塁の大活躍で、ある意味の追悼試合を勝利に導いた。また、数日チームを離れることになるジャスティンの代わりに臨時のロスターとして上がってきたカルロス・ペゲーロは、さっそくゲームの決まった試合終盤に退いたイチローにかわってライトを守った。

ジャスティンの父の逝去を悼む人たちのツイート
justin smoak - Google Search

Detroit Tigers at Seattle Mariners - April 19, 2011 | MLB.com Classic

Justin Smoak placed on bereavement list; Carlos Peguero recalled from Triple-A | MLB.com: News

まだ24歳と若いジャスティンが大事な父親を失った深い悲しみを思うと、とても心が痛い。

我々ファンの心は若いジャスティンと共にある。そのことを伝えるとともに、心からご尊父の冥福を祈りたい。

My Thoughts and prayers are with Justin and his family.


追記
さきほどMarinersの公式ツイッターが、今日の快進撃に、Who is with us here at Safeco Field? と、つぶやいた。
もちろん僕らは、今日、誰がセーフコのフィールドで躍動するプレーヤーたちを守ってくれていたのか、みんながわかっている。ありがとう、Keith。これからもチームを見守ってください。




今日のイチローの見事な4安打
http://www.youtube.com/watch?v=pPJgpnf2v6c






damejima at 13:47

April 09, 2011

 
デイブ・ニーハウス メモリアル

さぁ、待ちに待ったシアトルの開幕デーがやってきた。
ファンは、スタジアムの観客の靴の色にご注目。

始球式は、デイブの奥さん、マリリン・ニーハウス

My Oh My!
White Shoes
!


シアトル・マリナーズ オーガニゼーションからの「お願い」
Mariners to honor late Hall of Fame broadcaster Dave Niehaus at home opener | Mariners.com: News
Seattle recording artist Macklemore will also perform his "My Oh My" song, which was written in memory of Niehaus shortly after his death last November. Fans are encouraged to wear white shoes as a lighthearted tribute to Niehaus and his unique sense of fashion.

マリナーズからデイブ・ニーハウスへの感謝を表す動画
Baseball Video Highlights & Clips | Mariners thank broadcaster Dave Niehaus - Video | Mariners.com: Multimedia


デイブ・ニーハウス トリビュートに関する記事
If You're Headed To The Mariners Home Opener, Please Wear White Shoes - The Daily Drip - SB Nation Seattle
The Seattle Mariners have asked fans attending Friday night's home opener to wear white shoes. Dave Niehaus was known for his casual attire and the white shoes are meant as a tribute. So, if you have white shoes, wear them. If you don't, buy a pair, borrow a pair or paint your shoes white. I don't care how you do it, just show up to Safeco Field in your best white shoes.

Mariners | What you need to know about Mariners' home opener | Seattle Times Newspaper

デイブ・ニーハウス トリビュート 開幕デーの「白い靴」

開幕ゲームを控えたセーフコのフェンス


セーフコ・フィールドの東側の通り、すなわち、1st Ave. Southの、Royal Brougham WayとEdgar Martinez Drive Southに挟まれた部分が、一時的にDave Niehaus Wayと名づけられ、通りを示すサインも変えられている模様。
下のグーグル・マップのセーフコの左側の通りが、臨時の「デイブ・ニーハウス・ウェイ」。

デイブ・ニーハウス・ウェイ
臨時のデイブ・ニーハウス・ウェイ


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Baseball Video Highlights & Clips | Opening Day ceremony at Safeco Field - Video | MLB.com: Multimedia
10年連続ゴールドグラブ表彰式
イチロー10年連続ゴールドグラブを祝うセレモニーにかけつけたエドガー・マルチネス







damejima at 07:26

March 02, 2011

ホノルルで2月28日に与那嶺要さん(ウォーリー与那嶺、Wallace Kaname Yonamine, born June 24, 1925)が逝去なさった。享年85歳。
Wally Yonamine, 85, Dies - Changed Japanese Baseball - NYTimes.com

Wally Yonamine Minor League Statistics & History - Baseball-Reference.com

プレーヤーであれ、ファンであれ、我々は、先人に築き上げでもらったベースボールの文化的経済的な基盤があってこそ、楽しさを享受できている。だから、先人の足跡へのリスペクトなしに、野球を文化として考えることはできない。
戦後初の外国人選手として、戦後の日本野球の、発展というより、「戦後の日本野球を根本から変えてくれた恩人」のひとりであり、大きな功績のあった偉大な先人である与那嶺さんの逝去を心から悼むとともに、その素晴らしい足跡の片鱗に触れておきたいと思う。

お名前をどう表記するか迷う。
これまで日本では主に漢字で表記されてきたわけだが、マウイ島生まれの与那嶺さんはもともとアメリカ国籍の日系二世であり、戦後日本で初めてプレーした外国人選手としての業績も後世に讃えられてしかるべきなのだから、亡くなられた今となっては、漢字の「与那嶺さん」ではなく、同じマウイ島出身で日系4世のカート・スズキの名前をカタカナ表記するのと同じように、カタカナ表記で「ヨナミネさん」とさせていただくのが、これからはふさわしいように思う。
Wally Yonamine - Wikipedia, the free encyclopedia

Wally Yonamine Minor League Statistics & History - Baseball-Reference.com


まず、マウイで生まれた日系二世であるヨナミネさんは、野球選手である前に、日本人の子孫として初めて、プロフットボールプレーヤーになられた方だ。1946年に創立され、今ではフットボールの名門となったSan Francisco 49ersで、47年にランニングバックとしてプレーされている。(49ersがNFLに参加するのは1950年になってからのことで、チーム発足当時は別組織に属していた。だからヨナミネさんを「日系人初のNFLプレーヤー」と呼ぶのは多少正確さに欠ける)
近年、NFLにチャレンジする日本人の挑戦がなかなか成功しないのをみても、ヨナミネさんがフットボールの花形ポジションであるランニングバックとしてプレーできたという事実が、いかに素晴らしい快挙かがわかるし、誇りに思う。


フットボールプレーヤーとして足の速さが絶対条件であるランニングバックをつとめていたことでもわかるように、ヨナミネさんのプレーのひとつの特徴は、イチローと同じく、その「快足ぶり」にあった。

