ボールパーク、スタジアム、球場

2018年4月5日、「400フィート」という距離。
2015年8月20日、たとえ外観は簡素でも、中に入ったとたん、素晴らしい「野球の空気」が一瞬にしてあなたを包み込んでくれる「美しいフィールドのある場所」、それこそが本来の意味のスタジアム建築。
2014年7月14日、多くのスタジアムで歴代上位を占めるイチローの「スタジアム別打率」。超バッター有利の本拠地をもつ球団に長期所属したキャリアは、その打者の成績アップにどのくらい貢献するか。
2014年1月16日、木造からコンクリート製へ、ボールパークの変貌を象徴する1929年ノース・フィラデルフィア上空から見たBaker BowlとShibe Park
2013年6月1日、あまりにも不活性で地味な旧ヤンキースタジアム跡地利用。「スタジアム周辺の駐車場の採算悪化」は、駐車場の供給過剰と料金の高さの問題であり、観客動員の問題ではない。
2013年2月16日、野球という「開催日数の多いスポーツ」だからこそ、専用スタジアムを持つ意味も、公費投入の意味もある。
2013年2月11日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」 (8)番外編 「ステロイド・イネーブラ」と呼ばれたピーター・マゴワン。
2013年2月11日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」 (7)番外編 近づくキャンドルスティック・パークの「引退」。
2013年1月3日、最もホームランの出やすいボールパークから、最もホームランの出にくいボールパークのひとつに移籍したジョシュ・ハミルトンの今後。
2012年7月16日、『父親とベースボール』 (4)アメリカにおけるドイツ系移民の増大。18世紀ドイツの美術史家ヨハン・ヴィンケルマンが欧米文化のルーツとして捏造した「白いギリシア」。
2012年6月20日、セーフコ・フィールドを狭くすれば優勝できると思っていた脳天気な人々に致命傷を与えたアリゾナ3連戦の大量失点。
2012年4月27日、一球一音、野球小僧と音楽小僧 (2)西本幸雄と灰田勝彦
2012年4月1日、ダグ・フィスター、ヒューストン戦6イニング1失点で、ST負けなしの4勝目。クッキーカッター・スタジアム終焉による、チームカスタマイズ必須時代の到来。
2012年3月28日、Take me out To the ball game. 歌詞をドームに連れてって。
2012年3月23日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (4)夢の東京スタジアムの誕生
2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (3)キャンドルスティック・パーク、ドジャー・スタジアム、シェイ・スタジアムの開場
2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (2)ロサンゼルス・メモリアル・コロシアム、シールズ・スタジアムの一時使用と、チェニー・スタジアムの建設
2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (1)エベッツ・フィールド、ポロ・グラウンズの閉場
2012年2月11日、スタジアム・サイト、ベスト3。
2011年1月9日、シーズンオフらしく、MLBのポジション別ゴールドグラブ受賞回数でも眺めながら、ウィリー・メイズとイチローの時代の違いを考えてみる。
2010年9月12日、ポール際の非常に狭い甲子園と神宮で生まれる「ポール際のボーナス・ホームラン」を片手間に調べつつ、9月11日のホワイトセルの決勝2ランが生まれた理由を考えてみる。
2010年8月25日、セーフコ、カムデンヤーズと、ヤンキースタジアムを比較して、1920年代のポロ・グラウンズとベーブ・ルースに始まり、新旧2つのヤンキースタジアムにも継承された「ポール際のホームランの伝統」を考える。
2010年8月21日、ボルチモアのカムデンヤーズは、セーフコのお手本になった「新古典主義建築のボールパーク」。80年代のクッキーカッター・スタジアムさながらの問題を抱える「日本のスタジアム」。
No need Vuvuzela for MLB stadium.

April 06, 2018

1959年から1965年にかけての南海ホークスは、三冠王野村克也を中心にした重量打線が売りで、1959年と1964年の2度、日本シリーズを制している。その重量打線のネーミングが「400フィート打線」で、この「400フィート(=約122メートル)」という数字はいうまでもなく「打球がホームランになるのに十分な飛距離」を意味している。


先日、大谷翔平がサイ・ヤング賞投手コーリー・クルーバーからセンターに打ったメジャー2号がやはり「400フィート」というので話題になったが、MLBのボールパークの大半でセンターの最深部は400フィートちょっとだから、大谷はとりあえず南海の400フィート打線でもやっていけるはずだ(笑)



2007年のオールスターでイチローが打ったランニングホームランの飛距離も、飛距離はだいたい「400フィート」だった。




2007年オールスターの会場はサンフランシスコのAT&Tパークだ。

このスタジアムの右中間の「最深部」は、421フィート(=約128.3メートル)もある。(以下の写真で、Aと書かれた円形の中に「421」という数字が書いてある部分)
センターの最深部は「399フィート」(=121.6メートル)だから、AT&Tは「センター最深部より、右中間奥のほうがはるかに広い、特殊なスタジアム」なのだ。

イチローの打球が直撃したフェンスは下記の写真のB、つまり「オレンジ色の広告」の部分だが、写真のCの部分、つまり右中間の中間部は「365フィート」(=111.2メートル)だから、この打球の飛距離はだいたい「400フィート」ということになる。

2007年オールスターのイチロー ランニングHR

2007年オールスター イチローのランニングHRAT&T Park

ソース:
Clem's Baseball ~ AT&T Park


右中間、左中間がまっすぐ平らになっていて、右中間がたった370フィート(約112メートル)しかないアナハイムと比べると、AT&Tの右中間の「異常さ」(笑)がよくわかる。

アナハイムAngel Stadium of Anaheim

ソース:
Clem's Baseball ~ Angel Stadium of Anaheim



いまだにイチローのランニングホームランを「偶然の産物」だと思っている人がいるかもしれないが、それは間違いだ。

たいていのボールパークはどこも右中間、左中間が潰れたカタチをしていてホームランが出やすくなっているから、「右中間が400フィート以上もあるボールパーク」なんてものは、普通はありえない。
だからイチローの打った「400フィートという飛距離」は、「普通のボールパークの右中間」なら、スタンド最前列に飛び込むどころか、フェンスから10メートルほど奥に届いている。

つまり、イチローのランニングホームランは、「本来はホームランになるべき、十分すぎる飛距離の打球」だったのだが、打った場所がたまたま「AT&T」だったためにスタンドに届かなかった、ただそれだけのことなのである。
当時の外野手ケン・グリフィーJRが、頭上を越えていく打球に心の備えがないまま前進守備していて、あわてふためいて送球が遅れたのも、AT&Tならばこそだ。



ちなみに、センターが広大なので有名なのは、デトロイトのコメリカパークだ。センター最奥は、AT&Tの右中間の奥と同じ、「420フィート」もある。
大谷がアナハイムでセンターに打った400フィートのホームランも、コメリカパークでなら、よくて三塁打、普通は二塁打で、ホームランにはならない。もし大谷の打撃データをもとにシフトが敷かれていた場合なら、ホームランどころか、下手すると外野フライだった可能性だって、ないわけではないのである。

damejima at 16:11

August 21, 2015

東京スタジアムのゴンドラシート今はなき東京スタジアムのゴンドラシート

参考記事:2012年3月30日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」 (5)番外編 元祖「安打製造機」 榎本喜八にとっての『故郷』、東京スタジアム。 | Damejima's HARDBALL


最初にあげた画像は、テネシー州ナッシュビルのファースト・テネシー・パークだ。音楽の街ナッシュビルにちなみギターの形をしたスコアボードがあることで有名だったハーシェル・グリア・スタジアムが老朽化したため新設された。
Best Minor League Baseball Stadiums To Catch A Game « CBS New York
score board of Herschel Greer Stadiumハーシェル・グリア・スタジアムのスコアボード



ハーシェル・グリア・スタジアムにしても、ファースト・テネシー・パークにしても、この美しさでメジャーの球場ではなく、トリプルAのスタジアムなのだから本当に参ってしまう。

こういう素晴らしいボールパークは、「新・国立競技場のザハ案」とか「パクリスト佐野研二郎の東京五輪エンブレム問題」とか、本当の意味でのデザインができない、わかってもいない「デザイン音痴なデザイナーたち」が作った、「勘違いだらけのスポーツデザインもどき」でキリキリ舞いさせられている我々日本人に、本当のスタジアム建築、本当のスポーツデザインとは、何かを、ピンポイントで教えてくれる。


「スタジアム建築」で、最も大事なこととは、何だ。
MLBのボールパークを見ればわかる。

スタジアム建築で最も大事なことは、
フィールドが素晴らしく美しく見えること」だ。

下に例として挙げたのはハーシェル・グリア・スタジアムの「外観」だ。びっくりするほど簡素で、うっかりするとアメリカの片田舎の小さなドラッグストアかスーパーマーケットと間違えかねない。
だが、中に入ったとたん、素晴らしい「野球の空気」が一瞬にしてあなたを包み込んでくれる。

これこそが「本当のスタジアム」だ。

Herschel Greer Stadiumの簡素な外観


スタジアム建築にとって大事なことは、「施設の外観」ではない。

フィールドこそがプレーの場であり、
人はフィールドでのプレーを見にやって来る。

ならば、
「内部のフィールドこそが最も美しく見える場所として作られている」のでなければ、それはスタジアムとは言えない
のである。


新・国立競技場のザハ案のメディア報道でわかることだが、「スタジアムの美の真髄」を理解できていない馬鹿モノたちは、建築家だけでなく、審査員やメディアも含めて、マトモなスタジアムを作った経験も、見たこともないくせに、「鳥瞰図」だけでスポーツのスタジアムをデザインし、議論した「つもり」になっている。本当に馬鹿馬鹿しいかぎりだ。

鳥瞰的にスタジアム全体を見て、外見がどれだけ個性的に見えるか」なんてことは、ほんと、どうでもいい。

クソくらえだ。

そういう「見てくれの個性にこだわる上っ面な安物のデザイン」は、ラブホテルでも、成金の別荘でもいいから、スポーツ以外の場所でやってもらいたい。


こんな簡単なことを気づかないまま来た日本の「スタジアム文化」は、いまだに発達途上だ。NPBの球場にしても、セントラルリーグを中心に、アメリカの80年代クッキーカッター時代の画一的な球場をコピーしただけの「人工芝ドーム球場」(東京ドーム、名古屋ドームなど)が点在している。
参考記事:2010年8月21日、ボルチモアのカムデンヤーズは、セーフコのお手本になった「新古典主義建築のボールパーク」。80年代のクッキーカッター・スタジアムさながらの問題を抱える「日本のスタジアム」。 | Damejima's HARDBALL

日本はそろそろ、「美しいフィールドを持った球場」を作ることの意義を真剣に考えるべきだ。



damejima at 16:04

July 15, 2014

シーズン14年目半ばにしてMLB通算2800安打を越えたイチローだが、この数字、簡単に割り算すれば、「14シーズン連続で、年平均200安打ずつ打った」とでもいう意味になる。凄い数字だ。
だが、こういう積み重ねの数字というのは、案外その凄さや重さがつかみにくいものだ。凄さを表現するためには、ちょっと角度を変えてみてみる必要がある。


イチローがある程度まとまった数のプレーをした、という意味で、「200打数打っているスタジアム」というのは、以下に示した13のスタジアムある。
これらの「200打数以上打った13のスタジアム」のうち、イチローは赤字で示した3つのスタジアムでMLB歴代1位(2014年7月14日現在 以下同じ)、黒い太字で示した3つのスタジアムで歴代3位までに入る打率を残しているのである。(カッコ内の数字は、そのスタジアムでの2014年7月14日現在の打数)

セーフコ・フィールド(3875)
レンジャーズ・ボールパーク(513)
現在のヤンキースタジアム(509) 1位 カノー
エンジェル・スタジアム(479)
オー・ドット・コロシアム(467)
ロジャース・センター(301)
プログレッシブ・フィールド(266) 1位 ジーター
コメリカ・パーク(255)
カウフマン・スタジアム(253)
カムデンヤーズ(254)  1位 ジーター
トロピカーナ・フィールド(251)
USセルラー・フィールド(242)
フェンウェイパーク(228)

ブログ注:実は、この記事を書くほんの直前までイチローはカムデンヤーズでも歴代1位だった。だが、2014シーズン前半の最終シリーズとなったカムデンヤーズの連戦でイチローが打率を落としたため、2014年7月14日現在でみると、イチローは「カムデンヤーズでの打率歴代1位」ではない。
もちろんイチローは3875打数のセーフコでも当然上位に入っている。ただ「200打数以上」という条件でいうと、ゲレーロ、オーランド・カブレラ、ジーター、カノー、イチローなんていう順位になる。

もう少し細かいことを言わせてもらうと、これらのイチローが歴代上位にいるスタジアムというのは、「キャリア通算3割以上の数字を残したバッターが、ほんの数えるほどしかいない、難攻不落なスタジアム」であり、なおかつ、「ホームランが出やすいといわれているスタジアムではない」ことが多い。


まぁ、スタジアム別打率といっても、レギュラーシーズンの打率のように「規定打数」が存在するわけじゃないから、「200打数」とか、ある程度まとまった数の打数を記録している歴代の打者のうち、「歴代で最も高い打率を残している打者」とでもいうふうに、ひとつの数字遊びだと思って、ゆるーく考えてもらいたい。
だが、以下の点は勘違いされても困るので、いちおう注釈をつけておく。


スタジアムというのはほとんどの場合、何十年かに一度、建て変わる。だから「スタジアム別の打率順位」というのは、「同時代のプレーヤー、あるいは近接した時代にプレーした打者の中での順位」という意味に、どうしてもなってしまう。

たとえば、かつてシアトルにあったキングドームでは、最高打率(200打数以上)を記録したバッターは.372を残したロッド・カルーなのだが、カルーは1985年に引退しているため、当然ながらセーフコの歴代打率リストには出てこない。同じように、イチローはセーフコでも当然のように歴代上位に入っているが、キングドームではプレーしていないためにキングドームのリストには出てこない。


だから、よほど長い歴史のあるスタジアムの話でもしないと、大昔のバッターと今のバッターの数字を同時に並べることはできないのだ。


例えば、20世紀初期のベーブ・ルースやルー・ゲーリッグからデレク・ジーターまでのデータが揃っている旧ヤンキースタジアムでいうと、このスタジアムで「200打数以上で3割を超える打率を残したバッター」は、60人以上もいる。この数字の多さは、ひとえにこのスタジアムの歴史の長さ(と老朽化)を物語っている。
デレク・ジーターは、現代のバッターでみるとイチローやロビンソン・カノーと同じように、かなりの数の現役スタジアムで歴代3位以内に入る数字を残してきた最高のバッターのひとりだが、旧ヤンキースタジアムでの打率順位だけでみると、.322という素晴らしい数字を残しているにもかかわらず「歴代18位」にしかならない。

ジーターの18位という順位を、「古い時代のバッター、特にヤンキースには、ジーター以上のバッターがぞろぞろいた」とみるか、それとも、「かつてのMLBは、超バッター有利なスタジアムだらけだった」とみるかは、それぞれのファンの考え方次第であり、簡単に結論を出すわけにはいかない。


ただ、ブログ主が思うには、こうした「3割バッターがぞろぞろいる現象」は、旧ヤンキースタジアムや、レンジャーズ・ボールパーク、フェンウェイパークのような、「バッター有利なスタジアム」に特に典型的に表れる現象に思える。
これは「超バッター有利なスタジアムでは、たとえホームランを量産するスラッガーであっても、同時にハイ・アベレージを残すような現象が可能になる」という意味だ。
例えば、稀代のホームラン王ベーブ・ルースは、旧ヤンキースタジアムで2835打数で.349という高打率を残しているし、また、ウラジミール・ゲレーロ、エイドリアン・ベルトレ、Aロッド、アルフォンソ・ソリアーノのようなタイプのバッターは、レンジャーズパークのような打者有利スタジアムで、長打を量産しつつ、しっかり打率も稼いでいる。

例えば、広いセーフコで通算3割打てたバッターはイチローを含め歴史的に数人ほどしかいないわけだが、これが例えばフェンウェイパークになると「200打数以上、3割を打てたバッター」が、旧ヤンキースタジアムのさらに3倍、180人以上もいて、その180人のうちには、ウェイド・ボッグズテッド・ウィリアムズジミー・フォックスノマー・ガルシアパーラカール・ヤストレムスキーなど、「ボストンに長期在籍経験のある殿堂入り野手」が数多くいるのである。

こうした「ボストンに長く在籍した有名バッター」がスタッツを荒稼ぎしたスタジアムは、もちろん地元フェンウェイパークだ。
確実に野球の天性があった彼らについて、「フェンウェイに長くいたから、殿堂入りできた」とまでは、もちろん言わないが、少なくとも彼らの打撃成績がフェンウェイでの長いキャリアで底上げされ、いわば「フェンウェイ補正」の恩恵を受けているのも間違いない、とは思う。


だからこそ、イチローがセーフコだけでなく、他のスタジアム、例えばコメリカ、カムデンヤーズ、プログレッシブ、オードットなど、数々のスタジアムで同世代のバッターを置き去りにするほどの数字を残してきたことを凄いと思うわけだし、また同時に、彼が、ヤンキースタジアムやフェンウェイ、アーリントンのような「バッター有利なはずの球場」(特にフェンウェイ)で思いのほか打率がよくないことを不思議に思うわけだ。

damejima at 08:59

January 17, 2014



上のツイートをしたMLBcathedralsは、MLBのボールパークの写真を紹介しているアカウントだが、その紹介スタンスが素晴らしい。というのは、やみくもになんでもかんでも紹介するのではなく、MLBのボールパーク史のターニングポイントとして意味がある写真や場面を掘り起こしてくれているからだ。
例えば、もう現存しない20世紀初頭に建設されたボールパーク(例えばエベッツ・フィールド)などは、カラー画像など存在しないだろうなどと思っていると、どこからか「非常に貴重なカラー画像」とかいって掘り起こしてきてくれる。(とはいえ、その写真がもともとカラー画像なのか、それとも最新技術でモノクロ写真をカラー化したものなのかまでは、残念ながらわからない)


上の写真をもう少し丁寧に説明しておこう。

これはアメリカの古いボールパークファンにはよく知られた1929年の空撮写真で、「数ブロックしか離れていなかったフィラデルフィアの2つのボールパーク」が同時に写っている。
上にチラリと見えているのが、1938年までフィリーズの本拠地だったBaker Bowl。(1887年4月30日開場 俗称としてPhiladelphia Baseball Groundsや、Huntingdon Street Groundsといった別の呼び名もある)
そして下に大きく写っているのが、フィラデルフィア・アスレチックス(現在のオークランド・アスレチックス)の本拠地だったShibe Park(1909年4月12日開場)。

c9aa1249.jpg
Burns-Eye Views of Big Time Parks, #6 – Shibe Park | behind the bag

草創期のボールパークは木製だったため、1911年4月のPolo Groundsの火災など、数多くの有名球場が火災で焼失しているわけだが、Baker Bowlも1894年の火事で全焼している。また再建された後も、1903年の事故(外野席が崩落し死者12名)、1927年の事故(ライトポール際の崩落で1名が死亡)などが続き、結局フィリーズは1938年6月30日のジャイアンツ戦を最後に、数ブロック先のコンクリート製の球場、Shibe Parkに移転することになる。

1909年開場のShibe Parkは、世界で初めて鉄骨と鉄筋コンクリートを用いて建設された球場だ。
クリーブランドにあったLeague Parkが木製からコンクリート製になったのが1909年シーズン終了後。デトロイトの木造のBennett Parkがコンクリート製のNavin Fieldに建て替えられたのは、1911年。コンクリート製のエベッツ・フィールドが開場したのが1913年だから、Shibe Parkはまさしく、「木造のボールパークがコンクリートに変わっていき、ボールパークが一新されていく時代の先陣を切った記念碑的モニュメント」ということになる。
だからこそ、これら2つの球場が同時に写された写真は、ただ単に「球場が2つ写っている、だから珍しいでしょ」というだけの写真ではないのである。
参考)Polo Groundsの1911年の火災に関する記事:Damejima's HARDBALL:2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (1)エベッツ・フィールド、ポロ・グラウンズの閉場

ちなみに、1909年4月12日のShibe Park開場当日の大混乱ぶりは、写真として残されている。
外野の広告看板の上の、ほんとに危なっかしい場所に観客が鈴なりになっているが、さらに拡大して見てもらうと、看板の後ろ側のフェンスが破壊され、誰でも勝手に球場内に入りこめるようにされてしまっているように見えるし、また、球場周辺の家屋の窓や屋上に数多くの人がいて、球場で行われているゲームを入場料金を払わないまま「覗き見している」のが見てとれる。
1909年4月12日Shibe Park開場の日の外野席の混雑ぶり

Connie Mack日本のWikiに、「当時のShibe Park周辺の球場内を覗き見できる高さの家では、やがて屋上に座席を設けて金を取るようになったため、激怒したフィラデルフィア・アスレチックスのオーナー兼監督Connie Mackが、覗き見をやめさせるために近隣住民に対する訴訟を起こしたりしたが、敗訴し、最後は1933年に右翼フェンスの高さを12フィートから一気に33フィートに引き上げて覗き見を防止した」ことが記載されているが、この写真を見ればわかるように、「Shibe Parkにおける球場内の覗き見行為」は、実は、球場がオープンしたその日から既に存在していた


また、最初に挙げた空撮には、ほんのわずかな違いではあるが、下記に挙げたようなアングルの異なる写真も現存している。(via テンプル大学ライブラリー Aerial North Philadelphia :: George D. McDowell Philadelphia Evening Bulletin Photographs
アメリカ版Wikiでみると、「ノース・フィラデルフィアにあった2つのボールパークが同時に写った空撮写真」として紹介されているのは、記事冒頭の写真ではなく、別アングルのほうの写真が採用されている。(スタジアムの影や車の位置などから判断する限り、2枚の写真はまったく同じ日に空撮された別カットと思われるが、詳しいことはわからない)
Shibe Park - Wikipedia, the free encyclopedia

テンプル大学所蔵の1929年のShibe Park空撮


この例のように、アメリカでは古いボールパークの写真が公開のライブラリーなどにも残されていて、古きよき時代のベースボールの空気を現代のファンに語りかけてくれる。素晴らしいことだ。
日本でも、こうした野球にまつわる写真コレクションやストーリーが、もっときちんとした形に整理され、ファンの目に触れるようにできるといいのにと、常々思っている。
たとえ素晴らしい資料であっても、人目に触れる場所になければ、結局はその価値を十二分に発揮することはできない。

stadiums│George D. McDowell Philadelphia Evening Bulletin Photographs

Connie Mack Stadium - Air Views │ Digital Collections




damejima at 00:45

June 02, 2013

1999年3月に亡くなったジョー・ディマジオ追悼の意味をこめて、同じ年の4月25日に旧ヤンキースタジアムでジョー・ディマジオ・トリビュート・デイが行われ、ポール・サイモンがフィールドで "Mrs. Ronbinson" を歌ったことを書いた。
ついでだから、関連することをもうちょっと書いておこう。

Plaque at Ruppert Plaza commemorates Paul Simon in 1999.

