『父親とベースボール』〜MLBの人種構成の変化

2016年11月24日、『父親とベースボール』(14) ドナルド・トランプ氏が、ウォートン校出身、ドイツ系アメリカ人であることの意味。移民の国アメリカ特有の「特定の産業と、特定の人種との結びつき」。
2015年4月14日、『父親とベースボール』 (13)ドミニカ出身選手などのドーピング多発問題の影響
2015年4月2日、『父親とベースボール』 (12)「外野席の発明」補論 ベースボールとフットボール、バスケットの成立プロセスの違いでわかる 「プレーヤーと観客との分離」の影響
2015年3月10日、『父親とベースボール』番外編 シラキュース大学のJim BoeheimがNCAAから数々のペナルティを受けた話と、「MLBにおけるアフリカ系アメリカ人の減少」との関係
2014年12月8日、『父親とベースボール』番外編 オリジナルにあった彩色が大英博物館で100数十年にわたって秘密裏に削られていた「エルギン・マーブル」の一部がロシア・エルミタージュ美術館で公開。
2014年3月29日、『父親とベースボール』 (11)「外野席の発明」 〜20世紀初頭の「新参の白人移民の急増」と「ホームラン賞賛時代」の始まり。
2014年2月26日、伝説のTuskegee Airmenにみる「アフリカ系アメリカ人の社会参加の突破口としての兵役」。彼らのルーツを作った南北戦争のUSCT、HBCUs、第二次大戦のCPTP。
2014年2月12日、『父親とベースボール』 (10) 「文化伝達装置」としての「家族」 (付録:アメリカ東海岸の変質)
2014年1月7日、『父親とベースボール』 (11)白人移民と、アフリカ系アメリカ人とのかかわり
2013年11月28日、『父親とベースボール』 (9)1920年代における古参の白人移民と新参の白人移民との間の軋轢 ヘンリー・フォード所有のThe Dearborn Independent紙によるレッドソックスオーナーHarry Frazeeへの攻撃の新解釈
2013年11月8日、『父親とベースボール』 (8)20世紀初頭にアメリカ社会とMLBが経験した「最初の大衆化」を主導した「外野席の白人移民」の影響力 (付録:ユダヤ系移民史)
2013年4月18日、「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。『ロバート・フランク眼鏡』をかけず、裸眼で見る「モンタナ」。スポーツと家族とクルマのあるアメリカ。
2012年10月4日、『父親とベースボール』 (7)「素数」としての野球。
2012年8月16日、『父親とベースボール』(番外編-2)ランディ・ニューマンの "I Think It's Going To Rain Today"の真意を「ジム・クロウ、ジップ・クーン」を解読鍵としてデコードする。
2012年8月13日、『父親とベースボール』 (番外編-1) 歌にこめられたダブル・ミーミングの世界。フラ、スピリチュアル、ランディ・ニューマン。
2012年8月5日、『父親とベースボール』 (6)アフリカ系アメリカ人史にみる「都市と田舎の分離」。南北戦争前のUnderground Railroadによる北部都市への脱出。南北戦争後のReconstructionの挫折による「ジム・クロウ」の誕生とGreat Migration。
2012年8月4日、『父親とベースボール』 (5)アメリカが抱えこんだ二面性の発見。「とても自由で、とても不自由なアメリカ」 (記事1〜4のまとめ)
2012年7月16日、『父親とベースボール』 (5)ヨーロッパのサブシステムとして見た南部アメリカ.の奴隷制
2012年7月16日、『父親とベースボール』 (4)アメリカにおけるドイツ系移民の増大。18世紀ドイツの美術史家ヴィンケルマンが欧米文化のルーツと捏造した「白いギリシア」。
2012年7月6日、『父親とベースボール』 (3)サバーバナイゼーションと都心荒廃を、アフリカ系アメリカ人の移住が原因のwhite flightと説明するレトリックの呪縛を解く。
2012年7月3日、『父親とベースボール』 (2)南北戦争100年後のアフリカ系アメリカ人の「南部回帰」と「父親不在」、そしてベースボールとの距離感。
2012年6月29日、『父親とベースボール』 (1)星一徹とケン・バーンズに学ぶ 『ベースボールにおける父親の重み』。
2012年6月18日、代理人業として大卒選手の優秀さを声高に叫ばざるをえないスコット・ボラスですらオブラートに包みつつも認めざるをえない「他のスポーツへの流出」の具体的な意味。
2012年6月11日、MLBにおけるアフリカ系アメリカ人プレーヤーの減少について書かれたテキサス大学ロースクールの記事を訳出してみた
2012年6月6日、アメリカでアフリカ系アメリカ人の平均寿命が伸び、白人との差が縮小した、というニュースを読む。
2012年6月4日、恒例の全米ドラフトは高校生が主役。
2012年5月18日、「アメリカでの非白人比率の増大傾向」と、「MLBプレーヤー、ファン両面の人種構成の変化」との複雑な関係。
2012年4月5日、MLBのロスターの3.5人にひとりは、メインランド(アメリカ大陸の50州)以外の出身選手、というESPNの記事を読む。(出身国別ロスター数リスト付)
野球を楽しむ子供たちのために。

November 24, 2016

ドナルド・トランプ次期アメリカ大統領がドイツ系移民の子孫で、ペンシルヴェニア大学Wharton School(ウォートン校)出身であることの「意味」をちょっと考えてみた。

州で最も多い人種

州別選挙人数(2016大統領選挙)州別選挙人獲得数(2016アメリカ大統領選挙)


最初に結論というかポイントを指摘しておくと、こういうことだ。
かつて「新参の移民」だったアメリカのユダヤ系移民が20世紀以降に起業したビジネスは、例えばマス・メディア、プロスポーツ、映画、金融などで、それらは現代でこそ影響力が強くなったが、できたばかりの時代には「産業界における傍流ビジネス」にすぎなかった。

ひるがえってドナルド・トランプはどうかというと、彼は実は「古参の移民」が作り上げてきた「アメリカ産業界の本流の流れ」をくむ人物だ。
彼は資産家であるがゆえに、「東部のマスメディアの支持も、ウォール街からの献金もアテにしない選挙を戦いぬくこと」が可能だった。

トランプ氏の出身母体でもあるドイツ系アメリカ人は、アメリカの北半分の地域において常に「最大の人種派閥」である。だが、その「数の優位性」はこれまでアメリカ政治にそれほど強く反映されてはこなかった。
参考記事:2012年7月16日、『父親とベースボール』 (4)アメリカにおけるドイツ系移民の増大。18世紀ドイツの美術史家ヨハン・ヴィンケルマンが欧米文化のルーツとして捏造した「白いギリシア」。 | Damejima's HARDBALL

トランプ氏が「アピールしようとした相手」は、「世論操作ばかりしたがる東海岸のマスメディア」でも、「献金で政治を動かすウォール街」でも、「選挙権のない西海岸のヒスパニックの不法移民」でもなく、アメリカ中部の中産階級、ドイツ系住民を代表例に、アメリカ産業界の本流ビジネスの流れにある「ごく普通のアメリカ人」であったとすれば、少なくとも「大統領選挙において数的優位を作ること」は、アイデアとしては最初から可能だった。


さて、トランプ氏の出身校、Wharton School だが、これは1881年にフィラデルフィアのQuaker (「クエーカー」=17世紀イギリスで発生したキリスト教の宗派のひとつ)の実業家Joseph Wharton(ジョセフ・ウォートン)の寄付によって設立された全米最初のビジネススクールだ。
Joseph WhartonJoseph Wharton
(1826-1909)

「クエーカー」といえば、フィラデルフィア・フィリーズが1883年に球団発足した当時の名称が Philadelphia Quakers (フィラデルフィア・クエーカーズ)だった。
この例からもわかるように、ペンシルヴェニア州にはもともとドイツ系移民やクエーカーが多い。これには次のような歴史的背景がある。

ペンシルヴェニアは、1681年にイギリス人ウィリアム・ペンが、ペンの父親に多額の借金をしていたイギリス国王チャールズ2世から「借金のカタ」として拝領した土地だ。
このウィリアム・ペンはクエーカーで、ヨーロッパで宗教的迫害を受けた経験があったため、自分の領地ペンシルヴェニアでは「信教の自由」を認めた。また、そのことを宣伝材料にヨーロッパからの移民をペンシルヴェニアに集めた。その結果、ヨーロッパのクエーカー(あるいはドイツのプロテスタントのルター派)がペンシルヴェニアに押し寄せる結果となった。


Wharton Schoolの卒業生リストはとにかく圧倒的だ。この100年のアメリカ経済の流れを作った企業、例えば20世紀初頭の製鉄業から、近年のコンピューター産業やIT産業に至るまで、まさにありとあらゆる業種のCEOが勢ぞろいしている。
ウォートン校出身の経営者は、業界それぞれの黎明期にフロンティアを開拓した「創業社長」が多いことも特徴のひとつだ。
List of Wharton School alumni - Wikipedia


Wharton Schoolを創立したJoseph Whartonも、20世紀アメリカの発展を根底から支えたアメリカ製鉄業のパイオニアのひとりで、彼は20世紀初頭にCharles M. SchwabとともにBethlehem Steelを創立し、カーネギーのUSスチールにつぐ全米第二位の製鉄会社に押し上げた。

このBethlehem Steelの前身は、やはり「ペンシルヴェニアのクエーカー」だったAlfred Huntという人物が19世紀中盤に創業した製鉄会社だったが、このことからもわかる通り、19世紀から20世紀初頭にかけてのアメリカの製鉄業には「ペンシルヴェニアのクエーカーが創業した会社」がとても多い
クエーカーの実業家の間には「独特の横のつながり」があるといわれ、ペンシルヴェニアの製鉄業には「クエーカーの横の連携」から生まれた部分が少なくないらしい。(資料:最新日本政財界地図(14)クエーカーと資本主義


ちょっと話が脱線する。

産業革命の原動力を、蒸気機関車の発明や、その燃料として石炭が大量使用されるようになったことだと「勘違い」している人が多い。それは原因と結果、目的と方法をとりちがえている。

そもそも蒸気機関そのものは、ジェームズ・ワット以前に既にあった。ワットの業績はその「改良」であって、発明ではない。
また、蒸気機関改良の「目的」にしても、最初から蒸気機関車や蒸気船などの「交通機関への応用」が目的だったわけではなくて、当初の目的は「石炭鉱山での大量採掘の実現を長年阻んできた『湧き水』を排水するための動力を得ること」だった。

そもそも人類にとって「製鉄」という行為そのものは、なにも産業革命で初めて得た技術ではない。例えば、アフリカには製鉄を行った形跡のある古代遺跡が多数あって、製鉄技術のアフリカ起源説もあるくらいで、表土に露出している鉄や隕石などを原料にした製鉄技法は古代からあった。

それでも長い間、鉄が貴重品とみなされた理由は、鉄がまったく作れなかったからではなく、「鉄を、高品質かつ大量に生産する手法」がなかなか確立できなかったからだ。それは「鉄の効率的な精錬技術」の発明に時間がかかったことや、大量の鉄鉱石を高温で熱し続けるための「エネルギー源」の確保ができなかったことなどによる。

それが蒸気機関の「改良」で、「石炭鉱山での大規模排水」が実現できるようになった。その結果、湧き水がたまりやすい地中の深い場所での石炭の大量採掘が可能になり、その結果、石炭コークスが大量かつ安価に手に入れられるようになったことで、ついに製鉄業が大規模化される時代が訪れたのである。(その結果、世界中の鉄鉱石と石炭の争奪戦が始まった)

鉄の品質が上がり、価格が下落したことで、20世紀初頭の製鉄業者は、「大量生産で価格が下がった鉄の利用方法」を、顧客の事業拡大にまかせるばかりでなく、みずからも模索する必要が生じた。
その結果、製鉄業者自身が、鉱山、製鉄、造船、鉄道などの「多角経営」に乗り出して、「鉄を、掘りだし、精錬し、利用する」までの一連の流れにある事業をトータル経営するようになった。(古い時代のアメリカの「財閥」が生みだされた理由は、この「価格の下がった鉄の利用方法の模索」だった。この例のように、財閥というシステムはもともと「必要に迫られて」形成されるのであり、企業規模拡大にともなって理由もなく勝手にできあがるわけではない)
例えば、第二次大戦時、Bethlehem Steelの造船部門は4000隻を越える膨大な数の輸送用船舶liberty ship(リバティ船)を製造したが、それが可能になったのは背後に「ペンシルヴェニアの製鉄業」があったからだ。
(第二次大戦後、不要になったリバティ船はギリシアなど特定の国に大量に売却され、海運王オナシスに代表されるギリシア海運業の母体となった)

「安価な鉄の登場」はこうして、造船、鉄道、さらには自動車産業などを生み出していき、他方では、鉄を大量に使った高層建築も可能にした。それまで木材やレンガが主流だった都市建築は一変し、都市に高層ビル群が出現することになった。
MLBのボールパークも、19世紀末の創成期にはまだ「木造」ばかりで、たびたび火災で焼失していたが、20世紀以降は「鉄骨」を使った堅牢な建築になった。その背景にはアメリカ製鉄業の発展がある。


話を元に戻そう。
19世紀から20世紀初頭にかけての時代は、アメリカに新しい産業が次々と生まれていった「アメリカが本当の意味で若かった時代」だった。
「ペンシルヴェニアのクエーカー」たちが製鉄業の経営に挑んだのは19世紀中ごろ以降であり、一方、MLBのようなプロスポーツ、映画、マスメディアなどが少しずつカタチになりはじめるのが19世紀末から20世紀初頭にかけてで、両者の間に半世紀ほどのタイムラグがある。
例えば、20世紀初頭、1887年生まれのNFLニューヨーク・ジャイアンツの創始者ティム・マーラはまだ貧民街から成り上がろうともがいているところだったが、ペンシルヴェニアでは既に有力な製鉄会社が産声をあげ、鉄の大量生産時代に入ろうとしていた。
参考記事:2012年12月21日、ニューヨークまみれのクリスマス・キャロル(2) NFLニューヨーク・ジャイアンツとティム・マーラとポロ・グラウンズ | Damejima's HARDBALL


かつて書いたように、たとえ同じ白人移民であっても、「古参の移民」と「新参の移民」とでは、「参入する業種」がまったく異なる
1920年代当時のアメリカでは、映画、プロスポーツなどの娯楽産業やマスメディアは「まだ海のものとも山のものともわからないヴェンチャービジネス」というポジショニングでしかなく、だからこそ、これらの新しい産業でならばこそ、「新参の白人移民」であってもオーナーや経営者になれた。
たとえニューヨークの貧民街から成り上がったような移民でも、頑張ればMLBやNFLのオーナーになれた1920年代は、ある意味、牧歌的な時代でもあった。
対して、古参の白人移民がかねてから牛耳ってきたのは、銀行、重化学工業、自動車、石油、鉱業、運送業、保険など、いわゆる経済のメインストリームを担うビッグビジネスばかりであって、新参の白人移民がそうしたメインストリームのビジネスに簡単に参入することなど、できるわけもない。
だからこそ、新参の白人移民は、プロスポーツ、エンターテイメント、マスメディアなどの新しい産業で自分たちの生きる道を開拓し、発達させていこうとしていたわけだが、古参の移民の視点からみれば、たとえそれが自分たちの専門外の分野であっても、スタジアムの外野席でベーブ・ルースのホームランに浮かれ騒ぐ彼らの自由なふるまいが横行する事態は、次第次第に「目ざわりきわまりないもの」と映るようになっていったに違いない。
2013年11月28日、『父親とベースボール』 (9)1920年代における古参の白人移民と新参の白人移民との間の軋轢 ヘンリー・フォード所有のThe Dearborn Independent紙によるレッドソックスオーナーHarry Frazeeへの攻撃の新解釈 | Damejima's HARDBALL


例えばニューヨーク港の港湾労働は、19世紀末にはアイルランド系移民が独占していた。20世紀以降にイタリア系が入って新たな棲み分けが行われると、ブルックリンだけはイタリア系になったが、特定の人種が独占(あるいは寡占)する状況には変わりがなかった。
この例が示すように、アメリカの産業、特に創成期の産業では、「人種による棲み分け」が行われることがある。つまり、特定の産業全体、あるいは特定地域の特定の産業が、特定の人種集団と不可分に結合して、その人種特有の「既得権」となることが少なからずあったわけだ。

Eric Hoffer沖仲仕として働きながら思索に没頭した独学の哲学者Eric Hoffer。ブロンクス生まれ。
ドイツ系の彼が沖仲仕になったのはサンフランシスコだが、もしアイリッシュやイタリア系がハバをきかすニューヨーク港だったら、もしかすると沖仲仕になれなかったのかもしれない。


かつて隆盛を誇ったペンシルヴェニアの製鉄業の創業者に「クエーカーのドイツ系移民」が多かったことも、そうした「特定業種と特定人種の結びつき」の例のひとつだ。
かつてアメリカ経済のメインストリームだった重厚長大産業では、概して「古参の移民」が多い傾向にある。

一方で、マス・メディア、スポーツ、映画といった「歴史が浅い産業」の創成期には、創業者、選手、制作者、観客にユダヤ系移民が多かったことに代表されるように、歴史の浅い産業においては、「新参の移民」が多い傾向が強い。

例えばMLBの「観客」も、かつて書いたように(参考記事:2014年3月29日、『父親とベースボール』 (11)「外野席の発明」 〜20世紀初頭の「新参の白人移民の急増」と「ホームラン賞賛時代」の始まり。 | Damejima's HARDBALL)、当初は「古参の移民」が多かったが、やがてユダヤ系など「新参の移民」がボールパークにやって来るようになったために、そうした新参の観客たちのための「隔離された席」として、『外野席』が作られた。ヤンキースタジアムの外野席に陣取るBleacher Creaturesはそうした時代の「名残り」である。(同じヤンキースファンでありながら外野席の客が内野席の客にヤジを飛ばす習慣が残っているのは、かつて内野席と外野席の「観客の人種」がまったく異なっていたからだ)


時代が下っていくと、内陸部の製鉄業のような「かつて経済の本流」であった重厚長大産業が衰退しはじめる一方で、スポーツやメディア、IT、コンピューターといった「傍流とみなされていた業種」が沿岸部で繁栄するようになってくる。
こうした「産業のいれかわり」は、「産業と人種が密接に結びつく」ことも少なくなかった移民の国アメリカにおいては、「それぞれの産業に強く結びついた人種ごとの浮沈」を意味する場合も多い。(もちろん実際には、それぞれの業界に多種多様な人種が存在しているわけだから、必ずしもこういう紋切り型な観点で全てを分析できるわけではない)


今となって想像すると、トラッシュトークを繰り返したトランプ氏の選挙で「最も重要だったこと」は、おそらく「主張が正しいかどうか」ではなかったはずだ。(理解しようとしない人がいるかもしれないが、それはけして「間違ったことをあえて主張する」とか「なんでもかんでも言って、迎合する」とかいう意味ではない)

なぜなら、こと「アメリカ大統領選」において大事なことは、「『どのくらいの数』の人間に向かってアピールできたか」だからだ。
アメリカは非常に広い。しかも多様な国だ。自分の狭い信念を細々と語り続けたくらいでは、とても最大の支持など集めきれない。最初から「十分に人数の多い層」を狙い撃ちしていかないかぎり、勝てない。

「最多の票を集めるのが、勝利」だ。
であるなら、「最も厚い層」にアピールすべきだ。

別の言い方をすれば、「アピール対象が『想定どおりの数、実在した』なら当選するし、『想定に反して、それほど多くなかった』なら落選する」という言い方もできる。

では、その「最も厚い層」は、「どこ」に眠っていたのか

もしトランプ氏がアピールしようと決めた「対象」が、「古き良き時代のアメリカにおいて、メインストリームの産業を担っていた中産階級」、あるいは「アメリカ最大の人種派閥であるドイツ系」、あるいは「内陸部の住民」だったとすると、そうした「ターゲット」はもともと「アメリカを構成するさまざまな集団のうちの、最大の集団」だったはずであり、その「最大の集団」に対して、「あなたの利益は本当に守られていますか?」と問いかけたのが、今回の選挙手法の「骨子」だ。
(2016年ワールドシリーズが奇しくも「東でも西でもなく、内陸部のチーム同士の対戦」になったことも、出来すぎなくらいの偶然ではある)

言いかえると、今回の大統領選は、ヒラリー・クリントンやバラク・オバマ、ニューヨーク・タイムズが「顔を向けていた層」は、本当に「『大多数を占める、ごく普通のアメリカ人』だったのか」が問われた選挙、という意味もある。
そしてヒラリー・クリントンが敗れたという事実は、彼らが顔を向けていた層が実は「アメリカの大多数ではなかった」ことを意味する。
参考記事:2015年2月7日、「陰謀論愛好家」を公言してしまい、ちょっと火傷してしまったチッパー・ジョーンズ。 | Damejima's HARDBALL


トランプという人の「選挙マーケティング」は、実業家出身なだけに予想屋ネイト・シルバーより正確で、なおかつ、キンシャサでロープを背にサンドバックのように打たれ続けながらジョージ・フォアマンをKOで葬った1974年のモハメド・アリのトラッシュトークのように、したたか、なのだ。

エリック・ホッファーは「知識や情報を持った個人が社会の中で行き場を失ったり、挫折したりすると、そこに芸術・思想・哲学などの重要な成果が生まれる」と言っているらしいが、過去の繁栄の彼方に置き去りになっていた中産階級の場合は、長い間行き場を失ったまま「言葉」を求め焦がれていたのである。

ジョージ・フォアマン vs モハメド・アリ「キンシャサの奇跡」


damejima at 09:01

April 13, 2015

かつてMLBを揺るがしたBALCOスキャンダルでは、バリー・ボンズを筆頭に多くのネイティブなアメリカ人選手のドーピングがミッチェル報告として指摘された。
だが近年は様相が変わり、アレックス・ロドリゲス(アメリカ国籍だが両親はドミニカ人)に代表されるバイオジェネシス事件と、それ以降も散発的に継続しているMLBのドーピング摘発では、ドミニカを中心とした多くの中米出身選手のドーピングが数多く指摘されだした。
(特に根拠もソースも無いのだが、バイオジェネシス事件での大量処罰以降も散発的なドーピング摘発が続いているのは、あの事件で得られた捜査資料、例えば「納入履歴」や「メモ」などから新たに案件が発掘され、摘発されているのではないかとブログ主は想像している)


さて、近年いったいどのくらいのドミニカンがドーピングで処罰されているのだろう。ちょっと簡単に調べてみた。

まず英語版WikiのDominican-AmericansのリストにあるMLB選手たちをピックアップして、「過去にドーピングで摘発された経験をもつ選手たち」の名前を太字で示してみる。

Pedro Alvarez
Moises Alou
Trevor Ariza
Ronnie Belliard
Julio Borbon
Manny Delcarmen
David Ortiz (まだMLBに十分なドーピング処罰規定がなかったために処罰はされなかったが、2003年の検体が同じボストンのマニー・ラミレスとともに陽性反応を示した。 ソース:Ortiz and Ramirez Are Said to Be on 2003 Doping List - NYTimes.com
Placido Polanco
Albert Pujols
Manny Ramirez
Alex Rodriguez
Sammy Sosa
List of Dominican Americans (Dominican Republic) - Wikipedia, the free encyclopedia

上記リンクに漏れているドミニカ系選手
Vladimir Guerrero
Manny Machado
Adrian Beltre
Alexi Ogando
Carlos Santana
Zoilo Almonte
Edwin Encarnacion
Marcell Ozuna
Robinson Cano
Jose Bautista
Ivan Nova
Hector Noesi
Eduardo Nunez
Alfonso Soriano
Rafael Soriano


次に、「バイオジェネシス事件」でドーピング処罰を受けた選手たちからドミニカ(ドミニカ系アメリカ人を含む)とベネズエラの選手たちをピックアップしてみる。
Alex Rodriguez
Bartolo Colon
Melky Cabrera
Nelson Cruz
Jhonny Peralta
Cesar Puello
Fernando Martinez
Fautino de los Santos
Jordan Norberto
Francisco Cervelli(ベネズエラ)
Jesus Montero(ベネズエラ)


さらにBALCOスキャンダル、ミッチェル報告を含め、過去から近年にいたるまでに散発的にドーピングを摘発されたドミニカ出身選手を挙げてみる。
Miguel Tejada
Jose Guillen
Guillermo Mota
Wilson Betemit
Ervin Santana
Jenrry Mejia


MLBの多くのチームがドミニカに選手育成組織「アカデミー」を常設しているわけで、ドミニカ(そしてベネズエラ、キューバなど)で「生産」される選手たちの増加は、いまやMLBに大きな影響を与えている。
こうしてドーピング摘発者を眺めてみると、MLBの「主役」が、徐々にアフリカ系アメリカ人を含めたネイティブなアメリカ人から、中米の選手たちにシフトしていく中で、「ドーピング事件を起こす人種層」も90年代末のホームラン狂騒時代が終わって以降あたりから中米にシフトしていっていることは明らかだ。


実際にそうなのかどうかはわからないが、「ドミニカあるいはベネズエラから非常に高い才能が次々と輩出されるようになり、MLBのどこのチームを見ても多くの中米出身の選手たちがレギュラーの一角を占めるようになったこと」が、もしも「中米の野球におけるドーピングの蔓延」が理由であるなら、ブログ主はMLBがドミニカうやベネズエラなど、関係国の選手たちに強力なドーピング検査を強制し、不正選手を徹底排除することに、強く賛成する。
ドーピングによって得た好成績で名誉もカネも手に入るような時代など、不愉快きわまりない。


勘違いする人がいそうなのであらかじめ書いておきたいが、「大金が動くMLBの『豊かさ』が、中米のスポーツ環境を汚染した」のではない。たとえ豊かさの中にあっても不正をしない人は、たくさんいる。

問題なのは、「豊かさ」ではない。

「不正」の原因は、常に、そして単純に、く個人の「モラルの低さ」によるものだ。「自分の不正」を「他者の豊かさ」のせいにするのは、単純に「逃げ」や「言い訳」でしかない。大金欲しさに不正をはたらくモラルの低い選手を許すべき理由など、どこにもない。


このブログでは、MLBでアフリカ系アメリカ人の数が減少している問題をずっと書いてきている(記事カテゴリー:『父親とベースボール』〜MLBの人種構成の変化 │ Damejima's HARDBALL)わけだが、もしベースボールが「ドーピングをしていないとレギュラーにさえなれないと感じるスポーツ」になったら、誰だって馬鹿馬鹿しくなって、そのスポーツと真剣に取り組むことなど止めてしまうだろう。

そうならないためにも、そして、あらゆる国籍の選手たちが平等にチャンスが得られる環境を維持するために、MLBはドーピング対策に決然とした強い態度で厳しく取り組むべきだ。
(もちろん、あらゆる国籍の選手たちにドーピング検査が不可欠なこと、あらゆる国籍の選手たちに不正が許されないことなど、いうまでもない)

damejima at 09:24

April 03, 2015

あるブログで、「アメリカでできたスポーツの多くが団体競技であるのに対して、日本起源のスポーツ(というか武道)は個人競技」と書かれているのを読んで、「なるほど。日本に個人主義はないと迂闊には言えないのだな」などと思ったものだが、さらに「アメリカのスポーツはみんなで楽しむものだ」といわれると、さすがにそこはちょっと賛成できなくなる。


ベースボール、アメリカンフットボール(以下フットボールと略)、バスケット、アメリカ起源の3つの人気スポーツでみると、ルールが固まったのはどれも19世紀末で、歴史としては若いスポーツばかりなわけだが、これら3つには「創生期の成り立ち」に若干の違いがある

3つとも「団体競技」なのは確かだが、ベースボールのルーツが草野球、つまり、いわば「ストリート」であるのに対して、フットボールは最初からアメリカ東海岸の名門大学で発展した、いわば「エリートスポーツ」であり、またバスケットも、東部のYMCAで生まれ、YMCAのネットワークを利用しながら発展してきた、というように、スポーツとしての生い立ちがベースボールとは違う。


フットボールの初期ルールは、1890年代にコネティカット出身のエール大の学生Walter Campによって骨子がまとめられ、エール、ハーバード、プリンストンなど、アメリカ東部の有名大学でプレーされた。

Walter CampWalter Camp
(1859-1925)

バスケットも同じく1890年代に、YMCAトレイニングスクール(現・スプリングフィールド・カレッジ)でカナダ出身のJames Naismithによって「冬に行える屋内スポーツ」として開発され、YMCAというネットワークを通じ、全米と世界に普及した。

James NaismithJames Naismith (1861–1939)

フットボールとバスケットの初期の歴史をたどるとわかるのは、これらのスポーツが考案された当初から「プレーヤー」(=東部の有名大学の学生やYMCA所属の若者)と「観客」が「分離して」存在していたところがあることだ。
つまり、これら2つのスポーツにとって、「プレーヤー」は、当初から「観客とは独立に存在する」ものだったのであり、「観客」は「プレーヤーではない存在」という前提が、最初からあった。

この「プレーヤーと観客がどの程度分離して存在しているか」という独特の距離感は、このブログでずっと探究してきている「外野席の成立」や、「ベースボールにおける奨学金問題」にも深く関係していると思われる。
参考記事:2014年3月29日、『父親とベースボール』 (11)「外野席の発明」 〜20世紀初頭の「新参の白人移民の急増」と「ホームラン賞賛時代」の始まり。 | Damejima's HARDBALL

というのも、「プレーヤーと観客の分離」がまったく存在していないのなら、「広大な観客席」の存在自体がまったく意味をなさないか、まったく意味が違ってくるからだ。
事実、ストリートで始まったベースボールの創生期においては「外野席」そのものが存在していなかったし、もちろん広大な観客席も必要とされていなかった。
同じようにゲームを見守っている選手たちの休憩場所にしても、今のような「観客席の下を掘って作られたダグアウト」ではなく、ただの「平らな場所に置かれたベンチ」にすぎなかった。(「「ダグアウト」と「ベンチ」の違い」は、MLBファンならもちろんわかっているはずだろうが、「両者の違いが、いったい何を意味しているのか」はほとんど理解されていない)

1859 Baseball Game at Elysian Fields, Hoboken, NJ1859 Baseball Game at Elysian Fields, Hoboken, NJ

Wst Side Grounds (1905)1905 West Side Grounds
グラウンドと同じ高さの「ベンチ」はあるが、これは「ダグアウト」ではない


逆に言うと、ベースボールの歴史において、「プレーする側と観客の側を隔てる『距離』が、すこしずつ遠くなっていったこと」と、「外野席の誕生」には、おそらく非常に密接な関係にある

当初のベースボールは「誰でもプレーできる庶民的娯楽」として始まったわけだが、それが20世紀初期ともなると、新参の移民がアメリカに大量に流入してきたことによって、プレー側と観客側に急速な「分離」が生じはじめた。
20世紀初頭のベースボールの観客席、特に外野の周囲を取り巻いていたのは、19世紀の素朴なベースボールファンたちのような「自分でもベースボールをプレーした経験のある人たち」ではなく、むしろ「プレー経験がまったくなく、彼ら自身がプレーする可能性も前提とされない、純粋な意味での観客」としての「新参移民」だったからだ。
当然ながら、「内野」と「外野」の違いは、そのまま当時の「社会的クラスター」を反映していた。
(当然ながらヤンキースタジアムの外野席にたむろしているBleacher Creaturesが内野席の観客と対立したりくヤジを飛ばしたりしてきたのは、移民の流入先であるニューヨークのクラスター間の軋轢をそのまま再現しているのである)


バスケットとフットボールが成立当初からカレッジやYMCAといった「若者を教育する場所」で発展し、それが徐々に庶民化していったスポーツであるのに対して、ベースボールは最初は「庶民的な娯楽」から出発し、それがやがて「新しい観客層」や「新しい人種」を巻き込みながら広大なナショナル・パスタイム(国民的娯楽)として発展してきた。
これらはすべて同じ「団体競技」とはいえ、ベースボールと他の2つのスポーツとの発展の道のりは、まったくの「逆向き」なのである。

damejima at 18:12

March 11, 2015

ゾーン・ディフェンスのオーソリティとして知られ、殿堂入りもしているシラキュース大学のバスケットボール・コーチ、Jim BoeheimがNCAAからペナルティを受けた。(彼の名前のカタカナ表記は、ボウハイム、ベーハイム、ボーハイムなど、いくつかの綴り方がある。めんどくさいのでアルファベットにした)

Jim Boeheim

この人、アメリカ代表バスケットボールチームの「現役アシスタントコーチ」という肩書が示すとおり、バスケット界の大物のひとりであり、有名人でもあるのだが、どういうわけかこの件、他の多くの「ネガティブなスポーツニュース」と同様、日本ではほとんど報道されない。
NCAA suspends Jim Boeheim for nine games, cuts Syracuse Orange scholarships - ESPN

NCAAによるペナルティの中身はこんな感じだ。
●Boeheimの9ゲームの出場停止
●シラキュース大学のスポーツ奨学金を12削減
●108勝の勝利記録の抹消
(=2004-07と2010-12シーズンのバスケットボールと、2004年、2005年、2006年のフットボールが含まれる)

※上記に加えて、大学側の自主的判断でACC(Atlantic Coast Conference)トーナメントを含むポストシーズン出場を辞退することになった

けっこう重いペナルティだと思う。なんせBoeheimはNCAAバスケットの最多勝記録を持っているヘッドコーチなのだ、108もの勝利をチャラにされる処罰の重さはけして軽くない。(つまり、Boeheimとシラキュース大学が非常に重い処罰を受けなければならないだけの「重い違反を犯してきた」という意味)
また奨学金削減にしても、当然来期以降のシラキュースのリクルーティングに直接影響するわけで、チーム力そのものの低下につながるのは間違いない。

NCAAが問題にした「シラキュース大学のスポーツ選手の度重なる違反」とはどのようなものか。シラキュース大学が2001年に遡って行った「自己申告」によれば、以下のようなものらしい。
学業における不正行為
過剰な利益供与
ドーピング検査ポリシーの順守違反
許容されないレベルの援助行為
学業における許されざる援助行為

なにやら奥歯にモノがはさまったような、遠回しな言葉ばかり並んでいてわかりにくい。要するに、学業面ではテストで「ゲタ」をはかせてやり、レポート丸写しやカンニングのような不正行為も認めてやり、ドーピング検査は適当にスルーしてきたばかりか、かなりの金額の「お小遣い」や「裏金」も渡していた、というようなことだろう。

ニューヨーク州のこの私立大学は、卒業生から有名人をリストアップしているだけでこの記事が終わってしまうような有名校だが、なんとも三流なことをやってのけたものだ。(というか、シラキュースって「その程度」だったんだなと思う)


それにしても、あのシラキュースですら、スポーツさえやっていれば、卒業させてくれるどころか、裏金までくれるなんて事実が、スポーツファンとして残念でないわけがない。

というのは、『父親とベースボール』というシリーズで書いたように、MLBでアフリカ系アメリカ人プレーヤーの数が目に見えて減ってきていることの社会背景のひとつに、「野球での奨学金数が減らされている」という問題があるからだ。(うろ覚えだが、たしか野球の奨学金数は「11」だったように記憶している。これではスタメン9人と控え先発投手くらいしか奨学金がもらえない)

なぜアメリカで「野球で奨学金をもらえる人数が減らされた」のかは、まだ十分調べてないのでわからないのだが、少なくとも言えるのは、もしバスケットやフットボールなどのほうが「現在では奨学金がもらいやすいスポーツ」ならば、そちらに優秀な人材が流れてしまうのは当然だ、ということだ。


そうした状況がある中での、「シラキュース大学事件」である。
そんな不正を、シラキュースのバスケットですらやってるのか。それなら、野球の奨学金の数を元に戻せ」と、ついつい大きな声で言いたくなる。

damejima at 19:42

December 09, 2014

例の大英博物館の「白い」ギリシア彫刻コレクション、「エルギン・マーブル(Elgin Marbles)」の一部がいま、ロシアのエルミタージュ美術館に移送され、公開されているらしい。
大英博物館はこれまで「移送の困難さ」などを理由にギリシアへの返還を断り続けてきたから、もちろんギリシアは今回の「海外移送と公開」に怒って返還を求める声明をあらためて出したが、返還されるされないにかかわらず、「剥がされた彩色」は二度とオリジナルには戻らない。

Statue of the river god Ilissos
Statue of the river god Ilissos

「エルギン・マーブル」は、かつて英国大使としてオスマントルコに赴任していた第7代エルギン伯爵トマス・ブルース(Thomas Bruce, 7th Earl of Elgin)が、当時オスマントルコ支配下にあったギリシアのパルテノン宮殿からギリシア彫刻多数を勝手に剥がしてイギリスに持ち帰り、後に大英博物館に寄贈したものだ。
もともとオリジナルな彩色が施されていたことが、現代の紫外線による解析手法によってわかっている。

だが「彩色をほどこされていたエルギン・マーブル」は、エルギン伯トマス・ブルース本人の指示によって、特殊な工具を使って「表面にあったオリジナルの彩色」を削り取り「見た目を白く変える」という卑劣きわまりない捏造作業が開始され、その後もなんと1811年から1936年までの100数十年にもわたり、大英博物館の一室で「表面を削って、白くする」行為が延々と行われ続けた。

そのため「エルギン・マーブル」は紫外線解析が行われるまでずっと「白いギリシア彫刻」だと信じられ続けてきたのである。
関連記事:2012年7月16日、『父親とベースボール』 (4)アメリカにおけるドイツ系移民の増大。18世紀ドイツの美術史家ヨハン・ヴィンケルマンが欧米文化のルーツとして捏造した「白いギリシア」。 | Damejima's HARDBALL

エルギン・マーブル(Elgin Marbles)に使われた卑劣な道具エルギン・マーブルの彩色剥ぎ取りに使われた道具群

ちなみに、大英博物館はいまだにその「恥知らずな作業」を、「クリーニング」という当たりさわりのない表現で呼んでいる。
British Museum - Cleaning the Sculptures 1811-1936

以下の写真は、紫外線解析によって科学的に再現されたオリジナル配色の例だ。

実は色つきだったギリシア彫刻
:大英博物館で表面が剥ぎ取られたあとの「白い彫刻
:紫外線解析によって推定された加工前のオリジナル配色

Trojan archer crouching in battle(often so-called
Trojan archer crouching in battle(often so-called "Paris")


「エルギンマーブル改竄事件」が明らかにしたのは、芸術の冒涜という小さな問題ではなく、むしろ「欧米文化の精神的支柱としての美学の存立基盤そのものに対する疑義と、その美学に基づいて白く上塗りされ続けてきた欧米史のあやうさ」であることを思えば、この事件が歴史的事件と呼ぶにふさわしい「大事件」であることがわかる。
というのは、「エルギン・マーブル」のような古代ギリシアの建築や彫刻群は、18世紀ドイツの美術史家ヨハン・ヴィンケルマンが欧米文化のルーツと主張した「白いギリシア」というコンセプトを支える「最も重要な支柱」のひとつになっているからだ。

近代科学が「エルギンマーブルの改竄」を暴いたことによって、もちろんヴィンケルマンの「白いギリシア」も、その根拠に巨大な疑問符がついているわけだが、その影響力は根強いものがある。
例えば自然科学的に根拠の薄いル・コルビュジエの『黄金比』の価値をいまだに信じている人たちが多数存在していることをみてもわかるように、欧米文化においては、常に、そして、非常に熱心に、『白いものこそが、美である』という価値観がくりかえし、くりかえし製造され、「白い欧米文化には『白いルーツ』として『白いギリシア文化』が存在する」という「ストーリー」がたえまなく流布され続けてきたことによって、ヴィンケルマンの「白いギリシア」というコンセプトは、それが歴史的に根拠があるとないとにかかわらず、いまなお欧米社会に強い影響力を及ぼす物語として補強され続けているからだ。

Johann Joachim WinckelmannJohann Joachim Winckelmann

『伽藍が白かったとき』 ル・コルビュジエ『伽藍が白かったとき』
ル・コルビュジエ

(キャプション)コルビュジエが「黄金比」を美の極致とみなした理由は、それが見た目に美と見えるかどうかよりもむしろ「ギリシア神殿に多くみられる黄金比は、自然界にも数多くみられる『美の究極比率』である」という「古代ギリシアにはあらゆる美のルーツが集結しているというストーリーづくり」に主眼があったと考えると、さまざまな説明がつきやすい。
ちなみに、「自然界の美には黄金比が多い」というのは単なる「先入観」に過ぎず、例えばオウムガイの螺旋の曲率は黄金比ではない。
参考:オウムガイに黄金比?


damejima at 15:18

March 30, 2014

Ebbets Field

今は現存しないブルックリンのエベッツ・フィールド(1913年開場)の「ライト側」、あるいは、現存する最古のボールパークであるフェンウェイ・パークの「レフト側」には、ごくわずかな数の外野席しかない。
こうした「古い時代のボールパーク」では、外野席の形状が、左右非対称どころか、「外野席が、レフトかライトのどちらかしかないといっても過言ではないような、偏った形をした球場」があり、さらにさかのぼると、「外野席そのものが存在しない球場」さえみられる。

エベッツ・フィールドエベッツ・フィールド

わざと左右対称な球場ばかり作ったクッキーカッター・スタジアム時代を除けば、むしろ「MLBのボールパークはもともと左右非対称につくられているのが普通」ではある。だが、それにしたって、いくら左右非対称がトレードマークの新古典主義の球場といえども、エベッツやフェンウェイのような「外野席が片側だけしかないといってもいい球場」は、近代では作られなくなっている。
資料:クッキーカッタースタジアム → 2010年8月21日、ボルチモアのカムデンヤーズは、セーフコのお手本になった「新古典主義建築のボールパーク」。80年代のクッキーカッター・スタジアムさながらの問題を抱える「日本のスタジアム」。 | Damejima's HARDBALL

では、なぜ
「かつてのボールパークには外野席がなかった」のか。
そう考えたことから、長い資料探しが始まった。


古いボールパークで「外野席が非常に狭い理由」については、これまで「古い時代のボールパークは、空き地の少ない都心に建てられていたために、周囲の道路によって制約された、限られた敷地面積にあわせて建設しなければならなかったため、球場の形状は、その多くが非常にいびつな形になった」と、説明されてきた。
このブログでも「古い球場の形がいびつで、特に外野席がいびつである理由」を、市街地の敷地の狭さだけから説明してきた。