そして、そこに、ヨナミネさんが「戦後の日本野球に持ち込んだもの」があった。(つまり、ある意味で、「ヨナミネさんが戦後日本に持ち込んだタイ・カッブ時代のアグレッシブな野球」のうち、「スピードの部分を、イチローが21世紀のアメリカで、MLBに甦らせた」ともいえる)
ヨナミネさんは、激しいスライディングだけでなく、セフティバントを日本に導入したことでも有名。


ヨナミネさんの通算盗塁数は、163。それほど多くはない。
だが、なんといっても目立つのが、通算11回も記録したホームスチールだ。これは、日本プロ野球歴代1位。(2位は黒沢俊夫さんの10回)
加えて、ヨナミネさんは、1951年9月12日に、同一イニングに二盗、三盗、本盗を決め、1イニング3盗塁という、とてつもない盗塁記録も打ち立てている。


ちょっとMLBでのホームスチール記録もみてみよう。
回数では、案の定、遠慮のないアグレッシブなスライディングで有名だったタイ・カッブが、54回で、断トツのトップだ。
イチローにシーズン安打記録を抜かれたジョージ・シスラーも20回で、第8位。やはり、あの時代の選手はみんな走れる。あの小太りのベーブ・ルースだって、通算10回もホームスチールをしている。
MLB歴代ホームスチール記録
Stealing Home Base Records by Baseball Almanac

ホームスチール名人のヨナミネさんもアグレッシブな走塁で知られているプレーヤーだから、ヨナミネさんとタイ・カッブ、ホームスチールの名手2人のプレーには実は共通点が多い。
1951年にヨナミネさんが記録した「同一イニングに、二盗、三盗、本盗」という記録も、タイ・カッブはなんと4回も記録していて、ア・リーグ最高記録。これは、同じく4回記録しているナ・リーグのホーナス・ワグナーと並んで、メジャー記録ともなっている。
MLB歴代 同一イニング二盗、三盗、本盗 記録
Players who have stolen second base, third base and home in the same inning


「まさか」という場面でホームベースに突入してくる単独ホームスチールは、ある意味、野球の華だと思うし、ブログ主は非常に好きだ(笑)

ちなみに、足が遅いことで知られる元捕手の野村克也氏は7回ものホームスチールを成功させている一方で、日本の盗塁キング福本豊氏は7回試みて、わずか1回しか成功していない。バッテリーの油断を突く必要があるホームスチールが、必ずしも足の速さだけで決まるプレーではないことを、よく表している。

タイ・カッブは、シングルヒットを二塁打にしてしまうことでも有名だったが、その秘訣を後に明かして「外野手がボールを利き腕で処理するかどうかを、いつも注意深く観察していたのさ」と言っている。
ヨナミネさんが、盗塁数のキングではなくて、ホームスチールの稀代の名手だったのは、相手の隙を突くことで有名だったタイ・カッブと同じように、どんなプレーにおいても気を抜かず、常に相手の気の緩みを許さず、アグレッシブな全力プレーをし続けたからだと思う。

こうしてみると、首位打者を3回獲得し、走れて、バントも上手いヨナミネさんは、現代的なリードオフマンとして、イチローの大先輩でもある。

素晴らしい先達を持てたことを喜ぶとともに、
ご冥福を心から祈りたい。


Youtubeで見られるホームスチール
ジャッキー・ロビンソン
YouTube - Jackie Robinson Steals Home
アーロン・ヒル
YouTube - Aaron Hill stole home
ジャコビー・エルズベリー
YouTube - Jacoby Ellsbury Steals Home
ジェイソン・ワース
YouTube - 2009/05/12 Werth steals home

MLB公式サイトの動画で見られるホームスチール
クリス・ネルソン(COL)
Baseball Video Highlights & Clips | CIN@COL: Nelson steals home to put the Rockies ahead - Video | MLB.com: Multimedia

その他のサイト
オマー・ビスケール
オマー・ビスケル ホームスチール 野球動画まとめ - 動画共有サイトzoome






damejima at 08:45

November 16, 2010

このところ、これまでのシアトル・マリナーズの球団としてのハイライトをベスト10として動画にまとめたものを何度となく見た。この10個のシーンを自分の「野球の宝物」として挙げた人が、いったい何を感じながら選びだしたのか、感じとってみたいと思った。

かなりの回数見た。
だが正直、わからない。
だから何も書けない。なにか書くのはやめにしておこうと思った。

ただ、動画を見ながら、心の中に一箇所、そこだけいつも避けて通る場所のような感じがあるのは感じていた。そのネガティブな印象に触れることに、なんとなくためらいがあった。


それはこういうことだ。

言いづらいことだが、その動画は何度見ても、そこにある10個のシーンの連続に、どう言えばいいか、「今につながるもの」という感覚が湧いてこない。

ひとつひとつのシーンが劇的でない、というのではない。個々のシーンは計り知れないほど素晴らしい。
だが強く伝わってくるのは、それぞれのシーンの感動ではけしてなく、むしろ「何か大事なものが終わりを告げた後で、もう帰れない場所を見て感じるような、「モノ悲しさ」。祭りの後の感覚、とでもいえばいいか。
たとえ10個の場面が素晴らしいものであっても、こういう風に繋げてしまうと、そこには、そこはかとなく「死に絶えた動物の骸(むくろ)のようなイメージ」が生まれてきてしまう。その冷えたイメージがぬぐいされない。ハイライトであり、ベスト10なのだから、本来そこには海面がきらめくような「生のエネルギー」が感じられていいはずだが、遠くで鳴る汽笛を聞くような遠さがある。
繰り返し痛感させられるのは、「現在のシアトルマリナーズがいかに、さまざまな繋がりを喪失した、死んだ場所なのか」ということだ。
この動画から感じられる感覚にはどこか、帰ることのない過去を懐かしむ「老い」の感覚がある。この動画の底に感じる「遥か彼方を想いやる、やるせない心象」は痛々しい。だから、何度見ても、見ている自分からエネルギーが吸い取られていくばかりで、エネルギーをもらえる感じにはならない。