このプレートは、旧ヤンキースタジアム跡地に出来たHeritage Fieldという野球場の横にある "Ruppert Plaza" という舗道に埋め込まれている。

Ruppert Plazaのプレート上の写真では四角形だが、これは写真がトリミングされているためで、実際には左の写真のごとく六角形の敷石に合わせたスノーフレークのようなデザインであり、旧スタジアムの歴史を彩った出来事のうち、特筆すべきイベントが厳選されてプレート化されている。ポール・サイモンが "Mrs. Ronbinson" を歌った1999年のイベントも、そのひとつだ。
要するに、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに星形の映画スターのプレートが埋め込まれているのと、意味は同じ。記念碑的役割だ。

プレートの文章にYankee Clipperとあるのは、もちろん "Mrs. Robinso" の歌詞に出てくるジョー・ディマジオのニックネーム。また、このプレートがあるRuppert Plazaの "Ruppert" とは、これも書くまでもないが、ボストンからベーブ・ルースを獲得し、旧ヤンキースタジアムを作り、ヴェテランズ委員会の推薦を得て今年7月に野球殿堂入りが予定されている元ヤンキースオーナー、Jacob Rupperのことだ。

Jacob Ruppert and Joe DiMaggio 1937
(写真キャプション:後列左から2人目、ボウタイをした人がジェイコブ・ルパート。手前に "Yankee Clipper" ジョー・ディマジオ)


Heritage Fieldは「3つの小さな野球場」。天然芝で、確かに気持ちのいいフィールドではあるが、それにしたって、まぁ、「草野球場」ではある。草野球場だからいけないというのではないが、せっかくのランドマークを他にもっと有効な活用法はなかったのかなと、つい思ってしまう。
Heritage Fieldの奥には、フットボール場を兼ねた陸上競技場(Joseph Yancey Track and Field)があるのだが、地下がRuppert Plaza Garageという駐車場になっている。

地図で確かめてもらいたいが、Heritage Fieldと陸上競技場の間の「プレートのある散歩道」が "Ruppert Plaza" で、そのすぐ隣の陸上競技場の地下にある駐車場が "Ruppert Plaza Garage" だ。
ネーミングが似ていて、非常にまぎらわしい。正直、どちらかをもっと違う名前にしたほうがいいと思う。
参考記事:Heritage Field Opens Near Yankee Stadium - NYTimes.com

Ruppert Plaza and New Yankee Stadium


アングルA
地下鉄4番線の高架になっている「161st.Yankee Stadium駅」のホーム上から西北西を見たアングル。ゲーム開催日にはホーム横のゲートから階段でスタジアムに続く道路に降りられる。左に見える小さい野球場が、旧ヤンキースタジアム跡地にできたHeritage Field。
ちなみに車で中央に見える道路の真ん中よりの車線を走って、立体交差部分を抜けていくと、左右の壁に野球のボールのレリーフを見ることができる。
新ヤンキースタジアムとHeritage Field(旧ヤンキースタジアム)


アングルB
アングルAとは逆で、Ruppert Plaza側からHeritage Fieldを見るアングル。奥に見える黒っぽい高架が、地下鉄4番線ホーム。人の歩いている舗道をよく見ると、六角形のブロックのところどころにプレートが埋め込まれているのがわかる。
Ruppert Plaza側から見たHeritage Plaza



実は、今回書こうと思った本当の主旨は、ヤンキースタジアム新築以降の「駐車場の採算悪化問題」についてだ。
ちょっとこれを見てもらいたい。

旧ヤンキースタジアム周辺に密集する「駐車場」

上の図に明るい青色で示されているブロックがたくさんある。
駐車場」だ。
旧スタジアムの周囲が青色だらけであることでわかるように、旧ヤンキースタジアムは周囲をぐるりと駐車場に取り囲まれたボールパークだった。空き地の少ない大都会のボールパークなのに、これだけの面積の駐車場が完備していて、しかも真横に地下鉄の駅があるのだから、ヤンキースタジアムはアクセス面では申し分ない。
実際、2009年に経済誌Forbesが発表したMLBの球場ランキングで新ヤンキースタジアムは、Accessibility、「交通アクセス」について「A評価」になっている。(総合順位:第7位)

ただ、(十分に確かめたわけではないが)Forbesが判定したAccessibilityとは、おそらく「公共交通機関を使った球場アクセスの良さ」という意味であって、「ヤンキースタジアムは、球場のすぐ隣に駐車場が腐るほどたくさんある」からアクセスが「A評価」になったわけではない、と思う。
というのも、Forbesの判定基準には、チケット代、おみやげ代などの Affordability(値ごろ感)という項目もあるのだが、そこに「駐車場料金」が項目として含まれているからだ。

おそらく駐車場の評価はアクセスの良さとしてではなく、主に駐車料金の値ごろ感で評価されていると思われる。ヤンキースタジアムのAffordabilityは「D評価」、つまり「とてもコストが高い」という評価になっていることからして、おそらく駐車場の料金についての評価は最悪に近いと思われる。
(ちなみに、Accessibilityが「C評価」なボールパークは、ドジャースタジアムやミルウォーキーのミラーパーク。球場ランキング上位球団で「アクセス」がC評価なのは、ミラーパークくらいしかない)
In Depth: America's Best Baseball Stadiums - Forbes.com


たしかに新ヤンキースタジアムは、駐車場に取り囲まれていた旧ヤンキースタジアムから、ワンブロックしか離れていないが、この「ほんのちょっとした距離」が、自家用車でスタジアムに来るような上客、つまり、地元の常連客に影響を与えた可能性がないとはいえない。(ただ、今のところそれを証拠立てる資料がみつからない)

ひとつだけ言えることは、「これだけ「あり余るほど」用意されているヤンキースタジアム周辺の駐車場が、稼働率が非常に悪く、収益が非常に悪化している」ということだ。


この「駐車場収益の悪化」については、ヤンキースの観客減少と結びつけたこんな2012年10月の低レベルな記事があるのだが、まぁ言いがかりも甚だしい(笑)
記事:資金繰りに苦しむヤンキースの駐車場運営事業体−観客減少で - Bloomberg
上の記事中に「ホームゲームの平均観客数は今年4万3691人と、昨年の4万5107人から減っている」とあるわけだが、たかだか1試合あたり1000人程度減ったくらいで、この記者が書いているような「2007年当時は(駐車場稼働率を)88%と想定していた」のに、「(実際の)駐車場施設の平均利用率は43%だった」なんて「ゆゆしき事態」が、起こるわけがない(笑)
もしヤンキースの観客が「半減」した、というなら、駐車場利用者数が「想定の半分以下だった」というのも理解できるが、観客数がそこまで激減するなんてことは、そもそもありえない。


要は、単純な話で
「スタジアム周辺の駐車場が
需要に比べてあまりにも多すぎる上に、
料金が馬鹿高い」

たったそれだけのことだ。


当然ながら、この「駐車場の需要予測の読みの甘さ」は、2007年の需要予測の段階から既に存在している。
その「読みの甘さ」が、とうとう駐車場を管理するブロンクス ・パーキング・デベロップメントの資金繰りとして顕在化するに至ったのが、2012年だった、それだけの話だ。
実際、「ヤンキースタジアムの駐車場の収益問題」が新聞ネタになったのは、2011年に次のような記事があるのを見てもわかるとおり、2009年に新ヤンキースタジアムが開場してほんのわずかしかたっていない時期には、既に問題になりつつあった。
記事(2011年):City to the rescue of Yankee Stadium garage fiasco; Lots could make way for affordable housing - NY Daily News


想定したほど駐車場需要がなかった(あるいは、減った)理由をハッキリ指摘している記事は今のところみあたらないが、おそらく「駐車場運営側が、ヤンキースタジアムに車で来る観客層の動向を読めていなかった」ことに理由があるだろうと推測される。
ヤンキースファンがスタジアムに公共交通機関を利用してやってくるようになった理由は、「安心してビールを飲みたいから」とか、「治安が悪いから夜の舗道なんて歩きたくないから」かもしれないし、「景気が悪いから、フォーブスのランキングで『D評価』になるほどバカ高いヤンキースタジアム周辺の駐車場代なんて、払いたくないから」かもしれない。
まぁ、理由はともかくとして、駐車場が供給過剰で、しかも、他のスタジアムより高い駐車料金で運営しておいて、アテが外れ、駐車場の収益が悪化している、そんなことまで「選手とチームのせい」にして記事を書く行為は、かなりどうかしているとしか言いようがない。


最初に挙げたRuppart Plazaの舗道に埋め込まれた記念プレートにしても、インターネット上で取り上げて話題にしているサイトは、ほとんどといっていいくらい、ない。
そのことでわかるのは、「旧ヤンキースタジアムの跡地利用は、けしてうまくいっていない」ということだ。(なぜ旧ヤンキースタジアムの跡地がその後どうなったか、知っている人が日本ではあまりに少ないのかも、それで十分説明がつく)
もし旧ヤンキースタジアムのせっかくのロケーションが、単に「駐車場からちょっと離れた新スタジアムに徒歩で歩いていくとき通るだけの『通路』として利用されている程度に過ぎない」としたら、跡地が十分活用しているとは、とても言い難い。

それに、ゲームが深夜に終わって、たとえ数分とはいえ、人気(ひとけ)の少ない「通路」を歩いていき、さらに、人気の少ない駐車場の内部を歩かなければならないとしたら、けして治安がいいといえないエリアでもあることだし、駐車場利用の頻度に強い影響があって不思議じゃない。


また、ブログ主は、これは単なる邪推だが、ヤンキースが最近「ヤンキースタジアムでサッカーをやる」なんて言い出した理由について、その理由が実は、野球そのものは多額の放映権料収入もあって黒字で、なにも問題ないが、「ヤンキースタジアムを市からの援助を得て作ったはいいが、駐車場需要を読み間違えて供給過剰になってしまい、かさみ続ける駐車場の赤字を埋めあわせるために、MLBのシーズンオフにスタジアムでサッカーを主催することで、スタジアム稼働日数を増やし、駐車場の稼働率を上げて、駐車場運営会社が市から借りている公債の返還にあてるためなんじゃないか?」などと思っているのだが、どうだろう。

damejima at 15:27

February 17, 2013

元サンフランシスコ・ジャイアンツのピーター・マゴワンが自費でパシフィックベルパークを建設したことをほめちぎるのは間違いだ、という話に関連して、近年建設されたMLBのボールパークの建設費において、Public Finacing、いわゆる公費の負担割合を、簡単に調べることのできた9つのボールパークについて、とりあえずリストにしてみた。
9つのうち7つのボールパークでは、建設費の約70%以上が公費負担でまかなわれている
資料例:http://www.ballparks.com/(この記事の最下段に資料詳細へのリンク

この「70%」という数字、思ったよりずっと低い
というのは、後でもうちょっと詳しく書くが、日米にかぎらず、ことプロのベースボールに関しては「スタジアム建設の公費負担率」はもっとずっと高くていい、と考えるからだ。他のビジネスモデルが実は脆弱なプロスポーツはいざ知らず、野球というのは「『年間の施設使用日数が桁外れに多い』という意味で、他に類を見ないプロスポーツ」なのだから、なんならボールパークの建設費は、100%近い公費負担でも、自然だ、と思う。

Turner Field 100%だ
U.S. Cellular Field 100%
Great American Ball Park 86%
Coors Field 78%
Rangers Ballpark in Arlington 71%
Chase Field 68%
Minute Maid Park 68%
Progressive Field 48%
Comerica Park 38%

引用元:ballparks.comによるMLB30球団のボールパーク建設費の内訳
アメリカンリーグ
American League ballparks
ナショナルリーグ
National League ballparks

上のリストを作るための資料を検索していて、ちょっと面白い資料を見つけた。ミルトン・フリードマンの母校でもあるニュージャージー州のラトガース大学Judith Longによる研究だそうだ。(Long氏は現在はハーバードの大学院のひとつ、デザインスクール在籍らしい)

Judith Long氏の話の一部は、こんな話だ。
「20世紀初頭から100年ほどの間に建設された186のスタジアムを調べてみると、建設費の『61%』が公費で負担されていた。そして、このパーセンテージは、1991年以降、2004年までの10数年に建設された、約20か所のMLBのボールパークを含む全米78のスタジアムの建設においても、実は、『61%』で、まったく変わっていない」

出典:Animated Infographic: Watch As America's Stadiums Pile Up On The Backs Of Taxpayers Through The Years

These 186 stadiums cost $53.0 billion in 2012 dollars, of which $32.2 billion―or 61 percent―was publicly financed. That's a shitload of taxpayer money.

The 1990s and early 2000s, on the other hand, were absolutely insane. From 1991 to 2004, a whopping 78 stadiums―5.6 per year―were built or underwent major renovation. This came to a cost of $26.0 billion (61 percent public).



Judith Long氏によれば「アメリカのスタジアム建設の歴史において、建設費に占める公費負担の率は、いつの時代でも『61%』だった」とのことだが、これを近年に建設されたMLBのボールパークに絞って調べてみると、アメリカ平均の61%どころか、「かなりの数のボールパークが、さらに高い『70%以上の公費負担』で建設されている」。
まとめ
MLBのボールパークでみると、その建設費に占める公費負担の割合は、全米のこの100年および近年の一般的なスタジアム建設費における公費負担割合61%より、ずっと多くの公費が投入されて、MLBのボールパークは建設されている。



この『70%』という数字、MLBにしてみると、高いだろうか、それとも、低いだろうか。

いろいろな考えがあるだろうが、個人的には、次のように思う。
MLBのボールパーク建設にあたっては、全米のスタジアム建設における『61%』という平均的なパーセンテージを考慮する必要は、まったくない。
こと野球というプロスポーツにおいては、本拠地建設における公費負担率は、もっとずっと高くていいはずで、もしすべてのボールパークが『公費100%による建設』だったとしても、けしておかしくはない。


こんなことを言うのも、
プロフェッショナルな野球は、年間のゲーム開催日数が非常に多い、いいかえると、年間のスタジアム使用日数が非常に多いにもかかわらず商業的に成立できた、他に類を見ない、稀有なプロスポーツだから」だ。



他のスポーツ、例えば、日本でやたらと野球と比較したがる人の多いプロサッカーを例にとって説明してみよう。

日本であれ、ヨーロッパであれ、プロサッカーチームが、年間に行う「リーグ戦」は、せいぜい年間30数試合程度だ。
そうしたプロチームでさえ、本拠地でゲームしてスタジアムの収支を潤すのがわずか年間20試合から30試合しかないとすれば、ブログ主は、こと「スタジアムの建設と、その後の維持管理」という観点だけからいうと、サッカーという「年間試合数の非常に少ないスポーツ」において、専用スタジアムを維持できるビジネスモデルは、実は、最初から成立していない、と考える。
(「カップ戦」「チャンピオンズリーグのような地域チャンピオンシップ」などを入れれば、「プロサッカーチームの年間試合数」はもっと多いとおっしゃりたい方もいるかもしれない。
だが、そうした、より多くのゲームに参加できて、入場料収入や放映権収入をそれなりに加算できるクラブは、それぞれの国にごく少数、それも、いつも決まりきった「特定クラブ」だけしかない、というのがプロサッカーの常だ。大半のクラブはリーグ戦とごくわずかなカップ戦しか収入の機会がない。つまり、どんな国でも、平均的なプロサッカーチームにおけるスタジアムの収益規模なんてものは、たかがしれている、ということだ。そして、リーグ内での戦力の平均化も、ほとんど行われない)

たとえ世界に名の知れたヨーロッパの有力クラブであっても、年間30試合程度のリーグ戦の数で、専用スタジアムの年間スケジュール表を真っ黒になどできない。それは、たとえリーグ戦の全試合で10万人ずつ観客を集められたとしても、変わらない。プロサッカーチームの収支は、運よく欧州チャンピオンズリーグの決勝リーグに進出することで億単位といわれる放映権収入の分配でも受けないかぎり、最初から赤字は避けられない。(というか、チャンピオンズリーグの分配金を受け取ったとしても、プロサッカーチームはたいてい赤字になる)
有名クラブは、放映権収入をアテにして有名選手の獲得やクラブ運営を行い、メディア側も視聴率確保のために人気クラブの存在を前提にしたがる。だから、サッカーにおいては「常にごく少数の人気クラブだけが、常にリーグ上位を占めるという狭い硬直した構造」を無くすことなどできない。(この西欧らしい「狭さ」「硬直ぶり」は過去、八百長事件の温床ともなってきた)

まとめ
サッカー専用スタジアムにおける収支は、最初から決定的に破綻している。それはサッカーのビジネスモデルの基本構造の弱さから来ている。


サッカーに限らず、シーズンの長さ、試合数、スタジアムへの観客収容数が十分でないスポーツにおいては、そのスポーツ専用のスタジアムを建設しても、建設費と維持費が、観客動員による収益(入場料、ユニフォーム、売店、周辺施設などの売り上げ等)から十分に補填される可能性は著しく低い。

つまり、言い方を変えれば、実は、ほとんどあらゆるスポーツにおいて、「巨大な専用スタジアムを維持できるビジネスモデル」などというものは、ほとんど成り立ったことはない、ということだ。
まとめ
専用スタジアムを建設し、さらに継続的に維持・管理していくための収入源が、継続的に確保できているビジネスモデルを確立できたスポーツは、ほとんどない。



もしビジネスとして成り立っていないスポーツが、無謀にも「専用スタジアムを持ちたい」と考えたら、どんなことが起こるか。


そのスポーツ単独で、スタジアム維持費を負担し続けることができる可能性は、最初からほとんど無い」。さらに、たいていの場合、スタジアムを建設するカネも、最初から無い。にもかかわらず、毎年発生する人件費を含めたスタジアム維持費すら捻出できる見通しがまったくたっていない「ド田舎の高速道路のようなスタジアム」を建設することになる。(例えばJリーグでいうと、多少なりともクラブ側の自費負担で建設できたスタジアムは、ほとんど無い)
にもかかわらずスタジアムを建設しようとすれば、「スタジアム建設」に最初から「100%の公費負担」を求めることになり、さらにそれだけでおさまらず、「スタジアム維持費」についても、億単位の建設費におとらぬ多額の公費を、何十年もの長期にわたって投入し続けることになる。それはなまやさしい金額ではない。

当然ながら、建設されるのが「専用スタジアム」(たとえばサッカー専用スタジアム)ではなく、「他スポーツとの併用施設」(たとえば陸上とサッカーの兼用スタジアム)になることも、少なくない。
結果として、「スポーツ文化」とかいう美名のもとに「平日にはまったく使用する見込みの無い『陸上兼サッカースタジアム』」が、日本中に大量生産されることになる。

始末が悪いことに、たとえば地方都市に「兼用スタジアム」「多目的スタジアム」として建設したからといって、そのスタジアムの使い道はたいして増えたりしない。「スタジアムを多目的化する」程度の浅知恵で、平日のスタジアムのスケジュールは埋まらないし、年間収支も黒字にはできたりはしない。
地方都市に住む人たちのライフスタイルというものは、余暇時間が本当の意味で分散化しきっている都市民のライフスタイルとは根本が違う。もともと「平日にスタジアムに来れる人を多数確保すること」などできるわけがない。
勤め人が平日にスタジアムには来れないのはもちろんだが、地方で「週末が忙しい人」、例えば、週末に都市などから来る観光客相手の商売をしている人や、週末であっても田畑の面倒を見る必要がある人たちが、週末に兼用スタジアムに来れないからといって、では平日はスタジアムに来れるかというと、平日には平日の仕事(あるいは副業)がある、地方とはそういうものだ。
だから、「田舎に建設された兼用スタジアム」なんてものに、「平日の観客動員」など、最初から期待できるわけがないのである)

使い道の無い兼用スタジアムなんてものこそ、公費の無駄使いというものだ。
こういう、わけのわからないことが起きるのは、サッカーがその国で人気があるとか、ないとか、根付いていないとか、そういうこととまったく関係ない。
そもそも「専用スタジアムなんてものが成り立つビジネスモデルを持てたスポーツは、本来限られている。なのに、誰もが歴史の積み重ねや経営努力も積み重ねないまま、専用スタジアムを持ちたがって、失敗を繰り返す」、ただそれだけの話だ。


繰り返しになる。
野球というスポーツは、年間試合数が非常に多いわけだが、それでもファンの暖かい理解と関係者の長年の努力が積み重ねられてきた結果、一定の年間観客動員数が確保されてきた。観客からの入場料収入のみで野球チームが維持できてきたわけでもないが、こと「そのチームが、本拠地スタジアムのスケジュールを年間、何日埋めることができているか」、そして「胸を張って、地元自治体に『公費でスタジアムを建設してくれ』と言えるかどうか」という観点で言うなら、野球というスポーツに肩を並べられるプロスポーツは、ほとんどない


専用スタジアムの年間使用日数が1ヶ月に満たない程度のスポーツが、専用スタジアム(あるいは兼用スタジアム)の建設に踏み切ったら、どうなるか。
当然ながら、スタジアムの年間スケジュールはほとんど真っ白なまま。そのスポーツだけでは、スタジアム建設費を入場料収入から事後回収するどころか、1年を通してスタジアムを使うことすら、ほとんどないわけだ。
結果として、その自治体は、誰も使わないスタジアムの、維持費、メンテナンス費などを、公費で、しかもずっと、しかも全額、負担し続けることになる。
そして、それだけでは済まない。公費を投入し続けるスタジアム側としては、なんとかメンツを保とうとする。たとえディスカウントしまくってでも、たとえスタンドがまるっきりガラガラだったとしても、スタジアムを有料使用してくれる奇特な主催者を探し続けるハメになり、そのムダなスタジアム専用職員の人件費と、ディスカウントしてまでして貸し出した日のゴミ処理などにかかる無駄な経費で、スタジアム収支はさらに深く墓穴を掘り続けることになる。


「最初からスタジアムをほとんど使わないことがわかりきっているスポーツなのに、全額公費による巨大スタジアムの建設を望んで、墓穴を掘り続けること」と、「十分な日数スタジアムを使用し、一定の観客動員があらかじめ想定できるスポーツに、公費を投入し、維持する」のとでは、まったく意味が違う。いうまでもない。
野球が、十分な年間ゲーム数があり、なおかつ定常的な観客動員を維持できるメドが歴史的に成り立ってきた稀有なスポーツだからこそ、スタジアムのネーミングライツも、スタジアム建設への公費投入も、ムダにならずに済む。

プロのベースボールチームが本拠地のスタジアムを建設する場合だからこそ、胸を張って地元自治体に、「100%近い公費負担をお願いしたい」と、言い切っていいと思うのである。


まぁ多少細かい誤解をされようが、どうでもいいから、明言しておこう。

野球というのは、「かなり特別なスポーツ」だ。
野球だからこそ、専用スタジアムを作る意味がある

以下にMLBのボールパークの建設費内訳資料を添付→続きを読む

damejima at 05:39

February 13, 2013

サンフランシスコ・ジャイアンツの元オーナー、ピーター・マゴワンは、第二次大戦中の1942年に東海岸ニューヨーク生まれで、育ったのもニューヨーク。ジャイアンツがドジャースとともにニューヨークを去って西海岸に移転するのは1958年だから、マゴワンの幼少期には、まだジャイアンツは「ニューヨーク・ジャイアンツ」だったことになる。
Peter Magowan - Wikipedia, the free encyclopedia


マゴワンは、MLBファンには、パシフィックベルパーク(現在のAT&Tパーク)を建てた人物として知られている。全米屈指のスーパーマーケットチェーン、Safeweyの元社長だった彼は、パシフィックベルパークを、なんと「自腹」で作った。
自費で建てた理由は、なにも「マゴワンが最初から自腹を切ると、潔い覚悟をもっていたから」ではない。単に、建設費の一部を税金でまかなう法案がサンフランシスコで否決された、ただそれだけの話だ。
建設中のパシフィックベルパーク
建設中のパシフィックベルパーク。
ライト場外が海なのが、よくわかる秀逸な写真。
Ballpark & Stadium Construction Photos, Ballparks of Baseball


1990年代以降には新古典主義と呼ばれるたくさんのボールパークが建設されたが、それらのボールパークの建設費事情と比較してみれば、マゴワンが「自費」でボールパークを建設したネゴシエーションの稚拙さはさらにハッキリする。

1991年に開場したシカゴのUSセルラー・フィールドは、タンパ移転をちらつかせたホワイトソックス側の巧妙な交渉によって、100%がPublic financing、つまり公費によって建設された。1992年に開場したボルチモアのオリオールパーク・アット・カムデンヤーズも、建設費の90数%が公費でまかなわれた。近年建設されたボールパークにしても、自費だけで建設したようなボールパークはほとんど見当たらない。
(例えば、1991年以降、2004年までに、約20のMLBのボールパークを含め、全米で78のスタジアムが建設されたが、「その建設費の61%が、公費によってまかなわれた」とする資料がある 資料:Animated Infographic: Watch As America's Stadiums Pile Up On The Backs Of Taxpayers Through The Years

MLBファンにはアメリカ史に造詣のある人もたまに見るが、ピーター・マゴワンがSafeweyの元社長であることに触れる人はいても、彼が、かつてアメリカの三大投資銀行のひとつとして名を馳せた、かのメリル・リンチの創業者、そして全米屈指のスーパーマーケットSafewayの創業者でもあるチャールズ・メリル (1885-1956)の孫であることに言及する人を見たことがない。

かのメリルリンチの創業者、チャールズ・メリルは、ピーター・マゴワンの母方の祖父にあたる。
ピーターがCEOをつとめたSafewayという会社は、そもそも祖父のチャールズが創業し、育てあげたものだ。才にたけているとも思えないピーター・マゴワンが、パシフィックベルパークを自費で建てるほどの私財を持てた理由は、まぁ簡単にいえば、彼が偉大なるチャールズ・メリルの子孫だったからだ。


