『1958年の西海岸』 特別な年、特別な場所。

2014年12月5日、シェークスピアも予期できなかった、527年後の復讐劇。21世紀版 『リチャード3世』。
2013年4月18日、「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。『ロバート・フランク眼鏡』をかけず、裸眼で見る「モンタナ」。スポーツと家族とクルマのあるアメリカ。
2013年2月11日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」 (8)番外編 「ステロイド・イネーブラ」と呼ばれたピーター・マゴワン。
2013年2月11日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」 (7)番外編 近づくキャンドルスティック・パークの「引退」。
2012年4月30日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」 (6)大魔神とブルース・リーの共演。リチャード・ブローティガンとブルース・リーが出会っていたかもしれない1959年サンフランシスコ。
2012年3月30日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」 (5)番外編 元祖「安打製造機」 榎本喜八にとっての『故郷』、東京スタジアム。
2012年3月23日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (4)夢の東京スタジアムの誕生
2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (3)キャンドルスティック・パーク、ドジャー・スタジアム、シェイ・スタジアムの開場
2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (2)ロサンゼルス・メモリアル・コロシアム、シールズ・スタジアムの一時使用と、チェニー・スタジアムの建設
2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (1)エベッツ・フィールド、ポロ・グラウンズの閉場
2012年3月20日、「1958年の西海岸」という特別な年、特別な場所。サンフランシスコの名コラムニスト、ハーブ・ケインによって発明された「ビートニクス」という言葉と、「ビート」との根本的な違いを正す。
2012年3月6日、「1958年の西海岸」という特別な年、特別な場所。リチャード・ブローティガン 『A Baseball Game』の野球史的解釈。

December 06, 2014

2012年にイギリスの「駐車場の発掘」でみつかった人骨が、かのリチャード3世の遺骨と判明したことで、いろいろなことが明らかになってきた。

ボズワースの戦いBattle of Bosworth by Philip James de Loutherbourg


最初に中世以降のイングランド王室史をひもとこう。

ヨーク家の家紋、白薔薇ランカスター家の家紋、赤薔薇
14世紀以降のイングランド中世は、ヨーク家(白薔薇)とランカスター家(赤薔薇)の争いの歴史だ。
ランカスター朝のヘンリー6世から王位を奪ってヨーク朝を開いたヨーク家と、なんとしても王座奪還をはかりたいランカスター家の骨肉の争いとなった薔薇戦争は、ヨーク朝最後のイングランド王 リチャード3世(Richard III)が、後にテューダー朝をひらくことになる ヘンリー・テューダー(Henry Tudor)に1485年ボズワースの戦いで敗れ戦死したことによって事実上終結する。

リチャード3世を破ったヘンリー・テューダーは国王の愛人の子孫で、その王位継承権には数々の疑問があったのだが、彼は「ランカスター家の継承者」を意味する「ヘンリー」を名乗り、ヘンリー7世としてテューダー朝を開いた。

だが、ヘンリー・テューダーの息子ヘンリー8世が、カトリックから強引に離脱して英国国教会まで作り、複数の侍女を含め6度も結婚して男系を意地でも持続させようと執念を燃やしたにもかかわらず、テューダー朝は100年ちょっとで血脈が絶えてしまう。
そこでやむなくヘンリー・テューダーの血統がかろうじて維持されていたスコットランドから、スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王として迎えられ「ステュアート朝」が生まれ、同時にイングランドとスコットランドの合併が行われた。いわば血統の「接ぎ木」が行われたわけである。

しかしながら、その「接ぎ木」のスチュアート朝も早くも18世紀には血統が途絶えてしまい、こんどはジェームズ6世の血統がかろうじて残されていたドイツのハノーヴァーから選帝侯ゲオルクが招かれ、イングランド王ジョージ1世(ゲオルクの英語読みがジョージ)として即位し、イングランドにドイツ系の「ハノーヴァー朝」が誕生することになった。
(18世紀のアメリカ独立戦争でアメリカ独立派と戦ったイギリス国王ジョージ3世は、このハノーヴァー朝の国王)

イングランド国王が「ドイツ系」になったことで、王室周辺にはドイツ出身者が急増した。このことは、以前いちど書いたように、「アメリカの全人口に占めるドイツ系住民の割合が非常に高いこと」や「アメリカ文化の底流にドイツ系文化が流れていること」など、かつてイギリスの植民地だったアメリカの社会構造にいまも非常に強い影響を残している。
関連記事:2012年7月16日、『父親とベースボール』 (4)アメリカにおけるドイツ系移民の増大。18世紀ドイツの美術史家ヨハン・ヴィンケルマンが欧米文化のルーツとして捏造した「白いギリシア」。 | Damejima's HARDBALL

なお、イギリス王室周辺のドイツ系出身者増加の要因は、ハノーヴァー朝誕生以外にもある。
ヘンリー・テューダーの息子ヘンリー8世は、6度の結婚のうち、当時のスペイン王国および神聖ローマ帝国の支配者の叔母だった王妃キャサリン・オブ・アラゴンと離婚する際にローマ・カトリックから離脱するという荒業を用い、新たに「英国国教会」を作った。
この歴史的な大事件の後、イングランドは法改正によって、古くから英国王室が保ってきた周辺のカトリック系諸国の王家との縁戚関係を法的に禁止する方向に進んだため、イギリス王室周辺からスペイン、イタリア、フランスなどの出身者がいなくなっていったのである。


話を リチャード3世に戻そう。

Photo : King Richard III found in 'untidy lozenge-shaped grave' (リンク先にはリチャード3世の遺骨発掘時のリアルな写真がありますので、見たくない方は閲覧をご遠慮ください)

リチャード3世の遺骨の発見場所は「駐車場」という、一風変わった場所だったわけだが、それには理由がある。
15世紀の薔薇戦争当時、リチャード3世の埋葬場所はレスターの「Greyfriars(グレイフライアーズ修道院)」だったのだが、薔薇戦争に勝利したテューダー朝のヘンリー8世時代に「カトリックからの離脱」が行われ、修道院など多くのカトリックの施設が破壊されたため、そのグレイフライアーズ修道院が破壊され、その後、長い年月を経て「駐車場」になっていたのである。

いいかえると、「カトリック離脱によってグレイフライアーズ修道院の跡地が教会とまったく無縁の場所になり、すっかり埋葬場所がわからなくなった」ことがかえって幸いして、リチャード3世の遺骨が長い期間、盗掘も発見もされないまま、DNA鑑定技術が発達する時代になるまで「眠り続け」たために、地中に彼の「遺志」が保存され続けた、ともいえるのである。


さて、リチャード3世の死後80年ほどして生まれている1564年生まれのウィリアム・シェークスピアの生きた時代は、テューダー朝末期からステュアート朝にかけてであり、イギリス・ルネサンス演劇が隆盛し、ロンドンに数々の公設の劇場が建設された時代でもあった。

その一方で、当時は英国内の清教徒(ピューリタン)が、国王の離婚のために設立された英国国教会と対立を強めていた時代でもある。その清教徒は「劇場」を「封鎖すべき犯罪の温床」ととらえ、強い敵意を抱いていた。
したがって、ウィリアム・シェークスピアのような庶民向けの劇場にシナリオを提供するのを仕事にしていた劇作家は、劇場封鎖を虎視眈々と狙う清教徒に対抗する意味で、「英国国教会側にプラスになるような、しかも庶民にわかりやすい勧善懲悪的な、史劇」を書く必要があったのである。

そもそも英国国教会を作ったのはテューダー朝のイングランド王ヘンリー8世であり、リチャード3世は、そのヘンリー8世の父親ヘンリー・テューダーの「宿敵」だった人物である。
だから、英国国教会を擁護すべき立場に置かれていたシェークスピアとしては、「英国国教会創設者の父親の宿敵だったリチャード3世を、血も涙もない極悪人として描かなければならない理由や必然性」があったことになる。(ちなみに、リチャード3世の汚名を晴らし名誉回復をはかる歴史愛好家たちを「Ricardian(リカーディアン)」と呼ぶ)

ちなみに、ヘンリー・テューダーに敗れたリチャード3世は、英国国教会派の劇作家シェークスピアの手で「極悪人」として描かれたわけだが、その約300年後、こんどはヘンリー・テューダーのかなり遠い子孫にあたるジョージ3世が、アメリカ独立戦争に敗れたことで1776年アメリカ独立宣言に「極悪人」として描かれることになった。


ちなみに、英レスター大学によって行われたリチャード3世の骨のDNA判定によると、ヘンリー4世からヘンリー6世までのランカスター朝と、リチャード3世を戦死させたヘンリー・テューダーに始まりエリザベス1世で終わるテューダー朝、つまり、リチャード3世のヨーク家の宿敵であるランカスター系の家系図には、「家系が断絶している部分がある」という重大な疑問を生じさせる可能性があるという。
ヘンリー・テューダーの王妃はヨーク家の人間であるため、両家にDNAの繋がりがある。そのため、ヨーク家当主リチャード3世のDNAからでも、対立するランカスター家のDNAの検証が可能なのだ。

リチャード3世は、1485年ボズワース戦いでの敗戦で薔薇戦争に敗れたが、死後527年もの長い歳月を経て、長年論じられ続けてきたヘンリー・テューダーの王位継承権の正当性を疑う疑惑に対して、「みずからのDNAの提供」という、誰も考えてもみなかった形で決定的証拠を提出し、宿敵ヘンリー・テューダーに500数十年ぶりのリベンジを果たすかもしれないのである。


cf: 2012年12月21日、ニューヨークまみれのクリスマス・キャロル(1) ワシントン・アーヴィングとクリスマスとバットマン | Damejima's HARDBALL


damejima at 17:42

April 19, 2013

アメリカはあらゆる場所、あらゆる街に、プロスポーツとファーストフード店がてんこ盛りになっていて、どこもかしこも騒々しい。と、思う人もいるが、アメリカにも「何もない」と感じる場所はある。


夜の地球

衛星写真で夜のアメリカをみると、「西半分」は、煌々と明るい「東半分」よりも、はるかに暗い。地勢が山がちな西には、平地の多い東よりも人家が少ない、というわけだ。それは、MLBがまず東海岸で生まれ、それから西に向かって拡張されていった理由のひとつでもあるだろう。1958年のドジャースとジャイアンツの西海岸移転は、ひとつの「西部劇」、ひとつの「ゴールドラッシュ」だったのだ。

たとえば、北西の山がちなモンタナ州には、MLBを含め、プロスポーツの本拠地がない。MLBでいうと、本拠地どころか、モンタナ出身プレーヤー自体が片手で数えられるほどしかいない。(例えばロブ・ジョンソン)

州別のMLB球団所在地、モンタナ州


宇宙では、物質と物質は密集して存在しているわけではなくて、むしろモノ同士が、たがいにはるか遠く離れあい、微妙な均衡を維持しあいながら、「疎なる空間に浮かぶ点と点」として、互いを遠く凝視しあっている。アメリカという賑やかに思える大地も、実は宇宙と同じくらい孤独にできている。

ワシントン州タコマ出身のリチャード・ブローティガンは、若くして華やかな都市サンフランシスコに移り住んだが、最後はモンタナで寂しくピストル自殺している。
Damejima's HARDBALL:2012年3月6日、リチャード・ブローティガン 『A Baseball Game』の野球史的解釈。 「1958年の西海岸」という特別な年、特別な場所。


だが、そんな何もないモンタナにも、
スポーツと、家族と、道路がある。


このことに気づくと、やがて人は、この3つ、「スポーツと家族とクルマ」こそが、実は「アメリカそのもの」なのかもしれない、と、思い始める。

その意味で、何もないように思えるモンタナこそ、「アメリカがそもそも、どういう場所なのか」を教えてくれる教科書のような場所なのだ。

Class C

"Class C"は、エミー賞を獲ったドキュメンタリー作品だ。舞台は、楽しみといえばバスケットくらいしかない、そういう街。バスケットを除けば、あとは山と道路くらいしかない。
Class C Documentary Home Page
(この作品、日本のgoogleで検索してもリンクがスピーディーに出てこない。というのも、『乙女のシュート!』なんていう邦題が邪魔しているからだ。いったい誰がこういうくだらない邦題をつけるのだろう。オリジナルを作ったクリエイターに謝れと言いたくなる。何が「乙女」だ)

"Class C"は、「なにもないモンタナ」でバスケットボールをやっている、ごく普通の女の子たちを追いかけた、とても優れた作品だ。the only game in townというサブタイトルが、モンタナという土地のやるせない風土をよく表している。


女の子たちは、辺鄙なモンタナで、バスケットに夢中になっている。
というか、もっと正確に言えば、彼女たちは「若くて、いくらでも可能性に溢れている」というのに、現実には「バスケットをやるくらいしか、行き場がない」。そして将来にわたって、狭い道を歩み続けなければならない。
そんな若い女の子たちが抱え込んだ「家族間の軋轢」や「やり場のない情熱」。そして、バスケットへの情熱の裏にある「隠し通すことのできない、やりきれない寂しさ」。
そんな、人があまり言葉にしたがらないものを、"Class C"は、容赦なく、しかし暖かい視線で描きだそうとする。

その青白いトーンは、音楽にたとえるなら、心を病んでピアノが弾けなくなったジャズピアニスト、キース・ジャレットが、ようやく立ち直った後の1999年に作った、"The Melody At Night, With You" というアルバムの底に響く、暗い蒼月のような音色に近い。
"Class C" が描く色彩は、日本のスポーツマンガの「楽天的で、予定調和な不幸」とはわけが違う。「モンタナ」という場所がもつ独特の寂寥感が描かれるのはもちろんだが、その不幸さの感覚には、うっかりするとビョーク主演のあのヘビー過ぎる映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』が描いた「アメリカの田舎がもつ、独特のあやうさ」につながっていきかねない「寒さ」がある。(ちなみにこの「あやうさ」は、やっかいなことに、アメリカのあらゆる場所の空気に含まれてもいる)

The Melody at Night, With YouThe Melody At Night, With You

Keith Jarrett(1998)


スイス生まれでニューヨークに移り住んだ写真家ロバート・フランクは、まだドジャースジャイアンツがニューヨークにあった1955年から56年にかけてアメリカを東から西へ旅して、これら2球団が西海岸に移転するちょうど同じ1958年に、かの有名な 『アメリカ人』 という作品集の初版を、まずパリで出版している。
この旅でロバート・フランクは、モンタナでたくさんの「自動車に乗った人々」をフィルムに収めたことで、「アメリカという国とクルマが、いかに深い部分で繋がっているか」を映像で表現することに成功した。

Hitchhikers leaving Blackfoot, Idaho towards Butte, Montana 1956
Hitchhikers leaving Blackfoot, Idaho towards Butte, Montana, 1956

woman in car
Butte, Montana, 1955/56

パリで出版された『アメリカ人』の初版タイトルは、 "The Americans" という英語ではなく、"Les Americains" というフランス語で、また内容も純然たる写真集ではなくて、文章に写真が添えられるというようなスタイルをとっていた。それが写真集という体裁に変わったのは、翌1959年にジャック・ケルアックが序文を書いて出版されたアメリカ版からだ。
(まだ東海岸中心の娯楽だったMLBが西海岸に進出していったこと、そして東海岸出身者が西海岸に、さらに南下してメキシコにまで旅して、アメリカを再発見したこと、この2つのイベントが同時代に起きていることは、けして偶然の一致ではないわけだが、日本のスポーツサイトでも、写真のサイトでも、2つのイベントを関連づけて語られたことは、ほとんどない。このことは、また項をあらためて記事にする。また、リチャード・ブローティガンが詩作品の中にフランスの大詩人ボードレールを繰り返し登場させているように、第二次大戦中から1950年代にかけてのアメリカ文化にとって「フランス」はエキゾチックな場所として特別な位置を占めていたわけで、『アメリカ人』という作品が最初アメリカでなくフランスで出版されたことの意味は、あらためて整理しなおす必要がある。さらに、ロバート・フランクが『アメリカ人』出版する素材を得るにあたって行った撮影旅行は、アメリカを東から西に向かって大きく弧を描くように行われているが、この旅路の航跡は、ケルアックが1957年に出した『路上』で辿った旅の航跡と非常に似ている。このことにも、機会があればいつか触れてみたい)


ロバート・フランクの『アメリカ人』は、出版直後はあまり評価されなかったが、一定の時を隔てて後に「写真集として」名声が確立されている。そのことから、1958年に出された「純然たる写真集ではないフランス版」は「あまり意味の無いもの」として扱われることが多い。ロバート・フランク写真展を開催するような写真専門ギャラリーのサイトですら、フランス版に重い意味を与えてないように見える。

だが、フランス版 "Les Americains" の文章部分は、アースキン・コールドウェル、ウィリアム・フォークナー、ヘンリー・ミラー、ジョン・スタインベックといった近代アメリカ文学の錚々たる作家たちと、フランス人作家シモーヌ・ド・ボーヴォワールの手による寄稿で、単に写真がどこでどういう風に撮られたとかいう安っぽい解説文ではない。