だいぶ時間がたって、ようやく
書くのがためらわれた理由がなんとなくわかってきた。

もしかすると、このベスト10をチョイスしたデイブ・ニーハウスが、シアトル・マリナーズに深い思い入れを持てた時代は、もしかすると、もうずいぶん前に終わっていたのではないか。もしかすると、シアトルの古き良き時代を知る彼が、近年も変わらず熱心に仕事をこなしていながら、実は「古き良きマリナーズの匂い」を嗅ぎ取って癒されたのは、「イチローだけ」だったのではないか、そんな気がしてきた。
ある時期以降のデイブは「イチロー」だけが、彼と「彼のマリナーズ」を繋ぐ唯一の「橋」であり、唯一の「未来への希望」だったのではないか。

なぜって、イチローには、エドガー・マルチネスの匂いがある。マイク・キャメロンの匂い、ブレット・ブーン、オルルッド、ダン・ウィルソン、さまざまな匂いがする。そしてイチローを含めた2001年あたりのマリナーズの選手には、エドガー、ケン・グリフィー・ジュニア、ジェイ・ビューナー、マイク・ブラワーズ、ルイス・ソホ、90年代のマリナーズの「残り香」がする。ジョージ・シスラーの記録を破ったイチローをおずおずと取り囲んだ人の輪にも、そこはかとない残り香はあった。


この「匂い」、どういえばいいか。
内側に独特の熱感をはらんでいて、芯は非常に強いが、表面はしなやかで、ベタつきのない、独特の「匂い」。

誰かひとりだけ、この「匂い」に最もあてはまるプレーヤーを挙げろ、といわれたら、迷わず、「エドガー・マルチネス」と答える。
デイブ・ニーハウスの死について、ジェイ・ビューナーはIt is like I am losing a Dad.「父親を失ったようなもの」と述べているが、選手で言えば、まさにエドガー・マルチネスにはそういう「父親的な匂い」がある。ヤンキースの、あのイタリア系の「兄ちゃん」イメージとも、エンゼルスの多国籍なイメージとも違う、独特のシアトルの風土のような「匂い」。

イチローは、「デイブ・ニーハウスの愛したマリナーズ」という家族の「最後の子供」、「末っ子」なのではないか。


バベジがいじくり倒し、ズレンシックがいじくり倒した今のマリナーズには、あの「独特の匂い」は、もうどこにもない。選手も残っていない。そこにあるのは、ただの「残骸」だ。もう家族でもなんでもない残骸を、彼らはいじくって遊んでいる。今のシアトル・マリナーズには「生きものだけが持つ、独特の熱感」がない。
そこにあるのは「温度のない無機物」である。



かのデイブ・ニーハウスの死に際して、こういう話を書くべきではないし、書く人などいないのではないか。心の底でそう感じながら動画を見るものだから、どうも筆が進まない。このことに気づくのに時間がかかった。

普通、追悼なら、彼の有名なフレーズでもいくつか挙げ、彼の有名なナレーションの動画か肉声のリンクでも挙げておけば、無難に話を済ませられる。それはわかっていたが、そんな誰でもやりそうなことをやって、何になるというのだろう。


どう書けば真意を上手く表現できるか、よくはわからない。

もし、あなたがミュージシャンか作家だとする。あなたがベスト盤や全集を出す、ということは、どういう意味になるか。
ベスト盤を出す、ということは、そのミュージシャンが音楽史に残る素晴らしい仕事をしたという評価が定着した、という意味でもある一方で、別の言い方をすれば、「その人の時代は終わった」とみなす、という寂しい意味でもある。

デイブ・ニーハウスが、球団ハイライトのベスト10上位とみなした出来事は、ほとんどがチームの出来事、つまり、レギュラーシーズンの優勝やディヴィジョン・シリーズの勝利だ。(2位に選ばれたギーエンのバントも、あくまでチームのワイルドカード決定の一貫としてとらえるべきプレー。バントそのものが凄いわけではない)
個人プレーヤーの出来事で上位に来るのは、5位に挙げられたイチローのシーズン安打記録で、これが個人記録としてはランキングの最高位に挙げられている。



そう。
デイブ・ニーハウスの愛したマリナーズは、イチローを終幕として、消滅しつつあったのだと思う。デイブ・ニーハウスが愛した1995年のシアトルを、かいつまんで書いてみる。



ランディ・ジョンソンが3対2のトレードでモントリオールからシアトルに来たのは1989年だ。シアトルはランディを獲得するかわり、左腕マーク・ラングストンをモントリオールに放出した。
ランディは最初から大投手だったわけではなく、しばらくは奪三振も多い一方で、酷いノーコン投手でもあったことは一度書いた。彼の才能を真に開花させたのは、いまはテキサス・レンジャーズの社長になった大投手ノーラン・ライアンやトム・ハウスとのシーズンオフにおける交流と指導の賜物でもある、という主旨の話だ。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年1月6日、豪球ノーコン列伝 ランディ・ジョンソンのノーコンを矯正したノーラン・ライアン。 ノーラン・ライアンのノーコンを矯正した捕手ジェフ・トーボーグ。 捕手トーボーグが投球術を学んだサンディ・コーファクス。

1995年のレギュラーシーズンは、シアトルと、カリフォルニア・エンゼルス(アナハイムに移転する前のエンゼルス)が、ともに78勝66敗でシーズンを終え、キングドームでワンゲームプレーオフが行われることになった。
このワンゲームプレーオフ、先発が因縁めいていた。シアトルがランディ・ジョンソン、エンゼルスはランディの交換相手になった元シアトルのマーク・ラングストン
このときラングストンは、移籍先のモントリオールからさらにエンゼルスに移っていて、奇しくもシアトル初の地区優勝がかかったこの重いゲームで、エンゼルス側の先発となったのである。

Vince Coleman LF
Luis Sojo SS
Ken Griffey CF
Edgar Martinez DH
Jay Buhner RF
Mike Blowers 3B
Tino Martinez 1B
Dan Wilson C
Joey Cora 2B

October 2, 1995 California Angels at Seattle Mariners Box Score and Play by Play - Baseball-Reference.com