Charles E. Merrillチャールズ・メリルは、まだジャイアンツがニューヨークにあった20世紀初頭の1914年に、ニューヨーク・ウォール街でCharles E. Merrill & Co.を創業した。翌年に友人エドモンド・リンチが加わり、社名をMerrill Lynch & Co., Inc.とあらためた。かの「メリルリンチ」の誕生である。メリルリンチは2007年にサブプライムショックで社業が大きく傾いてバンク・オブ・アメリカに吸収されるまで、世界的な投資銀行として名を馳せた。
映画『ドラゴンタトゥーの女』や『レ・ミゼラブル』に出演した女優ルーニー・マーラの曾祖父ティム・マーラは、ロウワー・イーストサイドの新聞売りから身を起こしてNFLニューヨーク・ジャイアンツのオーナーにまでなったが、チャールズ・メリルもティム・マーラと同じく、20世紀初頭に彗星のように現れたアメリカ立志伝中の人物たちのひとりで、非常に傑出した実業家で、大国アメリカの基礎を築いた偉人のひとりである。
Charles E. Merrill - Wikipedia, the free encyclopedia

Safeway logo

Safewayは、チャールズが1926年に2つのスーパーマーケットを統合して作った。前身となったは、1915年にアイダホで創業しアメリカ北西部に展開した"Skaggs Stores"と、1912年にロサンゼルスで創業し南カリフォルニア中心に展開していた"Sam Seelig"である。
Safeway創業当時、チャールズがつくったメリルリンチ社自身が、1914年創業からわずか10年ほどしか経っていない。そんな短い期間にメリルリンチは、2つの中堅スーパーマーケットチェーン買収統合をとりまとめられるほどの資金力を持てたわけだから、チャールズの経営手腕がいかに優れたものだったかがわかる。
統合元になった2つのスーパーマーケットチェーンにしても、それぞれの創業からわずか10数年しか経っていない。20世紀初頭のアメリカ社会が、いかに若く旺盛で、はちきれんばかりの経済成長力、巨大なビジネスチャンスに満ち溢れていたか、本当によくわかる。
そうした若い時代のアメリカにあって、企業の成長を助ける投資銀行メリルリンチを創業して成功したチャールズが慧眼でないわけがない。


チャールズは、Safewayにメリルリンチ社の豊富な資金を注ぎ込んで急速な規模拡大をはかり、最盛期の1931年には3,527店舗を展開する全米有数のスーパーマーケットチェーンに育てた(現在は全米1501店、カナダ224店)。
資料:1932年のセーフウェイ州別店舗数
File:Safeway store numbers by state in 1932.gif - Wikipedia, the free encyclopedia
彼は、ただSafewayに投資して外から眺めていただけではなくて、順調なメリルリンチ社を1930年代に人にまかせてまでして、自分自身がSafewayの経営を行っていたらしいから、よほどSafewayの成長が楽しみだったのだろう。
後にチャールズは、このみずから手塩にかけて育てた愛すべき企業SafewayのCEO職を、娘婿であるRobert A. Magowan(=ピーター・マゴワンの父)にまかせた。1978年にそのRobert Magowanが亡くなって、Safeway社長職を継いだのが、サンフランシスコ・ジャイアンツの元オーナー、ピーター・マゴワンというわけだ。



さて、どこかで「マゴワンはジャイアンツを救った救世主としてサンフランシスコのファンに愛されている」なんてのんびりしたことを書いている記事を見たが、とんでもない。そんな単純な話なわけがない(笑)

また、財政危機が続いたかつてのジャイアンツが他都市に流出するのを防いだのは、マゴワンが評判の悪かったキャンドルスティック・パークをパシフィックベルパークに建て替えたからだ、だからマゴワンはジャイアンツの恩人だとか、もっともらしいことを書いているウェブ資料もよくみかけるが、それも嘘というものだ。


寒くて、やたらと強風が吹き付けるキャンドルスティックパークの最悪の環境は、観客数減少とチーム財政悪化をもたらし、1958年にニューヨークからサンフランシスコに移転してきたジャイアンツは、他都市へ流出する危機に常にさらされ続けてきた。
ニューヨーク時代から親子3代にわたって長くジャイアンツを所有してきたのはStoneham家だが、好転しないチーム財政からとうとう1970年代にチームを売却せざるをえなくなった。
このときカナダの実業家がかなり具体的な売却先としてあがっており、ジャイアンツはあやうく「トロント・ジャイアンツ」になりかけていた。(ちなみにニューヨーク・ジャイアンツの西海岸移転が実現する前に、Stoneham家が当初考えていた移転先は、実はサンフランシスコではなく、ミネソタだった)

Bob LurieBob Lurie
カナダへの流出を阻止する形でStoneham家から1976年にジャイアンツを買い取り、その後も勝てない儲からないジャイアンツをなにかと財政が苦しい中でサンフランシスコにとどめ続け、1993年まで20数年間にわたって維持し続けたのは、マゴワンの先代オーナーにあたる地元の実業家、Bob Lurieだ。わずか10年足らずでジャイアンツを手放したニューヨーク生まれのマゴワンではない。
Bob Lurieはステロイダーを使った客寄せなどしていない。


2008年にピーター・マゴワンがジャイアンツのオーナーを辞めたとき、とあるサンフランシスコ地元紙は「かのミッチェル・リポートは、マゴワンを 『ステロイド・イネーブラ』 と呼んだ」という記述を含む記事を書き、マゴワン時代をあらためて冷たくあしらった。「マゴワンは恥ずべきステロイド時代の幕を開けた黒幕のひとり」というわけだ。
San Francisco Sentinel ≫ Blog Archives ≫ PETER MAGOWAN TO STEP DOWN AS SAN FRANCISCO GIANTS MANAGING PARTNER
Magowan had grown weary of criticism over his handling of Bonds and was stung by his unflattering portrayal as a steroid enabler in the Mitchell Report. But he also might have felt pressured by limited partners to abdicate his position.


他の資料:
Magowan: Bonds casts cloud

Baseball Savvy Off Base Archive: A Giant Pain in the Ass

Answer : It's official, Magowan is retiring

Magowan rips Mitchell report - Oakland Tribune | HighBeam Research


もちろんマゴワンが「ステロイド・イネーブラ」と呼ばれたのには、理由がある。

バリー・ボンズのステロイド使用発覚に繋がる証言をしたのは、今はドジャースのチーフトレーナーになっているStan Conteだ。(ブログ注:ミッチェルレポートが告発したドーピング薬剤の供給元であるBALCO社をつくったVictor Conteとは、まったくの別人で、血縁者でもない)

Conteは、当時ジャイアンツでは新参にあたるトレーナーだったが、チーム内で見かけたいくつかの出来事から確信をもつに至り、当時のジャイアンツGMブライアン・サビーンのもとを訪れて、「バリー・ボンズのトレーナー、グレッグ・アンダーソンが、チーム内にステロイドを流通させている」と告発した。
だが、なんとGMサビーンも、オーナーのマゴワンも、そのことを調査もせず、さらに、MLBに通報もしなかったのである。
かのミッチェル・レポートが、サンフランシスコ・ジャイアンツの首脳陣2人、マゴワンとサビーンのドーピング容認ぶりを酷評したのは、こうした経緯をふまえてのことだ。
Don't blame Sabean for not blowing the whistle - SFGate

2000年以降にStan Conteが、同僚トレーナーやGMサビーンとどういうやりとりをし、ステロイド疑惑を確信に変えていったかという詳しい経緯は、たとえば以下の記事に詳しく書かれている。(どういうものか、英語版WikiにはStan Conteの項目がない)
11-28-07 ? Why Stan Conte Left the Giants | LADodgerTalk.com - Matt Kemp, Clayton Kershaw, Vin Scully, Andre Ethier and the Dodgers

後にStan Conteはサンフランシスコ・ジャイアンツを去り、やがてその優れた手腕をロサンゼルス・ドジャースにかわれて、ドジャースの医療部門シニアディレクター兼チーフトレーナーになっている。
Dodgers hire Stan Conte



ピーター・マゴワンは、バリー・ボンズへの甘い対応ぶりで「ステロイド・イネーブラ」などという汚名を残したわけだが、それだけでなく、2006年にスコット・ボラスの仲介で、7年126Mという、ありえない高額でバリー・ジトを獲得して大失敗に終わったことにみられるように、球団経営手腕の無さにおいてもジャイアンツ球団史に悪名を残している。
ジトはサンフランシスコ移籍以降、防御率が3点台だったことは一度も無く、58勝69敗。ERA4.47、WHIP1.404という惨憺たる成績に終わっている。

マゴワンがジトに手を出したのは、ミッチェルレポートが発表される2007年の前年、2006年オフだが、このときマゴワンはジト獲得について「1992年のバリー・ボンズ獲得に匹敵する大きな出来事」と自画自賛している。
つまりマゴワンは、まだミッチェルレポートが発表されていない2006年段階に、裏では内部告発によってバリー・ボンズがステロイダーであることを既に知っていたにもかかわらず、ボンズ獲得を自分の勲章と公言し、ジト獲得を得意満面で自画自賛していたのだから、「ステロイド・イネーブラ」と呼ばれてもしかたがない。


ちなみにSafewayはいまも全米屈指のスーパーチェーンだが、「80年代に入ると世間のライフスタイルの変化に対応できず、客離れによる売上減が深刻化して、敵対的M&Aを仕掛けられるなど、危機的状態にあった」といわれている。この危機の脱出のためにSafewayは、北米以外に展開していた店舗を売り払わなければならなかった。
この一時期な危機的経営状態にあった80年代のSafewayのCEOは、ほかならぬ、ピーター・マゴワンだ。
Safewayは、現時点でも、ライバル企業、ウォルマートとの2000年以降続いている競合で収益が悪化して、不採算店の整理に追われる状況が続いているともいわれており、最近もチャールズ・メリル時代からずっと維持してきたカナダの200数十の店舗をカナダ企業に売却するという噂もある。
「メトロ」セーフウェイ・カナダを買収?、「マクドナルド」第4四半期の既存店売上+0.1% - 若林哲史のアメリカ流通最新情報

カナダのSafeway店舗は、チャールズ・メリルが手塩にかけてSafewayを育てていた20世紀初頭から既にあっただけに、もし売り払うようなことになれば、たとえ現在の経営状態を良化させ株主を喜ばせるプラス要因ではあるにしても、草葉の陰のチャールズは、けして喜ばないだろう。
稀代の投資家チャールズなら、ピーター・マゴワンがサンフランシスコ・ジャイアンツのスタジアムを自腹で建てたにもかかわらず、オーナーから退くようなことになった顛末についても、「なんで自腹を切るようなマネをした? 投資するなら、少しは知恵を使え。それに、せっかく身銭を切ってまでして作ったスタジアムなら、たった10年でオーナーシップから手を引くような馬鹿なこと、するんじゃない!」と、まなじり釣り上げて怒ったに違いない、と思う。

damejima at 02:14
1958年に西海岸に移転したサンフランシスコ・ジャイアンツは、当初は臨時の本拠地としてサンフランシスコ・シールズのホームグラウンドだったシールズ・スタジアムを使っていたが、1960年に新しいキャンドルスティック・パークに移った。
キャンドルスティック・パークは、ジャイアンツ移転を熱烈に招致したサンフランシスコ市側が用意したボールパークで、日本では大映の永田雅一オーナーが夢を描いて東京南千住に私財を投じて建設した東京スタジアムのモデルになったことでも知られている。
Damejima's HARDBALL:2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (2)ロサンゼルス・メモリアル・コロシアム、シールズ・スタジアムの一時使用と、チェニー・スタジアムの建設

Damejima's HARDBALL:2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (3)キャンドルスティック・パーク、ドジャー・スタジアム、シェイ・スタジアムの開場

Damejima's HARDBALL:2012年3月23日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (4)夢の東京スタジアムの誕生

Damejima's HARDBALL:2012年3月30日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」 (5)番外編 元祖「安打製造機」 榎本喜八にとっての『故郷』、東京スタジアム。


キャンドルスティック・パークは、1960年から1999年までの約40年間もの長きにわたってサンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地だったわけだが、寒さや強風などで評判は良くなかった。ジャイアンツは2000年にようやくセーフウェイ社長ピーター・マゴワンが自費で建設したパシフィックベル・パーク(現在のAT&Tパーク)に移ることができた。

その後、キャンドルスティックはNFLサンフランシスコ49ersのホームスタジアムとして使われた。そのサンフランシスコ49ersも、2014年8月にはサンフランシスコから南へ70キロほど行ったシリコンバレーに近いサンタクララに開場する予定の新スタジアムに移ることになっている。
49ersがサンタクララに移転した後は、キャンドルスティック・パークは取り壊しになる。ドジャースとジャイアンツが切り開いたMLBの西海岸進出を支えてきたキャンドルスティック・パークの長い役目は、もうすぐ終わりを迎えるのである。 今年のスーパーボールにサンフランシスコ49ersが進出したのも、何かの縁というものだろう。


キャンドルスティック・パークの座席表

キャンドルスティックパーク 野球とフットボールでの観客配置の違い

当然ながら、グラウンドが円形に出来ている野球や陸上競技では、観客席は「グラウンドを丸く取り囲むような形」で作られている。
対して、グラウンド自体が四角いアメリカン・フットボールやバスケットでは、観客席も「四角形」になっている。

キャンドルスティック・パークは、もともと野球専用として建設されたボールパークがフットボールに流用されていただけに、フットボールのグラウンドとして使われる場合でも、座席配置は野球場時代の痕跡がありありと残った独特の並びになっていた。


角度Aから見た
フットボール開催時のキャンドルスティック・パーク
キャンドルスティック・パーク 写真A

写真左側に見える弓なりに曲がった部分は、野球でいう「バックネット」にあたる円形部分だ。フットボール場として設計されたスタジアムなら、選手がプレーする四角いフィールドに沿って、直線で設計されているところだが、元・野球場のキャンドルスティック・パークでは「円形」なのだ。
右側に目を向けると「張り出した感じの観客席」が見える。ここは野球場だった時代には「ライト側の外野」にあたる。フットボール場として使うにあたって、「ライト側の外野」を覆い隠すような形で新設されたシートなわけだ。
それにしても、この「新設の張り出しスタンド」は、フットボールのグラウンドと平行にできていないのが、なんとも不思議だ。まぁ、たぶん構造か強度か、なにか建築上の理由でもあって、やむをえない配置になっているのだろうが、それにしてもなんとも収まりの悪い座席配置ではある。

角度Bから見た
フットボール開催時のキャンドルスティック・パーク
キャンドルスティック・パーク 写真B

写真右端に、ほんのわずかだが、アンツーカー部分が見える。これはもちろん、キャンドルスティックが野球場だった時代、バックネット手前にあったウォーニングゾーンの名残りだろう。
右側の観客席は、野球場だった時代の内野席をそのまま使っているために、スタンド全体が大きく弧を描いた丸い形になっている。


ちなみに、サンフランシスコ49ersのサンタクララの新スタジアムの完成予想図を挙げておこう。みてのとおり、四角いフットボールのフィールドを取り囲むように、「四角い観客席」がつくられた、非常に常識的なスタジアムになっている。

サンフランシスコ49ersの新スタジアム完成予想図
サンフランシスコ49ersの新スタジアム完成予想図2


damejima at 02:10

January 04, 2013

ストーブリーグにまるで関心のないブログ主としては、早くシーズンが始まらないものかと毎日思っているわけだが、今は何もすることがなくて退屈きわまりない。暇つぶしに、結論のわかりきっている話で申し訳ないが、ジョシュ・ハミルトンの移籍について書いてみる。


去年のハミルトンのバッティングについて、Baseball Analyticsは2012年12月13日の記事で、こんな意味のことを書いている。

ハミルトンが「アウトコース低めコーナーいっぱいを突く球」に非常に弱いことに投手たちが気づいてからというもの、2011年の彼はこの球にほとほと手を焼いたが、2012年になってハミルトンはスイングをアジャストし、ほぼストライクゾーン全体を打てるようになった。

ハミルトンのHot Zone by Baseball Analytic

At first, Hamilton struggled, seeing his ability to hit for extra bases diminish, but in 2012, he adjusted his swing and shifted his power stroke to cover the entire strike zone.
New Halo Josh Hamilton is a Prodigious Slugger - Baseball Analytics Blog - MLB Baseball Analytics
注:上の図は「投手側からプレート方向を見た図」


いやー(笑) 悪いけど、まったく同意しかねる(笑)

もし本当にストライクゾーン全体が打てるようになったのなら、シーズン終盤の、あの醜態はありえない。いつも通り、アウトコース低めのスライダーで三振しまくってただろうに、見てないのかね(笑)

どうしてまたBaseball Analyticsというサイトは、やたらとHot Zoneだけでモノを言いたがるサイトなんだろう。Hot Zoneなんてものは別にオールマイティのツールでもなんでもない。

年間データにしても、それが有用な判断材料を提供してくれることもあるが、ハミルトンの2012年のバッティングの価値を評価するにあたっては、1シーズン通してみたHot Zoneデータなんてものは、まるでアテにならない。

たとえば、2007年の城島のあの中身の無いバッティングデータでもわかる。
シーズンの数字でみると、例えば打率.287とか、あたかも人並みに打っていたかのごとく、「見せかけの数字」が並んでいるわけだが、実際どうだったかといえば、勝負どころだった7月の最悪の月間打率.191、そしてシーズンRISP.248でわかるように、勝負どころでは全く働いてない。ゲームを見ていない人にはわからないだろうが、要所要所では、、ただただチームの足を引っ張っただけの帳尻バッティングスタッツに過ぎない。(だからこそ翌年以降の打撃成績の急降下を予測できたわけだが、当時はそれをいくら言っても、誰も信じなかった)


ハミルトンの2012年のバッティングの中身の無さも似ている。ハミルトンの2012年7月以降のバッティングの酷さ、そしてチーム勝率への多大な悪影響は、「シーズン通算のHot Zone」なんてもので見えてくるわけがない。
たとえハミルトンが2012年のシルバースラッガー賞を受賞しようと、そんなものは関係ない。2012シーズン終盤のハミルトンの「アウトコースの安全牌ぶり」は、同じ2012年9月のカーティス・グランダーソンのインコースと同じくらい酷いものだった。


シルバースラッガー賞ハミルトンのバッティングの中身の無さをデータから見るために、まず、「ハミルトン個人の月別の打撃数字」と「チーム勝率」との関係を、ちょっと見てもらおう。

ハミルトンの2012シーズンのバッティングは、シーズン通算でみると、打点128はたしかにリーグ2位の立派な数字だし、ホームランも40本以上打って、シルバースラッガー賞も受賞している。
だが、それらのほとんど全ては、好調だった4月、5月、8月の3か月間、特に春先の2か月で稼いだ数字だけに頼った成績であり、あとの3か月、特に「チームが最悪の状態にあった7月」と、「確実視されていた地区優勝を逃して醜態を晒した9月以降」の低迷ぶりときたら、チーム勝率への悪影響はあまりにも凄まじかった、としかいいようがない。
4月 打率.398 打点25 チーム勝率 .739
5月   .344 32 .500
6月   .223 16 .679
7月   .177 11 .391

8月   .310 28 .655
9月/10月 .245 16 .536
ボルチモアとのALWC(=American League Wild Card Game いわゆるワンゲーム・プレーオフ)
4打数ノーヒット2三振
Josh Hamilton 2012 Batting Splits - Baseball-Reference.com


たぶん「2012年のテキサスは無敵の強さだった」とか、いまだに勘違いしたままのファンがたくさんいるとは思うが、2012シーズンにテキサスの勝率が良かったのは、「テキサスがあまりに強くて、弱い相手にも、強豪相手にも、まんべんなく勝ったから」では、全くない。
むしろ、「春先に、弱いチームを確実に叩くことができていただけ」に過ぎない、というのが正しい。
もっと具体的に言うと、今シーズンのテキサスの勝率の高さは単に、2012シーズン開幕当初から既にチームが崩壊していたミネソタ(対テキサス 2勝8敗)やボストン(対テキサス 2勝6敗)、あとはヒューストンなどが、テキサスに「楽勝」を提供し続けてくれていたおかげに過ぎない。

2012年のテキサスが「同地区との対戦にはからきし弱いが、他地区の崩壊チームからは、数多くの勝ち星をむしりとる傾向」は、ジョシュ・ハミルトンの打撃成績にも、そっくりそのまま、あてはまる。
(もっというとダルビッシュの投手成績の一部、たとえばERAにも、ある程度だがハミルトンと同じ傾向が見られる)

そりゃまぁ、シアトル含め、ぶち壊れたチームとの対戦ばかりが続いた4月や5月は、テキサスも大勝できたし、ハミルトンも打てた。なんせ、弱いチームのピッチャーは、何も考えずハミルトンの大好きなインコースでもどこでも、かまわず投げてくれる。そういう頭を使ってゲームをしてない弱小チームとのゲームばかり続いたら、誰だって打てるし、勝てもする。

2012年ハミルトンの対戦チーム別打率 トップ3
BOS .406 打点14
BAL .357 打点12
MIN .350 打点13

2012年ハミルトンのボールパーク別打率 トップ3
BOS-Fenway Park .545
BAL-Camden Yards .471
MIN-Target Field .462


だが、そんな安易な対戦ばかり、続くわけがない。

2ストライクをとられてからのハミルトンの打率の低さ」を、以下のデータで確かめてみるといい。この数年で、いかに相手ピッチャーが、ハミルトンの弱点を把握するようになってきているか、そして、リーグMVPに輝いた2010年以降、いかにハミルトンが急速に勝負弱くなってきているかが、ひと目でわかるはずだ。

ジョシュ・ハミルトン カウント別打率の推移
2010年
0-2 .128
1-2 .247
2-2 .362
3-2 .302

2011年
0-2 .083
1-2 .188
2-2 .214
3-2 .263

2012年
0-2 .129
1-2 .169
2-2 .196
3-2 .130



簡単にいうと、このブログで何度も指摘してきたように、今のハミルトンは「2ストライクをとって追い込んでおけば、あとは、彼のあからさまな弱点である『アウトコース低め』めがけてスライダーでも投げておけば、簡単に三振してくれるフリースインガー」のひとりに過ぎない、ということだ。
Damejima's HARDBALL:2012年10月6日、2012オクトーバー・ブック 「平凡と非凡の新定義」。 「苦手球種や苦手コースでも手を出してしまう」 ジョシュ・ハミルトンと、「苦手に手を出さず、四球を選べる」 三冠王ミゲル・カブレラ。

アウトコース低めに逃げる変化球をハミルトンが苦手にしていることは、2011年以降、多くの強豪チーム、多くの先発投手がとっくに把握している衆知の事実だが、その一方で、チームが弱体化していて、コントロールのいい先発ピッチャーを揃えることができず、ましてスカウティングもままならないようなアタマの悪いチームは、このことに気がつかないまま、漫然とゲームをしている。


だが、テキサスと同地区のエンジェルス、アスレチックスとなると、対戦ゲームが多いだけに、安易なゲームはしてくれない。必ずスカウティングして、ハミルトンの弱点を洗い出し、徹底的に弱点を突き、抑えにかかってくる。
だから、同地区チームとの対戦内容をみると、ハミルトンの打撃成績は一変する。
以下に数字を挙げたが、同地区チームとの対戦における打率はどれも.280前後だから、そこそこ打てているように思っている人もいるかもしれないが、この数字を「球場別」に見ると、まるで話は違ってくる。「ハミルトンが対戦数の多い同地区チームとの対戦で打てているのは、あくまでアーリントンで行われるホームゲームだけであり、同地区のビジターではまったく打てない」。
これは、「スカウティングされた後のジョシュ・ハミルトンのバッティングが、いかに怖くないか」を如実に示すものだ。

同地区チームとの対戦における打率(2012年)
OAK .247
SEA .281
LAA .288

ボールパーク別打率 ワースト5(2012年)
OAK-O. Coliseum .189 ホームラン1本 打点4
SEA-Safeco Field .182 ホームランなし 打点3
LAA-Angel Stadium .143 ホームランなし 打点なし
TBR-Tropicana Field .100 ホームラン1本 打点3
TOR-Rogers Center .083 ホームランなし 打点なし
参考:
TEX-Rangers Bpk .289 ホームラン22本 69打点



何度も書いているように、「パークファクター」なんて指標は、そもそもアテにならない。例えば、ある球場ではホームランが出やすい、といっても、それが「自軍がホームランをたくさん打ったから」なのか、それとも「自軍の投手陣があまりにも酷くて、相手チームにホームランをしこたま打たれたから」なのか、そんなことすら区別できない。

ただ、そんなダメ指標でも、「おおまかな数字でいい」という条件なら、「球場ごとのホームランのでやすさ」くらいはわかる。
例えば、ロサンゼルス・エンジェルスの本拠地、エンジェル・スタジアムは、2012年のパーク・ファクターでみると、MLB全30球団で25番目にホームランがでにくいボールパークだ。
2012 MLB Park Factors - Home Runs - Major League Baseball - ESPN