だが、ブログ主は、20世紀初頭のMLBのボールパークで「新参の白人移民」が外野席に陣取って野球観戦するようになって直後のMLB史を考慮するようになってから、「古いボールパークで外野席が非常に狭い理由」についての考えが大きく変わった。

外野席の発明」の解明にはまだ途上の部分もあるが、成立のプロセスはほぼ明らかになったと思う。以下に記しておく。
(© damejima 以下、非公開)
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damejima at 07:58

February 27, 2014

Wendell O. Pruitt
(写真)第二次大戦における名誉あるアフリカ系アメリカ人パイロット、Tuskegee Airmenのひとり、Wendell Oliver Pruitt(ウェンデル・プリューイット)大尉 (1920-1945)


第二次大戦前後になってさえも残っていたアフリカ系アメリカ人に対する人種差別から、当時のアメリカ軍では、アフリカ系アメリカ人と白人との混成をできるだけ避けており、パイロットに関してもアフリカ系アメリカ人専用の育成機関と、そこを元にアフリカ系アメリカ人だけで編成された部隊を作って対応していた。
これが後に、Tuskegee Airmen(タスキーギ・エアメン)と呼ばれることになる名誉あるパイロットたちである。
彼らはアラバマ州のタスキーギ基地で訓練され、332d Expeditionary Operations Group(=第332戦闘航空群 機首と尾翼を赤く塗っていることからRed Tailsなどと呼ばれた)など、いくつかの「アフリカ系アメリカ人だけの部隊」に配属された。

Wendell PruittはRed Tailsのヨーロッパ戦線におけるエース・パイロットのひとりとして北イタリアなどで活躍し、Distinguished Flying Cross(殊勲飛行十字章)受賞。1945年にタスキーギ基地における訓練飛行中の事故で、25年の短く熱い生涯を終えている。

(ブログ注)
「タスキーギ・エアメン」について、2本の映像作品が製作されている。

"The Tuskegee Airmen" (邦題「ブラインド・ヒル」)
1995年テレビ映画。主演は、Matrix3部作や「CSI:科学捜査班」に出ていたローレンス・フィッシュバーン。

"Red Tails" (日本未公開)
2012年劇場用映画。ジョージ・ルーカス製作。1995年の "The Tuskegee Airmen" に出ていたキューバ・グッディング・ジュニア、テレンス・ハワードなどが再び出演した。
Wendell PruittがJoe "Lightning" Littleというキャラクターとして描かれていることなどでわかるように、この映画自体はフィクションの部分が多く、必ずしも史実を完全に踏襲したノンフィクションではないことに注意すべきだ。例えば「Tuskegee Airmenがエスコートした爆撃機は1機たりとも撃墜されなかった」という伝説が語られることがあるが、資料では25機が撃墜されているとされており、また、Tuskegee Airmenは戦闘機パイロットを輩出してはいない。
なお、ルーカスは製作費5800万ドル全額と配給費用3500万ドルをすべて自腹負担したが、興行収入は約5000万ドルに終わったらしい。
資料:Red Tails - Historical accuracy

と、まぁ、ここまでは書いているウェブサイトなどが探せばある。
だが、10人兄弟の末っ子としてセントルイスで生まれた彼が、なぜ狭き門を突破して「パイロットになれた」のか。その理由が、彼が卒業したミズーリ州のLincoln Universityの歴史が深く関係していることは、ほとんどどこにも書かれていない。


第二次大戦直前のイタリアやナチス・ドイツでは、国が民間の学校を利用して若いパイロットを大量養成する独特の教育システムを持っていたため、数多くの若いパイロットの養成に成功しつつあったが、それに危機感を持ったアメリカでも、それらの国のシステムに習い、民間の大学などの協力を得て、Civilian Pilot Training Program(CPTP)と呼ばれる民間パイロット訓練プログラムを実施することになり(1938-1944年)、アメリカ国内の多くの大学や専門学校が協力を申し出た。

当時のアフリカ系アメリカ人はまだ公然たる人種差別の下にあり、高度な教育も、主に「アフリカ系アメリカ人だけが通う、人種隔離された大学」でのみ行われる有様だったが、そのうちほんの少数でではあったが、CPTPのプログラムを受講して飛行ライセンスを取得することのできる大学が存在した。

Wendell Pruittが在学したLincoln University of Missouriは、まさにそうした「パイロット志望のアフリカ系アメリカ人に門戸を開いている、ほんのわずかな大学」のひとつだった。

Pruittの経歴を詳しくみると、彼は、他のタスキーギ・エアメンのようにタスキーギにおける訓練によってライセンスを取得したのではなく、既にライセンスを取得した後でタスキーギにやってきたことがわかる。
彼にそうしたキャリアが可能だった理由を知るには、CPTPの存在とその社会的な意味を知っていなければならない。タスキーギ・エアメンの華々しさだけにスポットを当てた記述や映画だけ知っているだけでは十分ではない。

Lincoln University of Missouri

アフリカ系アメリカ人の大学で、
CPTPに協力していた教育機関の例

West Virginia State College
Delaware State College
Hampton Institute
Howard University
Toni Morrisonの出身校(1993年アフリカ系アメリカ人作家として初のノーベル文学賞受賞)
North Carolina Agricultural and Technical State College
Lincoln University(Missouri)
Lincoln University (Pennsylvania)
Tuskegee Institute

資料:Notable Black American Women, Book II
by Jessie C. Smith (1996) Publisher:Thomson Gale

Tuskegee Instituteの図書館
整然としたTuskegee Instituteの図書館

Tuskegee Institute (1902)Tuskegee Institute (1902)



さらに歴史の源流を遡ろう。

Lincoln University of Missouriは、なぜ「早い時代からアフリカ系アメリカ人を受け入れる大学」になったのか。話は南北戦争まで遡る。


イギリスから独立する前のアメリカにおいて、アフリカ系アメリカ人の反逆を恐れた白人は、彼らを軍から遠ざけ、武器を持たせなかった。たとえ戦時に臨時徴用した場合でも、非戦闘部隊に配属した。
奴隷解放を叫んだ19世紀末の南北戦争(American Civil War 1861-1865)の北軍ですら、当初はアフリカ系アメリカ人を軍から排除していた。

しかし、こうした事情は、独立戦争(1775-1783年)以降あたりから少しずつ変化してくる。「戦時のみに入隊を許す臨時の兵士」としてアフリカ系アメリカ人を軍に入隊させる例が増え、南北戦争の北軍でも1862年に方針が変わり、「アフリカ系アメリカ人を臨時の兵士として使う」というやり方が盛んに行われるようになった。

南北戦争では、アフリカ系アメリカ人だけを集めたUnited States Colored Troops(USCT, 合衆国有色人種部隊)という特殊な連隊が組織され、アメリカ史に燦然と名を残す勇猛果敢な兵士群Buffalo Soldiers(バッファロー・ソルジャーズ)も、このUSCTから生まれた。

USCT
USCT at Fort Lincoln, November 17th, 1865


南北戦争終結後になると、「平時でもアフリカ系アメリカ人を正規軍として雇用し続ける」という新しい政策が決定されたため、USCTを退役したアフリカ系アメリカ人たちの中に、アフリカ系アメリカ人を教練するための「専門学校」を作る者たちが現れた。当然ながら、これらの学校の多くは兵役につくことを前提にした専門教育を行ったため、結果的にアメリカ陸軍に多くのアフリカ系アメリカ人の人材が提供されることになった。
結果、第一次大戦期には、アメリカ陸軍に40万人ものアフリカ系アメリカ人が在籍したといわれ、戦闘部隊への参加も許されていった。


こうした南北戦争後に誕生した「USCTにルーツを持つ、アフリカ系アメリカ人のための専門学校」は、やがて「アフリカ系アメリカ人のための大学」へと成長していく。
このような「USCTにルーツを持つ、アフリカ系アメリカ人学生の多い大学」を、Historically Black Colleges and Universities(HBCUs) と呼ぶ。

名誉あるTaskegee Airmenのひとり、Wendell Pruittが在籍したLincoln University of Missouriは、まさにそうしたUSCTにルーツを持つ大学=HBCUsのひとつなのだ。
List of historically black colleges and universities - Wikipedia, the free encyclopedia


アフリカ系アメリカ人初のメジャーリーガー、ジャッキー・ロビンソンがデビューするのは、第二次大戦直後の1947年だが、彼は第二次世界大戦中に何をしていたかというと、スポーツ指導者の職を失った後で徴兵され、1942年5月にカンザス州フォートライリーで訓練を受けて陸軍少尉になっている。
ここまで書いてきたことでわかる通り、ジャッキー・ロビンソンがまがりなりに「士官になるための試験を受けることができ」、そして実際に「将校になれた」ことは、単に彼の才気や周囲の人の支えもさることながら、独立戦争以来アフリカ系アメリカ人たちが不利な条件のもとで従軍してきた歴史の積み重ねがあったからこそ達成できることだ。

なお、その後のジャッキー・ロビンソンは1944年に人種隔離の厳しいテキサス州フォートフッドへ配置転換させられている。彼はバス内で白人運転手に黒人用の座席へ移動を命じられ、移動を拒否した。結果的に無罪にはなったが、軍法会議にかけられ、ロビンソンは自ら希望して除隊。やむなくスポーツに活路を求めた。(もちろん歴史にタラレバはないが、もし彼が軍で受けた人種差別に嫌気がさして軍を飛び出し、スポーツに活路を求めるのではなく、ひとりの兵士としてそのまま生涯を終えていたら、MLB史は大きく変わっていたかもしれない。人間の人生とはわからないものだ)


独立戦争から第一次大戦にかけて「アフリカ系アメリカ人にとっての兵役」は、彼らが社会参加への最初の一歩を踏み出すためのきっかけのひとつだった。
第二次大戦における戦没で多くの男性労働力が失われたこともあって、第二次大戦後、多くのアフリカ系アメリカ人は南部から北部に移住し、工場で白人男性の代替労働者として働く機会を得た。
こうして兵役、そして工場労働へと、数少ない機会を最大限利用してアフリカ系アメリカ人が社会参加の幅を拡大する努力を積み重ねたことは、1950年代以降の公民権運動を可能にする要因のひとつになった。


言うまでもなく、「初めての社会参加」が「戦争」であったり、「兵役」であったりすることは、喜ばしいこととはいえない。それは確かだ。

だが、当時の彼らには、「数の限られた社会参加の道」しか用意されていなかった。

少なくとも、アメリカ軍におけるアフリカ系アメリカ人の歩いた道と、彼らの社会参加の発展を対比して見るかぎり、奴隷の立場から出発した彼らの歴史にとって、「軍役につくこと」、あるいは、「兵役のための教育を受けること」が、彼らと彼らの子孫にとって、社会参加への道を開き、アメリカ社会に一定の位置を占めるための「突破口」になったことは、まぎれもない事実だろうと思う。


繰り返しになるが、人と人の争いを賛美したいわけではない。
そんなこと、いうまでもない。

アフリカ系アメリカ人たちの独立戦争以来の兵役参加の歴史は、20世紀後半になってようやく人並みの自由の一部を得る前の彼らにとって、「社会参加への道が、かつてどのくらい固く閉ざされていたか」を知る手がかりのひとつであり、歴史の記念碑なのだ。
それを、半端なヒューマニズムから眺めたいとは思わない。

damejima at 04:56

February 13, 2014

ソチ五輪で素晴らしいメダリストが何人も誕生しているが、月並みな賛辞を言ってもしょうがない。記念に記事でも書いて贈っておこう。


英国のダーウィニストが「世代間の文化伝達」を以下の「3パターン」に分類している。
Vertical   (垂直:親子間の伝達)
Oblique   (斜め:親子ではない異なる世代間の伝達)
Horizontal (水平:同世代間の伝達)

父親とベースボール』というシリーズ記事の根底にあった意識のひとつは、「野球」という文化が人から人へ伝達されるにおいて、『親から子へ』 という特徴的な伝達パターンがみられる、ということだった。


とりわけ20世紀初期における『野球』という文化は、日米問わず「親から子へ垂直に継承され続けてきた」という面があり、そうした「バーティカルな世代間の文化伝達」は、この100年ほどの間、野球文化の発展の基礎になってきた。

上で紹介した3つの分類に沿っていうなら、マンガ『巨人の星』で星一徹が星飛雄馬に行った文化伝達は、パターン1の「バーティカルな文化伝達」、つまり、「親子間の垂直的な文化伝達」ということになる。
日本の阪神ファンなどもまさに典型だが、「親が熱心な野球ファン」だと、その「子供」はかなりの確率で「熱心な野球ファン」になって、野球という文化が継承・伝達されてきたのである。


だからドキュメント作家ケン・バーンズが、彼の有名なドキュメンタリー作品 "BASEBALL" の制作にあたって、ベースボール史を「家族の文化」として描く視点を持ったことは非常に的確な判断だったといえる。
Damejima's HARDBALL | 2012年6月29日、『父親とベースボール』 (1)星一徹とケン・バーンズに学ぶ 『ベースボールにおける父親の重み』。


星一徹の息子に対する文化伝達手法は、あまりにも強引すぎて、伝達というより「強制」ではある(笑)
だが、ちょっと考えてみると、職人仕事であれ、古典芸能であれ、伝統の継承において「親が子に、親方が弟子に、技能習得を頭ごなしに強いることがある」のはむしろごく普通にある話であって、それはなにも、日本だけに限ったことではないし、野球だけどころか、あらゆるスポーツにみられる。
例えば、ソチ五輪でハーフパイプで銀メダリストになった平野歩夢君にしても、父親はスケートボードパークを経営するほどスポーツ熱心な方で、そういう家庭に生まれ育ち、父親の影響を強く受けて始まっている彼の人生は、文化伝達のパターンだけから見るなら、「典型的な星飛雄馬型」なのである。
たとえホリゾンタルな同世代意識が強い「横乗りスポーツ」だからといっても、本当のエキスパートは、「ホリゾンタルな同世代間の文化伝達」、平たくいえば、「仲間うちの遊び」から、自然発生的に生まれてくるわけではないのだ。

「バーティカルな文化の強制は、非民主的で保守的だからよくない。ホリゾンタルな文化伝達こそ、民主的で自由で素晴らしい」などと、硬直したことを言いたがる人がよくいる。
しかし、もともとなんの色ももたない場所に、何の根拠もなくヒューマニズムだのイデオロギーだのをもちこんで、これは善、これは悪と、むりやり善悪で色を塗り分けて「マップ化」しようとする行為は、文化を自分の考えを正しく見せかけるために利用しているだけに過ぎない。


さて、『父親とベースボール』を書いていて気がついたことのひとつは、『家族』という「システム」がいつの時代でも同じではなかったこと、「近代の家族システム」は「近代以降にできた、過去に例を見ない特殊な制度」であり、そして、『家族』という制度は近代の成立と発展において、ある種の『文化伝達装置』として重要な役割を果たしてきたということだ。

ブログ注:
Greece Architecture「古代ギリシアにだって、アリストテレスのいう「オイコス」のような「家庭」があったように、『家庭』なんてどんな時代にもあっただろ」と、議論を吹っ掛けたくなる人もいるだろう。
だが、ここではまだ詳しく書かないが、その議論はまるで的外れだ。
なぜなら、古代ギリシアに限らず、近代以外における「家族」というものは「共同性の維持」を前提にして成立している。他方、「近代における家庭」は、内部に風呂から台所まで、あらゆる「装備」が内蔵され、共同体から独立して存在する特殊な閉鎖空間、いわば「家族だけのシェルター」なのであって、コミュニティーの共同性維持を、実はまったく前提にしていない。この点において、「近代における家庭」は、それまでの時代のものとは全く違う、特別な存在なのだ。


ところが近年、この近代を支えてきた家族システムに「ほころび」が生じてきている。「近代における家族」というシステムが十分な機能を果たさなくなってきているのである。

例えば、かつて『父親とベースボール』で書いたように、データでみる「アフリカ系アメリカ人におけるシングルマザー率」は非常に高い。
資料:2012年7月3日、『父親とベースボール』 (2)南北戦争100年後のアフリカ系アメリカ人の「南部回帰」と「父親不在」、そしてベースボールとの距離感。 | Damejima's HARDBALL

こうしたアフリカ系アメリカ人家庭における「父親不在」は、おそらくアフリカ系アメリカ人コミュニティが瓦解に向かう要因のひとつであり、また、ベースボールという文化が親から子へバーティカルに伝達されるのを阻害する要因にもなっていると、ブログ主はますます思うようになってきている。

アフリカ系アメリカ人とMLBのつながりが希薄になりつつあることについて、シングルマザー家庭の経済力の弱さや野球用具の価格の高さといった経済的な理由から説明を試みる人たちもいる。
記事:2012年6月11日、MLBにおけるアフリカ系アメリカ人プレーヤーの減少について書かれたテキサス大学ロースクールの記事を訳出してみた | Damejima's HARDBALL
だが、かつて寺山修司が、日本が貧しかった時代にキャッチボールが人と人の心を結びつける接着剤になった、という意味のことを言ったように、「生活の困窮」だけでは必ずしも「野球をやらない理由」や「野球を遠ざける理由」を説明できない。

ブログ主としては今のところ、「文化伝達装置としての家族が機能不全を起こしていること」が、アフリカ系アメリカ人におけるベースボール文化の継承を最も妨げている要因であるように思えてならないのである。


例えば、「テレビ」や「視聴率」にしても、それは「家庭という単位にそれぞれテレビがあること」、「テレビから家庭に向けて情報が発信されること」、「家族がテレビを見ながらメシを食うとかして、共通の話題をもち、親子が文化を共有し、文化を相互伝達しあうこと」などを前提に成立してきた。
つまり、根本をただせば「マスメディア、マスプロダクトを含む20世紀初頭に成立したマス社会そのものが、『家族という生活単位』が社会全体にまんべんなく分布・成立していて、なおかつ、家庭が安定的に機能し続けていることを前提にしていた」のである。
だから、家族という固まりが個人に細分化されていくこの時代にあって、「テレビ」だの「視聴率」だのという制度が昔のような機能を果たせなくなっているのは当然の話であり、いまさら巨人戦の視聴率を議論する時代でないのは、野球ファンの立場からいっても、当然なのだ。


そこに歴史的な必然性があるにせよ、ないにせよ、近代社会の構成単位として機能してきた「家族という構成単位」が、まるで手紙や書類をシュレッダーにかけるかのように、「個人という単位」というものに細分化されていくと、当然ながら、文化伝達のスタイルに非常に大きな影響が出る。
例えば、近代を特徴づけていた「バーティカルな親子間の文化伝達」がやや廃れていき、同時に「ホリゾンタルな同世代間の文化伝達」がよりパワーをもつようになっていく可能性は、たぶん高い。(ホリゾンタルな繋がりから成り立っているTwitterやFacebookなどのコミュニケーションツールは、まさにホリゾンタルな文化伝達の典型だ)


だが、そうだとしても、
文化というものは、世代間伝達される手法が、タテだろうと、ナナメだろうと、ヨコだろうと、そんなことよりも「伝承され続けること」そのものによって、より強くなるという面が確実にある。これを忘れてほしくない。(気を付けてほしい。伝達ではない。「伝承」だ)


1970年代のスケートボード・レジェンドのひとりShogo Kuboと平野歩夢について書いたばかりだが、両者の間に40年の歳月と世代の隔たりはあるにしても、トリックの底に流れるモチベーションにまったく差はない。
Damejima's HARDBALL | 2014年2月8日、Z-BoysのShogo Kuboからハーフパイプの平野歩夢まで、日本人横乗りライダーの40年。「写真」が追いつけないほどの平野君の「ビジョン」。
日本のノルディック複合にしても、20年前も前に悔しさを味わった荻原兄弟のような人たちが、発展を諦めることなく、Oblique(斜め)の文化伝達、つまり「親子ではない異世代間の文化伝達」に献身し続けてきてくれたことによって、日本のノルディック複合の「強い遺伝子」が途切れることなく「継承」された。

だから結局のところ、
文化を強める決め手とは、タテ・ヨコ・ナナメとかという「伝達方向」ではなくて、「積み重ねられた伝承回数」なのではないか、などと思うのである。



蛇足として、野球における文化伝達に影響を与えているアメリカの地域社会の変質について、もう少し注釈を加えておきたい。

ベースボールはアメリカ東海岸で生まれ、スケートボードのような横乗りスポーツは西海岸で発展した。確かに2つのスポーツの印象は違う。
それは「文化伝達のスタイルが、バーティカル(親子間)か、ホリゾンタル(同世代間)か」という違いからくるのではなく、むしろ、「アメリカのどこで生まれたか?」という「地域差」のほうがはるかに大きいはずだ。

例えば、ドジャースには、かつてニューヨークにあった時代にジャッキー・ロビンソンをMLBに受け入れ、そして、1958年に西海岸に移転してからも、徒手空拳でMLBにトライした野茂英雄を快く受け入れてくれた「おおらかさ」があった。そのドジャースの鷹揚な文化と、イチローを自分たちの成金文化にあくまで従わせようと必死になるヤンキースを比べれば、両者の「文化の差」は歴然としている。
こうしたヤンキースの文化的な狭量さは、ベースボール全体が抱える問題ではなく、単にヤンキース独自の問題にすぎない。ベースボールのすべてが「バーティカル」で「成金」なわけではないのである。


かつてアメリカ東海岸は、大量の移民を受け入れながら、おおらかでエネルギッシュだった時代を過ごしてきた。移民たちの膨大なエネルギーは20世紀初頭のアメリカの産業発展の基礎を担って、アメリカを大国に押し上げると同時に、MLBの発展についても多大な貢献を果たした。
ブルックリン・ドジャースやニューヨーク・ジャイアンツは、そういう時代のニューヨークで生まれ育ったチームだ。
記事:2013年11月8日、『父親とベースボール』 (8)20世紀初頭にアメリカ社会とMLBが経験した「最初の大衆化」を主導した「外野席の白人移民」の影響力 (付録:ユダヤ系移民史) | Damejima's HARDBALL

だが、サイモン&ガーファンクルが "America" という曲の歌詞で "All gone to look for America" と歌ったように、東海岸に暮らす大量の移民層は、当初こそ移民ばかりが暮らす都心のゲットー(=注:ナチスドイツ占領下のヨーロッパの「ユダヤ人ゲットー」のことではないので注意)やダウンタウンで不安定な生活に耐えつつ、近所にある「地元のボールパーク」での野球観戦などを楽しみにして暮らしていた人も多かった。
だが、やがて収入が安定し、徐々に離陸を果たして中流層になっていくと、数十万人という規模で「都心を去って郊外に移り住む人」が激増し、野球の聖地ブルックリンでさえエベッツ・フィールドに空席が目立つようになる。(ニュージャージー・ターンパイクなど、ニューヨーク周辺のフリーウェイの渋滞激化も、そうした「都心の白人たちの郊外移住と、郊外から都心に通う人々の増加」を示している)
2013年5月4日、「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。アメリカにおける「放浪」の消滅(3) サイモン&ガーファンクルの "America"の解読〜ニュージャージー・ターンパイクの渋滞の中で気づく「若者を必要としないアメリカ」 | Damejima's HARDBALL

こうした移民の質的変貌とニューヨークの変質ぶりは、例えばニューヨーク市立大学シティカレッジの輩出する人材の変化にもよく表れている。
20世紀初期、この大学は授業料が無料だったために、ヨーロッパでの迫害を命からがら逃れて来た貧しいユダヤ系移民(=下記の記事で指摘しておいた「第4波のユダヤ系移民」)が大挙して集まった。
資料:ユダヤ系移民史/2013年11月8日、『父親とベースボール』 (8)20世紀初頭にアメリカ社会とMLBが経験した「最初の大衆化」を主導した「外野席の白人移民」の影響力 (付録:ユダヤ系移民史) | Damejima's HARDBALL

ニューヨーク市立大学シティカレッジが送り出す人材の届け先は、当初はThe New York Intellectuals(=「ニューヨーク知識人」)と呼ばれるリベラルなグループだったが、やがて新・保守主義(=ネオ・コンサーバティズム、いわゆる「ネオコン」)に変わり、その翼は大きく旋回した。
彼らの指向の変化を、知的彷徨だのなんだのと褒めちぎりつつイデオロギーの上から追いかけまわすと、わけがわからなくなって道に迷うだけだが、旋回の根底にあるエネルギー源が「移民層の社会的地位の向上」であることに気付くと、話は一挙にわかりやすくなる。
簡単にいえば、「経済的離陸を果たした移民層が、社会的な地位の向上によって、考え方を大きく変えた」のである。
(残念なことに、人は社会の底辺にいれば「社会を壊せ」などといい、浮上すればこんどは「社会を守れ」などといいだす。まことにやっかいな生き物なのだ。猪瀬直樹なども、ジャーナリストだった時期と、東京都知事である時期とで、別人のようなふるまいをしていたに違いない)

こうしてアメリカ東海岸が、移民時代に培った「おおらかさ」を失い、よくある保守的な土地のひとつとしての性格を帯びていくと、東海岸の住民であるジャック・ケルアックが1940年代に古きよきアメリカを探して東海岸を抜け出し、西海岸に向かって北米横断の放浪をしたように、移民時代以前にあった昔のアメリカのおおらかな空気は、こと東海岸では、図書館の書物の中にしか存在しなくなっていく。(実は、ケルアックが放浪旅を決行したときには、アメリカ国内における「放浪という文化」はほとんど根絶やしにされつつあった
Damejima's HARDBALL | カテゴリー : 『1958年の西海岸』 アメリカにおける放浪の消滅

Damejima's HARDBALL | 2013年5月4日、「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。アメリカにおける「放浪」の消滅(3) サイモン&ガーファンクルの "America"の解読〜ニュージャージー・ターンパイクの渋滞の中で気づく「若者を必要としないアメリカ」

ブルックリン・ドジャースとニューヨーク・ジャイアンツが新興チームであるヤンキースに押し出されるように西海岸に転出することになった背景には、こうした「20世紀以降のアメリカ社会の質的変化」が隠れているのである。

自由の女神は今もたしかにニューヨークにあり、そしてヤンキースはあいかわらずあたかも自分こそがニューヨークとMLBの盟主であるかのようにふるまいたがっている。
だが、だからといってニューヨークという街が、いつまでも永遠に本来の意味のアメリカらしさを失わず「アメリカらしい自由の象徴」であり続けているわけではない。

「90年代からすでに(ニューヨークの)保守化は進んでいるよ。ジュリアーニが市長になってからはずっとそう。今のNYは昔よりもずっと安全なぶん、ずっと退屈。ただの金持ちのための街になってしまった。」
----ジェームズ・チャンス(ミュージシャン)


damejima at 04:12

January 07, 2014

これまで「父親とベースボール」シリーズでやろうとしたことのひとつは、1977年にヒットしたテレビドラマ「ルーツ」がやったように、「アフリカ系アメリカ人がアメリカ内部をどう移動してきたか」を簡単にたどってみることで、時代によって彼らの目に「アメリカ」がどう見えていたのかを垣間見ることなわけだが、住んでいる場所の移動にはいくつかの「ポイント」があって、それぞれが彼らの歴史のターニングポイントになっている。

例えば、三角貿易の時代に西アフリカから奴隷船でアメリカに連れてこられ、到着したサウスカロライナ州チャールストンのような奴隷交易港。南部の綿花畑のようなプランテーション。Underground Railroadによる北部への脱出。Great Migrationにおけるニューヨークのような北部の大都市への移住。そして、南部回帰。

おそらくアフリカ系アメリカ人は、場所を移動するたび、それぞれの街で、さまざまな「白人」と出会っただろう。
奴隷商人。プランテーションの主人。Underground Railroadをこっそり支援してくれる進歩的と呼ばれる白人。ニューヨークのダウンタウンに住んでいる白人。大都市でアフリカ系アメリカ人と職をどりあうような立場の、貧しい白人。


これまで「父親とベースボール」シリーズに欠けていた視点のひとつは、肌の黒いアフリカ系アメリカ人が運命に流され、アメリカ国内を流転し続ける中で出会った「さまざまな立場の白人たち」の多くが、アメリカ以外の場所から来た「移民」であるという視点だ。

例えば、アメリカ史の資料を読んでいると、移民の国だけあって、よく「アメリカにはドイツ系移民が多い」とか、「この人はアイルランド系」といったふうに、「なになに系」という記述に非常に頻繁に出くわすことになる。
こうした場合に、例えば「ドイツ系」と書かれている文章をもう少し掘り下げて読んでみると、その記述が意味する「ドイツ系」が一定のパーセンテージで「ドイツ系ユダヤ移民」を指す場合がある。
また、同じように「東ヨーロッパ系移民」という表現が、実際には「東欧系ユダヤ移民」を指すと考えて読むと、意味がはるかにわかりやすくなる場合もある。

一例をあげると、例えば映画『ドラゴンタトゥーの女』でリサベット・サランデルを演じたルーニー・マーラの曽祖父にあたるNFL ニューヨーク・ジャイアンツの創始者ティム・マーラについて書いた記事で、彼の経歴を「ロウワー・イーストサイドの貧しい家庭に生まれ、13歳で映画館の案内係になり、通りで新聞を売る仕事を経てブックメーカーの使い走りになり、さらに18歳のとき彼自身がブックメーカーになった」と書いたわけだが、かつて東欧系の貧しいユダヤ系移民が「ニューヨークのロウワー・イーストサイド」に多数住んでいたことを考慮すると、ティム・マーラのキャリアが、東欧系ユダヤ移民の典型的すぎるくらい典型的なサクセスストーリーであることに気づく。
Damejima's HARDBALL:2012年12月21日、ニューヨークまみれのクリスマス・キャロル(2) NFLニューヨーク・ジャイアンツとティム・マーラとポロ・グラウンズ

また、MLB サンフランシスコ・ジャイアンツの元オーナー、ピーター・マゴワンについて、「かつてアメリカの三大投資銀行のひとつとして名を馳せた、かのメリル・リンチの創業者、そして全米屈指のスーパーマーケットSafewayの創業者でもあるチャールズ・メリル (1885-1956)の孫」と書いたことがあるが、このチャールズ・メリルの「投資銀行で成功するというサクセスストーリー」もまた、ユダヤ系移民の典型的なサクセスストーリーだ。
Damejima's HARDBALL:2013年2月11日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」 (8)番外編 三代たてば、なんとやら。「ステロイド・イネーブラ」と呼ばれたピーター・マゴワン。


アフリカ系アメリカ人ばかりに関心を向けて書いていたときには、明らかに注意不足だったわけだが、アメリカに流入した移民は、なにもイギリスの主導する三角貿易によってアメリカに連れてこられたアフリカ系アメリカ人だけではなく、ヨーロッパからの白人移民も新移民・旧移民入り乱れて、大量に入ってきている。
だから、アフリカ系アメリカ人とさまざまな立場の白人、特に「マイノリティ白人」といわれる貧しい白人移民との間には複雑な関係があるわけだが、これについては、この勉強不足なブログ程度で書き切れるような話ではないにしても、「父親とベースボール」ではあまりにボンヤリとしか記述できていなかった。
Damejima's HARDBALL:2012年8月4日、父親とベースボール (5)アメリカが抱えこんだ二面性の発見 「とても自由で、とても不自由なアメリカ」


自省の意味をこめて、少しは「アフリカ系アメリカ人と白人移民との関係」について、情報を書き加えておかなくてはならない。

例えば、アフリカ系アメリカ人の北部へのGreat Migrationで、例えばニューヨークに移住したアフリカ系アメリカ人は「職にありつこうとしても熟練した技術が必要な職人仕事にはなかなかつけなかった」などという記述がよくある。なにごとも技術の熟練にはとかく時間がかかるわけだが、それ以外にも、東欧から移住してきた貧しいユダヤ系移民に職人が多かったために、ニューヨークの職人系の仕事が東欧系ユダヤ移民に流れたということも関係している。
また、アイルランド系移民は、南北戦争では奴隷制維持を支持し、ニューヨークでアフリカ系住民の家を襲撃することさえ行っている。その理由のひとつは、奴隷解放が実現すれば自分たちの仕事が減るという危機意識だ。また、1880年代に盛んになった労働運動や労働組合はアイルランド系移民の社会的地位の向上に非常に大きな役割を果たしたが、それらの組織は他方で、アフリカ系アメリカ人をアイルランド系移民が多くを占める仕事から締め出すという作用も果たした。





damejima at 01:40

November 29, 2013

まず前記事を要約する。

20世紀初頭のMLBのスタジアムで「イタリア系、ポーランド系、ユダヤ系など、『新参の白人移民』が外野席を占める」という現象がみられるようになった。その背景には、ヨーロッパ、特に東欧やドイツからアメリカに移住してきた「新参の白人移民」の急激な増加があった。
やがてこうした新参の白人移民の社会進出が進み、一方でマス・メディアの発達が始まると、アメリカ社会に「大衆化」現象がはっきり表れた。
MLBにおいても、チームオーナー、プレーヤー、ファン、すべての領域において、「新参の白人移民の参入」が急速に進行した結果、ベースボールは最初の「大衆化」のステップを経験することになった。(ここでいう「大衆化」とは、いうまでもなく白人限定の意味での大衆化)
前記事:Damejima's HARDBALL:2013年11月8日、父親とベースボール (8)20世紀初頭にアメリカ社会とMLBが経験した「最初の大衆化」を主導した「外野席の白人移民」の影響力

自分で書いておいて言うのもなんだが(笑)
「アメリカ社会の変貌を効率よく把握する上で、1920年代の『新参の白人移民の社会進出』を分岐点のひとつととらえて、前後で切り分けて考える」という視点は、アメリカ史を考える上で、あるいは、「20世紀特有の大衆化社会」というものを正確に把握する上で、とても役に立つ整理方法、だと思う。


さて、この「新参の白人移民の急速な社会進出」をきっかけにアメリカ社会に起きた「大衆化」現象を、独立戦争より前からアメリカに住み、長くアメリカの土台を築き上げてきた「古参の白人移民」は、どう感じていたのだろうか

古参の白人移民の感じた「不快感」を示す、こんなエピソードがある。

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1920年1月、MLBに大事件が起きた。
ボストン・レッドソックスに在籍していたベーブ・ルースがヤンキースにトレードされたのである。

この劇的なトレードはMLBファンなら誰でも知っているわけだが、当時のレッドソックスのオーナーが、Harry Frazee(ハリー・フレイジー)という名の男であることは知らない人が多い。
彼の本業はブロードウェイの劇場関係の仕事だが、当時の彼は球団購入のための借りた借金と本業の経営難から、とても金に困っていて、それがベーブ・ルースをトレードする原因になったといわれている。

Harry FrazeeHarry Frazee
(1898-1929)

最初に誤解が生じないようにことわっておくと、このHarry Frazeeなる人物は、「ユダヤ系移民」ではなく、スコットランド移民だ。
資料例:For Harry Frazee III, 'The Curse' has different meaning - seattlepi.com

だが、この「ユダヤ系移民ではない」Harry Frazeeを、「ユダヤ人」と決めつけた上で、 "How Jews Degraded Baseball" (『いかにユダヤ人が野球を貶めているか』)と題する1921年9月10日付の攻撃的な記事など、非常に強い論調で批判し続けたミシガン州の新聞がある。
反セミティズム主義(=ある種の『反ユダヤ主義』)でも有名な、あの自動車王、ヘンリー・フォードが1927年まで所有したThe Dearborn Independent紙だ。(ちなみにDearbornとは、ミシガン州にある地名で、ヘンリー・フォードの出身地)
The Dearborn Independent紙は、筆禍から1927年に廃刊されるまで、たとえ根拠があろうがなかろうが、おかまいなしに、ありとあらゆる「気にいらないもの」を「ユダヤ」と決めつけ、世間にユダヤ移民の影響の排除を促す攻撃的な記事を数多く掲載する反ユダヤキャンペーンを続けた。
同紙の攻撃ターゲットは、ベースボールだけでなく、ジャズから金融ビジネス、果ては飲酒習慣にまで及び、やがてThe Dearborn Independent紙の主張した「ユダヤ脅威論」は、"The International Jew" のような典型的な反ユダヤ主義のテキストとしてまとめられたことで、遠くナチズムにまで影響したといわれている。
資料:Harry Frazee and the Red Sox | SABR

The International Jew - Wikipedia, the free encyclopedia

The Dearborn Independent, Sept. 3, 1921The Dearborn Independent - Wikipedia, the free encyclopedia


と、このエピソードだけを読むと、ヘンリー・フォードだけがあまりにも歪んだ差別主義者で、故郷の新聞社を買収してまでして、自分の歪んだ主義主張を世間に広めようと、身銭を切って印刷した新聞を無料で配布しまくった「えげつない世論操作」とでも思われそうだが、実際には、あながちそれが全てともいえない部分がある。
というのは、このThe Dearborn Independent紙が1925年当時のミシガン州で、実に「90万部」もの発行部数を維持していたからだ。マスメディアが未発達だった時代のことだから、この「90万部」という発行部数はけして少なくない。当時それを越える部数を発行できていた地域紙といえば、他にはニューヨーク・デイリーニューズくらいしかない。
発行部数データの出典:The Dearborn Independent - Wikipedia, the free encyclopedia


この耳ざわりのけしてよくないエピソードを紹介した理由は、「アメリカの古参の白人移民にとっては、新参の白人移民の急速な社会進出が、我慢できないほど不愉快なものでもあった」というニュアンスを肌感覚としてわかってもらうためだ。
ヘンリー・フォードのThe Deaborn Independent紙を通じた常軌を逸した人種的偏見キャンペーンは糾弾されてもいたしかたない事実ではあるが、その一方で、ドイツや東欧出身の新参の白人移民の流入によって濁流のようなパワーとスピードで起こった「大衆化」現象が、けして在来のアメリカ人のすべてに快く受け入れられていたわけではなかったことも、また事実なのである。


1920年代以降、「大衆化」が急激に進むアメリカ社会に渦巻いていた「強烈なモチベーション」は、ブログ主の考えでは、2つある。
ひとつは、新参の白人移民の「社会進出や自己実現に対する強烈な欲望」であり、もうひとつが、「そうした新参の移民の急速な社会進出を、冷ややかに眺める古参の白人移民の感じていた不快感」だ。
なかでも、古参の白人移民に積み重なったのは、鬱積したネガティブなモチベーションであり、これはやがて「なにがなんでも『他者』という目障りな存在を排除したい」という「差別欲求」をも産み出し、アメリカ社会のさまざまなネガティブな要素を強める元凶になったのではないかと、アメリカ史を読んでいていつも思う。

(もちろん、本来なら、この2つの「白人のモチベーション」以外にも、この時代にアメリカ南部から北部の大都市に移住を開始しはじめた奴隷出身のアフリカ系アメリカ人たちの「自由を求める強いモチベーション」も語られなければおかしい。
だが、いかんせん、まだ公民権運動すらなく、ジム・クロウがまだ幅をきかせていた1920時代という時代は、アフリカ系アメリカ人の自由への欲求や自己実現欲求は、まだ実現の糸口すら見えない暗い時代なのであって、当然ながら1920年代のMLBにアフリカ系アメリカ人の存在は、まったく影も形もない。19世紀末のUnderground Railwayを支えたハリエット・タブマンも1913年に亡くなってしまっている。
「新参の白人移民による大衆化」時代である1920年代においては、「北部に移住したアフリカ系アメリカ人」の存在感は、残念ながら、まだ「ひとりのアメリカ人として認知される」というレベルにはなく、いわば「プランテーションの奴隷に毛が生えた程度の使用人」という非人間的な扱いしか受けていない。ニューヨークのハーレムなどで肩を寄せ合って暮らした北部移住後のアフリカ系アメリカ人がアメリカ史の表舞台に登場するのは、もっとずっと後のことだ)
関連記事:Damejima's HARDBALL:2012年8月5日、父親とベースボール (6)アフリカ系アメリカ人史にみる「都市と田舎の分離」。南北戦争前のUnderground Railroadによる北部都市への脱出。南北戦争後のReconstructionの挫折による「ジム・クロウ」の誕生とGreat Migration。

1920年代のニュージャージーの工場労働者
1920年代のニュージャージーの工場労働者たち via:Maas & Waldstein Company Newark, New Jersey


人間のモチベーションの「」は、とかく複雑で、つかまえにくい。それでも「解読」を試みようと思うなら、道徳感にとらわれたままモノを考えるのは、けしてプラスにはならない。

ブログ主は、ヘンリー・フォードのユダヤ移民に対する偏見の「根」は、必ずしも人種にまつわる差別感情がすべてではなく、そのさらに奥を掘っていくと、「新参の白人移民たちが急速に社会進出してくる当時の社会において、古参の白人移民たちが感じていた『縄張り意識』からくる強い不快感」に突き当たるのではないかと考えた。
(本当は「縄張り意識が化学変化し、やがて『エリート意識』に変質していくこと」を詳しく論じるべきところだが、ここではまだ論じない。いずれにしても、表面的に「エリート意識」と見える心理の根底にあるのが、実は『強い縄張り意識』であることに気づくことができたことは、このシリーズ記事を書いてきた重要な成果のひとつだと思っている。これまで書かれた歴史書、社会史の多くが、近代特有のエリートや大衆、ナショナリズムなどの発生の源流を見誤ってきたという気すらしている)

1920年代当時のアメリカでは、映画、プロスポーツなどの娯楽産業やマスメディアは「まだ海のものとも山のものともわからないヴェンチャービジネス」というポジショニングでしかなく、だからこそ、これらの新しい産業でならばこそ、「新参の白人移民」であってもオーナーや経営者になれた。
たとえニューヨークの貧民街から成り上がったような移民でも、頑張ればMLBやNFLのオーナーになれた1920年代は、ある意味、牧歌的な時代でもあった。
対して、古参の白人移民がかねてから牛耳ってきたのは、銀行、重化学工業、自動車、石油、鉱業、運送業、保険など、いわゆる経済のメインストリームを担うビッグビジネスばかりであって、新参の白人移民がそうしたメインストリームのビジネスに簡単に参入することなど、できるわけもない。
だからこそ、新参の白人移民は、プロスポーツ、エンターテイメント、マスメディアなどの新しい産業で自分たちの生きる道を開拓し、発達させていこうとしていたわけだが、古参の移民の視点からみれば、たとえそれが自分たちの専門外の分野であっても、スタジアムの外野席でベーブ・ルースのホームランに浮かれ騒ぐ彼らの自由なふるまいが横行する事態は、次第次第に「目ざわりきわまりないもの」と映るようになっていったに違いない。