7回表まで1-0、シアトルが1点リードするクロスゲーム。7回裏に、シアトルが満塁のチャンスをつくり、2番ショートのLuis Sojoルイス・ソホ、後にWBCベネズエラ代表監督を2度つとめることになる)が、ここで走者一掃のツーベース。守備がもたつく間にソホ自身も生還し、一挙に4点をたたき出して、シアトルは試合の大勢を決めた。シアトルは初の地区優勝に輝いた。

1995年レギュラーシーズンは、エドガー・マルティネスが2度目のア・リーグ首位打者、2度目のシルバースラッガー賞と、球団史上初となる最優秀指名打者賞。ランディ・ジョンソンが4年連続4度目となる最多奪三振のタイトルと、球団史上初となる最優秀防御率。ルー・ピネラが球団史上初となる最優秀監督賞。
ここまで一度も地区優勝したことがなかったシアトルだが、明らかにいつ優勝してもおかしくない才能が集まっていて、ポテンシャルが一気に開花したシーズンだった。


1995年の熱はまだ終わらない。

初の地区優勝を達成したシアトルが、ディヴィジョンシリーズで対戦したのはヤンキース。ヤンキースタジアムでの連敗の後、地元キングドームで連勝し、勝負は10月8日キングドームでのGame 5にもつれこんだ。このゲームに勝ったほうがディヴィジョン・シリーズに勝利する。
ワンゲームプレーオフではルイス・ソホが2番だったが、ポストシーズン打撃好調なスイッチヒッター、ジョーイ・コーラが2番に戻り、ソホは7番に下がった。また併殺が多く、ポストシーズン打撃不調のマイク・ブラワーズを9番に下げている。

1995 ALDS Game 5
Vince Coleman LF
Joey Cora 2B
Ken Griffey CF
Edgar Martinez DH
Tino Martinez 1B
Jay Buhner RF
Luis Sojo SS
Dan Wilson C
Mike Blowers 3B

試合はシアトルが8回まで4-2で負けていた。だが、8回裏にケン・グリフィー・ジュニアのソロホームランなどで同点に追いつく。ここでシアトルは、Game 3で先発して勝利し、連敗を止めたランディ・ジョンソンを9回表からロングリリーフに注ぎ込んだ。
ランディ・ジョンソンが9回表を無失点に抑えると、その裏シアトルがマリアーノ・リベラから1死2塁のチャンスを作った。だが、ヤンキースはマリアーノ・リベラにケン・グリフィー・ジュニアを敬遠させて塁を埋めておいてジャック・マクドーウェルに継投、後続を抑え込んだ。
そして延長11回表、シアトル頼みの綱のランディが3イニング目に1点を奪われてしまう。絶体絶命だ。だがその裏の攻撃で、ジョーイ・コーラ、グリフィー・ジュニアの連打でノーアウト1塁2塁のチャンスをつくり、DHエドガー・マルチネスに打席が回ってきた。
この大事な場面で、エドガーはレフト線を破る。2点タイムリー・ツーベースだ。シアトル、劇的な逆転サヨナラ勝ち。2連敗の後、ヤンキースを3タテして、シアトルはALCSに進出した。
このエドガー・マルチネスの逆転サヨナラ2点タイムリー・ツーベースは、後にThe Doubleと呼ばれることになった。ポストシーズンのエドガーのバッティングは、チームトップの10打点、打率.571、OBP.667、SLG 1.000 OPS 1.667と、驚異的なものだった。

The Double (Seattle Mariners) - Wikipedia, the free encyclopedia

1995 League Division Series - Seattle Mariners over New York Yankees (3-2) - Baseball-Reference.com


どうだろう。
感情を交えず、事実をかいつまんで書いただけだが、当時のプレー、応援するファンの姿に、なにか「熱」「匂い」「繋がり」を感じないだろうか。

「デイブ・ニーハウスが愛したマリナーズ」は、
こういうマリナーズなのだ、と思うのだ。

ドラマティックな展開で勝ち進んだのだから、そりゃ熱気があって当たり前だとか、言われてしまえばそれまでだが、そういうことを言いたいわけではない。
どう言えば言いたいことが伝わるのかよくわからないが、エドガー・マルチネスやダン・ウィルソンが、2001年にイチローが入団するまで大切に守って運んできてくれたのは、こういう「90年代の家族っぽい熱気」だったのだと、今にして思う。

ドラマチックな好プレーを集めた動画なら、どこにでもある。
だが、「家族の写真集」のような懐かしみを覚えるハイライト集は、なかなか無い。
「昔の家族の写真集」を見て思うのは、その家族だけが懐かしむことのできる華やかな追憶であり、また、その仲のよすぎる家族が、やがて老い、すこしずつバラバラになり、やがて時が止まっていく、センチメンタルな感情である。


動画は、YoutubeのDave Niehaus Top 10 Mariners Momentsというタイトルの動画で、オリジナルタイトルは"30 Years of Memories"となっている。デイブ・ニーハウスのチョイスによるシアトル・マリナーズの10のハイライト集である。
ハイライトだから、という先入観を抜きに虚心に見てもらうと、どこかに、カーペンターズの音楽の奥底に秘められた悲しみにも似たようななにかが、見えない部分にずっしりと横たわって身動きがとれない感じが、わかってもらえるのではないかと期待している。
YouTube - Dave Niehaus Top 10 Mariners Moments


10位
ケン・グリフィー・ジュニア
8試合連続ホームラン(1993年7月28日)

9位
ゲイロード・ペリー
通算300勝(1982年5月6日)
「通算300勝を達成した時にはボールに歯磨き粉をつけて投げていた」と告白した有名なスピットボーラー。

8位 
2人のノーヒッター
ランディ・ジョンソン(1990年6月2日)
クリス・ボジオ(1993年4月22日)

7位
3人のサイクルヒット
ジェイ・ビューナー(1993年6月23日 延長14回)
アレックス・ロドリゲス(1997年6月5日)
ジョン・オルルッド(メッツ時代1997年9月11日、シアトル時代2001年6月16日)
A・ロッドのサイクルヒット達成は、21歳10ヶ月で、MLB史上5番目の若さ。オルルッドはMLB史上26人しかいない複数回のサイクルヒット達成者。
Hitting for the cycle - Wikipedia, the free encyclopedia

6位
ケン・グリフィー・ジュニア、シニア
親子アベックホームラン(1990年9月14日)