LAAに移籍が決まったハミルトンは、2012年にエンジェル・スタジアムで7ゲームやっているが、ホームランを1本も打てていない。と、いうか、彼のキャリア通算161本のホームランの約半分、83本は「宇宙で一番狭い」アーリントンで打ったものだ。
そして、ハミルトンのバッティング成績において、グラウンドボール、いわゆる「ゴロ」は、ヒットになる確率がびっくりするくらい低い。ハミルトンはフライを打たないとヒットを打てない、極端なフライボールヒッターなのだ。


MLBで最もホームランの出やすいボールパークのひとつ、アーリントンだからこそホームランを量産できていたハミルトンが、彼が最も苦手とするボールパークのひとつであり、ホームランの非常に出にくいエンジェル・スタジアムに移籍して、いったい何をしようというのだろう。ほんと、意味がよくわからない。

damejima at 03:47

July 17, 2012

キングス・コートは、ベネズエラ人のフェリックス・ヘルナンデス登板日にだけセーフコフィールドの外野席の端に特設されるヘルナンデス応援専用席のことで、バッターを2ストライクと追い込むと、三振を期待するキングスコートに集結した白人観客は、「 K! K! K! 」と、三振を意味する「 K 」と、ヘルナンデスのニックネームであるKingにひっかけた「 K 」というアルファベットを、まるで何か「カルトの集会」でもやっているかのように熱狂的に連呼しはじめる。

この、Kというアルファベットを連呼するのがお約束の場所であるキングスコートに、アフリカ系アメリカ人の姿を見たことがある人は、ほとんどいないはずだ


まぁ、シアトルのゲームを毎シーズン100試合とか観ない人には、この話を信じない人もいるだろう。
ならば、ネットを探せばキングスコートについての写真や動画がそこらじゅうに落ちていると思うから、自分でとことん確かめてみるといい。もしアフリカ系アメリカ人で、あの黄色いTシャツを着て、K!K!K!と連呼している集団の写真か動画を見つけることができたなら、ぜひ教えてもらいたいものだ)

July 3: King's Court Fourth of July | Mariners.com: Photos

In King’s Court, anything goes ― and that’s a very good thing | Seattle Mariners blog - seattlepi.com

このKという単語の連呼が、どのくらい今のアフリカ系アメリカ人にとって、あの忌まわしいKKK (=Ku Klux Klan、クー・クラックス・クラン)を連想させるかについては、ハッキリと断言することまではできないにしても、もしブログ主がアフリカ系アメリカ人だったら、いくら野球という娯楽の上での話とはいえ、ヘルナンデス登板日にセーフコに行くのはプライドが許さないし、ヘルナンデス登板日には絶対にセーフコに行かなくなるだろう。

KKKのパロディ資料によれば、KKKはかつて南北戦争終結後の1865年に作られ、一時は衰えたものの、第一次大戦後に中西部のオクラホマ、テネシー、オレゴン、インディアナ、ディープサウスのアラバマなどで勢いを取り戻し、1924年には会員数500万人を数えたという。(これらの地域は、後で述べるように、ユダヤ系でないドイツ系移民の多い地域でもある。ちなみにユダヤ系ドイツ移民が多いのは、ニューヨークなど東部の都市)

かつてのKKKによる暴力(アメリカのWiki)Ku Klux Klan - Wikipedia, the free encyclopedia



なにを大袈裟なことを、と
思う人がいるかもしれない。


King Kongは、もともと1930年代初期に作られた映画がはじまりだが、これがまた忌まわしい K にまつわる話で、しかも、キングコングには、2つもKというアルファベットがついている。(ちなみに、キングコングのプロデューサー、Merian C. Cooperは、元は第一次大戦の空軍パイロット)

King Kong(1933版)King Kong - Wikipedia, the free encyclopedia
南洋の島から見世物にされるためにニューヨークへ連れて来られ、逃げ出して街で大暴れしたキングコングは、巨大なサル、つまりApeである。
Apeという表現は、「デカくてのろまな人」を馬鹿にする用途にも使われる。もちろん、アフリカ系アメリカ人を馬鹿にするのにも使われるし、そういう言葉の中で最も怒りを買う言葉のひとつでもある。
(かつて日本の化粧品会社のCMでチンパンジーがアフリカ系アメリカ人の真似をしているのがあったらしいが、もしそんなとんでもない映像がアメリカのテレビで流されたとしたら、社会問題になるだけじゃ済まない)

日本のWikiなどは、キングコングは、白人のアフリカ系アメリカ人に対する恐怖感や差別意識のメタファー(隠喩)として扱われることもある、などと、曖昧な生ぬるい表現で説明しているが、アメリカではとっくの昔に、「隠喩どころか、キングコングって、明らかにアフリカ系アメリカ人そのものを指してるじゃねぇか。バカヤロ」と指摘されている。

キングコングにアフリカ系アメリカ人の比喩を指摘する資料 1
During the war period the movement of blacks from rural to urban areas intensified, and migration continued through the l920s, resulting in increased racial friction in the cities.
King Kong by David N. Rosen

注:文中の "migration" は、もちろんいわゆるGreat Migrationをさす
キングコングにアフリカ系アメリカ人の比喩を指摘する資料 2
...fucking GIANT and BLAAAAAACK hand reaching out towards said blond symbol of white pure beauty.
AngryBlackBitch: King Kong...

美女と野獣という設定は、そのまま「白人」と「アフリカ系アメリカ人」という関係のシンボリックな比喩になっている、という指摘


既に書いたように、南北戦争が終わると、奴隷として南部に強制的に閉じ込められていたアフリカ系アメリカ人は、一斉にニューヨーク、シカゴ、デトロイト、ピッツバーグといった北部の大都市へ移住しはじめた。いわゆるGreat Migrationである。
キングコング映画が最初に製作された1930年代初期は、このGreat Migrationが盛んだった1920年代の直後の時代にあたる。(1930年代に入ると大不況のあおりでGreat Migrationは一時的に停滞した)
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年7月3日、「父親」とベースボール (2)南北戦争100年後のアフリカ系アメリカ人の「南部回帰」と「父親不在」、そしてベースボールとの距離感。

キングコングとアフリカ系アメリカ人の不快な類似性を指摘する人は、単に、キングコングがデカくて黒いからアフリカ系アメリカ人のメタファーになっているなどと根拠の薄い議論をしているのではなくて、「黒くてデカいApeが、未開の地から北部の都市へやって来て、街を破壊する」というキングコング映画の設定そのものが、どうみても南北戦争後に南部のアフリカ系アメリカ人が北部の都市に流入したGreat Migrationを揶揄していると、アメリカ史をふまえて議論しているのである。



カイゼル髭のオモチャをつけたキングスコートの白人の子供アメリカが独立戦争において、ドイツ系のイギリス王ジョージ3世、およびジョージ3世がアメリカに連れてきた残虐なドイツ人傭兵集団と戦った過去の歴史を踏まえない、無神経な「カイゼル髭」

おそらくはシアトル地元のアフリカ系アメリカ人の総スカンを食らっているであろう、このキングスコートとかいう無神経なプロモーション手法は、最近では、さらにドイツ系イギリス王のトレードマークだったカイゼル髭になぞらえたプロモーションまでやりだしだ。
これがまた、どこか、ドイツの美術史家ヨハン・ヴィンケルマンが、「白いギリシア」という屁理屈でヨーロッパ文化のルーツを捏造して以降のドイツ系人種の増長ぶりを思わせて、なんというか最悪なのである。

「キングつながり」というシャレのつもりかもしれないが、
ちょっと歴史を踏まえなさすぎるにも程がある。


植民地時代のアメリカ(13植民地)植民地時代のアメリカ(赤色部分がいわゆる「13植民地」)
植民地アメリカが、イギリス、もっと正確にいうなら、ドイツ系のイギリス王朝との間で独立戦争を戦ったのは、18世紀末の1775年から1783年だが、当時のイギリス王ジョージ3世はこの戦争に、ドイツにたくさんいた親戚筋から金で買った多くのドイツ人を投入した。
1755年に刊行されたヨハン・ヴィンケルマンの『ギリシア芸術模倣論』によって、ヨーロッパで熱烈な「白いギリシア」ブームがまきおこったのも、ちょうどアメリカ独立戦争のあった18世紀だ。

ジョージ3世がアメリカに連れてきたドイツ人については、文脈の便宜上「傭兵」などと表現している資料は多いが、実際の彼らは、「戦闘用に訓練された職業兵士」という意味でいうところの「ホンモノの傭兵」ではない。また、歴史的に有名な中世のドイツ系傭兵集団ランツクネヒト(Landsknecht)でもない。
彼らは、単にドイツ諸侯の領地に住んでいた、ごく普通の領民であって、イギリス王ジョージ3世とつながりのあるドイツ諸侯が、単に金欲しさのために自国の領民をイギリスに売り飛ばしただけの話で、要するに「人身売買」なのだ。売買価格は、1人あたり7ポンドちょっとと、資料にある。(【スリーピー・ホロウ】アメリカ都市伝説を生んだヘッセンカッセルなど)

こうしたイギリスとドイツの深い関係は、さかのぼる1714年に、今のドイツの一部であるハノーファーの領主だったゲオルク1世が、ジョージ1世としてイギリス王に即位し、イギリスにドイツ系王朝であるハノーヴァー朝が開始されたという経緯からきている。ハノーヴァー朝におけるイギリス国王は、イギリスの王であると同時に、今のドイツの一部であるハノーファーの領主も兼ねていた。(英語の「ジョージ」はドイツ語では「ゲオルク」あるいは「ゲオルグ」。英語の「ハノーヴァー」はドイツ語では「ハノーファー」)
イギリスがアメリカ独立戦争のためにドイツ諸侯から調達したドイツ人は3万人弱ともいわれるが、そのうち1万8千人程度、つまり半数以上は、イギリスとの間で傭兵提供条約を結んでいたヘッセン・カッセル伯フリードリヒ2世が「金で売り払った領民」であるといわれる。このフリードリヒ2世(注:プロイセン国王フリードリヒ2世とは別人)は、ドイツ出身のイギリス国王ジョージ3世の義理の叔父にあたる。


アメリカ独立戦争においてイギリス軍の雇った外国人のふるまいの残虐さや、イギリス王が独立戦争に外国人を投入したことを背信行為とするアメリカ側の怒りは、1776年に出されたアメリカ独立宣言にハッキリと記されている。
HE is, at this Time, transporting large Armies of foreign Mercenaries to complete the Works of Death, Desolation, and Tyranny, already begun with Circumstances of Cruelty and Perfidy, scarcely paralleled in the most barbarous Ages, and totally unworthy the Head of a civilized Nation.
彼(HE=ジョージ3世)は現在、殺戮と荒廃、専制という事業を完成させるため、外国人傭兵の大軍を送り込んできており、最も野蛮な時代ですら比肩できないような、残虐と背信に満ちた状況が作り出されているのであり、彼はおよそ文明国家の長たるに値しない。
In Congress, July 4, 1776. The unanimous declaration of the thirteen United States of America.

アメリカがイギリスの植民地だった18世紀までの時代に、アメリカの人口の10%はドイツ語を話していたといわれ、植民地アメリカにはもともとドイツからの移民が数多く存在していた。1775年にアメリカ独立戦争が始まると、ドイツ移民は、イギリス国王側につくロイヤリストと、アメリカ独立側につくパトリオットに分かれた。
こうした植民地時代からもともとアメリカに住んでいたドイツ移民に加え、アメリカ独立戦争においてイギリス軍がアメリカの独立を阻止するためドイツから金で買ってきたドイツ人の中に、独立戦争が終わった後もドイツへは帰国せず、アメリカ残留を選択して移民になる人々が出現した。
(ここでは書かないが、これらの「アメリカとイギリスとの戦争のためにアメリカに連れてこられ、結果的にアメリカに住みついた、矛盾を抱えたままのドイツ人」が、アメリカ建国当時の理想、つまり、南北戦争で北軍が樹立しようとした「本来のアメリカの理想」に必ずしも従わなかったと仮定してアメリカ史を見直してみるのは、アメリカ史に対する興味として非常に面白い)


ドイツ系移民の人口密度(1872年)アメリカ北部におけるドイツ系移民の人口密度(1872年)を示した図

ゲルマン系のドイツ移民はペンシルベニアなどに落ち着き、さらに19世紀後半から20世紀前半にかけてはウィスコンシンなどの中西部、さらには西岸のシアトルやアナハイムに移るグループもいた。
ペンシルベニアおよび中西部に、Pennsylvania-German、ペンシルベニアドイツ語と言われる特殊な言葉を話す人がいまだに存在していることも、これらの地域におけるドイツ移民の影響の強さを物語っている。かつてミシガン州にはBerlin(ベルリン)という名前の街すらあった。(現在ではMarneと名前を変えている)

第二次大戦においてアメリカは、独立戦争、第一次大戦に続いて、ある意味3度目となるドイツとの戦争に臨んだわけだが、あまりにもドイツ系移民の人口が多くなり過ぎていたからか、ドイツ系アメリカ人は日系人がそうであったように強制収容所送りにはならなかった。

ドイツ移民数の年代別推移ドイツ移民数の
年代別推移


The German-Americans-Chapter Two


様々な経緯からアメリカで多数のドイツ系移民が増え続けていった結果、ドイツ系住民はアメリカ人の最大派閥となっていった
その数は、中西部を中心に約5000万人。例えばウィスコンシン州のミルウォーキーがビールの街になったのは、ドイツ系移民の多さからきている。
州別にみた最も多い人種の内訳
元資料:2000年USセンサス

州で最も多い人種
この図の濃い青色で示した部分が、人種別に見てドイツ系人種の子孫が多い州である。
北東部を除くアメリカの北半分がドイツ系移民の子孫の多い州、そして南部がアフリカ系とヒスパニック系と、アメリカの南北で棲み分けが進んだことがハッキリわかる。
アフリカ系アメリカ人が南北戦争後に南部から北部に移住し、また南部に回帰するという移住の歴史を考える上で、移民の中の最大派閥であり、中西部の工業都市にも多数住んでいるドイツ系移民とのかかわりを多少なりとも頭に入れなければならないことは、これでわかってもらえると思う。



セーフコ・フィールドでのカイゼル髭が、プロイセン皇帝ヴィルヘルム2世のパクリなのか、それとももっと後世のジョージ5世か、どのドイツ系国王にあやかったプロモーションなのかは知らない。

だが、アメリカ独立戦争で、金で雇ったドイツ人を使った残虐行為で顰蹙を買ったイギリス国王のドイツ由来のカイゼル髭を生やしたを思わせるオモチャをつけ、大声で、「 K!K!K! 」と、アフリカ系アメリカ人の神経を逆撫でする金切声を挙げて叫ぶ白人集団の無神経さに、違和感を持たないわけにはいかない。
それはある意味、数が増えすぎたドイツ系アメリカ人の「増長」と「思い上がり」の象徴であり、アメリカという多民族国家の歩んできた歴史について、無神経すぎるふるまいだろう

(もちろん、ドイツ系移民の増殖地のひとつである中西部インディアナ出身で、しかも「エリック」というドイツ系の名前を持ち、カイゼル髭を生やしていたどこかの野球監督さんも、たぶんドイツ系だ。レジェンドに対する礼儀をわきまえた発言のしかたすら知らない元3流プレーヤーのジェイ・ビューナーも、もちろんドイツ系)


そのうち詳しく書こうと思うが、こうしたドイツ系のもつ無神経さは、どこかで、かつて18世紀ドイツの美術史家ヨハン・ヴィンケルマンが欧米文化のルーツとして捏造した「白いギリシア」に通底しているのは、ほぼ間違いないだろう。

Johann Joachim WinckelmannJohann Joachim Winckelmann

秀麗な大理石彫刻など、ギリシア文化に魅せられたヴィンケルマンは、「ヨーロッパの理想は『白いギリシア』にある」と、ヨーロッパ文化のルーツがいかにも「真っ白い、理想化されたギリシア文化」にあるかのように主張し、この発想は18世紀以降ヨーロッパで大流行した。(『ギリシア芸術模倣論』1755年、『古代美術史』1764年)



ヨーロッパのルーツとしての「白いギリシア」を捏造するにあたって、大英博物館で100数十年間にわたって行われていたギリシア彫刻の彩色剥ぎ取り事件は大英博物館自身が認めている有名な歴史の捏造にかかわる事件だ。

大英博物館には、「エルギン・マーブル(Elgin Marbles)」といわれるギリシア彫刻コレクションがある。イギリス大使としてオスマントルコに赴任した第7代エルギン伯爵トマス・ブルース(Thomas Bruce, 7th Earl of Elgin)が、当時オスマントルコの支配下にあったギリシアのパルテノン宮殿から勝手に剥がしてきて、後に大英博物館に寄贈したギリシア彫刻群である。

エルギン・マーブルには、実はもともとオリジナルな彩色が施されていた

だが、エルギン卿本人の指示により、秘密裡に彫刻作品の表面を特殊な工具を使って彩色を削り取り、「見た目を白く変える」という卑劣きわまりない作業が、なんと1811年から1936年まで、100数十年にわたって大英博物館の一室で延々と行われていたのである。
「歴史の捏造」と呼んでいい大事件だが、それほど、ヴィンケルマンの「白いギリシア」という捏造された「White is beautiful理論」はヨーロッパ社会に深く広く影響していた。

ちなみに、大英博物館はいまだにそのトマス・ブルースの恥知らずな作業を、「クリーニング」という当たりさわりのない表現で呼んでいる。
資料:British Museum - Cleaning the Sculptures 1811-1936

BBC News | UK | Museum admits 'scandal' of Elgin Marbles

エルギン・マーブル(Elgin Marbles)を「白くする」のに使われた卑劣な道具群エルギン・マーブルと呼ばれるギリシア彫刻コレクションを「白くする」のに使われた卑劣な道具群。

Elgin Marbles - Wikipedia, the free encyclopedia

白色だとばかり思われ続けてきた古代ギリシアの彫刻や、パルテノンなどの神殿建築に、実は 「極彩色のアジア的彩色が施されていた」 ことを明らかにしたのは、近年の科学の発達による紫外線による解析手法だ。科学が、ヴィンケルマン以降捏造され続けてきた「白いギリシア」という欧米文化のルーツの理論的捏造を暴いたのである。
おまけにヴィンケルマンが褒めちぎった古代ギリシア彫刻は、実際には、多くがローマ時代に作られた単なる模造品であるという。



古代ギリシア文化は、貧しいギリシアから傭兵としてエジプトに派遣されていた人々が、やがてギリシアに帰還したとき、エジプトからさまざまな文化を持ち帰ったことで出来上がっていった、という説が有力になりつつあるようだ。
おそらくは、18世紀のアメリカ独立戦争においても、イギリスに雇われてアメリカに来て、そのまま住み着いたドイツ傭兵移民たちがアメリカに持ち込んだドイツ系文化がいろいろとあったに違いなく、その持ち込まれたドイツ系文化の中には、「ヴィンケルマン由来の白人(この場合はアーリア人)中心主義」のような精神的な文化もあったに違いないとみている。
(資料:コーネル大学名誉教授マーティン・バナール(Martin Bernal)『ブラック・アテナ』1987年など)

実は色つきだったギリシア彫刻
右はデータから再現された当時の彩色

Ultraviolet light reveals how ancient Greek statues really looked

Top 10 Color Classical Reproductions

damejima at 08:03

June 21, 2012

なにか最近、広すぎるセーフコを狭く改修してパークファクターを変えよう、そうすればお寒いシアトル打線も長打が出まくって、勝てるようになる、などと、わけのわからない新興宗教もどきのキャンペーンを張っている馬鹿が日米双方にいるようだが、アリゾナ3連戦で死ぬほど失点しまくったことが、これら馬鹿な人間に回復不能の致命傷を与えてくれた(爆笑)

投手というものがよくわかっていない人がとても多いようだが、投手というのはとてもデリケートにできているものだ。
アリゾナでの失点の感覚は、大量失点というより、大量出血といったほうが、感覚的には近いだろう。
試合が終われば、また次頑張ればいいやと思える負けもあれば、そう思えない負けもある。悲惨な形で打たれ続けても、強力打線で取り返し続ければ、チームとしてはそれでいいし、優勝できる、などと空論を考える人は、投手のマインドがわかってない。


どうもシアトル地元紙あたりの無能な記者たちは、若手が打ちまくる現状を見て歓喜に湧いていたようだ。
これほどピッチャーが打たれまくる惨状を見ても、「先発投手を安売りして若いバッターをかき集めた今の現有戦力のままで、セーフコを狭くすると、どうなるか?」 なんてわかりきったことすら理解できないのだから、目の前で起きていることも理解できない程度の低い人間に、説明する言葉はいらない。罵倒して終わりで十分だ。


球場について、あるジェネラルマネージャーはこんなことを考えた。
点の入りにくい球場だからこそ、
打撃に金をかけて、長打を打てる打者を集めてこよう!
だが、集めたのは場所にそぐわない右打者ばかりで、2年と続けて機能しなかった。やがてチームはシーズンに100回ほど負けるようになった。ダメなキャッチャーは逃げ帰った。


別のマネージャーは、こんなことを思いついた。
そうだ。
点の入りにくい球場だからこそ、
守備に金をかけて、守備のいい選手だけを集めよう!
だが、その結果、投手はリーグナンバーワンになれたが、打線は完全に死んだ。チームはシーズンに100回ほど負けるようになり、金も尽きてきた。


そこで、マネージャーとその取り巻きは、また考えた。
点の入りにくい球場だからこそ、
良い先発投手を放出しても、どうせそれほど点はとられない。
打撃のいい若手をトレードで集めよう!
だが結果、投手も打線も死に、ついでに守備も死んで、
チームはシーズンに100回ほど負けるようになった。


そこで取り巻きはは、また考えた。
点の入りにくい球場がいけない。
球場を狭くすれば、打撃はいいはずの若手が大活躍して勝てる。ベテランは放り出そう
だが、アリゾナで投手は死んで、打線も打ち負け、守備も死んで、チームは何を目的にしているのか、わからなくなった。

かわいそうな人たち。
まるでカート・ヴォネガットの書くエッセイのような話だが
実話である。



ちょっと「コスト」というものについて書く。

評価の高い選手は、値段が高い。
当たり前の話だ。
だが、価値より割高な価格で買ってばかりいては、予算がいくらあっても足りない。また予算配分も大事で、投手と打者、組織全体に行き渡らせないといけない。

だが、買っただけで人間というパーツは働くようにできているか?

答えは「ノー」だ。
評価が高くプライドもある選手たちを「上手に働かせる」には、「気持ちよく働かせるための技術」がいる。それが、コストというものを無駄にしないコツなのは、経営者の常識だ。


評価の高いドラフト候補は、高い。
これも当たり前の話だ。
だが、割高な価格で買ってばかりいては、予算がいくらあっても足りないし、予算が投手と打者、組織全体に行き渡らない。

だが、買っただけで人間という花の種は、開花するようにできているか?