サーフィンのポイントにはよく「ローカル」と通称される地元サーファーが陣取っていて、ローカルルールを外部から来た通りすがりのサーファーに押し付けたがるものだが、それと同じように、古くからその場所にいて既得権を守りたい人間が「新参モノの登場」を喜ばないのは、どんな時代にもあることだ。
「新参モノの参入に対する反発」は、多民族国家のみならず、どこのどんな国でも、けして特殊なものではないし、それどころか「普通の人たちが、ごく普通に持っているベーシックな感情のひとつ」ですらある。

1920年代のアメリカの古参移民たちの間にもそれと同じ「縄張り意識」が非常に強くあったはずで、なんでもかんでも「ユダヤよばわり」して攻撃を加えたヘンリー・フォードの行動が常軌を逸していたのは確かだが、彼の極端な主張の根底にあるモチベーションを、人種的な偏見だけから考えるより、もっと子供っぽい感情が根底にあると考えたほうが、当時The Deaborn Independent紙がミシガン州で「90万部もの支持」を獲得できていたことに説明をつけやすいと思う。

つまり、1920年代のヘンリー・フォードは、手当たり次第になんでもかんでも「ユダヤよばわり」し、新聞記事を通じて攻撃を加えたわけだが、その理由は、「子供っぽい性格のまま大人になった『わがままなオトナ・コドモ』のヘンリーが、「自分の嫌いなもの」のすべてに対して『ユダヤ』というレッテルを貼ってまわって、蹴飛ばしまくることにした、ただそれだけのことだ」という風に見切って考えたほうが、彼の行動の執拗さの根源がかえって理解しやすくなると思うのだ。

彼のエリート意識の根源は、「ユダヤ移民に対する人種差別」というよりは、むしろ、「アメリカはオレたちが育てた畑だ。新参モノは、おとなしくしてやがれ」という、子供じみたシンプルな「縄張り意識」だ。
この「縄張り意識から派生したエリート意識」を、もう少し難しい言葉で言い直すと、「古参の移民たちが独立戦争前から大事に育て上げてきた『古き良きアメリカ』が、新参の白人移民の登場によって急速に『大衆化』し、変質していくことを、古参の白人移民たちはたまらなく不快に感じていたのではないか」という説明になるわけだが、いずれにしても言っていることの本質はまるで変わらない。


この「縄張り意識が根源にあるエリート意識説」が正しければ、ヘンリー・フォードが表現した「ユダヤへの嫌悪感」の「正体」は、「急速に大衆化社会が広がっていくことに対する嫌悪」であることになる。
だが、その「大衆化」を心底毛嫌いしたはずのヘンリー・フォードが、彼の事業を通じて後世に残した偉大な作品といえば、アメリカの「大衆化」のシンボルそのものである「大衆のための自動車」だったりするわけだから、歴史とはやはり皮肉なものだ。

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こうした「表面的には人種差別という形をとるが、その奥底に、他者を縄張りの外に排除しようとする意図が隠されている行動」は、それが表向きか本質かは別にして、アメリカという国の内側には常に渦巻いている。

例えば、Helen Thomasは、かつてUPIの大統領番記者として、ジョン・F・ケネディ以降の歴代アメリカ大統領を取材した輝かしいキャリアを持ち、2013年7月に92歳で天寿を全うしたアメリカの有名ジャーナリストだが、経験豊富な彼女にしてからが、記者キャリアの最後は反ユダヤ主義的発言の責任をとる形で引退している。

ちなみに、Helen Thomasは、ヘンリー・フォードと同じミシガン州育ちだが、ヘンリー・フォードのお膝元のデトロイトと、ニューヨークやボストンのような移民が非常に多い東海岸の諸都市との間には、街の歴史に非常に大きな相違点があって、それがMLBでいえばデトロイト・タイガースと、ヤンキースやレッドソックスとの「チームカラーの違い」にすら反映しているように思えることが多々あるのは、たぶん気のせいではないだろう。
注:
かつて、ワシントン州タコマ出身のリチャード・ブローティガンが書いた " A Baseball Game " という野球のゲームにまつわる詩についての解釈を試みたことがあったが、あの詩が「ヤンキース対タイガース戦」を題材にしていることについては、やはり、何かしらのアメリカ文化的バックグラウンドからくる「この対戦カードについて書くのでなければならない必然性」があるに違いないと、あらためて思う。
記事:Damejima's HARDBALL:2012年3月6日、「1958年の西海岸」という特別な年、特別な場所。リチャード・ブローティガン 『A Baseball Game』の野球史的解釈。


JFKを取材するHelen ThomasJFKを取材するHelen Thomas

このHelen Thomasにしても、彼女がもし単に「人種的な偏見に凝り固まっていて、ジャーナリストとしての素養のかけらすらない、評価に値しない人物」だったとしたら、大統領に直接取材する責任ある仕事を長年継続することはできなかったはずだ。

ユダヤ主義を徹底的に毛嫌いしたといわれるヘンリー・フォードだが、「経営者としての彼」はアフリカ系アメリカ人の雇用については積極的だったのであって、歴史に名を残した彼の才能のすべてを「ユダヤ移民に差別と憎悪を向け続けるのを生き甲斐にした極悪人」としてのみ説明しておしまいにするのは、ちょっと無理がありすぎる。

(南部のプランテーションが害虫ワタミハナゾウムシの大発生や市況の悪化などから急速に没落して、多くのアフリカ系アメリカ人が職を失う一方で、北部の工業都市は産業革命の進展から人手が足りずに困っていたため、デトロイトやシカゴなどのアメリカ中部の大都市では、手に技術を持つための教育を受けていない南部のアフリカ系アメリカ人でも、工場労働者として数多く受け入れられた。このことは、これ以降の記事であらためて触れる)

ブログ注:
これらのエピソードはユダヤ移民に対する人種差別事例のひとつではあるが、記述の目的は人種差別の是非を問うことそのものではない。またユダヤ主義、反ユダヤ主義の、どちらも目的としていないし、また偏見を助長したいわけではないし、また、人種についての偏った考え方を正す道徳的意図から書くわけでもない。
考えたいのは、「たくさんの人種から構成される文化」をもつ移民の国に特有の文化の特性や歴史を、わからないながらも、まずは「ありのまま」学んでみる機会を持つことだ。そうした機会を何ももたないまま、移民の国で生まれた文化である「ベースボール」、あるいは、その影響を受けた「日本」を語り続けてもしょうがない。

アメリカに限らないが、世界中からありとあらゆる人種が集まって成り立ってきた多くの国では、「人種にまつわる偏見」という、やっかいなシロモノが歴史の背骨にまで埋め込まれてしまっているのが、むしろ「普通」ではあって、さらに日常の習俗の中に抜きがたい生活要素として組み込まれてしまっていることも、けして珍しくない。(勘違いしないでもらいたいが、だからといって「多民族国家では人種差別をなくす努力なんてしなくていい」と言っているわけではない)

多くの人種が関わるスポーツであるベースボールにしても、けして綺麗ごとだけで出来てきたわけではなく、数々の偏見や失敗、あまたの紆余曲折を繰り返して現在の繁栄に至っている。
だが、幸いにもベースボールは、ジャッキー・ロビンソンのMLB加入をはじめ、困難な壁を何度も乗り越えることによって、結果的に事業としての拡張を継続できてきた。
MLBの事業拡大は、けして人種に対する偏見をなくすこと自体が目的ではないが、さまざまな壁を無くしていくMLBのたゆまぬ努力が、結果的に大きなマーケティング的成功に繋がってきたことは、ゆるがぬ事実だ。

そうした先人の Long And Winding Road を理解するためには、たくさんの人種が集まったとき、はからずも生じやすい歪んだ感情表現や根拠なき偏見を、まず可能な範囲でありのまま観察することが求められることも多い。この記事は、最初から中途半端な道徳観、倫理感に縛られて、価値観を固定されることを避け、まず事実を知ることから始めたいと望む人たちのための資料を残したいと思って書いた。
MLBとアメリカ史を、善悪の分類を目的にではなく、地に足のついたリアルな視点からきちんと接続した資料は、残念ながら、思ったほど多くないものだ。事実は事実として知ってもらいたいし、事実から何を思うか、それは個人個人の自由だと思う。

宮崎駿の『風立ちぬ』のような天真爛漫な映画作品ですら、批判することが自分たちの特権だと勘違いしている、どこぞの新聞屋から受け売りしてきた安っぽい道徳やヒューマニズムから批判したがる人たちがいるが、彼らがこれまで主張してきたような「狭苦しいモノの見方」から、もう我々日本人は脱却して自由な観点からモノを見れるようになってほしい、という願いも、もちろんある。いうまでもなく「新聞」というメディアが偏見をもたないとか、ジャーナリスト出身の東京都知事は裏金などとらないなどというのは、単なる「幻想」に過ぎない。

困り果てた顔の猪瀬直樹


damejima at 09:24

November 09, 2013

白人移民とアフリカ系アメリカ人」が都市内部に集積していくことによって支えられた20世紀初頭のアメリカ北部の大都市の膨張は、やがてマスメディアの発達に平行して、「プロスポーツ」、「映画」など、それまでなかった新しいアメリカ的娯楽を「大衆化」させていくことになる。

マスメディアが、「大衆製造マシン」のひとつであると同時に、メディア自体がひとつの「大衆文化」でもあるという「二重構造」をもつように、「大衆に浸透することに成功したスポーツ」は、それ自体が「大衆文化」であると同時に、違う地域から移住してきた見ず知らずの白人移民同士でも、白人移民とアフリカ系アメリカ人でも、古参と新参のアフリカ系アメリカ人同士の間でもコミュニケーションを成立させることのできる「共通言語」でもあり、スポーツはやがて「アメリカに住んでいる人間であることを示す『アイデンティティ』そのもの」になっていく
ことに「プロスポーツ」は、「移民」として、あるいは、「奴隷」として、それぞれに違う理由で移民の国アメリカに住むようになった、主義も主張も違う住人同士をかろうじてつなぐ、いわば「人種や世代の相違を越えた数少ない『共通の話題』のひとつ」となり、プロスポーツが「接点を持たない人同士をも接着する接着剤」のような存在となったことで、歴史的文化的共通感覚を持たない数多くの人種を抱えこんだニューヨークのような大都市にとっては、「その街に住む住人が共通してもっている「地域アイデンティティ」を表示してくれるラベル』」としての役割を背負うことになった。(例:ニューヨーカー=ヤンキースファン)


ただ、ひとつ気をつけておかなければいけないのは、ここでいう「20世紀初頭にベースボールが経験した最初の大衆化のステップ」とは、「全米のあらゆる層とあらゆる地域への拡大」という意味ではない、ということだ。
「20世紀初頭にMLBが経験した最初の大衆化」はあくまで、「移民してきてからまだ歴史の浅い白人移民層への拡大」という限定された意味であり、アフリカ系アメリカ人をまだ含まないし、地域的にいっても、西海岸をまだ含むものではない

野球という娯楽がナショナル・パスタイム(=国民的娯楽)と言われるまでの存在に成長するには、MLBがあらゆる人種に開放されること、そして、1958年のドジャースとジャイアンツの西海岸移転に象徴されるように、MLBがアメリカ西海岸へ拡張されること、この2つが必要不可欠だ。
(白人移民が大衆文化を育てる一方で、アフリカ系アメリカ人が南部から北部都市に大量流入し続けるGreat Migrationという現象も起こり、二グロリーグも結成されているわけだが、その動態については、このシリーズのもっと前の記事を参照してもらいたい。資料記事:Damejima's HARDBALL:「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。
Damejima's HARDBALL:「父親とベースボール」 MLBの人種構成の変化

ジャッキー・ロビンソンのMLBデビューは、ブルックリン・ドジャースが西海岸に移転する10年ほど前の1947年4月15日、ニューヨークのエベッツ・フィールドだが、この試合の観客の半分以上はアフリカ系アメリカ人で占められていた。そんな現象は「1920年代のベースボール」ではありえない。
「ボールパークの観客席」はアメリカ社会の変化を映す鏡なわけだが、「20世紀初頭のボールパークにみるアメリカ」は、まだ人種差別が色濃く残る世界で、当時のボールパークを写した写真には、観客席であれ、チケット売り場であれ、アフリカ系アメリカ人の姿を垣間見ることはできない。

20世紀初頭にMLBが経験した(限定的な意味ではあるが)「最初の大衆化」という現象に関してだけいうなら、「観客」、「プレーヤー」、「オーナー」、どの層をとっても、ベースボールの最初の大衆化を主導したのは「白人移民」、それも、「移民としては新参の貧しい移民層」であり、変な道徳観にとらわれずに歴史の事実だけを冷静にみるなら、こうした「新参の移民である貧しい白人移民」がアメリカにベースボールという娯楽を定着させ、大衆文化としての地位を作っていく最初のステップとなったといってさしつかえない。

Shibe Parkで1914年ワールドシリーズのチケットを買うMLBファン
フィラデルフィアにあったShibe Park(1908年開場)で1914年ワールドシリーズのチケットを買い求めるMLBファン

1914年ワールドシリーズにおけるボストン・ブレーブスのファン席
1914年ワールドシリーズにおけるボストン・ブレーブス側の応援席



アメリカで、ラジオ放送が正式認可されるのは1922年、白黒テレビの放送開始が1941年だから、20世紀初頭のMLBファンは、ゲームを楽しみたければ、基本的に(新聞で試合結果を読む以外には)ボールパークに足を運ぶしか手段がなかった。
だから「20世紀初頭に、どのクラスター、どの人種が、MLBの大衆化に貢献したのか」を知るには、当時の新聞記事を読むより、当時の写真で「ボールパークにどんな観客がいるのか」を眺めたほうが、はるかに手っ取り早いし、間違いがない。


ちょっと横道にそれるが、1920年代初頭に始まった「アメリカのラジオ放送の普及」とMLBの大衆化の関係ついて記しておこう。
アメリカのラジオ放送は、1920年11月ペンシルバニア州ピッツバーグでウエスチング・ハウス社のラジオ局KDKAによる実験放送が始まり、2年後の1922年11月に商務省の正式免許が下りた。
商務省が発行したKDKAへのライセンス(原本)
商務省が発行したKDKAへのライセンス(原本)



1921年8月5日にはKDKAによるMLB初のラジオ中継として、ピッツバーグ対フィリーズ戦の中継が行われたが、当時のラジオはまだ実験放送段階にあった。MLB初放送にドジャースやヤンキースのゲームでなく、この対戦カードが選ばれたのは、たぶんKDKAの地元チームだったからという単純な理由だろう。ワールドシリーズのラジオ初放送も、同じ1921年10月にKDKAとWJZによって実現している。
ラジオは、音楽以外の分野では、「スポーツ」がやがて人気コンテンツとなる可能性に早い段階から気づいていた。
Major League Baseball on the radio - Wikipedia, the free encyclopedia

スポーツキャスターのパイオニア Graham McNameeGraham McNamee

実験放送期のラジオの野球中継では、新聞記者が本業のついでに交代でキャスターをつとめた。そのため初期のMLB中継は、本職ではない新聞記者が事実をかいつまんで伝えるだけの、かなり退屈なものだったようだ。
しかしラジオ放送が正式認可された翌年、1923年のワールドシリーズの中継で、後にスポーツキャスターのパイオニアとなるGraham McNamee(1888-1942)が登場する。彼は後に、ただプレーを伝達するだけでなく、プレーのディテールや熱狂をリスナーに上手に伝える、それまでにないスポーツキャスターとしてのトークを定着させ、ラジオのスポーツ中継が普及する基礎を築いた。
彼は後に、ボクシング史に残る「ロング・カウント事件」で知られる1927年9月22日ジャック・デンプシー対ジーン・タニーのリターンマッチの実況も行っており、また、CBSのオーソン・ウェルズのラジオ番組に1940年に出演した記録も残っている。(http://en.wikipedia.org/wiki/Orson_Welles_radiography)



本題に戻ろう。
ラジオのような「紙でない媒体」の普及とMLBの大衆化が平行して進んでいく以前の、20世紀初頭前後のボールパークには、いったいどんな「人種」の野球ファンが来ていたのだろう。
ある資料に、こんな記述がある。
Some derided the influx of new fans to urban ballparks, in part because of the growing visibility in the bleachers of the sons and daughters of working-class Italian, Polish, and Jewish immigrants.
都会の野球場における新参ファンの流入を嘲笑うものもいた。外野席にイタリア系、ポーランド系、ユダヤ系移民のワーキング・クラスの子女が目に見えて増加しつつあったことが、その理由のひとつだ。
The National Pastime in the 1920s: The Rise of the Baseball Fan

この資料は、20世紀初頭のMLBの大衆化を支えたのが「どの人種、どの層だったのか」を具体的に書いてくれていてわかりやすい。当時のアメリカの大都市で「外野席を埋めることで、ベースボールの最初の大衆化に貢献した」のは、「移民としては新参の、貧しい白人移民だった」というわけだ。
(なぜアメリカの移民史の中で、イタリア系、ポーランド系、ユダヤ系などの「新参の移民」たちが、イギリス系、スコットランド系、アイルランド系など「古参の入植者」から「新参モノ扱い」され、蔑んだ目で見られたのかなど、「移民と移民の間の力学」は、アメリカ史を知る上で重要な部分のひとつだから、アフリカ系アメリカ人がMLBで退潮しつつある理由を探る上でも、複雑な白人移民同士の関係も少しはかじっておく必要があるだろうとは思う。だが話が長くなり過ぎるため、ここでは割愛したい。白人移民とアフリカ系アメリカ人との関係については、別記事で書く)


結論から先にいえば、20世紀初頭のMLBの大衆化を語るには、「観客」、「プレーヤー」、「チームオーナー」のすべてにおいて、「新参の白人移民」の存在を抜きには語れない。
「20世紀初期のMLBで、新参の白人移民たちが外野席を占めはじめた」というエピソードは、「観客層の拡大」の話なわけだが、以下でみるように、「プレーヤー」、「オーナー」についても、まったく同じことがいえる。

例えば「プレーヤー」について少し触れると、20世紀初頭の殿堂入り選手のうち、かなりの数が「貧しい白人移民の子供」だ。
ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、チャーリー・ゲーリンジャーはドイツからきた移民の息子であり、同じように、スタン・ミュージアル、アル・シモンズはポーランド移民の子、ハンク・グリーンバーグはユダヤ移民の子、ウィリー・キーラーはアイルランド移民の子、そしてジョー・ディマジオ、ヨギ・ベラはイタリア移民の子だ。(メリーランド州出身者が多いのは、おそらく当時メリーランドが宗教の自由を認めて、さまざまな移民を受け入れていたという歴史的背景によるだろう)
彼らの「家庭」「父親」はおしなべて貧しく、仕事も、職人ならまだいいほうで、港湾の沖仲仕(stevedore)のような、熟練を必要とされない不安定で低賃金な仕事にしかありつけないプア・ホワイトの移民が多かった。(例:ボストン、ニューヨークなど、東海岸の港での荷役は、仕事そのものは古参の移民であるドイツ系移民とアイルランド系移民が独占していたが、1930年代ボルチモア港の沖仲仕の80%はポーランド移民だったように、沖仲仕として雇われるのは新参の移民だった)

まさに「父親とベースボール」なのである。


「観客」、「プレーヤー」に続いて、「オーナー」についても書きたいが、その前に、他サイトからの聞きかじり、受け売りで申し訳ないが、「ユダヤ系移民の歴史」に触れておきたい。(本当ならあらゆる人種の移民史に触れるといいのかもしれないが、不勉強なブログ主には、とてもじゃないが手に余る)

下記資料によれば、ユダヤ系移民には「5つの波」があるという。
第1波:スファラディムのアメリカ移住
第2波:ドイツ系ユダヤ人
第3波:東欧系ユダヤ人
第4波:ドイツ系知識人
第5波:ロシア系ユダヤ人の移住
資料:ユダヤ人のアメリカ移住史


第1波:スファラディムの南米経由のアメリカ移住
(17世紀以降 数千人規模)
オリジナルのユダヤ人がローマ帝国に対して起こした独立戦争に敗北して追放され、ユダヤ人は世界中に離散したが、これを「ディアスポラ」という。
ディアスポラ以降後のユダヤ人は、大きく分けて「スファラディム」と「アシュケナージ」という2つの流れをもち、オリエンタルなスファラディム(セファルディムとも表記される)はスペインなどの南欧に移住し、東欧の黒海沿岸で栄えた遊牧民族国家ハザール帝国に起源をもつといわれるアシュケナージはロシアや東欧に定住した。
スファラディムは、イスラム統治時代のイベリア半島に数多くいたが、当時のユダヤ人は現代のようにイスラム教国との間で紛争を繰り返していたわけではなく、むしろ、イスラム教国から自治権や特権を与えられ、繁栄していたというから驚く。

しかし、レコンキスタ(=キリスト教国によるイベリア半島の再征服活動。15世紀末に完結した)が完成すると、イスラム教国のもとで繁栄したスファラディムはカトリック教国となったイベリア半島から追放されることになった。
追放後の彼らは南米のブラジルなどに移住し鉱山事業などを成功させるが、やがてその富はスペインやポルトガルに奪われ、さらにアメリカに移住して17世紀末にはマンハッタンにたどり着き、ニューヨークにおける古参の移民層のひとつとなった。
かつて、別の記事で(=Damejima's HARDBALL:2012年12月21日、ニューヨークまみれのクリスマス・キャロル(1) ワシントン・アーヴィングとクリスマスとバットマン)、古い時代のニューヨークがオランダ系移民の多い入植地だったことを書いたが、マンハッタンを買い取って「ニューアムステルダム」と名付けたのが「オランダ系のスファラディム」だったと資料にある。
ニューアムステルダムは後に「ニューヨーク」と名を変え、やがて世界中から移民が集まり、同時に、アメリカ南部から北部に脱出してくるアフリカ系アメリカ人も集まる、いわゆる「人種のるつぼ」になっていく。


第2波:48ersに含まれたドイツ系ユダヤ人
(19世紀末 20数万人規模)
19世紀初頭までヨーロッパ全体を支配していたウィーン体制は、1848年革命によって崩壊に向かうが、ドイツでは1848年革命が鎮圧され、行き場を失った自由主義的な人たちの一部がアメリカに移住した。
この19世紀中期(=1820年から1870年頃まで)にアメリカに移住したドイツ系移民を1848年革命にひっかけて「48ers」(フォーティ・エイターズ)と呼ぶ。「48ers」は、移民の街ニューヨークはもとより、セントルイス、インディアナポリス、ウィスコンシン、テキサス、シンシナティなど、もともとドイツ人入植者の多かった地域に多くが移住し、やがてそれぞれの都市の中流住民になった。

この「48ers」には多数の「ユダヤ系移民」が含まれていて、彼らは街頭の物売りなどから身を起こし、さらに綿花、鉱山、鉄道、土地投機などの分野で成功する者、あるいは、創生期のウォール街で成功をおさめる者も現れた。
とりわけドイツ系ユダヤ移民の金融業における成功は、投資銀行の成功などめざましいものがあり、彼らは当時のアメリカ国内の成長産業だった鉄道などの成長に必要な資金を、母国ドイツやヨーロッパ各地にいるユダヤ系資本とのコネクションから調達し、新興国アメリカの爆発的成長を支え続けた。
移民の街ニューヨークでは、こうした成功したドイツ系ユダヤ移民がアッパーイーストサイドやアッパーウェストサイドといった「アップタウン」で暮らす富裕層になっていったが、彼らは宗教に関して同化主義的でユダヤ教色が希薄だったことから、やがてアメリカ国内で準WASP的扱いを受けることに成功したと資料にある。


第3波:ボグロムを逃れた東欧系ユダヤ人
(19世紀末 100万人規模)
1880年代初頭に帝政ロシアで始まった「ボグロム」と呼ばれるユダヤ人迫害で、ロシアから東欧にかけての広い地域で大量のユダヤ人虐殺が起こり、それらのエリアで最下層に属していたユダヤ人(この場合はアシュケナージ)が大量にアメリカに逃れたため、アメリカのユダヤ系移民の人口は一気に拡大した。

Jacob Henry SchiffJacob Henry Schiff

ちなみに日露戦争はこの時代の話だが、当時アメリカのユダヤ系移民の中心的存在だった金融業者Jacob Henry Schiffヤコブ・シフ)が、日本が日露戦争に必要な戦費を賄うための公債を高橋是清から購入した背景には、ユダヤ人虐殺を強行した当時の帝政ロシアへの激しい反発があったと説明されている。

移民第3波の「東欧系ユダヤ移民」の大量流入により、アメリカにおけるユダヤ系移民の85%が東欧系になる。ニューヨークでは、第2波移民のドイツ系ユダヤ人がアップタウンに住んだのに対し、第3波の東欧系はダウンタウンに住み、例えばロウワー・イーストサイドにはおびただしい数の東欧系が移住した。
有名人で例を挙げると、ロバート・レッドフォード主演の野球映画『ナチュラル』の原作者バーナード・マラマッドは、父親がロシア系ユダヤ移民で、ニューヨークのブルックリンで1914年に生まれている。また、名曲 " America " で、All gone to look for Americaと歌っているポール・サイモンは、祖父が東欧ルーマニアからアメリカに移住してきたユダヤ系アメリカ人で、生まれはニュージャージーだが、育ったのはニューヨークのクイーンズ地区だ。
参考記事:Damejima's HARDBALL:2013年5月4日、「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。アメリカにおける「放浪」の消滅(3) サイモン&ガーファンクルの "America"の解読〜ニュージャージー・ターンパイクの渋滞の中で気づく「若者を必要としないアメリカ」

東欧系ユダヤ移民は、アメリカでも母国と同様の貧しい暮らしを送ったようだが、手に技術のある者も多く、手に職のないアフリカ系アメリカ人の北部移住と違って、職人として生計を立てていくことが可能だった。(ティム・マーラやレオナ・ヘルムズリーの親が職人であるのには、こうした背景がある)
ユダヤ系移民の「第2波」である「ドイツ系」がアメリカへの同化を希望してユダヤ教色が希薄であるのと違って、ユダヤ系移民「第3波」の「東欧系」は、アシュケナージの特徴のひとつであるイディッシュ語を話す正統派のユダヤ教徒であり、ユダヤ教色が強いと資料にある。
東欧系移民の大量流入は、1924年移民法(Immigration Act of 1924)の制定による移民制限で終わる。


第4波:ナチス迫害を逃れるドイツ系移民
(数十万人規模)
第4波のユダヤ系移民は、1933年のナチス・ドイツ成立とともに、ドイツやオーストリアからアメリカに逃れた25万ものユダヤ人で、その中にはかなりの数の知識人・文化人が含まれた。また、ユダヤ人でない知識人の中にも、ユダヤ人の同僚や教師の移住をきっかけにアメリカ移住を決断する者が続出したため、当時のドイツはかなりの量の知識と文化を失った。(「原爆」の開発場所が、結果としてドイツでなくアメリカになったのも、この時代の「ドイツからアメリカへの知識流出」が背景にある)
アメリカのユダヤ系人口は、1924年移民法で東欧からのユダヤ移民が制限された1925年には「380万人」だったが、第二次世界大戦中の1940年時点には100万人も増えて「480万人」に到達している。居住地は、100数十万人ものユダヤ系住民が暮らすニューヨークを筆頭に、ロサンゼルス、フィラデルフィア、マイアミ、ボストン、ワシントンなどとなっている。

Chiune Sugihara
ちなみに、第二次大戦中、東欧リトアニアの日本領事・杉原千畝は、ポーランドからアメリカなどに逃れようとするユダヤ人にビザを発給し、6000余名もの人命を救った。1985年、日本人で初、そして唯一の「諸国民の中の正義の人」に選ばれている。


George Sorosジョージ・ソロスは、ナチス・ドイツの侵攻を受けたハンガリーのブダペスト出身のユダヤ系移民で、アメリカに渡ってウォール街で投資ファンドを起こして成功を収めた。彼は第4波ユダヤ移民の一部であると同時に、アメリカに渡って金融業で成功を収めた第2波ユダヤ移民「48ers」と同じ成功パターンをたどった人物ともいえる。彼はこれまで、ドラスティックな投資家としてグローバル経済の恩恵を享受しつつ、同時に、学者・慈善家としてグローバル経済の欠陥を執拗に批判し続けてきた。彼の矛盾した姿勢に対する批判もけして少なくないが、彼の業績をどう判断するはともかくとして、彼の「自分の気にいらないもの(例えばジョージ・ブッシュ)対する批判の執拗さ」だけをとりあげるなら、かつてユダヤ嫌いで有名だったヘンリー・フォードにどこか似ていなくもないのが、なんとも不可思議ではある。つまり、ユダヤ系であるはずのソロスのモチベーションには、少なくともマックス・ウェーバーが1904年に「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で指摘したような「儲けることと、社会貢献を徹底した形で両立させることへの義務感」のようなものが強く根底に流れている、ということだ。ソロスのこうした複雑なメンタリティの解読は、現代アメリカのビヘビアのこれからを読み解く大きな鍵でもある。


第5波:ロシア系ユダヤ人の国外移住
(20世紀末 数万人規模)
1989年1月のソ連の国勢調査によれば、当時のソ連国内のユダヤ人口は145万人で、うち6万人がアメリカへ移住。また、1990年〜1993年にソ連を去った58万人のユダヤ人のうち、80%はイスラエルへ移住したらしい。
こうした現象の背景にあるのが、1981年にイスラエルとソ連の間で行われた会議と、1989年12月に当時のゴルバチョフ元大統領とブッシュ大統領の間で行われたマルタ会談の、2つの会談。これらの会談によって、ソ連側はロシア系ユダヤ人をイスラエル西岸地区へ移民させることに同意し、また東欧民主化を保証したと資料にある。ブッシュ大統領はソ連のユダヤ人の国外移住を制限しないという条件で、ソ連に「最恵国待遇」を与え、経済協力を約束した。
これらの経緯がきっかけで結果的に米ソ冷戦は終結したものの、かわりに世界は中東紛争という新たな火種を抱えることになったわけだ。中東紛争にユダヤ人入植者の問題が絡んでいることはテレビのニュースで知っていても、その出自がアメリカではなくロシアにルーツがあることには非常に驚かされる。


上のユダヤ移民の歴史をふまえた上で、改めて、このブログで、20世紀初頭にアメリカのプロスポーツで「オーナー」になった人々に触れたいくつかの記事を振り返ると、それらが実にピタリと移民の歴史に沿っていることがわかる。

一例をあげると、例えば映画『ドラゴンタトゥーの女』でリサベット・サランデルを演じたルーニー・マーラの曽祖父にあたるNFL ニューヨーク・ジャイアンツの創始者ティム・マーラについて書いた記事で、彼の経歴を「ロウワー・イーストサイドの貧しい家庭に生まれ、13歳で映画館の案内係になり、通りで新聞を売る仕事を経てブックメーカーの使い走りになり、さらに18歳のとき彼自身がブックメーカーになった」と書いたわけだが、東欧系のユダヤ系移民が「ニューヨークのロウワー・イーストサイド」に多数住んでいた歴史を考慮すると、ティム・マーラのキャリアは東欧系ユダヤ移民の典型的すぎるくらい典型的なサクセスストーリーなのだろうと気づかされる。
Damejima's HARDBALL:2012年12月21日、ニューヨークまみれのクリスマス・キャロル(2) NFLニューヨーク・ジャイアンツとティム・マーラとポロ・グラウンズ

また、MLB サンフランシスコ・ジャイアンツの元オーナー、ピーター・マゴワンについて「かつてアメリカの三大投資銀行のひとつとして名を馳せた、かのメリル・リンチの創業者、そして全米屈指のスーパーマーケットSafewayの創業者でもあるチャールズ・メリル (1885-1956)の孫である」と書いたが、チャールズ・メリルの「投資銀行で成功するというサクセスストーリー」もまた、ユダヤ系移民における典型的なサクセスストーリーだろう。
Damejima's HARDBALL:2013年2月11日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」 (8)番外編 三代たてば、なんとやら。「ステロイド・イネーブラ」と呼ばれたピーター・マゴワン。


上記のユダヤ系移民の歴史資料に、「アメリカの映画は、最初の頃から東欧ユダヤ人の参画によってスタートした」という記述がある。もう少し記述を引用してみる。
(アメリカの)初期の映画産業は、貧しく、無学な労働者層を観客とするもので、一般には「低級な娯楽」とみなされていた。そのため、当時、この未成熟産業が大方の予想を裏切って主要産業へと急成長することを予測しえた者は極めて少なかった。

この文章の、「映画産業」という部分は、それを「アメリカの娯楽」、「アメリカのスポーツ」、「アメリカのメディア産業」、「アメリカのエンターテイメント」などに置き換えたとしても、それぞれ、そっくりそのまま成り立ってしまう。
このことからも、20世紀初頭のアメリカ文化の形成における白人移民の影響力の大きさがわかるというものだ。
(イギリスからの移民で、20世紀初頭にたくさんの無声映画に出演したチャールズ・チャップリンは、1920年前後には、ポール・サイモンが幼少期に住んでいたのと同じニューヨーク州クイーンズのキュー・ガーデン地区に住んでいた。またジョージ・ガーシュウィンも同じキュー・ガーデンに住んでいたことがある)

NFLニューヨーク・ジャイアンツのかつてのオーナー、ティム・マーラが若い貧しい時代に新聞売りから身を起こして、ジャイアンツのオーナーになったとき、今から思えば彼がオーナーシップを買うために支払った金額はほんのわずかなものであったように、20世紀初頭のアメリカにおいて、将来のプロスポーツが現在のような巨大マーケットに成長するとは、先見の明のあった移民の一部の人々以外、誰も予想していなかった。


あまりに端折った話に終始してしまったが、ベースボールの「最初の大衆化」が「白人移民の拡大」と深いつながりがあること、つまり、草創期のMLBで「観客」を形成した層、「プレーヤー」を形成した層、「オーナー」を形成した層(そしてもちろん「二グロ・リーグ」を形成した層も)は、それぞれが「特定の人種やクラスター」にルーツをもっていることがわかってもらえただろうと思う。

「ベースボールの経験した最初の大衆化」では、明らかにアメリカ東岸や五大湖エリアの大都市のダウンタウンに住む白人移民労働者の人口増大や所得増加が関係している。(もっと後の「ベースボールのナショナル・パスタイム化」でいえば、西海岸へのMLB拡張やアフリカ系アメリカ人のインテグレーションが影響している)


誰が先にアメリカに来たか、誰が後からやってきたか、誰が誰の場所を奪って自分のものにするか、そうした「人種間の、あるいは、人種内部の摩擦の問題」が相互に、かつ、複雑にからみあうのが、アメリカという国の難しさ、わかりにくさだが、MLBの成り立ちや課題についても、やはりこうした「誰が、いつ、来たのか」という「ややこしい順番の問題」を無視しては語れないのだ。

damejima at 09:25

April 19, 2013

アメリカはあらゆる場所、あらゆる街に、プロスポーツとファーストフード店がてんこ盛りになっていて、どこもかしこも騒々しい。と、思う人もいるが、アメリカにも「何もない」と感じる場所はある。


夜の地球

衛星写真で夜のアメリカをみると、「西半分」は、煌々と明るい「東半分」よりも、はるかに暗い。地勢が山がちな西には、平地の多い東よりも人家が少ない、というわけだ。それは、MLBがまず東海岸で生まれ、それから西に向かって拡張されていった理由のひとつでもあるだろう。1958年のドジャースとジャイアンツの西海岸移転は、ひとつの「西部劇」、ひとつの「ゴールドラッシュ」だったのだ。

たとえば、北西の山がちなモンタナ州には、MLBを含め、プロスポーツの本拠地がない。MLBでいうと、本拠地どころか、モンタナ出身プレーヤー自体が片手で数えられるほどしかいない。(例えばロブ・ジョンソン)

州別のMLB球団所在地、モンタナ州


宇宙では、物質と物質は密集して存在しているわけではなくて、むしろモノ同士が、たがいにはるか遠く離れあい、微妙な均衡を維持しあいながら、「疎なる空間に浮かぶ点と点」として、互いを遠く凝視しあっている。アメリカという賑やかに思える大地も、実は宇宙と同じくらい孤独にできている。

ワシントン州タコマ出身のリチャード・ブローティガンは、若くして華やかな都市サンフランシスコに移り住んだが、最後はモンタナで寂しくピストル自殺している。
Damejima's HARDBALL:2012年3月6日、リチャード・ブローティガン 『A Baseball Game』の野球史的解釈。 「1958年の西海岸」という特別な年、特別な場所。


だが、そんな何もないモンタナにも、
スポーツと、家族と、道路がある。


このことに気づくと、やがて人は、この3つ、「スポーツと家族とクルマ」こそが、実は「アメリカそのもの」なのかもしれない、と、思い始める。

その意味で、何もないように思えるモンタナこそ、「アメリカがそもそも、どういう場所なのか」を教えてくれる教科書のような場所なのだ。

Class C

"Class C"は、エミー賞を獲ったドキュメンタリー作品だ。舞台は、楽しみといえばバスケットくらいしかない、そういう街。バスケットを除けば、あとは山と道路くらいしかない。
Class C Documentary Home Page
(この作品、日本のgoogleで検索してもリンクがスピーディーに出てこない。というのも、『乙女のシュート!』なんていう邦題が邪魔しているからだ。いったい誰がこういうくだらない邦題をつけるのだろう。オリジナルを作ったクリエイターに謝れと言いたくなる。何が「乙女」だ)

"Class C"は、「なにもないモンタナ」でバスケットボールをやっている、ごく普通の女の子たちを追いかけた、とても優れた作品だ。the only game in townというサブタイトルが、モンタナという土地のやるせない風土をよく表している。


女の子たちは、辺鄙なモンタナで、バスケットに夢中になっている。
というか、もっと正確に言えば、彼女たちは「若くて、いくらでも可能性に溢れている」というのに、現実には「バスケットをやるくらいしか、行き場がない」。そして将来にわたって、狭い道を歩み続けなければならない。
そんな若い女の子たちが抱え込んだ「家族間の軋轢」や「やり場のない情熱」。そして、バスケットへの情熱の裏にある「隠し通すことのできない、やりきれない寂しさ」。
そんな、人があまり言葉にしたがらないものを、"Class C"は、容赦なく、しかし暖かい視線で描きだそうとする。

その青白いトーンは、音楽にたとえるなら、心を病んでピアノが弾けなくなったジャズピアニスト、キース・ジャレットが、ようやく立ち直った後の1999年に作った、"The Melody At Night, With You" というアルバムの底に響く、暗い蒼月のような音色に近い。
"Class C" が描く色彩は、日本のスポーツマンガの「楽天的で、予定調和な不幸」とはわけが違う。「モンタナ」という場所がもつ独特の寂寥感が描かれるのはもちろんだが、その不幸さの感覚には、うっかりするとビョーク主演のあのヘビー過ぎる映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』が描いた「アメリカの田舎がもつ、独特のあやうさ」につながっていきかねない「寒さ」がある。(ちなみにこの「あやうさ」は、やっかいなことに、アメリカのあらゆる場所の空気に含まれてもいる)

The Melody at Night, With YouThe Melody At Night, With You

Keith Jarrett(1998)


スイス生まれでニューヨークに移り住んだ写真家ロバート・フランクは、まだドジャースジャイアンツがニューヨークにあった1955年から56年にかけてアメリカを東から西へ旅して、これら2球団が西海岸に移転するちょうど同じ1958年に、かの有名な 『アメリカ人』 という作品集の初版を、まずパリで出版している。
この旅でロバート・フランクは、モンタナでたくさんの「自動車に乗った人々」をフィルムに収めたことで、「アメリカという国とクルマが、いかに深い部分で繋がっているか」を映像で表現することに成功した。

Hitchhikers leaving Blackfoot, Idaho towards Butte, Montana 1956
Hitchhikers leaving Blackfoot, Idaho towards Butte, Montana, 1956

woman in car
Butte, Montana, 1955/56

パリで出版された『アメリカ人』の初版タイトルは、 "The Americans" という英語ではなく、"Les Americains" というフランス語で、また内容も純然たる写真集ではなくて、文章に写真が添えられるというようなスタイルをとっていた。それが写真集という体裁に変わったのは、翌1959年にジャック・ケルアックが序文を書いて出版されたアメリカ版からだ。
(まだ東海岸中心の娯楽だったMLBが西海岸に進出していったこと、そして東海岸出身者が西海岸に、さらに南下してメキシコにまで旅して、アメリカを再発見したこと、この2つのイベントが同時代に起きていることは、けして偶然の一致ではないわけだが、日本のスポーツサイトでも、写真のサイトでも、2つのイベントを関連づけて語られたことは、ほとんどない。このことは、また項をあらためて記事にする。また、リチャード・ブローティガンが詩作品の中にフランスの大詩人ボードレールを繰り返し登場させているように、第二次大戦中から1950年代にかけてのアメリカ文化にとって「フランス」はエキゾチックな場所として特別な位置を占めていたわけで、『アメリカ人』という作品が最初アメリカでなくフランスで出版されたことの意味は、あらためて整理しなおす必要がある。さらに、ロバート・フランクが『アメリカ人』出版する素材を得るにあたって行った撮影旅行は、アメリカを東から西に向かって大きく弧を描くように行われているが、この旅路の航跡は、ケルアックが1957年に出した『路上』で辿った旅の航跡と非常に似ている。このことにも、機会があればいつか触れてみたい)


ロバート・フランクの『アメリカ人』は、出版直後はあまり評価されなかったが、一定の時を隔てて後に「写真集として」名声が確立されている。そのことから、1958年に出された「純然たる写真集ではないフランス版」は「あまり意味の無いもの」として扱われることが多い。ロバート・フランク写真展を開催するような写真専門ギャラリーのサイトですら、フランス版に重い意味を与えてないように見える。

