西本幸雄

2013年7月21日、イチロー・スーパーカウントダウン(9) 日米通算4000安打まで、あと25本。ジャック・モノー 『偶然と必然』
2012年4月30日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」 (6)大魔神とブルース・リーの共演。リチャード・ブローティガンとブルース・リーが出会っていたかもしれない1959年サンフランシスコ。
2012年4月27日、一球一音、野球小僧と音楽小僧 (2)西本幸雄と灰田勝彦
2012年3月30日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」 (5)番外編 元祖「安打製造機」 榎本喜八にとっての『故郷』、東京スタジアム。
2011年12月19日、「数字を見る前に、野球を見る」 ただそれだけで予測できるテキサスのダルビッシュ落札。
2011年11月25日、「名山」、西本幸雄。指導者を育てた指導者。

July 22, 2013

Lou Gehrig
仏頂面のゲーリッグより遥かに魅力的な
微笑んでるゲーリッグ。

MLBキャリア通算ヒット数ランキング(2013/07/21)

イチロー・スーパーカウントダウン、後半戦はイベントが続く。MLB通算2700安打日米通算4000安打の達成。さらには、デビュー13シーズンでのピート・ローズ越え歴代1位2023試合出場と続く。

既に書いたように、イチローが「日米通算4000安打を達成するとき」というのは、同時に、「ルー・ゲーリッグを超えるMLB通算2722目のヒットを打ったとき」でもある。
ちなみに、某アメリカのスタッツに詳しいライターが、ついこの間そのことにようやく気付いたらしく、ビックリしたようにツイートしていたのには笑った(笑)


ルー・ゲーリッグが、あの有名な「今日の私は地上で最も幸せな男です」という引退スピーチを行ったのは、1939年7月4日セネタースとのダブルヘッダーだ。

Lou Gehrig



『偶然と必然』ジャック・モノー『偶然と必然』という名著で世界を驚かせたのは、フランスのノーベル賞学者ジャック・モノーだが、イチローが日米通算4000安打を打つことと、ルー・ゲーリッグの通算安打数を超えることが同時に起こることが、どれだけ「偶然」とは思えない不思議な出来事か。「たまたまゲーリッグがそこにいただけで、別に誰だってよかっただろう。そんなの、ただの偶然だ」と思う人がいるかもしれないが、日本野球の歴史をひもとくと、「日本のプロフェッショナル・ベースボールから生まれたイチローが越えていく壁が、『ゲーリッグ』であること」に、とても「偶然」と思えないある種の歴史的必然があることがわかる。


詳しく書くと長くなるのでやめるが、黎明期の日本野球を常にインスパイアし続けたのは、日米野球で垣間見る大リーガーの「高い壁」であった。
たとえば「1934年日米野球」が、日本野球史を塗り替えるほどの決定的なインパクトがあったのは、17歳のエース沢村栄治の快投で、それまでは遥か彼方にかすんでいたMLBの高い壁が、ほんの一瞬にせよ、間近に、それもピントがあって垣間見え、難攻不落の壁にとりつく「足がかり」すら感じられたからだ。

1934年当時の日本では、ベーブ・ルース人気から、彼の一挙手一投足が話題になったわけだが、あの年の日米野球の来日メンバーの実際の打線の中心は、当時すでに現役引退目前だったキャリア終盤のベーブ・ルースではなく、キャリア全盛期にあったルー・ゲーリッグであり、11月20日の草薙球場のゲームで沢村栄治から決勝ホームランを打ったのが、引退間際のルースではなく、ゲーリッグだったのにもちゃんと「必然」がある。

だから、イチローの4000安打達成が、同時に「ルー・ゲーリッグ越え」のMLB通算2722本目の安打でもあるという「歴史」には、単なる偶然ですまされない「必然」があるのだ。


Lefty O'Doul日本野球への貢献によって日本の野球殿堂入りしているレフティ・オドゥール(フランク・オドゥール)が日本で知名度が高い理由のひとつも、彼が、沢村栄治の投げた1934年日米野球と、1934年に匹敵するインパクトがあったとも評される1949年日米野球の両方に関係しているからだ。
オドゥールは、1934年日米野球では、サンフランシスコに移転する前のニューヨーク・ジャイアンツの選手として来日。翌1935年の全日本チームのアメリカ遠征でも、なにくれとなく日本チームの世話を焼き、チームに "Tokyo Giants" というニックネームをつけた。そして1949年日米野球では、彼がジョー・ディマジオを育てたマイナーのサンフランシスコ・シールズ監督として来日し、長年に渡って日本野球を鼓舞し続けた。


オドゥールが長年監督をつとめたサンフランシスコ・シールズの本拠地シールズ・スタジアムは、一度書いたように、ニューヨークにあったジャイアンツが、ドジャースとともに西海岸移転したとき、新本拠地キャンドルスティック・パークが完成するまで、一時的に本拠地にしていたボールパークだ。
Damejima's HARDBALL:2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (3)キャンドルスティック・パーク、ドジャー・スタジアム、シェイ・スタジアムの開場

大映の永田雅一氏は、そのキャンドルスティック・パークを模範として、東京・荒川区に東京スタジアムを作り、まだ基盤の弱かった戦後の日本プロ野球の発展に力を尽くした。
Damejima's HARDBALL:2012年3月23日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (4)夢の東京スタジアムの誕生

Damejima's HARDBALL:2012年3月30日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」 (5)番外編 元祖「安打製造機」 榎本喜八にとっての『故郷』、東京スタジアム。


西本幸雄さんは、永田雅一氏がオーナーをつとめる大毎オリオンズ監督として1960年リーグ優勝を果たし、その後、阪急近鉄と、優勝経験の無かったチームを2つも優勝に導くことで日本野球史の流れを大きく変えた。
また西本さんは、上田利治、仰木彬、梨田昌孝、チャーリー・マニエル、山田久志、福本豊などの選手・指導者を育てることでパ・リーグ隆盛の礎を築き、そのパ・リーグから、野茂、イチロー、ダルビッシュなどのMLB挑戦者が現れ、現在に至っている。
Damejima's HARDBALL:2011年11月25日、「名山」、西本幸雄。指導者を育てた指導者。

こうした出来事の全てを単なる偶然と片付けるだけの勇気は、ブログ主にはない。

damejima at 07:09

May 01, 2012

MLBファンにとって「大魔神」といえば、もちろん、2000年ア・リーグ新人王を獲得したシアトルのクローザー佐々木主浩さんだが、彼のニックネームの元になった1966年の大映映画『大魔神』シリーズで、大魔神の着ぐるみを着て演じたスーツアクター(この言葉は和製英語で、ハリウッドにおいてはスタントマンの仕事の一部)が、実は、1953年に毎日オリオンズに入団し外野手として活躍した橋本力(はしもと ちから)さんであることは、有名な話。