答えはもちろん「ノー」。
いくら高い評価のある選手たちであっても、「上手に成長させる」には、「育てる技術」がいる。それが、コストというものを無駄にしないコツなのは、経営者の常識だ。



ドラフト1位と契約できてもないのに、既にドラフト予算が赤字で、うっかりすると来年と再来年のドラフト1位指名権を失うかもしれないというシアトル・マリナーズだが、このチームにないもの、欠けているものは、以下に並べた2者択一のうちの、どちらだろう?
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年6月21日、Baseball Americaの2012ドラフト資料でわかった、「MLBで買い物が最も下手な球団」、シアトル・マリナーズ。やがて来るペナルティも考えず、ドラフトで30球団最高の大散財。


「買いもの上手」
「安売りしては、高い買い物に走る」

「育て上手のプロの農家」
「買った苗をただ枯らすだけの素人の家庭菜園」

「割高な選手を買わないようにするやりくり上手のセンス」
「割高な代理人から選手を買ってばかりいる買い物センス」

「働かせ上手」
「無能な上司」

「選手を気持ちよくプレーさせる技術」
「気持ちよくプレーできなくさせるパワハラ」

「極端すぎない、ゆとりある戦略」
「コンセプト過剰の極端な机上の空論」

「野球のことがよくわかっている、盛り上げ上手」
「野球のことがよくわかってもいないのに、口を出さずにいられない地元メディア、ブロガーなどの取り巻き」

「イベントを収益につなげる技術」
「イベントを無駄にする陰気さ」


イチローにとりついたままの不幸は、加齢からくる衰えなんかでは、けしてない。(そんなものをブログ主はまるで信じてなどいない)むしろ、上で挙げた2者択一の後者に満たされた場所に存在するリラックスできない、堅苦して、陰気な環境のほうだ。とても西海岸とは思えない、西ヨーロッパの場末のような暗さ。


このチームに欠けている最大のもの、それは
経営者としての常識だ。


damejima at 20:48

April 28, 2012

灰田勝彦さん(以下 敬称略)が「日本版Take Me To The Ball Game」ともいうべき「野球小僧」を歌ったのは、別当薫はじめ当時の毎日オリオンズの選手が大挙出演したという1951年大映のミュージカル映画 『歌う野球小僧』だ。

当時の大映社長といえば、もちろんサンフランシスコに移転したジャイアンツの新しい本拠地キャンドルスティック・パークを模して東京スタジアム(1962-1977)を作った永田雅一だが、『歌う野球小僧』が出来た1951年の時点では、まだ大映スターズと毎日オリオンズは合併していない。(大毎オリオンズが出来るのは、1951年の『歌う野球小僧』から7年後、ブルックリン・ドジャースとニューヨーク・ジャイアンツが西海岸に移転する1958年)
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年11月25日、「名山」、西本幸雄。指導者を育てた指導者。

ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年3月23日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (4)夢の東京スタジアムの誕生


ちなみに、この映画に関して、ウェブ上の資料だけでは、どうもよくわからない点がある。

それは、灰田勝彦(1911年生まれ)と、同じ立教出身で、毎日オリオンズ主将、大毎オリオンズ監督を務めた西本幸雄さん(1920年生まれ 以下敬称略)とのかかわりだ。
ネット上に、この2人の立教出身者のかかわりを示す資料が皆無といっていいほど存在しない理由が、どうもよくわからない。


1951年の「歌う野球小僧」というミュージカル映画は、立教在学時代から野球好きで知られ、新東宝の社会人野球に所属していた記録さえ残されている(資料:2010年10月 : 野球史探求)灰田勝彦が、「この映画は立教出身者で固めよう」と最初から意図して自らプロデュースしたと、Wikiにある。
現に、この映画に珍しく悪役として出演している上原謙も、立教出身者だ。

(上原謙は、大映のライバル会社のひとつ、松竹の看板俳優。大映が1951年に『歌う野球小僧』を製作した当時は、大映スターズという野球チームを持っていたのに対して、松竹も松竹ロビンスという野球チームを抱えていただけに、どうして上原謙が「映画と野球、2つの垣根」を越えて、大映の、それも野球映画に出演できたのかはよくわからない。
想像だが、『歌う野球小僧』は、1953年に、日活の引き抜きを阻止すべく大映社長永田雅一の主導で、いわゆる「五社協定」が結ばれ、各映画会社専属の監督や俳優の引き抜きや貸し出しが禁止され、映画会社と映画会社の間に「垣根」ができる前にできた映画だから、こういう他社の俳優が出演するようなことがギリギリ可能だったのだろう。
ちなみに灰田勝彦は、「五社協定」成立後の「何事にも垣根のできた時代」においても、南海ホークスの歌を歌い、別所毅彦など巨人のプレーヤーとの親交、広島東洋カープを優勝させる会結成など、ある意味「球団の垣根の無い」稀有な人物だった。野球映画への出演についても、1951年の大映『歌う野球小僧』出演に前後して、『ホームラン狂時代』(1949年東横映画=東映の前身のひとつ)、『栄冠涙あり』 (1952年東映=1951年設立)と、大映以外の映画にも出演している)

灰田勝彦が立教大学予科に進学したのが1930年、西本幸雄が旧制立教大学に進学したのが1938年。
西本幸雄は、当時監督のいなかった立教野球部で監督役を務めた後、第二次大戦を挟み、1950年に毎日オリオンズに入団し、ここでも1952年に主将を務めている。
当然ながら、動乱の時代とはいえ、それになりに近い世界に住んでいた2人が、互いの存在を知らないはずはない。

もちろん、オリオンズ入団時の西本幸雄は既に30歳という年齢で、また、その性格からしても、もし仮に先輩・灰田勝彦から後輩・西本幸雄に映画『歌う野球小僧』への出演依頼があったとしても、とてもとても西本が快諾するとは思えない。(とはいえ気難しそうな榎本喜八だって映画に複数回出演しているのだから、西本幸雄が映画に出ていても、おかしくはない)
だが、それにしたって、西本幸雄は灰田勝彦と同じ立教出身であり、立教でもオリオンズでもキャプテンに選ばれるような中心選手のひとりで、毎日オリオンズでは選手としてパ・リーグ優勝、日本一に貢献しているのだから、立教出身者と毎日オリオンズの選手で固めた灰田勝彦の野球映画への関わりが少しくらいあってもおかしくないように思える。

だが現実には、ネット上の資料には、西本幸雄と『歌う野球小僧』、あるいは、西本幸雄と灰田勝彦とのかかわりを書いた資料は、なぜかほとんど皆無に等しいのだ。


もちろん、こうした摩訶不思議なことが起きる遠因のひとつには、1958年の大毎オリオンズの日本シリーズ敗退の一件で西本幸雄さんが大毎オリオンズ監督を辞任させられたことが原因で、阪急ブレーブスや近鉄バッファローズの歴史には西本さんの名前が華々しく刻まれているのに比べると、オリオンズの歴史からはむしろ西本さんの足跡が、削除というか、遠ざけられている感すらある歴史的経緯が影響しているのかもしれない。
(現代のWikiの「オリオンズ」の項目ですら、西本さんに関する記述が不足しているようにしか見えないのだから、たとえ灰田勝彦と西本幸雄の間になんらかの関わりがあったとしても、野球メディア、映画メディアによって記録に残されてこなかったとしても不思議ではない、という意味)


だが、もう半世紀が過ぎたのだ。
そろそろオリオンズの歴史における西本幸雄さんの位置を、本来あってしかるべき位置に戻すべきだろうと思う。

damejima at 08:25

April 02, 2012

Spring Training in Florida今シーズンのダグ・フィスターは登板するたびに2、3、4と、少しずつイニング数を増やしてきたのだが、4月1日STヒューストン戦で6イニングを投げ、4安打(1ホームラン)で、1失点。
初めて先発投手らしいイニング数を投げたわけだが、ピンチはあっても失点はしないフィスターらしい内容で、いつでも本格的なシーズンインができる状態に近づきつつあるようだ。ちょっと四球が多かったのが気にはなるが、ST通算被打率.192なのだから、内容は十分すぎる。
デトロイトの先発ローテーションは、不動のエース・バーランダーはともかく、去年180イニングちょっと投げたが、ERA4.75と、優勝チームのローテ投手とは思えない数字(苦笑)に終わってしまったリック・ポーセロが、このSTでは17イニング投げてERA1.59と好調な滑り出しなために、バーランダー、フィスター、ポーセロの3本柱で今年はかなり行けそうな感じ。
ただ・・、マックス・シャーザーは、今年もちょっとダメかも(苦笑)
Houston Astros at Detroit Tigers - April 1, 2012 | MLB.com Classic

Major League Baseball Stats | tigers.com: Stats


それにしても、デトロイトはよく打っている。

今日はアストロズ、メッツとの変則ダブルヘッダーで、STだから当然チームの主力を2チームに分けてゲームしているわけだが、それでも11安打、13安打と、2試合で24安打。
打率はもともと高いチームだが、ホームランが出やすくなってきたことがスプリング・トレーニングでの得点力を上げている。大怪我をしてしまった去年の打線の功労者ビクター・マルチネスを欠いているというのに、これだから、これは相当打てる。


ただデトロイトは、本来は、地区優勝するためには投打のバランスが必要なチームだと思う。

2011年デトロイトのチーム打率.277は、ア・リーグ3位。ア・リーグ屈指の「ヒットの打てるチーム」のひとつなわけだが、ホームランは169本で、リーグ平均の162本とほぼ変わらない。
デトロイトより打率が高い2チームは、テキサス、ボストンだが、デトロイトのホームラン数は、この打率トップ2と比べ、30〜40本少ない。二塁打数はボストンがずば抜けている。
テキサス、ボストンの本拠地の狭さを考えると、打率上位3チームの打撃力に、実は、大差はない。(実際、パークファクターで補正したOPS+でみると、ホームランの少ないデトロイトが、ホームランでデトロイトを引き離したテキサス、ヤンキースより上位)
打率上位3チームの打撃スタッツの「見た目の差」は、パークファクターの差が現れたにすぎない。
2011 American League Season Summary - Baseball-Reference.com

だが、野球において、チームの立場で最終的に争うのは、「グロス」であって、「得点の数」や「勝ち負け」だ。
OPSのようなデタラメな数値を、やはり欠陥のあるパークファクターで補正することでOPS+に変換して、いくら「デトロイトには、テキサスやボストンと同程度の得点力が備わっていること」がわかったとしても、ワールドシリーズ優勝を目指すコンテンダーの立場としては、試合に負けてしまっては、それは数字いじりに過ぎず、何の意味もない。
前に書いたように「チームの視点」と「プレーヤーの視点」は大きく異なるわけだが、「チームの視点」から見たとき、「補正」という行為に、実はあまり根本的な価値はない。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:指標のデタラメさ(OPS、SLG、パークファクターなど)

ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年9月3日、チームというマクロ的視点から見たとき、「出塁率」を決定している唯一のファクターは「打率」であり、四球率は無関係、という仮説。

ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年11月10日、「パークファクター」という数字の、ある種の「デタラメさ」。


ホームラン数の違いは、どうしてもチームの「見かけの得点数」には影響する。
2011年の得点数上位3チームは、打率が高く長打も多いボストン、打率はリーグ平均以下だがホームランの多さで得点力を補ったヤンキース、ア・リーグ最高打率と長打も豊富な逸材溢れるテキサスで、これら3チームが揃ってシーズン850点以上を叩きだしたが、打率は高いのにホームランは平均レベルの4位デトロイトは787点で、上位3チームと比べると、デトロイトの得点は1段階落ちる。(リーグ平均は723点)
この「見た目の得点数」の差が生じる原因は、繰り返しになるが、チームの打力の本質的な差ではなくて、主として「本拠地の違い」でしかない。


では、デトロイトは、「テキサスやボストンとの、見た目の得点数の差」にどう対処しようとしているのか。今シーズンのデトロイトは、「得点をさらに増やしたい」のか、それとも「失点を減らしたい」のか。
もしデトロイトが得点力をあと10%くらい上げることで、ボストン、テキサスに匹敵する得点数を得ようと思うと、本拠地がヒッターズ・パークではない以上、多少予算に無理してでも、他のコンテンダーを上回る多額の投資が必要になる。つまり、単純化して言うと、他のコンテンダーの主軸打者よりも良い数字を残せるスラッガーへの投資が必要になるわけだ。
まぁ、だからこそデトロイトはプリンス・フィルダーに大金を投じてラインアップに加えたわけだが、これはこれでひとつの選択ではある。
(いちおう断っておくと、ブログ主は、フィルダーのいなかった去年でも結構打てていたデトロイトは、なにより先に、あのふがいないブルペンにもう少し手を加えておかないとダメだと思っている)


あくまでデトロイトは「投打のバランス」を見ていかなければならないチームだ。
本拠地のコメリカパークを大改装して、フェンウェイやアーリントン並みの狭いボールパークにでもしないかぎり、デトロイトは「多少相手に打たれて失点しようとも、長打を打ちまくれる打線を作って、相手よりも多く得点を挙げ、打ち勝てる野球」を目指すわけにはいかない。
投打のバランスの必要なデトロイトは、「打率が低く、しかもホームランも20本前後しか打てないハンパなスラッガー」を大金かけて揃えてズラリと並べるような、雑な野球を目指すことはできないと思う。
(これは他の大半のチームも同じだ。だからこそ、守備もできない低打率のハンパなスラッガーの需要が激減、消滅しつつあることに、日本のメディアは気づいていない。ハンパなスラッガーが、下位チームに徐々に移籍し続けて大金を稼ぎ続けられる安易な時代は、事実終わったし、終わって当然だ)

もし、フィルダーがセンターのだだっ広いコメリカパークで思ったほどホームランを打てず(というか、ソロホームランが20本程度増えようが、チームは思ったほど勝てるようになどならない)、フィスターやポーセロの勝ち星が伸び悩むような事態だと、デトロイトの今シーズンのチームデザインは本来の投打のバランスを欠いて、大コケすることになる。
だからこそ、給料の安いダグ・フィスターが先発に加わって、安いコストでチーム防御率が下げられることの意味は、はかり知れないくらい大きい
(勘違いしてはいけないのは、球場が広いことが、投手有利を意味するとは限らないことだ。広いボールパークなら長打は出にくくなるとは限らない。例えばセンターが広いコメリカパークでは、三塁打が非常にでやすい。だからこそ、コメリカパークで、フライを打たせないグラウンドボール・ピッチャー、ダグ・フィスターが投げることに価値が出てくる。)
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年7月31日、「広い球場は、投手有利」というのは、ただの固定観念にすぎない。だからこそ、せっかくグラウンドボール・ピッチャーに変身を遂げたダグ・フィスターを売り払ってまでして外野手を補強してしまうシアトルは、どうしようもない馬鹿である。

ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年8月1日、「ダグ・フィスターはやたらとランナーを出していた」というのはウソ。最もランナーを出さず、ホームランと四球も出さないア・リーグ屈指のピッチャーが、ダグ・フィスター。



かつての「クッキーカッター・スタジアム時代」なら、どこのボールパークも、たいして変わらない形状だった。だから、ホーム、ビジター、どこのボールパークに行っても、バッターは同じように能力が発揮できたために、チームごとにデザインをカスタマイズする必要度は、今とは比べようがないくらい、格段に低かった。極端な言い方をすれば、どこのチームにいてもGMは常識的にさえやっていればそれなりに成功できた。
リンク:ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:「クッキーカッター」という単語を含む記事
だが、今の時代、ボールパークはチームによって特性が大きく異なる。
それだけに、クッキーカッター・スタジアム時代が終焉して以降の野球には、それぞれの本拠地の特性に合ったチームデザインが要求されているわけで、本拠地の形状や、ひいては地元ファンの要求する野球の方向性をも考慮したチームづくりくらい、やって当たり前のはずだが、しかし現実を見れば、MLBのチーム全てがそれを忠実にやってのけているかというと、そんなことはない。
中には、数字に強いフリ、投資手法に通じているフリをして、実際には、そのチームにそぐわない、思いつきみたいな机上のチームデザインを平気でやろうとして、何シーズンにもわたって大失敗し続け、言い訳し続けた挙句に、チームを破壊して首になるジェネラル・マネージャーだって、後を絶たない
セーフコのような広めのボールパークを本拠地にしたチームが「守備だけしかできないプレーヤーに大金を払って、攻撃力をまったく犠牲にしてしまい、大失敗する」だの、その反動でこんどは「たとえチームの基本財産となる投手力が大きく下がるのを黙認してでも、先発投手を放出してバッターを集めまくり、何年もかかる長打増加に必死になる」なんていう、バランスを欠いたチームデザインが、どれほど馬鹿げているか。あえて言葉にするまでもない。


広いボールパークを本拠地にするチームが(または平均的なボールパークでもいいが)ワールドシリーズに勝てるチームデザインを、誰かがきちんと発明・確立しないかぎり、狭いボールパーク優位な時代が続いていくのは、野球ファンとして悲しむべきことだと思うから、デトロイトには頑張ってもらいたい。
(そういう意味では、日本のプロ野球で、本拠地がだだっ広いにもかかわらず2連覇を達成できた中日ドラゴンズのチームデザイン手法の持つ価値は、きちんと論ずべき価値があるが、残念なことに、いつも元監督にして天才打者の落合博満氏に対する個人的な好き嫌いだけに話が矮小化されてしまい、きちんと論じられた試しがない)

damejima at 08:37

March 28, 2012

Seattle Mariners日本開幕ロゴ

今夜、東京ドームにいる人で、Take Me Out to the Ball Gameの歌詞を覚えてない人のために、あらかじめ歌詞をアップしてみた(笑)
seventh inning stretchに、携帯でこのサイトを表示して、見ながら歌うといいと思う。

Take me out
To the ball game
Take me out
With the crowd
Buy me some peanuts
And Crackerjack
I don't care if
I never never get back

Let me root, root root
For the home team
If they don't win
It's a shame
For it's one, two,
Three strikes you're out
At the old ball game!


Take Me Out to the Ballgame
Written By: Jack Norworth & Albert Von Tilzer



root for:熱狂的に応援する
Crackerjack
Sailor Jackと愛犬のBingoをマスコットにしたアメリカのお菓子

Cracker Jack

Cracker Jack

Cracker Jack




damejima at 09:10

March 24, 2012

1960年、サンフランシスコ・ジャイアンツ来日と
西本幸雄率いる大毎オリオンズ優勝


1958年(昭和33年)に東のニューヨークからアメリカ西海岸に移転したサンフランシスコ・ジャイアンツは、1960年に新しい本拠地キャンドルスティック・パークを華々しく開場させ、観客動員を激増させることに成功した。
同じ60年の10月、ジャイアンツは日米野球に、ウィリー・メイズウィリー・マッコビーオーランド・セペダなど、後のホール・オブ・フェイマーだらけのベストメンバーで三度目の来日を果たしている。このときジャイアンツの西海岸招致に力を尽くしたサンフランシスコ市も、市長みずからが200名もの応援団を率いて日本にやってきた。
ジャイアンツは初戦の巨人戦と第2戦の全日本選抜戦(いずれも後楽園)を落としたものの、その後、北は札幌から、南は下関、平和台まで足を延ばし、11勝4敗1分という結果を残して遠征を終えた。


現役時代の西本幸雄が、紆余曲折の末に1950年に毎日オリオンズに入団し、プロになった複雑な経緯を記した資料の数々に目を通すと、MLBがアメリカ東海岸から西に拡大しつつあった当時、いくら日本のプロ野球がMLBの後を追うように球団数を増やし、2リーグ制も始まって急速な拡大をみせつつあったとはいえ、まだまだ不安定だったことがよくわかる。
戦後すぐの時代、日本のプロ野球はまだ経営基盤が弱く、プロ野球選手の身分も実力も安定したものとは言い難かった。例えば1949年に来日したサンフランシスコ・シールズと対戦した日本側投手のひとりは、前年の都市対抗の優勝チーム西日本鉄道からプロの南海に入団したばかりの武末悉昌投手であったように、まだノンプロとプロ野球の選手たちの実力は玉石混合で、プロがアマチュアに決定的な実力差をみせつけられるほど、プロ野球そのものが育っていなかった。
それだけに1950年代の日本の野球は、あくまで西本幸雄や永田雅一などのような「野球に夢をはせた個人の、見果てぬ夢」に支えられて成り立っていた。(だから後世の人が、この時代の野球関係者のある種の我儘さ、アクの強さを時代背景を無視して批判するのはお門違いだと、ブログ主は考える。戦後すぐの不安定な時代に「野球だけで生き抜いていく」なんてことは、個人の強烈な自己主張に頼らなければできなかった、そういう時代だったのである)

また、プロ野球がまだまだ未成熟な時代だったからこそ、「日米野球」の存在はさまざまな意味で役立った。日米野球は、日本国内の野球ファンに「MLBの高い天井」をみせつけ、野球という未知数なスポーツが「将来は、こうなるんだぞ」と将来像をファンの脳裏に強烈に焼き付け、日本野球を安定させるための第一歩となったのである。


サンフランシスコ・ジャイアンツ来日の1960年に、日本のプロ野球で2度目のリーグ優勝を果たしたのが、この年に監督就任したばかりの西本幸雄率いる大毎オリオンズだ。
大毎オリオンズは、ドジャースとジャイアンツがアメリカ西海岸に移転した、ちょうど同じ1958年(昭和33年)に、大映ユニオンズと毎日オリオンズが合併して出来たばかりの球団で、西本監督のもと、榎本喜八、山内和弘、田宮謙次郎などの強打者をズラリ並べた「ミサイル打線」でリーグ制覇を飾った。
だが、日本シリーズは宿敵三原脩の大洋ホエールズに4連敗。リーグ優勝したにもかかわらず、オーナー永田雅一との衝突によって西本幸雄監督がわずか1年で解任された事件は、日本野球史に残る有名な出来事のひとつになった。(そんなわけで、58年のみ指揮してクビになってしまった西本幸雄は、62年にできた東京スタジアムに大毎オリオンズ監督として登場することはなかった)
後に西本幸雄は、阪急、さらに近鉄と、「優勝経験の無いチーム」を2つも優勝させて日本の野球史を大きく塗り替え、野茂イチローダルビッシュを生んだパ・リーグを育てて、鮭が故郷の川に帰るように、日本野球が野球の故郷であるアメリカMLBへ遡上していく土壌をつくることになる。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年11月25日、「名山」、西本幸雄。指導者を育てた指導者。


キャンドルスティック・パークを模範にした
東京スタジアムの開場

Tokyo Stadium
1962年(昭和37年)5月31日開場〜1972年(昭和47年)
1977年(昭和52年)取り壊し
東京スタジアム(外観)

東京スタジアム

ニューヨーク時代のジャイアンツの本拠地ポロ・グラウンズが、ヤンキースなどとの共用球場だったように、かつて日本のプロ野球も本拠地を共用しあっていた時代がある。
例えば後楽園球場は、読売ジャイアンツ、国鉄スワローズ、毎日大映オリオンズ(=後の大毎オリオンズ)の3球団が本拠地としていたため、試合日程の過密さが問題になっていた。(ちなみに後述の東京スタジアムも、大毎がスワローズに貸し出していた)

そのため、1958年に西本監督を解任した大毎オーナー、大映社長永田雅一は、自前の本拠地の建設を決意し、サンフランシスコのキャンドルスティック・パークをモデルに多額の私財を投じて、新球場を作った。

それが、かつて東京の荒川区南千住にあった、日本の幻の名ボールパーク、東京スタジアムだ。

「光の球場」東京スタジアムの照明

東京スタジアムのゴンドラシート
東京スタジアムのゴンドラシート
資料:『あの頃こんな球場があった』28p 佐野正幸著 草思社 2006年)


総工費30億円をかけ1960年に開場した、東京スタジアムは35,000人収容で、立ち見を入れると42,000人収容できたらしい。別名「光の球場」と呼ばれ、当時としては画期的すぎるほどの先進設備を誇っていた。
天然芝の内外野。プラスチック製の独立シート、電光掲示、ゴンドラ席、内野席下のブルペン、バリアフリー。ボーリング場、スケートリンクの併設。東京スタジアムの設備の先進性をほめたたえるウェブサイトは非常に多いが、大袈裟でなく、東京スタジアムは球場設備の話題だけでブログがひとつできてしまう。

1962年5月31日の東京スタジアムの開場セレモニーで行われた始球式Ceremonial first pitch)は、マウンドから投げる日本式ではなく、一塁側ダッグアウトからのアメリカ式だったらしく、キャンドルスティック・パークをモデルにこの球場を作ったオーナー永田雅一のMLBに対する強い憧れがよくわかる。
(MLBで始球式といえば、かつては有名人が客席最前列からボールをグラウンドにいるピッチャーまたはキャッチャーにトスするのが通例だった。だが、いつのころからかアメリカでも、日本のようにマウンドからキャッチャーに向かって投げるスタイルに変わってきている。ただしMLBでは、日本のようにバッターが打席に立ったりはしない)

アメリカ式の始球式
MLB方式の「始球式」


東京スタジアムの開場セレモニーで永田オーナーが観客に「皆さん、パ・リーグを愛してください!」と絶叫したことは非常に有名。西本幸雄と袂を分かった永田も、時をおいて眺めれば、結局は西本幸雄と全く同じ「野球を愛し、パ・リーグを盛り上げた功労者」のひとりなのだ。
セレモニー後、午後7時から東京スタジアムのこけら落とし「大毎オリオンズ対南海ホークス」7回戦が行われ、南海野村克也が東京スタジアム第1号ホームランをスタンドに放りこんだ。東京スタジアムは、全体的に狭く、なおかつ左中間・右中間の膨らみがほとんどないヤンキー・スタジアムに似た形状のヒッターズ・パークだったため、ホームランが非常に出やすく、そのため小山正明魔球パームボールを駆使することで1964年30勝を挙げた。
ちなみに、現在でこそ『東京音頭』は、神宮球場を本拠地にしている東京ヤクルト・スワローズの応援歌だと思われているが、1960年代(昭和40年代)には、東京スタジアムで歌われる大毎オリオンズ応援歌だった。


