アメリカ史、アメリカ建国史

2020年5月14日、アメリカの武漢肺炎死者数が、第二次大戦の太平洋戦線におけるアメリカの戦死者数を越える日。
2017年5月15日、「MLBにおける日曜試合禁止時代」とピューリタン的なBlue Law 〜 古代ローマ文化と『ローマの休日』
2016年11月24日、『父親とベースボール』(14) ドナルド・トランプ氏が、ウォートン校出身、ドイツ系アメリカ人であることの意味。移民の国アメリカ特有の「特定の産業と、特定の人種との結びつき」。
2016年6月28日、間違いだらけの「ホットドッグのネーミングの起源」。「情報という強い酒」に酔うことを初めて覚えた20世紀初頭の若きアメリカ。
2015年4月2日、『父親とベースボール』 (12)「外野席の発明」補論 ベースボールとフットボール、バスケットの成立プロセスの違いでわかる 「プレーヤーと観客との分離」の影響
2014年12月5日、シェークスピアも予期できなかった、527年後の復讐劇。21世紀版 『リチャード3世』。
2014年11月17日、「イチローがゲーム中、スペイン語圏選手とスペイン語トラッシュ・トークをぶちかましていたのがわかった」というWSJの記事への反響から、多言語化するアメリカの現状をひもとく。
2014年9月7日、田舎のマクドナルドにこそ、コンセントをたくさんつけるべき 〜 比例するアメリカの「人口集中」と「ネット環境の充実」
2014年3月29日、『父親とベースボール』 (11)「外野席の発明」 〜20世紀初頭の「新参の白人移民の急増」と「ホームラン賞賛時代」の始まり。
2014年2月26日、伝説のTuskegee Airmenにみる「アフリカ系アメリカ人の社会参加の突破口としての兵役」。彼らのルーツを作った南北戦争のUSCT、HBCUs、第二次大戦のCPTP。
2014年1月16日、木造からコンクリート製へ、ボールパークの変貌を象徴する1929年ノース・フィラデルフィア上空から見たBaker BowlとShibe Park
2013年11月8日、『父親とベースボール』 (8)20世紀初頭にアメリカ社会とMLBが経験した「最初の大衆化」を主導した「外野席の白人移民」の影響力 (付録:ユダヤ系移民史)
2013年5月24日、他人の不幸や失敗に安易に同情を示さないこと。日本とアメリカの習慣の違い。
2013年5月11日、「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。アメリカにおける「放浪」の消滅(4) 「若さを必要としない時代」
2013年5月4日、「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。アメリカにおける「放浪」の消滅(3) サイモン&ガーファンクルの "America"の解読〜ニュージャージー・ターンパイクの渋滞の中で気づく「若者を必要としないアメリカ」
2013年4月30日、「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。 アメリカにおける「放浪」の消滅(2) サイモン&ガーファンクルの "America"の解読〜60年代の「ピント外れな自分さがし」
2013年4月28日、「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。 アメリカにおける「放浪」の消滅(1) 「アメリカの放浪の消滅」を示唆する3つの旅
2013年2月16日、消炎剤フェニルブタゾンから掘り起こす、1920年代のサッコ・ヴァンゼッティ事件と、1968年のダンサーズイメージ降着事件の奇妙な縁。
2012年12月21日、ニューヨークまみれのクリスマス・キャロル(2) NFLニューヨーク・ジャイアンツとティム・マーラとポロ・グラウンズ
2012年12月21日、ニューヨークまみれのクリスマス・キャロル(1) ワシントン・アーヴィングとクリスマスとバットマン
2012年8月16日、『父親とベースボール』(番外編-2)ランディ・ニューマンの "I Think It's Going To Rain Today"の真意を「ジム・クロウ、ジップ・クーン」を解読鍵としてデコードする。
2012年8月13日、『父親とベースボール』 (番外編-1) 歌にこめられたダブル・ミーミングの世界。フラ、スピリチュアル、ランディ・ニューマン。
2012年8月5日、『父親とベースボール』 (6)アフリカ系アメリカ人史にみる「都市と田舎の分離」。南北戦争前のUnderground Railroadによる北部都市への脱出。南北戦争後のReconstructionの挫折による「ジム・クロウ」の誕生とGreat Migration。
2012年8月4日、『父親とベースボール』 (5)アメリカが抱えこんだ二面性の発見。「とても自由で、とても不自由なアメリカ」 (記事1〜4のまとめ)
2012年7月16日、『父親とベースボール』 (5)ヨーロッパのサブシステムとして見た南部アメリカ.の奴隷制
2012年7月6日、『父親とベースボール』 (3)サバーバナイゼーションと都心荒廃を、アフリカ系アメリカ人の移住が原因のwhite flightと説明するレトリックの呪縛を解く。
2012年7月3日、『父親とベースボール』 (2)南北戦争100年後のアフリカ系アメリカ人の「南部回帰」と「父親不在」、そしてベースボールとの距離感。
2012年6月6日、アメリカでアフリカ系アメリカ人の平均寿命が伸び、白人との差が縮小した、というニュースを読む。
2012年5月18日、「アメリカでの非白人比率の増大傾向」と、「MLBプレーヤー、ファン両面の人種構成の変化」との複雑な関係。
2012年3月20日、「1958年の西海岸」という特別な年、特別な場所。サンフランシスコの名コラムニスト、ハーブ・ケインによって発明された「ビートニクス」という言葉と、「ビート」との根本的な違いを正す。
2012年3月6日、「1958年の西海岸」という特別な年、特別な場所。リチャード・ブローティガン 『A Baseball Game』の野球史的解釈。

May 15, 2020

2020年5月14日付BBC日本版によると、アメリカの武漢肺炎による死者数は「8万4千人を超えた」そうだ。

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トランプ大統領はこの武漢肺炎による大惨事を、「真珠湾攻撃以上」というアメリカ人独特の言いまわしで形容している。(「真珠湾」にたとえるのは感心しない言葉の使い方だが、ここではそのことはとりあえず置いておく)

だが、アメリカの第二次大戦の太平洋戦線における戦死者数を考えれば、「真珠湾攻撃を比喩として引用している場合ではないほど、武漢肺炎被害のほうが「はるかに甚大」であること」がわかるはずだ。

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アメリカの太平洋戦線における戦死者数は、そもそもはっきりとはわかっていないようだが、以下のリンクでは「16万5千人あまり」という数字が採用されている。(ちなみに、ヨーロッパ戦線を含めたすべての戦死者数は「41万6千人あまり」という数字が挙がっている。これらの数字について、以下のリンクは次のような注釈を加えて注意をうながしている。『※この場合の戦死者数には、戦闘以外の死者を含んでいる。戦闘以外とは何か具体的に記載されていないが戦闘重傷後病院死、病死、事故死、訓練死、災害死、行方不明、状況不明、自殺などが含まれると思われる』)
徒然cello日記: 第二次世界大戦 太平洋戦線におけるアメリカの戦死者数

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アメリカでの武漢肺炎の死者が8万4千、第二次大戦の太平洋戦線での死者が、その約2倍、16万5千。ならば、第二次大戦のほうがよほど悲惨だと断じる人がいるかもしれないが、ブログ主はまったくそうは思わない。

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ちょっと横道にそれる。

第二次大戦の太平洋戦線における火蓋が切られたのは、日本時間で1941年(昭和16年)12月8日の「真珠湾攻撃が最初」だと思っている人が、日本でも非常に多い。

だが、それは間違いだ。

12月8日未明に敢行された真珠湾攻撃より先に、日本軍はマレー作戦という名称で、同じ12月8日深夜に当時のイギリス領マレー(現在のマレーシアとシンガポール)を攻撃しているからである。ハワイ時間では日本より日付が1日ずれるために、真珠湾攻撃は「現地時間12月7日」で、マレー作戦は日本と日付は同じ「12月8日」となるから、絶対的な日付だけをみると真珠湾が先にみえるが、実際はそうではない。

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話を本筋に戻す。

アメリカの第二次大戦における太平洋戦線の戦死者数16万5千は、主に1941年12月から1945年8月までの「約3年8ヶ月」に生じている。対して、武漢肺炎による死者数8万4千は、2020年2月上旬から2020年5月中旬までの「約3ヶ月」に集中的に発生している。(2020年4月のロサンゼルス・タイムズによれば、アメリカにおける武漢肺炎による最初の死者は「2月6日カリフォルニア州サンタクララで死亡した女性」ということになっている)

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もちろん、「約3年8ヶ月にわたる命がけの戦闘による16万5千の戦死」と、「わずか3ヶ月でウイルスで失われた8万4千の死」とを比べることは、生命の重さというものに対する不遜に過ぎる行為ではある。

他にも、一瞬で約20万もの生命が失われた原爆のような「突出した例」があるわけだが、最も優れた音楽を誰にも決められないのと同じように、「どの惨事が最も悲惨か」を断定することなど誰にもできない。そのことは重々承知している。

だが、あえて言わせてもらう。

たった3ヶ月間で亡くなった8万4千人という数字は、けして小さくない。そこには、戦争という惨事においてすら存在している、名誉も、勲章も、年金もない。ウイルスによる不意打ちと、失意の死。残された人々の悲しみ。ただそれだけである。

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武漢肺炎によるこの惨事を、決死の覚悟とともにあった太平洋戦争を引き合いに語ってほしくない。日本は第二次大戦によって非常に大きな代償を払わされた。例えばアメリカでは民間人の死亡者は1千数百人にすぎないが、日本では80万人以上もの民間人が亡くなっているといわれている。われわれは責任をとったのである。

アメリカは武漢肺炎に対して、どういう代償を求めるのか。それをわれわれ日本人は目をこらして見つめている。そのことも忘れてほしくない。

damejima at 21:05

May 16, 2017

下の写真は1929年に「レッドソックスのホームゲーム」に向かう大勢のファンの姿だが、彼らが向かっているのは「フェンウェイ」ではない。「ブレーブス・フィールド」だ。
1932年までレッドソックスは「日曜に限って、フェンウェイで試合を開催することができなかった」。そのため「日曜のゲームだけ」は、西に1.4マイル離れたブレーブス・フィールドで行われていたのである。(ブレーブス・フィールドは、現在のアトランタ・ブレーブスがボストンにあった時代の本拠地で、現在の名称はニッカーソン・フィールドで、ボストン大学の所有)


いままで一度も真剣に考えたことがなかったが、どうも「人が休息する曜日には、2つの種類がある」ようだ。

1)宗教的なさまざまな「制約」が定められた安息日
2)疲労回復やリクリエーションなどをして過ごす、「自由」時間としての休日


上に書いた2種類の休日のうち、後者のルーツは、どうも「古代ローマ帝国」にあるのではないか、という主旨で以下を書く。(なお、余談としてオードリー・ヘップバーンが主演した『ローマの休日』という名作映画のタイトルの解釈の誤りにも触れる)


特定の曜日」の人々の行動について、「宗教的な視点から、制約を設けている国」は、案外多い。例えば、ユダヤ教なら土曜、キリスト教なら日曜、イスラム教なら金曜が、「安息のための日」とされ、歴史上さまざまな制約が設けられてきた。それぞれの宗教の信者の多さを考えると、かなりの数の人々がこれまで「特定の曜日の行動にさまざまな制約が設けられた文化のもとで暮らしてきた」ことになる。

例えばキリスト教国だと、古くから日曜日の人々の活動のいくつか(例えば飲酒)を法的に制限した例がある。
アメリカは、そうした国々の中で最も歴史の新しい国のひとつだが、それでも、かつてアメリカがヨーロッパの植民地だった時代に、厳格なモラルのある暮らしを求めるピューリタン系移民の意向でBlue Lawという法律が定められた。
Blue Lawによる制約は州によって中身が異なるのだが、いずれにしても自由の国アメリカにも「日曜日の行動」にさまざまな制約を設けていた時代があったのである。


ボストンは、トリニティ教会のような尖塔をもったヨーロッパ風の教会が点在するヨーロッパ文化の影響の濃い街だが、フェンウェイパークは球場の1000フィート内に教会があった。そのため、法的な規定によりかつては「日曜日に試合を開催すること」ができなかった。
例えば、「1929年」でいうと5月23日〜26日にレッドソックス対ヤンキース戦が5試合組まれているが、水曜から土曜までの4試合はフェンウェイだが、「日曜日の試合だけ」はフェンウェイではなく、「ブレーブス・フィールド」で行われている。(資料:http://www.baseball-reference.com/boxes/BOS/BOS192905260.shtml

なおブレーブスがレッドソックスに日曜限定で球場使用を認めた経緯については、以下の記事が詳しい。Red Sox to use Braves Field on Sundays - The Boston Globe
ブレーブス・フィールドとフェンウェイパークの距離


さて、野球の日曜開催を阻んでいたBlue Lawの存在がわかったら、話は終わりかというと、そうではない。まだ長い続きがある(笑)


英語で「日曜日」を意味する言葉が sunday、サンデイ であることは、英語の苦手な日本人でも知っている。
だが、こういう『太陽を意味する言葉』が「日曜日」を示すようになったことには、なかなか深い歴史的な意味がある。


長い話を書く前に
まず誤解を正しておかなくてはならない。

欧米のキリスト教国に、日曜日の人々のふるまいに制約を設ける法律があることについて、日本人はその理由を「キリスト教の安息日が日曜日だからだ」と思いがちだし、日本の多くのサイトも堂々とそういう「間違い」を書いている。

だが、それは以下に示すが、二重三重の意味で正しくない
 
そもそも「安息日」という言葉が指す曜日は、ユダヤ教、キリスト教、いずれの場合も、「土曜日」であって、日曜日ではない。
旧約聖書のもとにおける安息日(Sabbath)とは、天地創造7日目に神が休息をとった曜日である「土曜日」である。ユダヤ教、そしてキリスト教宗派の一部の厳格さを重んじる宗派において、安息日とは現在でも「土曜日」を指している。
さらに詳しく言えば、「安息日という意味の土曜日」は、厳密には「金曜の日没から、土曜の日没まで」を意味しているのであり、例えばユダヤ教では、「既に安息日に入っている金曜の日没後の夜」に、「安息日の禁止事項のひとつ」である「火を使って料理する行為」は許されない。
金曜を安息日とするイスラム教においてもまた、「安息日の金曜」が意味するのはあくまで「木曜の日没から、金曜の日没まで」であり、各種の禁忌は、金曜の深夜12時から始まるのではなく、「木曜の日没」から始まる。

新約聖書のもとでは、「日曜日」が特別視され、礼拝も行われるが、これも「日曜日が安息日だから」ではない。これは「日曜日」が「主キリストの復活した曜日」にあたる「主日」(しゅじつ、=Lord's day)だからである。
例えば、東方正教やカソリック系諸国の言語、ギリシャ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、ベトナム語などにおいては、「日曜日」を示す単語として、英語におけるsundayのような「太陽を意味する言葉」ではなく、「主日」に由来する言葉を用いる。

歴史家的視点からいうと、キリスト教における礼拝日は古代ローマ時代に「土曜日から、日曜日に変更になっている」と考えられており、その直接の転機は皇帝コンスタンティヌスがAD321年に発布した日曜休業令にある。
考察例:David Laband "Blue Laws: The History, Economics, and Politics of Sunday Closing Laws"



さて、19世紀アメリカの「日曜日の行動を規制する法律」、 Blue law のルーツに話を戻す。

この法律のルーツは、1617年にイギリスのステュアート朝初代国王ジェームズ1世が定めたDeclaration of Sportsといわれている。
ジェームズ1世のステュアート朝の前の、テューダー朝をひらいたヘンリー7世の息子ヘンリー8世が離婚のために英国国教会までつくったあたりのことは、既に記事に書いた。2014年12月5日、シェークスピアも予期できなかった、527年後の復讐劇。21世紀版 『リチャード3世』。 | Damejima's HARDBALL

英国国教会成立後のイギリスでは、国教会派と、それ以外のキリスト教宗派、特に清教徒(ピューリタン)との対立が激しくなり、ピルグリム・ファーザーズのような清教徒の一部は新天地を求めて、ボストンをはじめとするアメリカ東部に渡った。
こうしたピューリタンの影響のひとつがBlue Lawだ。清教徒はご都合主義を嫌ってアメリカに渡ったわけだから、アメリカ東部の都市の一部が「キリスト教的な厳格さを要求する保守社会」になったのは当然の成り行きでもあった。
だから「Blue law が人々に求める休日」とは、最初に書いた「休日のあり方に関する2つのパターン」のうちの前者、つまり「宗教的にさまざまな制約のある安息日にふさわしい過ごし方」であり、けして現在のような「休養やリクリエーションをして過ごす、自由な休日」ではない。


では、「宗教的な義務としての安息の日」ではない、「疲労回復やリクリエーションなどのための、単なる休憩時間としての休日」は、いつごろ人類史に現れたのか。


現在我々が経験している「日曜日に、野球でも見て、ビールでも飲んで、のんびり過ごす」というような意味での「自由な休日」のルーツは、どうやら古代ローマ帝国にある。

古代ローマには「ヌンディナエ」という「8日目の休日の習慣」が、キリスト教が古代ローマ帝国に浸透する前からあった。
古代ローマ帝国は当初、「ヌンディヌム(nundinum)」と呼ばれる「八曜制」を採用していたために、「古代ローマ初期の1週間のサイクル」は「8日間」でできていたが、ヌンディヌムの「8日目」が、ヌンディナエ(nundinae)であり、仕事も学校も休みで、たとえ下層階級である農民であっても、7日間の労働のあとのヌンディナエでは友人との時間を楽しむ時間的なゆとりを持てたらしい。

皇帝アウグスティヌの時代になると、「8日間サイクル」でできていた1週間は「7日間」に短縮され、その7日目には「太陽の日」を意味する Diēs Sōlis という呼称が与えられ、皇帝コンスタンティヌスは「日曜休業令」を発布し、「週の7日目に仕事や学校を休む」よう定めた。

古代ローマで「休養日」が「太陽を意味する言葉」で呼ばれていたこと自体には、古代ローマ特有の宗教上の理由がある。古代ローマ人は、キリスト教が伝来する前から多神教的な「太陽崇拝の土着宗教」を持っていたからだ。

だが、古代ローマの「日曜休業令」は太陽崇拝を強制するために作られたわけではない。
もし皇帝コンスタンティヌスが領土全体にローマ帝国の伝統宗教を強制しようとしたのであれば、領民全員に「太陽崇拝」と「日曜の太陽礼拝」を強制したはずだが、彼はむしろミラノ勅令ですべての宗教の自由を認めたことで有名な自由を重んじる皇帝であり、太陽崇拝の強制のために日曜日を休ませたわけではないし、また、彼自身たしかにキリスト教擁護者でもあったが、反面でローマ伝統の太陽崇拝を捨てていたわけでもないから、キリスト教の礼拝を強制するために日曜休業を言い出したわけでもない。

古代ローマでは、キリスト教が帝国全土に浸透する前の1週間がまだ8日間だった時代から既に、「1週間のうち、1日を、学校や仕事を休んで休養にあてる習慣が存在した」のであり、コンスタンティヌス帝は「日曜休業令」で「古代ローマの伝統的な習慣」を「制度化した」のに過ぎない。



「日曜日」の呼び名である "sunday" は「太陽」に関係した言葉であり、その原点は、キリスト教の登場より古く、古代ローマにある。
この言葉が規定した「日曜日」とは、もともと「宗教的な制約に従って静かに過ごす日曜日」ではなく、むしろ「自由に過ごしても許される、休養やリクリエーションの日としての日曜日」が、むしろ「オリジナルの日曜日」なのだ。
ヨーロッパを脱出してアメリカにやってきた清教徒たちのナーバスな要求で作られた Blue Law がボストンでの日曜の野球開催を禁じたわけだが、日曜日に娯楽に興じることはキリスト教よりも古いルーツにのっとった行為であり、やがてアメリカにおける Blue Law による生活のさまざまな制約は20世紀に撤廃されていくことになった。
(この例からも、アメリカと英語の文化が、けしてキリスト教文化のみでできているわけではないことが、そのこともなかなか興味深い)


ゆえに。

映画『ローマの休日』の原題 Roman Holiday は、厳密に直訳するなら、『ローマ式の休日』と訳すのが正しい
さまざまな制約に縛られてばかりいる王女が、イタリアのローマで、ヨーロッパ歴訪の過密スケジュールと王室の制約に縛られることなく、自由きままに休日を過ごした、そのリラックスした過ごし方こそ、「古代ローマ的な休日」にほかならない。

Audrey Hepburn in


damejima at 17:19

November 24, 2016

ドナルド・トランプ次期アメリカ大統領がドイツ系移民の子孫で、ペンシルヴェニア大学Wharton School(ウォートン校)出身であることの「意味」をちょっと考えてみた。

州で最も多い人種

州別選挙人数(2016大統領選挙)州別選挙人獲得数(2016アメリカ大統領選挙)


最初に結論というかポイントを指摘しておくと、こういうことだ。
かつて「新参の移民」だったアメリカのユダヤ系移民が20世紀以降に起業したビジネスは、例えばマス・メディア、プロスポーツ、映画、金融などで、それらは現代でこそ影響力が強くなったが、できたばかりの時代には「産業界における傍流ビジネス」にすぎなかった。

ひるがえってドナルド・トランプはどうかというと、彼は実は「古参の移民」が作り上げてきた「アメリカ産業界の本流の流れ」をくむ人物だ。
彼は資産家であるがゆえに、「東部のマスメディアの支持も、ウォール街からの献金もアテにしない選挙を戦いぬくこと」が可能だった。

トランプ氏の出身母体でもあるドイツ系アメリカ人は、アメリカの北半分の地域において常に「最大の人種派閥」である。だが、その「数の優位性」はこれまでアメリカ政治にそれほど強く反映されてはこなかった。
参考記事:2012年7月16日、『父親とベースボール』 (4)アメリカにおけるドイツ系移民の増大。18世紀ドイツの美術史家ヨハン・ヴィンケルマンが欧米文化のルーツとして捏造した「白いギリシア」。 | Damejima's HARDBALL

トランプ氏が「アピールしようとした相手」は、「世論操作ばかりしたがる東海岸のマスメディア」でも、「献金で政治を動かすウォール街」でも、「選挙権のない西海岸のヒスパニックの不法移民」でもなく、アメリカ中部の中産階級、ドイツ系住民を代表例に、アメリカ産業界の本流ビジネスの流れにある「ごく普通のアメリカ人」であったとすれば、少なくとも「大統領選挙において数的優位を作ること」は、アイデアとしては最初から可能だった。


さて、トランプ氏の出身校、Wharton School だが、これは1881年にフィラデルフィアのQuaker (「クエーカー」=17世紀イギリスで発生したキリスト教の宗派のひとつ)の実業家Joseph Wharton(ジョセフ・ウォートン)の寄付によって設立された全米最初のビジネススクールだ。
Joseph WhartonJoseph Wharton
(1826-1909)

「クエーカー」といえば、フィラデルフィア・フィリーズが1883年に球団発足した当時の名称が Philadelphia Quakers (フィラデルフィア・クエーカーズ)だった。
この例からもわかるように、ペンシルヴェニア州にはもともとドイツ系移民やクエーカーが多い。これには次のような歴史的背景がある。

ペンシルヴェニアは、1681年にイギリス人ウィリアム・ペンが、ペンの父親に多額の借金をしていたイギリス国王チャールズ2世から「借金のカタ」として拝領した土地だ。
このウィリアム・ペンはクエーカーで、ヨーロッパで宗教的迫害を受けた経験があったため、自分の領地ペンシルヴェニアでは「信教の自由」を認めた。また、そのことを宣伝材料にヨーロッパからの移民をペンシルヴェニアに集めた。その結果、ヨーロッパのクエーカー(あるいはドイツのプロテスタントのルター派)がペンシルヴェニアに押し寄せる結果となった。


Wharton Schoolの卒業生リストはとにかく圧倒的だ。この100年のアメリカ経済の流れを作った企業、例えば20世紀初頭の製鉄業から、近年のコンピューター産業やIT産業に至るまで、まさにありとあらゆる業種のCEOが勢ぞろいしている。
ウォートン校出身の経営者は、業界それぞれの黎明期にフロンティアを開拓した「創業社長」が多いことも特徴のひとつだ。
List of Wharton School alumni - Wikipedia


Wharton Schoolを創立したJoseph Whartonも、20世紀アメリカの発展を根底から支えたアメリカ製鉄業のパイオニアのひとりで、彼は20世紀初頭にCharles M. SchwabとともにBethlehem Steelを創立し、カーネギーのUSスチールにつぐ全米第二位の製鉄会社に押し上げた。

このBethlehem Steelの前身は、やはり「ペンシルヴェニアのクエーカー」だったAlfred Huntという人物が19世紀中盤に創業した製鉄会社だったが、このことからもわかる通り、19世紀から20世紀初頭にかけてのアメリカの製鉄業には「ペンシルヴェニアのクエーカーが創業した会社」がとても多い
クエーカーの実業家の間には「独特の横のつながり」があるといわれ、ペンシルヴェニアの製鉄業には「クエーカーの横の連携」から生まれた部分が少なくないらしい。(資料:最新日本政財界地図(14)クエーカーと資本主義


ちょっと話が脱線する。

産業革命の原動力を、蒸気機関車の発明や、その燃料として石炭が大量使用されるようになったことだと「勘違い」している人が多い。それは原因と結果、目的と方法をとりちがえている。

そもそも蒸気機関そのものは、ジェームズ・ワット以前に既にあった。ワットの業績はその「改良」であって、発明ではない。
また、蒸気機関改良の「目的」にしても、最初から蒸気機関車や蒸気船などの「交通機関への応用」が目的だったわけではなくて、当初の目的は「石炭鉱山での大量採掘の実現を長年阻んできた『湧き水』を排水するための動力を得ること」だった。

そもそも人類にとって「製鉄」という行為そのものは、なにも産業革命で初めて得た技術ではない。例えば、アフリカには製鉄を行った形跡のある古代遺跡が多数あって、製鉄技術のアフリカ起源説もあるくらいで、表土に露出している鉄や隕石などを原料にした製鉄技法は古代からあった。

それでも長い間、鉄が貴重品とみなされた理由は、鉄がまったく作れなかったからではなく、「鉄を、高品質かつ大量に生産する手法」がなかなか確立できなかったからだ。それは「鉄の効率的な精錬技術」の発明に時間がかかったことや、大量の鉄鉱石を高温で熱し続けるための「エネルギー源」の確保ができなかったことなどによる。

それが蒸気機関の「改良」で、「石炭鉱山での大規模排水」が実現できるようになった。その結果、湧き水がたまりやすい地中の深い場所での石炭の大量採掘が可能になり、その結果、石炭コークスが大量かつ安価に手に入れられるようになったことで、ついに製鉄業が大規模化される時代が訪れたのである。(その結果、世界中の鉄鉱石と石炭の争奪戦が始まった)

鉄の品質が上がり、価格が下落したことで、20世紀初頭の製鉄業者は、「大量生産で価格が下がった鉄の利用方法」を、顧客の事業拡大にまかせるばかりでなく、みずからも模索する必要が生じた。
その結果、製鉄業者自身が、鉱山、製鉄、造船、鉄道などの「多角経営」に乗り出して、「鉄を、掘りだし、精錬し、利用する」までの一連の流れにある事業をトータル経営するようになった。(古い時代のアメリカの「財閥」が生みだされた理由は、この「価格の下がった鉄の利用方法の模索」だった。この例のように、財閥というシステムはもともと「必要に迫られて」形成されるのであり、企業規模拡大にともなって理由もなく勝手にできあがるわけではない)
例えば、第二次大戦時、Bethlehem Steelの造船部門は4000隻を越える膨大な数の輸送用船舶liberty ship(リバティ船)を製造したが、それが可能になったのは背後に「ペンシルヴェニアの製鉄業」があったからだ。
(第二次大戦後、不要になったリバティ船はギリシアなど特定の国に大量に売却され、海運王オナシスに代表されるギリシア海運業の母体となった)

「安価な鉄の登場」はこうして、造船、鉄道、さらには自動車産業などを生み出していき、他方では、鉄を大量に使った高層建築も可能にした。それまで木材やレンガが主流だった都市建築は一変し、都市に高層ビル群が出現することになった。
MLBのボールパークも、19世紀末の創成期にはまだ「木造」ばかりで、たびたび火災で焼失していたが、20世紀以降は「鉄骨」を使った堅牢な建築になった。その背景にはアメリカ製鉄業の発展がある。


話を元に戻そう。
19世紀から20世紀初頭にかけての時代は、アメリカに新しい産業が次々と生まれていった「アメリカが本当の意味で若かった時代」だった。
「ペンシルヴェニアのクエーカー」たちが製鉄業の経営に挑んだのは19世紀中ごろ以降であり、一方、MLBのようなプロスポーツ、映画、マスメディアなどが少しずつカタチになりはじめるのが19世紀末から20世紀初頭にかけてで、両者の間に半世紀ほどのタイムラグがある。
例えば、20世紀初頭、1887年生まれのNFLニューヨーク・ジャイアンツの創始者ティム・マーラはまだ貧民街から成り上がろうともがいているところだったが、ペンシルヴェニアでは既に有力な製鉄会社が産声をあげ、鉄の大量生産時代に入ろうとしていた。
参考記事:2012年12月21日、ニューヨークまみれのクリスマス・キャロル(2) NFLニューヨーク・ジャイアンツとティム・マーラとポロ・グラウンズ | Damejima's HARDBALL


かつて書いたように、たとえ同じ白人移民であっても、「古参の移民」と「新参の移民」とでは、「参入する業種」がまったく異なる
1920年代当時のアメリカでは、映画、プロスポーツなどの娯楽産業やマスメディアは「まだ海のものとも山のものともわからないヴェンチャービジネス」というポジショニングでしかなく、だからこそ、これらの新しい産業でならばこそ、「新参の白人移民」であってもオーナーや経営者になれた。
たとえニューヨークの貧民街から成り上がったような移民でも、頑張ればMLBやNFLのオーナーになれた1920年代は、ある意味、牧歌的な時代でもあった。
対して、古参の白人移民がかねてから牛耳ってきたのは、銀行、重化学工業、自動車、石油、鉱業、運送業、保険など、いわゆる経済のメインストリームを担うビッグビジネスばかりであって、新参の白人移民がそうしたメインストリームのビジネスに簡単に参入することなど、できるわけもない。
だからこそ、新参の白人移民は、プロスポーツ、エンターテイメント、マスメディアなどの新しい産業で自分たちの生きる道を開拓し、発達させていこうとしていたわけだが、古参の移民の視点からみれば、たとえそれが自分たちの専門外の分野であっても、スタジアムの外野席でベーブ・ルースのホームランに浮かれ騒ぐ彼らの自由なふるまいが横行する事態は、次第次第に「目ざわりきわまりないもの」と映るようになっていったに違いない。
2013年11月28日、『父親とベースボール』 (9)1920年代における古参の白人移民と新参の白人移民との間の軋轢 ヘンリー・フォード所有のThe Dearborn Independent紙によるレッドソックスオーナーHarry Frazeeへの攻撃の新解釈 | Damejima's HARDBALL


例えばニューヨーク港の港湾労働は、19世紀末にはアイルランド系移民が独占していた。20世紀以降にイタリア系が入って新たな棲み分けが行われると、ブルックリンだけはイタリア系になったが、特定の人種が独占(あるいは寡占)する状況には変わりがなかった。
この例が示すように、アメリカの産業、特に創成期の産業では、「人種による棲み分け」が行われることがある。つまり、特定の産業全体、あるいは特定地域の特定の産業が、特定の人種集団と不可分に結合して、その人種特有の「既得権」となることが少なからずあったわけだ。

Eric Hoffer沖仲仕として働きながら思索に没頭した独学の哲学者Eric Hoffer。ブロンクス生まれ。
ドイツ系の彼が沖仲仕になったのはサンフランシスコだが、もしアイリッシュやイタリア系がハバをきかすニューヨーク港だったら、もしかすると沖仲仕になれなかったのかもしれない。


かつて隆盛を誇ったペンシルヴェニアの製鉄業の創業者に「クエーカーのドイツ系移民」が多かったことも、そうした「特定業種と特定人種の結びつき」の例のひとつだ。
かつてアメリカ経済のメインストリームだった重厚長大産業では、概して「古参の移民」が多い傾向にある。

一方で、マス・メディア、スポーツ、映画といった「歴史が浅い産業」の創成期には、創業者、選手、制作者、観客にユダヤ系移民が多かったことに代表されるように、歴史の浅い産業においては、「新参の移民」が多い傾向が強い。

例えばMLBの「観客」も、かつて書いたように(参考記事:2014年3月29日、『父親とベースボール』 (11)「外野席の発明」 〜20世紀初頭の「新参の白人移民の急増」と「ホームラン賞賛時代」の始まり。 | Damejima's HARDBALL)、当初は「古参の移民」が多かったが、やがてユダヤ系など「新参の移民」がボールパークにやって来るようになったために、そうした新参の観客たちのための「隔離された席」として、『外野席』が作られた。ヤンキースタジアムの外野席に陣取るBleacher Creaturesはそうした時代の「名残り」である。(同じヤンキースファンでありながら外野席の客が内野席の客にヤジを飛ばす習慣が残っているのは、かつて内野席と外野席の「観客の人種」がまったく異なっていたからだ)


時代が下っていくと、内陸部の製鉄業のような「かつて経済の本流」であった重厚長大産業が衰退しはじめる一方で、スポーツやメディア、IT、コンピューターといった「傍流とみなされていた業種」が沿岸部で繁栄するようになってくる。
こうした「産業のいれかわり」は、「産業と人種が密接に結びつく」ことも少なくなかった移民の国アメリカにおいては、「それぞれの産業に強く結びついた人種ごとの浮沈」を意味する場合も多い。(もちろん実際には、それぞれの業界に多種多様な人種が存在しているわけだから、必ずしもこういう紋切り型な観点で全てを分析できるわけではない)


今となって想像すると、トラッシュトークを繰り返したトランプ氏の選挙で「最も重要だったこと」は、おそらく「主張が正しいかどうか」ではなかったはずだ。(理解しようとしない人がいるかもしれないが、それはけして「間違ったことをあえて主張する」とか「なんでもかんでも言って、迎合する」とかいう意味ではない)

なぜなら、こと「アメリカ大統領選」において大事なことは、「『どのくらいの数』の人間に向かってアピールできたか」だからだ。
アメリカは非常に広い。しかも多様な国だ。自分の狭い信念を細々と語り続けたくらいでは、とても最大の支持など集めきれない。最初から「十分に人数の多い層」を狙い撃ちしていかないかぎり、勝てない。

「最多の票を集めるのが、勝利」だ。
であるなら、「最も厚い層」にアピールすべきだ。

別の言い方をすれば、「アピール対象が『想定どおりの数、実在した』なら当選するし、『想定に反して、それほど多くなかった』なら落選する」という言い方もできる。

では、その「最も厚い層」は、「どこ」に眠っていたのか

もしトランプ氏がアピールしようと決めた「対象」が、「古き良き時代のアメリカにおいて、メインストリームの産業を担っていた中産階級」、あるいは「アメリカ最大の人種派閥であるドイツ系」、あるいは「内陸部の住民」だったとすると、そうした「ターゲット」はもともと「アメリカを構成するさまざまな集団のうちの、最大の集団」だったはずであり、その「最大の集団」に対して、「あなたの利益は本当に守られていますか?」と問いかけたのが、今回の選挙手法の「骨子」だ。
(2016年ワールドシリーズが奇しくも「東でも西でもなく、内陸部のチーム同士の対戦」になったことも、出来すぎなくらいの偶然ではある)

言いかえると、今回の大統領選は、ヒラリー・クリントンやバラク・オバマ、ニューヨーク・タイムズが「顔を向けていた層」は、本当に「『大多数を占める、ごく普通のアメリカ人』だったのか」が問われた選挙、という意味もある。
そしてヒラリー・クリントンが敗れたという事実は、彼らが顔を向けていた層が実は「アメリカの大多数ではなかった」ことを意味する。
参考記事:2015年2月7日、「陰謀論愛好家」を公言してしまい、ちょっと火傷してしまったチッパー・ジョーンズ。 | Damejima's HARDBALL


トランプという人の「選挙マーケティング」は、実業家出身なだけに予想屋ネイト・シルバーより正確で、なおかつ、キンシャサでロープを背にサンドバックのように打たれ続けながらジョージ・フォアマンをKOで葬った1974年のモハメド・アリのトラッシュトークのように、したたか、なのだ。

エリック・ホッファーは「知識や情報を持った個人が社会の中で行き場を失ったり、挫折したりすると、そこに芸術・思想・哲学などの重要な成果が生まれる」と言っているらしいが、過去の繁栄の彼方に置き去りになっていた中産階級の場合は、長い間行き場を失ったまま「言葉」を求め焦がれていたのである。

ジョージ・フォアマン vs モハメド・アリ「キンシャサの奇跡」


damejima at 09:01

June 28, 2016

「ネット検索して出てくる情報」が正しいとは、限らない。たとえそれがもっともらしく「Q&A形式」になっているとしても、だ。

そういう例のひとつとして、ボールパーク名物のひとつ、「ホットドッグのネーミングの起源に関する話を出発点に、いろいろと書いてみる。

「1908年ポロ・グラウンズで行われる野球の試合の告知ポスターが、"Take Me Out to the Ball Game"の作詞をてがけたJack Norworth (1879-1959)のインスピレーションの源だった」ことを2012年に記事に書いた。
2012年4月27日、1908年の試合告知ポスターにインスピレーションを得て作られたといわれる "Take Me Out To The Ball Game" の「元になったゲーム」を探り当てる。 | Damejima's HARDBALL

1908年にできた"Take Me Out to the Ball Game"の歌詞に、"Buy me some peanuts and Cracker Jack" とあることからして、20世紀初頭のMLBのでは既に「観戦中に観客が楽しむ食べ物」がボールパーク内で販売されていたことがわかる。もちろん「ホットドッグ」もそのひとつで、1900年代初頭には既に販売されていた。


STEP 1) 初歩的間違い

「ホットドッグ」というネーミングの起源に関して、よくある「間違った説明」は例えば以下のようなものだ。
1901年4月ニューヨークのポロ競技場にて。  
熱々のソーセージをパンに挟んだ「ダックスフント・ソーセージ」が売れに売れており、それを見たニューヨークジャーナル誌のスポーツ漫画家が,「Hot dachshund!」と声高に売られていた「パンに挟まれて湯気を立てているソーセージ」の漫画を描いて紹介した。だが、その漫画家は「dachshund」の綴りがわからず、その漫画の中で「Hot dog」としてこれを紹介した

もっともらしく書かれているが、「ポロ競技場」などという書き方で、そのいい加減さがわかる。「ポロ・グラウンズ」という言葉の意味もわからない人間がアメリカのスポーツ文化についてマトモな話ができるわけもない。おそらく「自分で何が書いてあるのかわからないまま、どこかのサイトから引用」して、下手するとそれを「機械翻訳した」だけだろう。

この説明文のいう「漫画家」とは、1900年代にニューヨーク・ジャーナル紙の漫画家だったTad Dorgan (Thomas Aloysius Dorgan 1877-1929)のことで、実在の人物ではある。

だが、Tad Dorganの経歴からわかることだが、「Tad Dorganが1901年にニューヨーク・ジャーナル紙にホットドッグの漫画を描く」ことなど、ありえない。
Dorganは1902年まで西海岸のサンフランシスコ・クロニクル所属であり、彼がニューヨークに転居するのが1903年(資料: "Word Myths: Debunking Linguistic Urban Legends" by David Wilton, 2008)、New York Journalで働きだすのはもっと遅れて1905年だ。

ハッキリした経歴との矛盾から「Tad Dorganがホットドックの命名者ではない」ことは、かなり前からアメリカの数多くのサイトと書籍に明記され、否定されてきた。加えて、現在にいたるまで「Tad Dorganが野球場のホットドッグを題材に書いた1901年の漫画」そのものがこれまでまったく発見されていない。
No one has found a copy of the cartoon said to have given the hot dog its name. Maybe the cartoon never existed.
Hot Dog History | NHDSC

ちなみに、日本のウェブ上には、この誤った「Tad Dorgan1901年命名説」をいまだに記載しているサイトが多数あるわけだが、その「元ネタ」をきちんと明示しているサイトはほとんど存在しない。ということは、そうしたサイトのほとんど全部が「Tad Dorgan1901年命名説」をまったく検証もせず載せているということだ。


書籍 "The Cooperstown Symposium on Baseball and American Culture, 2013-2014" (William M. Simons, 2015)によれば、「Tad Dorgan1901年命名説」のオリジナルは、1935年にCollier's誌に掲載されたジャーナリストQuenthin Reynoldsの記事だそうだ。

Collier'sはアイリッシュ移民だったPeter F. Collierが1888年に創刊した雑誌で、1892年には25万部を売り、当時アメリカで最も売れている雑誌のひとつだった。
Collier'sの売りは、記者が「埋もれている事実」を発掘してきて記事にするという独特の執筆スタイルにあった。Collier'sや、1893年創刊のMcClure'sなど、20世紀初頭の「追及型の記事スタイルの雑誌」を、アメリカのジャーナリズム史においてMuckraker(マックレイカー)と呼ぶ。
Collier'sやMcClure'sの一時的な成功は、1906年の演説で大統領セオドア・ルーズベルトが "muckraking journalism" と苦々しく呼んだように、第一次大戦前までのアメリカで多くの追従雑誌を生んだ。(Muckrakerは後年名称が変わり、Investigative journalism(=調査報道)などと呼ばれるようになった)

だが、Collier'sの創刊初期の宣伝文句は "fiction, fact, sensation, wit, humor, news" というものであり、Collier's自身が必ずしも「事実のみを報道する」とは言っていないのである。日本のジャーナリズムにありがちなことだが、Muckrakerが事実のみを追求した純粋な報道だったというのは、単なる思い込みに過ぎない。この点を忘れずに、ここから先を読み進めてもらいたい。

The Baseball Player by Norman Rockwell, Collier's June 28, 1919.Collier's 1919年6月号
イラストはノーマン・ロックウェル


STEP 2) 少しこみいった話

Madison Square Garden (1890)二代目Madison Square Garden
今では否定されている「Tad Dorgan1901年ポロ・グラウンズ説」にかわる説として、「Tad Dorgan1906年マジソン・スクエア・ガーデン説」というのもある。
これはTad Dorganが1906年にマジソン・スクエア・ガーデン(=1889年移設された二代目MSG)で開催されたいわゆる「6日間レース」でホットドッグに出会い、それをネタに漫画を描いたという説で、こちらのほうは書いた漫画も実在しているらしい。

だが、この説も残念ながら間違いだ。
イェール大学の学生の出版物などの資料によって、Hot Dogという表記が1900年より前からあったことがわかっている。たとえTad Dorganが1906年にホットドッグの漫画を描いたのが事実であっても、その時点では「ホットドッグ」という名称は「既にあった」わけだから、Tad Dorganの命名ではない。


ただ、1906年MSG説がちょっと面白いのは、なぜ話が「ポロ・グラウンズの野球」から突然「MSGの自転車レース」にすりかわったのか、という点だ。

ブログ主が思うには、 Tad Dorgan の2歳年下の弟、John L. DorganがMSGのPR責任者だったからではないかと思う。

Six-day racingというのは、1878年ロンドン北部イズリントンという町で開催された「2人組で6日間走りぬく耐久的な自転車レース」のことで、1891年にニューヨークのMSGで開催されるようになった。2人組の自転車レースに今でも「マディソン (Madison)」というレース方式があるが、そのネーミングは、100年ほど前に「Six-day racing」がMSGで開催されはじめたことに由来している。

Six-day racingはしばらくしてからアメリカで人気となって、逆輸出もされてヨーロッパ各地でも開催されたが、当初はあまり人気がなかったらしい。

と、なると、当時MSGのPR担当者だったTad Dorgan の弟、John L. Dorganが、ニューヨークメディアの漫画家である自分の兄に「なぁ、兄ちゃんよぉ、ちょっと人気がイマイチで困ってるんや。MSGの自転車レースをネタに、漫画をひとつ書いてもらえへんか?」と「頼んだ」のではないかと、ブログ主は考えた。

これが事実かどうかについては、これまで誰も追及していない。
ホットドッグのネーミングの起源をいい加減に書きつらねてきた人々は、Tad Dorganの弟がMSG関係者だったことにも、「1906年の自転車レース」というのが、ただの普通名詞ではなくて、「スポーツの殿堂でもあるMSG発祥の、歴史的なイベントのひとつだった」ことにも、まるで気づかないまま書いているのだから、当然だ。


STEP 3) 少しこみいった蛇足

1906年マジソン・スクエア・ガーデン」という話でどうしても書きくわえておきたいのは、同じ年、同じ場所で起きた実在の大スキャンダル、スタンフォード・ホワイト事件だ。

二代目MSGは、20世紀初頭のアメリカを代表するボザール出身の3人の建築家の設計事務所、McKim, Mead & Whiteの、スタンフォード・ホワイト(Stanford White, 1853-1906)が設計したものだ。

100年ほど経った今も数多く現存している彼らの作品群は、彼らがアメリカ建築史に永遠に名前を刻まれたレジェンド、いわば殿堂入り選手であることを物語っている。
1993年シカゴ万博の有名な白い建築群。イタリア産大理石に包まれたBoston Public Library(旧館)。荘厳なコロンビア大学のLow Memorial Library。Washington Square Arch。とても書ききれない。壮麗なアーチの美しさに時を忘れてみとれてしまう作品が多数ある。

Agriculture Building, Columbian Exposition, Chicago, 1893
Boston Public Library(旧館)
Low Memorial Library, Columbia University


その有名人が、自分が設計したMSGでミュージカルを観劇していて、不倫相手イヴリン・ネズビット(Evelyn Nesbit, 1884-1967)の夫、富豪ハリー・ソーに射殺されるという悲惨な事件が、スタンフォード・ホワイト事件だ。
1906年6月25日、色男でオンナ遊びに忙しいスタンフォード・ホワイトと、ハリー・ソー夫妻は、昼間レストランで、そして夜遅くにMSGのミュージカルで、二度顔を合わせた。曲が演奏される中、いきなり立ちあがったハリー・ソーはホワイトの顔面に鉛の弾を3発も撃ち込んだ。おそらく二度も顔を合わせたことでブチ切れたのだろう、

Evelyn NesbitEvelyn Nesbit

この事件の裁判では、ネズビットがハリー・ソーの母親にカネをちらつかされ、夫ハリー・ソーに有利な証言をしたこともあり、なんとハリー・ソーは「一時的な狂気」として罪を逃れた。ちなみに、ハリー・ソーの母親は結局ネズビットにカネを払わなかったというから、したたかすぎる。

この事件は何度も映画化されていているが、リチャード・フライシャー監督『夢去りぬ』(The Girl in the Red Velvet Swing)では、イヴリン・ネズビット本人が監修しているため史実に近いらしい。
なお、原題のRed Velvet Swing(赤いベルベットのブランコ)とは、スタンフォード・ホワイトが24丁目に持っていたアパートの「隠し部屋」の天井からぶら下がっていたブランコのことで、ネズビットが裸に近い恰好でブランコをブラブラさせて遊んだという実話が由来になっている。

こうした突拍子もない事件に「1900年代のスキャンダルが死ぬほど好きなメディア」が飛びつかないわけはない。ウィリアム・ランドルフ・ハースト系列の新聞メディアなどは、この裁判を「世紀の裁判」(Trial of the century)などと謳って、連日記事にして儲けたらしい。


STEP 4) 単純で、あまり面白くもない「真実」

さて、話をhot dogに戻して英語辞書をウェブ上でひくと、こんな結果が出てくる。
hot dog (n.)
also hotdog, "sausage on a split roll," c. 1890, American English, from hot (adj.) + dog (n.). Many early references are in college student publications; later popularized, but probably not coined, by cartoonist T.A. "Tad" Dorgan (1877-1929).