橋本力さんの映画界入りは、1959年に怪我で二軍落ちしていた際に、大毎オリオンズの親会社、大映が製作した野球映画 『一刀斎は背番号6』に誘われて、アドバイザー兼選手役で出演したのがきっかけ。
撮影中、橋本さんは外野でのダイビングキャッチを演じた際、鎖骨を骨折してしまい、その怪我がもとで同年オフに引退した。
だが、大映関係者が映画撮影中の事故がもと野球引退に追い込まれた橋本さんを不憫に思って俳優の道に誘い、それが後に1966年の大ヒット作『大魔神』シリーズのスーツアクターへの抜擢につながった。

ちなみに、『一刀斎は背番号6』には、稲尾和久中西太豊田泰光といった当時の西鉄の中心プレーヤーや、別府星野組・オリオンズで西本幸雄さんとともにプレーし、1953年日米野球で完投勝利も収めている「和製火の玉投手」荒巻淳に並んで、あの榎本喜八が出演して台詞をしゃべっているというのだから、この映画は野球史的希少価値がある。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年3月30日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」 (5)番外編 元祖「安打製造機」 榎本喜八にとっての『故郷』、東京スタジアム。

大映映画のクレジット

大魔神ポスター芋の粉やコルク屑、炭粉を使った粉塵が飛び交う撮影中、橋本力さんの大魔神起用を発案した特撮監督黒田義之氏から「目をカッと見開いているように」言われた橋本さんは、必死に目を開け続けたために目が充血してしまい、それがかえって非常に大魔神のリアリティある演技につながったらしい。
この大魔神における黒田義之氏独特の演出を見た円谷プロ社長円谷一は、黒田氏を円谷プロ作品に起用、『ミラーマン』などの作品が生み出された。


Youtubeにアップされていた『DAIMAJIN』。1時間24分あるところをみると、フルバージョンではないかと思われる。


その後橋本力さんは、1971年に大映が倒産すると、大映で座頭市シリーズをヒットさせていた勝新太郎の「勝プロダクション」に移籍するのだが、なんと、翌1972年に香港映画『ドラゴン怒りの鉄拳』(原題 "Fist of Fury" )で、あのブルース・リーとの共演を果たすことになる。

ブルース・リーに蹴り出されるスタントマン時代のジャッキー・チェン
ちなみに、この映画のラストシーンで橋本力さん演じる日本人が、ブルース・リーの飛び蹴りを受けて障子を突き破って庭までぶっ飛ばされるシーンを演じたのは、スタントマン時代のジャッキー・チェン

ドラゴン怒りの鉄拳に出演した橋本力さん



『ドラゴン怒りの鉄拳』ラストシーン。11分過ぎに、ジャッキー・チェンがブルース・リーの飛び蹴りを受けて庭に吹っ飛ばされるスタントシーンがある。



ブルース・リー、というと、香港のカンフー映画のイメージが強すぎるため、どうしても生粋の香港人と思われがち*1(そしてブルース・リーに関する数多くの議論が、彼の『出演映画における役どころ』と『ブルース・リー自身』を混同してもいる)だが、実際には、彼は1940年サンフランシスコ生まれで、アメリカで出生しているためにアメリカの永住権も持ち、シアトルのワシントン大学卒業生でもある。(妻リンダ・エメリーもワシントン大学医学部の学生)
彼はたしかに18歳まで香港に住んではいたが、1959年サンフランシスコに戻って数ヶ月暮らした後、シアトルに移り住んだ。(当時はシアトルにMLBの球団はない)後に1973年に亡くなったときも、葬儀こそ、香港とシアトルの両方で行われたが、彼の遺体が埋葬されたのはシアトル郊外の墓地 Lake View Cemeteryである。
*1 関係ないといえばないが、『スター・トレック』シリーズに出演していたHikaru Sulu(=日本語吹き替え版でいう『カトー』。これは日本の制作会社がつけた名前なので、アメリカでこの名前を出しても話は通じない)を演じた俳優は、中国人であると、勘違いしている人が、特に一定の年齢層の人に多い。
たしかに、かつてのアメリカ映画で、日本人役を実際には中国人などが演じるパターンは多数見られたわけだが、スター・トレックの『カトー』を演じたのは、広島県生まれの祖父母と山梨県生まれの父親をもつ、れっきとした日系二世のジョージ・タケイ氏。同じような例として、1964年の『007ゴールドフィンガー』で帽子を投げる悪役を演じたホノルル生まれの日系二世ハロルド・サカタ氏も、中国系と勘違いされやすい

赤いマーカー:Lake View Cemetery
青いマーカー:Seattle Central Community College
緑のマーカー:Safeco Field



シアトルに移り住んだブルース・リーは、まずキャピトル・ヒルにあるEdison Technical School(=現在のSeattle Central Community College*2)で学んだ後、ワシントン大学(The University of Washington, UW)に進学して演劇を専攻している。
*2 日本のWikiでは、シアトルでブルース・リーが最初に入学した学校の名称を、Seattle Central Community Collegeとしているが、それはこの学校が1966年に改組されて以降の名称であり、ブルース・リー入学当時の学校名は、Edison Technical School とするのが正しい

ワシントン大学のエンブレムワシントン大学の
エンブレム

ワシントン大学におけるブルース・リーの専攻科目はどういうわけか、日本のWikiをはじめとする多数のサイトに、「哲学科」とする誤った記述がみられるが、これは間違いだ。(原因はたぶん生前のブルース・リー自身の発言等だろう)

ワシントン大学卒業生の動向をまとめているThe University of Washington Alumni Magazine (Alumniは「卒業生」という意味)が、ブルース・リーを"100 Alumni of the Century"(=20世紀の卒業生100人)に選定したときのコメントに、ハッキリ「drama major、演劇専攻」と明記されている。
また、アメリカの他の大半のソースでも「ブルース・リーは演劇専攻で、哲学あるいは心理学のクラスも受けていた」というような表記をされているし、また、「ブルース・リーは哲学専攻」という古くからある間違った主張を否定するソースも簡単に見つけることができる。
Attended the UW from 1961 to 1964 as a drama major