フォークナーやスタインベックなどが作品の素材として取り上げた「アメリカ」は "poor white" のアメリカだ。華麗なるギャツビー的なゴージャスなアメリカでもなければ、風とともに去りぬ的なアメリカ建国期の勇壮な人間ドラマでもない。
彼らがタイプライターで証明してみせたのは、なにも近世ロシアの大作家がやったように壮大な歴史ドラマを大河のように長々と描かなくても、「どこにでもあるアメリカ」を描くことでもノーベル賞作家になれる、ということだ。フォークナーやスタインベックは、アメリカには、中世ヨーロッパの王朝の栄枯盛衰の重厚な歴史や欧州伝統文化のゴージャスさとはまるで無縁の、「別の何か」が「文化」として存在していること、つまり、「アメリカらしさ」を発見した。
こうした「アメリカ文学による、アメリカらしさの発見」は、明らかに世界におけるアメリカ文化の地位を押し上げることに貢献した。

こうしたことからわかるのは、「アメリカの素顔を、ありのまま、クールに観るという視点」というものは、なにも、写真誌ライフだけの専売特許でもなければ、ロバート・フランクのような写真家の「ゲージュツ的モノクロ写真」が登場して初めて発見された文化的視点でもない、ということだ。

LIFE Magazine - April 7, 1952
LIFE Magazine - April 7, 1952


にもかかわらず、今日ではいつのまにか、「アメリカらしさ」を発見したのは他の何をさしおいてもロバート・フランクの "The Americans" という写真集の功績である、と考えるのが通説であるかのように思われている。そして、当初文章が添えられてフランスで出版された『アメリカ人』の評価は、いつのまにか「おしゃれな写真集」としての評価に固まってしまい、カメラ片手にアメリカを旅して写真を撮りまくる「ロバート・フランク・フォロアー」を大量に生み出した。


そういう意味ではロバート・フランクの "The Americans" は、ある意味、とても「罪つくりな写真集」だと思う。

たしかに、ロバート・フランクのおかげで多くの人が、ライカ片手に、モンタナのような何も無いアメリカの片田舎に行ってブルージーなモノクロ写真を撮れば、「アメリカっぽさ」を簡単に映像に残せることに気がついた。
だが、そうして撮られた「アメリカ」のほとんどすべては、「ロバート・フランクの旅体験の二次的な追体験」に過ぎない、といっていい。そうした追体験行為は、けして「裸眼でアメリカを見た」ことにはならない。(もしかするとロバート・フランク自身が、必ずしも写真家とは限らない誰かの視点に学んだ結果、アメリカをああいう風に写真に撮っただけだ、という可能性もある。だが、それについては研究不足で、なんともいえない)

例えば日本の「第一次ロバート・フランク世代」ともいえる団塊世代の文化人には、アメリカを旅して、アメリカについて記述したり、写真に撮ったりした人がたくさんいたわけだが、彼らの残してきた「アメリカ」には、どこか、彼ら自身が裸眼で見たアメリカというよりも、「ロバート・フランクというサングラスをかけて見たアメリカ」を語っているような、独特の「ロバート・フランク臭」がある。
つまり、ロバート・フランクの『アメリカ人』は、残念なことに、「アメリカはこう読み、こう見ろ、というハウツー本の決定版」になってしまいやすいのである。それは例えば、世界的にヒットしたサーフィン映画を見た日本の団塊世代がサーフボードを我さきに買いに走り、海に行きたがったのに似ている。
この世代の人々は競って西海岸文化を日本に持ち込みたがったが、多くの人が「ビート」と「ビートニクス」の意味の違いすら知らなかった。
Damejima's HARDBALL:2012年3月20日、「1958年の西海岸」という特別な年、特別な場所。サンフランシスコの名コラムニスト、ハーブ・ケインによって発明された「ビートニクス」という言葉と、「ビート」との根本的な違いを正す。
「走り始めると、走る事そのものの快楽がむくむくと、頭をもたげ、車と自分が一体になる。つまり、自分はどこに行くのか、何をしようとするのかということなど、どうでもよくなり、走る事そのものが、目的になってくるのである。」

〜中上健次 『アメリカアメリカ』


だが、もう「『アメリカの見方』を教えてくれる教科書」を追体験してうっとりするのはやめて、自分の眼で見たらどうだろう。

ロバート・フランクの『アメリカ人』そのものは、確かに素晴らしい作品だ。カメラを手にすることの面白さはもとより、日常生活にひそむ多大なシャッターチャンス、日常の中にあるさりげない美を発見する楽しみ、さまざまなことを教えてくれる。
ライカを頂点にしたアナログカメラ時代から、現在のデジタル一眼レフに至るまで、あらゆる時代に高級カメラが売れ続けてきたことの遠因には、この作品の多大な影響もあるだろう。

だが、本当に自分の「裸眼」でなにか見ようと願うなら、ロバート・フランク風の写真を自分で撮ってみることで味わえる「ロバート・フランク風アメリカ体験」に酔ってばかりでは困る。
この際、これまで「ロバート・フランク追体験」が日本で生産してきたのは、せいぜいアメリカ風のコマーシャル表現くらいでしかない、と、多少乱暴でも言い切ってしまうことにする。


いい作品というのは、往々にして見た人に強い影響力をもつものだ。ピカソの絵を見た人の中には、ピカソみたいな絵を自分でも描きたいと思う人が数多く出現するのはもちろん、果ては「もしかすると自分はピカソなのではないか」とまで思い始める人まで、さまざまな強い影響が現れる。(ただし、残念ながら誰もピカソにはなれない)
モンタナで撮られたロバート・フランクのゲージュツ写真を見て、「ああ、自分もロバート・フランクみたいな写真を撮りたいっっっ!!!!」と血圧が上がって、カメラを買いにヨドバシカメラに走りたくなるのも無理はない。
だが、そんなことをするよりも、"Class C" で描かれたモンタナの荒涼とした人間関係を観て、他人の余計なフィルター抜きに「なにもないモンタナ」、「裸のアメリカ」を見ることのほうが、よほど「裸眼で、じかにアメリカの素顔を見る経験」ができる。


モンタナにバスケットと家族と道路しかないからといって、
では、どこに行けば「なにか」があるというのだ。
人は誰でも心に空白の大地を抱えこんでいる。
----damejima


damejima at 08:26

February 13, 2013

サンフランシスコ・ジャイアンツの元オーナー、ピーター・マゴワンは、第二次大戦中の1942年に東海岸ニューヨーク生まれで、育ったのもニューヨーク。ジャイアンツがドジャースとともにニューヨークを去って西海岸に移転するのは1958年だから、マゴワンの幼少期には、まだジャイアンツは「ニューヨーク・ジャイアンツ」だったことになる。
Peter Magowan - Wikipedia, the free encyclopedia


マゴワンは、MLBファンには、パシフィックベルパーク(現在のAT&Tパーク)を建てた人物として知られている。全米屈指のスーパーマーケットチェーン、Safeweyの元社長だった彼は、パシフィックベルパークを、なんと「自腹」で作った。
自費で建てた理由は、なにも「マゴワンが最初から自腹を切ると、潔い覚悟をもっていたから」ではない。単に、建設費の一部を税金でまかなう法案がサンフランシスコで否決された、ただそれだけの話だ。
建設中のパシフィックベルパーク
建設中のパシフィックベルパーク。
ライト場外が海なのが、よくわかる秀逸な写真。
Ballpark & Stadium Construction Photos, Ballparks of Baseball


1990年代以降には新古典主義と呼ばれるたくさんのボールパークが建設されたが、それらのボールパークの建設費事情と比較してみれば、マゴワンが「自費」でボールパークを建設したネゴシエーションの稚拙さはさらにハッキリする。

1991年に開場したシカゴのUSセルラー・フィールドは、タンパ移転をちらつかせたホワイトソックス側の巧妙な交渉によって、100%がPublic financing、つまり公費によって建設された。1992年に開場したボルチモアのオリオールパーク・アット・カムデンヤーズも、建設費の90数%が公費でまかなわれた。近年建設されたボールパークにしても、自費だけで建設したようなボールパークはほとんど見当たらない。
(例えば、1991年以降、2004年までに、約20のMLBのボールパークを含め、全米で78のスタジアムが建設されたが、「その建設費の61%が、公費によってまかなわれた」とする資料がある 資料:Animated Infographic: Watch As America's Stadiums Pile Up On The Backs Of Taxpayers Through The Years

MLBファンにはアメリカ史に造詣のある人もたまに見るが、ピーター・マゴワンがSafeweyの元社長であることに触れる人はいても、彼が、かつてアメリカの三大投資銀行のひとつとして名を馳せた、かのメリル・リンチの創業者、そして全米屈指のスーパーマーケットSafewayの創業者でもあるチャールズ・メリル (1885-1956)の孫であることに言及する人を見たことがない。

かのメリルリンチの創業者、チャールズ・メリルは、ピーター・マゴワンの母方の祖父にあたる。
ピーターがCEOをつとめたSafewayという会社は、そもそも祖父のチャールズが創業し、育てあげたものだ。才にたけているとも思えないピーター・マゴワンが、パシフィックベルパークを自費で建てるほどの私財を持てた理由は、まぁ簡単にいえば、彼が偉大なるチャールズ・メリルの子孫だったからだ。


Charles E. Merrillチャールズ・メリルは、まだジャイアンツがニューヨークにあった20世紀初頭の1914年に、ニューヨーク・ウォール街でCharles E. Merrill & Co.を創業した。翌年に友人エドモンド・リンチが加わり、社名をMerrill Lynch & Co., Inc.とあらためた。かの「メリルリンチ」の誕生である。メリルリンチは2007年にサブプライムショックで社業が大きく傾いてバンク・オブ・アメリカに吸収されるまで、世界的な投資銀行として名を馳せた。
映画『ドラゴンタトゥーの女』や『レ・ミゼラブル』に出演した女優ルーニー・マーラの曾祖父ティム・マーラは、ロウワー・イーストサイドの新聞売りから身を起こしてNFLニューヨーク・ジャイアンツのオーナーにまでなったが、チャールズ・メリルもティム・マーラと同じく、20世紀初頭に彗星のように現れたアメリカ立志伝中の人物たちのひとりで、非常に傑出した実業家で、大国アメリカの基礎を築いた偉人のひとりである。
Charles E. Merrill - Wikipedia, the free encyclopedia

Safeway logo

Safewayは、チャールズが1926年に2つのスーパーマーケットを統合して作った。前身となったは、1915年にアイダホで創業しアメリカ北西部に展開した"Skaggs Stores"と、1912年にロサンゼルスで創業し南カリフォルニア中心に展開していた"Sam Seelig"である。
Safeway創業当時、チャールズがつくったメリルリンチ社自身が、1914年創業からわずか10年ほどしか経っていない。そんな短い期間にメリルリンチは、2つの中堅スーパーマーケットチェーン買収統合をとりまとめられるほどの資金力を持てたわけだから、チャールズの経営手腕がいかに優れたものだったかがわかる。
統合元になった2つのスーパーマーケットチェーンにしても、それぞれの創業からわずか10数年しか経っていない。20世紀初頭のアメリカ社会が、いかに若く旺盛で、はちきれんばかりの経済成長力、巨大なビジネスチャンスに満ち溢れていたか、本当によくわかる。
そうした若い時代のアメリカにあって、企業の成長を助ける投資銀行メリルリンチを創業して成功したチャールズが慧眼でないわけがない。


チャールズは、Safewayにメリルリンチ社の豊富な資金を注ぎ込んで急速な規模拡大をはかり、最盛期の1931年には3,527店舗を展開する全米有数のスーパーマーケットチェーンに育てた(現在は全米1501店、カナダ224店)。
資料:1932年のセーフウェイ州別店舗数
File:Safeway store numbers by state in 1932.gif - Wikipedia, the free encyclopedia
彼は、ただSafewayに投資して外から眺めていただけではなくて、順調なメリルリンチ社を1930年代に人にまかせてまでして、自分自身がSafewayの経営を行っていたらしいから、よほどSafewayの成長が楽しみだったのだろう。
後にチャールズは、このみずから手塩にかけて育てた愛すべき企業SafewayのCEO職を、娘婿であるRobert A. Magowan(=ピーター・マゴワンの父)にまかせた。1978年にそのRobert Magowanが亡くなって、Safeway社長職を継いだのが、サンフランシスコ・ジャイアンツの元オーナー、ピーター・マゴワンというわけだ。



さて、どこかで「マゴワンはジャイアンツを救った救世主としてサンフランシスコのファンに愛されている」なんてのんびりしたことを書いている記事を見たが、とんでもない。そんな単純な話なわけがない(笑)

また、財政危機が続いたかつてのジャイアンツが他都市に流出するのを防いだのは、マゴワンが評判の悪かったキャンドルスティック・パークをパシフィックベルパークに建て替えたからだ、だからマゴワンはジャイアンツの恩人だとか、もっともらしいことを書いているウェブ資料もよくみかけるが、それも嘘というものだ。


寒くて、やたらと強風が吹き付けるキャンドルスティックパークの最悪の環境は、観客数減少とチーム財政悪化をもたらし、1958年にニューヨークからサンフランシスコに移転してきたジャイアンツは、他都市へ流出する危機に常にさらされ続けてきた。
ニューヨーク時代から親子3代にわたって長くジャイアンツを所有してきたのはStoneham家だが、好転しないチーム財政からとうとう1970年代にチームを売却せざるをえなくなった。
このときカナダの実業家がかなり具体的な売却先としてあがっており、ジャイアンツはあやうく「トロント・ジャイアンツ」になりかけていた。(ちなみにニューヨーク・ジャイアンツの西海岸移転が実現する前に、Stoneham家が当初考えていた移転先は、実はサンフランシスコではなく、ミネソタだった)

Bob LurieBob Lurie
カナダへの流出を阻止する形でStoneham家から1976年にジャイアンツを買い取り、その後も勝てない儲からないジャイアンツをなにかと財政が苦しい中でサンフランシスコにとどめ続け、1993年まで20数年間にわたって維持し続けたのは、マゴワンの先代オーナーにあたる地元の実業家、Bob Lurieだ。わずか10年足らずでジャイアンツを手放したニューヨーク生まれのマゴワンではない。
Bob Lurieはステロイダーを使った客寄せなどしていない。


2008年にピーター・マゴワンがジャイアンツのオーナーを辞めたとき、とあるサンフランシスコ地元紙は「かのミッチェル・リポートは、マゴワンを 『ステロイド・イネーブラ』 と呼んだ」という記述を含む記事を書き、マゴワン時代をあらためて冷たくあしらった。「マゴワンは恥ずべきステロイド時代の幕を開けた黒幕のひとり」というわけだ。
San Francisco Sentinel ≫ Blog Archives ≫ PETER MAGOWAN TO STEP DOWN AS SAN FRANCISCO GIANTS MANAGING PARTNER
Magowan had grown weary of criticism over his handling of Bonds and was stung by his unflattering portrayal as a steroid enabler in the Mitchell Report. But he also might have felt pressured by limited partners to abdicate his position.