Meaning "someone particularly skilled or excellent" (with overtones of showing off) is from 1896. Connection between the two senses, if any, is unclear. Hot dog! as an exclamation of approval was in use by 1906.

hot-dog, n.
1. One very proficient in certain things. 2. A hot sausage. 3. A hard student. 4. A conceited person. ["College Words and Phrases," in "Dialect Notes," 1900]
The Online Etymology Dictionary

どうやらアメリカの19世紀末の英語では「ソーセージ」のことを dog と表記する表現があったり、あるいは、傑出した人物、勤勉な学生のことを hot dog などと呼ぶ表現もあったらしい。

実際、前述のWord Myths: Debunking Linguistic Urban Legendsによれば、1884年のイェール大学の学内新聞Yale Recordに、 "dog" という単語を「ソーセージ」という意味で使っていたという記述例らしきものが複数みつかっているらしい。このことから、同書は「ホットドッグのネーミングの起源」として、「19世紀末の大学では、dogはソーセージと同義語として使われていた」という、味もそっけもない拍子抜けな結論(笑)を導きだした。(なお「大学内のスラングがなぜ世間に広まったか」は説明されていない)
Yale Recordにおける1985年の使用例
But I delight to bite the dog
When placed inside the bun
Word Myths: Debunking Linguistic Urban Legends - David Wilton - Google Books


STEP 5) Tad Dorganのための、蛇足の蛇足

これはジャズ・スタンダードのひとつ、But Not for Meという曲の歌詞だ。(曲はジョージ・ガーシュイン、作詞はその弟で作詞家のアイラ・ガーシュイン)
Old man sunshine listen you
Don't tell me dreams come true
Just try it and I'll start a riot
Beatrice Fairfax don't you dare
Ever tell me he will care
I'm certain it's the final curtain
I never want to hear from any cheerful Polly-Anna's
Who tell you fate supplies a mate - it's all bananas



この歌詞に it's all bananasという不思議な表現がある。これはTad Dorganが作った「気が変になる」という意味の造語 go bananas からきているらしい。
他にも、"cheaters"、"drugstore cowboy"、"hard-boiled" などがスラングづくりの天才といわれたDorganの作といわれていて、たとえHot DogがDorganの創作でないとしても、Dorganが多彩な才人だったことには疑いない。(ただ「ハードボイルド」に関して「ブロードウェイでビリヤードの教習所を開いていたJack Doyleという人物が発明者だ」なんて説もあるくらいで、Dorganのオリジナリティは常に霧の中に包まれている)



ここまで長々と書いたが、以上の事象のすべてに共通していることは、Tad Dorganの活躍した19世紀末から20世紀初頭にかけてのアメリカが、新しい言葉、新しいメディア、新しいビジネスが次から次へと生まれた「若さあふれる時代」、「アメリカが本当に若かった時代」だったということだ。


この時期に生まれた初期のマス・メディアを「アメリカでジャーナリズムがまだ飼いならされていない、アメリカが正義感に溢れた時代」と、やたらと称揚したがる人が多い。

だが、Collier'sに掲載された「hot dogのネーミングの語源に関する記事」が実は根拠のない間違ったものだったにもかかわらず、Tad Dorgan起源説が長く信じられてきた。
記事が間違いであることは当時のTad Dorganの経歴を調べれば誰でも簡単に指摘することができるわけだが、それが長年行われてこなかったのは、「Collier'sのジャーナリズムは高級だから、間違ったりはしないだろう」という先入観によるものだったのではないだろうか。


ブログ主にいわせれば、19世紀末から20世紀初頭の非常に若さに溢れていた時代のアメリカの人々が、日々起こるニュース、新製品、新しいスポーツ、新しい言葉、新しい食べ物、企業や有名人のスキャンダルなど、さまざまな「新しさ」に飛びつくことが、3度のメシより好きだった理由は、けして「真実を貴ぶ気持ちから」ではなく、むしろ単純に、それらが情報として強い刺激に満ち満ちた「スキャンダラスなまでの赤裸々さ、なまなましさ」に溢れていたことが理由だろうと考える。

つまり、当時の彼らにとっては、Tad Dorganが作ったスラングも、スタンフォード・ホワイト事件も、ウィリアム・ランドルフ・ハーストのイエロー・ジャーナリズムも、Collier'sのInvestigative journalismも、「赤裸々さ」、「リアルタイムさ」、「なまなましさ」という点で、たいした差はないのである。


いいかえるなら、「情報」という「強い酒」に酔うことを初めて覚えた、それが、「20世紀初頭の若きアメリカ」だったのだろうと思うのだ。

damejima at 07:47

April 03, 2015

あるブログで、「アメリカでできたスポーツの多くが団体競技であるのに対して、日本起源のスポーツ(というか武道)は個人競技」と書かれているのを読んで、「なるほど。日本に個人主義はないと迂闊には言えないのだな」などと思ったものだが、さらに「アメリカのスポーツはみんなで楽しむものだ」といわれると、さすがにそこはちょっと賛成できなくなる。


ベースボール、アメリカンフットボール(以下フットボールと略)、バスケット、アメリカ起源の3つの人気スポーツでみると、ルールが固まったのはどれも19世紀末で、歴史としては若いスポーツばかりなわけだが、これら3つには「創生期の成り立ち」に若干の違いがある

3つとも「団体競技」なのは確かだが、ベースボールのルーツが草野球、つまり、いわば「ストリート」であるのに対して、フットボールは最初からアメリカ東海岸の名門大学で発展した、いわば「エリートスポーツ」であり、またバスケットも、東部のYMCAで生まれ、YMCAのネットワークを利用しながら発展してきた、というように、スポーツとしての生い立ちがベースボールとは違う。


フットボールの初期ルールは、1890年代にコネティカット出身のエール大の学生Walter Campによって骨子がまとめられ、エール、ハーバード、プリンストンなど、アメリカ東部の有名大学でプレーされた。

Walter CampWalter Camp
(1859-1925)

バスケットも同じく1890年代に、YMCAトレイニングスクール(現・スプリングフィールド・カレッジ)でカナダ出身のJames Naismithによって「冬に行える屋内スポーツ」として開発され、YMCAというネットワークを通じ、全米と世界に普及した。

James NaismithJames Naismith (1861–1939)

フットボールとバスケットの初期の歴史をたどるとわかるのは、これらのスポーツが考案された当初から「プレーヤー」(=東部の有名大学の学生やYMCA所属の若者)と「観客」が「分離して」存在していたところがあることだ。
つまり、これら2つのスポーツにとって、「プレーヤー」は、当初から「観客とは独立に存在する」ものだったのであり、「観客」は「プレーヤーではない存在」という前提が、最初からあった。

この「プレーヤーと観客がどの程度分離して存在しているか」という独特の距離感は、このブログでずっと探究してきている「外野席の成立」や、「ベースボールにおける奨学金問題」にも深く関係していると思われる。
参考記事:2014年3月29日、『父親とベースボール』 (11)「外野席の発明」 〜20世紀初頭の「新参の白人移民の急増」と「ホームラン賞賛時代」の始まり。 | Damejima's HARDBALL

というのも、「プレーヤーと観客の分離」がまったく存在していないのなら、「広大な観客席」の存在自体がまったく意味をなさないか、まったく意味が違ってくるからだ。
事実、ストリートで始まったベースボールの創生期においては「外野席」そのものが存在していなかったし、もちろん広大な観客席も必要とされていなかった。
同じようにゲームを見守っている選手たちの休憩場所にしても、今のような「観客席の下を掘って作られたダグアウト」ではなく、ただの「平らな場所に置かれたベンチ」にすぎなかった。(「「ダグアウト」と「ベンチ」の違い」は、MLBファンならもちろんわかっているはずだろうが、「両者の違いが、いったい何を意味しているのか」はほとんど理解されていない)

1859 Baseball Game at Elysian Fields, Hoboken, NJ1859 Baseball Game at Elysian Fields, Hoboken, NJ

Wst Side Grounds (1905)1905 West Side Grounds
グラウンドと同じ高さの「ベンチ」はあるが、これは「ダグアウト」ではない


逆に言うと、ベースボールの歴史において、「プレーする側と観客の側を隔てる『距離』が、すこしずつ遠くなっていったこと」と、「外野席の誕生」には、おそらく非常に密接な関係にある

当初のベースボールは「誰でもプレーできる庶民的娯楽」として始まったわけだが、それが20世紀初期ともなると、新参の移民がアメリカに大量に流入してきたことによって、プレー側と観客側に急速な「分離」が生じはじめた。
20世紀初頭のベースボールの観客席、特に外野の周囲を取り巻いていたのは、19世紀の素朴なベースボールファンたちのような「自分でもベースボールをプレーした経験のある人たち」ではなく、むしろ「プレー経験がまったくなく、彼ら自身がプレーする可能性も前提とされない、純粋な意味での観客」としての「新参移民」だったからだ。
当然ながら、「内野」と「外野」の違いは、そのまま当時の「社会的クラスター」を反映していた。
(当然ながらヤンキースタジアムの外野席にたむろしているBleacher Creaturesが内野席の観客と対立したりくヤジを飛ばしたりしてきたのは、移民の流入先であるニューヨークのクラスター間の軋轢をそのまま再現しているのである)


バスケットとフットボールが成立当初からカレッジやYMCAといった「若者を教育する場所」で発展し、それが徐々に庶民化していったスポーツであるのに対して、ベースボールは最初は「庶民的な娯楽」から出発し、それがやがて「新しい観客層」や「新しい人種」を巻き込みながら広大なナショナル・パスタイム(国民的娯楽)として発展してきた。
これらはすべて同じ「団体競技」とはいえ、ベースボールと他の2つのスポーツとの発展の道のりは、まったくの「逆向き」なのである。

damejima at 18:12

December 06, 2014

2012年にイギリスの「駐車場の発掘」でみつかった人骨が、かのリチャード3世の遺骨と判明したことで、いろいろなことが明らかになってきた。

ボズワースの戦いBattle of Bosworth by Philip James de Loutherbourg


最初に中世以降のイングランド王室史をひもとこう。

ヨーク家の家紋、白薔薇ランカスター家の家紋、赤薔薇
14世紀以降のイングランド中世は、ヨーク家(白薔薇)とランカスター家(赤薔薇)の争いの歴史だ。
ランカスター朝のヘンリー6世から王位を奪ってヨーク朝を開いたヨーク家と、なんとしても王座奪還をはかりたいランカスター家の骨肉の争いとなった薔薇戦争は、ヨーク朝最後のイングランド王 リチャード3世(Richard III)が、後にテューダー朝をひらくことになる ヘンリー・テューダー(Henry Tudor)に1485年ボズワースの戦いで敗れ戦死したことによって事実上終結する。

リチャード3世を破ったヘンリー・テューダーは国王の愛人の子孫で、その王位継承権には数々の疑問があったのだが、彼は「ランカスター家の継承者」を意味する「ヘンリー」を名乗り、ヘンリー7世としてテューダー朝を開いた。

だが、ヘンリー・テューダーの息子ヘンリー8世が、カトリックから強引に離脱して英国国教会まで作り、複数の侍女を含め6度も結婚して男系を意地でも持続させようと執念を燃やしたにもかかわらず、テューダー朝は100年ちょっとで血脈が絶えてしまう。
そこでやむなくヘンリー・テューダーの血統がかろうじて維持されていたスコットランドから、スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王として迎えられ「ステュアート朝」が生まれ、同時にイングランドとスコットランドの合併が行われた。いわば血統の「接ぎ木」が行われたわけである。

しかしながら、その「接ぎ木」のスチュアート朝も早くも18世紀には血統が途絶えてしまい、こんどはジェームズ6世の血統がかろうじて残されていたドイツのハノーヴァーから選帝侯ゲオルクが招かれ、イングランド王ジョージ1世(ゲオルクの英語読みがジョージ)として即位し、イングランドにドイツ系の「ハノーヴァー朝」が誕生することになった。
(18世紀のアメリカ独立戦争でアメリカ独立派と戦ったイギリス国王ジョージ3世は、このハノーヴァー朝の国王)

イングランド国王が「ドイツ系」になったことで、王室周辺にはドイツ出身者が急増した。このことは、以前いちど書いたように、「アメリカの全人口に占めるドイツ系住民の割合が非常に高いこと」や「アメリカ文化の底流にドイツ系文化が流れていること」など、かつてイギリスの植民地だったアメリカの社会構造にいまも非常に強い影響を残している。
関連記事:2012年7月16日、『父親とベースボール』 (4)アメリカにおけるドイツ系移民の増大。18世紀ドイツの美術史家ヨハン・ヴィンケルマンが欧米文化のルーツとして捏造した「白いギリシア」。 | Damejima's HARDBALL

なお、イギリス王室周辺のドイツ系出身者増加の要因は、ハノーヴァー朝誕生以外にもある。
ヘンリー・テューダーの息子ヘンリー8世は、6度の結婚のうち、当時のスペイン王国および神聖ローマ帝国の支配者の叔母だった王妃キャサリン・オブ・アラゴンと離婚する際にローマ・カトリックから離脱するという荒業を用い、新たに「英国国教会」を作った。
この歴史的な大事件の後、イングランドは法改正によって、古くから英国王室が保ってきた周辺のカトリック系諸国の王家との縁戚関係を法的に禁止する方向に進んだため、イギリス王室周辺からスペイン、イタリア、フランスなどの出身者がいなくなっていったのである。


話を リチャード3世に戻そう。

Photo : King Richard III found in 'untidy lozenge-shaped grave' (リンク先にはリチャード3世の遺骨発掘時のリアルな写真がありますので、見たくない方は閲覧をご遠慮ください)

リチャード3世の遺骨の発見場所は「駐車場」という、一風変わった場所だったわけだが、それには理由がある。
15世紀の薔薇戦争当時、リチャード3世の埋葬場所はレスターの「Greyfriars(グレイフライアーズ修道院)」だったのだが、薔薇戦争に勝利したテューダー朝のヘンリー8世時代に「カトリックからの離脱」が行われ、修道院など多くのカトリックの施設が破壊されたため、そのグレイフライアーズ修道院が破壊され、その後、長い年月を経て「駐車場」になっていたのである。

いいかえると、「カトリック離脱によってグレイフライアーズ修道院の跡地が教会とまったく無縁の場所になり、すっかり埋葬場所がわからなくなった」ことがかえって幸いして、リチャード3世の遺骨が長い期間、盗掘も発見もされないまま、DNA鑑定技術が発達する時代になるまで「眠り続け」たために、地中に彼の「遺志」が保存され続けた、ともいえるのである。


さて、リチャード3世の死後80年ほどして生まれている1564年生まれのウィリアム・シェークスピアの生きた時代は、テューダー朝末期からステュアート朝にかけてであり、イギリス・ルネサンス演劇が隆盛し、ロンドンに数々の公設の劇場が建設された時代でもあった。

その一方で、当時は英国内の清教徒(ピューリタン)が、国王の離婚のために設立された英国国教会と対立を強めていた時代でもある。その清教徒は「劇場」を「封鎖すべき犯罪の温床」ととらえ、強い敵意を抱いていた。
したがって、ウィリアム・シェークスピアのような庶民向けの劇場にシナリオを提供するのを仕事にしていた劇作家は、劇場封鎖を虎視眈々と狙う清教徒に対抗する意味で、「英国国教会側にプラスになるような、しかも庶民にわかりやすい勧善懲悪的な、史劇」を書く必要があったのである。

そもそも英国国教会を作ったのはテューダー朝のイングランド王ヘンリー8世であり、リチャード3世は、そのヘンリー8世の父親ヘンリー・テューダーの「宿敵」だった人物である。
だから、英国国教会を擁護すべき立場に置かれていたシェークスピアとしては、「英国国教会創設者の父親の宿敵だったリチャード3世を、血も涙もない極悪人として描かなければならない理由や必然性」があったことになる。(ちなみに、リチャード3世の汚名を晴らし名誉回復をはかる歴史愛好家たちを「Ricardian(リカーディアン)」と呼ぶ)

ちなみに、ヘンリー・テューダーに敗れたリチャード3世は、英国国教会派の劇作家シェークスピアの手で「極悪人」として描かれたわけだが、その約300年後、こんどはヘンリー・テューダーのかなり遠い子孫にあたるジョージ3世が、アメリカ独立戦争に敗れたことで1776年アメリカ独立宣言に「極悪人」として描かれることになった。


ちなみに、英レスター大学によって行われたリチャード3世の骨のDNA判定によると、ヘンリー4世からヘンリー6世までのランカスター朝と、リチャード3世を戦死させたヘンリー・テューダーに始まりエリザベス1世で終わるテューダー朝、つまり、リチャード3世のヨーク家の宿敵であるランカスター系の家系図には、「家系が断絶している部分がある」という重大な疑問を生じさせる可能性があるという。
ヘンリー・テューダーの王妃はヨーク家の人間であるため、両家にDNAの繋がりがある。そのため、ヨーク家当主リチャード3世のDNAからでも、対立するランカスター家のDNAの検証が可能なのだ。

リチャード3世は、1485年ボズワース戦いでの敗戦で薔薇戦争に敗れたが、死後527年もの長い歳月を経て、長年論じられ続けてきたヘンリー・テューダーの王位継承権の正当性を疑う疑惑に対して、「みずからのDNAの提供」という、誰も考えてもみなかった形で決定的証拠を提出し、宿敵ヘンリー・テューダーに500数十年ぶりのリベンジを果たすかもしれないのである。


cf: 2012年12月21日、ニューヨークまみれのクリスマス・キャロル(1) ワシントン・アーヴィングとクリスマスとバットマン | Damejima's HARDBALL


damejima at 17:42

November 18, 2014

今年イチローについて書かれた記事のうち、最も印象に残った記事として、ウォール・ストリート・ジャーナルの「イチローのスペイン語能力」についての記事を挙げておきたいと思う。一時期、いつTwitterを開いても、いつも誰かがリツイートしているのをみかけたものだし、わざわざこの記事を引用して書いた他のメディアの派生記事もいくつかあった。
Ichiro Suzuki Uncensored, en Español - WSJ
知られざるイチローのスペイン語力―ラテン系選手との絆深める - WSJ日本語版

この記事が印象的だったのは、「日本人イチローが、きわどいスペイン語も話せる」というこの記事の主旋律そのものではない。彼の語学力が、必要であればトラッシュトークすらこなすレベルにあることは、普通のイチローファンならとうの昔に知っている。
むしろ記事そのものよりもずっと興味深かったのは、「日本人がスペイン語を、しかもトラッシュトークしていた」というだけで、なぜこれほどまでの「反響」があったのか、という点だ。


WSJの2014年9月の記事によれば、アメリカに約1920万人もいる「英語力が不十分な人たち」のうち、3分の2の人たちの母国語が「スペイン語」らしい。アメリカの学校で教える第二外国語も、圧倒的にそのスペイン語であり、多言語化するアメリカ社会におけるスペイン語の重要性はますます高まっている。

だが、アメリカで「英語の話せない人」がますます増え続けていることが明らかになる一方で、アメリカ人、つまり、英語を話せる既存のアメリカ人の第二外国語習得に対する関心の低さ、さらには、ヨーロッパに比べてエグゼクティブや一般市民のマルチリンガル率がかなり低いという調査結果も出ている。
つまり、「現実社会でのアメリカの多言語化」がもはや止められないほどの勢いで進行しつつあり、それを誰もがわかっているにもかかわらず、「アメリカの多言語化への対応」は、あまり進んでいないどころか、かなり遅れているようなのだ。


MLBにおけるスペイン語の重要度にしても、これからどんどん高くなるのはわかりきっている。MLB公式サイトにはスペイン語版があるし、データサイトでもスペイン語ページを用意しているサイトもある。

だが、はたして今のレベルで十分といえるだろうか。
おそらく十分とはお世辞にもいえないのではないか、と思うのだ。

かつて2013年9月にパナマ出身のマリアーノ・リベラの引退ゲームについて書いたとき、「スペイン語圏出身であるリベラに、スペイン語スピーチをやらせるべきだった」と書いたが、あのときの放送にしても、「まさに今、もの凄い数のスペイン語圏の人々がこの放送を見ているだろう」という「気くばり」は、あまり感じられなかったように思う。

イチローのスペイン語によるトラッシュトークという記事にしても、記事自体は、オリジナリティがあり、十分な取材をもとに書いた面白い企画だとは思うが、他方で、「英語ネイティブでない国の選手同士のスペイン語トーク」がいまさらこれほど話題になるくらい、「アメリカ社会でのスペイン語の位置付けは、まだまだなんだな」と思う。


もちろん、アメリカで「ガイジン扱い」を受ける立場にある日本人イチローが「どうやらスペイン語が、かなりやれるらしいぜ!」というだけで、スペイン語圏の人たちの間での「イチローに対するシンパシー」がググググっと高まったことは、ファンとしてとても嬉しい出来事だった。

記事でイチローは「ラテン系の選手と交流したくなる動機」について、以下のように語っている。
"We're all foreigners in a strange land. We've come over here and had to cope with some of the same trials and tribulations. When I throw a little Spanish out at them, they really seem to appreciate it and it seems to strengthen that bond. And besides, we don't really have curse words in Japanese, so I like the fact that the Western languages allow me to say things that I otherwise can't."
「僕ら(=日本人やスペイン語国出身者)は、よその国では外国人扱いされる。ここに来たら、同じ試練に打ち勝っていかなければならない。ちょっとしたスペイン語を話しかけるだけでも彼らは本当に喜んでくれるし、彼らとの絆が深まる気がする。加えて言うと、日本語には悪態をつくためのちょうどいい言葉がない。外国の言葉でなら日本語では表現できないようなことが言えて、それがとても楽しい。」


ここでちょっと、「世界が、いまどんな言語でできているか」を眺めてみよう。

アメリカ社会でのスペイン語の重要性という話を書いたばかりのくせに相反するようで恐縮だが、MLBファンだけでなく、毎日スポーツばかり見ている人はともすると、世界が英語と、スペイン語をはじめとするラテン系言語、この「2種類だけでできている」と思いこんでしまいがちだ(笑)

だが、実際の「世界の言語環境」のマジョリティは、人数だけでみると、英語とスペイン語の2つで過半数、とはいかない。
たしかにスペイン語は、国連における6つの公用語(=英語、フランス語、スペイン語、ロシア語、中国語、アラビア語)のひとつではあるが、スペイン語は居住地域が主に中南米に限られているため、総数は4億数千万人程度で、思ったほど多くはないし、なにより今後の拡大に「頭打ち感」がある。

実数はともかく、「インターネット上で飛び交う言語」という視点でみると、「英語」と「中国語」の2つで過半数を占めているという調査がある。
スペイン語はここでも世界第3位という定位置なのだが、いかんせん、やはり成長率が低い。第4位「アラビア語」がいま爆発的成長をしているため、やがてネット言語としてのスペイン語はアラビア語に追い抜かれる可能性がある。
(ちなみに日本語は、日本人の多くが「世界でみると超マイナーな言語だ」と思いこんでいるわけだが、それは間違いだ。そもそも日本は、国土こそ狭いが、人口は世界第10位の「大国」であり、また「ネット上の言語としての日本語」は、世界第6位の言語であり、ロシア語、ドイツ語、フランス語などと肩を並べる、堂々たる世界の主要言語のひとつなのだ。)


野球のプレーにおいてだけでなく、野球のマーケティングにとっても、「どの言語圏をカバーするか」は重要な意味を持っているわけだが、「スペイン語圏」で最も人気のあるスポーツは、今のところ、まだ「野球」ではない。
野球は、スペイン語圏やラテン系言語圏への拡大途上にあるわけだが、今後は、今までと同じく「英語を世界唯一の共通言語としていく」べきなのか、それとも、もう少し拡大して「英語圏以外の、スペイン語圏をはじめとするラテン系言語の国々」での普及をもっと爆発的に推し進めるべきなのか。表面上マーケティングの問題だが、これは同時に「世界観」の問題でもある。


さて、せっかくだからWSJの記事の一部を、MLBにあまり詳しくない人にもわかる形で資料として残しておきたいと思うが、その前に、まだ知らない人のために書いておくと、「イチローの外国語によるトラッシュ・トーク」といえば、スペイン語の前に、2000年代後半のMLBオールスターで、試合前にア・リーグのミーティングでぶちかましていたという下ネタ満載英語スピーチのほうが有名なわけで、まずそちらから資料を残しておきたい。

元資料:Ichiro's speech to All-Stars revealed - Yahoo Sports date:2008年7月 writer:Jeff Passan

マイケル・ヤング
"How do you know about that?"
"The cool thing," Young said, "is that for two days, at least, we call a truce and become a bit of a team."
「それ、どこで知ったんだい?(笑)(イチローの英語スピーチの)何がクールかって、ライバル選手たちが少なくともオールスターの2日間だけは一時停戦して、ひとつのチームになれるってことさ。」

デビッド・オルティーズ
"It's why we win,"
「それが(ア・リーグが2000年代オールスターで)勝ててる理由さ」

ジャスティン・モーノー
"That's kind of what gets you, too," Minnesota first baseman Justin Morneau said. "Hearing him say what he says. At first, I talked to him a little bit. But I didn't know he knew some of the words he knows."
「まぁ、君らが思ってるような内容(=放送禁止のきわどい英語だらけ)なのは確かさ。」とミネソタ(当時)の一塁手ジャスティン・モーノー。「彼がスピーチやった後、ちょっと聞いてみたこともあるんだけど、彼がなんでああいうたぐいの言葉まで知ってんのか、ほんと、謎だよ(笑)」
"If you've never seen it, it's definitely something pretty funny," Morneau said. "It's hard to explain, the effect it has on everyone. It's such a tense environment. Everyone's a little nervous for the game, and then he comes out. He doesn't say a whole lot the whole time he's in there, and all of a sudden, the manager gets done with his speech, and he pops off."
「(イチローが英語スピーチしてるのを)実際見たことがないと、『ウソでしょ、絶対ありえない』とか思うだろうな。言葉じゃ説明しづらいけど、影響はすごいある。ああいうテンション上がってる場面だしね。誰もがゲーム前でナーバスになってる。すると、彼が出てくるわけ。しゃべりまくるってほどじゃないけど、監督のスピーチが終わると、彼が突然すっくと立ち上がるわけさ(笑)」

この記事には他にミゲル・テハダ、福留が登場


さて次に、今年話題になったスペイン語のトラッシュ・トークについて。
引用元:Ichiro Suzuki Uncensored, en Español - WSJ date:2014年8月 writer:Brad Lefton
WSJ日本語版:知られざるイチローのスペイン語力―ラテン系選手との絆深める - WSJ日本語版
引用記事:Yankees' Ichiro Suzuki is a legendary trash talker...in Spanish | NJ.com
引用記事:Ichiro has been talking trash in Spanish, for years - SBNation.com

ラモン・サンティアゴ(ドミニカ)
2003年デトロイトで、セカンド、ショート、ファーストを守ったドミニカン。彼によれば、先頭打者でヒットを打ったイチローがすかさず盗塁を決め、セカンドで立ち上がると、ポーカーフェイスのままスペイン語で "No corro casi." と言ったらしい。
元記事Brad Leftonの英訳は "I don't have my legs today."。また、同紙の日本語版では、「きょうは速くないな」と訳している。元記事がなぜそういう風に解釈したのかはわからないが(笑)"No corro casi." をとりあえず英語直訳すれば、"I hardly run." だ。
なので、このブログ訳としては、「この程度のスピードぢゃ、走ったとはいえねぇべ(歩いたようなもんだ)」としておく(笑)

カルロス・ペーニャ(ドミニカ)
ペーニャがタンパベイでファーストを守備していたときのこと。内野安打で出塁したイチローが "Que coño tu mira? と話かけてきたらしい。元記事では "What the hell are you looking at?" と訳してお茶を濁し、日本語版ではconoと「スペルを変えて」いる。
だが、原文にあるcoñoとは、本来「女性器」を意味するスペイン語なのだ(苦笑)だから、わざときわどく訳すなら、「あんた、あたいとナニしたいわけ?」。さらに崩すと、「あんた、どこ見てんのよぉ・・・やらしいわねぇw」となる(笑)
このブログなら、世間を気にせず、きわどいところまで書けるが、まぁ、いくらなんでも天下の公器ウォールストリートジャーナルだ。訳すに訳せなかったのも、しかたがないといえばしかたがない(笑)

ラウル・イバニェス(両親はキューバ移民)
シアトル、ヤンキースでチームメイトだったイバニェスは、ニューヨーク生まれだが、両親はキューバ移民なので、英語もスペイン語もペラペラ。
"He's a really observant, really smart guy and he can pick up Spanish pretty quickly," Ibanez said. "He'd overhear us Latin guys talking and he would imitate it exactly the way that we said it and then he'd ask, 'What does that mean?' Everything that he does, he tries to do it exactly perfect, right? So it only makes sense that he would do that when he's trying to speak Spanish."
「彼はほんとに観察力があって、ほんとに頭の切れる男さ。スペイン語もとても早く身につけるしね」とイバニェス。「彼は僕らのようなラテン系選手の会話を立ち聞きすると、言ってたとおり正確に真似て、その後で『これ、どんな意味?』って質問してくるんだ。彼は自分のやることなすこと全てをパーフェクトにこなそうとするのさ。スペイン語もそう。話すからにはパーフェクトでなきゃ意味がない、それがイチローさ。」

ビクター・マルチネス(ヴェネズエラ)
今はデトロイトのDHだが、彼がまだクリーブランドのキャッチャーで、サイ・ヤング賞投手クリフ・リーとかの球を受けていた時代に、誰かと会話しているイチローが "muy peligroso" (=「とても危ない」)というスペイン語を使っているのを、マルチネスが「また聞き」した。
そこでマルチネス、打席に入ったイチローに、マスク越しに "muy peligroso" と話しかけてみた。すると、イチローは笑顔で応え、すかさずヒットを打って出塁していったらしい。
その後2人はすっかり打ち解けたらしく、あるときなどは打席に入って難しい球をファウルしたイチローが、 "Mala mia" (=「ミスったぜ」)とスペイン語でマルチネスをからかったこともあるらしい。(注:この部分は元記事にはあるが、日本語版では削られている)

ミゲル・カブレラ(ヴェネズエラ)
いまや押しも押されもしないア・リーグの代表的スラッガーの彼が、イチローと初めて会ったのは、カブレラが初選出された2004年ヒューストンでのオールスターで、ヴェネズエラ人プレーヤー7人に混じって一緒に記念撮影したのが最初。
後年デトロイトに移籍したカブレラが、三塁手としてヤンキースとゲームしていたとき、塁上のイチローにカブレラが "Feo!" (=ugly)とスペイン語で声をかけると、イチローがスペイン語で応酬。このときのやりとりで使われたスペイン語も、とてもとても紙面に書き表せるようなたぐいの言葉ではなかったかったらしい(笑)(注:この部分も元記事にはあるが、日本語版では削られている)


2014年10月末に、Latin Postというラテン系メディアに、今オフのストーブ・リーグのFA選手ベスト5という記事が出て、1位がイチロー、後は、パブロ・サンドバル、メルキー・カブレラ、マックス・シャーザー、ジェームズ・シールズだった。
この記事を作るにあたって、例のWSJの記事がどのくらい寄与したのかは当然ながら不明なわけだが、イチローとスペイン語圏選手の親しい関係が判明したことがラティーノ圏でのイチローの好感度をかなり押し上げたことは、おそらく間違いないだろうと思う。
MLB Free Agents 2015 Rumors & Rankings: Top 5 Best Players Available This Offseason : Sports : Latin Post



damejima at 09:19

September 08, 2014

アメリカの人口分布

アメリカ国内のインターネットの普及度分布


上の図は、最初の図が「アメリカの人口分布」で、2つ目が「アメリカ国内の地域別インターネット普及度」だ。

なんとも見事に一致している。

MLBのようなプロスポーツが20世紀初頭にまず東海岸で発達し、徐々に西に普及を進めていった理由も、ひと目でわかる。アメリカという国の東西の環境の違いは、実はこの100年くらいの間、ほとんど変わっていないのだ。

人が多い場所、つまり、濃密な情報空間がある場所ほど、インターネットは普及する。


「そんなこと、わかりきってるだろ。いまさら何いってんのサ」と思うかもしれないが、ブログ主などはこうしてまざまざと視覚化されてみると、ちょっと考えさせられるものがある。

出典/図1:Infographics news: Mantras: Joe Lertola's maps
図2:以下のツイート



1980年代以降に「交通」という独特の概念を用いて人間の社会を語ろうと試みたのは、哲学者柄谷行人だが、当時の彼が語った「交通」が、今の「集積度の高い半導体のような機能をもつ巨大都市」や、「自分のスマートフォンの中に、自己と他人のコミュニケーション手段と、その結果であるメッセージやログをごっそり詰め込んだまま、毎日持ち歩いている都市住民たち」と、どの程度一致しているのかはともかく、少なくともいえるのは、インターネットの発達は、他のあらゆる商業要素と同じように、人口の集積とまったく切り離せない関係にあるということだ。

もっと平たくいえば、他のあらゆる商業要素と同じで、インターネットは商業原理にのっとって発達してきた、ということだ。ネットだけは例外、なんてことはない。

どこかの安易な発想でモノを語りたがるコンサルタントや大学教授さんが言うように、「田舎に都会ほどの情報量や店が豊富なわけではないが、今はネットがあるのだから、通販や、ネット上でのコミュニケーションを通じて、田舎に足りないものを補完して、都会に向けて情報発信すればよろしい。新しい時代の到来だ! イェイ!」などと、つい安易に思ってしまいがちだが、それは嘘だ。

現実世界では、「便利な場所はますます便利になり、不便な場所はますます不便になる」ように、とりあえずはできている。人間世界のエネルギーは、水の流れとは違って、常に「低いところから高いほうへ」流れ、田舎は、地理的条件とは無関係なはずのインターネット空間からすら、置き去りにされつつあるらしい。

都市住民にとってインターネットの価値は、いちいち他人に説明されなくたって、誰もが毎日の暮らしの中で理解している。
だが、では「老衰していく田舎にとって、インターネットが本当はどういう役割を果たすべきものなのか」という設問については、誰か本気で答えを出してくれているのだろうか。ちょっと心配になってしまう。



日本の場合、単純なたとえ話で申し訳ないが、(それがマクドナルド社自身の企業戦略として正解かどうかは別にして)都会のマクドナルドはコンセントだらけなのに、田舎のマクドナルドではコンセントが見つからない。このことに「田舎のネット環境の劣悪さ」が象徴されている気がしてならないのだが、どうだろう。

思うに、田舎はまず、充電フリー環境を充実させる意味で、まずは地元のマクドナルドに(もちろん地元のカフェでもいい)コンセントを果てしなく増設してもらう(あるいはコンセントを開放してもらう)ことから始めてみてはどうかと、真剣に思う。
人口を増やすなんてことは簡単には実現できない。だが、コンセントを増やすくらいのことは手軽に実現できる。

この「充電フリーの場所が常に身近にあること」は、フリーWifiなどと並んで、ネットの発達にとっては案外重要なことだ。もしブログ主が地方の市長かなにかだったら、コンセント大増設で増えるマクドナルドの電気代くらい、税金から補助してやるんだが(笑)

コンセントに、もっと自由を
by damejima




damejima at 15:23

March 30, 2014

Ebbets Field

今は現存しないブルックリンのエベッツ・フィールド(1913年開場)の「ライト側」、あるいは、現存する最古のボールパークであるフェンウェイ・パークの「レフト側」には、ごくわずかな数の外野席しかない。
こうした「古い時代のボールパーク」では、外野席の形状が、左右非対称どころか、「外野席が、レフトかライトのどちらかしかないといっても過言ではないような、偏った形をした球場」があり、さらにさかのぼると、「外野席そのものが存在しない球場」さえみられる。

エベッツ・フィールドエベッツ・フィールド

わざと左右対称な球場ばかり作ったクッキーカッター・スタジアム時代を除けば、むしろ「MLBのボールパークはもともと左右非対称につくられているのが普通」ではある。だが、それにしたって、いくら左右非対称がトレードマークの新古典主義の球場といえども、エベッツやフェンウェイのような「外野席が片側だけしかないといってもいい球場」は、近代では作られなくなっている。
資料:クッキーカッタースタジアム → 2010年8月21日、ボルチモアのカムデンヤーズは、セーフコのお手本になった「新古典主義建築のボールパーク」。80年代のクッキーカッター・スタジアムさながらの問題を抱える「日本のスタジアム」。 | Damejima's HARDBALL

では、なぜ
「かつてのボールパークには外野席がなかった」のか。
そう考えたことから、長い資料探しが始まった。


古いボールパークで「外野席が非常に狭い理由」については、これまで「古い時代のボールパークは、空き地の少ない都心に建てられていたために、周囲の道路によって制約された、限られた敷地面積にあわせて建設しなければならなかったため、球場の形状は、その多くが非常にいびつな形になった」と、説明されてきた。
このブログでも「古い球場の形がいびつで、特に外野席がいびつである理由」を、市街地の敷地の狭さだけから説明してきた。

だが、ブログ主は、20世紀初頭のMLBのボールパークで「新参の白人移民」が外野席に陣取って野球観戦するようになって直後のMLB史を考慮するようになってから、「古いボールパークで外野席が非常に狭い理由」についての考えが大きく変わった。

外野席の発明」の解明にはまだ途上の部分もあるが、成立のプロセスはほぼ明らかになったと思う。以下に記しておく。
(© damejima 以下、非公開)
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damejima at 07:58

February 27, 2014

Wendell O. Pruitt
(写真)第二次大戦における名誉あるアフリカ系アメリカ人パイロット、Tuskegee Airmenのひとり、Wendell Oliver Pruitt(ウェンデル・プリューイット)大尉 (1920-1945)


第二次大戦前後になってさえも残っていたアフリカ系アメリカ人に対する人種差別から、当時のアメリカ軍では、アフリカ系アメリカ人と白人との混成をできるだけ避けており、パイロットに関してもアフリカ系アメリカ人専用の育成機関と、そこを元にアフリカ系アメリカ人だけで編成された部隊を作って対応していた。
これが後に、Tuskegee Airmen(タスキーギ・エアメン)と呼ばれることになる名誉あるパイロットたちである。
彼らはアラバマ州のタスキーギ基地で訓練され、332d Expeditionary Operations Group(=第332戦闘航空群 機首と尾翼を赤く塗っていることからRed Tailsなどと呼ばれた)など、いくつかの「アフリカ系アメリカ人だけの部隊」に配属された。

Wendell PruittはRed Tailsのヨーロッパ戦線におけるエース・パイロットのひとりとして北イタリアなどで活躍し、Distinguished Flying Cross(殊勲飛行十字章)受賞。1945年にタスキーギ基地における訓練飛行中の事故で、25年の短く熱い生涯を終えている。

(ブログ注)
「タスキーギ・エアメン」について、2本の映像作品が製作されている。

"The Tuskegee Airmen" (邦題「ブラインド・ヒル」)
1995年テレビ映画。主演は、Matrix3部作や「CSI:科学捜査班」に出ていたローレンス・フィッシュバーン。

"Red Tails" (日本未公開)
2012年劇場用映画。ジョージ・ルーカス製作。1995年の "The Tuskegee Airmen" に出ていたキューバ・グッディング・ジュニア、テレンス・ハワードなどが再び出演した。
Wendell PruittがJoe "Lightning" Littleというキャラクターとして描かれていることなどでわかるように、この映画自体はフィクションの部分が多く、必ずしも史実を完全に踏襲したノンフィクションではないことに注意すべきだ。例えば「Tuskegee Airmenがエスコートした爆撃機は1機たりとも撃墜されなかった」という伝説が語られることがあるが、資料では25機が撃墜されているとされており、また、Tuskegee Airmenは戦闘機パイロットを輩出してはいない。
なお、ルーカスは製作費5800万ドル全額と配給費用3500万ドルをすべて自腹負担したが、興行収入は約5000万ドルに終わったらしい。
資料:Red Tails - Historical accuracy

と、まぁ、ここまでは書いているウェブサイトなどが探せばある。
だが、10人兄弟の末っ子としてセントルイスで生まれた彼が、なぜ狭き門を突破して「パイロットになれた」のか。その理由が、彼が卒業したミズーリ州のLincoln Universityの歴史が深く関係していることは、ほとんどどこにも書かれていない。


第二次大戦直前のイタリアやナチス・ドイツでは、国が民間の学校を利用して若いパイロットを大量養成する独特の教育システムを持っていたため、数多くの若いパイロットの養成に成功しつつあったが、それに危機感を持ったアメリカでも、それらの国のシステムに習い、民間の大学などの協力を得て、Civilian Pilot Training Program(CPTP)と呼ばれる民間パイロット訓練プログラムを実施することになり(1938-1944年)、アメリカ国内の多くの大学や専門学校が協力を申し出た。

当時のアフリカ系アメリカ人はまだ公然たる人種差別の下にあり、高度な教育も、主に「アフリカ系アメリカ人だけが通う、人種隔離された大学」でのみ行われる有様だったが、そのうちほんの少数でではあったが、CPTPのプログラムを受講して飛行ライセンスを取得することのできる大学が存在した。

Wendell Pruittが在学したLincoln University of Missouriは、まさにそうした「パイロット志望のアフリカ系アメリカ人に門戸を開いている、ほんのわずかな大学」のひとつだった。

Pruittの経歴を詳しくみると、彼は、他のタスキーギ・エアメンのようにタスキーギにおける訓練によってライセンスを取得したのではなく、既にライセンスを取得した後でタスキーギにやってきたことがわかる。
彼にそうしたキャリアが可能だった理由を知るには、CPTPの存在とその社会的な意味を知っていなければならない。タスキーギ・エアメンの華々しさだけにスポットを当てた記述や映画だけ知っているだけでは十分ではない。

Lincoln University of Missouri

アフリカ系アメリカ人の大学で、
CPTPに協力していた教育機関の例

West Virginia State College
Delaware State College
Hampton Institute
Howard University
Toni Morrisonの出身校(1993年アフリカ系アメリカ人作家として初のノーベル文学賞受賞)
North Carolina Agricultural and Technical State College
Lincoln University(Missouri)
Lincoln University (Pennsylvania)
Tuskegee Institute

資料:Notable Black American Women, Book II
by Jessie C. Smith (1996) Publisher:Thomson Gale

Tuskegee Instituteの図書館
整然としたTuskegee Instituteの図書館

Tuskegee Institute (1902)Tuskegee Institute (1902)



さらに歴史の源流を遡ろう。

Lincoln University of Missouriは、なぜ「早い時代からアフリカ系アメリカ人を受け入れる大学」になったのか。話は南北戦争まで遡る。


イギリスから独立する前のアメリカにおいて、アフリカ系アメリカ人の反逆を恐れた白人は、彼らを軍から遠ざけ、武器を持たせなかった。たとえ戦時に臨時徴用した場合でも、非戦闘部隊に配属した。
奴隷解放を叫んだ19世紀末の南北戦争(American Civil War 1861-1865)の北軍ですら、当初はアフリカ系アメリカ人を軍から排除していた。

しかし、こうした事情は、独立戦争(1775-1783年)以降あたりから少しずつ変化してくる。「戦時のみに入隊を許す臨時の兵士」としてアフリカ系アメリカ人を軍に入隊させる例が増え、南北戦争の北軍でも1862年に方針が変わり、「アフリカ系アメリカ人を臨時の兵士として使う」というやり方が盛んに行われるようになった。

南北戦争では、アフリカ系アメリカ人だけを集めたUnited States Colored Troops(USCT, 合衆国有色人種部隊)という特殊な連隊が組織され、アメリカ史に燦然と名を残す勇猛果敢な兵士群Buffalo Soldiers(バッファロー・ソルジャーズ)も、このUSCTから生まれた。

USCT
USCT at Fort Lincoln, November 17th, 1865


南北戦争終結後になると、「平時でもアフリカ系アメリカ人を正規軍として雇用し続ける」という新しい政策が決定されたため、USCTを退役したアフリカ系アメリカ人たちの中に、アフリカ系アメリカ人を教練するための「専門学校」を作る者たちが現れた。当然ながら、これらの学校の多くは兵役につくことを前提にした専門教育を行ったため、結果的にアメリカ陸軍に多くのアフリカ系アメリカ人の人材が提供されることになった。
結果、第一次大戦期には、アメリカ陸軍に40万人ものアフリカ系アメリカ人が在籍したといわれ、戦闘部隊への参加も許されていった。


こうした南北戦争後に誕生した「USCTにルーツを持つ、アフリカ系アメリカ人のための専門学校」は、やがて「アフリカ系アメリカ人のための大学」へと成長していく。
このような「USCTにルーツを持つ、アフリカ系アメリカ人学生の多い大学」を、Historically Black Colleges and Universities(HBCUs) と呼ぶ。

名誉あるTaskegee Airmenのひとり、Wendell Pruittが在籍したLincoln University of Missouriは、まさにそうしたUSCTにルーツを持つ大学=HBCUsのひとつなのだ。
List of historically black colleges and universities - Wikipedia, the free encyclopedia


アフリカ系アメリカ人初のメジャーリーガー、ジャッキー・ロビンソンがデビューするのは、第二次大戦直後の1947年だが、彼は第二次世界大戦中に何をしていたかというと、スポーツ指導者の職を失った後で徴兵され、1942年5月にカンザス州フォートライリーで訓練を受けて陸軍少尉になっている。
ここまで書いてきたことでわかる通り、ジャッキー・ロビンソンがまがりなりに「士官になるための試験を受けることができ」、そして実際に「将校になれた」ことは、単に彼の才気や周囲の人の支えもさることながら、独立戦争以来アフリカ系アメリカ人たちが不利な条件のもとで従軍してきた歴史の積み重ねがあったからこそ達成できることだ。

なお、その後のジャッキー・ロビンソンは1944年に人種隔離の厳しいテキサス州フォートフッドへ配置転換させられている。彼はバス内で白人運転手に黒人用の座席へ移動を命じられ、移動を拒否した。結果的に無罪にはなったが、軍法会議にかけられ、ロビンソンは自ら希望して除隊。やむなくスポーツに活路を求めた。(もちろん歴史にタラレバはないが、もし彼が軍で受けた人種差別に嫌気がさして軍を飛び出し、スポーツに活路を求めるのではなく、ひとりの兵士としてそのまま生涯を終えていたら、MLB史は大きく変わっていたかもしれない。人間の人生とはわからないものだ)


独立戦争から第一次大戦にかけて「アフリカ系アメリカ人にとっての兵役」は、彼らが社会参加への最初の一歩を踏み出すためのきっかけのひとつだった。
第二次大戦における戦没で多くの男性労働力が失われたこともあって、第二次大戦後、多くのアフリカ系アメリカ人は南部から北部に移住し、工場で白人男性の代替労働者として働く機会を得た。
こうして兵役、そして工場労働へと、数少ない機会を最大限利用してアフリカ系アメリカ人が社会参加の幅を拡大する努力を積み重ねたことは、1950年代以降の公民権運動を可能にする要因のひとつになった。


言うまでもなく、「初めての社会参加」が「戦争」であったり、「兵役」であったりすることは、喜ばしいこととはいえない。それは確かだ。

だが、当時の彼らには、「数の限られた社会参加の道」しか用意されていなかった。

少なくとも、アメリカ軍におけるアフリカ系アメリカ人の歩いた道と、彼らの社会参加の発展を対比して見るかぎり、奴隷の立場から出発した彼らの歴史にとって、「軍役につくこと」、あるいは、「兵役のための教育を受けること」が、彼らと彼らの子孫にとって、社会参加への道を開き、アメリカ社会に一定の位置を占めるための「突破口」になったことは、まぎれもない事実だろうと思う。


繰り返しになるが、人と人の争いを賛美したいわけではない。
そんなこと、いうまでもない。

アフリカ系アメリカ人たちの独立戦争以来の兵役参加の歴史は、20世紀後半になってようやく人並みの自由の一部を得る前の彼らにとって、「社会参加への道が、かつてどのくらい固く閉ざされていたか」を知る手がかりのひとつであり、歴史の記念碑なのだ。
それを、半端なヒューマニズムから眺めたいとは思わない。

damejima at 04:56

January 17, 2014



上のツイートをしたMLBcathedralsは、MLBのボールパークの写真を紹介しているアカウントだが、その紹介スタンスが素晴らしい。というのは、やみくもになんでもかんでも紹介するのではなく、MLBのボールパーク史のターニングポイントとして意味がある写真や場面を掘り起こしてくれているからだ。
例えば、もう現存しない20世紀初頭に建設されたボールパーク(例えばエベッツ・フィールド)などは、カラー画像など存在しないだろうなどと思っていると、どこからか「非常に貴重なカラー画像」とかいって掘り起こしてきてくれる。(とはいえ、その写真がもともとカラー画像なのか、それとも最新技術でモノクロ写真をカラー化したものなのかまでは、残念ながらわからない)