出典:100 Alumni of the Century, J-O



非常に興味深いのは、このブログで何度も書いてきた1958年にブルックリン・ドジャースとニューヨーク・ジャイアンツが西海岸に移転してきた直後のサンフランシスコに、ほんの数ヶ月の期間とはいえ、若き日のブルース・リーと、まだ世間に知られる前のリチャード・ブローティガンが、まったく同時期に住んでいたことだ。

この偶然はちょっと凄い。

1959年のブローティガンといえば、サンフランシスコに出てきて、以前とりあげた "A Baseball Game" を含む "The Galilee Hitch-Hiker" という作品を出した1958年の翌年であり、新たに "Lay the Marble Tea" という作品をリリースしている。

ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年3月6日、リチャード・ブローティガン 『A Baseball Game』の野球史的解釈。 「1958年の西海岸」という特別な年、特別な場所。

ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:「1958年の西海岸」 特別な年、特罰な場所。


A.J.バーネットはどうやら熱心なブルース・リーファンらしいが(笑)、こうなってくると、どうしても気になるのは、ブルース・リーが、サンフランシスコ在住時代、あるいは、ワシントン大学在学時代に、野球に興味があったかどうか、または、ボールパークに足を運んだことがあったかどうか、あるいは、ブルース・リーが当時のサンフランシスコのビート文化を知っていたかどうかだが、それはまた、おいおい調べてみることにする。

西海岸に拡大したMLB、あるいはサンフランシスコのビート文化(またはもっと後のヒッピー文化)と、ブルース・リーの間に、どういう繋がりがみつかるか、これからのお楽しみだ。


だが、まぁ、そんな小難しい話より、単純に興奮するのは、
ニューヨークから西海岸にドジャースとジャイアンツがやってきた1958年の翌年、1959年のサンフランシスコのとある街角で、ワシントン州タコマから都会のサンフランシスコに出てきたばかりの若き日のリチャード・ブローティガンと、一時住んでいた香港から帰国したばかりで、やがてシアトルに引っ越すことになる10代のブルース・リーが、サンフランシスコのどこかですれ違っていたかもしれないということである。
少なくとも、そう夢想してみるだけでも、なにかこう、意味もなくワクワクしてくる(笑)


サンフランシスコにニューヨークからジャイアンツが移転してきて作ったボールパーク、キャンドルスティック・パークに憧れて、自分の夢のスタジアムを作ってしまった映画会社社長がオーナーをつとめるプロの野球チームに所属する選手が、映画出演の怪我がもとで野球を引退し、やがてサンフランシスコ生まれのカンフースターの主演映画に出演したこと。
サンフランシスコ生まれでシアトルに埋葬されたカンフースターと、シアトル郊外に生まれ、サンフランシスコのビート文化と関わりのあった詩人が、同じ年に同じサンフランシスコに暮らしていたこと。

こんな映画を越える予想外の展開は
「運命の糸に引き寄せられたドラマ」と言うほかない。

ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (3)キャンドルスティック・パーク、ドジャー・スタジアム、シェイ・スタジアムの開場

ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年3月23日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (4)夢の東京スタジアムの誕生

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ブルース・リー


damejima at 01:27

April 28, 2012

灰田勝彦さん(以下 敬称略)が「日本版Take Me To The Ball Game」ともいうべき「野球小僧」を歌ったのは、別当薫はじめ当時の毎日オリオンズの選手が大挙出演したという1951年大映のミュージカル映画 『歌う野球小僧』だ。

当時の大映社長といえば、もちろんサンフランシスコに移転したジャイアンツの新しい本拠地キャンドルスティック・パークを模して東京スタジアム(1962-1977)を作った永田雅一だが、『歌う野球小僧』が出来た1951年の時点では、まだ大映スターズと毎日オリオンズは合併していない。(大毎オリオンズが出来るのは、1951年の『歌う野球小僧』から7年後、ブルックリン・ドジャースとニューヨーク・ジャイアンツが西海岸に移転する1958年)
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年11月25日、「名山」、西本幸雄。指導者を育てた指導者。

ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2012年3月23日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (4)夢の東京スタジアムの誕生


ちなみに、この映画に関して、ウェブ上の資料だけでは、どうもよくわからない点がある。

それは、灰田勝彦(1911年生まれ)と、同じ立教出身で、毎日オリオンズ主将、大毎オリオンズ監督を務めた西本幸雄さん(1920年生まれ 以下敬称略)とのかかわりだ。
ネット上に、この2人の立教出身者のかかわりを示す資料が皆無といっていいほど存在しない理由が、どうもよくわからない。


1951年の「歌う野球小僧」というミュージカル映画は、立教在学時代から野球好きで知られ、新東宝の社会人野球に所属していた記録さえ残されている(資料:2010年10月 : 野球史探求)灰田勝彦が、「この映画は立教出身者で固めよう」と最初から意図して自らプロデュースしたと、Wikiにある。
現に、この映画に珍しく悪役として出演している上原謙も、立教出身者だ。

(上原謙は、大映のライバル会社のひとつ、松竹の看板俳優。大映が1951年に『歌う野球小僧』を製作した当時は、大映スターズという野球チームを持っていたのに対して、松竹も松竹ロビンスという野球チームを抱えていただけに、どうして上原謙が「映画と野球、2つの垣根」を越えて、大映の、それも野球映画に出演できたのかはよくわからない。
想像だが、『歌う野球小僧』は、1953年に、日活の引き抜きを阻止すべく大映社長永田雅一の主導で、いわゆる「五社協定」が結ばれ、各映画会社専属の監督や俳優の引き抜きや貸し出しが禁止され、映画会社と映画会社の間に「垣根」ができる前にできた映画だから、こういう他社の俳優が出演するようなことがギリギリ可能だったのだろう。
ちなみに灰田勝彦は、「五社協定」成立後の「何事にも垣根のできた時代」においても、南海ホークスの歌を歌い、別所毅彦など巨人のプレーヤーとの親交、広島東洋カープを優勝させる会結成など、ある意味「球団の垣根の無い」稀有な人物だった。野球映画への出演についても、1951年の大映『歌う野球小僧』出演に前後して、『ホームラン狂時代』(1949年東横映画=東映の前身のひとつ)、『栄冠涙あり』 (1952年東映=1951年設立)と、大映以外の映画にも出演している)

灰田勝彦が立教大学予科に進学したのが1930年、西本幸雄が旧制立教大学に進学したのが1938年。
西本幸雄は、当時監督のいなかった立教野球部で監督役を務めた後、第二次大戦を挟み、1950年に毎日オリオンズに入団し、ここでも1952年に主将を務めている。
当然ながら、動乱の時代とはいえ、それになりに近い世界に住んでいた2人が、互いの存在を知らないはずはない。