他の資料:
Magowan: Bonds casts cloud

Baseball Savvy Off Base Archive: A Giant Pain in the Ass

Answer : It's official, Magowan is retiring

Magowan rips Mitchell report - Oakland Tribune | HighBeam Research


もちろんマゴワンが「ステロイド・イネーブラ」と呼ばれたのには、理由がある。

バリー・ボンズのステロイド使用発覚に繋がる証言をしたのは、今はドジャースのチーフトレーナーになっているStan Conteだ。(ブログ注:ミッチェルレポートが告発したドーピング薬剤の供給元であるBALCO社をつくったVictor Conteとは、まったくの別人で、血縁者でもない)

Conteは、当時ジャイアンツでは新参にあたるトレーナーだったが、チーム内で見かけたいくつかの出来事から確信をもつに至り、当時のジャイアンツGMブライアン・サビーンのもとを訪れて、「バリー・ボンズのトレーナー、グレッグ・アンダーソンが、チーム内にステロイドを流通させている」と告発した。
だが、なんとGMサビーンも、オーナーのマゴワンも、そのことを調査もせず、さらに、MLBに通報もしなかったのである。
かのミッチェル・レポートが、サンフランシスコ・ジャイアンツの首脳陣2人、マゴワンとサビーンのドーピング容認ぶりを酷評したのは、こうした経緯をふまえてのことだ。
Don't blame Sabean for not blowing the whistle - SFGate

2000年以降にStan Conteが、同僚トレーナーやGMサビーンとどういうやりとりをし、ステロイド疑惑を確信に変えていったかという詳しい経緯は、たとえば以下の記事に詳しく書かれている。(どういうものか、英語版WikiにはStan Conteの項目がない)
11-28-07 ? Why Stan Conte Left the Giants | LADodgerTalk.com - Matt Kemp, Clayton Kershaw, Vin Scully, Andre Ethier and the Dodgers

後にStan Conteはサンフランシスコ・ジャイアンツを去り、やがてその優れた手腕をロサンゼルス・ドジャースにかわれて、ドジャースの医療部門シニアディレクター兼チーフトレーナーになっている。
Dodgers hire Stan Conte



ピーター・マゴワンは、バリー・ボンズへの甘い対応ぶりで「ステロイド・イネーブラ」などという汚名を残したわけだが、それだけでなく、2006年にスコット・ボラスの仲介で、7年126Mという、ありえない高額でバリー・ジトを獲得して大失敗に終わったことにみられるように、球団経営手腕の無さにおいてもジャイアンツ球団史に悪名を残している。
ジトはサンフランシスコ移籍以降、防御率が3点台だったことは一度も無く、58勝69敗。ERA4.47、WHIP1.404という惨憺たる成績に終わっている。

マゴワンがジトに手を出したのは、ミッチェルレポートが発表される2007年の前年、2006年オフだが、このときマゴワンはジト獲得について「1992年のバリー・ボンズ獲得に匹敵する大きな出来事」と自画自賛している。
つまりマゴワンは、まだミッチェルレポートが発表されていない2006年段階に、裏では内部告発によってバリー・ボンズがステロイダーであることを既に知っていたにもかかわらず、ボンズ獲得を自分の勲章と公言し、ジト獲得を得意満面で自画自賛していたのだから、「ステロイド・イネーブラ」と呼ばれてもしかたがない。


ちなみにSafewayはいまも全米屈指のスーパーチェーンだが、「80年代に入ると世間のライフスタイルの変化に対応できず、客離れによる売上減が深刻化して、敵対的M&Aを仕掛けられるなど、危機的状態にあった」といわれている。この危機の脱出のためにSafewayは、北米以外に展開していた店舗を売り払わなければならなかった。
この一時期な危機的経営状態にあった80年代のSafewayのCEOは、ほかならぬ、ピーター・マゴワンだ。
Safewayは、現時点でも、ライバル企業、ウォルマートとの2000年以降続いている競合で収益が悪化して、不採算店の整理に追われる状況が続いているともいわれており、最近もチャールズ・メリル時代からずっと維持してきたカナダの200数十の店舗をカナダ企業に売却するという噂もある。
「メトロ」セーフウェイ・カナダを買収?、「マクドナルド」第4四半期の既存店売上+0.1% - 若林哲史のアメリカ流通最新情報

カナダのSafeway店舗は、チャールズ・メリルが手塩にかけてSafewayを育てていた20世紀初頭から既にあっただけに、もし売り払うようなことになれば、たとえ現在の経営状態を良化させ株主を喜ばせるプラス要因ではあるにしても、草葉の陰のチャールズは、けして喜ばないだろう。
稀代の投資家チャールズなら、ピーター・マゴワンがサンフランシスコ・ジャイアンツのスタジアムを自腹で建てたにもかかわらず、オーナーから退くようなことになった顛末についても、「なんで自腹を切るようなマネをした? 投資するなら、少しは知恵を使え。それに、せっかく身銭を切ってまでして作ったスタジアムなら、たった10年でオーナーシップから手を引くような馬鹿なこと、するんじゃない!」と、まなじり釣り上げて怒ったに違いない、と思う。

damejima at 02:14
1958年に西海岸に移転したサンフランシスコ・ジャイアンツは、当初は臨時の本拠地としてサンフランシスコ・シールズのホームグラウンドだったシールズ・スタジアムを使っていたが、1960年に新しいキャンドルスティック・パークに移った。
キャンドルスティック・パークは、ジャイアンツ移転を熱烈に招致したサンフランシスコ市側が用意したボールパークで、日本では大映の永田雅一オーナーが夢を描いて東京南千住に私財を投じて建設した東京スタジアムのモデルになったことでも知られている。
Damejima's HARDBALL:2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (2)ロサンゼルス・メモリアル・コロシアム、シールズ・スタジアムの一時使用と、チェニー・スタジアムの建設

Damejima's HARDBALL:2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (3)キャンドルスティック・パーク、ドジャー・スタジアム、シェイ・スタジアムの開場

Damejima's HARDBALL:2012年3月23日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (4)夢の東京スタジアムの誕生

Damejima's HARDBALL:2012年3月30日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」 (5)番外編 元祖「安打製造機」 榎本喜八にとっての『故郷』、東京スタジアム。


キャンドルスティック・パークは、1960年から1999年までの約40年間もの長きにわたってサンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地だったわけだが、寒さや強風などで評判は良くなかった。ジャイアンツは2000年にようやくセーフウェイ社長ピーター・マゴワンが自費で建設したパシフィックベル・パーク(現在のAT&Tパーク)に移ることができた。

その後、キャンドルスティックはNFLサンフランシスコ49ersのホームスタジアムとして使われた。そのサンフランシスコ49ersも、2014年8月にはサンフランシスコから南へ70キロほど行ったシリコンバレーに近いサンタクララに開場する予定の新スタジアムに移ることになっている。
49ersがサンタクララに移転した後は、キャンドルスティック・パークは取り壊しになる。ドジャースとジャイアンツが切り開いたMLBの西海岸進出を支えてきたキャンドルスティック・パークの長い役目は、もうすぐ終わりを迎えるのである。 今年のスーパーボールにサンフランシスコ49ersが進出したのも、何かの縁というものだろう。


キャンドルスティック・パークの座席表

キャンドルスティックパーク 野球とフットボールでの観客配置の違い

当然ながら、グラウンドが円形に出来ている野球や陸上競技では、観客席は「グラウンドを丸く取り囲むような形」で作られている。
対して、グラウンド自体が四角いアメリカン・フットボールやバスケットでは、観客席も「四角形」になっている。

キャンドルスティック・パークは、もともと野球専用として建設されたボールパークがフットボールに流用されていただけに、フットボールのグラウンドとして使われる場合でも、座席配置は野球場時代の痕跡がありありと残った独特の並びになっていた。


角度Aから見た
フットボール開催時のキャンドルスティック・パーク
キャンドルスティック・パーク 写真A

写真左側に見える弓なりに曲がった部分は、野球でいう「バックネット」にあたる円形部分だ。フットボール場として設計されたスタジアムなら、選手がプレーする四角いフィールドに沿って、直線で設計されているところだが、元・野球場のキャンドルスティック・パークでは「円形」なのだ。
右側に目を向けると「張り出した感じの観客席」が見える。ここは野球場だった時代には「ライト側の外野」にあたる。フットボール場として使うにあたって、「ライト側の外野」を覆い隠すような形で新設されたシートなわけだ。
それにしても、この「新設の張り出しスタンド」は、フットボールのグラウンドと平行にできていないのが、なんとも不思議だ。まぁ、たぶん構造か強度か、なにか建築上の理由でもあって、やむをえない配置になっているのだろうが、それにしてもなんとも収まりの悪い座席配置ではある。

角度Bから見た
フットボール開催時のキャンドルスティック・パーク
キャンドルスティック・パーク 写真B

写真右端に、ほんのわずかだが、アンツーカー部分が見える。これはもちろん、キャンドルスティックが野球場だった時代、バックネット手前にあったウォーニングゾーンの名残りだろう。
右側の観客席は、野球場だった時代の内野席をそのまま使っているために、スタンド全体が大きく弧を描いた丸い形になっている。


ちなみに、サンフランシスコ49ersのサンタクララの新スタジアムの完成予想図を挙げておこう。みてのとおり、四角いフットボールのフィールドを取り囲むように、「四角い観客席」がつくられた、非常に常識的なスタジアムになっている。

サンフランシスコ49ersの新スタジアム完成予想図
サンフランシスコ49ersの新スタジアム完成予想図2


damejima at 02:10

May 01, 2012

MLBファンにとって「大魔神」といえば、もちろん、2000年ア・リーグ新人王を獲得したシアトルのクローザー佐々木主浩さんだが、彼のニックネームの元になった1966年の大映映画『大魔神』シリーズで、大魔神の着ぐるみを着て演じたスーツアクター(この言葉は和製英語で、ハリウッドにおいてはスタントマンの仕事の一部)が、実は、1953年に毎日オリオンズに入団し外野手として活躍した橋本力(はしもと ちから)さんであることは、有名な話。


橋本力さんの映画界入りは、1959年に怪我で二軍落ちしていた際に、大毎オリオンズの親会社、大映が製作した野球映画 『一刀斎は背番号6』に誘われて、アドバイザー兼選手役で出演したのがきっかけ。
撮影中、橋本さんは外野でのダイビングキャッチを演じた際、鎖骨を骨折してしまい、その怪我がもとで同年オフに引退した。
だが、大映関係者が映画撮影中の事故がもと野球引退に追い込まれた橋本さんを不憫に思って俳優の道に誘い、それが後に1966年の大ヒット作『大魔神』シリーズのスーツアクターへの抜擢につながった。

ちなみに、『一刀斎は背番号6』には、稲尾和久中西太豊田泰光といった当時の西鉄の中心プレーヤーや、別府星野組・オリオンズで西本幸雄さんとともにプレーし、1953年日米野球で完投勝利も収めている「和製火の玉投手」荒巻淳に並んで、あの榎本喜八が出演して台詞をしゃべっているというのだから、この映画は野球史的希少価値がある。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年3月30日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」 (5)番外編 元祖「安打製造機」 榎本喜八にとっての『故郷』、東京スタジアム。

大映映画のクレジット

大魔神ポスター芋の粉やコルク屑、炭粉を使った粉塵が飛び交う撮影中、橋本力さんの大魔神起用を発案した特撮監督黒田義之氏から「目をカッと見開いているように」言われた橋本さんは、必死に目を開け続けたために目が充血してしまい、それがかえって非常に大魔神のリアリティある演技につながったらしい。
この大魔神における黒田義之氏独特の演出を見た円谷プロ社長円谷一は、黒田氏を円谷プロ作品に起用、『ミラーマン』などの作品が生み出された。


Youtubeにアップされていた『DAIMAJIN』。1時間24分あるところをみると、フルバージョンではないかと思われる。


その後橋本力さんは、1971年に大映が倒産すると、大映で座頭市シリーズをヒットさせていた勝新太郎の「勝プロダクション」に移籍するのだが、なんと、翌1972年に香港映画『ドラゴン怒りの鉄拳』(原題 "Fist of Fury" )で、あのブルース・リーとの共演を果たすことになる。

ブルース・リーに蹴り出されるスタントマン時代のジャッキー・チェン
ちなみに、この映画のラストシーンで橋本力さん演じる日本人が、ブルース・リーの飛び蹴りを受けて障子を突き破って庭までぶっ飛ばされるシーンを演じたのは、スタントマン時代のジャッキー・チェン

ドラゴン怒りの鉄拳に出演した橋本力さん



『ドラゴン怒りの鉄拳』ラストシーン。11分過ぎに、ジャッキー・チェンがブルース・リーの飛び蹴りを受けて庭に吹っ飛ばされるスタントシーンがある。



ブルース・リー、というと、香港のカンフー映画のイメージが強すぎるため、どうしても生粋の香港人と思われがち*1(そしてブルース・リーに関する数多くの議論が、彼の『出演映画における役どころ』と『ブルース・リー自身』を混同してもいる)だが、実際には、彼は1940年サンフランシスコ生まれで、アメリカで出生しているためにアメリカの永住権も持ち、シアトルのワシントン大学卒業生でもある。(妻リンダ・エメリーもワシントン大学医学部の学生)
彼はたしかに18歳まで香港に住んではいたが、1959年サンフランシスコに戻って数ヶ月暮らした後、シアトルに移り住んだ。(当時はシアトルにMLBの球団はない)後に1973年に亡くなったときも、葬儀こそ、香港とシアトルの両方で行われたが、彼の遺体が埋葬されたのはシアトル郊外の墓地 Lake View Cemeteryである。
*1 関係ないといえばないが、『スター・トレック』シリーズに出演していたHikaru Sulu(=日本語吹き替え版でいう『カトー』。これは日本の制作会社がつけた名前なので、アメリカでこの名前を出しても話は通じない)を演じた俳優は、中国人であると、勘違いしている人が、特に一定の年齢層の人に多い。
たしかに、かつてのアメリカ映画で、日本人役を実際には中国人などが演じるパターンは多数見られたわけだが、スター・トレックの『カトー』を演じたのは、広島県生まれの祖父母と山梨県生まれの父親をもつ、れっきとした日系二世のジョージ・タケイ氏。同じような例として、1964年の『007ゴールドフィンガー』で帽子を投げる悪役を演じたホノルル生まれの日系二世ハロルド・サカタ氏も、中国系と勘違いされやすい

赤いマーカー:Lake View Cemetery
青いマーカー:Seattle Central Community College
緑のマーカー:Safeco Field



シアトルに移り住んだブルース・リーは、まずキャピトル・ヒルにあるEdison Technical School(=現在のSeattle Central Community College*2)で学んだ後、ワシントン大学(The University of Washington, UW)に進学して演劇を専攻している。
*2 日本のWikiでは、シアトルでブルース・リーが最初に入学した学校の名称を、Seattle Central Community Collegeとしているが、それはこの学校が1966年に改組されて以降の名称であり、ブルース・リー入学当時の学校名は、Edison Technical School とするのが正しい

ワシントン大学のエンブレムワシントン大学の
エンブレム

ワシントン大学におけるブルース・リーの専攻科目はどういうわけか、日本のWikiをはじめとする多数のサイトに、「哲学科」とする誤った記述がみられるが、これは間違いだ。(原因はたぶん生前のブルース・リー自身の発言等だろう)

ワシントン大学卒業生の動向をまとめているThe University of Washington Alumni Magazine (Alumniは「卒業生」という意味)が、ブルース・リーを"100 Alumni of the Century"(=20世紀の卒業生100人)に選定したときのコメントに、ハッキリ「drama major、演劇専攻」と明記されている。
また、アメリカの他の大半のソースでも「ブルース・リーは演劇専攻で、哲学あるいは心理学のクラスも受けていた」というような表記をされているし、また、「ブルース・リーは哲学専攻」という古くからある間違った主張を否定するソースも簡単に見つけることができる。
Attended the UW from 1961 to 1964 as a drama major

出典:100 Alumni of the Century, J-O



非常に興味深いのは、このブログで何度も書いてきた1958年にブルックリン・ドジャースとニューヨーク・ジャイアンツが西海岸に移転してきた直後のサンフランシスコに、ほんの数ヶ月の期間とはいえ、若き日のブルース・リーと、まだ世間に知られる前のリチャード・ブローティガンが、まったく同時期に住んでいたことだ。

この偶然はちょっと凄い。

1959年のブローティガンといえば、サンフランシスコに出てきて、以前とりあげた "A Baseball Game" を含む "The Galilee Hitch-Hiker" という作品を出した1958年の翌年であり、新たに "Lay the Marble Tea" という作品をリリースしている。

ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年3月6日、リチャード・ブローティガン 『A Baseball Game』の野球史的解釈。 「1958年の西海岸」という特別な年、特別な場所。

ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:「1958年の西海岸」 特別な年、特罰な場所。


A.J.バーネットはどうやら熱心なブルース・リーファンらしいが(笑)、こうなってくると、どうしても気になるのは、ブルース・リーが、サンフランシスコ在住時代、あるいは、ワシントン大学在学時代に、野球に興味があったかどうか、または、ボールパークに足を運んだことがあったかどうか、あるいは、ブルース・リーが当時のサンフランシスコのビート文化を知っていたかどうかだが、それはまた、おいおい調べてみることにする。

西海岸に拡大したMLB、あるいはサンフランシスコのビート文化(またはもっと後のヒッピー文化)と、ブルース・リーの間に、どういう繋がりがみつかるか、これからのお楽しみだ。


だが、まぁ、そんな小難しい話より、単純に興奮するのは、
ニューヨークから西海岸にドジャースとジャイアンツがやってきた1958年の翌年、1959年のサンフランシスコのとある街角で、ワシントン州タコマから都会のサンフランシスコに出てきたばかりの若き日のリチャード・ブローティガンと、一時住んでいた香港から帰国したばかりで、やがてシアトルに引っ越すことになる10代のブルース・リーが、サンフランシスコのどこかですれ違っていたかもしれないということである。
少なくとも、そう夢想してみるだけでも、なにかこう、意味もなくワクワクしてくる(笑)


サンフランシスコにニューヨークからジャイアンツが移転してきて作ったボールパーク、キャンドルスティック・パークに憧れて、自分の夢のスタジアムを作ってしまった映画会社社長がオーナーをつとめるプロの野球チームに所属する選手が、映画出演の怪我がもとで野球を引退し、やがてサンフランシスコ生まれのカンフースターの主演映画に出演したこと。
サンフランシスコ生まれでシアトルに埋葬されたカンフースターと、シアトル郊外に生まれ、サンフランシスコのビート文化と関わりのあった詩人が、同じ年に同じサンフランシスコに暮らしていたこと。

こんな映画を越える予想外の展開は
「運命の糸に引き寄せられたドラマ」と言うほかない。

ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (3)キャンドルスティック・パーク、ドジャー・スタジアム、シェイ・スタジアムの開場

ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年3月23日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (4)夢の東京スタジアムの誕生

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ブルース・リー


damejima at 01:27

March 31, 2012

東京スタジアムを本拠地にした大毎オリオンズの元祖「安打製造機」、榎本喜八翁(以下敬称略)が亡くなられた。東京中野区生まれ、75歳。一塁手で、背番号は3。通算安打数2314、通算打率.298。