上の写真をもう少し丁寧に説明しておこう。

これはアメリカの古いボールパークファンにはよく知られた1929年の空撮写真で、「数ブロックしか離れていなかったフィラデルフィアの2つのボールパーク」が同時に写っている。
上にチラリと見えているのが、1938年までフィリーズの本拠地だったBaker Bowl。(1887年4月30日開場 俗称としてPhiladelphia Baseball Groundsや、Huntingdon Street Groundsといった別の呼び名もある)
そして下に大きく写っているのが、フィラデルフィア・アスレチックス(現在のオークランド・アスレチックス)の本拠地だったShibe Park(1909年4月12日開場)。

c9aa1249.jpg
Burns-Eye Views of Big Time Parks, #6 – Shibe Park | behind the bag

草創期のボールパークは木製だったため、1911年4月のPolo Groundsの火災など、数多くの有名球場が火災で焼失しているわけだが、Baker Bowlも1894年の火事で全焼している。また再建された後も、1903年の事故(外野席が崩落し死者12名)、1927年の事故(ライトポール際の崩落で1名が死亡)などが続き、結局フィリーズは1938年6月30日のジャイアンツ戦を最後に、数ブロック先のコンクリート製の球場、Shibe Parkに移転することになる。

1909年開場のShibe Parkは、世界で初めて鉄骨と鉄筋コンクリートを用いて建設された球場だ。
クリーブランドにあったLeague Parkが木製からコンクリート製になったのが1909年シーズン終了後。デトロイトの木造のBennett Parkがコンクリート製のNavin Fieldに建て替えられたのは、1911年。コンクリート製のエベッツ・フィールドが開場したのが1913年だから、Shibe Parkはまさしく、「木造のボールパークがコンクリートに変わっていき、ボールパークが一新されていく時代の先陣を切った記念碑的モニュメント」ということになる。
だからこそ、これら2つの球場が同時に写された写真は、ただ単に「球場が2つ写っている、だから珍しいでしょ」というだけの写真ではないのである。
参考)Polo Groundsの1911年の火災に関する記事:Damejima's HARDBALL:2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (1)エベッツ・フィールド、ポロ・グラウンズの閉場

ちなみに、1909年4月12日のShibe Park開場当日の大混乱ぶりは、写真として残されている。
外野の広告看板の上の、ほんとに危なっかしい場所に観客が鈴なりになっているが、さらに拡大して見てもらうと、看板の後ろ側のフェンスが破壊され、誰でも勝手に球場内に入りこめるようにされてしまっているように見えるし、また、球場周辺の家屋の窓や屋上に数多くの人がいて、球場で行われているゲームを入場料金を払わないまま「覗き見している」のが見てとれる。
1909年4月12日Shibe Park開場の日の外野席の混雑ぶり

Connie Mack日本のWikiに、「当時のShibe Park周辺の球場内を覗き見できる高さの家では、やがて屋上に座席を設けて金を取るようになったため、激怒したフィラデルフィア・アスレチックスのオーナー兼監督Connie Mackが、覗き見をやめさせるために近隣住民に対する訴訟を起こしたりしたが、敗訴し、最後は1933年に右翼フェンスの高さを12フィートから一気に33フィートに引き上げて覗き見を防止した」ことが記載されているが、この写真を見ればわかるように、「Shibe Parkにおける球場内の覗き見行為」は、実は、球場がオープンしたその日から既に存在していた


また、最初に挙げた空撮には、ほんのわずかな違いではあるが、下記に挙げたようなアングルの異なる写真も現存している。(via テンプル大学ライブラリー Aerial North Philadelphia :: George D. McDowell Philadelphia Evening Bulletin Photographs
アメリカ版Wikiでみると、「ノース・フィラデルフィアにあった2つのボールパークが同時に写った空撮写真」として紹介されているのは、記事冒頭の写真ではなく、別アングルのほうの写真が採用されている。(スタジアムの影や車の位置などから判断する限り、2枚の写真はまったく同じ日に空撮された別カットと思われるが、詳しいことはわからない)
Shibe Park - Wikipedia, the free encyclopedia

テンプル大学所蔵の1929年のShibe Park空撮


この例のように、アメリカでは古いボールパークの写真が公開のライブラリーなどにも残されていて、古きよき時代のベースボールの空気を現代のファンに語りかけてくれる。素晴らしいことだ。
日本でも、こうした野球にまつわる写真コレクションやストーリーが、もっときちんとした形に整理され、ファンの目に触れるようにできるといいのにと、常々思っている。
たとえ素晴らしい資料であっても、人目に触れる場所になければ、結局はその価値を十二分に発揮することはできない。

stadiums│George D. McDowell Philadelphia Evening Bulletin Photographs

Connie Mack Stadium - Air Views │ Digital Collections




damejima at 00:45

November 09, 2013

白人移民とアフリカ系アメリカ人」が都市内部に集積していくことによって支えられた20世紀初頭のアメリカ北部の大都市の膨張は、やがてマスメディアの発達に平行して、「プロスポーツ」、「映画」など、それまでなかった新しいアメリカ的娯楽を「大衆化」させていくことになる。

マスメディアが、「大衆製造マシン」のひとつであると同時に、メディア自体がひとつの「大衆文化」でもあるという「二重構造」をもつように、「大衆に浸透することに成功したスポーツ」は、それ自体が「大衆文化」であると同時に、違う地域から移住してきた見ず知らずの白人移民同士でも、白人移民とアフリカ系アメリカ人でも、古参と新参のアフリカ系アメリカ人同士の間でもコミュニケーションを成立させることのできる「共通言語」でもあり、スポーツはやがて「アメリカに住んでいる人間であることを示す『アイデンティティ』そのもの」になっていく
ことに「プロスポーツ」は、「移民」として、あるいは、「奴隷」として、それぞれに違う理由で移民の国アメリカに住むようになった、主義も主張も違う住人同士をかろうじてつなぐ、いわば「人種や世代の相違を越えた数少ない『共通の話題』のひとつ」となり、プロスポーツが「接点を持たない人同士をも接着する接着剤」のような存在となったことで、歴史的文化的共通感覚を持たない数多くの人種を抱えこんだニューヨークのような大都市にとっては、「その街に住む住人が共通してもっている「地域アイデンティティ」を表示してくれるラベル』」としての役割を背負うことになった。(例:ニューヨーカー=ヤンキースファン)


ただ、ひとつ気をつけておかなければいけないのは、ここでいう「20世紀初頭にベースボールが経験した最初の大衆化のステップ」とは、「全米のあらゆる層とあらゆる地域への拡大」という意味ではない、ということだ。
「20世紀初頭にMLBが経験した最初の大衆化」はあくまで、「移民してきてからまだ歴史の浅い白人移民層への拡大」という限定された意味であり、アフリカ系アメリカ人をまだ含まないし、地域的にいっても、西海岸をまだ含むものではない

野球という娯楽がナショナル・パスタイム(=国民的娯楽)と言われるまでの存在に成長するには、MLBがあらゆる人種に開放されること、そして、1958年のドジャースとジャイアンツの西海岸移転に象徴されるように、MLBがアメリカ西海岸へ拡張されること、この2つが必要不可欠だ。
(白人移民が大衆文化を育てる一方で、アフリカ系アメリカ人が南部から北部都市に大量流入し続けるGreat Migrationという現象も起こり、二グロリーグも結成されているわけだが、その動態については、このシリーズのもっと前の記事を参照してもらいたい。資料記事:Damejima's HARDBALL:「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。
Damejima's HARDBALL:「父親とベースボール」 MLBの人種構成の変化

ジャッキー・ロビンソンのMLBデビューは、ブルックリン・ドジャースが西海岸に移転する10年ほど前の1947年4月15日、ニューヨークのエベッツ・フィールドだが、この試合の観客の半分以上はアフリカ系アメリカ人で占められていた。そんな現象は「1920年代のベースボール」ではありえない。
「ボールパークの観客席」はアメリカ社会の変化を映す鏡なわけだが、「20世紀初頭のボールパークにみるアメリカ」は、まだ人種差別が色濃く残る世界で、当時のボールパークを写した写真には、観客席であれ、チケット売り場であれ、アフリカ系アメリカ人の姿を垣間見ることはできない。

20世紀初頭にMLBが経験した(限定的な意味ではあるが)「最初の大衆化」という現象に関してだけいうなら、「観客」、「プレーヤー」、「オーナー」、どの層をとっても、ベースボールの最初の大衆化を主導したのは「白人移民」、それも、「移民としては新参の貧しい移民層」であり、変な道徳観にとらわれずに歴史の事実だけを冷静にみるなら、こうした「新参の移民である貧しい白人移民」がアメリカにベースボールという娯楽を定着させ、大衆文化としての地位を作っていく最初のステップとなったといってさしつかえない。

Shibe Parkで1914年ワールドシリーズのチケットを買うMLBファン
フィラデルフィアにあったShibe Park(1908年開場)で1914年ワールドシリーズのチケットを買い求めるMLBファン

1914年ワールドシリーズにおけるボストン・ブレーブスのファン席
1914年ワールドシリーズにおけるボストン・ブレーブス側の応援席



アメリカで、ラジオ放送が正式認可されるのは1922年、白黒テレビの放送開始が1941年だから、20世紀初頭のMLBファンは、ゲームを楽しみたければ、基本的に(新聞で試合結果を読む以外には)ボールパークに足を運ぶしか手段がなかった。
だから「20世紀初頭に、どのクラスター、どの人種が、MLBの大衆化に貢献したのか」を知るには、当時の新聞記事を読むより、当時の写真で「ボールパークにどんな観客がいるのか」を眺めたほうが、はるかに手っ取り早いし、間違いがない。


ちょっと横道にそれるが、1920年代初頭に始まった「アメリカのラジオ放送の普及」とMLBの大衆化の関係ついて記しておこう。
アメリカのラジオ放送は、1920年11月ペンシルバニア州ピッツバーグでウエスチング・ハウス社のラジオ局KDKAによる実験放送が始まり、2年後の1922年11月に商務省の正式免許が下りた。
商務省が発行したKDKAへのライセンス(原本)
商務省が発行したKDKAへのライセンス(原本)



1921年8月5日にはKDKAによるMLB初のラジオ中継として、ピッツバーグ対フィリーズ戦の中継が行われたが、当時のラジオはまだ実験放送段階にあった。MLB初放送にドジャースやヤンキースのゲームでなく、この対戦カードが選ばれたのは、たぶんKDKAの地元チームだったからという単純な理由だろう。ワールドシリーズのラジオ初放送も、同じ1921年10月にKDKAとWJZによって実現している。
ラジオは、音楽以外の分野では、「スポーツ」がやがて人気コンテンツとなる可能性に早い段階から気づいていた。
Major League Baseball on the radio - Wikipedia, the free encyclopedia

スポーツキャスターのパイオニア Graham McNameeGraham McNamee

実験放送期のラジオの野球中継では、新聞記者が本業のついでに交代でキャスターをつとめた。そのため初期のMLB中継は、本職ではない新聞記者が事実をかいつまんで伝えるだけの、かなり退屈なものだったようだ。
しかしラジオ放送が正式認可された翌年、1923年のワールドシリーズの中継で、後にスポーツキャスターのパイオニアとなるGraham McNamee(1888-1942)が登場する。彼は後に、ただプレーを伝達するだけでなく、プレーのディテールや熱狂をリスナーに上手に伝える、それまでにないスポーツキャスターとしてのトークを定着させ、ラジオのスポーツ中継が普及する基礎を築いた。
彼は後に、ボクシング史に残る「ロング・カウント事件」で知られる1927年9月22日ジャック・デンプシー対ジーン・タニーのリターンマッチの実況も行っており、また、CBSのオーソン・ウェルズのラジオ番組に1940年に出演した記録も残っている。(http://en.wikipedia.org/wiki/Orson_Welles_radiography)



本題に戻ろう。
ラジオのような「紙でない媒体」の普及とMLBの大衆化が平行して進んでいく以前の、20世紀初頭前後のボールパークには、いったいどんな「人種」の野球ファンが来ていたのだろう。
ある資料に、こんな記述がある。
Some derided the influx of new fans to urban ballparks, in part because of the growing visibility in the bleachers of the sons and daughters of working-class Italian, Polish, and Jewish immigrants.
都会の野球場における新参ファンの流入を嘲笑うものもいた。外野席にイタリア系、ポーランド系、ユダヤ系移民のワーキング・クラスの子女が目に見えて増加しつつあったことが、その理由のひとつだ。
The National Pastime in the 1920s: The Rise of the Baseball Fan

この資料は、20世紀初頭のMLBの大衆化を支えたのが「どの人種、どの層だったのか」を具体的に書いてくれていてわかりやすい。当時のアメリカの大都市で「外野席を埋めることで、ベースボールの最初の大衆化に貢献した」のは、「移民としては新参の、貧しい白人移民だった」というわけだ。
(なぜアメリカの移民史の中で、イタリア系、ポーランド系、ユダヤ系などの「新参の移民」たちが、イギリス系、スコットランド系、アイルランド系など「古参の入植者」から「新参モノ扱い」され、蔑んだ目で見られたのかなど、「移民と移民の間の力学」は、アメリカ史を知る上で重要な部分のひとつだから、アフリカ系アメリカ人がMLBで退潮しつつある理由を探る上でも、複雑な白人移民同士の関係も少しはかじっておく必要があるだろうとは思う。だが話が長くなり過ぎるため、ここでは割愛したい。白人移民とアフリカ系アメリカ人との関係については、別記事で書く)


結論から先にいえば、20世紀初頭のMLBの大衆化を語るには、「観客」、「プレーヤー」、「チームオーナー」のすべてにおいて、「新参の白人移民」の存在を抜きには語れない。
「20世紀初期のMLBで、新参の白人移民たちが外野席を占めはじめた」というエピソードは、「観客層の拡大」の話なわけだが、以下でみるように、「プレーヤー」、「オーナー」についても、まったく同じことがいえる。

例えば「プレーヤー」について少し触れると、20世紀初頭の殿堂入り選手のうち、かなりの数が「貧しい白人移民の子供」だ。
ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、チャーリー・ゲーリンジャーはドイツからきた移民の息子であり、同じように、スタン・ミュージアル、アル・シモンズはポーランド移民の子、ハンク・グリーンバーグはユダヤ移民の子、ウィリー・キーラーはアイルランド移民の子、そしてジョー・ディマジオ、ヨギ・ベラはイタリア移民の子だ。(メリーランド州出身者が多いのは、おそらく当時メリーランドが宗教の自由を認めて、さまざまな移民を受け入れていたという歴史的背景によるだろう)
彼らの「家庭」「父親」はおしなべて貧しく、仕事も、職人ならまだいいほうで、港湾の沖仲仕(stevedore)のような、熟練を必要とされない不安定で低賃金な仕事にしかありつけないプア・ホワイトの移民が多かった。(例:ボストン、ニューヨークなど、東海岸の港での荷役は、仕事そのものは古参の移民であるドイツ系移民とアイルランド系移民が独占していたが、1930年代ボルチモア港の沖仲仕の80%はポーランド移民だったように、沖仲仕として雇われるのは新参の移民だった)

まさに「父親とベースボール」なのである。


「観客」、「プレーヤー」に続いて、「オーナー」についても書きたいが、その前に、他サイトからの聞きかじり、受け売りで申し訳ないが、「ユダヤ系移民の歴史」に触れておきたい。(本当ならあらゆる人種の移民史に触れるといいのかもしれないが、不勉強なブログ主には、とてもじゃないが手に余る)

下記資料によれば、ユダヤ系移民には「5つの波」があるという。
第1波:スファラディムのアメリカ移住
第2波:ドイツ系ユダヤ人
第3波:東欧系ユダヤ人
第4波:ドイツ系知識人
第5波:ロシア系ユダヤ人の移住
資料:ユダヤ人のアメリカ移住史


第1波:スファラディムの南米経由のアメリカ移住
(17世紀以降 数千人規模)
オリジナルのユダヤ人がローマ帝国に対して起こした独立戦争に敗北して追放され、ユダヤ人は世界中に離散したが、これを「ディアスポラ」という。
ディアスポラ以降後のユダヤ人は、大きく分けて「スファラディム」と「アシュケナージ」という2つの流れをもち、オリエンタルなスファラディム(セファルディムとも表記される)はスペインなどの南欧に移住し、東欧の黒海沿岸で栄えた遊牧民族国家ハザール帝国に起源をもつといわれるアシュケナージはロシアや東欧に定住した。
スファラディムは、イスラム統治時代のイベリア半島に数多くいたが、当時のユダヤ人は現代のようにイスラム教国との間で紛争を繰り返していたわけではなく、むしろ、イスラム教国から自治権や特権を与えられ、繁栄していたというから驚く。

しかし、レコンキスタ(=キリスト教国によるイベリア半島の再征服活動。15世紀末に完結した)が完成すると、イスラム教国のもとで繁栄したスファラディムはカトリック教国となったイベリア半島から追放されることになった。
追放後の彼らは南米のブラジルなどに移住し鉱山事業などを成功させるが、やがてその富はスペインやポルトガルに奪われ、さらにアメリカに移住して17世紀末にはマンハッタンにたどり着き、ニューヨークにおける古参の移民層のひとつとなった。
かつて、別の記事で(=Damejima's HARDBALL:2012年12月21日、ニューヨークまみれのクリスマス・キャロル(1) ワシントン・アーヴィングとクリスマスとバットマン)、古い時代のニューヨークがオランダ系移民の多い入植地だったことを書いたが、マンハッタンを買い取って「ニューアムステルダム」と名付けたのが「オランダ系のスファラディム」だったと資料にある。
ニューアムステルダムは後に「ニューヨーク」と名を変え、やがて世界中から移民が集まり、同時に、アメリカ南部から北部に脱出してくるアフリカ系アメリカ人も集まる、いわゆる「人種のるつぼ」になっていく。


第2波:48ersに含まれたドイツ系ユダヤ人
(19世紀末 20数万人規模)
19世紀初頭までヨーロッパ全体を支配していたウィーン体制は、1848年革命によって崩壊に向かうが、ドイツでは1848年革命が鎮圧され、行き場を失った自由主義的な人たちの一部がアメリカに移住した。
この19世紀中期(=1820年から1870年頃まで)にアメリカに移住したドイツ系移民を1848年革命にひっかけて「48ers」(フォーティ・エイターズ)と呼ぶ。「48ers」は、移民の街ニューヨークはもとより、セントルイス、インディアナポリス、ウィスコンシン、テキサス、シンシナティなど、もともとドイツ人入植者の多かった地域に多くが移住し、やがてそれぞれの都市の中流住民になった。

この「48ers」には多数の「ユダヤ系移民」が含まれていて、彼らは街頭の物売りなどから身を起こし、さらに綿花、鉱山、鉄道、土地投機などの分野で成功する者、あるいは、創生期のウォール街で成功をおさめる者も現れた。
とりわけドイツ系ユダヤ移民の金融業における成功は、投資銀行の成功などめざましいものがあり、彼らは当時のアメリカ国内の成長産業だった鉄道などの成長に必要な資金を、母国ドイツやヨーロッパ各地にいるユダヤ系資本とのコネクションから調達し、新興国アメリカの爆発的成長を支え続けた。
移民の街ニューヨークでは、こうした成功したドイツ系ユダヤ移民がアッパーイーストサイドやアッパーウェストサイドといった「アップタウン」で暮らす富裕層になっていったが、彼らは宗教に関して同化主義的でユダヤ教色が希薄だったことから、やがてアメリカ国内で準WASP的扱いを受けることに成功したと資料にある。


第3波:ボグロムを逃れた東欧系ユダヤ人
(19世紀末 100万人規模)
1880年代初頭に帝政ロシアで始まった「ボグロム」と呼ばれるユダヤ人迫害で、ロシアから東欧にかけての広い地域で大量のユダヤ人虐殺が起こり、それらのエリアで最下層に属していたユダヤ人(この場合はアシュケナージ)が大量にアメリカに逃れたため、アメリカのユダヤ系移民の人口は一気に拡大した。

Jacob Henry SchiffJacob Henry Schiff

ちなみに日露戦争はこの時代の話だが、当時アメリカのユダヤ系移民の中心的存在だった金融業者Jacob Henry Schiffヤコブ・シフ)が、日本が日露戦争に必要な戦費を賄うための公債を高橋是清から購入した背景には、ユダヤ人虐殺を強行した当時の帝政ロシアへの激しい反発があったと説明されている。

移民第3波の「東欧系ユダヤ移民」の大量流入により、アメリカにおけるユダヤ系移民の85%が東欧系になる。ニューヨークでは、第2波移民のドイツ系ユダヤ人がアップタウンに住んだのに対し、第3波の東欧系はダウンタウンに住み、例えばロウワー・イーストサイドにはおびただしい数の東欧系が移住した。
有名人で例を挙げると、ロバート・レッドフォード主演の野球映画『ナチュラル』の原作者バーナード・マラマッドは、父親がロシア系ユダヤ移民で、ニューヨークのブルックリンで1914年に生まれている。また、名曲 " America " で、All gone to look for Americaと歌っているポール・サイモンは、祖父が東欧ルーマニアからアメリカに移住してきたユダヤ系アメリカ人で、生まれはニュージャージーだが、育ったのはニューヨークのクイーンズ地区だ。
参考記事:Damejima's HARDBALL:2013年5月4日、「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。アメリカにおける「放浪」の消滅(3) サイモン&ガーファンクルの "America"の解読〜ニュージャージー・ターンパイクの渋滞の中で気づく「若者を必要としないアメリカ」

東欧系ユダヤ移民は、アメリカでも母国と同様の貧しい暮らしを送ったようだが、手に技術のある者も多く、手に職のないアフリカ系アメリカ人の北部移住と違って、職人として生計を立てていくことが可能だった。(ティム・マーラやレオナ・ヘルムズリーの親が職人であるのには、こうした背景がある)
ユダヤ系移民の「第2波」である「ドイツ系」がアメリカへの同化を希望してユダヤ教色が希薄であるのと違って、ユダヤ系移民「第3波」の「東欧系」は、アシュケナージの特徴のひとつであるイディッシュ語を話す正統派のユダヤ教徒であり、ユダヤ教色が強いと資料にある。
東欧系移民の大量流入は、1924年移民法(Immigration Act of 1924)の制定による移民制限で終わる。


第4波:ナチス迫害を逃れるドイツ系移民
(数十万人規模)
第4波のユダヤ系移民は、1933年のナチス・ドイツ成立とともに、ドイツやオーストリアからアメリカに逃れた25万ものユダヤ人で、その中にはかなりの数の知識人・文化人が含まれた。また、ユダヤ人でない知識人の中にも、ユダヤ人の同僚や教師の移住をきっかけにアメリカ移住を決断する者が続出したため、当時のドイツはかなりの量の知識と文化を失った。(「原爆」の開発場所が、結果としてドイツでなくアメリカになったのも、この時代の「ドイツからアメリカへの知識流出」が背景にある)
アメリカのユダヤ系人口は、1924年移民法で東欧からのユダヤ移民が制限された1925年には「380万人」だったが、第二次世界大戦中の1940年時点には100万人も増えて「480万人」に到達している。居住地は、100数十万人ものユダヤ系住民が暮らすニューヨークを筆頭に、ロサンゼルス、フィラデルフィア、マイアミ、ボストン、ワシントンなどとなっている。

Chiune Sugihara
ちなみに、第二次大戦中、東欧リトアニアの日本領事・杉原千畝は、ポーランドからアメリカなどに逃れようとするユダヤ人にビザを発給し、6000余名もの人命を救った。1985年、日本人で初、そして唯一の「諸国民の中の正義の人」に選ばれている。


George Sorosジョージ・ソロスは、ナチス・ドイツの侵攻を受けたハンガリーのブダペスト出身のユダヤ系移民で、アメリカに渡ってウォール街で投資ファンドを起こして成功を収めた。彼は第4波ユダヤ移民の一部であると同時に、アメリカに渡って金融業で成功を収めた第2波ユダヤ移民「48ers」と同じ成功パターンをたどった人物ともいえる。彼はこれまで、ドラスティックな投資家としてグローバル経済の恩恵を享受しつつ、同時に、学者・慈善家としてグローバル経済の欠陥を執拗に批判し続けてきた。彼の矛盾した姿勢に対する批判もけして少なくないが、彼の業績をどう判断するはともかくとして、彼の「自分の気にいらないもの(例えばジョージ・ブッシュ)対する批判の執拗さ」だけをとりあげるなら、かつてユダヤ嫌いで有名だったヘンリー・フォードにどこか似ていなくもないのが、なんとも不可思議ではある。つまり、ユダヤ系であるはずのソロスのモチベーションには、少なくともマックス・ウェーバーが1904年に「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で指摘したような「儲けることと、社会貢献を徹底した形で両立させることへの義務感」のようなものが強く根底に流れている、ということだ。ソロスのこうした複雑なメンタリティの解読は、現代アメリカのビヘビアのこれからを読み解く大きな鍵でもある。


第5波:ロシア系ユダヤ人の国外移住
(20世紀末 数万人規模)
1989年1月のソ連の国勢調査によれば、当時のソ連国内のユダヤ人口は145万人で、うち6万人がアメリカへ移住。また、1990年〜1993年にソ連を去った58万人のユダヤ人のうち、80%はイスラエルへ移住したらしい。
こうした現象の背景にあるのが、1981年にイスラエルとソ連の間で行われた会議と、1989年12月に当時のゴルバチョフ元大統領とブッシュ大統領の間で行われたマルタ会談の、2つの会談。これらの会談によって、ソ連側はロシア系ユダヤ人をイスラエル西岸地区へ移民させることに同意し、また東欧民主化を保証したと資料にある。ブッシュ大統領はソ連のユダヤ人の国外移住を制限しないという条件で、ソ連に「最恵国待遇」を与え、経済協力を約束した。
これらの経緯がきっかけで結果的に米ソ冷戦は終結したものの、かわりに世界は中東紛争という新たな火種を抱えることになったわけだ。中東紛争にユダヤ人入植者の問題が絡んでいることはテレビのニュースで知っていても、その出自がアメリカではなくロシアにルーツがあることには非常に驚かされる。


上のユダヤ移民の歴史をふまえた上で、改めて、このブログで、20世紀初頭にアメリカのプロスポーツで「オーナー」になった人々に触れたいくつかの記事を振り返ると、それらが実にピタリと移民の歴史に沿っていることがわかる。

一例をあげると、例えば映画『ドラゴンタトゥーの女』でリサベット・サランデルを演じたルーニー・マーラの曽祖父にあたるNFL ニューヨーク・ジャイアンツの創始者ティム・マーラについて書いた記事で、彼の経歴を「ロウワー・イーストサイドの貧しい家庭に生まれ、13歳で映画館の案内係になり、通りで新聞を売る仕事を経てブックメーカーの使い走りになり、さらに18歳のとき彼自身がブックメーカーになった」と書いたわけだが、東欧系のユダヤ系移民が「ニューヨークのロウワー・イーストサイド」に多数住んでいた歴史を考慮すると、ティム・マーラのキャリアは東欧系ユダヤ移民の典型的すぎるくらい典型的なサクセスストーリーなのだろうと気づかされる。
Damejima's HARDBALL:2012年12月21日、ニューヨークまみれのクリスマス・キャロル(2) NFLニューヨーク・ジャイアンツとティム・マーラとポロ・グラウンズ

また、MLB サンフランシスコ・ジャイアンツの元オーナー、ピーター・マゴワンについて「かつてアメリカの三大投資銀行のひとつとして名を馳せた、かのメリル・リンチの創業者、そして全米屈指のスーパーマーケットSafewayの創業者でもあるチャールズ・メリル (1885-1956)の孫である」と書いたが、チャールズ・メリルの「投資銀行で成功するというサクセスストーリー」もまた、ユダヤ系移民における典型的なサクセスストーリーだろう。
Damejima's HARDBALL:2013年2月11日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」 (8)番外編 三代たてば、なんとやら。「ステロイド・イネーブラ」と呼ばれたピーター・マゴワン。


上記のユダヤ系移民の歴史資料に、「アメリカの映画は、最初の頃から東欧ユダヤ人の参画によってスタートした」という記述がある。もう少し記述を引用してみる。
(アメリカの)初期の映画産業は、貧しく、無学な労働者層を観客とするもので、一般には「低級な娯楽」とみなされていた。そのため、当時、この未成熟産業が大方の予想を裏切って主要産業へと急成長することを予測しえた者は極めて少なかった。

この文章の、「映画産業」という部分は、それを「アメリカの娯楽」、「アメリカのスポーツ」、「アメリカのメディア産業」、「アメリカのエンターテイメント」などに置き換えたとしても、それぞれ、そっくりそのまま成り立ってしまう。
このことからも、20世紀初頭のアメリカ文化の形成における白人移民の影響力の大きさがわかるというものだ。
(イギリスからの移民で、20世紀初頭にたくさんの無声映画に出演したチャールズ・チャップリンは、1920年前後には、ポール・サイモンが幼少期に住んでいたのと同じニューヨーク州クイーンズのキュー・ガーデン地区に住んでいた。またジョージ・ガーシュウィンも同じキュー・ガーデンに住んでいたことがある)

NFLニューヨーク・ジャイアンツのかつてのオーナー、ティム・マーラが若い貧しい時代に新聞売りから身を起こして、ジャイアンツのオーナーになったとき、今から思えば彼がオーナーシップを買うために支払った金額はほんのわずかなものであったように、20世紀初頭のアメリカにおいて、将来のプロスポーツが現在のような巨大マーケットに成長するとは、先見の明のあった移民の一部の人々以外、誰も予想していなかった。


あまりに端折った話に終始してしまったが、ベースボールの「最初の大衆化」が「白人移民の拡大」と深いつながりがあること、つまり、草創期のMLBで「観客」を形成した層、「プレーヤー」を形成した層、「オーナー」を形成した層(そしてもちろん「二グロ・リーグ」を形成した層も)は、それぞれが「特定の人種やクラスター」にルーツをもっていることがわかってもらえただろうと思う。

「ベースボールの経験した最初の大衆化」では、明らかにアメリカ東岸や五大湖エリアの大都市のダウンタウンに住む白人移民労働者の人口増大や所得増加が関係している。(もっと後の「ベースボールのナショナル・パスタイム化」でいえば、西海岸へのMLB拡張やアフリカ系アメリカ人のインテグレーションが影響している)


誰が先にアメリカに来たか、誰が後からやってきたか、誰が誰の場所を奪って自分のものにするか、そうした「人種間の、あるいは、人種内部の摩擦の問題」が相互に、かつ、複雑にからみあうのが、アメリカという国の難しさ、わかりにくさだが、MLBの成り立ちや課題についても、やはりこうした「誰が、いつ、来たのか」という「ややこしい順番の問題」を無視しては語れないのだ。

damejima at 09:25

May 25, 2013

あるウェブサイトで読んで、いつか何かの形で書こうと思って温めていた言葉がある。いい機会なので、勝手に引用させてもらうことにした。
勝手に引用しておいていうのもなんだが、引用元はあえて迷惑をかけたくないので、URLは晒さないし、言い回しも元の文章とできるだけ変えておくことにする。

アメリカ社会で暮らしてわかったのだが、日本人としては日常茶飯事な行為なだけに、気づかないで、ついついやってしまうことの中に、「アメリカ社会では嫌われる行為」が、いくつかある。
例えば、他人に対して同情すること、他人を凝視すること、他人になにか愚痴を話すこと、そして、意味もなく微笑むこと、などである。どれもこれも、日本ではよくあることだが、アメリカでは「相手を信じてない証拠」ととられてしまう。


いつも、この言葉を思い出すのは、ボコボコに打たれてベンチに帰ってきたときのピッチャー、あるいはチャンスに凡退してベンチに帰ってきたときのバッターをみるときだ。誰も、ケツや肩をたたいたり、声をかけたり、近寄ったり、そういうことをしない。誰も、なんのレスポンスもしないどころか、視線も合わさないのである。

それでいいのだ。
(シンパシーを持たないことと、それを見せないことは意味が違う)


骨折からようやくゲームに復帰したばかりのカーティス・グランダーソンが、またデッドボールを受けて骨折したわけだが、このことに同情を寄せる必要など、まったくない。

彼はそもそも、「ストレートだけを集中的に狙う」という戦略を徹底することで、アベレージ・ヒッターからホームランバッターに転身することに成功し、大型契約も得たわけだが、その戦略が対戦相手にバレて、インコース低めの変化球攻めにあうようになってから、まるで打てなくなり、ついには去年秋の優勝争いの最重要な時期にはスタメンさえ外されて、冴えない優勝を味わうハメになった。
Damejima's HARDBALL:2012年11月2日、2012オクトーバー・ブック 「スカウティング格差」が決め手だった2012ポストシーズン。グランダーソンをホームランバッターに押し上げた「極端なストレート狙い」が通用しなくなった理由。

その、キャリアの岐路にある彼が、今も最も狙いを絞っているであろう「インコースのストレート」を避けていては、仕事にならない。このことは、彼自身、よく理解している、と思う。


だからこそ、彼に同情なんて必要ない。
また、たぶん彼自身も望んでない。

彼が、デッドボールを食らうかもしれないインコースのストレートにさえ果敢に向かっていくことが、今の自分の「仕事」だと考えているとすれば、余計なクチを挟むべきじゃない。彼ならやれるし、やるだろう。だから余計なレスポンスなど、必要ない。


グランダーソンがどうやらライトで続けて起用される、つまり、イチローのベンチスタートが増える、という日に、グランダーソンが骨折したことで、わざわざイチローのところに「彼の骨折をどう思うか」なんて、聞かなければいいことを、わざわざ聞きにいって、さらにはそれを記事として流すなんてことをする日本のスポーツ新聞の記者は、ほんとにどうかしてる。
配慮のないことをするな、馬鹿、と言いたくなる。(もし質問されたイチローが「コメントはありません」と言ったとしても、たぶん日本人記者はありもしない想像をして悪意にとるだけで、同情などせず、そっけなくすることがアメリカっぽいマナーであることに、たぶん気づきもしないだろう)
アメリカ社会で、ポジションを争うライバル選手のデッドボールによる骨折について同情を示すようなコメントをニュースにする必要など、どこにもない。野球チームは老人の仲良しサークルではない。


これからもピッチャーがグランダーソンにインコース攻めをするのはわかりきっている。彼は今後も骨折するだろう。

しかし、それはグランダーソンの仕事の一部だ。
同情なんていらない。


ツイッターで、日本人はもっと強くなるべきだ、みたいなことをつぶやいたばかりだが、アメリカで負けないで、勝つってことを、もう一度きちんとととらえなおしていく、いい機会だと思うから、この記事を書いてみた。みんな、何事にも自信を持って、言いたいことを言って毎日を過ごしてもらいたいものだ。
もしイチローがチーム内での自分の扱いに不満があるなら、それを態度に現したり、トレードを望んだりしてもまったく構わないし、素知らぬ顔でいたければ、それでもいい。どちらでもいい。
だが、必要もないのにへりくだるのだけは、もう止めていいはずだ。


背すじを伸ばせ。そして
誰にはばかることなく、好きなようにバットを振れ。
なにもむつかしくない。




damejima at 13:20

May 12, 2013

Simon And Garfunkel

parkbench

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アメリカにおける「放浪」の消滅地点を確定する作業に始まったサイモン&ガーファンクルの "America" の解読は、旅客機の発達やMLBの西海岸進出を含む1950年代末のアメリカ社会の大きな変化を確かめる作業でもあるが、このシリーズのエンディングとして、どうしても「社会というものは『若さを常に必要としている』とは限らない」と "America" という曲の主張を、日本の近代にあてはめずにいられない気持ちになった。


今のように老成してしまう前の「若かりし日本」では、制度や経済のしくみを学ぶこととはまた別に、文化や生活としての「アメリカ」を十分すぎるくらい学ぶことで、暮らしを豊かにしていっていた面があった。

だが、このサイモン&ガーファンクルの割とよく知られた "America" という曲ですら、肝心の中身があまりよく理解されないまま、現在に至ってしまっている。
この例などみても、日本のこれまでのアメリカについての理解には、おそらく、とてつもない量の「勘違い」が含まれている。

例えば "America" という曲は、従来いわれてきたような、アメリカを探すとか、自分を探すとか、恋愛のはかなさとか、そういう何か70年代風のバラ色なことが歌われているわけではない。
"America" は、「1940年代までは「放浪」を文化として黙認してきたアメリカ社会が、50年代に放浪を消滅させ、やがて安定してきた60年代になると、もはや若者の無軌道な青さを必要としなくなりつつあったこと」に気づかないまま、若さを謳歌することばかり考えて行動し、没落しつつあった60年代当時の若者の無感覚さ、無神経さをシニカルなトーンで歌っている。

だが、アメリカの文化のうち、若さを謳歌する術を学ぶことにばかり熱中してきたかつての日本の若者たちは、そういう「アメリカ文化に確実に内在する苦さを表現として残しておこうとする "America" の、シニカルではあるが、ジャーナリスティックな音楽性」は、ほとんど理解しないまま年老いて、彼らはいまや、若さにはほとんど何の可能性も残さない時代を作り上げている。
そうなった責任が誰にあるのかについては意見がさまざまに分かれるだろうが、少なくとも、「昔の人間の物事の読み方」を、やすやすと信用する時代は終わりにしなければならない。
むしろ、これからは「古い読み方を捨てて、あらためて読み直し」、「自分なりの理解に変更していく」必要が生まれているように思えてならない。
例えば、新聞のような旧式なメディアがすぐに使いたがるのは、あらゆる事を「左・右」に分類するカビの生えた手法だが、いま問題なのは、そんな古びたイデオロギーでラベリングすることなどではなく、例えば、全てを後生大事に抱え込んだまま年老いていく人々と、なにも持たない若者、この「上・下」の関係のほうがよほど課題として大きいことくらい、誰でもわかっていなくてはならない。


「我々青年を囲繞する空気は、今やもう少しも流動しなくなった。強権の勢力は普く(あまねく)国内に行亙ってゐる。現代社会組織は其隅々まで発達してゐる。」

これは、『一握の砂』『哀しき玩具』で有名な石川啄木という歌人の1910年の発言で(明治43年 『時代閉塞の現状』)、「時代の閉塞感」を主張しようとする人によく引用される。特に「今という時代が、若い世代に十分チャンスが与えられていない」と批判する文章を書くときに重宝され、引用されるようだ。
(例えばジャック・ケルアックの『孤独な旅人』を翻訳された中上哲夫氏も、文庫版あとがきで引用なさっている。ただ、以下の拙文は氏のしたためた文章と何の関連も持たない。批判でも、感想でも、賛意でもない)
啄木の生涯を知るための資料例:1148夜『一握の砂・悲しき玩具』石川啄木|松岡正剛の千夜千冊


だが、幕末から現在まで100数十年が経過した日本の近代を俯瞰してみると、実は「『いついかなる時代にも、若い人間が必要とされている』とは限らない」ということがわかる。


例えば、幕末から明治初期にかけての維新の時期に「新しい才気」が必要とされたのは、武士の作った時代が終わりつつあり、価値のスタンダードそのものが流動化しはじめた一方で、欧米各国のアジア進出が足下に迫り、日本の社会が「新しさ」を緊急に必要とした時代だったからだ。
だからこそ、江戸の身分制度の下では活躍の場が限定されていた層、例えば下級武士などに時代の前面に躍り出るチャンスが生まれた。彼らは、江戸の繁栄期なら「地方で孤立したまま埋もれていくしかなかったはずの人材」だが、幕末の動乱期ならではのチャンスを生かして、お互いの間に新しい繋がりを作り、最終的には社会への強い影響力を持つことに成功した。(もちろんこの現象は、コンピューターとインターネットの時代が始まったことで、新たなタイプの人と人の繋がり、新しいタイプの富豪が続々と生まれたことに多少似ている)


江戸の次の時代、明治のある時期に、「小説」(あるいは詩歌)は、出版不況の今からは想像できないほど、かなり圧倒的な社会的影響力を持っていたらしい。
その背景には、「個人にとって明治という新時代、つまり近代が、どう生きたらいいのか、経験がないだけに、よくわからない世界だった」ということがある。

明治という時代が始まって、国の制度の改善については、政府に属する秀才たちが欧米留学などによって他国の優れた制度を吸収しながら日本を近代化していくわけだが、ひるがえって個人の暮らしについては、制度の近代化とはまた違った「壁」があった。
それは、例えば「個人個人の暮らしや、一般家庭のありようが近代的になるとは、そもそもどういう意味なのか」という漠然とした謎であり、一般人は、その謎の解を誰からも教えてもらえないまま、明治という新時代を迎えてしまった。
つまり、明治の日本人は、正直に言うなら、輸入モノである『近代』とやらの中で、突然「自由にしていいよ」などと言われ、喜んではみたものの、さてはて、人と人は、どういう関係をもち、どういうスタイルの家庭を築いて、どう幸せを追求していけば『近代らしくなる』のか」、誰にも具体的なことはわからなかったのである。

そういう「それまで手にできなかった自由を与えられたが、それをどういうふうに消費したものやら、さっぱりわからなかった時代」に、「小説」は、それを読む人にとって、立志、就職、恋愛から、憎悪、破滅に至るまで、「近代生活のありとあらゆるスタイルとディテールを学ぶ教科書」として機能した。
それは例えば、かつて昭和の時代に人々が、テレビアニメ「サザエさん」を見て、家庭で最初に風呂に入るのは誰か、どう子供におやつを与えたらいいか、次に買うべき耐久消費財はどれか、隣近所とのつきあい方など、暮らし、それも電化製品に囲まれた新しい暮らしのスタイルについてのトリビアを学んだのと、同じ現象だった。
まだテレビのない明治の人々は、「小説」や「詩歌」を熱心に読みふけることで、職業、恋愛、プライド、自由、あらゆる近代生活のディテールや概念を学んだ。だから、当時の小説や詩歌の役割は、後の映画や雑誌や音楽とまったく変わらない。
(つけ加えると、かつて人々が「テレビのサザエさんの家庭」を見て学んだように、1970年代以降しばらく、若者は「雑誌」から「アメリカ」を学んだ)


しかし、この「時代が必要とする『何か』」は、
永遠に続くものではない。

幕末に大きく「流動」の側に振れた「社会という時計の振子」が、やがて「安定」の側に戻ったとき、社会は「時代の先駆者としての若者」をもう必要としなかった。
石川啄木が「青年をとり囲む空気が流動しなくなった」と嘆いた時代は、「社会がもう新しさをそれほど必要としなくなったこと」を示しているのであって、啄木は、ある意味サイモン&ガーファンクルの "America" に出てくる能天気な若者と同じ、「既に過ぎ去りつつある激動の時代の高揚感を追体験し続けようとして、時代の変化についていけなかった若者」に過ぎない面がある。
だから、啄木がいくら嘆いたとしても、また、後世の人が、この啄木の有名な「嘆き」を借りて自分の時代の閉塞を嘆いてみせても、それらの嘆息にはそもそも、当人たちが期待するほどの有効性は感じられないのである。

啄木の嘆きにみられる「明治という時代が安定してきて、若者というものが必要なくなっていく現象」と似た現象は、これまで何度も繰り返し起きている。
日本の近代においては、時代が安定してきたことによって、「近代らしい人間像や、あらまほしき家庭像、さらには、それらからの逸脱さえ教えてくれた文学や詩歌」が必要なくなっていき、さらに後の時代には、家庭に電化製品や自動車がゆきわたったことで「豊かさをテレビを通じて教えてくれたサザエさん」がいらなくなり、またアメリカ文化を十分吸収し終えたとき、それまで「アメリカの流行を、ことこまかに教えてくれた雑誌」が必要なくなった



「我々青年を囲繞する空気は、今やもう少しも流動しなくなった」と石川啄木が時代を嘆いた言葉を引用することで、自分のロジックの強化をはかりたがる人(あるいはメディア)というのは、「未来をひらく立場にある若者は、あらゆる時代において重要だ。その重要な存在をないがしろにするような時代は、批判されてもしかたがない」という論法をバックグラウンドに持っていることが多い。
だが、繰り返しになるが、啄木がああした発言をせざるをえなかった時代は、明治維新で「衣替え」した日本が制度を整え、やっと落ち着いてきて、放っておいても自動的に回転できるシステムとして完成に近づいたことで、「先駆者としての若者」や「近代の教科書としての文学」が必要なくなり、「若者」や「文学」の必要度が暴落していく、そういう「維新の志士&文学青年バブル」がはじけた時代だった。
同じように、第二次大戦後、暮らしが安定してきて、あらゆる耐久消費財が珍しくなくなった頃、日本の家庭にとって「サザエさん」は必需品でなくなり、誰もがAmazonでいつでも「アメリカ」を直接発注できるような時代になって、若者に流行を紹介して金をとる「雑誌」を毎週買って読みふける必要は全くなくなっている。(かわりに、いま人はネット上の他人の評価を参考にモノを買い、雑誌を買う理由は「おまけが欲しいから」になった)


時代によって、「必要なものは変わっていく」のだ。
「若者」とて、例外ではない。「若者だけは例外」という考え方は、通用しない。


なのに、誰が、どうはきちがえるのか知らないが、「いつの時代にも若者は必要だ」とか、そういう、歴史に即さない、まことしやかなロジックというか、ゆるんゆるんのヒューマニズムみたいなものがまかり通ってしまい、かえって現実に立ち向かえない人々を増やしてしまっている。

「いつの時代にも若者は必要だ」などという甘ったるいロジックは、あくまで、「そうであってほしい」という「願望」であって、「歴史」ではない。
今の時代の突破口を発見できずに机に座ったまま脳が固まって、役に立たないロジックばかりまき散らしている新聞のコラムニストのように、時代の閉塞なんてことをやたら声高に言いたがる人たちがいくら嘆いてみせたところで、時代に置いていかれたメディアなんか復活できっこないし、そんな緩いセンチメンタリズムで時代の突破口が見つかるわけでもない。


「若さを必要としない時代」は確実に存在する。
そこから目をそらしても、しょうがない。

「自分は若者だから、必要とされているはずだ。だから、今のままでいいはずだ。なのに、どういうわけか、必要とされないまま、自分はほっておかれ、腐り始めている。なぜなんだ・・・」とか、そういうループした思考から抜け出さないと、誰もが思考のループの内側に閉じ込められてしまう。石川啄木は最初の発言者のひとりだったからまだ価値があったが、彼の追体験者には、何の価値もない。

若さを必要としない時代に「人から必要とされる理由」なんてものを、グダグダ嘆きながらいくら考えても、もはや世界は広くはならない。だから、前の時代を真似て、ヒッチハイクなんかしたりしないことだ。渋滞に巻き込まれたグレイハウンドの中で、追い越される車の数を数えてたって、なんにも生まれてこない。


やるべきことは、(自分のやるべきことが、よほど明確にわかっている人は除いて)「他人がいま、何を必要としているのか」、考えてみること。そしてその「人が必要としていることを、やってみる」ことだ。

こういうことをしてくれる人がいればいいのに。ああいうことがあればいいのに。
人が必要としていることって、思いのほか多いものだ。

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"Old Friends" という曲の冒頭でポール・サイモンが「ブックエンド」のほかに、「シューズ」も登場させているのには、もちろん意味がある。なぜなら、これらはどちらも「2つ揃っていてはじめて成り立つ道具で、片方だけでは意味をなさないモノ」だからだ。
なのに、ポール・サイモンがベンチに腰掛けた老境の二人の絆を「2つ揃っていて初めて意味があるブックエンド」にたとえた言葉の妙技だけ発見して喜んで、そこで終わってしまう人があまりに多い。もう少しきちんと読むべきだ。
同じような例は、"America" にもある。この歌詞には、カップルが冷笑する「ギャバジンのスーツを着た男」と、カップルのかたわれの「レインコートを着た若い男」、2人の男が出てくるわけだが、「ギャバジン」とは防水加工された布地のことだから、この2人の男を並列させたことにも意味がある。「違うタイプに見える2人の男の服装の間には、実は根本的な差はない。若いレインコートを着た男は、やがてスーツ姿の男のような人間になっていく」ことを暗示しているのである。