だが、フランス版 "Les Americains" の文章部分は、アースキン・コールドウェル、ウィリアム・フォークナー、ヘンリー・ミラー、ジョン・スタインベックといった近代アメリカ文学の錚々たる作家たちと、フランス人作家シモーヌ・ド・ボーヴォワールの手による寄稿で、単に写真がどこでどういう風に撮られたとかいう安っぽい解説文ではない。

フォークナーやスタインベックなどが作品の素材として取り上げた「アメリカ」は "poor white" のアメリカだ。華麗なるギャツビー的なゴージャスなアメリカでもなければ、風とともに去りぬ的なアメリカ建国期の勇壮な人間ドラマでもない。
彼らがタイプライターで証明してみせたのは、なにも近世ロシアの大作家がやったように壮大な歴史ドラマを大河のように長々と描かなくても、「どこにでもあるアメリカ」を描くことでもノーベル賞作家になれる、ということだ。フォークナーやスタインベックは、アメリカには、中世ヨーロッパの王朝の栄枯盛衰の重厚な歴史や欧州伝統文化のゴージャスさとはまるで無縁の、「別の何か」が「文化」として存在していること、つまり、「アメリカらしさ」を発見した。
こうした「アメリカ文学による、アメリカらしさの発見」は、明らかに世界におけるアメリカ文化の地位を押し上げることに貢献した。

こうしたことからわかるのは、「アメリカの素顔を、ありのまま、クールに観るという視点」というものは、なにも、写真誌ライフだけの専売特許でもなければ、ロバート・フランクのような写真家の「ゲージュツ的モノクロ写真」が登場して初めて発見された文化的視点でもない、ということだ。

LIFE Magazine - April 7, 1952
LIFE Magazine - April 7, 1952


にもかかわらず、今日ではいつのまにか、「アメリカらしさ」を発見したのは他の何をさしおいてもロバート・フランクの "The Americans" という写真集の功績である、と考えるのが通説であるかのように思われている。そして、当初文章が添えられてフランスで出版された『アメリカ人』の評価は、いつのまにか「おしゃれな写真集」としての評価に固まってしまい、カメラ片手にアメリカを旅して写真を撮りまくる「ロバート・フランク・フォロアー」を大量に生み出した。


そういう意味ではロバート・フランクの "The Americans" は、ある意味、とても「罪つくりな写真集」だと思う。

たしかに、ロバート・フランクのおかげで多くの人が、ライカ片手に、モンタナのような何も無いアメリカの片田舎に行ってブルージーなモノクロ写真を撮れば、「アメリカっぽさ」を簡単に映像に残せることに気がついた。
だが、そうして撮られた「アメリカ」のほとんどすべては、「ロバート・フランクの旅体験の二次的な追体験」に過ぎない、といっていい。そうした追体験行為は、けして「裸眼でアメリカを見た」ことにはならない。(もしかするとロバート・フランク自身が、必ずしも写真家とは限らない誰かの視点に学んだ結果、アメリカをああいう風に写真に撮っただけだ、という可能性もある。だが、それについては研究不足で、なんともいえない)

例えば日本の「第一次ロバート・フランク世代」ともいえる団塊世代の文化人には、アメリカを旅して、アメリカについて記述したり、写真に撮ったりした人がたくさんいたわけだが、彼らの残してきた「アメリカ」には、どこか、彼ら自身が裸眼で見たアメリカというよりも、「ロバート・フランクというサングラスをかけて見たアメリカ」を語っているような、独特の「ロバート・フランク臭」がある。
つまり、ロバート・フランクの『アメリカ人』は、残念なことに、「アメリカはこう読み、こう見ろ、というハウツー本の決定版」になってしまいやすいのである。それは例えば、世界的にヒットしたサーフィン映画を見た日本の団塊世代がサーフボードを我さきに買いに走り、海に行きたがったのに似ている。
この世代の人々は競って西海岸文化を日本に持ち込みたがったが、多くの人が「ビート」と「ビートニクス」の意味の違いすら知らなかった。
Damejima's HARDBALL:2012年3月20日、「1958年の西海岸」という特別な年、特別な場所。サンフランシスコの名コラムニスト、ハーブ・ケインによって発明された「ビートニクス」という言葉と、「ビート」との根本的な違いを正す。
「走り始めると、走る事そのものの快楽がむくむくと、頭をもたげ、車と自分が一体になる。つまり、自分はどこに行くのか、何をしようとするのかということなど、どうでもよくなり、走る事そのものが、目的になってくるのである。」

〜中上健次 『アメリカアメリカ』


だが、もう「『アメリカの見方』を教えてくれる教科書」を追体験してうっとりするのはやめて、自分の眼で見たらどうだろう。

ロバート・フランクの『アメリカ人』そのものは、確かに素晴らしい作品だ。カメラを手にすることの面白さはもとより、日常生活にひそむ多大なシャッターチャンス、日常の中にあるさりげない美を発見する楽しみ、さまざまなことを教えてくれる。
ライカを頂点にしたアナログカメラ時代から、現在のデジタル一眼レフに至るまで、あらゆる時代に高級カメラが売れ続けてきたことの遠因には、この作品の多大な影響もあるだろう。

だが、本当に自分の「裸眼」でなにか見ようと願うなら、ロバート・フランク風の写真を自分で撮ってみることで味わえる「ロバート・フランク風アメリカ体験」に酔ってばかりでは困る。
この際、これまで「ロバート・フランク追体験」が日本で生産してきたのは、せいぜいアメリカ風のコマーシャル表現くらいでしかない、と、多少乱暴でも言い切ってしまうことにする。


いい作品というのは、往々にして見た人に強い影響力をもつものだ。ピカソの絵を見た人の中には、ピカソみたいな絵を自分でも描きたいと思う人が数多く出現するのはもちろん、果ては「もしかすると自分はピカソなのではないか」とまで思い始める人まで、さまざまな強い影響が現れる。(ただし、残念ながら誰もピカソにはなれない)
モンタナで撮られたロバート・フランクのゲージュツ写真を見て、「ああ、自分もロバート・フランクみたいな写真を撮りたいっっっ!!!!」と血圧が上がって、カメラを買いにヨドバシカメラに走りたくなるのも無理はない。
だが、そんなことをするよりも、"Class C" で描かれたモンタナの荒涼とした人間関係を観て、他人の余計なフィルター抜きに「なにもないモンタナ」、「裸のアメリカ」を見ることのほうが、よほど「裸眼で、じかにアメリカの素顔を見る経験」ができる。


モンタナにバスケットと家族と道路しかないからといって、
では、どこに行けば「なにか」があるというのだ。
人は誰でも心に空白の大地を抱えこんでいる。
----damejima


damejima at 08:26

October 05, 2012

いまだにハンバーガーという食い物を、「食事」ではなく、「おやつ」だと思って食べる人も、いるとは思う。


ちょっと考えてみてもらいたいが
「食事だと思ってハンバーガーを食えること」は、「アメリカ」らしいか?

答え。
それはそうだ。
だが、「まずいハンバーガーを食いながら、酷い悪態をつけること」のほうがよほどアメリカらしいし、さらに大事なことは、ハンバーガー以外でもっと「アメリカ」らしいことが他にあることは明らかだ、ということだ。ハンバーガーは根源ではない。


では、「肌の色」は「アメリカらしさ」か?
答え。「まったくそう思わない」。

「野球」は?
"Absolutely YES!" 非常に「アメリカ」らしい。

「肌の色が違うこと」と「野球」とでは、
どちらが「アメリカ」か?
いうまでもない。「野球」のほうが、はるかに「アメリカ」だ。バットの芯と同じ。アメリカの芯により近いのは、肌の色ではなく、「野球」だ。


さらに聞こう。
「野球よりも、アメリカらしいこと」は何だ?

野球よりほかに興味を引かれないからかもしれないが、
思いつかない。


じゃあ、「ハンバーガー」と「野球」とでは、どちらが「アメリカ」だ?
答えは簡単だ。ハンバーガー食いながら野球を観ればいい。それだけだ。何の問題もない。

両立できることなのに、それらをあえて分割する思考は無意味だ。同じように、「肌の色」と「野球」は両立できる。それだけで十分だ。



非常に長い時間をかけて考えた。
少なくとも言えるのは、「野球」は「アメリカらしさ」そのものだが、「肌の色」は「アメリカらしさ」そのものではない、ということだ。

差別がよくないことだから、道徳的な観点で言っているのではない。

数字に「素数」というものがあるように、「アメリカ」を無限の数列におきかえたとき、「野球」は、これ以上分割することのできない「アメリカの素数」なのだ。素数である野球を分割して考えても、そこに意味など、生まれない。


いま野球は大事か?
YESだ。

なぜって、「らしさ」とは、「日本らしさ」がそうであるように、「大切な何か」だからだ。


自分は安いハンバーガーで食事を済ますこともある「どこにでもいる野球好き」のひとりだが、「自分がこれ以上分割しようがないほど日本人らしいこと」に高すぎるほどの誇りを持っている。
これからも、日本人の素数のひとりとして、常識にとらわれて誰も語らない「素数としての野球」を、言葉に置き換えて語っていくつもりだ。

(このシリーズ、まだ続く)

damejima at 22:23

August 17, 2012

「表の意味」と「裏の意味」が異なる記号の羅列について解読(デコード)を試みる場合、「デコードキー(=解読全体の成否にかかわる『キーワード』)が必要なことがある。例えば、インターネットを通じてデジタルデータをやり取りするとき、暗号化されたデータを読みとるのに「デコードキー」(解読鍵)によるデコードが必要になる。


以下に、前回記事のおまけとして、ランディ・ニューマンの1972年の曲、"I Think It's Going To Rain Today" の歌詞について、顔を黒く塗った人物が歌い踊るミンストレル・ショー(Minstrel Show)の登場人物、ステレオタイプのアフリカ系アメリカ人である田舎者Jim Crow(ジム・クロウ)と、都会者Zip Coon(ジップ・クーン)を「解読キー」として、デコード、つまり訳詩を試みてみた。

ミンストレル・ショー、ジム・クロウなどについての詳細は、以下の記事を参照:
Damejima's HARDBALL:2012年8月5日、父親とベースボール (6)アフリカ系アメリカ人史にみる「都市と田舎の分離」。ミンストレル・ショーの変質と、「ジム・クロウ」誕生

1900年のMinstrel ShowのポスターMinstrel Showのポスター
(1900年)

Minstrel show - Wikipedia, the free encyclopedia

Jim CrowJim Crow

Zip CoonZip Coon

"I Think It's Going To Rain Today"

Broken windows and empty hallways
A pale dead moon in the sky streaked with gray
Human kindness is overflowing
And I think it's going to rain today

Scarecrows dressed in the latest styles
With frozen smiles to chase love away
Human kindness is overflowing
And I think it's going to rain today

Lonely, lonely
Tin can at my feet
Think I'll kick it down the street
That's the way to treat a friend

Bright before me the signs implore me
To help the needy and show them the way
Human kindness is overflowing
And I think it's going to rain today

(ブログ注:ニーナ・シモンは一部歌詞を変えて歌っている chase love away→keep love away treat→createなど)






月の色と翌日の天気との関係についての
英語のことわざ


タイトルに "rain" という言葉が含まれているこの歌は、「」を歌った歌だが、最初のパートにあるpale moon (青白い月)という言葉は、「雨」に関係している。

というのも、以下にみるように、月の色と天気の関係に関する英語のことわざがあるからだ。
Pale moon does rain, red moon does blow: white moon does neither rain nor snow.
「青白い月なら雨になり、赤い月なら風が吹き、白い月だと雨も雪も降らない。」
参照例:Weather Wiz Kids weather information for kids

この歌詞を訳したがる人は案外多い。

だが、「英語に、前の晩の『月の色』によって、翌日の天気を予測するということわざ」があることに触れ、その上で歌詞を訳した人を、ただのひとりも見かけたことがない。このことわざに触れないまま、この歌詞を訳そうとするのは、明らかな失態としか言いようがない。


ことわざの主旨自体は、「前の晩の月の色によって、翌日の天気が予測できる」というものだが、当然ながらソングライターの本当の意図が天気予報にあるわけではない。
結論を先に言えば、「人間の将来、未来というものは、『肌の色』によって決まってしまう」という「人種差別」に対する絶望感が、ランディ・ニューマンの "I Think It's Going To Rain Today" の歌詞の「裏テーマ」である。

この解釈が正しいと考える理由を、以下に書く。


曲のタイトルは、
なぜtommorowでなく、"today" なのか


月の色によって翌日の天気を予測することわざからアイデアを得た、というだけなら、この曲のタイトルは、"I Think It's Going To Rain Tommorow" でいいはずだ。
Tommorowなら、タイトルの意味は「夜のうちに見た月の色が青白かったので、明日はきっと雨だろう」という、あたりさわりのない「天気予報の曲」であることになる。

だが、実際にはこの曲のタイトルは違う。"I Think It's Going To Rain Today" だ。ならば、これは単なる天気予報の歌ではない

つまり、この曲の登場人物が月を見た「時間帯」は、前の晩の夜9時とか10時ではなくて、「12時を越え、日付の変わった深夜に、月を眺めて」いるのである。しかも「今日も雨だろ・・・」と溜息まじりの呟きをしていることからして、「眠れぬ長い夜」であることが想像される。
この曲が表現したかった深夜の情景が、単なる天気予報ではなく、「絶望感」なのは明らかだ。


では、この人物は、どんな理由から夜更けに起きているのか。
なぜ眠らないのか、眠れないのか。
なぜ深夜に月を眺めるのか。
どういう感情のもとに月を眺めているのか。


この曲のテーマは "Color"だ。
この曲のテーマが本当に「肌の色、つまり人種」なのかどうかは、ひとまず置いておくとしても、この曲を作ったランディ・ニューマンが「月の色によって明日の天気がわかる」ということわざを示したことは、この曲が「色」をテーマにしているというメッセージなのは、まず間違いない。
というのも、それほど長くはないこの曲の歌詞には、「色」にまつわる単語がいくつも登場し、明らかにこの曲のキーワードになっているからだ。このうち、黒を意味するcrowという単語は、scarecrow(案山子)という単語の内側に巧妙に「隠されて」いる
pale 青白い
grey 灰色
crow カラス(=黒)



"scarecrow" (案山子)は
何を、何から遠ざけているのか


scarecrowという言葉は、「scare(怖がらせる)と、crow(カラス)」という、2つの単語を組み合わせてできた合成語だ。だから「黒いカラスを怖がらせることで、農産物が食われないように遠ざけておく、農業の道具」が、scarecrowだ。
2番目のパラグラフで、chase love away(愛を遠ざける)と歌われていることからしても、scarecrowという言葉は「何かを、何かから遠ざけていることを表現している」ことの比喩であり、掘り下げるべきポイントは「誰が、誰を、何から遠ざけているのか」という点にある。


遠ざけられているもの
それはcrow=blackbird=Jim Crow


Jim Crow(ジム・クロウ)は、ミンストレル・ショーにおけるアフリカ系アメリカ人の田舎者キャラクターだったが、ブラックフェイス・パフォーマーの歌い踊る "Jump Jim Crow" という曲の大ヒットによって、アフリカ系アメリカ人全体をさす言葉として意味が拡大していき、さらに19世紀後半には、アメリカ南部の元奴隷州で次々に作られた有色人種隔離政策の法体系の総称「ジム・クロウ法」として意味が転用された。
Jim Crowというキャラクターが、いつ、何を元にできあがったのかは歴史的に不詳となっているが、以下に挙げた証拠によって、黒い鳥 blackbird の一種である "crow" (カラス)にイメージの源泉のひとつがあることは明らかだ。

例えば、寸劇としても演じられた"Jump Jim Crow" の当時のシナリオに、次のようなシーンがある。田舎者のアフリカ系アメリカ人Jim Crowに、侮蔑をこめて "Blackbird" と呼びかける一節である。
Quickset: Hark ye, Mr. Blackbird!
Jim Crow: You don't appear to hab much more edicumcation dan oder man. My name, Sar, am Crow, not blackbird.
ブログ注:田舎者キャラクターJim Crowは、きちんとした英語が話せないという設定にある。だからJim Crowの台詞は、英語のたどたどしさを揶揄して、わざと赤ん坊のような英語として書かれている。普通の英文に直すと、こうだ。 You don't appear to have much more education than any other man. My name is Crow, not blackbird, Sir.)
Jump Jim Crow: Lost Plays, Lyrics, and Street Prose of the First Atlantic ... - W. T. Lhamon - Google Books

資料:Jump Jim Crow: Lost Plays, Lyrics, and Street Prose of the First Atlantic ... By W. T. Lhamon

以下の辞書には、crowあるいはblackbirdという言葉が、アフリカ系アメリカ人の蔑称として使われた、とある。
Even before that, crow (n.) had been a derogatory term for a black man.
Online Etymology Dictionary


歌詞に戻る。

こうした証拠の数々から、scarecrowが農作物から遠ざようとしている「黒いカラス」とは、Jim Crow=田舎者のアフリカ系アメリカ人であることは、ほぼ明らかだ。当ブログと同じ方向性の論考は、アメリカにもある。
the "crow" and even the raven represented us as African people(中略)
To keep us, the crows - discourage from eating away at and taking away what is naturally ours.
The majority of crops in America are grown in the south, this is where most of our Ancestors worked on plantations. Jim "Crow" was also in the south. Laws that kept us segregated and limited, just as crows are limited from the Farmer's crops. But there is a reason why.
Why Do They Make Scarecrows? | Black People Meet | African Americans | Destee


"scarecrow" は、
白人を意味しているのか?


「scarecrowが、黒いカラス、つまり、Jim Crow(=田舎者のアフリカ系アメリカ人)を、農作物から遠ざようとしている」とすれば、次に問題になるのは、 "scarecrow" が「白人」を意味しているのかどうか、という点だ。

この点については、2番目のパラグラフに以下のようにハッキリ歌われている。結論から言えば、scarecrowは「白人」の比喩ではない。
Scarecrows dressed in the latest styles
With frozen smiles to chase love away
「着飾って」という特有の表現から、scarerrowが象徴しているのは、ミンストレル・ショーにおける野暮ったい田舎者Jim Crowと対照的なキャラクター、着飾った都会人のアフリカ系アメリカ人の象徴、Zip Coonだ。


"pale" という言葉のレイシズム的響き

pale moon
この歌の中における「白人」の位置は、「pale moon(青白い月)」と表現されている。
高い空の上でJim Crowとscarecrowのいる下界を見下ろしている月は、「手の届かない存在」であり、地上で畑の番をしているscarecrowとイコールになるわけはない。

"pale" という言葉は、肌の色をさす言葉として使われる場合、特殊な意味をもつ言葉になることがある。

日本人は、白人の肌の色というとどうしても、whiteというフラットな言葉をすぐに連想してしまうが、肌の白さには、実は、もっと何段階もの細かい「白さについての分類」がある。
この場合、pale(青白い)という表現は、「青白く見えるほど、抜けるように白い」という最上級の「白さ」を表わす表現として使われる。
ブログ注
資料:Human skin color - Wikipedia, the free encyclopedia
このリンクは、「肌の色に関する分類」を示した英語版wikiの資料である。見てもらうとわかるとおり、白い肌が "pale" と強調されて表現される場合、そこにレイシズム的な意図が含まれていることがわかる。
だからこそ、レイシズム的な誤解を受けるのを避けたい場合、 "pale" などと言わず、単に "white" と、毒のない表現をとるほうが無難なわけだ。
この歌詞をつくったランディ・ニューマンは、あえて "pale" という言葉を使うことで、逆に人種問題にスポットライトを当てようとしているのである。



この詞を訳すときの難関、
"Human kindness is overflowing"とは
どういう意味か


この部分の訳詞が、この歌詞にとりくむときに最もつまづきやすい点だ。つまづく理由は、この歌詞の背景にあるアフリカ系アメリカ人の歴史に関心を持たないまま直訳しようとするからだ。

例えばこういう異口同音の日本語訳が、あちこちのウェブサイトに並んでいる。
「人間の優しさがこぼれている」
「人のやさしさが、世界にあふれれば」
「人間の優しさが溢れ出し」
「人の優しさが溢れてるな」
どれもこれも、日本語として前後の歌詞とつながっていないし、この曲の情景をまったく説明していない。
この曲が表現した情景が、「深夜の絶望感」なのは明らかなのに、「優しさがこぼれている」などというセンチメンタリズムな訳になるわけがない。


"kind" という言葉を
「優しさ」と訳すのは間違っている


"kind" という言葉の意味は、最も教科書的には「種類」だ。
だから、"Human kindness" という表現は、表向きは、シェークスピアの有名な戯曲『マクベス』にある "Milk of human kindness" という有名な表現を踏襲しているようにみせかけていても、裏では、「人間を『種類』に分ける考え方」、つまり、「人種差別」を意味していると考えるのが妥当というものだ。

19世紀初頭から半ばにかけて、南部から北部へ奴隷の逃亡を助けたUnderground Railroadのことを歌詞に歌うとき、「鉄道」にまつわるさまざまな言葉を使って、逃亡の方法や、北部への憧れが表現された。
当時、南部のアフリカ系アメリカ人奴隷は、まだ英語の読み書きがマトモにはできなかったから、たとえ暗号とはいえ、あまりに難解な言葉で表現したのでは、歌詞の裏の意味を理解することができない。
だからこそ、Underground Railroadに関する暗号は、せいぜい逃亡奴隷を鉄道になぞらえて、passengerとかbaggageと表現する程度の「わかりやすい暗号」のレベルにとどめておかなければならなかった。

ランディ・ニューマンは、こうしたアフリカ系アメリカ人の歴史の前例にのっとって歌詞を作っているはずだ。

だから、"Human kindness" という歌詞を、「優しさ」などと解釈する必要はどこにもない。「kind=種類」という小学生的な理解で十分と考えるのは、それが理由だ。


ここまでの諸点を考慮し、
この乱暴なブログらしい日本語訳(笑)を最後に記しておく。

アフリカ系アメリカ人であるニーナ・シモンが、アフリカ系アメリカ人に関係すると思われるこの曲の歌詞のあちこちを、あえて別の言葉に換えて歌うことで、別の歌にしようとしている意味も、この訳からなら汲み取ることができるだろう。
ニーナ・シモンは、この刺激的な「裏の意味」をもつ歌の社会性を、あえて個人的なブルース感情に変えて歌うことで、アフリカ系アメリカ人の「過去の歴史にとらわれない普遍的な歌」として完成しようとしたのである。素晴らしい歌姫である。


壊れた窓 ガランとした通路
青白いヤツらは 無表情な月みたいに 高見の見物
そこらじゅう 人種差別だらけ
今日もたぶんロクなことがねぇ

都会の奴ら 俺たちと同じアフリカ系のクセに
気取った服なんか着やがって
冷たいつくり笑い浮かべて オレたちを寄せ付けない
そこらじゅう 人種差別だらけ
今日もたぶんロクなことがねぇ

ひとりじゃ さみしいから
中身の空っぽなやつでも 足元にひざまづかせて
通りにでも蹴り出してみるか
それが いけすかないヤツに対するやり方ってもんだ

アタマのいいヤツが 指図してきやがる
困ったやつ助けて 行くべき道を教えてやれ と
(でも オレ自身が困ってるのに
 行くべき道が オレにわかるわきゃない)
そこらじゅう 人種差別だらけ
今日もたぶんロクなことがねぇ

--------------------------------------------

ちなみに、以下に、逐語訳したとみられる他の人の訳を挙げておく。ブログ主の訳と対比して読んでもらえば、「裏の意味」を考慮しないで訳すと、どれほど「わけのわからない、意味の通らない訳」ができてしまうかがわかってもらえるはずだ。


壊れた窓 ガランとした通路
白髪交じりで空にかかる 青白い無表情な月
あふれかえる思いやり
今日はたぶん雨

流行のスタイルを身にまとったスケアクロウ
愛を寄せ付けない凍った笑顔
あふれかえる思いやり
今日はたぶん雨

寂しいものだね ひとりは
足元の空き缶
通りに蹴り出してしまおう
それが友達に対するやり方ってもの

明るい信号機が私に懇願する
愛に飢えた者を助け 道を示してやれ と
あふれかえる思いやり
今日はたぶん雨

damejima at 17:16

August 14, 2012

ハワイ文化のひとつ、Hula(フラ)は、日本人なら誰でも一度くらいは見たことがあるために、とりあえず知っている、わかっていると思われがちだ。

だが、それは正しくない。

Hulaの現代的な分類には、現代的なおおまかな分類からいっても、古典であるHula Kahiko(フラ・カヒコ)と、19世紀以降に欧米文化の影響を受ける中で出来ていったHula ʻauana(フラ・アウアナ)の、2種類がある。
そして、かつて日本で「フラダンス」と言われていたもののは、フラ・アウアナの亜流のようなフラである。(ちなみに、フラという言葉そのものにダンスという意味が既に含まれている。だから「フラダンス」という日本的表記は、いわば「盆踊りダンス」といっているようなものだから、おすすめしない)

この2種類の区別ができたのは、有名なフラ・コンテスト、Merry Monarch Festival(メリーモナークフェスティバル)が、2つのカテゴリーを設けたことからきている。
The Official Web Site of Merrie Monarch Festival - Hilo, Hawaii

フラの基本的な歴史をわかっている人は、Hula KahikoとHula ʻauanaの区別をフラの基本的知識と考えるが、日本の一般常識としてみると、残念ながら、フラに分類が存在することはいまだにほとんど知られていないと考えるのが正しいだろう。
なぜって、フラ教室で実際にフラを習っている人たちの中にすら、フラ・カヒコを知らない、見たことがない人がいまだに実在するからだ。
ブログ注:
フラの分類はなにも2種類だけと限らない。
古典フラは、研究者によっては、さらに細分化された分類が存在する。また、現代のフラ・カヒコのスタイルを古典とすることに対して異議を唱える人もいる。
というのも、文字のなかったハワイ文化においてフラは、人から人へと継承され続けてきたわけが、古典フラのスタイルの一部が喪失してしまった哀しむべき時代があったために、すべての古典が現代に伝わっていないからだ。
ネイティブ・ハワイアンがフラの古典を喪失した原因は、欧米人宣教師によるフラの禁止や、欧米からもたらされた疫病によるネイティブ・ハワイアンの人口減少などにより、フラの歴史に断絶が生じ、貴重な口伝(くでん)が途絶えてしまったことにある。
だから、伝承喪失のダメージを考慮せず、「今のフラ・カヒコは必ずしも太古のフラのスタイルではない」と非難だけを行うことには、何の意味もない。だが、まぁ、とりあえず細かすぎる話は一時置いておこう。


日本でこうした事態を招いた原因のひとつは、フラが最初に日本に紹介されたときに、当時「フラダンス」と称された「踊り」が、実際には「フラ・アウアナ」とタヒチアンダンスの混じった雑種だったにもかかわらず、「あれがフラなのだ」と思い込みが出来上がってしまったからだ。(それはベンチャーズとビーチボーイズとホノルルだけで、それをビーチカルチャーと思いこんだ大昔の団塊世代のステレオタイプ文化の弊害でもある)
日本では、フラの古典である「フラ・カヒコ」がいまだに浸透していないにもかかわらず、日本人は最初に出会った「フラダンスと称する、混じりっけの多い踊り」を、「フラそのもの」と思いこみ続けてきた。

だがそれは、簡単にいえば
欧米人のフィルターのかかったフラ」でしかない。


日本では、マニアと専門家以外には、フラの古典のスタイルやネイティブ・ハワイアン(=ハワイの先住民)の歩んだ苦難の歴史がほとんどといっていいほど知られず、また、フラ・カヒコとフラ・アウアナが区別されていないくらいなのだから、かつてフラとハワイ語が欧米人によって禁止され、衰退しかかった時代があったことは、なおさら知られていない。

フラがなぜ禁止されていたのか、どういう種類のフラが禁止されていたのかを知ることは、フラとハワイをより深く理解することにつながるわけだが、そのすべてをここで書ききることはもちろん無理だ。興味をもったら、ぜひ一度調べてみてもらいたい。
フラが禁止された理由は、キリスト教的倫理観をもつ欧米人の宣教師がフラのもつセクシャルな裏の意味を嫌った、と説明されることが多いわけだが、もちろん、そんな単純な説明だけで説明が終わるほど、フラの歴史の底は浅くない。

まぁ、こむつかしい歴史やヘリクツは後回しでいい。(必ずしもYoutubeに落ちている動画だけが原典資料とは限らないのが困るが)とりあえず映像でフラ・カヒコを確かめてみるのがてっとり早い。(ここでリンクを挙げておくといいのだろうが、それだけがオリジナルのフラだと思われかねないので、やめておくことにした)
ひと目みれば、日本でこれまで「これがフラだ」と思い込まれてきたものが、実はステレオタイプのフラであり、実は何層ものフィルターのかかった「擬似ハワイ」でしかないことが、一瞬でわかると思う。


1960年代以降進んできたハワイアン・ルネサンスと、その一環としての古典フラ復興には、この「父親とベースボール」で書いてきたアフリカ系アメリカ人の公民権運動も関わっている。
ハワイのネイティブな文化の復興と、メインランドでのアフリカ系アメリカ人の公民権運動とのかかわりのストーリーは実に興味深い話ではあるわけだが、なにせ書けばまた長くなるし、いつか触れることにして、ここでは先を急ぐことにする。


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chant(チャント、詠唱)は、グレゴリオ聖歌の曲名などでよく聞く言葉なだけに、キリスト教文化の流れで知っている人が多いわけだが、chant はハワイにも存在するし、また、日本の「祝詞」(のりと)や「木遣」(きやり)、仏教の「声明」(しょうみょう)もある種のチャントであることを思うと、チャントは世界中にさまざまな名称とスタイルで存在する。






ハワイ文化における chant は "Mele"(メレ)という名称で呼ばれ、Mele を伴ったフラを "Mele Hula" (メレ・フラ)という。


Mele には、ダブル・ミーニング、つまり、「表の意味」と、「裏の意味」が存在する。また、フラの踊りそのものにも、表の意味、裏の意味があり、どの意味を強調して踊るかによって、踊り方が変わる。

こうした「裏の意味」を、ハワイの言葉では、"kaona"(カオナ)という。

例えば、「喜び」という表の意味をもつ言葉が、裏では「セックスにおけるオーガズム」を意味したり、あるサイトの挙げる例によれば、「noho paipai(揺り椅子)」という表現は、裏では、揺り椅子が男性で、女性が腰掛ける様子、つまり「男女が1つに組み合わさって揺れ動いている」というセクシャルな意味になるらしい。(kaonaはセクシャルな意味だけとは限らないが、詳細は専門サイトに譲る)


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こうした歌における「ダブル・ミーニング」(codeといってもいい。映画『ダヴィンチ・コード』でいう「コード」である)は、18世紀のアメリカの奴隷時代のアフリカ系アメリカ人が作ったスピリチュアル(霊歌)にも存在する。
奴隷時代のアフリカ系アメリカ人を南部から北部に逃がすための秘密の手段として、Underground Railroad(地下鉄道)が存在していたことは、既に書いてきたが、Underground Railroad時代のアフリカ系アメリカ人が歌ったスピリチュアル(霊歌)の歌詞には、表向きの宗教的な意味とは別に、裏の意味があったといわれている。
Damejima's HARDBALL:2012年8月5日、父親とベースボール (6)アフリカ系アメリカ人史にみる「都市と田舎の分離」。ミンストレル・ショーの変質と、「ジム・クロウ」誕生

裏の意味を歌の中に隠す必要があった理由は、2つある。

当時のアフリカ系アメリカ人は、英語の読み書きができなかった。(彼らに読み書きを教えることは法律で禁止されてもいた)
そして、当然ながら、奴隷として買われてアメリカに連れてこられたアフリカ系アメリカ人が、自由になる方法であるUnderground Railroadの利用法について教え合ったり、北部脱出についての憧れを公言することは、タブーの中のタブーだった。
(ちなみに、スピリチュアルに隠されたUnderground Railroadに関する秘密のコードと、フラにおける裏の意味「カオナ」とでは、根本的な性質の違いもある。スピリチュアルに隠されるコードはレジスタンスのための暗号なわけだが、フラの「カオナ」は元々ハワイ文化にあった先天的要素であり、欧米人によるフラの抑圧を避けるためにレジスタンス的な意味で後天的に発生したわけではない)
Songs of the Underground Railroad - Wikipedia, the free encyclopedia

例えば "Go Down Moses"という曲は、表の意味だけ見れば、旧約聖書に基づいた信仰の歌にみえるが、裏には次のようなUnderground Railroadに関する意味が隠されているとされる。
Go Down Moses

Go down, Moses/’Way down in Egypt Land,
Tell Ole Pharaoh To Let My People Go
When Israel was in Egypt’s land/Let My People Go
Oppressed so hard they could not stand/Let My People Go
Thus said the Lord bold Moses said/Let My People Go
If not I’ll smite your first born dead/Let My People Go

Moses:旧約聖書の登場人物モーゼ=ハリエット・タブマンのような地下鉄道のconductor(車掌=案内役)
pharaoh:エジプトの王様ファラオ=slave owner(南部の奴隷所有者)

An Analysis of the Message of the Negro Spirituals… « COASTLINE JOURNAL


また自由が得られる北部を意味する歌詞もある。
"Now Let Me Fly" という曲の歌詞にでてくる "promised land" は、表向きはヘブライ語聖書の「神がイスラエルの民に与えると約束した土地」を意味する「約束の地」のことだが、裏の意味としては、南部の奴隷が目指す北部の土地を意味しているといわれている。
他にも、鉄道になぞらえて、北部に逃亡をはかる南部奴隷を、passengers(乗客)あるいはbaggage(荷物)といいかえたり、逃亡途中で身を隠す協力者の家をstation(駅)、stationの家主をstationmasters(駅長)などと表現した。

もちろん歌に裏の意味をこめるだけでなく、“I have sent via at two o’clock four large and two small hams.”(2時に4つの大きなハムと、2つの小さなハムを送った)というメッセージを電報で伝えることによって、「4人の大人と2人の子供が、こんどそちらに行くからよろしく」というメッセージを伝えるような、文字に頼った伝達方法もあった。
The Underground Railroad : Write a Secret Letter : Scholastic.com


スピリチュアルにおけるコードの例には、後世に無理矢理解釈されたものがまったく無いわけではないから、こうしたサンプルの真偽については、きちんとした検証も必要だ。
だが、細かい歴史的な真偽の検証はともかく、これまで黒人霊歌(スピリチュアル)として知られてきた音楽を、「アフリカ系アメリカ人の宗教的信仰心の深さの表われ」とだけ思い込むのは間違っている。(日本に入ってきた当初、フラであると思いこまされてきたものが、実は必ずしも古典フラではなかったことと共通点が多い)


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こうしたダブル・ミーニングの例は、なにも古典フラや、アフリカ系アメリカ人の古典であるスピリチュアルだけに限らない。
ランディ・ニューマンは、『トイ・ストーリー』、『レナードの朝』、『カーズ』などの映画音楽を作曲した1943年ロサンゼルス生まれのシンガーソングライターだが、彼の曲にもダブル・ミーニングの曲がある。

1972年の"Sail Away" (セイル・アウェイ)は彼の評価を決定づけた代表曲だが、典型的なダブル・ミーニングがみられる。
この曲の歌詞は、表向きは大西洋の三角貿易においてアメリカへ奴隷を「買い付け」し、「発送」している奴隷商人がアフリカ人たちに向かって、「アメリカでの夢のような暮らしの素晴らしさを言い聞かせる」という設定になっているが、もちろん、言うまでもなく、「裏の意味」は180度異なっている。


"Sail Away" が「三角貿易における奴隷の売買」を歌った歌であることを示す決定的な証拠は、歌詞にあるCharleston Bayという単語だ。

三角貿易には、いくつかの種類があるが、イギリス、アメリカ、アフリカの間で行われた大西洋の奴隷貿易においては、ヨーロッパの繊維製品・ラム酒・武器、アメリカの砂糖や綿花、そしてアフリカの奴隷が交易された。
Charleston Bay(チャールストン・ベイ)は、大西洋に面したサウスカロライナ州の奴隷貿易港・綿花積み出し港で、アフリカからの奴隷を積んだ奴隷船は、まずチャールストン・ベイに到着し、ここの奴隷市場でセリにかけられ、全米各地に運ばれていき、また、アメリカ南部の奴隷プランテーションで生産された綿花は、チャールストン・ベイからヨーロッパに送られていた。
まさにサウスカロライナ州チャールストンという街は、奴隷貿易、綿花貿易の拠点として、「イギリスと、アメリカ南部プランターの互恵関係」「奴隷制の存立と、三角貿易」を象徴する場所そのものだった。

だからこそ、南北戦争が勃発したのが、このチャールストンだったのは、偶然どころか、歴史の必然だった。1861年4月12日の午前4時30分、南軍がチャールストン沖のサムター要塞(Fort Sumter)の北軍に向かって砲撃を加えたことによって、南北戦争の火蓋が切られた。(「サムター要塞の戦い」)
ちなみに、チャールストンは歴史的にドイツ移民の多い街のひとつとしても知られている。

サムター要塞の戦い(1861年)サムター要塞の戦い
(1861年)


View Larger Map

In America, you get food to eat
Won't have to run through the jungle and scuff up your feet
You just sing about Jesus, drink wine all day
It's great to be an American

Ain't no lions or tigers, ain't no mamba snake
Just the sweet watermelon and the buckwheat cake
Everybody is as happy as a man can be
Climb aboard little wog, sail away with me

Sail away, sail away
We will cross the mighty ocean into Charleston Bay
Sail away, sail away
We will cross the mighty ocean into Charleston Bay
(以下略)
RANDY NEWMAN - SAIL AWAY LYRICS




ランディ・ニューマンにこうした明白なダブル・ミーニングの歌詞があるわけだが、どういうわけか彼の曲の歌詞解釈には首をひねるようなものがある。

例えばブログ主の好きなNina Simone(ニーナ・シモン)もカバーしている "I Think It's Going To Rain Today" という曲がある。こんな歌詞だ。
(下の動画は、上がランディ・ニューマン、下がニーナ・シモン。ニーナ・シモンは一部歌詞を変えて歌っている chase love away→keep love away treat→create)

Broken windows and empty hallways
A pale dead moon in the sky streaked with gray
Human kindness is overflowing
And I think it's going to rain today

Scarecrows dressed in the latest styles
With frozen smiles to chase love away
Human kindness is overflowing
And I think it's going to rain today
(後半部省略)





けっこう有名な曲だけに、この歌の歌詞を日本語訳しているサイトは、けっこうたくさんある。
だが、そのほとんど全てが、この歌のダブル・ミーニングをまったく把握しないまま訳しているため、まるで意味の通らない言葉の羅列にしかなっていない。
例えば、何度も繰り返し歌われているHuman kindness is overflowingという部分は、「優しさが満ち溢れている」などと訳すサイトが大半なのだが、こんなふうに訳していたのでは、この曲がいったい何のことを歌っているのか、さっぱり見当がつくわけもない。
「優しさが満ち溢れている。明日は雨だろう」と言われても、なんのことやら、さっぱり日本語として意味が通じない。

この歌詞の真意についての、このブログ的解釈については、次回書く。
それには、アフリカ系アメリカ人のステレオタイプとして出来上がったミンストレル・ショーの田舎者Jim Crowと、都会人Zip Coonの関係が深く関わって、歌詞に織り込まれている。
Damejima's HARDBALL:2012年8月16日、父親とベースボール (番外編) (2)ランディ・ニューマンの曲 "I Think It's Going To Rain Today"の真意を、「田舎者ジム・クロウ、都会者ジップ・クーン」を解読鍵としてデコードする

damejima at 18:37

August 06, 2012

都市にはプロのベースボールがあり、そして田舎にはない。
このことを念頭に置きながら、以下の記事で、19世紀以降に起きたアフリカ系アメリカ人の南部からの脱出によって生じる「都市と田舎の二極分化」についてまとめてみる。


いまなぜアフリカ系アメリカ人は「都市」を去ろうとしているのか。

もし野球好きのアフリカ系アメリカ人が、昔と変わらずベースボールを楽しみ続けようと思うなら、南部に帰ってしまうよりは、北部や西海岸の都市部に住み続けるほうが、ファンも球団も都合がいいに決まっている。
だが、以下に見るように、彼らがかつて田舎(南部)を逃れて都市(北部)に脱出してくるのに払った犠牲と、せっかく出てきた都市で味わわされた疲労感や失意を頭に入れてモノを言わないかぎり、彼らに対してうかつに「都会にいてくれ」「田舎に帰るな」「MLBをよろしく」などと、軽々しいことは言えないのである。


アフリカ系アメリカ人にとっての「都市と田舎の二極化」が生まれる上で考慮しておかなければならないポイントは、3つほどあると考えた。

Underground Railroad(地下鉄道)
1810年から1850年の間に、3万人から10万人程度を助けたといわれる奴隷逃亡を助けるための秘密組織

1830年代に誕生した田舎者の象徴としての「ジム・クロウ」
都会の軽い見世物として生まれた「ミンストレル・ショー」におけるステレオタイプの田舎者キャラクターである「ジム・クロウ」が、1950年代にミンストレル・ショー自体が人種差別色を強める中で、アフリカ系アメリカ人全体を意味する差別的キャラクターに変質していき、さらには、1876年から1964年と、約90年間にもわたって存在した南部における人種差別的な法律の総称「ジム・クロウ法」に、その悪名が受け継がれていく流れ

Great Migration
1910年代から1970年代にかけ、南部のアフリカ系アメリカ人累積約600万人が、アメリカ北部や中西部、さらに西部へ移住したといわれているGreat Migrationの流れ