5位
イチロー
ジョージ・シスラーのシーズン最多安打記録を更新(2004年10月1日)個人記録としては、これがこのランキングの最高位。

4位
球団史上初の地区優勝(1995年)

3位
シーズン116勝
イチローの入団した2001年シーズン116勝はMLBタイ記録。球団史上初となるコミッショナー特別表彰。

2位
カルロス・ギーエン
サヨナラセーフティバント(2000年10月8日)
これによりワイルドカードが決定。進出したALDSではシカゴ・ホワイトソックスをスイープした。

1位
The Double by エドガー・マルチネス
(1995年10月8日)



よくイチローのことを孤高だという人がいる。
だが、イチローを孤高に「させてきた」のは、イチローではない。
むしろイチローほど、自分の所属する場所が熱気に包まれ、繋がりと匂いをとり戻す瞬間に焦がれ、飢えを感じてきたプレーヤーはいないはずだ。
かつてこのチームにあった熱。一体感。匂い。いいかえれば「エドガー・マルチネスに象徴される何か」は、選手と関係のないところで年月とともに剥ぎ取られ、解体され、失われていったが、その中で、むしろイチローだけがプレーヤーとして、その「匂い」を必死に守り抜いてきたことは、この動画から明らかに感じとることができる。

トム・クルーズが主演した2003年の映画「ラスト・サムライ」では、滅び行く武士道の最後の残滓は、日本人ではなく外国人ネイサン・オールグレン(トム・クルーズ)に受け継がれた。
日本からMLBにやってきたイチローの成功は、まさに「ラスト・サムライ」の全く裏返しを行くストーリーであり、デイブ・ニーハウスにとってイチローは、いわば「ラスト・マリナーズ」だったのではないか。そう思うのである。

デイブ・ニーハウス






damejima at 13:09

November 05, 2010

アンディ・アイアンズ追悼のためのパドル・サークル


まさか、としか、言いようがない。

なぜ。

Andy Irons 1978 - 2010

【訃報】 元世界チャンピオン、アンディ・アイアンズが死亡 News - ASP Japan Tour - 最新ニュース - ASP Japan Tour

サーフィンはマーケットの小さなスポーツだから、MLB好きのアメリカ通の人でも、彼のことを知らない人は多いと思う。
ハワイのカイルア島出身の彼は、フロリダ出身のケリー・スレーターと並んで、アメリカン・レジェンドの一人。亡くなったのは、テキサス州ダラスだ。


Andy Irons(アンディ・アイアンズ)。
32歳。


11月5日金曜日に彼の追悼のために青色の服を着よう、という話が広がっている。Wear Blue For Andy Irons On Friday.

ニューヨーク生まれで、今年1月に91歳で亡くなったJ.D.サリンジャーの短編に、A Perfect Day for Bananafishというのがある。アンディ・アイアンズはバナナフィッシュになって海に帰ってしまった。
多くのサーファーたちがバドルアウトしていき、沖で手を繋いで円になって、彼の突然の旅立ちを見送った。

130 surfers took part in a service to remember ANDY IRONS
United in grief, 130 surfers form circle in the sea for champion Andy Irons as investigators 'find methadone in room where he died' | Mail Online

Andy Irons – Overdose of drugs led to Andy Irons’ death ! | TellyCafe.com

Surfing champ Andy Irons' death may be an overdose - Game On!: Covering the Latest Sports News

Andy Irons: Speculation About Death of Surfer Intensifies After Prescriptions Found in Room - ABC News

Radio New Zealand : News : Sports : World surfing boss knew of Irons' health problems

Surf champ Andy Irons' death a possible drug overdose - National Celebrity Headlines | Examiner.com


アンディ・アイアンズの死は当初、デング熱によるものと伝えられていた。だが、やや時間がたって、Methadoneによるオーバードーズが原因という見解が報道されるようになっている。(USA Today, ABCなど)


MLBにステロイド問題があり、そして近年のツール・ド・フランスには常に血液ドーピングの問題がつきまとっているように、プロスポーツ、そしてオリンピックをはじめとするアマチュアスポーツ、ありとあらゆるスポーツには、たくさんの、繰り返されてきた薬物問題の存在がある。
薬物の問題からいつも痛感するのは、競技に薬物をもちこむことの是非そのものより(薬物の力で勝つなど、もってのほかに決まっている)、むしろ、「他人に勝つ」という行為そのものが、人間にとって、どれだけ強い麻薬的な行為か、ということ。

つまり人間は、一度「他人に勝つ、という麻薬的行為の味」を覚えたら、なかなかそれを止めることができない。勝利の瞬間、脳内に撒き散らされるあのドーパミンの味を、人は覚え、やがて溺れる。その興奮をとことん味わい尽くそうと、薬物に手を出す者もでてくる。


走る、という行為がそうであるように、サーフィンは、スポーツである一方で、内省的でスピリチュアルな文化、という側面をもつ。ある立場の人にとっては娯楽でしかないが、別の立場の人にとっては宗教であり、また、ある立場の人にとっては哲学になる。
このことはランニングだけでなく、文学や音楽などにしても、同じことが言える。ある人にとっては単なる娯楽でしかないランニングや文学や音楽が、別の立場の人にはドラッグと同等以上の重さと価値をもち、習慣性が存在し、身の破滅を招くこともあり、身を守る哲学にもなりえる。

人は、ランニングや文学から、果ては割り箸の袋のデザインに至るまで、あらゆる人生のアイテムを、宗教やドラッグにしうる。人はいつだって、自分の熱中するものに宗教や哲学を見いだしたがるからだ。そして宗教的恍惚に浸るとき、人はえもいわれない恍惚感を感じる。やっかいな生き物だ。
それがサーフィンであろうが、割り箸の袋であろうが、田舎の鉄道の無人駅だろうが、それは変わらない。人はある意味、自分の歩く道すがらに宗教や哲学を見いださずにはいられない、哀れな弱い存在なのだ。

だからサーフィンだけが特別ということはありえない。サーフィンはたしかに、サーフィンだけは特別、と思いこませるほど魅力あるカルチャーだが、サーフィンは、サーフィンだ。サーフィンが、割り箸の袋より文化的に偉いかどうかは、それぞれの人が自分の価値観で決める。