詩という言葉の海淵は思いのほか深い。いにしえのパールダイバーのように奥深く潜りもしないで解釈できたつもりになってもらっては困る。哀しいことである。

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damejima at 02:03

May 05, 2013

前記事で、1960年代前期の若者を描いたサイモン&ガーファンクルの "America" という曲の歌詞の前半部分に隠されたドラマを解読してみた。

こんどは後半部をひもといてみる。


思い出してみてほしい。この曲に登場する60年代カップルの
「旅の目的」は何だったか。

それは、歌詞で何度もリフレインされている。
自分の足と目でアメリカを探すこと」だ。
we walked off to look for America(中略)
ぼくらはアメリカを探して歩き出した。
I've gone to look for America
僕はアメリカを探しにいく
----------------------------------------------
カップルは一定の決意を胸に旅立った。

だが、旅の目的であるはずの「アメリカ探し」の「主語」は、曲の最後の最後になって、それまでのWe(自分たち)や I(自分) ではなく、TheyAllに変更されてしまっている。いったいこれはどうしたことか。
They've all gone to look for America
All gone to look for America
All gone to look for America
彼らはみんなアメリカを探しにいく
誰もがアメリカを探しにいく

あれほど勢いこんで始めた「アメリカ探し」。
なのに、「主語」がいつしかAllに変わってしまったことは、この旅を始めた動機そのものが失われた(あるいは変質した)ことを意味する。
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なぜ、「アメリカを探す」という行為の主語が、自発性を意味するWeI から、まるで他人事のようなThey、あるいは、主体性も個性も感じられないALLに変わってしまうのか。この60年代カップルは、「自分らしい自分」、「自分の目で発見したアメリカ」を探したいから、無謀で気ままな旅を開始したのではなかったのか。
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この「主語の変更」にはもちろん意味がある。
それをこの記事で解読していく。
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歌詞の前半部分について、こんな風に解読した。
カップルでヒッチハイクをすると成功率が低くなることも知らないまま、無謀にチャレンジし続けた4日間のヒッチハイクで、カップルはようやくピッツバーグまで辿り着いた。
だが、ここで疲れ切った2人は、ヒッチハイクだけでニューヨークを目指すのはさすがに諦め、グレイハウンドに乗ることにした。雨が降り続く中、カップルは残り少ないタバコを吸い続けながら、グレイハウンドを待った。
バスにようやく乗ることができたとき、2人の関係は、ふとした会話をきっかけに冷めていく。女は、男が「探しているつもりになっている何か」が、実は「ありもしない」ことに気づいてしまう。

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歌詞の後半部分で、男は、ニュージャージー・ターンパイクにさしかかったとき、グレイハウンドの座席で眠りこける女を見ながら、こんなことをつぶやく。
"Kathy, I'm lost," I said, though I knew she was sleeping
I'm empty and aching and I don't know why
Counting the cars on the New Jersey Turnpike

「キャシー、僕は何かを見失っちゃったみたいだ。」
彼女が寝てるのは知ってたけど、言ってみた。
虚しくて、心がつらい。なのに僕は、わけもわからないまま
ニュージャージー・ターンパイクで車の数を数えてるんだ。
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なぜ、男は脱力感にまみれながら、「バスから外に見える車の数を数えている」のか。曲を作ったポール・サイモンは、この無気力な行為を描くにあたって、なぜ「ニュージャージー・ターンパイク」という固有名詞を使う必要があったのか。
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男がグレイハウンドから外を見て、車の数を数えている。
それはグレイハウンドの周囲に、たくさんの車がひしめきあっていることを意味する。

おそらく、小回りのきかない大型バスであるグレイハウンドは、アメリカ東海岸の「有料の高速道路」特有の「渋滞」に巻き込まれている、のである。

渋滞でグレイハウンドが立ち往生していることは、男と女の関係、「アメリカ探し」の両方が両方とも行き詰っていることを、比喩的に表現している。
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ターンパイク(turnpike)」とは、元は、通行料金を徴収するために故意に道路をふさぐように置かれた障害物やゲートを指したが、後に「有料」の高速道路そのものを「ターンパイク」と呼ぶようになった。(有料高速道路には他にParkwayなんて言い方もある)

ニュージャージー・ターンパイクは、ワシントンDCとニューヨークをつなぐ東海岸の大動脈で、西海岸に多いフリーウェイとは違い、日本の高速道路のと似た「料金所」があるため(コインやトークンを投入する)、ひどく渋滞する。また交通事故が日常茶飯事であることでも悪名が高い。
New Jersey TurnpikeNew Jersey Turnpike

ちなみに、現在アメリカには日本のETCの元祖ともいうべきE-ZPassという料金収受システムがある。最近のE-ZPassは改良によって時速15マイル以下に減速する必要がない。

E-ZPass
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ニュージャージー・ターンパイクが作られたのは1951年。
New Jersey Turnpikeのロゴ
50年代とは、アメリカで「放浪」が消滅した時代であり、「アメリカにおける交通の主役交代が始まった時代」でもある。
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アメリカの高速道路網インターステイト・ハイウェイの建設が本格化するのは、アイゼンハワー大統領が推進した道路整備計画の一環として、1956年に連邦補助高速道路法(Federal-Aid Highway Act of 1956)が成立してからのこと。この法律の制定により、道路利用者が払う連邦税の全額を道路整備に振り向けることが定められ、高速道路網建設のための財源が確保された。

だが、アメリカ東海岸の諸州では、アイゼンハワー時代より前からターンパイクが盛んに建設されていた。

19世紀初めのアメリカでは、既に1万数千キロものターンパイクが建設され、馬車による交通の発展を後押しした。しかし鉄道の時代が始まると、馬車とターンパイクは一度衰退する。
1940年代になると、アメリカで再びターンパイク建設が盛んになる。ターンパイク利用者は馬車から自動車に変わった。1950年代の旅客機の発達は、かつて馬車を衰退に追いやった鉄道や、グレイハウンドのような公共交通機関の衰退に拍車をかけつつ、自動車時代の進展を加速させた。こうして、馬車にエンジンをつける形で始まった自動車の発展は、鉄道の発達で一時衰退したターンパイクを、復活に導いた。
参照先:Damejima's HARDBALL:2013年4月28日、「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。 アメリカにおける「放浪」の消滅(1) 「アメリカの放浪の消滅」を示唆する3つの旅
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アメリカの高速道路事情は、西海岸と東海岸とでまったく異なる

アメリカの高速道路は全体の90数パーセントが無料だが、西海岸では無料の高速道路が多いのに対して、ターンパイクの歴史の長い東海岸では有料比率が高い。例えばニューヨーク州では40%が有料、マサチューセッツやニュージャージーでも20数%が有料の高速道路だ。

トンネルについても、西海岸では一部の例外を除くと無料であることが多いが、東海岸では有料の橋やトンネルが少なくない。例えばニューヨーク、ペンシルベニア、ニュージャージー、デラウェアの各州境を流れるデラウェア川にかかる橋の大半は有料だし、リンカーン・トンネルやジョージ・ワシントン・ブリッジなどの「ニュージャージー側からハドソン川を渡ってニューヨークに入る橋やトンネル」も有料だ。(つまり「ニュージャージーから出る」には料金が必要ということ)

東海岸のターンパイク、橋、トンネルでは、料金所(toll gate)が数多くあるため、困ったことに、金を払わないと通れない道路であるがゆえに、かえって渋滞に巻き込まれるという、納得しにくい現象が日常化している。
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歌詞解読に戻る。

ニューヨークを前にして男はおそらく、渋滞に巻き込まれたグレイハウンドの車窓から外を見ながら、「あと20台・・・あと19台・・・」などと、自分の乗ったグレイハウンドを邪魔している自動車の台数でも数えているのだろう。(もしくは単純に、渋滞の暇つぶしにぼんやり車の数を目で数えている)

歌詞のみによって男のいる場所を明らかにするのは難しい。もしニュージャージー・ターンパイクの終点付近にいるとしたら、ハドソン川にかかるジョージ・ワシントン・ブリッジの手前かもしれない。

こうした「ニュージャージとニューヨークを結ぶ橋を、東方向に行く行為」は「有料」だ(逆は無料)。「西から東へ向かって」旅をする行為が「東から西への旅」と意味が180度異なることは、ここでも示されている。
New Jersey Turnpikeの終点付近

料金所手前の車列はなかなか短くならない。

ターンパイクの料金所では、身軽で小回りのきく自家用車のドライバーは我さきに列に割り込んで料金ゲートに殺到する。その一方で、図体が大き過ぎるグレイハウンドは小回りがきかないため、他の車に割り込まれ続けて料金所になかなか近づけない。
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グレイハウンドのような大型バスは、鉄道とともに、かつてのアメリカの長距離移動手段の花形として栄えた。

だが、旅客機の発達と自家用車の増加でグレイハウンドは交通の主役の座から引きずり降ろされ、やがて衰退していく。市場回復をめざして、乗車料金を値下げするなど、さまざまな対策が講じられたが、後にグレイハウンド社は2度の倒産という苦渋を舐めさせられた。

"America" という曲で、ターンパイク特有の渋滞に巻き込まれて、自由を奪われ、行き詰ったグレイハウンドの姿は、アメリカ社会の変化を象徴してもいる。
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東へ東へと向かう「ちょっとピント外れのミシガンのカップル」は、なぜまた、当時、時代に追い抜かれつつあったグレイハウンドに乗ることを選択したのか。
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もし彼らが普段ニューヨークに暮らしている人間なら、ターンパイクで渋滞することは想定できる。

だが、ミシガンの田舎からニューヨークに出てきたばかりの「お上りさんカップル」は、スムーズなはずの高速道路が有料で、しかも渋滞している、なんていうややこしい事態は想定できない。

もしカップルが、「西から東へ」と旅行するのではなく、ジャック・ケルアックやロバート・フランクのように「東から西へ」旅行していたなら、どうだったか。
西海岸の高速道路の多くは無料だから、料金所がない。東から西へ旅していたら、渋滞に巻き込まれず、イライラせずに済んだかもしれない。

だが、東海岸のターンパイクの渋滞を経験したことがないミシガン出身のカップルは、慣れないヒッチハイク、雨、タバコを切らしたこと、ターンパイク特有の渋滞、気ままな旅のあらゆる選択においてミスを犯し続けてしまう。
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1950年代に始まった「旅客機と自動車の発達」は、それまでアメリカの交通の花形だった鉄道やグレイハウンドを、徐々に主役の座から引きずりおろしていった。

1958年にニューヨークのドジャースとジャイアンツが西海岸移転を決行したが、その英断の背景にも旅客機の発達があった。MLBの選手たちが北米の東西をスピーディーに行き来できるようになるには、旅客機の発達が不可欠だった。
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そうした「アメリカの変化を記録に残すこと」を最初に思い立ったのは、小説家、写真家といったアーティストだった。

Esther Bubleyは1940年代に、グレイハウンドを利用する人々など、当時のアメリカ人のリアルな暮らしの息吹をフィルムに収めた。ジャック・ケルアックは、1940年代に「東から西へ」放浪して、そのアンダーグラウンドな経験を1950年代に小説として発表し、一躍ベストセラー作家になった。ロバート・フランクは、1950年代にグッゲンハイム財団の資金援助で「東から西へ」撮影旅行をして、「自動車に乗る人々」を撮影して人気を博した。
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ボブ・ディランの名曲 The Times They Are A-Changin' 『時代は変わる』がリリースされたのは1964年。サイモン&ガーファンクルの "America" が作られたのと、時代はほぼ同じだ。("America"が収められた"Bookend" というアルバムのリリースは68年だが、曲自体が作られたのは60年代初期)
だが、ごく普通の人々(とりわけ田舎に住む人々)にしれみれば、「時代が変わりつつあること」、例えば「将来グレイハウンド社が倒産する」なんてことを想像することは、おそらく難しかった。(グレイハウンド社の2度の倒産は1990年代と2001年)

なにせ、アメリカでは、「グレイハウンドこそが、アメリカ」という時代が長く続いたのだ。いたしかたない。

だが1950年代に「放浪」がアメリカから消滅しただけでなく、「アメリカそのものだったはずのグレイハウンド」ですら、アメリカの主役ではなくなりつつあった

これは何を意味するのか。
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まとめよう。

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ミシガン州サギノーに住むカップルは、書籍や雑誌で見聞きしたことしかないビートジェネレーションの奔放さや破天荒な自由さに憧れて、いわゆる「アメリカ探しの旅」に出た。(それは「ビートジェネレーションが発見した『アメリカ』の追体験ツアーのようなものだった)

彼らは最初、慣れないヒッチハイクに挑戦したが、カップルであるために成功率が低く、4日もかかってようやく400マイルほど移動して、ピッツバーグに着く。疲労困憊した上に、雨にもたたられた2人はヒッチハイクを諦め、グレイハウンドでニューヨークを目指すことにした。

バス旅行は最初は楽しかった。だが単調なバスの長旅は、2人の関係を冷めたものに変えていく。グレイハウンドがあと少しでニューヨークというニュージャージーにさしかかったとき、そこには東海岸特有の有料高速道路の渋滞が待ち構えていて、カップルの行く手をさえぎった。遅々として進まないグレイハウンドを尻目に、追い抜いていく沢山の自動車。

たくさんの自動車に追い抜かれながら、男は「沢山の都会のオトナたちが、とうの昔に自分のもつ『若さというメリット』を追い越していたこと」、つまり「自分の探したアメリカは、前の時代の若者たちである今のオトナたちが発見し尽くしていて、しかも、かつての古いアメリカが終わって、新しいアメリカになりつつあり、さらには、自分がその変化についていけていないこと」に気づく。
かつて若者だった多くの人々は、ミシガンから来たカップルよりずっと早く「アメリカ探し」を終え、今は「オトナ」として都市に住んでいる。「オトナ」たちは、アメリカにかろうじて放浪が存在していた1950年代までの時代に、東のニューヨーク、あるいは西のサンフランシスコなどの都市にやってきた。彼らは既に都会での自分の居場所を探しあてており、都市に暮らす「オトナ」として、自動車という新しい交通手段を駆使して都市の一部になって暮らしている。

ターンパイクでクルマを運転していたのは、
そういう「アメリカのオトナ」だった。
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ニューヨークを前にしてミシガン州サギノー出身の男は、ようやく、気づく。

放浪も、アメリカ探しも、ヒッチハイクも、グレイハウンドも、自分たちがいままで、「これこそアメリカ」、「これぞアメリカの若者らしさ」と固く信じこんでいたものの大半が、実は「古いアメリカ」であり、それらは既に衰退、あるいは、消滅しつつあること。
さらに、自分たちがいま熱中している「アメリカ探し」「自分探し」も、かつて若者だった「オトナ」たちが、「とっくに経験した文化、とっくにやりつくした文化」であること。
They've all gone to look for America
All gone to look for America
All gone to look for America
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サイモン&ガーファンクル、というと、60年代の若者と、それ以降の「若さがもてはやされた時代」にとって、「若さをもてはやす側」の代弁者のように思われがちだ。

だが、彼らの作った "America" という曲は、1960年代のアメリカが、実は「若さというエネルギー」をもはや必要としなくなりつつあったという、非常に痛々しい事実を、容赦なく指摘しているのであって、別に「若さの礼賛」などしていない。

ある意味、若いということ以外、たいした取り柄が無いことが「若さ」というものの痛々しいメリットだとすれば、この曲は60年代、70年代以降の若者にとって「耳にするのもつらい曲」と受け止められてもよかったはずなのだが、当時の若者はおそらく、原曲の歌詞の意図などほとんどおかまいなしに、耳ざわりのいいメロディだけ聞き流して過ごしてしまったに違いないと、思えてならない。
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「放浪」が50年代に消滅し、かつて「アメリカそのもの」だったグレイハウンドが渋滞にまみれつつ交通の主役でなくなる日が近づいていた。

「若者」という存在は、古代から現代にいたるまで、いついかなる時代においても「主役」であると思いこまれがち(そして、そう教えこまれがち)だが、実は、「若者をそれほど必要としない時代」もあるということ。
これが、かつて「ティーンエイジャー」を発明したアメリカという社会が、老成していく時代に初めて発見した冷徹な事実だったのかもしれない。


だが、それでも人はエネルギッシュに生き抜きたいと願うものだ。ならば、どうすれば時代に立ち向かえるのか。

(次の記事に続く。次回がこのシリーズの最後の記事)
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damejima at 16:12

May 01, 2013

前記事では挙げた3つの旅のうち、ここでは1960年代に作られたサイモン&ガーファンクルの "America" という曲の歌詞を解読することで、アメリカの旅の変貌ぶりを確かめてみたい。
歌詞全文は前記事を参照:Damejima's HARDBALL:2013年4月28日、「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。 アメリカにおける「放浪」の消滅(1) 「アメリカの放浪の消滅」を示唆する3つの旅


この歌詞は、「トーンのまったく異なる2幕」から構成されている。愛し合うカップルが「旅立ちからグレイハウンドに乗るまで」を描いたハッピーな前半部分。そして、「冷えていく2人の関係」を描写した陰鬱な後半部分。

そして幕間にあるのが、脚本や小説の基本パターンである「起承転結」でいうところの『』」にあたる問題のシーンだ。
男が「タバコをとってくれないか」となにげなく発した、その言葉に、「1時間前に吸っちゃったから、そんなの、もう無いわよ」と女(名前はキャシー)がそっけなく応答するシーンである。

この曲を作ったポール・サイモンは、カップルの関係が一変してしまう原因かきっかけを、この「転」にあたる繋ぎ部分の「タバコを巡るやりとり」で表現しているはずだ。

"Toss me a cigarette,
I think there's one in my raincoat"
"We smoked the last one an hour ago"
So I looked at the scenery,
she read her magazine
And the moon rose over an open field.

「タバコとってくれないか。
 たぶんレインコートの中に1本あるはず。」
「最後のは1時間前、2人で吸っちゃったでしょ。」
そんなわけで僕は外の風景を眺めることにした。
彼女は彼女で雑誌を読みふけり
開けた風景に月が昇るのが見えた。

なにげないやりとりだ。それほど問題がある会話には見えない。だが、この短いやりとりを境にして、2人の関係は決定的に冷えんでしまう。

なぜだろう。
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男は、レインコートにタバコがある、と思った。一方、女はタバコがもう無いことを知っていた。

タバコは無いと断定した女は記憶力のよさそうな人物だが、レインコートにタバコを入れていたことそのものを否定しているわけではない。だから、男がレインコートにタバコを入れていたこと、そのものは、おそらく男の記憶違いではない。

問題は、いまタバコが「ある」のか、「ない」のか、だ。
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タバコを吸う人は普通、レインコートのポケットにタバコを入れたりはしない。理由は単純だ。濡れたタバコは吸えなくなる。濡れたタバコが乾くのを待つ人なぞ、まずいない。

それでも男は、「レインコートを着たまま、タバコを吸う」という「普段ならやりそうにない行為」をあえて実行したらしい。
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「外に月が見えた」、と男はいう。だから、男が座っているのはバスの窓側の席だ。男はタバコは「レインコートに入れたままになっている」と思ったわけだが、そのレインコートはどこにあるのか。正確に推測することはできないが、たぶん女のほうがとりやすい場所にあるのだろう。男は「レインコートからタバコをとって」と、女に甘えた。
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なぜ男はレインコートを着たままタバコを吸ったりしたのだろう。

雨具を着たまま吸うわけだから、長距離バスの中ではない。バスの中でレインコートを着ている必要などない。

男がレインコートを着たままタバコを吸ったのは
明らかに「屋外」だ。
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もういちど考えてみる。

なぜ「屋外で、レインコートを着たまま、タバコを吸う」という、普通しない行為をあえてしなければならない必要があったのか。
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レインコートを着ていたわけだから、
タバコを吸ったとき、天気は雨だったはずだ。

タバコを最後に吸った時間を、女は確信をもって「1時間前」と断言している。

そう。
カップルは約1時間前、雨が降りしきる屋外で、2人でタバコを吸っていたのだ。そのとき男はレインコートをはおっており、タバコはレインコートから取り出しては、しまわれていた。
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なぜカップルは1時間前、雨の降る屋外なんかでレインコートなんか着てタバコを吸っていなければならなかったのか。

2つ可能性がある。

可能性その1
1時間前、2人はまだグレイハウンドに乗ってなかった
可能性その2
2人はかなり前からグレイハウンドに乗っていた。長距離を走るグレイハウンドがサービスエリアのような休憩地点に着いた。気ばらしに2人はバスの外に出て、雨の降る中、タバコを吸った

正解は明らかに前者だろう。後者のような描写するのにまだるっこしい場所をポール・サイモンが歌にするわけがない。
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ここで歌詞全体をあらためで眺めながら
歌詞に隠された情報を掘り起こしてみる。
1時間前、2人は、まだグレイハウンドに乗っていなかった。雨が降りしきるピッツバーグのグレイハウンド・ステーションで2人は、ニューヨーク行きの長距離バスを待ちながら、繰り返し繰り返しタバコを吸った。男は取り出しやすいように、タバコを着ているレインコートに入れていた。
ようやく到着したニュージャージーを通過してニューヨークに向かうグレイハウンドに2人は乗った。男は再びタバコを吸おうと思い立って、女に「タバコをとってくれないか」と頼んだが、既に手持ちのタバコは吸いつくされて無くなっていた。

男はそのことに気づかず、女は覚えていた。

「あるとばかり思ったタバコが、実は全部吸い尽くされていたこと」は、雨のピッツバーグ(もしくはその周辺)でグレイハウンドを待ちながら吸ったタバコの本数が、ほんの1、2本ではなく、吸った本数を数えていられないほど多かったことを示している。
つまり、「雨に降られる最悪のコンディションの中でカップルがグレイハウンドが来るのを待ち続けた時間の長さは、けして短いものではなかった」のである。
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ここがひとつの重要な点だが、ヒッチハイクで旅していたはずのカップルなのに、なぜ急にグレイハウンドに乗ることにしたのか

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答えはポール・サイモンが書いた歌詞にある。

It took me four days to hitchhike from Saginaw

「ミシガン州サギノーから(ピッツバーグまで)ヒッチハイクで来るのに4日間かかった」

いくら自動車の性能が今よりも低くて、交通機関も今より未発達の60年代の話とはいえ、ミシガン州サギノーからピッツバーグまでは、約400マイル(約640キロ)だ。クルマで移動するのに「4日間」もかからない。

サギノーからピッツバーグまでの400マイル

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カップルは400マイルを移動するのに4日間かかった。それはつまり彼らのヒッチハイクがうまくいかなかったことを意味している。

4日間もかかってようやく辿り着いたピッツバーグ。
そこで彼らは雨に降られた。
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なぜ彼らのヒッチハイクはうまくいかなかったのか。

歌詞からその正確な理由を推測する証拠を探すことは難しいが、考えられるのは、彼らが単独ではなく「カップル」だったから、ではないか。

ヒッチハイクをしてみればわかることだが、カップルでのヒッチハイクは成功しにくい。なぜって、乗せる側にしてみれば、いちゃついているカップルなど、乗せてやる気にならないからだ。なんせ、カップルでヒッチハイクしたいなら男は木の陰にでも隠れてろ、とまでいわれるほどだ。

さらに考えるべきことがある。例えば1940年代の放浪者が、カップルでヒッチハイクしただろうか、ということだ。そもそも40年代の放浪は荒野で味わう孤独に耐えられる人たちの文化である。カップルで長距離バスに乗る行為は、40年代の放浪のワイルドさとは無縁のファミリーライクな旅でしかない
60年代のヒッチハイカーの意識が、実はこれほどまでに放浪と無縁のものだったことを、この歌は容赦なく描いている。

そしてもうひとつ、考えなければならないのは、このカップルが「田舎から都市に向かって旅している」ことだ。
ミシガンからニューヨークに向かう道路がたくさんあるにしても、都市に向かってクルマを走らせる人々は「なんらかの用件を抱えて急いでいる人たち」だったりする。けしてヒッチハイカーに優しくはない。
旅するならむしろ、都市の人間が田舎へ旅するほうが、なにかと「人の優しさに甘えることができる」だろう。ここが「アメリカを東から西へ旅する」ことと、逆に「アメリカを西から東に旅する」ことの差でもある。もしジャック・ケルアックの放浪がモンタナの田舎から東部の都市に向かうものだったら、もしかすると彼も旅を続けられなかったかもしれない。
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なぜ、この男女は、「ヒッチハイクが成功しにくいカップル」だというのに、4日間もヒッチハイクに挑んだのか。

歌詞に直接推定する証拠が見あたらないが、おそらくこの2人は、「カップルのヒッチハイクが成功しにくいことを、そもそも知らなかった」のだろう。たぶんヒッチハイク経験がなく、知り合いにそういうことをしている人もいなかったに違いない。
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なぜ彼らはグレイハウンドに乗れたのか。

単純な話だが、「もし困ったら、いつでも長距離バスに乗れるくらいのお金を持って旅行している」からだ。

そう。彼らは旅先で働きながら放浪を続ける放浪者ではないのだ。
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では、なぜ、実はバスに乗れるだけの金を持っているなら、成功しにくいカップルでのヒッチハイク、慣れないヒッチハイクなど試みずに、最初からグレイハウンドに乗らなかったのか。

これも歌詞から推測することはできないが、全体のトーンから察するに、ヒッチハイクみたいな小さな冒険をしたかったのだろう。

「4日間ものヒッチハイクの疲労」、そして「雨」。この2つの壁が、疲れ切った彼らの足をグレイハウンド・ステーションに向かわせた。
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もういちどまとめてみよう。
カップルでのヒッチハイクは成功率が低いことも知らないまま、無謀にチャレンジし続けた4日間のヒッチハイクで、カップルはようやくピッツバーグまで辿り着いた。
だが、ここで疲れ切った2人は、ヒッチハイクでニューヨークを目指すのはさすがに諦め、グレイハウンドバスに乗ることにした。雨が降り続く中、残ったタバコを吸い続けながら、グレイハウンドを待つカップル。
バスにようやく乗ることができたとき、2人の関係は、ふとした会話をきっかけにして冷めてしまうく。
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女は、自分が「ありもしない」とわかっているタバコを、男に「とってくれ」と言われ、イラついた。女はその後、黙りこくって雑誌を読みふけり始め、2人の会話は途絶えてしまう。

おそらく、女は、男が「探しているつもり」になっている「何か」が、実は「ありもしない」ことに気づいてしまったのだ。(比較すると、忌野清志郎の "Day Dream Believer" という曲に出てくる「夢みて生きてきた男」が、いかに女の優しさに支えられているかがわかる)

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男は、何かを探しているつもりになっていた。

横で眠りこける女を見ながら、
男はこんなことをつぶやく。

"Kathy, I'm lost," I said, though I knew she was sleeping
I'm empty and aching and I don't know why
Counting the cars on the New Jersey Turnpike

「キャシー、僕は何かを見失っちゃったらしい。」
彼女が寝てるのは知ってたけど、言ってみた。
虚しくて、心がつらい。なのに僕は、わけもわからないまま
ニュージャージー・ターンパイクで車の数を数えてるんだ。

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実は、若者たちが自分とアメリカを探しはじめるより、はるかずっと昔に、アメリカの放浪は消滅していた。だが、田舎育ちの若者たちはそれに気づかないまま、カップルで、それなりの金を持って、のほほんと都会に向かうという「ピント外れな旅」に出かけてしまったのである。

彼らは、無一文の放浪の詩人ほど孤独ではなかったが、
だからといって、幸せというわけでもなかった。

(次の記事へと続く)
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damejima at 19:40

April 29, 2013

写真家ロバート・フランクが1955年から56年にかけてアメリカを旅して撮影した作品集 『アメリカ人』 がアメリカ国内で出たのは、初版が58年にパリで出版された翌年の1959年だが、それを見た当時の若者がインスパイアされ、「自分もあんな風に自由にアメリカを旅してみたい」という思いを抱いたとき、実は、「アメリカにおける放浪」は既に消滅していた、という話を以下に書く。(Copyright © 2013 damejima. All Rights Reserved.)

だから、例えば1968年にサイモン&ガーファンクルが出したアルバム "Bookend" に収められた "America" という曲の "Looking for America" という歌詞について、「アメリカと自分を探す」だのなんだのと、センチメンタルにばかり解釈するのは根本的に間違いなのだ。


アメリカにおける「放浪」は、いつ、どんな形で消滅したのか。
その「放浪の消滅」にとって「1958年」という年は、
なにか意味のある特別な年なのか。


まず比較のために
「3つの異なる時代のアメリカの旅」を挙げる。

以下で3つの旅を比較する目的は、「1958年」という年が、アメリカ社会の質にとって、いかに大きなターニングポイントだったかということを、野球以外の角度から示すことにある。それによって、ドジャースジャイアンツが西海岸に移転した「1958年」という年の「特別さ」を、さらに鮮明に証明できるはずだ。
具体的な作業としては、サイモン&ガーファンクルの "America" という曲に関する従来の弛緩しきった解釈を訂正し、新しく解読しなおす作業が中心になる。

1)1940年代末
ジャック・ケルアックの小説『路上』における旅。主としてアメリカを東から西へと横断する旅が描かれた。
この旅が北米を「東から西へ」という方角で行われたことには、少なからぬ意味がある。日本の江戸時代に、大都市江戸に住む松尾芭蕉が旅したのが「江戸から東北へ」、つまり「都市から田舎へ」という方向であって、その逆ではなかったことにみられるように、放浪生活の奔放さに心奪われるのは、やはり「都市の住人が持ちたがる憧憬」の典型的パターンなのだ。

『路上』の出版自体は1957年だが、作品の元ネタになった放浪そのものは、出版より10年も前、「1940年代末」に行われたもので、1950年代ではない。この「行為の行われた年代と作品発表年代との間の大きなズレ」は非常に重要な意味をもつ。
この「ズレ」はこれまで、その意味をほとんど理解されないまま、「ケルアックが旅をしたのは『路上』が出版された50年代だ」と勝手に思い込んでいる人が少なくない。(ケルアックファンを自称する人ですら、知らない人がいる)

ケルアックは、40年代に行った旅から10年もたってようやく『路上』を世に作品として送り出すことができたのだが、50年代末には、実は「アメリカの荒野を放浪する行為そのものが、不可能になっていた」
ケルアックは1960年に出版された『路上の旅人』という本の中で、「1956年以降、ホーボーをやめざるをえなかった」、「もはや荒野で一人でいることさえ不可能」、「アメリカの森は監視員でいっぱいだ」と、1950年代のアメリカの変質を指摘している。
ケルアックは、『路上』の出版にようやくこぎつけた時には既に、「放浪」という「彼のクリエイティビティの源泉」を失っていたのである。『路上』出版以降のケルアックはほとんどロクに書けない状態だったのは、彼のネタ元である「放浪」がアメリカにおいては不可能になっていたためであり、1960年代はケルアックにとっては余生に過ぎない。

2)1950年代中期
ロバート・フランクが1955年から56年にかけて行ったアメリカ横断撮影旅行は、『路上』と同じく、北米を東から西へ向かって行われた。撮影された写真は、1958年にパリで『アメリカ人』初版として出版され、さらに翌58年、写真集としての体裁でアメリカ版が出版されている。
参考記事:Damejima's HARDBALL:2013年4月18日、「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。『ロバート・フランク眼鏡』をかけず、裸眼で見る「モンタナ」。スポーツと家族とクルマのあるアメリカ。
ロバート・フランクがアメリカを旅して自動車に乗る人々を熱心に撮影した1950年代は、「アメリカにおける放浪」が文化として消滅しつつある時代であり、アメリカの交通機関の主力としてかつて隆盛を誇った「鉄道」や「長距離バス」が衰退し始めた時代であり、その一方では「旅客機」と「自動車」の発達が始まっており、アメリカの旅をめぐる環境は大きく変貌しつつあった時代である。

3)1960年代前半
サイモン&ガーファンクルの1968年リリースのアルバム "Bookend" に収録された "America" という曲において、ポール・サイモンが描いた旅は、上の2つのサンプルとは旅の方角が180度違い、ミシガンの田舎から大都市ニューヨークへ、「西から東」という方向で行われた。この「西から東」という方角に、深い意味がある。
『路上』にみられた「ズレ」は、この曲にも存在する。アルバム "Bookend" のリリースが1968年であることで、この"America" という曲を「60年代後半のアメリカの若者の旅を描写した曲」だと思っている人が多い。
だが、実際にはこの曲は、1965年にデモテープ化されていたことがわかっていて、さらに曲中に出てくる "Mrs. Wagner pie" という固有名詞が実在の会社で、その会社が1966年に倒産していることから、"America" に描かきこまれた旅のカップルは、60年代末の若者ではなく、60年代前期の若者の姿だ。


1968年にリリースされたサイモン&ガーファンクルの "America" を聞いて、「自分もこんなアンニュイな映画みたいな旅をして、自分というものを心ゆくまで探してみたい」と思った人は、60年代末から70年代にかけて数多くいたかもしれない。さらにもっと後の時代にも、60年代文化への憧れから、カメラ片手にアメリカに旅立った人がいたかもしれない。


だが、次の記事で詳しく書くが、サイモン&ガーファンクルの "Americaはこれまで、まるできちんと解釈されてはこなかった

いいかえると、日米問わず70年代の若者の多くが「アメリカ」を勘違いしたまま成長した
例えばケルアックがやった「40年代のアメリカの放浪」やロバート・フランクの写真集のような「古いアメリカのオリジナリティ」は、「1950年代に発表された作品に収集されていた過去の記録」のであって、50年代には既にアメリカから姿を消しつつあった文化だ。
もちろん60年代末から70年代にかけて育った若者は、それらを直接自分で体験することなどできず、書籍やレコードなどを通じてしか知らなかったが、にもかかわらず、彼らは50年代の作品を通じて知識として知ったに過ぎない「古い時代のアメリカ」を「追体験」しようと必死に試み続けた
いうまでもなく、当時の日本はアメリカ文化が輸入されるのにかなり時間がかかっていたために、日本の若者は、アメリカ国内の若者より、さらに「もうひと時代遅れて」追体験に向かった。


60年代70年代の若者たちは、憧れの映画で見た出来事や、憧れの書籍の中でしか知らないことを、リアルライフで再現してみせようとするかのように、「追体験」に熱心に取り組み続けた。そしてそれが、「オリジナルなアメリカ、ホンモノのアメリカに、少しでも接近し、自らをアメリカそのものにしていくためにどうしても必要不可欠な試みだ」と、思い込もうとした。

しかし、彼らの試みのほとんどは、サイモン&ガーファンクルの "America" の歌詞に出てくるカップルがそうであるように、「放浪の旅を気取って、あてどない自分探しの旅に出るが、苦労の多いヒッチハイクに疲れたら、金にモノをいわせてグレイハウンド(=長距離バス)に乗って、楽をして移動して都会に行く」というような、「夢見がちな若者の、弱腰な試み」に過ぎなかった。彼らの試みの大半は失敗に終わり、多くの人は失望を味わった。
しかし、彼らの多くは、そうしたケルアックの放浪の追体験の挫折について、「出発点からして間違っていた」と気づくことよりも、むしろ、「失敗することそのものが、若さを実感できる素晴らしい体験だと思い込むこと」のほうを選んだし、「オリジナリティ溢れたアメリカ探しとは、むしろ、失敗することそのものを指すのではないか」、「失敗した自分の若さこそ、むしろカッコいい」と自分を慰めることのほうを選んだ。


だが、若者がどう誤解しようと、実際には、ケルアックが1940年代に体験した「放浪」という名の文化は、「1950年代中頃には消滅しつつあった」と、ケルアック自身が証言している。
50年代文化にとって、「放浪」とは「クリエイティビティの源」のひとつだったわけだが、『路上』が大流行して、世間に放浪旅の流行すら引き起こした50年代末には、既に「水源は枯渇していた」。

1960年に出ている『孤独な旅人』という書籍で、ケルアックは「ジェット機時代はホーボーを十字架にかけつつある」と言っている。(ホーボー=放浪者。いわゆる浮浪者ではない)
これは、以前「ニューヨークにあった2球団、ドジャースとジャイアンツの西海岸移転を可能にした社会背景に「旅客機の発達」があった、と書いたことにピタリと一致する。
Damejima's HARDBALL:2012年3月6日、「1958年の西海岸」という特別な年、特別な場所。リチャード・ブローティガン 『A Baseball Game』の野球史的解釈。
1000キロ単位離れた西海岸での試合に東海岸の野球チームが疲労困憊せずに移動して試合をするには、北米大陸を短い時間で横断できる旅客機の発達が必要不可欠だったが、その一方で、1950年代に始まったボーイング707やDC-8の開発に始まる旅客機の発達は、まさに「放浪」を消滅させた。

グレイハウンドが並ぶ1940年代のミシガン州のバスターミナル
グレイハウンドが並ぶ1940年代ミシガン州のバスターミナル


ジェット機は、ホーボーを十字架にかけたが、そのかわり、ドジャースを西海岸に運んできた」というわけだが、さらに重要なこととして、この「旅客機の発達」は、「40年代文化である『放浪』を消滅させ」「東海岸の文化だったMLBを、西海岸に拡張させた」だけでなく、それまで繁栄していた「長距離鉄道」や「グレイハウンドのような長距離バス」を衰退させ、さらに、それらの交通手段に代わる新しいモビリティとして、「自動車」を急激に発達させる契機を作った

1950年代のグレイハウンド
1950年代のグレイハウンド



ロバート・フランクがアメリカを横断した1950年代中期は、「放浪」が消滅し、「鉄道やグレイハウンド」が衰退し、「旅客機」と「自動車」が発達しつつあった時代なのだ。
だからこそ、グッゲンハイム財団から資金援助を受けてロバート・フランクが1955年から56年にかけて行ったアメリカ旅行では、「多くの人々が『とても自慢げな表情で』クルマに乗って」いるのである。


ロバート・フランクが、写真家として「50年代のクルマに乗った人ばかり熱心に撮っていること」の意味は、けして小さくない。

もしロバート・フランクが、ケルアックのように「放浪者たちの間に混じって旅をした」なら、たとえ彼が旅した時代が「アメリカから放浪が消滅し、鉄道とグレイハウンドが衰退し、旅客機と自動車が発達していく1950年代中期」だったとしても、「自動車に乗った人々にばかり熱心にレンズを向けてシャッターを切った」とは思えない。
ロバート・フランクの作品には、ヒッチハイカーという単語を含んだタイトルの作品もあるにはあるのだが、ロバート・フランクは「車に乗った人々」を「観察する者」としてフィルムに記録しだだけだ。撮影者ロバート・フランクの位置は、ケルアックとは違って、あくまで「観察者」「傍観者」にすぎないのであり、「自らの意思で放浪を日々の暮らしとする者」の視線ではない。
ロバート・フランクがやったことは、放浪でも、鉄道でもグレイハウンドでもない、アメリカの新しい移動手段である『自動車』に乗った人々を「観察」することであって、「ロバート・フランク自身がヒッチハイク旅をしながら撮影した」わけではない。

もしロバート・フランクのような「観察者としての写真家」が、「『放浪』がまだ文化として生存していた1940年代のアメリカ」を旅していたとしても、彼が選びそうな撮影ターゲットと撮影スタイルは、自分自身も一緒に放浪しながら放浪者たちを撮る、というスタイルではなく、むしろライカ片手に、当時のメインの交通手段である鉄道の駅やグレイハウンドのバス停で待ち構えて、「鉄道やグレイハウンドに乗りこむアメリカ人」を撮るという「観察者として」の撮影スタイルを選んだだろう、と思う。

ちなみに、1940年代にグレイハウンド・ステーションやグレイハウンドを待つ人々を数多く撮影した写真家に、Esther Bubley(1921-1998)という素晴らしい写真家がいる。彼女の作品が持つ「やわらかな日常の目線」を、単なる「観察」だとは全く思わない。個人的に、ロバート・フランクの「ゲージュツ家が他人から金をもらって旅して行った、遠回しなモノ言いのような距離を置いた観察」より、ずっと作品レベルは高いと思う。なぜまた日本でこれまで、いまの時代に見てもけして古さを感じないEsther Bubleyの柔軟さより、古式蒼然としたロバート・フランクの硬さばかりが持ち上げられてきたのか、それがわからない。
Esther Bubleyの描く「アメリカ」は、ロバート・フランクの「アメリカ」より「はるかにアメリカくさい」し、なにより、アメリカのさりげない日常性を撮影するというコンセプトでEsther Bubleyが優れた作品をカメラに収め続けた「時期」は、ロバート・フランクの『アメリカ人』よりも10年以上も早いのである。 Esther Bubley - Wikipedia, the free encyclopedia

Greyhound Bus Station, 1943. Photograph by Esther BubleyGreyhound Bus Station, 1943.
Photograph by Esther Bubley



以上に書いてきた意味から、ロバート・フランクの『アメリカ人』と、ケルアックの『路上』が、同じ1950年代後期に出版されているからといって、ロバート・フランクの写真を、40年代の放浪文化やビートジェネレーションに連なるものとみなすのは、間違っているし、馬鹿げている。ロバート・フランクの『アメリカ人』は、60年代以降の旅客機・自動車時代の幕開けに連なるものだ。


ケルアックが40年代に体験した放浪を、ごく普通の人々までもが書籍を通じて文化として知ったのは、旅からすでに10年近くが経過した1950年代末のことで、作品『路上』は彼をベストセラー作家に押し上げただけではなく、普通の人々に「アメリカを旅する自由さ」や「旅を通したアメリカらしさの発見」に熱狂的ともいえる憧れを抱かせ、アメリカの交通機関の発達もあって、人々をアメリカ捜しの旅に駆り立てた。
だが、何度も言うように、実際にはそのとき既に「40年代の放浪という文化は、すでに死に絶えていた」。

ましてポール・サイモンが "America" という曲を書いたときには、『路上』の出版から10年、ケルアックの40年代の旅からは20年が過ぎていた。"America" に描かれたカップルの旅は、「かっこよさげな、自分探し」でもなんでもない。
そこに描かれて詳しい情景は、次の記事で詳しく示すことにしたいが、「40年代にあったと聞く放浪というものを、50年代に出された書籍を通じて知っている」ような60年代の田舎に住む若者が、「田舎から都会に向かおうとして、本で読んだことのあるヒッチハイクってやつを試みてみたものの、あえなく失敗して、しかたなく財布の金を使って乗りこんだ値段の安い長距離バスの中で、関係が冷えていくカップルの内輪もめ話」である。

「60年代カップルの知識」の根底にある「50年代に出版された書籍に書かれていた放浪」とは、もちろん実際には「40年代の放浪」で、とっくにアメリカから消滅しているのだ。
ケルアック自身すら50年代に「自分自身は純粋なホーボーとはいえない」と謙遜しているというのに、この「ちょっとつらいことがあると、バスに乗ってしまうような軟弱な60年代の田舎のカップル」が、都会を捨てて田舎に向かう放浪者になれるわけもない。(ここが「東から西への旅」と、「西から東への旅」の違いだ)


ただし、ことわっておきたいと思うのは、「放浪者の精神」がアメリカのあらゆる場所から消滅したわけではない、ということだ。
たしかに、「荒野を放浪という形式で旅する」という意味の「放浪」はアメリカの表面から消滅している。だが「精神」としては、例えばスティーブ・ジョブズのような特別な人の心の中に受け継がれ、現代に伝わっている。例えばiPodやiPhoneが、ただの電化製品ではなくて、「放浪者」としてのスティーブ・ジョブズがさまざまな「心の放浪」の果てに、「自分の場所といえる場所にようやく辿り着き、そこで実らせた果実」であることは、言葉にしなくても、わかる人にはわかると思う。


さて、長い前置きだったが、サイモン&ガーファンクルの "America" という曲の歌詞の解読にとりかかろう。

この歌詞の解釈はこれまで、例えば「グレイハウンドの衰退と旅客機の発達の関係」のような、アメリカ社会のインフラの変貌と文化の関係をきちんと考慮して解読されないまま、表面的なセンチメンタルな解釈しかされずに現在に至っている、と思う。
ポール・サイモンは歌詞に、このカップルを取り巻く社会をちゃんと描きこんいる。だが、たいていの文学作品が読む者の解読を要求するように、 "America" の歌詞も、読む側に読み込みを要求する形で書かれており、さらっと読んだだけでは意味が伝わらないようにできている。

これから試みる解読の結果、これまでやたらと「ケルアックのような50年代のワイルドな文化の正当な継承者を、やけに自称したがってきた」1960年代とか70年代を経験した人たちが自画自賛したがってきた「60年代以降のアメリカの旅」、あるいはそういう旅への憧憬が、実は「ビート・ジェネレーションの放浪」とまるで無縁なものに過ぎない面がある、ということを明らかにできたら幸いだ。


以下、サイモン&ガーファンクルの1968年のアルバム "Bookends" に収められた "America" という曲の歌詞だ。このブログの独自解読を目にする前に、まず自分自身の目で読んでみることを、是非おすすめしたい。
フォントサイズがあまりにも小さいのが恐縮だが、改行箇所をできるだけ減らすために止むをなかった。ご容赦願いたい。

"Let us be lovers we'll marry our fortunes together"
"I've got some real estate here in my bag"
So we bought a pack of cigarettes and cs
And we walked off to look for America

"Kathy," I said as we boarded a Greyhound in Pittsburgh
"Michigan seems like a dream to me now"
It took me four days to hitchhike from Saginaw
I've gone to look for America

Laughing on the bus
Playing games with the faces
She said the man in the gabardine suit was a spy
I said "Be careful his bowtie is really a camera"

"Toss me a cigarette, I think there's one in my raincoat"
"We smoked the last one an hour ago"
So I looked at the scenery, she read her magazine
And the moon rose over an open field

"Kathy, I'm lost," I said, though I knew she was sleeping
I'm empty and aching and I don't know why
Counting the cars on the New Jersey Turnpike
They've all gone to look for America
All gone to look for America
All gone to look for America




damejima at 07:46

February 17, 2013

欧州で販売されているラザニアやハンバーガーなど、「牛肉」と表示されている肉製品の中に、馬肉など別の肉が混入されていた食品偽装事件が、欧州各国で問題になっているようだ。
この事件では、人体に有害といわれる薬品を含む馬肉がイギリスからフランスへの食品流通ルートに乗った可能性があるらしい。詳しいことはよくわからないが、ヨーロッパ全体を巻き込んでいる。


この馬肉混入問題で、ちょっと気になったのが、イギリスで問題の馬肉を処理した処理場で検出されたフェニルブタゾン(phenylbutazone)という薬物の名前だ。
欧州の馬肉混入問題、フランス卸売会社が偽装の疑い | Reuters


フェニルブタゾン(phenylbutazone)は、非ステロイド系の鎮痛性抗炎症薬で、獣医が競走馬などの消炎剤として用いる。
だから、今回のヨーロッパの食品偽装事件で問題になっている馬肉とは、単なる馬ではなく、「競走馬の肉」であり、しかも「ヨーロッパ競馬では禁止されているはずの消炎剤フェニルブタゾンをたっぷり使っていた」という二重の意味がある。さらにいうなら、イギリスでは馬肉を食べる習慣がないらしいが、イギリス国内の業者は禁止薬物を使っていた競走馬を処理して、フランスに食肉として輸出し、加工食品がイギリス国内に還流していた、ことになる。
(ここではあえて詳しく触れないでおくが、動物用の消炎剤、つまり炎症を抑える薬物を故意に人間が使っているケースがあるらしく、ブログ記事などでそのビックリするほどの効き目の強さに驚いている様子が書かれたりしている。だがアナボリック・ステロイドも同じだが、ちょっとは副作用の強烈さを考えろ、といいたくなる)

CNNの記事によると、「フェニルブタゾンには人間への重い副作用や発がん性が指摘されており、食肉への残留は認められていない」とのことで、「アメリカ国内では、人間への使用は禁止されている」らしいが、同時に「イギリスの専門家は、もしこの薬品が残留した馬肉を食べたとしても、副作用が出ることはまずあり得ない」と、のんびりしたことを指摘しているらしい。
CNN.co.jp : 馬肉混入問題、英で3人逮捕 有害薬品残留の恐れも - (2/2)


フェニルブタゾンという薬物と競走馬をめぐって、こういうなんだかよくわからない出来事が、起きるのは、実は初めてではない。というのは、過去のアメリカ競馬において何度か、このフェニルブタゾンという薬物をめぐる問題が起きているからだ。