(ブログ注:19世紀の初頭、南北戦争前のアメリカがまだ奴隷制を維持し、Underground Railroadが機能している同じ時代に、ヨーロッパではギリシア独立戦争(1821-1829)があった。
18世紀末にヨハン・ヴィンケルマンの「白いギリシア」の流行によってギリシアをヨーロッパのルーツとほめそやす流行があったヨーロッパでは、当然ながら「自分たちの文化的ルーツであるギリシア独立を助けよう」という支援の声が上がった。
ヨーロッパにおける「白いギリシア」という価値観の流行とギリシア独立戦争、アメリカの変質、それぞれの関連性を詳しく調べてみたくなるところだが、いまは話が複雑になるだけなので置いておく。
ギリシアを西ヨーロッパ文明のルーツと考えるフィルヘレニズム(=親ギリシア主義、ギリシア愛護主義など、さまざまな訳語がある)、あるいはロマン主義によって、詩人バイロンをはじめ、たくさんのヨーロッパ人が義勇兵として参加したが、それらの人々の中には、現実に訪れたギリシアが、フィルヘレニズムによって描かれた想像上のイメージと大きくかけ離れていることに気づいて、落胆した者もいた。
それはユーロ圏の愛すべき駄々っ子のような存在となりつつある現在のギリシアと非常にダブるところが多い。また、現在のEUにおいて、その駄々っ子を助けようと先導しているのが、かつてヴィンケルマンが『白いギリシア』を流行らせたドイツである点は、非常に興味深い)


さて、アフリカ系アメリカ人の北部への移動の様子は、南北戦争の前と後とで、どう変わったのだろう。


南北戦争前
Underground Railroad(地下鉄道)

Underground Railroadを利用した北部脱出ルート北部への脱出ルート
I’ll Fly Away, O Glory! ― Outlaws of the Underground Railroad « Kasama

Underground Railroadを利用した北部脱出ルート北部への脱出ルート(別資料)
Underground Railroad Webquest

南北戦争前の、あらゆる自由のないアフリカ系アメリカ人奴隷には、奴隷制のない北部(あるいはカナダ)への秘密の脱出手段があった。それがUnderground Railroad(地下鉄道)である。

Harriet TubmanHarriet Tubman
(ハリエット・タブマン)
奴隷の両親の下に生まれ、ペンシルベニアに逃亡。自由になった後は、Underground Railwayの「conductor」(車掌=案内役)として逃亡を手伝う。1850〜1860年には約19回南北を往復、約300人の逃亡を助けた。4万ドルを超える賞金がかけられたが、結局一度も捕まらず、その功績により「女モーセ」「黒人のモーセ」(Black Moses) とも呼ばれた。

これは、1810年頃から1850年までの約40年間にさかんだった秘密組織で、奴隷制廃止論者や北部諸州の市民たち、あるいは先に逃亡して自由を得た奴隷たちが運営に関わって、数多くの奴隷が北に逃げるのを手助けした。うまく逃れることができたアフリカ系アメリカ人奴隷は、アメリカ北部の都市、あるいはカナダで自由になることができた。
(ちなみに、残念ながら1850年に逃亡奴隷の返還を規定する「逃亡奴隷法」が制定され、せっかく逃亡に成功しても元の場所に連れ戻されるようになったため、Underground Railroadは下火になっていった)
Underground Railroad - Wikipedia, the free encyclopedia
ちなみに、「鉄道」というネーミングはあくまで「逃亡ルート」という意味の比喩であり、鉄道を利用して逃亡するという意味ではない。またハリエット・タブマンの果たした「車掌」という役割も、あくまで「案内役」という意味の比喩。Underground Railroadについてはこのブログで一度書いたことがある。詳しくはWiki等を参照。
Damejima's HARDBALL:2011年6月6日、2011ドラフトでシアトルがヴァージニア大学の投手Danny Hultzenを指名したので、昔のAtlantic Coast Conferenceでの「Frank McGuireの苦い話題」について書いてみた。



南北戦争後
Reconstructionの挫折から、Great Migrationまで

南北戦争が北軍の勝利に終わって、公式に移動の自由を得たはずのアフリカ系アメリカ人だが、彼らは、1910年代以降になって、ようやく北部や他の地域への大量移住を開始しはじめた。既に紹介したGreat Migrationである。
Damejima's HARDBALL:2012年7月3日、「父親」とベースボール (2)南北戦争100年後のアフリカ系アメリカ人の「南部回帰」と「父親不在」、そしてベースボールとの距離感。

南北戦争が「1865年」に終わっているのに、北部への移住Great Migrationがさかんになりはじめたのが、南北戦争終結から40数年もたった「1910年代」というのは、なにか変だと気がついた人は、歴史のセンスがある。これら2つの出来事の間に、あまりにも長く不可解なズレがあるのはどうしてか。

この「40数年間の長いギャップ」には、
もちろんちゃんとした理由がある。

南北戦争が終わる頃から合衆国連邦政府は、奴隷制廃止についての修正第13条、市民権を定めた修正第14条、元奴隷にも参政権を与える修正第15条と、次々に合衆国憲法を改正する一方、南部の奴隷州を北部の流儀に基づくこうした新しいアメリカの自由なシステムになじませようと、かなり積極的に努力を重ねた。
これがアメリカ史でいうところの、 "Reconstruction" レコンストラクションである。(詳しくはWiki等を参照 レコンストラクション - Wikipedia)。

だが、レコンストラクションは、南部の強い抵抗にあう。
最後には連邦政府内部の強硬派が南部を軍事的占領までして、なんとか手なづけようと試みたのだが、たいした効果を上げることができないまま、やがて連邦政府は南部のふるまいを監視する作業を諦めてしまうことになった。

南部の奴隷州は、南北戦争敗北で奴隷制は放棄させられたが、レコンストラクションの拒否には成功したのに気を良くして、やがて、奴隷制に代わる新たな人種差別な州法を相次いで制定して、有色人種に対する「隔離政策」を開始した。
つまり「奴隷制」による人種差別が、南北戦争には「隔離政策」という新たな手法による人種差別に変更に変わって、アフリカ系アメリカ人の束縛が継続されたのである。
このレコンストラクション挫折以降に、南部で次々に生まれていった有色人種隔離政策に基づく人種差別的な州法の総称を、「ジム・クロウ法」という。ネーミングの元になったのは、ミンストレル・ショーの田舎者キャラクター、「ジム・クロウ」である。
ジム・クロウ時代の看板
「ジム・クロウ法」時代の白人(white)有色人種(colored)の使うトイレを分けていることを示す看板(写真)アラバマ、ミシシッピ、ジョージア、ルイジアナ、ノースカロライナ、ワイオミングなどでは、州法によって、病院、バス、電車、レストラン、結婚、交際、学校などについて、アフリカ系アメリカ人を中心とした有色人種が白人と同じ一般公共施設を利用することを禁止・制限した。
また、投票権(franchise)についても、アフリカ系アメリカ人の投票を阻止する数々の制約が設けられていた。非常に重い「投票税(Poll Tax)」、読み書きの試験、grandfather clause (=祖父条項。南北戦争が終結する1865年の2年後、1867年よりも前に祖父または父親が投票権を持っていた人にのみ投票権を与えるという南部の州憲法条項で、1890年頃から1915年まで存在した。当然ながら、アフリカ系アメリカ人の祖父や父親は奴隷だったのだから投票権は持っていない。最初からそのことがわかっていて、アフリカ系アメリカ人の投票阻止のために制定された悪法)などによって、アフリカ系アメリカ人の投票は阻止された。
北部の州でも投票税(Poll Tax)は存在したが、ニューヨーク州では先頭を切る形で1901年には廃止された。逆に、テキサス、アラバマ、ヴァージニア、ミシシッピの各州では、1960年代の選挙法改正まで投票税は存在していた。

南北戦争の南軍敗北で解放された「はず」のアフリカ系アメリカ人だったが、彼らの法的、政治的、経済的、社会的な平等を、恒久的に実現するはずだった連邦政府の理想は、19世紀末のレコンストラクションの失敗で一度挫折を味わわされていたのである。


都市と田舎

18世紀初頭のUnderground Railroadによる亡命にしても、20世紀初頭以降のGreat Migrationによる移住にしても、当然のことながら、すべてのアフリカ系アメリカ人が一斉に北や西に移住したわけではなく、南部にそのままとどまり続けた人々も大勢いる。
このことは、「都市のアフリカ系アメリカ人と、田舎のアフリカ系アメリカ人への、二極化」につながった。(もっと詳しくいうなら、都市、都市に遅れてやってきた人、田舎の3種類)
この「都市と田舎の二極化」は、同じアフリカ系アメリカ人同士の間に、収入や洗練の度合、意識の差、さまざまな「すれ違い」を発生させた。

「すれ違い」は、例えば「北部への移住を決断した人と、南部に残ることを選択した人」との間にあったのはもちろんだし、また「先に北部に亡命や移住を果たした人と、後から遅れてやってきた人」との間にも存在した。
早くから北部に脱出して、苦労を重ねて都市に定着し、それなりの洗練に達していた人たちにしてみれば、遅れて都会に流入したばかりのアフリカ系アメリカ人は、(言葉は悪いが、あえて使うと)野暮ったい田舎者に見えた部分があったようだし、また逆に、後発の人々から見た都会のアフリカ系アメリカ人は、気取って見えてしかたがない部分が少なからずあったらしい。

この「都市と田舎」2つのタイプのアフリカ系アメリカ人の見た目の違い、意識の差は、後で書くミンストレル・ショーの2つのキャラクター、「ジム・クロウ」と「ジップ・クーン」に少なからず反映されていたと言わざるを得ない。
(同じような「すれ違い」は、アフリカ系アメリカ人同士の間だけでなく、白人同士、たとえば、植民地アメリカ時代から先住していた白人と、アメリカ独立後に遅れてやってきた後発の白人移民の間にも強く存在していたようだが、ここでは話が複雑になりすぎるのを避けるために触れないことにする)



こうした「アフリカ系アメリカ人における、都市と田舎という二極化」は、例えば、1950年代から1960年代のアメリカを席捲した「公民権運動」にも反映している。

マルコムXが、都市を基盤にして、妥協の少ない過激な主張を繰り返したといわれるのに対し、マーティン・ルーサー・キング牧師は、田舎を基盤に、比較的な穏健なトーンで権利を主張した、といわれている。

Malcolm XマルコムX
Malcolm X
Martin Luther King, Jr.キング牧師
Martin Luther King, Jr.


19世紀初頭から20世紀初頭、100年という長い歳月をかけて進行していったように見えるアフリカ系アメリカ人の「都市と田舎の二極化」は、歴史という大きな潮流の上でみれば、それ自体はどんな国でも起こりうることであって、止むを得ない性格のものだ。
だが、アフリカ系アメリカ人社会のこうした二極化を、人種差別の助長に利用しようとする人々に「つけいる隙」を与えることにもなった部分もあることは否めない。


minstrel show(ミンストレル・ショー)と呼ばれる、顔を黒く塗った白人が演じる見世物において多用され、流行した、「都会人」を表わす「ジップ・クーン」と、「田舎者」を表わす「ジム・クロウ」という、2人のキャラクターも、その例のひとつだ。

Jim Crow田舎者
ジム・クロウ
Jim Crow

Zip Coon都会者
ジップ・クーン
Zip Coon


これらの登場人物は、誇張され、型にはまったstock character(ストックキャラクター)、ステレオタイプであることに最大の特徴がある。
ミンストレル・ショー自体は、後に衰退することになったが、ミンストレル・ショーが生み出した「ステレオタイプなアフリカ系アメリカ人のイメージ」は、1950年代になってもブラックフェイス・パフォーマーによってヴォードヴィルやドラマで普通に演じられ続けた。

映画、演劇、ショー、文学において、アフリカ系アメリカ人をステレオタイプでしか表現しないという習慣に対する気分の悪さは、かつて日本人が大昔のアメリカ映画やコミックでは、常に「眼鏡をかけ、前歯が出ていている」「クビからカメラをぶら下げている」「忍者の格好をしている」などという、東洋のイメージがごちゃまぜになったような、わけのわからないステレオタイプでしか表現されていなかったことを思い出すと理解できる。

Denzel Washingtonちなみに、ニューヨーク州生まれで、熱心なヤンキースファンでもあるデンゼル・ワシントンは、かつて1970年代後半に、まだ駆け出しの新人俳優だった頃、同じアフリカ系アメリカ人の名優シドニー・ポワチエから、『君のキャリアは最初の3〜4本の出演作で決まる。自分がいいと信じる役が来るまで待つべきだ』とアドバイスされ、いくつかの『黒人らしい』役を断った」(出典:Wiki)という。
演技論はこのブログの専門外だが、アメリカのショービジネスで、アフリカ系アメリカ人俳優に、彼らの才能の有無に関係なく「ステレオタイプなアフリカ系アメリカ人的な、つまらない、誰でもできる演技しか求めない」という悪い習慣のルーツは、このミンストレル・ショーではないかという気がしてならない。
(逆の意味でいえば、アフリカ系アメリカ人の視点で作られているといわれるスパイク・リー映画に登場するアフリカ系アメリカ人の演出や設定にも、ステレオタイプ感がないでもないが、とりあえず置いておこう)


ミンストレル・ショーの変遷を理解するには、たいへんに長ったらしくて複雑な歴史をひもとく必要があるので書ききれない。詳しくはWikiでも読んでもらいたい。
かいつまんで特徴だけ挙げてみる。

ミンストレル・ショーは、顔を黒く塗ってステレオタイプのアフリカ系アメリカ人を演じてみせるブラックフェイス・パフォーマーにルーツをもつ。顔を黒く塗った白人が、踊り、音楽、寸劇を交えたショーを演じたほかに、時代によってはアフリカ系アメリカ人自身が演じることもあった。
以下のリンク先のなかほどの部分に、1929年のミンストレル・ショーにおける録音とされる音源へのリンクがあるので、当時の気分を多少味わえる。この音源が本当に1929年のものかどうかまでは確かめようもないが、できた当初のミンストレル・ショーが、人種差別とはそれほど関係のない、悪気のない、たわいないミュージカルというか、コミックショーみたいなものであったことがわかるのは貴重だ。
こういう明るい雰囲気のショーが、いつのまにやら人種差別の道具になってしまうのだから、人間というものはある意味、怖い。
Blackface! - A History of Minstrel Shows
ミンストレル・ショーにおけるブラックフェイス・パフォーマーは、当初こそメインの出し物だったが、後にだんだんと舞台の片隅に追いやられていくことになったが、やがてミンストレル・ショーは1850年代には人種差別的な見世物という色彩を強めていった。



ブラックフェイス・パフォーマーのひとりで、1930年代に "Jump Jim Crow" という曲を大流行させたのが、Thomas Dartmouth Rice (トーマス・ダートマス・ライス 1808-60)だ。
ニューヨーク生まれの白人の彼が、顔を黒く塗って演じたアフリカ系アメリカ人の田舎者Jim Crow(ジム・クロウ)が歌う、"Jump Jim Crow" というナンバーの大ヒットによって、トーマス・ライスはミンストレル・ショーにひっぱりだこになり、"Jim Crow Rice" とも呼ばれるようになった。

ちなみに、実は「ジム・クロウ」というキャラクターがいつ発明されたか、という点そのものは、アメリカでも諸説あってハッキリしていない。
日本のWikiには「ジム・クロウという名はJump Jim Crowに由来する」と明記されていて、あたかもトーマス・ライスがこのキャラクターを発明したかの印象を与える記述がされているが、それは正確ではなく、「ジム・クロウ法という南部の人種差別的な州法の総称が、トーマス・ライスの "Jump Jim Crow" という曲に由来する」と断定する資料は、アメリカにはない。
確かなのは、「ジム・クロウ法という南部の人種差別的な州法の総称が、ジム・クロウというキャラクターに由来する」ということと、「ジム・クロウが、ミンストレル・ショーのベーシックな田舎者キャラクターだった」こと、この2点だ。
資料:The Strange Career of Jim Crow - The late C. Vann Woodward - Google ブックス



「ジム・クロウ」は当初、単なる「田舎のみすぼらしい黒人」を戯画化したキャラクターにすぎず、軽いコミカルな見世物のキャラクターのひとつに過ぎなかった。

だが、ミンストレル・ショーが興行的な成功と、 "Jump Jim Crow" という曲の大ヒットに、南部戦争前のアメリカ社会の「差別的な気分」との融合が起きたことで、やがてこの "Jim Crow(ジム・クロウ)" という言葉は、ミンストレル・ショーの狭い枠を飛び超えて、アメリカ社会全体に拡散していくことになる。
「ジム・クロウ」は、1930年代に「アフリカ系アメリカ人全体を指す代名詞」になり、さらに1870年代以降には、かつての南部の奴隷州で行われていた有色人種隔離政策のための州法の総称、Jim Crow law(ジム・クロウ法)」として定着した。
As a result of Rice's fame, Jim Crow had become a pejorative meaning African American by 1838 and from this the laws of racial segregation became known as Jim Crow laws.
「(ジム・クロウを演じた)ライスが名声を博した結果、『ジム・クロウ』は1838年までにアフリカ系アメリカ人を軽蔑する意味をもち、さらには、この言葉によって人種差別法が『ジム・クロウ法』という名前で知られることにもなった」
Jump Jim Crow - Wikipedia, the free encyclopedia





ちなみに、日本でフォークダンスの曲として知られている「オクラホマ・ミキサー」(Oklahoma mixer)には、実は、歌詞の違うバリエーションが数多くある。

その中のひとつに、"Natchez Under the Hill(丘の下のナチェス族)や、"Do Your Ears Hang Low?"(君の耳は長く垂れてるかい?)に並んで有名な、"Turkey in the Straw"(藁の中の七面鳥) がある。
"Turkey in the Straw"(藁の中の七面鳥)は、実は、ジム・クロウ法の語源になった "Jump Jim Crow" をヒットさせたトーマス・ライスと同じ、顔を黒く塗って歌い踊るブラックフェイス・パフォーマーのひとり、George Washington Dixonなどが歌ってヒットさせた曲。

またこのメロディは、さらに辿っていくと、かつてミンストレル・ショーでしばしば演奏されていたという、ある人気の曲に行き着く。
それが、ほかならぬ、ミンストレル・ショーにおける都市のアフリカ系アメリカ人キャラクターのテーマソング、 "Zip Coon" である。("Old Zip Coon" とも呼ばれる)

つまり、日本人はミンストレル・ショーの人気曲 "Zip Coon" にあわせてダンスを踊っていた、というわけだ。やれやれ。


人が普段、意識しない隙間にも、文化というやつは染み込んできているのである。





damejima at 11:37

August 05, 2012

イチローのヤンキース電撃移籍の衝撃で間隔があいたが、「父親とベースボール」という書きかけの記事の続きを書いておこうと思う。かなりめんどくさいが、やりかけた以上、しかたがない。


いうまでもなく、この種の問題は見た目より遥かに奥が深い。
もちろん正解など出ない。

だが、この問題は、当事者であるアフリカ系アメリカ人にとって重要なだけではなくて、歴史に疎いこと、そして、歴史と、単なるロマンや神話や観光とを分別し整理する能力が無いこと、この両方によって損をこうむることが少なくない我々日本人にとっても、無視することのできない重要な問題が含まれている予感がある。
やたら頭を下げてばかりいるのをやめて、背筋を伸ばしてプライドを保つためには、「自分の土俵から、世界の歴史を把握し直しておく作業」が、今は非常に大切な時代になってきている。
「歴史、特に世界とのかかわりなんてものは、ただただ小難しいだけだから、わからないままほっておいたって、どうせ現実の暮らしには困らない」なんていう、のほほんとした時代は、とうの昔に終わっている。オリンピックでの審判の不手際に対する抗議ではないが、他人に何かとやかく言われても、ひとことどころか、二言も三言も言い返せるくらいでないと、これから困ることになる。
そのためには、相手に足元を見られるのではなくて、逆に、常に相手の足元を見透かす必要があり、そのためにも歴史というものに無関心でいるのはもったいない。


歴史というのは、人の暮らしの「背骨」、昔の木造帆船でいう「竜骨」のようなものだ。
古代フェニキア人やヴァイキングが海の主になれたのは、古代エジプトで発明されたと思われる「竜骨」の発明によって船の構造を強固にでき、そのことで船体を巨大化し、さらに大きな帆を張ることもできたからだ。東インド会社のガレオン船や、映画パイレーツ・オブ・カリビアンに登場する海賊船も、まったく同じ。竜骨のある洋船は、竜骨が無い和船に比べて構造が強く、大洋さえ越えることができ、その広大な行動力こそが海の制覇と飛躍に繋がった。

(ちなみに、「竜骨の発明時期」に関してさまざまな記述がネット上にあるが、紀元前数千年前の古代エジプトの船に既に竜骨があったことは、壁画から明らかだ。
また、英語版Wikiでは、古代エジプトに歴史的起源をもち、木造帆船において「竜骨」といわれてきた構造材の歴史にまったく触れないまま、ヨットなど、今の船でいう「センターボードとしてのKeel」を説明することで、昔の竜骨が今のkeelと同じものであるかのように扱っているが、その解説はまったく正しくない。
昔からの木造帆船でいうところの「竜骨」とは、船底の中央を縦に貫通する非常に大きくて強い部材であり、文字どおり船の「背骨」にあたる中心構造材だ。
だが、今のヨットなどでいう「keel」とは、いわばサーフボードでいう「フィン」のような脇役的存在であり、古代フェニキアや古代エジプトに起源をもつ「竜骨」という骨太の訳語には、まるでふさわしくない。一刻も早く「keel」と呼ぶのを止め、「センターボード」とでも呼称を変更してもらいたいものだ)

古代エジプトのハトシェプスト女王がプント交易に使った船古代エジプトのハトシェプスト女王がプント交易に使った船
木造帆船の典型的な「竜骨」クレーンに吊り下げられた「竜骨」。1745年9月12日に座礁して沈没し、近年再現されたスウェーデン・東インド会社所属の「イエーテボリ号」(2003年進水)のもの。
最近のヨットでいう”keel”(実際にはセンターボード)現在ヨットで "keel" と呼ばれているものが、これ。 "keel" という呼称で呼ばれるのは、単に昔の名残りに過ぎない。かつてのkeelが持っていた構造上の重要性を失ったこの部材に、keelという言葉を使うのは、誤解を呼ぶだけで、どうみても正しくないし、ふさわしくない。どうみても、「センターボード」と改名してくれたほうが、いらぬ誤解を生じないのは明らか。


どうせ誰も正解が出せない問題なら、正解が出せないことくらい、気にする必要などない。こじんまりしたつじつま合わせをして、無理にまとめる必要もない。
むしろやるべきことは、風呂敷を広げられるだけ広げておいて、せめて、その広げた風呂敷のどこかに、奥の奥にある問題の一端を少しでも多く引きずり出しておくことだろう。そのほうがずっと有益だし、またブログ主の能力の乏しさにもふさわしい。


再開にあたって、ここまで書いてきた4つの記事の、意味や繋がりについて、自分なりにまとめ直しておこう。



出発点は、こういう話だった。

1940年代のジャッキー・ロビンソンの加入以降、MLBにおけるアフリカ系アメリカ人の存在は、プレーヤーとしてその優れた運動能力を轟かせ、ファンとしてプレーヤーを支えてきた。アフリカ系アメリカ人は、選手、ファン、GMや監督・コーチ、さまざまな立場からMLBを支える原動力のひとつとなってきたのである。
だが、現在のところ、アフリカ系アメリカ人とベースボールの距離は、ジャッキー・ロビンソン加入直後の熱をすっかり失って、遠く離れてきてしまっているように思える。
それはなぜなのか?


とりあえず考えられる要因は、アフリカ系アメリカ人にみられる「異常に高いシングルマザー率」。このブログでは、家庭における「父親の不在」が、アフリカ系アメリカ人の意識とベースボールとの距離を広げてしまう直接の原因になっているのではないか、と考えた。
これは、「野球という文化は、どこの国でも父親が子供に伝えていく家庭的な文化である」というブログ主の基本発想からきている。同じような指摘は、アメリカのサイトにもみられる。
Damejima's HARDBALL:2012年6月29日、「父親」とベースボール (1)星一徹とケン・バーンズに学ぶ 『ベースボールにおける父親の重み』。

この「父親の不在という、家庭の構造変化が影響している」という仮説は、すぐ次の壁に突き当たる。なぜ「アフリカ系アメリカ人家族の構造、コミュニティの屋台骨は、これほど大きく揺らでしまったのか?」という新たな疑問だ。

現代のアフリカ系アメリカ人を取り巻く社会環境は複雑だ。「古くからある人種問題」は、公民権運動の成果などによって、見た目だけは解消されたように見えるが、もちろん根本的な解決には至っていない。その上、インナーシティなどにみられる都市問題などもからまり、現実のアフリカ系アメリカ人は結果的に、新旧入り乱れた重層的な社会問題の束縛を受けている。

それを貧困や失業などからありきたりに説明することはたやすいが、それでアメリカという国全体が経験してきた喜びと苦しみの両方が入り混じった歩みを謙虚に学んだとはいえない。なにも、アメリカを全否定するために、こんなことを書いているわけではないのだ。むしろ、深く理解して、対等にモノを考えていくことが大切だから、やっている。


南北戦争が終わって移動の自由を得たアフリカ系アメリカ人の一部は、南部での奴隷生活を逃れ、北や西の都市への移住、いわゆるGreat Migrationを開始した。移住先の都市で彼らは、「ベースボールというアメリカ文化」と新たに遭遇し、経験し、夢中になった。

独立戦争や南北戦争の尊い犠牲によって、アメリカはイギリス(およびヨーロッパ諸国)の束縛から自由になり、その結果、北部の都市で近代的な経済成長が始まって、やがて経済成長につきもののサバーバナイゼーション(郊外化)が進行していく。
これを、南部の隷属を脱出して北へ向かったアフリカ系アメリカ人の立場からみると、アメリカ市民として北部の都市に安住し、南部では味わえなかった人並みの自由や豊かさを得るはずだったわけだが、やがて「ゲットー」や「インナーシティ」といった都市問題にからめとられたことで、南部で奴隷として味わった隷属とはまた別種の「新たな冷遇」の時代を迎えることになった。
アメリカに古くからある人種問題と、20世紀以降に新たに発生した都市問題が複雑にからまりあう中、アフリカ系アメリカ人は新たな冷遇と不自由さを経験する。

そしていつしか、かつて保持されていたアフリカ系アメリカ人特有の家族同士の絆や、アフリカ系住民同士のコミュニティの緊密な係わりは崩れていく。そして、自由と豊かさを求めて都市に移住したはずのアフリカ系アメリカ人の中に、南部に回帰する者も現われはじめる。
こうした「南部回帰」の流れの中で、アフリカ系アメリカ人と野球との間にできはじめた「ギャップ=距離感」は必ずしも縮まっていく方向にはない。

Damejima's HARDBALL:2012年7月3日、「父親」とベースボール (2)南北戦争100年後のアフリカ系アメリカ人の「南部回帰」と「父親不在」、そしてベースボールとの距離感。

Damejima's HARDBALL:2012年7月6日、「父親」とベースボール (3)サバーバナイゼーションと都心荒廃を、アフリカ系アメリカ人の移住が原因のwhite flightと説明するレトリックの呪縛を解く。


アフリカ系アメリカ人が経験してきた苦難の道のりについて記述する行為は、往々にして、人種差別の善悪についての道徳的判断に終始してしまうことが多い。
だが、人種問題のような、モラルを最初から無視した問題について、モラル面からの反論や価値判断を試みることは、方法として有効とはいえない

ならば、こうした問題を、「根=root」の所在を明らかにすることで「根を枯らす=葬り去る」という意味でいうなら、アフリカ系アメリカ人冷遇の歴史を招き続けてきている「白という色を絶対的なものとする価値観」が、いつ、どこで、生まれてきたのか、という問題について把握しておく必要がある、と考えた。


白という色を絶対とする近世の歴史観」を見直す流れが、近年の歴史学でようやく根付きつつある。アメリカ国内はじめ、さまざまな研究者の努力によって、近世以降にできあがった「白という色を絶対とする近世の歴史観」が生産されてきた「発生源」「動力源」は、特定されつつある。
例えばマーティン・バナールの著書『ブラック・アテナ』のように、「白という色を絶対とする歴史観」をくつがえすこれまでになかったタイプの古代史研究が発表されたことによって、18世紀のヨーロッパが必死になって作り上げた「白を絶対としたがる歴史観」の捏造ぶりが明らかになりつつある。(だからといって、逆に黒を絶対的なものとしても、意味がない)
Controversies in History: Black Athena Debate

例えば、近年の科学技術の進歩によって、「イギリスの誇る大英博物館に収蔵されている「白いと思われ続けてきた古代ギリシア彫刻」の表面には、実は、かつてオリジナルな彩色がほどこされていた」ことが判明している。
また、大英博物館で、本来は彩色されていた古代ギリシア彫刻の表面を、人為的に削って「もともと白い彫刻だったようにみせかける」インチキな彩色除去作業が、なんと100年もの長きにわたって行われてきたという、スキャンダラスな行為も明らかになった。

こうした「白色礼賛主義」に基づいて行われた歴史捏造のルーツのひとつに、18世紀ドイツの歴史家ヨハン・ヴィンケルマンの著作にみられた古代ギリシア芸術の「白さ」に対する礼賛がある。
ヴィンケルマンの誤った著作に強い影響を受けた人々によって、「白いギリシアこそ、唯一無二のヨーロッパの文化的ルーツである」という歴史観は、日々拡張されていき、やがて、大英博物館でのギリシア彫刻の彩色除去作業のような「歴史的事実を完全に無視した、無理矢理な証拠固め」すら行われるようになった。
Damejima's HARDBALL:2012年7月16日、「父親」とベースボール (4)アメリカにおけるドイツ系移民の増大。18世紀ドイツの美術史家ヨハン・ヴィンケルマンが欧米文化のルーツとして捏造した「白いギリシア」。


そうなると、知りたくなるのは、ひとつには、「白いギリシアという価値観が、果たしてアメリカにも持ち込まれたのかどうか」という点であり、2つ目には、「白いギリシア」という価値観がアメリカに持ち込まれたとするなら、それはアフリカ系アメリカ人の冷遇とどういう関係にあるのか、という点だ。

「白いギリシア」という価値観は、ドイツで生まれ、イギリス(当時イギリスはドイツ系王朝であるハノーヴァー朝だった)が世界貿易の主導権を握った近世のヨーロッパで固められていった。
このブログでは、「アメリカにおけるアフリカ系アメリカ人に対する人種差別が、あまりにファナティックなレベルに行き着いてしまう原因のひとつは、ヨーロッパ移民(その中には、独立戦争でアメリカと戦ったイギリス国王ジョージ3世が、ドイツの親戚筋で買い付けてアメリカに大量に持ち込んだドイツ人傭兵も含まれる)が独立後のアメリカに持ち込んだ『白いギリシア』という価値観に、ルーツのひとつがある」との仮説を立ててみた。

建国前のアメリカは独立国ではなく、ヨーロッパ諸国から送り込まれる集団的な移民がネイティブ・アメリカンを大地の片隅に追いやりながら住みついた「植民地」として出発している。アメリカが国家として独立するのは、18世紀末にイギリスとの独立戦争が終わって以降のことだ。
こうしたアメリカ独立の過程において、アメリカが「価値観」という面においても、イギリスの価値観から決別、独立できたか、というと、とてもそうは思えない。
むしろ逆に、アメリカは、イギリスからの独立に前後して、ヨーロッパの価値観から抜け出すのではなくて、むしろ、当時のヨーロッパの閉塞した貴族的価値観(もっと詳しくいってしまえば、フィルヘレニズムや、イギリス経由のドイツ的価値観)に急速に染まった面が、少なからずあるように見える。

つまり、「自由を尊び、のびやかに、おおらかにふるまう開拓者的な気質」は、アメリカのオリジナルな長所として、たしかにアメリカが古き良き時代から受け継いできた資産、遺産だと思うが、残念なことに、別の面には、「やたらとセコい、自己愛に満ち満ちた部分」も存在する。
この「自己愛成分」は、最初から植民地アメリカに存在していたのではなくて、18世紀の独立戦争に前後して、当時の「白いギリシアという価値観が大流行していたヨーロッパ」から、はからずも吸収してしまったものであるように見えるのだ。
独立戦争は、それまでとても牧歌的だったはずのアメリカに、「なにか異常にアクの強い、自己愛成分」をもたらした。
(こうした「アメリカの理想の劣化」については、「ミンストレル・ショーの変質」をテーマに、別記事として近いうちに書く →Damejima's HARDBALL:2012年8月5日、父親とベースボール (6)アフリカ系アメリカ人史にみる「都市と田舎の分離」。ミンストレル・ショーの変質と、「ジム・クロウ」誕生


したがって独立戦争以降のアメリカには、常に「二面性」が感じられる。
ひとつは、「自由さと開放感を求めるおおらかな部分」、もうひとつが、「自己愛に満ちた、制約好きな部分」だ。
この「ものすごく自由で、ものすごく不自由なアメリカ」という「アメリカの二重性」は、そうなるに至った経緯や理由まではわからないが、明らかにいまやアメリカの奥深くに二面性として共存してしまっている。
やがて、この「二面性」は南北戦争を導くことになるわけだが、北軍と南軍の軋轢は、単に経済上の利害を代表しているのではなく、実は「アメリカの精神構造上の二面的分裂」を表現しているものと思われる。
こうした分裂は、実は南北戦争の終結によっては、ほとんど解消されることはなかったし、だからこそ、奴隷制が建前上は無くなった南北戦争後も、隔離政策という形でアフリカ系アメリカ人の苦境が残存し続けることになった。


アメリカという国は、最初「ヨーロッパの出張所のようなもの」として誕生しているわけだが、やがて成長を遂げたことで、イギリスから分離独立することに成功した。その成長過程においてアメリカは、さまざまな「異質な成分」を内部に取り込んできた。
「人種」という「成分」からみれば、アメリカに流入したのは、なにも三角貿易によってアメリカにもたらされた肌の黒いアフリカ系アメリカ人だけでなく、ヨーロッパからの白人移民も大量に入ってきている。
そうした白人移民がアメリカに持ちこんだのは「アメリカ起源でない、閉鎖的な自己愛の匂いの強い文化」だった可能性が大いにある。
「白人移民の文化」が本来おおらかだったはずのアメリカ文化にもたらした強い悪影響について、アメリカ史家はもっと明確に究明すべきだろう。(もしかすると、今のアメリカの「ある部分」は、「本来のアメリカではない、アメリカ」になっている可能性すらある)

また「独立戦争から南北戦争までの時代のアメリカを支える財政基盤」について、当時の世界史からみて根本的なのは、アフリカ系アメリカ人に隷属を強いたアメリカ南部のプランテーションの生み出す農産物の収益ではなくて、むしろ、イギリスが東方貿易で得た金や銀のような「ヨーロッパとアジアとの間の貿易」がベースなのは、明らかだ。言い換えると、「18世紀におけるアジアの重要性は、アメリカで起きていた人種間のトラブルの推移よりも、はるかに重要な位置を占めていた。
通常のアメリカ史には、ヨーロッパとの関係はさんざん書かれている割には、「アフリカ系アメリカ人を無給の働き手として経営されるプランテーションは、ヨーロッパ側から見れば、それは単に数あるサブシステムのひとつに過ぎなかった」という視点が欠けている。
アメリカ通史においてこれまでほとんど無視され続けてきた「ヨーロッパとアジアの関係」は、もっと重く扱われていいし、建国時代のアメリカと、遠いアジアとの関係は、アメリカ通史の一部にもっときちんと埋め込まれるべきだ。(この点についても、そのうち別記事を書く)



散漫な話のわりにこみいっていて申し訳ないが、ここらへんが「父親とベースボール」というシリーズが今のところ到達している「大風呂敷」である。

もし「自由」という美徳がアメリカの培ってきた美徳のひとつであり、独立戦争、南北戦争で多大な犠牲を払ってまで樹立しようとした理想のひとつであるとして、その美徳の良さをすっかり劣化させつつアメリカの内部に二面性を定着させたのが、ヨーロッパ由来で輸入された「白さへの信仰」だとするなら、それは大変に残念なことだ。

たいへん入り組んだ話なので、野球ファンにはまったく興味がないと思う(笑) だが、シアトルという田舎からニューヨークという都市にイチローが移籍せざるをえなかったことのアメリカ史的な本質を誰もやらないような角度からきちっと辿る意味でも、ブログへのアクセス数の激減などおかまいなしに書き続けてみるつもりだ。

damejima at 06:18

July 17, 2012

MLBとアフリカ系アメリカ人の関わりを書いていて、誤解されたくないと思うことのひとつは、アフリカ系アメリカ人の受けてきた仕打ちがあまりにも可哀想だ、などという道徳的な理由から記事を書いているのではない、ということだ。

人の時間は有限であり、無限ではない。そんなヤワなヒューマニズムに貴重な時間を無駄に使うわけにはいかない。
もし、日本人であることの歴史的価値の高さや誇りについて、歴史の流れの中で位置をきちんと見定め、ブレないモノの見方を維持しながら毎日を送りたいと願うならば、「苛められている人たちが可哀想」などというグダグダな教科書的価値観で過去を振り返るなどという無意味な行為に、時間を割けるわけがない。


例えば、奴隷制がいいことなのか悪いことなのか、なんていう、論じるまでもない当たり前の道徳を抜きに、できるだけ「冷ややかな視点」から、アフリカ系アメリカ人と南部アメリカという「アメリカ史」を眺めると、初めて、当時のヨーロッパの強大さ、そして、当時のアメリカの意外なほどの「地位の低さ」がわかってくる。


簡単な言い方をさせてもらうなら、
アフリカ人奴隷を使って綿花などのプランテーションを営んでいた時代の南部アメリカは、当時のヨーロッパ(というかイギリス)にとっては、数あるサブシステムのひとつに過ぎない
ということだ。

これは「差別はよくない」だの「アフリカ系アメリカ人を救え」だのという道徳的な話ではなく、また、「古き良きアメリカ」だのなんだのという懐古趣味でもない。
当時のアジア、アフリカ、アメリカ、南米の全てが見えているヨーロッパの位置から見れば、奴隷制下の南部アメリカも、大西洋の三角貿易も、もっといえば南北戦争ですら、アメリカ人が考えるほど重くはない。


よく、アフリカ系アメリカ人の通史的な教科書、つまり、アメリカに奴隷が持ち込まれた時代から現代に至る長い経緯について書かれた教科書をみると、必ずと言っていいほど、最初の数章は、ヨーロッパ、北アメリカ、西アフリカの「大西洋の三角貿易」についての説明に充てられている。
たいていの場合その中身は「どこにでもある、ダラダラとしたお決まりの記述」を並べているだけであり、さらに、その先の話も、これまたお決まりの「アメリカの抱える貧困、暴力、差別、都市問題」と、お決まりの暗い記述で埋め尽くされる。

こういう「教科書」が行き着くのは、結局のところ、せいぜい「加害者と被害者」という教科書的モラルでしかない。
それはそうだ。欧州系白人とアフリカ系アメリカ人の、2種類の登場人物しかいない作文なのだから、「加害者と被害者」という教科書的モラルにしか行き着きようがない。

こうした「視野狭窄」が起きるのは、ひとつには、ヨーロッパとアジアの関わりにをきちんと視野に入れてしゃべっていないからだ。それは一種のアジア軽視といってもいい。

アメリカの奴隷制を描きだすにあたって、「ヨーロッパとの間を関連づけておけば、もうそれは世界史として成り立った証拠だ」とでも思っているのかもしれないが、勘違いもはなはだしい。そんなのはヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンの捏造したヨーロッパ中心主義ですらない。


繰り返して言わせてもらうが、
「対価を払ってモノを買うのが、経済というものであり、本来のビジネス」で、「対価を払うための資本を貯め続けるシステムを持っていることが、世界の中心であることの証」である。(それは実は現在でも変わっていない)

奴隷制下の南部アメリカは、たとえとしていうと、奴隷という「ガソリンのいらないトラクター」で土地を耕し、できた綿花をヨーロッパに買われていっているだけの「特殊なビニールハウス」に過ぎない。
中世から既に「対価を払ってモノを買う、本来の意味の貨幣経済」が発達していたヨーロッパからみたら、給料という対価を払わずにすむアフリカ人奴隷を使って綿花やタバコを栽培していた南部アメリカの「経済」は、正確にいえば「ビジネス」でも、「貨幣経済」でもない。
また、繰り返しになるが、ヨーロッパにとっての南部アメリカは、「数あるサブシステムのうちのひとつ」に過ぎないし、手厳しく言えば「買い付けをするために出かけていく「田舎」のひとつ」に過ぎない。


もう少し詳しく書けば、大西洋の三角貿易で、綿花や奴隷の買い取りを可能にしてくれる原資は、金や銀だが、ヨーロッパの金や銀での支払いを可能にしているのは、アジアとの交易だ。大西洋の狭い三角交易などではない。
大西洋の三角交易を可能にしている原資のひとつが、アジアとの交易にあるのに、その「外部の世界」を無視して、南部アメリカの奴隷制について書かれる教科書が中途半端なのは当然だ。

教科書で描かれる登場人物は基本的に、白人とアフリカ系アメリカ人だけであり、その2者の関係の歴史的経緯だけがザッと描かれるだけで、「アメリカに移民してきた貧困なヨーロッパ系白人」という「第三の立場」から見た奴隷制という視点ですら欠けている。
だから、よけいに「加害者と被害者」という単純なモラルばかりが強調されることになりがちになるのは当たり前なのだ。


これなど、まさに松岡正剛氏の指摘する「トンネル内でモノを見るような狭いモノの見方」だ。

ヨーロッパ、アメリカ、アフリカ、三者の関係をいくら説明し、さらにアフリカ系アメリカ人(住人)とアメリカ(国家)との関係をいくら語ったとしても、「大西洋の三角貿易の外部」について、まったく説明しないのでは、狭くなって当然だ。


外部」とは何か。

例えば、奴隷制当時の南部アメリカの主要農産物のひとつである綿花をヨーロッパが買いつけるときに支払う「代金の出処」を考えれば、すぐにわかる。

奴隷制下の南部アメリカから綿花という「継続的な買い物」をして、その代金を払い続けることのできる「特別な財布」を持っているのは、ヨーロッパの側であり、その財布にコインを流し込んでいるのは、アジアとの交易だ。
繰り返しになるが、ヨーロッパにとって、奴隷制下の南部アメリカは、単に「たくさんある仕入先のひとつ」でしかない。たとえ奴隷時代のアメリカが、「古き良きアメリカ」であろうと、「誇り高き時代のアメリカ」であろうと、そんなことはまったく関係ない。