榎本喜八のバッティングフォーム



榎本喜八は早稲田実業出身で、同じ早実出身の王貞治の4つ先輩にあたる。また2人共通のバッティングの師匠が、やはり早実出身、1953年オリオンズ入団の荒川博だ。だから榎本にとっての荒川は、高校とプロの両方の指導者、ということになる。
また西本幸雄が監督としてリーグ優勝に導いた1958年のオリオンズで、「大毎版ミサイル打線」の控え捕手だった醍醐猛夫も、やはり早実出身。(ちなみに選手として、毎日・大毎・東京・ロッテ、「4つのオリオンズ」全てに在籍したのは、榎本と醍醐の2名のみらしい。ちなみに、荒川博(台東区)、榎本喜八(中野区)、醍醐猛夫(北区)、王貞治(墨田区)と、4人とも東京生まれ。大毎ミサイル打線の柳田利夫、田宮謙次郎、山内和弘、葛城隆雄など他の野手は東京出身者ではない)
入団して数年間のオリオンズは、榎本にとって、さぞかし居心地のいい空気があったに違いない。


榎本喜八が1955年に高卒でオリオンズに入団しプロになれたのは、高校とオリオンズの2年先輩である荒川が、プロ入りを熱望して直訴してくる後輩・榎本の入団テストを行うよう取りはからってくれたから、らしい。(日本のプロ野球でドラフト制度ができるのは、榎本のオリオンズ入団から10年後の1965年)
荒川の追悼コメントによれば、現役時代の榎本喜八は「王の10倍、馬鹿真面目だった」という。荒川氏は過去に「(努力家で知られる)王の倍は(バットを)振ったね。」と榎本の熱心な練習ぶりを述懐している。
ちなみに、榎本の打撃理論についての禅問答的コメントはよく語られるところだが、その常人には到達できそうもない難解さのある部分は、榎本自身のせいだけではなく、むしろ師匠・荒川博が弟子を教える言葉のなんともいえない哲学的難解さに負う部分が少なからずあると思う。
資料:『プロ野球「無頼派」選手読本』松井浩)
資料:榎本喜八さん死去:31歳で2000安打達成 「ミサイル打線」一世風靡 - 毎日jp(毎日新聞)


プロになった榎本喜八は3番、あるいは1番バッターとして活躍を続け、1968年には31歳7カ月(正確には31歳229日)の若さで2000本安打を達成し、元祖『安打製造機』を襲名することになった。
これは、1956年川上哲治、1967年山内和弘(山内氏の『和弘』は旧名)に次ぐ日本プロ野球史上3人目の2000本達成で、2004年5月21日に(日米通算ではあるが)30歳7か月で達成しているイチローを除くと、日本国内だけなら最速記録。
Game Wrapup | MLB.com: News
活躍年度の離れた選手同士を比べることにはたいして意味はないだろうが、日米野球でのスタッツを比較するかぎり、イチローが日本にいる当時から既にアメリカのピッチャーを打ちこなしていたのは事実だと思う。
日米野球通算成績
(ソース:某巨大掲示板)
榎本喜八 59試合 114打数 20安打 2本塁打 8打点 15三振 21四死球 打率.175
イチロー  11試合 37打数 16安打 0本塁打 8打点 6三振 5四死球 8盗塁 打率.432


榎本喜八というと、どうしてもその奇行ぶりが書かれることになる。
だが、監督として大毎オリオンズを優勝に導き、優勝経験の無い阪急・近鉄を優勝させた、あまりにも輝かしい西本幸雄の監督歴を「悲劇の闘将」などと呼んで卑下する必要など全くない、と以前書いたのと同じように、榎本喜八の奇行ぶりをあえてまた晒す必要などない。そういうのはどこかで別の人がやるだろう。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年11月25日、「名山」、西本幸雄。指導者を育てた指導者。

1960年に大毎オリオンズ監督・西本幸雄がオーナー永田雅一と衝突して退団した翌年、荒川博が放出される形で退団、そのまま引退している。(荒川はその後巨人に拾われ、大打者・王貞治を育て上げることになる)
だから、この2人が、サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地キャンドルスティック・パークをモデルに1962年に開場した東京スタジアムで、オリオンズの一員としてプレーすることはなかった。
その後、1963年限りで田宮が引退。そのオフには主砲・山内が阪神のエース小山正明と大型トレード、葛城も中日ドラゴンズに移籍し、オリオンズはチームカラーを変え、守備重視に傾いた
あくまで想像でしかないが、いくらメジャーのスタジアムをモデルにして最新鋭の設備を揃えたとはいえ、非常に狭かった東京スタジアムは、ホームランの出やすいヒッターズパークだったため、オリオンズは対策として、強力打線を維持して得点力で相手を圧倒するそれまでの野球を継続するか、それとも、主力打者を放出してでも投手力を整備し守備的チームに衣替えするか、方針の選択に迷った、という裏事情があったのかもしれない。

結局、大毎オリオンズはどうしたかというと、1963年オフに主砲・山内和弘と引き換えに、阪神のエース小山正明を獲得していることからわかるように(小山はパームボールを駆使することで球場の狭さに対応した)、「チームを守備的に作り変える」という決断を下すことになるわけだが、東京スタジアム開場以降のチーム順位を見るかぎり、このチームカラー変更が結果としてうまくいったとは思えない。

東京スタジアムのゴンドラシート
東京スタジアムのゴンドラシート 資料:『あの頃こんな球場があった』 佐野正幸著 草思社 2006年)

1962年(昭和37年)、東京の下町に忽然と開場した東京スタジアムが、1977年(昭和52年)に取り壊された時、榎本喜八は解体作業の一部始終を眺めるため、スタジアムから約20キロ離れた中野区の自宅から、スタジアムのある南千住まで、1日おきに走って来ていたらしい。また、東京スタジアムが荒川区のスポーツ施設に完全に生まれ変わってしまった後も、周囲をランニングしに来ていたという。
【5月16日】1977年(昭52) 解体工事中の東京スタジアムへ 榎本喜八、深夜の42キロ走(野球) ― スポニチ Sponichi Annex 野球 日めくりプロ野球10年5月

東京球場(東京スタジアム)フォーエバー1962〜1977 名誉な孤独死


榎本喜八はなぜ、東京スタジアムに郷愁を覚えたのだろう。
彼にとって、「東京スタジアム」は何だったのか。

故郷を持たず、上野に故郷の訛りを聞きに行くわけにもいかない東京生まれで、ちょっと神経の細いところがあった榎本にとって、プロになった直後に、同じ東京生まれで早稲田実業出身の先輩後輩たちに囲まれて野球ができたオリオンズの環境こそが、彼の心の支えになったはずだ。
だが、1962年の東京スタジアム開場をきっかけに前後してチームカラーの大幅な変更が行われたことで、人見知りの激しい東京人である榎本喜八と親しい人々がオリオンズから去っていく中で、やがて下町の東京スタジアムだけが、榎本喜八の心の寂しさを紛らす唯一の『バーチャルな故郷』になったのではないか。

オリオンズ入団年度
1953年 荒川博  早稲田実業
1955年 榎本喜八 早稲田実業
1957年 醍醐猛夫 早稲田実業

オリオンズ退団年度
(1959年 王貞治 巨人入団)
1960年 西本幸雄  解任
1961年 荒川博   放出→引退→巨人コーチ(1962)
1962年 東京スタジアム開場
1963年 田宮謙次郎 引退
1963年 山内和弘  トレード
1963年 葛城隆雄  移籍
(1964年 東京オリンピック開催)

東京出身者にしてみると、高度経済成長を迎えた1960年代中期前後の東京の風景の劇的な変化については、地方出身者にはわかりにくい特別な感覚がある。
たとえば、1964年の東京オリンピックに対応するために、首都高速ができるわけだが、両国の9代続いた和菓子屋の長男として生まれた東京出身作家の小林信彦氏などは、高度経済成長以降の東京の変化について「関東大震災、東京大空襲に続く『町殺し』」と嫌悪し、また、浅草や柴又を「下町」と呼んでありがたがる「下町ブーム」の安易さにも嫌悪感を表した。東京人の人見知り感覚からくる独特の内向きのメンタリティは、どこかミュージシャン高橋幸宏氏にも通ずるものがある。
(ちなみに、小林信彦が宝石社に入社し社会人になるのは、ドジャースとジャイアンツが西海岸に移転したのと同じ『1958年』)


彼と同じく寂しがりで人見知りな性格の人間として、
変わりゆく東京の街の中で埋もれて過ごした彼の晩年の失われた暮らしに手を合わせ、激しすぎる一生を終えた先人に、安らかにお眠りくださいと申し上げたいと思う。

damejima at 15:36

March 24, 2012

1960年、サンフランシスコ・ジャイアンツ来日と
西本幸雄率いる大毎オリオンズ優勝


1958年(昭和33年)に東のニューヨークからアメリカ西海岸に移転したサンフランシスコ・ジャイアンツは、1960年に新しい本拠地キャンドルスティック・パークを華々しく開場させ、観客動員を激増させることに成功した。
同じ60年の10月、ジャイアンツは日米野球に、ウィリー・メイズウィリー・マッコビーオーランド・セペダなど、後のホール・オブ・フェイマーだらけのベストメンバーで三度目の来日を果たしている。このときジャイアンツの西海岸招致に力を尽くしたサンフランシスコ市も、市長みずからが200名もの応援団を率いて日本にやってきた。
ジャイアンツは初戦の巨人戦と第2戦の全日本選抜戦(いずれも後楽園)を落としたものの、その後、北は札幌から、南は下関、平和台まで足を延ばし、11勝4敗1分という結果を残して遠征を終えた。


現役時代の西本幸雄が、紆余曲折の末に1950年に毎日オリオンズに入団し、プロになった複雑な経緯を記した資料の数々に目を通すと、MLBがアメリカ東海岸から西に拡大しつつあった当時、いくら日本のプロ野球がMLBの後を追うように球団数を増やし、2リーグ制も始まって急速な拡大をみせつつあったとはいえ、まだまだ不安定だったことがよくわかる。
戦後すぐの時代、日本のプロ野球はまだ経営基盤が弱く、プロ野球選手の身分も実力も安定したものとは言い難かった。例えば1949年に来日したサンフランシスコ・シールズと対戦した日本側投手のひとりは、前年の都市対抗の優勝チーム西日本鉄道からプロの南海に入団したばかりの武末悉昌投手であったように、まだノンプロとプロ野球の選手たちの実力は玉石混合で、プロがアマチュアに決定的な実力差をみせつけられるほど、プロ野球そのものが育っていなかった。
それだけに1950年代の日本の野球は、あくまで西本幸雄や永田雅一などのような「野球に夢をはせた個人の、見果てぬ夢」に支えられて成り立っていた。(だから後世の人が、この時代の野球関係者のある種の我儘さ、アクの強さを時代背景を無視して批判するのはお門違いだと、ブログ主は考える。戦後すぐの不安定な時代に「野球だけで生き抜いていく」なんてことは、個人の強烈な自己主張に頼らなければできなかった、そういう時代だったのである)

また、プロ野球がまだまだ未成熟な時代だったからこそ、「日米野球」の存在はさまざまな意味で役立った。日米野球は、日本国内の野球ファンに「MLBの高い天井」をみせつけ、野球という未知数なスポーツが「将来は、こうなるんだぞ」と将来像をファンの脳裏に強烈に焼き付け、日本野球を安定させるための第一歩となったのである。


サンフランシスコ・ジャイアンツ来日の1960年に、日本のプロ野球で2度目のリーグ優勝を果たしたのが、この年に監督就任したばかりの西本幸雄率いる大毎オリオンズだ。
大毎オリオンズは、ドジャースとジャイアンツがアメリカ西海岸に移転した、ちょうど同じ1958年(昭和33年)に、大映ユニオンズと毎日オリオンズが合併して出来たばかりの球団で、西本監督のもと、榎本喜八、山内和弘、田宮謙次郎などの強打者をズラリ並べた「ミサイル打線」でリーグ制覇を飾った。
だが、日本シリーズは宿敵三原脩の大洋ホエールズに4連敗。リーグ優勝したにもかかわらず、オーナー永田雅一との衝突によって西本幸雄監督がわずか1年で解任された事件は、日本野球史に残る有名な出来事のひとつになった。(そんなわけで、58年のみ指揮してクビになってしまった西本幸雄は、62年にできた東京スタジアムに大毎オリオンズ監督として登場することはなかった)
後に西本幸雄は、阪急、さらに近鉄と、「優勝経験の無いチーム」を2つも優勝させて日本の野球史を大きく塗り替え、野茂イチローダルビッシュを生んだパ・リーグを育てて、鮭が故郷の川に帰るように、日本野球が野球の故郷であるアメリカMLBへ遡上していく土壌をつくることになる。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年11月25日、「名山」、西本幸雄。指導者を育てた指導者。


キャンドルスティック・パークを模範にした
東京スタジアムの開場

Tokyo Stadium
1962年(昭和37年)5月31日開場〜1972年(昭和47年)
1977年(昭和52年)取り壊し
東京スタジアム(外観)

東京スタジアム

ニューヨーク時代のジャイアンツの本拠地ポロ・グラウンズが、ヤンキースなどとの共用球場だったように、かつて日本のプロ野球も本拠地を共用しあっていた時代がある。
例えば後楽園球場は、読売ジャイアンツ、国鉄スワローズ、毎日大映オリオンズ(=後の大毎オリオンズ)の3球団が本拠地としていたため、試合日程の過密さが問題になっていた。(ちなみに後述の東京スタジアムも、大毎がスワローズに貸し出していた)

そのため、1958年に西本監督を解任した大毎オーナー、大映社長永田雅一は、自前の本拠地の建設を決意し、サンフランシスコのキャンドルスティック・パークをモデルに多額の私財を投じて、新球場を作った。

それが、かつて東京の荒川区南千住にあった、日本の幻の名ボールパーク、東京スタジアムだ。

「光の球場」東京スタジアムの照明

東京スタジアムのゴンドラシート
東京スタジアムのゴンドラシート
資料:『あの頃こんな球場があった』28p 佐野正幸著 草思社 2006年)


総工費30億円をかけ1960年に開場した、東京スタジアムは35,000人収容で、立ち見を入れると42,000人収容できたらしい。別名「光の球場」と呼ばれ、当時としては画期的すぎるほどの先進設備を誇っていた。
天然芝の内外野。プラスチック製の独立シート、電光掲示、ゴンドラ席、内野席下のブルペン、バリアフリー。ボーリング場、スケートリンクの併設。東京スタジアムの設備の先進性をほめたたえるウェブサイトは非常に多いが、大袈裟でなく、東京スタジアムは球場設備の話題だけでブログがひとつできてしまう。

1962年5月31日の東京スタジアムの開場セレモニーで行われた始球式Ceremonial first pitch)は、マウンドから投げる日本式ではなく、一塁側ダッグアウトからのアメリカ式だったらしく、キャンドルスティック・パークをモデルにこの球場を作ったオーナー永田雅一のMLBに対する強い憧れがよくわかる。
(MLBで始球式といえば、かつては有名人が客席最前列からボールをグラウンドにいるピッチャーまたはキャッチャーにトスするのが通例だった。だが、いつのころからかアメリカでも、日本のようにマウンドからキャッチャーに向かって投げるスタイルに変わってきている。ただしMLBでは、日本のようにバッターが打席に立ったりはしない)

アメリカ式の始球式
MLB方式の「始球式」


東京スタジアムの開場セレモニーで永田オーナーが観客に「皆さん、パ・リーグを愛してください!」と絶叫したことは非常に有名。西本幸雄と袂を分かった永田も、時をおいて眺めれば、結局は西本幸雄と全く同じ「野球を愛し、パ・リーグを盛り上げた功労者」のひとりなのだ。
セレモニー後、午後7時から東京スタジアムのこけら落とし「大毎オリオンズ対南海ホークス」7回戦が行われ、南海野村克也が東京スタジアム第1号ホームランをスタンドに放りこんだ。東京スタジアムは、全体的に狭く、なおかつ左中間・右中間の膨らみがほとんどないヤンキー・スタジアムに似た形状のヒッターズ・パークだったため、ホームランが非常に出やすく、そのため小山正明魔球パームボールを駆使することで1964年30勝を挙げた。
ちなみに、現在でこそ『東京音頭』は、神宮球場を本拠地にしている東京ヤクルト・スワローズの応援歌だと思われているが、1960年代(昭和40年代)には、東京スタジアムで歌われる大毎オリオンズ応援歌だった。


県営宮城球場の一時使用と
東京スタジアムの閉場・取り壊し

Tokyo Stadium
〜1977年(昭和52年)
1960年代半ば、日本映画は急激な不振に見舞われ、大毎オリオンズの親会社、大映は、お抱えの大スターの急逝や新人スター不在などから窮地に追い込まれ、1971年12月に破産。
オリオンズの球団所有権と、東京スタジアムの球場経営権は、それぞれ別々の所有者の手から手へ移り変わっていき、やがてオリオンズは本拠地球場を持たないジプシー球団として各地を転々することになる。
オリオンズはその後1973年から宮城県を準フランチャイズとして割り当てられ、県営宮城球場をとりあえずの本拠地として延命したが、一方の東京スタジアムは赤字が続き、1973年6月1日に解散することになった。オリオンズの東京スタジアム復帰もささやかれたが、結局実現せず、東京スタジアムは1977年3月に東京都に売り渡され、同年解体。かつてシールズ・スタジアムの跡地がショッピングセンターになったように、東京スタジアムの跡地は荒川区の区民施設になった。
(ジプシー球団オリオンズはその後、1978年に川崎球場を本拠地にしていた大洋ホエールズが新球場・横浜スタジアムに移転した際、川崎球場に本拠地を見出して移転した)