県営宮城球場の一時使用と
東京スタジアムの閉場・取り壊し

Tokyo Stadium
〜1977年(昭和52年)
1960年代半ば、日本映画は急激な不振に見舞われ、大毎オリオンズの親会社、大映は、お抱えの大スターの急逝や新人スター不在などから窮地に追い込まれ、1971年12月に破産。
オリオンズの球団所有権と、東京スタジアムの球場経営権は、それぞれ別々の所有者の手から手へ移り変わっていき、やがてオリオンズは本拠地球場を持たないジプシー球団として各地を転々することになる。
オリオンズはその後1973年から宮城県を準フランチャイズとして割り当てられ、県営宮城球場をとりあえずの本拠地として延命したが、一方の東京スタジアムは赤字が続き、1973年6月1日に解散することになった。オリオンズの東京スタジアム復帰もささやかれたが、結局実現せず、東京スタジアムは1977年3月に東京都に売り渡され、同年解体。かつてシールズ・スタジアムの跡地がショッピングセンターになったように、東京スタジアムの跡地は荒川区の区民施設になった。
(ジプシー球団オリオンズはその後、1978年に川崎球場を本拠地にしていた大洋ホエールズが新球場・横浜スタジアムに移転した際、川崎球場に本拠地を見出して移転した)


県営宮城球場の改修による
クリネックススタジアム宮城に至る道のり

Kleenex Stadium Miyagi
1950年(昭和25年)5月5日〜

県営宮城球場は、1950年5月27日竣工だが、それを前に、こけら落としとして同年5月5日、パ・リーグ公式戦、毎日オリオンズ対南海ホークス、毎日オリオンズ対大映スターズの変則ダブルヘッダーが組まれた。
その後、関係者の努力により改修に対する長年の要望がかない、現在の「クリネックススタジアム宮城」(2008年2月〜)に至っている。
ちなみクリネックススタジアム宮城のデザインは、左右対称、扇型の外野フェンス、人工芝、ファウルグラウンドの作り、いろいろな点で、1960年代中盤から80年代にかけて作られたクッキー・カッター・スタジアムっぽさが残った昔のMLBスタイルだ。かつて評判の悪かったフィラデルフィアのヴェテランズ・スタジアムや、ピッツバーグのスリー・リバース・スタジアムのレイアウトに似ている気がする。
人工芝であるという点で、このボールパークが、天然芝だった東京スタジアムの伝統を引き継いでいないのは、正直、残念な限り。日本の球場での人工芝の時代は、いったいいつまで続くのだろうか。収容能力や耐震性能の問題からも、遠からず新球場が必要になるだろう。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年8月21日、ボルチモアのカムデンヤーズは、セーフコのお手本になった「新古典主義建築のボールパーク」。80年代のクッキーカッター・スタジアムさながらの問題を抱える「日本のスタジアム」。

日本製紙クリネックススタジアム宮城



こうして長々と野球史をふりかえってみると、現代の日本の東北に宮城球場というプロ用ボールパークがあることは、突然歴史が始まったわけではなくて、日本野球の長い歴史がバックグラウンドにあってこその話であることがわかる。
わからないものだ。もし、あの「光る球場」と賞賛された東京スタジアムの消滅に前後してオリオンズが路頭に迷い、紆余曲折をへて東北に一時的に身を寄せていなければ、もしかすると東北でのプロ野球の歴史は生まれていなかったかもしれないのだ。


1958年に、ブルックリン・ドジャースとニューヨーク・ジャイアンツが東のニューヨークから西海岸に移転して起こった「ボールパーク・ドミノ」は、MLBの古典である古き良き木製ボールパークの時代に終止符を打ち、鉄骨とコンクリートでできたコンクリート・ドーナツ時代に道を開くわけだが、その影響はアメリカ国内だけに留まらず、日米野球でのMLB球団来日や、日本のプレーヤーのキャンプへの招待などの交流によって、日本に「アメリカ野球に対する強い憧れ」を生みだした。
その「憧れ」は、めぐりめぐって永田雅一の東京スタジアムを生み、さらに、その精神の一部は現在の東北・宮城にも受け継がれている。


野球の「つながり」を辿っていく作業は、本当に面白くて、やみつきになる。(このシリーズをまとめるための一ヶ月にわたる長い作業も、無駄な部分を切り落とすのが大変だった。話が複雑化するのを防ぐために、たくさんのプロ野球選手を生んだハワイ朝日軍にも、日米の野球の橋渡しをしたキャピー原田にも触れず、ヒット・エンド・ランを発明したかつてのジャイアンツの名監督ジョン・マグローにすら触れていない)

ベーブ・ルースもプレーしたニューヨークの今は無きエベッツ・フィールドポロ・グラウンズに始まり、大陸を横断した西海岸のロサンゼルス・メモリアル・コロシアム、シールズ・スタジアム、チェニー・スタジアム。キャンドルスティック・パーク、ドジャー・スタジアム。シェイ・スタジアム。そして海の向こうの東京スタジアム、クリネックススタジアム宮城まで。


時間と大陸と海を越え、脈々と伝え続けられてきたものは、いったい何だったのだろう。


それは野球に対する、やみくもな熱だ。(忌野清志郎のいう『デイ・ドリーム・ビリーバー』というやつだ)
あまりに月並みで恐縮だが、他に言葉がみつからない。
2012年シーズン開幕を前に、野球の世界を築いてきた先人たちの努力の歴史に、あらためて心からの敬意を表したい。
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ずっと夢を見て
今も見てる。僕は
デイ・ドリーム・ビリーバー。そんで
彼女はクイーン

ずっと夢見させて
くれて有難う。僕は
デイ・ドリーム・ビリーバー。そんで
彼女はクイーン

 『デイ・ドリーム・ビリーバー』
 オリジナル詞・曲 Jhon Stewart(モンキーズ)
 cover by THE TIMERS
 Japanese lyric by 忌野清志郎

damejima at 06:22

March 22, 2012

キャンドルスティック・パークの開場
Candlestick Park
1960年4月12日〜
Candlestick Park

ビートルズが1966年に最後の公式コンサートを行った場所としても知られ、1971年〜現在はSan Francisco 49ersの本拠地になっているキャンドルスティック・パークは、1960年4月12日に当時副大統領だったカリフォルニア生まれのリチャード・ニクソン(大統領はアイゼンハワー)の始球式で、サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地として開場した。こけら落しのセントルイス戦は、前年1959年に21勝しているジャイアンツ先発サム・ジョーンズが、セントルイスのスタン・ミュージアルをノーヒットに抑えるほどの好投で9回を投げ抜き、ジャイアンツが3-1と勝利。
April 12, 1960 St. Louis Cardinals at San Francisco Giants Play by Play and Box Score - Baseball-Reference.com
ちなみに、この印象的な球場名は、1959年3月3日に行われたネーミング・コンテストの応募作から選ばれた。また、San Francisco 49ersは、サンフランシスコ・シールズ傘下のチームでのプレー経験のある与那嶺要さんが、プロ・フットボーラーだった1947年にランニングバックとしてプレーしたチーム。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年3月1日、偉大なる先人、与那嶺要さんの逝去を悼みつつ、タイ・カッブとヨナミネさん、2人の不世出のホームスチール名人の記録を味わう。

キャンドルスティック・パークは海沿いに作られたため、風が非常に強く、サム・ジョーンズに言わせると「ホームラン、とくに右打者のホームランはほとんど出ない」というほどのピッチャーズ・パークだったらしい。
そのため、当時のサンフランシスコの地元メディアには、「キャンドルスティック移転後のジャイアンツの低迷は、打線が売り物のはずのチームがピッチャーズ・パークに移転したりしたからだ」という説もあった。


その後、村上雅則がサンフランシスコ・ジャイアンツのセットアッパーとして1964年9月1日(ビジター メッツ戦)に日本人初のメジャーリーガーしてデビューするが、村上がジャイアンツのホーム、キャンドルスティック・パークで初登板を果たすのは、同じ年の9月9日。これまたドジャース戦(笑)
このゲームは、ホール・オブ・フェイマーで、この年に最多奪三振を記録したドジャースの200勝投手ドン・ドライスデールが完投で勝っている。
September 9, 1964 Los Angeles Dodgers at San Francisco Giants Play by Play and Box Score - Baseball-Reference.com
村上雅則氏のベースボールカード



ちなみに、日本の戦後のプロ野球の草創期にあたる1956年から1966年までの約10年間に、日米野球で来日したMLBの球団は、ブルックリン・ドジャース(56年)、セントルイス・カージナルス(58年)、サンフランシスコ・ジャイアンツ(60年)、デトロイト・タイガース(62年)、ロサンゼルス・ドジャース(66年)。
1958年に、ニューヨークにあったドジャースとジャイアンツが西海岸に移転してきたことで、それまで東海岸中心だったMLBのロケーションがアメリカ全域に拡大していくわけだが、この「西部劇を生んだ19世紀末の西部開拓時代に続く、アメリカにおける二度目のGo West」ともいえる「MLBの西海岸への拡大」に前後して、ドジャースとジャイアンツが3度も来日していることになる。
この「1958年前後のドジャースとジャイアンツの来日の頻度の多さ」は、明らかに、「MLBの1958年以降の西部開拓戦略」が、アメリカ国内だけで満足するものではなく、太平洋を挟んだ日本にもMLBのプロモーションが十分に及ぶよう意図されていた、と見るのが自然だろう。
その意味でいうと、村上雅則が、当時の彼の実力はともかく(いくらセプテンバー・コールアップとはいえ、1Aからいきなりのメジャー昇格は常識的にちょっとありえない)、日本人初のメジャーリーガーしてデビューさせて「もらえた」のが、何度も来日を果たして日本に馴染みの深いサンフランシスコのチームだったというのは、けして偶然ではなく、日本向けのマーケティング的な意味があったとブログ主は考える。


さらに下って、1995年5月2日、野茂英雄がドジャースの一員として日本人2人目の大リーグデビューを果たしたデビュー戦も、このキャンドルスティック・パークで、またしてもドジャース対ジャイアンツ戦(笑)
とにかく、こう、なんというか、一緒に西海岸に移転してきたドジャースとジャイアンツのゲームは、どこをどう切り取ってきても、因縁めいている(笑)
こちらのゲームは、野茂が5回を1安打無失点に好投して降板するものの、両軍得点のないまま延長15回までいってしまい、15回表にドジャースが3点入れ、これで終わりかと思われたその裏、ジャイアンツがマット・ウィリアムスのサヨナラ2ベースなどで4点入れてサヨナラ勝ちするという、とんでもない幕切れになった。
May 2, 1995 Los Angeles Dodgers at San Francisco Giants Box Score and Play by Play - Baseball-Reference.com
1999年を最後にジャイアンツはキャンドルスティック・パークから、パシフィックベル・パークに本拠地を移した。(球場名は2000年の開場以来、2度変わり、パシフィック・ベル・パーク(2000-2003)、SBCパーク(2004-2006)、そして2007年からAT&Tパーク
もちろんAT&Tパークは、2007年7月11日のオールスターで、イチローがMLBオールスター史上初のランニングホームランを打ったスタジアム。
かつてキャンドルスティック・パークは投手有利な球場だったわけだが、AT&Tパークもパーク・ファクターから見る限り、ホームランはでにくい球場のひとつ(30球団中24位)。
2007 MLB Park Factors - Home Runs - Major League Baseball - ESPN


ドジャー・スタジアムの開場
Dodger Stadium
1962年4月10日〜
Shea Stadium

カムデンヤーズに端を発する左右非対称のボールパーク建設ラッシュによって、近年のMLBには左右対称のボールパークが無くなっていきつつあるが、ドジャー・スタジアムは2012年現在ナ・リーグ唯一の左右対象スタジアム。開場は1962年4月10日のレッズ戦で(6-3でレッズ勝利)、既に8回ものワールドシリーズが行われている。
April 10, 1962 Cincinnati Reds at Los Angeles Dodgers Play by Play and Box Score - Baseball-Reference.com
また第2回WBCでは、2009年3月21日〜23日に準決勝及び決勝が開催され、日本が韓国を5-3で下して連覇を達成した思い出深いボールパークだ。


第2回WBC決勝
イチローの決勝2点タイムリー



シェイ・スタジアムの開場
Shea Stadium
1964年4月17日〜2009年2月18日
Shea Stadium

ドジャースとジャイアンツが去り、エベッツとポロ・グラウンズが取り壊されたニューヨークでは、新球団設立と新球場建設の機運が高まり、弁護士ウィリアム・A・シェイの尽力によって、ニューヨークの新球団メッツができ、1964年にはその本拠地シェイ・スタジアムが開場した。(4月17日ピッツバーグ戦)
April 17, 1964 Pittsburgh Pirates at New York Mets Play by Play and Box Score - Baseball-Reference.com
この「1958年のボールパーク・ドミノ」でつくられた球場は、キャンドルスティック・パークといい、ドジャー・スタジアム、シェイ・スタジアムといい、「左右対称」なボールパークばかりで、左右非対称な球場が大半を占める現在とは大きく傾向が違うことは、写真を見れば一目瞭然。
シェイ・スタジアムは2009年2月18日に閉場されて駐車場になり、メッツの本拠地は2009年以降シティ・フィールドに移ったが、シティ・フィールドは、クッキー・カッター・スタジアムっぽい左右対称デザインのシェイ・スタジアムと違い、かつてブルックリンにあった左右非対称のエベッツ・フィールドを模して作られたボールパークであるため、ニューヨークにかつてのブルックリン・ドジャースの本拠地エベッツの匂いがようやくよみがえることとなった。
Citi FieldClem's Baseball ~ Citi Field



扇型の左右対称のフィールド、広いファウルグラウンド、そして、フィールドを取り囲むように建てられた積層式の高いスタンド。
写真でみれば明らかなように、キャンドルスティック・パーク(1960年)、ドジャー・スタジアム(1962年)、シェイ・スタジアム(1964年)、60年代の3つのボールパークには、どこかしら、60年代後半以降に建設ラッシュが続いたクッキー・カッター・スタジアムにつながる匂いがある。(特にシェイ・スタジアム)
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年8月21日、ボルチモアのカムデンヤーズは、セーフコのお手本になった「新古典主義建築のボールパーク」。80年代のクッキーカッター・スタジアムさながらの問題を抱える「日本のスタジアム」。

Candlestick Parkキャンドルスティック・パーク
1960年開場
Clem's Baseball ~ Candlestick Park

Dodger Stadiumドジャー・スタジアム
1962年開場
Clem's Baseball ~ Dodger Stadium

Shea Stadiumシェイ・スタジアム
1964年開場
Clem's Baseball ~ Shea Stadium


アストロドームアストロドーム
1965年開場。かつてのヒューストン・アストロズのホーム(現在はミニッツメイド・パークに移転)フットボール兼用で、典型的なクッキーカッター。Clem's Baseball ~ Astrodome

リバーフロント・スタジアムリバーフロント・スタジアム
1970年開場。かつてのシンシナティ・レッズのホーム(現在はグレート・アメリカン・ボールパークに移転)やはりフットボール兼用で、レイアウトがアストロドームとまったく見分けがつかない。Clem's Baseball ~ Riverfront Stadium


(4)につづく
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年3月23日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (4)夢の東京スタジアムの誕生

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ロサンゼルス・メモリアル・コロシアムの一時使用
Los Angeles Memorial Coliseum
1923年5月1日〜
ボールパークだった時代のLos Angeles Memorial Coliseum

1958年、ブルックリン・ドジャースが西海岸に移転するにあたって、新球場ドジャー・スタジアムが1962年に完成するまでの4シーズン一時使用したロサンゼルス・メモリアル・コロシアムは、もともとは陸上競技場で、1923年5月の開場。1932年と1984年の2度、夏のオリンピックで開会式・閉会式会場および陸上競技のメイン会場となり、現在はカレッジフットボール、USC(南カリフォルニア大学)トロージャンズの本拠地となっている。
なんとも情けないことに日本のWikiにすら書き漏らされているが、1932年夏の五輪で、日本の西竹一中尉が金メダルを獲得したのが、まさにこのコロシアムで行われた馬術競技であり、特徴あるコロシアム入り口には「JAPAN TAKEICHI NISHI」と刻まれた銅製プレートが残されている。
Equestrian at the 1932 Summer Olympics - Wikipedia, the free encyclopedia
(当時の馬術競技の記録映像は横浜・根岸にある馬の博物館に、西中尉の金メダルは東京・国立競技場内の秩父宮記念スポーツ博物館に、それぞれ残されているらしい)

1932年ロサンゼルス五輪で競技中の西中尉


もともと陸上競技場として作られたロサンゼルス・メモリアル・コロシアムの形状は楕円形だから、長方形のフィールドでゲームを行うフットボールならともかく、野球には向いてなかった。いわば、陸上競技場である東京・霞ヶ丘の国立競技場を本拠地に、野球をやるようなものだ。

ボールパーク時代のLos Angeles Memorial ColiseumClem's Baseball ~ Memorial Coliseum
だが当時の熱狂的なドジャース人気にとっては、たとえボールパークが楕円形だろうと、四角形だろうと、そんなことはまったく些細なことに過ぎなかった。
1959年のワールドシリーズ(ドジャース対ホワイトソックス)のうち、ロサンゼルスで行われた第3戦〜第5戦では、それぞれ92,000人以上を動員。また近年でも2008年3月29日に行われたドジャースのロサンゼルス移転50周年記念ゲーム(オープン戦 対レッドソックス)では、アメリカのスポーツ史上最多、そして世界の野球史上最多となる、115,300人もの大観客がコロシアムを一分の隙間もなく埋め尽くした。ドジャースの人気は本物だった。






シールズ・スタジアムの一時使用
Seals Stadium
1931年4月7日〜1959年9月20日
Seals Stadium



1958年のニューヨーク・ジャイアンツの西海岸移転にあたり、サンフランシスコ市側は、リーグやコミッショナーに熱心に働きかけを行ったが、それだけでなく、新球場建設のための敷地も提供した。
ただ新球場建設に時間が必要だったため、ジャイアンツはPCLのマイナーチーム「サンフランシスコ・シールズ」を傘下におさめ、1958年、59年の2シーズンは、シールズが1931年以来本拠地にしていた「シールズ・スタジアム(Seals Stadium)」を一時使用することになった。(写真をよく見て、シールズ・スタジアムの「照明灯の形」をよく覚えておいてもらいたい)

サンフランシスコ・シールズは、1949年に戦後初の日米野球が行われた際に来日したチームで、そのためマイナーとはいえ、日本のオールドファンには非常に有名で、1951年には川上哲治、藤村富美男、小鶴誠、杉下茂をキャンプに招待するなど、日本のプロ野球との間に深い交流があった。
シールズの49年来日当時の監督は、現役時代にイチロー、ジョージ・シスラーに次ぐシーズン254安打のMLB歴代第3位のヒット数記録をもつレフティ・オドゥール(Lefty O'Doul)。(1934年の日米野球では選手としても来日している。2002年「新世紀特別表彰者」として日本の野球殿堂入り)
与那嶺要は、手首の怪我から1947年に所属していたSan Francisco 49ersを離れ、フットボールから野球に転向したが、そのとき所属していたのが、このサンフランシスコ・シールズ傘下のSalt Lake Bees(ソルトレイク・ビーズ)で、与那嶺に日本への移籍を勧めたのが、他でもない、当時読売ジャイアンツのアドバイザーだったレフティ・オドゥールである。
Wally Yonamine, 85, Dies - Changed Japanese Baseball - NYTimes.com

Wally Yonamine Minor League Statistics & History - Baseball-Reference.com

ジャイアンツがシールズ・スタジアムを一時使用している間、サンフランシスコ・シールズは一時的にアリゾナ州フェニックスに移転し、名称も「フェニックス・ジャイアンツ(Phoenix Giants)」を名乗った。
1958年当時のサンフランシスコ・ジャイアンツは7つのファームを持っていたが、うち6つがそれぞれのリーグで優勝しており、西海岸移転当時のジャイアンツの人材育成システムには定評があった。

1958年4月15日シールズ・スタジアムにおけるサンフランシスコ・ジャイアンツ開幕戦の相手は、当然のことながら、ともに西海岸に移転してきたドジャース。
23,448人の大観客を集めたこのゲームは、ジャイアンツ3番ウィリー・メイズが4回裏の満塁のチャンスで打った内野安打による2打点などで、ジャイアンツが8-0と圧勝した。
April 15, 1958 Los Angeles Dodgers at San Francisco Giants Play by Play and Box Score - Baseball-Reference.com



観客数23,448人という数字は、少ないように感じるかもしれないが、もともと外野席が無いシールズ・スタジアムのキャパシティは、西海岸に移転してくるジャイアンツのための外野席増設を行っても22,900人しかなく、これでも超満員状態が続いたことになる。
実際、前年1957年ニューヨークでの観客動員数は、653,923人でリーグ最下位(8チーム中8位)だったジャイアンツが、サンフランシスコ移転以降は、1958年1,272,625人、1959年1,422,130人と、観客数は爆発的に増加し、ジャイアンツのサンフランシスコ移転は大成功だった。

真上からみたシールズ・スタジアム(外野席増設前)
出典:Fly with me over San Francisco in 1938 « Burrito Justice(外野席増設前)
上からみたシールズ・スタジアム(外野席増設後)
出典:The Search for Home Plate at Seals Stadium(外野席増設後)

やがて新球場が完成して、ジャイアンツがシールズ・スタジアムを去ることになり、1959年9月20日、シールズ・スタジアムでの最後のゲームが行われた。相手はシールズスタジアムのオープニングゲームと同じ、またしてもドジャース対ジャイアンツ。
このゲームは、この年21勝を挙げ、オールスターに初選出されたジャイアンツ先発サム・ジョーンズをドジャース打線が早めに打ち込んでマウンドから引きずり下ろし、8-2とドジャースがシールズ・スタジアム開場ゲームでの負けを雪辱した。観客は22,923人で、この狭い球場としてはもちろん満員御礼。
September 20, 1959 Los Angeles Dodgers at San Francisco Giants Box Score and Play by Play - Baseball-Reference.com


シールズ・スタジアムの取り壊し
Seals Stadium
〜1959年11月
とりはずされるシールズ・スタジアムのホーム・プレートとりはずされるシールズ・スタジアムのホーム・プレート

ジャイアンツが新球場キャンドルスティック・パークの完成を待つ2シーズンの間、本拠地を失ったサンフランシスコ・シールズは、アリゾナ州フェニックスに一時移転し、「フェニックス・ジャイアンツ(Phoenix Giants)」を名乗っていたが、アリゾナの酷暑に悩まされ、十分な集客ができなかった。
ジャイアンツが完成したキャンドルスティック・パークに移転した後のシールズ・スタジアムは、取り壊されて跡地はショッピングセンターにされることになったため、シールズはアリゾナからサンフランシスコに戻ることなくワシントン州タコマに移転することになり、戦後日本人にとても馴染み深かった「サンフランシスコ・シールズ」の名称は消滅することになった。シールズ・スタジアムは1959年シーズン終了後の11月に取り壊された。


タコマのチェニー・スタジアム開場と
シールズ・スタジアムの椅子と照明灯の継承

Cheney Stadium
1960年4月16日〜
Seals Stadiumから移設されてきたCheney Stadiumの照明灯

フェニックス・ジャイアンツは、アリゾナ州フェニックスからワシントン州タコマに移転して、新球場をつくり、「タコマ・ジャイアンツ(Tacoma Giants)」と名称が変わった。
その「タコマ・ジャイアンツの新球場」というのが、今まさにマリナーズのマイナー、レイニアーズが本拠地にしているワシントン州タコマのチェニー・スタジアム(Cheney Stadium)
タコマにマイナーの本拠地を置いたのは、この「タコマ・ジャイアンツ」が最初で、マリナーズのマイナーであるレイニアーズは、タコマにマイナーを置いた7番目のチームなのだ。

チェニー・スタジアム建設にあたっては、サンフランシスコのシールズ・スタジアムを取り壊したときに出た椅子や照明灯が移設されたのは有名な話で、それらの設備は今も使われている。
ドジャースとジャイアンツが西海岸に移転し、MLBが全米に拡張された1950年代末のさまざまな紆余曲折を経て、日本にも馴染みの深いシールズ・スタジアムの椅子は、巡り巡ってチェニー・スタジアムとマリナーズに引き継がれることになった。
Seals Stadiumから移設されてきたCheney Stadiumの木製椅子シールズ・スタジアムからチェニー・スタジアムに移設された木製椅子


ボールパーク・ドミノ」が起きた1958年にちょうどサンフランシスコに住んでいたワシントン州タコマ出身の作家・詩人リチャード・ブローティガンが、『A Baseball Game』という詩を書いたのは1958年2月だが、当時の彼が、サンフランシスコ・シールズが移転して彼の故郷タコマで「タコマ・ジャイアンツ」になることや、シールズ・スタジアムの椅子がタコマのチェニー・スタジアムに移設されることなどを知っていたのかどうかは、野球史としても文学史としても非常に興味深い話だが、残念ながら、その点についての資料が見つからず、いまのところ何もわからない。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年3月6日、リチャード・ブローティガン 『A Baseball Game』の野球史的解釈。 「1958年の西海岸」という特別な年、特別な場所。