日本の競馬統括機関であるJRAにおいては、競馬法第56条、第59条の別表(2)に明記され、「フェニルブタゾンは禁止薬物」とハッキリ規定されている。日本では、馬術競技においても、フェニルブタゾン検出による失格・罰金を課した事例もある。
JRAホームページ│JRA関係法令等

公益社団法人 日本馬術連盟 《Japan Equestrian Federation》・日本馬術連盟・日馬連・馬術連盟・公益社団法人 日本馬術連盟


ところが、CNNが「人間におけるフェニルブタゾン使用を禁じている」というアメリカでは、州ごとに一定の制限を設けつつも、全体としては競走馬に対するフェニルブタゾン使用は許容している。
ホースマン、フェニルブタゾンの閾値引き下げに反対(アメリカ)[獣医・診療] - 海外競馬ニュース(2010/09/22)【獣医・診療】 | 公益財団法人 ジャパン・スタッドブック・インターナショナル

ところが話はこれで終わらない。


1968年ケンタッキー・ダービーにおける
ダンサーズ・イメージ失格事件




ダンサーズイメージとピーター・フラー 1968年ケンタッキーダービー
写真左にいて、ダンサーズイメージに左手を置いているのが
オーナーのピーター・フラー氏。


1968年にケンタッキー州チャーチルダウンズ競馬場で行われたケンタッキー・ダービー(=日本でいう「日本ダービー」)で真っ先にゴール板を駆け抜けたのは、マサチューセッツのビジネスマン、Peter Fuller (ピーター・フラー。ファラーと記述しているサイトもある)氏所有のDancer's Image(ダンサーズイメージ)。2着は、2週間後にプリークネス・ステークスを勝つことになるForward Passだった。

愛馬のダービー優勝に満足げなピーター・フラーだが、喜びは長くは続かなかった。尿検査で禁止薬物 phenylbutazone が発見され、ダンサーズイメージは失格となってしまうのだ。
というのも、1968年当時、消炎剤フェニルブタゾンは、全米の競馬場で使用が許容されていたのだが、ケンタッキーダービーが行われるチャーチルダウンズ競馬場で「だけ」は使用禁止だったからだ。

オーナーのピーター・フラーは、それから長い間、ダンサーズイメージのダービー優勝確認を求めて法廷で争い続けたが、1973年に最高裁にもっていく期限が切れてしまう。
1968年のケンタッキー・ダービーから約5年が経過した1973年7月19日、かつて2着だったForward Passが「繰り上がりのダービー優勝馬」として認められ、関係者に優勝トロフィーが贈られるイベントが行われた。


日本では、この話はたいていここで終わってしまう。
だが、アメリカではまだまだ多くの余談がある。


ダンサーズイメージのオーナー、ピーター・フラーは、1923年にボストンで生まれている。父親の名は、Alvan Tufts Fuller(1878-1958)。彼は第50代マサチューセッツ州知事(1924-1929)をつとめた共和党員で、本来アメリカ史で有名なのは、息子ピーターではなくて、父アルヴァンのほうだ。

Alvan T. FullerAlvan T. Fuller

Governor of Massachusetts - Wikipedia, the free encyclopedia

Alvan T. Fuller - Wikipedia, the free encyclopedia

父アルヴァン・フラーも、息子ピーターと同じく、マサチューセッツ州ボストンで生まれている。この「ボストン」という土地柄が、のちのち彼ら親子の運命に大きく影響することになる。

父アルヴァンが知事在任中に起きたのが、アメリカ史で有名な「サッコ・バンゼッティ事件」だ。
2人の英語の苦手なイタリア移民が強盗殺人事件の犯人として逮捕され、裁判で死刑が確定したが、刑確定後、相対性理論で有名なアルバート・アインシュタインなど各界の著名人から助命嘆願書が州知事アルヴァン・フラーに届けられる事態になったのだが、州知事アルヴァンが最終的に特赦を拒んだことで、1927年に2人は電気椅子に送られている。

Sacco and Vanzetti - Wikipedia, the free encyclopedia

サッコ・ヴァンゼッティ事件で、国際的な助命嘆願を棄却した形になった州知事アルヴァンは、立場上、どうしても悪代官役と見られがちではある。だが、この強盗事件の真相が今もハッキリとしてはいない以上、アルヴァン・フラーの善悪を軽々しく判断するべきではないだろう。(例えば、当時サッコ所有の拳銃の弾道検査が後年になって行われ、犯行に使用された銃であることがほぼ確定した、なんてこともあるらしい)

後に共和党から大統領になったフーバーを早くから支持していたアルヴァンは、フーバーの下でフランス大使になる望みを持っていたなどともいわれるが、結局マサチューセッツ州知事を最後に政界から足を洗い、ボストンで自動車ディーラーを営む一方で、絵画収集に励んだ。
アルヴァンの絵画コレクションは、後にワシントンのナショナル・ギャラリー・オブ・アートや、ボストン美術館に寄贈されているが、それら両方の美術館で過去にアルヴァン・フラー・コレクション展が行われているほどだから、アルヴァンの絵画に関する眼力は相当に素晴らしいものだったらしい。

ナショナル・ギャラリーにおける
アルヴァン・フラー寄贈作品リスト(3点)
Alvan T. Fuller - Former Owner

ボストン美術館における
アルヴァン・フラー寄贈作品リスト(9点)
Collections Search | Museum of Fine Arts, Boston
アルヴァン・フラー寄贈のルノアール作品(ボストン美術館)
ボストン美術館のアルヴァン・フラー・コレクションのひとつ、ルノアールのBoating Couple (said to be Aline Charigot and Renoir)


さて話をアルヴァン・フラーの息子、ピーター・フラーと1968年に戻そう。


ピーター・フラーが1968年5月4日のケンタッキー・ダービーでのダンサーズイメージ降着を認めようとせず、長期にわたる裁判に訴えたことは既に書いたが、フラーは「俺は公民権運動に理解を示したことで、ボストンのやつらの感情を害した。だから俺とダンサーズイメージはset upされたんだ」と常々語っていたといわれている。

ニューヨーク・タイムズやボストン・グローブの記事などによれば、ピーター・フラーは、ダンサーズイメージのレースの優勝賞金(ブログ注:NY Timesの記事ではケンタッキー・ダービーの優勝賞金77,415ドル、ボストン・グローブではダービー前のレースの1着賞金62000ドルと書かれており、両者の記述は異なる)を、なんと、ケンタッキーダービーのちょうど1ヶ月前、1968年4月4日にテネシー州メンフィスで暗殺されたマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の妻、Coretta Scott Kingに全額寄贈することにしていた、というのだ。
Peter D. Fuller Dies at 89 - Had to Return Derby Purse - NYTimes.com

この場合、set upは、まぁ、「ハメられた」とか「濡れ衣を着せられた」という意味になるわけだが、父親アルヴァン・フラーは冤罪かどうかが争われた1920年代の「サッコ・ヴァンゼッティ事件」に遭遇し、その息子ピーター・フラーは1960年代の「ダンサーズイメージ降着事件」で濡れ衣を主張したわけだから、なんともいえない運命の巡り合わせではある。
しかも、父親アルヴァンは、マサチューセッツ州知事として移民に対する人種差別をあえて容認したと世界から批判され、その40年後、こんどは息子のピーターは、父親とは逆に、人種差別撤廃を目標に掲げた公民権運動に理解を示したために人から恨みを買ってハメられたと、マサチューセッツ最大の都市ボストンの保守ぶりを批判してみせることになったのだから、この親子を翻弄した運命はちょっとマジカルなものがある。まさに、事実は小説より奇なりである。


寺山修司ちなみに、1968年のダンサーズイメージ降着劇の起こったケンタッキー・ダービーの現場には、欧米競馬に詳しかった日本の詩人・寺山修司もいた。寺山は気にいっていたダンサーズイメージに「500ドル」儲けたらしい。当時は今と違って「1ドル=360円」の時代なのだから、寺山の賭け金は日本円にして「18万円」もの大金だったことになる。

寺山は勝ったと思ったダンサーズイメージの降着にもめげず、ダービーの2週間後、5月18日にボルティモアのピムリコ競馬場で行われたアメリカ牡馬クラシック三冠の第2戦、第93回プリークネス・ステークスも現地で観戦している。
プリークネス・ステークスでは、後年ケンタッキー・ダービー繰り上げ優勝を果たしたForward Passが勝ち、ダンサーズイメージは3着に負けたのだが、なんとダンサーズイメージ、こんどは進路妨害で再び降着処分を受けてしまうのだ。
つくづくついてない馬だが、そういう非運の馬にこそ思い入れの深い寺山としては、後に「忘れがたかった馬ベストテン」としてミオソチスなど10頭の馬名を並べた後に、「番外」として不運なダンサーズイメージの名を挙げるのを忘れていない。
のちに高齢になったダンサーズイメージは、種牡馬として日本に輸入されることになった。現在はトルコに血脈が多く残されているらしい。



さて、最後の余談だが、1968年ケンタッキーダービーでダンサーズイメージ降着事件があってからさらに20年たった1988年、フェニルブタゾン(phenylbutazone)という薬物は、またしても競馬で事件を引き起こしている。

ケンタッキーダービーが行われるチャーチルダウンズ競馬場で、1988年10月5日に、名物の国際レース、ブリーダーズカップが行われた。これは7つの異なる条件のG1レースを一日に行う格式高い国際レースなのだが、この日の優勝馬7頭のうち、6頭が、消炎剤フェニルブタゾンを用いていたことが判明。これにヨーロッパの調教師たちが抗議したことから、競馬における消炎剤使用の可否をめぐる激しい議論が巻き起こった。(優勝馬7頭の中には、世界競馬史の名牝と誉れ高い名牝ミエスクも含まれているが、果たしてミエスクが消炎剤を使った側か、そうでないかは確認していない)


ダンサーズイメージは1968年の降着事件で「チャーチルダウンズ競馬場では、消炎剤フェニルブタゾン禁止」というルールに泣いたわけだが、それから20年を経たら、こんどは「チャーチルダウンズ競馬場でも、消炎剤フェニルブタゾンを使用できる」というルールに変わっていた、ということだ。
現在、ヨーロッパ各国とニューヨーク州ではフェニルブタゾンのレース前使用を禁止しているが、ニューヨーク以外の州では、許容量に差があるものの、消炎剤フェニルブタゾンの使用は許されているらしい。
畜産統合検索システム


ダンサーズイメージのオーナー、ピーター・フラーは昨年2012年の春に89歳で逝去されている。おそらくは、1988年のブリーダーズカップでの薬物騒動を含め、アメリカ競馬の変遷を、苦笑いしながら眺めていたに違いない。


 「賭けない男たち、というのは、
  魅力のない男たちである」

  -------寺山修司 『誰か故郷を想わざる』------ 
 


damejima at 12:37

December 20, 2012

ルーニー・マーラ

ドラゴンタトゥーの女で使われたモーターサイクル

このバイクは、映画『ドラゴンタトゥーの女』でリスベット・サランデルが乗り回している美しいカフェレーサーだ。フロントもさることながら、「ケツ」からの眺めがなんともセクシーでたまらない。
デザインは、ロサンゼルスのファクトリー、Glory Motor WorksのJustin Kellの手によるもの。ベースはホンダのスクランブラー、CL350らしい。
She wouldn’t have an expensive modern bike– she would have an inexpensive, older bike that would be customized to fit her personality.
「(監督デビッド・フィンチャーから話をもらって、原作も読み、いったいリスベット・サランデルなら、どんなバイクに乗るだろう?と考えた結果)彼女なら、けして高価なバイクなどには乗らず、むしろ、手頃だけど自分のパーソナリティにぴったりフィットするようにカスタマイズしたオールドバイクに乗るだろう。そう思ったんだよね。」
THE EPIC BIKE BUILD GOES TO GLORY | THE GIRL WITH THE DRAGON TATTOO « The Selvedge Yard


"Matrix" に並ぶブログ主の超お気に入り映画のひとつ、『ファイトクラブ』の監督でもあるデビッド・フィンチャーの『ドラゴンタトゥーの女』で、パンクっぽい、壊れた女性ハッカーを演じたルーニー・マーラは、実は、NFLニューヨーク・ジャイアンツの創始者ティム・マーラの曾孫(ひまご)にあたっている。映画での役柄とはまるでかけ離れた「お嬢様」であり、また、何代にもわたる生粋のニューヨーカーでもある。


Tim Maraティム・マーラ
NFL ニューヨーク・ジャイアンツの創始者ティム・マーラは、1887年にマンハッタン東南部、ロウワー・イーストサイドの貧しい家庭に生まれ、13歳のとき母の家計を助けるために早くも仕事についた。最初の仕事は奇しくも映画館の案内係だったという。
やがてティムは通りで新聞を売る仕事を経てブックメーカーの使い走りになり、さらに18歳のとき彼自身がブックメーカーになった。

ロウワー・イーストサイドの路上の子供たち(1906)
1906年当時のロウワー・イーストサイド。
資料:Old New York - missfolly: Children on Street, Lower East Side,...

ブログ注:『ユダヤ人のアメリカ移住史』より
「1880年代初頭、アメリカ・ユダヤ人社会史上に、決定的な転換期が訪れた。当時、ロシア国内で始まった「ポグロム」(ユダヤ人迫害)の嵐で、大量の東欧ユダヤ人がアメリカに流入することになったのである。ユダヤ移民の第3波である。まさに、どっと押し寄せてくるという感じでやって来た。ニューヨーク市の中心部に近い移民集住地区「ロワー・イーストサイド地区」は、おびただしい数の移民集団が住み始めて超過密状態になった。1910年時の同地区には54万2000人が居住し、当時そこは、インドのボンベイを除けば地球上で最も人口密度の高い都市空間であったといわれている。


1925年にティム・マーラは縁あって、草創期にあったNFLのニューヨークにおけるフランチャイズ権を、わずか500ドルで手にしてフットボール興行に乗り出した。
だが、当時のフットボールファンはカレッジフットボールに熱狂していたために、草創期のプロ・フットボールは観客動員に苦しみ、当初4万ドルもの損失を出している。
だがティム・マーラは挫けず、カレッジフットボール出身のスター選手Red Grangeが所属するシカゴ・ベアーズとの対戦を主催することで、翌年には14万ドル以上もの利益を出すことに成功した。

このときティム・マーラがニューヨーク・ジャイアンツとシカゴ・ベアーズのゲームを行ったのは、草創期のMLBチームも数々の試合を行った、かの「ポロ・グラウンズ」だ。アッパー・マンハッタンにあるポロ・グラウンズで行われたジャイアンツ対ベアーズ戦には、Red Grange見たさに6万5,000人から7万3,000人もの観客が集まったという。

Polo Grounds, Eighth Avenue at 159th Street, 1940
1940年頃のポロ・グラウンズ
資料:A Little More New York in Black and White (photos and commentary)
資料:Damejima's HARDBALL:2012年4月27日、一球一音、野球小僧と音楽小僧 (3)野球とティン・パン・アレー。1908年のポロ・グラウンズのゲームからインスピレーションを得た"Take Me Out To The Ball Game"
資料:Damejima's HARDBALL:2010年8月21日、ボルチモアのカムデンヤーズは、セーフコのお手本になった「新古典主義建築のボールパーク」。80年代のクッキーカッター・スタジアムさながらの問題を抱える「日本のスタジアム」。


「1925年のポロ・グラウンズ」といえば、MLBニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)からポロ・グラウンズを間借りしていた時代のMLBニューヨーク・ヤンキースが、ベーブ・ルース加入による人気沸騰を契機にハドソン川対岸のブロンクスに旧ヤンキースタジアム(1923年開場)を建設して移転し、ポロ・グラウンズを使わなくなってから「3年後」にあたっている。
つまり、1925年からポロ・グラウンズを本拠地にし始めたティム・マーラ所有のNFLニューヨーク・ジャイアンツは、MLBヤンキースと入れ替わりにポロ・グラウンズを使い出した、というわけだ。
NFLニューヨーク・ジャイアンツの創設はおそらく、「MLBヤンキースの抜けたポロ・グラウンズのスケジュール的な穴を、ちょうど埋める格好になった」ので、ポロ・グラウンズ側としてもタイミングが良かったのだろう。
資料:Damejima's HARDBALL:「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。


NFLニューヨーク・ジャイアンツは、MLBニューヨーク・ジャイアンツがブルックリン・ドジャースとともにニューヨークを去っていく最後のシーズンとなった1957年の2年前にあたる1955年まで、ポロ・グラウンズを本拠地にしていたが、1956年以降はポロ・グラウンズからも撤退して、ブロンクスの旧ヤンキースタジアムに身を寄せることになった。
50年代末、伝統のポロ・グラウンズは「空き家」になりかけたわけだが、1960年からAFLニューヨーク・タイタンズ(現在のジェッツ)が本拠地にし、さらに1962年にはMLBニューヨーク・メッツがシェイ・スタジアムが完成するまでの仮の本拠地にして、ほんの一時期息を吹き返した。
だが、64年にシェイ・スタジアムが完成すると、メッツだけでなくタイタンズもシェイスタジアムに移転したため、ポロ・グラウンズの借り手がいなくなってしまい、ついにポロ・グラウンズは1964年に取り壊され、その長い長い歴史を閉じた。
Damejima's HARDBALL:2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (1)エベッツ・フィールド、ポロ・グラウンズの閉場
ちなみに、ベアーズのRed Grangeは1926年にフットボールリーグそのものの運営に乗り出し、NFLに対抗するAFLを創設、「ニューヨーク・ヤンキース」という名前のプロフットボールチームも作ったが、膝に大怪我を負ってしまい、フットボールのほうの「ニューヨーク・ヤンキース」は1年しか持たなかった。後にRed Grangeは古巣シカゴ・ベアーズに戻って現役を終えている。


ティム・マーラは1959年に71歳で亡くなったが、NFLへの貢献を認められ1963年殿堂入りしている。
また息子ウェリントン・マーラも、ジャイアンツの共同オーナーのひとりだったが、父親ティム同様にNFLへの貢献によって殿堂入りを果たした。ウェリントンは2005年10月に亡くなっているが、葬儀は11人の子供と42人の孫が参列した盛大なもので、葬儀後に行われたライバル、ワシントン・レッドスキンズとのゲームでは、ニューヨーク・ジャイアンツが36対0という劇的な勝利を収め、後世に語り継がれるゲームになった。
現在のニューヨーク・ジャイアンツ社長は、ウェリントンの息子で、創始者ティムの孫にあたるジョン・マーラで、そのジョンの弟ティモシー・クリストファー・マーラこそ、現ニューヨーク・ジャイアンツ副社長であり、『ドラゴンタトゥーの女』のルーニー・マーラの父親である。

ティム----ウェリントン----ジョン
             ----ティモシー----ルーニー・マーラ

damejima at 17:50
アン・ハサウェイ

アン・ハサウェイ

"The Dark Knight Rises"(邦題:『ダークナイトライジング』)で、セリーナ・カイル/キャットウーマンを演じた、アン・ハサウェイ

"The Girl with the Dragon Tattoo"(邦題:『ドラゴンタトゥーの女』で、リスベット・サランデルを演じた、ルーニー・マーラ

2人とも、最近のヒット映画でモーターサイクル(日本でいうところの「バイク」)を颯爽と乗り回す男勝りな女を演じて喝采を受けたわけだが、この2人の話題の女優、少なからず共通点がある。

というのも、この2人、ニューヨーク生まれ、ニューヨーク大学出身なのだ。(ついでに言うと、かつて映画『トゥームレイダー』でモーターサイクルを乗りまわしていたアンジョリーナ・ジョリーも、ニューヨーク出身ではないものの、ニューヨーク大学出身)


と、いうわけで
年末らしくニューヨークとクリスマスにまつわる話。




映画バットマンシリーズはそもそも、ニューヨークと切っても切れない関係にある。
"Gotham" は、19世紀の作家ワシントン・アーヴィングが最初に命名したニューヨークの古いニックネームなのだ。さらに言えば、アーヴィング自身もマンハッタン出身のニューヨーカーで、『ニューヨークの歴史』という著書もある。

DCコミックの名作のひとつ、『バットマン』で、主人公バットマンの住む街が "Gotham City" と呼ばれる大都会であることが明らかになったのは、このマンガが世に出た1939年5月の翌年、1940年のことだ。
DCコミックでバットマンの原作を書いていた1914年ニューヨーク生まれのBill Fingerの1970年のコメントによると、"Gotham"という街の名前のルーツは、「なんの気なしにニューヨークの電話帳をパラパラめくっていて、"Gotham Jewelers"という店の名前を偶然見つけ、『これだ!』と思いついた」ということになっている。
Then I flipped through the New York City phone book and spotted the name "Gotham Jewelers" and said, "That's it," Gotham City. We didn't call it New York because we wanted anybody in any city to identify with it."
http://io9.com/5934987/is-gotham-city-really-in-new-jersey

2002年から2009年までDCコミック社長をつとめた1956年ブルックリン生まれのPaul Levitzも、「ゴッサムシティとは、ニューヨークのこと」と明言していると、ネット上の資料にある。

さらには、映画『ダークナイトライジング』の脚本を手がけた、有名コミックライター、Frank Millerも、"Metropolis is New York in the daytime; Gotham City is New York at night." と発言している。
実際、『ダークナイトライジング』における「ゴッサム・シティ」は、川と川にはさまれた中洲の、橋とトンネルでつなぎあわされたメトロポリスとして描写されているのだから、誰がどう考えても、明らかにニューヨークのマンハッタン島をイメージして作られている。(とはいえ、映画の撮影自体は、ニューヨークではなく、主にペンシルベニア州ピッツバーグで行われた)

そんなわけで、ワシントン・アーヴィング命名による"Gotham" という言葉は、歴史的に「ニューヨーク」のシニカルなニックネームなわけだし、たとえ「ゴッサムシティは、ニューヨークではなく、その隣、ニュージャージーのことだ」という異説があるとか、ティム・バートンの製作したバットマン映画の何本かはシカゴを舞台として作られた、ということがあるにしても、バットマンシリーズにおける「ゴッサム・シティ」は根本的にはニューヨークであることに違いはない。他のどの街でもない。



Washington Irvingニューヨークを最初に "Gotham" と呼んだワシントン・アーヴィングは、彼自身マンハッタン生まれのニューヨーカーなのだが、母国語の英語以外の外国語に素晴らしく堪能で、当時のヨーロッパの文化人との交流も深かったし、後にスペインで外交官を務めたほどの語学力だった。
彼は、文学的な作品以外に、ヨーロッパの習俗や文化、習慣が、アメリカが現在のようなアメリカとして固まる前の「草創期アメリカ」にどういう形で流入し、定着したかについて、事実から伝説に至るまでリアルに書き残している。この点でのアーヴィングの功績は、今でははかり知れないほど大きく、アメリカ文化がどういう経緯で出来上がったかというアメリカ文化形成史を語る上で避けて通れない人物のひとりといえる。

例えば、アーヴィングは、ジョニー・デップ主演で映画化された『スリーピーホロウの伝説』の作者でもあるが、この『首無しのドイツ騎士』という都市伝説の背景には、18世紀末のアメリカ独立戦争において、なんとしてもアメリカ独立を阻止したいイギリスのハノーバー朝が、当時のイギリスと縁戚関係のドイツ貴族(例えばヘッセン・カッセル方伯)から多数のドイツ民間人を兵士として買い集め、戦場に投入していた事実が背景にあり、アメリカという国のルーツを知る重要資料のひとつになっていることは、既にこのブログで書いた通りだ。
Damejima's HARDBALL:2012年7月16日、「父親」とベースボール (4)アメリカにおけるドイツ系移民の増大。18世紀ドイツの美術史家ヨハン・ヴィンケルマンが欧米文化のルーツとして捏造した「白いギリシア」。

アーヴィングがニューヨークを「愚か者の集まり」という皮肉を込めて "Gotham" と呼んだのは、1807年。当時の彼は、長兄などの協力を得て1807年から翌1808年まで "Salmagundi" という風刺のための出版物を発行しており、みずから記事も連載していた。

"Gotham"の語源は、"goat-ham"、つまり「ヤギの村」だが、これはイギリスの古い逸話 "Wise men of Gotham"『ゴッサムの賢者』からきていて、この場合「ヤギ」は「愚か者」を意味している。

アーヴィングの "Salmagundi"は、大きさが日本の夕刊タブロイド紙のようなサイズであることから、「新聞」だと勘違いする人がいるようだが、英語版Wikiに、「"MAD"に近い」とされていることからして、むしろ内容の方向性は「雑誌」であるはず。
日本にもかつてタブロイド判の『STUDIO VIOCE』(1976年創刊、2009年廃刊 創刊時はタブロイドだったが、やがて小型化した)があったように、かつて出版が文化の主流のひとつだった時代には大判雑誌はけして珍しくなかっが、日本には "MAD" のようなタイプの雑誌文化は結局根づかなかった。(ちなみに、ネット上の資料には、"Salmagundi"を「アーヴィングの短編作品の名前」と紹介しているものもあるが、それも同じく間違い)

ちなみに、1952年に "MAD" を発行したハーヴェイ・カーツマンウィリアム・ゲインズ(ビル・ゲインズ)の2人も、ブルックリン出身のニューヨーカーで、ゲインズは編集者になる前にはニューヨーク大学に在籍していた。
アーヴィングの創造物のうち、"Gotham"というネーミングが、DCコミックの連載のひとつ『バットマン』に受け継がれた一方で、"Salmagundi"の風刺精神がECコミックの発行した"MAD"に受け継がれたと考えると、「ニューヨーク文化の系譜」という意味で、ちょっと面白い。

MAD創刊号の表紙 by ハーヴェイ・カーツマンECコミックの"MAD"創刊号
表紙はハーヴェイ・カーツマン

DCコミックのBatmanDCコミックの"Batman"


ワシントン・アーヴィングというと、「12月24日のクリスマス・イヴに、8頭立てのトナカイの橇(そり)に乗ってやってきて、子供たちにクリスマスプレゼントをしてくれる、真っ赤な服を着た聖人」という意味の「サンタクロース」を発明した人物として紹介されることもあるが、それは間違った記述だ。
アーヴィングは、1809年に出版した『ニューヨークの歴史』という著作の中で、「ニューヨークのオランダ人入植者の間に、12月6日の聖なる日を前にした12月5日にプレゼントを贈る慣習があること」を紹介したに過ぎない。

そもそも、サンタクロースのモデルとなったとされる人物を遡ると、西暦3世紀のギリシア人に行き着くらしいが、その人物は「12月6日」に亡くなっている。そのことから彼の偉業をたたえる聖なる日は、古来から「12月6日」とされてきた。
19世紀のニューヨークのオランダ系入植者たちに、12月6日の聖なる日の前日にプレゼントを贈る習慣が残っていることを著書で紹介したのはアーヴィングだが、彼が世界に新たなクリスマスの習慣が広まる最初のきっかけを作った張本人であるのは確かであるにしても、「サンタクロースの発明者」とまでは言えない。

12月24日、クリスマス・イブ、サンタクロース、赤い服、9頭目の赤い鼻のトナカイなど、「現在の12月24日クリスマス・イブのサンタクロース・イメージ」を作り上げたのは、12月6日の聖なる日の前日のプレゼント習慣を紹介したアーヴィングではなく、後世の人々だ。彼らは、アーヴィングによって広く知られるようになった「12月5日にプレゼントをする古くからある風習」に、主に商業的な目的からさまざまな変更を加え、後天的で人工的な習慣を作り上げていった。だから現在のサンタクロースは太古の昔からある天然自然の習慣では、けしてない。(例えば「赤い鼻のトナカイ」の話は、シカゴのモンゴメリー・ウォード社のコピーライターだったロバート・メイによって、1939年に販促目的で作られた)


ニューヨークは、古くはニュー・アムステルダムと呼ばれたように、もともとオランダからの入植者の多かった土地柄だが、この「オランダ系」というのが、現代のクリスマスの習慣やサンタクロースのイメージのルーツを探るポイントになる。


「赤い衣装を着てトナカイの橇に乗るサンタクロース」という「イメージ」を決定づけたターニングポイントは、1823年12月23日、ニューヨーク州トロイ市(NYCの隣)で発行されていたThe Troy Sentinel紙に掲載されたAccount of a Visit from St. Nicholas / The Night before Christmas(『聖ニコラスの訪問記/クリスマスの前の夜』)という匿名の詩である。19世紀後期にトマス・ナストによって赤い服を着たサンタクロースのイラストが大量に生産されたのも、この詩の流行が元になっている。

現代のサンタクロースイメージを決定づけたこの詩は、長く神学校教授クレメント・クラーク・ムーアの創作とされてきた。
ところが、文献分析の権威であるニューヨークのヴァッサー大学英語学教授Donald Wayne Fosterが「この詩は、ドイツ語はわかるがオランダ語を理解しないクレメント・ムーアの創作ではなく、オランダ系のヘンリー・リヴィングストン・ジュニアなる人物の創作物である」とした詳細な文献分析を、2000年にニューヨーク・タイムズが紹介したことから、最近では「ヘンリー・リヴィングストン・ジュニア説」が定説になりつつある。
フォスター教授が「サンタクロースの詩はムーアの創作ではない」と断定することに成功した根拠のひとつは、8頭のトナカイの名前のうち、オランダ系入植者の語彙において「雷」と「稲妻」を意味する "Dunder" "Blixem"という言葉について、ドイツ語は理解できるがオランダ語のわからないクレメント・ムーアは "Donder"、 "Britzen" と誤記していて、その間違いに気づかなかった、という点がある。(もちろん他にもたくさんの根拠が示されている)

ちなみに、この分析を行ったフォスター教授の在籍するヴァッサー大学は、『ダークナイトライジング』でキャットウーマンを演じたアン・ハサウェイがニューヨーク大学に移籍する前に在学していた大学でもある。(ちなみにメリル・ストリープもヴァッサー大学出身)



2012年のバットマン映画『ダークナイトライジング』の脚本について、脚本家ジョナサン・ノーランとクリストファー・ノーランは、「イギリスの文豪チャールズ・ディケンズの『A Tale of Two Cities(二都物語)』(1859年)から着想を得た」とコメントしている。

Charles Dickens,イギリスの文豪チャールズ・ディケンズは、『二都物語』だけでなく、『A Christmas Carol 』(クリスマス・キャロル 1843年)といった名作も書いているわけだが、そのディケンズとワシントン・アーヴィングは友人で、ディケンズ夫妻がアメリカ旅行をした際、アーヴィングは夫妻を自宅に招いてもてなしている。またディケンズは、有名な『クリスマス・キャロル』を含むクリスマスに関する彼の著作群について、「アーヴィングの影響を受けた」と明言している。
Charles Dickens later credited Irving as an influence on his own Christmas writings, including the classic A Christmas Carol.
Washington Irving - Wikipedia, the free encyclopedia

このことからも「19世紀以降のクリスマスイメージの形成」において、いかにワシントン・アーヴィングの著作の影響が強かったかがわかる。アーヴィングはサンタクロースの発明者ではないが、世界に新たなクリスマスの風習を広めたきっかけを作った張本人であることは間違いない。


そんなわけで、映画『ダークナイトライジング』の脚本は、ニューヨークを "Gotham" と初めて呼んだ生粋のニューヨーカー、ワシントン・アーヴィングのクリスマスに関する著述に影響を受けたと認めているチャールズ・ディケンズの作品をアイデアソースのひとつとして書かれている。
だから、こと『ダークナイトライジング』における「ゴッサムシティ」に関しては、「ニューヨーク」以外を指すなんてことはありえない。ヴァッサー大学とニューヨーク大学、ニューヨークにある2つの大学に在籍した経験をもつニューヨーク生まれのアン・ハサウェイ起用も含めて、ニューヨークの歴史にまみれて出来上がっている『ダークナイトライジング』は、ニューヨークが舞台でなければ、あらゆる辻褄が合わない。

Old ManhattanOld Manhattan, 1929


damejima at 17:20

August 17, 2012

「表の意味」と「裏の意味」が異なる記号の羅列について解読(デコード)を試みる場合、「デコードキー(=解読全体の成否にかかわる『キーワード』)が必要なことがある。例えば、インターネットを通じてデジタルデータをやり取りするとき、暗号化されたデータを読みとるのに「デコードキー」(解読鍵)によるデコードが必要になる。


以下に、前回記事のおまけとして、ランディ・ニューマンの1972年の曲、"I Think It's Going To Rain Today" の歌詞について、顔を黒く塗った人物が歌い踊るミンストレル・ショー(Minstrel Show)の登場人物、ステレオタイプのアフリカ系アメリカ人である田舎者Jim Crow(ジム・クロウ)と、都会者Zip Coon(ジップ・クーン)を「解読キー」として、デコード、つまり訳詩を試みてみた。

ミンストレル・ショー、ジム・クロウなどについての詳細は、以下の記事を参照:
Damejima's HARDBALL:2012年8月5日、父親とベースボール (6)アフリカ系アメリカ人史にみる「都市と田舎の分離」。ミンストレル・ショーの変質と、「ジム・クロウ」誕生

1900年のMinstrel ShowのポスターMinstrel Showのポスター
(1900年)

Minstrel show - Wikipedia, the free encyclopedia

Jim CrowJim Crow

Zip CoonZip Coon

"I Think It's Going To Rain Today"

Broken windows and empty hallways
A pale dead moon in the sky streaked with gray
Human kindness is overflowing
And I think it's going to rain today

Scarecrows dressed in the latest styles
With frozen smiles to chase love away
Human kindness is overflowing
And I think it's going to rain today

Lonely, lonely
Tin can at my feet
Think I'll kick it down the street
That's the way to treat a friend

Bright before me the signs implore me
To help the needy and show them the way
Human kindness is overflowing
And I think it's going to rain today

(ブログ注:ニーナ・シモンは一部歌詞を変えて歌っている chase love away→keep love away treat→createなど)






月の色と翌日の天気との関係についての
英語のことわざ


タイトルに "rain" という言葉が含まれているこの歌は、「」を歌った歌だが、最初のパートにあるpale moon (青白い月)という言葉は、「雨」に関係している。

というのも、以下にみるように、月の色と天気の関係に関する英語のことわざがあるからだ。
Pale moon does rain, red moon does blow: white moon does neither rain nor snow.
「青白い月なら雨になり、赤い月なら風が吹き、白い月だと雨も雪も降らない。」
参照例:Weather Wiz Kids weather information for kids

この歌詞を訳したがる人は案外多い。

だが、「英語に、前の晩の『月の色』によって、翌日の天気を予測するということわざ」があることに触れ、その上で歌詞を訳した人を、ただのひとりも見かけたことがない。このことわざに触れないまま、この歌詞を訳そうとするのは、明らかな失態としか言いようがない。


ことわざの主旨自体は、「前の晩の月の色によって、翌日の天気が予測できる」というものだが、当然ながらソングライターの本当の意図が天気予報にあるわけではない。
結論を先に言えば、「人間の将来、未来というものは、『肌の色』によって決まってしまう」という「人種差別」に対する絶望感が、ランディ・ニューマンの "I Think It's Going To Rain Today" の歌詞の「裏テーマ」である。

この解釈が正しいと考える理由を、以下に書く。


曲のタイトルは、
なぜtommorowでなく、"today" なのか


月の色によって翌日の天気を予測することわざからアイデアを得た、というだけなら、この曲のタイトルは、"I Think It's Going To Rain Tommorow" でいいはずだ。
Tommorowなら、タイトルの意味は「夜のうちに見た月の色が青白かったので、明日はきっと雨だろう」という、あたりさわりのない「天気予報の曲」であることになる。

だが、実際にはこの曲のタイトルは違う。"I Think It's Going To Rain Today" だ。ならば、これは単なる天気予報の歌ではない

つまり、この曲の登場人物が月を見た「時間帯」は、前の晩の夜9時とか10時ではなくて、「12時を越え、日付の変わった深夜に、月を眺めて」いるのである。しかも「今日も雨だろ・・・」と溜息まじりの呟きをしていることからして、「眠れぬ長い夜」であることが想像される。
この曲が表現したかった深夜の情景が、単なる天気予報ではなく、「絶望感」なのは明らかだ。


では、この人物は、どんな理由から夜更けに起きているのか。
なぜ眠らないのか、眠れないのか。
なぜ深夜に月を眺めるのか。
どういう感情のもとに月を眺めているのか。


この曲のテーマは "Color"だ。
この曲のテーマが本当に「肌の色、つまり人種」なのかどうかは、ひとまず置いておくとしても、この曲を作ったランディ・ニューマンが「月の色によって明日の天気がわかる」ということわざを示したことは、この曲が「色」をテーマにしているというメッセージなのは、まず間違いない。
というのも、それほど長くはないこの曲の歌詞には、「色」にまつわる単語がいくつも登場し、明らかにこの曲のキーワードになっているからだ。このうち、黒を意味するcrowという単語は、scarecrow(案山子)という単語の内側に巧妙に「隠されて」いる
pale 青白い
grey 灰色
crow カラス(=黒)



"scarecrow" (案山子)は
何を、何から遠ざけているのか


scarecrowという言葉は、「scare(怖がらせる)と、crow(カラス)」という、2つの単語を組み合わせてできた合成語だ。だから「黒いカラスを怖がらせることで、農産物が食われないように遠ざけておく、農業の道具」が、scarecrowだ。
2番目のパラグラフで、chase love away(愛を遠ざける)と歌われていることからしても、scarecrowという言葉は「何かを、何かから遠ざけていることを表現している」ことの比喩であり、掘り下げるべきポイントは「誰が、誰を、何から遠ざけているのか」という点にある。


遠ざけられているもの
それはcrow=blackbird=Jim Crow


Jim Crow(ジム・クロウ)は、ミンストレル・ショーにおけるアフリカ系アメリカ人の田舎者キャラクターだったが、ブラックフェイス・パフォーマーの歌い踊る "Jump Jim Crow" という曲の大ヒットによって、アフリカ系アメリカ人全体をさす言葉として意味が拡大していき、さらに19世紀後半には、アメリカ南部の元奴隷州で次々に作られた有色人種隔離政策の法体系の総称「ジム・クロウ法」として意味が転用された。
Jim Crowというキャラクターが、いつ、何を元にできあがったのかは歴史的に不詳となっているが、以下に挙げた証拠によって、黒い鳥 blackbird の一種である "crow" (カラス)にイメージの源泉のひとつがあることは明らかだ。

例えば、寸劇としても演じられた"Jump Jim Crow" の当時のシナリオに、次のようなシーンがある。田舎者のアフリカ系アメリカ人Jim Crowに、侮蔑をこめて "Blackbird" と呼びかける一節である。
Quickset: Hark ye, Mr. Blackbird!
Jim Crow: You don't appear to hab much more edicumcation dan oder man. My name, Sar, am Crow, not blackbird.
ブログ注:田舎者キャラクターJim Crowは、きちんとした英語が話せないという設定にある。だからJim Crowの台詞は、英語のたどたどしさを揶揄して、わざと赤ん坊のような英語として書かれている。普通の英文に直すと、こうだ。 You don't appear to have much more education than any other man. My name is Crow, not blackbird, Sir.)
Jump Jim Crow: Lost Plays, Lyrics, and Street Prose of the First Atlantic ... - W. T. Lhamon - Google Books

資料:Jump Jim Crow: Lost Plays, Lyrics, and Street Prose of the First Atlantic ... By W. T. Lhamon

以下の辞書には、crowあるいはblackbirdという言葉が、アフリカ系アメリカ人の蔑称として使われた、とある。
Even before that, crow (n.) had been a derogatory term for a black man.
Online Etymology Dictionary


歌詞に戻る。

こうした証拠の数々から、scarecrowが農作物から遠ざようとしている「黒いカラス」とは、Jim Crow=田舎者のアフリカ系アメリカ人であることは、ほぼ明らかだ。当ブログと同じ方向性の論考は、アメリカにもある。
the "crow" and even the raven represented us as African people(中略)
To keep us, the crows - discourage from eating away at and taking away what is naturally ours.
The majority of crops in America are grown in the south, this is where most of our Ancestors worked on plantations. Jim "Crow" was also in the south. Laws that kept us segregated and limited, just as crows are limited from the Farmer's crops. But there is a reason why.
Why Do They Make Scarecrows? | Black People Meet | African Americans | Destee


"scarecrow" は、
白人を意味しているのか?


「scarecrowが、黒いカラス、つまり、Jim Crow(=田舎者のアフリカ系アメリカ人)を、農作物から遠ざようとしている」とすれば、次に問題になるのは、 "scarecrow" が「白人」を意味しているのかどうか、という点だ。

この点については、2番目のパラグラフに以下のようにハッキリ歌われている。結論から言えば、scarecrowは「白人」の比喩ではない。
Scarecrows dressed in the latest styles
With frozen smiles to chase love away
「着飾って」という特有の表現から、scarerrowが象徴しているのは、ミンストレル・ショーにおける野暮ったい田舎者Jim Crowと対照的なキャラクター、着飾った都会人のアフリカ系アメリカ人の象徴、Zip Coonだ。


"pale" という言葉のレイシズム的響き

pale moon
この歌の中における「白人」の位置は、「pale moon(青白い月)」と表現されている。
高い空の上でJim Crowとscarecrowのいる下界を見下ろしている月は、「手の届かない存在」であり、地上で畑の番をしているscarecrowとイコールになるわけはない。

"pale" という言葉は、肌の色をさす言葉として使われる場合、特殊な意味をもつ言葉になることがある。

日本人は、白人の肌の色というとどうしても、whiteというフラットな言葉をすぐに連想してしまうが、肌の白さには、実は、もっと何段階もの細かい「白さについての分類」がある。
この場合、pale(青白い)という表現は、「青白く見えるほど、抜けるように白い」という最上級の「白さ」を表わす表現として使われる。
ブログ注
資料:Human skin color - Wikipedia, the free encyclopedia
このリンクは、「肌の色に関する分類」を示した英語版wikiの資料である。見てもらうとわかるとおり、白い肌が "pale" と強調されて表現される場合、そこにレイシズム的な意図が含まれていることがわかる。
だからこそ、レイシズム的な誤解を受けるのを避けたい場合、 "pale" などと言わず、単に "white" と、毒のない表現をとるほうが無難なわけだ。
この歌詞をつくったランディ・ニューマンは、あえて "pale" という言葉を使うことで、逆に人種問題にスポットライトを当てようとしているのである。



この詞を訳すときの難関、
"Human kindness is overflowing"とは
どういう意味か


この部分の訳詞が、この歌詞にとりくむときに最もつまづきやすい点だ。つまづく理由は、この歌詞の背景にあるアフリカ系アメリカ人の歴史に関心を持たないまま直訳しようとするからだ。

例えばこういう異口同音の日本語訳が、あちこちのウェブサイトに並んでいる。
「人間の優しさがこぼれている」
「人のやさしさが、世界にあふれれば」
「人間の優しさが溢れ出し」
「人の優しさが溢れてるな」
どれもこれも、日本語として前後の歌詞とつながっていないし、この曲の情景をまったく説明していない。
この曲が表現した情景が、「深夜の絶望感」なのは明らかなのに、「優しさがこぼれている」などというセンチメンタリズムな訳になるわけがない。


"kind" という言葉を
「優しさ」と訳すのは間違っている


"kind" という言葉の意味は、最も教科書的には「種類」だ。
だから、"Human kindness" という表現は、表向きは、シェークスピアの有名な戯曲『マクベス』にある "Milk of human kindness" という有名な表現を踏襲しているようにみせかけていても、裏では、「人間を『種類』に分ける考え方」、つまり、「人種差別」を意味していると考えるのが妥当というものだ。

19世紀初頭から半ばにかけて、南部から北部へ奴隷の逃亡を助けたUnderground Railroadのことを歌詞に歌うとき、「鉄道」にまつわるさまざまな言葉を使って、逃亡の方法や、北部への憧れが表現された。
当時、南部のアフリカ系アメリカ人奴隷は、まだ英語の読み書きがマトモにはできなかったから、たとえ暗号とはいえ、あまりに難解な言葉で表現したのでは、歌詞の裏の意味を理解することができない。
だからこそ、Underground Railroadに関する暗号は、せいぜい逃亡奴隷を鉄道になぞらえて、passengerとかbaggageと表現する程度の「わかりやすい暗号」のレベルにとどめておかなければならなかった。

ランディ・ニューマンは、こうしたアフリカ系アメリカ人の歴史の前例にのっとって歌詞を作っているはずだ。

だから、"Human kindness" という歌詞を、「優しさ」などと解釈する必要はどこにもない。「kind=種類」という小学生的な理解で十分と考えるのは、それが理由だ。


ここまでの諸点を考慮し、
この乱暴なブログらしい日本語訳(笑)を最後に記しておく。

アフリカ系アメリカ人であるニーナ・シモンが、アフリカ系アメリカ人に関係すると思われるこの曲の歌詞のあちこちを、あえて別の言葉に換えて歌うことで、別の歌にしようとしている意味も、この訳からなら汲み取ることができるだろう。
ニーナ・シモンは、この刺激的な「裏の意味」をもつ歌の社会性を、あえて個人的なブルース感情に変えて歌うことで、アフリカ系アメリカ人の「過去の歴史にとらわれない普遍的な歌」として完成しようとしたのである。素晴らしい歌姫である。


壊れた窓 ガランとした通路
青白いヤツらは 無表情な月みたいに 高見の見物
そこらじゅう 人種差別だらけ
今日もたぶんロクなことがねぇ

都会の奴ら 俺たちと同じアフリカ系のクセに
気取った服なんか着やがって
冷たいつくり笑い浮かべて オレたちを寄せ付けない
そこらじゅう 人種差別だらけ
今日もたぶんロクなことがねぇ

ひとりじゃ さみしいから
中身の空っぽなやつでも 足元にひざまづかせて
通りにでも蹴り出してみるか
それが いけすかないヤツに対するやり方ってもんだ

アタマのいいヤツが 指図してきやがる
困ったやつ助けて 行くべき道を教えてやれ と
(でも オレ自身が困ってるのに
 行くべき道が オレにわかるわきゃない)
そこらじゅう 人種差別だらけ
今日もたぶんロクなことがねぇ

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ちなみに、以下に、逐語訳したとみられる他の人の訳を挙げておく。ブログ主の訳と対比して読んでもらえば、「裏の意味」を考慮しないで訳すと、どれほど「わけのわからない、意味の通らない訳」ができてしまうかがわかってもらえるはずだ。


壊れた窓 ガランとした通路
白髪交じりで空にかかる 青白い無表情な月
あふれかえる思いやり
今日はたぶん雨

流行のスタイルを身にまとったスケアクロウ
愛を寄せ付けない凍った笑顔
あふれかえる思いやり
今日はたぶん雨

寂しいものだね ひとりは
足元の空き缶
通りに蹴り出してしまおう
それが友達に対するやり方ってもの

明るい信号機が私に懇願する
愛に飢えた者を助け 道を示してやれ と
あふれかえる思いやり
今日はたぶん雨

damejima at 17:16

August 14, 2012

ハワイ文化のひとつ、Hula(フラ)は、日本人なら誰でも一度くらいは見たことがあるために、とりあえず知っている、わかっていると思われがちだ。

だが、それは正しくない。

Hulaの現代的な分類には、現代的なおおまかな分類からいっても、古典であるHula Kahiko(フラ・カヒコ)と、19世紀以降に欧米文化の影響を受ける中で出来ていったHula ʻauana(フラ・アウアナ)の、2種類がある。
そして、かつて日本で「フラダンス」と言われていたもののは、フラ・アウアナの亜流のようなフラである。(ちなみに、フラという言葉そのものにダンスという意味が既に含まれている。だから「フラダンス」という日本的表記は、いわば「盆踊りダンス」といっているようなものだから、おすすめしない)

この2種類の区別ができたのは、有名なフラ・コンテスト、Merry Monarch Festival(メリーモナークフェスティバル)が、2つのカテゴリーを設けたことからきている。
The Official Web Site of Merrie Monarch Festival - Hilo, Hawaii