県営宮城球場の改修による
クリネックススタジアム宮城に至る道のり

Kleenex Stadium Miyagi
1950年(昭和25年)5月5日〜

県営宮城球場は、1950年5月27日竣工だが、それを前に、こけら落としとして同年5月5日、パ・リーグ公式戦、毎日オリオンズ対南海ホークス、毎日オリオンズ対大映スターズの変則ダブルヘッダーが組まれた。
その後、関係者の努力により改修に対する長年の要望がかない、現在の「クリネックススタジアム宮城」(2008年2月〜)に至っている。
ちなみクリネックススタジアム宮城のデザインは、左右対称、扇型の外野フェンス、人工芝、ファウルグラウンドの作り、いろいろな点で、1960年代中盤から80年代にかけて作られたクッキー・カッター・スタジアムっぽさが残った昔のMLBスタイルだ。かつて評判の悪かったフィラデルフィアのヴェテランズ・スタジアムや、ピッツバーグのスリー・リバース・スタジアムのレイアウトに似ている気がする。
人工芝であるという点で、このボールパークが、天然芝だった東京スタジアムの伝統を引き継いでいないのは、正直、残念な限り。日本の球場での人工芝の時代は、いったいいつまで続くのだろうか。収容能力や耐震性能の問題からも、遠からず新球場が必要になるだろう。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年8月21日、ボルチモアのカムデンヤーズは、セーフコのお手本になった「新古典主義建築のボールパーク」。80年代のクッキーカッター・スタジアムさながらの問題を抱える「日本のスタジアム」。

日本製紙クリネックススタジアム宮城



こうして長々と野球史をふりかえってみると、現代の日本の東北に宮城球場というプロ用ボールパークがあることは、突然歴史が始まったわけではなくて、日本野球の長い歴史がバックグラウンドにあってこその話であることがわかる。
わからないものだ。もし、あの「光る球場」と賞賛された東京スタジアムの消滅に前後してオリオンズが路頭に迷い、紆余曲折をへて東北に一時的に身を寄せていなければ、もしかすると東北でのプロ野球の歴史は生まれていなかったかもしれないのだ。


1958年に、ブルックリン・ドジャースとニューヨーク・ジャイアンツが東のニューヨークから西海岸に移転して起こった「ボールパーク・ドミノ」は、MLBの古典である古き良き木製ボールパークの時代に終止符を打ち、鉄骨とコンクリートでできたコンクリート・ドーナツ時代に道を開くわけだが、その影響はアメリカ国内だけに留まらず、日米野球でのMLB球団来日や、日本のプレーヤーのキャンプへの招待などの交流によって、日本に「アメリカ野球に対する強い憧れ」を生みだした。
その「憧れ」は、めぐりめぐって永田雅一の東京スタジアムを生み、さらに、その精神の一部は現在の東北・宮城にも受け継がれている。


野球の「つながり」を辿っていく作業は、本当に面白くて、やみつきになる。(このシリーズをまとめるための一ヶ月にわたる長い作業も、無駄な部分を切り落とすのが大変だった。話が複雑化するのを防ぐために、たくさんのプロ野球選手を生んだハワイ朝日軍にも、日米の野球の橋渡しをしたキャピー原田にも触れず、ヒット・エンド・ランを発明したかつてのジャイアンツの名監督ジョン・マグローにすら触れていない)

ベーブ・ルースもプレーしたニューヨークの今は無きエベッツ・フィールドポロ・グラウンズに始まり、大陸を横断した西海岸のロサンゼルス・メモリアル・コロシアム、シールズ・スタジアム、チェニー・スタジアム。キャンドルスティック・パーク、ドジャー・スタジアム。シェイ・スタジアム。そして海の向こうの東京スタジアム、クリネックススタジアム宮城まで。


時間と大陸と海を越え、脈々と伝え続けられてきたものは、いったい何だったのだろう。


それは野球に対する、やみくもな熱だ。(忌野清志郎のいう『デイ・ドリーム・ビリーバー』というやつだ)
あまりに月並みで恐縮だが、他に言葉がみつからない。
2012年シーズン開幕を前に、野球の世界を築いてきた先人たちの努力の歴史に、あらためて心からの敬意を表したい。
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ずっと夢を見て
今も見てる。僕は
デイ・ドリーム・ビリーバー。そんで
彼女はクイーン

ずっと夢見させて
くれて有難う。僕は
デイ・ドリーム・ビリーバー。そんで
彼女はクイーン

 『デイ・ドリーム・ビリーバー』
 オリジナル詞・曲 Jhon Stewart(モンキーズ)
 cover by THE TIMERS
 Japanese lyric by 忌野清志郎

damejima at 06:22

March 22, 2012

キャンドルスティック・パークの開場
Candlestick Park
1960年4月12日〜
Candlestick Park

ビートルズが1966年に最後の公式コンサートを行った場所としても知られ、1971年〜現在はSan Francisco 49ersの本拠地になっているキャンドルスティック・パークは、1960年4月12日に当時副大統領だったカリフォルニア生まれのリチャード・ニクソン(大統領はアイゼンハワー)の始球式で、サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地として開場した。こけら落しのセントルイス戦は、前年1959年に21勝しているジャイアンツ先発サム・ジョーンズが、セントルイスのスタン・ミュージアルをノーヒットに抑えるほどの好投で9回を投げ抜き、ジャイアンツが3-1と勝利。
April 12, 1960 St. Louis Cardinals at San Francisco Giants Play by Play and Box Score - Baseball-Reference.com
ちなみに、この印象的な球場名は、1959年3月3日に行われたネーミング・コンテストの応募作から選ばれた。また、San Francisco 49ersは、サンフランシスコ・シールズ傘下のチームでのプレー経験のある与那嶺要さんが、プロ・フットボーラーだった1947年にランニングバックとしてプレーしたチーム。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年3月1日、偉大なる先人、与那嶺要さんの逝去を悼みつつ、タイ・カッブとヨナミネさん、2人の不世出のホームスチール名人の記録を味わう。

キャンドルスティック・パークは海沿いに作られたため、風が非常に強く、サム・ジョーンズに言わせると「ホームラン、とくに右打者のホームランはほとんど出ない」というほどのピッチャーズ・パークだったらしい。
そのため、当時のサンフランシスコの地元メディアには、「キャンドルスティック移転後のジャイアンツの低迷は、打線が売り物のはずのチームがピッチャーズ・パークに移転したりしたからだ」という説もあった。


その後、村上雅則がサンフランシスコ・ジャイアンツのセットアッパーとして1964年9月1日(ビジター メッツ戦)に日本人初のメジャーリーガーしてデビューするが、村上がジャイアンツのホーム、キャンドルスティック・パークで初登板を果たすのは、同じ年の9月9日。これまたドジャース戦(笑)
このゲームは、ホール・オブ・フェイマーで、この年に最多奪三振を記録したドジャースの200勝投手ドン・ドライスデールが完投で勝っている。
September 9, 1964 Los Angeles Dodgers at San Francisco Giants Play by Play and Box Score - Baseball-Reference.com
村上雅則氏のベースボールカード



ちなみに、日本の戦後のプロ野球の草創期にあたる1956年から1966年までの約10年間に、日米野球で来日したMLBの球団は、ブルックリン・ドジャース(56年)、セントルイス・カージナルス(58年)、サンフランシスコ・ジャイアンツ(60年)、デトロイト・タイガース(62年)、ロサンゼルス・ドジャース(66年)。
1958年に、ニューヨークにあったドジャースとジャイアンツが西海岸に移転してきたことで、それまで東海岸中心だったMLBのロケーションがアメリカ全域に拡大していくわけだが、この「西部劇を生んだ19世紀末の西部開拓時代に続く、アメリカにおける二度目のGo West」ともいえる「MLBの西海岸への拡大」に前後して、ドジャースとジャイアンツが3度も来日していることになる。
この「1958年前後のドジャースとジャイアンツの来日の頻度の多さ」は、明らかに、「MLBの1958年以降の西部開拓戦略」が、アメリカ国内だけで満足するものではなく、太平洋を挟んだ日本にもMLBのプロモーションが十分に及ぶよう意図されていた、と見るのが自然だろう。
その意味でいうと、村上雅則が、当時の彼の実力はともかく(いくらセプテンバー・コールアップとはいえ、1Aからいきなりのメジャー昇格は常識的にちょっとありえない)、日本人初のメジャーリーガーしてデビューさせて「もらえた」のが、何度も来日を果たして日本に馴染みの深いサンフランシスコのチームだったというのは、けして偶然ではなく、日本向けのマーケティング的な意味があったとブログ主は考える。


さらに下って、1995年5月2日、野茂英雄がドジャースの一員として日本人2人目の大リーグデビューを果たしたデビュー戦も、このキャンドルスティック・パークで、またしてもドジャース対ジャイアンツ戦(笑)
とにかく、こう、なんというか、一緒に西海岸に移転してきたドジャースとジャイアンツのゲームは、どこをどう切り取ってきても、因縁めいている(笑)
こちらのゲームは、野茂が5回を1安打無失点に好投して降板するものの、両軍得点のないまま延長15回までいってしまい、15回表にドジャースが3点入れ、これで終わりかと思われたその裏、ジャイアンツがマット・ウィリアムスのサヨナラ2ベースなどで4点入れてサヨナラ勝ちするという、とんでもない幕切れになった。
May 2, 1995 Los Angeles Dodgers at San Francisco Giants Box Score and Play by Play - Baseball-Reference.com
1999年を最後にジャイアンツはキャンドルスティック・パークから、パシフィックベル・パークに本拠地を移した。(球場名は2000年の開場以来、2度変わり、パシフィック・ベル・パーク(2000-2003)、SBCパーク(2004-2006)、そして2007年からAT&Tパーク
もちろんAT&Tパークは、2007年7月11日のオールスターで、イチローがMLBオールスター史上初のランニングホームランを打ったスタジアム。
かつてキャンドルスティック・パークは投手有利な球場だったわけだが、AT&Tパークもパーク・ファクターから見る限り、ホームランはでにくい球場のひとつ(30球団中24位)。
2007 MLB Park Factors - Home Runs - Major League Baseball - ESPN


ドジャー・スタジアムの開場
Dodger Stadium
1962年4月10日〜
Shea Stadium

カムデンヤーズに端を発する左右非対称のボールパーク建設ラッシュによって、近年のMLBには左右対称のボールパークが無くなっていきつつあるが、ドジャー・スタジアムは2012年現在ナ・リーグ唯一の左右対象スタジアム。開場は1962年4月10日のレッズ戦で(6-3でレッズ勝利)、既に8回ものワールドシリーズが行われている。
April 10, 1962 Cincinnati Reds at Los Angeles Dodgers Play by Play and Box Score - Baseball-Reference.com
また第2回WBCでは、2009年3月21日〜23日に準決勝及び決勝が開催され、日本が韓国を5-3で下して連覇を達成した思い出深いボールパークだ。


第2回WBC決勝
イチローの決勝2点タイムリー



シェイ・スタジアムの開場
Shea Stadium
1964年4月17日〜2009年2月18日
Shea Stadium

ドジャースとジャイアンツが去り、エベッツとポロ・グラウンズが取り壊されたニューヨークでは、新球団設立と新球場建設の機運が高まり、弁護士ウィリアム・A・シェイの尽力によって、ニューヨークの新球団メッツができ、1964年にはその本拠地シェイ・スタジアムが開場した。(4月17日ピッツバーグ戦)
April 17, 1964 Pittsburgh Pirates at New York Mets Play by Play and Box Score - Baseball-Reference.com
この「1958年のボールパーク・ドミノ」でつくられた球場は、キャンドルスティック・パークといい、ドジャー・スタジアム、シェイ・スタジアムといい、「左右対称」なボールパークばかりで、左右非対称な球場が大半を占める現在とは大きく傾向が違うことは、写真を見れば一目瞭然。
シェイ・スタジアムは2009年2月18日に閉場されて駐車場になり、メッツの本拠地は2009年以降シティ・フィールドに移ったが、シティ・フィールドは、クッキー・カッター・スタジアムっぽい左右対称デザインのシェイ・スタジアムと違い、かつてブルックリンにあった左右非対称のエベッツ・フィールドを模して作られたボールパークであるため、ニューヨークにかつてのブルックリン・ドジャースの本拠地エベッツの匂いがようやくよみがえることとなった。
Citi FieldClem's Baseball ~ Citi Field



扇型の左右対称のフィールド、広いファウルグラウンド、そして、フィールドを取り囲むように建てられた積層式の高いスタンド。
写真でみれば明らかなように、キャンドルスティック・パーク(1960年)、ドジャー・スタジアム(1962年)、シェイ・スタジアム(1964年)、60年代の3つのボールパークには、どこかしら、60年代後半以降に建設ラッシュが続いたクッキー・カッター・スタジアムにつながる匂いがある。(特にシェイ・スタジアム)
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年8月21日、ボルチモアのカムデンヤーズは、セーフコのお手本になった「新古典主義建築のボールパーク」。80年代のクッキーカッター・スタジアムさながらの問題を抱える「日本のスタジアム」。

Candlestick Parkキャンドルスティック・パーク
1960年開場
Clem's Baseball ~ Candlestick Park

Dodger Stadiumドジャー・スタジアム
1962年開場
Clem's Baseball ~ Dodger Stadium

Shea Stadiumシェイ・スタジアム
1964年開場
Clem's Baseball ~ Shea Stadium


アストロドームアストロドーム
1965年開場。かつてのヒューストン・アストロズのホーム(現在はミニッツメイド・パークに移転)フットボール兼用で、典型的なクッキーカッター。Clem's Baseball ~ Astrodome

リバーフロント・スタジアムリバーフロント・スタジアム
1970年開場。かつてのシンシナティ・レッズのホーム(現在はグレート・アメリカン・ボールパークに移転)やはりフットボール兼用で、レイアウトがアストロドームとまったく見分けがつかない。Clem's Baseball ~ Riverfront Stadium


(4)につづく
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年3月23日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (4)夢の東京スタジアムの誕生

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ロサンゼルス・メモリアル・コロシアムの一時使用
Los Angeles Memorial Coliseum
1923年5月1日〜
ボールパークだった時代のLos Angeles Memorial Coliseum

1958年、ブルックリン・ドジャースが西海岸に移転するにあたって、新球場ドジャー・スタジアムが1962年に完成するまでの4シーズン一時使用したロサンゼルス・メモリアル・コロシアムは、もともとは陸上競技場で、1923年5月の開場。1932年と1984年の2度、夏のオリンピックで開会式・閉会式会場および陸上競技のメイン会場となり、現在はカレッジフットボール、USC(南カリフォルニア大学)トロージャンズの本拠地となっている。
なんとも情けないことに日本のWikiにすら書き漏らされているが、1932年夏の五輪で、日本の西竹一中尉が金メダルを獲得したのが、まさにこのコロシアムで行われた馬術競技であり、特徴あるコロシアム入り口には「JAPAN TAKEICHI NISHI」と刻まれた銅製プレートが残されている。
Equestrian at the 1932 Summer Olympics - Wikipedia, the free encyclopedia
(当時の馬術競技の記録映像は横浜・根岸にある馬の博物館に、西中尉の金メダルは東京・国立競技場内の秩父宮記念スポーツ博物館に、それぞれ残されているらしい)

1932年ロサンゼルス五輪で競技中の西中尉


もともと陸上競技場として作られたロサンゼルス・メモリアル・コロシアムの形状は楕円形だから、長方形のフィールドでゲームを行うフットボールならともかく、野球には向いてなかった。いわば、陸上競技場である東京・霞ヶ丘の国立競技場を本拠地に、野球をやるようなものだ。

ボールパーク時代のLos Angeles Memorial ColiseumClem's Baseball ~ Memorial Coliseum
だが当時の熱狂的なドジャース人気にとっては、たとえボールパークが楕円形だろうと、四角形だろうと、そんなことはまったく些細なことに過ぎなかった。
1959年のワールドシリーズ(ドジャース対ホワイトソックス)のうち、ロサンゼルスで行われた第3戦〜第5戦では、それぞれ92,000人以上を動員。また近年でも2008年3月29日に行われたドジャースのロサンゼルス移転50周年記念ゲーム(オープン戦 対レッドソックス)では、アメリカのスポーツ史上最多、そして世界の野球史上最多となる、115,300人もの大観客がコロシアムを一分の隙間もなく埋め尽くした。ドジャースの人気は本物だった。