ヨーロッパ視点で、あらためて大西洋の三角貿易を振り返ると、南部アメリカの奴隷制プランテーションが、いかにアフリカ人奴隷という「特殊な人材雇用システム」を利用することで潤っていたかのように見えようと、本当の意味で商品が集まり、本当の意味でキャピタルゲインの多い場所は、当然ヨーロッパであって、南部アメリカではない。だからこそ、ヨーロッパに綿花の代金を払うことのできる「特別な財布」がある。
そして、ヨーロッパの「特別な財布」を膨らませるコインは、例えばアジアからもたらされる。

だから、ヨーロッパ視点から見た南部アメリカは、単に「農場」「田舎の商店」にすぎないというのだ。

ヨーロッパ側視点から見れば、南部アメリカは、「奴隷という、給料を払わなくてすむワーカー」を導入させ、「ヨーロッパのための綿花」を生産するプランテーションを運営させ、収穫を安く買い取る、「ヨーロッパのための奴隷農場」だ。ならば、奴隷農場の主人、つまり「奴隷の主人だった南部のアメリカ白人」の評価にしても、「奴隷という安価すぎる働き手を与えて、ヨーロッパのために綿花を栽培させている、ヨーロッパのための畑の『管理人』」に過ぎない。

人間(奴隷)から貴金属、農産物まで、ありとあらゆるモノを仕入れて店頭に並べ、商売をし、稼いでいる「市場」(=ヨーロッパ)にとって、綿花やタバコを仕入れる産地のひとつ(=南部アメリカ)が、あくまで仕入先のひとつに過ぎないのは当たり前だ。市場が南部アメリカから綿花を買うのは、「奴隷という給料を払わなくていいワーカー」を使って経営している南部アメリカの綿花価格水準が相対的に安いからに過ぎない。


そして重要な点は、ヨーロッパが、例えば南部アメリカから綿花を買う「代金」は、アメリカ、アフリカとの三角貿易そのものから生じるわけではなく、三角貿易の「外部」からもたらされることだ。これは日本人視点から見たアメリカの歴史を、ものおじせず、きちんと掴むという意味でとても大事な視点だ。

市場であるヨーロッパが、ヨーロッパのための農場である南部アメリカ、農場のための人材確保場所であるアフリカとの三角関係にあたって支払う代金の、「もともとの出どころ」には、「ヨーロッパと、銀を生産し銀で決済するアジアとの間の交易」が深く関係している。
言い方を変えると、「ヨーロッパ・アジア間の交易」にまったく触れないまま、ヨーロッパ、アメリカ、アフリカ、三者の貿易の説明でとっかかりの話題が終わってしまうようなアフリカ系アメリカ人の「ありがちな通史」は、「都会の人間が、南部アメリカという田舎の商店でやっている買い物を、まるで世界のすべてでもあるかのように語っている」のと変わりない面がある。
そんな狭い観点で語っていれば、話題は最後には「加害者と被害者」という通俗的な道徳話に行き着かない。


当時、既にアジアは、けして綿花とタバコだけを輸出していた奴隷農場のような貧困なビジネスをしていたわけではなく、また、人身売買の悲惨な舞台だけ提供する奴隷市場でもなくて、きちんと交易のバックボーンとなる貴金属類を生産しつつ、自分のところの産品を売り、なおかつ、相手の産品も買うという、売りと買い、両方のできる場所、つまり、きちんと自立した市場参加者だったのであって、けして隷属などしていなかった。
後になってアメリカが自動車産業の勃興などによって徐々にヨーロッパのヘゲモニーから脱していった後も、綿製品、自動車、通信、コンピューター、それぞれの時代のメイン商品について、アジアがそれなりのオリジナリティを全て失ったことは、ほとんどない。

ヨーロッパに旅行したアメリカ人が蔑まれることがあるのは、ヨーロッパのための奴隷農場の雇われ管理人として「三角貿易を通じてしか世界を知らないアメリカ人」の側は全く意識しないとしても、アメリカの主人として綿花を買い取るだけでなく、「全世界からあらゆるモノを買いつけることで、世界を知っていたヨーロッパ」の側では、「全世界を相手にしてきたヨーロッパ視点から見た『アメリカの小ささ』を、ヨーロッパ側で、けして忘れることがない」からだ。
それは、花の都パリで、わかりもしないオペラを見て、休憩時間になっても席を立とうともしないペアルックのアメリカ人が、砂糖とコーンスターチの食べ過ぎで太っている、その太った外見が原因ではない。


アフリカ系アメリカ人に対して強権をふるうアメリカが、アメリカの全てではないが、三角貿易がまるで当時の歴史のメインストリームででもあったかのようにふるまってみたところで、実際には、どうみても「当時の南部アメリカは、単にヨーロッパ経済のサブシステムのひとつに過ぎなかった」としか言いようがないことを消せるわけではない。

damejima at 19:58
キングス・コートは、ベネズエラ人投手フェリックス・ヘルナンデスの登板日にだけセーフコフィールド外野席の端に特設される「ヘルナンデス応援専用席」のことで、バッターを2ストライクと追い込むと、三振を期待するキングスコートに集結した白人観客は、「 K! K! K! 」と、MLBで「三振」を意味する「 K 」と、ヘルナンデスのニックネームであるKingにひっかけた「 K 」というアルファベットを、まるで「カルトの集会」でもやっているかのように、熱狂的に連呼しはじめる。

この、Kというアルファベットを連呼するのがお約束の場所であるキングスコートに、アフリカ系アメリカ人の姿を見たことがある人は、ほとんどいないはずだ


まぁ、シアトルのゲームを毎シーズン100試合とか観ない人には、「キングスコートにはアフリカ系アメリカ人はいない」という指摘を信じない人もいるだろう。
ならば、ネットを探せばキングスコートについての写真や動画がそこらじゅうに落ちていると思うから、自分でとことん確かめてみるといい。もしアフリカ系アメリカ人で、あの黄色いTシャツを着て、K!K!K!と連呼している集団の写真か動画を見つけることができたなら、ぜひ教えてもらいたいものだ。

July 3: King's Court Fourth of July | Mariners.com: Photos

In King’s Court, anything goes ― and that’s a very good thing | Seattle Mariners blog - seattlepi.com

このKという単語の連呼が、どのくらい今のアフリカ系アメリカ人にとって、あの忌まわしいKKK (=Ku Klux Klan、クー・クラックス・クラン)を連想させるかについては、ハッキリと断言することまではできないにしても、もしブログ主がアフリカ系アメリカ人だったら、いくら野球という娯楽の上での話とはいえ、ヘルナンデス登板日にセーフコに行くのはプライドが許さないし、ヘルナンデス登板日には絶対にセーフコに行かなくなるだろう。


KKKのパロディ
資料によれば、KKKはかつて南北戦争終結後の1865年に作られ、一時は衰えたものの、第一次大戦後に中西部のオクラホマ、テネシー、オレゴン、インディアナ、ディープサウスのアラバマなどで勢いを取り戻し、1924年には会員数500万人を数えたという。(これらの地域は、後で述べるように、ユダヤ系でないドイツ系移民の多い地域でもある。ちなみにユダヤ系ドイツ移民が多いのは、ニューヨークなど東部の都市)

かつてのKKKによる暴力(アメリカのWiki)Ku Klux Klan - Wikipedia, the free encyclopedia



なにを大袈裟なことを、と思う人がいるかもしれない。

King Kongは、もともと1930年代初期に作られた映画がはじまりだが、これがまた忌まわしい K にまつわる話で、しかも、「King Kong =キングコング」というネーミングは、2つの「K」がつながった、「K.K」というイニシャルなのである。
(ちなみに、キングコングのプロデューサー、Merian C. Cooperは、元は第一次大戦の空軍パイロット)

King Kong(1933版)King Kong - Wikipedia, the free encyclopedia
南洋の島から見世物にされるためにニューヨークへ連れて来られ、逃げ出して街で大暴れしたキングコングは、巨大なサル、つまりApeである。
Apeという表現は、「デカくてのろまな人」を馬鹿にする用途にも使われる。もちろん、アフリカ系アメリカ人を馬鹿にするのにも使われるし、そういう言葉の中で最も怒りを買う言葉のひとつでもある。
(かつて日本の化粧品会社のCMで、チンパンジーがアフリカ系アメリカ人の真似をしているのがあったらしいが、もしそんなとんでもない映像がアメリカのテレビで流されたとしたら、社会問題になるだけでは済まない)

日本のWikiなどは、キングコングは、白人側から見た、アフリカ系アメリカ人に対する恐怖感や差別意識のメタファー(隠喩)として扱われることもある、などと、生ぬるい表現で説明しているが、アメリカではとっくの昔に、「隠喩どころか、キングコングって、明らかにアフリカ系アメリカ人そのものを指してるじゃねぇか。バカヤロ」と指摘されている。

キングコングにアフリカ系アメリカ人の比喩を指摘する資料 1
During the war period the movement of blacks from rural to urban areas intensified, and migration continued through the l920s, resulting in increased racial friction in the cities.
King Kong by David N. Rosen

注:文中の "migration" は、もちろんいわゆるGreat Migrationをさす
キングコングにアフリカ系アメリカ人の比喩を指摘する資料 2
...fucking GIANT and BLAAAAAACK hand reaching out towards said blond symbol of white pure beauty.
AngryBlackBitch: King Kong...

美女と野獣という設定は、そのまま「白人」と「アフリカ系アメリカ人」という関係のシンボリックな比喩になっている、という指摘


既に書いたように、南北戦争が終わると、奴隷として南部に強制的に閉じ込められていたアフリカ系アメリカ人は、一斉にニューヨーク、シカゴ、デトロイト、ピッツバーグといった北部の大都市へ移住しはじめた。いわゆるGreat Migrationである。
キングコング映画が最初に製作された1930年代初期は、このGreat Migrationが盛んだった1920年代の直後の時代にあたる。(1930年代に入ると大不況のあおりでGreat Migrationは一時的に停滞した)
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年7月3日、「父親」とベースボール (2)南北戦争100年後のアフリカ系アメリカ人の「南部回帰」と「父親不在」、そしてベースボールとの距離感。

キングコングとアフリカ系アメリカ人の不快な類似性を指摘する人は、単に、キングコングがデカくて黒いからアフリカ系アメリカ人のメタファーになっているなどと根拠の薄い議論をしているのではなくて、「黒くてデカいApeが、未開の地から北部の都市へやって来て、街を破壊する」というキングコング映画の設定そのものが、どうみても南北戦争後に南部のアフリカ系アメリカ人が北部の都市に流入したGreat Migrationを揶揄しているとして、アメリカ史をふまえた議論をしているのである。



カイゼル髭のオモチャをつけたキングスコートの白人の子供(写真注)アメリカが独立戦争において、ドイツ系のイギリス王ジョージ3世、およびジョージ3世がアメリカに連れてきた残虐なドイツ人傭兵集団と戦った過去の歴史を踏まえない、無神経な「カイゼル髭」

おそらくはシアトル地元のアフリカ系アメリカ人の総スカンを食らっているであろう、このキングスコートとかいう無神経なプロモーション手法は、最近では、さらにドイツ系イギリス王のトレードマークだったカイゼル髭になぞらえたプロモーションまでやりだしだ。
これがまた、どこか、ドイツの美術史家ヨハン・ヴィンケルマンが、「白いギリシア」という屁理屈でヨーロッパ文化のルーツを捏造して以降のドイツ系人種の増長ぶりを思わせて、最悪である。


「キングつながり」という駄洒落のつもりかもしれないが、
ちょっと歴史を踏まえなさすぎるにも程がある。


植民地時代のアメリカ(13植民地)(左図)植民地時代のアメリカ(赤色部分がいわゆる「13植民地」)
植民地アメリカが、イギリス、もっと正確にいうなら、ドイツ系のイギリス王朝との間で独立戦争を戦ったのは、18世紀末の1775年から1783年だが、当時のイギリス王ジョージ3世は、この戦争を戦う兵士として、ドイツにたくさんいたジョージ3世の親戚筋から多くのドイツ人を「カネで買って」投入した。

1755年に刊行されたヨハン・ヴィンケルマンの『ギリシア芸術模倣論』によって、ヨーロッパで熱烈な「白いギリシア」ブームがまきおこったのも、ちょうどアメリカ独立戦争のあった18世紀だ。

「ジョージ3世がアメリカに連れてきたドイツ人」を、文脈の便宜上「傭兵」などと表現している資料は多い。だが実際の彼らは、「戦闘用に訓練された職業兵士」という意味の「ホンモノの傭兵」ではない。また、屈強さで歴史的に有名な中世のドイツ系傭兵集団ランツクネヒト(Landsknecht)でもない。

彼らは、単にドイツ諸侯の領地に住んでいた、「ごく普通の領民」であり、イギリス王ジョージ3世とつながりのあるドイツ諸侯が、単に金欲しさのために自国の領民をイギリスに売り飛ばしただけの話で、要するに、「人身売買」なのだ。売買価格は、1人あたり7ポンドちょっとだったと資料にある。(【スリーピー・ホロウ】アメリカ都市伝説を生んだヘッセンカッセルなど)

こうしたイギリスとドイツの深い関係は、さかのぼる1714年に、今のドイツの一部であるハノーファーの領主だったゲオルク1世が、ジョージ1世としてイギリス王に即位し、イギリスにドイツ系王朝であるハノーヴァー朝が開始されたという経緯からきている。ハノーヴァー朝におけるイギリス国王は、イギリスの王であると同時に、今のドイツの一部であるハノーファーの領主も兼ねていた。(英語の「ジョージ」はドイツ語では「ゲオルク」あるいは「ゲオルグ」。英語の「ハノーヴァー」はドイツ語では「ハノーファー」)
イギリスがアメリカ独立戦争のためにドイツ諸侯から調達したドイツ人は3万人弱ともいわれるが、そのうち1万8千人程度、つまり半数以上は、イギリスとの間で傭兵提供条約を結んでいたヘッセン・カッセル伯フリードリヒ2世が「金で売り払った領民」であるといわれる。このフリードリヒ2世(注:プロイセン国王フリードリヒ2世とは別人)は、ドイツ出身のイギリス国王ジョージ3世の義理の叔父にあたる。


アメリカ独立戦争においてイギリス軍の雇った外国人のふるまいの残虐さや、イギリス王が独立戦争に外国人を投入したことを背信行為とするアメリカ側の怒りは、1776年に出されたアメリカ独立宣言にハッキリと記されている。
HE is, at this Time, transporting large Armies of foreign Mercenaries to complete the Works of Death, Desolation, and Tyranny, already begun with Circumstances of Cruelty and Perfidy, scarcely paralleled in the most barbarous Ages, and totally unworthy the Head of a civilized Nation.
彼(HE=ジョージ3世)は現在、殺戮と荒廃、専制という事業を完成させるため、外国人傭兵の大軍を送り込んできており、最も野蛮な時代ですら比肩できないような、残虐と背信に満ちた状況が作り出されているのであり、彼はおよそ文明国家の長たるに値しない。
In Congress, July 4, 1776. The unanimous declaration of the thirteen United States of America.

アメリカがイギリスの植民地だった18世紀までの時代に、アメリカの人口の10%はドイツ語を話していたといわれ、植民地アメリカにはもともとドイツからの移民が数多く存在していた。1775年にアメリカ独立戦争が始まると、ドイツ移民は、イギリス国王側につくロイヤリストと、アメリカ独立側につくパトリオットに分かれた。
こうした植民地時代からもともとアメリカに住んでいたドイツ移民に加え、アメリカ独立戦争においてイギリス軍がアメリカの独立を阻止するためドイツから金で買ってきたドイツ人の中に、独立戦争が終わった後もドイツへは帰国せず、アメリカ残留を選択して移民になる人々が出現した。
(ここでは書かないが、これらの「アメリカとイギリスとの戦争のためにアメリカに連れてこられ、結果的にアメリカに住みついた、矛盾を抱えたままのドイツ人」が、アメリカ建国当時の理想、つまり、南北戦争で北軍が樹立しようとした「本来のアメリカの理想」に必ずしも従わなかったと仮定してアメリカ史を見直してみるのは、アメリカ史に対する興味として非常に面白い)


ドイツ系移民の人口密度(1872年)アメリカ北部におけるドイツ系移民の人口密度(1872年)を示した図

ゲルマン系のドイツ移民はペンシルベニアなどに落ち着き、さらに19世紀後半から20世紀前半にかけてはウィスコンシンなどの中西部、さらには西岸のシアトルやアナハイムに移るグループもいた。
ペンシルベニアおよび中西部に、Pennsylvania-German、ペンシルベニアドイツ語と言われる特殊な言葉を話す人がいまだに存在していることも、これらの地域におけるドイツ移民の影響の強さを物語っている。かつてミシガン州にはBerlin(ベルリン)という名前の街すらあった。(現在ではMarneと名前を変えている)

第二次大戦においてアメリカは、独立戦争、第一次大戦に続いて、ある意味3度目となるドイツとの戦争に臨んだわけだが、あまりにもドイツ系移民の人口が多くなり過ぎていたからか、ドイツ系アメリカ人は、日系人のように、強制収容所送りにはならなかった。(もちろんこれは日系人に対する人種差別だ)

ドイツ移民数の年代別推移ドイツ移民数の
年代別推移


The German-Americans-Chapter Two


様々な経緯からアメリカで多数のドイツ系移民が増え続けていった結果、ドイツ系住民はアメリカ人の最大派閥となっていった
その数は、中西部を中心に約5000万人。例えばウィスコンシン州のミルウォーキーがビールの街になったのは、ドイツ系移民の多さからきている。
州別にみた最も多い人種の内訳
元資料:2000年USセンサス

州で最も多い人種
この図の濃い青色で示した部分が、人種別に見てドイツ系人種の子孫が多い州である。
北東部を除くアメリカの北半分がドイツ系移民の子孫の多い州、そして南部がアフリカ系とヒスパニック系と、アメリカの南北で棲み分けが進んだことがハッキリわかる。
アフリカ系アメリカ人が南北戦争後に南部から北部に移住し、また南部に回帰するという移住の歴史を考える上で、移民の中の最大派閥であり、中西部の工業都市にも多数住んでいるドイツ系移民とのかかわりを多少なりとも頭に入れなければならないことは、これでわかってもらえると思う。



セーフコ・フィールドでのカイゼル髭が、プロイセン皇帝ヴィルヘルム2世のパクリなのか、それとももっと後世のジョージ5世か、どのドイツ系国王にあやかったプロモーションなのかは知らない。

だが、アメリカ独立戦争で、カネで買ってきたドイツ人傭兵を使った残虐行為で顰蹙を買ったイギリス国王ジョージ3世由来のカイゼル髭を生やしたと思わせるオモチャをつけ、大声で、「 K!K!K! 」と、アフリカ系アメリカ人の神経を逆撫でする金切声を挙げて叫ぶ白人集団などというものは、あまりにも無神経といわざるをえない。
それはある意味、数が増えすぎたドイツ系アメリカ人の「増長」と「思い上がり」の象徴であり、アメリカという多民族国家が歩んできた歴史に対して無神経すぎるふるまいだ

(もちろん、ドイツ系移民の増殖地のひとつである中西部インディアナ出身で、しかも「エリック」というドイツ系の名前を持ち、カイゼル髭を生やしていたどこかの野球監督さんも、たぶんドイツ系だ。レジェンドに対する礼儀をわきまえた発言のしかたすら知らない元3流プレーヤーのジェイ・ビューナーも、もちろんドイツ系)


そのうち詳しく書こうと思うが、ドイツ系のこうした無神経さは、どこかで、かつて18世紀ドイツの美術史家ヨハン・ヴィンケルマンが欧米文化のルーツとして捏造した「白いギリシア」に通底しているのは、ほぼ間違いないだろう。

Johann Joachim WinckelmannJohann Joachim Winckelmann

秀麗な大理石彫刻など、ギリシア文化に魅せられたヴィンケルマンは、「ヨーロッパの理想は『白いギリシア』にある」と、ヨーロッパ文化のルーツがいかにも「真っ白い、理想化されたギリシア文化」にあるかのように主張し、この発想は18世紀以降ヨーロッパで大流行した。(『ギリシア芸術模倣論』1755年、『古代美術史』1764年)



ヨーロッパのルーツとしての「白いギリシア」を捏造するにあたって、大英博物館で100数十年間にわたって行われていたギリシア彫刻の彩色剥ぎ取り事件は大英博物館自身が認めている有名な歴史の捏造にかかわる事件だ。

大英博物館には、「エルギン・マーブル(Elgin Marbles)」といわれるギリシア彫刻コレクションがある。イギリス大使としてオスマントルコに赴任した第7代エルギン伯爵トマス・ブルース(Thomas Bruce, 7th Earl of Elgin)が、当時オスマントルコの支配下にあったギリシアのパルテノン宮殿から勝手に剥がしてきて、後に大英博物館に寄贈したギリシア彫刻群である。

エルギン・マーブルには、実はもともとオリジナルな彩色が施されていた

だが、エルギン卿本人の指示により、秘密裡に彫刻作品の表面を特殊な工具を使って彩色を削り取り、「見た目を白く変える」という卑劣きわまりない作業が、なんと1811年から1936年まで、100数十年にわたって大英博物館の一室で延々と行われていたのである。
「歴史の捏造」と呼んでいい大事件だが、それほど、ヴィンケルマンの「白いギリシア」という捏造された「White is beautiful理論」はヨーロッパ社会に深く広く影響していた。

ちなみに、大英博物館はいまだにそのトマス・ブルースの恥知らずな作業を、「クリーニング」という当たりさわりのない表現で呼んでいる。
資料:British Museum - Cleaning the Sculptures 1811-1936

BBC News | UK | Museum admits 'scandal' of Elgin Marbles

エルギン・マーブル(Elgin Marbles)を「白くする」のに使われた卑劣な道具群エルギン・マーブルと呼ばれるギリシア彫刻コレクションを「白くする」のに使われた卑劣な道具群。

Elgin Marbles - Wikipedia, the free encyclopedia

白色だとばかり思われ続けてきた古代ギリシアの彫刻や、パルテノンなどの神殿建築に、実は 「極彩色のアジア的彩色が施されていた」 ことを明らかにしたのは、近年の科学の発達による紫外線による解析手法だ。科学が、ヴィンケルマン以降捏造され続けてきた「白いギリシア」という欧米文化のルーツの理論的捏造を暴いたのである。
おまけにヴィンケルマンが褒めちぎった古代ギリシア彫刻は、実際には、多くが「ローマ時代に作られた単なる模造品」であるという。



古代ギリシア文化は、貧しいギリシアから傭兵としてエジプトに派遣されていた人々が、やがてギリシアに帰還したとき、エジプトからさまざまな文化を持ち帰ったことで出来上がっていった、という説が有力になりつつあるようだ。
おそらくは、18世紀のアメリカ独立戦争においても、イギリスに雇われてアメリカに来て、そのまま住み着いたドイツ傭兵移民たちがアメリカに持ち込んだドイツ系文化がいろいろとあったに違いなく、その持ち込まれたドイツ系文化の中には、「ヴィンケルマン由来の白人(この場合はアーリア人)中心主義」のような精神的な文化もあったに違いないとみている。
(資料:コーネル大学名誉教授マーティン・バナール(Martin Bernal)『ブラック・アテナ』1987年など)

実は色つきだったギリシア彫刻
右はデータから再現された当時の彩色

Ultraviolet light reveals how ancient Greek statues really looked

Top 10 Color Classical Reproductions

damejima at 08:03

July 07, 2012

資料によれば南北戦争までアフリカ系アメリカ人の約90%は南部に住んでいたが、北軍の勝利によって移動の自由を得た彼らの一部は、北東部を皮切りに、中西部、西部へ移住を開始。このGreat Migrationと呼ばれた移住現象は、その後1970年代まで続いた。(もちろん南部のアフリカ系アメリカ人全員が移住できたわけではない。1910年以降の15年間で北部移住を果たしたのは全体の1割程度という資料もある。だが、たとえ1割でも自分の意思で移住できるようになったことは、獲得した最初の自由の最初の使い道としては十分な成果だった)

その結果、アメリカ北部の大都市、たとえばシガゴ、セントルイス、ボルチモア、フィラデルフィア、ピッツバーグ、オマハ、ニューヨーク、といった街で、後にはロサンゼルス、シアトル、ポートランドで、アフリカ系アメリカ人の人口は爆発的な増加をみせた。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年7月3日、「父親」とベースボール (2)南北戦争100年後のアフリカ系アメリカ人の「南部回帰」と「父親不在」、そしてベースボールとの距離感。

一方で、時期を同じくしてSuburbanization(サバーバナイゼーション、郊外化)、つまり、大都市の都心に住んでいた人々の郊外流出が起こった。(ここでいう郊外とは、アメリカ英語でいうsuburb。ちなみにイギリス英語のsuburbには、北米的な意味は無い)
主に欧州系白人の郊外移転によって郊外開発が進んでいき、郊外から都市中心部へ自動車や鉄道で通勤するライフスタイルが定着する一方で、都市にはアフリカ系アメリカ人などの低所得世帯が密集し、周囲との交流が隔絶された住宅地である「インナーシティ」が形成されるなど都市問題は複雑化していき、都心部の荒廃は進んでいったが、高収入層の減少した都市では税収不足が深刻化して対策は常に立ち遅れた。

Levittown,NewYork
Levittown
William Levitt(ウィリアム・レヴィット 1907-1994)の設計によって建設されていった郊外型の住宅地、レヴィット・タウン。第2次大戦後、1950年代に退役軍人や労働者向けの住宅として、ニューヨークやフィラデルフィアなどで大量生産された。『パパは何でも知っている』『名犬ラッシー』『アイ・ラブ・ルーシー』など、1950〜60年代の有名なシチュエーション・コメディは、サバーバナイゼーション以降のレヴィット・タウンに代表される「郊外での欧州系白人の暮らし」を前提にして描かれていることが多い。

Pruitt-Igoe
Pruitt-Igoe (プルーイット・アイゴー)
シアトル出身の日系アメリカ人建築家ミノル・ヤマサキによって、ミズーリ州セントルイスに建設された、都心のスラム再開発のための集合住宅。都心再開発の典型的失敗例といわれている。ちなみに、ヤマサキ氏は、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の舞台となったワールドトレードセンタービルの設計者でもある。


レヴィット・タウンのような新興住宅街の開発によって、郊外ばかりが発展していく流れの中、南部から北部に移住してきたアフリカ系アメリカ人は都市内部の片隅に追いやられていく。彼らは、ヨーロッパからの移民のように、技術を要求される給料のいい職に就くことはなかなかできず、例えばニグロ・リーグの伝説的投手サチェル・ペイジがアラバマの少年時代に鉄道の駅で客の荷物を運ぶポーターをやっていたように、もっぱら低賃金の単純な仕事にしか就けなかった。
彼らは、アジア系、アイルランド系、イタリア系、ユダヤ系などが持っているような、同じ民族同士の横のつながりによって雇用を保持していくような互助会的組織が存在しなかったため、やがてコミュニティ崩壊をきたしてしまい、その結果、ますます低所得階層として都市の低家賃地域に固定化されて居住せざるをえなくなっていった。

リロイ・サチェル・ペイジ

日本のWikiに、クリーブランドの殿堂入り速球投手ボブ・フェラーが「サチェルの球がファストボールだとしたら、俺のなんてチェンジ・アップだ」と発言したと記述されているが、これは間違い
正しくは、セントルイスの永久欠番投手 Dizzy Deanの "Paige's fastball made his own look like a changeup" という発言がオリジナル、それをスポーツ・イラストレイテッド誌のJoe Posnanskiが2010年のコラムで引用した。

サチェル・ペイジ(左)と、ジャッキー・ロビンソン
サチェル・ペイジ(左)と、ジャッキー・ロビンソン



欧州系白人の郊外流出という現象について、多くのサイトでは、いまだに「南部から北部に大量に移住してきたのアフリカ系アメリカ人との混住を嫌った都市部の欧州系白人が郊外に逃げ出す「white flight(ホワイト・フライト)」が起きたことで、大都市の都心部が荒廃した」と、欧州系白人の郊外流出と大都市の都心部の荒廃をアフリカ系アメリカ人のGreat Migrationのみに直結させて、都市のスラム化の責任をアフリカ系アメリカ人に押し付ける記述が少なくない。

だが、そうした断定は、まったくもって正しくない

アメリカの大都市都心の荒廃に対する移民の影響は、たとえGreat Migrationの影響も少なからずあるにしても、南欧や東欧などヨーロッパから来た白人系移民の影響などもあって、複合的な原因がある。
また、そもそも人口の郊外流出そのものが、本質的には、単に都市の自然な成長サイクルのひとつであるSuburbanizationであり、それを人種問題のせいにするだけで説明できるものではない。そして、white flightの古くからある定義からも間違っている。


詳しく言えば、まず第一に、
都市からの脱出(urban exodus)、つまり、都市中心部から郊外への人口移転が起きるのは、都市の自然な成長サイクルや、政策的な郊外開発によるものであって、人種問題だけを原因として説明する手法は間違っている。
アメリカでは、土地を細かい区域に分け、それぞれの利用目的を厳しく規制するゾーニングという手法などによって、意図的、政策的に郊外開発が促進される一方、1956年の「高速道路法」などによって郊外から都心への道路整備も促進された。
だから、仮に人種問題が全くなかったと仮定したとしても、欧州系白人の郊外流出は進んだとみるのが自然な流れだ。いくらアメリカにはアメリカの特殊事情があるといっても、20世紀の都市の自然な成長プロセスにおいては、人口の郊外流出を、人種問題だけのせいにすることはできない。

例えば、「モータリゼーション」という現象は、植物が成長して自然と花が咲くように、GDP(国民総生産)が一定レベルの数値に達すると、どんな国でも起きる現象で、経済発展を経験すればいやおうなく経験する自然なサイクルのひとつに過ぎない。「モータリゼーション」は道路の発達バランスと無関係に起きるため、渋滞や排気ガスなど社会問題を招きやすいが、だからといって、自動車そのもの罪ではない。
同じように、都市の成長過程における「サバーバナイゼーション」(日本風にいえばドーナツ化現象)は、その国の経済発展と都市の成長サイクルから必然的に起きる現象のひとつに過ぎない。
19世紀までのギルド的都市では、都心部に手工業者の住宅が集中するが、20世紀になると、郊外から都心のオフィスにクルマや鉄道で通勤するようになる。これは産業革命後の経済発展によって都市への人口集中がより強化され、さらに収入の安定から中流家庭が大量に形成され、彼らが郊外に資産を購入すると、都心部の土地の社会的役割が「住宅地」から「オフィス街」へと変貌するからだ。
例えば、江戸時代の東京の中心部は住宅密集地だったが、高度経済成長とともに地価が上昇し、都心住民と店舗は郊外移転を余儀なくされ、千代田区、中央区など都心部の夜間人口は激減した。


第二に、
white flightのもともとの定義からして、「アメリカ北部大都市における欧州系白人の郊外流出」という現象だけを指してwhite flightと呼ぶのは、間違いだ。
white flightと名付けられた現象のもともとの定義は、気候が厳しいアメリカ北西部や中西部から、気候の温暖なカリフォルニアや、フロリダなどに移り住む現象を指していただけであって、古い定義のwhite flightは、アフリカ系アメリカ人の移住や人種問題とは無関係だ。
また、white flightと呼ばれる広義の白人移住現象にしても、アメリカだけで起きた現象ではなく、東ヨーロッパから南アフリカまで、さまざまな国でもみられる。
White flight - Wikipedia, the free encyclopedia
アメリカの大都市で、地元の白人系住民が郊外に流出していく原因のひとつが、移民との摩擦であるにしても、なにも南部出身のアフリカ系だけが原因とは限らない。他にも、ヒスパニック系白人の移民、アイルランド、南欧、東欧からの欧州系移民、人種差別政策の終焉による南アフリカからの白人系移民など、白人系もさまざまな理由でアメリカに移住して雇用を奪いあっており、それぞれが多かれ少なかれ移民問題を生じさせている。(例:古くは19世紀末に文盲率が高かったイタリア系などカソリック系移民との対立、近年ではアリゾナにおけるメキシコなどヒスパニック系移民と白人保守層との対立)


第三に、
たとえアメリカ北部大都市における欧州系白人の郊外流出が、Great Migrationの影響によって助長された面があったにしても、人種問題を悪用して、郊外の住宅地の発展で儲けようとしたデベロッパーの悪質な商法の存在は無視できない。
例えば、イリノイ州シカゴで始まったといわれ、1970年あたりまで全米各地で横行したといわれるBlockbusting(ブロックバスティング)という強引な不動産販売手法は、まずデベロッパーがアフリカ系アメリカ人に金を渡して白人系住民が大多数を占めるエリアをわざとウロつかせ、白人が嫌気がさして郊外移転を決断するのを待って、その家や土地を買い取り、その不動産を、あろうことかアフリカ系アメリカ人に売りつけるという、なんともあくどい商法だった。また、アフリカ系住民をわざと白人地区に住まわせ、周囲の土地を売らせるという悪どい不動産商法も存在していたらしい。

Robert Mosesサバーバナイゼーションの例:
ニューヨークの都市計画を担当したRobert Mosesは、移民の多いクイーンズ地区に、シェイ・スタジアムリンカーン・センターなどの「ハコモノ」、ブルックリン・ブリッジのような橋、数々のトンネル、スラム街を潰して作った高速道路などの計画と設計を指揮。ニューヨークに、「郊外から通勤する時代」をもたらした。
資料:ご案内:NYを彫刻した男−「ロバート・モーゼズ」


最近ではすっかり名前を聞かなくなったジム・ジャームッシュの1984年作品に、ニューヨークに住むハンガリー移民2世の若者がフロリダを目指す『ストレンジャー・ザン・パラダイス』という映画がある。
主人公の両親はクリーブランドに住むハンガリー移民で、その息子は寒いニューヨークから暖かいフロリダへの移住を夢見ている。この親子2種類の「移住」こそ、まさに元来の意味のwhite flightであり、両親は「貧しい東欧から豊かなアメリカへの逃避」というwhite flight、息子は「寒い土地から暖かい土地への逃避」というwhite flightだ。
東欧系移民の多いことで知られるクリーブランドやピッツバーグのような北東部の工業都市には、第一次世界大戦や、南部のアフリカ系アメリカ人のMigrationよりも前の時代から、ヨーロッパ系白人が数多く移民してきた歴史がある。(例えば、ピッツバーグ生まれのアンディ・ウォーホルの両親も旧チェコスロバキアからの移民)
この親子2つの移住、どちらも、まったく古めかしい「サバーバナイゼーション完了以前の昔のアメリカ」であり、アフリカ系アメリカ人のシリアスな人種問題とも、サバーバナイゼーション以降の欧州系白人の郊外生活における家庭崩壊とも、まったく関係がない。

この映画の公開当時のジム・ジャームッシュの評価は、その後長続きしなかった。たしかに今見ても、あの映画は映像と音楽の綺麗な「ゲージュツ」ではあるが、テーマのエグさ、現代性は、まるでモノ足りない。
かつてジャームッシュが描いた「昔ながらの牧歌的なwhite flight」には、例えば『アメリカン・ビューティー』、『ヴァージン・スーサイズ』、『ファイト・クラブ』のような作品群(3作品とも1999年公開)が描き出したような「現代アメリカの郊外生活のエグさに、ズブっと突き刺さるシャープさ」は、全く見あたらないのである。
そういう意味では、『ファイト・クラブ』に登場する荒廃した家、『パニック・ルーム』(2002年)に登場する隠れ部屋と、「家というものが持つ、独特の神経症的な不気味さ」を撮り続けてきたコロラド州デンバー生まれのアメリカ人デヴィッド・フィンチャーのリアルさと社会性のほうが、ヨーロッパ移民の子孫であるジャームッシュの個人的な芸術への憧れよりも、よほど「サバーバナイゼーション経験後のアメリカ」を描写することに成功していて、今に至るまで賞味期限を継続できている。

『ファイトクラブ』に登場した家
『ファイトクラブ』に登場した、といわれる家。オレゴン州ポートランドにあるらしい。詳細はよくわからない。

damejima at 14:11

July 04, 2012

「なぜ近年のMLBで、アフリカ系アメリカ人が減少しているのか」、という話について書いてきている。
その答えのひとつは、アフリカ系アメリカ人における「シングルマザーの多さ」にもあると、考える。アメリカにおける人種別のシングルマザー率は、アフリカ系が最も高く、なんと70%を越えるというデータがある。

Nationally, in the late 1800s, percentages of two-parent families were 75.2 percent for blacks, 82.2 percent for Irish-Americans, 84.5 percent for German-Americans and 73.1 percent for native whites. Today just over 30 percent of black children enjoy two-parent families. Both during slavery and as late as 1920, a black teenage girl's raising a child without a man present was rare.
Welfare state fosters a race to the bottom | The Columbia Daily Tribune - Columbia, Missouri

資料:アメリカのいわゆる「未婚の母」による出生率をグラフ化してみる:Garbagenews.com

70%超というシングルマザーの率は、日本人的な感覚からすれば途方もない高い率だ。だが、ここでアメリカの出生率データをいくら書きつらねても、MLBでアフリカ系アメリカ人が減っていることの社会背景を探る上では、まったく意味がない。

むしろ大事なのは、アフリカ系アメリカ人の置かれた現状は、日本人が学校の教科書に書かれた記述から脳裏に植え付けらてしまう「ステレオタイプの黒人イメージ」とは違うのだということから始めないといけないということだ。
特に、2000年以降の10年間におけるアフリカ系アメリカ人の人口動態は、南北戦争以降、2000年までのアメリカの歴史の流れとは、まるで違う流れであること。この点に、十分意識をおいて考えていく必要がある。

もし、アフリカ系アメリカ人の置かれた現状に、理解やシンパシーを持たないままだと、単純に、「シングルマザーがあまりにも増えたために、アフリカ系アメリカ人家庭は、どこも生活資金にゆとりがない。そのため、ただでさえ金のかかる野球では、奨学金がフットボールやバスケットと比べて少ないせいもあって、野球選手になりたがるアスリートが著しく減ってしまった」などと、短絡してしまう恐れがある。
参考資料:ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年6月11日、MLBにおけるアフリカ系アメリカ人プレーヤーの減少について書かれたテキサス大学ロースクールの記事を訳出してみた

そもそも、中流家庭においてだけ見れば、アフリカ系と欧米系白人の年収差は、2000年以降かなり縮小傾向にあったし、またアフリカ系アメリカ人でシングルマザー率が高いのは、なにもこの10年に急に始まったことではない。もちろんアフリカ系アメリカ人の問題点は、中流家庭への離陸を果たした層ではなく低収入層にあるわけだが、だからといってシングルマザー家庭の家計のアラ探しをしても、本質は何も見えてこない。
アフリカ系と欧米系白人の年収比較(中流家庭)
What Caused the Decline of African-Americans in Baseball?
アフリカ系と欧米系白人の中流家庭の年収比較



2000年以降のアメリカの人種別の人口動態については、「数」という面から、以下のいくつかのポイントがある。
総じていえるのは、アフリカ系アメリカ人は人口として安定期を迎えている、ということだ。 (アフリカ系アメリカ人は子沢山」とか、そういうカビのはえた古い偏見を持つ人は、もうとっくに絶滅しているとは思いたいが、どうだろう)
・アメリカの1歳以下の乳児全体において、「マイノリティ」のパーセンテージが、初めて白人を上回ったように、マイノリティの人口増加は、欧米系白人の人口増加を越えはじめた
資料記事:ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年5月18日、「アメリカでの非白人比率の増大傾向」と、「MLBプレーヤー、ファン両面の人種構成の変化」との複雑な関係。

現在のマイノリティ人口増加をもたらしている原動力は、ヒスパニック系の人口増であって、アフリカ系ではない

アフリカ系の出生率は、昔と違って、現在は欧米系白人並みに低い
資料:図録▽米国の人種・民族別合計特殊出生率


次に、アフリカ系アメリカ人が集中する「居住エリア」については、以下のような特徴がある。
南北戦争後に始まった北部や西部への移住、Great Migrationはたくさんのサイトで紹介されているが、近年の特徴はむしろGreat Migrationと逆方向の「南部回帰」であり、この点の指摘は日本ではまだ十分ではない。
・南北戦争後、北へ(後には西へ)移住するアフリカ系アメリカ人が多数みられ、Great Migrationと呼ばれた
Great Migration (African American) - Wikipedia, the free encyclopedia

・だが、近年はむしろ逆に「南部回帰」がハッキリしてきている(資料はUSセンサスなど Allcountries.org Country information - Table of Contents

・その結果、アフリカ系アメリカ人の居住エリアは、アメリカ南東部の大西洋岸に非常に集中し、Black Beltなどと呼ばれている

Black Belt
=アフリカ系アメリカ人が集中するアメリカ南東部をさす
(色の濃い部分が居住率の高いエリア)

アフリカ系アメリカ人の集中するBlack Belt
DMVFollowers
Black Belt (U.S. region) - Wikipedia, the free encyclopedia



ここでまず、南北戦争についてのよくある誤解について、いくつか確認しておかなければならない。

南北戦争」というと、どうしても教科書的イメージから抜け出せず、「自由をスローガンに掲げる正義の味方である北軍が、奴隷制に固執する悪の巣窟である南軍を、華々しく打ち破った」などというステレオタイプなイメージを抱く人が少なくないわけだが、アメリカ史に詳しい人ならわかっている通り、実際には、そんな単純な話ではない。

南北戦争時の州別の奴隷制状況
濃い青=北軍
うすい青=北軍だが、奴隷制を容認していた州
赤=南軍

例えば、北軍にも奴隷制を支持していた州がある
上の図の薄い青色で示したデラウェア、ケンタッキー、メリーランド、ミズーリ、それにバージニア州西部(のちのウェストバージニア州)の各州がそれにあたり、これらの州はborder states(境界州)と呼ばれた。

また、外国貿易において自由貿易を目指していたのは、ヨーロッパとの自由交易を目指していた南軍のほうであり、北軍はむしろ保護貿易主義だった。
「北軍=自由」という図式は、単なるステレオタイプのイメージに過ぎない。


1863年に奴隷解放宣言が成立したとき、アフリカ系アメリカ人のおよそ90パーセントは奴隷制をキープする南部に住んでいたが、南北戦争が終結して以降は、1910年代から1970年代にかけ累積で約600万人がアメリカ北部や中西部、さらに西部へ移住したといわれている。(この600万という数は、700万人といわれる大量のアイルランド移民総数に匹敵する数字)
これが、いわゆる「Great Migration」だ。
Great Migration (African American) - Wikipedia, the free encyclopedia


と、まぁ、ここまでは、
どこでもよく聞くアメリカ史の説明だが、ここからが違う。


1920年代という時代は、MLBが、というか、野球というスポーツが、ニューヨークからアメリカ東部一円に拡大していった時代だ。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (1)エベッツ・フィールド、ポロ・グラウンズの閉場
その1920年代は同時に、アフリカ系アメリカ人のGreat Migrationによって、シガゴ、セントルイス、ボルチモア、フィラデルフィア、ピッツバーグ、オマハ、ニューヨークなどの大都市で、アフリカ系アメリカ人の人口が爆発的に増加した時代でもある。
都市に移住したアフリカ系アメリカ人は、後に複雑な経緯を経て、都市内部に「ゲットー」あるいは「ハーレム」と呼ばれるアフリカ系アメリカ人居住エリアを形成し、新たな辛酸を味わいつつも、ジャズなど、都市のアフリカ系住民独自の文化を熟成していった。

アフリカ系アメリカ人の南部脱出は当初、南のミシシッピから北のシカゴへ、南のアラバマから北のクリーブランドやデトロイトへという移住パターンに代表されるように、北部移住がメインだったが、もっと後の時代になると、ミシシッピ、ルイジアナ、テキサスから、カリフォルニアへというように、西への移住も進んだ。
1940年代から1960年代にかけて、ロサンゼルス、シアトル、ポートランドといった西の太平洋岸の都市では、アフリカ系アメリカ人コミュニティの人口が数倍にも膨れ上がった。(資料:The Black Migration - The Road to Civil Rights - Highway History - FHWA
1958年のドジャースとジャイアンツのニューヨークから西海岸への移転が行われたのは、こうしたアフリカ系アメリカ人の西海岸移住が進む時代の真っ最中だった。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。

シガゴ、セントルイス、ボルチモア、フィラデルフィア、ピッツバーグ、ニューヨーク、クリーブランド、デトロイト、ロサンゼルス、シアトル。こうしてGreat Migrationを受け入れた大都市を列挙していくと、すぐにわかることだが、Great Migrationによって南部のアフリカ系アメリカ人が大量に移住した先の大都市の大半に、現在MLB球団が存在する
さらに言うと、メジャーリーガーを数多く輩出した州の歴代ランキングでは、かつて南北戦争で北軍側に属していた州が多い
つまり、詳しい理由はわからないが結果的に、MLB球団が存在し、同時に、過去にアメリカ人MLBプレーヤーをたくさん輩出してきた出身州は、そのかなりの数が、南北戦争当時に北軍、それも、奴隷制を容認していなかった北軍側だった州が多いのである。(そして不思議なことに、奴隷制を容認していた北軍の州からは、それほど多くのMLBプレーヤーが誕生しておらず、MLB球団も少ない)

MLBプレーヤーの出身州(歴代)
色の濃い州ほど、たくさんのMLBプレーヤーが出ている
MLBプレーヤーの出身州(歴代)



ここまでの大雑把すぎる資料のみを根拠に、完全に断定するわけにもいかないのだが、それでも、以下のような推論は成り立つと思う。

中世ドイツの都市法には「都市の空気は(人を)自由にする」という有名な言葉があったわけだが、南北戦争前にはその大半が南部に住んでいたアフリカ系アメリカ人は、南北戦争後のGreat Migrationによって、北部(あるいは西部)に移住することで、「ベースボール」という「アフリカ系アメリカ人にとっての新しい文化」に親しむための、自由と機会と収入を得た。

南北戦争当時に南軍に属していた州には、今もMLB球団の存在しない州が多い。また逆に、Great Migrationによって移住した先の北部の大都市の大半にMLB球団がある。
このことからして、
南部から、北部や中西部、さらには西部への移住であるGreat Migrationが、アフリカ系アメリカ人と、ベースボールとの最初の出会いを生み、その経験がやがて成長し、多数のアフリカ系アメリカ人がMLBの観客になり、さらにアフリカ系プレーヤーの大量出現にもつながった
のは、ほぼ間違いないと考える。

イースト・ハーレムの空き地で野球をする子供たちPlaying ball in a vacant lot in East Harlem, 1954.
by Ihsan Taylor, Published: December 3, 2009

Holiday Books - 'Baseball Americana - Treasures From the Library of Congress' - Review - NYTimes.com


もちろん、アフリカ系アメリカ人とベースボールの接点を語るにあたっては、1920年に創設された「ニグロ・リーグ」の存在を抜きに語るわけにはいかないわけだが、1947年にジャッキー・ロビンソンがメジャーリーガーとなった一方で、1948年にニグロ・ナショナル・リーグが解散していることから推し量ると
20世紀中期以降のアメリカで「ベースボールの観客とプレーヤー、両面における人種混合」を実現させる起点になったのは、MLBでの人種混合に否定的だった初代コミッショナーのイリノイ州判事 Kenesaw "Mountain" Landisが1944年に執務中に急死したなどという表面的なことではなくて、ここまで説明してきたように、1920年代以降のGreat Migrationによって、アメリカ北部の大都市に南部からアフリカ系が大量に移住したことにあり、さらに1940年代末のジャッキー・ロビンソンのドジャース入団を経て以降は、人種混合がさらに急速に進んだ
のは、たぶん間違いない。(だからこそ、逆に言えば1940年代末にアフリカ系アメリカ人専用リーグが存在する意味と経営基盤がなくなることによって、ニグロ・リーグがその歴史的役割を終えたといえる)
ニグロ・リーグの球団のひとつ、Pittsburgh CrawfordsPittsburgh Crawfords(1935)



では、もし「南北戦争後のアフリカ系アメリカ人の大規模移住、Great Migrationが、人種混合ベースボールの強固な基盤を生んだ」という仮定が正しいとすると、2000年以降顕著になってきている「アフリカ系アメリカ人の南部回帰」は、(どういう理由で回帰が進んでいるのかはわからないが)、ある種の「ベースボール離れ」を意味しているのだろうか?