もちろん、オリオンズ入団時の西本幸雄は既に30歳という年齢で、また、その性格からしても、もし仮に先輩・灰田勝彦から後輩・西本幸雄に映画『歌う野球小僧』への出演依頼があったとしても、とてもとても西本が快諾するとは思えない。(とはいえ気難しそうな榎本喜八だって映画に複数回出演しているのだから、西本幸雄が映画に出ていても、おかしくはない)
だが、それにしたって、西本幸雄は灰田勝彦と同じ立教出身であり、立教でもオリオンズでもキャプテンに選ばれるような中心選手のひとりで、毎日オリオンズでは選手としてパ・リーグ優勝、日本一に貢献しているのだから、立教出身者と毎日オリオンズの選手で固めた灰田勝彦の野球映画への関わりが少しくらいあってもおかしくないように思える。

だが現実には、ネット上の資料には、西本幸雄と『歌う野球小僧』、あるいは、西本幸雄と灰田勝彦とのかかわりを書いた資料は、なぜかほとんど皆無に等しいのだ。


もちろん、こうした摩訶不思議なことが起きる遠因のひとつには、1958年の大毎オリオンズの日本シリーズ敗退の一件で西本幸雄さんが大毎オリオンズ監督を辞任させられたことが原因で、阪急ブレーブスや近鉄バッファローズの歴史には西本さんの名前が華々しく刻まれているのに比べると、オリオンズの歴史からはむしろ西本さんの足跡が、削除というか、遠ざけられている感すらある歴史的経緯が影響しているのかもしれない。
(現代のWikiの「オリオンズ」の項目ですら、西本さんに関する記述が不足しているようにしか見えないのだから、たとえ灰田勝彦と西本幸雄の間になんらかの関わりがあったとしても、野球メディア、映画メディアによって記録に残されてこなかったとしても不思議ではない、という意味)


だが、もう半世紀が過ぎたのだ。
そろそろオリオンズの歴史における西本幸雄さんの位置を、本来あってしかるべき位置に戻すべきだろうと思う。

damejima at 08:25

March 31, 2012

東京スタジアムを本拠地にした大毎オリオンズの元祖「安打製造機」、榎本喜八翁(以下敬称略)が亡くなられた。東京中野区生まれ、75歳。一塁手で、背番号は3。通算安打数2314、通算打率.298。

榎本喜八のバッティングフォーム



榎本喜八は早稲田実業出身で、同じ早実出身の王貞治の4つ先輩にあたる。また2人共通のバッティングの師匠が、やはり早実出身、1953年オリオンズ入団の荒川博だ。だから榎本にとっての荒川は、高校とプロの両方の指導者、ということになる。
また西本幸雄が監督としてリーグ優勝に導いた1958年のオリオンズで、「大毎版ミサイル打線」の控え捕手だった醍醐猛夫も、やはり早実出身。(ちなみに選手として、毎日・大毎・東京・ロッテ、「4つのオリオンズ」全てに在籍したのは、榎本と醍醐の2名のみらしい。ちなみに、荒川博(台東区)、榎本喜八(中野区)、醍醐猛夫(北区)、王貞治(墨田区)と、4人とも東京生まれ。大毎ミサイル打線の柳田利夫、田宮謙次郎、山内和弘、葛城隆雄など他の野手は東京出身者ではない)
入団して数年間のオリオンズは、榎本にとって、さぞかし居心地のいい空気があったに違いない。


榎本喜八が1955年に高卒でオリオンズに入団しプロになれたのは、高校とオリオンズの2年先輩である荒川が、プロ入りを熱望して直訴してくる後輩・榎本の入団テストを行うよう取りはからってくれたから、らしい。(日本のプロ野球でドラフト制度ができるのは、榎本のオリオンズ入団から10年後の1965年)
荒川の追悼コメントによれば、現役時代の榎本喜八は「王の10倍、馬鹿真面目だった」という。荒川氏は過去に「(努力家で知られる)王の倍は(バットを)振ったね。」と榎本の熱心な練習ぶりを述懐している。
ちなみに、榎本の打撃理論についての禅問答的コメントはよく語られるところだが、その常人には到達できそうもない難解さのある部分は、榎本自身のせいだけではなく、むしろ師匠・荒川博が弟子を教える言葉のなんともいえない哲学的難解さに負う部分が少なからずあると思う。
資料:『プロ野球「無頼派」選手読本』松井浩)
資料:榎本喜八さん死去:31歳で2000安打達成 「ミサイル打線」一世風靡 - 毎日jp(毎日新聞)


プロになった榎本喜八は3番、あるいは1番バッターとして活躍を続け、1968年には31歳7カ月(正確には31歳229日)の若さで2000本安打を達成し、元祖『安打製造機』を襲名することになった。
これは、1956年川上哲治、1967年山内和弘(山内氏の『和弘』は旧名)に次ぐ日本プロ野球史上3人目の2000本達成で、2004年5月21日に(日米通算ではあるが)30歳7か月で達成しているイチローを除くと、日本国内だけなら最速記録。
Game Wrapup | MLB.com: News
活躍年度の離れた選手同士を比べることにはたいして意味はないだろうが、日米野球でのスタッツを比較するかぎり、イチローが日本にいる当時から既にアメリカのピッチャーを打ちこなしていたのは事実だと思う。
日米野球通算成績
(ソース:某巨大掲示板)
榎本喜八 59試合 114打数 20安打 2本塁打 8打点 15三振 21四死球 打率.175
イチロー  11試合 37打数 16安打 0本塁打 8打点 6三振 5四死球 8盗塁 打率.432


榎本喜八というと、どうしてもその奇行ぶりが書かれることになる。
だが、監督として大毎オリオンズを優勝に導き、優勝経験の無い阪急・近鉄を優勝させた、あまりにも輝かしい西本幸雄の監督歴を「悲劇の闘将」などと呼んで卑下する必要など全くない、と以前書いたのと同じように、榎本喜八の奇行ぶりをあえてまた晒す必要などない。そういうのはどこかで別の人がやるだろう。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年11月25日、「名山」、西本幸雄。指導者を育てた指導者。