シールズ・スタジアムの一時使用
Seals Stadium
1931年4月7日〜1959年9月20日
Seals Stadium



1958年のニューヨーク・ジャイアンツの西海岸移転にあたり、サンフランシスコ市側は、リーグやコミッショナーに熱心に働きかけを行ったが、それだけでなく、新球場建設のための敷地も提供した。
ただ新球場建設に時間が必要だったため、ジャイアンツはPCLのマイナーチーム「サンフランシスコ・シールズ」を傘下におさめ、1958年、59年の2シーズンは、シールズが1931年以来本拠地にしていた「シールズ・スタジアム(Seals Stadium)」を一時使用することになった。(写真をよく見て、シールズ・スタジアムの「照明灯の形」をよく覚えておいてもらいたい)

サンフランシスコ・シールズは、1949年に戦後初の日米野球が行われた際に来日したチームで、そのためマイナーとはいえ、日本のオールドファンには非常に有名で、1951年には川上哲治、藤村富美男、小鶴誠、杉下茂をキャンプに招待するなど、日本のプロ野球との間に深い交流があった。
シールズの49年来日当時の監督は、現役時代にイチロー、ジョージ・シスラーに次ぐシーズン254安打のMLB歴代第3位のヒット数記録をもつレフティ・オドゥール(Lefty O'Doul)。(1934年の日米野球では選手としても来日している。2002年「新世紀特別表彰者」として日本の野球殿堂入り)
与那嶺要は、手首の怪我から1947年に所属していたSan Francisco 49ersを離れ、フットボールから野球に転向したが、そのとき所属していたのが、このサンフランシスコ・シールズ傘下のSalt Lake Bees(ソルトレイク・ビーズ)で、与那嶺に日本への移籍を勧めたのが、他でもない、当時読売ジャイアンツのアドバイザーだったレフティ・オドゥールである。
Wally Yonamine, 85, Dies - Changed Japanese Baseball - NYTimes.com

Wally Yonamine Minor League Statistics & History - Baseball-Reference.com

ジャイアンツがシールズ・スタジアムを一時使用している間、サンフランシスコ・シールズは一時的にアリゾナ州フェニックスに移転し、名称も「フェニックス・ジャイアンツ(Phoenix Giants)」を名乗った。
1958年当時のサンフランシスコ・ジャイアンツは7つのファームを持っていたが、うち6つがそれぞれのリーグで優勝しており、西海岸移転当時のジャイアンツの人材育成システムには定評があった。

1958年4月15日シールズ・スタジアムにおけるサンフランシスコ・ジャイアンツ開幕戦の相手は、当然のことながら、ともに西海岸に移転してきたドジャース。
23,448人の大観客を集めたこのゲームは、ジャイアンツ3番ウィリー・メイズが4回裏の満塁のチャンスで打った内野安打による2打点などで、ジャイアンツが8-0と圧勝した。
April 15, 1958 Los Angeles Dodgers at San Francisco Giants Play by Play and Box Score - Baseball-Reference.com



観客数23,448人という数字は、少ないように感じるかもしれないが、もともと外野席が無いシールズ・スタジアムのキャパシティは、西海岸に移転してくるジャイアンツのための外野席増設を行っても22,900人しかなく、これでも超満員状態が続いたことになる。
実際、前年1957年ニューヨークでの観客動員数は、653,923人でリーグ最下位(8チーム中8位)だったジャイアンツが、サンフランシスコ移転以降は、1958年1,272,625人、1959年1,422,130人と、観客数は爆発的に増加し、ジャイアンツのサンフランシスコ移転は大成功だった。

真上からみたシールズ・スタジアム(外野席増設前)
出典:Fly with me over San Francisco in 1938 « Burrito Justice(外野席増設前)
上からみたシールズ・スタジアム(外野席増設後)
出典:The Search for Home Plate at Seals Stadium(外野席増設後)

やがて新球場が完成して、ジャイアンツがシールズ・スタジアムを去ることになり、1959年9月20日、シールズ・スタジアムでの最後のゲームが行われた。相手はシールズスタジアムのオープニングゲームと同じ、またしてもドジャース対ジャイアンツ。
このゲームは、この年21勝を挙げ、オールスターに初選出されたジャイアンツ先発サム・ジョーンズをドジャース打線が早めに打ち込んでマウンドから引きずり下ろし、8-2とドジャースがシールズ・スタジアム開場ゲームでの負けを雪辱した。観客は22,923人で、この狭い球場としてはもちろん満員御礼。
September 20, 1959 Los Angeles Dodgers at San Francisco Giants Box Score and Play by Play - Baseball-Reference.com


シールズ・スタジアムの取り壊し
Seals Stadium
〜1959年11月
とりはずされるシールズ・スタジアムのホーム・プレートとりはずされるシールズ・スタジアムのホーム・プレート

ジャイアンツが新球場キャンドルスティック・パークの完成を待つ2シーズンの間、本拠地を失ったサンフランシスコ・シールズは、アリゾナ州フェニックスに一時移転し、「フェニックス・ジャイアンツ(Phoenix Giants)」を名乗っていたが、アリゾナの酷暑に悩まされ、十分な集客ができなかった。
ジャイアンツが完成したキャンドルスティック・パークに移転した後のシールズ・スタジアムは、取り壊されて跡地はショッピングセンターにされることになったため、シールズはアリゾナからサンフランシスコに戻ることなくワシントン州タコマに移転することになり、戦後日本人にとても馴染み深かった「サンフランシスコ・シールズ」の名称は消滅することになった。シールズ・スタジアムは1959年シーズン終了後の11月に取り壊された。


タコマのチェニー・スタジアム開場と
シールズ・スタジアムの椅子と照明灯の継承

Cheney Stadium
1960年4月16日〜
Seals Stadiumから移設されてきたCheney Stadiumの照明灯

フェニックス・ジャイアンツは、アリゾナ州フェニックスからワシントン州タコマに移転して、新球場をつくり、「タコマ・ジャイアンツ(Tacoma Giants)」と名称が変わった。
その「タコマ・ジャイアンツの新球場」というのが、今まさにマリナーズのマイナー、レイニアーズが本拠地にしているワシントン州タコマのチェニー・スタジアム(Cheney Stadium)
タコマにマイナーの本拠地を置いたのは、この「タコマ・ジャイアンツ」が最初で、マリナーズのマイナーであるレイニアーズは、タコマにマイナーを置いた7番目のチームなのだ。

チェニー・スタジアム建設にあたっては、サンフランシスコのシールズ・スタジアムを取り壊したときに出た椅子や照明灯が移設されたのは有名な話で、それらの設備は今も使われている。
ドジャースとジャイアンツが西海岸に移転し、MLBが全米に拡張された1950年代末のさまざまな紆余曲折を経て、日本にも馴染みの深いシールズ・スタジアムの椅子は、巡り巡ってチェニー・スタジアムとマリナーズに引き継がれることになった。
Seals Stadiumから移設されてきたCheney Stadiumの木製椅子シールズ・スタジアムからチェニー・スタジアムに移設された木製椅子


ボールパーク・ドミノ」が起きた1958年にちょうどサンフランシスコに住んでいたワシントン州タコマ出身の作家・詩人リチャード・ブローティガンが、『A Baseball Game』という詩を書いたのは1958年2月だが、当時の彼が、サンフランシスコ・シールズが移転して彼の故郷タコマで「タコマ・ジャイアンツ」になることや、シールズ・スタジアムの椅子がタコマのチェニー・スタジアムに移設されることなどを知っていたのかどうかは、野球史としても文学史としても非常に興味深い話だが、残念ながら、その点についての資料が見つからず、いまのところ何もわからない。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年3月6日、リチャード・ブローティガン 『A Baseball Game』の野球史的解釈。 「1958年の西海岸」という特別な年、特別な場所。

(3)につづく
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (3)キャンドルスティック・パーク、ドジャー・スタジアム、シェイ・スタジアムの開場

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1950年にブルックリン・ドジャースのオーナーになったウォルター・オマリーが、後に「20世紀の三大悪人は、ヒトラー、スターリン、そしてウォルター・オマリー」などと酷く罵倒されることになった理由は、もちろんブルックリンの超人気球団だったドジャース(なんでも1946年からの10年間に、当時東西制導入前の8球団制ナ・リーグの全収入の44パーセントを稼ぎだしていたらしい)の西海岸移転を決めたからだが、1958年のドジャースとジャイアンツの西海岸移転が、それまで東に著しく偏っていたMLBを全米へ拡張させ、さらには、この2球団を中心にMLBが積極的な日本遠征を繰り返したことで、MLBの全米への影響力拡大や、また日本における野球人気向上にも大きく貢献したことを考えると、ウォルター・オマリーが当時のジャイアンツのオーナー、Horace Stonehamを説得して、1958年のドジャースとジャイアンツ同時の西海岸移転を決断させたことは、怒るのも無理はないブルックリン地元民のやるせない憤懣はともかくとして、野球界全体の発展からみるかぎり、大英断だったといえる。


ボールパーク・ドミノ

プロスポーツにおける球団移転は、本拠地とするスタジアムの変更を意味しており、移転先では新スタジアムが建設されることが多い。
1958年に起きたニューヨークの2大球団、ドジャースとジャイアンツの西海岸への移転は、MLB史にとって、ボールパークの流れを大きく変える転換点となった
この1958年の西海岸移転によって、アメリカ東部にあった由緒ある(だが老朽化した)MLB草創期のボールパークのいくつかが閉鎖され、その一方で、西海岸での新しいボールパークの建設(そしてニューヨークでの新しい球団とボールパークの創設)をもたらし、いわば「ボールパークのドミノ倒し現象」とでもいうような連鎖現象を生んだ。
そして、この連鎖的なスタジアム建設の流れの中で、ボールパークの建築方法は、古典的な木製の時代から、鉄骨とコンクリートでできた左右対称のコンクリートドーナツの時代に向かっていくことになる。
このボールパークの取り壊しと建設の連鎖的な流れを「ボールパーク・ドミノ」と呼ぶことにすれば、この「1958年のボールパーク・ドミノ」の影響は、アメリカ国内はもちろん、当時まだ整備が進められている最中で基盤の弱かった日本のプロ野球にも影響を与えた。

(ちなみに、ボールパークを扱ったサイトというのは、アルファベット順に羅列しているサイトが多い。それはそれでデータとしての使いやすさがあるのだけれど、その一方で、羅列は歴史ではない。
歴史というのは大河のようなもので、流れ、つまり、一定のストーリーがある。ボールパークについてのサイトの多くは、ボールパーク同士のつながりがストーリーとして、きちんと流れにまとめられていないことが多い)


エベッツ・フィールドの閉場
Ebbets Field
1913年4月5日〜1957年9月24日


Ebbets Field

ブルックリン・ドジャースで球団創設以来42年もの長きにわたって運営にたずさわったオーナー、チャーリー・エベッツは、建築デザイナーでもあり、本拠地エベッツ・フィールドはオーナーであるエベッツ自身の構想による由緒あるボールパークで、9回ものワールドシリーズが行われたが、1958年のドジャース西海岸移転により、歴史の舞台から姿を消すことになった。
ドジャースがブルックリンからロサンゼルスに移転したときのGMは、Buzzie Bavasi(1951〜1968)。かつてシアトル・マリナーズのGMをつとめたビル・バベジの父親である。
エベッツでの最後のゲームは、1957年9月24日火曜日のドジャース対パイレーツ戦で、観客はわずか6,702人。これは当時の人気球団ドジャースのゲームとしては少ない。また、最終戦の前にエベッツで行われたフィリーズ3連戦(1957年9月20日〜22日)でも、観客動員数は6,749、5,118、6,662と冴えなかった。地元ブルックリンの野球ファンは閉鎖するエベッツに来場しないことで、オマリーのドジャース西海岸移転に強い抗議の感情を表した。
September 24, 1957 Pittsburgh Pirates at Brooklyn Dodgers Box Score and Play by Play - Baseball-Reference.com
MLB草創期のボールパークは木製だったため、常に火災の危険がつきまとい、実際、火災で多くのボールパークが焼失している。(後述のポロ・グラウンズも1911年4月の火災によって一度焼失し、後に再建された)
しかし、エベッツ・フィールドは鉄筋とコンクリートでできたボールパークで、当時としては画期的な構造であり、収容人員も23000人と当初は十分だった。
だが、熱狂的なドジャース人気の高まりとともに多数の観客がエベッツ・フィールドに押しかけるようになると、球場はすぐに手狭になってしまい、外野席の度重なる拡張などで収容人員をなんとか32000人くらいまで拡張できたものの、それでもオーナーのウォルター・オマリーにしてみれば、エベッツの手狭さは大いに不満で、ニューヨーク市にもちかけた移転交渉が頓挫したこともあり、彼に西海岸移転を決断させる原因になった。1960年2月23日にエベッツ・フィールドは取り壊され、いったんは歴史を閉じた。

オリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズオリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズ

だが、後にクッキーカッター・スタジアムからの脱却をめざして建設されだした『新古典主義』といわれる新しいボールパークの建築様式のさきがけとなったボルチモアの『オリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズ』(1992年)が、チャーリー・エベッツの傑作エベッツ・フィールドをお手本にして作られたことから、エベッツ・フィールド風のボールパークのスタイルは、数十年の時を隔てた90年代以降にアメリカ各地で次々と復活を遂げることになる。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年8月21日、ボルチモアのカムデンヤーズは、セーフコのお手本になった「新古典主義建築のボールパーク」。80年代のクッキーカッター・スタジアムさながらの問題を抱える「日本のスタジアム」。



ポロ・グラウンズの閉場
Polo Grounds
1890年4月19日〜1963年12月



Polo Grounds
ニューヨークのアッパー・マンハッタンにあったポロ・グラウンズは、MLBニューヨーク・ジャイアンツが1883年から1957年までの長きにわたって使用していたボールパーク。1919年にジャイアンツを買い取ったオーナー、Charles Stonehamは、後にジャイアンツのオーナー職を受け継ぐことになる、息子のHorace Stonehamに、ボロ・グラウンズで切符のモギリから、あらゆる仕事を体験させ、野球にかかわる仕事の全てを教え込んだ。
ヤンキースの台頭による観客動員低迷に泣いたジャイアンツは、かつてボストンにあったブレーブスがセントルイスに移転して大成功を収めたのをみて、ドジャースのオーナー、ウォルター・オマリーの説得に応じ、サンフランシスコ移転を決意した。ジャイアンツは1957年秋を最後に、伝統あるポロ・グラウンズを去った。
ジャイアンツのポロ・グラウンズにおける最終ゲームは1957年9月29日のパイレーツ戦。奇しくも5日前、1957年9月24日には、同じくニューヨークを去って西海岸に移転するブルックリン・ドジャースがエベッツ・フィールドでの最後となるゲームで、やはりパイレーツと対戦していた。ニューヨークを去る2チームのホームパーク最終戦が、奇しくも2つともパイレーツとのゲームになったわけだ。
September 29, 1957 Pittsburgh Pirates at New York Giants Box Score and Play by Play - Baseball-Reference.com

ポロ・グラウンズからジャイアンツが去って以降は、いくつかのプロスポーツチーム(例えば1962年創設の新球団ニューヨーク・メッツなど)がこのスタジアムをを使い続けたが、結局長続きせず、1963年12月にはポロ・グラウンズは閉場。1964年4月には取り壊され、ポロ・グラウンズの長い長い歴史は終わった。

ブログ注:火災による消失や増改築を繰り返したポロ・グラウンズの歴史は、いくつかの期間に区分されるのが普通なのだが、区分を、「機銑犬泙任裡幹」とするか、「機銑垢泙任裡鬼」とするか?については、英語サイトでも意見が2つに割れてしまっている。
そのため、ジャイアンツがニューヨークのチームとしての最後のゲームである1957年9月29日パイレーツ戦のスタジアムは、「Polo Grounds 検廚班週するサイトと、「Polo Grounds 后廚班週するサイト、2種類が存在する。
例えば超有名野球データサイトBaseball Referenceでは、ジャイアンツが最終戦を行ったポロ・グラウンズをPolo Grounds と表記している。だが、アメリカ版Wikiや、Baseball Almanacのように、Polo Grounds と表記するサイトも多く存在する。また、ジャイアンツ公式サイトでは、「1911年から1957年にかけてのポロ・グラウンズ」を、Polo Grounds と表記しており、有力サイトBaseball Referenceと公式サイトが表記を異にしているのだから、ちょっと困る。
「区分が2種類に分かれる原因」は、どうも「1889年から90年にかけての資料の乏しい時代のポロ・グラウンズを、兇肇ウントするか、靴箸垢襪」という微妙な点に原因があるようだが、詳しいことはわからない。
Giants Ballparks | SFGiants.com: History
だが、そういう細部にこだわらずにおくなら、「ジャイアンツの西海岸移転直前のポロ・グラウンズ」については、あらゆるサイトの意見が一致している。それを犬班週するか、垢班週するかという「数え方の問題」はあることを別にすれば、「ジャイアンツが西海岸に移転する直前まで使用していたスタジアム」は、「1911年から1957年までのポロ・グラウンズ」である。
San Francisco Giants - Home Stadiums | Heritage Uniforms and Jerseys