うまく書けるとは限らないが、アンディ・アイアンズの死因についてきちんと考えを書こう。
もし彼の死がオーバードーズが原因なら、単に軽い病気をこじらせただけの死であるかのように装って、真実を覆い隠す必要など、まったくない。
むしろ、そういう恥ずかしい行為こそ、彼の死の尊厳を冒涜するものだ。もしオーバードーズならオーバードーズと、ハッキリ伝えるべき。もしそれが彼の人生の一部だったのなら、隠すほうがどうかしている。
アンディ・アイアンズが、お坊ちゃま的、いい子ちゃん的サーファーだったのならともかく、彼がそういうタイプでないことくらい、誰だって知っている。いまの現実のビーチは、かつてビーチボーイズが歌ったような牧歌的な世界ではない。アンディ・アイアンズは、シド・ビシャスではないが、フランク・シナトラでもない。

波には本来、良い波も、悪い波も、ない。
海はいつでも海だし、波はいつでも波だ。

もし、「いい子で、サーフィンの上手いアンディ・アイアンズ」だけがアンディ・アイアンズの人生だ、なんて映画があったら、そんなクソつまらないシナリオの映画に用はない。
上手に乗れた波は彼の人生の一部だが、彼が上手に乗れなかった波もまた、まちがいなく彼の人生の一部だ。良い波に乗って勝ったアンディだけがアンディで、良い波に綺麗に乗るのがプロだ、と考えたがる人がサーフィンをビジネスにしているのかもしれないが、そんなのは嘘だし、どうでもいい。

死に様で、彼が波乗りとして築いてきた偉業も死に至ってしまうかどうかについては、例えば音楽の世界で、オーバードーズで死んだミュージシャンの肉体的な死の後、そのミュージシャンの音楽が死に絶えてしまうかどうか、考えるといいと思う。彼の生前のサーフィンが強いものだったのなら、風雪に耐えて生き残るし、そうでないなら死に絶える。それだけのことだ。
また、ガンで亡くなった忌野清志郎が、オーバードーズで死んだミュージシャンより偉くないと考えるくらい馬鹿馬鹿しいことはないのと同じように、オーバードーズで死んだからといって、それを理由に彼を持ち上げる必要もない。


彼は一時ワールドツアーから身を引こうとしていて、復帰を果たしたばかりだった。
彼がツアーから身を引いた理由はよくは知らないが、短すぎる時間の中で勝ち負けを決める「見世物としてのサーフィン」のストレスに無意味さを感じたのかもしれないし、「勝つ」という行為の麻薬的な習慣性を断ち切りたいと願っていたのかもしれないし、よくはわからない。また、ツアーに復帰するにあたって、一度は否定した「ツアーのサーフィン」を再び肯定するにあたって、どういう迷いや割り切れなさ、せつなさを抱えていたのかも、よくはわからない。
かつての世界チャンピオンだったトム・カレンも、ケリー・スレーターも、一度ツアーを止め、そして復帰している。もっといえば、あのマイケル・ジョーダンですら、一度バスケットをやめて、MLBに挑戦していた時期がある。アスリートだけでなく、人の歩いていく道の果てには「迷い」という地雷が、そこかしこに埋まっている。

迷うことは恥でもなんでもない。
人はいつか迷いを自分の身体の一部にしていかないと、パドルアウトした沖から岸に帰ることができなくなり、いつか溺れてしまう、と、そんなことを彼の死因がはっきりしない今は思うのだ。


たしかに、短すぎる競技時間、大会の開催期間の有限なデッドライン、クソみたいな波でも勝ち負けを決める「見世物としてのサーフィン」には無意味さもないわけではない。
じゃあ、短かすぎる人生の中で勝ち負けを決めていく「ぼくらの見世物としての人生」は、どうなのだ。

無意味なのか。

海にも陸にも、逃げ場なんてない。どんな場所にもストレスはあり、どんな場所にも波はあり、良い波もあれば悪い波もある。
そして、どんな場所にも楽園がある。

ぼくらは、自分がいやおうなく乗るべき一度だけの波に、毎日立ち向かう。どう乗ればいいのか。わかっても、わからなくても、岸で見ていても、いつかぼくらの人生は終わってしまうんだ。

だったら。
パドルアウトしないわけにはいかないじゃないか。

Methadone
Methadone - Wikipedia, the free encyclopedia

Kauai






damejima at 07:21

April 07, 2010

子供の頃よく遊んでもらった年上の従兄弟がいた。
明るい性格で、独特の通る声で喋る、長男らしい面倒見の良い男だった。

建設会社に勤務したとは聞いていた彼と社会人になってから連絡しあうことはなくなっていたが、突然家族から連絡があってたいへん驚いたものだ。かけつけることのできる一番近い親族が自分だというので連絡してきたらしい。



白いベッドに静かに横たわる彼の顎には、病室に通うたびにうっすらとヒゲが伸びていき、まるで眠っているように見えた。手も身体も暖かい。ただ意識だけがなかった。

クモ膜下出血。

脳死状態だった。いつ生命維持装置をはずすか、それだけが家族に選択肢として残されていた。
彼は結婚したばかりだったが、抱えている仕事がたいへんに忙しく、新婚旅行を先延ばしにしてまで仕事を片付けている最中、自宅玄関でバタリと倒れたと聞いた。



あれから何年もの時間が経った。
僕は今年も野球を見ている。

報道されてはいないわけだが、
木村拓也コーチのご家族が実際にはどういう立場にあったか、大体わかる。


あの従兄弟のことを思い出さない年は、一年もない。
うっすらと伸びていくヒゲ。暖かいままの手。白いベッド。
今もありありと思い出すことができる。


僕は今年も野球を見ている。
年を経るごとに父の好きだったものを好きになる自分を見ている。

damejima at 15:14

July 15, 2009

日本には「お盆」という盛夏の習慣があり、それにあわせて祭りが行われ、人は故郷に帰る。

「お盆」には、人は故郷で、昔なつかしい友に会って旧交を温め、墓地にもう亡くなってしまった人を訪ねて、自分がどこから来たのかを確かめ、そして、どこへ向かっているのか確かめる。
過去と再会することは、悲しいことではない。むしろ、畏敬と謙虚さをもった心に年に一度戻る大切な時間である。