自由や収入アップを目指し、北へ、西へと移住したアフリカ系アメリカ人だが、南北戦争当時、北軍側の州にも奴隷制度を容認していたエリアがあった事実からもわかるとおり、おそらく彼らは、たとえ北部に移住したからといって、人種差別を経験せずに済んだわけではなかった
つまり、いくら「都市の空気は人を自由にする」とはいっても、「都市の空気だけで必ずしも、アフリカ系アメリカ人のすべてが自由になれたわけではなかった」わけだ。
New York Timesによれば、2009年にニューヨークを出たアフリカ系住民44,474人のうち、半数以上の22,508人は南部への移住だったといい、アフリカ系アメリカ人が南部回帰が始まっている。これはいわば南北戦争後のGreat Migrationをなぞって言えば、逆向きのReverse Migrationと言える。
Census estimates show more U.S. blacks moving South - USATODAY.com

ニューヨークを出たアフリカ系アメリカ人の移住先Many Black New Yorkers Are Moving to the South - NYTimes.com
移民の多いクイーンズを出たアフリカ系住民のかなりの数が、南部への移住を選択している(左図)



野球好きの父親は、日本でもアメリカでも、子供を連れてボールパークに野球観戦に行き、子どもとキャッチボールをしようとする。
これは、星一徹星飛雄馬の親子がそうであるように、
父親という存在には、「ベースボールという文化を、親から子に伝える文化伝達者としての役割」があり、だからこそ、ケン・バーンズのドキュメンタリー "Baseball" でもわかるとおり、「ベースボールは、家族で共有する文化」である
と言えるのだと思う。

この「ベースボールという文化の伝達の一端を、家庭の父親が担ってきた」という観点から、「いま南部回帰現象に直面するアフリカ系アメリカ人家庭は、なぜベースボールという文化を移住前の街に置いてきてしまうのか?」という疑問に、多少の説明がつく。
つまり
家庭における父親不在」という現象と、「南北戦争以来の南部回帰」という2つの現象が重なることによって、ベースボールという文化が、家庭内で継承されにくくなる、という現象が発生している
という仮説だ。
日米の家族文化の違いを多少考慮しなくてはならないにしても、この仮説は十二分に成り立つと思う。

南部を脱出してみたものの、移住後のアフリカ系アメリカ人家庭では、どういう理由かまではわからないが、「家族という制度」が揺らでいき、その一方で、アスリートに対する奨学金制度において、野球がフットボールやバスケットボールに比べて相対的に冷遇されているという問題も重なってくれば、必然的に、「父から子へ、ベースボールを受け継いでいく」という「ベースボールの遺伝システム」が多少なりとも壊れてくるのは当然の帰結だろう。
もちろん、長引くアメリカの不景気によって、雇用がアフリカ系アメリカ人より給料の安いヒスパニック系にシフトしていることも、間違いなく影響しているだろう。この点については、テキサス大学の論文のとおり、メジャーリーガーが契約金の安いヒスパニック系だらけになるのと、意味は変わりない。


ここまで語ってきて、ようやく、アフリカ系アメリカ人家庭の置かれている現状と野球の関係が、多少はまともにイメージできてくる。
「MLBにおけるアフリカ系アメリカ人プレーヤーの減少」は、「野球は金がかかるから、やらない」とか、「シングルマザー家庭は、生活費が足りない」とか、テキサス大学のロースクールの論文が強く指摘していたごとくの、家計の問題だけで語りきれる小さな問題ではない。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年6月11日、MLBにおけるアフリカ系アメリカ人プレーヤーの減少について書かれたテキサス大学ロースクールの記事を訳出してみた


それはむしろ、
約100年前、奴隷から抜け出し、夢を描きつつ南部を出て、北へ、西へ、右往左往し続けてきたアフリカ系アメリカ人の100年もの間の長い道のりの中で、彼らが、住む場所を選び、学んで、職業を選択し、家族をつくり、家族を守りながらも、最後には、家族という大切な枠組みを失いかけているこの時代の趨勢の中で、どういう理由から「南部回帰」を決めたのかという、果てない問いだ。
少なくとも、この問いに少しくらい答えようとする姿勢がなければ、アフリカ系アメリカ人が南部回帰を始める中で、「なぜ彼らは野球から少し距離を置きつつあるのか?」という疑問に解答を得られそうにない。

もちろんそれは、こんな文字数程度で説明しきれる問いではない。アフリカ系アメリカ人が、なぜまた南北戦争以降暮らしてきた北や西の街を離れて南部に回帰したがるのか。
その理由は日本人には理解しがたい百人百様の理由があるのかもしれないが、少なくとも
「この100年間にアフリカ系アメリカ人家庭それぞれに起きた大小の出来事、その全てが、この10年で『南北戦争以来続いてきたアフリカ系アメリカ人と都市、アフリカ系アメリカ人とベースボールの関係』を変容させてしまいつつあるのが、今のアメリカだ」くらいのことは、見識として持っていていいのではないかと思う。


以降は、余談として、Suburbanization(サバーバナイゼーション)あるいはWhite Flightと、都市中心部の衰退、カンザスシティでビリー・バトラーマイク・スウィニーが取り組んできた都市中心部再生のための野球場づくりが「野球と都市市民とのつながりの再構築」にどういう重要性があるのか、とか、MLBが独自に行っている野球奨学金制度など、野球と人のつながりの再生に向けたさまざまな取り組みについて、ちょっとだけ書いてみる。
参考資料:ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年2月2日、Hutch賞を受賞したビリー・バトラーが「お手本にした」と語るマイク・スウィニーの素晴らしい足跡。スウィニーの苦境を救った「タンデムの自転車」。

damejima at 11:18

June 30, 2012

ワシントン州スポケーンは、セーフコ(A)を起点にすると、高速道路I-90を東へ280マイル、約4時間半の道のりにある街だ。(ブログ注:スポケーンと長年の交流がある姉妹都市、兵庫県西宮市では、主に「スポーケン」と、少し違う表記が採用されている)


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野球界でスポケーンといえば、ストットルマイヤー親子が有名だ。

父親メル・ストットルマイヤー(=メル・シニア)は、ヤンキースで164勝を挙げ、オールスターに5回出場している名右腕。その後ヤンキースで投手コーチをつとめ(1996-2005)、のちに、2008年ジョン・マクレーン監督時代のシアトル・マリナーズで1年だけ投手コーチをつとめた。(メル・シニアは1977年にマリナーズのroving instructor、つまり巡回コーチ職にあり、2008年が最初のシアトルでのコーチ就任ではない)

Mel StottlemyreTodd Stottlemyre(左)父親メル
(右)息子トッド

オヤジと息子の写真を比べる。連続写真かと思うほど、あまりにもたたずまいが似ている(笑)

トッド・ストットルマイヤーは、1965年ドラフト1位(全体3位)でトロントに入団し、138勝を挙げ、ルー・ゲーリッグ賞なども受賞した。(引退後、あのメリル・リンチで証券アナリストをやったという異色の経歴の持ち主でもある)
この親子2人の勝利数は302勝で、これはMLB記録。また、親子でワールドシリーズに出ていることも、Jim BagbyとJim Bagby Jr.に続くMLBで2例目という珍しい記録。

Baseball: Fathers and Sons - Fun Facts, Questions, Answers, Information

Todd Stottlemyre Statistics and History - Baseball-Reference.com



スポケーンで、ストットルマイヤー親子以上に有名な「親子」といえば、「父の日」の発案者として知られているソノラ・スマート・ドット(Sonora Smart Dodd)と、その父だろう。

Sonora Smart Dodd
ソノラは、母親の死後、彼女を男手1つで自分を育ててくれた父親に感謝するため、教会の牧師にお願いして父の誕生月である6月に礼拝をしてもらった。式典は翌年1910年6月19日に行われたが、このことがきっかけで、いわゆる「父の日」が生まれ、以来、世界中に「父の日」を祝う習慣が広まった、といわれている。
(世界の数多くの国では、「父の日」は6月の第3日曜だが、違う月、違う日に「父の日」を制定している国もたくさんある 父の日 - Wikipedia



日本野球界で最も有名な「親子」、といえば、星一徹・星飛雄馬親子だろう(笑)(梶原一騎原作 川崎のぼる作画)

星一徹氏は、巨人での現役時代、右投げの三塁手で、背番号は18という設定。第二次大戦での肩の負傷により送球能力を喪失し、失意のドン底に落ちるが、妻・春江さんの励ましで再起を果たし、巨人復帰。肩の故障からくる送球の遅さを補うため、一塁へ走る打者走者の目前を横切ってから急激に曲がって一塁手のミットにおさまる、「魔送球」なる奇手を編み出した、と資料にある。
現役引退後は酒浸りの荒れた日々を送ることなるが、それでも野球への未練を断ち切れず、星一徹氏は、妻・春江さんの死を経て、その「行き場を失った野球への情熱」を、息子・飛雄馬にぶつけるようになり、異常なまでのスパルタ教育で息子に野球をたたきこむ。

星一徹・星飛雄馬親子

矢吹ジョー

巨人の星』(1966-1971)の原作者梶原一騎氏が、同時期に、ボクシング漫画の名作『あしたのジョー』(1967-1973)の原作も書いていたことは非常に有名な話だが、違うスポーツの、それも、これほど対照的な設定の2人の主人公のストーリーを、ひとりの同じ原作者が書いていたのだから、これはもう梶原一騎氏の類まれな才能のなせる技としか言いようがない。


ちなみに、
星飛雄馬と、矢吹ジョー
この2人の人物の「最も違う点」は、なんだろう?

梶原一騎作品の主人公とそのライバルは、たいていの場合、片方の親を亡くしているか、両親ともいない、あるいは捨てられた、という設定が多く、孤児の場合は師匠が親代わりになるという設定がお約束、とは、よくいわれる逸話ではあるが、星飛雄馬と矢吹ジョー、この2人の比較に関しては「決定的な違い」がある。

父親の存在」である。

もし、星飛雄馬に父親・星一徹氏がいなかったら、ストーリーはまるで違うものになっていただろうし、また『あしたのジョー』の矢吹ジョーの父親が生きていて作中に登場していたりしたら、これまた、まるでニュアンスの違うストーリーになってしまっただろう。


かつてこのブログで、アカデミー賞やエミー賞を受賞している映像作家ケン・バーンズのMLBに関するドキュメンタリー作品 ”Baseball”について、こんなことを書いた。

(MLBの野球は)
両親から子供に大切に伝えられてきた
「家族の文化」である


ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年10月10日、"The Tenth Inning"後編の語る「イチロー」。あるいは「アラスカのキング・サーモンはなぜ野球中継を見ないのか?」という考察。

Baseball: A Film by Ken Burns (Includes The Tenth Inning)Baseball: A Film by Ken Burns (Includes The Tenth Inning)


梶原一騎氏が、2人の主人公の置かれた境遇の違いについて、「父親のいる星飛雄馬」と、「両親ともいない矢吹ジョー」と設定したことについては、それが意図的なものか、それとも無意識にそうしただけなのか、そこまではわからない。
だが、スポ根マンガ特有の暑苦しさ(笑)や、見た目の絵柄の好き嫌いはともかく、「野球というスポーツにとっての『父親の存在』の大きさ」を考えると、ボクシングマンガにおいては父親の存在を描かなかった梶原氏が、こと野球マンガに関しては「父親と息子」というコンセプトを貫いていることは、野球というスポーツの本質のひとつを突いた慧眼だったのは間違いない。


プレーするにしても、あるいは観戦するにしても、野球というスポーツを楽しむ上で「父親という存在」がどんな決定的な位置を占めるのか? を考えると、
いまの時代のMLBで、アフリカ系アメリカ人プレーヤーが減少している理由のひとつを考える上で、重要なヒントがもたらされる

この次は、この10年で増加してきたアフリカ系アメリカ人の「父親の不在」と、MLBにおけるアフリカ系の減少の関係について書いてみる。

damejima at 06:08

June 19, 2012

6月17日のギリシャ再選挙を前に、ユーロ圏脱退に反対する人たちはこんなキャッチフレーズのテレビコマーシャルを流していたらしい。
「子供たちの未来をオモチャにしてはいけない。」
どこかの誰かさんに、是非見てもらいたいCMではある(笑)


まぁ、それはともかくとして。
MLBの超高額契約プレーヤーの契約に必ずといっていいほど登場してくる辣腕代理人スコット・ボラスが、今年初めロサンゼルスのアナハイムで行われた全米の大学野球コーチのミーティングで、アメリカの大学野球チームが受け取る奨学金の額が少なすぎる問題をテーマに講演をやったらしい。

Anaheim Convention CenterAnaheim Convention Center

肝心の「奨学金をどうしたらもっと増やせるかについてのスコット・ボラスからの提案」は非公開なので、おいておくしかないが、よく読んでもらうとわかるが、講演内容の大半が「大学を卒業してドラフトされる選手が、高卒選手に比べていかに有能で、将来性に満ちているか」に終始しているのが、ちょっと笑ってしまう(笑)

つまりボラスの話の大半は、自分の扱う「商品」である「大学生」を褒め倒しているだけなわけである。ある意味の「自画自賛」である。そりゃ自分の商品をけなす人間はいないが、それにしても身びいきが過ぎる。
彼が暗に(というか、あからさまに)言っているのは、
「大卒選手は、いまでもダイヤモンドの原石なんですよ」 「私が、その価値ある原石をMLBに高額で売りつけてあげますから、あなたがたコーチは私についてくればいいんですよ」 「だからあなたがたは、せいぜい良い選手を必死に育てて、私のところに連れて来てください」
ということだ(笑) 講演に見せかけたボラスの営業活動のようなものであるにもかかわらず、営業トークを聞かせている大学関係者のほうが頭(こうべ)を垂れて、あまつさえ講演料まで財布に入れてくれるのだから、こんなありがたい話もない(笑)

ところが、だ。
ボラスが今年初めにこんな「大卒ドラフト指名選手を絶賛しまくる講演」をしたにもかかわらず、実際の2012年MLBドラフトでは、「高校生への1位指名の嵐」だったわけだから、「大学生の優位性」をいくらボラスが強調しようと、実際のMLBが彼の思惑どおり動いているわけではないことが、かえって明確になった。
資料ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年6月4日、恒例の全米ドラフトは高校生が主役。


ただ、参考になる話も2つほどある。
(ある意味それを読んでもらうためだけに、この文章を訳した)

最も重要なポイントは、
大卒の有望プレーヤーの契約をまとめることで、とんでもない大金を稼ぎ続けてきた代理人スコット・ボラスですら、将来性の高い大学アスリートの、それも逸材レベルが、野球以外のスポーツに流れている現状が存在していることを、公の場で認めざるをえない
ということだ。

ボラスは具体的に特定して発言していないが、ここでいわれている「アメリカの大学の逸材の、野球以外のスポーツへの流出」を、もっと具体的に言えば、前記事のテキサス大学ロースクールの記事の翻訳で書いたように、「近年のアフリカ系アメリカ人の大学アスリートが、MLBではなく、NBAやNFLを目指すことが増加していること」を指しているのは、いうまでもない。
資料ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年6月11日、MLBにおけるアフリカ系アメリカ人プレーヤーの減少について書かれたテキサス大学ロースクールの記事を訳出してみた

アフリカ系を含めた有望アスリートが他のスポーツに流出しているからといって、代理人業を営むボラスの立場としては、「商品である大卒プレーヤー」の「仕入先である大学野球の監督たち」に向かって、「MLBにアフリカ系アメリカ人が減っている現状があるのはたしかだが、だからといって、白人選手にしても、安く獲得できて才能も高いドミニカやベネズエラなどのラテンアメリカ系選手に押されつつある現状も生まれつつあって、アメリカ人選手の未来はけして楽観視できない」などと、軽々しく発言することはできない。
ボラスは講演で、「野球以外のスポーツへの流出」と、オブラートに包んだ発言のしかたをしているわけだが、実際には、ボラスのいう「野球以外のスポーツへの流出」が、「MLBにおけるアフリカ系アメリカ人プレーヤーの減少」を指している(あるいは深く関係している)ことに、かわりない。

スコット・ボラスのような代理人にしてみると、こうした大学卒プレーヤーの将来性の現状を「先細り」と受け取られることは、「大卒プレーヤーの質的低下や量的減少、特に、白人系選手の長期的な価格低下」も意味するわけだから、ボラスとしては放置しておくことはできない。
だから、ボラスはいま躍起になって大学のコーチたちのケツを叩き、「逸材の他のスポーツへの流出に警鐘を鳴らす」わけだ。「有望な大学アスリートのNFL、NBAへの流出」は、ボラスの収入に直接関係してくるから、当然だろう。


また、問題としては小さいが、アメリカの大学野球に、資金不足もあって、トレーナー、コーチ、ドクターといった「野球専門の専門スタッフ」が不足している(あるいは養成できない)現状があることで、(おそらく多くの人数が養成されている)フットボールに特化した専門家を野球に流用せざるをえない現実があることも、この文章からわかる有益な情報のひとつだ。
最近のMLBプレーヤーの怪我がちな点は、こうしたスタッフ不足も背景のひとつなのかもしれない。


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Scott Boras Presents Plan For 25 Scholarships

By LOU PAVLOVICH, JR.
Editor/Collegiate Baseball
(From Jan. 27, 2012 Edition)
Scott Boras Presents Plan For 25 Scholarships


Scott Boras, the most powerful agent in sports, gave a riveting presentation at the American Baseball Coaches Association Convention in Anaheim on how every NCAA Division I baseball program can fund 25 full scholarships for athletes.
スポーツ界で最もパワフルな代理人、スコット・ボラスは、どうしたらNCAA1部のすべての野球部に、(ロスター枠全員をまかなえる)25の十分な奨学金を提供できるのかについて、アナハイムで行われたアメリカ野球コーチ連盟(ABCA)年次総会で魅力的な提言を行った。
ブログ注:
アメリカ野球コーチ連盟(ABCA)
http://www.abca.org/
2012 ABCA Anaheim Convention (2012年1月5日-8日)
January 5-8, 2012 ABCA Anaheim Convention - ABCA

He firmly believes that Major League baseball would be interested in listening to a plan to pump money into these programs for additional scholarships since revenue on the professional level has shot up from $400 million in 1980 to over $8 billion during the past year.
彼は、プロレベルでの収益が、1980年の4億ドルから昨年2011年には80億ドル以上に急上昇していることから、もし奨学金追加事業に資金を注ぎ込むプランが策定されれば、MLBは興味を持ち、耳を貸すだろうと、堅い信念を持っている。

Currently NCAA Division I baseball programs can give a maximum of 11.7 scholarships.
今日、NCAAディヴィジョン1の野球競技は、最大で11.7の奨学金しか得ていない。

Boras also feels that college baseball coaches must govern baseball at a more pro-active level to keep young baseball players in the game instead of turning to other sports. He also delved into a serious problem in college baseball regarding a lack of certified baseball trainers, strength and conditioning people, doctors and surgeons and how they can be found instead of being forced to use football specific professionals.
さらにボラスは、野球でないスポーツに関心が向いてしまわないよう、野球界が若い野球選手をキープするためには、大学の野球コーチが先々をもっと見越した目線から野球を管理していかなければならないと感じている。
また彼は、資格をもった野球トレーナー、強化やコンディショニングの専門家、医者や外科医の不足からくる大学野球の深刻な問題と、どうしたらアメリカンフットボールに特化した専門家を使うことを強いられるのを避け、そうした専門家を見つけることができるのかについて、徹底した調査を行ってもいる。

"You may think that professional baseball in effect runs baseball," said Boras in front several thousand coaches at the Anaheim Convention Center. "But in my opinion, I believe that we must begin a legacy of college coaches governing baseball. When you think about this, I want to tell you about your role in professional baseball and what you mean to the Major Leagues.
ボラスはアナハイム・コンベンションセンターに集まったたくさんのコーチの前で語った。
「みなさんは、野球を実質的に運営しているのはプロの野球であると、お考えになっているかもしれません。しかしながら、私には、『まず話を始めるべきは、大学のコーチのみなさんによって運営されてきた野球だ』という確信があります。このことについて関心をお持ちのみなさんに、私は、大学のコーチがプロの野球においてどんな役割を果たすべきか、みなさんの存在がMLBにおいてどんな意味をもつのか、話したいと思います。

"In 1980, Major League baseball was a sport that had roughly $400 million in revenue. In 1990, that figure went up to $1 billion. In 2000, it was $3 billion. And today, that figure is $8 billion. A lot of people think that scouting and high school baseball has a great role in this.
「1980年、MLBはおおまかにいって4億ドルの収入をもつスポーツでした。それが1990年には10億ドルに、そして2000年には30億ドルに上昇しました。今日、その額は、80億ドルに上っています。たくさんの人々が、スカウト活動と高校の野球が、この成長に大きな役割を果たしたと考えています。」

"But when you look at the numbers, there are 827 Major League players. Overall, 52 percent of all Major League players were former college baseball players while only 26 percent were signed out of high school. Another 22 percent are international players.
「しかし、数字を見てください。 メジャーには827人の選手がいます。メジャーリーガー全体の52パーセントは、大学野球出身の選手であり、他方、高校出身は26%に過ぎず、あとは海外の選手が22%です。」

"This illustrates what a college coach does in grooming an athlete because there are nearly double the number of college baseball players in Major League baseball compared to high school players. When you bring out the fact that college coaches don’t bring in the top athletes that are available for their programs in the draft, the numbers are even more telling.
「このことで明らかなのは、大学のコーチがアスリート育成においていかなる貢献をしてきたか、ということです。大学出身の野球選手の数は、高校出身の選手に比べ、およそ2倍です。大学野球のコーチが将来ドラフトで指名されるようなトップアスリートを連れてこれていない、などといわれることがあるかもしれませんが、数字はより雄弁に真実を語っています。」

"We found that 79 percent of college first round picks reach the Major Leagues for at least a day.That compared to 62 percent of high school first rounders who reach the Major Leagues for a day which is a 17 percent difference.
「大学出身の1巡目指名選手が、最低1日でもメジャーリーガーになった割合は、79%であることがわかっています。高校出身の1巡目指名選手のメジャーリーガーになる率が62%であるのと比べると、17%の開きがあります。」

"When you look at those players who achieve six years in the Major Leagues and become free agents, you are talking about 42 percent of college first rounders who become six year Major League players. In the draft as a whole, less than one percent of drafted players ever become six year Major Leaguers.The figure for high school first round players is 32 percent who become six year Major League players. There is a 10 percent difference compared to college first rounders.
「またメジャーで6年プレーし、フリーエージェントになった選手でみてみると、メジャーリーガーになった大学出身の1巡目指名選手の42%がフリーエージェントになっています。ドラフト全体で見ると、6年間メジャーでプレーできる選手は、1%以下しかいません。高校出身の1巡目指名選手でみると、6年メジャーでプレーできる選手になれる割合は32%で、大学の1巡目指名選手との間には10パーセントの開きがあります。」
ブログ注:
ボラスは、「FAになれる選手の率において、大卒と高卒では、10%の差がある」と、大卒選手の優位性を強調するわけだが、統計的な多くの観点から見るなら、この主張の根拠はかなり怪しいとしかいいようがない。
例えば、この「10%の差」が、ほぼ毎シーズン決まって生じる有意な差なのかどうか? 年度によって生じる誤差の範囲におさまってしまう「単なる偶然」ではないのか? そして、「10%の差」が生じる原因が、本当に大卒選手が高卒選手より優秀であることにあるのかどうか?
あらゆる点が、何も検証されないまま、断定されている。

問題は他にもある。
「10%の差」とボラスは言うが、メジャーで6年プレーできるのがドラフト指名選手全体の1%以下であるのなら、大卒と高卒の「10%の差」は、選手全体からみると、1%×0.1=「0.1%の差」と、ほんのわずかな差にすぎない。
球団数の多いMLBにおいてはドラフト全体で指名される選手数は、毎年数百人単位に及ぶわけだが、「0.1%の差」というのは、実数としては「指で数えられる程度の人数の差」という意味に過ぎない。


"So when you are recruiting athletes and talking about their choices, college baseball is clearly the best way and highest percentage for an athlete to achieve success in the Major Leagues.
「したがって、アスリートのリクルーティングに携わってアスリートのとるべき選択肢について議論する上において、アスリートがメジャーで成功を収めるための、最良かつ最も確率の高い方法が、大学野球なのは明らかです。」

"If you want to look at it monetarily, elite high school players receive welcome bonuses. But for those athletes who aspire to be the best in the Major Leagues and receive the highest bonuses, it is astounding what players have received right out of college when looking at $6 million signing bonuses.
「お金の面での話をするなら、高校出身のエリートプレーヤーはウェルカムボーナスを受け取りますが、メジャーで最高の選手になって、最も高い契約金を手にするのを熱望する彼らにしてみれば、大学出身選手が600万ドルもの契約金を受け取っていることは、気の遠くなるような驚きです。」

"Gerrit Cole was a first round pick out of high school and then became the first player chosen in the 2011 draft (UCLA). He received nearly double the bonus he was offered out of high school. Anthony Rendon (Rice) was a 27th round pick in high school and became a first rounder out of college. Stephen Strasburg (San Diego St.) and Dustin Ackley (North Carolina) were not drafted out of high school. These athletes received some of the highest signing bonuses in the game out of college.
「ゲリット・コールは、高校生での1巡目指名選手でしたが、2011年にUCLAで全米1位指名選手になり、高校卒業時に提示されていた契約金の、ほぼ2倍を受けとりました。ライス大学のアンソニー・レンドンは、高校では27巡目の指名でしたが、大学では1巡目指名選手になりました。サンディエゴ州立大学のステファン・ストラスバーグはと、ノースカロライナ大学のダスティン・アックリーは、高校ではドラフトされませんでした。これらの選手は、大学を出て野球界でほぼ最高の契約金を得ています。」
ブログ注:
このパラグラフで名前を挙げられている選手は、すべていわゆる「ボラス物件」と通称される、スコット・ボラスが代理人をつとめる選手たち。つまり「自画自賛」である。また
だが、予算削減を目指す昨今のMLBにあって、2012年6月のドラフトでは、契約金の高い大学生を敬遠する傾向も出てきたことに、同年4月にこの講演を行ったときのボラスはまだ気づいていない。
ゲリット・コールは2008年のドラフト1巡目(全体28位)でヤンキースから指名されたが、UCLAに進学。高校生が1巡目指名を蹴って大学に進学するのは、2002年にシアトル・マリナーズからの全体28位指名を断ってスタンフォード大学に進学したジョン・メイベリー・ジュニア以来。

"If you look at $5 million players in the Major Leagues, they must be pretty special players. Not many reach this status. To achieve this level, you must be a very accomplished player. When you look at the numbers, there are 30 college players in the Major Leagues who are making $5 million or more who weren’t drafted until after the 10th round. Mind you, there are only 84 $5 million college players and 64 $5 million high school players in the Big Leagues."
「メジャーで 『500万ドルプレーヤー』 になれたとすれば、非常に特別なプレーヤーにちがいありません。このステイタスに到達できる選手は多くはありません。このレベルに達するには、非常に完成したプレーヤーでなければならないのです。
数字からみると、メジャーリーグには、ドラフトで10巡目までに指名されなかった下位指名の選手で、500万ドル以上稼ぐプレーヤーになれた大学出身選手が、30人もいます。500万ドルプレーヤーは、MLBの大学出身プレーヤーで84人、高卒選手では64人しかいません。」

ブログ注:
全米のアマチュアコーチを聴衆にした講演で、大学卒業選手、特に1巡目指名選手の将来性の高さを印象づけたくてしかたがないボラスは、「大卒の1巡目指名選手が、最低1日でもメジャーリーガーになれる割合は、高卒選手より17%も高い」と指摘している。
つまり、彼は「1巡目指名選手は、モノになる割合が高い」という印象を与えたがっているわけだ。

ところが、その一方でボラスは平行して、「500万ドルプレーヤーになれた選手は、ドラフト下位指名の大卒選手に30人いる」と、ニュアンスの違う指摘をしている。

この2つの平行した指摘は、ちょっと都合がよすぎる。
というのも、ボラスの2つの指摘を、ボラスとは違う観点からまとめるなら、「大卒の1巡目指名選手がメジャーリーガーになれる割合は、高卒よりほんのちょっと高い。だが、だからといって、1巡目指名だから500万ドルプレーヤー、つまり 『長く活躍できる選手になれる』 とは限らない」ということになる。
そして実際、ドラフト1位指名選手で、殿堂入りした選手はいない、というデータもある。

だが、ボラスから選手を買う立場のMLB球団側からすれば、1巡目指名選手に大金を払うのは、「長く高いレベルの活躍をしてくれる高い才能」に対してであって、なにも「メジャーリーガーになれたら、ただそれだけで嬉しい」、とかいうちっぽけな夢に大金を払うわけではない。

大学卒業選手なら10巡目以降の下位指名選手であっても500万ドルプレーヤーになれる、というボラスの主張にしても、下位指名選手であって有力プレーヤーになれる可能性がある理由は、なにも「大卒選手が高卒選手より優秀な素質を持っていることが多いから」とは限らない。
単に「その選手が遅咲きタイプの選手だった」とか、「MLBでの育成が、大学の育成より上手いから」かもしれないのである。

いずれにしても、ボラスの「大卒選手は高卒選手よりも優位である」という主張は、根拠にしているデータや数字に統計的な裏付けが乏しく、また、論理にも矛盾がある。けして高卒選手に対する大卒選手の優位性が明確に示されてなどいない。


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この文章全体からわかるのは、1巡目指名の大卒選手が大金を稼ぐ現状をなんとか維持しようと必死なスコット・ボラスの姿だ。

そもそも、大卒の1巡目指名選手がメジャーリーガーになることができる割合が高いのは、その選手の活躍ぶりと、無関係とまでは言わないが、けして直結してはいない。

たいていの球団では、高卒より高い年齢でMLBに来る大卒選手を1巡目で指名して大金を支払って契約したら、その選手がメジャーで本当に通用するかどうかを試す意味で、また、1巡目選手に払った多額の契約金をムダにしたくないという意味で、ほとんどの場合、一度くらいは必ずメジャーに上げて試すことが多いものだ。

契約金の高いドラフト1巡目指名選手がメジャーリーガーになれるのがほぼ当たり前な理由は、イコール、その選手が才能を発揮してメジャーで大活躍した、という意味とは限らないのである。

だから1巡目指名選手のメジャーリーガーになる率を引き合いを根拠に、「だから大卒選手は、高卒選手よりもメジャーで活躍できる割合が高いのだ」と結論づけるのは、あまりに都合がよすぎる。

繰り返して言うが、
過去、ドラフト1位指名選手に、殿堂入りした選手はいないのである。そして球団がドラフトに期待しているのは、ボラスが主張しているような、統計的にあやしい、矛盾したリクツではない。

damejima at 07:47

June 12, 2012

このところMLBの人種構成と球団の強化やプロモーションの手法をめぐって、参考になるデータを紹介する記事を書いてきている。
基本としてわかっていることは、MLBで、アフリカ系アメリカ人が減少しつつある一方で、ラテンアメリカ系の増加が定着しているという、よく知られた話だが、同じ問題を別の角度から見ると、ドラフトで獲得される白人プレーヤーの質の低下や、ストロイド問題も含まれてくると思っている。
MLBにおけるアフリカ系アメリカ人の減少傾向
元データ:上記グラフは、以下のサイトにあるグラフを、縦軸の示すインデックスがわかりづらいために手直しして流用している。もちろん縦軸の意味は同じ。
What Caused the Decline of African-Americans in Baseball?