さて、よく知られているように、ポロ・グラウンズは当初ジャイアンツがヤンキースに「貸して」いた。しかし1920年にヤンキースがボストンからベーブ・ルースを獲得すると、ニューヨーカーの野球人気は飛ぶボール、ホームランの出やすい球場の派手なヤンキースに大きくシフトしてしまい、ジャイアンツはいわば「軒を貸して母屋をとられる形」になった。
怒り心頭のジャイアンツはヤンキースに対し「1921年以降のポロ・グラウンズ使用を禁じる」と通告したが、ヤンキースはポロ・グラウンズのハーレム・リバーを挟んでちょうど反対側にあるブロンクスに旧・ヤンキースタジアム(1923〜2008)を建設して本拠地を移したため、ヤンキース人気に歯止めをかけることはできなかった。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年8月25日、セーフコ、カムデンヤーズと、ヤンキースタジアムを比較して、1920年代のポロ・グラウンズとベーブ・ルースに始まり、新旧2つのヤンキースタジアムにも継承された「ポール際のホームランの伝統」を考える。

(2)へつづく
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (2)ロサンゼルス・メモリアル・コロシアム、シールズ・スタジアムの一時使用と、チェニー・スタジアムの建設

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サンフランシスコの名コラムニスト、ハーブ・ケインハーブ・ケイン

ワシントン州タコマ生まれの作家リチャード・ブローティガンの詩 『A Baseball Game』は、ドジャースとジャイアンツがニューヨークから西海岸に移転してMLB史の流れを大きく書き換えた「1958年」の2月に、当時彼が住んでいたサンフランシスコで書かれた。
2012年3月6日、「1958年の西海岸」という特別な年、特別な場所。リチャード・ブローティガン 『A Baseball Game』の野球史的解釈。 | Damejima's HARDBALL

ブローティガンは、ジャック・ケルアック(Jack Kerouac 1922-1969)などの「ビート・ジェネレーション」と60年代ヒッピーの中間に位置するなどと、よく位置づけられているわけだが、マス・メディアによって、ビート・ジェネレーションを指す「beatniks(ビートニクス)」という言葉が新たに作られたのも、ブローティガンが『A Baseball Game』を書いた1958年のサンフランシスコなのだから、やはりこの「1958年の西海岸」は、特別な年、特別な場所なのだ。


ちなみに、今日書きとめておきたいのは、beatniksという言葉が根本的に誤解されているという話だ。

簡単にいえば、ケルアックが作ったといわれる「ビート」と、メディアが作った「ビートニクス(あるいはビートニク)」という単語は、言葉がつくられた経緯も意味も、まるで180度違う言葉なのだ。このことをまるで理解しないまま「ビートニク」という単語を安易に使っている人があまりにも多過ぎる。


ビートニク」という造語をcoin(=硬貨を鋳造する、新しい言葉をつくる)したのは、サンフランシスコ・クロニクル(San Francisco Chronicle)で長年活躍し、ピューリッツァー賞(1996年Special Citation=特別表彰)も受賞している名コラムニスト、ハーブ・ケイン(Herb Caen 1916-1997)だ。
(ついでに言っておくと、「ビート」を揶揄する記事を書いたからといってハーブ・ケインの名誉や業績に傷はつかない。なぜなら、彼が記事で書いた「ビート族の粗野なふるまい」は、アメリカでもきちんと触れているひとは触れている「事実」だからだ。知らない人が無知なだけだ)

ハーブ・ケイン愛用のロイヤル社のタイプライター
ハーブ・ケイン愛用のタイプライター。ブログ主もひとつ所有している「ロイヤル社」製。サンフランシスコ・クロニクルに展示されている。


「ビートニク」という造語について知っておくべき最も重要なことは、それを発明したハーブ・ケインが、このbeatnikという単語を「見下した侮蔑的な意味」で使っているということだ。

「ビートニクという言葉はビートに対する侮蔑を意味する言葉として発明された」ことをまるで知らないまま、「ビート」と「ビートニク」を同じ意味の言葉と勘違いして、混同している人があまりにも多い。
困ったことに、ビート・ジェネレーション作家の作品のファンにすら、そういう人が掃いて捨てるほどいるし、また、ビートを見下す言葉として発明された「ビートニク」という単語を、ビート・ジェネレーションへのオマージュを表す言葉と勘違いしてバンド名やアルバムタイトルにつけて喜んでいる「アホなミュージシャン」すら日本には存在する。
(ハーブ・ケインは、この言葉を1950年代のソ連の人工衛星スプートニクから発想を得たといわれているが、なぜまたスプートニクになぞらえたかについては、もちろん理由がある。ちょっと時代背景を考えればわかるが、めんどくさいので書かない)


ケインがこの言葉を使った1958年4月2日の彼のコラムを見てみる。
彼は、当時のアメリカの有名雑誌、Look (1937年創刊、1971年廃刊)がサンフランシスコのノースビーチにビートを集めて開催したパーティの参加者を、まるで「エサに群がる野良猫」扱いして、冷やかにこう書いている。
"Look magazine, preparing a picture spread on S.F.'s Beat Generation (oh, no, not AGAIN!), hosted a party in a No. Beach house for 50 Beatniks, and by the time word got around the sour grapevine, over 250 bearded cats and kits were on hand, "

出典:Pocketful of Notes(=1958年当時のコラムを1997年にサンフランシスコ・クロニクルが再掲したもの。太字はブログ側で添付)
注:No. Beachとあるのは、サンフランシスコの北東部にある街、North Beach。ビート文学の中心地とみなされ、ケルアック、ギンズバーグの作品を出版したLawrence Ferlinghetti (ローレンス・ファリンゲティ 1919-)のシティ・ライツ書店(City Lights Booksellers & Publishers) もNorth Beachにある。




日本のサイトではいまだに、「ビートニクスは、ビート・ジェネレーションの別名」などと、ある意味間違った記述が平気でまかり通っている。あたかも「ビートニクス」という言葉それ自体が、ビート・ジェネレーションの作家の発明品かなにかででもあるかのように、「ビート」と「ビートニクス」は混同して扱われてきた。

この「ビートとビートニクス、意味の違う2つの言葉の混同」は、残念なことに、日本だけのでなくアメリカでも常態化しており、例えば「ジャック・ケルアックはビートニクスだ」などと、間違った用法をしていても、間違いに誰も気づかなくなってしまっている。
(なお、ジャック・ケルアック自身はこの「ビートニク」という言葉を自分でも使っていた時代があった。他方アレン・ギンズバーグは、この言葉をひどく毛嫌いしていた)


だが、「ビート」と「ビートニクス」を同じものとして扱うのは間違いだ。根本的なところが間違っている。


英語表記では、Beatは固有名詞として「大文字」からはじまり、beatniksは「小文字」ではじまる。2つの言葉の扱いが違うのには、意味がある。

誤解の起こる原因の大半は2つある。
ひとつには、beatniksという言葉を発明したのが、Beatという固有名詞やBeatのライフスタイルを生んだジャック・ケルアックでも、他のビート・ジェネレーションの作家や詩人でもなく、作ったのは、ビートのステレオタイプを離れた位置から冷やかに眺めていたマス・メディアのコラムニストであるハーブ・ケインであるのに、そのことを大多数の人が全く頭に入れないまま、この言葉を流通させてきたこと
2つ目に、ビート・ジェネレーションの作家・詩人たち自身が、この「ビートニクス」という単語にどんな違和感を感じ、どう異議を唱えてきたかという点が、この言葉が生まれて半世紀も経つ2012年の現在に至るまで追求されずにきたことだ。


ビートとビートニクという2つの意味の異なる言葉が長年にわたって混同されてきた結果、1950年代後半のファッション化した「ビート」、つまり、「ビートっぽい身なりとビートっぽい発言をして、やたらとビートっぽくふるまいたがる、ちょっとイカれた人たち」を指して「ビートニクス」と呼ぶようになってしまい、ますますビートとビートニクスの区別がつかない人が大量生産されていった

それが、リチャード・ブローティガンが『A Baseball Game』を書き、ハーブ・ケインがbeatnikという単語を発明した、「1958年のサンフランシスコ」という場所と時代の、ひとつの側面でもある。
つまり、「1958年当時すでにビートはステレオタイプ化しつつあった」のであり、若いリチャード・ブローティガンがその影響を受けなかったとは、とても思えない。


詩人アレン・ギンズバーグは、この「ビートニクス」という言葉についてニューヨーク・タイムズにthe foul word beatnik(『ビートニクとかいう不愉快な言葉』)というタイトルの文章を寄稿し、不快感を露わにしている。
ルーズさが持ち味のケルアックは「ビート」と「ビートニクス」という言葉を混同することがよくあったが、潔癖な性格のギンズバーグは、オリジナルな意味の異なるこれらの言葉を明確に区別して使っているのである。
"If beatniks and not illuminated Beat poets overrun this country, they will have been created not by Kerouac but by industries of mass communication which continue to brainwash man."
「もし、いわゆる『ビートニクス』や脚光を浴びたことのないビートの詩人たちがこの国を荒らした、とするなら、彼らの存在は、(ビートの生みの親である)ジャック・ケルアックが創造したのではなくて、人々を洗脳し続けているマスメディアの産物である。」
Beatnik - Wikipedia, the free encyclopedia


Beatの生みの親と言われているジャック・ケルアックの場合、「俺はビートニクスなんかじゃない。カソリックだ」という彼特有の言い回しによる有名なフレーズを残しているように、ビートニクスという言葉に対する違和感を主張したこともあるくせに、彼自身が「ビート」と「ビートニクス」という単語を頻繁に混同して使っている。(もっとも、彼に統一的な用語法や一貫性を求めるような律儀さ自体が無意味なわけだが)
"I'm not a beatnik, I'm a Catholic", showing the reporter a painting of Pope Paul VI and saying, "You know who painted that? Me."
Beatnik - Wikipedia, the free encyclopedia

"I watch television," he said, leading the way up the front step. "San Francisco Beat--- you know that television show with the two big cops. Two big plainclothes cops running around grabbing these bearded beatniks. On television, yeah. And the bearded beatniks always have guns and they're beatin' the cops." He chuckled and, still chuckling, added: "I never knew beatniks had guns.
「テレビ番組だとなぁ、ヒゲはやしたサンフランシスコの『ビート』とやらが、いつも拳銃を持ってんだよな。でも俺にいわせりゃ、拳銃持ってる『ビートニクス』なんて、ひとりも知らねぇ」
F:\column22.html



ちなみに「ビートとビートニクス、2つの言葉の根本的な差異」をきちんと指摘しているアメリカのサイトも、もちろんある。
The term Beatnik was coined by Herb Caen of the San Francisco Chronicle on April 2, 1958 as a derogatory term
「『ビートニク』という単語は、サンフランシスコ・クロニクルのハーブ・ケインによって、1958年4月2日に、見下した意味の用語として新たに作られた。」
Beatniks - The Beat Generation - Hippie


Ginsberg wrote of "the foul word beatnik" and claimed (probably rightly) that it was a media creation and not something he or the other beat writers were happy to be associated with.
「ギンズバーグは、『ビートニクとかいう不愉快な言葉』を書き、この言葉と関わりになることで、ギンズバーグ自身や、他のビートの文学者たちがハッピーだと思えるようなシロモノではないことを主張した。」
Kerouac and other beat writers tried to turn the term around and use it in a more positive manner
「ケルアックと他のビートの作家たちは、この用語の意味を転換させ、もっとポジティブな形に使われるようにしようと尽力した」
Voices Of East Anglia: Beatnik Generation


トルーマン・カポーティは、「テレビで、拳銃を持ったステレオタイプのビートが登場する」のを見て呆れたと話すジャック・ケルアックに、こう言ったそうだ。雑誌ニューヨーカーで働いた経験のあるカポーティらしい、短いがシャープな発言だ。
they don't write, they typewrite.
「やつらは、手で書いたりしない。
 ただタイプライターを打つだけなんだ。」

F:\column22.html


「ビートとビートニクスの差」は本来は、トルーマン・カポーティが言うように、新しいムーブメントを生み出す創造行為と、人のやることを見てタイプライターを打って記事を書くだけのメディアとの差」なのだ。
ビートとして創造的なリアルライフをおくることと、ビートについてメディアで遠回しに批評することには大きな差があるし、自分の頭と経験によって新しい文学を創造することと、世の中で起きることを眺めてタイプライターを打つことには大きな隔たりがある。


サンフランシスコで長く愛されたハーブ・ケインをけなしたくて、この文章を書くわけではない。
イチローがフィールド上でバットを振る仕事と、それを見てキーボードを叩くだけの仕事の間には、果てしれぬほど大きな差があるように、「ビートとビートニクスの差」くらい、わきまえて書き、「書くことそのものの労苦と、タイプライターを打って記事にすることの差」くらい、わきまえて語ってもらいたい。それだけの話だ。(といって、簡単にできることでもないが)

もっとシンプルに言うなら、ビートを気取りたいなら、せめてビートニクスとは名乗るな、ということだ。
(作家自身が「ビートニクス」という言葉を自称するようになったら終わり、というような意味のことを、たしかギンズバーグも言っていた)
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ボブ・ディランとアレン・ギンズバーグ
ボブ・ディランと何事か語るアレン・ギンズバーグ

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March 07, 2012

リチャード・ブローティガン(Richard Brautigan 1935〜1984)は、シアトル・マリナーズのマイナーが置かれているワシントン州タコマ生まれの作家、詩人だ。


彼の名は、文学ファンには、村上春樹氏などに影響を与えたことなどでよく知られているわけだが、野球ファン、野球メディアにはどうだろう。ほとんど知られていないと思う。(ちなみに、春樹氏はかつて神宮球場近くでジャズ喫茶を経営していて、野球観戦中に作家になることを決めたらしい)
地元の文学者とはいえ、シアトルローカルの野球ライターたちの書くものにブローティガンの名前が出ることは、おそらくないだろう。かつてスポーツ評論にも類稀な才能をみせた寺山修司三島由紀夫が、スポーツライターには到底書けない独特の筆致で、ボクシングなど様々なスポーツの興奮やドラマを描き出してみせたような才覚が、シアトルのビートライターたちにあるとは到底思えない。(例えば三島氏はかつて、ある褐色の肌のボクサーのことを、『ひたひたと押し寄せる琥珀色の波だ』と描写してみせた)


さて、ブローティガン作品に、彼が1958年にサンフランシスコでプラプラしているとき書かれた、9つのパートからなる『The Galilee Hitch-Hiker(ガリラヤのヒッチハイカー)』(1958年5月初版)という詩がある。
この作品の7番目のパートは『A Baseball Game』というタイトルで、フランスの詩人ボードレールが観戦したニューヨーク・ヤンキースとデトロイト・タイガースの試合で起こった架空のハプニングが描かれている。(日本語訳は、『チャイナタウンからの葉書』池澤夏樹訳、あるいは個人ブログ等を参照)

Baudelaire went
to a baseball game
and bought a hot dog
and lit up a pipe
of opium.
The New York Yankees
were playing
the Detroit Tigers.
In the fourth inning
an angel committed
suicide by jumping
off a low cloud.
The angel landed
on second base,
causing the
whole infield
to crack like
a huge mirror.
The game was
called on
account of
fear.

この野球について書かれている(ように見える)詩の複雑な文学的解釈はそれ専門の人に任せておきたいが、「野球ファンとしての目線」から言うと、どうしても注釈をつけて、この詩を読む人にあらかじめ頭に入れておいてもらいたい点が、いくつかある。
大江健三郎氏に『万延元年のフットボール』というタイトルの作品(1967年)があり、村上春樹氏に『1973年のピンボール』という作品(1980年)があるが、『1958年の西海岸野球』には、他の年、他の場所には存在しない「特別な意味」がある。
だから、この詩を読むにあたっては、野球史的な意味も考慮に入れてもらわないと、この詩が、文学方面だけは詳しいが、野球についてはまるで詳しくない頭デッカチな人たちの手によって、あらぬ方向に解釈されてしまう気がしてしょうがない。(また、この作品自体の重さ自体がもともと、良くも悪くも「軽い」ということを忘れてはいけないと思う)



「1958年」の「サンフランシスコ」は
野球にとって、どういう時代と場所か?