(3)につづく
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (3)キャンドルスティック・パーク、ドジャー・スタジアム、シェイ・スタジアムの開場

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1950年にブルックリン・ドジャースのオーナーになったウォルター・オマリーが、後に「20世紀の三大悪人は、ヒトラー、スターリン、そしてウォルター・オマリー」などと酷く罵倒されることになった理由は、もちろんブルックリンの超人気球団だったドジャース(なんでも1946年からの10年間に、当時東西制導入前の8球団制ナ・リーグの全収入の44パーセントを稼ぎだしていたらしい)の西海岸移転を決めたからだが、1958年のドジャースとジャイアンツの西海岸移転が、それまで東に著しく偏っていたMLBを全米へ拡張させ、さらには、この2球団を中心にMLBが積極的な日本遠征を繰り返したことで、MLBの全米への影響力拡大や、また日本における野球人気向上にも大きく貢献したことを考えると、ウォルター・オマリーが当時のジャイアンツのオーナー、Horace Stonehamを説得して、1958年のドジャースとジャイアンツ同時の西海岸移転を決断させたことは、怒るのも無理はないブルックリン地元民のやるせない憤懣はともかくとして、野球界全体の発展からみるかぎり、大英断だったといえる。


ボールパーク・ドミノ

プロスポーツにおける球団移転は、本拠地とするスタジアムの変更を意味しており、移転先では新スタジアムが建設されることが多い。
1958年に起きたニューヨークの2大球団、ドジャースとジャイアンツの西海岸への移転は、MLB史にとって、ボールパークの流れを大きく変える転換点となった
この1958年の西海岸移転によって、アメリカ東部にあった由緒ある(だが老朽化した)MLB草創期のボールパークのいくつかが閉鎖され、その一方で、西海岸での新しいボールパークの建設(そしてニューヨークでの新しい球団とボールパークの創設)をもたらし、いわば「ボールパークのドミノ倒し現象」とでもいうような連鎖現象を生んだ。
そして、この連鎖的なスタジアム建設の流れの中で、ボールパークの建築方法は、古典的な木製の時代から、鉄骨とコンクリートでできた左右対称のコンクリートドーナツの時代に向かっていくことになる。
このボールパークの取り壊しと建設の連鎖的な流れを「ボールパーク・ドミノ」と呼ぶことにすれば、この「1958年のボールパーク・ドミノ」の影響は、アメリカ国内はもちろん、当時まだ整備が進められている最中で基盤の弱かった日本のプロ野球にも影響を与えた。

(ちなみに、ボールパークを扱ったサイトというのは、アルファベット順に羅列しているサイトが多い。それはそれでデータとしての使いやすさがあるのだけれど、その一方で、羅列は歴史ではない。
歴史というのは大河のようなもので、流れ、つまり、一定のストーリーがある。ボールパークについてのサイトの多くは、ボールパーク同士のつながりがストーリーとして、きちんと流れにまとめられていないことが多い)


エベッツ・フィールドの閉場
Ebbets Field
1913年4月5日〜1957年9月24日


Ebbets Field

ブルックリン・ドジャースで球団創設以来42年もの長きにわたって運営にたずさわったオーナー、チャーリー・エベッツは、建築デザイナーでもあり、本拠地エベッツ・フィールドはオーナーであるエベッツ自身の構想による由緒あるボールパークで、9回ものワールドシリーズが行われたが、1958年のドジャース西海岸移転により、歴史の舞台から姿を消すことになった。
ドジャースがブルックリンからロサンゼルスに移転したときのGMは、Buzzie Bavasi(1951〜1968)。かつてシアトル・マリナーズのGMをつとめたビル・バベジの父親である。
エベッツでの最後のゲームは、1957年9月24日火曜日のドジャース対パイレーツ戦で、観客はわずか6,702人。これは当時の人気球団ドジャースのゲームとしては少ない。また、最終戦の前にエベッツで行われたフィリーズ3連戦(1957年9月20日〜22日)でも、観客動員数は6,749、5,118、6,662と冴えなかった。地元ブルックリンの野球ファンは閉鎖するエベッツに来場しないことで、オマリーのドジャース西海岸移転に強い抗議の感情を表した。
September 24, 1957 Pittsburgh Pirates at Brooklyn Dodgers Box Score and Play by Play - Baseball-Reference.com
MLB草創期のボールパークは木製だったため、常に火災の危険がつきまとい、実際、火災で多くのボールパークが焼失している。(後述のポロ・グラウンズも1911年4月の火災によって一度焼失し、後に再建された)
しかし、エベッツ・フィールドは鉄筋とコンクリートでできたボールパークで、当時としては画期的な構造であり、収容人員も23000人と当初は十分だった。
だが、熱狂的なドジャース人気の高まりとともに多数の観客がエベッツ・フィールドに押しかけるようになると、球場はすぐに手狭になってしまい、外野席の度重なる拡張などで収容人員をなんとか32000人くらいまで拡張できたものの、それでもオーナーのウォルター・オマリーにしてみれば、エベッツの手狭さは大いに不満で、ニューヨーク市にもちかけた移転交渉が頓挫したこともあり、彼に西海岸移転を決断させる原因になった。1960年2月23日にエベッツ・フィールドは取り壊され、いったんは歴史を閉じた。

オリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズオリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズ

だが、後にクッキーカッター・スタジアムからの脱却をめざして建設されだした『新古典主義』といわれる新しいボールパークの建築様式のさきがけとなったボルチモアの『オリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズ』(1992年)が、チャーリー・エベッツの傑作エベッツ・フィールドをお手本にして作られたことから、エベッツ・フィールド風のボールパークのスタイルは、数十年の時を隔てた90年代以降にアメリカ各地で次々と復活を遂げることになる。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年8月21日、ボルチモアのカムデンヤーズは、セーフコのお手本になった「新古典主義建築のボールパーク」。80年代のクッキーカッター・スタジアムさながらの問題を抱える「日本のスタジアム」。



ポロ・グラウンズの閉場
Polo Grounds
1890年4月19日〜1963年12月



Polo Grounds
ニューヨークのアッパー・マンハッタンにあったポロ・グラウンズは、MLBニューヨーク・ジャイアンツが1883年から1957年までの長きにわたって使用していたボールパーク。1919年にジャイアンツを買い取ったオーナー、Charles Stonehamは、後にジャイアンツのオーナー職を受け継ぐことになる、息子のHorace Stonehamに、ボロ・グラウンズで切符のモギリから、あらゆる仕事を体験させ、野球にかかわる仕事の全てを教え込んだ。
ヤンキースの台頭による観客動員低迷に泣いたジャイアンツは、かつてボストンにあったブレーブスがセントルイスに移転して大成功を収めたのをみて、ドジャースのオーナー、ウォルター・オマリーの説得に応じ、サンフランシスコ移転を決意した。ジャイアンツは1957年秋を最後に、伝統あるポロ・グラウンズを去った。
ジャイアンツのポロ・グラウンズにおける最終ゲームは1957年9月29日のパイレーツ戦。奇しくも5日前、1957年9月24日には、同じくニューヨークを去って西海岸に移転するブルックリン・ドジャースがエベッツ・フィールドでの最後となるゲームで、やはりパイレーツと対戦していた。ニューヨークを去る2チームのホームパーク最終戦が、奇しくも2つともパイレーツとのゲームになったわけだ。
September 29, 1957 Pittsburgh Pirates at New York Giants Box Score and Play by Play - Baseball-Reference.com

ポロ・グラウンズからジャイアンツが去って以降は、いくつかのプロスポーツチーム(例えば1962年創設の新球団ニューヨーク・メッツなど)がこのスタジアムをを使い続けたが、結局長続きせず、1963年12月にはポロ・グラウンズは閉場。1964年4月には取り壊され、ポロ・グラウンズの長い長い歴史は終わった。

ブログ注:火災による消失や増改築を繰り返したポロ・グラウンズの歴史は、いくつかの期間に区分されるのが普通なのだが、区分を、「機銑犬泙任裡幹」とするか、「機銑垢泙任裡鬼」とするか?については、英語サイトでも意見が2つに割れてしまっている。
そのため、ジャイアンツがニューヨークのチームとしての最後のゲームである1957年9月29日パイレーツ戦のスタジアムは、「Polo Grounds 検廚班週するサイトと、「Polo Grounds 后廚班週するサイト、2種類が存在する。
例えば超有名野球データサイトBaseball Referenceでは、ジャイアンツが最終戦を行ったポロ・グラウンズをPolo Grounds と表記している。だが、アメリカ版Wikiや、Baseball Almanacのように、Polo Grounds と表記するサイトも多く存在する。また、ジャイアンツ公式サイトでは、「1911年から1957年にかけてのポロ・グラウンズ」を、Polo Grounds と表記しており、有力サイトBaseball Referenceと公式サイトが表記を異にしているのだから、ちょっと困る。
「区分が2種類に分かれる原因」は、どうも「1889年から90年にかけての資料の乏しい時代のポロ・グラウンズを、兇肇ウントするか、靴箸垢襪」という微妙な点に原因があるようだが、詳しいことはわからない。
Giants Ballparks | SFGiants.com: History
だが、そういう細部にこだわらずにおくなら、「ジャイアンツの西海岸移転直前のポロ・グラウンズ」については、あらゆるサイトの意見が一致している。それを犬班週するか、垢班週するかという「数え方の問題」はあることを別にすれば、「ジャイアンツが西海岸に移転する直前まで使用していたスタジアム」は、「1911年から1957年までのポロ・グラウンズ」である。
San Francisco Giants - Home Stadiums | Heritage Uniforms and Jerseys

さて、よく知られているように、ポロ・グラウンズは当初ジャイアンツがヤンキースに「貸して」いた。しかし1920年にヤンキースがボストンからベーブ・ルースを獲得すると、ニューヨーカーの野球人気は飛ぶボール、ホームランの出やすい球場の派手なヤンキースに大きくシフトしてしまい、ジャイアンツはいわば「軒を貸して母屋をとられる形」になった。
怒り心頭のジャイアンツはヤンキースに対し「1921年以降のポロ・グラウンズ使用を禁じる」と通告したが、ヤンキースはポロ・グラウンズのハーレム・リバーを挟んでちょうど反対側にあるブロンクスに旧・ヤンキースタジアム(1923〜2008)を建設して本拠地を移したため、ヤンキース人気に歯止めをかけることはできなかった。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年8月25日、セーフコ、カムデンヤーズと、ヤンキースタジアムを比較して、1920年代のポロ・グラウンズとベーブ・ルースに始まり、新旧2つのヤンキースタジアムにも継承された「ポール際のホームランの伝統」を考える。

(2)へつづく
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (2)ロサンゼルス・メモリアル・コロシアム、シールズ・スタジアムの一時使用と、チェニー・スタジアムの建設

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damejima at 12:25

February 12, 2012

東京スタジアムのことを書こうと思って野球のスタジアムのことを調べるサイトを探していたら、いつのまにかスタジアムを扱ったサイトそのものにハマってしまい、ミイラとりがミイラになってしまっていた(笑)
ついでだから、今の時点での「スタジアムを扱ったウェブサイト」のベスト3を挙げておこう。
この3つ、あまりにも素晴らしくて甲乙つけがたいので、順位はつけない。(どうせまた、新しいサイトを見つければ入れ替わるし 笑)


スタジアム・アトラス
Stadium Atlas | The unique world sports stadium guide

網羅している、という点で言えば、このサイトの右に出るサイトはたぶん無いだろうと思う。まさにスタジアムの百科事典である。
まず扱っているスポーツのジャンルが異常に広い。野球、フットボールはもとより、自転車、ゴルフ、ラグビー、テニス、果てはクリケット、ドッグレース、競馬、ラクロス、ロデオまで扱っている。
また、このサイト、国別検索もできるのだが、扱っている国の数が、もうハンパない。アルファベットの最初のAのアフガニスタンから、Zのジンバブエまで、扱っている国がなんと153か国というのだから、いやはや、もう呆れるしかない(笑)
いったい、どこの誰がこんな膨大な作業をやっているのだろう。


Clem's Baseball
Clem's Baseball ~ Introduction / navigation page

オリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズ2Dの図の美しさといえば、やはりこのサイトになってしまう。このブログでも何度も引用させてもらっている。本当に素晴らしいグラフィックには、このサイトを管理している方のスタジアムへの愛着が十二分に表現されている。
コンピューターとインターネットの発達で、行ったこともない街でもグーグルマップでバーチャルに散歩できる、そんな時代ではあるが、それでもやはり、こういう簡潔で美しい2Dグラフィックには惚れ惚れさせられてしまうし、自然と作った人への敬意が湧く。
このサイトはカラートーンも、天然芝を意識した緑色を中心にしたカラーリングで本当に綺麗だから、見ていて目が疲れない。
野球というスポーツのスタジアムが天然芝を多く使っていることは、プレーヤーの足腰に対する影響を減らすわけだが、長時間プレーを見つめ続ける観客にとっても、緑色は目が疲れない、というメリットがあるわけだ。


スタジアム・サンプル
Stadiums Sample

スタジアム・サンプル by Google Earth

正式なサイトではなく、あくまでサンプルだが、立体性というか、スタジアム特性を立体的に眺めたいときに便利だし、また、ただ眺めているだけでもインテリア的に楽しい。(ただ、やたらとメモリーが消費されるのは、この手のサイトの大きな難点だ。非力なパソコンだと非常につらいだろう)
Google Earthのプラグインを紹介するページからリンクが張られているているところをみると、このサンプルをグーグルが作っているのかどうかは、ちょっとわからないが、Google Earthの利用のしかたにはこういう素晴らしい楽しい方法がありますよ、と、Googleのプロモーションのために作られたサイトサンプルのようだ。
下に並んでいるスタジアム名を書いたボタンをポチっと押すと、あっという間にAT&Tパークや、フェンウェイヤンキースタジアムがレンダリングされ、しかも、目の前でグルングルン勝手に回転してくれる。
同じリンクページにはハワイ観光を紹介する3Dページが紹介されているが、これもGoogle Earthの良さを利用していて、本当によくできている。(こちらのサイトも非常にメモリを消費する。非力なパソコンではちょっと無理だろう)
3D Hawaii | Hawaii Vacation Planning - Vacations - Hotels - Activities


Google Mapも、Google Earth同様に様々な新しい使い方がユーザーの創意によって日々開発され続けているわけだが、その名もGoogle Maps Maniaというサイトがあって(笑)ここには、日々発見され続けるGoogle Mapの新しい使い方が、それはもう、膨大な数アップされている。
これを見ると、「膨大な情報量と手際のいいデザインが両立したときにだけ成り立つ独特の美しさがあること、そして、その独特の美の実現のには膨大な手間がかかること」の両方が非常によくわかる。
Google Maps Mania


結局のところ、どのサイトも、細かい手作業への集中を可能にしているのは、「対象に対する度はずれた熱心さと、しつこいほどの好奇心」だ。時間を忘れて作業に没頭してしまう熱意と飽くなき創意がないと、やはり面白いサイトは作れない。
ハンディGPSであるガーミンを独自の工夫で使いたおすヘビーユーザーたちに独特のワールドがあるように(ブログ主もガーミンは大好きだ。スマートフォンにGPSが搭載されたにしても、ガーミンにはやはりガーミンにしかない良さがある)、スマートフォンやブログなども、本当はインターネット上のマップデータともっと連動させるような工夫をすると、もっともっと面白い使い方が発見できていくのだろうと思うが、使い方を研究しているうちに短い一生が終わってしまう危険もある(笑) 
パソコンにかじりついてマップをいじりたおすか、それとも海に行って、のんびりビールでも飲むか、そこがなかなか悩ましいところだ。


宇宙ステーションから見たオーロラ





damejima at 04:25

January 10, 2011

2004年に引退したロベルト・アロマーはゴールドグラブを10回も受賞していて、これがMLBの二塁手として歴代最高回数なわけだが、Baseball Referenceから、ポジション別に3位までの選手をピックアップしてみた。
選手の名前の前の数字は受賞回数であり、背番号ではない。


ポジション別のゴールドグラブ受賞回数ランキング
ア・リーグ
MLB American League Gold Glove Award Winners - Baseball-Reference.com
ナ・リーグ
MLB National League Gold Glove Award Winners - Baseball-Reference.com

Pitcher
18 Greg Maddux
16 Jim Kaat
9 Bob Gibson

Catcher
13 Ivan Rodriguez, Puerto Rico
10 Johnny Bench
7 Bob Boone

1B
11 Keith Hernandez
9 Don Mattingly
8 George Scott

2B
10 Roberto Alomar, Puerto Rico
9 Ryne Sandberg
8 Bill Mazeroski

3B
16 Brooks Robinson
10 Mike Schmidt
8 Scott Rolen

SS
13 Ozzie Smith
11 Omar Vizquel, Venezuela
9 Luis Aparicio, Venezuela

OF
12 Roberto Clemente, Puerto Rico
12 Willie Mays
10 Ken Griffey
10 Andruw Jones, Curacao
10 Al Kaline
10 イチロー, Japan


ゴールドグラブ賞ができたのは1957年。だから、MLBができたばかりの時代のプレーヤーはこのランキングに入っていないし、近年ではこの賞の選出方法の欠陥についてさまざま議論もあるだけに、ゴールドグラブ受賞回数だけをもってMLB歴代最高の守備の名手が誰かを語れるとはもちろん言い切れない。
だが、それにしたって、10回以上この賞を受賞した選手が1957年以降、わずか16人しかいないのは、まぎれもない事実だ。もちろん10年以上連続受賞した選手はさらに限られる。

細かすぎる議論など、何十年というレンジでの話では、無視してもいい。1回でも受賞できたらそれだけでも凄いこの賞を、10回以上も受賞できた選手はやはり、文句なく凄い、のである。当たり前のことだ。
例えば、このところ衰えが目立ってきたデレク・ジーターの去年のゴールドグラブ受賞には文句を言いたい人がたくさんいること自体は、よーくわかるわけだが(笑)、受賞回数10回以上という長い目で見た基準からすれば、いまだ5回しか受賞してないジーターが、これからのキャリアでオマル・ビスケールルイス・アパリシオを越えて2桁のゴールドグラブ受賞回数に到達することは、おそらくないと思うのだ(笑)
だから肩がこるほど議論に力を入れすぎてもしかたがない。


むしろジーターより、きちんとした注釈が必要なのは、外野手部門のウィリー・メイズだろう。

ウィリー・メイズが例の「ザ・キャッチ」をやってのけたのは、1954年のワールドシリーズだが、この年にはまだゴールドグラブ賞そのものが存在していない。
メイズはオールスターに1954年から1973年まで20回連続出場しているわけだから、もっと早くこの賞ができていたら、1954年から56年の3年間にもゴールドグラブを受賞していた可能性がある。そういう意味で、もしMLBのもっと初期からゴールドグラブがあったなら、メイズの外野手として12回のゴールドグラブ受賞歴は、間違いなくもっと多かったに違いない。
だからもし再来年にイチローが12回目のゴールドグラブを受賞しても、受賞回数だけでウィリー・メイズと比肩できたと、全米のクチうるさい人たちに(笑)いってもらえるかどうかはわからない。


あと、これも余談だが、彼の「ザ・キャッチ」は、センター方向の、外野手の頭を越していく140メートルの大飛球だったわけだが、メイズがこの大ファインプレーを達成できた理由については、ゲームが行われたスタジアム、ポロ・グラウンズの特殊すぎる形状にも多少要因があると思う。
ポロ・グラウンズは、これまで何度も紹介してきた通り、もともとがポロ競技のための施設であり、ポロ・グラウンズのセンターは483フィート(約147メートル)もあって、センター方向だけが異常に広い縦長の形状だった。

Polo Groundsポロ・グラウンズ

Polo Grounds, Eighth Avenue at 159th Street, 1940
資料:A Little More New York in Black and White (photos and commentary)

メイズがつかんだ打球の飛距離は460フィート(約140メートル)も飛んでいたといわれているが、ホームグラウンドであるポロ・グラウンズの広大すぎるセンターを日頃から守っていたメイズは、「どんなに大飛球であってもセンター方向なら、フェンスの存在をほとんど気にすることなく全力疾走でキャッチしに行けることがわかっていたはずだ」と思うのである。
ジャイアンツがまだニューヨークのブルックリンにあって、ポロ・グラウンズをホーム・グラウンドにしていたからこそ達成できたファインプレーであったと考えるわけだが、どうだろう。

ウィリー・メイズのザ・キャッチ

現代のスタジアムなら、140メートルの大飛球は文句なくホームランであって、外野手は追いかけもしない。140メートルの飛距離の打球を背走で掴んだ古き良き時代のファインプレーとはまた違う苦労が、現代の外野手にはある。

今の時代、もしフェンス際に大打球が上がったら、外野手はフェンスを気にしないわけにはいかない。いつぞやのイチローのフェンス直前の後ろ向きのバスケット・キャッチ(あれも歴史に残る大ファインプレーだが)にしても、ホームランをもぎとったスパイダー・キャッチにしても、現代の外野手はフェンス激突のたいへんな危険を承知の上で、フェンス際の魔術的なファインプレーを達成しなければならないのである。

damejima at 04:43

September 13, 2010

新ヤンキースタジアムが、1920年代のポロ・グラウンズや、旧ヤンキースタジアムの「ポール際が非常にに狭い」という奥ゆかしい(笑)伝統を引き継いで、ポール際がたった95mしかなく、両翼が100mと国際試合の基準どおりの広さがあるセーフコなどの球場に比べて、ポール際がかなり狭いことを一度記事にした。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年8月25日、セーフコ、カムデンヤーズと、ヤンキースタジアムを比較して、1920年代のポロ・グラウンズとベーブ・ルースに始まり、新旧2つのヤンキースタジアムにも継承された「ポール際のホームランの伝統」を考える。

セーフコ、ヤンキースタジアムの比較セーフコ、ヤンキースタジアムの比較図(ブログオリジナル Copyright © damejima. All Rights Reserved.)

赤:セーフコ
青:ヤンキースタジアム


なぜ、こういうことが起きるかというと、理由はハッキリしていて、「ポール際のスタンドが、弧を描いてかなり丸くなっているから」だ。


日本の場合にこういう形状の球場として代表的なのは、ヤクルト・スワローズの本拠地・神宮球場で、ポール際がかなり丸い形状のために、両翼がたったの90mしかない。
また、阪神タイガースの本拠地・甲子園球場も、これはよく知られていることだが、左中間・右中間は鬼のように広いが、センターの奥行きが無く、また、神宮と同じようなスタンドの形状からくる理由で「ポール際が狭い」。これらの球場のポール際の共通点は、新ヤンキースタジアムと甲子園を比べてみても、よくわかる。
ヤンキースタジアムと甲子園の比較
新ヤンキースタジアム(イラスト部分)と甲子園(赤線)は形状がかなり違うが、両翼の広さはほぼ同程度。(Copyright ���2010 damejima. All Rights Reserved.)