Nick Adenhart, 1986-2009 | MLB.com: History

Nick_Adenhart_ForeverAdenhart honored in pregame ceremony | angelsbaseball.com: News

Game_of_Nick_Adenhart

関連記事まとめ:The Johjima Problem.:ニック・エイデンハート Nick Adenhart

メジャーのオールスターの季節にいつも思うことは、ベースボールは誰かひとりの手で築きあげられるわけではなく、たくさんのプレーヤーとファンが長い歴史を共有することで高められる、ということだ。オールスターにはいつも過去の名プレーヤーが招待され、現役プレーヤーとの間で短い時間だが暖かい交流が図られるのを、ファンが微笑みとともに見守る。
いや。歴史を共有、というと、むつかしくなってしまう。むしろ、「長い夢」を一緒にみる、といったほうがいいかもしれない。

オールスターとは各シーズンの最も大きな夢をファンとプレーヤーが共有しあう行為であり、そこに出場することはベースボールという「長い長い夢」の一部、いい意味で「かけら」になる、ということだ。


イチローがシスラーの墓参りに行ったことで、そんなことを考えた。イチローは既にベースボールという歴史の一部、長い夢の一部としてフィールドに立っている。シスラーの墓参りはベースボールに対する畏敬と謙虚の表れである。
The Hot Stone League | UPDATED: Ichiro visits grave of George Sisler (with new Ichiro and Wakamatsu quotes) | Seattle Times Newspaper

A buried treasure - MLB - ESPN
セントルイス・ブラウンズのプレーヤーだったジョージ・H・シスラーのストーリー。


だからオールスターはベースボールにとっての「お盆」なのである。
いま最もホットなプレーヤーの演じる夢のゲームを見ながら、ファンは昔なつかしいプレーヤーを思い出し、プレーヤーはいつもは離れて戦っている他チームの友人に会って旧交を温める。


日頃、雑事にかまけてばかりいる自分のような人間が今年亡くなったエンゼルスのニック・エイデンハートのことも思い出すとしたら、オールスターの今日が最もふさわしい。
日本の「お盆」には「送り」という習慣があるが、このオールスターで、彼がベースボールにかけた夢をセントルイスのフィールドに「送って」やりたいと思う。


オールスターのフェリックスAbove us.


フェリックスは、エイデンハート投手と同じ、1986年生まれ。

汽笛の鳴る線路脇のボールパークマリナーズの故郷は海沿いのボールパーク。貨物の鉄道のすぐ裏。南側に走る道路は「エドガー・マルチネス通り」
http://maps.google.co.jp/maps?ll=47.593115,-122.33335&z=15&t=h&hl=ja






damejima at 08:59

April 12, 2009

ニック・エイデンハートの不幸な自動車事故の翌日、とてもゲームにならないとゲームをキャンセルしたエンジェルスは、つらい追悼ゲームとなったボストン戦に強い気持ちで臨み、勝利をおさめた。
Boxscore: Boston vs. LA Angels - April 10, 2009 | MLB.com 記事+動画

Nick_Adenhart_Forever
Nick Adenhart, 1986-2009 | MLB.com: History

試合前エンゼルスはクラブハウスをクローズアウトし、つらいゲームの開始に備えたが、監督マイク・ソーシアと投手コーチのマイク・ブッチャー、そして投手陣からジョー・ソーンダースとダスティン・モズリーがインタビューに応じた。
ソーシアは何度も「tough(タフ=きつい)」という単語を使って不幸な出来事の悲しみを抱きながらゲームに臨まなければならない精神的なつらさを語り、また、高校時代からエイデンハートをよく知っていて彼の成長を見守ってきた投手コーチ、マイク・ブッチャーは常に言葉を詰まらせては単語を搾り出しつつ、悲壮な表情で長時間のインタビューに耐えてみせた。
Angels get refuge on the diamond | angelsbaseball.com 記事+動画

ソーンダース投手とモズリー投手
Joe Saunders and Dustin Moseley on Nick Adenhart - Video | MLB.com


2人のマイク。マイク・ソーシア。マイク・ブッチャー
Mike Scioscia and Mike Butcher discuss Nick Adenhart - Video | MLB.com


ゲーム前には、マウンドでエンゼルスのローテーション・ピッチャー、ジョン・ラッキーと、センターのトリー・ハンターの2人が34番のユニフォームを掲げるなか、両軍選手が向かい合わせに2列に並び、帽子をとってエイデンハート投手を追悼する黙祷を捧げた。マウンド後方には彼の背番号「34」が記され、外野フェンスには彼の写真と背番号が大きくプリントされた。
不幸な事故の当日、つらい気持ちの中で電話取材に応えたトリー・ハンターは、守備位置からフェンスまで走り寄っていき、気を許しあった友人同士がするようにエイデンハートの遺影にヒジを軽く押しあてるようにして触れ、それから定位置に走って戻り、メモリアルゲームがはじまった。

試合前の黙祷
The Angels remember Nick Adenhart before their game - Video | MLB.com


Adenhart honored in pregame ceremony | angelsbaseball.com 記事+動画

試合はシアトルにいたジェフ・ウィーバーの弟でもあるローテーション投手ジェレド・ウィーバーが、兄そっくりの長い腕をよく振って非常にキレのあるスライダー系の変化球と、糸を引くような伸びのあるストレートでボストン打線を完全に封じ込み、6回3分の2をシャッタアウトする素晴らしいピッチングを見せた。ウィーバー弟も、ハンターと同様、ゲーム前にフェンスのエイデンハートのメモリアルフォトのところに行き、手で彼の背番号に触れてからゲームに臨んでいた。
Weaver shuts down Sox for emotional win | MLB.com 記事+動画

ゲームでは打線も奮起した。大きなホームランこそないが、必要なときにタイムリーがきちんと打てるソーシア流スモールベースボールらしいスタイルで得点を積み上げていき、一度もボストンにリードを許すことなく勝利した。
フィギンズのタイムリーツーベース
BOS@LAA: Figgins' double gets the Angels on the board - Video | MLB.com 動画
マシスの2点タイムリー
BOS@LAA: Mathis hits a two-run single in the seventh - Video | MLB.com 動画
ハンターの犠牲フライ
BOS@LAA: Hunter drives in Abreu with a sacrifice fly - Video | MLB.com 動画
ケンドリックの2点タイムリー
BOS@LAA: Kendrick hits a two-run single in the second - Video | MLB.com 動画