この詩が書かれたのが、いつ、どこで、なのかはハッキリしている。9つのパートからなるこの詩の最後に、ブローティガン自身が、San Francisco / February 1958と明記しているからだ。
この「1958年のアメリカ西海岸において、野球について書くこと」の意味は、文学解釈の恍惚感からだけ、この詩を味わいたい人にとってはどうでもいいことだろうし、たぶん理解できないだろうとも思うが、20世紀のMLBの発展史にとっては、とても重要な「時代」と「場所」だ。

というのも、
MLB草創期からずっとニューヨークのブルックリンにあったドジャースが西海岸のロサンゼルスに、そして、同じくニューヨークのアッパー・マンハッタンにあったジャイアンツが西海岸のサンフランシスコに移転したのが、この「1958年」だからだ。(MLBの西海岸進出が現実化できた背景には、「広大すぎるアメリカ大陸を東西に短時間で横切ることを可能にしたジェット旅客機という移動手段の発明」もあるわけだが、それはまた別の機会にくわしく書く)

アメリカ東海岸を中心に始まったMLBが西海岸に進出しはじめた最初の年、そして簡単には行き来できなかった世界がジェット旅客機で結ばれ始めた年が、この「1958年」だ。

それまで西海岸には、エンゼルス(1961年創設)もなければ、ワシントン・セネタース(現テキサス・レンジャース 1961年創設)も、パドレス(1969年創設)も、ドジャースすらなかった。
それどころか、セントルイス・カージナルスの人気に圧倒されていた同じセントルイスのブラウンズが、活路を求めてボルチモアに移転し、ボルチモア・オリオールズとして生まれかわる1954年まで、アメリカのほぼ中央にある都市セントルイスよりも西、つまり、アメリカ合衆国の西半分に、MLBの球団は全く存在していなかった

中西部のセントルイスの位置


地形からみたアメリカ合衆国
地形からみたアメリカ


現在のMLB球団所在地の州別のバラつき
山地の多く都市が海岸にある西部では、球団は海岸部にある
MLBの球団所在地の州別のバラつき


Pan American World AirwaysMLBができて半世紀以上たっているにもかかわらず、1958年までアメリカ西海岸にMLBのチームがなかった理由のひとつは、「移動手段」だ。
ボーイング社のボーイング707やダグラス・エアクラフト社のDC-8といったジェット旅客機の名機が誕生するのは、1950年代後半になってからのことで、さらにジェット旅客機が大衆化するのはさらに下った1960年代なのだから、1950年代までは、いくら先進国アメリカといえど、野球チームが広大な北米大陸を東西に高速で自由に行き来できる移動手段そのものが存在していなかった。(例えば今はなきPan Amボーイング707がヨーロッパに初就航したのも、この1958年である(1958年10月26日ニューヨーク-パリ)。
もしジェット旅客機が発明されなかったらアメリカ最西部のシアトルにMLBのチームなどできることはなかったことを考えると、ボーイング社がシアトルにあることの意味は非常に面白い。(後にダグラス・エアクラフト社は、1967年にセントルイスのマクドネル・エアクラフト社と合併してマクドネル・ダグラス社となり、さらに1996年にはボーイング社に吸収されることになる)

Boeing 707Boeing 707
(Pan Am)

Douglas DC-8Douglas DC-8
(Trans Canada)


かつてニューヨークにあったジャイアンツの本拠地ポロ・グラウンズをめぐるジャイアンツとヤンキースとの間のトラブルと、軒を貸して母屋を取られたジャイアンツが活路を求めて西海岸へ移転する経緯については、下記の記事参照。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年8月25日、セーフコ、カムデンヤーズと、ヤンキースタジアムを比較して、1920年代のポロ・グラウンズとベーブ・ルースに始まり、新旧2つのヤンキースタジアムにも継承された「ポール際のホームランの伝統」を考える。


「1958年」の「ヤンキース」と「タイガース」は
どんな位置づけにあるか


MLBの歴史を眺めればすぐにわかることだが、
ア・リーグとナ・リーグは、発足当初、それぞれに8チームずつが属していたが、エクスパンジョンによる球団増加によって1969年に「東西2地区制」に、さらに1994年に現在の「3地区制」になった。
だから、ブローティガンがこの詩を書いた1958年2月早春の時点のヤンキースとタイガースは、現在のように、東地区のヤンキース、中地区のタイガースという別の地区の球団ではなく、「8球団が属するア・リーグの2チーム」なのだ。
1958 American League Season Summary - Baseball-Reference.com

1958年のMLBとア・リーグはどういう状況だったか。

ひとことでいうなら、いくつかあるヤンキース黄金時代のひとつだ。監督はケーシー・ステンゲル。選手にヨギ・ベラミッキー・マントル、サイ・ヤング賞投手ボブ・ターリー
1949年から1953年にかけてワールドシリーズ5連覇を達成したが、さらに50年代後半には1955年から1958年にかけてア・リーグ4連覇、ワールドシリーズも2度優勝しており、ドジャースとジャイアンツが西海岸に移転した1958年のワールドシリーズも、ヤンキースがハンク・アーロンのいたミルウォーキー・ブレーブスを4勝3敗で破って優勝している。
(1953年から1965年まで、ミルウォーキーには、現在のアトランタ・ブレーブスが本拠地を置いていた。ブレーブスが1953年に本拠地をボストンからミルウォーキーに移し、観客動員を28万人から182万人に激増させることに成功したことは、ニューヨーク・ジャイアンツのオーナー、Horace Stonehamが球団の西海岸移転を決めるきっかけになった。その後ブレーブスはミルウォーキーからアトランタに再移転。その後1970年にバド・セリグがブリュワーズを買収してミルウォーキーに移転させ、今日に至る)
New York Yankees Team History & Encyclopedia - Baseball-Reference.com


同時期のデトロイト・タイガースはどうだったかというと、長い低迷期が続いていた。当時はまだ現在のコメリカパークができる前で、Tiger Stadium(Briggs Stadium)が本拠地だったが、監督はコロコロ変わり、1950年代に優勝にからんだのは1950年の2位のみ。

Tiger Stadium
ブローティガンがこの詩を書いた1958年、デトロイト・タイガースは77勝77敗で、ア・リーグ5位。
ゴールドグラブ賞をイチローと同じライトのポジションで10回獲得して野球殿堂入りしているAl Kaline(アル・ケーライン)(彼の背番号6は、タイガースの永久欠番)が在籍していたとはいえ、チームに優勝の気配はまるで無かった。(この詩で描かれたゲームが、どちらのチームのフランチャイズで行われたと想定されているかについては、当時の両チームの力関係を考慮して考える必要があるだろう。また、実際のヤンキース対タイガース戦を前提にしてないとも限らない)

この時期のデトロイトが低迷し続けた理由として、長きにわたってアフリカ系アメリカ人選手の入団を拒み続けたことが指摘されている。
1947年にあのジャッキー・ロビンソンをメジャーデビューさせたのは、西海岸移転前のブルックリン・ドジャースだが(いわゆる『カラーバリヤー』の打破。このときジャッキー・ロビンソンを発掘したのが、当時現役を引退してブルックリン・ドジャースのスカウトになっていたジョージ・シスラー)、これをきっかけに多くのアフリカ系アメリカ人選手がMLBで活躍しはじめ、MLBのレベルが格段に向上していく時代になっても、門戸を閉ざしていたデトロイト・タイガースはその流れに取り残されることとなった、といわれている。

しかしながら、固く殻を閉ざしていたデトロイトに初のアフリカ系アメリカ人選手ウィリー・ホートンが初めて入団したのが、リチャード・ブローティガンがこのA Baseball Gameという詩を書いた1958年のことだったりするのだから面白い。
小学生のときから熱烈な野球ファンだった寺山修司などは、子供のとき感じた北の故郷と都会のプロ野球との「距離感」について、「北国の小さな農村の、小学生だった私にとって、プロ野球の存在というのは、蜃気楼のようなものにすぎなかった。」(『誰か故郷を想はざる』)と書いているわけだが、この「ジェット旅客機と黒人メジャーリーガーで飛躍的に変わりつつある時代」の空気は、西海岸に住んでいたブローティガンの目にどう映ったのだろう。
Detroit Tigers Team History & Encyclopedia - Baseball-Reference.com


西海岸に住むブローティガンが
東海岸で行われている「ヤンキース対タイガース戦」に
どんな情報と印象を持っていたか


A Baseball Gameという作品が書かれたのは、1958年2月。そして西海岸に移転したばかりのドジャースとウィリー・メイズのジャイアンツの初対戦が行われるのは、同じ1958年の4月だ。
1958年早春のサンフランシスコで、「今年からMLBのチームがサンフランシスコにやってきて、試合をする」という記念すべきシーズンを前にして、この街に住んでいる20代前半の若者が(ブローティガンは1935年1月30日生まれなので、1958年2月時点では23歳)「1958年の新しいホームチームの登場」にワクワクして、ちょっとした興奮状態にあったと考えても、全くおかしくない。

ブローティガンがヤンキースとタイガースについて持っている情報や印象はもちろん、「1957年までの、球団ロケーションが著しくアメリカ東部に偏っていたMLB」のイメージがベースになる。
かつて東中心だったアメリカ野球が、西のワシントン州タコマという田舎町に生まれ、新しい文化に飢えた若いブローティガンにどう見えていたのか。
もし野球が、当時のブローティガンにとって「都市文化への憧れ」だったとすれば、それは、いくつかの詩の中で、はるか遠くにあるフランスの文化への憧れを「ボードレール」という単語に置き換えてしまえるブローティガン特有の単純さにも通じる。(これは、かつて寺山修司が第二次大戦後のアメリカ野球の印象について書くとき、アルチュール・ランボーの詩を引用してみせたりする手法にも似ている。寺山の引用対象のランボーが、ブローティガンの憧れのボードレールと「関係のあった」人物だけに、この類似はなかなか面白い)

ただ、1958年まで西海岸にMLBの球団がなかった以上、ブローティガンが野球をどの程度のレベルで理解していたか、あるいはMLBの試合の観戦経験があったのかどうか、そしてそもそも、果たして野球自体が好きだったかどうかなどについては、きちんと検証しないかぎり、何も確かなことは言えない。



ブローティガンの「野球の理解度」について

日本人だって、相撲や野球が大嫌いな人もいるように、アメリカ人だからといって、野球やフットボールが大好きとは限らない。
だが、A Baseball Gameにおいて、天使が空から降ってきたのが「4回」というイニングだったと具体的に特定して書いていることからして、ブローティガンが野球のことをかなり理解していたことは確実だろうと思う。

この詩の翻訳を手がけた池澤夏樹氏は、1987年度下半期の芥川賞受賞作 『スティル・ライフ』 での雪やプラネタリウムに関する鮮やかすぎる筆致でもわかるとおり、大変に魅力的な文章を書く方だと思う。
だが、原文に In the fourth inning としか書かれていないものを、翻訳する立場の池澤氏が「四回表」と、勝手にイニングの裏表を特定する牽強付会な翻訳ぶりには、まったく賛成できない。
これは例えば下記のブログの方も指摘していることで、実はブログ主も最初にこの池澤訳を読んだとき、まったく同じことを思った。
/未来応答〜詩論/:リチャード・ブローティガン「チャイナタウンからの葉書」1968 82 - livedoor Blog(ブログ)

野球に少し詳しい人なら、(日本よりMLBのほうが、たとえ深夜になろうと、可能性がある限りゲームを中止しない傾向が強いにしても) 日米ともに「野球というゲームは、5回まで終わっていれば、試合として成立する」というルールがあることを知っている。

この「5回が終わっていれば試合成立」というルールが野球に存在する以上、
リチャード・ブローティガンが、「空から天使が降ってくる」という奇想天外なハプニングが起きるイニングを「4回」に設定して作品を書いたことは、偶然とは考えられない。
なぜなら、もし「天使が降ってきたハプニングが、5回以降だった」なら、「天使が降ってきて、みんなが驚いたのに、試合自体は成立してしまいました。チャンチャン」という、なんとも締まりのないストーリーになってしまう(笑)
どうみても、「4回」に奇想天外なハプニングが起きて、試合がうやむやになってノーゲームになってしまう、その「なんともいえない、うやむや感」をブローティガンが楽しんで書いたと考えるのでなければ、文学的にも野球的にも解釈が成り立たない。

以上の理由から、ハプニング発生を「4回」にわざわざ設定するブローティガンが、「野球のルールについて、ひととおりの知識を持っていたこと」について、ほぼ間違いないと考える。



あと、細かい指摘をひとつだけ。

天使はなぜ「二塁ベース」に落ちてきたのか。
なぜファーストでなく、サードでもないのか。

これについては、ともかく生死だからといって深刻な訳にせず、もっと「ゆるんゆるん」に、かつ野球のシーンに即して考えるのがベストと考える。
補殺とか、盗塁死、牽制死。とかく野球には、「死ぬ」だの、「殺す」だの、生死を示す言葉が非常によく出てくる。アウトカウントも「1死」「2死」とカウントするくらいのスポーツだ。
これはもちろん、実際の人命の生死を意味するのではなく、「野球というスポーツが、バッターやランナー、攻撃側選手が、プレー上の生死を味わうゲームである」であることからきている。(これはこれで意味深な話でもあるが)

だとしたら、
an angel committed suicide by jumping off a low cloud.(ひとりの天使が低くたれこめた雲から飛び降りて自殺した)というくだりを、「天使の自殺」と、重い意味で考える必要があるとは思えない。

どうだろう。
「野球好きの天使が、人間に隠れて、雲の上から下界の人気スポーツを見物」していて、「自分でも参加してみようとして、思わずやみくもに盗塁を試み、失敗してアウトになった」とか、あるいは、「雲から身を乗り出して野球観戦していて、ずり落ちて下界に落ち、死んでしまった」くらいの軽いユーモアととらえて、全然構わないのではないか。


とかく詩というと、深刻な内容だったり、過度にセンチメンタルだったり、また、ヘビーな内容ほど凄いとか思われがちなものだが、リチャード・ブローティガンに限っては、そんなモノサシは要らない。
他の作品も手にとってみた人はわかると思うが、いい意味で、すっとぼけたユーモア、いい意味で、軽くイっちゃってる飄々とした無頼さが、他の誰に書けないリチャード・ブローティガン特有のスタイルだからである。


付記:
The Galilee Hitch-Hiker(ガリラヤのヒッチハイカー)』は、上に挙げたブログの方も指摘しておられるが(/未来応答〜詩論/:リチャード・ブローティガン「チャイナタウンからの葉書」1968 67 - livedoor Blog(ブログ))、本来9つのパートからなる詩の「はず」だが、どういう理由でそういうことをするのかわからないが、2番目のパートにあたる『The American Hotel』という部分が、池澤夏樹訳『チャイナタウンからの葉書』に収録されていない。
このパート2は、アメリカのパブリックなサイトに公開されているので、いちおう転載させていただくことにする。


The American Hotel

Baudelaire was sitting
in a doorway with a wino
on San Francisco's skidrow.
The wino was a million
years old and could remember
dinosaurs.
Baudelaire and the wino
were drinking Petri Muscatel.
"One must always be drunk,"
said Baudelaire.
"I live in the American Hotel,"
said the wino. "And I can
remember dinosaurs."
"Be you drunken ceaselessly,"
said Baudelaire.

引用元:The Poetry of Richard Brautigan | Literary Kicks


そういえばサリンジャーに、『ナイン・ストーリーズ』(Nine Stories, 1953)という短編集があるが、ブローティガンのA Baseball Gameも、同じく9つのパートからなる。
サリンジャーの大傑作 『A Perfect Day for Bananafish』 (この作品タイトルに『バナナフィッシュにうってつけの日』と絶妙の日本語訳をつけたのが、野崎孝氏)で、主人公シーモアは最後に拳銃自殺してしまうのだが、実はブローティガンはリアルライフで同じ結末をたどった。作中のシーモアの性格と作家ブローティガンの文体は、非常に奇妙なシンクロが感じられて、ブログ主にはブローティガンは実はこの小説の登場人物なのではないかとすら思えたものだ。
(ちなみに、もしサリンジャーを知らない人でも、映画『フィールド・オブ・ドリームス』は知っているんじゃないだろうか。あの映画に登場するテレンス・マンという作家のモデルになったのが、サリンジャー。原作はW・P・キンセラの小説『シューレス・ジョー』だが、原作ではサリンジャーは実名で登場する)


それにしても、村上春樹氏訳のサリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(この作品のタイトルを『ライ麦畑でつかまえて』と絶妙な日本語訳にしたのは、村上春樹ではなく、これも野崎孝氏)といい、この池澤夏樹氏といい、翻訳となると、どうしてああも、「悪い意味の、ゆるんゆるん感」というか、「プラスチック粒が大量に混じったチャーハンを食べているかのような夾雑感」が出てきてしまうのだろう。
一度買ってみたことがあるのだが、村上版『ライ麦畑』は、独特の翻訳の調子がどうにもこうにも性に合わず、15ページも耐えられずに捨ててしまった(苦笑)
池澤氏のこの訳にしても、たとえばA Baseball Gameというタイトルを、『野球試合』、つまり「やきゅうじあい」とか訳してしまうのが、どうにも、いただけない(笑) 「」という濁音の部分が、鍋ものを食べたあとの「おじや」みたいで、音感の悪さがどうにもこうにも耐え難い(笑)
「野球試合」という言葉は、そもそも普通に使われる日本語にはない言葉で、ある種の造語と考慮するにしても、ここでそれが成功しているとは言い難い。

日本には野球文化がある国なのだから、ここは無理に明治時代を匂わせるような漢字に変換しなくても、「ベースボールゲーム」と、カタカナで訳しておけばそれで十分だ。翻訳者のプラスチック製ノイズの介在は、野球史から、そして文字を味わう味覚や音感からも、ここでは必要ない。

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  • 2014年10月31日、PARADE !
  • 2013年11月28日、『父親とベースボール』 (9)1920年代における古参の白人移民と新参の白人移民との間の軋轢 ヘンリー・フォード所有のThe Dearborn Independent紙によるレッドソックスオーナーHarry Frazeeへの攻撃の新解釈
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