ポール際の非常に狭い甲子園と神宮、2つの球場で生まれる「ポール際のボーナスホームラン」を片手間に調べてみた。(以下、このブログでは例外的に日本時間で表記)

まず、ダメ捕手城島のボーナス・ホームラン(笑)から調べてみよう。
今年城島の打ったホームランは24本だそうだが、58%にあたる14本を、甲子園(8本)神宮(6本)で打っている5本のうち3本を、甲子園または神宮で打っているわけだ。
なんというか、予想通りすぎて面白くない(笑) 打率も、ほとんどを横浜戦で稼いだ打率だし、偏りの激しいこと、激しいこと(笑)シアトル時代にオークランド戦だかでだけバカスカ打っていたのを思い出す。
城島・球場別ホームラン数
Yahoo!スポーツ - プロ野球 - 阪神タイガース - 城島 健司

試しに、「城島 ポール際」とキーワードを入れて軽く検索してみたら、最初の数ページですぐに、下記の城島の5本の甲子園または神宮のポール際に打ったホームランが出てくる。予想を裏切らない、貴重なプレーヤーである(笑)

4月3日ナゴヤドーム 中日戦 ライトポール際 投手・チェン
5月2日甲子園 巨人戦 レフトポール際 投手・久保
城島TG戦初アーチ!同級生新井と競演 - 野球ニュース : nikkansports.com
7月30日甲子園 中日戦 レフトポール際 投手・吉見
阪神首位ガッチリ 城島“10連勝弾”(野球) ― スポニチ Sponichi Annex ニュース
8月29日神宮 2本 ヤクルト戦 レフトポール際
時事ドットコム:猛打ショー呼ぶ2発=城島、攻守に貢献−プロ野球・阪神


また、暇つぶしに「城島以外の阪神の選手、または他球団の選手が、甲子園または神宮のポール際に打ったホームラン」を軽く検索してみたら、こんな感じになった。ちょっと面白い結果になっている。

6月29日甲子園 阪神・ブラゼル 横浜戦 外のシュートをレフトポール際
6月30日甲子園 中日・和田 投手・下柳 ライトポール際
7月13日甲子園 巨人・長野 ライトポール際決勝3ラン
7月20日甲子園園 阪神・鳥谷 レフトポール際サヨナラ2ラン
8月17日甲子園 阪神・藤川俊 レフトポール際ダメ押し3ラン
9月1日甲子園 横浜・内川 3回ライトポール際ソロホームラン
9月11日甲子園 ヤクルト・ホワイトセル レフトポール際逆転2ラン 投手・藤川球


面白い結果になった、というのは、甲子園のポール際にホームランを打ったバッター、打った球のコース、打ったイニングなどに、「ポール際にホームランが出やすい甲子園特有のシチュエーション」がみられるからだが、いまここで書いても面白くないので、ネタとしてとっておいて、これからの展開を見守ることにする(笑)
決勝だの、逆転だの、サヨナラだの、劇的なホームランばっかり並んでいるが、甲子園のナイトゲームの終盤がもつれるのには、ちゃんと理由があったのを発見できたわけだ。

ちょっとだけネタばらししておくと、誰でもわかるのは、6月29日のブラゼルのホームランと、9月11日のホワイトセルのホームランの類似性だろう。
夜が更けてきた夏の甲子園で、パワーのあるレフティを打席に迎えている「ホームランの可能性の高いシチュエーション」にもかかわらず、こともあろうに「城島が特定のピンチのシチュエーションで、決まって使いたがるアウトコース」を使って大勝負にいって、その前の11打席ノーヒットのホワイトセルに決勝ホームランを打たれるあたり、城島というダメ捕手が「いかに頭を使ってないか」「いかに自分の周囲を観察してないか」が、よくわかる(笑)
自分のチームの左バッター・ブラゼルが、普段どのコースの球を、どういうスイングで甲子園のレフトのポール際に放り込んでいるかすら、頭に入れないでキャッチャーをやっているわけだ。
たいしたもんだ。さすが、さすが。
ホワイトセルに打たれた城島の当時のコメント
「(一塁が空いていたのにホワイトセルと勝負したことについて)簡単にストライクゾーンで勝負しようとは思っていなかった。(逆転の走者を)簡単に塁に出すことはない。(投手・藤川球との)意思疎通はできていた」

ストライクゾーンで真っ向勝負せず、アウトコースに逃げたりするから、かえって捕まったんだろうに(笑)自分のチームの本拠地の特性くらい、頭に入れとけっての(笑)
やっぱりこういう選手だからこそ、右打者不利のセーフコで打球を引っ張り続けて併殺の山を築くわけだ。(ちなみに、城島は現在、併殺打22で、2位を大きく引き離して、セ・リーグ断トツのトップだそうな(笑))






damejima at 16:26

August 26, 2010

8月のヤンキースとの3連戦で1試合2本のホームランを打ったイチローが、ヤンキースタジアムについて軽くコメントしていたが、セーフコ・フィールドとヤンキースタジアムの違いが気になって、ちょっと画像をこしらえてみた。
元データ:Clem's Baseball ~ Stadiums by Class

ただ、以下の2つの理由から、どの画像も「お遊びレベル」だ、ということを忘れて欲しくない。この画像だけを元にあれこれモノを言ってもらっても責任は持てない。
理由の1つ目は、元データの平面図(Clem's Baseball ~ Stadiums by Class)が「どの程度の正確さで作成されているか」、それがわからない、ということ。
2つ目の理由は、「球場の大きさは、必ずしも公称どおりの大きさ、公式に発表されている数値どおり作られているとは、限らない」ということがある。かつて観客席の数が公称の数字と実際の席数が異なる、なんてこともよくあったわけだが、残念な話である。

そういう制約があることを心得た上で、まぁ暇つぶしにでも眺めてもらいたい。


右打者天国のカムデンヤーズ
セーフコよりさらに左打者天国のヤンキースタジアム


カムデンヤーズ、セーフコ、新ヤンキースタジアム、この3つの球場はいずれも、1992年以降に大流行したネオ・クラシカル(新古典主義)のボールパークに分類されている。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年8月21日、ボルチモアのカムデンヤーズは、セーフコのお手本になった「新古典主義建築のボールパーク」。80年代のクッキーカッター・スタジアムさながらの問題を抱える「日本のスタジアム」。

セーフコ、カムデンヤーズ、ヤンキースタジアムの比較セーフコ、カムデンヤーズ、ヤンキースタジアムの比較図(オリジナル Copyright © damejima. All Rights Reserved.)
赤:セーフコ
緑:カムデンヤーズ
青:ヤンキースタジアム

こうして3つの球場を同じ平面に並べてみると、いくつかわかることがある。

セーフコとカムデンヤーズは、外野フェンスの形状が基本的に非常によく似ている。直線的で硬質なフォルムで、凸凹の位置も全体として似ている。それに比べ新ヤンキースタジアムは新古典主義に特徴的な左右非対称の球場ではあるが、外野フェンスは弧を描いた曲線的フォルムで、直線的な部分がない。
新古典主義のボールパークにもいろいろあって、ほとんどはセーフコやカムデンヤーズのような「直線的なフォルム」の球場が多いが、中には、新ヤンキースタジアム、ブッシュ・スタジアム、グレート・アメリカン・ボールパークのように「曲線的フォルム」をもつ球場も少数だがあるのである。

カムデンヤーズ、セーフコ、新ヤンキースタジアム、のうち、左中間がもっとも広いのはヤンキースタジアム。右中間がもっとも広いのはカムデンヤーズ。セーフコはそれぞれの中間である。シアトルからボルチモアに移籍した右打者のアダム・ジョーンズは、右打者地獄のセーフコよりも、右打者天国のカムデンヤーズのほうが幸せかもしれない。

カムデンヤーズを紹介した前記事(ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年8月21日、ボルチモアのカムデンヤーズは、セーフコのお手本になった「新古典主義建築のボールパーク」。80年代のクッキーカッター・スタジアムさながらの問題を抱える「日本のスタジアム」。)で、「右打者に有利なカムデンヤーズと、左打者に有利なセーフコは、好対照な球場」と紹介したのだが、ヤンキースタジアムは、その左打者有利のセーフコより「さらに左打者に有利にできている」といえそうだ。


ヤンキースタジアムの
「狭いポール際のホームランの伝統」


セーフコとヤンキースタジアムの2つだけを比べてみると、面白いことがわかる。

セーフコ、ヤンキースタジアムの比較セーフコ、ヤンキースタジアムの比較図(オリジナル Copyright ���2010 damejima. All Rights Reserved.)

赤:セーフコ
青:ヤンキースタジアム

新ヤンキースタジアムは左中間が広く、セーフコは右中間が広いという特徴があるのだが、そんなことより注目してもらいたいのは「新ヤンキースタジアムのポール際が急激に丸まった形になっていて、その結果、両翼がたいへん狭いこと」だ。

たしかに新ヤンキースタジアムの左中間は広い。382フィートから最深部では399フィート、約121.6mもある(ことになっている)。
だが、なぜかレフトのポール際だけは318フィートしかなく、331フィートあるセーフコのレフトに比ると、新ヤンキースタジアムのほうが13フィート(約3.96メートル)も短い。
こうした現象はライトポール際ではもっとひどくて、セーフコ326フィートに対して新ヤンキースタジアムは314フィート(約95.7m)しかなく、新ヤンキースタジアムのほうが14フィート(約4.27m)も短い。

両翼95mの球場、というと、日本のプロ野球セ・リーグでいうなら「両翼が約90mしかない神宮球場よりはさすがに広いが、甲子園とほぼ変わらない程度の狭さ」ということになる。日本でもドーム球場のほとんどが国際試合の規格にあわせて両翼100メートルある今の時代(セーフコも両翼100メートル前後)に、両翼95メートルでは狭すぎる。

両翼の広さがほぼ同じ新ヤンキースタジアムと甲子園の形状の違い(Copyright ���2010 damejima. All Rights Reserved.)
ヤンキースタジアムと甲子園の比較赤い太線が甲子園球場。両翼の大きさはほぼ同じ2つの球場の形状を重ねてみた。新ヤンキースタジアムはセンターが非常に深く、左中間、右中間が狭い。特に右中間がつぶれた形をしている。甲子園は逆にセンターが浅く、左中間、右中間が深い。
だが2つの球場がどちらもポール際のフェンスが急激に丸くなっている。そのため、両翼が非常に狭いという点では、2つの球場はそっくりだ。

この「ポール際が急激に丸くなっていて、両翼が狭い新ヤンキースタジアム」は、ある意味「1920年代のベーブルース時代以来続いている、ヤンキースの伝統的な球場の構造」でもある。

ロビンソン・カノーのホームラン・チャート
ロビンソン・カノーのホームラン・チャート
(新ヤンキースタジアム、通算)
レフトポール際に注目。Robinson Cano Hitting Chart | yankees.com: Stats

新ヤンキースタジアムのポール際の狭さには、ヤンキースの歴史が詰まっている。

ベーブルースがレッドソックスからヤンキースに移籍してきた1920年に使っていたのは、当時ニューヨークに本拠地があった時代のジャイアンツ(現在のサンフランシスコ・ジャイアンツ)が使っていたポロ・グラウンズ
この球場は長方形だったため、センターがなんと483フィート、約147.2mもある(日本の主要な球場のセンターは116〜117m)のに対して、左右両ポールまでは、センターの半分程度の広さしかない(左279フィート 約85.0m、右257.67フィート 約78.5m)という異様な形の球場で、本当かどうかは確認してないが、なんでもポール際ならポップフライでも本塁打になったらしい。

ヤンキース移籍後のベーブ・ルースはこの「ポロ・グラウンズのポール際の異様な狭さ」の恩恵を受けたといわれていて、移籍してきた1920年シーズンに54本ものホームランを打った(前年は29本)。史上初のホームランバッターの登場ともいえるルースの人気沸騰で、ヤンキースもメジャー史上初の年間観客動員100万人を突破した。
だが、人気を奪われたポロ・グラウンズの主であるジャイアンツ側はこれを心よく思わず、ヤンキースに「1921年以降のポロ・グラウンズの使用差し止め」を言い渡したところ、ヤンキースはポロ・グラウンズからハーレム・リバーを渡ってちょうど反対側に、ライト側が異様に狭く、またポロ・グラウンズと同じようにライトポールまでの距離が極端に短い旧ヤンキースタジアムを建設した。

つまり、1923年開場の旧ヤンキースタジアムは、単にライト側がレフトに比べて異様に狭いというだけではなくて、「両翼のポール際が異様に狭いというポロ・グラウンズの非常に特殊なフィールド形状」を踏襲して、「ベーブルースのホームランのためにライト、およびライトポール際が異様に狭くしていある」球場というわけだ。旧ヤンキースタジアムのライトポールは296フィート、約90.2mしかなく、現在の神宮球場くらい狭い。
だからこそ「新ヤンキースタジアムでポール際が急に狭くなっていてホームランが入りやすいのも、ポロ・グラウンズとベーブ・ルースの1920年代に始まって、旧ヤンキースタジアムでもしっかりと継承された、ヤンキースの古くからある伝統的な球場のつくり」というわけなのだ。

Polo Groundsポロ・グラウンズ

Clem's Baseball ~ Polo Grounds

旧ヤンキースタジアム旧ヤンキースタジアム

Clem's Baseball ~ Yankee Stadium

セーフコと球場のつくりが似ているカムデンヤーズと、新ヤンキースタジアムを比べてみると、基本的な部分ではやはり、左中間は新ヤンキースタジアムが広く、右中間はカムデンヤーズのほうが広いが、ポール際に関してだけは、やはり両翼ともに新ヤンキースタジアムのほうが狭くなっていることがわかる。
なにも、新ヤンキースタジアムと形状が特別違う球場を探し出してきて、新ヤンキースタジアムをけなしたり、おとしめたりしているわけではないのだ(笑)

カムデンヤーズ、ヤンキースタジアムの比較カムデンヤーズ、ヤンキースタジアムの比較(オリジナル Copyright © damejima. All Rights Reserved.)

緑:カムデンヤーズ
青:ヤンキースタジアム






damejima at 14:55

August 22, 2010

空からみたカムデンヤーズ左右非対称で新古典主義建築の魅力溢れるカムデンヤーズ。ライト後方に19世紀のレンガ造りの倉庫があり、ボールパークのデザインも倉庫に調和するようにつくられた。

先日ボルチモアの新監督ショーウォルターさんの記事を書いたばかりだが、1992年に建設されたボルチモアのホームカムデンヤーズ(Oriole Park at Camden Yards)は、95年に建設が決定し99年に開場したシアトルのセーフコ・フィールドと色々な意味で非常によく似ている。
それもそのはず、セーフコをはじめとする近年建設されたネオ・クラシカル、つまり「新古典主義建築を取り入れたといわれるボールパーク群」のお手本になったのがカムデンヤーズだから当然のことなのだ。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年8月18日、ショーウォルター監督のみせる「父親の走り」の素晴らしさ。
参考資料:
Clem's Baseball ~ Stadium dimensions
Wapedia - Wiki: 野球場


大昔、野球黎明期のアメリカの専用ボールパークは「広い土地の手に入らない、もともと手狭(てぜま)な大都市で空き地を活用して」作られた。
ただでさえ土地がない都市の空き地は、もともと変則的な形をしていたり、周辺にさまざまな事情を抱えていることも少なくないわけだが、初期のボールパークはそれぞれの「空き地の抱える諸事情」にあわせて作られたため、「左右が非対称で、いびつな形」をしていることが多いのは、都市部の限られた土地を有効利用して建設されたことも理由になっている。(例えばブルックリン・ドジャースの本拠地エベッツ・フィールドは元はゴミ捨て場、旧ヤンキースタジアムは元は材木置き場でライト場外に鉄道があり、フェンウェイ・パークは沼地に建てられ、レフト場外には直線道路と建物がある)
だが、その「いびつさ」は野球の歴史の中でかえってアンティークの家具のように「味のある変形具合」と評価され、初期のボールパークは通いやすい都市の中心部に立地した都市機能の一部として、それぞれの球場がそこにしかない独特のクラシカル雰囲気をかもしだしながら観客に愛され、野球を隆盛に導いた。

初期のボールパークそれぞれの平面図の比較
資料:Clem's Baseball ~ Stadiums by Class

Polo Groundsポロ・グラウンズ
元はポロ競技場。センターは147m以上あるのに、両翼はわずか80m前後。おそらく野球史上最もいびつな形の球場のひとつ。1920年ベーブ・ルースがボストンから移籍してきた時、ヤンキースはここを西海岸移転前のニューヨーク・ジャイアンツと共用でホームにしていた。

旧ヤンキースタジアム旧ヤンキースタジアム
1923年開場。場外に鉄道があるライト側が異様につぶれた特殊な形。ジャイアンツからポロ・グラウンズの使用を拒否されたヤンキースがハーレム・リバーを挟んで反対側の材木置き場に建設した。


しかし1960年代中盤から80年代にかけて、球場の老朽化やマーケティング上の理由からボールパーク(野球場)に「多目的スタジアム Multi-purpose stadium」としての機能を求める時代が来て、特にアメリカンフットボールのスタジアムとの兼用化を狙って、新しいスタジアム建設が進んだ。(いまの日本の球場のかなりの部分は、東京ドームが82年建設のメトロドームを手本にしたように、いまだに30年前のアメリカの状態にある。また、日本の大多数のサッカースタジアムも陸上競技場との兼用施設になっており、欧州の非常に美しいサッカー専用スタジアムとはまるで比べ物にならないくらい劣悪な観戦環境にある)
多目的スタジアム時代の球場の大半は、名称に「スタジアム」か「ドーム」という言葉がつく。
セーフコができる前のシアトルがフランチャイズにしていたキングドーム(2000年に解体)も、かつてはプロフットボールチームであるシアトル・シーホークスとの共用スタジアムだった。キングドームは北米3大プロスポーツ(NFL、MLB、NBA)全てのオールスターゲームを開催した史上唯一のスタジアムだが、これも要はキングドームがいかに80年代特有の「なんでもありスタジアム」のひとつだったか、ということの証である。

クッキーカッタークッキーカッター

こうした「なんでもありスタジアム」は、英語では、cookie-cutter stadiums(クッキーカッター・スタジアム)、とか、concrete donuts(コンクリート・ドーナツ。単にドーナツ・スタジアムと呼ばれることもある)とか呼ばれていて、いまではかつての「大失敗」として評価が定着している。
クッキーカッターというのは、平らに伸ばしたクッキー生地から「同じ形」のクッキーをくりぬくための「ぬき型」のことだが、80年代までの多目的スタジアム群がどれもこれも「あまりにもそっくりの、まるで特徴の無いスタジアム」だったことから、こう呼ばれることになった。

実際どのクッキーカッター・スタジアムも、スタジアム全体の形が円形でお互いに似ているだけでなく、立地やグラウンドの作りも似ていて、郊外の高速道路のインターチェンジの近くなどに建設されているためにスタジアム周囲があまりにも殺風景で、都市中心部から離れているため交通の便が悪く、グラウンドは選手の故障をまねく固すぎる人工芝で、観客とフィールドの距離が離れすぎてしまって、臨場感に乏しい可動式の客席など、ほとんどあらゆる面で選手と観客の両方から不評をかった。
Multi-purpose stadium - Wikipedia, the free encyclopedia

クッキーカッター・スタジアムの平面図の比較
資料:Clem's Baseball ~ Stadiums by Class

アストロドームアストロドーム
1965年開場。かつてのヒューストン・アストロズのホーム(現在はミニッツメイド・パークに移転)フットボール兼用で、典型的なクッキーカッター。Clem's Baseball ~ Astrodome

リバーフロント・スタジアムリバーフロント・スタジアム
1970年開場。かつてのシンシナティ・レッズのホーム(現在はグレート・アメリカン・ボールパークに移転)やはりフットボール兼用で、レイアウトがアストロドームとまったく見分けがつかない。Clem's Baseball ~ Riverfront Stadium


1992年にクッキーカッター・スタジアムからの脱却をめざして建設されたのが、新古典主義風のボールパークの元祖と呼ばれるカムデンヤーズだ。(そもそも古い球場は、「○○○・スタジアム」という呼称ではなくて、「○○○・パーク」とか「○○○・フィールド」と呼ばれることが多い。最近新設されたボールパークで「スタジアム」と名乗ったのは、かつてクッキーカッターとして悪名高かったセントルイスのブッシュ・スタジアムのみ)
カムデンヤーズは、ロサンゼルスに移転する前のブルックリン・ドジャースがホームにしていたエベッツ・フィールド(Ebbets Field )をお手本にしているといわれる。
クッキーカッター・スタジアムが「円」を基本モチーフにデザインされ、球場全体が球形、フィールドが左右対称、外野フェンスもなめらかな弧を描いているのに対し、カムデンヤーズのデザインモチーフは「非対称」「直線」と、大きく違う。
カムデンヤーズはフィールド全体が「左右非対称」で、また、外野フェンスが直線のみで構成されたデザインになっている。また球場全体の雰囲気作りには、ライト側の19世紀に建設された倉庫とマッチするレンガと鉄骨のクラシカルなデザインファクターが上手に取り入れられていて、直線的だからといって冷ややかなイメージではなく、むしろ古き良き時代を思わせる「懐かしく、暖かい印象の直線」に仕上げられている。

新古典主義ボールパークの平面図の比較
Clem's Baseball ~ Stadiums by Class

オリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズオリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズ
右中間が左中間より約10フィート広く、ライト側に高さ25フィートのフェンス。そのため左打者にはホームランが出にくい。右打者不利といわれるセーフコ・フィールドと好対照なつくり。Clem's Baseball ~ Oriole Park at Camden Yards

エベッツ・フィールドエベッツ・フィールド
1913年開場。カムデンヤーズのモデルにもなったブルックリン・ドジャースのホーム。エベッツは当時のオーナーの名前。Clem's Baseball ~ Ebbets Field


昔のボールパークのクラシカルな雰囲気の良さを取り入れた「ライトが広い」カムデンヤーズは都市中心部に近く、海沿いの倉庫街にあって、すぐ横を鉄道や高速道路が走るが、「レフトが広い」セーフコ・フィールドも同じように、海沿いの倉庫街の鉄道沿いに立地していて、いかにセーフコがカムデンヤーズそっくりかがよくわかる。
カムデンヤーズの横を走る鉄道のすぐ外側はもう大西洋に続く湾だが、セーフコ・フィールドの外を走る鉄道のすぐ外も海であり、この2つのボールパークは「双子」といってもいいくらいに地勢がそっくりなのだが、それだけでなくボルチモアとシアトル両方の都市そのものがロケーション的にかなり似ている。
そもそもメリーランド州ボルチモアは、大西洋から東海岸に奥深く入り込んむチェサピーク湾(Chesapeake Bay)の奥にある港湾都市で、タバコの積み出し港として栄えたが、この「大洋が大陸の奥深くに入り込んだ湾の奥に位置している街」というロケーションは、太平洋がアメリカ北西の海岸に奥深く入り込んむピュージェット湾(ピュージェット・サウンド、Puget Sound)の奥に位置している商業都市ワシントン州シアトルと地勢的にそっくりなのだ。

ボルチモアの地勢大西洋と五大湖の中間に位置して、大西洋が北米東海岸に入り込む湾の奥にあるボルチモアは、太平洋岸のシアトルと地勢がそっくり。


そんな歴史的に意味のあるカムデンヤーズだが、建設直後の観客動員に対する効果は絶大だった。
91年までボルチモア・オリオールズの1試合あたりの観客数はおよそ3万人だったのだが、カムデンヤーズのできた92年以降は、1試合あたり45000人と、1.5倍にも膨れあがった。これだけ応援してくれるファンが多くなって、いつもボールパークが満員になることがプレーヤーに力を与えないわけはないのであって、97年にボルチモアは98勝64敗の好成績で地区優勝まで遂げている。まさにカムデンヤーズ効果である。
Baltimore Orioles Attendance, Stadiums, and Park Factors - Baseball-Reference.com


しかし残念なことに、東地区最下位に沈むようになった2008年以降は、カムデンヤーズ建設当時には年間350万人以上あった観客動員は、200万人を割り込むようにな状態になっている。

他のフランチャイズが次々にカムデンヤーズを模倣して新古典主義のボールパークを建設するようになって、カムデンヤーズの魅力が薄れたのか?

いや、そうではない、と思う。

いくらカムデンヤーズが変わらず魅力的なボールパークであっても、結局はチームがそれに甘えてしまっているのではダメだ。新しいスタイルのボールパークというだけで観客が来てくれる時代が終われば、やはり観客が見たいのは「ホームチームの勝利」なのは当然だ。
魅力的な打者があれだけ揃ったパワフル打線なのに、あれほど勝てないのはちょっとおかしいと思うし、実際に最近のショーウォルター就任後のゲームでは、LAAをスイープし、西地区首位のテキサスさえ圧倒している。
魅力的な新監督も来た来シーズンは、いまも魅力溢れるカムデンヤーズ、そしてパワフルなプレーヤー、ボルチモア本来の実力にふさわしい野球を見せて、新古典主義ボールパークの殿堂カムデンヤーズを満員の観客で沸かせてくれるのを期待したい。


それにしても、
このチームが勝てないことによるカムデンヤーズの観客減少という問題は、セーフコとシアトル・マリナーズの観客動員の関係についてもまったく同じ問題がある。「勝つ」ということの大事さを、無能なズレンシックはどう考えているのだろう。

また、60年代中盤から80年代に流行したアメリカの「クッキーカッター・スタジアム」の抱えていた数々の深刻な問題は、いまだにクッキーカッター・スタジアムっぽい人工芝ドーム球場だらけの日本のプロ野球や、陸上競技との兼用スタジアムだらけの日本のプロサッカーが、いまだに抱え続けている問題点だ。
ファウルグラウンドに臨場感のある観客席を作る程度でお茶を濁すのではなくて、日本のボールパークも、日本のサッカースタジアムも、もっともっと観客と選手を大事にした味のある競技施設に生まれ変わるべきだ。
MLBのボールパークがこれまでの歴史の中で解決してきた様々な問題は、とてもひとごとではない。






damejima at 16:03

June 21, 2010

No need Vuvuzel for MLB stadiumdamejmaブログは
MLBスタジアムでの
ブブゼラ使用に
断固反対
します。

damejima at 19:24
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