1960年に大毎オリオンズ監督・西本幸雄がオーナー永田雅一と衝突して退団した翌年、荒川博が放出される形で退団、そのまま引退している。(荒川はその後巨人に拾われ、大打者・王貞治を育て上げることになる)
だから、この2人が、サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地キャンドルスティック・パークをモデルに1962年に開場した東京スタジアムで、オリオンズの一員としてプレーすることはなかった。
その後、1963年限りで田宮が引退。そのオフには主砲・山内が阪神のエース小山正明と大型トレード、葛城も中日ドラゴンズに移籍し、オリオンズはチームカラーを変え、守備重視に傾いた
あくまで想像でしかないが、いくらメジャーのスタジアムをモデルにして最新鋭の設備を揃えたとはいえ、非常に狭かった東京スタジアムは、ホームランの出やすいヒッターズパークだったため、オリオンズは対策として、強力打線を維持して得点力で相手を圧倒するそれまでの野球を継続するか、それとも、主力打者を放出してでも投手力を整備し守備的チームに衣替えするか、方針の選択に迷った、という裏事情があったのかもしれない。

結局、大毎オリオンズはどうしたかというと、1963年オフに主砲・山内和弘と引き換えに、阪神のエース小山正明を獲得していることからわかるように(小山はパームボールを駆使することで球場の狭さに対応した)、「チームを守備的に作り変える」という決断を下すことになるわけだが、東京スタジアム開場以降のチーム順位を見るかぎり、このチームカラー変更が結果としてうまくいったとは思えない。

東京スタジアムのゴンドラシート
東京スタジアムのゴンドラシート 資料:『あの頃こんな球場があった』 佐野正幸著 草思社 2006年)

1962年(昭和37年)、東京の下町に忽然と開場した東京スタジアムが、1977年(昭和52年)に取り壊された時、榎本喜八は解体作業の一部始終を眺めるため、スタジアムから約20キロ離れた中野区の自宅から、スタジアムのある南千住まで、1日おきに走って来ていたらしい。また、東京スタジアムが荒川区のスポーツ施設に完全に生まれ変わってしまった後も、周囲をランニングしに来ていたという。
【5月16日】1977年(昭52) 解体工事中の東京スタジアムへ 榎本喜八、深夜の42キロ走(野球) ― スポニチ Sponichi Annex 野球 日めくりプロ野球10年5月

東京球場(東京スタジアム)フォーエバー1962〜1977 名誉な孤独死


榎本喜八はなぜ、東京スタジアムに郷愁を覚えたのだろう。
彼にとって、「東京スタジアム」は何だったのか。

故郷を持たず、上野に故郷の訛りを聞きに行くわけにもいかない東京生まれで、ちょっと神経の細いところがあった榎本にとって、プロになった直後に、同じ東京生まれで早稲田実業出身の先輩後輩たちに囲まれて野球ができたオリオンズの環境こそが、彼の心の支えになったはずだ。
だが、1962年の東京スタジアム開場をきっかけに前後してチームカラーの大幅な変更が行われたことで、人見知りの激しい東京人である榎本喜八と親しい人々がオリオンズから去っていく中で、やがて下町の東京スタジアムだけが、榎本喜八の心の寂しさを紛らす唯一の『バーチャルな故郷』になったのではないか。

オリオンズ入団年度
1953年 荒川博  早稲田実業
1955年 榎本喜八 早稲田実業
1957年 醍醐猛夫 早稲田実業

オリオンズ退団年度
(1959年 王貞治 巨人入団)
1960年 西本幸雄  解任
1961年 荒川博   放出→引退→巨人コーチ(1962)
1962年 東京スタジアム開場
1963年 田宮謙次郎 引退
1963年 山内和弘  トレード
1963年 葛城隆雄  移籍
(1964年 東京オリンピック開催)

東京出身者にしてみると、高度経済成長を迎えた1960年代中期前後の東京の風景の劇的な変化については、地方出身者にはわかりにくい特別な感覚がある。
たとえば、1964年の東京オリンピックに対応するために、首都高速ができるわけだが、両国の9代続いた和菓子屋の長男として生まれた東京出身作家の小林信彦氏などは、高度経済成長以降の東京の変化について「関東大震災、東京大空襲に続く『町殺し』」と嫌悪し、また、浅草や柴又を「下町」と呼んでありがたがる「下町ブーム」の安易さにも嫌悪感を表した。東京人の人見知り感覚からくる独特の内向きのメンタリティは、どこかミュージシャン高橋幸宏氏にも通ずるものがある。
(ちなみに、小林信彦が宝石社に入社し社会人になるのは、ドジャースとジャイアンツが西海岸に移転したのと同じ『1958年』)


彼と同じく寂しがりで人見知りな性格の人間として、
変わりゆく東京の街の中で埋もれて過ごした彼の晩年の失われた暮らしに手を合わせ、激しすぎる一生を終えた先人に、安らかにお眠りくださいと申し上げたいと思う。

damejima at 15:36

December 20, 2011

ダルビッシュのポスティング額は、51.7M(=5170万ドル。契約の話題で「M」といえば、「100万ドル」の意味。)で、俗説のいうトロントではなく、テキサス。まったくもって、予想通り。

この件についてのツイート:https://twitter.com/#!/damejima/status/148846518319853568

ダルビッシュの交渉先がどのチームか、やたらと話題になってる。個人的には、そんなのテキサスに決まってるだろと予測してる。2011シーズンのダルのフォームは、どうみてもノーラン・ライアンのフォームからヒント得たはずMon Dec 19 19:25:50



With Record Bid of $51.7 Million, Rangers Win Right to Negotiate With Darvish - NYTimes.com


テキサスの社長ノーラン・ライアンは、押しも押されぬ名投手であると同時に、1989年に「ノーコン」でモントリオールにいられなくなってシアトルに来たばかりのランディ・ジョンソンの「酷いノーコン」を矯正したことでも有名なように、ピッチャーの指導システムを確立した人物としても有名。

先日亡くなられた日本の野球界の巨星西本幸雄さんが「試合を指揮する監督」として優れていただけでなく、野球というスポーツの練習システムそのものの近代化(今では当たり前になっているウェイトトレーニングの導入や、バッティングゲージ横のファウルグラウンドでノック、ランニング、キャッチボールなどの基礎練習を行うグラウンドの有効活用術、いずれも西本さん発案によるものらしい)、さらに、野球指導者そのものの育成に非常に優れた手腕を発揮したのにも似て、ノーラン・ライアンは、名投手であると同時に、投手の育成者として非常に優れた足跡を残している。
そのライアンと、1985年にテキサスの投手コーチに就任し、80年代のノーラン・ライアンを甦らせたといわれているトム・ハウスとの共著による名著Nolan Ryan's Pitcher's Bibleは、何度も書いているように、メジャーの投手たちの文字通り「ピッチング・バイブル」になっている。

ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年1月6日、豪球ノーコン列伝 ランディ・ジョンソンのノーコンを矯正したノーラン・ライアン。 ノーラン・ライアンのノーコンを矯正した捕手ジェフ・トーボーグ。 捕手トーボーグが投球術を学んだサンディ・コーファクス。

ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年10月26日、クリフ・リーの投球フォームが打ちづらい理由。「構えてから投げるまでが早くできている」メジャーの投球フォーム。メジャー移籍後のイチローが日本とはバッティングフォームを変えた理由。

ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年3月23日、昔のダルビッシュと、今のダルビッシュ、どこが、どういう意味で違うのか。ノーラン・ライアン、松坂と比べながら、考える。

ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年3月25日、ノーラン・ライアンを思わせる「前ステップ」をみせる大阪ガスの松永昂大投手。高校からプロになった投手と、大学を経由した投手とのフォームの違い。

ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年4月15日、Sam Holbrookの特殊なストライクゾーンに手こずったジェイソン・バルガス。


2011シーズンのダルビッシュの投球フォームが、「三塁側に一度足を蹴り出すことなく、ホームプレートに真っ直ぐステップしていくメジャー風の投球フォーム」になり、また、上半身の強いひねりを加えることで生み出される「球の重さ」に磨きがかかったことは、「三塁側に一度足を蹴り出してから投げる典型的なフォーム」の松坂投手と対比させながら何度も書いてきた。
松坂投手には申し訳なかったが(苦笑)、何度も比較対象として登場してもらったのは、「三塁側に一度足を蹴り出してから投げる」松坂投手のフォームが非常に「日本的」であるために、昔は松坂と同じように三塁に足を蹴り出す日本風フォームで投げていたダルビッシュが、2011シーズンの前にフォームを根幹から変え、「いかにメジャー風フォームに変更して、2011シーズンを迎えようとしているか」を指摘するのに、非常に都合が良かったからだ。


だから、このブログでは、かつて「メジャーには行かない」と常に公言していたダルビッシュについて、もう1年も前から「ダルビッシュは間違いなくメジャーに行く」という前提で、投球フォームの変化について記事を書いてきた。

移籍交渉先球団がどこになるかについても、明らかにダルビッシュがフォーム改造において参考にしたに違いないノーラン・ライアン(指導方法。あるいはノーラン・ライアン自身のフォームや、投球メカニズム)が社長を務めるテキサス・レンジャーズになることは、十分予測可能だった。
もし、何十年かして、ダルビッシュから今回のメジャー移籍について、「実は2010年オフに、テキサスのコーチ(ノーラン・ライアン自身の指導を受けたのだったら、むしろ凄いことだが)から直接フォームについての指導を受けていて、2011年オフにはメジャー(たぶんテキサス)に移籍することは決まっていたんですよ」と裏話が明かされたとしても、ブログ主はまったく驚かない。
(いちおう誤解を避けるために書いておくと、オフに他チームの指導を受けることは、シアトル在籍時代のランディ・ジョンソンがシーズンオフに他チームであるテキサスのノーラン・ライアンに公の場所で指導を受けていることからわかるように、何の問題もない。それは「タンパリング」ではない)

こうした簡単なことが予測できないのは、いま日米問わず、野球の世界に数字ばかり見て、野球を見ない(あるいは、そもそも野球を見る能力がない)、そういう人間があまりにも増え過ぎているからだ。
シアトルの無能なズレンシック。チームの御用聞きのような記事しか書けないクセに、レジェンドであるイチローには失礼きわまりない記事を書くシアトル地元メディアの記者。選手としてもコーチとしても何の実績も無いのに球団取締役にまで成り上がり、暴言で杉内を怒らせて取締役をクビになった元投手の小林至(このアホウ、小久保選手のFA時に、選手本人を前に「自分を特別視していませんか?」と言ってのけたという噂があるらしい。ソース不詳)。 巨人をクビになった元記者の清武
そして、OPSとかいうデタラメ数字を相変わらず信じこんだまま野球を語っている世間の野球ファン、ブロガー、三流ライター、MLBマニアきどりの大学教授。


まず見るべきは、数字(契約金額やスタッツ数値)ではなく、野球(プレーやフォーム)そのもの。

野球をやるのは、選手であり、数字に手足が生えて走りまわるわけではない。


なぜこんな簡単な、当たり前のことがわからなくなっているのか。どいつもこいつも、数字だけしかわからないやつは、西本幸雄さんに謝れ。

damejima at 19:25

November 26, 2011

海を見て育った自分には経験がないのだが、山を見上げて毎日をおくる、という行為には、何か特別な感覚があるようだ。岩手に住んでいる人は岩手山を見上げ、鹿児島の人は桜島を見て育つように、地元に力強い名山のある人は、その山の存在を、心の支え、支柱として、自分の背骨か何かのように感じつつ育ち、終生忘れない。
それぞれの地方にそれぞれ名山がある。なんとなく「自分の山」を持てた人を、うらやましく感じることがある。



阪急ブレーブス・近鉄バファローズを率いてそれぞれ初優勝に導いた西本幸雄さんがお亡くなりになられた。91歳。リーグ優勝8回。1988年野球殿堂入り。

西本さんは優勝経験が一度もない球団(阪急、近鉄)を、2つも初優勝に導いた。偉業というほかない。この事実だけで、西本さんはプロ野球ファンの記憶に永遠に残る資格があると思うし、また、野球殿堂入りに十分すぎる価値がある。優勝したことの無いチームを優勝させることが、野球の繁栄にとって、どれほど高い価値がある貢献であることか。
なにせ、野球は9人もの多人数でプレーするチームスポーツなのだから、そう簡単には強豪チームと弱小チームの戦力差を埋められない。
西本さんの選手育成やチームづくりの優れた手腕からは、数々の名選手と指導者が巣育ち、数々の名勝負が生まれた。

ちなみに、日本シリーズで勝てなかった西本さんを悲運の名将などと呼ぶ人がいるが、優勝の常連チームでないチームを日本シリーズに連れていくまでに育てるのだから、大舞台での経験不足が露呈するのは、やむをえない。そこは多少補正して手腕を評価しないとダメだと思う。