フラの基本的な歴史をわかっている人は、Hula KahikoとHula ʻauanaの区別をフラの基本的知識と考えるが、日本の一般常識としてみると、残念ながら、フラに分類が存在することはいまだにほとんど知られていないと考えるのが正しいだろう。
なぜって、フラ教室で実際にフラを習っている人たちの中にすら、フラ・カヒコを知らない、見たことがない人がいまだに実在するからだ。
ブログ注:
フラの分類はなにも2種類だけと限らない。
古典フラは、研究者によっては、さらに細分化された分類が存在する。また、現代のフラ・カヒコのスタイルを古典とすることに対して異議を唱える人もいる。
というのも、文字のなかったハワイ文化においてフラは、人から人へと継承され続けてきたわけが、古典フラのスタイルの一部が喪失してしまった哀しむべき時代があったために、すべての古典が現代に伝わっていないからだ。
ネイティブ・ハワイアンがフラの古典を喪失した原因は、欧米人宣教師によるフラの禁止や、欧米からもたらされた疫病によるネイティブ・ハワイアンの人口減少などにより、フラの歴史に断絶が生じ、貴重な口伝(くでん)が途絶えてしまったことにある。
だから、伝承喪失のダメージを考慮せず、「今のフラ・カヒコは必ずしも太古のフラのスタイルではない」と非難だけを行うことには、何の意味もない。だが、まぁ、とりあえず細かすぎる話は一時置いておこう。


日本でこうした事態を招いた原因のひとつは、フラが最初に日本に紹介されたときに、当時「フラダンス」と称された「踊り」が、実際には「フラ・アウアナ」とタヒチアンダンスの混じった雑種だったにもかかわらず、「あれがフラなのだ」と思い込みが出来上がってしまったからだ。(それはベンチャーズとビーチボーイズとホノルルだけで、それをビーチカルチャーと思いこんだ大昔の団塊世代のステレオタイプ文化の弊害でもある)
日本では、フラの古典である「フラ・カヒコ」がいまだに浸透していないにもかかわらず、日本人は最初に出会った「フラダンスと称する、混じりっけの多い踊り」を、「フラそのもの」と思いこみ続けてきた。

だがそれは、簡単にいえば
欧米人のフィルターのかかったフラ」でしかない。


日本では、マニアと専門家以外には、フラの古典のスタイルやネイティブ・ハワイアン(=ハワイの先住民)の歩んだ苦難の歴史がほとんどといっていいほど知られず、また、フラ・カヒコとフラ・アウアナが区別されていないくらいなのだから、かつてフラとハワイ語が欧米人によって禁止され、衰退しかかった時代があったことは、なおさら知られていない。

フラがなぜ禁止されていたのか、どういう種類のフラが禁止されていたのかを知ることは、フラとハワイをより深く理解することにつながるわけだが、そのすべてをここで書ききることはもちろん無理だ。興味をもったら、ぜひ一度調べてみてもらいたい。
フラが禁止された理由は、キリスト教的倫理観をもつ欧米人の宣教師がフラのもつセクシャルな裏の意味を嫌った、と説明されることが多いわけだが、もちろん、そんな単純な説明だけで説明が終わるほど、フラの歴史の底は浅くない。

まぁ、こむつかしい歴史やヘリクツは後回しでいい。(必ずしもYoutubeに落ちている動画だけが原典資料とは限らないのが困るが)とりあえず映像でフラ・カヒコを確かめてみるのがてっとり早い。(ここでリンクを挙げておくといいのだろうが、それだけがオリジナルのフラだと思われかねないので、やめておくことにした)
ひと目みれば、日本でこれまで「これがフラだ」と思い込まれてきたものが、実はステレオタイプのフラであり、実は何層ものフィルターのかかった「擬似ハワイ」でしかないことが、一瞬でわかると思う。


1960年代以降進んできたハワイアン・ルネサンスと、その一環としての古典フラ復興には、この「父親とベースボール」で書いてきたアフリカ系アメリカ人の公民権運動も関わっている。
ハワイのネイティブな文化の復興と、メインランドでのアフリカ系アメリカ人の公民権運動とのかかわりのストーリーは実に興味深い話ではあるわけだが、なにせ書けばまた長くなるし、いつか触れることにして、ここでは先を急ぐことにする。


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chant(チャント、詠唱)は、グレゴリオ聖歌の曲名などでよく聞く言葉なだけに、キリスト教文化の流れで知っている人が多いわけだが、chant はハワイにも存在するし、また、日本の「祝詞」(のりと)や「木遣」(きやり)、仏教の「声明」(しょうみょう)もある種のチャントであることを思うと、チャントは世界中にさまざまな名称とスタイルで存在する。






ハワイ文化における chant は "Mele"(メレ)という名称で呼ばれ、Mele を伴ったフラを "Mele Hula" (メレ・フラ)という。


Mele には、ダブル・ミーニング、つまり、「表の意味」と、「裏の意味」が存在する。また、フラの踊りそのものにも、表の意味、裏の意味があり、どの意味を強調して踊るかによって、踊り方が変わる。

こうした「裏の意味」を、ハワイの言葉では、"kaona"(カオナ)という。

例えば、「喜び」という表の意味をもつ言葉が、裏では「セックスにおけるオーガズム」を意味したり、あるサイトの挙げる例によれば、「noho paipai(揺り椅子)」という表現は、裏では、揺り椅子が男性で、女性が腰掛ける様子、つまり「男女が1つに組み合わさって揺れ動いている」というセクシャルな意味になるらしい。(kaonaはセクシャルな意味だけとは限らないが、詳細は専門サイトに譲る)


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こうした歌における「ダブル・ミーニング」(codeといってもいい。映画『ダヴィンチ・コード』でいう「コード」である)は、18世紀のアメリカの奴隷時代のアフリカ系アメリカ人が作ったスピリチュアル(霊歌)にも存在する。
奴隷時代のアフリカ系アメリカ人を南部から北部に逃がすための秘密の手段として、Underground Railroad(地下鉄道)が存在していたことは、既に書いてきたが、Underground Railroad時代のアフリカ系アメリカ人が歌ったスピリチュアル(霊歌)の歌詞には、表向きの宗教的な意味とは別に、裏の意味があったといわれている。
Damejima's HARDBALL:2012年8月5日、父親とベースボール (6)アフリカ系アメリカ人史にみる「都市と田舎の分離」。ミンストレル・ショーの変質と、「ジム・クロウ」誕生

裏の意味を歌の中に隠す必要があった理由は、2つある。

当時のアフリカ系アメリカ人は、英語の読み書きができなかった。(彼らに読み書きを教えることは法律で禁止されてもいた)
そして、当然ながら、奴隷として買われてアメリカに連れてこられたアフリカ系アメリカ人が、自由になる方法であるUnderground Railroadの利用法について教え合ったり、北部脱出についての憧れを公言することは、タブーの中のタブーだった。
(ちなみに、スピリチュアルに隠されたUnderground Railroadに関する秘密のコードと、フラにおける裏の意味「カオナ」とでは、根本的な性質の違いもある。スピリチュアルに隠されるコードはレジスタンスのための暗号なわけだが、フラの「カオナ」は元々ハワイ文化にあった先天的要素であり、欧米人によるフラの抑圧を避けるためにレジスタンス的な意味で後天的に発生したわけではない)
Songs of the Underground Railroad - Wikipedia, the free encyclopedia

例えば "Go Down Moses"という曲は、表の意味だけ見れば、旧約聖書に基づいた信仰の歌にみえるが、裏には次のようなUnderground Railroadに関する意味が隠されているとされる。
Go Down Moses

Go down, Moses/’Way down in Egypt Land,
Tell Ole Pharaoh To Let My People Go
When Israel was in Egypt’s land/Let My People Go
Oppressed so hard they could not stand/Let My People Go
Thus said the Lord bold Moses said/Let My People Go
If not I’ll smite your first born dead/Let My People Go

Moses:旧約聖書の登場人物モーゼ=ハリエット・タブマンのような地下鉄道のconductor(車掌=案内役)
pharaoh:エジプトの王様ファラオ=slave owner(南部の奴隷所有者)

An Analysis of the Message of the Negro Spirituals… « COASTLINE JOURNAL


また自由が得られる北部を意味する歌詞もある。
"Now Let Me Fly" という曲の歌詞にでてくる "promised land" は、表向きはヘブライ語聖書の「神がイスラエルの民に与えると約束した土地」を意味する「約束の地」のことだが、裏の意味としては、南部の奴隷が目指す北部の土地を意味しているといわれている。
他にも、鉄道になぞらえて、北部に逃亡をはかる南部奴隷を、passengers(乗客)あるいはbaggage(荷物)といいかえたり、逃亡途中で身を隠す協力者の家をstation(駅)、stationの家主をstationmasters(駅長)などと表現した。

もちろん歌に裏の意味をこめるだけでなく、“I have sent via at two o’clock four large and two small hams.”(2時に4つの大きなハムと、2つの小さなハムを送った)というメッセージを電報で伝えることによって、「4人の大人と2人の子供が、こんどそちらに行くからよろしく」というメッセージを伝えるような、文字に頼った伝達方法もあった。
The Underground Railroad : Write a Secret Letter : Scholastic.com


スピリチュアルにおけるコードの例には、後世に無理矢理解釈されたものがまったく無いわけではないから、こうしたサンプルの真偽については、きちんとした検証も必要だ。
だが、細かい歴史的な真偽の検証はともかく、これまで黒人霊歌(スピリチュアル)として知られてきた音楽を、「アフリカ系アメリカ人の宗教的信仰心の深さの表われ」とだけ思い込むのは間違っている。(日本に入ってきた当初、フラであると思いこまされてきたものが、実は必ずしも古典フラではなかったことと共通点が多い)


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こうしたダブル・ミーニングの例は、なにも古典フラや、アフリカ系アメリカ人の古典であるスピリチュアルだけに限らない。
ランディ・ニューマンは、『トイ・ストーリー』、『レナードの朝』、『カーズ』などの映画音楽を作曲した1943年ロサンゼルス生まれのシンガーソングライターだが、彼の曲にもダブル・ミーニングの曲がある。

1972年の"Sail Away" (セイル・アウェイ)は彼の評価を決定づけた代表曲だが、典型的なダブル・ミーニングがみられる。
この曲の歌詞は、表向きは大西洋の三角貿易においてアメリカへ奴隷を「買い付け」し、「発送」している奴隷商人がアフリカ人たちに向かって、「アメリカでの夢のような暮らしの素晴らしさを言い聞かせる」という設定になっているが、もちろん、言うまでもなく、「裏の意味」は180度異なっている。


"Sail Away" が「三角貿易における奴隷の売買」を歌った歌であることを示す決定的な証拠は、歌詞にあるCharleston Bayという単語だ。

三角貿易には、いくつかの種類があるが、イギリス、アメリカ、アフリカの間で行われた大西洋の奴隷貿易においては、ヨーロッパの繊維製品・ラム酒・武器、アメリカの砂糖や綿花、そしてアフリカの奴隷が交易された。
Charleston Bay(チャールストン・ベイ)は、大西洋に面したサウスカロライナ州の奴隷貿易港・綿花積み出し港で、アフリカからの奴隷を積んだ奴隷船は、まずチャールストン・ベイに到着し、ここの奴隷市場でセリにかけられ、全米各地に運ばれていき、また、アメリカ南部の奴隷プランテーションで生産された綿花は、チャールストン・ベイからヨーロッパに送られていた。
まさにサウスカロライナ州チャールストンという街は、奴隷貿易、綿花貿易の拠点として、「イギリスと、アメリカ南部プランターの互恵関係」「奴隷制の存立と、三角貿易」を象徴する場所そのものだった。

だからこそ、南北戦争が勃発したのが、このチャールストンだったのは、偶然どころか、歴史の必然だった。1861年4月12日の午前4時30分、南軍がチャールストン沖のサムター要塞(Fort Sumter)の北軍に向かって砲撃を加えたことによって、南北戦争の火蓋が切られた。(「サムター要塞の戦い」)
ちなみに、チャールストンは歴史的にドイツ移民の多い街のひとつとしても知られている。

サムター要塞の戦い(1861年)サムター要塞の戦い
(1861年)


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In America, you get food to eat
Won't have to run through the jungle and scuff up your feet
You just sing about Jesus, drink wine all day
It's great to be an American

Ain't no lions or tigers, ain't no mamba snake
Just the sweet watermelon and the buckwheat cake
Everybody is as happy as a man can be
Climb aboard little wog, sail away with me

Sail away, sail away
We will cross the mighty ocean into Charleston Bay
Sail away, sail away
We will cross the mighty ocean into Charleston Bay
(以下略)
RANDY NEWMAN - SAIL AWAY LYRICS




ランディ・ニューマンにこうした明白なダブル・ミーニングの歌詞があるわけだが、どういうわけか彼の曲の歌詞解釈には首をひねるようなものがある。

例えばブログ主の好きなNina Simone(ニーナ・シモン)もカバーしている "I Think It's Going To Rain Today" という曲がある。こんな歌詞だ。
(下の動画は、上がランディ・ニューマン、下がニーナ・シモン。ニーナ・シモンは一部歌詞を変えて歌っている chase love away→keep love away treat→create)

Broken windows and empty hallways
A pale dead moon in the sky streaked with gray
Human kindness is overflowing
And I think it's going to rain today

Scarecrows dressed in the latest styles
With frozen smiles to chase love away
Human kindness is overflowing
And I think it's going to rain today
(後半部省略)





けっこう有名な曲だけに、この歌の歌詞を日本語訳しているサイトは、けっこうたくさんある。
だが、そのほとんど全てが、この歌のダブル・ミーニングをまったく把握しないまま訳しているため、まるで意味の通らない言葉の羅列にしかなっていない。
例えば、何度も繰り返し歌われているHuman kindness is overflowingという部分は、「優しさが満ち溢れている」などと訳すサイトが大半なのだが、こんなふうに訳していたのでは、この曲がいったい何のことを歌っているのか、さっぱり見当がつくわけもない。
「優しさが満ち溢れている。明日は雨だろう」と言われても、なんのことやら、さっぱり日本語として意味が通じない。

この歌詞の真意についての、このブログ的解釈については、次回書く。
それには、アフリカ系アメリカ人のステレオタイプとして出来上がったミンストレル・ショーの田舎者Jim Crowと、都会人Zip Coonの関係が深く関わって、歌詞に織り込まれている。
Damejima's HARDBALL:2012年8月16日、父親とベースボール (番外編) (2)ランディ・ニューマンの曲 "I Think It's Going To Rain Today"の真意を、「田舎者ジム・クロウ、都会者ジップ・クーン」を解読鍵としてデコードする

damejima at 18:37

August 06, 2012

都市にはプロのベースボールがあり、そして田舎にはない。
このことを念頭に置きながら、以下の記事で、19世紀以降に起きたアフリカ系アメリカ人の南部からの脱出によって生じる「都市と田舎の二極分化」についてまとめてみる。


いまなぜアフリカ系アメリカ人は「都市」を去ろうとしているのか。

もし野球好きのアフリカ系アメリカ人が、昔と変わらずベースボールを楽しみ続けようと思うなら、南部に帰ってしまうよりは、北部や西海岸の都市部に住み続けるほうが、ファンも球団も都合がいいに決まっている。
だが、以下に見るように、彼らがかつて田舎(南部)を逃れて都市(北部)に脱出してくるのに払った犠牲と、せっかく出てきた都市で味わわされた疲労感や失意を頭に入れてモノを言わないかぎり、彼らに対してうかつに「都会にいてくれ」「田舎に帰るな」「MLBをよろしく」などと、軽々しいことは言えないのである。


アフリカ系アメリカ人にとっての「都市と田舎の二極化」が生まれる上で考慮しておかなければならないポイントは、3つほどあると考えた。

Underground Railroad(地下鉄道)
1810年から1850年の間に、3万人から10万人程度を助けたといわれる奴隷逃亡を助けるための秘密組織

1830年代に誕生した田舎者の象徴としての「ジム・クロウ」
都会の軽い見世物として生まれた「ミンストレル・ショー」におけるステレオタイプの田舎者キャラクターである「ジム・クロウ」が、1950年代にミンストレル・ショー自体が人種差別色を強める中で、アフリカ系アメリカ人全体を意味する差別的キャラクターに変質していき、さらには、1876年から1964年と、約90年間にもわたって存在した南部における人種差別的な法律の総称「ジム・クロウ法」に、その悪名が受け継がれていく流れ

Great Migration
1910年代から1970年代にかけ、南部のアフリカ系アメリカ人累積約600万人が、アメリカ北部や中西部、さらに西部へ移住したといわれているGreat Migrationの流れ

(ブログ注:19世紀の初頭、南北戦争前のアメリカがまだ奴隷制を維持し、Underground Railroadが機能している同じ時代に、ヨーロッパではギリシア独立戦争(1821-1829)があった。
18世紀末にヨハン・ヴィンケルマンの「白いギリシア」の流行によってギリシアをヨーロッパのルーツとほめそやす流行があったヨーロッパでは、当然ながら「自分たちの文化的ルーツであるギリシア独立を助けよう」という支援の声が上がった。
ヨーロッパにおける「白いギリシア」という価値観の流行とギリシア独立戦争、アメリカの変質、それぞれの関連性を詳しく調べてみたくなるところだが、いまは話が複雑になるだけなので置いておく。
ギリシアを西ヨーロッパ文明のルーツと考えるフィルヘレニズム(=親ギリシア主義、ギリシア愛護主義など、さまざまな訳語がある)、あるいはロマン主義によって、詩人バイロンをはじめ、たくさんのヨーロッパ人が義勇兵として参加したが、それらの人々の中には、現実に訪れたギリシアが、フィルヘレニズムによって描かれた想像上のイメージと大きくかけ離れていることに気づいて、落胆した者もいた。
それはユーロ圏の愛すべき駄々っ子のような存在となりつつある現在のギリシアと非常にダブるところが多い。また、現在のEUにおいて、その駄々っ子を助けようと先導しているのが、かつてヴィンケルマンが『白いギリシア』を流行らせたドイツである点は、非常に興味深い)


さて、アフリカ系アメリカ人の北部への移動の様子は、南北戦争の前と後とで、どう変わったのだろう。


南北戦争前
Underground Railroad(地下鉄道)

Underground Railroadを利用した北部脱出ルート北部への脱出ルート
I’ll Fly Away, O Glory! ― Outlaws of the Underground Railroad « Kasama

Underground Railroadを利用した北部脱出ルート北部への脱出ルート(別資料)
Underground Railroad Webquest

南北戦争前の、あらゆる自由のないアフリカ系アメリカ人奴隷には、奴隷制のない北部(あるいはカナダ)への秘密の脱出手段があった。それがUnderground Railroad(地下鉄道)である。

Harriet TubmanHarriet Tubman
(ハリエット・タブマン)
奴隷の両親の下に生まれ、ペンシルベニアに逃亡。自由になった後は、Underground Railwayの「conductor」(車掌=案内役)として逃亡を手伝う。1850〜1860年には約19回南北を往復、約300人の逃亡を助けた。4万ドルを超える賞金がかけられたが、結局一度も捕まらず、その功績により「女モーセ」「黒人のモーセ」(Black Moses) とも呼ばれた。

これは、1810年頃から1850年までの約40年間にさかんだった秘密組織で、奴隷制廃止論者や北部諸州の市民たち、あるいは先に逃亡して自由を得た奴隷たちが運営に関わって、数多くの奴隷が北に逃げるのを手助けした。うまく逃れることができたアフリカ系アメリカ人奴隷は、アメリカ北部の都市、あるいはカナダで自由になることができた。
(ちなみに、残念ながら1850年に逃亡奴隷の返還を規定する「逃亡奴隷法」が制定され、せっかく逃亡に成功しても元の場所に連れ戻されるようになったため、Underground Railroadは下火になっていった)
Underground Railroad - Wikipedia, the free encyclopedia
ちなみに、「鉄道」というネーミングはあくまで「逃亡ルート」という意味の比喩であり、鉄道を利用して逃亡するという意味ではない。またハリエット・タブマンの果たした「車掌」という役割も、あくまで「案内役」という意味の比喩。Underground Railroadについてはこのブログで一度書いたことがある。詳しくはWiki等を参照。
Damejima's HARDBALL:2011年6月6日、2011ドラフトでシアトルがヴァージニア大学の投手Danny Hultzenを指名したので、昔のAtlantic Coast Conferenceでの「Frank McGuireの苦い話題」について書いてみた。



南北戦争後
Reconstructionの挫折から、Great Migrationまで

南北戦争が北軍の勝利に終わって、公式に移動の自由を得たはずのアフリカ系アメリカ人だが、彼らは、1910年代以降になって、ようやく北部や他の地域への大量移住を開始しはじめた。既に紹介したGreat Migrationである。
Damejima's HARDBALL:2012年7月3日、「父親」とベースボール (2)南北戦争100年後のアフリカ系アメリカ人の「南部回帰」と「父親不在」、そしてベースボールとの距離感。

南北戦争が「1865年」に終わっているのに、北部への移住Great Migrationがさかんになりはじめたのが、南北戦争終結から40数年もたった「1910年代」というのは、なにか変だと気がついた人は、歴史のセンスがある。これら2つの出来事の間に、あまりにも長く不可解なズレがあるのはどうしてか。

この「40数年間の長いギャップ」には、
もちろんちゃんとした理由がある。

南北戦争が終わる頃から合衆国連邦政府は、奴隷制廃止についての修正第13条、市民権を定めた修正第14条、元奴隷にも参政権を与える修正第15条と、次々に合衆国憲法を改正する一方、南部の奴隷州を北部の流儀に基づくこうした新しいアメリカの自由なシステムになじませようと、かなり積極的に努力を重ねた。
これがアメリカ史でいうところの、 "Reconstruction" レコンストラクションである。(詳しくはWiki等を参照 レコンストラクション - Wikipedia)。

だが、レコンストラクションは、南部の強い抵抗にあう。
最後には連邦政府内部の強硬派が南部を軍事的占領までして、なんとか手なづけようと試みたのだが、たいした効果を上げることができないまま、やがて連邦政府は南部のふるまいを監視する作業を諦めてしまうことになった。

南部の奴隷州は、南北戦争敗北で奴隷制は放棄させられたが、レコンストラクションの拒否には成功したのに気を良くして、やがて、奴隷制に代わる新たな人種差別な州法を相次いで制定して、有色人種に対する「隔離政策」を開始した。
つまり「奴隷制」による人種差別が、南北戦争には「隔離政策」という新たな手法による人種差別に変更に変わって、アフリカ系アメリカ人の束縛が継続されたのである。
このレコンストラクション挫折以降に、南部で次々に生まれていった有色人種隔離政策に基づく人種差別的な州法の総称を、「ジム・クロウ法」という。ネーミングの元になったのは、ミンストレル・ショーの田舎者キャラクター、「ジム・クロウ」である。
ジム・クロウ時代の看板
「ジム・クロウ法」時代の白人(white)有色人種(colored)の使うトイレを分けていることを示す看板(写真)アラバマ、ミシシッピ、ジョージア、ルイジアナ、ノースカロライナ、ワイオミングなどでは、州法によって、病院、バス、電車、レストラン、結婚、交際、学校などについて、アフリカ系アメリカ人を中心とした有色人種が白人と同じ一般公共施設を利用することを禁止・制限した。
また、投票権(franchise)についても、アフリカ系アメリカ人の投票を阻止する数々の制約が設けられていた。非常に重い「投票税(Poll Tax)」、読み書きの試験、grandfather clause (=祖父条項。南北戦争が終結する1865年の2年後、1867年よりも前に祖父または父親が投票権を持っていた人にのみ投票権を与えるという南部の州憲法条項で、1890年頃から1915年まで存在した。当然ながら、アフリカ系アメリカ人の祖父や父親は奴隷だったのだから投票権は持っていない。最初からそのことがわかっていて、アフリカ系アメリカ人の投票阻止のために制定された悪法)などによって、アフリカ系アメリカ人の投票は阻止された。
北部の州でも投票税(Poll Tax)は存在したが、ニューヨーク州では先頭を切る形で1901年には廃止された。逆に、テキサス、アラバマ、ヴァージニア、ミシシッピの各州では、1960年代の選挙法改正まで投票税は存在していた。

南北戦争の南軍敗北で解放された「はず」のアフリカ系アメリカ人だったが、彼らの法的、政治的、経済的、社会的な平等を、恒久的に実現するはずだった連邦政府の理想は、19世紀末のレコンストラクションの失敗で一度挫折を味わわされていたのである。


都市と田舎

18世紀初頭のUnderground Railroadによる亡命にしても、20世紀初頭以降のGreat Migrationによる移住にしても、当然のことながら、すべてのアフリカ系アメリカ人が一斉に北や西に移住したわけではなく、南部にそのままとどまり続けた人々も大勢いる。
このことは、「都市のアフリカ系アメリカ人と、田舎のアフリカ系アメリカ人への、二極化」につながった。(もっと詳しくいうなら、都市、都市に遅れてやってきた人、田舎の3種類)
この「都市と田舎の二極化」は、同じアフリカ系アメリカ人同士の間に、収入や洗練の度合、意識の差、さまざまな「すれ違い」を発生させた。

「すれ違い」は、例えば「北部への移住を決断した人と、南部に残ることを選択した人」との間にあったのはもちろんだし、また「先に北部に亡命や移住を果たした人と、後から遅れてやってきた人」との間にも存在した。
早くから北部に脱出して、苦労を重ねて都市に定着し、それなりの洗練に達していた人たちにしてみれば、遅れて都会に流入したばかりのアフリカ系アメリカ人は、(言葉は悪いが、あえて使うと)野暮ったい田舎者に見えた部分があったようだし、また逆に、後発の人々から見た都会のアフリカ系アメリカ人は、気取って見えてしかたがない部分が少なからずあったらしい。

この「都市と田舎」2つのタイプのアフリカ系アメリカ人の見た目の違い、意識の差は、後で書くミンストレル・ショーの2つのキャラクター、「ジム・クロウ」と「ジップ・クーン」に少なからず反映されていたと言わざるを得ない。
(同じような「すれ違い」は、アフリカ系アメリカ人同士の間だけでなく、白人同士、たとえば、植民地アメリカ時代から先住していた白人と、アメリカ独立後に遅れてやってきた後発の白人移民の間にも強く存在していたようだが、ここでは話が複雑になりすぎるのを避けるために触れないことにする)



こうした「アフリカ系アメリカ人における、都市と田舎という二極化」は、例えば、1950年代から1960年代のアメリカを席捲した「公民権運動」にも反映している。

マルコムXが、都市を基盤にして、妥協の少ない過激な主張を繰り返したといわれるのに対し、マーティン・ルーサー・キング牧師は、田舎を基盤に、比較的な穏健なトーンで権利を主張した、といわれている。

Malcolm XマルコムX
Malcolm X
Martin Luther King, Jr.キング牧師
Martin Luther King, Jr.


19世紀初頭から20世紀初頭、100年という長い歳月をかけて進行していったように見えるアフリカ系アメリカ人の「都市と田舎の二極化」は、歴史という大きな潮流の上でみれば、それ自体はどんな国でも起こりうることであって、止むを得ない性格のものだ。
だが、アフリカ系アメリカ人社会のこうした二極化を、人種差別の助長に利用しようとする人々に「つけいる隙」を与えることにもなった部分もあることは否めない。


minstrel show(ミンストレル・ショー)と呼ばれる、顔を黒く塗った白人が演じる見世物において多用され、流行した、「都会人」を表わす「ジップ・クーン」と、「田舎者」を表わす「ジム・クロウ」という、2人のキャラクターも、その例のひとつだ。

Jim Crow田舎者
ジム・クロウ
Jim Crow

Zip Coon都会者
ジップ・クーン
Zip Coon


これらの登場人物は、誇張され、型にはまったstock character(ストックキャラクター)、ステレオタイプであることに最大の特徴がある。
ミンストレル・ショー自体は、後に衰退することになったが、ミンストレル・ショーが生み出した「ステレオタイプなアフリカ系アメリカ人のイメージ」は、1950年代になってもブラックフェイス・パフォーマーによってヴォードヴィルやドラマで普通に演じられ続けた。

映画、演劇、ショー、文学において、アフリカ系アメリカ人をステレオタイプでしか表現しないという習慣に対する気分の悪さは、かつて日本人が大昔のアメリカ映画やコミックでは、常に「眼鏡をかけ、前歯が出ていている」「クビからカメラをぶら下げている」「忍者の格好をしている」などという、東洋のイメージがごちゃまぜになったような、わけのわからないステレオタイプでしか表現されていなかったことを思い出すと理解できる。

Denzel Washingtonちなみに、ニューヨーク州生まれで、熱心なヤンキースファンでもあるデンゼル・ワシントンは、かつて1970年代後半に、まだ駆け出しの新人俳優だった頃、同じアフリカ系アメリカ人の名優シドニー・ポワチエから、『君のキャリアは最初の3〜4本の出演作で決まる。自分がいいと信じる役が来るまで待つべきだ』とアドバイスされ、いくつかの『黒人らしい』役を断った」(出典:Wiki)という。
演技論はこのブログの専門外だが、アメリカのショービジネスで、アフリカ系アメリカ人俳優に、彼らの才能の有無に関係なく「ステレオタイプなアフリカ系アメリカ人的な、つまらない、誰でもできる演技しか求めない」という悪い習慣のルーツは、このミンストレル・ショーではないかという気がしてならない。
(逆の意味でいえば、アフリカ系アメリカ人の視点で作られているといわれるスパイク・リー映画に登場するアフリカ系アメリカ人の演出や設定にも、ステレオタイプ感がないでもないが、とりあえず置いておこう)


ミンストレル・ショーの変遷を理解するには、たいへんに長ったらしくて複雑な歴史をひもとく必要があるので書ききれない。詳しくはWikiでも読んでもらいたい。
かいつまんで特徴だけ挙げてみる。

ミンストレル・ショーは、顔を黒く塗ってステレオタイプのアフリカ系アメリカ人を演じてみせるブラックフェイス・パフォーマーにルーツをもつ。顔を黒く塗った白人が、踊り、音楽、寸劇を交えたショーを演じたほかに、時代によってはアフリカ系アメリカ人自身が演じることもあった。
以下のリンク先のなかほどの部分に、1929年のミンストレル・ショーにおける録音とされる音源へのリンクがあるので、当時の気分を多少味わえる。この音源が本当に1929年のものかどうかまでは確かめようもないが、できた当初のミンストレル・ショーが、人種差別とはそれほど関係のない、悪気のない、たわいないミュージカルというか、コミックショーみたいなものであったことがわかるのは貴重だ。
こういう明るい雰囲気のショーが、いつのまにやら人種差別の道具になってしまうのだから、人間というものはある意味、怖い。
Blackface! - A History of Minstrel Shows
ミンストレル・ショーにおけるブラックフェイス・パフォーマーは、当初こそメインの出し物だったが、後にだんだんと舞台の片隅に追いやられていくことになったが、やがてミンストレル・ショーは1850年代には人種差別的な見世物という色彩を強めていった。



ブラックフェイス・パフォーマーのひとりで、1930年代に "Jump Jim Crow" という曲を大流行させたのが、Thomas Dartmouth Rice (トーマス・ダートマス・ライス 1808-60)だ。
ニューヨーク生まれの白人の彼が、顔を黒く塗って演じたアフリカ系アメリカ人の田舎者Jim Crow(ジム・クロウ)が歌う、"Jump Jim Crow" というナンバーの大ヒットによって、トーマス・ライスはミンストレル・ショーにひっぱりだこになり、"Jim Crow Rice" とも呼ばれるようになった。

ちなみに、実は「ジム・クロウ」というキャラクターがいつ発明されたか、という点そのものは、アメリカでも諸説あってハッキリしていない。
日本のWikiには「ジム・クロウという名はJump Jim Crowに由来する」と明記されていて、あたかもトーマス・ライスがこのキャラクターを発明したかの印象を与える記述がされているが、それは正確ではなく、「ジム・クロウ法という南部の人種差別的な州法の総称が、トーマス・ライスの "Jump Jim Crow" という曲に由来する」と断定する資料は、アメリカにはない。
確かなのは、「ジム・クロウ法という南部の人種差別的な州法の総称が、ジム・クロウというキャラクターに由来する」ということと、「ジム・クロウが、ミンストレル・ショーのベーシックな田舎者キャラクターだった」こと、この2点だ。
資料:The Strange Career of Jim Crow - The late C. Vann Woodward - Google ブックス



「ジム・クロウ」は当初、単なる「田舎のみすぼらしい黒人」を戯画化したキャラクターにすぎず、軽いコミカルな見世物のキャラクターのひとつに過ぎなかった。

だが、ミンストレル・ショーが興行的な成功と、 "Jump Jim Crow" という曲の大ヒットに、南部戦争前のアメリカ社会の「差別的な気分」との融合が起きたことで、やがてこの "Jim Crow(ジム・クロウ)" という言葉は、ミンストレル・ショーの狭い枠を飛び超えて、アメリカ社会全体に拡散していくことになる。
「ジム・クロウ」は、1930年代に「アフリカ系アメリカ人全体を指す代名詞」になり、さらに1870年代以降には、かつての南部の奴隷州で行われていた有色人種隔離政策のための州法の総称、Jim Crow law(ジム・クロウ法)」として定着した。
As a result of Rice's fame, Jim Crow had become a pejorative meaning African American by 1838 and from this the laws of racial segregation became known as Jim Crow laws.
「(ジム・クロウを演じた)ライスが名声を博した結果、『ジム・クロウ』は1838年までにアフリカ系アメリカ人を軽蔑する意味をもち、さらには、この言葉によって人種差別法が『ジム・クロウ法』という名前で知られることにもなった」
Jump Jim Crow - Wikipedia, the free encyclopedia





ちなみに、日本でフォークダンスの曲として知られている「オクラホマ・ミキサー」(Oklahoma mixer)には、実は、歌詞の違うバリエーションが数多くある。

その中のひとつに、"Natchez Under the Hill(丘の下のナチェス族)や、"Do Your Ears Hang Low?"(君の耳は長く垂れてるかい?)に並んで有名な、"Turkey in the Straw"(藁の中の七面鳥) がある。
"Turkey in the Straw"(藁の中の七面鳥)は、実は、ジム・クロウ法の語源になった "Jump Jim Crow" をヒットさせたトーマス・ライスと同じ、顔を黒く塗って歌い踊るブラックフェイス・パフォーマーのひとり、George Washington Dixonなどが歌ってヒットさせた曲。

またこのメロディは、さらに辿っていくと、かつてミンストレル・ショーでしばしば演奏されていたという、ある人気の曲に行き着く。
それが、ほかならぬ、ミンストレル・ショーにおける都市のアフリカ系アメリカ人キャラクターのテーマソング、 "Zip Coon" である。("Old Zip Coon" とも呼ばれる)

つまり、日本人はミンストレル・ショーの人気曲 "Zip Coon" にあわせてダンスを踊っていた、というわけだ。やれやれ。


人が普段、意識しない隙間にも、文化というやつは染み込んできているのである。





damejima at 11:37

August 05, 2012

イチローのヤンキース電撃移籍の衝撃で間隔があいたが、「父親とベースボール」という書きかけの記事の続きを書いておこうと思う。かなりめんどくさいが、やりかけた以上、しかたがない。


いうまでもなく、この種の問題は見た目より遥かに奥が深い。
もちろん正解など出ない。

だが、この問題は、当事者であるアフリカ系アメリカ人にとって重要なだけではなくて、歴史に疎いこと、そして、歴史と、単なるロマンや神話や観光とを分別し整理する能力が無いこと、この両方によって損をこうむることが少なくない我々日本人にとっても、無視することのできない重要な問題が含まれている予感がある。
やたら頭を下げてばかりいるのをやめて、背筋を伸ばしてプライドを保つためには、「自分の土俵から、世界の歴史を把握し直しておく作業」が、今は非常に大切な時代になってきている。
「歴史、特に世界とのかかわりなんてものは、ただただ小難しいだけだから、わからないままほっておいたって、どうせ現実の暮らしには困らない」なんていう、のほほんとした時代は、とうの昔に終わっている。オリンピックでの審判の不手際に対する抗議ではないが、他人に何かとやかく言われても、ひとことどころか、二言も三言も言い返せるくらいでないと、これから困ることになる。
そのためには、相手に足元を見られるのではなくて、逆に、常に相手の足元を見透かす必要があり、そのためにも歴史というものに無関心でいるのはもったいない。


歴史というのは、人の暮らしの「背骨」、昔の木造帆船でいう「竜骨」のようなものだ。
古代フェニキア人やヴァイキングが海の主になれたのは、古代エジプトで発明されたと思われる「竜骨」の発明によって船の構造を強固にでき、そのことで船体を巨大化し、さらに大きな帆を張ることもできたからだ。東インド会社のガレオン船や、映画パイレーツ・オブ・カリビアンに登場する海賊船も、まったく同じ。竜骨のある洋船は、竜骨が無い和船に比べて構造が強く、大洋さえ越えることができ、その広大な行動力こそが海の制覇と飛躍に繋がった。

(ちなみに、「竜骨の発明時期」に関してさまざまな記述がネット上にあるが、紀元前数千年前の古代エジプトの船に既に竜骨があったことは、壁画から明らかだ。
また、英語版Wikiでは、古代エジプトに歴史的起源をもち、木造帆船において「竜骨」といわれてきた構造材の歴史にまったく触れないまま、ヨットなど、今の船でいう「センターボードとしてのKeel」を説明することで、昔の竜骨が今のkeelと同じものであるかのように扱っているが、その解説はまったく正しくない。
昔からの木造帆船でいうところの「竜骨」とは、船底の中央を縦に貫通する非常に大きくて強い部材であり、文字どおり船の「背骨」にあたる中心構造材だ。
だが、今のヨットなどでいう「keel」とは、いわばサーフボードでいう「フィン」のような脇役的存在であり、古代フェニキアや古代エジプトに起源をもつ「竜骨」という骨太の訳語には、まるでふさわしくない。一刻も早く「keel」と呼ぶのを止め、「センターボード」とでも呼称を変更してもらいたいものだ)

古代エジプトのハトシェプスト女王がプント交易に使った船古代エジプトのハトシェプスト女王がプント交易に使った船
木造帆船の典型的な「竜骨」クレーンに吊り下げられた「竜骨」。1745年9月12日に座礁して沈没し、近年再現されたスウェーデン・東インド会社所属の「イエーテボリ号」(2003年進水)のもの。
最近のヨットでいう”keel”(実際にはセンターボード)現在ヨットで "keel" と呼ばれているものが、これ。 "keel" という呼称で呼ばれるのは、単に昔の名残りに過ぎない。かつてのkeelが持っていた構造上の重要性を失ったこの部材に、keelという言葉を使うのは、誤解を呼ぶだけで、どうみても正しくないし、ふさわしくない。どうみても、「センターボード」と改名してくれたほうが、いらぬ誤解を生じないのは明らか。


どうせ誰も正解が出せない問題なら、正解が出せないことくらい、気にする必要などない。こじんまりしたつじつま合わせをして、無理にまとめる必要もない。
むしろやるべきことは、風呂敷を広げられるだけ広げておいて、せめて、その広げた風呂敷のどこかに、奥の奥にある問題の一端を少しでも多く引きずり出しておくことだろう。そのほうがずっと有益だし、またブログ主の能力の乏しさにもふさわしい。


再開にあたって、ここまで書いてきた4つの記事の、意味や繋がりについて、自分なりにまとめ直しておこう。



出発点は、こういう話だった。

1940年代のジャッキー・ロビンソンの加入以降、MLBにおけるアフリカ系アメリカ人の存在は、プレーヤーとしてその優れた運動能力を轟かせ、ファンとしてプレーヤーを支えてきた。アフリカ系アメリカ人は、選手、ファン、GMや監督・コーチ、さまざまな立場からMLBを支える原動力のひとつとなってきたのである。
だが、現在のところ、アフリカ系アメリカ人とベースボールの距離は、ジャッキー・ロビンソン加入直後の熱をすっかり失って、遠く離れてきてしまっているように思える。
それはなぜなのか?


とりあえず考えられる要因は、アフリカ系アメリカ人にみられる「異常に高いシングルマザー率」。このブログでは、家庭における「父親の不在」が、アフリカ系アメリカ人の意識とベースボールとの距離を広げてしまう直接の原因になっているのではないか、と考えた。
これは、「野球という文化は、どこの国でも父親が子供に伝えていく家庭的な文化である」というブログ主の基本発想からきている。同じような指摘は、アメリカのサイトにもみられる。
Damejima's HARDBALL:2012年6月29日、「父親」とベースボール (1)星一徹とケン・バーンズに学ぶ 『ベースボールにおける父親の重み』。

この「父親の不在という、家庭の構造変化が影響している」という仮説は、すぐ次の壁に突き当たる。なぜ「アフリカ系アメリカ人家族の構造、コミュニティの屋台骨は、これほど大きく揺らでしまったのか?」という新たな疑問だ。

現代のアフリカ系アメリカ人を取り巻く社会環境は複雑だ。「古くからある人種問題」は、公民権運動の成果などによって、見た目だけは解消されたように見えるが、もちろん根本的な解決には至っていない。その上、インナーシティなどにみられる都市問題などもからまり、現実のアフリカ系アメリカ人は結果的に、新旧入り乱れた重層的な社会問題の束縛を受けている。

それを貧困や失業などからありきたりに説明することはたやすいが、それでアメリカという国全体が経験してきた喜びと苦しみの両方が入り混じった歩みを謙虚に学んだとはいえない。なにも、アメリカを全否定するために、こんなことを書いているわけではないのだ。むしろ、深く理解して、対等にモノを考えていくことが大切だから、やっている。


南北戦争が終わって移動の自由を得たアフリカ系アメリカ人の一部は、南部での奴隷生活を逃れ、北や西の都市への移住、いわゆるGreat Migrationを開始した。移住先の都市で彼らは、「ベースボールというアメリカ文化」と新たに遭遇し、経験し、夢中になった。

独立戦争や南北戦争の尊い犠牲によって、アメリカはイギリス(およびヨーロッパ諸国)の束縛から自由になり、その結果、北部の都市で近代的な経済成長が始まって、やがて経済成長につきもののサバーバナイゼーション(郊外化)が進行していく。
これを、南部の隷属を脱出して北へ向かったアフリカ系アメリカ人の立場からみると、アメリカ市民として北部の都市に安住し、南部では味わえなかった人並みの自由や豊かさを得るはずだったわけだが、やがて「ゲットー」や「インナーシティ」といった都市問題にからめとられたことで、南部で奴隷として味わった隷属とはまた別種の「新たな冷遇」の時代を迎えることになった。
アメリカに古くからある人種問題と、20世紀以降に新たに発生した都市問題が複雑にからまりあう中、アフリカ系アメリカ人は新たな冷遇と不自由さを経験する。

そしていつしか、かつて保持されていたアフリカ系アメリカ人特有の家族同士の絆や、アフリカ系住民同士のコミュニティの緊密な係わりは崩れていく。そして、自由と豊かさを求めて都市に移住したはずのアフリカ系アメリカ人の中に、南部に回帰する者も現われはじめる。
こうした「南部回帰」の流れの中で、アフリカ系アメリカ人と野球との間にできはじめた「ギャップ=距離感」は必ずしも縮まっていく方向にはない。

Damejima's HARDBALL:2012年7月3日、「父親」とベースボール (2)南北戦争100年後のアフリカ系アメリカ人の「南部回帰」と「父親不在」、そしてベースボールとの距離感。

Damejima's HARDBALL:2012年7月6日、「父親」とベースボール (3)サバーバナイゼーションと都心荒廃を、アフリカ系アメリカ人の移住が原因のwhite flightと説明するレトリックの呪縛を解く。


アフリカ系アメリカ人が経験してきた苦難の道のりについて記述する行為は、往々にして、人種差別の善悪についての道徳的判断に終始してしまうことが多い。
だが、人種問題のような、モラルを最初から無視した問題について、モラル面からの反論や価値判断を試みることは、方法として有効とはいえない

ならば、こうした問題を、「根=root」の所在を明らかにすることで「根を枯らす=葬り去る」という意味でいうなら、アフリカ系アメリカ人冷遇の歴史を招き続けてきている「白という色を絶対的なものとする価値観」が、いつ、どこで、生まれてきたのか、という問題について把握しておく必要がある、と考えた。


白という色を絶対とする近世の歴史観」を見直す流れが、近年の歴史学でようやく根付きつつある。アメリカ国内はじめ、さまざまな研究者の努力によって、近世以降にできあがった「白という色を絶対とする近世の歴史観」が生産されてきた「発生源」「動力源」は、特定されつつある。
例えばマーティン・バナールの著書『ブラック・アテナ』のように、「白という色を絶対とする歴史観」をくつがえすこれまでになかったタイプの古代史研究が発表されたことによって、18世紀のヨーロッパが必死になって作り上げた「白を絶対としたがる歴史観」の捏造ぶりが明らかになりつつある。(だからといって、逆に黒を絶対的なものとしても、意味がない)
Controversies in History: Black Athena Debate

例えば、近年の科学技術の進歩によって、「イギリスの誇る大英博物館に収蔵されている「白いと思われ続けてきた古代ギリシア彫刻」の表面には、実は、かつてオリジナルな彩色がほどこされていた」ことが判明している。
また、大英博物館で、本来は彩色されていた古代ギリシア彫刻の表面を、人為的に削って「もともと白い彫刻だったようにみせかける」インチキな彩色除去作業が、なんと100年もの長きにわたって行われてきたという、スキャンダラスな行為も明らかになった。

こうした「白色礼賛主義」に基づいて行われた歴史捏造のルーツのひとつに、18世紀ドイツの歴史家ヨハン・ヴィンケルマンの著作にみられた古代ギリシア芸術の「白さ」に対する礼賛がある。
ヴィンケルマンの誤った著作に強い影響を受けた人々によって、「白いギリシアこそ、唯一無二のヨーロッパの文化的ルーツである」という歴史観は、日々拡張されていき、やがて、大英博物館でのギリシア彫刻の彩色除去作業のような「歴史的事実を完全に無視した、無理矢理な証拠固め」すら行われるようになった。
Damejima's HARDBALL:2012年7月16日、「父親」とベースボール (4)アメリカにおけるドイツ系移民の増大。18世紀ドイツの美術史家ヨハン・ヴィンケルマンが欧米文化のルーツとして捏造した「白いギリシア」。


そうなると、知りたくなるのは、ひとつには、「白いギリシアという価値観が、果たしてアメリカにも持ち込まれたのかどうか」という点であり、2つ目には、「白いギリシア」という価値観がアメリカに持ち込まれたとするなら、それはアフリカ系アメリカ人の冷遇とどういう関係にあるのか、という点だ。

「白いギリシア」という価値観は、ドイツで生まれ、イギリス(当時イギリスはドイツ系王朝であるハノーヴァー朝だった)が世界貿易の主導権を握った近世のヨーロッパで固められていった。
このブログでは、「アメリカにおけるアフリカ系アメリカ人に対する人種差別が、あまりにファナティックなレベルに行き着いてしまう原因のひとつは、ヨーロッパ移民(その中には、独立戦争でアメリカと戦ったイギリス国王ジョージ3世が、ドイツの親戚筋で買い付けてアメリカに大量に持ち込んだドイツ人傭兵も含まれる)が独立後のアメリカに持ち込んだ『白いギリシア』という価値観に、ルーツのひとつがある」との仮説を立ててみた。

建国前のアメリカは独立国ではなく、ヨーロッパ諸国から送り込まれる集団的な移民がネイティブ・アメリカンを大地の片隅に追いやりながら住みついた「植民地」として出発している。アメリカが国家として独立するのは、18世紀末にイギリスとの独立戦争が終わって以降のことだ。
こうしたアメリカ独立の過程において、アメリカが「価値観」という面においても、イギリスの価値観から決別、独立できたか、というと、とてもそうは思えない。
むしろ逆に、アメリカは、イギリスからの独立に前後して、ヨーロッパの価値観から抜け出すのではなくて、むしろ、当時のヨーロッパの閉塞した貴族的価値観(もっと詳しくいってしまえば、フィルヘレニズムや、イギリス経由のドイツ的価値観)に急速に染まった面が、少なからずあるように見える。