MLBにおけるアフリカ系アメリカ人選手の減少の原因について、テキサス大学のロースクール(=法科大学院)、The University of Texas at Austin School of Law(UT Law)で2011年11月に書かれた記事がみつかったので訳出してみる。
UT Lawの発行する定期刊行物は12種類あり、Texas Review of Entertainment & Sports Law(TRESL)はそのひとつ。ロースクールの教授陣が監修しながら、学生たちも積極的に執筆する。

言うまでもないことだが、以下の文章はあくまで、マーケティングの現場にいるわけではない大学のロースクールの執筆者の「個人的見解」であって、いくらテキサス大学が全米有数の大学のひとつだからといっても、この見解がアメリカの代表的意見だと決めつける必要はない。
読む人は自分の蓄積してきた見識に照らしつつ読み、なにがしか参考になればそれでいいし、もちろん批判的に読んでもかまわない。

ブログ主がこの記事を読んで思うことや、付け加えたいことは、下記に示した注釈以外にもいくつかあるが、まずはとりあえず原文を読んで自分なりの感想をもってもらうほうが先決だろう。ブログ側からの注釈は必要最低限に留め、ブログ主の感想や付け加えは、別の記事としてまとめる予定だ。(なお以下の訳文で、太字部分は固有名詞をわかりやすくするためブログ側で添付している。また内容をわかりやすくするため、必要に応じて原文に無い改行を加えた)
とはいえ、元記事には、今の時点であらかじめ指摘しておかざるをえないような、首を傾げる記述がないわけではない。
例えばデトロイト・タイガースについての記述には、いくつかの偏見というか知識不足がみられるし、ステロイドを使った選手が冷遇されることと人種問題とを混同している記述などもみられるから、元記事の全てを鵜呑みにしないよう注意して読んでもらいたい。

だが、全体としてはアフリカ系アメリカ人選手の減少の原因の分析について要領よくまとまっている。
なにより、マイノリティ比率の非常に高い州のひとつであるテキサス州にあるMLB球団が、どういう方向性で球団をディレクションし、どういうコンセプトで選手を獲得し、ファンの支持をどう集め、どう勝者になっているか、という点をわかりやすく書いていることが、今の時代には非常に参考になる。特にscholarship、奨学金についての記述は、日本のスポーツ新聞やブログを読んでいるだけではわからない視点だと思う。

州別・乳児に占めるマイノリティ率州別・乳児に占めるマイノリティ率


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The Decline of African-American Players in Baseball
野球におけるアフリカ系アメリカ人プレーヤーの減少


Posted by Joel Eckhardt
TRESL Staff on November 20, 2011
The Decline of African-American Players in Baseball | TEXAS REVIEW OF ENTERTAINMENT & SPORTS LAW
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University of Texas School of LawのエンブレムIn 2010 and 2011, the Texas Rangers won the first two AL pennants of their otherwise mediocre existence. In both cases, they clinched the pennant with a roster littered with a roughly equal mixture of white and Latino players, with one African-American: 41-year old journeyman relief pitcher Darren Oliver. However, the Rangers do have an African-American manager who America is falling in love with ? the always enthusiastic, hyperactive Ron Washington. While the roster itself has only one African-American contributor, the team leader is a New Orleans-bred African-American baseball lifer who still makes his home in that city’s Ninth Ward.
2010年と2011年、テキサス・レンジャーズはア・リーグを初制覇、そして連覇を果たした。どちらのケースでもレンジャーズは、白人とラテン系プレーヤーがだいたい半々に混成されたロスターで優勝を決めている。アフリカ系アメリカ人といえば、唯一、41歳のジャーニーマンのリリーバー、ダレン・オリバーだけだった。しかし、レンジャーズには、アメリカ中で愛されているアフリカ系アメリカ人監督がいる。常に情熱的で、過剰なまでに活発なロン・ワシントンだ。ロスター自体にアフリカ系アメリカ人の功労者はたったひとりしかいない一方で、ニューオリンズ育ちのアフリカ系アメリカ人で野球に生涯を捧げているチームリーダー(=ロン・ワシントン)は、いまだにニューオリンズの9区に自宅を構えている。

ブログ注:
ダレン・オリバーは、2011年12月30日にFAでトロント・ブルージェイズと契約し、現在はテキサス・レンジャーズの一員ではない。


This construction of an MLB team is less surprising than it probably should be. The MLB Racial and Gender Report Card, issued annually by The University of Central Florida’s Institute for Diversity and Ethics in Sports, has given MLB an “A” grade for its racial hiring practices in each of the last three years. MLB has steadily increased its number of minority managers, coaches, and front office employees. The overall number of minority players is also increasing, largely due to the increase of Latino players from 13% in 1990 to around 27% today. However, this progress comes while the number of African-American players in the game has decreased from 17% in 1990 to a paltry 8.5% in 2011. What has caused this decline?
MLB球団のこうした人種構成が、想像と異なるものであることは特に驚くことではない。セントラルフロリダ大学のInstitute for Diversity and Ethics in Sportsが発行している「MLBの人種とジェンダーに関するレポート」によれば、MLBは過去3年間において、どのシーズンにおいても人種的な雇用慣習において、グレードAの評価を受けている。MLBは、マイノリティの監督、コーチ、フロントスタッフを、着実に増加させ続けてきているし、またマイノリティの選手の総数も、ラテンアメリカ系プレーヤーの増加により、1990年の13%から、今日では27%に大きく増加しているのである。
しかしながら、こうした進歩の一方で、アフリカ系アメリカ人プレーヤー数は、1990年の17%から、2011年の8.5%へと減少している。なにがこの現象をもたらしたのだろうか。

Expense. Baseball is inherently more expensive to play than other sports, because of the cost of equipment and of joining a league. A good bat can cost between $300 and $600, and on top of that, a player needs gloves, batting gloves, and uniforms. Furthermore, traveling teams dominate elite youth baseball (pre-high school), and playing with these teams costs a significant amount in both fees and traveling expenses. Finally, at the collegiate level, NCAA Division I schools only award 11.7 baseball scholarships a year, reduced from 20 in 1981. These costs push young African-Americans towards sports such as basketball and football, which are relatively cheaper to play. This disparity in the costs of playing the respective sports has contributed to the NBA and the NFL being made up of roughly 80% and 70% African-American athletes, respectively, while MLB lags far behind.
費用
野球は、本質的に他のスポーツより費用がかかる。用具やリーグへの加盟費があり、例えば、良質なバットは300ドルから600ドルはする。トップクラスの選手ともなれば、バッティング専用の手袋だって必要だし、ユニフォームも要る。おまけに、チームの遠征は、高校入学前のエリートユースにとってはとても重要で、こうしたエリートチーム同士の試合には、双方に謝礼や遠征費の大きな負担が必要となる。大学レベルでは、NCAA1部に属す大学でも、野球奨学金は、1981年に20から引き下げられために、年に11.7しかもらっていない。
これらのコストの高さは、若いアフリカ系アメリカ人が、相対的にプレー費用の安いバスケットとかフットボールのようなスポーツに向かう要因になっている。こうしたスポーツごとの「コスト格差」は、NBAやNFLのプレーヤーのおよそ70%から80%が、アフリカ系アメリカ人で構成され、他方MLBでは相対的にアフリカ系が少ない、という状況を生む一因になっている。

ブログ注:
NCAA Division 1に属するのは、Vanderbilt, Virginia, South Carolina, Florida, Arizona State, Texas A&M, Oklahoma, Texas, Florida State, North Carolina, TCU, Georgia Tech, Arkansas, Cal State Fullerton, Fresno State, LSU, Clemson, Arizona, Stanford, UCLA, UC Irvine。
Baseball Scholarshipについての記述で、「NCAA Division 1で11.7の奨学金」というのは、D1のチームあたり、年ごとに11.7人分の奨学金の給付がある、というような意味。Division 2では、9である。
アメリカの奨学金は返済の義務がない。それだけに奨学金の給付には、たとえアマチュアスポーツとはいえども、厳しい条件がつく。投手の給付条件には、身長体重の他に、右投手85-95MPH、左投手80-95MPHという「球速制限」が存在しており、右投手は最低でも85マイル以上のスピードボールを持っていないと、奨学金を受けられない。同様に、野手では60ヤード走(=約54.864メートル。日本でいう50メートル走のようなもの)に「6.5-6.9秒」というスピード制限があり、足の遅い野手は奨学金を受けられない
ちなみにFootball Scholarshipは、なんと年に1チームあたり85もあり、野球とフットボールの処遇に非常に大きな格差があるが、それをそのまま2つのスポーツの人気の差ととらえるのは間違っている。


Marketing. Another factor causing the decline of African-American baseball players is the way the game markets itself. Curtis Granderson, an African-American, All-Star center fielder for the Yankees, says that when he played with Detroit, the team displayed white players on all of their billboards around town, despite the presence of black stars like Granderson, Gary Sheffield and Jacque Jones. Other All-Star-caliber African-American players like Ryan Howard and Carl Crawford cannot break into the household name category. Furthermore, Barry Bonds, arguably the biggest African-American baseball star of his generation, is mostly vilified rather than celebrated as a result of his suspected steroid use. As a result, baseball has chosen to mostly disassociate itself from Bonds since his retirement from the game. Young black athletes need star players that are both adequately marketed and look like them in order to retain their interest in baseball, and there simply are not enough of those players today.
マーケティング
アフリカ系アメリカ人の野球選手が減少するもうひとつの要因は、マーケッティング手法そのものにもある。
カーティス・グランダーソンは、ヤンキースのセンターを守るオールスタープレーヤーだが、彼がいうには、彼のデトロイト時代には、チームにグランダーソンや、ゲイリー・シェフィールドジャック・ジョーンズのような黒人スターがいたにもかかわらず、チームが街中の広告看板にディスプレーするのは、すべて白人プレーヤーだった。
他にもライアン・ハワードカール・クロフォードのようなオールスターレベルの能力をもつアフリカ系アメリカ人プレーヤーがいるが、彼らはいわゆる「有名人」カテゴリーに入ることができていない。
さらにバリー・ボンズは、彼の世代では最大のアフリカ系アメリカ人スターだが、ステロイド使用疑惑の結果、彼は祝福を受けるより、けなされることがほとんどだ。結果としてボンズがゲームから遠ざかったとき、野球界は、彼との関係の大半を断絶することを選んだ。
若い黒人アスリートの野球に対する関心を維持するためには、市場価値があり、また彼ら自身との共通性を感じさせる黒人スタープレーヤーを必要としているわけだが、今の時代、そうした黒人スターは不足する傾向にある。

ブログ注:
どうもこのチャプターは、元記事の著者が誤解している部分が多い。
バリー・ボンズのようなステロイド使用選手が冷遇されるのは、薬物使用がアンフェアだからであって、彼がアフリカ系だからではなく、人種問題とは関係ない。言うまでもないことだが、2つの異なる問題を混同してはいけない。
またデトロイト・タイガースについて一部書かれたこのチャプターを読んで、あらぬ偏見が生まれることを望まない。
「マーケティング手法上の問題」を人種問題にすりかえる必要は全くないし、また、原著者は、シェフィールドやジャック・ジョーンズについて、ステロイド問題や期待外れに終わった成績など、「書き漏らしている点」が多々あり、デトロイト・タイガースがこれらのプレーヤーの顔写真を街中に張り出さなさなかったからといって、シェフィールドやジャック・ジョーンズを人種的な理由で冷遇したと断ずることはできない。
たしかにタイガースという球団の性格は、ジャッキー・ロビンソンがアフリカ系アメリカ人として初めてMLB入りして以降、MLBのプレーの質が向上していく中でも、アフリカ系アメリカ人選手の入団を拒み、長期低迷を招いたといわれる球団ではあるが、以前データを挙げたように、人種構成には、州によって大きな差異があるため、必要とされるマーケティングの方向性は、州ごとに異なる。
「州別の1歳以下の乳児に占めるマイノリティ率」をみてもわかるとおり、アメリカ西部に比べ、アメリカ東部はマイノリティ比率が相対的に低い。そうした西部と異なる人種構成をもつ東部にあっても、グランダーソンの現在の所属球団ヤンキースのあるニューヨークは、多様な人種から構成される都市、東部でも特殊な州であり、タイガースのフランチャイズ、ミシガン州とは、マーケティングの前提条件が異なる。
名前の挙っているゲイリー・シェフィールドは、バリー・ボンズと同じステロイダーで、バルコ・スキャンダルで名前が挙がり、2007年12月に発表されたミッチェル報告書にも名前が載っている。また成績も、期待されてヤンキースから移籍してきたが、デトロイトでの2シーズンは怪我がちで、期待外れに終わっている。そういう選手を、球団がマーケティングの中心に据えるわけにはいかない。
またジャック・ジョーンズは、デトロイトが生え抜きのベネズエラ人ユーティリティ、オマー・インファンテを放出してまで獲得したスラッガーだが、打率.165というあまりに酷い成績のせいで、2か月もたずに戦力外になってしまった期待外れのバッターで、同じ年の6月にはマーリンズでも戦力外になるほどであり、なにもジョーンズはアフリカ系アメリカ人だからという理由で冷遇されたわけではない。


Economics. An under-discussed factor is the evolution of the economics of the game. A black athlete who grows up in America may not enter into the MLB draft until he’s 18. A player picked in the first round of the draft (the only round where a player picked has better than a 50-50 chance of playing in an MLB game at some point) receives an average signing bonus of over $2 million. Meanwhile, most Latin American players sign with a major league team at age 16 for a six-figure contract. Only recently did the elite-level Latino players begin receiving seven-figure deals. As a result of both the age restriction and higher signing bonuses in America, teams sign three to four Latin American players for every young African-American athlete. These are simply “very pragmatic business decisions” according to Jimmie Lee Solomon, the MLB executive vice president for baseball operations.
球団経営
あまり議論されない要因として、球団経営上の進化という要因もある。アメリカで育った黒人アスリートは、18歳になるまでMLBドラフトにはかからない。ドラフト1巡目(=50%以上の確率で、どこかの時点でメジャーでプレーするチャンスのある唯一の指名順位)で指名された選手は、平均200万ドルの契約ボーナスを得る。他方、ラテンアメリカの選手は16歳で、6ケタ(six-figure contract)、つまり10万ドル単位の専属選手契約にサインする。近年では、エリートレベルのラテンアメリカプレーヤーに限っては、7ケタ、100万ドル単位の契約を結ぶ。アメリカ国内での年齢制限と高い契約金、その両方の要因の結果として、球団側は若いアフリカ系アメリカ人アスリートと契約するかわりに、3人か4人のラテンアメリカ系選手と契約することになる。これらは、MLBの運営部門の副責任者であるジミー・リー・ソロモンによれば、単に「非常に実利的なビジネス上の判断」だ。
ブログ注:Jimmie Lee Solomon
Jimmie Lee Solomonは、MLBで、人材発掘組織であるベースボールアカデミーをラテンアメリカに設置するプロジェクトを起こしたやり手の人物。ジミー・ソロモンは2010年6月に既にアメリカおよびプエルトリコのベースアカデミーの総括副責任者に転じているが、元記事を書いた人物はそれを認識せず記述している。現在MLBのExecutive Vice President of Baseball Operationsという職にあるのは、元ヤンキース、ドジャース監督のジョー・トーリ
Jimmie Lee Solomon - Wikipedia, the free encyclopedia
Solomon's biggest project is the construction of baseball academies in urban areas.Currently there are academies in Venezuela, Puerto Rico, Dominican Republic and throughout Latin America.


This brings us back to the Rangers, who were well-known to be in dire financial straits in the years leading up to their first pennant in 2010. While the Latin-American players on Texas’ current roster are mainly the product of shrewd trades, the team’s commitment to signing and developing young Latin players is shown in the makeup of the team’s prospects: in both 2010 and 2011, 50% of the Rangers’ top 10 prospects were Latin-born players. Half were white. None were African-American. The Rangers are now generally considered to be among the smartest teams in baseball, and one reason is their harvesting of cheap talent in Latin America while passing over young black players who cost more and are subject to more stringent labor restrictions. As long as this model proves a winner, one can expect it to be mirrored by other organizations, and the number of African-Americans in the game may further decline as a result.
最初のリーグ優勝を遂げた2010年に、非常に切迫した財政難にあったことで有名だったレンジャースについて、あらためて考えてみよう。
テキサスの現在のロスターにいるラテンアメリカ系プレーヤーは、主に賢明なるトレードの成果だが、チームが若いラテンアメリカ系プレーヤーとの契約と育成に力を注いでいることは、2010年と2011年、両方の年度においてチームのトップ10プロスペクトの半分以上が、ラテンアメリカ系プレーヤーで占められていることに、如実に表れている。アフリカ系アメリカ人はひとりもいない。
レンジャーズはいまや、野球界における最も賢い球団と広く考えられているが、その理由のひとつは、ラテンアメリカでコストの安い才能を集める一方で、コストがより高く、また、労働制約条件もより厳格な若い黒人プレーヤーをスルーしていることにある。こうしたチームづくりモデルが勝者であり続ける間は、他球団も真似をするだろうから、野球におけるアフリカ系アメリカ人の減少は、結果的に今後さらに加速するかもしれない。

damejima at 20:42

June 07, 2012

最近、MLBではアフリカ系アメリカ人(いわゆる黒人)プレーヤーが縮小傾向にあると、いわれることについて、何度も引用してきている。
USA Todayのある記事に言わせると(その記事の言い分を絶対的なものと信じてもらっても困るのだが)、アフリカ系アメリカ人プレーヤーの減少は、アフリカ系アメリカ人観客の減少を招いており、「2011年にMLBを見に来場してくれたアフリカ系アメリカ人の割合は、わずか9%に過ぎない」というマーケティング会社の調査があるらしい。
The lack of African-American players also affects diversity in the stands. Just 9% of fans who attended an MLB game last season were African American, according to a recent Scarborough Marketing Research study.
Number of African-American baseball players dips again – USATODAY.com

その一方で、これも何度も書いているように、ベネズエラドミニカなど、ヒスパニック系プレーヤーのウエイトは年々確実に重さを増していっている。(だが、だからといって「スタジアムにおけるヒスパニック系ファン数も急増した」とまで言えるかどうかは、手元に資料がないのでわからない)
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年4月5日、MLBのロスターの3.5人にひとりは、メインランド(アメリカ大陸の50州)以外の出身選手、というESPNの記事を読む。(出身国別ロスター数リスト付)

州別・1歳以下の乳児に占める非白人率
州別・乳児に占めるマイノリティ率


先日、アメリカで「1歳以下の乳児」に占める「非白人」のパーセンテージがついに「白人」より多くなったというニュースについて書いた。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年5月18日、「アメリカでの非白人比率の増大傾向」と、「MLBプレーヤー、ファン両面の人種構成の変化」との複雑な関係。
そしてこんどは、アメリカでアフリカ系アメリカ人の平均寿命が伸び、白人との平均寿命の差が縮小したというニュースを読んだ。これもMLBのおかれた環境を知る上で、なかなか面白い。

男性
白人    75.3歳 → 76.2歳
アフリカ系 68.8歳 → 70.8歳
両社の差  6.2歳 → 5.4歳

女性
白人    80.3歳 → 81.2歳
アフリカ系 75.7歳 → 77.5歳
両社の差  6.0歳 → 3.7歳
米国で黒人の平均寿命伸びる、白人との差が縮小=調査 | 世界のこぼれ話 | Reuters


ただ、このニュース、ちょっとだけ気をつけてほしい点がある。

日本の新聞社などにこのニュースを配信したのは、大手通信社のロイターだが、この現象の社会背景の解説として、「エイズや心臓病で死亡する黒人の数が減少した一方、ドラッグの服用などで死亡する白人若年層が増加したことが背景にあるとみられている」と、通信社側の解釈を元に文章をつけくわえているのは、いただけないことだ。
これではまるで、あたかも「白人の麻薬中毒死の増加」が、「近年のアフリカ系アメリカ人と白人の寿命格差縮小の大きな要因のひとつである」かのように読めてしまう。
だが、そうした説明は、ロイターの配信の元ネタであるアメリカの医学誌JAMAの記事、およびJAMAの記事が引用しているCDCのデータの内容と、必ずしも一致しない。


数字を見れば明らかなように、白人とアフリカ系アメリカ人の平均寿命の差が縮小したのは、なにも白人の寿命が急激に短くなったから起きたわけではなく、アフリカ系アメリカ人の平均寿命、特に女性の平均寿命が「伸びた」ことによる。
アフリカ系アメリカ人の平均寿命の「伸び」の長期的な社会背景は、エイズによって死ぬ人数の減少などという短期的なことより、近年アフリカ系アメリカ人に医療保険を受けられる人が増えたことが大きい、とする説明のほうが、はるかに説得力も合理性もある。

ちなみにアメリカは、世界の平均寿命ランキングにおいて世界40位前後らしいが、日本やヨーロッパに比べると、新生児や幼児の死亡率がかなり高い。
世界保健機関(WHO)の2011年5月13日発表データによれば、日本の新生児死亡率はおよそ1000人に1人、幼児死亡率がおよそ1000人に2人と、ほぼ世界で最も良いレベルにある。また西ヨーロッパでも、新生児2人、幼児3人程度で、これは世界最高クラスの数字だ。
だが、アメリカでは、新生児4人、幼児7人と、子供たちの死亡率は高い。しかも、手元に資料がないのだが、下記の記事などによれば、同じアメリカ人でも、アフリカ系アメリカ人における新生児や幼児の死亡率は、さらに高いようだ。(なお、以下の記事は2007年と、ちょっと古いものであることに注意)
アメリカでは1,000人の新生児に対して6.8人が死んでいます。(中略)黒人の場合は13.7人が死んでおり、サウジアラビアと同じレベル。
亜米利加よもやま通信 〜コロラドロッキーの山裾の町から


日本は、かつて「人生50年」という言葉が存在していたように、第二次大戦前までの平均寿命が50歳を越えない状態が続き、アメリカよりはるかに下だった。
だが、第二次大戦後いわゆる「国民皆保険」を実現したことによって、戦後わずか20年しかたっていない1960年代には、アメリカを抜き去って、現在の世界最高レベルの長寿国への道を歩み出した。
こうしたほかならぬ日本の実例からしても、薬物中毒やエイズによる死者の減少よりも、「誰もが医療を受けられる医療保険制度の有無」が、人間の平均寿命に与える影響と即効性が遥かに大きいことは、明らかだ。
アメリカと日本の平均寿命推移
図録▽寿命の伸びの長期推移(対米比較)より引用


また、以下に示すように、元ネタになった医学誌記事が引用しているデータでいう「薬物中毒死」とは、必ずしも麻薬中毒によるものだけを指しているのではなく、「違法・合法を問わず、広い意味での薬物中毒死全体」を指している。
このニュースを読む人に、あたかもアメリカの白人に麻薬が蔓延し、バタバタ死んでいっているかのようなイメージを与えかねない解説を添付するのは、ちょっとやりすぎだと思う。

このニュースのオリジナルソースとなった記事(JAMA Network | JAMA: The Journal of the American Medical Association | Trends in the Black-White Life Expectancy Gap, 2003-2008)が発表されたのは、世界で最も発行部数の多い医学学会誌であるジャーナル・オブ・ジ・アメリカン・メディカル・アソシエーション (The Journal of the American Medical Association 略称JAMA 日本では『米国医師会誌』あるいは『米国医師会雑誌』などと表記される。1883年創刊)。
そして、JAMAに掲載された元記事がデータのソースとして引用したデータは、アメリカの疾病対策センター(CDC, National Center for Health Statistics Homepage)のデータである。

このJAMAの記事が示している引用元のひとつはいくつかあるが、以下のCDCの「薬物中毒=Drug Poisoning」に関する記事(リンク先)では、薬物中毒について、必ずしも「麻薬中毒 drug abuse」によるものだけを指しているわけではない。
In 2008, over 41,000 people died as a result of a poisoning.(中略)Drugs ― both legal and illegal ― cause the vast majority of poisoning deaths.
資料(pdf) CGC: Drug Poisoning Deaths in the United States, 1980–2008


damejima at 10:31

June 05, 2012

恒例の全米ドラフトが始まった。
13巡目指名のホワイトソックスまでに、既に約半数の6球団 18巡目のドジャースまでに、半数以上の10球団が、高校生を指名今年の大学生のかなり極端な不作ぶりが決定的になった。この不作の年に大学生を1位指名した球団のうち、どこかは確実に泣きを見ることになりそうだ。

ちなみに、最近このブログ一押しのGMダン・デュケットは、1巡目で、復活しつつある古豪ルイジアナの右腕Kevin Gausmanを指名。選手を集める手腕の高さに定評のあるデュケットの指名だけに、不作の年の大学生指名とはいえ、気になるところ。
Draft Day 1: Pick-by-pick selections | MLB.com: News

このMLBの「大学生に対する無関心ぶり」には、今年から始まるドーピングの血液検査も、もちろん関係してるんだろう、と想像している。
ブログ主は、いくらなんでも大学なんだからステロイドが蔓延してないなんて、アメリカ野球について思ったことは、一度たりともない。
近年流行した「大西洋岸エリアの大学生に期待する時代」が永遠に続くなんて思ってる人がいるとしたら、それは非常に笑える(笑)

ハッキリ言わせてもらえば、今後ともアメリカ国内でのステロイド蔓延が続くようなら、アメリカ国内のステロイダーは使いづらくなるだろうし、その一方で、アメリカ国内でステロイド使用が自粛されれば、されたで、アメリカ国内の選手に対する期待は下がっていく、という意味で、どちらにしても、国内の選手がMLBに占める相対的な比重は、ますます軽くなっていくと読んでいる。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年4月5日、MLBのロスターの3.5人にひとりは、メインランド(アメリカ大陸の50州)以外の出身選手、というESPNの記事を読む。(出身国別ロスター数リスト付)

シアトル・マリナーズ? さぁね。どうでもいいよ(笑)
マイケル・ピネダと交換に若いヘスス・モンテーロ獲ったのに、わざわざ大学生の、それもキャッチャー指名してるんだから、開いたクチがふさがらないね(笑) 最近のルイジアナやオクラホマの復活ぶりにも、まるで目配りしてないみたいだし、ホント、こんなメディアの評判ばかり気にしてるミーハー球団、どうでもいい(笑)
かつての全米1位ジェフ・クレメントの例でもわかるように、どんな有能な人材だろうと無意味なトレーニングで潰すだけしか能がないロジャー・ハンセンを懲りもせずスタッフに抱え続けてるチームに、キャッチャーをマトモに育てられるわけがない。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:ロジャー・ハンセン



スタンフォードのMark Appelについては2か月も前にツイートしたが、予想通りになった。全米1位と噂され続けたにもかかわらず、結局全米8位でピッツバーグ。いかに若手マニア君たちとメディアの予想がアテにならないかが、よくわかる(笑)
そりゃそうだ。ピッツバーグには申し訳ないが、彼のもともとのコントロールの悪さ、最近のスタンフォードの戦績の低下ぶり、カレッジ・ワールドシリーズ直前のスタンフォードのもたつきぶりと、ランキングのガタ落ちぶり。どこを見ても、好材料なんてなかった。


以下、太字は高校生
1. Houston Astros: SS Carlos Correa, Puerto Rico Baseball Academy

2. Minnesota Twins: OF Byron Buxton, Appling County HS (Ga.)

3. Seattle Mariners: C Mike Zunino, Florida

4. Baltimore Orioles: RHP Kevin Gausman, LSU

5. Kansas City Royals: RHP Kyle Zimmer, San Francisco

6. Chicago Cubs: OF Albert Almora, Mater Academy (Fla.)

7. San Diego Padres: LHP Max Fried, Harvard-Westlake HS (Calif.)

8. Pittsburgh Pirates: RHP Mark Appel, Stanford

9. Miami Marlins: LHP Andrew Heaney, Oklahoma St.

10. Colorado Rockies: OF David Dahl, Oak Mountain HS (Ala.)

11. Oakland Athletics: SS Addison Russell, Pace HS (Fla.)

12. New York Mets: SS Gavin Cecchini, Barbe HS (La.)

13. Chicago White Sox: OF Courtney Hawkins, Carroll HS (Texas)

14. Cincinnati Reds: RHP Nick Travieso, Archbishop McCarthy HS (Fla.)

15. Cleveland Indians: OF Tyler Naquin, Texas A&M

16. Washington Nationals: RHP Lucas Giolito, Harvard-Westlake HS (Calif.)

17. Toronto Blue Jays: OF D.J. Davis, Stone County HS (Miss.)

18. Los Angeles Dodgers: SS Corey Seager, Northwest Cabarrus HS (N.C.)

19. St. Louis Cardinals: RHP Michael Wacha, Texas A&M (Compensation for A. Pujols - LAA)


20. San Francisco Giants: RHP Chris Stratton, Mississippi St.

21. Atlanta Braves: RHP Lucas Sims, Brookwood HS (Ga.)

22. Toronto Blue Jays: RHP Marcus Stroman, Duke (Compensation for T. Beede - unsigned)

damejima at 09:52

May 19, 2012

図1
アメリカの1歳以下の乳児全体に占める
「マイノリティ」のパーセンテージ

Census: Fewer white babies being born – In America - CNN.com Blogs
州別・乳児に占めるマイノリティ率


参考図
メジャーの球団所在地のバラつき
紫色で示した州:ア・リーグ、ナ・リーグ両方の球団がある州
ピンクで示した州:どちらかのリーグの球団だけがある州
MLBの球団所在地の州別のバラつき


図2
2011年オールスターで
前年より視聴率の上がった地域・都市

出典:ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年7月18日、去年より低かった2011MLBオールスターの視聴率 (2)700万票以上集めた選手すら出現したオールスターの「視聴率が下がる」現象は、どう考えても納得などできない。
2011年オールスターで視聴率の上がった地域・都市

図3
2010年ワールドシリーズで
テキサスとサンフランシスコのどちらが優勝するか
州別ファンの予想(赤色がテキサス)

ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年10月25日、東西を2分する2010ワールドシリーズの優勝チーム予想。
2010WS ESPN ファンの優勝予想(320ピクセル)



図1の元になった話題は、アメリカの1歳未満の乳児において、白人が初めて過半数を割り込んだという、アメリカ国勢調査局発表のニュースで、図は、CNNが、その国勢調査局発表データから州別の図に起こしたもの。非常に素晴らしい仕上がりである。
このニュースでいう「マイノリティ」、つまり「少数派」とは、ヒスパニック系、アフリカ系アメリカ人である黒人、日本人を含めたアジア系など、要するに、「白人以外」あるいは「有色人種」のことを指している。

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これだけ多様な人種が混在する多民族国家アメリカの居住者を、「白人」と「有色人種」、2つのカテゴリーのみに分類する観点もどうかと思うが、とりあえず、このニュースの観点では、アメリカの1歳以下の乳児における「マイノリティ」は、かつては「有色人種」を指していたわけだが、それがいまや「白人」になった、ということになる。
もちろん人口動態の傾向からして、今後ともこの有色人種増加傾向が継続されるのは間違いない。

言いたいのは、「有色人種万歳」などというレイシズムではなくて、このニュースだけに限っては、今までメディアで頻繁に使われてきた「マジョリティ、マイノリティ」という二分法を無理矢理あてはめながら物事を説明しようとすること、そのものに破綻が生じてきている、ということだ。

言い換えると、このニュースは「アメリカ社会においては、これまで頻繁に使われてきた「マイノリティという人種的なラベリング」が用をなさなくなりつつある」という話。
なのに、その「マイノリティという分類法が意味をなさないニュースにおいて、マイノリティという言葉を使って説明しようとしている」ことに論理的に無理が生じるのは、当然の話だ。
だが、まぁ、ここはそういうややこしいことを議論する場所ではない。詳しい議論は割愛しておく。

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さて、オリジナルのCNNのサイトの図では、各州の上にカーソルを重ねると、乳児だけでなく、各州における「1歳以下の乳児」「18歳以下」「人口全体」、3つのボリュームについて、州別に「マイノリティの人口比率」が右側に表示されるという、素晴らしい仕組みになっている。
野球関連メディアについてもいつも感じさせられることでもあるが、こういうちょっとした点に、アメリカのジャーナリズムの質の高さ、読者に理解しやすくする努力の姿勢を、ヒシヒシと感じさせられる。
ぜひ一度、オリジナルサイトを訪問して、この素晴らしい図の出来具合を体験してみることを勧める。

なお、オリジナルサイトのデータによれば、アメリカ南西部では、人口に占める非白人比率が、カリフォルニア州60%、テキサス州55%、アリゾナ州43%と非常に高いのに対して、ワシントン州28%、オレゴン州22%と、アメリカ北西部の州では、逆に、高い白人比率が堅持されていて、「同じアメリカ西海岸でも、南と北とでは、人種構成に大きな違いがある」ことが、ハッキリ理解できたりする。

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こうしたアメリカ社会の人種的な意味での変容のトレンドは、MLBも無関係ではないどころの騒ぎではなくて、いろいろな面で、非常に深い関係が出ている。また、今後はもっともっと色々な面で強く影響が現れてくるはずだから、この話は、日本のMLBファンの誰もが頭の隅に覚えておくべきニュースだと思う。

もちろんそれは、球団のマーケティングやチーム強化戦略について考えるときの基礎データとしての意味だ。人種意識をいたずらに煽ろうとするような、悪質な意図は全くない。それぞれの人が、それぞれの問題意識に照らして、上の図1-1を解釈したらいいと思う。
とにかく、単純な決めつけだけはしてもらいたくない。こういうことは常に自分で心しておかないと、いらない偏見だけが育つことになる。

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決めつけが良くないという例を、ひとつ挙げておく。

MLBでは、たくさんのベネズエラやドミニカの選手たちが活躍している、という記事を先日書いた。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年4月5日、MLBのロスターの3.5人にひとりは、メインランド(アメリカ大陸の50州)以外の出身選手、というESPNの記事を読む。(出身国別ロスター数リスト付)

だが、ベネズエラやドミニカの選手が多いからといって、MLBで、すべての「白人以外の選手」が全体として増加しているかというと、そんなことはないのである。
アメリカのスポーツメディアでは、アフリカ系アメリカ人、あるいは、かつて多かった中米プエルトリコ出身の選手たちが、減少しているという記事を最近よく目にする。

資料:MLBにおける「アフリカ系アメリカ人プレーヤー」の減少
Number of African-American baseball players dips again – USATODAY.com

Decline Of African-Americans In MLB Discussed As League Marks Jackie Robinson Day - SportsBusiness Daily | SportsBusiness Journal

資料:MLBにおけるプエルトリコ出身選手の減少
Puerto Rico Traces Decline in Prospects to Inclusion in the Baseball Draft - NYTimes.com

資料:増大するドミニカ出身選手の将来像分析と、MLBにおけるプエルトリコ出身選手の減少グラフ)
Baseball in Latin America: Draft dodgers no more | The Economist
ドミニカ、ベネズエラ、プエルトリコのMLB選手数推移


つまり、言いたいのは、
アメリカで、これまでマイノリティと呼ばれてきた人種の人口が増加傾向にあるからといって、それがそのままMLBにおける白人以外の選手や、白人以外のファンの増加傾向に直結していると決めつけてはいけない、ということだ。
何度もしつこく書いて申し訳ないが、単純に決めつけてはいけないのである。判断は、もっとさまざまなデータ、記事、事実などから、時間をかけて公平になされるべきだ。

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とはいえ、
最初に挙げた図1、図2の重なりを比較してみると、
図1、図2において、濃い薄い両面で、「ピッタリ重なる地域」が存在することは、否定できない。


つまり、
いくら「軽々しく断言することは間違った行為だ」とはいえ、さすがに大西洋岸と並んで、全米でも非常に野球の盛んな地域のひとつであるカリフォルニアからテキサスにかけてのエリア、つまり、MLBでいう「西地区」でのマーケティングにおいては、非白人の動向が無視できない、くらいのことは言っても問題ないだろう。(逆にいうと、アメリカ中西部と東部の内陸の一部における野球やプロスポーツへの関心の低さも)

ア・リーグ西地区3州における非白人比率(%)
      カリフォルニア州 テキサス州 ワシントン州
1歳以下    75        70      44
18歳以下   73        67      40
全人口     60        55      28

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ちなみに図2は、去年イチローが初めて落選したオールスターの選考プロセスがあまりにも納得がいかないことから記事を書きまくっていた時期に、自作したものだ。
だから、世界中どこのサイトを探しても、この図は落ちていない。気になったデータというものは、やはりとっておくものだと、つくづく思う。こんなところで繋がってくるとは正直思わなかった。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年7月18日、去年より低かった2011MLBオールスターの視聴率 (2)700万票以上集めた選手すら出現したオールスターの「視聴率が下がる」現象は、どう考えても納得などできない。

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あらためて確認しておきたいが、たった2つや3つのグラフから、単純に「MLBを支えているコアなファン層は、非白人層が中心だ」とか、「西海岸でのMLBチームのマーケティングで、非白人層の存在を十分考慮しないマーケティングは、間違っている」とか、単純に結論づけられるものでもない。
現実ってものは、そんな単純なものじゃない。

例えば、ファンにも様々なタイプがあることを考えてもわかる。
スタジアム入場料金の高さは、アメリカのメディアでもよく取り上げられるが、スタジアムに来るにしても、有料のケーブルテレビを契約して観戦するにしても、いずれにせよ、金はかかる。
中には、高額なシーズンチケットを購入して球団にお金を落としてくれるのに多忙で時間がなくスタジアムにあまり来られないファンもいれば、スタジアムに足しげく通いたいために高額な席を敬遠する層もいるだろうし、スタジアムには来ないが有料のケーブルテレビで毎日試合を観戦してくれる層もいれば、海外旅行のついでにスタジアムを訪れ、市街地でも買い物や食事で大金を落としていってくれる外国人もいる。ファンの形もさまざまだ。

だから球団運営についても、スタジアムの入場料収入やユニフォームの売り上げなどを重視するオーソドックスな考え方もあるだろうし、最近のエンゼルスやテキサスのように、ケーブルテレビから入ってくる超高額の収入をアテにしたチーム強化戦略をとる考え方もある。
非白人比率の高くなっているテキサスやカリフォルニアでの球団運営戦略として、ケーブルテレビを重視する球団運営は、非常に理にかなっていると思う)

どの観客層から、どんな収入を得るか、何を球団マーケティングの中心とみなすかは、地域差やチーム事情による違いがあるが、それぞれのチームの特性に応じた施策が必要なのは言うまでもない。

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少なくとも今の時点でシアトルに関して言いたいのは、
目を開けて、時代を見ろ、ということ。
年々相対的にレベルの低下していっているドラフト対象の白人プレーヤーの現状に目をつぶるかのように、ドラフトで獲得しまくり、ラインアップに若い選手を並べてみました、
というだけで、
アメリカ南西部の強豪に負けない強い球団をつくり、
しかも
スタジアムを満員にしていける、そんな時代ではない。
ということだ。

そんな甘い見通りなど、通用するわけがない。それは、いくら白人比率の比較的高いと「思われている」ワシントン州シアトルであっても、だ。
そんな「ヤワな策略」で、ケーブルテレビの高収入をもとに、あらゆる国から人種と価格を問わず、優れたスカウトマンが、優れた選手をかき集めてきて、優れたコーチが上手に若い選手を育成してメジャーに上げてくる西地区の強豪を凌駕できる、わけがない。

自分のいる場所の現状さえわからないようでは、ダメだ。
ワシントン州の人口に占める非白人比率は、現状たしかに28%と低いが、1歳以下の乳児に限れば、既に44%もの高率になっている。ワシントン州で近未来の非白人比率が高まるのは、確実だ。
モンタナやアイオワ、ワイオミング、ダコタのように、全体人口においても乳児においても白人比率が高く、そのかわり、MLBの球団が存在しない (ひいてはプロスポーツのマーケットそのものが無い)州とは、まるで事情が違うのだ。(だからといって、ベネズエラ人のフェリックス・ヘルナンデスでセーフコフィールドが満員にできているわけでもない。そこがシアトル独特の難しさだ)
時代の変化に目をつぶっている人間を置き去りにして、
時代は容赦なく変わっていく。


damejima at 11:40

April 06, 2012

ESPNによると、2012年の開幕をアクティブ・ロスターとして迎えたMLBプレーヤー856人のうち、243人が、いわゆる「メインランド」以外出身(=「アメリカのハワイを除いた50州」以外、という意味。元記事の表記は born outside the 50 states)の選手であり、これを割合でいうと28.4%で、2011年の27.7%から「増加」したらしい。(故障者等を含む)
Percentage of foreign Major League Baseball players rises - ESPN
記事によれば、この「28.4%」という数字は、2005年の29.2、2007年の29.0に次ぐ高い数字。
おおよそ、MLBのロスターの3.5人にひとりが、メインランド以外の選手という計算になる。これは1チームのアクティブ・ロスター25人、平均7人前後のメインランド以外の選手がいる、という勘定だ。

(よくこういう記事で、「アメリカ以外の選手」というふうに訳出してしまうサイトがあるわけだが、元記事の表記はあくまで、born outside the 50 statesであり、「アメリカ以外」とは言っていない。もちろんそれは、プエルトリコはアメリカ領であり、またハワイはれっきとしたアメリカの51番目の州だから、である。だから例えば、ハワイのマウイ島出身のカート・スズキは、もちろんれっきとしたアメリカ人だが、メインランド出身ではないので、ESPNの記事ではplayer born outside the 50 statesにカウントされてしまうことになる)

また、マイナーにいる選手7,278人に占める「50州以外のプレーヤー率」は46.47%で、これは昨年の47.41%からややダウン。それにしても、MLBのマイナーで、いかにたくさんのメインランド出身でない選手が夢のメジャー昇格をうかがっているかがわかる。


国別メジャーロスター人数
ドミニカ 95人
ベネズエラ 68人
カナダ 15人
日本 13人
キューバ 11人
プエルトリコ 11人
メキシコ 9
パナマ 7 (マリアーノ・リベラなど)
キュラソー 4
オーストラリア 4
ニカラグア 3
台湾 2
コロンビア 1
イタリア 1 (アレックス・リディ
韓国 1
参考:Player Place of Birth and Death - Baseball-Reference.com (Baseball Referenceの州別・出身国別リスト)

別資料:Major League Baseball Players by Birthplace

チーム別外国人ロスター数
カンザスシティ 13人
コロラド 12人
ニューヨーク 12人
(ヤンキースは2011年に16人で、2000年以来11年ぶりにトップだったが、今年は4人減少。ロスターのイメージが入れ替わりつつある)


メジャーのロスターの人数が少ないからといって、その国の野球が弱いとは限らない。だが、こういう数字を見せられると、マイナー契約だった川崎宗則がアクティブ・ロスターを獲得したことが、いかに凄いことかわかる。

また、先日ドラフトに関してのツイートで、「好投手をアメリカ国内から調達することはこれからますます難しくなると思う。」と書いたのは、細かく説明しなくても、国別のロスター人数を見てもらえばわかると思う。
人数の多いドミニカベネズエラにはもちろん、まだまだ多くの未だ見ぬ好素材が眠っているだろうし、また、カナダ日本キューバなどの有力国の場合も、たとえ見た目のメジャーのロスター人数が少なくても、少数精鋭がメジャーで有力レギュラーとして活躍しているわけだから、それぞれの国にまだまだ粒選りの才能ある選手が眠っている可能性が高い。

だから、「投手の時代」を迎えてますます需要が高まる「本当に質のいいローテ投手」を発見したいと思えば、供給源として、玉石混合のアメリカのメインランド出身ピッチャーだけを見ていては、本当のダイヤモンドは見つからないと思うのだ。



ちなみに、メインランドではどんな州でもメジャーリーガーが多い、というわけではない。
元記事にはないデータだが、アメリカの出身州別メジャーリーガー数ランキングを挙げておこう。このリストと、カレッジ・ワールドシリーズの優勝校リストを並べてみると、西部のカリフォルニア、東部のニューヨーク周辺、五大湖周辺、南部のテキサス、フロリダなど、特定の野球が盛んな州、野球の強い州というのがあることがわかると思う。

California (2,012)
Pennsylvania (1,379)
New York (1,165)
Illinois (1,021)
Ohio (1,002)
Texas (812)
Massachusetts (649)
Missouri (585)
Florida (420)
New Jersey (415)

Player Place of Birth and Death - Baseball-Reference.com(2012年4月5日現在)





damejima at 08:02

December 17, 2009

さきほど、日本の父子家庭の話をテレビで見た。
なんでも、母子家庭が受けられる給付金や貸付金といった行政サービスを、どういうものか、父子家庭では受けられないために、たいへん経済的に困っている父子家庭がたくさんあるのだそうだ。

なぜ、たかが野球ブログの分際でこんな畑違いのことを書くことにしたかというと、お子さんを3人もった父子家庭の小さい男の子が野球をやっていて、将来の夢を聞かれ、「プロ野球選手」と答えたからだ。お父さんは、生活が苦しい中、定額給付金という制度でもらえたお金で、その野球をやっているお子さんにグローブを買ってあげたのだという。


ブログ主は別にどこの政党とも、テレビ局とも、まったく関係はない。ただ、その子が自分と同じ、野球というスポーツを楽しんでいる仲間だと思うから書くだけのことだ。
彼が将来イチローを越えるような名選手になる可能性だってないわけではないが、別にプロ野球選手になれなくたっていい。グラウンドで頑張った日々を子供たちは忘れないだろうし、人生の糧になる。プロ野球なんて大それた夢を追わなくても、子供とキャッチボールができるだけで、お父さんは仕事を頑張れるかもしれない。

自分が彼らにしてあげられることといったら、こうしてただブログに書いて、こういう制度の不備で苦しんでる野球ファンの子供がいることを、社会の片隅から人に知らせることくらいしかない。


メジャーではロベルト・クレメンテ賞という賞があり、これは慈善活動を熱心に行ったプレーヤーの中から毎年ひとりに授与されている。シアトルからはこれまで3人の選手が受賞を果たしている。
ブログ主は彼ら3人を誇りに思うと偉そうに言えるほど、自分自身が普段何もしていないので、そんな僭越なことを言う権利はない。
また、野球選手だけに社会貢献を押し付ける考えはおかしいとも思う。野球選手が元気でプレーする姿そのものが、最初に挙げた子供たちに、将来の夢を与え、元気をあげているとしたら、野球というものがどれほど夢のある仕事かと思う。そのことだけで、もう十分だ。

ロベルト・クレメンテ賞 - Wikipedia

シアトル・マリナーズの過去の受賞者
1991 ハロルド・レイノルズ Harold Reynolds
2003 ジェイミー・モイヤー Jamie Moyer
2004 エドガー・マルティネス Edgar Martinez






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  • 2013年6月1日、あまりにも不活性で地味な旧ヤンキースタジアム跡地利用。「スタジアム周辺の駐車場の採算悪化」は、駐車場の供給過剰と料金の高さの問題であり、観客動員の問題ではない。
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