西本さんが現役時代に所属していたのは、1949年のエクスパンジョンで発足した毎日オリオンズである。西本さんは、このできたばかりの毎日オリオンズの選手として、翌50年にリーグ優勝と日本一を経験した。
よく知られているように、日本に2リーグ制がもたらされるきっかけになったのは、1949年の毎日オリオンズなどの新規球団加盟を巡る騒動であり、2リーグ制移行を推奨したコミッショナー正力松太郎氏の発言もあって、結局、電鉄系の賛成派がパ・リーグ、既存球団の反対派がセ・リーグを結成する形で収束した。
プロ野球は、この2リーグ制発足にともなうチーム数増加によって選手が大量に不足したことから、球団間の激しい選手争奪戦が起こり、当時プロにも遜色のない人気と実力があった社会人野球から、多くの実力ある選手がプロ野球に移った。

西本さんは、プロになる直前の1949年当時、九州の別府星野組という社会人野球の強豪チームで監督・一塁手・3番打者として都市対抗野球に出場し、日本一に輝いた。この別府星野組自身も1949年の2リーグ制移行の際にプロ野球新規加盟を申請したチームのひとつだったが、審査により加盟を却下されたため、西本さん自身含め、多くの主力選手がこのエクスパンジョンをきっかけにプロになったのである。(西本さんが別府星野組や毎日オリオンズ加入に至るまでの紆余曲折をめぐる資料は少ないが、たいへんな苦労があったようだ。 資料例:ya1goの部屋 : 野球の神様

西本さんのライバル三原脩氏(1983年殿堂入り)が後に監督に就任することになる西鉄ライオンズの前身、西鉄クリッパーズも、1949年の2リーグ制発足時に創設された新興チームのひとつだが、間髪置かずパ・リーグの中心チームになることに成功している。これは西鉄が、あわてて球団を持った近鉄などと違い、もともと戦前から社会人野球チームを保有していたことに加え、当時非常に盛んだった九州の社会人野球(八幡製鉄、別府星野組など)から有力選手を大量にかき集め、さらには他のプロ野球球団からも九州出身の有力選手を引き抜いたことで、すぐ優勝争いできるほどの戦力が整った、という当時の時代背景による。
三原監督時代の1950年代後半に西鉄は3連覇しているが、当時、2番に強打者を置く「流線型打線」で有名になった。好打者が揃わないと実現できない「流線型打線」は、当時の西鉄がいかに有力選手の集結した恵まれたチームだったか、という証明でもある。

西本さんがプロになったのは30歳になってからのことだが、これにはもちろん第二次大戦の影響がある。
去年2010年暮れに92歳で亡くなられた元クリーブランド・インディアンズの名投手ボブ・フェラーが、第二次大戦の従軍で4シーズンを棒にふったことについて、「もし大戦がなければ、350勝、3,000奪三振を達成していた」と言われているように、西本さんも、もし平和な時代にプレーしていたら、さぞかしもっと長く素晴らしい数字を現役生活で残していただろう。
だが、大戦前後のドタバタした難儀な時代に、西本さんは立教大学と社会人で監督兼選手としてキャリアを積んでいる。野球をやるのにけして適した時代ではなかったことがかえって、親分肌の強い西本さんに若いうちに監督経験を積ませることになったのだから、人生はわからない。



阪急ブレーブスは、2リーグ制発足以前からあった伝統あるプロ球団だったが、1950年代は低迷が続き、なにかにつけて「灰色」と揶揄されて呼ばれた。というのも、上で書いた1949年の2リーグ制発足による選手不足から引き起こされた球団間の選手引き抜き合戦により、阪急は、エース、主軸打者2人、キャッチャーと、多くの主力選手を失ったためだ。

西本さんが監督になってからの阪急ブレーブスは、1960年代のドラフトで、山田久志(2006年殿堂入り)、加藤秀司福本豊(2002年殿堂入り)、3人の名球会入りプレーヤーを指名して育て上げることでチームを立て直し、ついに67年に悲願のリーグ初優勝を遂げた。
阪急監督時代晩年のヘッドコーチは、逸材が育って油の乗ったチームを西本さんから引き継ぎ、後任監督として阪急を日本シリーズ3連覇などの黄金時代に導いた上田利治(2003年殿堂入り)。また山田久志は後に中日ドラゴンズのコーチ・監督として、岩瀬仁紀福留孝介荒木雅博井端弘和などを育てて、後の落合中日躍進の基礎を築いた。
ちなみに腰痛や肝炎に苦しみつつ1986年に読売を自由契約になった加藤秀司は、翌1987年に南海でかつての同僚山田久志からホームランを打ち、念願の2000本安打を達成しつつ同年限りで引退しているが、これは加藤の恩師西本さんが立教大学の後輩杉浦忠(1995年殿堂入り)に頼んで、苦境にあった加藤の南海移籍を実現し、花道をこしらえたらしい。

史上最高のサブマリン山田久志史上最高のサブマリン
山田久志


近鉄バファローズは、1949年の2リーグ制発足時にできた新興球団のひとつで、発足当時は近鉄パールスといった。だから、長い伝統のあった阪急ブレーブスとは球団の成り立ちそのものが違う。阪急がエクスパンジョンによる選手争奪戦に巻き込まれて他球団に主力選手を引き抜かれたことで低迷したのと違って、近鉄は球団発足当初から選手層が薄く、そのことが1970年代にまでわたる数十年間もの長期低迷の足かせになった。
(例えば、1950年入団で近鉄パールス設立以来の生え抜きである関根潤三氏(2003年殿堂入り)が1964年に愛する近鉄を退団せざるをえなかった件も、外から補強した選手ばかり厚遇し、生え抜きを大事にしない当時の球団の姿勢に腹を立てたためといわれており、これもある意味、球団創設時の選手層の薄さに端を発した弊害といえる)

西本さんは、このもともと選手層の薄い近鉄に、阪急をやめた1974年にやってきて、1979年から連覇を果たした。(当時の近鉄の編成部長は、西本さんの立教大学時代のチーフマネージャーだった中島正明氏)
なお、ごく稀に、この西本近鉄の初優勝に関して、三原監督時代の遺産などと誤った記述をしたがる人を見るが、優勝時の主力は、1972年入団の平野、羽田、梨田、佐々木恭介、73年入団有田、井本、74年栗橋、75年村田、79年マニエルと、いずれも70年の三原脩氏の近鉄退団以降に入団した選手たちの成長と活躍によるもの。西本近鉄はむしろ、74年土井正博、75年佐々木宏一郎、76年永淵洋三、77年伊勢孝夫と、前の時代の選手を放出し、新しい選手と入れ替えることで成立した。
西本さんの近鉄監督時代には、後に近鉄最後の監督になる梨田昌孝や、現フィラデルフィア・フィリーズ監督のチャーリー・マニエルがいる。西本さんの監督としての手腕は、海を渡り、フィリーズにも受け継がれることになった。
イチローを発掘した仰木彬(2004年殿堂入り)さんは、70年代の近鉄の上昇期にコーチをつとめて指導者経験を積んだが、このとき最も長く仕えた監督が、西本幸雄さんである。(仰木さんは後に、1994年に阪急ブレーブスから球団譲渡され後継球団となったオリックスの監督に就任するわけだが、オリックスの球団名は、ブレーブス(1988年11月)、ブルーウェーブ(1990年11月)、バファローズ(2004年12月)と変遷しており、仰木さん就任時は「オリックス・ブルーウェーブ」だった。いうなれば、仰木さんは、西本さんの育てた「阪急」を引き継いだのである)