つまり、「自由を尊び、のびやかに、おおらかにふるまう開拓者的な気質」は、アメリカのオリジナルな長所として、たしかにアメリカが古き良き時代から受け継いできた資産、遺産だと思うが、残念なことに、別の面には、「やたらとセコい、自己愛に満ち満ちた部分」も存在する。
この「自己愛成分」は、最初から植民地アメリカに存在していたのではなくて、18世紀の独立戦争に前後して、当時の「白いギリシアという価値観が大流行していたヨーロッパ」から、はからずも吸収してしまったものであるように見えるのだ。
独立戦争は、それまでとても牧歌的だったはずのアメリカに、「なにか異常にアクの強い、自己愛成分」をもたらした。
(こうした「アメリカの理想の劣化」については、「ミンストレル・ショーの変質」をテーマに、別記事として近いうちに書く →Damejima's HARDBALL:2012年8月5日、父親とベースボール (6)アフリカ系アメリカ人史にみる「都市と田舎の分離」。ミンストレル・ショーの変質と、「ジム・クロウ」誕生


したがって独立戦争以降のアメリカには、常に「二面性」が感じられる。
ひとつは、「自由さと開放感を求めるおおらかな部分」、もうひとつが、「自己愛に満ちた、制約好きな部分」だ。
この「ものすごく自由で、ものすごく不自由なアメリカ」という「アメリカの二重性」は、そうなるに至った経緯や理由まではわからないが、明らかにいまやアメリカの奥深くに二面性として共存してしまっている。
やがて、この「二面性」は南北戦争を導くことになるわけだが、北軍と南軍の軋轢は、単に経済上の利害を代表しているのではなく、実は「アメリカの精神構造上の二面的分裂」を表現しているものと思われる。
こうした分裂は、実は南北戦争の終結によっては、ほとんど解消されることはなかったし、だからこそ、奴隷制が建前上は無くなった南北戦争後も、隔離政策という形でアフリカ系アメリカ人の苦境が残存し続けることになった。


アメリカという国は、最初「ヨーロッパの出張所のようなもの」として誕生しているわけだが、やがて成長を遂げたことで、イギリスから分離独立することに成功した。その成長過程においてアメリカは、さまざまな「異質な成分」を内部に取り込んできた。
「人種」という「成分」からみれば、アメリカに流入したのは、なにも三角貿易によってアメリカにもたらされた肌の黒いアフリカ系アメリカ人だけでなく、ヨーロッパからの白人移民も大量に入ってきている。
そうした白人移民がアメリカに持ちこんだのは「アメリカ起源でない、閉鎖的な自己愛の匂いの強い文化」だった可能性が大いにある。
「白人移民の文化」が本来おおらかだったはずのアメリカ文化にもたらした強い悪影響について、アメリカ史家はもっと明確に究明すべきだろう。(もしかすると、今のアメリカの「ある部分」は、「本来のアメリカではない、アメリカ」になっている可能性すらある)

また「独立戦争から南北戦争までの時代のアメリカを支える財政基盤」について、当時の世界史からみて根本的なのは、アフリカ系アメリカ人に隷属を強いたアメリカ南部のプランテーションの生み出す農産物の収益ではなくて、むしろ、イギリスが東方貿易で得た金や銀のような「ヨーロッパとアジアとの間の貿易」がベースなのは、明らかだ。言い換えると、「18世紀におけるアジアの重要性は、アメリカで起きていた人種間のトラブルの推移よりも、はるかに重要な位置を占めていた。
通常のアメリカ史には、ヨーロッパとの関係はさんざん書かれている割には、「アフリカ系アメリカ人を無給の働き手として経営されるプランテーションは、ヨーロッパ側から見れば、それは単に数あるサブシステムのひとつに過ぎなかった」という視点が欠けている。
アメリカ通史においてこれまでほとんど無視され続けてきた「ヨーロッパとアジアの関係」は、もっと重く扱われていいし、建国時代のアメリカと、遠いアジアとの関係は、アメリカ通史の一部にもっときちんと埋め込まれるべきだ。(この点についても、そのうち別記事を書く)



散漫な話のわりにこみいっていて申し訳ないが、ここらへんが「父親とベースボール」というシリーズが今のところ到達している「大風呂敷」である。

もし「自由」という美徳がアメリカの培ってきた美徳のひとつであり、独立戦争、南北戦争で多大な犠牲を払ってまで樹立しようとした理想のひとつであるとして、その美徳の良さをすっかり劣化させつつアメリカの内部に二面性を定着させたのが、ヨーロッパ由来で輸入された「白さへの信仰」だとするなら、それは大変に残念なことだ。

たいへん入り組んだ話なので、野球ファンにはまったく興味がないと思う(笑) だが、シアトルという田舎からニューヨークという都市にイチローが移籍せざるをえなかったことのアメリカ史的な本質を誰もやらないような角度からきちっと辿る意味でも、ブログへのアクセス数の激減などおかまいなしに書き続けてみるつもりだ。

damejima at 06:18

July 17, 2012

MLBとアフリカ系アメリカ人の関わりを書いていて、誤解されたくないと思うことのひとつは、アフリカ系アメリカ人の受けてきた仕打ちがあまりにも可哀想だ、などという道徳的な理由から記事を書いているのではない、ということだ。

人の時間は有限であり、無限ではない。そんなヤワなヒューマニズムに貴重な時間を無駄に使うわけにはいかない。
もし、日本人であることの歴史的価値の高さや誇りについて、歴史の流れの中で位置をきちんと見定め、ブレないモノの見方を維持しながら毎日を送りたいと願うならば、「苛められている人たちが可哀想」などというグダグダな教科書的価値観で過去を振り返るなどという無意味な行為に、時間を割けるわけがない。


例えば、奴隷制がいいことなのか悪いことなのか、なんていう、論じるまでもない当たり前の道徳を抜きに、できるだけ「冷ややかな視点」から、アフリカ系アメリカ人と南部アメリカという「アメリカ史」を眺めると、初めて、当時のヨーロッパの強大さ、そして、当時のアメリカの意外なほどの「地位の低さ」がわかってくる。


簡単な言い方をさせてもらうなら、
アフリカ人奴隷を使って綿花などのプランテーションを営んでいた時代の南部アメリカは、当時のヨーロッパ(というかイギリス)にとっては、数あるサブシステムのひとつに過ぎない
ということだ。

これは「差別はよくない」だの「アフリカ系アメリカ人を救え」だのという道徳的な話ではなく、また、「古き良きアメリカ」だのなんだのという懐古趣味でもない。
当時のアジア、アフリカ、アメリカ、南米の全てが見えているヨーロッパの位置から見れば、奴隷制下の南部アメリカも、大西洋の三角貿易も、もっといえば南北戦争ですら、アメリカ人が考えるほど重くはない。


よく、アフリカ系アメリカ人の通史的な教科書、つまり、アメリカに奴隷が持ち込まれた時代から現代に至る長い経緯について書かれた教科書をみると、必ずと言っていいほど、最初の数章は、ヨーロッパ、北アメリカ、西アフリカの「大西洋の三角貿易」についての説明に充てられている。
たいていの場合その中身は「どこにでもある、ダラダラとしたお決まりの記述」を並べているだけであり、さらに、その先の話も、これまたお決まりの「アメリカの抱える貧困、暴力、差別、都市問題」と、お決まりの暗い記述で埋め尽くされる。

こういう「教科書」が行き着くのは、結局のところ、せいぜい「加害者と被害者」という教科書的モラルでしかない。
それはそうだ。欧州系白人とアフリカ系アメリカ人の、2種類の登場人物しかいない作文なのだから、「加害者と被害者」という教科書的モラルにしか行き着きようがない。

こうした「視野狭窄」が起きるのは、ひとつには、ヨーロッパとアジアの関わりにをきちんと視野に入れてしゃべっていないからだ。それは一種のアジア軽視といってもいい。

アメリカの奴隷制を描きだすにあたって、「ヨーロッパとの間を関連づけておけば、もうそれは世界史として成り立った証拠だ」とでも思っているのかもしれないが、勘違いもはなはだしい。そんなのはヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンの捏造したヨーロッパ中心主義ですらない。


繰り返して言わせてもらうが、
「対価を払ってモノを買うのが、経済というものであり、本来のビジネス」で、「対価を払うための資本を貯め続けるシステムを持っていることが、世界の中心であることの証」である。(それは実は現在でも変わっていない)

奴隷制下の南部アメリカは、たとえとしていうと、奴隷という「ガソリンのいらないトラクター」で土地を耕し、できた綿花をヨーロッパに買われていっているだけの「特殊なビニールハウス」に過ぎない。
中世から既に「対価を払ってモノを買う、本来の意味の貨幣経済」が発達していたヨーロッパからみたら、給料という対価を払わずにすむアフリカ人奴隷を使って綿花やタバコを栽培していた南部アメリカの「経済」は、正確にいえば「ビジネス」でも、「貨幣経済」でもない。
また、繰り返しになるが、ヨーロッパにとっての南部アメリカは、「数あるサブシステムのうちのひとつ」に過ぎないし、手厳しく言えば「買い付けをするために出かけていく「田舎」のひとつ」に過ぎない。


もう少し詳しく書けば、大西洋の三角貿易で、綿花や奴隷の買い取りを可能にしてくれる原資は、金や銀だが、ヨーロッパの金や銀での支払いを可能にしているのは、アジアとの交易だ。大西洋の狭い三角交易などではない。
大西洋の三角交易を可能にしている原資のひとつが、アジアとの交易にあるのに、その「外部の世界」を無視して、南部アメリカの奴隷制について書かれる教科書が中途半端なのは当然だ。

教科書で描かれる登場人物は基本的に、白人とアフリカ系アメリカ人だけであり、その2者の関係の歴史的経緯だけがザッと描かれるだけで、「アメリカに移民してきた貧困なヨーロッパ系白人」という「第三の立場」から見た奴隷制という視点ですら欠けている。
だから、よけいに「加害者と被害者」という単純なモラルばかりが強調されることになりがちになるのは当たり前なのだ。


これなど、まさに松岡正剛氏の指摘する「トンネル内でモノを見るような狭いモノの見方」だ。

ヨーロッパ、アメリカ、アフリカ、三者の関係をいくら説明し、さらにアフリカ系アメリカ人(住人)とアメリカ(国家)との関係をいくら語ったとしても、「大西洋の三角貿易の外部」について、まったく説明しないのでは、狭くなって当然だ。


外部」とは何か。

例えば、奴隷制当時の南部アメリカの主要農産物のひとつである綿花をヨーロッパが買いつけるときに支払う「代金の出処」を考えれば、すぐにわかる。

奴隷制下の南部アメリカから綿花という「継続的な買い物」をして、その代金を払い続けることのできる「特別な財布」を持っているのは、ヨーロッパの側であり、その財布にコインを流し込んでいるのは、アジアとの交易だ。
繰り返しになるが、ヨーロッパにとって、奴隷制下の南部アメリカは、単に「たくさんある仕入先のひとつ」でしかない。たとえ奴隷時代のアメリカが、「古き良きアメリカ」であろうと、「誇り高き時代のアメリカ」であろうと、そんなことはまったく関係ない。


ヨーロッパ視点で、あらためて大西洋の三角貿易を振り返ると、南部アメリカの奴隷制プランテーションが、いかにアフリカ人奴隷という「特殊な人材雇用システム」を利用することで潤っていたかのように見えようと、本当の意味で商品が集まり、本当の意味でキャピタルゲインの多い場所は、当然ヨーロッパであって、南部アメリカではない。だからこそ、ヨーロッパに綿花の代金を払うことのできる「特別な財布」がある。
そして、ヨーロッパの「特別な財布」を膨らませるコインは、例えばアジアからもたらされる。

だから、ヨーロッパ視点から見た南部アメリカは、単に「農場」「田舎の商店」にすぎないというのだ。

ヨーロッパ側視点から見れば、南部アメリカは、「奴隷という、給料を払わなくてすむワーカー」を導入させ、「ヨーロッパのための綿花」を生産するプランテーションを運営させ、収穫を安く買い取る、「ヨーロッパのための奴隷農場」だ。ならば、奴隷農場の主人、つまり「奴隷の主人だった南部のアメリカ白人」の評価にしても、「奴隷という安価すぎる働き手を与えて、ヨーロッパのために綿花を栽培させている、ヨーロッパのための畑の『管理人』」に過ぎない。

人間(奴隷)から貴金属、農産物まで、ありとあらゆるモノを仕入れて店頭に並べ、商売をし、稼いでいる「市場」(=ヨーロッパ)にとって、綿花やタバコを仕入れる産地のひとつ(=南部アメリカ)が、あくまで仕入先のひとつに過ぎないのは当たり前だ。市場が南部アメリカから綿花を買うのは、「奴隷という給料を払わなくていいワーカー」を使って経営している南部アメリカの綿花価格水準が相対的に安いからに過ぎない。


そして重要な点は、ヨーロッパが、例えば南部アメリカから綿花を買う「代金」は、アメリカ、アフリカとの三角貿易そのものから生じるわけではなく、三角貿易の「外部」からもたらされることだ。これは日本人視点から見たアメリカの歴史を、ものおじせず、きちんと掴むという意味でとても大事な視点だ。

市場であるヨーロッパが、ヨーロッパのための農場である南部アメリカ、農場のための人材確保場所であるアフリカとの三角関係にあたって支払う代金の、「もともとの出どころ」には、「ヨーロッパと、銀を生産し銀で決済するアジアとの間の交易」が深く関係している。
言い方を変えると、「ヨーロッパ・アジア間の交易」にまったく触れないまま、ヨーロッパ、アメリカ、アフリカ、三者の貿易の説明でとっかかりの話題が終わってしまうようなアフリカ系アメリカ人の「ありがちな通史」は、「都会の人間が、南部アメリカという田舎の商店でやっている買い物を、まるで世界のすべてでもあるかのように語っている」のと変わりない面がある。
そんな狭い観点で語っていれば、話題は最後には「加害者と被害者」という通俗的な道徳話に行き着かない。


当時、既にアジアは、けして綿花とタバコだけを輸出していた奴隷農場のような貧困なビジネスをしていたわけではなく、また、人身売買の悲惨な舞台だけ提供する奴隷市場でもなくて、きちんと交易のバックボーンとなる貴金属類を生産しつつ、自分のところの産品を売り、なおかつ、相手の産品も買うという、売りと買い、両方のできる場所、つまり、きちんと自立した市場参加者だったのであって、けして隷属などしていなかった。
後になってアメリカが自動車産業の勃興などによって徐々にヨーロッパのヘゲモニーから脱していった後も、綿製品、自動車、通信、コンピューター、それぞれの時代のメイン商品について、アジアがそれなりのオリジナリティを全て失ったことは、ほとんどない。

ヨーロッパに旅行したアメリカ人が蔑まれることがあるのは、ヨーロッパのための奴隷農場の雇われ管理人として「三角貿易を通じてしか世界を知らないアメリカ人」の側は全く意識しないとしても、アメリカの主人として綿花を買い取るだけでなく、「全世界からあらゆるモノを買いつけることで、世界を知っていたヨーロッパ」の側では、「全世界を相手にしてきたヨーロッパ視点から見た『アメリカの小ささ』を、ヨーロッパ側で、けして忘れることがない」からだ。
それは、花の都パリで、わかりもしないオペラを見て、休憩時間になっても席を立とうともしないペアルックのアメリカ人が、砂糖とコーンスターチの食べ過ぎで太っている、その太った外見が原因ではない。


アフリカ系アメリカ人に対して強権をふるうアメリカが、アメリカの全てではないが、三角貿易がまるで当時の歴史のメインストリームででもあったかのようにふるまってみたところで、実際には、どうみても「当時の南部アメリカは、単にヨーロッパ経済のサブシステムのひとつに過ぎなかった」としか言いようがないことを消せるわけではない。

damejima at 19:58

July 07, 2012

資料によれば南北戦争までアフリカ系アメリカ人の約90%は南部に住んでいたが、北軍の勝利によって移動の自由を得た彼らの一部は、北東部を皮切りに、中西部、西部へ移住を開始。このGreat Migrationと呼ばれた移住現象は、その後1970年代まで続いた。(もちろん南部のアフリカ系アメリカ人全員が移住できたわけではない。1910年以降の15年間で北部移住を果たしたのは全体の1割程度という資料もある。だが、たとえ1割でも自分の意思で移住できるようになったことは、獲得した最初の自由の最初の使い道としては十分な成果だった)

その結果、アメリカ北部の大都市、たとえばシガゴ、セントルイス、ボルチモア、フィラデルフィア、ピッツバーグ、オマハ、ニューヨーク、といった街で、後にはロサンゼルス、シアトル、ポートランドで、アフリカ系アメリカ人の人口は爆発的な増加をみせた。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年7月3日、「父親」とベースボール (2)南北戦争100年後のアフリカ系アメリカ人の「南部回帰」と「父親不在」、そしてベースボールとの距離感。

一方で、時期を同じくしてSuburbanization(サバーバナイゼーション、郊外化)、つまり、大都市の都心に住んでいた人々の郊外流出が起こった。(ここでいう郊外とは、アメリカ英語でいうsuburb。ちなみにイギリス英語のsuburbには、北米的な意味は無い)
主に欧州系白人の郊外移転によって郊外開発が進んでいき、郊外から都市中心部へ自動車や鉄道で通勤するライフスタイルが定着する一方で、都市にはアフリカ系アメリカ人などの低所得世帯が密集し、周囲との交流が隔絶された住宅地である「インナーシティ」が形成されるなど都市問題は複雑化していき、都心部の荒廃は進んでいったが、高収入層の減少した都市では税収不足が深刻化して対策は常に立ち遅れた。

Levittown,NewYork
Levittown
William Levitt(ウィリアム・レヴィット 1907-1994)の設計によって建設されていった郊外型の住宅地、レヴィット・タウン。第2次大戦後、1950年代に退役軍人や労働者向けの住宅として、ニューヨークやフィラデルフィアなどで大量生産された。『パパは何でも知っている』『名犬ラッシー』『アイ・ラブ・ルーシー』など、1950〜60年代の有名なシチュエーション・コメディは、サバーバナイゼーション以降のレヴィット・タウンに代表される「郊外での欧州系白人の暮らし」を前提にして描かれていることが多い。

Pruitt-Igoe
Pruitt-Igoe (プルーイット・アイゴー)
シアトル出身の日系アメリカ人建築家ミノル・ヤマサキによって、ミズーリ州セントルイスに建設された、都心のスラム再開発のための集合住宅。都心再開発の典型的失敗例といわれている。ちなみに、ヤマサキ氏は、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の舞台となったワールドトレードセンタービルの設計者でもある。


レヴィット・タウンのような新興住宅街の開発によって、郊外ばかりが発展していく流れの中、南部から北部に移住してきたアフリカ系アメリカ人は都市内部の片隅に追いやられていく。彼らは、ヨーロッパからの移民のように、技術を要求される給料のいい職に就くことはなかなかできず、例えばニグロ・リーグの伝説的投手サチェル・ペイジがアラバマの少年時代に鉄道の駅で客の荷物を運ぶポーターをやっていたように、もっぱら低賃金の単純な仕事にしか就けなかった。
彼らは、アジア系、アイルランド系、イタリア系、ユダヤ系などが持っているような、同じ民族同士の横のつながりによって雇用を保持していくような互助会的組織が存在しなかったため、やがてコミュニティ崩壊をきたしてしまい、その結果、ますます低所得階層として都市の低家賃地域に固定化されて居住せざるをえなくなっていった。

リロイ・サチェル・ペイジ

日本のWikiに、クリーブランドの殿堂入り速球投手ボブ・フェラーが「サチェルの球がファストボールだとしたら、俺のなんてチェンジ・アップだ」と発言したと記述されているが、これは間違い
正しくは、セントルイスの永久欠番投手 Dizzy Deanの "Paige's fastball made his own look like a changeup" という発言がオリジナル、それをスポーツ・イラストレイテッド誌のJoe Posnanskiが2010年のコラムで引用した。

サチェル・ペイジ(左)と、ジャッキー・ロビンソン
サチェル・ペイジ(左)と、ジャッキー・ロビンソン



欧州系白人の郊外流出という現象について、多くのサイトでは、いまだに「南部から北部に大量に移住してきたのアフリカ系アメリカ人との混住を嫌った都市部の欧州系白人が郊外に逃げ出す「white flight(ホワイト・フライト)」が起きたことで、大都市の都心部が荒廃した」と、欧州系白人の郊外流出と大都市の都心部の荒廃をアフリカ系アメリカ人のGreat Migrationのみに直結させて、都市のスラム化の責任をアフリカ系アメリカ人に押し付ける記述が少なくない。

だが、そうした断定は、まったくもって正しくない

アメリカの大都市都心の荒廃に対する移民の影響は、たとえGreat Migrationの影響も少なからずあるにしても、南欧や東欧などヨーロッパから来た白人系移民の影響などもあって、複合的な原因がある。
また、そもそも人口の郊外流出そのものが、本質的には、単に都市の自然な成長サイクルのひとつであるSuburbanizationであり、それを人種問題のせいにするだけで説明できるものではない。そして、white flightの古くからある定義からも間違っている。


詳しく言えば、まず第一に、
都市からの脱出(urban exodus)、つまり、都市中心部から郊外への人口移転が起きるのは、都市の自然な成長サイクルや、政策的な郊外開発によるものであって、人種問題だけを原因として説明する手法は間違っている。
アメリカでは、土地を細かい区域に分け、それぞれの利用目的を厳しく規制するゾーニングという手法などによって、意図的、政策的に郊外開発が促進される一方、1956年の「高速道路法」などによって郊外から都心への道路整備も促進された。
だから、仮に人種問題が全くなかったと仮定したとしても、欧州系白人の郊外流出は進んだとみるのが自然な流れだ。いくらアメリカにはアメリカの特殊事情があるといっても、20世紀の都市の自然な成長プロセスにおいては、人口の郊外流出を、人種問題だけのせいにすることはできない。

例えば、「モータリゼーション」という現象は、植物が成長して自然と花が咲くように、GDP(国民総生産)が一定レベルの数値に達すると、どんな国でも起きる現象で、経済発展を経験すればいやおうなく経験する自然なサイクルのひとつに過ぎない。「モータリゼーション」は道路の発達バランスと無関係に起きるため、渋滞や排気ガスなど社会問題を招きやすいが、だからといって、自動車そのもの罪ではない。
同じように、都市の成長過程における「サバーバナイゼーション」(日本風にいえばドーナツ化現象)は、その国の経済発展と都市の成長サイクルから必然的に起きる現象のひとつに過ぎない。
19世紀までのギルド的都市では、都心部に手工業者の住宅が集中するが、20世紀になると、郊外から都心のオフィスにクルマや鉄道で通勤するようになる。これは産業革命後の経済発展によって都市への人口集中がより強化され、さらに収入の安定から中流家庭が大量に形成され、彼らが郊外に資産を購入すると、都心部の土地の社会的役割が「住宅地」から「オフィス街」へと変貌するからだ。
例えば、江戸時代の東京の中心部は住宅密集地だったが、高度経済成長とともに地価が上昇し、都心住民と店舗は郊外移転を余儀なくされ、千代田区、中央区など都心部の夜間人口は激減した。


第二に、
white flightのもともとの定義からして、「アメリカ北部大都市における欧州系白人の郊外流出」という現象だけを指してwhite flightと呼ぶのは、間違いだ。
white flightと名付けられた現象のもともとの定義は、気候が厳しいアメリカ北西部や中西部から、気候の温暖なカリフォルニアや、フロリダなどに移り住む現象を指していただけであって、古い定義のwhite flightは、アフリカ系アメリカ人の移住や人種問題とは無関係だ。
また、white flightと呼ばれる広義の白人移住現象にしても、アメリカだけで起きた現象ではなく、東ヨーロッパから南アフリカまで、さまざまな国でもみられる。
White flight - Wikipedia, the free encyclopedia
アメリカの大都市で、地元の白人系住民が郊外に流出していく原因のひとつが、移民との摩擦であるにしても、なにも南部出身のアフリカ系だけが原因とは限らない。他にも、ヒスパニック系白人の移民、アイルランド、南欧、東欧からの欧州系移民、人種差別政策の終焉による南アフリカからの白人系移民など、白人系もさまざまな理由でアメリカに移住して雇用を奪いあっており、それぞれが多かれ少なかれ移民問題を生じさせている。(例:古くは19世紀末に文盲率が高かったイタリア系などカソリック系移民との対立、近年ではアリゾナにおけるメキシコなどヒスパニック系移民と白人保守層との対立)


第三に、
たとえアメリカ北部大都市における欧州系白人の郊外流出が、Great Migrationの影響によって助長された面があったにしても、人種問題を悪用して、郊外の住宅地の発展で儲けようとしたデベロッパーの悪質な商法の存在は無視できない。
例えば、イリノイ州シカゴで始まったといわれ、1970年あたりまで全米各地で横行したといわれるBlockbusting(ブロックバスティング)という強引な不動産販売手法は、まずデベロッパーがアフリカ系アメリカ人に金を渡して白人系住民が大多数を占めるエリアをわざとウロつかせ、白人が嫌気がさして郊外移転を決断するのを待って、その家や土地を買い取り、その不動産を、あろうことかアフリカ系アメリカ人に売りつけるという、なんともあくどい商法だった。また、アフリカ系住民をわざと白人地区に住まわせ、周囲の土地を売らせるという悪どい不動産商法も存在していたらしい。

Robert Mosesサバーバナイゼーションの例:
ニューヨークの都市計画を担当したRobert Mosesは、移民の多いクイーンズ地区に、シェイ・スタジアムリンカーン・センターなどの「ハコモノ」、ブルックリン・ブリッジのような橋、数々のトンネル、スラム街を潰して作った高速道路などの計画と設計を指揮。ニューヨークに、「郊外から通勤する時代」をもたらした。
資料:ご案内:NYを彫刻した男−「ロバート・モーゼズ」


最近ではすっかり名前を聞かなくなったジム・ジャームッシュの1984年作品に、ニューヨークに住むハンガリー移民2世の若者がフロリダを目指す『ストレンジャー・ザン・パラダイス』という映画がある。
主人公の両親はクリーブランドに住むハンガリー移民で、その息子は寒いニューヨークから暖かいフロリダへの移住を夢見ている。この親子2種類の「移住」こそ、まさに元来の意味のwhite flightであり、両親は「貧しい東欧から豊かなアメリカへの逃避」というwhite flight、息子は「寒い土地から暖かい土地への逃避」というwhite flightだ。
東欧系移民の多いことで知られるクリーブランドやピッツバーグのような北東部の工業都市には、第一次世界大戦や、南部のアフリカ系アメリカ人のMigrationよりも前の時代から、ヨーロッパ系白人が数多く移民してきた歴史がある。(例えば、ピッツバーグ生まれのアンディ・ウォーホルの両親も旧チェコスロバキアからの移民)
この親子2つの移住、どちらも、まったく古めかしい「サバーバナイゼーション完了以前の昔のアメリカ」であり、アフリカ系アメリカ人のシリアスな人種問題とも、サバーバナイゼーション以降の欧州系白人の郊外生活における家庭崩壊とも、まったく関係がない。

この映画の公開当時のジム・ジャームッシュの評価は、その後長続きしなかった。たしかに今見ても、あの映画は映像と音楽の綺麗な「ゲージュツ」ではあるが、テーマのエグさ、現代性は、まるでモノ足りない。
かつてジャームッシュが描いた「昔ながらの牧歌的なwhite flight」には、例えば『アメリカン・ビューティー』、『ヴァージン・スーサイズ』、『ファイト・クラブ』のような作品群(3作品とも1999年公開)が描き出したような「現代アメリカの郊外生活のエグさに、ズブっと突き刺さるシャープさ」は、全く見あたらないのである。
そういう意味では、『ファイト・クラブ』に登場する荒廃した家、『パニック・ルーム』(2002年)に登場する隠れ部屋と、「家というものが持つ、独特の神経症的な不気味さ」を撮り続けてきたコロラド州デンバー生まれのアメリカ人デヴィッド・フィンチャーのリアルさと社会性のほうが、ヨーロッパ移民の子孫であるジャームッシュの個人的な芸術への憧れよりも、よほど「サバーバナイゼーション経験後のアメリカ」を描写することに成功していて、今に至るまで賞味期限を継続できている。

『ファイトクラブ』に登場した家
『ファイトクラブ』に登場した、といわれる家。オレゴン州ポートランドにあるらしい。詳細はよくわからない。

damejima at 14:11

July 04, 2012

「なぜ近年のMLBで、アフリカ系アメリカ人が減少しているのか」、という話について書いてきている。
その答えのひとつは、アフリカ系アメリカ人における「シングルマザーの多さ」にもあると、考える。アメリカにおける人種別のシングルマザー率は、アフリカ系が最も高く、なんと70%を越えるというデータがある。

Nationally, in the late 1800s, percentages of two-parent families were 75.2 percent for blacks, 82.2 percent for Irish-Americans, 84.5 percent for German-Americans and 73.1 percent for native whites. Today just over 30 percent of black children enjoy two-parent families. Both during slavery and as late as 1920, a black teenage girl's raising a child without a man present was rare.
Welfare state fosters a race to the bottom | The Columbia Daily Tribune - Columbia, Missouri

資料:アメリカのいわゆる「未婚の母」による出生率をグラフ化してみる:Garbagenews.com

70%超というシングルマザーの率は、日本人的な感覚からすれば途方もない高い率だ。だが、ここでアメリカの出生率データをいくら書きつらねても、MLBでアフリカ系アメリカ人が減っていることの社会背景を探る上では、まったく意味がない。

むしろ大事なのは、アフリカ系アメリカ人の置かれた現状は、日本人が学校の教科書に書かれた記述から脳裏に植え付けらてしまう「ステレオタイプの黒人イメージ」とは違うのだということから始めないといけないということだ。
特に、2000年以降の10年間におけるアフリカ系アメリカ人の人口動態は、南北戦争以降、2000年までのアメリカの歴史の流れとは、まるで違う流れであること。この点に、十分意識をおいて考えていく必要がある。

もし、アフリカ系アメリカ人の置かれた現状に、理解やシンパシーを持たないままだと、単純に、「シングルマザーがあまりにも増えたために、アフリカ系アメリカ人家庭は、どこも生活資金にゆとりがない。そのため、ただでさえ金のかかる野球では、奨学金がフットボールやバスケットと比べて少ないせいもあって、野球選手になりたがるアスリートが著しく減ってしまった」などと、短絡してしまう恐れがある。
参考資料:ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年6月11日、MLBにおけるアフリカ系アメリカ人プレーヤーの減少について書かれたテキサス大学ロースクールの記事を訳出してみた

そもそも、中流家庭においてだけ見れば、アフリカ系と欧米系白人の年収差は、2000年以降かなり縮小傾向にあったし、またアフリカ系アメリカ人でシングルマザー率が高いのは、なにもこの10年に急に始まったことではない。もちろんアフリカ系アメリカ人の問題点は、中流家庭への離陸を果たした層ではなく低収入層にあるわけだが、だからといってシングルマザー家庭の家計のアラ探しをしても、本質は何も見えてこない。
アフリカ系と欧米系白人の年収比較(中流家庭)
What Caused the Decline of African-Americans in Baseball?
アフリカ系と欧米系白人の中流家庭の年収比較



2000年以降のアメリカの人種別の人口動態については、「数」という面から、以下のいくつかのポイントがある。
総じていえるのは、アフリカ系アメリカ人は人口として安定期を迎えている、ということだ。 (アフリカ系アメリカ人は子沢山」とか、そういうカビのはえた古い偏見を持つ人は、もうとっくに絶滅しているとは思いたいが、どうだろう)
・アメリカの1歳以下の乳児全体において、「マイノリティ」のパーセンテージが、初めて白人を上回ったように、マイノリティの人口増加は、欧米系白人の人口増加を越えはじめた
資料記事:ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年5月18日、「アメリカでの非白人比率の増大傾向」と、「MLBプレーヤー、ファン両面の人種構成の変化」との複雑な関係。

現在のマイノリティ人口増加をもたらしている原動力は、ヒスパニック系の人口増であって、アフリカ系ではない

アフリカ系の出生率は、昔と違って、現在は欧米系白人並みに低い
資料:図録▽米国の人種・民族別合計特殊出生率


次に、アフリカ系アメリカ人が集中する「居住エリア」については、以下のような特徴がある。
南北戦争後に始まった北部や西部への移住、Great Migrationはたくさんのサイトで紹介されているが、近年の特徴はむしろGreat Migrationと逆方向の「南部回帰」であり、この点の指摘は日本ではまだ十分ではない。
・南北戦争後、北へ(後には西へ)移住するアフリカ系アメリカ人が多数みられ、Great Migrationと呼ばれた
Great Migration (African American) - Wikipedia, the free encyclopedia

・だが、近年はむしろ逆に「南部回帰」がハッキリしてきている(資料はUSセンサスなど Allcountries.org Country information - Table of Contents

・その結果、アフリカ系アメリカ人の居住エリアは、アメリカ南東部の大西洋岸に非常に集中し、Black Beltなどと呼ばれている

Black Belt
=アフリカ系アメリカ人が集中するアメリカ南東部をさす
(色の濃い部分が居住率の高いエリア)

アフリカ系アメリカ人の集中するBlack Belt
DMVFollowers
Black Belt (U.S. region) - Wikipedia, the free encyclopedia



ここでまず、南北戦争についてのよくある誤解について、いくつか確認しておかなければならない。

南北戦争」というと、どうしても教科書的イメージから抜け出せず、「自由をスローガンに掲げる正義の味方である北軍が、奴隷制に固執する悪の巣窟である南軍を、華々しく打ち破った」などというステレオタイプなイメージを抱く人が少なくないわけだが、アメリカ史に詳しい人ならわかっている通り、実際には、そんな単純な話ではない。

南北戦争時の州別の奴隷制状況
濃い青=北軍
うすい青=北軍だが、奴隷制を容認していた州
赤=南軍

例えば、北軍にも奴隷制を支持していた州がある
上の図の薄い青色で示したデラウェア、ケンタッキー、メリーランド、ミズーリ、それにバージニア州西部(のちのウェストバージニア州)の各州がそれにあたり、これらの州はborder states(境界州)と呼ばれた。

また、外国貿易において自由貿易を目指していたのは、ヨーロッパとの自由交易を目指していた南軍のほうであり、北軍はむしろ保護貿易主義だった。
「北軍=自由」という図式は、単なるステレオタイプのイメージに過ぎない。


1863年に奴隷解放宣言が成立したとき、アフリカ系アメリカ人のおよそ90パーセントは奴隷制をキープする南部に住んでいたが、南北戦争が終結して以降は、1910年代から1970年代にかけ累積で約600万人がアメリカ北部や中西部、さらに西部へ移住したといわれている。(この600万という数は、700万人といわれる大量のアイルランド移民総数に匹敵する数字)
これが、いわゆる「Great Migration」だ。
Great Migration (African American) - Wikipedia, the free encyclopedia


と、まぁ、ここまでは、
どこでもよく聞くアメリカ史の説明だが、ここからが違う。


1920年代という時代は、MLBが、というか、野球というスポーツが、ニューヨークからアメリカ東部一円に拡大していった時代だ。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (1)エベッツ・フィールド、ポロ・グラウンズの閉場
その1920年代は同時に、アフリカ系アメリカ人のGreat Migrationによって、シガゴ、セントルイス、ボルチモア、フィラデルフィア、ピッツバーグ、オマハ、ニューヨークなどの大都市で、アフリカ系アメリカ人の人口が爆発的に増加した時代でもある。
都市に移住したアフリカ系アメリカ人は、後に複雑な経緯を経て、都市内部に「ゲットー」あるいは「ハーレム」と呼ばれるアフリカ系アメリカ人居住エリアを形成し、新たな辛酸を味わいつつも、ジャズなど、都市のアフリカ系住民独自の文化を熟成していった。

アフリカ系アメリカ人の南部脱出は当初、南のミシシッピから北のシカゴへ、南のアラバマから北のクリーブランドやデトロイトへという移住パターンに代表されるように、北部移住がメインだったが、もっと後の時代になると、ミシシッピ、ルイジアナ、テキサスから、カリフォルニアへというように、西への移住も進んだ。
1940年代から1960年代にかけて、ロサンゼルス、シアトル、ポートランドといった西の太平洋岸の都市では、アフリカ系アメリカ人コミュニティの人口が数倍にも膨れ上がった。(資料:The Black Migration - The Road to Civil Rights - Highway History - FHWA
1958年のドジャースとジャイアンツのニューヨークから西海岸への移転が行われたのは、こうしたアフリカ系アメリカ人の西海岸移住が進む時代の真っ最中だった。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。

シガゴ、セントルイス、ボルチモア、フィラデルフィア、ピッツバーグ、ニューヨーク、クリーブランド、デトロイト、ロサンゼルス、シアトル。こうしてGreat Migrationを受け入れた大都市を列挙していくと、すぐにわかることだが、Great Migrationによって南部のアフリカ系アメリカ人が大量に移住した先の大都市の大半に、現在MLB球団が存在する
さらに言うと、メジャーリーガーを数多く輩出した州の歴代ランキングでは、かつて南北戦争で北軍側に属していた州が多い
つまり、詳しい理由はわからないが結果的に、MLB球団が存在し、同時に、過去にアメリカ人MLBプレーヤーをたくさん輩出してきた出身州は、そのかなりの数が、南北戦争当時に北軍、それも、奴隷制を容認していなかった北軍側だった州が多いのである。(そして不思議なことに、奴隷制を容認していた北軍の州からは、それほど多くのMLBプレーヤーが誕生しておらず、MLB球団も少ない)

MLBプレーヤーの出身州(歴代)
色の濃い州ほど、たくさんのMLBプレーヤーが出ている
MLBプレーヤーの出身州(歴代)



ここまでの大雑把すぎる資料のみを根拠に、完全に断定するわけにもいかないのだが、それでも、以下のような推論は成り立つと思う。

中世ドイツの都市法には「都市の空気は(人を)自由にする」という有名な言葉があったわけだが、南北戦争前にはその大半が南部に住んでいたアフリカ系アメリカ人は、南北戦争後のGreat Migrationによって、北部(あるいは西部)に移住することで、「ベースボール」という「アフリカ系アメリカ人にとっての新しい文化」に親しむための、自由と機会と収入を得た。

南北戦争当時に南軍に属していた州には、今もMLB球団の存在しない州が多い。また逆に、Great Migrationによって移住した先の北部の大都市の大半にMLB球団がある。
このことからして、
南部から、北部や中西部、さらには西部への移住であるGreat Migrationが、アフリカ系アメリカ人と、ベースボールとの最初の出会いを生み、その経験がやがて成長し、多数のアフリカ系アメリカ人がMLBの観客になり、さらにアフリカ系プレーヤーの大量出現にもつながった
のは、ほぼ間違いないと考える。

イースト・ハーレムの空き地で野球をする子供たちPlaying ball in a vacant lot in East Harlem, 1954.
by Ihsan Taylor, Published: December 3, 2009

Holiday Books - 'Baseball Americana - Treasures From the Library of Congress' - Review - NYTimes.com


もちろん、アフリカ系アメリカ人とベースボールの接点を語るにあたっては、1920年に創設された「ニグロ・リーグ」の存在を抜きに語るわけにはいかないわけだが、1947年にジャッキー・ロビンソンがメジャーリーガーとなった一方で、1948年にニグロ・ナショナル・リーグが解散していることから推し量ると
20世紀中期以降のアメリカで「ベースボールの観客とプレーヤー、両面における人種混合」を実現させる起点になったのは、MLBでの人種混合に否定的だった初代コミッショナーのイリノイ州判事 Kenesaw "Mountain" Landisが1944年に執務中に急死したなどという表面的なことではなくて、ここまで説明してきたように、1920年代以降のGreat Migrationによって、アメリカ北部の大都市に南部からアフリカ系が大量に移住したことにあり、さらに1940年代末のジャッキー・ロビンソンのドジャース入団を経て以降は、人種混合がさらに急速に進んだ
のは、たぶん間違いない。(だからこそ、逆に言えば1940年代末にアフリカ系アメリカ人専用リーグが存在する意味と経営基盤がなくなることによって、ニグロ・リーグがその歴史的役割を終えたといえる)
ニグロ・リーグの球団のひとつ、Pittsburgh CrawfordsPittsburgh Crawfords(1935)



では、もし「南北戦争後のアフリカ系アメリカ人の大規模移住、Great Migrationが、人種混合ベースボールの強固な基盤を生んだ」という仮定が正しいとすると、2000年以降顕著になってきている「アフリカ系アメリカ人の南部回帰」は、(どういう理由で回帰が進んでいるのかはわからないが)、ある種の「ベースボール離れ」を意味しているのだろうか?

自由や収入アップを目指し、北へ、西へと移住したアフリカ系アメリカ人だが、南北戦争当時、北軍側の州にも奴隷制度を容認していたエリアがあった事実からもわかるとおり、おそらく彼らは、たとえ北部に移住したからといって、人種差別を経験せずに済んだわけではなかった
つまり、いくら「都市の空気は人を自由にする」とはいっても、「都市の空気だけで必ずしも、アフリカ系アメリカ人のすべてが自由になれたわけではなかった」わけだ。
New York Timesによれば、2009年にニューヨークを出たアフリカ系住民44,474人のうち、半数以上の22,508人は南部への移住だったといい、アフリカ系アメリカ人が南部回帰が始まっている。これはいわば南北戦争後のGreat Migrationをなぞって言えば、逆向きのReverse Migrationと言える。
Census estimates show more U.S. blacks moving South - USATODAY.com

ニューヨークを出たアフリカ系アメリカ人の移住先Many Black New Yorkers Are Moving to the South - NYTimes.com
移民の多いクイーンズを出たアフリカ系住民のかなりの数が、南部への移住を選択している(左図)



野球好きの父親は、日本でもアメリカでも、子供を連れてボールパークに野球観戦に行き、子どもとキャッチボールをしようとする。
これは、星一徹星飛雄馬の親子がそうであるように、
父親という存在には、「ベースボールという文化を、親から子に伝える文化伝達者としての役割」があり、だからこそ、ケン・バーンズのドキュメンタリー "Baseball" でもわかるとおり、「ベースボールは、家族で共有する文化」である
と言えるのだと思う。

この「ベースボールという文化の伝達の一端を、家庭の父親が担ってきた」という観点から、「いま南部回帰現象に直面するアフリカ系アメリカ人家庭は、なぜベースボールという文化を移住前の街に置いてきてしまうのか?」という疑問に、多少の説明がつく。
つまり
家庭における父親不在」という現象と、「南北戦争以来の南部回帰」という2つの現象が重なることによって、ベースボールという文化が、家庭内で継承されにくくなる、という現象が発生している
という仮説だ。
日米の家族文化の違いを多少考慮しなくてはならないにしても、この仮説は十二分に成り立つと思う。

南部を脱出してみたものの、移住後のアフリカ系アメリカ人家庭では、どういう理由かまではわからないが、「家族という制度」が揺らでいき、その一方で、アスリートに対する奨学金制度において、野球がフットボールやバスケットボールに比べて相対的に冷遇されているという問題も重なってくれば、必然的に、「父から子へ、ベースボールを受け継いでいく」という「ベースボールの遺伝システム」が多少なりとも壊れてくるのは当然の帰結だろう。
もちろん、長引くアメリカの不景気によって、雇用がアフリカ系アメリカ人より給料の安いヒスパニック系にシフトしていることも、間違いなく影響しているだろう。この点については、テキサス大学の論文のとおり、メジャーリーガーが契約金の安いヒスパニック系だらけになるのと、意味は変わりない。


ここまで語ってきて、ようやく、アフリカ系アメリカ人家庭の置かれている現状と野球の関係が、多少はまともにイメージできてくる。
「MLBにおけるアフリカ系アメリカ人プレーヤーの減少」は、「野球は金がかかるから、やらない」とか、「シングルマザー家庭は、生活費が足りない」とか、テキサス大学のロースクールの論文が強く指摘していたごとくの、家計の問題だけで語りきれる小さな問題ではない。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年6月11日、MLBにおけるアフリカ系アメリカ人プレーヤーの減少について書かれたテキサス大学ロースクールの記事を訳出してみた


それはむしろ、
約100年前、奴隷から抜け出し、夢を描きつつ南部を出て、北へ、西へ、右往左往し続けてきたアフリカ系アメリカ人の100年もの間の長い道のりの中で、彼らが、住む場所を選び、学んで、職業を選択し、家族をつくり、家族を守りながらも、最後には、家族という大切な枠組みを失いかけているこの時代の趨勢の中で、どういう理由から「南部回帰」を決めたのかという、果てない問いだ。
少なくとも、この問いに少しくらい答えようとする姿勢がなければ、アフリカ系アメリカ人が南部回帰を始める中で、「なぜ彼らは野球から少し距離を置きつつあるのか?」という疑問に解答を得られそうにない。

もちろんそれは、こんな文字数程度で説明しきれる問いではない。アフリカ系アメリカ人が、なぜまた南北戦争以降暮らしてきた北や西の街を離れて南部に回帰したがるのか。
その理由は日本人には理解しがたい百人百様の理由があるのかもしれないが、少なくとも
「この100年間にアフリカ系アメリカ人家庭それぞれに起きた大小の出来事、その全てが、この10年で『南北戦争以来続いてきたアフリカ系アメリカ人と都市、アフリカ系アメリカ人とベースボールの関係』を変容させてしまいつつあるのが、今のアメリカだ」くらいのことは、見識として持っていていいのではないかと思う。


以降は、余談として、Suburbanization(サバーバナイゼーション)あるいはWhite Flightと、都市中心部の衰退、カンザスシティでビリー・バトラーマイク・スウィニーが取り組んできた都市中心部再生のための野球場づくりが「野球と都市市民とのつながりの再構築」にどういう重要性があるのか、とか、MLBが独自に行っている野球奨学金制度など、野球と人のつながりの再生に向けたさまざまな取り組みについて、ちょっとだけ書いてみる。
参考資料:ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年2月2日、Hutch賞を受賞したビリー・バトラーが「お手本にした」と語るマイク・スウィニーの素晴らしい足跡。スウィニーの苦境を救った「タンデムの自転車」。

damejima at 11:18

June 07, 2012

最近、MLBではアフリカ系アメリカ人(いわゆる黒人)プレーヤーが縮小傾向にあると、いわれることについて、何度も引用してきている。
USA Todayのある記事に言わせると(その記事の言い分を絶対的なものと信じてもらっても困るのだが)、アフリカ系アメリカ人プレーヤーの減少は、アフリカ系アメリカ人観客の減少を招いており、「2011年にMLBを見に来場してくれたアフリカ系アメリカ人の割合は、わずか9%に過ぎない」というマーケティング会社の調査があるらしい。
The lack of African-American players also affects diversity in the stands. Just 9% of fans who attended an MLB game last season were African American, according to a recent Scarborough Marketing Research study.
Number of African-American baseball players dips again – USATODAY.com

その一方で、これも何度も書いているように、ベネズエラドミニカなど、ヒスパニック系プレーヤーのウエイトは年々確実に重さを増していっている。(だが、だからといって「スタジアムにおけるヒスパニック系ファン数も急増した」とまで言えるかどうかは、手元に資料がないのでわからない)
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年4月5日、MLBのロスターの3.5人にひとりは、メインランド(アメリカ大陸の50州)以外の出身選手、というESPNの記事を読む。(出身国別ロスター数リスト付)

州別・1歳以下の乳児に占める非白人率
州別・乳児に占めるマイノリティ率


先日、アメリカで「1歳以下の乳児」に占める「非白人」のパーセンテージがついに「白人」より多くなったというニュースについて書いた。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年5月18日、「アメリカでの非白人比率の増大傾向」と、「MLBプレーヤー、ファン両面の人種構成の変化」との複雑な関係。
そしてこんどは、アメリカでアフリカ系アメリカ人の平均寿命が伸び、白人との平均寿命の差が縮小したというニュースを読んだ。これもMLBのおかれた環境を知る上で、なかなか面白い。

男性
白人    75.3歳 → 76.2歳
アフリカ系 68.8歳 → 70.8歳
両社の差  6.2歳 → 5.4歳

女性
白人    80.3歳 → 81.2歳
アフリカ系 75.7歳 → 77.5歳
両社の差  6.0歳 → 3.7歳
米国で黒人の平均寿命伸びる、白人との差が縮小=調査 | 世界のこぼれ話 | Reuters