エイデンハート投手の両親は金曜に彼のロッカーで時間を過ごし、いくつかの遺品を持ち帰った。父のジム・エイデンハートは彼のクラブジャージを。そして母ジャネットは彼の帽子を。そして彼らはマウンドの土も集めて持ち帰った。
今シーズン、エンゼルスのプレーヤーはホーム・アウェイ両方のゲームでユニフォームの胸にエイデンハートの背番号34をあしらった喪章をつけてゲームに臨む。またエンゼルスのクラブハウスのエイデンハート投手のロッカーは彼が生きていたときの状態で残され、これはアウェイゲームでも、同じようにエイデンハート投手のロッカーが再現される。
Adenhart honored in pregame ceremony | angelsbaseball.com
Adenhart's parents spent time at Adenhart's locker on Friday and removed some belongings. His father, Jim, kept Adenhart's game jersey from Wednesday, and his mother, Janet, kept his game-worn cap. The two also gathered dirt from the mound.

Adenhart's locker will also remain in the clubhouse with his jersey and belongings. The Angels will also maintain a locker for Adenhart on the road.


damejima at 03:07

April 10, 2009

Nick_Adenhart_Forevertremendous talent,
terrific potential
-Mike Bauman,MLB.com

不慮の交通事故死とのこと。
22歳の高い才能が散りました。
関係者の方の落胆を想いつつ、黙祷を捧げます。
Angels top prospect Nick Adenhart killed in car accident.
A exellent talent 22-year-old has scattered.
It pays silent tribute thinking of disappointment in parties concerned.


なお、今日行われる予定だったエンゼルスとアスレチックスのゲームは中止になりました。
The Angels have canceled today's game against Oakland at Angel Stadium after the death of pitcher Nick Adenhart in a car accident after Wednesday's game.
Adenhart mourned; game postponed | angelsbaseball.com

Click His Game アスレチックスを6回無失点に抑えた
Game_of_Nick_Adenhart
Boxscore: Oakland vs. LA Angels - April 8, 2009

キャリア・スタッツ
Nick Adenhart Statistics and History - Baseball-Reference.com

ESPN
(追悼ムービー+ソーシア監督+ボラス氏インタビュー動画)
Nick Adenhart of Los Angeles Angels killed in car crash in Fullerton
Angelsbaseball.com
Angels to play ball with heavy hearts
ソーシア監督"We'll move forward with it the best that we can."

Sadness_in_LA
Los Angeles Times
Nick Adenhart, Angels pitcher, killed in Fullerton crash
MLB.com
Angels' Adenhart killed in accident

weeping_Mikeインタビューで
嗚咽を漏らすマイク(右)
FOX Sports on MSN
Angels pitcher Adenhart, 22, killed in car crash
CBSSports.com
Fallen Angel: Adenhart so young, gone so quickly


某掲示板から拾い物。

エイデンハート投手と同じ1986年生まれは
有力投手だらけ

野球史上屈指の投手の当たり年になる可能性あり
(以下はコピペ)
フェリックス・ヘルナンデス (SEA)
ジェアー・ジャージェンス (ATL)
ヨバニ・ガラルド (MIN)
フィル・ヒューズ (NYY)
ジョン・ニース (NYM)
クリス・ボルスタッド (FLA)
ホーマー・ベイリー (CIN)
ジョニー・クエト (CIN)
ロス・デトワイラー (WSH)
マイケル・ボウデン (BOS)
田澤純一 (BOS)
ダルビッシュ有 (北海道日本ハム)
涌井秀章 (埼玉西武)

From This Blog
Adenhartの死はとても痛ましい。だからこそ多くの人が彼について語るだけでなく、両親、家族、友人、自分の大切だった人々の死を思い出し、そして再び胸にしまいこむきっかけになった。多くのMLBサイトで過去に亡くなった他のプレーヤーの思い出などが書かれている。また文字になど書かなくとも多くの人々が、自分とかかわりのあった人々の死について想起し、身近な誰かとそれを語りあった。
だからAdenhartの死は、これからも生きてゆく者によって弔われるのはもちろん、彼のことがきっかけで思い出してもらうことのできた、たくさんの亡くなった人たちによっても弔われるだろう。
The death of Adenhart is so painful that a lot of people have a chance to recall the other death of their important people. Such as parents, families, and friend. We all will refresh it and put in the chest importantly again. Memories etc. about other unforgettable players who have died in the past are written on a lot of MLB sites. Moreover, the death of people who had dividing was recalled and we talked with someone familiarity though we do not make to the character. A lot of people do it inside the mind.
Therefore, it will be held a funeral also by a lot of died people who were able to be recalled because of the death of Adenhart, of course by the people of us who will live strongly in the future.


試合前に黙祷するレンジャーズナイン試合前に黙祷する
レンジャーズナイン



damejima at 01:27

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  • 2014年10月31日、PARADE !
  • 2013年11月28日、『父親とベースボール』 (9)1920年代における古参の白人移民と新参の白人移民との間の軋轢 ヘンリー・フォード所有のThe Dearborn Independent紙によるレッドソックスオーナーHarry Frazeeへの攻撃の新解釈
  • 2013年11月8日、『父親とベースボール』 (8)20世紀初頭にアメリカ社会とMLBが経験した「最初の大衆化」を主導した「外野席の白人移民」の影響力 (付録:ユダヤ系移民史)
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  • 2013年6月1日、あまりにも不活性で地味な旧ヤンキースタジアム跡地利用。「スタジアム周辺の駐車場の採算悪化」は、駐車場の供給過剰と料金の高さの問題であり、観客動員の問題ではない。
  • 2012年7月3日、『父親とベースボール』 (2)南北戦争100年後のアフリカ系アメリカ人の「南部回帰」と「父親不在」、そしてベースボールとの距離感。
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  • 2012年6月29日、『父親とベースボール』 (1)星一徹とケン・バーンズに学ぶ 『ベースボールにおける父親の重み』。
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