顎を骨折した後も試合に出続けたチャーリー・マニエル顎を骨折した後のヘルメット
チャーリー・マニエル


「私もいろんな指導者に仕え、また見てきましたが、西本さんがNo1の指導者です。選手は育つと信じ切って戦い続けた方で、今の指導者が見習わなければならない姿勢です。」訃報を受けて、広岡達朗氏(1992年殿堂入り)。
広岡達朗氏「“次の近鉄の監督はおまえだ”と誘われたことを思い出す」 ― スポニチ Sponichi Annex 野球
「私の監督生活は、西本さんの阪急にいかに勝つか、から始まりました」野村克也氏(1989年殿堂入り)
西本幸雄氏逝去 ノムさん「日本一が見たかった」 ― スポニチ Sponichi Annex 野球
「落合博満を世に出してくれた大恩人」落合博満氏(2011年殿堂入り)
落合前監督「落合博満を世に出してくれた大恩人が西本さん」 ― スポニチ Sponichi Annex 野球

盗塁を狙う福本豊
(写真キャプション)やはりいい選手は、立ち姿自体が美しい。写真なのに、ふくもっさん、今にもセカンド方向に弾丸のように走り出しそうに見える。写真なのに(笑)
イチローは、ブルーウェーブ在籍時の恩師でもある福本さんのもつ先頭打者ホームラン記録43本に日米通算で並んだとき、「福本さん気にしないでください」と言い、福本さんは「気にしたことがない」と答えた。国民栄誉賞を、「そんなんもろたら立ちションもでけへんようになる」と固辞した人と、「まだ現役なんで」と2度も断った人同士は、やはり阿吽の呼吸なのである(笑)(1989年に現役引退した福本さんが打撃コーチに就任した時点のオリックスは、阪急から球団を譲り受けた直後なので「ブレーブス」。イチローが入団した1991年時点のオリックスは「ブルーウェーブ」で、福本さんが二軍監督をしていた)(写真キャプションおわり)



監督としての西本さんの終生のライバルといえば、もちろん三原脩さんだが、イチローを世の中に送り出した仰木彬さんは、コーチとして、その西本さん、三原さん、2人の名監督の薫陶を受けている。言うなれば、仰木さんには、2人分の名将の血が流れていることになるわけだ。仰木さん自身も監督就任時のコメントで「三原脩と西本幸雄を足して2で割った監督になりたい」と語っている。



仰木さんは近鉄・オリックスを率いて、それぞれの球団から野茂英雄イチローを輩出した。
野茂さんがNOMOベースボールクラブをつくって選手育成に熱心なのも、なんとなくそういう西本・仰木両監督から受け継いだ選手育成の血のなせるわざかもしれない。
また西本幸雄さんとイチローは、ここまでの記述でわかるとおり、福本豊さん、仰木彬さんといった「西本幸雄人脈」を介して関係がきちんとつながっており、ブルーウェーブ時代のイチローは、いわば西本さんの阪急での流れを汲む「孫弟子」にあたる。(それになぞらえていえば、野茂英雄は、西本さんの近鉄における流れに沿った「孫弟子」)

西本さんは、「昭和の名野球人」であると同時に、指導者を育てる指導者」として、日本の野球にとっての「昭和の次の時代」を準備してくれた人でもある。



昭和の時代のプロ野球史に残る名場面、名勝負には、西本さんと西本さんの育てた選手たちの名前がそこらじゅうに登場する。
毎日オリオンズ監督時代の1960年、ライバル三原脩監督率いる大洋ホエールズとの日本シリーズ第2戦、1死満塁でスクイズにトライして失敗し、そのことをオーナーが批判したことが原因で監督を自ら辞めていることに始まり、1967年10月1日の西京極球場で阪急を球団創設初優勝に導いたときにネットの網ごしに無理矢理右手指2本をねじこんでスタンドにいたオーナーと交わした握手、近鉄監督時代の1974年に、初のリーグ優勝を賭けた試合で、阪急監督時代に育てた山田久志に敗れ去ったゲーム、近鉄監督時代の教え子梨田捕手と阪急時代の教え子福本豊との盗塁阻止を巡る逸話、1979年近鉄のリーグ初優勝後、広島カープとの日本シリーズ最終戦で、9回裏、1点ビハインドで迎えた1死満塁の逆転サヨナラ勝ちの好機を、名投手江夏豊に阻まれて3勝4敗で敗退、いわゆる「江夏の21球」を生んだことなど、エピソードが多すぎて、とても書ききれない。(ちなみに「江夏の21球」のあの場面、代走でセカンド走者にいたのが、女優吹石一恵さんの父上である吹石徳一)


名将、名勝負とともにあり。
西本幸雄さんは、日本野球史に残る「名山」である。
合掌し、謹んでご冥福を祈りたい。どうぞ、これからも日本の野球と野球選手を遠くから見守ってください。



この記事に登場した野球人 出身県一覧

西本幸雄  和歌山県 1988年野球殿堂入り
上田利治  徳島県  2003年野球殿堂入り
山田久志  秋田県  2006年野球殿堂入り
加藤秀司  静岡県
福本豊   大阪府  2002年野球殿堂入り
梨田昌孝  島根県
仰木彬   福岡県  2004年野球殿堂入り
イチロー  愛知県  現役
野茂英雄  大阪府
関根潤三  東京府  2003年野球殿堂入り
広岡達朗  広島県  1992年野球殿堂入り
杉浦忠   愛知県  1995年野球殿堂入り
野村克也  京都府  1989年野球殿堂入り
落合博満  秋田県  2011年野球殿堂入り
正力松太郎 富山県
三原脩   香川県  1983年野球殿堂入り
江夏豊   奈良県

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