ただ、このニュース、ちょっとだけ気をつけてほしい点がある。

日本の新聞社などにこのニュースを配信したのは、大手通信社のロイターだが、この現象の社会背景の解説として、「エイズや心臓病で死亡する黒人の数が減少した一方、ドラッグの服用などで死亡する白人若年層が増加したことが背景にあるとみられている」と、通信社側の解釈を元に文章をつけくわえているのは、いただけないことだ。
これではまるで、あたかも「白人の麻薬中毒死の増加」が、「近年のアフリカ系アメリカ人と白人の寿命格差縮小の大きな要因のひとつである」かのように読めてしまう。
だが、そうした説明は、ロイターの配信の元ネタであるアメリカの医学誌JAMAの記事、およびJAMAの記事が引用しているCDCのデータの内容と、必ずしも一致しない。


数字を見れば明らかなように、白人とアフリカ系アメリカ人の平均寿命の差が縮小したのは、なにも白人の寿命が急激に短くなったから起きたわけではなく、アフリカ系アメリカ人の平均寿命、特に女性の平均寿命が「伸びた」ことによる。
アフリカ系アメリカ人の平均寿命の「伸び」の長期的な社会背景は、エイズによって死ぬ人数の減少などという短期的なことより、近年アフリカ系アメリカ人に医療保険を受けられる人が増えたことが大きい、とする説明のほうが、はるかに説得力も合理性もある。

ちなみにアメリカは、世界の平均寿命ランキングにおいて世界40位前後らしいが、日本やヨーロッパに比べると、新生児や幼児の死亡率がかなり高い。
世界保健機関(WHO)の2011年5月13日発表データによれば、日本の新生児死亡率はおよそ1000人に1人、幼児死亡率がおよそ1000人に2人と、ほぼ世界で最も良いレベルにある。また西ヨーロッパでも、新生児2人、幼児3人程度で、これは世界最高クラスの数字だ。
だが、アメリカでは、新生児4人、幼児7人と、子供たちの死亡率は高い。しかも、手元に資料がないのだが、下記の記事などによれば、同じアメリカ人でも、アフリカ系アメリカ人における新生児や幼児の死亡率は、さらに高いようだ。(なお、以下の記事は2007年と、ちょっと古いものであることに注意)
アメリカでは1,000人の新生児に対して6.8人が死んでいます。(中略)黒人の場合は13.7人が死んでおり、サウジアラビアと同じレベル。
亜米利加よもやま通信 〜コロラドロッキーの山裾の町から


日本は、かつて「人生50年」という言葉が存在していたように、第二次大戦前までの平均寿命が50歳を越えない状態が続き、アメリカよりはるかに下だった。
だが、第二次大戦後いわゆる「国民皆保険」を実現したことによって、戦後わずか20年しかたっていない1960年代には、アメリカを抜き去って、現在の世界最高レベルの長寿国への道を歩み出した。
こうしたほかならぬ日本の実例からしても、薬物中毒やエイズによる死者の減少よりも、「誰もが医療を受けられる医療保険制度の有無」が、人間の平均寿命に与える影響と即効性が遥かに大きいことは、明らかだ。
アメリカと日本の平均寿命推移
図録▽寿命の伸びの長期推移(対米比較)より引用


また、以下に示すように、元ネタになった医学誌記事が引用しているデータでいう「薬物中毒死」とは、必ずしも麻薬中毒によるものだけを指しているのではなく、「違法・合法を問わず、広い意味での薬物中毒死全体」を指している。
このニュースを読む人に、あたかもアメリカの白人に麻薬が蔓延し、バタバタ死んでいっているかのようなイメージを与えかねない解説を添付するのは、ちょっとやりすぎだと思う。

このニュースのオリジナルソースとなった記事(JAMA Network | JAMA: The Journal of the American Medical Association | Trends in the Black-White Life Expectancy Gap, 2003-2008)が発表されたのは、世界で最も発行部数の多い医学学会誌であるジャーナル・オブ・ジ・アメリカン・メディカル・アソシエーション (The Journal of the American Medical Association 略称JAMA 日本では『米国医師会誌』あるいは『米国医師会雑誌』などと表記される。1883年創刊)。
そして、JAMAに掲載された元記事がデータのソースとして引用したデータは、アメリカの疾病対策センター(CDC, National Center for Health Statistics Homepage)のデータである。

このJAMAの記事が示している引用元のひとつはいくつかあるが、以下のCDCの「薬物中毒=Drug Poisoning」に関する記事(リンク先)では、薬物中毒について、必ずしも「麻薬中毒 drug abuse」によるものだけを指しているわけではない。
In 2008, over 41,000 people died as a result of a poisoning.(中略)Drugs ― both legal and illegal ― cause the vast majority of poisoning deaths.
資料(pdf) CGC: Drug Poisoning Deaths in the United States, 1980–2008


damejima at 10:31

May 19, 2012

図1
アメリカの1歳以下の乳児全体に占める
「マイノリティ」のパーセンテージ

Census: Fewer white babies being born – In America - CNN.com Blogs
州別・乳児に占めるマイノリティ率


参考図
メジャーの球団所在地のバラつき
紫色で示した州:ア・リーグ、ナ・リーグ両方の球団がある州
ピンクで示した州:どちらかのリーグの球団だけがある州
MLBの球団所在地の州別のバラつき


図2
2011年オールスターで
前年より視聴率の上がった地域・都市

出典:ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年7月18日、去年より低かった2011MLBオールスターの視聴率 (2)700万票以上集めた選手すら出現したオールスターの「視聴率が下がる」現象は、どう考えても納得などできない。
2011年オールスターで視聴率の上がった地域・都市

図3
2010年ワールドシリーズで
テキサスとサンフランシスコのどちらが優勝するか
州別ファンの予想(赤色がテキサス)

ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年10月25日、東西を2分する2010ワールドシリーズの優勝チーム予想。
2010WS ESPN ファンの優勝予想(320ピクセル)



図1の元になった話題は、アメリカの1歳未満の乳児において、白人が初めて過半数を割り込んだという、アメリカ国勢調査局発表のニュースで、図は、CNNが、その国勢調査局発表データから州別の図に起こしたもの。非常に素晴らしい仕上がりである。
このニュースでいう「マイノリティ」、つまり「少数派」とは、ヒスパニック系、アフリカ系アメリカ人である黒人、日本人を含めたアジア系など、要するに、「白人以外」あるいは「有色人種」のことを指している。

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これだけ多様な人種が混在する多民族国家アメリカの居住者を、「白人」と「有色人種」、2つのカテゴリーのみに分類する観点もどうかと思うが、とりあえず、このニュースの観点では、アメリカの1歳以下の乳児における「マイノリティ」は、かつては「有色人種」を指していたわけだが、それがいまや「白人」になった、ということになる。
もちろん人口動態の傾向からして、今後ともこの有色人種増加傾向が継続されるのは間違いない。

言いたいのは、「有色人種万歳」などというレイシズムではなくて、このニュースだけに限っては、今までメディアで頻繁に使われてきた「マジョリティ、マイノリティ」という二分法を無理矢理あてはめながら物事を説明しようとすること、そのものに破綻が生じてきている、ということだ。

言い換えると、このニュースは「アメリカ社会においては、これまで頻繁に使われてきた「マイノリティという人種的なラベリング」が用をなさなくなりつつある」という話。
なのに、その「マイノリティという分類法が意味をなさないニュースにおいて、マイノリティという言葉を使って説明しようとしている」ことに論理的に無理が生じるのは、当然の話だ。
だが、まぁ、ここはそういうややこしいことを議論する場所ではない。詳しい議論は割愛しておく。

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さて、オリジナルのCNNのサイトの図では、各州の上にカーソルを重ねると、乳児だけでなく、各州における「1歳以下の乳児」「18歳以下」「人口全体」、3つのボリュームについて、州別に「マイノリティの人口比率」が右側に表示されるという、素晴らしい仕組みになっている。
野球関連メディアについてもいつも感じさせられることでもあるが、こういうちょっとした点に、アメリカのジャーナリズムの質の高さ、読者に理解しやすくする努力の姿勢を、ヒシヒシと感じさせられる。
ぜひ一度、オリジナルサイトを訪問して、この素晴らしい図の出来具合を体験してみることを勧める。

なお、オリジナルサイトのデータによれば、アメリカ南西部では、人口に占める非白人比率が、カリフォルニア州60%、テキサス州55%、アリゾナ州43%と非常に高いのに対して、ワシントン州28%、オレゴン州22%と、アメリカ北西部の州では、逆に、高い白人比率が堅持されていて、「同じアメリカ西海岸でも、南と北とでは、人種構成に大きな違いがある」ことが、ハッキリ理解できたりする。

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こうしたアメリカ社会の人種的な意味での変容のトレンドは、MLBも無関係ではないどころの騒ぎではなくて、いろいろな面で、非常に深い関係が出ている。また、今後はもっともっと色々な面で強く影響が現れてくるはずだから、この話は、日本のMLBファンの誰もが頭の隅に覚えておくべきニュースだと思う。

もちろんそれは、球団のマーケティングやチーム強化戦略について考えるときの基礎データとしての意味だ。人種意識をいたずらに煽ろうとするような、悪質な意図は全くない。それぞれの人が、それぞれの問題意識に照らして、上の図1-1を解釈したらいいと思う。
とにかく、単純な決めつけだけはしてもらいたくない。こういうことは常に自分で心しておかないと、いらない偏見だけが育つことになる。

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決めつけが良くないという例を、ひとつ挙げておく。

MLBでは、たくさんのベネズエラやドミニカの選手たちが活躍している、という記事を先日書いた。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年4月5日、MLBのロスターの3.5人にひとりは、メインランド(アメリカ大陸の50州)以外の出身選手、というESPNの記事を読む。(出身国別ロスター数リスト付)

だが、ベネズエラやドミニカの選手が多いからといって、MLBで、すべての「白人以外の選手」が全体として増加しているかというと、そんなことはないのである。
アメリカのスポーツメディアでは、アフリカ系アメリカ人、あるいは、かつて多かった中米プエルトリコ出身の選手たちが、減少しているという記事を最近よく目にする。

資料:MLBにおける「アフリカ系アメリカ人プレーヤー」の減少
Number of African-American baseball players dips again – USATODAY.com

Decline Of African-Americans In MLB Discussed As League Marks Jackie Robinson Day - SportsBusiness Daily | SportsBusiness Journal

資料:MLBにおけるプエルトリコ出身選手の減少
Puerto Rico Traces Decline in Prospects to Inclusion in the Baseball Draft - NYTimes.com

資料:増大するドミニカ出身選手の将来像分析と、MLBにおけるプエルトリコ出身選手の減少グラフ)
Baseball in Latin America: Draft dodgers no more | The Economist
ドミニカ、ベネズエラ、プエルトリコのMLB選手数推移


つまり、言いたいのは、
アメリカで、これまでマイノリティと呼ばれてきた人種の人口が増加傾向にあるからといって、それがそのままMLBにおける白人以外の選手や、白人以外のファンの増加傾向に直結していると決めつけてはいけない、ということだ。
何度もしつこく書いて申し訳ないが、単純に決めつけてはいけないのである。判断は、もっとさまざまなデータ、記事、事実などから、時間をかけて公平になされるべきだ。

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とはいえ、
最初に挙げた図1、図2の重なりを比較してみると、
図1、図2において、濃い薄い両面で、「ピッタリ重なる地域」が存在することは、否定できない。


つまり、
いくら「軽々しく断言することは間違った行為だ」とはいえ、さすがに大西洋岸と並んで、全米でも非常に野球の盛んな地域のひとつであるカリフォルニアからテキサスにかけてのエリア、つまり、MLBでいう「西地区」でのマーケティングにおいては、非白人の動向が無視できない、くらいのことは言っても問題ないだろう。(逆にいうと、アメリカ中西部と東部の内陸の一部における野球やプロスポーツへの関心の低さも)

ア・リーグ西地区3州における非白人比率(%)
      カリフォルニア州 テキサス州 ワシントン州
1歳以下    75        70      44
18歳以下   73        67      40
全人口     60        55      28

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ちなみに図2は、去年イチローが初めて落選したオールスターの選考プロセスがあまりにも納得がいかないことから記事を書きまくっていた時期に、自作したものだ。
だから、世界中どこのサイトを探しても、この図は落ちていない。気になったデータというものは、やはりとっておくものだと、つくづく思う。こんなところで繋がってくるとは正直思わなかった。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年7月18日、去年より低かった2011MLBオールスターの視聴率 (2)700万票以上集めた選手すら出現したオールスターの「視聴率が下がる」現象は、どう考えても納得などできない。

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あらためて確認しておきたいが、たった2つや3つのグラフから、単純に「MLBを支えているコアなファン層は、非白人層が中心だ」とか、「西海岸でのMLBチームのマーケティングで、非白人層の存在を十分考慮しないマーケティングは、間違っている」とか、単純に結論づけられるものでもない。
現実ってものは、そんな単純なものじゃない。

例えば、ファンにも様々なタイプがあることを考えてもわかる。
スタジアム入場料金の高さは、アメリカのメディアでもよく取り上げられるが、スタジアムに来るにしても、有料のケーブルテレビを契約して観戦するにしても、いずれにせよ、金はかかる。
中には、高額なシーズンチケットを購入して球団にお金を落としてくれるのに多忙で時間がなくスタジアムにあまり来られないファンもいれば、スタジアムに足しげく通いたいために高額な席を敬遠する層もいるだろうし、スタジアムには来ないが有料のケーブルテレビで毎日試合を観戦してくれる層もいれば、海外旅行のついでにスタジアムを訪れ、市街地でも買い物や食事で大金を落としていってくれる外国人もいる。ファンの形もさまざまだ。

だから球団運営についても、スタジアムの入場料収入やユニフォームの売り上げなどを重視するオーソドックスな考え方もあるだろうし、最近のエンゼルスやテキサスのように、ケーブルテレビから入ってくる超高額の収入をアテにしたチーム強化戦略をとる考え方もある。
非白人比率の高くなっているテキサスやカリフォルニアでの球団運営戦略として、ケーブルテレビを重視する球団運営は、非常に理にかなっていると思う)

どの観客層から、どんな収入を得るか、何を球団マーケティングの中心とみなすかは、地域差やチーム事情による違いがあるが、それぞれのチームの特性に応じた施策が必要なのは言うまでもない。

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少なくとも今の時点でシアトルに関して言いたいのは、
目を開けて、時代を見ろ、ということ。
年々相対的にレベルの低下していっているドラフト対象の白人プレーヤーの現状に目をつぶるかのように、ドラフトで獲得しまくり、ラインアップに若い選手を並べてみました、
というだけで、
アメリカ南西部の強豪に負けない強い球団をつくり、
しかも
スタジアムを満員にしていける、そんな時代ではない。
ということだ。

そんな甘い見通りなど、通用するわけがない。それは、いくら白人比率の比較的高いと「思われている」ワシントン州シアトルであっても、だ。
そんな「ヤワな策略」で、ケーブルテレビの高収入をもとに、あらゆる国から人種と価格を問わず、優れたスカウトマンが、優れた選手をかき集めてきて、優れたコーチが上手に若い選手を育成してメジャーに上げてくる西地区の強豪を凌駕できる、わけがない。

自分のいる場所の現状さえわからないようでは、ダメだ。
ワシントン州の人口に占める非白人比率は、現状たしかに28%と低いが、1歳以下の乳児に限れば、既に44%もの高率になっている。ワシントン州で近未来の非白人比率が高まるのは、確実だ。
モンタナやアイオワ、ワイオミング、ダコタのように、全体人口においても乳児においても白人比率が高く、そのかわり、MLBの球団が存在しない (ひいてはプロスポーツのマーケットそのものが無い)州とは、まるで事情が違うのだ。(だからといって、ベネズエラ人のフェリックス・ヘルナンデスでセーフコフィールドが満員にできているわけでもない。そこがシアトル独特の難しさだ)
時代の変化に目をつぶっている人間を置き去りにして、
時代は容赦なく変わっていく。


damejima at 11:40

March 22, 2012

サンフランシスコの名コラムニスト、ハーブ・ケインハーブ・ケイン

ワシントン州タコマ生まれの作家リチャード・ブローティガンの詩 『A Baseball Game』は、ドジャースとジャイアンツがニューヨークから西海岸に移転してMLB史の流れを大きく書き換えた「1958年」の2月に、当時彼が住んでいたサンフランシスコで書かれた。
2012年3月6日、「1958年の西海岸」という特別な年、特別な場所。リチャード・ブローティガン 『A Baseball Game』の野球史的解釈。 | Damejima's HARDBALL

ブローティガンは、ジャック・ケルアック(Jack Kerouac 1922-1969)などの「ビート・ジェネレーション」と60年代ヒッピーの中間に位置するなどと、よく位置づけられているわけだが、マス・メディアによって、ビート・ジェネレーションを指す「beatniks(ビートニクス)」という言葉が新たに作られたのも、ブローティガンが『A Baseball Game』を書いた1958年のサンフランシスコなのだから、やはりこの「1958年の西海岸」は、特別な年、特別な場所なのだ。


ちなみに、今日書きとめておきたいのは、beatniksという言葉が根本的に誤解されているという話だ。

簡単にいえば、ケルアックが作ったといわれる「ビート」と、メディアが作った「ビートニクス(あるいはビートニク)」という単語は、言葉がつくられた経緯も意味も、まるで180度違う言葉なのだ。このことをまるで理解しないまま「ビートニク」という単語を安易に使っている人があまりにも多過ぎる。


ビートニク」という造語をcoin(=硬貨を鋳造する、新しい言葉をつくる)したのは、サンフランシスコ・クロニクル(San Francisco Chronicle)で長年活躍し、ピューリッツァー賞(1996年Special Citation=特別表彰)も受賞している名コラムニスト、ハーブ・ケイン(Herb Caen 1916-1997)だ。
(ついでに言っておくと、「ビート」を揶揄する記事を書いたからといってハーブ・ケインの名誉や業績に傷はつかない。なぜなら、彼が記事で書いた「ビート族の粗野なふるまい」は、アメリカでもきちんと触れているひとは触れている「事実」だからだ。知らない人が無知なだけだ)

ハーブ・ケイン愛用のロイヤル社のタイプライター
ハーブ・ケイン愛用のタイプライター。ブログ主もひとつ所有している「ロイヤル社」製。サンフランシスコ・クロニクルに展示されている。


「ビートニク」という造語について知っておくべき最も重要なことは、それを発明したハーブ・ケインが、このbeatnikという単語を「見下した侮蔑的な意味」で使っているということだ。

「ビートニクという言葉はビートに対する侮蔑を意味する言葉として発明された」ことをまるで知らないまま、「ビート」と「ビートニク」を同じ意味の言葉と勘違いして、混同している人があまりにも多い。
困ったことに、ビート・ジェネレーション作家の作品のファンにすら、そういう人が掃いて捨てるほどいるし、また、ビートを見下す言葉として発明された「ビートニク」という単語を、ビート・ジェネレーションへのオマージュを表す言葉と勘違いしてバンド名やアルバムタイトルにつけて喜んでいる「アホなミュージシャン」すら日本には存在する。
(ハーブ・ケインは、この言葉を1950年代のソ連の人工衛星スプートニクから発想を得たといわれているが、なぜまたスプートニクになぞらえたかについては、もちろん理由がある。ちょっと時代背景を考えればわかるが、めんどくさいので書かない)


ケインがこの言葉を使った1958年4月2日の彼のコラムを見てみる。
彼は、当時のアメリカの有名雑誌、Look (1937年創刊、1971年廃刊)がサンフランシスコのノースビーチにビートを集めて開催したパーティの参加者を、まるで「エサに群がる野良猫」扱いして、冷やかにこう書いている。
"Look magazine, preparing a picture spread on S.F.'s Beat Generation (oh, no, not AGAIN!), hosted a party in a No. Beach house for 50 Beatniks, and by the time word got around the sour grapevine, over 250 bearded cats and kits were on hand, "

出典:Pocketful of Notes(=1958年当時のコラムを1997年にサンフランシスコ・クロニクルが再掲したもの。太字はブログ側で添付)
注:No. Beachとあるのは、サンフランシスコの北東部にある街、North Beach。ビート文学の中心地とみなされ、ケルアック、ギンズバーグの作品を出版したLawrence Ferlinghetti (ローレンス・ファリンゲティ 1919-)のシティ・ライツ書店(City Lights Booksellers & Publishers) もNorth Beachにある。




日本のサイトではいまだに、「ビートニクスは、ビート・ジェネレーションの別名」などと、ある意味間違った記述が平気でまかり通っている。あたかも「ビートニクス」という言葉それ自体が、ビート・ジェネレーションの作家の発明品かなにかででもあるかのように、「ビート」と「ビートニクス」は混同して扱われてきた。

この「ビートとビートニクス、意味の違う2つの言葉の混同」は、残念なことに、日本だけのでなくアメリカでも常態化しており、例えば「ジャック・ケルアックはビートニクスだ」などと、間違った用法をしていても、間違いに誰も気づかなくなってしまっている。
(なお、ジャック・ケルアック自身はこの「ビートニク」という言葉を自分でも使っていた時代があった。他方アレン・ギンズバーグは、この言葉をひどく毛嫌いしていた)


だが、「ビート」と「ビートニクス」を同じものとして扱うのは間違いだ。根本的なところが間違っている。


英語表記では、Beatは固有名詞として「大文字」からはじまり、beatniksは「小文字」ではじまる。2つの言葉の扱いが違うのには、意味がある。

誤解の起こる原因の大半は2つある。
ひとつには、beatniksという言葉を発明したのが、Beatという固有名詞やBeatのライフスタイルを生んだジャック・ケルアックでも、他のビート・ジェネレーションの作家や詩人でもなく、作ったのは、ビートのステレオタイプを離れた位置から冷やかに眺めていたマス・メディアのコラムニストであるハーブ・ケインであるのに、そのことを大多数の人が全く頭に入れないまま、この言葉を流通させてきたこと
2つ目に、ビート・ジェネレーションの作家・詩人たち自身が、この「ビートニクス」という単語にどんな違和感を感じ、どう異議を唱えてきたかという点が、この言葉が生まれて半世紀も経つ2012年の現在に至るまで追求されずにきたことだ。


ビートとビートニクという2つの意味の異なる言葉が長年にわたって混同されてきた結果、1950年代後半のファッション化した「ビート」、つまり、「ビートっぽい身なりとビートっぽい発言をして、やたらとビートっぽくふるまいたがる、ちょっとイカれた人たち」を指して「ビートニクス」と呼ぶようになってしまい、ますますビートとビートニクスの区別がつかない人が大量生産されていった

それが、リチャード・ブローティガンが『A Baseball Game』を書き、ハーブ・ケインがbeatnikという単語を発明した、「1958年のサンフランシスコ」という場所と時代の、ひとつの側面でもある。
つまり、「1958年当時すでにビートはステレオタイプ化しつつあった」のであり、若いリチャード・ブローティガンがその影響を受けなかったとは、とても思えない。


詩人アレン・ギンズバーグは、この「ビートニクス」という言葉についてニューヨーク・タイムズにthe foul word beatnik(『ビートニクとかいう不愉快な言葉』)というタイトルの文章を寄稿し、不快感を露わにしている。
ルーズさが持ち味のケルアックは「ビート」と「ビートニクス」という言葉を混同することがよくあったが、潔癖な性格のギンズバーグは、オリジナルな意味の異なるこれらの言葉を明確に区別して使っているのである。
"If beatniks and not illuminated Beat poets overrun this country, they will have been created not by Kerouac but by industries of mass communication which continue to brainwash man."
「もし、いわゆる『ビートニクス』や脚光を浴びたことのないビートの詩人たちがこの国を荒らした、とするなら、彼らの存在は、(ビートの生みの親である)ジャック・ケルアックが創造したのではなくて、人々を洗脳し続けているマスメディアの産物である。」
Beatnik - Wikipedia, the free encyclopedia


Beatの生みの親と言われているジャック・ケルアックの場合、「俺はビートニクスなんかじゃない。カソリックだ」という彼特有の言い回しによる有名なフレーズを残しているように、ビートニクスという言葉に対する違和感を主張したこともあるくせに、彼自身が「ビート」と「ビートニクス」という単語を頻繁に混同して使っている。(もっとも、彼に統一的な用語法や一貫性を求めるような律儀さ自体が無意味なわけだが)
"I'm not a beatnik, I'm a Catholic", showing the reporter a painting of Pope Paul VI and saying, "You know who painted that? Me."
Beatnik - Wikipedia, the free encyclopedia

"I watch television," he said, leading the way up the front step. "San Francisco Beat--- you know that television show with the two big cops. Two big plainclothes cops running around grabbing these bearded beatniks. On television, yeah. And the bearded beatniks always have guns and they're beatin' the cops." He chuckled and, still chuckling, added: "I never knew beatniks had guns.
「テレビ番組だとなぁ、ヒゲはやしたサンフランシスコの『ビート』とやらが、いつも拳銃を持ってんだよな。でも俺にいわせりゃ、拳銃持ってる『ビートニクス』なんて、ひとりも知らねぇ」
F:\column22.html



ちなみに「ビートとビートニクス、2つの言葉の根本的な差異」をきちんと指摘しているアメリカのサイトも、もちろんある。
The term Beatnik was coined by Herb Caen of the San Francisco Chronicle on April 2, 1958 as a derogatory term
「『ビートニク』という単語は、サンフランシスコ・クロニクルのハーブ・ケインによって、1958年4月2日に、見下した意味の用語として新たに作られた。」
Beatniks - The Beat Generation - Hippie


Ginsberg wrote of "the foul word beatnik" and claimed (probably rightly) that it was a media creation and not something he or the other beat writers were happy to be associated with.
「ギンズバーグは、『ビートニクとかいう不愉快な言葉』を書き、この言葉と関わりになることで、ギンズバーグ自身や、他のビートの文学者たちがハッピーだと思えるようなシロモノではないことを主張した。」
Kerouac and other beat writers tried to turn the term around and use it in a more positive manner
「ケルアックと他のビートの作家たちは、この用語の意味を転換させ、もっとポジティブな形に使われるようにしようと尽力した」
Voices Of East Anglia: Beatnik Generation


トルーマン・カポーティは、「テレビで、拳銃を持ったステレオタイプのビートが登場する」のを見て呆れたと話すジャック・ケルアックに、こう言ったそうだ。雑誌ニューヨーカーで働いた経験のあるカポーティらしい、短いがシャープな発言だ。
they don't write, they typewrite.
「やつらは、手で書いたりしない。
 ただタイプライターを打つだけなんだ。」

F:\column22.html


「ビートとビートニクスの差」は本来は、トルーマン・カポーティが言うように、新しいムーブメントを生み出す創造行為と、人のやることを見てタイプライターを打って記事を書くだけのメディアとの差」なのだ。
ビートとして創造的なリアルライフをおくることと、ビートについてメディアで遠回しに批評することには大きな差があるし、自分の頭と経験によって新しい文学を創造することと、世の中で起きることを眺めてタイプライターを打つことには大きな隔たりがある。


サンフランシスコで長く愛されたハーブ・ケインをけなしたくて、この文章を書くわけではない。
イチローがフィールド上でバットを振る仕事と、それを見てキーボードを叩くだけの仕事の間には、果てしれぬほど大きな差があるように、「ビートとビートニクスの差」くらい、わきまえて書き、「書くことそのものの労苦と、タイプライターを打って記事にすることの差」くらい、わきまえて語ってもらいたい。それだけの話だ。(といって、簡単にできることでもないが)

もっとシンプルに言うなら、ビートを気取りたいなら、せめてビートニクスとは名乗るな、ということだ。
(作家自身が「ビートニクス」という言葉を自称するようになったら終わり、というような意味のことを、たしかギンズバーグも言っていた)
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ボブ・ディランとアレン・ギンズバーグ
ボブ・ディランと何事か語るアレン・ギンズバーグ

damejima at 10:21

March 07, 2012

リチャード・ブローティガン(Richard Brautigan 1935〜1984)は、シアトル・マリナーズのマイナーが置かれているワシントン州タコマ生まれの作家、詩人だ。


彼の名は、文学ファンには、村上春樹氏などに影響を与えたことなどでよく知られているわけだが、野球ファン、野球メディアにはどうだろう。ほとんど知られていないと思う。(ちなみに、春樹氏はかつて神宮球場近くでジャズ喫茶を経営していて、野球観戦中に作家になることを決めたらしい)
地元の文学者とはいえ、シアトルローカルの野球ライターたちの書くものにブローティガンの名前が出ることは、おそらくないだろう。かつてスポーツ評論にも類稀な才能をみせた寺山修司三島由紀夫が、スポーツライターには到底書けない独特の筆致で、ボクシングなど様々なスポーツの興奮やドラマを描き出してみせたような才覚が、シアトルのビートライターたちにあるとは到底思えない。(例えば三島氏はかつて、ある褐色の肌のボクサーのことを、『ひたひたと押し寄せる琥珀色の波だ』と描写してみせた)


さて、ブローティガン作品に、彼が1958年にサンフランシスコでプラプラしているとき書かれた、9つのパートからなる『The Galilee Hitch-Hiker(ガリラヤのヒッチハイカー)』(1958年5月初版)という詩がある。
この作品の7番目のパートは『A Baseball Game』というタイトルで、フランスの詩人ボードレールが観戦したニューヨーク・ヤンキースとデトロイト・タイガースの試合で起こった架空のハプニングが描かれている。(日本語訳は、『チャイナタウンからの葉書』池澤夏樹訳、あるいは個人ブログ等を参照)

Baudelaire went
to a baseball game
and bought a hot dog
and lit up a pipe
of opium.
The New York Yankees
were playing
the Detroit Tigers.
In the fourth inning
an angel committed
suicide by jumping
off a low cloud.
The angel landed
on second base,
causing the
whole infield
to crack like
a huge mirror.
The game was
called on
account of
fear.

この野球について書かれている(ように見える)詩の複雑な文学的解釈はそれ専門の人に任せておきたいが、「野球ファンとしての目線」から言うと、どうしても注釈をつけて、この詩を読む人にあらかじめ頭に入れておいてもらいたい点が、いくつかある。
大江健三郎氏に『万延元年のフットボール』というタイトルの作品(1967年)があり、村上春樹氏に『1973年のピンボール』という作品(1980年)があるが、『1958年の西海岸野球』には、他の年、他の場所には存在しない「特別な意味」がある。
だから、この詩を読むにあたっては、野球史的な意味も考慮に入れてもらわないと、この詩が、文学方面だけは詳しいが、野球についてはまるで詳しくない頭デッカチな人たちの手によって、あらぬ方向に解釈されてしまう気がしてしょうがない。(また、この作品自体の重さ自体がもともと、良くも悪くも「軽い」ということを忘れてはいけないと思う)



「1958年」の「サンフランシスコ」は
野球にとって、どういう時代と場所か?


この詩が書かれたのが、いつ、どこで、なのかはハッキリしている。9つのパートからなるこの詩の最後に、ブローティガン自身が、San Francisco / February 1958と明記しているからだ。
この「1958年のアメリカ西海岸において、野球について書くこと」の意味は、文学解釈の恍惚感からだけ、この詩を味わいたい人にとってはどうでもいいことだろうし、たぶん理解できないだろうとも思うが、20世紀のMLBの発展史にとっては、とても重要な「時代」と「場所」だ。

というのも、
MLB草創期からずっとニューヨークのブルックリンにあったドジャースが西海岸のロサンゼルスに、そして、同じくニューヨークのアッパー・マンハッタンにあったジャイアンツが西海岸のサンフランシスコに移転したのが、この「1958年」だからだ。(MLBの西海岸進出が現実化できた背景には、「広大すぎるアメリカ大陸を東西に短時間で横切ることを可能にしたジェット旅客機という移動手段の発明」もあるわけだが、それはまた別の機会にくわしく書く)

アメリカ東海岸を中心に始まったMLBが西海岸に進出しはじめた最初の年、そして簡単には行き来できなかった世界がジェット旅客機で結ばれ始めた年が、この「1958年」だ。

それまで西海岸には、エンゼルス(1961年創設)もなければ、ワシントン・セネタース(現テキサス・レンジャース 1961年創設)も、パドレス(1969年創設)も、ドジャースすらなかった。
それどころか、セントルイス・カージナルスの人気に圧倒されていた同じセントルイスのブラウンズが、活路を求めてボルチモアに移転し、ボルチモア・オリオールズとして生まれかわる1954年まで、アメリカのほぼ中央にある都市セントルイスよりも西、つまり、アメリカ合衆国の西半分に、MLBの球団は全く存在していなかった

中西部のセントルイスの位置


地形からみたアメリカ合衆国
地形からみたアメリカ


現在のMLB球団所在地の州別のバラつき
山地の多く都市が海岸にある西部では、球団は海岸部にある
MLBの球団所在地の州別のバラつき


Pan American World AirwaysMLBができて半世紀以上たっているにもかかわらず、1958年までアメリカ西海岸にMLBのチームがなかった理由のひとつは、「移動手段」だ。
ボーイング社のボーイング707やダグラス・エアクラフト社のDC-8といったジェット旅客機の名機が誕生するのは、1950年代後半になってからのことで、さらにジェット旅客機が大衆化するのはさらに下った1960年代なのだから、1950年代までは、いくら先進国アメリカといえど、野球チームが広大な北米大陸を東西に高速で自由に行き来できる移動手段そのものが存在していなかった。(例えば今はなきPan Amボーイング707がヨーロッパに初就航したのも、この1958年である(1958年10月26日ニューヨーク-パリ)。
もしジェット旅客機が発明されなかったらアメリカ最西部のシアトルにMLBのチームなどできることはなかったことを考えると、ボーイング社がシアトルにあることの意味は非常に面白い。(後にダグラス・エアクラフト社は、1967年にセントルイスのマクドネル・エアクラフト社と合併してマクドネル・ダグラス社となり、さらに1996年にはボーイング社に吸収されることになる)

Boeing 707Boeing 707
(Pan Am)

Douglas DC-8Douglas DC-8
(Trans Canada)


かつてニューヨークにあったジャイアンツの本拠地ポロ・グラウンズをめぐるジャイアンツとヤンキースとの間のトラブルと、軒を貸して母屋を取られたジャイアンツが活路を求めて西海岸へ移転する経緯については、下記の記事参照。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年8月25日、セーフコ、カムデンヤーズと、ヤンキースタジアムを比較して、1920年代のポロ・グラウンズとベーブ・ルースに始まり、新旧2つのヤンキースタジアムにも継承された「ポール際のホームランの伝統」を考える。


「1958年」の「ヤンキース」と「タイガース」は
どんな位置づけにあるか


MLBの歴史を眺めればすぐにわかることだが、
ア・リーグとナ・リーグは、発足当初、それぞれに8チームずつが属していたが、エクスパンジョンによる球団増加によって1969年に「東西2地区制」に、さらに1994年に現在の「3地区制」になった。
だから、ブローティガンがこの詩を書いた1958年2月早春の時点のヤンキースとタイガースは、現在のように、東地区のヤンキース、中地区のタイガースという別の地区の球団ではなく、「8球団が属するア・リーグの2チーム」なのだ。
1958 American League Season Summary - Baseball-Reference.com

1958年のMLBとア・リーグはどういう状況だったか。

ひとことでいうなら、いくつかあるヤンキース黄金時代のひとつだ。監督はケーシー・ステンゲル。選手にヨギ・ベラミッキー・マントル、サイ・ヤング賞投手ボブ・ターリー
1949年から1953年にかけてワールドシリーズ5連覇を達成したが、さらに50年代後半には1955年から1958年にかけてア・リーグ4連覇、ワールドシリーズも2度優勝しており、ドジャースとジャイアンツが西海岸に移転した1958年のワールドシリーズも、ヤンキースがハンク・アーロンのいたミルウォーキー・ブレーブスを4勝3敗で破って優勝している。
(1953年から1965年まで、ミルウォーキーには、現在のアトランタ・ブレーブスが本拠地を置いていた。ブレーブスが1953年に本拠地をボストンからミルウォーキーに移し、観客動員を28万人から182万人に激増させることに成功したことは、ニューヨーク・ジャイアンツのオーナー、Horace Stonehamが球団の西海岸移転を決めるきっかけになった。その後ブレーブスはミルウォーキーからアトランタに再移転。その後1970年にバド・セリグがブリュワーズを買収してミルウォーキーに移転させ、今日に至る)
New York Yankees Team History & Encyclopedia - Baseball-Reference.com


同時期のデトロイト・タイガースはどうだったかというと、長い低迷期が続いていた。当時はまだ現在のコメリカパークができる前で、Tiger Stadium(Briggs Stadium)が本拠地だったが、監督はコロコロ変わり、1950年代に優勝にからんだのは1950年の2位のみ。

Tiger Stadium
ブローティガンがこの詩を書いた1958年、デトロイト・タイガースは77勝77敗で、ア・リーグ5位。
ゴールドグラブ賞をイチローと同じライトのポジションで10回獲得して野球殿堂入りしているAl Kaline(アル・ケーライン)(彼の背番号6は、タイガースの永久欠番)が在籍していたとはいえ、チームに優勝の気配はまるで無かった。(この詩で描かれたゲームが、どちらのチームのフランチャイズで行われたと想定されているかについては、当時の両チームの力関係を考慮して考える必要があるだろう。また、実際のヤンキース対タイガース戦を前提にしてないとも限らない)

この時期のデトロイトが低迷し続けた理由として、長きにわたってアフリカ系アメリカ人選手の入団を拒み続けたことが指摘されている。
1947年にあのジャッキー・ロビンソンをメジャーデビューさせたのは、西海岸移転前のブルックリン・ドジャースだが(いわゆる『カラーバリヤー』の打破。このときジャッキー・ロビンソンを発掘したのが、当時現役を引退してブルックリン・ドジャースのスカウトになっていたジョージ・シスラー)、これをきっかけに多くのアフリカ系アメリカ人選手がMLBで活躍しはじめ、MLBのレベルが格段に向上していく時代になっても、門戸を閉ざしていたデトロイト・タイガースはその流れに取り残されることとなった、といわれている。

しかしながら、固く殻を閉ざしていたデトロイトに初のアフリカ系アメリカ人選手ウィリー・ホートンが初めて入団したのが、リチャード・ブローティガンがこのA Baseball Gameという詩を書いた1958年のことだったりするのだから面白い。
小学生のときから熱烈な野球ファンだった寺山修司などは、子供のとき感じた北の故郷と都会のプロ野球との「距離感」について、「北国の小さな農村の、小学生だった私にとって、プロ野球の存在というのは、蜃気楼のようなものにすぎなかった。」(『誰か故郷を想はざる』)と書いているわけだが、この「ジェット旅客機と黒人メジャーリーガーで飛躍的に変わりつつある時代」の空気は、西海岸に住んでいたブローティガンの目にどう映ったのだろう。
Detroit Tigers Team History & Encyclopedia - Baseball-Reference.com


西海岸に住むブローティガンが
東海岸で行われている「ヤンキース対タイガース戦」に
どんな情報と印象を持っていたか


A Baseball Gameという作品が書かれたのは、1958年2月。そして西海岸に移転したばかりのドジャースとウィリー・メイズのジャイアンツの初対戦が行われるのは、同じ1958年の4月だ。
1958年早春のサンフランシスコで、「今年からMLBのチームがサンフランシスコにやってきて、試合をする」という記念すべきシーズンを前にして、この街に住んでいる20代前半の若者が(ブローティガンは1935年1月30日生まれなので、1958年2月時点では23歳)「1958年の新しいホームチームの登場」にワクワクして、ちょっとした興奮状態にあったと考えても、全くおかしくない。

ブローティガンがヤンキースとタイガースについて持っている情報や印象はもちろん、「1957年までの、球団ロケーションが著しくアメリカ東部に偏っていたMLB」のイメージがベースになる。
かつて東中心だったアメリカ野球が、西のワシントン州タコマという田舎町に生まれ、新しい文化に飢えた若いブローティガンにどう見えていたのか。
もし野球が、当時のブローティガンにとって「都市文化への憧れ」だったとすれば、それは、いくつかの詩の中で、はるか遠くにあるフランスの文化への憧れを「ボードレール」という単語に置き換えてしまえるブローティガン特有の単純さにも通じる。(これは、かつて寺山修司が第二次大戦後のアメリカ野球の印象について書くとき、アルチュール・ランボーの詩を引用してみせたりする手法にも似ている。寺山の引用対象のランボーが、ブローティガンの憧れのボードレールと「関係のあった」人物だけに、この類似はなかなか面白い)

ただ、1958年まで西海岸にMLBの球団がなかった以上、ブローティガンが野球をどの程度のレベルで理解していたか、あるいはMLBの試合の観戦経験があったのかどうか、そしてそもそも、果たして野球自体が好きだったかどうかなどについては、きちんと検証しないかぎり、何も確かなことは言えない。



ブローティガンの「野球の理解度」について

日本人だって、相撲や野球が大嫌いな人もいるように、アメリカ人だからといって、野球やフットボールが大好きとは限らない。
だが、A Baseball Gameにおいて、天使が空から降ってきたのが「4回」というイニングだったと具体的に特定して書いていることからして、ブローティガンが野球のことをかなり理解していたことは確実だろうと思う。

この詩の翻訳を手がけた池澤夏樹氏は、1987年度下半期の芥川賞受賞作 『スティル・ライフ』 での雪やプラネタリウムに関する鮮やかすぎる筆致でもわかるとおり、大変に魅力的な文章を書く方だと思う。
だが、原文に In the fourth inning としか書かれていないものを、翻訳する立場の池澤氏が「四回表」と、勝手にイニングの裏表を特定する牽強付会な翻訳ぶりには、まったく賛成できない。
これは例えば下記のブログの方も指摘していることで、実はブログ主も最初にこの池澤訳を読んだとき、まったく同じことを思った。
/未来応答〜詩論/:リチャード・ブローティガン「チャイナタウンからの葉書」1968 82 - livedoor Blog(ブログ)

野球に少し詳しい人なら、(日本よりMLBのほうが、たとえ深夜になろうと、可能性がある限りゲームを中止しない傾向が強いにしても) 日米ともに「野球というゲームは、5回まで終わっていれば、試合として成立する」というルールがあることを知っている。

この「5回が終わっていれば試合成立」というルールが野球に存在する以上、
リチャード・ブローティガンが、「空から天使が降ってくる」という奇想天外なハプニングが起きるイニングを「4回」に設定して作品を書いたことは、偶然とは考えられない。
なぜなら、もし「天使が降ってきたハプニングが、5回以降だった」なら、「天使が降ってきて、みんなが驚いたのに、試合自体は成立してしまいました。チャンチャン」という、なんとも締まりのないストーリーになってしまう(笑)
どうみても、「4回」に奇想天外なハプニングが起きて、試合がうやむやになってノーゲームになってしまう、その「なんともいえない、うやむや感」をブローティガンが楽しんで書いたと考えるのでなければ、文学的にも野球的にも解釈が成り立たない。

以上の理由から、ハプニング発生を「4回」にわざわざ設定するブローティガンが、「野球のルールについて、ひととおりの知識を持っていたこと」について、ほぼ間違いないと考える。



あと、細かい指摘をひとつだけ。

天使はなぜ「二塁ベース」に落ちてきたのか。
なぜファーストでなく、サードでもないのか。

これについては、ともかく生死だからといって深刻な訳にせず、もっと「ゆるんゆるん」に、かつ野球のシーンに即して考えるのがベストと考える。
補殺とか、盗塁死、牽制死。とかく野球には、「死ぬ」だの、「殺す」だの、生死を示す言葉が非常によく出てくる。アウトカウントも「1死」「2死」とカウントするくらいのスポーツだ。
これはもちろん、実際の人命の生死を意味するのではなく、「野球というスポーツが、バッターやランナー、攻撃側選手が、プレー上の生死を味わうゲームである」であることからきている。(これはこれで意味深な話でもあるが)

だとしたら、
an angel committed suicide by jumping off a low cloud.(ひとりの天使が低くたれこめた雲から飛び降りて自殺した)というくだりを、「天使の自殺」と、重い意味で考える必要があるとは思えない。

どうだろう。
「野球好きの天使が、人間に隠れて、雲の上から下界の人気スポーツを見物」していて、「自分でも参加してみようとして、思わずやみくもに盗塁を試み、失敗してアウトになった」とか、あるいは、「雲から身を乗り出して野球観戦していて、ずり落ちて下界に落ち、死んでしまった」くらいの軽いユーモアととらえて、全然構わないのではないか。


とかく詩というと、深刻な内容だったり、過度にセンチメンタルだったり、また、ヘビーな内容ほど凄いとか思われがちなものだが、リチャード・ブローティガンに限っては、そんなモノサシは要らない。
他の作品も手にとってみた人はわかると思うが、いい意味で、すっとぼけたユーモア、いい意味で、軽くイっちゃってる飄々とした無頼さが、他の誰に書けないリチャード・ブローティガン特有のスタイルだからである。


付記:
The Galilee Hitch-Hiker(ガリラヤのヒッチハイカー)』は、上に挙げたブログの方も指摘しておられるが(/未来応答〜詩論/:リチャード・ブローティガン「チャイナタウンからの葉書」1968 67 - livedoor Blog(ブログ))、本来9つのパートからなる詩の「はず」だが、どういう理由でそういうことをするのかわからないが、2番目のパートにあたる『The American Hotel』という部分が、池澤夏樹訳『チャイナタウンからの葉書』に収録されていない。
このパート2は、アメリカのパブリックなサイトに公開されているので、いちおう転載させていただくことにする。


The American Hotel

Baudelaire was sitting
in a doorway with a wino
on San Francisco's skidrow.
The wino was a million
years old and could remember
dinosaurs.
Baudelaire and the wino
were drinking Petri Muscatel.
"One must always be drunk,"
said Baudelaire.
"I live in the American Hotel,"
said the wino. "And I can
remember dinosaurs."
"Be you drunken ceaselessly,"
said Baudelaire.

引用元:The Poetry of Richard Brautigan | Literary Kicks


そういえばサリンジャーに、『ナイン・ストーリーズ』(Nine Stories, 1953)という短編集があるが、ブローティガンのA Baseball Gameも、同じく9つのパートからなる。
サリンジャーの大傑作 『A Perfect Day for Bananafish』 (この作品タイトルに『バナナフィッシュにうってつけの日』と絶妙の日本語訳をつけたのが、野崎孝氏)で、主人公シーモアは最後に拳銃自殺してしまうのだが、実はブローティガンはリアルライフで同じ結末をたどった。作中のシーモアの性格と作家ブローティガンの文体は、非常に奇妙なシンクロが感じられて、ブログ主にはブローティガンは実はこの小説の登場人物なのではないかとすら思えたものだ。
(ちなみに、もしサリンジャーを知らない人でも、映画『フィールド・オブ・ドリームス』は知っているんじゃないだろうか。あの映画に登場するテレンス・マンという作家のモデルになったのが、サリンジャー。原作はW・P・キンセラの小説『シューレス・ジョー』だが、原作ではサリンジャーは実名で登場する)


それにしても、村上春樹氏訳のサリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(この作品のタイトルを『ライ麦畑でつかまえて』と絶妙な日本語訳にしたのは、村上春樹ではなく、これも野崎孝氏)といい、この池澤夏樹氏といい、翻訳となると、どうしてああも、「悪い意味の、ゆるんゆるん感」というか、「プラスチック粒が大量に混じったチャーハンを食べているかのような夾雑感」が出てきてしまうのだろう。
一度買ってみたことがあるのだが、村上版『ライ麦畑』は、独特の翻訳の調子がどうにもこうにも性に合わず、15ページも耐えられずに捨ててしまった(苦笑)
池澤氏のこの訳にしても、たとえばA Baseball Gameというタイトルを、『野球試合』、つまり「やきゅうじあい」とか訳してしまうのが、どうにも、いただけない(笑) 「」という濁音の部分が、鍋ものを食べたあとの「おじや」みたいで、音感の悪さがどうにもこうにも耐え難い(笑)
「野球試合」という言葉は、そもそも普通に使われる日本語にはない言葉で、ある種の造語と考慮するにしても、ここでそれが成功しているとは言い難い。

日本には野球文化がある国なのだから、ここは無理に明治時代を匂わせるような漢字に変換しなくても、「ベースボールゲーム」と、カタカナで訳しておけばそれで十分だ。翻訳者のプラスチック製ノイズの介在は、野球史から、そして文字を味わう味覚や音感からも、ここでは必要ない。

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